森久保乃々「さよなら、森久保」 (166)
「常に人に見られていると思って行動しなさい」
それが母の口癖でした。母は私を品行方正な人間へと育てたかったようで、
私に物心がついたときから、その言葉を繰り返していました。
当時の私は幼く、言葉の意味もちゃんと理解は出来なかったのですが、
母がその言葉を言うたびに「はい」ときちんと返事をしました。私が大きな声で返事をすると、
「乃々はいい子ね」
と母はいつも私の頭を撫でてくれました。
母の笑顔が全てだった幼少の頃の私は、
人に見られていると思って行動すれば、母は私のことを褒めてくれる、見てくれる、と本能的に理解しました。
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それから月日は流れ、私はとてもいい子へと成長しました。
塾に通い、母が望んだ私立の中学に見事入学を果たしました。
合格が決まった日、母は「おめでとう乃々、あなたは私の自慢の娘よ」と私を抱きしめました。
今になって思うと、母は常に近所の奥さん達の視線を気にしているようでした。
母の目が届かない学校でも、私は母の言いつけを守りました。
髪の乱れやスカートの裾、言葉遣いにも十分気を配り、成績も上位を保ち続けました。
先生もクラスメイトも「森久保さんはとてもいい子だ」と私のことをよく褒めてくれました。母はますます上機嫌になりました。
中学一年の夏でした。
移動教室から戻るときに、私はスカートの裾がほつれていることに気づきました。
すぐに近くの女子トイレに入り、ポーチから小さなハサミを取り出して、糸を切りました。
ついでにと、そのまま用を足していたら、扉が開く音とともに、聞き慣れたクラスメイトの声が入ってきました。
「あいつうざくね?」
教室のときと変わらぬ無邪気な口調で、クラスメイトは言いました。
「わかる」
「うざいうざい」
どうやら三人いるようでした。私は個室の扉越しに、三人の顔をそれぞれ思い浮かべながら、
それこそサバンナで生き抜く小動物のように、じっと気配を隠しました。
話を聞いていると、あいつとは三人が所属しているグループの一人の女の子を指しているようでした。
才色兼備で人当たりもよく、成績も優秀な子でした。私には全くうざい理由がわからない。
それどころか憧れの女の子でした。
三人は機関銃のように、女の子の悪口を繰り返しました。
うざいといった弾丸は徐々に具体性を帯びていき、最終的には、
「あいつはぶりっ子だ。がり勉だ」
と私が尊敬しているところさえも攻撃し、トイレから去っていきました。
嵐が静まったのを確認してから、私は、私の心が震えていることに気づきました。
身体は熱く、息が苦しい。
何度も深呼吸を繰り返し、鍵に手をかけるのですが、なかなか扉を開けられない。
腕時計を確認すると、授業開始五分前になっていたので、心臓の音は収まっていませんが、
このままでは授業に遅れてしまうと、自分に鞭を撃ち、震える手で扉を開けました。
足早に廊下を歩き、なんとか間に合ったと教室に飛び込むと、先ほどの三人が目に入りました。
彼女たちは笑っていました。笑顔の横には悪口の対象になっていた優等生の女の子がいました。
三人は先ほどトイレで話していた声と同じ無邪気な声で
「うける」や「わかる」といった言葉を繰り返していました。
その光景は今でも私の脳裏から離れません。
始業のチャイムがなり、先生が現れました。現代文の授業でした。
先生はチョークをこんこんと鳴らしながら、黒板に教科書の文章を書いていきました。
私は黒板のその文字をノートに書き写していきます。
こんこんこん。かりかりかり。書いているうちに、私はこれまでに覚えたことのない感情に囚われました。
それは恐怖でした。そのとき私は席替えのくじ運が悪く、人目につきやすい最前列の席に座っていました。
その私の背中を、後ろのクラスメイト達が、見ているような気がする。見ている。見られている。
私に聞こえないように意地の悪い言葉を投げつけ、にやにやと笑っている。
思い出されたのは、トイレで聞いた無邪気な声と、教室で談笑していた彼女たちの笑顔でした。
その二つはぐるぐると頭の中で回り始め、私の頭を掻き乱しました。
振り返って、彼女たちの顔を確かめたい。そんな衝動に駆られました。
しかし私の理性と恐怖が、金縛りのように身体を締め付け、私はまさに蛇に睨まれた蛙のようになっていました。
ここで振り向いたら、それこそ私は、変な人だと笑われてしまう。本当に笑われていたらどうしよう。
鼓動は激しさを増していきました。身体は嫌な熱を帯びていき、息は苦しく、頭の中では、無邪気な声と笑顔が回り続けていました。
意識しないようにとすればするほど、視線を感じ、呼吸を整えようとすればするほど、呼吸は乱れ、
果てには、私の心臓の音や呼吸の変化さえも、見抜かれ、笑われている。
私の意識はそこで途絶えました。
目を覚ますと、白の天井。周りはカーテンに覆われていました。私は保健室に運ばれたようでした。
恐る恐るカーテンを引き、ベッドから出ると、先生と母が私に気づいて駆け寄ってきました。
熱を測り、風邪の症状チェックのようなものもされましたが、
私の身体に特に異常は見当たらなかったようで、先生も母も首をひねりました。
「ねぇ、乃々何か心当たりある?」
母が私の顔を覗き込んできました。その母の顔が何とも恐ろしくて、私は思わず、母から顔を背けました。
「少しだけ頭が痛いです」
何とか母へと顔を向け直して、私は嘘を言いました。
先ほど覚えた恐怖と不安が、私の心をきりきりと締め付けていました。
母の顔が、笑っていたクラスメイトの顔と重なって見えました。
人の視線が怖くて倒れたのだと告げてしまうと、心配そうに私を見つめている母の仮面が、
ぼろぼろと崩れ落ちて、何か恐ろしいものが出てくるような気がしたのです。
その日から私は「いい子」ではなくなってしまいました。
正確には、いい子でありたいと願っていたのですが、いい子であることを保つことが出来なくなりました。
私は常に、人の視線に怯えるようになりました。
学校ではクラスメイトの針のような視線。
私の背中に大きなシールや埃が付いていて、それに気づいていない私を笑っている。
授業中にさりげなく伸びを装って、背中に手を伸ばしてみたり、
窓ガラス越しに、自分の臆病な姿を確認する機会が増えました。そして、
「森久保さんはいい子ね」
と言う、笑顔。
私には、その言葉が皮肉やお世辞のように聞こえ、笑顔や言葉の裏が見えてしまいそうで、怖くて仕方なくなりました。
『常に人に見られていると思って行動しなさい』
放課後の帰り道、一人、歩いていると、誰かが後ろからつけてきている。振り返ると、誰もいません。
数秒ほど辺りを見つめ、誰もいないことを確認し、私は再び歩き始めるのですが、
落ち着かなくて、ゆくゆくは走り出してしまうということもありました。
住宅街の誰もいないはずの窓からは、誰かが覗いている気がして、
交通安全の看板や街路樹が人に見えることもありました。
世界中のいたるところにカメラが植えつけられていて、そこに映る私の映像を、
誰かが見て、笑っている。
私が心から落ち着ける場所は自分の部屋だけになりました。
部屋に引きこもり、小説や漫画を読んだりすることが私の唯一の楽しみになりました。
私はどんどんひねくれた子供になっていきました。
それはクラスメイトの三人の心が伝染したのか、人間としての本質的な黒さだったのかはわかりません。
私は人と目を合わせることが出来なくなり、人の発言や行動の奥を疑うようになりました。
「でも……」や「なんで、どうして」と考えてしまうことが増えました。
私は人というものがわからなくなり、人を信じられなくなりました。
しかしながら皮肉なことに、このひねくれた性格こそが、
私の、人に対する不安や恐怖への対抗策になることが後々にわかりました。
中学一年の冬でした。空には鈍色が広がっていました。体育の授業でした。
体育館は他のクラスが使っているということで、私たちのクラスはマラソンになりました。
冷たい風が肌に突き刺さるこの時期に、殺風景なグラウンドを走りたいと思うのはよっぽどの少数派で、
多くのクラスメイトは「寒い」や「やだ」を繰り返し、そして私も例に漏れませんでした。
私は小声で、
「寒いんですけど……。めんどくさいんですけど……。早く帰りたいんですけど……」と呟きました。
私の言葉遣いは、いい子であった頃の名残とひねくれが混ざって、とても独特なものへと変化していました。
(といってもこの頃は話す機会も少なく、いざ他の人と話すとなると、怯えながらに丁寧語を徹底していましたが)
ひねくれた私は、よく一人きりのときに、その妙な言葉遣いで、
弱音のような励ましのような言葉を自分へとかけ続けていました。
「今言ったの森久保さん?」
声をかけられ、しまった、と振り返ると、
クラスメイトの一人が驚いたように、私を見ていました。
私が吐きだした言葉はどうやら思っていたよりも大きかったようでした。
私はこの場を乗り切る解決策を頭の中をかきわけ必死に探しましたが、それはすぐに見つかるものではありませんでした。
あぁ、品行方正だったはずの森久保さんが実は根が悪い人だったなんて。
私は、その事実がクラス内ひいては日本中へと広がり、
人々の嫌な笑顔や陰口の種となり肥料となることを想像しました。
それこそまさしく、鬼に見つかったような気持ちでした。
しかし、私の絶望のような思いとは裏腹に、
「森久保さんって実は面白い人だったんだね」
クラスメイトは声を漏らしながら笑いました。
すると、まるで寒さから逃れるように、他のクラスメイトたちも、私の元に引き寄せられてきました。
「どうしたの?」「森久保さんが面白くて」
「どういう風に?」「森久保さん、さっきの言葉もう一回言って見て」
クラスメイトたちは期待の眼差しを私に向けました。
私はその目を見ることができず、右斜め下の、土と白線へと視線を流しながら、
「寒いんですけど……。マラソンなんかしたくないんですけど」
クラスメイトたちは声をあげて大笑いしました。普段はあまり笑わない先生も笑っていました。
「森久保さんおもしろーい」
クラスメイト達が口を揃えて言いました。そのとき私は不思議な感覚に襲われました。
みんなが私を見て笑っている。
それは、常に私が怯えている感覚と、
文字だけで見れば違いはありませんが、そこには確かに違いがありました。
彼女たちは私自身を笑っているのではなく、私のひねくれを笑っている。
彼女たちが笑っている間、私に対しての視線や言葉も全て笑いに変えられる。
誰も私に危害を与えない。誰も私自身を見ていない。
鬼の目にも笑顔と言うのでしょうか。私はまだ幼く、
これらの感覚を正確に表すことが出来たとはこれっぽっちも思っていませんが、
私はこのとき、目の前で笑っている人々に対してわずかな光を覚えました。
それから私はひねくれキャラを演じるようになりました。クラスメイトたちは私のことを大変気にいってくれました。
「乃々ちゃんは面白いね」
言われるたびに、私は、
「森久保は面白くなんかありません……」
と、ひねくれた言葉で返事をしました。そのころに私は、一人称を私から森久保へと変えました。
『森久保』というのは言ってしまえば、私が他者と関わるためのピエロの仮面のようなものでした。
私が自分のことを『森久保』と言うと、クラスメイトたちはさもおかしいように笑いました。
ですが、私の森久保は、
他者に対する万能のアイテムではありませんでした。
先ほども書きましたが、この森久保はキャラであり、仮面でした。
たとえば、機嫌が悪そうな先生やクラスメイト、
母の前では、森久保の仮面を捨て、いい子を演じなければいけません。
そしてまた、森久保の仮面を被っているときでも、
私は、クラスメイトの一挙一動、私の一言一句に気を張り巡らせていました。
ひねくれた言葉を言いたい放題言っているように見せかけて、仮面の下では怯えている。
とりあえず笑わせておけばいい。ひねくれておけばいい。
私が森久保でいる間は、人々は私自身を見つめない。
それはある意味、私から他人へと出来る精一杯のサービスであり、命綱でもありました。
私と森久保の日々に転機が訪れたのは私が十四歳になったときの夏休みでした。
私は夏の照り付ける日差しがどうも苦手、という体にして、
特に外出することもなく部屋に引きこもり、本を読んで過ごしていました。
その日も私は自室のベッドに横たわり、
隣の家の庭の大きな木に止まる蝉の声を聞きながら、漫画を読んでいました。
ピンポンと来客を知らせるチャイムの音が鳴りました。
リビングに母がいることは知っていたので、私は何もせずじっとしていました。
すると、しばらくしてから「乃々」と母が私を呼ぶ声がしました。
リビングへと下りていくと、
そこでは叔父が麦茶を飲み、タオルで汗を拭いながら、私のことを待っていました。
叔父は私に、自身が雑誌の編集者をやっていること、
