鷺沢文香「短冊に綴った空想文学」 (22)
・これはモバマスSSです
・地の文が多いです
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ふぅ、と一息つき。
私は顔を上げた。
手にした本に当たる陽の光が橙色になっている事に気付き、ページを捲る動作を一旦停止する。
時計に目をやれば短い針は真下を回っていた。
かたかたかた、とキーボードが叩かれる音だけが響く夕方の事務所。
他のユニットメンバー達は既に帰り、私の読書を妨げるモノは残っていない。
誰かに話し掛けられたところで、私の読書が中断されるわけではないけれど。
少しばかり…熱中し過ぎてしまいましたか…
読んでいた恋愛小説がひと段落つき、長時間の読書によって乾ききった喉を潤そうと一旦本を置く。
固まった膝を無理やり動かし、腰をあげる。
出来る限り音を立てない様に、出来る限り静かに。
彼が私の読書を邪魔しなかった様に、私は彼の仕事を邪魔してはいけない。
ゆっくりと、静かに冷蔵庫へ。
キーボードの音が止まるくらい、ゆっくりと…
「もう、読み終わったのか?」
無駄だった様だ。
「…ひと段落しましたので、飲み物を…プロデューサーさんは、何か…?」
「じゃあ、俺もお茶をもらおうかな」
…はぁ。
彼が珈琲好きである事は知っている。
本当は珈琲を淹れてあげようとひっそり練習していたのだけれど、本人の気遣いによって阻まれてしまった。
ここで無理に変える必要もないので、今回はオーダー通りにしておこう。
機会はいくらでもあるのだから。
普通に歩き、冷蔵庫を開ける。
選ばれそうなお茶のペットボトルを傾け、二つのコップに氷と共に注ぐ。
たぷ、たぷと揺れる表面には無表情な私の顔が歪んで映っていた。
「どうぞ…」
「ありがとう。あと少しで俺も終わるから」
…まったく、貴方は全てお見通しですか…
少しニヤけそうな感情を抑えながら、コップをデスクへ。
再び聞こえてきたキーボードの音をbgmに私もソファへ戻って本を取る。
挟まれた栞のページを開き、文字を追う。
「恋愛小説だったか?最近の文香にしては珍しいな」
「…私にも、そういう事に興味も憧れる事もありますから…」
即座に手を止め、再び目を上げる。
まったく、彼は私を何だと思っているのだろう。
確かに昔から読書ばかりしていたせいでそう思われる事も少なくなかったけれど、当然ながら恋愛小説だって読むのだから。
そしてその事に関しては、彼が一番良く知っている筈なのに。
改めて文字の世界に集中しようと一旦少し伸びをする。
視界に再び映るデスクの向こうでは、彼が一生懸命パソコンと格闘しているはず。
なんとなく目を向ける。
…視線がぶつかった。
「…どんな話なんだ?随分と熱中して読んでいたみたいだけど」
「見て、たんですね…」
「ああ、ついな。おかげでしばらく仕事が進まなかったけど」
…ズルい人。
これでは…もう今は、本に集中出来ません…
つい、と横へ目をそらせば部屋には短冊の吊るされた笹が置いてあった。
色とりどりの願いが綴られた、色とりどりの短冊。
おそらく既に、私以外の人は吊るし終えたのだろう。
そう、明日は七夕。
あれから丁度一年。
貴方は今も、覚えていますか?
