鷺沢文香「匂い」 (23)
・モバマス・鷺沢文香さんのSS
・ちょー短い
・ふみふみ誕生日おめでとう
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この匂いが、好きです。
プロデューサーさんと私は、今日も古書店へと来ていました。今まで幾度となく通う店。たぶんこれからも、私たちは通っていることでしょう。
そんなひと時。
プロデューサーさんに見出されてから、6年が経ちました。
私も25歳。いろんなことがあったのでしょう、たぶん。でも『たぶん』と言えてしまうほど、私の中身は変わっているように思えません。
おそらくスカウトされたころの私と、同じままで。
ありすちゃんもすっかり18歳の、とても華があるアイドルになっています。
もう『ありすちゃん』なんて呼べませんね、ありす『さん』、いえ橘さんのほうがいいでしょうか。
何かとご縁があって、彼女とお仕事をする機会が多かった気がします。ですから、ありすちゃん……つい癖で『ちゃん』付けで言ってしまいますが。
そのありすちゃんの成長を、私は身近に見てきたとも言えますし。逆に、ありすちゃんは私たちのことをよく見てくれていた気が、します。
先日のことでした。ありすちゃんに言われたのです。
「文香さん」
「……なんでしょう?」
「……もう、いい頃合いなんじゃないですか?」
何を言ってるのかと、誤魔化す手立てもあったでしょう。
でも、決して長くはない間見てくれていたのです、私と、プロデューサーさんのことを。
一言で逃げおおせるほど浅い関係ではありません。彼女との間も、プロデューサーとの間も。
ですから私は、彼女に頭が上がらないのです。
「そう、でしょうか」
「そう思います。私だって、もう自分の意志でどうにかできる年齢になってますから」
ありすちゃんが6年前から温め続けていた、小さな灯り。それを絶やすことなく、彼女は彼女のプロデューサーとの縁(えにし)を、大事に、大事に育んできました。
そんな彼女が私に言うのです。時は至れり、と。
私にはその想いがすとん、と。穏やかに波紋が拡がっていくのでした。
「そうですね……分かりました」
私はありすちゃんに答えます。するとありすちゃんは、柔らかく微笑んで。
「頑張ってください」
と、私をいつもの古書店へと送り出してくれたのでした。
かつて私は、舞い立つ紙の繊維と擦れたインクの交じり合う匂いの中で、一日を過ごしていました。
その私を外へ引き上げてくださったのは、私のプロデューサーさんでした。
文字の世界から、アイドルという実在の世界へ。全く趣を異にする世界で、私は立っていることすらおこがましく思えました。
でもプロデューサーさんは、急ぎもせず説くこともせず私に寄り添い、話で、行動で、表現してくださいました。ただ真っすぐ、一歩ずつ進んでいけばそれでよい、と。
目を離せばすぐ文字の世界へ逃避する私を、呼び戻しもせずただ横に座り、私の気が紛れるまで仕事をしつつ珈琲を嗜んでいました。
文字に視覚を奪われ、思考が聴覚を遮断し、思索の世界へと耽る私の嗅覚に、プロデューサーから漂う珈琲の香りが定着していきました。
そしてその匂いが、私は好きなのです。
匂い。五感の中でも特に刷り込まれていく感覚、私にはそんな気がしてなりません。
目を伏せると思い出せるほど、私はあの珈琲の香りに囚われているのだと、思うのです。
デビューして間もない頃の、夏。私は郊外で写真撮影の仕事を行っていました。
人様に写真を撮られることがあまりに恥ずかしく、そして駐車場の焼けるようなアスファルトの匂いに、私は具合を悪くしてしまいました。
撮影はしばし休憩に。せっかくのお仕事なのに、私は多くの方にご迷惑をかけてしまいました。
スタッフ休憩用のマイクロバスで横になる私に、ひんやりとした感触が。
プロデューサーさんが手に何かを持っているのでした。
「あんまり体を冷やしすぎるのはよくないが、ちょっとだけでも食べるといい」
その手には、ソーダ味のかき氷が。
「……ありがとう……ございます」
「いや、このくらいどうってことない」
ゆっくりと起き上がり、せっかくのご好意を受け取ります。でもかき氷は一つしかありませんでした。
「……プロデューサーさんの、分は」
「ああ、俺はこれ」
プロデューサーさんの反対の手には、紙コップで湯気を立てているホットコーヒーが。
夏の盛りに熱いもの、ですか。
「コーヒー、お好きなんですか?」
「ん? ああ、まあこれがないと生きていけないってほどじゃないけど。でもないと、何となく口さみしいくらいには」
「……ふふふっ」
その言いぶりが妙に可笑しくて、私はつい笑ってしまいました。
そしてプロデューサーさんは頭を?きつつ。
「夏にホットって変……なんだろうなあ。でもやっぱりコーヒーは香りが立たないと、さ」
そう言い訳をするのです。
アスファルトとソーダ風味と、珈琲。
初めての夏のお仕事は、私をプロデューサーさんへ一歩近づけることとなった気がしたのです。