今回の撮影で子役を用意していたのだが、その子が風邪で倒れてしまい、私に代役を頼みに来たことを伝えました。
私はすぐさま首を振りました。
「無理です」
私は自分ではそこそこの見栄えだと思っていましたが、他の人が私をどう思っているかは全く見当がつきません。
それに、見栄え以前に、撮影の方が耐えられそうにありませんでした。
叔父は、写真をとるだけだ、乃々ちゃんが演技をしたり、何か準備がいるようなことは一つもないと説得を続けました。
私は首を横に振り続けました。
撮影というものはそれこそまさしく、人に見られる仕事でした。
それにもし、万が一、私の写真がクラスメイトの目に留まったら。考えるだけで私の心に暗雲が立ち込めてきました。
「そうかぁ。どうしてもだめかぁ」
叔父はがっくりとため息を吐きました。
叔父のその姿を見て、私は、何も悪いことをしていない、無理なものを無理と言っただけなのに、
私が叔父を傷つけたような気持ちになり、申し訳なさでいっぱいになりました。
叔父はここぞのタイミングで、まるで私の申し訳なさを見抜いたかのように、頭を下げました。
「もう一度だけ。もう一度だけ考えてくれないか。このとおり」
私が困った反応を示しても、叔父は顔を上げてくれませんでした。
深く下げられた頭は、こうすることがベストな選択だとわかっていて、
下へと向けられた目は、私の心の弱さを見透かしているようでした。
「乃々? おじさんもこんなに頼んでいるんだから協力してあげたら?」
横で母が言いました。母は優しそうに笑っていました。
母の笑顔を見た叔父が、計画通りに事が運んでいることを、にやりと笑った気がしました。
多くの人の目には、私は、嫌よ嫌よも好きのうちに見えているようで、
私が本当に困っているとは、露ほども思っていないようでした。
もしくは、彼らは私がどう思っているのかをそもそも考えてすらいなくて、自分の事でいっぱいいっぱいなのかもしれません。
そしてこれは私の非常によろしくない性質なのですが、
私は自分から人に対して何かをお願いするようなことは決してできませんが、
ものごとを真剣に頼まれると断ることが出来ません。
先述の申し訳なさもそうなのですが、断ったことによって、
私、森久保乃々が断ったという事実が相手の心と頭に記憶されるのが苦手なのです。
彼らは私が断った事実を心のどこか一ページに書き込み、そのページを開きながら、私と接している気がするのです。
さらに私は未来のことを考えるのも苦手でした。
ここで断ることによって生じる苦痛と後で生じる苦痛。
どちらがより私に刺さるのかまったく判断がつきません。
それに私は痛みが後になって返ってくることがわかっていても、その場しのぎのように逃げてしまうところがあります。
クラスメイトたちのことはばれてから考えよう。
そうです。世間から見れば、私は二つの選択を強いられ、どちらか一つを選んだように見えているかもしれませんが、
私からすれば選択肢はなかったのです。
叔父がこの家に入ってきて、母が私の名を呼んだときから結果は一つしかありませんでした。
「わかりました」
私は代役の申し出を受け入れました。
次の日、さっそく私は撮影現場へと連れてこられました。
初めて見る撮影現場は慌ただしく、誰もがみな忙しそうに撮影の準備をしていました。
叔父はその人たちの動きを一度中断させ、
(私には大きな声を出し、他の人の動きをとめることなどとても恐れ多くてできません)
私のことを紹介しました。
紹介が終わると大人たちは一斉に、まるで品物を吟味するような目で私を見ました。
私は誰とも目を合わすことが出来ず、ぎこちない笑顔を浮かべました。
森久保の笑顔とでもいうのでしょうか。
私はいつからか、瞳を横に逸らし、涙目の、ぎこちない笑顔しかできなくなっていました。
そのぎこちない笑顔を浮かべて、
心の中で、「むーりぃー」と大人たちの視線と戦っている間に、
カメラは二、三回フラッシュをたき、撮影は終わりました。
私が素人だから期待されていなかったのか、
服を撮りたいだけでモデルはどうでも良かったのか、それはわかりません。
着替え終わった私は、スタジオの端に設けられた椅子に座り、叔父の仕事が終わるのを待っていました。
「君ちょっといいかな?」
突然かけられた声に、びくりと背筋を正しました。
スタジオの人達は既に私には目もくれず、誰もが機材の片づけを熱心にしていたので、
声をかけてくる人なんていないと私は気を緩めていたのです。
嫌な汗をかきながら振り返ると、スーツ姿の若い男性が心配そうに私を見ていました。
「ごめん。驚かせた?」
「いえ……。森久保が少し、ぼーっとしていただけです」
「そうか。ならよかった」
男性は安心したように、ほっと一息吐いて、にっこり笑いました。
「ありがとう。今日はうちの子の代わりに出てくれて。助かったよ」
どうやら本来この撮影を受ける予定だった子のマネージャーさんのようでした。
私は不思議とその人の笑顔に惹かれました。
今まで何人もの笑顔を見てきましたが、この男性の笑顔は今まで見てきたものと全く異なるものでした。
ただ笑っていたのです。
これまでの短い人生の間に、私は数人ほどただ笑っているだけの笑顔を持つ人に出会ってきました。
しかし、その人達は表と裏の区別がない、言ってしまえば何も考えていないような単純な人達でした。
ですが、この男性の笑顔は違いました。
仮面やその裏に隠された恐ろしい何かを匂わせることなく、
ただただ笑っているだけなのですが、私にはこの人が単純な人には思えない。
何かを考えているのでしょうけど、そこから恐ろしさというものが全く見えてこなかったのです。
「いえ、そんな、森久保なんて」
森久保が首を振ると、男性は笑顔をやめ、私の顔や身体をまじまじと見つめました。
それはもちろん品定めだったのですが、
その見つめ方は先ほど私が受けたじろじろ、じめじめといったものではなく、もっと清潔なものでした。
「君、アイドルにならない?」
その言葉はあまりにも突然、かけられました。晴れの日に落ちてくる雷のような衝撃でした。
私は一瞬、何を言われたか理解できなくて、その男性の言葉を小さく繰り返しました。
あいどる。あいどる。アイドル。
「えっ……。アイドル? 森久保が……ですか?」
男性は頷いて、名刺を私へと手渡しました。
そこにはシンデレラプロダクション・プロデューサーと書かれていました。
「どうかな? 君ならいいアイドルになれると思うんだけど?」
首を少し傾けて笑うその表情からは、やはり男性の考えのようなものは見えてきませんでした。
それでも私は首を振り続けました。
「無理です。私がアイドルなんて……」
私の神経は、たった数枚の写真をとる仕事だけでも、すさまじくすり減っていました。
このような経験を毎日なんて私には耐えられるはずがありません。
「本当に無理?」
その人が聞きました。私は、
「ほ、本当にむーりぃー」
と強く答えました。
「本当に、本当に無理?」
笑顔は消え、頼み込むような、覗きこむような、真剣な表情で私に聞いてきました。
あぁ、いけない。そんな目で私を見ないでください。そんなに私に期待しないでください。
このパターンはいつもと同じ、流されてしまうパターンでした。
「そ、そうですね。本当に、本当に……。森久保はアイドルに向いていませんし……」
覚悟を決め、男性の真剣な眼差しを振り払う思いで、そう答えました。
「お聞きしたいんですけど……どうして森久保をアイドルにしようと思ったんですか?」
男性は手を顎に当て、考える表情になり、それから少しして、
「勘かな」
「勘……ですか。勘で森久保を巻き込まないでほしいんですけど。それにその勘は間違っていると思うんですけど」
「俺の勘は結構当たるって評判なんだよ」
「どこでの評判何ですかそれ……」
「自分だけど」
「全然だめじゃないですか……」
得意のひねくれで、話題を何とか変えようと森久保が試行錯誤しているところに、
帰る支度を終えた叔父が混ざってきて、
「どうかしましたか?」
と男性に訊ねました。男性は叔父に私をアイドルにスカウトしたいと思っているということを告げました。
「いいじゃないか、アイドル。自分からアイドルになりたくてもアイドルになれない子もいっぱいいるのに。
それに乃々ちゃんは少し人見知りなところがあるから、改善のためにもアイドルやってみたらどうだ?」
二人の大人は私の顔を見ました。
一人はまるで、
この場面で私を見ることが映画の台本や社会のルールで決まっている、とでも言いたげな表情で見ていました。
裏ではおそらく、さも興味のなさそうな表情であくびをしているに違いません。
もう一人は、ただ真剣な目つきで私を見つめていました。
何度見ても、その清潔のような、潔癖のような表情からは、仮面のようなものが見えてきません。
森久保はしぶしぶといった風に、でも自分から選んだという風な雰囲気を出して、
「わかりました……。アイドルやってみます……」
私はこうしてアイドルとしてスカウトされました。
これは今でも確信をもって言えることなのですが、私はアイドルになりたかったわけではありません。
代役の子が風邪をひき、叔父が私のことを思い出し、
プロデューサーさんの目に留まってしまったからこそ、私はアイドルにならざるをえないのでした。
それからはとんとん拍子で話が決まっていきました。
私は一人、今まで住んでいた名古屋の街を離れ、東京へと向かうことになりました。
私がアイドルになると告げると、母は喜び、クラスメイト達は悲しみました。
「乃々ちゃんがいなくなると寂しいな」
東京へと向かう日、夏休みだというのにわざわざ開いてくれたお別れ会が終わると、
クラスメイトの何人もが、そう言って涙を流しました。
しかし私には、その友情の証とでもいうべきクラスメイトの涙が、
クラスメイト自身は関係ないのにどうして泣けたものかと、演技の涙のように見えてしまって仕方ありませんでした。
名残惜しそうに落ちていくその涙から逃げるように、私は学校を後にしました。
部屋へと戻り、荷物の確認をしているとチャイムがなり、母が私を呼びました。
私はポエムを書き綴ったノートなど、どうしても人に見せられない物の最終確認をしてから下りていきました。
リビングではプロデューサーさんと母が話をしていて、
私の姿を確認すると、そろそろいこうか、と腰をあげました。
玄関先に出ると、見計らったかのように、
「乃々をお願いします」
と母が言い、
「乃々さんをとても立派なアイドルにしてみせます」
とプロデューサーさんが答え、二人は深々と頭を下げ合いました。熱い一日でした。
隣の家から蝉の声が聞こえてきて、アスファルトから立ち込める蜃気楼が私の行く末を揺らしていました。
「乃々ちゃん? お母さんとは当分会えなくなるかもしれないけど、何か言わなくていいの?」
「お母さん今までありがとう……」
森久保は少し恥ずかしそうに、そう呟きました。
「乃々、これを持っていきなさい」
母は笑って、私の頭を撫でると、エプロンのポケットの中からラッピングされた袋を取り出し、私に渡しました。丁寧に包装を解いてみると、そこにはシンプルな水色のピアスが入っていました。
「アイドルをやるんだから、少しはおしゃれにね。
つらいことがあったらこれをお母さんだと思って。お母さんはいつでも乃々のことを見ているから」
母はピアスを私の耳につけてくれました。マグネット式とのことで耳に痛みはありませんでした。
しかし、そのピアスの感触は、ずしりと私に深く残り続けました。森久保は精一杯の笑顔を作ってみせ、
「お母さんありがとう」
ともう一度言いました。
私とプロデューサーさんは二人並んで、駅へと歩き始めました。
夏休みだからか人通りが多く、たくさんの人とすれ違いました。
すれ違う人々は私自身ではなく、私とプロデューサーさん、
(傍から見れば、それはアイドルとプロデューサーというより、内気な妹を引っ張っていく仲睦まじい兄妹に見えていたでしょう)
もしくは、ピアスを見ているような気がしました。
一人で歩いているときよりも、ピアスをつけているときの方が、
他の誰かと歩いているときの方が、私は視線を少しだけ気にしなくなるのだとわかりました。
それは私の気がプロデューサーさんやピアスに少なからず向いていて、
ピアスやプロデューサーさんもまた、私に向けられる視線を吸ってくれているからなのでしょう。
「そのピアス似合っている」
電車が走り始めると、横の席に座ったプロデューサーさんが私に言いました。森久保は少し返事に困ってから、
「ありがとうございます」
と答えました。
母から貰ったピアス。
私自身へと向けられる視線を少し吸収してくれるピアス。
窓ガラスに映る自分の姿を見てみると、
確かに私自身よりも、シンプルな水色のピアスに目が惹きつけられる気がしました。
しかし、このピアスは私にとって、
視線の緩和剤ではあっても、母の愛の象徴ではありませんでした。