そして…
「この本は…」
まるであの時の私達の様な。
そんな、お話。
あれは、五月も終わる梅雨始めの昼下がり。
少しずつ増える雨の予報に溜息を増やす時期。
あまり人の訪れない小さな古書店にて。
叔父の手伝いで店番をしていた私は、なんとなく恋愛小説が読みたくなって本を探していた。
少し埃のかぶった本棚のアーチをくぐり、のんびりと背表紙を眺めて歩く。
どうせなら、普段は読まない様なモノがいい。
どこにどんな本があるかは大まかに覚えているから、逆にどんな本があるか分からない棚を探す。
手の届く範囲の本なら知っているモノが多いから、上の方の…
一冊の本が目に映る
背表紙に書かれた文字は『恋のはじまり』。
幾ら何でもそのまま過ぎるだろうと思ったけれど、なんとなく気になって本に手を伸ばした。
「…ん…う…」
…手が、届かない…
もう一度手を伸ばすも、一瞬で腕が伸びる訳もなく当然掌は背表紙に触れられない。
少し跳ねてみるも、ギリギリのところを手が掠めていった。
もう少し高く跳ねてみるも、背表紙に指先が触れたところで離れてしまう。
…はぁ
こうなればやけだ。
次で必ず取ってみせる。
踏み台なんかには頼らず、なんとしてでもこの本を…
「本、取りましょうか?」
「…え?」
私が返事をするよりも早く、横から伸びた腕が本を私の前まで下ろしてくれた。
まだ若い、スーツ姿の男性。
そしてその腕の主の姿を見て、ようやく私は状況を理解する。
「あ…ありがとう、ございます…お客様、ですよね…?」
「まぁ、そうですね。貴女はこの古書店の店員ですか?」
コクリ、と頷き本を抱えてレジの方へと向かう。
なんとも恥ずかしいところを見られてしまったわけではあるが、どうせお互い直ぐに忘れる筈だ。
前髪の長い私は男性の顔を見てはいないし、男性も私の顔を見ていないだろう。
けれど。
背を向け離れる私へ向けられた男性の言葉は、忘れられないものとなった。
「あ、あの。アイドル、どうですか?」
…この人は、一体何を…?
質問の意味と意図が分からなかった私は、戸惑ってしまった。
アイドルが、どう?
残念ながら私はアイドルでは無いので、どんなモノなのかは分から無い。
そう言った事は、アイドル本人に尋ねてほしい。
…と、すると…
「…アイドル雑誌を…お探し、でしょうか?申し訳ありませんが…当店はアイドル雑誌の取り扱いは…」
「あぁいえ。ええと、そう言う訳では無く…」
どうやら違ったらしい。
だとしたら、他に一体…?
「私、こういう者でして…。アイドルに、興味はありませんか?」
差し出された名刺に目を向けてみれば、346プロと書かれていた。
本にしか興味の無い私でも、346プロと言うのは聞いた事がある。
それくらい有名なプロダクションだ。
つまりこの男性は、その事務所のプロデューサーらしい。
そんな人から、アイドルに興味は無いか?と問われた。
それが意味する事は…
…私が…アイドル?
「…え?ええと…その、お話が良く呑み込めないのですが…」
有り得ない。
天地がひっくり返ったとしても、明日槍が降るとしても。
私にそんな誘いが来るだなんて。
「是非とも貴女に、ウチのアイドルとしてデビューして頂きたいんです。まずは、お話だけでも…」
「アイドル…ですか。それは、私が…ですよね?」
「ええ、貴女には輝く才能があると。そう思います」
頭がこんがらがる。
思考は乱れ、冷静さを欠く。
もしかしたら、口をパクパクして目を回してしまっていたかもしれない。
なんとか腕の力は保ち、本は落とさない様に努めた。
私が…アイドル?
沢山の人の前で歌って踊ってテレビに出る、あのアイドル?
キラキラしたフリフリの衣装を着てステージに立つ、あのアイドル?