――夏の匂い懐かしい
――あの人の香り
――雨上がりのアスファルト
――むせかえるような
――日々の彼方
都心に珍しく雪が降り積もった時。私は相変わらず事務所で読書に耽っていました。
この頃にはもう既にお仕事も順調に回っていて、私もだいぶアイドルらしくなれていたのかもしれません。
それでも、中身は早々に変化するものでもありません。本は私の一部なのですから、切り離すことなど考えられないのです。
プロデューサーさんはこんな私を、ありのままでいいと賛同してくださいます。
私を形作ったものなのだから胸を張って、堂々と読書すればいいと。
アイドルとしてどうなのだろうと思うこともありましたが、数々の本が私を私たらしめてくれた事も確かです。
ですから私は、プロデューサーさんの賛意に甘えることとしたのです。
するとどうでしょう。
かつての私からすれば、面白みのない没個性の趣味であると勝手に決めていたことも、ファンの方々からすれば知的で魅惑に満ちていると、好意として解釈してくださるようになっていました。
でも私は知っています。これもプロデューサーさんの戦略のたまものなのだろう、と。
読書する私に、仕事をしながら珈琲を啜るプロデューサーさん。
それは時間をかけてゆっくりと、日常になっていきました。
ことり、と。私の傍らにマグカップが置かれます。
「……これは」
「白湯。乾燥してるからゆっくり水分は取っておけよ」
そういうプロデューサーさんは、いつもの珈琲を手に。
なぜ私には珈琲を渡していただけないのでしょう? そう疑問をぶつけたこともありました。
プロデューサーさんは少し困り顔をして答えたのです。
「いや、もし万が一こぼしたときに、さ。本が大惨事にならないだろう?」
万が一のことを慮り、本に目立つしみなど作らぬよう配慮していただいたものだと知り、私は少々驚いてしまいました。
もちろんプロデューサーさんが配慮していただいたことには大いに感謝をするのです。しかし。
私も、プロデューサーさんの淹れた珈琲の味が知りたい。
いつしたそういう想いを抱くようになりました。
白湯の煙と珈琲の煙、甘くほろ苦く溶け合って視界を煙らせます。やがて時が過ぎ。
私は、その想いが恋の始まりであることを知ったのです。
本の世界ではない現実。そこに確かに居る、私のプロデューサーさん。
珈琲の味だけでなくて、もっと、もっと。
私の目は活字を追うことから、プロデューサーさんを追うことにいつしか変化していったのでした。
白湯の仄かな甘さと、珈琲の苦さ。その匂いが私を苦しくさせると、知りました。
――冬の匂い懐かしい
――あの人の香り
――白くけむるスチームで
――汗をかいた窓
――悲しすぎて
幾度となく季節が過ぎ、もう6年が経ってしまいました。
それだけの時間があればせめて、想いを形にできる機会も作れたのではないかと。でもそれは未だに叶いません。
アイドルだから、と、プロデューサーだから、と。自分に都合のいい言い訳をして先送りしてきたから。
分かっているのです、結局私自身が踏み出さなくてはなにも始まらないのだ、と。スタート以前、なのです。
ため息をつく私に声をかけてくれたのは、長いこと仕事をご一緒してるありすちゃんでした。
「プロデューサーさんのことですか?」
「……分かるのですか?」
ありすちゃんは「分からないほうがおかしいと思いますが」と言います。そんなにはっきりと顔に出ているのでしょうか。
でもありすちゃんは言いました。
「文香さんとはもう6年近いお付き合いですから、自然と何を考えているか、乏しい表情でも分かるようになっちゃいました」
曰く、最初は何を考えているのか全く分からなかった、と。
仕事をしていくうちに、私の表情が変わるさまを理解できるようになってきた、と。
そこから表情と気持ちを結び付けられるようになってきた、と。そして。
「私もその……恋を、してますから……」
容姿は18歳であっても、その言葉の端々に含む色は、出会ったばかりの頃のありすちゃんと何ら変わらないものでした。
なるほど、ありすちゃんも彼女のプロデューサーと恋に落ちている、と。
彼女は彼女なりに、私の気持ちとありすちゃんの気持ちをリンクして見てくれていたわけです。
「それは……ありすちゃんのプロデューサーさんに、ですね?」
「……はい」
「告白、するのですか?」
ありすちゃんの回答は、私に衝撃を与えました。
「いえ、ちょっと違います……もう告白はしています、6年前に」
「ろ……6年前、に?」
「あの、『待てますか?』って……そう、言いました」
初めてお仕事をご一緒した頃から、どこか大人びた雰囲気を持っている子だと思っていましたが、まさか。
曰く、プロデューサーさんは本気と捉えてくれなかった、と。
でも諦められないから、何度も何度も、と。
ようやく受け入れてくれる兆しが見えてきた、と。
「6年……長かったです……もうこの春には、高校卒業ですよ」
私はありすちゃんの告白を聞いて、何かすとん、と。胸に落ちるものを感じました。