『これをお母さんだと思って、いつでも乃々のことを見ているから』
『常に人に見られていると思って行動しなさい』
私の頭にはこれらの言葉が渦巻いていました。
ピアスをつけている間、私は、この言葉たちを思い出し、そして、このピアスを外すことは出来ない。
このピアスは、私にとって、決して外すことのできない呪いのピアスなのでした。
東京という街は人の多い街でした。
ホームに降りてから見渡す限りの、ひと。ひと。ひと。
私はこんな街でこれから過ごしていけるのかと、すぐさまアイドルになったことを後悔しました。
ターミナルでタクシーを拾い、私とプロデューサーさんは、私が入る予定の寮へと向かいました。
プロデューサーさんは、寮にはアイドルと他数名の女性従業員しか住んでいない、いわゆる男子禁制であることと
、明日から通うことになる事務所の場所を改めて私に告げました。
事務所は寮から歩ける距離の場所にあり、電車に乗る必要がないのが唯一の救いでした。
私には朝の満員電車に乗ることなんて、とても恐ろしくて出来そうにありません。
「じゃあまた明日、事務所でな」
タクシーが寮へと着くと、
プロデューサーさんは私の荷物をトランクから玄関まで軽々と運び、事務所の方へと歩いて行きました。
エントランスで入寮の注意事項を寮母さんから聞き、部屋の鍵を受け取り、
私は大きなリュックとボストンバッグを担いで、自分の部屋を目指し始めたのですが、
すぐに、寮生活というものはなかなか厄介なものだと悟りました。
母の目がないことは確かですが、かわりに私と同年代か少しばかり年上のアイドル達の視線。
みんな、新人である私のことをどんなものかと品定めするように見ている気がしました。
アイドルになるような人達の大半は、
自分が一番だ、一番になりたい、と思っているような人だと私は考えているので、
そういった我の強い人たちの視線に入らないように、目立たないようにと、
変わるわけでもない壁の模様を見つめながら、廊下の隅を歩きました。
やっと思いで自分の部屋へとたどり着くと、
私はすぐさまピアスを外して、荷物を解き、部屋の整理を始めました。
整理をしながら、それでも私は、
東京の街に来たことを、一人で寮暮らしを始めたことを、まだ楽しみに感じていました。
母の目もなければ、クラスメイトの目もありません。
それに、寮の中にはアイドルしかいません。
アイドルをやっていることが当たり前なのです。
アイドルだからと特別な目で見られることは、この寮の中ではありません。
また、東京で私を知っている人なんて、それこそプロデューサーさんくらいでした。
ですから、仕事の予定が入っている日以外は、部屋に引きこもり、漫画や本を読んで暮らしていよう。
そう決心し、整理を終えると、私は早速ベッドの上で漫画を読み始めました。
読み始めてすぐ、私のお腹がぐぅーと鳴りました。
私は自分が仮にも成長期であること、人間は食べないと生きていけないことを思い出しました。
部屋にキッチンはなく、当たり前ですが、引っ越し初日の冷蔵庫には何も入っていません。
何かをお腹に入れるには寮の一角にある食堂を利用するしかありません。
私は片付けたばかりの水色のピアスを取り出し、それを耳につけては、
廊下の隅を、ぶつからないよう、見つからないよう、祈りながら、食堂を目指すのでした。
次の日からアイドルとしての本格的な生活が始まりました。
私は、レッスンやプロデューサーさんとの会議の十分前には、
レッスン室の前や会議室の前に設けられたソファに座るよう心掛けていたのですが、
この待ち時間というものが、どうも苦手でした。
手持無沙汰にならないようにと部屋から持ってきた、
人目に晒しても何もおかしくない無難な本を読むのですが、集中できない。
全くもって本の世界に入りこめないのです。
あぁ、誰かに見られていると思いながら、私はぼんやりと本のページをめくるふりをするのでした。
肝心のレッスンは、幸いにも私の担当となったトレーナーさんが裏表もなく、
天使のように優しい人だったので、気が楽でした。
トレーナーさんが難しいステップを踏んで、それを見た森久保が、
「むーりぃー」
と首を振る。その森久保をトレーナーさんが笑いながら励ます。
それは二人の中でのお決まりのパターンのようになっていきました。
意外にも思われるかもしれませんが、私は運動が得意というわけではありませんが、嫌いではないのです。
しかしそれは、個人として見た場合のみでした。
月に何回か合同練習といって、他のアイドルたちと一緒に練習をする機会があったのですが、
隣で踊るアイドルとの距離感、タイミングというものが
どうにもつかめなくて、私は全くと言っていいほど踊れなくなるのでした。
「乃々ちゃん、いつもはもっと踊れるのに。緊張しているのかな?」
優しく心配してくれるトレーナーさんに、私は罪悪感のような申し訳なさを覚えながら、
「むーりぃー」
と小声で返事をするのでした。
「色々考えた結果、グループデビューではなく、ソロでデビューさせることにしたぞ!森久保ォ!」
会議室でプロデューサーさんは私にそう告げました。
出会った頃は乃々ちゃん呼びだったプロデューサーさんも、
私のひねくれにあてられたのか、すっかり森久保呼びが定着しました。
「むーりぃー」
と森久保が言うと、
「じゃあユニットでデビューするか?」
と聞きました。
「ユニットはもっとむーりぃー」
距離感やタイミングに気を配り続けるのもそうですが、相方に迷惑をかけるというのが、
気にしてないよと言う笑顔の裏に、足を引っ張らないでという思いが見え隠れしているのが、
私にはもっとむーりぃーなのでした。
「あの……デビューしないという手はないんでしょうか?
森久保はデビューしたいなんて一言も言ってないんですけど……」
「デビューしないアイドルなんて見たことあるか?」
「ないですけど……」
「そういうことだ。ところで森久保、今日のレッスンはキャンセルだ」
「帰っていいってことですか?」
プロデューサーさんは首を振りました。
「会わせたい子がいるんだ」
連れてこられたのは、いつもプロデューサーさんがデスク仕事をしている部屋でした。
みんな出払っているのか、他には誰も見当たりませんでした。
プロデューサーさんは迷いなく部屋奥の自分のデスクへと進んでいきました。
忘れ物でもしたのかと部屋の入り口で待っていると、
「森久保こっちだ」
デスクの方に私を呼びました。
「ほら、覗いてみろ」
プロデューサーさんが机の下を指さすので、私はおばけか猫でもいるのかと、恐る恐る机の下を覗き込みました。
そこには銀髪の、私と同年代くらいの女の子がいました。
「ど、どうした……親友」
声は小さく、覇気がありません。
親友とはプロデューサーさんのことを指しているようですが、とても親友同士には見えませんでした。
どう見てもアイドルとプロデューサーでした。
「輝子、ちょっと出てきてくれ。新人アイドルの森久保乃々だ。俺の新しい担当アイドル。
森久保、こっちは星輝子。ほら、以前名古屋で撮影かわってもらっただろ? あの時、出る予定だった子だ」
「あぁ……あのとき変わってもらった……。その説は……どうも助かったフフ……」
輝子さんは机からのそのそと出てくると、私に軽く頭を下げました。
長い銀髪にはところどころ寝癖がついていて、着ている服は、奇抜なデザインと色調でした。
黄緑色の下地にたくさんのキノコがプリントされたTシャツがどこで売っているのか、私には想像もつきません。
彼女が出てきた机の下には小さなプランターがあって、
そこでは見たこともない様々な色のキノコが育てられていました。
私はこのとき人生で初めて、親近感のような感情を覚えました。
輝子さんが内気だったから親近感を覚えたというわけではありません。
私の短い人生にも何人か内気な人は登場してきましたが、
その人たちに、いわゆる、同族の臭いを感じたことはありませんでした。
おそらく、輝子さんは内気なだけではなくて、何かを持っている。
その何かが私をここまで安心させているのだと私は考えました。
しかし、その何かが見当もつきませんでした。
目の前の輝子さんは、私には、一風変わったキノコ好きのアイドルにしか見えませんでした。
「輝子、仕事の時間だから迎えに来た。撮影の仕事だ。
今日は森久保にも仕事を見てもらいたいから連れていく。森久保、そういうことだから」
「わかりました」
と私は答え、輝子さんの観察を続けました。輝子さんは、
「撮影か、嫌だな……」
と呟くと、それきりでした。髪を整える気も着替える気もないようでした。
どうやらそのままの姿で撮影会場へと向かうようでした。
輝子さんは時間直前まで霧吹きをキノコにかけたりして、机の下の世界を世話していました。
輝子さんの何にそこまで惹かれたのだろう。私はますます首をひねりました。
向かった先は、以前、私が写真をとった場所と同じようなつくりのスタジオでした。プロデューサーさんが元気よく、
「今日はよろしくお願いします」
と頭を下げ、それに続いて輝子さんも頭を下げました。
フラッシュが一斉にたかれると、輝子さんは笑顔をひきつらせました。ポーズもどこかぎこちない。
私の撮影もあんな感じだったのかと、以前の撮影の悲惨な様子を思い出すと、
自分はどうして笑うことすらできないのだろうと私はまた、辛い気持ちになるのでした。
「ううう、そんな風に……光を当てられると……私……怖いから……」
輝子さんが目を細め、うめきました。
光が怖いと言っていますが、
輝子さんもおそらく私と同じで(程度はわかりませんが)人の視線が怖いようでした。
案の定といいますか、撮影は滞り、スタッフさんは少し困った様子で輝子さんを見ました。
私の苦手な、今にもため息が聞こえてきそうな顔でした。
その光景を見るに耐えられなくなって、
私は横にいたプロデューサーさんに、助けなくていいのかと尋ねました。
「大丈夫だ。もうすぐだから」
何のことかさっぱりわからず、
私は、仲間を助けたくても助けられないサバンナの小動物のような惨めさを覚えながら、
ただ輝子さんを見つめました。
輝子さんのちっちゃな身体はさらに小さくなっていき、やがて、細かく震え始めました。
あぁ、限界がきたのだと、私は嘆き、
目の前で起こっている惨劇からついに目を背けると、プロデューサーさんが、
「森久保よく見ておけ」
と言いました。
私は、なんてこの人は残酷な人なのだと思いながらも、おずおずと輝子さんに視線を戻しました。
すると、細くなっていた輝子さんの目は次第に大きく見開いていき、真っ黒だった瞳は色が抜けていきました。
そして、瞳の色が黒からグレーへと完全に変化したとき、輝子さんは変身しました。
「フフ……フヒヒ……ヒャッハー!!」
輝子さんの甲高い叫び声がスタジオに響きました。さっきまでとはまるで別人でした。
私とスタッフさんは、輝子さんのあまりの変貌ぶりに声を失くし、プロデューサーさんだけがいつもどおりでした。
「アーハハハハハッ! 撮れよォッ! ブラッディィィィ・ショット!!」
カメラさんは写真を撮り始めました。
再開された輝子さんの撮影を眺めながら、プロデューサーさんは輝子さんの説明をしました。
曰く、基本あがり症だけど、極度に緊張するとメタルな輝子さんが出るとのことでした。
プロデューサーさんの説明を聞いて、
撮影が始まる前に感じていた輝子さんへの何かがふっと胸に落ちたのを私は感じました。
輝子さんのメタルと私の森久保。
それは種類こそ違いますが、実質のところは同じ、
他人の目に対する極めて変わった必死のアプローチ、弱い自分を守るための仮面でした。
だから私はこんなにも、輝子さんに親近感のようなものを覚えたのです。
それから私と輝子さんはとても仲良くなりました。
私にとって輝子さんは同志でした。私は輝子さんの視線が全く気になりませんでした。
輝子さんも私に親近感を覚えてくれたのか、
私たちはお互いに敬意をこめて、ボノノさん、キノコさんと呼び合う仲になりました。
以下、キノコさんと書いていきます。
キノコさんと仲良くなったことにより、
私のアイドル生活は今までと比べ物にならないくらい楽なものになりました。
学校でも事務所でも寮でも、私たちは時間さえあれば二人一緒に過ごしました。
大抵の時間、キノコさんはキノコの世話をし、私は本を読んでいました。
一緒にいるといっても、仲睦まじく話をするわけではなく、ただお互い、傍にいるだけでした。
ですが、その時間は私たちにとって、とても平和な時間でした。
私たちはお互いを、盾やクッションだと認識することで、他人の目を和らげて過ごしました。
また、キノコさんのお気に入りの場所である、
プロデューサーさんの机の下というのも、なかなかの盲点でした。
その世界に入ってしまえば、キノコさんとプロデューサーさんの視線以外は届きません。
多くの人は、私が机の下に入っていることにすら気づかない。
気づいたとしても変な人、変わった人だ(森久保らしい)と見るだけです。