…私とは、正反対の存在だ。
「…あの、私…あまり、人前に立つのが得意では無いので…申し訳ありませんが…」
沢山の否定の意見が渦巻く頭の中から、最低限の言葉を取り出してお断り。
文学の世界に触れていられれば満足な私に、そんな刺激的な事は向いていない。
大勢の人に見られる事に慣れているはずもない。
そもそも今だって、相手の目を見てすらいない。
そんな私が…アイドルだなんで…
「ええと…ならせめて、少しでも。話を聞いて頂けませんか?」
なかなか、諦めて貰えない。
確かに直ぐはいそうですかと納得して帰ってしまっては仕事にならないのだろうけれど。
こっちとしては、一刻も早くお引き取り願いたい。
けれど、そんな事を強く言えるなら最初からキッパリ断っている。
「まぁ…お話だけでしたら…」
私がそう言うと、途端に笑顔になる。
心の底から喜ぶ様な表情に、此方の顔も少し緩む。
「それはよかった。あ、名刺です。ええと、お名前は?」
「…鷺沢、文香です…」
名刺を受け取り、名前を名乗る。
そう言えば、差し出されているのに受け取っていなかった。
こういう時まずは記載されている電話番号に掛けて確認するべきなのかもしれないけれど、どのみち断るのだから必要無いと判断。
「それでは鷺沢さん。まず、我が346プロはーー
「こんばんは、鷺沢さん…読書中でしたか」
「あ…こんばんは…」
ひと段落した本に栞を挟み、ゆっくりと顔を上げる。
雨があがり外が橙に染まる六月の夕方。
傘を閉じた彼は、今日もまた此処へ訪れた。
結局あの日、私はキッパリと断る事は出来なかった。
それは私の心が弱いからでは、決してない。
単純に私が、興味をもったから。
彼の話すアイドルと言うモノに、関心を抱いたから。
彼の話すアイドル。
それは、私にとっては別世界の。
まるで、ファンタジーの様なものだった。
とは言え当然その場でアイドルになりますなんて言える筈もなく、考えさせて下さいと言って流したが。
私に少し興味を持ってもらえた事を感じ取ったのか、彼はまた来ますと言ってその日は帰っていった。
それ以降彼は週に1.2のペースでこうやって私の元を訪れる様になっている。
「実は昨日、担当アイドルのライブだったんですよ。まだ小さな箱ですけど、この調子なら…
彼はいつもこうやって、楽しそうにアイドルについて話してゆく。
本以外に熱中する事のなかった私が、けれど彼の話を面白く感じていた。
それは多分、私にとって全く違う世界の話で。
まるで読んだ事の無い本のページをめくる様な、そんな感覚だったから。
アイドルの輝きを、おそらく彼自身が一番喜んでいる。
私に語る言葉一つ一つから、彼の頑張りと喜びが伝わってくる。
きっと、だからこそ私の心が。
彼の話に惹かれているのだろう。
もしかしたら、アイドルと本は似ているのかもしれない。
そして…
「さて。そろそろ完全に日も暮れますし、そろそろお暇しますか」
「あ…では、また…」
気付けば、あっという間に時間が過ぎていた。
外は既に橙から黒へと変わっている。
時計の長い針も一周と少し。
本を読んでいる時もだけれど、時間の経過がいつもより早いような気がする。
「次来れるのは来週ですかね。わざわざ時間を作ってくださってありがとうございます」
一礼して、鞄を片手に店を出る。
そんな彼の後姿を見送り、私は机に乗った本に手を伸ばす。
あの日彼が取ってくれた本。
既に2周目に突入しているけれど、私はこの話が気に入っていた。
話は、なんて事はないありきたりな恋の話。
紆余曲折あって二人は結ばれる事のない道を辿るお話。
勇気を出せなかった二人が離れ離れになる、そんなお話。
けれど、何故か。
また読みたくなってしまう。
何故、でしょうか…?
今の私に、その解えへとたどり着くまでの知識と経験は、持ち合わせていなかった。
「もう七月ですね。最近大分暑くなってきましたけど大丈夫ですか?」
「そう、ですね…一度本に熱中してしまえば、特に気には…」
湿度の代わりに温度があがり始めた夏の初め。
今日もまた、彼は私の元へと訪れてくれた。
二人分のコップの乗った机を挟み、扇風機を首振りにしてゆったりとした時間を過ごす。
人と話している時ですら本の事で脳を埋める私は、そこにはいなかった。
不思議なものだ。
こうも人が変わるなんて、と自分自身に驚いている。
「あ、オススメの本。全部読みましたよ」
そう言って彼は簡単な感想を述べる。
仕事をしていれば読書が出来る時間は限られている筈なのに、毎度次回来る時までに大体全部読み終えてきていた。
自分の薦めた本を読んで貰えると、自分が書いた訳でもないのに嬉しくなる。
好みのモノを気に入ってもらえるのは心地よい。
「…最近、文香さんよく恋愛小説をよんでますね」
「…確かに、そうですね…」
よく見ていたものだ。
確かに私は最近よく恋愛小説を手に取る。
今まで読まなかった分だろうか、ここへ来て一気にハマってしまっていた。
まだヒロインに感情移入できる程ではないし、何故そんな言動を?と突っ込みたくなる事もあるけれど。
「確かにありますよね。なんでそこでこう…勇気を出せないんだ!みたいな」
「そればかりは…実際に、なってみないとわからない事なのでしょう…」
他愛の無い話に花を咲かせる。
こんな風に、気軽に話せる人が。
今までの人生で、私にいただろうか?