私はありすちゃんのように、何かをやってきたでしょうか。私は、努力したでしょうか。
私は……
「でもそんな6年でも、私の気持ちは少しも褪せなかったんですよ、文香さん。むしろもっと大きく膨らんじゃいました」
そう言ってありすちゃんは笑います。
私の中に、ひとつの気持ちが灯りました。『羨ましい』と。
気が付いてしまったのです、6年の重みに。その間に私の気持ちも膨らんでいたことに。
「文香さん」
「……はい」
「今日も古書店でデート、ですか?」
「……そうですね……デート、ですね」
今までどこか、私は自分の気持ちに蓋をしていたのかもしれません。
でも思い起こせば、予兆はあったのかもしれません。
私が好きな匂いだからと、およそデートには似つかわしくない場所であっても、プロデューサーさんはいつも一緒に行ってくださいました。
地方の仕事で時間ができては、各地の大学の近くにある古書店を巡ったり、近くの喫茶店で珈琲を飲み比べてみたり。
決して華やかさはなくても、私の楽しい場所にはいつもプロデューサーさんが居てくれました。
私の気持ちが膨らんでいくのをひょっとしたら、プロデューサーさんも気づいていたのかもしれません。
そして。
ありすちゃんは、私に告げました。
「文香さん」
「……なんでしょう?」
「……もう、いい頃合いなんじゃないですか?」
――風の匂い移り行く
――季節の香り
――気づくたびに蘇る
――想いがあるから
いつもの古書店でふたり、佇んでいました。私と、プロデューサーさんと。
今日は、私が生まれた日。誕生日プレゼントを選ぶには、あまりふさわしい場所ではないかもしれません。
でもこの擦れたような匂い、そして隣から漂ういつもの珈琲の匂い。
私の好きな匂いです。
「……プロデューサーさん」
「ん? どうした文香?」
「私の戯言、聞いてくれますか?」
私は、古書に囲まれたこの匂いが好きです。
私はこの匂いに育まれて生きてきました。狭い中でも、活字の中に拡がる海は、私を興奮せしめるものでした。
私は十分その中で満足でした。
でも、プロデューサーさんはそんな私を新しい世界へと運んでくれました。
活字だけじゃない、もっと五感に訴える大きな海を、私に与えてくださいました。
私はその海原に尻込みをしていました。でも、そこから踏み出して航海に繰り出せたのは、プロデューサーさんのおかげです。ありがとうございます。
プロデューサーさんとは、もう6年のお付き合いになりますね。
ありすちゃんがさっき言ってました。6年は長い、って。
私には6年という時間が長いのかどうか、正直分かりません。でもひとつ、気づいたことがあります。
それは、この6年間の日々は、プロデューサーさんなしにはあり得ないものだと、いうことです。
プロデューサーさんに引き上げていただかなければ、私は狭い世界に今でも生きていたかもしれませんし、ましてやアイドルという世界など、知る機会はなかったでしょう。
そういう日々を過ごして、私は今思うんです。
私は、ひとりで生きていくことなどできない、と。
こうして引っ張ってくれる、あるいは羽を休める場所になってくれるプロデューサーさんが居て、私は私でいられるんだ、と。
気が付けば、私はプロデューサーさんに手を握られていました。
「……あ」
「……嫌だったか?」
「……いえ、むしろ嬉しいです」
今日は私の生まれた日です。またひとつ齢を重ねます。
でもそれを安心して迎えられる、それはプロデューサーさん、貴方のおかげです。ありがとうございます。
今日は特別な日ですから、特別なことをしても許されるのではないか、と。勝手に思っています。
ですから。
6年間は果たして、長かったのでしょうか?
ありすちゃんが私の背中を押してくれました。私は、私が今言えることを、言うだけです。
プロデューサーさんの顔つきが変わりました。
真剣で、そして穏やかな表情で。私はその表情に安堵するのでした。
プロデューサーさんはおっしゃいます。「本当なら俺が言うべきところなんだろうけど、今日は文香が特別なことをする日だろ?」と。
その通りです、これから私は特別なことを言います。
叶うならば一番欲しいものを、プロデューサーさんから戴けたら……
「プロデューサーさん」
「私の一世一代の告白、聞いてくださいますか?」
その、応えは……
――時の匂い遙かな日々に
――見ていた
――茜空に映るような
――恋よもう一度
(おわり)
終わりです。ありがとうございます。
やっぱりラヴストーリーが好きです。文香さんおめでとうございます。
皆さんの琴線に触れれば幸いです。
では ノシ
乙です。
ありすちゃんサイドも気になる……。
もう1か所修正があります。
>>9 8行目 ×「いつした」 → ○「いつしか」
よろしくお願いします。
おつ、スッと胸に入ってきてよかつた
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