キノコさんがいない日でも、私はプロデューサーさんの机の下で過ごすようになりました。
プロデューサーさんはそんな私の様子を見て、
「輝子とは仲良くなれそうだと思っていたから、仲良くしている光景は微笑ましいけど、
まさか輝子と同じように机の下に住むようになるとはなぁ。これは狭くてかなわん」
と苦笑しました。私が本格的な机の下暮らしを始めると、それから数日後に、
何故かプロデューサーさんの隣の机が空き机となって、その机に私は移りました。
私とキノコさんは一人一台、お隣さんということになりました。
プロデューサーさんは私とキノコさんにお揃いの仕事を持ってくるようになりました。
歌番組やグルメレポは私たちにはまだ早いと判断したのか、
ラジオや写真撮影といった比較的優しい仕事がほとんどでした。
撮影現場では、先輩というのもあってか、キノコさんが私のリードをしてくれました。
写真を撮るのもキノコさんが先で、
ラジオでもキノコさんが慣れないながらに会話を回し、私に話を振ってくれました。
私はそれこそキノコにつく胞子のように、キノコさんの動きや会話に合わせるだけでいいのでした。
そうして私は少しずつアイドルの仕事を理解していきました。
(理解したからといって、慣れるということはなく、いつもからくりのようにぎこちない動きを繰り返していましたが)
そして、これは想定外というか、想像すらしていなかったのですが、
私の森久保というキャラは、世間に受けました。
私の森久保は、キノコさんのメタルと違い、他人がいるところでは常時発動しているようなものでした。
また、メタルほど変化がわかりやすいものでもありません。
ようするに、私と森久保の境界は曖昧で、私自身、今が、
「私か森久保か」と聞かれると、正確に答えることができません。
ですから、例えばラジオ番組の撮影で、キノコさんは普段のままでも、私は森久保として、
「森久保は」とサービスをしてしまい、それを聞いた視聴者が、以前のクラスメイト達と同じように、
「乃々ちゃんは面白い」と反応するのでした。
他者の視線への対抗策であるはずの森久保が、私を有名にするのはなんとも皮肉なことでしたが、
同志を得てもやはり、私には他者との関わりがどうすればいいかわからず、
ピアスをつけ、森久保を演じ続けるしかないのでした。
冬の始まりのころでした。草木が枯れていた記憶があります。
「ソロライブの時期が決まったぞ!森久保ォ!」
死刑宣告、でした。それは以前言われたときよりも具体性が増していて、
企画書には、森久保乃々、ソロライブデビュー! と恐ろしい文字が書かれていました。
「ソロライブなんてむーりぃー」
「じゃあグループでデビューするか?」
「グループはもっとむーりぃー。キノコさん、キノコさんと一緒ではダメなんですか?」
「輝子はもうデビューしているしなぁ。このライブは初ライブの子しか出せないんだ」
プロデューサーさんは一つずつ説明をしていきました。時期は三月の末。三か月以上先の事でした。
その間、仕事の量は減らし、空いた時間をレッスンに充てる。
プロデューサーさんも出来る限り同席し、様子を確認する。私はもう一度首を振りました。
「むーりぃー」
動作こそ小さいですが、心の中では大きな悲鳴があがっていました。
プロデューサーさんは一瞬困った表情を見せるも、すぐにひたむきな表情へと変わりました。
「なぁ森久保聞いてくれ。ライブが出来ないってなると、アイドルではいられない。
つまり実家に帰ることになるし、輝子とも会えなくなる。お母さんも輝子も悲しむと思うんだ」
キノコさんのことも寂しく思いましたが、それよりも、実家と聞いて、私は頭を抱えました。
アイドルをやめて実家に戻ったとしたら、
母に、叔父に、クラスメイトは、私を受け入れてくれるでしょうか。
アイドルを目指したが、アイドルになれなかった。
いわゆる、出来そこないの烙印を押されるのではないでしょうか。
考えるだけでピアスがじんと痛みました。
私はあの人達の期待を裏切るような真似は、絶対にしてはいけません。出来ません。
「いいか、森久保。俺は誰にでもこういうことを言うわけじゃないんだ。
森久保も輝子も、アイドルになれると思ったから俺はスカウトしたし、今もプロデュースしているんだ。
それに森久保は新人アイドルとしては異例なほど知名度があるじゃないか」
私は、例の森久保によってか、
新人の中ではそこそこ名の売れた、いわゆる期待のアイドルという立場になっていました。
「だから森久保。すぐに嫌だと首を振らず、少しだけ頑張ってみないか?」
プロデューサーさんは、私の目を覗き込みました。真っすぐな瞳でした。他の色は見えません。
私は途方にくれました。プロデューサーさんも間違いなく、私に期待をしていました。
色の見えないその期待が、他の人たちが私に抱く期待と、
どのように違うものなのか、私には相変わらず見抜けませんが、
お気づきのとおり、私にはこの期待を振り払うだけの強さはありません。
「そこまでいうのなら……。森久保少しだけやってみますけど……」
私にはそう答えるしかありませんでした。
それからは文字通り、レッスン漬けの日々でした。
内容は今までの基礎的なものに応用も加わるようになり、よりハードなものになりました。
プロデューサーさんは宣言通り、極力私のレッスンへと顔を見せました。
部屋の隅からレッスンの様子を観察し、休憩時間になると、
トレーナーさんと進行状況の確認や、どこがよかった、ここがいまいちだ、と話しました。
その指摘はもっともなことが多かったので、
どうやら私がプロデューサーさんに会ったときから感じている直感は正しく、この人は単純な人ではないようでした。
私はレッスンに必死についていきました。
レッスンを頑張るのは自分のためでもあり、相手のためでもありました。
私は、踊りが上手になりたいと、これっぽっちも思ったことはありませんが、
私が踊れないと、イベントに一緒に出演するアイドル達に迷惑をかけてしまう。
トレーナーさんやプロデューサーさんの評価をさげてしまう。
私は他人に迷惑をかけるわけにも、他人から失望されるわけにもいきませんでした。
しかしながら、レッスンを終え、床に倒れながら、大げさに空気を身体にかきこむ。
そんな日々を一ヵ月ほど続けていると、私は、
こんなレッスンを毎日やるのかと、このままでは運動嫌いになってしまう、
それにレッスンをしたところで待っているのは恐ろしいデビューライブではないかと、
それこそ地獄の苦行のような気がしてきて、レッスン前日の夜から気が滅入るほどには、レッスン自体が嫌いになっていきました。
そこで考えたのが、かくれんぼでした。
これは私とトレーナーさんとプロデューサーさんの仲が、
そこそこ進展してきたと判断できたからこそ出来る、私の逃避かつ主張の手段でした。
ある日、私はレッスンの時間が来ても、ずっと自分の机の下で本を読んでいました。
(正確には本に集中できるわけもなく、かくれんぼは、腕時計、自分の罪悪感、との闘いでもありました)
結果から書くと、一回目は腕時計の勝ちでした。
約束の時間になる五分ほど前までは、今日かくれんぼをやるんだ、
レッスンをサボるんだと自分に言い聞かせ、本を読んでいたのですが、時間が近づくにつれ、
悪いことをしている、私は多くの人の期待に背いているという罪悪感、
時間通りに来ない私にプロデューサーさんたちが腹をたてていたらどうしようという不安。
それらが心臓を激しく鳴らし、約束の時間から十分が経つ頃には机を出て、足早にレッスン室を目指しました。
レッスンルームに入るとプロデューサーさんとトレーナーさんが、心配そうな顔をして、私を待っていました。
「どうしたんだ。何かあったのか」
駆け寄る二人に、私は、
「レッスンだと思ったら急に身体が重くなって、机の下から動けなかったんですけど」
と森久保節をふんだんに効かせて答えました。二人はくすりと笑って、
「それはたるんでいる証拠だな。身体が重く感じるのは運動不足のせいだよ。
仕方ないからいつもよりレッスン量増やしておくな」
「それは困るんですけど」
森久保が答えると、二人はまた笑いました。
その日のレッスンはいつもよりも十分終わるのが遅く、そのことを森久保が、
「時間過ぎてますけど……早く帰りたいんですけど」
と指摘すると、プロデューサーさんは笑顔で、
「運動不足だろ?」と答えました。
かくれんぼは、レッスン室の予定が詰まっていない、プロデューサーさんが忙しくない、
これらの条件が揃うときに不定期で開催されたのですが、二回目以降は全てプロデューサーさんの勝ちでした。
二回目は開始から十分ほど過ぎると、プロデューサーさんが机の下へとやってきて、
「行きたくないんですけど、やりたくないんですけど」
とぼやく森久保を笑顔で抱え、レッスン室へと運びました。
三回目は五分前。場所は同じく私の机。四回目はキノコさんの机でした。
プロデューサーさんは、私が私の机の下に入っていないことに、
「あれ?」と少し困った様子でしたが、キノコさんの机の下に私の姿を見つけると、とても嬉しそうに、
「森久保! 人の家に勝手に入っちゃ駄目だと学校で習わなかったか? 輝子にもプライバシーがあるんだぞ」
「森久保とキノコさんは友達なので大丈夫です。
あと、それならレッスン室はトレーナーさんの家ですし、
森久保はトレーナーさんとは友達ではないので、自分の家に帰りますね」
「大丈夫だ、森久保。トレーナーさんは森久保のことを友達だと思っているから。
さっきも楽しそうにお前のメニューを考えていたぞ」
「ひぃ、い、嫌なんですけど、レッスン苦手なんですけど……」
「そうか……じゃあ今日はレッスンやめるか」
「へっ? いいんですか?」
「いいけど、トレーナーさんには森久保が自分で言ってくれよ。
私はトレーナーさんと友達ではないので、レッスンを受けたくありませんって。トレーナーさん、悲しむだろうな」
「その言い方はズルいんですけど……。よく性格が悪いって言われませんか?」
「全然。で、どうする?」
私に行かないという選択肢があるわけもなく、
「行きますけど……」
「行きたくないのに?」
「行きたくないのにです」
私は渋々といった形でレッスン室へと向かうのでした。
今になって思い返すと、この一連のかくれんぼは、親元を離れ、甘えたいのに甘えられない、
私、森久保乃々の、ひねくれた甘えアピールのようなものだと認識されていたように思います。
しかし、先ほども書きましたが、このかくれんぼは、私の逃避かつ主張の手段でした。
私は大まじめに、「行きたくない、嫌だ」と考えていて、それを森久保に代弁させているだけなのでした。
本当は私自身が言ってしまえばよいのですが、私にはそれを伝える勇気がない。
真正面から相手とぶつかって、相手に失望されたくない。
だから森久保に頼って、冗談を装うことで、実は気づいてほしかったのだと、今更ながら思います。
「行きたくないんですけど。嫌なんですけど……」は森久保の求愛の手段でも、冗談でもなく、
私の心からの叫び、悲鳴でした。
しかしながら、かくれんぼの回数が増え、レッスン量が増えても、
誰も私の悲鳴には気づいてくれませんでした。
(それどころかみないっそう、森久保に対する誤解が深まっていったように思えます)
私の悲鳴は次第に大きくなっていき、それこそ雪が解け、春の日差しが現れる頃には、
私は一人でいるときも次の日のレッスンや迫りくるライブのことを考えてしまい、頭を抱えるようになりました。
しかし私の森久保ゆえか、事の深刻さが他の人には伝わらない。
ライブまで二週間を切ると、みんなが、「ライブ頑張って」と私に声をかけ、
私は、嫌なんですけど、と心の中で叫びながら、森久保の笑顔を作り、
「頑張りたくないんですけど」と答え、
一週間を切ると、
「ラストスパートだ」とプロデューサーさんが言い、
私は、嫌なんですけど、森久保は、
「嫌なんですけど、机の下に帰りたいんですけど」と答え、
三日前に、
「ライブ嫌なんですけど」と私が言うと、
「大丈夫、乃々ちゃんなら出来るよ」
とトレーナーさんが私の手を握りながら答えました。
その笑顔に何も言い返すことが出来ず、何が大丈夫なのだと、ひとり不安と恐怖を抱えていると、
いよいよライブ前日の夜になってしまい、逃げ場のなくなった私は、ノートを開き、
こうして自らを告白するような文章を書くことで、
いかに自分がライブを嫌がっているか、アイドルに向いていないのかを正当化させようとしているのです。
改めて書いてみると、
自分はやはりアイドルというものに、人と生活をしていくということに、向いていない気がします。
腕時計を見ると日付が変わりそうなことに気づきました。そろそろ寝ないといけません。
眠りたくありません。寝るとすぐに朝がやってきて、
私は多くの人の目に晒されながら歌に踊りを披露しないといけません。
明日なんて来なければいいのにと、ここ毎日祈りながら、私は眠りについています。
長々と、それこそ遺書のように書き綴ってきましたが、