もちろん家族以外で。
向かい合わせで、時折逸らしながらも相手の目を見て。
…彼の視線を意識したとたん、なんとなく頬が熱くなる。
つい、と。
同時にお互い目を逸らした。
前髪が目に掛かっている為に、少し俯けば向こうからこちらの目は見えない。
少しずつ視線を元へと戻す。
と、丁度此方を向いた扇風機の風が私の前髪を目前から退ける。
再び、私は目を逸らした。
…ほんとうに…私は、一体…
「すみません、お手洗いをお借りしても大丈夫ですか?」
「あっ、どうぞ…あちらの扉です…」
手帳を閉じ、彼は一旦席を立つ。
彼の姿が扉の向こうへ消えたところで、私はふと気になった。
…暇、なのでしょうか…?
社会人にしては恐らく高頻度で、彼は此処を訪れている。
仕事自体、割と暇のあるモノなのだろうか。
天下の346プロダクションなのだから、そんな筈は無いと思うけれど…
先ほどまで彼が座っていた席の前には、数冊の本と手帳が置いてある。
きっとその中には、ビッシリとスケジュールが書き込まれているのだろう。
良識を弁えた私は、気になっていたとしても勝手に覗き見ようだなんて思わない。
表紙に指を掛けて開こうとしたけれど、思い留まって指を離そうとする。
と、その時。
なんの偶然か、扇風機の風が此方へと吹いた。
少し持ち上がっていた手帳の表紙を、数ページ巻き込んで吹き飛ばす。
あわあわとふためいている間に、ページは四月を終えて五月半ばまで差し掛かっていた。
やがて扇風機の風は別の方へと向かう。
開かれたページは、五月の終わり。
丁度、私と彼が出逢った週だった。
いけないと脳では理解しつつ、目はあの日を探す。
日曜日、月曜日と視線を進める。
そしてページの中盤に、私は私の名前を見つけた。
その日の午後の予定の部分に、この古書店の名前が。
そしてその横に、少し大きく右上りの文字で。
鷺沢 文香、と。
ただ私の名前が彼の手帳に書いてあっただけなのに。
私の鼓動は跳ね上がった。
理由なんて分からない。
どう言う訳でもなく、嬉しかった。
しかし、ふと。
何かに違和感を感じる。
…何故。
スケジュールに元から組み込まれていたかの様に、この古書店の名前が記されているのだろうか。
まるで、予めこの古書店へ来る事は決まっていて。
その日ようやく、私の名前を知ったかの様に。
疑問は膨らみ、溢れそうになる。
けれど、聞くわけにはいかない。
私は勝手に彼の手帳を見てしまっているのだから。
慌てて手帳を閉じようと表紙に手を掛けたところで、私は固まった。
「…あ」
「え、ええと…」
最悪のタイミングで、目があってしまったのだから。
「あの…見ちゃった、感じですか?」
「…その…はい…」
沈黙が空間を支配する。
お互いに一言も発さない。
目だけは反らせず固まり。
時計の秒針だけが店中に響いた。
必死に言い訳を考える。
もとはと言えば扇風機の風のせいなのだ。
そう伝えればいいだけ。
けれど。
それ以上の疑問が、私の脳を占めていた。
「…貴方は…私と出会う以前から、その…」
最後まで言い切れず、私は再び口を止める。
それより先に謝って状況を説明すればよかったのに、と。
後悔が広がった。
いつもなら静かな空間が好きなのに、今ばかりはその静けさが痛い。
永く永く感じた緊張は、けれど恐らく1分と経っていないだろう。
先程までの心地よい時間は、すでに微塵も残っていなかった。
ふぅ…と。
沈黙を破ったのは、彼の溜息だった。
「実は…」
気まずそうに、彼はゆっくりと口を開く。
「…文香さんをアイドルにスカウトする一週間前に、一度此処を訪れていたんです」
「それは…何故、でしょうか…?」
