高森藍子「終末旅行」 (32)
初投稿です
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「わぁ、綺麗ですね」
いつもより少しだけ冷え込んでいる夜だった。
濁った水のような星空の下を、あるいはもう完全にさび付いてしまっている線路の上を二人で歩きながら、アイコちゃんは独り言を空に放った。
顔を上げると、完全な円ではないけれど確かに綺麗なレモン型の月が顔を出しているのが見えた。
「もう十五日ぐらいなのか」
「今は何月なんでしょうか」
「寒くなってきてずいぶん経つから、二月ぐらい?」
僕たちにとって日付はあまり意味をなさなかった。
左向きにしなやかに婉曲しながら、闇の中をどこまでも続くように線路は伸びている。
僕たちが線路沿いにてたどり着いた駅の数々はどれも聞いたことのない名前だった。
線路両脇の金網はほとんど崩落しかかっていて、アイコちゃんはその様子を物珍しそうにデジタルカメラで撮っていた。
どうして写真を撮るのか、アイコちゃんと出会ってから何度も聞いてみたけど、アイコちゃんがまともに答えてくれたことは一回もなかった。
この子はずっと「写真を撮るのが好きなんです」としか言わない。
本当に、写真を撮るのが好きなだけなのかもしれない。
歩き続けてたどり着いた五つ目の駅には緑色の車体が停泊していた。
でも近づいてよくよく見てみると、植物が器用に巻き付いているだけの、赤銅色の電車だった。
電車の中には、特異なものはなんにもなかった。
僕たちではない誰かのために設置されている長い座席。
誰かのためのつり革。ドアの横に仰々しく貼ってある化粧品の広告。
ただ、月の光が作った影が電車の床に映し出されているのが綺麗だった。
他には何も、なんにもなかった。
アイコちゃんも僕も、まるで動いている電車に乗っているかのように、窓からずっと変わらない景色を眺めていた。
ひび割れたアスファルトだとか、ざまあみろ、というような折れ方をした信号機だとか。
見覚えのある、緑と水色の模様の入ったトラックが幾台も横倒しになっている。
今にも倒れそうな地上三十階建てのビルは、僕たち二人が使うにはあまりにも高すぎた。
「昔のゲームでさ」
アイコちゃんはいつもの柔和な笑顔で僕を見ている。
「『世界の半分をお前にやろう』ってセリフがあるんだよな」
「世界の半分ですか」
「そんなに要らないよな」
「要りませんね」
アイコちゃんは口に右手を当てて笑っている。つられて僕も笑った。
アイコちゃんは今日、写真を見せてくれた。
猫の映っている路地裏の写真だったり、歩道沿いのプランターに咲く薄紫色の花だったり。
真っ黄色な朝焼けの太陽だったり、茜色の夕焼けだったり。
彼女の写真は、小さな幸せを集めたようだった。
月明かりを背にして、ロングシートに横になった。
「Pさん」
アイコちゃんが僕の名前を呼んでいる。僕は座席に、顔を埋めた。
「アイコちゃん」
僕たちは、名前を呼びあわないと、眠れなかった。
アイコちゃん。
その名前を呼んだだけで、僕はストンと緊張がほぐれ、深い眠りに落ちていく。
この世界にはアイコちゃんさえいればいい。本気でそう思えてくる。
電車の中に流し込まれた月の光が、液体のように僕たちの周りにひんやりと漂っていた。
月の光と逆方向から射し込んだ日の光で目を覚ました。
体を起こすと、真正面の座席で眠りに就いていたはずのアイコちゃんはいなくなっていた。
全身を悪寒が駆け巡ったけれど、アイコちゃんが電車の中に入ってくるのを見て、僕は長い溜息をついた。
僕たちは勝手にいなくならない、とお互いに約束をしていた。
その約束は僕たちをつないでいる唯一の糸だった。
「Pさん、おはようございます」
両手にマグカップを持ったアイコちゃんが、右手のそれを僕に手渡した。
ティーバッグを無意味にぐるぐるかき回しながら、その紅茶を少し啜ってみた。
古いティーバッグから抽出された紅茶は、飲めるほどには不味くもなかったけど、すこしだけ泥のような味がした。
アイコちゃんは窓の外を眺めながら、いつものようにゆっくり紅茶を飲んでいる。
「アイコちゃん」
紅茶をごくりと飲み込んでから、アイコちゃんは床にマグカップを置いた。
僕がバックパックに手を突っ込んでかき混ぜているので、アイコちゃんは不思議そうな顔をして僕をじっと観察している。
僕が取り出した平べったくて四角い箱を見て、アイコちゃんの顔はぱぁっと明るくなった。
「チョコレート、ですね」
「昨日思い出したんだ、二月半ばに食べようと思ってこれを残してたんだ」
アルミホイルをはがしていくと、光沢のあるチョコレートが顔を出した。
真ん中で真っ二つに割って、アイコちゃんに手渡した。
「甘いですね」
「甘いな」
こんな世界でも、チョコレートは甘いままだった。
「ところで、どうして二月半ばなんですか」
「どうして?」
「別に二月じゃなくても…」
半分ぐらい声に出したところで、アイコちゃんは、あっ、とかすかな声を上げた。
「バレンタインですね」
「そ」
今更バレンタインがどうだなんて、あまりにも馬鹿げていた。
こんな世界なのにまだ慣習に縛られるのは滑稽だったけど、そうでもしないと自分がどこにいるのか分からなくなるようで、不安だった。
不安を感じているのも馬鹿げていた。
僕は今更、何の心配をしているんだろう。もう失うものなんて、何ひとつないのに。
僕たちが生きていたころの僕はいったい何だったんだろう。今更考えても仕方がないけど。
なにもかも、今更だった。
チョコレートの面積には限りがある。
アイコちゃんは僕の二倍ぐらいの時間をかけて板チョコの半分を食べきった。
マグカップの中の残りの水を飲み切って、アイコちゃんは立ち上がる。
「そろそろ行きましょうか」
僕らはそこで、名前も知らない駅と緑色の回送電車に別れを告げた。
もうこの風景を一生見ることはないんだと思うと、少しだけ胸が痛む。
方位磁石の指すままに線路を南下する。
線路へ下りて、生ぬるい鉄錆の上を、踏みしめるように歩いた。
かたん、かたん、と音が響いている。
今日もどこかで街が壊れている。平和だな、と思った。
平和の裏側にあるものを、僕たちは知らない。
「最近、雨、降りませんね」
アイコちゃんは干からびた砂利の上を歩いている。
今日もライトグリーンの靴だった。
やっと、お散歩にちょうどいいシューズを見つけたんです、と嬉々として話す彼女をよく覚えていた。
アイコちゃんが空の群青色を見上げるので、僕もつられて上を向いた。
「雨、降ってほしくないな」
空には相変わらず雲ひとつとして浮かべられていない。
雨が降っただけでこうやって彼女と歩けなくなると思うと、不安だった。
雨ごときで揺らいでしまうほど、僕は脆かった。
アイコちゃんは今日も写真を撮っている。
真ん中で真っ二つに折れた踏切の遮断機の棒を、物珍しそうにカメラに収めていた。
線路の側へ倒れこんでいる電信柱の上に、意味もなく立ったりしていた。
散乱したガラスの欠片を、きらきらしてて綺麗ですね、と言いながら撮っていた。
彼女の見つけた景色は、どれもこれも綺麗という言葉でしか言い表せないほど綺麗だった。
何か不思議なものが見つかるたびに、僕はアイコちゃんと会話を弾ませた。
彼女が写真を撮ろうとするたびに、僕は救われる気持ちになった。
こんな世界でも、いくらでも綺麗なものはあるんだと、何回でも笑顔になれるんだと、彼女が教えてくれているようだった。
空っぽになってしまった僕にとって、空っぽになってしまったこの世界にとって、彼女がいることが唯一の救いだった。
「Pさんは、どうしてPさんなんですか?」
アイコちゃんが見つけた図書館の中、ライム色の水筒を取り出しながら、アイコちゃんは僕にそう尋ねた。
僕はアイコちゃんの質問の意図がよくわからなかった。
「Pさんは、どうしてPさんって呼ばれていたんですか?」
ああ、そういうことか。
僕はアイコちゃんに出会ったとき、Pさんと呼んでくれ、そう呼ばれていたから、と話した。
「僕はね」
図書館の中に舞う埃が、開け放たれた窓からのぞく光に照らされて、ちらちらと光っている。
「プロデューサーをやっていたんだ、ちょうどアイコちゃんぐらいの歳のアイドルたちの」
アイコちゃんは少しだけ目を見開いて、息をのんだ。
「プロデューサー、だったんですか」
「そ。それでPさん」
アイコちゃんはぼんやりと虚空を見つめていた。
きっと僕のことを案じたのだろう。でもそれは、お互い様だった。
また、歩きましょうか。アイコちゃんはそう言って立ち上がった。
彼女の目には再び光彩が宿っていた。
僕たちは線路の上を歩き続けた。
鉄道路線沿いの風景は一向に変化がなく、無限に同じところを歩き続けているような心地だった。
アイコちゃんは数メートル歩くごとに写真を撮っていた。
彼女は相変わらず幸せそうな顔でカメラを構えているので、なんだかすべてがどうでもよく思えてくる。
僕らは今日も、線路の上で夕焼けを眺めた。
昨日も、おとといも、はたまたその前もアイコちゃんは夕焼けの写真を撮っていたのに、今日も夕焼けの写真を撮っていた。
僕らは同じ一日を繰り返していた。
いつものように太陽が沈んでいくことに、かすかな安心感を覚えた。
少し大きな駅に、昨日と同じように緑色の電車が停まっていた。
ひんやりとした車内に腰を掛け、古びた懐中電灯を灯した。
昔の僕は何のために生きていたんだろう。
きっと、生きるために生きていたんだと思う。
何がしたいわけでもなく、でも何か食べないと死んでしまうし、何か食べるためには働かなければならなかったから、働いていた。
アイコちゃんにそのことを話すと、アイコちゃんは、幸せは、自分の手で集めるものですよ、と返事をした。
彼女のデジタルカメラには、彼女が集めた幸せというものが詰まっているんだと思う。
アイコちゃんがたくさん写真を撮る理由が少しだけ分かった気がした。
大きな満月が窓から覗いている。
今日もロングシートに横になり、互いの名前を呼びあった。
一時間もしないうちに、夜の藍色は、僕らを現実から押し出した。
海を見に行きたい、とアイコちゃんは言っていた。
鉄道沿いに南下することを提案したのも彼女だった。
そのときの僕はなぜアイコちゃんが海に行きたがるのか分からなかった。
今でも確かなことはわからないけれど、海の写真を撮るためなのかもしれない。
でも、彼女がそこまでして海の写真を撮りたがる理由がわかるほど、僕は彼女を知らない。
出来れば、海にたどり着きたくなかった。
海に着いてしまったら、また根無し草になってしまうと思った。
ずっとアイコちゃんと鉄錆の上を歩いていたかった。
永遠が僕に与えられていないことは分かっていたけれど、その事実を僕は認めたくなかった。
僕が目を覚ますときアイコちゃんはたいていは先に起きていて、紅茶を作ってくれているんだけれど、今日はいつもと違って、僕が目を覚ましたときにアイコちゃんは寝ていた。
髪の毛があちらこちらに飛び跳ねていて、なんだかおかしかった。
紅茶、どうやって作るんだろ。
いつものティーバッグはアイコちゃんのライトイエローのリュックサックの中にあるようで、彼女に断りも入れずに鞄を漁るのは気が引けた。
僕はアイコちゃんが起きるまでの長いような短いような時間を、すべて彼女の寝顔をぼんやりと眺めるのに費やした。
マリンブルーの空が真昼の太陽に染まるころにアイコちゃんは目を覚ました。
寝ぼけたアイコちゃんはいつもと違ってなんだか新鮮だった。
起き上がった彼女はリュックサックからティーバッグを取り出すと、てきぱきと紅茶を作る。
マグカップは今日もひんやりとしていたし、紅茶は相変わらず泥の味がした。
僕らにとって、大事なのは味じゃなかった。
今日も枕木の上を歩いた。僕らの足音が世界中に響いている。
「あのさ」
アイコちゃんは僕の方へとゆっくりと振り向いた。
長い髪の毛がふわりと揺れて、かすかな音を立てる。
「なんで、海に」
アイコちゃんにとって答えるのが難しい質問だったみたいで、彼女はうんうんと唸った。
ひとしきり腕を組んでから、アイコちゃんは口を開いた。
「そうですね……綺麗だから、ですかね」
「……そっか」
単純に風景を見たいという理由は、僕に否定できるものではなかった。
僕が思ってるほど、彼女は複雑じゃないのかもしれない。
「海、綺麗だといいな」
「綺麗ですよ。海、ですから」
それから僕は少しだけ、足を速めて歩いた。
少しだけ、海に行きたくなったから。
僕たちは灰色に染まった街の線路を歩き続けた。
ひび割れた道路だとか、ぺしゃんこになった自動車だとか、無重力のように生え広がった街路樹とかが、僕たちの日常の色をしていた。
回らない室外機も、点かない信号機も、そこにあって当然のものとして僕らの目には映った。
アイコちゃんと喋りながら歩いていると、いつの間にか日が暮れている。
そんな日常が何日も続いた。
「海、近いと思います」
プラスチックのように無機的な曇天が浮かんでいる日だった。
僕たちはいつものように飽きもせず砂利を踏みしめていた。
彼女がそう告げたのは、本当に突然のことだった。
「そうかな」
受け入れたくなかった。
「ええ、もうすぐです」
何の根拠もないはずなのに、彼女の語調は確信めいている。
今日だけは、にこりと笑うアイコちゃんの顔を見たくなかった。
「それまでに雨、降らないといいな」
真っ白な雲は執拗に僕たちに覆いかぶさっている。
冬が湿った風を僕たち二人の間に流し込んだ。
「太陽、出そうにないですね」
そう呟いて空を仰いだアイコちゃんも、笑顔だった。
アイコちゃんの笑顔をまっすぐ見つめることができなかった僕は、たまらず空を見上げた。
太陽は分厚いままの雲に隠れて見えない。
「都合のいいときだけ太陽が出てほしいだなんて、都合がいいな」
でも、都合のいいままでいられるなら、都合のいいままでいた方が絶対に得だよな。
誰にでもなく放ったひとりごとは、誰にも聞かれずに消えていく。
どうせ二人しかいないんだし、ひとりごともふたりごとも変わらないな。
でも、彼女がちょっと困った顔で笑うのを見て、ひとりじゃなくて良かったな、と思えた。
アイコちゃんとの旅の途中で、彼女がいなくなる夢を何度も見た。
それは彼女が別れを告げて僕の前からいなくなる夢であったり、何の前触れもなく彼女が姿を消す夢であったり。
決まって彼女は霧のように姿を消すのだけれど、僕は夢の中で、彼女が消えていくのを、ただ静かに眺めていた。
「Pさん、起きてください」
海に近づくほど、アイコちゃんの消える夢を見るペースが速くなっていく。
悪夢で目覚めた僕は、一向に収まらない胸の鼓動を感じながら、アイコちゃんからマグカップを受け取った。
二人が紅茶をすする音だけが電車の中に響いていて、いやに静かだった。
アイコちゃんは猫のように虚空を見つめていたし、それは僕も同じだった。
こういうとき、僕はどう彼女に話しかけるべきか分からない。
一秒の狂いもなく彼女という存在は僕のすぐそばにあるのに、彼女にとって僕は世界にいる他の誰よりも近くにいるはずなのに、心の距離は地球の裏側に立っているかのように遠いように思えた。
「……アイコちゃん」
僕は意を決して、話しかけた。
彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、慌てて笑顔で僕の方を向いた。
「海さ、見終わったら」
僕は固唾を飲んだ。
アイコちゃんの両眼を見据える自信はなく、床に置いたマグカップに視線を落とした。
「見終わったら、どうする?」
それは僕にとって意味のある質問だったんだけど。
「そうですね……どうしましょう?」
あんまり考えてませんでした、と彼女は照れながら口元に笑みをこぼした。
アイコちゃんにとっては、どうでもいいことだったみたいで。
僕は、彼女のように笑うしかなかった。
砂利の上を小走りで駆けていく彼女のあとを、ゆっくりとついていった。
何の変哲もない横雲の空を写真に収めるアイコちゃん。
笑顔でたわいもない話をするアイコちゃん。
ときおり寂しそうな顔をするアイコちゃん。
本物の彼女はどこにいるのだろう。
僕は彼女のすべてを理解することはおろか、彼女について何一つわかることがなかった。
僕の横で生きている彼女は、ホログラムのような存在に思えた。
僕らは真っ二つになった世界に生きていた。
お互いに地球の裏側を、延々と同じ方向に歩き続けていた。
冷え切ったクリーム色の電車の中で一晩を過ごした日、アイコちゃんはまだ夜明け前という頃に僕をたたき起こした。
懐中電灯の光を顔に当てられて目を覚ました僕は、当然いい気はしなかったけれど、困ったような顔で彼女がくすくすと笑っているのを見て、彼女が笑ってるんだしいいか、と思えた。
けれど、彼女がわざわざ太陽の登る前に僕をたたき起こした理由がわからなかった。
電車の窓から覗く空は淡い闇の色だった。
鉄道は上り坂へと続いている。
夜明け前の薄明りの中を、いつものようにゆっくりと歩いた。
「なんで起こしたの」
「まぁ、いいじゃないですか」
僕はしきりに理由を尋ねるのだけれど、彼女はやっぱり理由を教えてくれない。
アイコちゃんはいつも、大事なことをひた隠している。
そのひとつやふたつくらい、いつか教えてくれるのかな。
永遠に教えてくれないような気がして、僕はやるせない気分になった。
鉄道はゆるやかにカーブを描きながら、坂道を登っていく。
僕より先に坂道を登り切ったアイコちゃんは、今まで見たことのないような笑顔で僕を振り返った。
「Pさん」
空は白み始めている。
「結局、雨、降りませんでしたね」
アイコちゃんは、右ポケットから青色のカメラを取り出した。
息をのんだ。
彼女の吐き出す息の白さが、彼女の一挙手一投足が、あるいは形容のつかない色をした空が、僕の全身を硬直させる。
足を進めたくなかったけど、足を進めるしかなかった。
急斜面を登り切った瞬間、本当にあっけなく、眼下に海が現れた。
アイコちゃんは一段と嬉しそうな声を弾ませている。
僕は夜明け前の寒さに震えていた。
「見たかったんです」
さび付いた線路の上に、アイコちゃんは何かを待つかのように座り込んだ。
僕はその場にへたり込む。
「今までは、なかなか海なんて見に行けるものじゃありませんでしたから」
空が青みがかり始めた。
冬の風が怯えるように僕らの周りを漂い始める。
猫のように背中を丸めたまま、アイコちゃんは僕にもたれかかってきた。
初めて、彼女の体温を感じた。
地球の裏側を歩いていた彼女と、初めて出会えた。
アイコちゃんは口を開く。
「Pさんと、見たかったんです」
不安。恐怖。悦。感傷。苦悶。
無数の感情が僕のひとつしかない心の中でぶつかりあっている。
それは無数の色の絵の具をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような色をしていた。
アイコちゃん。
名前を呼びたい。
アイコちゃん。
名前を。
「アイコちゃん」
呼ばせてほしい。
「Pさん」
瞬間。
僕ら二人の前に、花火のような閃光が瞬いた。
「Pさん、見てください」
藍色の水平線から、真っ赤に燃えた太陽が、すこしだけ姿を現した。
太陽が、海を、街を、僕らを、世界を、燃えるような赤色に染め上げる。
「見たかったんです。朝焼けと、海を」
水平線はもう既に、一滴の混じりけもない緋色の炎に溶け始めている。
夜と朝の境界で雁字搦めになって線路の上から一歩たりとも動けない僕をよそに、アイコちゃんはいつの間にか立ち上がって、坂道を進んだ先で太陽の写真を撮っていた。
コバルトブルーの小型カメラが、かしゃん、かしゃんと無機質なシャッターの音を奏でる。
音が耳の中で反響しては消えていくのを繰り返していた。
「Pさん」
青白い息とともに彼女は言葉を零す。
泣きそうな顔で、でも心の底から幸せそうな笑顔で、アイコちゃんは僕を見ている。
「幸せは、自分の手でかき集めるものですよ」
アイコちゃんの後ろから射し込む朝日の光が、彼女の全身の輪郭を赤く滲ませた。
「……あのさ」
太陽を背に、彼女は振り返る。
「海、見終わったら」
震える声で、言葉を紡ぎ出した。
「また、街に」
無数の光の帯が、僕とアイコちゃんを貫く。
「また、街に戻って、景色を見に行こう」
祈るような気持ちで、アイコちゃんの顔を見上げる。
アイコちゃんは、こくりと頷いた。
これにて完結です。
読んでいただきありがとうございました。依頼出してきます
世界観まんまか
とても素敵な文章でした。
次の作品を楽しみにしています。
今更ながら面白かった
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