結局のところ私が言いたいことは、ライブに出たくない。人の目が怖い。それだけなのです。
どうか明日よ、来ないでください。目よ、覚めないで。私はそう叫びながら、ここで一度ペンを置きたいと思います。
了
◇◇◇◇
◇◇◇◇
暗闇の中、意識がやってきて、
私は、すぐさま、ついに来てしまったと、今日という日を呪いました。
目を開くと一日が始まってしまう気がして、開くのをうんうんと躊躇ってみたのですが、
瞼の裏にたくさんの人の顔がこびりついて取れません。
私はいやいや重い瞼を開けました。
重い身体と頭を抱えて、洗面場へと向かいました。
顔を洗い、母から貰ったピアスをつけると、ずしりと嫌な感触。
鏡に映る私は、目元に涙をため、視線は真っすぐではなく、横を向いていました。
ひねくれと憂鬱がにじみ出るその奇妙な表情を見ていると、
目の前の私が、私なのか森久保なのか判断がつかなく、これから私はどうなるのかと、
私と森久保、ひいてはライブのことを考え始め、頭がずきずきと痛みを覚えたので、鏡の前から逃げ出しました。
「乃々ちゃん今日のライブ頑張って」
社交辞令のような声援をかけてくるアイドルの先輩方に、
「ありがとうございます」
廊下の端を歩きながら、涙を隠した笑顔で答えました。外に出て、私はすぐに異変に気づきました。
草木は緑を飾り始め、柔らかな日差しが季節の変わり目を告げている今日この頃。
本日も例には漏れず、言ってしまえば絶好のライブ日和なのですが、カラスの数が異様に多い。
電線の上や公園のいたるところに、見たこともない数(三十匹くらいでしょうか)のカラスが止まり、
一斉にカーカーと鳴いている。まるでこれから起こる不幸をあざ笑っているようでした。
私はその不吉の象徴とも思える声に怯えながら、事務所へとかけ足気味で向かいました。
事務所ではたくさんの人がライブに向けての来る準備をしていました。
アイドルとプロデューサー。
「不安だ」
一人のアイドルが呟けば、
「お前なら大丈夫だ」
プロデューサーが担当アイドルの肩を叩き、
「不安だね、お互い頑張ろうね」
他のアイドルが励ましの言葉を送っていました。
それらはさながら狼であり、ハイエナのようでありました。
彼ら彼女らは仮面を被り、相手のためだ、という言葉を自分のために吐きだしていました。
私はそれらから目を背け、自分の机の中へと隠れました。そして、震える手と心臓で、本をめくり始めました。
キノコさんが隣から私の元へと駆けつけたのは読み始めてすぐのことでした。
「大丈夫か? ボノノさん、緊張とかしていないか?」
キノコさん。私の人生で唯一の同志。今も心配そうに私のことを見ています。
そのとき私は強い感情に揺さぶられました。
それは安堵ではありませんでした。
キノコさんに私の何がわかるのですか。
それは怒りでした。
あなたは私と違うのに。大丈夫ではないに決まっているじゃないですか。
その怒りは、見せてはならない感情でした。
私にもそれを見せてはいけないと判断するだけの理性が残っているようでした。目を閉じ、息を深く吸ってから、
「大丈夫じゃないんですけど……。今すぐ帰りたいんですけど……」
と答えました。キノコさんはそれを聞いて、
「良かった。いつものボノノさんだ」
と笑いました。
やがて、キノコさんが隣の机に帰る頃には、抱いた怒りの感情は煙のように消えていて、
代わりに、後悔や罪悪感が私の心に渦巻いていました。
キノコさんに悪意がないことはわかっています。
それなのに私は、同志の純粋な心配に、傲慢にも怒りを覚え、あろうことか疑ってしまった。
もしかしたら、私がキノコさんに、森久保ではなく私を見せれば、
キノコさんは私を受け入れてくれたかもしれないのに。
やはり私は人と生活することが向いていないのだ、できないのだと再確認しました。
それからは一人、机の下で、昨日書いた文章を思い出しながら、
罪の告白のようなものを繰り返しました。
思い出されるは、様々な人の視線と笑顔。それに対しての自分の反応。
私だけが誰も疑問に思わないような根本的なところで躓き、苦しんでいる。
どこで私はこんなにもズレてしまったのでしょう。
母のひとこと、それともクラスメイトの笑顔でしょうか、もしかしたら最初からズレていたのかも。
監獄のような机の下で考えてはみたのですが、今となっては検討もつきません。
永遠にも思えた懺悔の時間も無情に過ぎていき、やがて、プロデューサーさんが私を迎えに来ました。
「おはよう森久保、調子はどうだ?」
「帰りたいんですけど……」
プロデューサーさんは森久保の様子を見て、その調子なら大丈夫だと小さく笑い、
「そろそろいこうか、時間だ」
と私の手を引きました。
会場へと向かう車の中、私はまるで、重罪を犯し、刑務所へと押送される罪人のような心もちでした。
他者と上手くかかわれない罪で、送り込まれる先が刑務所だったらどんなに良かったことでしょう。
実際はライブ会場で、私はこれから歌と踊りを披露しなければなりません。
窓の外には三月のいつもどおりの世界が広がっていました。
鳥は鳴き、学生やサラリーマンたちがそれぞれの行き先へと歩いている。
ゴールへと向かう途中に、ついでにとでも言わんばかりに、車の中の私を見て笑っている。
それは今朝見た、カラスが群がる光景を思い出させました。
窓ガラスに映る水色のピアスが光り物のように、鈍く存在感を放っていました。
ライブ会場へと着くといよいよ息が苦しくなっていき、あいさつ回りが終わるころには、
「大丈夫か、森久保」
とプロデューサーさんに声をかけられるくらいほどに、私は疲弊していきました。
「大丈夫じゃないんですけど……」
「緊張しているのか?」
「緊張なんて言葉では表せないほど緊張しているんですけど……。心なしか頭が痛いです」
森久保は、
「プロデューサーさん、森久保は風邪をひいているみたいなので今日のライブはお休みしてもいいですか?」
と付け足しました。
「そんなに屁理屈が言えるなら大丈夫そうだな。……って本当に少し顔色悪いな。大丈夫か?
まだ本番まで時間あるし、風邪薬貰ってこようか?」
プロデューサーさんが心配そうに覗き込みます。
この病気が風邪薬では治らないことを私は知っているので、
森久保は目を逸らしながら、大丈夫ですと首を振りました。プロデューサーさんは私の顔をしばらく見てから、
「いいか森久保、お客さんをじゃがいもだと思うんだ」
「じゃがいもですか?」
「そう、じゃがいも。じゃがいもに見られていると思ったら、緊張しないだろ? 試しに俺の顔をじゃがいもだと思って見つめてみろ」
「ここでですか?」
「もちろん」
ここ以外にどこで見つめるんだと笑うプロデューサーさんの顔を、
私は、一世一代のにらめっこをする気で、それこそ心の中で大きく息を吸ってから、見つめました。
プロデューサーさんは、私と初めて出会った時と同じ、真剣な眼差しで私のことを見ていました。
その表情からはやはり、思惑のようなものが見えてきません。
三秒ほど目を合わせて、限界がやってきたので、森久保はさも恥ずかしそうにぷぃっと顔を背けました。
「全然、じゃがいもには見えなかったんですけど。プロデューサーさんは嘘つきです」
ダメだったかとプロデューサーさんは苦笑しました。
それからまもなく、イベントが始まりました。
私は、他のアイドルやプロデューサーに紛れ込んで、控室から映像越しに、ライブの様子を見ました。
控室には緊張した空気が張りつめていました。
ひとり、またひとりと、華やかな衣装に身をつつみ、
私の横を通り過ぎ、ステージへと上がっていく新人アイドルたち。
そのパフォーマンスの中には、大成功と呼ばれるものも、ぎこちない動きのものもありました。
しばらく進行すると、いかにも内気そうなアイドルの子が、
あまりの緊張ゆえにステージ上で震えながら、涙を流してしまうというハプニングが起こりました。
「○○ちゃん、大変そう、頑張って」
ひとりの女の子が呟きました。その瞬間、控室の空気が変わったように感じました。
「だよね。私達も緊張するなー」
誰かが同調しました。彼女たちは、ステージ上の女の子に同情し、
自分のこれからを心配しているようでしたが、
私には安心しきっているようにしか見えませんでした。それはさながら同情コンテストのようでした。
私達に、あの子の苦悩がわかるでしょうか。
あの子が泣いているから、失敗しているから、私たちも失敗して大丈夫だと、笑っている。
女の子の失敗自体に同情しているのではなく、自分の失敗への保険に、すり替えているではないでしょうか。
どこか自分を他の人より優位に見ているのではないでしょうか。
控室に広がった、蜜のような、エゴイスティックな空気に、耐えきれなくなって、私は控室を後にしました。
施設内を放浪し、ステージ会場から遠く離れた果ての場所に、
誰にも使われていなさそうなベンチを見つけ、私はそこで時間が経つのを待ちました。
ライブ当日に離れのようなこの場所に来る人は、私くらいで、人の目はありませんが、
本は事務所に置いてきていて、すっかり手持ち無沙汰でした。
私はまた否応にも自分のことを考え始めました。
思い出すのは、先ほどの控室の臭いと、私が事務所でキノコさんへと抱いた感情でした。
私はキノコさんに怒りを覚えましたが、それは自分勝手ではないのかと、先ほどの人達の同情と何が違うのか、
あの人たちは仮面の笑顔で、私の場合は森久保のひねくれで、
結局のところは同じではないのかと考え始めると、どうにもそれが正しいように思えてきて、
自分勝手な人々に恐れを抱いてきた私が自分勝手だったと認識し、それが自分の心に刺さりました。
それから色々考えて、やはりライブに出ることは不可能だと判断したので、
私は、ライブの時間になっても、ここでじっとしていよう、と決意しました。
隠れはせず、それこそベンチにじっと座っているだけですが、
それは私にとって、かくれんぼでした。
時間が来るまでに誰もここに来なかったら、ライブに出るのをやめよう。
誰か来たら、それがお告げなのだと諦めて、ライブに出よう。
弱い私は一世一代の決断を自分ですることが出来ず、
何かに恐れ、それこそ神頼みのような形で、判断しようと決めました。
プロデューサーさんがやってきたのは、それから十七分後。私のライブ開始時刻の三十分前でした。
「森久保、こんなところにいたのか探したぞ」
息は荒く、肩で呼吸をしています。たくさんの場所で私を探しまわってきたのでしょう。
その姿を見て、私は真っ先に、神様はなんて残酷なのだと思いました。
私は賭けに負け、ライブに出ないといけません。
「森久保どうしたんだ? 本当に調子悪いのか?」
心配そうに聞くプロデューサーさんに、森久保は、
「大丈夫です。ちょっと一人になりたかっただけです。……そろそろ行きましょうか」
と答えました。
席を立ち、ライブ会場へと歩き始めました。
一歩進むことに、ピアスが、身体が、重さを増していきます。
私はプロデューサーさんにばれないように、身体を引きずり歩きました。
ライブ会場へと着くと、私の身体は悲鳴をあげていて、
先ほど決めたばかりの神の選択さえも撤回したい気分に駆られていました。
ですが、ここで逃げてしまったら私は神に背いたことになってしまいます。
その後どんなにひどい出来事が私を襲うことでしょう。
かと言って、私がライブに出る、アイドルになる。それは私が想像する中で一番ひどいことのように思えました。
私にはたった三十分後の自分の人生すら想像がつきません。
再び揺れ始めた選択の中で、私は頭を抱え、その迷いを森久保は隠し、
プロデューサーさんとライブ前の最終確認をしていると、
出番一つ前の子のライブが始まり、あっという間に、終わりました。
舞台裏へと戻ってきて、担当のプロデューサーと抱き合い、関係者に挨拶をし、ひとこと、私に声をかけました。
「(私は出来たよ)頑張ってね」
その言葉が、笑顔が、決定打となって、私はその場から動けなくなりました。
常に人に見られている。常に私は試されている。常に私は笑われている。
とうとう耐えられなくなって、私は、出番だぞと手を差し向けるプロデューサーさんに、
「嫌です」
初めての抵抗でした。困り顔のプロデューサーさんの言葉を遮って、私は告白を始めました。
「人の視線が怖いんです。常に見られている気がして、常に試されている気がして、笑われている気がするんです。
ステージに立ったらみんな、私の歌や踊りを見て、くすくすと笑い始めるに違いありません」
浅はかな私は直前になって、自分の病気がいかに深刻かを告げ、この場を逃げようとしたのです。
それは私から人に対する、初めての期待でした。私は仮面が見えないこの人に、自分の未来を委ねたのです。
私の告白をプロデューサーさんは最後まで聞いてくれました。
目は私をスカウトしたときの、真剣な、清潔な表情で、唇は噛みしめるように、固く結ばれていました。
「すまない」
プロデューサーさんが言いました。