なんとなく、気付いてはいた。
恐らく彼が此処へ来たのは、あの日が初めてでは無いという事を。
けれど、理由が分からない。
来た理由、そして再び訪れた理由が。
「俺、アイドルのスカウトが苦手で…その日も街を歩き回ってたんです。でも全然上手くいかなくて…。その時、この古書店が目に入ったんです」
と言う事は、此処を最初に訪れたのは偶然だったとなる。
けれどそれだけでは、再び訪れる理由が無いと。
とすれば…何かが、あったのだろう。
「昔は本をよくよんでいて、だから仕事中にも関わらずこの古書店に入ってみたんです。気分転換がてら。そしたら…」
彼の視線が、此方へと向けられる。
「文香さんを、見つけたんです」
呼吸が、止まりそうになった。
「一目惚れ、みたいなものです。この人を俺の手で輝かせたい、と。そう思いました。けれど、その日は失敗ばかりで勇気が出せず…」
「その、ええと…ありがとう、ございます…」
一瞬にして体温が上がる。
動揺し過ぎて、頭が回らなかった。
結果、意味の分からないお礼を口に出す。
すぅ、と。
一旦大きく息を吸い込み、鼓動を落ち着ける。
おそらく顔はまだ赤いが、気持ちと心臓は正常に戻せた、はず。
「それでも、諦め切れなくて。だから、貴女がこの古書店の店員であると言う事に賭けました。そうでなくともまた来ていると祈って。その一週間後、同じ曜日の同じ時間に此処を訪れたんです」
あぁ、だからか、と。
私は納得した。
だから、スケジュールには既に此処の名前が記されていたのだ。
もし私が此処の店員だとしたら、同じ曜日の同じ時間帯に居る可能性が高い。
もし私がただの客だとしても、大学生はある程度動ける曜日と時間帯が決まっているから、また来るとしたらそこだとあたりをつけて。
もう一度、私に会いに…
「二回目も中々声が掛けられなかったんですよ。突然話しかけたら、怪しまれるんじゃないか、って。けれど、貴女が本を取ろうとしているのを見て。気づいたら話し掛けてました」
まるで運命みたいに、と。
貴方は少し笑いながら、呟いた。
…確かに、運命かもしれませんね。
あの日、私が丁度本を探していて。
その時、貴方は丁度私を見ていて。
そして…
私の取ろうとした本の題名が…
「…それ以降、何度も此処へ訪れていますが…それも、仕事の一環で…?」
「いえ、仕事中に此処へ来たのは最初の一回目だけです。それ以降は仕事を終えてからだったり、休みの日に」
プライベートの時間を割いてまで、彼は私に…
…もしかしたら、だけれども。
自惚れでなければ。
彼もまた、今の私と同じなのかもしれない。
「…七月七日…此処へ、来て頂けますか…?」
…となれば。
自分の気持ちに、不思議な感覚に自覚を持てたのなら。
今度は、私が。
彼に伝える番だ。
けれど…
「大切な…お話をしたいと思います…」
気持ちを落ち着け、整理し伝えるには。
少しだけ、時間が欲しかった。
七月七日。
世間一般では七夕の日として多くに知られ、町は笹と短冊に彩られていた。
子供達は色とりどりの紙へペンを走らせ、笹に括り付ける。
綴られるは願い、届けるは天へ。
願い達の向かう遥か先には、一人の青年と一人の姫。
年に一度の逢瀬を今日この日に迎える彼等。
離れ離れとなり永い時が流れても、尚愛し合い続ける二人。
そんなロマッチックな二人きりの時間を誰にも邪魔させないと言う様に、この日の空は薄い雲に覆われていた。
お茶の入ったコップを傾け、本を開く。
折角なのだから何か七夕に関係のある本を読みたかったけれど、残念ながら見つからなかった。
仕方なく手に取った本は、これまた残念ながら面白いとは言い難い。