「緊張しやすい子だと思ってはいたが、森久保がそこまで人の視線に怯えているとは知らなかった。
今まで気づかずに傷つけていたこともあると思う。許してほしい。それで、誤解せずに聞いてほしいんだが」
プロデューサーさんは言葉に詰まりました。迷っているようでした。
私にかける言葉を、語句を。少し考えて、
それから決心したようで、プロデューサーさんは言葉を紡ぎました。
「俺はずっと森久保を見てきた」
そこは嘘でも、「誰も見ていない。気にするな」と言わなければならない場面で、
この人は真逆なことを言いました。
私は、その言葉が私の心に深い傷を与えるのではと身構えたのですが、
実際にやってきたのは、本当に人に見られているのだという恐怖ではなく、
それよりももっと曖昧なものでした。私はそれほどまでに追い込まれているようでした。
私は頷き、ただただプロデューサーさんの言葉に耳を傾けました。
「俺は森久保がアイドルになれると思った日からずっと、森久保を見てきた。
思い出してみろ。ラジオの収録、服の撮影、いろいろなことを経験し、それを乗り越えてきたじゃないか」
「それは嫌々。森久保がやらないと他の人に、ひいては自分に迷惑がかかると思ったからやっただけで」
「でも、乗り越えたのは事実だろう?」
私は頷きました。
「なら大丈夫だ。このライブのためにレッスンも最後までやりとげたじゃないか。
俺はそれを見てきたし、森久保なら出来るって信じてるよ」
プロデューサーさんは私の肩を軽く叩き、私の目を見ました。
清潔な表情が、その言葉たちは真実なのだと告げているような気がしました。
プロデューサーさんは私を信じている。
心の中で繰り返し、呟きました。
信じるとは一体、何なのでしょうか。期待とは違うのでしょうか。
自分のために相手に求める。その行為とは別なのでしょうか。
プロデューサーさんの瞳から私へと向けられているこれは、期待ではないのでしょうか。
「深呼吸をしてから、じゃがいもだ。じゃがいも」
プロデューサーさんが言いました。私はステージへと上がりました
新人アイドルのステージといっても、合同のライブ企画ですので、お客さんの数はなかなかの規模でした。
赤、青、黄色、たくさんの数のサイリウムが私の目の前で揺れています。
そのサイリウムは、誰のために振られているのでしょう。
私のためなのでしょうか。それともファン自身のためなのでしょうか。
曲が鳴り始めました。お願い!シンデレラ。
ほとんどのアイドルが歌っている、事務所の代表曲のようなものでした。
熱気に当てられていたお客さんたちが、一瞬、息を飲み、
その何百という呼吸の音が、私に聞こえてきました。
息が苦しくなりました。大きな歓声が上がりました。身体はなんとか踊りについてきました。
イントロの中で、私はこの曲のある場面のことを思い出しました。
この曲は前半と後半に一度ずつ、ウィンクを飛ばすシーンがあるのです。
私はウィンクをどこに飛ばせばいいのでしょう。
一度考え始めると、囚われたように、そのことだけが頭の中を回りました。
レッスンでは鏡の中の自分へと、ウィンクを飛ばしてきました。
客席を見ると、たくさんのお客さん。みな、私を見ていました。
期待を向ける眼差し。口角のちょっとした変化。その何気ない行動が私に映り、私を傷つけました。
頭が真っ白になっていきました。まもなくイントロが終わり、歌のパートが始まります
私はウィンクをどこに飛ばせばいいのでしょう。
じゃがいも、じゃがいも、ウィンク、ウィンク、と心の中で繰り返し、唱えました。
ですが、お客さんはじゃがいもには変わりませんでした。
お客さんは人間でした。
人間は私のことを見ていました。試していました。笑っていました。
ピアスの感触がずしりと私の身体に響きました。
『常に人に見られている』
耳から身体へと、ピアスは徐々に重さを増していき、私の身体は動かなくなりました。
私はピアスに引っ張られるように、地面に倒れていきました。
目を覚ますと白の天井。
会場に設けられた医務室のようで、横にはプロデューサーさんが座っていました。
プロデューサーさんは、私が倒れた後のことを淡々と話しました。
私は心ここにあらずで、その話を聞き流し、
寮まで送っていこうかというプロデューサーさんの気遣いを断り、一人、寮へと戻りました。
亡霊のように廊下を歩き、部屋に着くと、
手も洗わず、服を脱ぎ捨て、ベッドへと飛び込み、そのまま泣きました。
私は、廃人のような生活を送るようになりました。
一日の大半を寝て過ごし、起きている間は本を読み、
人が少ない時間を見計らって、ピアスをつけ、食堂でご飯を食べました。
それでも何人かのアイドルと出会う機会があって、
「元気出して」
無慈悲にも私に声をかけてきて、そのたびに森久保は、
「ありがとうございます」
と答えました。情けや憐みのようなものはいらず、私はただただ放っておいてほしいのでした。
心の声が届いたのでしょうか。その生活が三日も続けば、誰も私に声をかけなくなり、
恐ろしいはずの世間は、私に何も危害を加えなくなりました。
世間というのはエゴイスティックで、私が思っていたよりも無関心なようでした。
私が隠居生活を始めてから一週間が経ったときでした。
微睡の中、ピンポーンとチャイムの音が聞こえてきたので、
何事かと目を擦りながら、それでも用心して扉を開くと、そこにはプロデューサーさんが立っていました。
「迎えに来たぞ、森久保」
いつもと変わらぬ様子でプロデューサーさんは言いました。眠気はどこかに吹きとんでいきました。
「どうしているんですか、プロデューサーさん。確か女子寮は男子禁制のはずでしたよね?」
「寮母さんに無理を言って入れてもらったんだ。だからあんまり長居は出来ない。さぁ森久保、事務所に行こう」
「それは森久保にアイドルを辞める手続きとかをさせるからですか?」
本心でした。プロデューサーさんは、まさかと笑い、
「レッスンだよ」と答えました。
「どうして」と私は聞きました。
「どうして迎えにきたんですか。森久保はライブで倒れてしまいました。視線の話もしました。森久保はどう見ても、アイドルに向いていません。それなのに」
プロデューサーさんが言いました。
「俺は森久保ならアイドルになれるって信じてる」
清潔な瞳は嘘を言っているようには見えませんでした。
信じるとは一体何なのでしょうか。私にはまだわかりません。
「で、どうする?」とプロデューサーさんが聞きました。
「レッスン。来なくてもいいけど、それだったらあんまり言いたくはないが、いつか寮を追い出されることになるぞ」
「その言い方はズルいんですけど……」
と森久保は答えました。
私は急いで顔を洗い、服を着替え、ピアスをつけ、部屋を出ました。
久しぶりにつけるピアスはひんやりとしていて、相変わらずずしりと響きました。
車の中で、プロデューサーさんは、
「次のライブの予定はまだ決まっていない、けれど必ずやる予定だ。
出来れば夏あたりに場所を取れればと思っている。
それと視線のことだが、俺は森久保のことを見ていたつもりなのに、どうやら見抜けていなかったらしいし、
おそらくこれからも完璧には見抜けないだろうと思う。だから限界が来たら言ってくれ。
レッスンもアイドルも。そのときに対応する」
と言いました。
確かに私は、今もレッスンやアイドルに対して、何一ついい感情を抱いていませんでしたが、
これが限界なのかと考えるとわからなく、
また、アイドルを辞めたところで行く先は実家なのだと考えると、そちらの方が地獄のように思えてきて、
「わかりました」と頷きました。
事務所につくと、無関心だったはずの世間は久しぶりの私の登場に、目を向け、
「元気だった?」「心配していたの」と声をかけてきたので、逃げるように机の下へと向かいました。
横には変わらず、キノコさんが住んでいて、
「大丈夫だった?」と尋ねてきたので、
「大丈夫じゃあなかったんですけど……」
と森久保は答えました。キノコさんは森久保のひねくれを見ても、気遣う姿勢を解かず、
「そうか。実は私のデビューライブもな……」
自身のライブの失敗談を語り始め、それが終わると、
私の机に居座り、そのまま二人、本を読み、キノコを育てました。
しばらくすると、プロデューサーさんがレッスンの時間だとやってきて、嫌がる森久保に、
「その顔は本気で嫌がっている顔じゃないな。ライブの時はもっと深刻な表情をしてた」
と言い放ち、私をレッスン室へと運びました。レッスン室ではトレーナーさんが私のことを待っていて、
「乃々ちゃんごめんね。プロデューサーさんから話を聞いたの」
ひとこと、ふたこと申し訳なさそうに言うと、手を軽く叩いて、その話は一切終わり、
「じゃあレッスン始めようか」とステップを踏み始めました。
レッスンが終わり、「じゃあまた明日」と寮まで送られ、
部屋に戻り、ピアスを外し、私は、おかしい、と思いました。
プロデューサーさんも、トレーナーさんも、キノコさんも、普段通りでした。
それこそ初めは励ましのようなものもありましたが、それ以外は極めていつもどおりでした。
疑ってしまったのに、キノコさんは今日も私の隣でずっとキノコを世話していました。
ライブに失敗してしまったのに、トレーナーさんは笑顔で、優しくレッスンをしてくれました。
アイドルに向いていないと告白をしたのに、プロデューサーさんは迎えに来て、冗談を言い、
今も私にアイドルを続けさせようとしています。
私はあの人達の期待を裏切ったのに、
どうしてあの人達は私を笑わないのでしょうか。怒らないのでしょうか。見捨てないのでしょうか。
あの人達が神の使いであるのなら、それこそ納得はするのですが、あの人達は人間です。
あの人達にはいったい、何があるというのでしょうか。
次の日からも、同じような日々が繰り返されました。
私は事務所に行き、机の下に隠れ、時間が来るとレッスン室へと向かいました。
私は三人を観察するようになりました。
あの三人はどうして私を笑わないのだろう。
いや実は既に心の中で笑っている。いつかは笑われる。私はかくれんぼを再開させました。
今に私に呆れて、鬼のようなものが姿を現すに違いない。
ですが、事態は変わりませんでした。
私が隠れていると、キノコさんは私を匿い、ときには一緒になって隠れ、
それを見つけたプロデューサーさんが、
「輝子、共犯はダメだぞ。そっちが森久保サイドにつくというなら、キノコたちは俺が人質として預かるからな」
キノコさんがメタル化して、あまりの声の大きさに私が机から飛び出すと、
プロデューサーさんに捕まってしまい、その話をすると、トレーナーさんが笑いました。
私はそれこそ夢を見ているような気分でした。
どうしてこの人たちは私に今まで通り接してくれるのでしょう。
私はついに我慢できなくなって、ある日、わざわざ隣の机へと出向き、
キノコの世話をしていたキノコさんに、「話があるんですけど」と改めて告げ、
ぎゅうぎゅう詰めの机の下で、他の誰にも聞かれぬよう細心の注意を払って、
「キノコさんはどうしてまだ森久保と仲良くしてくれるんですか?」
「ど、どうしたんだボノノさん……い、いきなりそんな……何か疲れていることでもあるのか」
「森久保にはわからないんです。森久保はライブ中に倒れるという失敗を犯しました。
いってしまえば、森久保は落ちこぼれのアイドルです。
いや、アイドルにすらなれていないのかもしれません。
その森久保に、キノコさんはいつも仲良くしてくれるじゃないですか。
それがわからないんです。どうして森久保と仲良くしてくれるんですか。
森久保と付き合っていても何もメリットもないのに」
キノコさんは少し考えてから、さも当たり前かのように言いました。
「む、難しいことはわからないけど、私たちは友達だろ。
友達に、どうしてとか、メリットとか必要ないんじゃないかな」
私は思わずキノコさんから顔を背けました。じわり、と私の心に何かが響いていました。
それはピアスをつけたときの嫌な感触ではなくて、
もっと落ち着ける、私が経験したことのないような感覚でした。
それは照れでした。恥ずかしかったのです。キノコさんの口から「友達」という言葉が出たことが。
それは輝きでした。まぶしかったのです。純粋無垢なキノコさんの瞳が。
それは喜びでした。嬉しかったのです。その言葉が私に向けられたことが。
キノコさんの言葉を借りるなら、それらは「友達」、「友情」でした。
友達とは、友情とは、こんなにも美しく、優しいものだったのだと、
私はそこに初めて、今まで見てきた友情とは異なる、本物の友情を見た気がしました。
それから私はレッスン室へと向かい、トレーナーさんに、
「どうしてトレーナーさんは今でも森久保のレッスンを見てくれるのですか。お仕事だからですか」
と尋ねました。トレーナーさんもまた、キノコさんのときと同じように、しばらく考えてから言いました。
「確かにお仕事ではあるけどね。単にお仕事としてだったら、他にも仕事なんてたくさんあるでしょ?
私はこの仕事が好きなの。なんていうのかな。
レッスンに来ているアイドル達、上手くなりたいと思っているアイドル達の夢の手助け、応援かな。
だから私はこの部屋に乃々ちゃんが来てくれる限り、ちゃんとレッスンを教えるよ」
その言葉もあまりにも優しくて、心の中には先ほど感じた友情と同じようなものが広がっていて、
私はトレーナーさんの顔を見れず、
「じゃあ森久保レッスン苦手なので、帰っていいですか……」
トレーナーさんは「ダメ」と笑いました。
友情や応援。
それは私が今まで見てきたものとは全く異なるものでした。
友情に損得はなく、応援は誰かのための行為でした。
そこに思惑のようなものは見えてきません。
キノコさんもトレーナーさんも見返りを求めていない。私に期待をしていない。
失意のどん底の中で、淡い光が見え始め、私は途方にくれました。
私はその光を求めてもいいのですか。その光は消えてなくなったりはしませんか。
私はひねくれていました。
求めて手に入らなかったら、その時こそ、私は壊れてしまう。
私はその光を追い払おうとしました。
キノコさんやトレーナーさんが例外なだけで、世の中はきっとそんなに甘くない。
そもそも二人は裏表のない単純な人だったじゃないですか。
ですが、見えた光はあまりにもまぶしく、
私は振り払おうとした力と同じくらいの力で、光を掴もうとしました。
私は期待しました。人に対する二度目の期待でした。
プロデューサーさん。仮面の見えない人。
プロデューサーさんは私のことをどう思っているのですか。
どうしてまだ私をプロデュースしているのですか。
私に価値が残っているからなのですか。それとも他に何か理由があるのですか。
私は笑われているんでしょうか。私は利用されていつかは捨てられてしまうのでしょうか。
私を笑わないでいてくれますか。私を見捨てないでいてくれますか。
私は、自分の全てを委ねた期待を、再びこの人へとかけました。
次の日、私は、隙こそあればプロデューサーさんに尋ねようの決心で、ピアスをつけ、寮を出ました。
ですが、陽の光を浴び風に吹かれ事務所へと着くころには、
私の決心はどこ吹く風で、「おはよう」とあいさつをするプロデューサーさんに、
私は、「おはようございます」とだけ返し、机の下へと潜り込みました。
その後も机の下からプロデューサーさんの隙を伺ってみたのですが、
例えば昼食時やコーヒーブレイクなど長い休憩もありましたが、
どの隙も、私が一世一代の大勝負を仕掛けるタイミングではないように思えて、
なかなか言い出すことが出来ず、時間だけがいたずらに過ぎていきました。
私の頭の中に、今日は都合が悪いです、明日にしましょう、
と聞こえの良い言葉が出回り始めたころ、電話がなりました。
プロデューサーさんの机のようで、プロデューサーさんがそのまま出ました。
プロデューサーさんは電話越しに、「申し訳ありません」や、「どうかお願いします」を繰り返しました。
仕事のミスをしたようでした。
プロデューサーさんにしては珍しい、
やっぱり今日のところはやめておこうと考えた矢先、
プロデューサーさんの口から「森久保」と出たので、私は心臓を掴まれた思いになりました。
プロデューサーさんは自身の失敗ではなく、私の失敗を謝ってくれている。
そう思い始めると、あのときステージで見た、たくさんのお客さんたちの顔が、
フラッシュバックして、つらくなって、申し訳なくなって、
プロデューサーさんと同じ空間にいることが耐えられず、この場を逃げ出そうと考えてみたのですが、
机の下からプロデューサーさんの目に見つからずに部屋を脱出するのは不可能でしたので、
きつくにらまれるか、皮肉がたっぷり聞いた一言を言われるに違いないと、
私はただただじっとしていることしかできなくなりました。
やっぱり私はアイドルに向いていない。人とうまく関われない。
そんな私が光を掴もうとしたことは甚だ勘違いも激しく、
おこがましい行為だったのだと、電話のひとことひとこと、
私の名前が出ることに怯え、気分がたちまち沈み込んでいくと、通話が終わり、
プロデューサーさんがこちらへと向かってくる気配がしました。
早まる鼓動、小さくなる身体。今に私は叱られる。見捨てられる。
「森久保ォ!」
声がして、私の心は大きく飛び跳ね、私は恐る恐る振り返りました。
「やったぞ! 森久保! セカンドライブの場所と日付が決まったぞ!」
プロデューサーさんは笑っていました。
その笑顔は初めて会った時から変わらない、純粋な笑顔でした。
どうしてこの人は、先ほどまで私のことで謝罪をしていたのに、今、笑っているのでしょう。
どうしてこの人は、私のことなのに、自分自身の事のように、こんなに嬉しそうなのでしょう。
どうしてこの人は、私にそんな笑顔を向けてくれるのでしょう。
不安や混乱、嬉しさのようなものが混ざりあって、その高まった感情は涙となり、
その涙を森久保はぐっとこらえて、私は、
「どうして」
と尋ねました。
「どうしてプロデューサーさんは私を見捨てないんですか、
笑わないんですか、叱らないんですか。
私は人の視線が苦手です。人の視線が怖いです。
人前に立つとすごく緊張してしまいます。
レッスンも真面目には受けませんし、時々机の下に隠れます。
そしてデビューライブでは倒れてしまいました。たくさんの人に迷惑をかけました。
私はどう頑張ってもアイドルになれない。向いていない。
そんな私をどうしてまだアイドルにしようとするんですか。
どうして私のことを自分のことのように喜べるんですか」
もう、放っておいてください。そう小さく呟いた森久保に、
プロデューサーさんは身を屈め、わざわざ机の下まで入ってきて、私の頭を優しく撫でてくれました。
「なぁ、森久保。最初に俺がスカウトしたときに言ったこと覚えているか。俺が森久保をスカウトした理由」
「……勘ですか」
「そう、勘だ。俺は森久保ならアイドルになれると信じて、アイドルにスカウトした。
あのときも言ったと思うが俺はそういった自分の勘が外れたことはないし、今でも外れていないと思っているよ。
ライブが始まる前、俺は森久保なら出来ると信じていると言った。
もし過去に戻れたとして、あの場面がもう一度やってきても俺は森久保に同じ言葉をかけると思う。
森久保がなんだかんだ言いながらも歌に踊りを頑張ってきたことを見てきたからだ。
俺が今も森久保のプロデューサーでいるのはな、つまりそういうことなんだ。
確かにあのライブは失敗したけれどな、それでも森久保は寮から出てきて、レッスンを再開させたじゃないか。
俺はその森久保をちゃんと見て、森久保ならアイドルになれると今も信じているんだ。
次のライブで失敗しても構わない。その次がある。また一緒に頑張っていこうじゃないか」
温かい何かが私を満たし、溢れてきました。
それは私の涙でした。
たくさんの感情が混ざっていたはずのそれは、
プロデューサーさんの手の温もりが伝染したのか、ただただ温かいものへと変化していました。
一度流れ出した涙は、長年の思いを全て吐きだすように、一気に溢れてきました。
あぁ、この人は私に期待をしていない。
ありのままの私を見て、その上で出来るかどうかを判断している。
そこにあったのは、確信にも似た、信じるという行為でした。
プロデューサーさんは私に期待するのではなく、私を信じてくれている。
プロデューサーさんも、キノコさんも、トレーナーさんも、
出会った時から変わらずに私を見てくれている。見方を変えないでいてくれている、見捨てないでいてくれている。
私はプロデューサーさんに抱き着きました。
プロデューサーさんも私のことを柔らかく抱きしめてくれました。
私はプロデューサーさんの胸の中で泣き続けました。
プロデューサーさんの手や胸、私の涙。
一人で泣いた夜とは違い、そこには確かな温かさがありました。
私はその温かさに、優しさのような、愛情のようなものを覚えました。
◇◇◇◇
◇◇◇◇
その日から私は、
プロデューサーさん、キノコさん、トレーナーさんの顔をよく見るようになりました。
彼らはいつも笑顔でした。
視線が苦手だといって、本当に向き合っていなかったのは私の方でした。
七月にリベンジライブが決まり、私は以前と同じようにライブ前のスケジュールをこなしていきました。
レッスン前にかくれんぼをし、プロデューサーさんにレッスン室に運ばれ、
身体が動かなくなるまでレッスンをする日々を繰り返しました。
デビューライブ前と同じような日々に思われるかもしれませんが、そこには確かに違いがありました。
毎日が楽しいです。寮や学校にいるときも常にレッスンや三人のことを考えてしまいます。
一人で本を読むくらいならと、オフの日も事務所に遊びにいくことが増えました。
その私を、キノコさんもトレーナーさんもプロデューサーさんも笑って受け入れてくれる。
自分から人の元へと寄っていくのは初めての経験で、それを受け入れてもらうことも初めて経験でした。
とても心地よい。嬉しい。
ライブの日が近づくにつれて、レッスンは過酷さを増していきました。ですが、
キノコさんが机の下からわざわざ駆けつけてくれる日もあって、
トレーナーさんは私が苦手なステップが出来るようになるまで、ずっと付き合ってくれて、
プロデューサーさんはそんな私のことをずっと見ていてくれました。私はそれこそ冗談で、
「しんどいです……むーりぃー」
と叫ぶときはありましたが、心の中では満面の笑顔で。そしてその私の冗談に、
「何言ってるんだ森久保、まだまだ出来るだろ」
と言い返してくれるのが、たまらなく嬉しい。時間はあっという間に過ぎていきました。
いよいよ明日、私はステージに立って、歌に踊りを披露します。
怖くない、と言えば嘘になります。
私はまだ一人でいるときは誰かの視線や言葉に怯えてしまいます。
正直、明日のライブが成功するという保証はどこにもありません。
ですが、逃げ出したいという感情以上に、三人に感謝の気持ちを伝えたい。
どん底へと落ちて、初めて見えた希望の光。
私を見捨てず、いつも笑顔で迎え入れてくれる人達。三人は三人とも私にとって限りのない人達です。
その三人が私のことを信じてくれている。応援してくれている。
私のことを友達と言ってくれた。
私のことを応援していると言ってくれた。
私のことを見ていると言ってくれた。
私はそれに応えたい。応えないといけません。
三人に感謝を伝えたい。私はその気持ちを持って、明日のステージに立ちたいと思います。
了
◇◇◇◇
◇◇◇◇
暗闇の中、意識がやってくると、私はすぐにベッドから飛び出しました。
窓からの日差しが部屋を明るく照らしていて、
それこそ始まりの一日のような気持ちで洗面台へと向かいました。
水色のピアスをつけるとずしりと嫌な感触。
一瞬、身体が強張りましたが、こんなところで負けていてはダメだと、心を奮い立たせました。
鏡に映る私は相変わらず、視線は真っすぐではなく横を向いていて、
ひねくれた表情を浮かべていましたが、そこに涙は見えませんでした。
私は、私は私なのだと、こんな自分を応援してくれる人がいる、と自分に言い聞かせて、洗面台を後にしました。
外に出るとカラスの代わりにたくさんの蝉が鳴いていて、
今日が絶好のライブ日和であることを告げていました。
窓や街路樹から視線を感じましたが、そのたびに私は三人の笑顔を思い浮かべました。
事務所に着くと、プロデューサーさんが私に、
「おはよう森久保気分はどうだ」
と尋ねてきて、私は、
「緊張はしていますが、あのときほどではないです」
と答えました。プロデューサーさんは、
「そうか。それはよかった」とほっとした様子で、「じゃあ、いこうか」と私の手を引きました。
会場へと向かう車の中、プロデューサーさんは他愛のない話を繰り返しました。
やれ天気がどうなの、やれ輝子がどうだと。明らかにライブの話を避けていました。
それは私が緊張しないようにという、プロデューサーさんの優しさでした。
そのさりげない優しさが、どうも親から子へと向ける不器用な優しさのように思えてきて、
それを一回り年齢が離れた親というよりもむしろ兄であるプロデューサーさんが、
私へと向けてきているのが、可笑しくて、嬉しくて、つい私はひねくれたように、
「プロデューサーさん……ライブ前だというのに、天気とかそういう話ばっかりして、
森久保を緊張させないようにさせようとしてくれているのはありがたいんですけど、その配慮がバレバレなんですけど」
と甘え、プロデューサーさんは顔を少し赤らめて、
「森久保ォ!そういうことは気づいていても言っちゃ駄目だろ!