途中でなげるのは気が引けたので、ページをめくり続けてはいるけれど。
…早く…来て、ください…
はぁ、と一息。
今までの訪問から、彼が大体何時に此処を訪れられるかは知っている。
こうして待っている時間は、本に熱中していればあっという間くらいの短い時間だ。
仕事で忙しいのは分かっているが、それでも今日ばかりは。
今までと同じ様に、仕事を終えてから来て欲しかった。
頬杖をつき、頭に入って来ない文章を進める。
どうなるかなんて分からないけれど。
どうなって欲しいかは、もう決まっていた。
叔父から貰った短冊には、何も書いていない。
願いを、想いを天に届ける必要はないから。
届ける相手はただ一人。
そしてそれは、きちんと。
私の口から、言葉で伝えたいから。
彼の誘い通り、私はアイドルになるつもりでいた。
私が、私の力で人々に幸せを分けられる存在になる。
それはきっと、とても素晴らしい事だから。
けれど、伝える決意は。
私の想いは、それだけではなかった。
いけない事だと理解はしている。
将来的に、その事によって誰かを傷付けてしまうかもしれない。
彼に迷惑がられるかもしれないし、そうでなくても迷惑をかけてしまうかもしれない。
それでも。
私は、ようやく気付いた私の気持ちに。
正直に、なりたかったから。
怖くないのかと言われれば、そんな筈は無い。
悲しい結末を、悲惨な末路を何度も思い浮かべてしまった。
けれど。
今此処を乗り越えなければ、きっと私には一生機会を活かせる事がない。
「こんばんは。仕事を終わらせるのに、何時もより少しかかっちゃって」
入り口から、彼の姿が現れる。
言うべき事は、もう決まった。
勇気の出せない私は、読みかけの本と共に閉じておく。
欲張りかもしれないし、無理かもしれない。
けれど、それでも。
きっと貴方なら叶えてくれる。
そう、信じて。
「私はーー
「ふぅ…ようやく終わった。待たせて悪かったな」
「いえ、…私が、勝手にしている事ですから…」
「ありがとな」
そんな他愛の無い会話が、とても嬉しくて。
私は貴方の目を見て、微笑んだ。
既に日は完全に落ちてしまっている。
窓の外には、綺麗な夜空が広がっていた。
これだけ澄んだ空ならきっと、年に一度の逢瀬も上手くいった事だろう。
「結局、その話はビターエンドなのか」
「そう言ったストーリーも…私は、好きですから…」
けれど、悲しいエンディングなんて本の世界で充分だ。
私が1年前に思い浮かべてしまった悲しい結末は、ページを捲れば行方の分かるフィクションで。
今こうして、まるで夢見たいな幸せなが、現実なのだから。
「さて、そろそろ帰るか。本は持ったか?」
「はい…あ、一つ…忘れ物を…」
そう言って、デスクに置かれた短冊に手を伸ばす。
何も書かれていないけれど、願いは直接伝えられる。
だって…
叶えてくれるのは、貴方なのだから。
私の想いを綴らず込めた短冊を、貴方へと直接手渡す。
不思議そうに首を傾げる貴方へ。
私は、笑顔で告げた。
「…これからも、ずっと…。側に…居て、頂けますか…?」
おわり
トレンドで今日が七夕な事に気付き去年も似たようなの書いたなあと思いながら急いで書きました。
そしたら単発でふみふみが出たので書けば本当に出るみたいです。
次はありすとソフトクリームを食べに行く話にします
乙と言いたかったがあんたんは許されない
乙
乙
ふみふみで地の文のSSは名作であることが
また一つ証明されてしまった
このSSまとめへのコメント
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