どういう言葉かけていいか俺も悩んでるんだから」
と笑いました。
ライブ会場は以前より、華奢な、言ってしまえば小さなライブハウスでした。
(それでも私には大きすぎるような気がしましたが)
プロデューサーさんは私の前を歩いていき、関係者に挨拶をし、
その背中にくっつくようにして私も頭を下げました。
控室には応援に来てくれたキノコさんとトレーナーさんの姿があって、
最後の確認だと、私は三人の前で軽く踊ってみせました。
「うん。大丈夫だ。よく出来てる」
真っすぐな瞳で、プロデューサーさんが言いました。私はまた一つ、頼もしい気持ちになりました。
本番開始三十分を切り、いよいよ会場は騒がしくなってきました。
私は薄いメイクを施されながら、
鏡越しに映る裏方の人達の視線、聞こえてくるお客さんの声、それらと戦いました。
深呼吸を繰り返し、目を瞑ったりといろいろ試してみたのですが、次第に無視できなくなっていき、
視線はきつく、声は大きく、鼓動は激しく、身体は重く、ピアスがじんと響きました。
抱えた頭の中で、森久保が小さく笑いながら、私の元へとやってきて、
やっぱり無理なんですけど。
やっぱり森久保にはアイドル向いていないんですけど、と呟きました。
アイドルに向いていない。人は常に私を見ている。私を試している。私を笑っている。
だから今回も逃げ出して、それから考えようじゃないか。
部屋で一人本を読んで過ごして、極力、人と関わらないようにしていけばいいじゃないか。
その声に、訳がわからなくなりました。
私は三人に感謝を伝えたいと思っている。三人の笑顔が浮かびました。
森久保は逃げ出せと言っている。人々の嫌な声や笑顔が浮かんできました。
では私は、私、森久保乃々は一体どうしたらいいのでしょう。
「大丈夫か?」
振り返るとプロデューサーさんが立っていました。
何も言えず、頭を小さく横に振ると、プロデューサーさんは私の頭を優しく撫でてくれました。
「見せたいものがあるんだ」
プロデューサーさんはキノコさんを呼び、
キノコさんはどこからか、大きな紙袋を持ってきて、私に手渡しました。
「ボノノさん、これ……プレゼント」
包装を解いてみると、中から深緑色のドレスが姿を見せました。
「本当はぎりぎりまでサプライズにしたかったんだけどな。
俺と輝子とトレーナーさんからのプレゼントだ。
今日のライブで着てもらおうと思って。サイズは合っているはずだ」
プロデューサーさんは、私とドレスとキノコさんを着替え室へと放り込み、キノコさんが、
「ボノノさんがレッスン終わってから……集まって……三人でボノノさんに似合う衣装を探したんだ……」
と着替えを手伝ってくれました。深緑色のドレスをつけると、
どこからか温かさが、三人の笑顔が浮かんできて、たちまち私の不安や恐怖をも上からつつみました。
「似合っている」
着替え室から出た私を見て、プロデューサーさんが言いました。
「ありがとうございます」
私はステージ端へと移動を開始しました。
ステージへと一歩近づくたびに大きくなる声、熱気、強くなる鼓動、重くなるピアス。
私はドレスの胸元をぎゅっと掴んで、
「プロデューサーさん」
「どうした森久保」
「私、緊張しています。相変わらず人の目は怖いです。
ですがそれ以上に、私は歌って踊りたい。
キノコさんに、トレーナーさんに、プロデューサーさんに、感謝の気持ちを伝えたい。
ですから、見ていてください。私がアイドルになる瞬間を。私、頑張ってきます」
「あぁ、行って来い」
私はプロデューサーさんに背中を押されて、ステージへと上がりました。
歓声が上がりました。「森久保―!」と叫ぶお客さんの声が聞こえてきました。
赤、青、黄色、たくさんのサイリウムが目の前で振られていて、みんなが私を見ています。
曲が鳴り始めました。お願い!シンデレラ。
お客さんが息を飲み、その声が私に聞こえてきました。
息が苦しくなりました。身体が重くなりました。ピアスがずしりと響きました。
それでも私は倒れるわけにはいきませんでした。私は自分のドレスに目をやりました。
深緑のドレスは私の動きに見事に合わさり、美しく映え、私を守っていました。
お客さんが、私を見ている。ピアスを見ている。ドレスを見ている。
身体が温かく、軽くなっていきました。
イントロが終わり、客席に目を向けると、
そこにはキノコさんにトレーナーさん、プロデューサーさんの姿がありました。
三人とも私を心配そうに見つめています。
心配するくらいなら笑っていてほしかったんですけど、と私はひねくれ、
それと同時に、見てもらえているということがたまらなく嬉しくて、
最初の鬼門であるウィンクのシーンが来ると、その三人に届けと、私はウィンクを飛ばしました。
歓声がさらに沸きました。プロデューサーさん達はほっとしたように私を見つめていました。
優しい笑顔でした。三人のその笑顔を、私は一生忘れないでしょう。
歌に踊りを続けました。身体の重さはどこかへと消えていました。
メロディが終わり、曲はサビへと入っていきました。
最後の鬼門。二回目のウィンク。
私はもう一度プロデューサーさん達に飛ばそうと、客席の奥にいるプロデューサーさんを見つめました。
プロデューサーさんは笑っていました。
その笑顔は、私の成長を喜んでくれている。そう確信できました。
目が合ったことに気づくと、口パクで、
「お客さん」とプロデューサーさんが言うので、私は客席へと目を向けました。
彼らは笑っていました。
私を応援しているようでした。
よく見ると、ライブで倒れた時に見た、お客さんの顔がちらほらと混ざっていて、
私は、あのライブを見た後でもまだ私を応援してくれるのだと、
プロデューサーさん達以外にも優しい人は世の中にたくさんいるのだと気づきました。
歌が歌えず、身体は思うどおりに動かなくなっていきました。
それは緊張や恐怖でなく、涙のせいでした。涙が、思いが、私の中からどんどん溢れていました。
私は泣きながら、笑っていました。
何とかこの気持ちを、不格好でもいいから、精一杯の感謝を伝えたくて、
私は泣きながら笑顔で、客席へとウィンクを飛ばしました。
そのぎこちないウィンクに、これでもかというほどの歓声が返ってきました。この日一番の大きな歓声でした。
たくさんの人の笑顔が私をつつんでくれました。
「ライブ成功の思い出に何かプレゼントを」
とプロデューサーさんが言うので、私たちはショッピングモールへと向かいました。
アクセサリー店に入り、深緑色のピアスを見つけ、これがいいとプロデューサーさんに渡しました。
「ピアスでいいのか? お母さんから貰ったピアスがあるだろ」
「これがいいんです」
駐車場へと向かう途中何人かの人々とすれ違いました。
その人たちは私を見ている気がしました。
水色のピアスを見ている気がしました。私とプロデューサーさんを見ている気がしました。
ライブを成功させただけでは、私の恐怖はなくならないようでした。
ですが、私は大丈夫でした。私は一歩、プロデューサーさんに近づきました。
安心感が増しました。プロデューサーさんは変わらず、私の横を歩いてくれました。
車に戻り、丁寧に施された包装を解き、ピアスを取り出しました。
そのピアスは見れば見るほど、ドレスの色に似ていました。
「プロデューサーさん、このピアスを私につけてくれませんか」
プロデューサーさんは私の方を向いて、わかったと私の耳に触れました。慎重な手つきでした。
私は目を瞑りました。緊張はしませんでした。
プロデューサーさんの温もりが私の冷たい耳に伝わっていました。
様々な光景が曖昧なイメージとなって、頭の中で流れていました。
その中にはクラスメイトや母の笑顔もありました。
暗闇の中で私は手を伸ばしました。
ゆっくりと慎重に伸ばした手は、プロデューサーの身体へと当たりました。
固い身体でした。温かい感触でした。
私は目を瞑ったまま、プロデューサーさんの身体を握りました。
プロデューサーさんは何も言わず、水色のピアスを外し、それから深緑のピアスを私の耳へとつけました。
暗闇は明るい色を帯びていきました。
それは赤や青や黄色で、サイリウムのようでした。
お客さんやキノコさん、トレーナーさん、プロデューサーさんの笑顔が花のように、
私の暗闇の世界の中で一気に咲いていきました。
私は目を開けました。目の前にはプロデューサーさんがいました。
プロデューサーさんは笑顔でした。出会ったころから変わらない、私の大好きな笑顔でした。
「似合っているよ、森久保」
プロデューサーさんが言いました。私は嬉しくて、涙をこらえながら、首を振りました。
「森久保ではなくて、乃々って呼んでくれませんか」
プロデューサーさんは言いました。
「似合っているよ、乃々」
私は本日二度目の涙を流しました。
さよなら、森久保。
それは決意の表れでした。私はその決意の元、これからの日々を過ごしていくつもりです。
『常に人に見られている』
『私を見てくれている人がいる』
『さよなら、森久保』
終わり
おつおつ
読んでてこっちまで苦しくなるくらい凄かった
読んでくださり、ありがとうございました。
納得いかないところもありますが、自分の限界を書けた気がします。
読者様に何か一つでも残ってくれればうれしいです。
俺はお前が俺を見たのを見たぞ
「面白いね」が死ぬほどつらかった過去の記憶がガガガがガガガ
乙
乙
部分的にではあるがとても共感できる森久保だった
乙ォ!
読んでてドキドキして面白かったです
乙です。
これは、タイトル的に、さよならアンドロメダがモチーフですか?
さよならアンドロメダはモチーフではないですね。参考にしたのは太宰だったりします
道理で。恥の多い生涯を送ってそうなもりくぼだと思ったんだ
おつ とても良かったです
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません