ビッチ・2 (459)
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乙
お通夜は今夜だそうだった。斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも
伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。
麻季は構ってもらおうと彼女にまとわりついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼ
ットの奥から喪服を取り出した。ワンピースの喪服。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。
全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺すらも感じない。多田先輩から教わった
怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。
奈緒人をどうしようか。麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。
喪服に着替えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音が
して博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだも
ん」
普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよ
りその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これか
らお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。でも今さら
そんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。博人は怜菜のことを知らない
ことになっていた。だから麻季は言った。
「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田
玲菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。麻季は心を動
かされずに、何重ものフィルターを通しているかのようにぼんやりと博人の涙を眺めてい
た。
「博人君? 何で泣いてるの?」
「・・・・・・やっぱり送って行くよ」
「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」
博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。麻季は車を降りて入り口の方
に歩いて行った。
入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は先輩の奥さんな
のだから鈴木家と記されているべきではないか。
「麻季」
斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。
「先輩」
「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」
麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列の
せいで祭壇や親族席の方を覗うことはできない。
「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」
川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。
「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」
「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」
麻季の声が震えた。
「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」
列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。
親族席に頭を下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と
目が合った。頭を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように
頭を下げた先輩はもうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。
祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。怜菜の通夜や葬儀にあたって怜菜の両親が
がどうしてその写真を選んだのかはわからない。写真の中の怜菜は生まれたばかりの自分
の娘を大切そうに抱いてカメラに向って微笑んでいた。その微笑はかつてキャンパスで麻
季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。
「ちょっと話していかない?」
香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話
しかけた。「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をし
て行こうよ」
「ごめんなさい。息子が待っているので」
「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤め
てるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」
「ええ。教えていただいてありがとうございました」
「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女
は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」
もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、
だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。
「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、そ
れで気が紛れてくれればいいんだけど」
川田先輩がそっと言った。
「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」
「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい」
「・・・・・・失礼します」
麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられ
たように先輩は彼女の後姿を眺めていた。
博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手席のドア
を開けて車内に入った。博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるように
して後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。
「何で?」
「何でって?」
「何で親族席に鈴木先輩がいたの」
「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の玲菜のこと
なのに」
助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。
「車を出すよ」
「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう
名前なの」
博人は車中では何も喋らなかった。麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも
彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。
帰宅してから、目を覚ました奈緒人に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけるいつもの
麻季の仕事は全て黙ったまま博人がした。その間、麻季は身動きせず着替えもしないまま
リビングのソファに座ったままだった。
「奈緒人は寝たよ」
博人はそう言って麻季の向かい側に座った。博人が麻季の隣に座らないのは彼女の浮気
を知った日以来初めてだった。
「何か食べるなら用意するけど」
麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。一応、彼女のことを気遣って
博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。
「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先
輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」
このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。
『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨
てられちゃうよ』
『先輩が独身でも既婚でもあたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』
『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたら
まずいって言ってるのよ』
『あんたが唆したんでしょ!』
『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』
「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」
「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」
「知らない」
「怜菜さんに子どもがいたことも?」
「さっき知った」
離婚と子どもがいたことを麻季が知らなかったことだけは事実だった。
「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」
ここまで来ると麻季はもう冷静になっていた。ならざるを得なかった。むしろ、博人が
どこまで知っているかが気になっていた。
「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」
博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりはどちらかと言うと投げや
りな様子に見えた。麻季は怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。学生時代から意識し
てずっとそうしてきたのに、あっさりと夫は彼女には黙って怜菜と会っていたことを認め
たのだ。
「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携
帯を見て君との浮気を知ったこととかね」
「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻
季のことは恨んでいないと言っていたよ」
「博人君・・・・・・。何であたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」
「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。で
も怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをし
ていたんだね」
思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見てその言
葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。
でもこういうときに限ってその声は沈黙していた。
もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。
「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」
「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってく
れた」
それから博人は怜菜と関係を話し出した。もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなん
て全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったの
だ。もしかしたら怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのか
もしれない。彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
博人は玲菜が、自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後
に玲菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。
博人自身も怜菜に惹かれていたこと、玲菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えた
ことがあることも。それでも怜菜が博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。
そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。
『玲菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ玲菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
麻季は泣き出した。いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだ
った。まるで泣き出した彼女を通り越してその先にいる怜菜の幻影を追い求めているよう
に。
「何で怜菜はあたしを責めなかったの? 何であたしと博人君を復縁させたいと言ったの
よ。怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。
何で怜菜はあたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。あたしにはわかん
ない」
「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」
博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻
季の苦悩にすら無関心のようだった。
それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、
互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。ただ、正直に言え
ば奈緒人がいなかったとしたら二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。
博人は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻
季は何の幻想も抱いてはいなかった。この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、
何の疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。その原因はやはり怜菜にあ
ると麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではな
いと思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。
そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白
めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。心の声は結局
正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と親友の麻季との浮気はつらいこ
とでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。その証拠に
怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への
愛情を曝露したのだから。
怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなか
ったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。
『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人
に言いつけたんだしね』
『やっぱりそう思う?』
『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒
を仲良く二人で育てていたかも』
想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。
それでも怜菜は死んだ。彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。い
つまでも死んだ怜菜に嫉妬したり彼女を恨んでいる場合ではなかった。
死人に嫉妬しても何も解決しない。怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、
その想いに将来はないのだ。
少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するように、再
度この家庭を維持することを選んだ。表面的には二人の仲は以前より安定しているように
も思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人はだんだんと以前の
安定した生活を取り戻していった。
鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のこ
とだった。
『久し振り』
先輩が電話の向こうでそう言った。
『・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ』
『わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて』
『もう、どうでもいいよ。そんなこと』
『君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出
しづらくて』
『気にしてないよ。今となってはどうでもいい』
『怜菜の子どもの名前聞いた?』
『奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ』
『結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好
きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ』
『結城のガキってあたしの大切な息子のことを言っているわけ?』
『悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気
相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ』
『何があったとしても自分の子どもでしょ』
『ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなく
て俺が親だったけどな。こんなことならあんなビッチのことなんか久し振りに抱くんじゃ
なかったよ』
『さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね』
『麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか』
『・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ』
『そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所
によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパー
に毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだ
ろうな』
『話はそれだけ?』
『麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気
になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、
引き取る気はないんだ』
『あたしには関係ない』
『・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の
大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかっ
たよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな』
その後の生活の中で博人は奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。
それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほん
の一瞬だったけど確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見
るのは初めてだった。
一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人はすぐに顔を引き締めた。そして他人の子を引き
取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と話し始めた。麻季
はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中ではそんなものは聞
き流していた。
博人君は格好をつけているだけだ。本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくて
たまらないのだろう。それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、
自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。だから、いろいろと難しいことを
言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろ
う。
何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。
ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。
『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』
声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じら
れた。だけど博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを
狙ったように心の中で声が話し出す。
『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』
『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることな
んてないよ』
『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』
『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそ
れは終ったのよ』
『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってか
れちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』
『それは』
『君は奈緒人のためにだけ表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦でこの先ずっとやってい
けるの?』
『あたしと博人君はそんなんじゃない』
『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。
それでも出来ることはしておこうよ』
このときも結局、麻季はその声に負けた。
次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を奈緒が預けられている
乳児院を併設した児童養護施設に向った。
今日は以上です
前スレは週末になっても埋まらなければ依頼を出しますので、しばらく放置することを勘弁してやってください
乙
乙
乙。前スレ最初から一晩掛けてやっと読み終わったぜ。久しぶりにこういう文章読んだけどやっぱりいいなぁ…お話もすごく面白い
奈緒ちゃんかわいいよ奈緒ちゃん
鈴木先輩グズすぎわろた
乙
乙
鈴木先輩は彼女(思い込み)を取られる→結婚→略奪愛失敗→嫁を取られかける→
元カノは自分に興味なし→子供の名前は憎たらしいあいつの子供と似てる
でなかなかエキサイティングな人生ですな
自業自得ともいいます。
奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこ
ともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。お互いに不安や不満を吐き出
したことによって、麻季の不安は収まった。それにそれが端緒になって、二人の理解も深
まり和解することができた。博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危
機は収まったのだ。
容姿と性格だけを取り上げてみれば奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。幸か不幸か
麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなん
て思ったこともなかった。そうしてほとんんど自分が産んだのと同じように幼い少女を育
てているとぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情まで浮かんでくるようだった。
心が安定し余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。麻
季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。奈緒を引き取って
一緒に暮らし出した頃から奈緒人は急にしっかりとした子になった。どちらかというと甘
えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れ
して、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。
それは幸せな日々だった。もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも麻季と博人を脅かすこ
とはないのだ。博人が帰宅すると麻季と二人の子どもは待ちかねたようにそろって玄関で
彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利は
まだ幼い奈緒に奪われがちだった。そういうとき奈緒を抱き上げる博人のことを麻季は怜
菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。奈緒人も父親に抱きつく権
利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は珍しく麻季に甘えるように抱きつい
た。それで麻季はこのときだけは母親離れをした奈緒人を思う存分に抱きしめることがで
きたのだ。
これ以上望むことはない。怜菜と博人の関係を、誰を傷つけることなく消化し昇華でき
たのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。あの声は今回も正しいアドバイスを彼
女にしてくれたようだった。
そういうわけで満足し充足した生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前につい
て悩むことは未だにあった。博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。何より
も自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女は悩むことがあったのだ。
今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季は自分に言い聞かせた。そして博
人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒
を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、その考えはしばしば彼女の心を蝕み
出した。
そんなある日、再び声が聞こえた。
『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』
『うん・・・・・・』
『何か不安そうだね。博人も頑張って家にいるようにしてくれてるし、これでもまだ何か
気になるの?』
『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』
『博人がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』
『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君だっても
う怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもし
ようがないよ。むしろ怜菜の娘をあたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる
唯一の方法だと思っているよ』
『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』
『博人君がいないときだけなんだけどね』
『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』
『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』
『・・・・・・』
声は沈黙してしまった。
『あんたはあたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。
こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』
『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』
『あたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』
『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたい
と言うなら話すしかないんだけど』
『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにあたしが不安を感じるのか』
『本当に話していいの? 後悔するかもよ』
『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』
『わかったよ』
その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。
『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』
覚悟なんてあるわけがない。でも不安があるまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は
思った。
『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』
『よかったって思う。奈緒は可愛いし、あたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮ら
せると思うな』
『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人の仲って
どうだったか思い出してみな』
そんなことは思い出すまでもない。博人は怜菜の死に、怜菜を救くえなかった絶望に打
ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。少なくともあのと
きの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の突然の死が原
因だったのだ。
『君と博人の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』
『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』
麻季の嫌味な言葉には注意を払うことすらなく声は続けた。
『奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よ
りもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』
『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、
結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』
『博人はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』
『それは・・・・・・』
『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』
『それは・・・・・・。彼はあたしのことが好きだし奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のこ
とをきっかけにあたしを許してくれたんだと・・・・・・』
『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない
方がいいよ』
『・・・・・・どういう意味?』
声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。
『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』
『何だっけ』
『あのときわたしはこう言ったの』
『玲菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ玲菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
『それが今では君と博人はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでし
ょ?』
『・・・・・・奈緒?』
『正解。奈緒が引き取られて博人には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれ
なかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげることができたんだって。それは幸せな
家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを
許すくらい何でもなかったんでしょうね』
麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。多分
そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに得体の知れない不安
を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。
『じゃあ、博人君は本当にはあたしのことを許してないの? あたしのことを嫌いになっ
たままなの』
『そこまではわならない。本当のところはわたしや君にはもう永久にわからないと思う
よ』
『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せてけしかけたのはあんたでしょう。
今になってそんなこと言うなんて』
『わたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんて
わからなかったし』
『何言い訳してるのよ』
『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかっ
たし。まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』
『・・・・・・』
『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』
『・・・・・・うん』
本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。
『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局
単純な話だったね。博人は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭
が安定しているのは、博人が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得
て彼自身が落ちついたからでしょうね』
『あたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にあたしのところに戻って来
たわけじゃないって、あたし自身がどこかで感じていたからなのか』
『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人は君と一生添い遂げてくれるよ。
仲のいい模範的な夫婦として』
『・・・・・・奈緒のために? あたしのことなんて好きじゃないけど。奈緒のために一生あた
しを好きな振りをしてくれるっていうこと?』
『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃな
い。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』
『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対あたしのことが好きなはず。どんな
に時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』
大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が一瞬だけ麻季の脳裏に浮か
んだ。
『そうか。そうだよね』
『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』
『うん・・・・・・』
『何よ。まだ何かあるの』
『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、
まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』
『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひど
い話はないとは思うけど』
『どうかな』
『さっさと言いなさいよ』
『突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして怜菜の突然の死』
『うん・・・・・・』
『最初の二つには怜菜の明確な意図が込められていると思う』
『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだろうね。鈴木先輩の言ってい
たこともあながち嘘じゃないのかもね』
『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人も鈴木先輩も疑っていないでし
ょ?』
『・・・・・・どういうこと?』
『偶然じゃなくて三つとも怜菜の意図が働いていたとしたら?』
『それって』
『そう。怜菜は意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そ
して意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』
『そしてさ。最後はみんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だ
ったとしたら?』
それは想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えたことがなかった
ことだった。
『自殺ってこと』
麻季は心の声の非常識な推理に震える声で小さく応えた。
今日は以上です
乙
乙乙
麻季視点の回想がまだ当分続きそうだな
種明かしが分かるのはいいんだけど本編が進まないのがツラい
乙
SSWikiまとめたぜ
なにか間違いがあったら訂正しといてね
>>25
作者です。
Wiki作成感謝です! はじめてWiki作ってもらえた。
というか作者以上に登場人物や背景を把握していてびっくりしました。
今後創作途上で登場人物の名前や背景を忘れたときに使用させてもらいます。
本当にありがとうございました。
では再開します。
「怜菜って自殺したんだと思う」
麻季は真面目な声で静かに言った。
これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したのだけど、すぐにそんなはずはない
と思い直した。
そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。それはただ
彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動からそう確信し
ていた。
怜菜は離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のために入院している
母親たちと比べたってつらいことは多々あったはずだった。でもそんなことは怜菜から僕
にあてた最初で最後のメールには何も言及されていなかった。僕は今では一語一句記憶し
ている彼女のメールの文面を思い出した。
『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』
『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』
『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』
『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』
それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき僕が彼女
の想いに少しでも応えていれば、また違った現在があったのだろうか。そうしていれば、
怜菜は死ぬことなく奈緒を抱いて微笑んで僕の隣にいてくれる現在があり得たのだろうか。
「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走
してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」
「あたしだってそう思っていたんだけどね。そうとも言えないんじゃないかって考えるよ
うになったの」
「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」
「それは・・・・・・あたしは信じてるから」
「何を言ってる」
「あたしが何をしても博人君は、結城先輩はあたしのことが好きだって」
「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君
は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」
「うん。ごめんね」
「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さ
んのことは蒸し返さないでくれ」
「神山先輩なんてどうだっていい」
「・・・・・・それなら」
「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、
雄二さんにだってあたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。あたしたちはお互いに
愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」
「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」
「それはあたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」
「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあ
っているも糞もあるか」
「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃ
ない」
麻季が微笑んだ。「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてな
いじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」
「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? その
とき君は何をしてたんだ」
「これ以上怜菜に勝手なことをさせないためだよ」
「どういう意味だ」
「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついてい
なかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことあ
たしは絶対に許さない」
「君が何を言っているのか全然わからない」
「・・・・・・食べないと」
「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」
「博人君、食べないと身体に悪いよ」
「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕に
は今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈
緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」
「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら
冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」
「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときにな
んで子どもたちを放置したか話せよ」
「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あ
なたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」
「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答
えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」
「そうね。わかった」
麻季はそう答えた。「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」
もうとうに食欲なんてなくなっている。僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのよ
うなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。
「博人君、串揚げ好きだったよね」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「わかってる。あのときね、あたしは」
麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前
にして信じざるを得なかった。
それは麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に正確な解答が与えられた瞬間だった。
このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを彼女自身疑っ
たことはなかった。でも、怜菜が自分の死をも厭わず博人の心の中で一番の女性として生
き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深い
ものであると考えざるを得ない。つまり愛情の深さにおいて麻季は怜菜に負けたことにな
る。
怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたま
ま古びることなく残るだろう。それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切
ない記憶だ。表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自
分への後悔と、そんな自分を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容
姿がいつも浮かんでいるのだ。
麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。
『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』
声が重苦しく囁いた。
『・・・・・・うん』
『このことに気がつかなければこの先博人との仲を頑張って修復することを勧めたと思う
けど、怜菜の意図を理解した以上このまま博人と一緒に生活しても君がつらいだけだと思
う』
『どうしろって言うの』
『わからない』
『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスし
ておいて、こんなときには何も言わないつもり?』
『・・・・・・』
『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人
君は、結城先輩はあたしのことが好きなの。先輩に殴られたあたしを助けて、あたしの髪
を撫でてくれたときから』
『死んだ人相手には勝てないよ』
『そんなのってひどいよ』
『ただ』
『え?』
『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負
けを減らすことはできるかもしれないね』
声は少し考え込んでいるように間をあけた。
『どういうこと?』
『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚な
きまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』
『それは・・・・・・あたしだって不思議だったけど』
『先輩が電話で言っていたこと。怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して
麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』
『うん。彼はそう言ってたね』
『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博
人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』
『・・・・・・じゃあ全部怜菜の計画どおりだったってこと?』
『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の想いを告白した。怜菜に誤算があった
とすれば、博人がその場では怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』
『そのときはあたしは怜菜に負けていなかったってこと?』
『うん、そう思う。でも、怜菜は賢い子だし思い切って自分の考えを貫く強さを持ってい
た。大学の頃からそうだったじゃん』
それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は自分が決めたことは貫きとおす
強さをその儚げな外見の下に秘めていた。麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は
学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれた。
『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を
投げたんじゃないかな』
『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』
『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』
『わからないよ。これ以上何が起こるの』
『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし君がこのまま良い
妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が
戻るかもしれない』
麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。たとえ今がどんなにつらくても何
年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。
『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』
『どういうことよ』
『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全
然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人は怜菜のことを思い出
させられるんだよ』
『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃ
ない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思
う』
『そんなわけないでしょ!』
『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』
『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』
『もうできることだけしようよ。君は博人を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なこ
とをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』
『博人君とは別れられない。絶対に無理』
『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を見つめる博人の視線を。そしてある
日突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そし
てそうなったら、何年も博人とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に
怜菜に負けたことになるんだよ』
『・・・・・・』
『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていた
し。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』
『どうすればいい?』
『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離し
なさい』
『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』
『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』
『そんな』
『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を
一緒になるって言いだすよ』
『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。
普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』
『兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって博人の妹の唯ちゃ
んに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』
『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてあたしが言わせない』
声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲し
みに溢れているような、そして麻季に同情しているような優しいものだった。
『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』
『・・・・・・何言ってるの』
『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをす
る必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』
『だって』
それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。
今日は以上です
乙
頭おかしいだろ
乙
このパライノア女のせいで…
乙ッ!
乙乙
でもなんとなく麻季の行動は理解できたわ
麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人
きりで自宅に放置した。精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放
棄して六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。
「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。
きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切
な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」
麻季は博人の反応を気にしているかのように彼の様子を覗いながらそう言った。
「・・・・・・児童相談所の人がマンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこ
と聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。
すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかっ
たか不思議なくらいだよ」
博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心
が痛んだ。そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間、麻季の心もずっと鈍い刃で
繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。
奈緒人はもちろん、奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻
季は怜菜の意図を探ってそれが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失
ったとしてもその意図だけは阻止しなければいけなかった。その点ではもう彼女は声の言
うことを疑っていなかったのだ。
その六日間は麻季にとっては肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。
子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレー
ジの車の中でシートに蹲るようにしながら過ごした。一応、自宅近くのビジネスホテルの
部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだ
った。ろくに食事もせずシャワーすら浴びずに彼女はマンション地下のガレージで過ごし
たのだ。
でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たと
えそれを説明したところで博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。
「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたんだ。最初
のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかったの。むしろあたしがいなくて奈緒は
喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」
「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」
「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それであたしは奈緒人に話し
かけたのね。もともとそれが目的だったし」
「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」
それでも麻季は博人の言葉にはもはや動じている様子はなく、淡々と話を続けた。
「奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていた
の。それであたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらを
したからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお
食事しに行こうって」
「君は・・・・・・なんてことを」
「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」
「庇うとかそういう問題じゃねえだろ」
「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒
じゃなきゃどこにも行かないって」
「それを聞いたとき、あたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜
の好きにはさせないって。そうしてあたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたと
き、奈緒人は何をしたと思う?」
「・・・・・・どういうことだ」
「奈緒人はね。部屋から出て行くあたしのことなんか振り返りもしなかった。そして奈緒
人は眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうし
ていたかもしれないようなキスを」
「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なん
だ」
「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」
「・・・・・・ああ」
「あれ、あたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界
なのもわかっていた。だから近所の人の振りをして児童相談所に電話したの」
「あたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にあたしの大事
な子どもたちの人生も狂わされたくない」
麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。大学時代から今に至るまで麻季のそういう
複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。麻季を非難しようとした博人の言葉が口
を出す前に途切れた。
「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。あたしはこの先はずっと奈緒
を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。
あの子にはあたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」
ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。
「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕
が引き取って育てる」
「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかない
の」
「奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと
言うのか」
「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしに
とって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにあたしが奈緒人を引
き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうあたしが奈緒を引き取ってあな
たが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」
「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君のしたことは確かに正直に言ったのかもしれな
いけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃんか」
「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何であたしが太田先生に嘘を言ってあんなひ
どい内容の受任通知書を書いてもらったか。何であたしが博人君を愛しているのに、雄二
さんに言い寄って再婚しようとしたか」
「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親
権と監護権は渡すつもりはないけど」
「あたし、奈緒人と奈緒にはひどいことをしたよね」
「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕が
マンションに残したメモを見たか」
「うん」
「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳
を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気
がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」
「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二
さんにあたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜はあたしと雄二さんの浮気を責めずに
黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」
「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛し
ていたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」
「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」
「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君
は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」
それは付き合い出して以来始めて博人がした失言かもしれなかった。麻季はそれを聞い
て顔を上げた。
もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規
制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きもそれが博人との永遠の別れに繋
がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。言ってしまえばも
う今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われて
しまうのだ。
『勇気を出して言ってしまいなさい』
その声につられて麻季はついに言った。
「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはあたしはどうしたって勝てないもの。
自業自得なことはわかってるけど博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過
ごさせない。でもあんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」
博人は黙ったままだ。
「だからあたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれな
いけど、雄二さんをあたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親であ
る雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」
「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて彼女のことを忘れられないあなた
に約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」
「今でもこの先もあたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だ
からもうこれでいいことにしようよ」
「あたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけどあなたがあたしを許してくれ
るまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはあたしに任せてちょ
うだい」
「いい加減にしろよ・・・・・・」
博人はその乱れた感情を反映しているかのように口ごもったまま辛うじて言葉にした。
「奈緒人のことよろしくお願いします」
麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。
麻季が長い話を終えたとき、それが残酷でひどい内容だったにも関わらずどういうわけ
か僕の心の中には彼女への憎しみは生じなかった。ただ、今さらだけど本当に麻季との生
活は終ったことを実感し、そして帰国して以来初めて彼女への憐憫と少しだけ後悔の念が
心の中に去来した。
麻季は怜菜の死やその意図については明らかに過剰反応していたとしか思えない。でも
彼女をそこまで追い込んだ責任が僕にないと言いきれるかというと、そんな自信はなかっ
た。これまで僕は麻季のことを大事にしてきたつもりだ。でも一度だけ麻季のことなんか
どうでもいいという感情に囚われ、そしてそれを彼女に対して隠すことすらしなかったこ
とがあった。
それは怜菜の死を知った直後のことだった。混乱して泣く麻季の姿はそのときの僕の感
情を動かすことはなかった。これまでこれだけ麻季を大切に思い、彼女を傷つけないよう
に過ごしてきたというのに。
そのときの僕は怜菜の悲惨な死に心を奪われていた。でも今にして思えばあのときは僕
と同じくらいに、麻季は傷付いていたのだろう。親友の死とその親友と自分の夫とのつか
の間の交情を知ったことで。
依然として麻季が子どもたちを追い詰めた事実には変りはないし、太田先生の受任通知
で僕を貶めたことにも変りはない。それでも僕は麻季の告白から、彼女の心の異常な変遷
を知ることができてしまった。そして知ってしまうと、麻季の心変わりに悩んでいた時の
ような何を考えていたのかわからない彼女への憎しみが消えて、その感情は憐憫と後悔に
置き換わったいったのだ。
これは常識的な判断ではない。奈緒人と奈緒が仲が良すぎることなんか気にすることで
はない。でも僕には一見して支離滅裂な麻季の言葉から、彼女の感情の動きや彼女なりの
ロジックを推測することができた。誰よりも深くそして多分正しく。僕が麻季の気持を察
することができることが破綻する前の僕と麻季との絆を深めていたのだ。
唯にそう言われてから、僕はこれまでは麻季は敵だと思うようにしていた。というより
僕の知っていた麻季はもういないのだと、僕のことを誹謗中傷しているこの麻季は僕の妻
だった女ではなく見知らぬ女なのだと考えようとしていた。
でもこの日深夜の居酒屋で僕は不用意にもかつてのように麻季の言葉足らずの説明を脳
内で補正して彼女の真意を理解してしまった。それは客観的には間違った考えだったけど、
麻季にとってはようやく見出した真実なのだということを。
僕は不用意に麻季の泣き顔を見てしまった。生涯、麻季につらい思いはさせない。かつ
ての僕が自分に自分に誓った言葉が再び僕の脳裏に思い浮んだ。
このときの僕の決心は、結局この後の僕をずっと苦しめることになった。
奈緒の親権は、奈緒の実父の鈴木雄二と婚姻するという条件で麻季へ。奈緒人の親権は
僕へ。
慰謝料、養育費はお互いになし。お互いに年間二回はそれぞれ相手に引き取られた子ど
もに面会できる。ただし、当の子どもの方から離れてしまった親への面会を望んでいる限
りは無制限に面会できるものとする。また、子どもたちがお互いに望むならいつでも僕か
麻季の立会いのもとで無制限に二人を面会させることができる。
離婚事由についてはお互いに相手を有責と主張したままだったので、調停結果は互いに
慰謝料はなし。
翌年の三月に調停委員からこういう調停案が提示された。あくまでも調停なので調停案
を拒否することはできる。だけど一度調停案に同意した場合は、その調停結果には拘束力
が生じる。つまり一度それに同意した場合は判決と同じ効果が生じるのだ。
僕は調停の結果を受け入れた。つまり奈緒は奈緒人と別れさせられ、麻季と鈴木先輩が
引き取る結果を容認したのだ。僕はその決断を誰にも相談せずに自分で決めた。
そう決断した結果は目も当てられないものだった。
まず、僕は涙を流しながら僕を責める唯に絶交を言い渡された。
「何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈
緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの」
僕はそれに対して一言も答えられなかった。説明しても理解してもらえないだろうから。
「もうお兄ちゃんとは一生関わらない。あたしは彼氏との付き合いよりも、内定した会社
への入社よりも奈緒人と奈緒のことが大事だったのに。まさか、理恵さんと早くで結婚し
たかったからなの? 子どもたちの幸せより自分の再婚の方が大切だったの?」
この後今に至るまで僕は泣きながらそう叫んでいた唯とは絶縁状態のままだ。
僕の両親も唯と同じような反応だった。
「確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に
過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ」
父さんが混乱した表情で僕を叱った。母さんは俯いて涙を拭いているだけだった。
「もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん」
そしてこの件で僕は理恵の両親の信頼すら失った。理恵が言うには僕との再婚に何の反
対も心配もしていなかった理恵の両親は、僕との再婚は考え直した方がいいのではないか
と理恵に言い出したそうだ。自分の子どもをあっさり見捨てるような僕に不安を感じたの
だという。
理恵の両親と玲子ちゃんは奈緒が奈緒人の本当の妹であり、僕と麻季の実の娘だと思っ
ていたからその反応は無理もないのかもしれない。
僕と理恵の再婚に唯とともにこれまで一番味方になってくれていた玲子ちゃんは、両親
のように僕を責めはしなかったけど、一時期のように僕を慕ってはくれなくなったようだ。
内心では彼女も僕の決断を嫌悪していたのかもしれなかった。
「本当にそれでいいの? 後悔しない?」
理恵だけは冷静に僕に聞いた。
「・・・・・・後悔すると思う。でも、今はこうするしかないと思っている」
僕の答えに、理恵は紅潮した顔で何かを言おうとして寸前で留まったみたいだった。
「あたしは博人君が麻季ちゃんに何でそんなに気を遣うのかわからないけど」
「・・・・・・うん」
「でも。まあ、あたしだけは仕方ないから君の味方になるよ。君がそれでいいなら再婚し
よう。奈緒人君と明日香とあたしたちで新しい家族を作ろう」
理恵がどうして周囲と異なり僕の非常識な決断に理解を示してくれたのかはわからない。
でも、こうして麻季の複雑な心理を最後に読みほぐし、結果として麻季の考えに従うこと
を選んでしまった僕には理恵以外には味方がいなくなった。自分の息子の奈緒人をも含め
て。
僕はその決定を人任せにはできず、自ら奈緒人に話をした。彼ももう小学生だったので、
たとえ今は誤魔化していても、いずれは妹がいなくなったときに納得するはずがなかった
から。
彼が奈緒と別れて僕と理恵と明日香と暮らすことになると知ったとき、奈緒人は黙って
僕の話を聞いていた。そのときは奈緒人は青い顔で黙ったまま反発も非難も泣くことすら
しなかった。
翌日、僕が出社時間に間に合うように起き出して子どもたちの様子を覗おうと部屋の扉
を開けると、そこには子どもたちの姿がなかった。
奈緒人と奈緒は二人きりで僕の実家から脱走したのだった。
今日は以上です
乙
母親となるべきマキはネグレクトの実積あり、父親は親権放棄の実積ありの状態は、まず親権は取れない。
調停前後の育児実積もないしな。
義理とはいえ兄妹を引き裂くとか、調停委員の判断は正気の沙汰じゃない。
可能性としては、兄妹両方がマキにいくぐらいか、可能性は超低いが。
はいはい
乙
こまけーこたぁ、以下略。
この話は裁判ものじゃないことぐらい分からんのかね。
それより、そろそろ現代編に戻るのかな?
冷たい雨の中を傘もレインコートもなく逃げ出した二人は、すぐに警邏中のパトカーに
乗った警官に発見され保護された。パトカーの後部座席に乗せられた二人は手を繋いで互
いに寄り添ったままだった。そして連絡先を優しく聞き出そうとする初老の人の良さそう
な警官に対しては一言も喋らす何も返事をしなかった。
「君たち迷子になったんんでしょ? おうちの人に迎えに来てもらおうね」
その警官は無骨な顔に精一杯笑顔を浮かべて連絡先を聞き出そうとしたけど、二人はさ
らにお互いの体を近づけて握り合う手に力を込めるだけだった。
「何か様子が変ですよ」
運転席の若い警官が初老の相棒に声をひそめて話しかけた。「もしかして虐待とかじゃ
ないですかね」
「いや。雨に濡れてはいるけど服装もきちんとしているし、外傷もなさそうだしな」
「そうですね」
運転席の警官が身体を回して二人を覗き込んだ。「あれ? 女の子のカバンに何かタグ
がついてますよ」
「うん? お嬢ちゃんちょっとごめんね」
初老の警官が奈緒の持っているバッグに付けられていたタグを手に取って眺めた。
「よし。緊急連絡先とか血液型とかが書いてある。えーと、結城奈緒ちゃんって言うんだ
ね」
自分の名前を呼ばれた奈緒は顔を上げようともせずに、これまで以上に力を込めて奈緒
人に抱きつくようにしただけだった。
「仲がいいなあ」
そう言いながらも警官は手際よく連絡先を読み取った。「携帯の番号が書いてあるな。
心配しているといかん。俺はここに電話してみるからとりあえず角の交番まで連れて行こ
う」
「了解です」
降りしきる冷たい雨の中を、それまで停車していたパトカーは点滅させていたハザード
を止めて動き始めた。
『結城麻季さんですか?』
『ええ。結城奈緒ちゃんという女の子と、多分お兄ちゃんですかね? 小学生低学年の男
の子を保護しています。はあ? 男の子は奈緒人君ですか。お二人を引き取りに来ていた
だけますか? そうです。明徳町の交差点にある交番で保護していますから』
『兄妹じゃない? はあ。そうですか。じゃあ奈緒人君の保護者の連絡先をご存じないで
すか? ええ。あ、ちょっと待ってください。メモしますから』
『はい。ユウキヒロトさんですか・・・・・・え? 苗字が同じですけど家族じゃないんですか。
はあ。じゃあ連絡すればわかるんですね』
先に交番に到着したのは5シリーズのBMWの助手席から降りてきた麻季だった。簡単
な事情聴取のあと、鈴木先輩が確かに奈緒が自分の娘である証拠を提示した。麻季は奈緒
人には目もくれずに、奈緒の腕を取って鈴木先輩が運転席で待つ車の後部座席に彼女を乗
せた。
「ご面倒をおかけしました」
そう言って麻季は奈緒の隣に乗り込んだ。
このときになって思わぬ成り行きに呆然としていた奈緒人と奈緒が同時に叫び出した。
「奈緒・・・・・・奈緒!」
「お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや」
警官たちが子どもたちの様子に不審を覚えるより早く、奈緒を乗せたその黒いBMWは
走り去って行ってしまった。
第七章 奈緒と有希
その日の夕方、あたしは明徳町にある公立中学校の校門の前に来ていた。今日はずっと
奈緒の側についていようと思っていたのだ。でも、奈緒は回復していたとはいえインフル
エンザに罹っていたわけで、あたしがあまり長い間奈緒の側にいることに対して麻季おば
さんはいい顔をしなかった。
「有希ちゃんに移ったらまずいでしょ。また奈緒が元気になったらいくらでも一緒に遊べ
るじゃない。それに有希ちゃん、今日は学校はどうしたの」
あたしは奈緒の部屋から早々に追い出された。外に出ると前が見えないほど雪が降りし
きっていた。自宅に帰ろうと最寄り駅の方に向かって視界を遮る雪の中を歩いているとき、
ユウトから最初の写メが届いた。とても画像を確認できる状況ではなかったので、あたし
はとりあえず駅につくまではメールを開くことすらせず、ひたすら駅に向って歩いた。
ようやく駅の構内に辿り着いたとき、髪も服も雪だらけで真っ白になっていた。とりあ
えず濡れる前に自分の体から雪を振り払ってから、あたしはスマホを取り出した。
必死で歩いている間にユウトからの着信は十件を越えていた。急いで送信してきたせい
か本文には何も書かれていない。あたしは添付されている画像を開いた。ユウトのガラケ
ーのカメラのわりには上出来だ。残りの写真も一気に確認する。期待していたような決定
的な場面はない。でも、これはユウトを責めるのは酷だ。ユウトはこんな状況でもよくや
った方だろう。何時間か二人に張り付いてガラケーのカメラでこれだけ粘ったのだから。
あいつだってこんな地味なことをするよりは奈緒人さんを殴って、玲子を何とかしたかっ
たに違いないのに。
あたしはこれまでで一番よく撮れている画像を眺めた。奈緒人さんが玲子の肩を抱きな
がら二人で寄り添って歩いている画像だ。キスや愛撫とか、ホテルに入っていく写真ほど
のインパクトはないけれど、自分の彼氏が自分の実の叔母の肩を抱き寄せているこの写真
だけでも明日香を苦しめるには十分だろう。
あたしは予定を変えることにした。どうせ今日は富士峰をサボったので、商品の在庫を
チェックしようと考えていたのだけど、これだけいい写真が手に入ったのだから奈緒人さ
んが帰宅する前に明日香に見せてあげた方が親切というものだ。あたしは明日香の通って
いる公立中学校に向うことにした。この時間なら下校時間になる前に校門に到着できるだ
ろうし。
校門前で再び雪だらけになりながらあたしは我慢強く明日香を待った。
やがて明日香が降りしきる雪の中を傘をさしながら早足で校舎から出てきたことにあた
しは気がついた。
「明日香」
俯き加減に校門を通り過ぎようとした彼女にあたしは声をかけた。
「あ」
あたしの姿に驚いたように明日香は声を出した。ただでさえいつもは陽気で小生意気な
様子の彼女は、いつもと違って何か悩みでも抱えているみたいな暗い表情をしていた。
まるでこれから知ることを予感しているみたいに。
「有希・・・・・・」
「突然来ちゃってごめん。あたし、あなたに謝りたくて」
明日香が少しだけ驚いたような表情を見せた。
「謝るって。謝らなきゃいけないのはあたしの方だよ」
「ううん。あのときはつらかったんで思わず明日香のことを責めるようなこと言っちゃっ
たけど、あの後、明日香が怪我をして入院したって奈緒ちゃんから聞いて。明日香が大変
なことになっていたのに、あんたにひどいこと言っちゃったし、奈緒人さんにも明日香の
こと悪く話しちゃった。本当にごめん」
あたしの言葉は明日香の心を動かしたようだった。
「もういいよ。それに有希の言うとおりだもん。あたし、有希にひどいことしちゃったし。
でもこれだけは信じて。あたしはあのときは本当に有希と兄貴のことを応援していたの。
有希が兄貴の彼女ならいいなって本気で思って。でも・・・・・・」
「うん。奈緒人さんから聞いた。最初は腹が立ったけど、でも仕方ないよ。その後で明日
香が奈緒人さんのことを好きになってしまったんなら。最初から明日香が奈緒人さんのこ
とが好きで、それで奈緒ちゃんと別れさせるためにあたしを利用したんだとしたら・・・・・・。
それならあたしも明日香のこと一生許せないかもしれないけど、そうじゃないんだもん
ね」
「う、うん」
明日香が口ごもった。
「だったらもういいよ。仲直りしようよ。あたし、明日香と喧嘩しているの、もう嫌だ
よ」
「有希・・・・・・。あたしだって」
あたしは明日香に笑いかけた。
「あたしと仲直りしてくれる?」
「うん」
明日香はようやく本心から笑顔を見せてくれた。
「ちょっとお茶して行かない?」
あたしは明日香を誘った。
冬休み中に明日香と奈緒人さんと三人でよく来ていたファミレスにあたしたちは腰を落
ち着かせた。明日香は傘を持っていなかったあたしを傘に入れてくれたけど、そのせいで
二人とも中途半端に雪だらけになってしまっていた。
「寒かったあ」
「それはそうでしょ。こんな日によく傘も持たないで外出したね」
「出がけには降ってなかったんだもん」
「そういや有希って今日は制服じゃないんだ。学校休みなの?」
不思議そうに明日香が聞いた。彼女はもう完全にあたしに気を許しているみたいだ。
「ううん。自主的に休んじゃった」
「何だ、サボりか」
「まあね。奈緒ちゃんがインフルエンザに罹ったんで、学校サボってお見舞いに行ってた
んだ」
明日香の表情が一瞬だけ曇ったようだった。
「奈緒ちゃん、大丈夫なの」
「うん。明日には登校できるみたいだよ」
「そうか」
「何か食べない? また前みたくピザをシェアしようよ」
「うん。あたし今日はあまり食欲ないけど、それでよければ」
「体調よくないの?」
「そういうわけでもないけど。あまりお腹が空いていないというか。あ、でも少しは食べ
られるからピザ頼もうか」
仲直りしたばかりのあたしに気を遣ったのか、食欲の欠片もなさそうな表情で明日香は
取り繕うように言った。
「食欲ないならやめておこうよ。甘いものでも食べようか」
「うん」
あたしはだんだん楽しくなってきた。復讐というのはこうでなければいけない。うちの
グループの男たちみたいに、対象が男ならぼこぼこにするとか、女なら無理矢理抱いちゃ
うとか、そういう幼稚な感情は前からあたしには理解できなかった。憎く思う相手を苦し
めたいと本当に思うのなら、もう少し頭を使えよとあたしは今までいつも思っていた。
食欲のなさそうな明日香を促してあたしはメニューを広げた。
「そういえばさ」
ケーキセットみたいなものがテーブルに運ばれてからあたしはおもむろに明日香に言っ
た。
「何?」
「あたしの友だちが今日江の島に遊びに行っててさ。風景写真とか送ってくれたんだけ
ど」
「ふ~ん」
興味なさそうに目の前のケーキを小さなフォークで弄りながら明日香が答えた。「こん
な雪の日に湘南かあ」
「ねえ、聞いて聞いて」
あたしは声を大きくして明日香に話しかけた。いかにも陽気そうに。
「すごい偶然なんだよ。明日香と仲直りしたらこの写真をあんたに見せたかったんだ」
「何よ」
「じゃーん」
あたしはスマホの全画面に奈緒人さんと玲子、つまり明日香の叔母さんが抱きあっても
つれあうように歩いている写真を明日香に見せた。
「奈緒人さんって今日は学校休んで江の島に行ってるんだね。一緒にいる人って明日香に
似てるけどご親戚の方?」
少しして明日香が答えた。期待していたようなショックを受けている様子がないことに、
あたしは少しだけがっかりした。
「玲子叔母さん。あたしの母方の叔母。ママの妹だよ」
明日香は淡々とあたしに説明した。特別にショックを受けている様子はない。
「ああ、だから奈緒人さんとこんなに親しそうなんだ。正直に言うとあたし最初はびっく
りして少しだけ嫉妬しちゃったの。この女の人綺麗だし、ひょっとして奈緒人さんの年上
の彼女なんじゃないかって」
「・・・・・・それを聞きたくて校門の前であたしを待っていたの?」
「え? 違うって。冗談だよ冗談。あたしは明日香と仲直りしたかっただけよ。奈緒人さ
んは明日香の気持ちに応えたんでしょ? いくらあたしだって奈緒人さんがこんなに年上
の女の人と付き合うなんて思うわけないじゃん。十歳以上年が離れてそうだし。まあ、確
かに年上の親戚の女の人の肩を抱き寄せるなんて、奈緒人さんらしいとは思ったけどね」
「・・・・・・玲子叔母さんと兄貴は昔から仲良しだったから」
せっかく寒い思いまでして明日香を悩ませようとしたのに、どういうわけか彼女はこの
写真に対してあまり動揺していない様子だった。これではわざわざ明日香と仲直りまでし
た意味がない。でもそのとき再びあたしのスマホが再びメールを着信した。
「ちょっとごめん」
あたしはスマホを操作してメールを表示した。ユウトからだ。添付の画像を開くと、い
きなり男女の熱烈なキスシーンの写真が表示された。
あたしは明日香に対してスマホを隠すような素振りをして見せた。
「有希? どうかした」
「い、いえ。何でもない」
「何でもないように見えないよ。何か悪い知らせ?」
「ううん。友だちからメールが来ただけだよ。写メ付きの」
「うん? 兄貴と叔母さんの?」
「い、いえ。あ、うん」
「見せて」
「あ、だめだよ。見ない方がいいよ」
「お願い。見せて」
あたしは明日香の剣幕に負けてしぶしぶとスマホの画面を彼女の方に見せる振りをした。
画面には抱き合ってお互いの口を貪りあっている男女の写真が表示されている。ユウト
はよくやった。ついに決定的な場面を盗撮することに成功したのだ。
玲子が奈緒人の首に両手を巻きつけて彼にキスしている。奈緒人の片手は玲子の肩を抱
き寄せていて、空いている方の手は玲子の腰の辺りに添えられていた。
あたしはスマホを明日香に差し出した姿勢のまま、明日香の表情を観察した。
やがて凍りついたような表情のまま、明日香は涙を流し始めた。
「・・・・・・なんかごめん」
明日香は無言のままだ。
「本当にごめん。奈緒人さんとあんたの叔母さんがこんなに親しい仲だなんて思わなかっ
たから。叔母さんと甥っ子が仲良く外出しているだけだと思って。まさかキスしているな
んて」
「・・・・・・転送して」
「え?」
「有希、ごめん。この写真あたしのスマホに転送してくれないかな」
「・・・・・・いいけど。明日香、大丈夫?」
とても大丈夫そうには見えなかった。玲子の肩を抱いていた奈緒人さんのことには動じ
なかった明日香は、玲子にキスしている奈緒人さんの画像にはショックを受けているよう
だった。
「わかった」
これで少しは面白くなるな。あたしはそう考えながらその画像を添付して明日香の携帯
のメアドに送信した。
今日は以上です
女神はもう少しお待ちください
乙
過去編で背景を知ると、これからの展開がより楽しみになった
乙
何をするでもなくただ身を寄せ合って二時間近く海辺をうろうろしただけで、僕と叔母
さんは江の島の島内の駐車場に戻って来た。内容のある話なんか全くしていない。
「かもめだ」とか「浜辺に雪が積もって白くなっている。初めてみたよ」とか「冬でも
サーファーの人って海に入ってるんだ。寒くないのかな」とか。ここまで来て僕たちが交
わした会話なんてどうでもいいにも程がある。
でも駐車した車のところまで時間をかけて戻ってきたとき、叔母さんはいったん僕の腕
を自分の肩から解くようにして、少しだけ離れた位置で僕を見つめた。
「今日はありがとう、奈緒人。おかげで嫌なことを忘れられたよ。明日香にもお礼を言わ
ないといけないね」
「僕は別に・・・・・・。むしろ叔母さんに変なことをしようと」
叔母さんはすぐに僕の言葉を遮った。
「あんたがそんなこと言うな。嬉しかったよ。あたしがあんな気持悪い告白をしたのに、
あんたは今日ここまで付き合ってくれたし」
叔母さんはそう言って、目を瞑って顔を上げた。僕は叔母さんにキスした。叔母さんの
手が僕に回され、僕も叔母さんを抱き寄せるようにした。それが叔母さんとした最後のキ
スだった。
「はい、これでおしまい」
叔母さんはそっと僕の腕から抜け出して笑った。
「叔母さん・・・・・・」
「これで本当におしまい。あたしもあんたのおかげでいい夢を見させてもらったわ。お互
いに今日のことはもう引き摺らないようにしよう。できるよね?」
「・・・・・・うん」
「よく言えました。じゃあ、帰ろうか。家まで送って行くから帰ったら明日香に優しくし
てやってね」
帰りは行きよりも早く時間が流れて行くようだった。もう叔母さんも僕も何も喋らなか
った。叔母さんは黙って車のスピードを上げた。昼間の慎重な運転が嘘のように。
やがて、車が住宅地に差し掛かると叔母さんはアクセルを緩めた。前に僕が住宅地内で
の乱暴な運転について注意したことを思い出したのだろうか。自宅まで送ってもらったと
きは既に夜の七時を越えていた。
「送ってくれてありがと」
「じゃあ、明日香によろしくね。あと結城さんにも」
「父さんはいないと思うけど。叔母さん、うちに寄って行かないの」
随分心ないことを僕は口にしてしまった。でも叔母さんは少しだけ笑っただけだった。
「今日は帰るよ。また来るね」
叔母さんの車が坂をゆっくりと下りていくのを見送ってから僕は鍵を開けて自宅に入っ
た。家の中は真っ暗だった。両親がいないのはわかるけど明日香はどうしたのだろう。あ
いつは今日は普通に学校に行ったはずだし、夜遊びも止めているので家にいるはずなのだ
けど。そういえば叔母さんの車から自宅を眺めたとき、二階の明日香の部屋も含めて家全
体が暗く夜空の底に沈んでいるみたいだった。
さすがに明日は休めない。今までの僕ならさっさと自分の部屋にこもって適当な時間に
寝てしまっただろう。明日香の不在なんかそれほど気に病むことはなく。
でも今は明日香のことが気になった。前にそうやって明日香を放置したとき、明日香は
飯田という男に暴力を振るわれていたのだ。
今はあのときと違って僕は明日香の彼氏だ。彼女のことが気になるのは普通の心の動き
だった。でも、そんな明日香を今日僕は裏切った。それが最初で最後の出来事であったと
しても。そんな僕に明日香を心配する資格はあるのだろうか。
今でも最後に別れたときの叔母さんの表情が僕の心を支配している。そんな心の片隅で
明日香のことを片手間に心配するなんて、そんな都合のいい思考があるか。
僕は悩みながら二階に向った。明日香の部屋は電気がついていない。通り過ぎようとし
たとき、僕はその部屋の奥に人の気配を感じた。僕はそっと開いたドアから明日香の部屋
の中を見回した。
「・・・・・・明日香?」
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
暗い部屋の中から明日香の沈んだ声がした。電気も付けずに制服姿のままベッドに横に
なっていたようだ。
「寝てるのか? 具合でも悪いの」
「ううん、大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ遅かったね」
「うん。でも本当に平気か? 何で暗いのに灯りつけないの」
明日香が起き上がった。彼女はその手に自分の携帯を握っていた。
「・・・・・・叔母さんの車の音がした」
「ああ。叔母さんにここまで送ってもらった」
「叔母さんは?」
「帰ったよ。明日も仕事だろうし」
「そうか」
相変わらず明日香の表情は暗かった。僕は思わず彼女の傍らに近寄った。ベッドにペタ
ンと座ったままで明日香が静かに僕の腰のあたりに抱きついた。
反射的に明日香の体を抱き寄せた。一瞬抱き寄せられた体がぴくりと動いたけど、明日
香はそのまま僕のベルトのあたりに顔を押し付けた。
「明日香」
「何も言わなくてもいいよ。あたしがお兄ちゃんに頼んだんだから、お兄ちゃんが悩むこ
となんてないんだよ」
「・・・・・・明日香」
「だから悩むなって!」
「何でおまえ泣きながら切れてるんだよ」
「切れてない。あたしがお兄ちゃんに叔母さんを支えてって言ったんだもん。叔母さんが
壊れないようにしてって」
「泣いてるの」
「ごめん。あたし絶対に嫉妬しないって誓ったのに、嫉妬しちゃった。あたしにとって玲
子叔母さんはお兄ちゃんと同じくらい大切なのに」
明日香は顔を上げて僕の目を見つめた。その目には薄っすらと涙が残っている。
「叔母さんは大丈夫?」
「うん。多分もう平気だと思う」
「よかった。お兄ちゃんありがとう。非常識なことを頼んでしまってごめんなさい」
謝るのは僕の方なのに明日香はそう言った。黙っていた方がいいのかもしれない。叔母
さんだってそれを望んでいる。でも、僕はもう自分の彼女にこれ以上隠し事をしたくなか
った。ただでさえ有希の女帝疑惑とか、実の妹への混乱した気持とか、そういう大切なこ
とを明日香に隠しているのに。
「正直に言うと叔母さんとキスした」
「知ってるよ」
明日香はあっさりと言ったので僕は狼狽した。何でさっきの出来事を明日香が知ってい
るのだろう。
明日香は僕から身を離して、握り締めていた自分のスマホのディスプレイを僕に見せた。
そこには抱き合ってキスする僕と叔母さんの画像が映し出されていた。
これはいったい何なんだ。明日香が僕と叔母さんの後をつけて撮影したのか。でも、こ
れで明日香に対しては何の言い訳もできなくなったのだ。下手に何もなかったと嘘をつか
なくて良かったのかもしれない。それでも全てを話せるわけはなかった。叔母さんが僕の
ことを好きだと言ってくれたこととかを。叔母さんは明日香のことを考えてもうやめよう
と言ったのだし、僕もそれに同意したのだから。
「驚いたでしょ? 友たちが偶然に江の島でお兄ちゃんたちに出合ったって言って送って
くれたの。随分遠くまでデートしたんだね」
「いや、デートとかじゃなく」
「お兄ちゃん?」
「う、うん」
「今日のことは全部あたしのせいだから、お兄ちゃんも玲子叔母さんもあたしに罪悪感を
感じることはないんだよ」
「だって・・・・・・」
「そのうえで改めて聞かせて。お兄ちゃんは玲子叔母さんのこと好き? いや、そうじゃ
ないね」
明日香は言い直した。「お兄ちゃんはあたしと玲子叔母さんのどっちが好き? もっと
言えば、あたしと玲子おばさんと奈緒と有希で比べたら、お兄ちゃんが女性として一番好
きなのは誰?」
奈緒と有希の名前まで出てきたことに僕はびっくりした。僕と玲子叔母さんがキスして
いる画像を見た明日香は、玲子叔母さんのことだけではなく根源的な問題を解決しようと
考えていたのだった。
それは僕にとっても考えたくない厳しい質問だった。さっきまで自分の情念をぶつけ、
それを受け止めてくれた年上の玲子叔母さん。告白に答え一生一緒に暮らそうかと口説い
た義理の妹の明日香。
そして、僕の始めての恋人であり、今では悲劇的な別離を乗り越えて奇跡のような再開
を果たした奈緒。卑怯な考えだけど優劣なんかつけられない。それでも僕は今は明日香に
返事をする義務があると思った。
混乱した思考の中で、唯一そんなことはないと言い切れるのは有希だけだった。少なく
とも僕の方は有希に対しては恋愛感情は全くない。昔、告って振られた女さんに対する気
持よりももっとない。
・・・・・・答えはもうわかっていたのだ。それは自分の本心ではないにしても。僕はそれを
明日香に言う前にもう一度深呼吸した。ここで答えてしまえばもう今度こそ永遠にそれを
貫くしかなくなる。
『少なくともあたしの方は奈緒人のことが好きだったよ。こんな気持ちをあんたに知られ
たらドン引きされるだろうし、二度と叔母さんって呼んでくれなくなると思って必死で隠
していたけどね』
『あたしにとってもあんたにとっても大切にしなきゃいけない女の子がいるでしょ。明日
香とあんたが仲直りして結城さんと姉さんの家庭はようやく幸せな普通の家庭になろうと
しているの。だからここまでにしよう』
玲子叔母さんの意思は明確だった。僕とどうこうなろうなんて全く考えてさえいない。
今日の出来事は今日だけの夢だと思わなければいけない。叔母さんが今日、僕のことを受
け入れていたとしたらという考えも繰り返し浮かんだのだけど、それは無益な考えだった。
叔母さんを喜ばせるためには僕は明日香と恋人同士でい続けなければならないのだ。
そして奈緒。
僕は奈緒のような美少女が何で僕なんかと付き合ってくれたのだろうとずっと考えてい
た。奈緒と手を繋いで有頂天になっていたときだって、意識の底では常にそういう疑問が
流れていた。積極的な奈緒の態度に自分を誤魔化してはいたけど、こんな冴えない僕に何
であんな可愛い奈緒が好きになってくれたのだという疑念は常にあった。
そして今ではその疑念は解決した。僕の奈緒への想いはともかく、奈緒があんなに積極
的に行動するほど僕に惹かれたことには理由があったのだ。僕の記憶は解離性健忘とやら
のため曖昧だけど、幼い頃、誰よりも大切にしていた女の子の思い出はようやく浮かんで
くるようになっていた。それは幼い頃、無理矢理引き剥がされて会えなくなった仲のいい
実の妹の記憶だ。このとき僕はそのつらい出来事を思い出していたのだ。
妹を車に乗せた母親。僕はそのとき何が起ころうとしているのか判らなかった。多分、
妹もそうだったのだと思う。それまでしっかりと抱き合っていた僕たちは引き剥がされ、
奈緒は知らない男の人が運転席にいる車に乗せられた。その瞬間、永遠に引き剥がされる
のではとようやく思いついた僕と妹は同時に叫び出していた。
『奈緒・・・・・・奈緒!』
『お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや』
僕と偶然に再会した奈緒は無意識に僕に惹かれたのだと言う。ずっと兄である僕を忘れ
られなかった彼女は、兄以外の男性に惹かれたことに対して罪悪感まで感じていた。そし
て、そこが僕と奈緒の決定的に違うところでもあった。
奈緒はずっと思い続けてきた兄に再会したことを素直に喜んだ。自分の初めての彼氏が
消滅してしまうのにも関わらず。僕も妹に再会できたことは嬉しかったのだけど、時間が
経つにつれ奈緒の中で彼氏としての自分が消滅してしまうことに焦燥を覚えた。客観的に
見れば奈緒は実の妹だ。そして彼女は素直に、昔引き剥がされた大好きな兄である僕と再
会したことを喜んでいる。そんな奈緒の気持ちに僕は飽きたらない感情を抱いてしまった。
今にしてみればわかる。
奈緒がこんな冴えない男を好きになって彼氏にしようとしたその意味が。奈緒は最初か
ら無意識のうちに兄貴を求めていたのだろう。実の兄貴になら高スペックを求めるまでも
ない。矛盾するようだけど僕が奈緒の兄貴でなかったら、奈緒は僕なんかを恋愛の対象と
考えることすらなかったはずだ。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「お兄ちゃんは誰を選ぶの?」
震える声で明日香が聞いた。
こいつの僕への愛情だけはもう疑う余地はない。答えなんか初めから決まっていた。玲
子叔母さんは僕と明日香の仲がうまく行くことだけを望んでいる。そして奈緒は今では僕
のことを大好きな実の兄としてしか考えていない。もちろん有希さんは僕にとってそうい
う対象ですらない。
「何度も言わせるなよ」
僕は明日香に言った。「ずっと一緒にいるんだろ?」
「はっきり言って。それでもう二度とうるさく言わないから」
明日香がくぐもった声でそう言った。
「明日香のことが一番好きだよ。ずっと一緒にいようよ。父さんと母さんと四人だけで」
明日香が再び僕に抱きついてぐずりだしたので、僕は明日香の顎に手をかけて彼女にキ
スした。
「ありがと」
「礼なんか言うなよ」
もうこれでいいのだと僕は考えた。
「でもさ、ずっと四人なの?」
「何が?」
「・・・・・・家族って増えるもんじゃないの」
「何を言ってる・・・・・・って、何してるの」
明日香が何かごそごそとスマホを操作していた。
「もう二度と迷わないように、お兄ちゃんと叔母さんのキスの画像を消去したの」
「これでよし。お兄ちゃん?」
「うん」
「ごめんね。あたしもう迷わないし不安に思わないから」
「よかった。明日香、愛してるよ」
「あたしも」
スマホをぽいと机に置いて明日香が抱きついてきた。
僕たちは抱き合った明日香のベッドにもつれ合うように倒れ込んだ。
翌日、いつもの時間にいつもの車両に乗り込むと、富士峰の制服姿の奈緒が僕を見つけ
て微笑んだ。
「おはようお兄ちゃん」
それは今朝ベッドの中で僕に呼びかけた明日香の屈託のない、でも少しだけ顔を赤くし
た声とそっくりだった。
今日は以上です
乙
ヤリチン過ぎ
ゴム持ってんのかな…
乙
「先週の土曜日はごめんね。ピアノ教室まで迎えに来てくれたんでしょ」
「うん。インフルエンザだたって? もう大丈夫なの」
「うん、もう平気。ほんとにごめん。無駄に迎えに来てもらちゃって」
「いいよ、そんなの。病気なのにいちいち迎えに来なくていいとか連絡なんてできるわけ
ないじゃん」
「だって・・・・・・」
そう言って口ごもる奈緒の容姿ははやはり可愛らしかった。自分の妹の容姿をちらちら
と盗み見る兄ってどうなんだろう。今は僕は明日香の彼氏として誰にも恥じることのない
行動を取るべきなのに。
「あたしのこと心配だった?」
突然、奈緒が微笑んで悪戯っぽく聞いた。
「・・・・・・心配したよ。あたりまえだろ」
実の妹なんだからと言おうとしたけど、その言葉は胸に秘めておいた。
「心配させちゃってごめんね。でも奈緒人さん・・・・・・じゃなかった、お兄ちゃんがあたし
のことを心配してくれるなんて嬉しい」
「僕のこと、そんなに薄情な兄だと思ってたの」
一々、兄とか妹とか口にする僕の感覚が異常なんだ。僕はそう思った。それに僕には今
でも昨晩の明日香の表情が胸の中に残っている。未だに誰が撮影したのか謎だけど叔母さ
んと僕のキスしている画像を削除して、僕に抱きついてきた明日香の表情が。あのとき彼
女は言った。もう迷わないし不安に思わないって。
僕ももう迷わないと決めたのだ。こんなにふらふらしている僕だけど、昨日抱きついて
くる明日香を抱いたことへの責任は取らなきゃいけない。それに今では僕の心の中には、
今朝、恥かしそうな表情でおはようお兄ちゃんと言って僕を起こしてくれた明日香に対す
る愛情がこれまでにないくらいに満ち溢れていた。
叔母さんとは今までどおりいい叔母と甥の関係に戻る。奈緒とはいい兄妹の関係になる。
それでいいじゃないか。僕には明日香がいるのだかから。
改めて考えると、僕のために自己犠牲を厭わずに尽くしてくれていたのは明日香なのだ。
彼氏と別れたり自分の仲間と縁を切って、僕の好みの容姿になってくれたり。そして、そ
れ以上に本当に僕がつらかったときに僕を抱きしめて慰めてくれたのは明日香だけだった。
もういいじゃないか。この先奈緒のことを考え悩んだりフラッシュバックを起こしたと
しても、きっと僕の恋人の明日香が僕を支えてくれるだろう。そのことに僕は今では何の
疑い抱いていなかった。
そのときの僕の夢見がちなうつろな態度に奈緒は少し不満のようだった。
「お兄ちゃん、今誰か他の女の子のことを考えたでしょ」
実際、明日香のことを考えて少しだけ幸せな気分になっていたのは事実だったから、僕
は奈緒の追及に狼狽した。
「あたしと一緒にいるのに、誰のことを考えてたの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、何考えてたのよ」
奈緒が僕の腕に抱きつきながら不満そうな様子で聞いた。
「別に何でもない。おまえがよくなってよかったなって」
どういうわけか奈緒が少し顔を赤くして照れた様子で答えた。
「おまえって・・・・・・。お兄ちゃん、こないだまで奈緒ちゃんって呼んでたのに」
「馴れ馴れしいかな? 奈緒ちゃんって呼んだ方がいい?」
「やだ」
奈緒はいたずらっぽく笑った。
「何なんだよ」
「お兄ちゃんこそ、話題が逸れてほっとしたでしょ」
「何の話だよ」
「お兄ちゃんが考えていた女の子の話だよ。でもいいよ、おまえでも奈緒でもお兄ちゃん
がそう呼びたいなら」
奈緒が笑って言った。それ以上僕を追及する気はないようだった。
「明日は迎えに来てくれる?」
奈緒が言った。
「あ、土曜日のピアノ教室の日だっけ? うん、いいよ」
「よかった。・・・・・・明日もお昼ごはんに連れて行ってくれる?」
もちろんと言いたいところだけど、今では前とは状況が異なる。奈緒が僕の彼女だった
ときのように振舞っていいのか僕には判断できなかった。それに今は少しでも長く明日香
のそばにいたい。明日香に告白してお互いに恋人同士になってから、明日香に対してこん
な気持になるのは初めてだった。最初は消去法で明日香の告白に答えたことは自分にも否
定できない事実だった。でも今ではそうじゃない。昨晩、明日香を抱いたのは決していい
加減気持ちではなかった。玲子叔母さんのことや奈緒のことも含めて悩んだ末の結論だっ
た。
だから、たとえ奇跡的な再会を果たした妹とはいえ、これ以上曖昧に自分の彼女のこと
を奈緒に隠すわけにはいかないと僕は思った。
「それはちょっと無理かも。ごめん」
奈緒の表情が曇った。
「え、何で? あたしお兄ちゃんと明日はずっと一緒にいられるんだと思ってたのに。奇
跡的に再会できたんだよ? あたしたち」
「それはそうなんだけど・・・・・・。僕も今は彼女がいるし、あいつを寂しがらせるわけには
いかないし」
僕の言葉を聞いて奈緒の顔が一瞬で真っ青になった。
「え? 何よそれ。お兄ちゃんとあたしは兄妹ってわかるまでは付き合っていたんでし
ょ? まさか、その頃から二股かけてたの」
「そんなことないよ。でもおまえは僕の実の妹だし、もうおまえのことは彼女とは言えな
いじゃんか」
「それってついこの間にわかったことじゃない。それなのに何でもうお兄ちゃんにあたし
以外の彼女がいるわけ? ついこないだまであたしと付き合っていたくせに」
奈緒の表情がいつものような穏かな微笑みを浮べていた今までと一変している。
「違うよ。話を聞けって。おまえが実の妹だって聞いて僕だって悩んだんだよ。この間ま
で女性として好きだったおまえとはもう恋人同士でいられなくなったわけで。そんなと
き」
「明日香ちゃんか」
今までの照れたような好意的な態度からひどく醒めた表情に変わった奈緒が言った。
「え? おまえ何で知って」
「明日香ちゃんなんだ。何で知っているって? バカなこと言わないでよ。お兄ちゃんに
は昔の記憶があまりないのかもしれないけど、あたしは全部覚えてる」
僕は言葉を失った。何で奈緒が明日香とのことを知っているんだ。いや、それより奈緒
は昔の記憶があると言った。奇跡的な偶然の再会の末に思い出したのだろうか。
「お兄ちゃん、明日香ちゃんのこと好きなの」
そう言った奈緒は僕が初めて見るような暗い表情だったかもしれない。過去の記憶があ
まりない僕にとって、奈緒はいつも礼儀正しくて自制できる女の子だった。恋人になった
ときその自制が崩れて混乱した表情で僕に抱きついてきたことはあった。でも今の奈緒は
僕が初めて見るような暗く重い感情をその顔に宿していた。
「うん。明日香は僕の彼女だよ」
僕は奈緒にそう答えた。奈緒がどう思ってもしかたない。僕にとってこれまでの明日香
の僕への献身はそれくらい重いものだった。そして僕はそういう明日香に応えたのだから
ここで迷うわけにはいかなかったのだ。
せいぜい奈緒が再会した兄貴にできた彼女に嫉妬して悲しむくらいに僕は考えていた。
それでも奈緒と僕は再会した仲のいい兄妹でい続けられるだろうと思っていた。なにより、
奈緒は僕のことを兄貴として割り切っていたようだったから。
でもそれは僕の誤解、僕の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
「そういうことなんだ」
奈緒が言った。これまで優等生的な優しい美少女だった彼女の印象が覆るくらいに冷た
く他人行儀な表情で。
「奈緒?」
「奈緒じゃないでしょ」
奈緒が切り捨てるように言った。
僕は本気で狼狽した。明日香との仲を奈緒に怒られたからとかそういう意味ではない。
目の前にいる奈緒の豹変に驚いたからだ。これが兄妹の再会に涙を流して僕に抱きついて
きた奈緒とは思えないし、付き合っていた頃のような一見控え目だけど実は積極的で明る
い印象の奈緒でもない。それに一度有希とメアドを交換したとき、付き合い出して初めて
奈緒は僕に嫉妬したのだけど、そのときだって彼女は俯いて涙を浮べて黙っていたのに。
「浮気していたくせに、偉そうにあたしを呼び捨てにしないでよ。明日は絶対に迎えに来
て」
奈緒は激情を抑えて、そして冷たいといっていいほど冷静に僕に言った。そういう奈緒
の表情を見るのは初めてだった。
「・・・・・・行くけど」
「一緒に食事してくれないならそれでもいいけど、話がしたいんで時間だけは空けておい
て」
「奈緒、おまえさっきから何言ってるんだ」
「あたしのことを奈緒って言わないで! おまえって呼ぶのもやめて」
「じゃあ、何て呼べば」
「うるさい、死ね!」
奈緒は僕が初めて見た鬼のような形相のまま、まだ駅に着く前の電車の中で僕から離れ
ていった。これではまるで仲直りする前の明日香のようだ。
奈緒を見失った僕は仕方なくそのまま登校した。今週休んだことへの兄友や女さんの追
求を交わした僕は、奈緒の突然の豹変振りに悩みながら帰宅した。
帰宅すると驚いたことに父さんと母さんがリビングで明日香と一緒にいた。珍しいこと
もあるものだ。たまたま両親が二人とも仕事が早く終ったのだろうか。
「おかえりなさい」「おかえり」「おかえりお兄ちゃん」
父さんと母さんと明日香の声が同時に僕を迎えてくれた。でもその声は不自然なものだ
った。僕はすぐにそのことに気がついた。
「父さんたち何でこんな時間に家にいるの」
僕が戸惑って質問すると母さんが微笑んだ。
「ほんとに偶然なのよ。あたしも帰ってパパがいたからびっくりしちゃった」
「僕も驚いたよ。こんな早い時間にママがいるなんてな」
どういうわけか父さんと母さんはいつもと違って白々しいというか棘のある口調で言っ
た。いつもこっちが恥かしくなるほど仲がいいのに。
「お兄ちゃん、二階に行こうよ」
明日香が僕の袖をそっと引いた。
「でも・・・・・・」
「夕食の支度ができたら呼ぶからね」
母さんが僕の方を見ないで小さく言った。
明日香に手を引かれるようにして僕は彼女の部屋に連れて行かれた。
「いったいどうしたんだよ」
明日香を見ると彼女も戸惑っているような心配そうな表情を浮かべていた。
「ママが怒ってるの。何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよって」
「何だそら。マキって誰?」
「お兄ちゃんの本当のお母さん」
「・・・・・・どういうこと?」
「わかんないよ。学校から帰ったらパパとママが喧嘩してたの」
明日香が帰宅したときには珍しくもう父さんと母さんが帰宅していて、リビングで口論
している声が聞こえたのだという。明日香はしばらくリビングの前で二人の口論を聞いて
いた。
『・・・・・・何でいつまでもあたなはマキちゃんのことを気にするのよ。離婚して何年経って
いると思っているの。それなのにいったいいつまであなたはマキちゃんの言動に振り回さ
れれば気が済むの!』
『そんなんじゃないよ。僕はただ珍しくマキからメールが着たからそれを君に相談しただ
けだろ』
『だってあなたはメールの内容を気にしてるじゃない』
『それはするに決まっているだろ。子供たちのことなんだ』
『あたしにはあなたが何でこんなに神経質になってマキさんの言うことに反対するのかわ
からないよ。マキさんにまだ反感があるからあえて彼女の言うことに反対しているんじゃ
ないの? 逆に言うとそれってまだマキちゃんのことを気にしてるからでしょ』
『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんて
あり得ないだろ』
『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できる
よ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去
を蒸し返してどうなるっていうのよ』
『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろ
う。奈緒人が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだ』
『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキより脅威なの。マキち
ゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香と
仲良くなってもらいたいの』
このあたりで明日香はリビングの前に立っていることを母さんに気が付かれた。
「いったいどういうこと?」
「あたしにだってわからないよ」
明日香も混乱しているようだった。父さんと母さんの言い合いなんて珍しい。確かに両
親ともに多忙な仕事をしているせいもあって家族が揃うことは珍しかった。でも今まで父
さんと母さんが仲違いしているところなんか見たことがなかった。
マキという女の人のメールが両親の喧嘩の発端らしいけど、明日香によればマキという
人は僕を産んだ本当の母親らしい。
奈緒と出会って仲良くするとか、いったいどうしてマキさんはそのことを知っているの
だろう。奈緒が告白したのだろうか。
「レイナって誰だろう」
「わかんないよ。玲子叔母さんなら知っているかもしれないけど」
昨日の今日で玲子叔母さんにそんな質問ができるはずもない。
「ママとパパって離婚しちゃうのかな」
明日香が不安そうに言った。
「何でそうなるんだよ。喧嘩なんてしない夫婦の方が珍しいだろ。僕とおまえだってそう
じゃん」
「それはそうだけど・・・・・・。今までパパとママがあんな風に言い合っていたことはなかっ
たし」
「大丈夫だよ」
「あたし、お兄ちゃんと離れさせられちゃうの嫌だよ」
「何でいきなりそうなるんだよ」
「だってありえない話じゃないじゃん。パパとママが離婚すれば」
「考え過ぎだって」
「でも実際、お兄ちゃんと奈緒ちゃんは引き離されたんでしょ?」
僕は言葉を失った。そうだ。僕と奈緒は両親の離婚によって引き離されたのだ。身近に
そういう例がある以上、明日香が不安に思ったとしても無理はないのだ。
僕は泣きそうな顔をしている明日香を思わず抱き寄せた。
「あ・・・・・・」
抱き寄せた明日香の体が震えた。
「僕とおまえは一生一緒だよ」
「だって」
「おまえが嫌だといっても僕は明日香を離さない。たとえおまえが迷惑に思っていたとし
ても僕はおまえから離れないよ」
「迷惑なんて思うわけないじゃん。でも、あたしずっとお兄ちゃんにひどい態度を取って
きたのに」
「僕が一番つらかったとき、僕を支えてくれたのはおまえだから。奈緒とのことで僕は傷
付きそうなことを理解して、彼氏と別れてまで僕のことを守ろうとしてくれた」
「・・・・・・お兄ちゃん」
「好きだよ明日香。今にして思えば多分、前みたいにケバイ格好をして僕のことを虐めて
いた頃から、僕はおまえのこと好きだったのかもしれないね」
「・・・・・・うん」
明日香は泣きながら僕の胸に顔をこすり付けた。
「父さんたちは大丈夫。でも万一、父さんたちが離婚したとしても僕と明日香はずっと恋
人同士だよ」
「・・・・・・うん」
「大学を卒業してさ、将来就職できたら僕と結婚してくれないか」
明日香が泣き止んで僕の胸から顔を上げた。
一瞬だけ時間が止まった。
「喜んで。この先もずっと一緒にお兄ちゃんといられるのね」
しばらくして母さんが階下から声をかけた。夕食の時間だった。
家族四人で食卓を囲むのは久し振りだったけど、いつものような自然な雰囲気は望むべ
くもなかった。
それでも明日香は僕のプロポーズの余韻が残っていたのか、やたらに僕を構いたがった。
皿に料理を取ってくれるとか、飲み干したコップに冷水を注いでくれるとか。
父さんと母さんはお互いに気まずい表情だったけど、僕たちを意識しているのかなるべ
く普通に会話しようと努力しているようだった。
「お兄ちゃん」
「何」
「口に玉子の黄身が付いてるよ」
明日香がテーブルの上のティッシュを取って僕の口を拭った。
母さんが嬉しそうに微笑んだ。
「明日香はお兄ちゃんのことが大好きなのね」
「うん。そうだよ」
明日香は以前とは違って真顔で母さんに答えた。
「うふふ。奈緒人君はどうなの? 明日香のこと好き?」
母さんが僕たちが結ばれることを望んでいることは明日香からも叔母さんからも聞いて
はいたけど、ここまで露骨に聞かれるのは初めてだった。僕は赤くなった。
「うん」
僕は母さんではなく明日香を見てそう言った。
そのとき、母さんの嬉しそうな微笑みとは真逆なような父さんの暗い表情に僕は気がつ
いた。
今日は以上です。
乙。
歴史は繰り返す、か。
こんな優柔不断な親父は嫌だな
優柔不断なのは親子揃ってのことだけどなww
その血の宿命ッ!
乙
まじで奈緒人はやりチンの血筋だわ
乙
どいつも親に似ているが
奈緒ちゃんは果たして聖女なのか
玲菜が麻季の予想通りの女だったとしたら
奈緒も腹に一物ありそうだな
いまのところはただの被害妄想だけどね
夕食後、明日香と一緒に二階に上がった僕は、明日の土曜日に奈緒をピアノ教室に迎え
に行ってもいいか聞いた。彼女が嫌がるようなら、奈緒と約束してしまったので明日だけ
は許してもらってそれでもうお迎えは終わりにしようと思ったのだ。きっと嫌がるだろう
なと僕は思っていた。だから明日香が迎えに行くだけならいいよってあっさっりと言った
ときは少し驚いた。
「僕と奈緒と会うの嫌なんじゃないの?」
僕は明日香の部屋で彼女の隣に座って聞いた。明日香はカーペットの上にぺたんと座り
込んで隣にいる僕の顔を見上げた。
「喜んで行ってらっしゃいと言えるほど心が広い女じゃないんだけどさ」
明日香は笑った。「でもまあ、お兄ちゃんにはプロポーズされたばっかだし、こんなと
きまで嫉妬してお兄ちゃんを信じられないなんて、あたしの方が嫌だもん」
「無理してない?」
「してない。お兄ちゃんを信じてるよ。でもこれからは奈緒ちゃんを送ったらなるべく早
く帰ってきてね」
「うん。わかってる」
僕だってそのつもりだった。奈緒からは話があるとは言われていたのだけれど、一緒に
昼食をとることは断ったのだし、食事抜きで何時間も話をしているわけではないだろう。
それにいくら兄妹とはいえ、今では僕の婚約者である明日香を放って毎週奈緒を迎えに行
くわけにもいかない。奈緒の機嫌次第だけど、一応もう迎えにはいけないと言ってみよう。
「明日はなるべく早く明日香のところに戻ってくるよ」
それを聞いて明日香が黙って僕に身体を預けたので、僕は明日香の肩を抱いた。華奢な
感触が手に伝わった。そういうこと考えるべきじゃなかったけど、その感触は奈緒を抱き
寄せたときや玲子叔母さんと抱き合ったときの記憶を思い起こさせた。僕は少し狼狽して
明日香の顔を覗ったけど、明日香はもう別なことを考え始めていたようだった。
「ねえ・・・・・・」
明日香が素直に僕に抱き寄せられながら言った。
「うん」
僕は自分の思いを悟られなかったことにほっとした。そして少し罪の意識を感じて、そ
れを誤魔化すために明日香の肩を抱く手に力を込めた。
「ちょっと強く抱きしめすぎだよ。変な気持になっちゃうじゃん」
「だめ?」
「今日は下にママたちがいるんだよ」
明日香が笑って僕をたしなめた。「だからお兄ちゃんも我慢して。そうじゃなくて、や
っぱり夕食のときのパパとママの様子って変だったよね」
確かにそうだった。食卓を囲んだときの父さんと母さんの様子には、明日香が帰宅した
ときのような二人のいさかいの片鱗もなかった。子どもたちを気にしてお互いへの態度や
言葉を取り繕っていたのだろう。それでも母さんが親密な明日香と僕の様子に喜んでいた
のに対して、父さんはほとんど反応を示さなかった。よく考えてみれば不思議なことでは
あった。以前玲子叔母さんから聞いた話だと、母さんだけでなく父さんも僕と明日香が仲
良くすることを望んでいるということだったから。
僕はさっき明日香から聞いた父さんと母さんの会話、というかいさかいの内容を思い出
した。
『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんて
あり得ないだろ』
『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できる
よ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去
を蒸し返してどうなるっていうのよ』
『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろ
う。奈緒人が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだ』
『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキより脅威なの。マキち
ゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香と
仲良くなってもらいたいの』
僕が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだと父さんは言っていたそうだけ
ど、その妹とは状況から考えると明日香ではなく奈緒のことだろう。つまりマキさんとい
う僕の実の母らしい人から父さんにメールが来た。そしてそのメールは、僕と奈緒が知り
合って仲良くしているのでそれを止めさせて欲しいという内容だったのかもしれない。何
でマキさんが僕と奈緒を会わせたくないのかその理由は不明だった。そして父さんは僕と
奈緒が仲良くすることのどこがいけないんだといい、母さんは僕には奈緒より明日香と仲
良くなってほしいと主張しているらしい。
僕の母親からのメールの内容に対して反対しているのが父さんで、賛成しているのが母
さんだと言うことになる。それでいてどうやら母さんは、父さんがマキという人を気にし
ていると言って非難しているようだ。
なかなか複雑で一概には理解できない。
「母さんは僕が妹の奈緒と仲良くするのがいやなんだろうか」
「お兄ちゃんもそう思う?」
「そういうふうに聞こえるよね」
「逆に考えるとさ。パパってあたしとお兄ちゃんが仲良くするの内心では喜んでないのか
なあ」
明日香が不安そうに言った。
「・・・・・・前に玲子叔母さんから聞いた話だと、父さんも母さんも僕と明日香が仲良くする
のを望んでいるみたいなことを言ってたよね」
「うん。あたしもそれ覚えている。つうかあのときは嬉しかったし」
「じゃあ、何であんな言い争いをしてたんだろう。マキっていう人からのメールには何て
書いてあったんだろうな」
「マキさんってお兄ちゃんの本当のお母さんだってば」
「それは聞いたけど」
本当の母親と言われても全く実感がわかない。マキという人から父さんにメールが届い
た自体が問題なのだろうか。でもそれだけではないような気もする。
明日香の不安にも根拠がないとは言えなかった。母さんは僕と明日香の仲のいい様子を
見て喜んでいる様子だったけど、それに対して父さんはそのことにさほど乗り気な様子を
見せていない。
「でもさ。僕と奈緒は兄妹なんだし、普通に考えれば父さんが僕と奈緒が仲良くすること
を応援していたとしてもさ、それが僕と明日香が付き合うことに反対しているっていう意
味にはならないと思うけどな」
「それはそうかも。じゃあ、パパもママもあたしとお兄ちゃんが付き合うこと自体を問題
にしているんじゃないのかな」
「多分ね。玲子叔母さんが言っていたことが正しいなら。むしろ僕と明日香のこととは関
係なく、僕が妹と仲良くするのがいいことなのかどうかで喧嘩してたんじゃないのかな」
「奈緒ちゃんに嫉妬していたあたしが言うのも何だけど・・・・・・。ママはもうあたしたち家
族を放って置いて欲しいんじゃないかな。マキさんにも奈緒ちゃんにも」
再婚家庭なんだから、元の奥さんやその子どもとは関わりたくないという母さんの気持
も理解できるような気はするけど、何となくそれだけじゃないような予感がしていた。父
さんとマキさんが再び仲良くなるのとは話が違う。僕が知っている母さんは、確かに僕の
本当の母親ではないけど、かつて悲劇的に引き離された仲の良い兄妹の再会にまで文句を
言うような人ではないと思う。
「明日、奈緒に聞いてみるよ。奈緒の家庭でなんかあったのかどうか」
「うん。あたしもお兄ちゃんが奈緒ちゃんを迎えに行っている間、叔母さんに話を聞いて
みる。レイナさんという人のことはこれまで聞いたことがなかったし」
レイナって誰なんだろう。母さんがマキさんよりも脅威だとかいうほどの人らしいけど。
「お兄ちゃんさ、奈緒ちゃんを送ったら自宅じゃなくて叔母さんのマンションで待ち合わ
せしよ」
「え」
「えじゃない。あたしと叔母さんはお兄ちゃんの不誠実な浮気くらいで壊れるような仲じ
ゃないし。叔母さんとキスしたことはもう気にしなくていいんだよ」
「不誠実な浮気って。僕はそんなつもりは」
なかったとは言い切れなかった。でも明日香は笑った。
「冗談だって」
明日香と叔母さんの仲よりも、どちらかというと僕と叔母さんが気まずい雰囲気になる
んじゃないかと心配したのだけど、それは明日香には言いづらい。
「それにいつまでも叔母さんとお兄ちゃんと三人で過ごせないなんて嫌じゃん。こういう
ことは早く解決しちゃった方がいいよ。心配しなくていいから。お兄ちゃんが叔母さんの
部屋に来る頃までには、今までどおりの三人の仲に戻しておいてあげるよ」
僕は付き合うようになって初めて、明日香の中に今まで僕が知らなかった面がいっぱい
あることを思い知らされていた。きつい性格で僕を罵っていた明日香が仲直りして泣き虫
で甘えん坊な側面を見せた。でも彼女はそれだけじゃない面を持っているようだ。実の妹
と付き合い出してしまった僕を黙って救おうとしてくれた明日香や、奈緒が実の妹だと知
ってフラッシュバックに悩んでいた僕を黙って根気強く支えてくれた明日香。
そして今では僕をリードして積極的に疑問を解決しようとしている。そんな僕が知らな
かった明日香の姿に僕は密かに萌えていた。
あのまま付き合っていれば奈緒も礼儀正しく優しく、でも積極的な女子だけではない顔
を見せてくれていたのだろうか。僕はさっき初めて見た奈緒の冷たい態度を思い出した。
「パパとママって今は静かだよね」
そんな僕の感慨を断ち切るように明日香が階下を気にして言った。
「うん。狭い家だから喧嘩していればここまで聞こえるだろうしな」
「仲直りしたのかな」
「かもしれない」
明日香の部屋から様子を覗おうとしても階下からは何の気配もしない。
「・・・・・・ちょっと偵察に行ってこようかな」
「マジで? 僕も行こうか?」
「お風呂に行くついでなんだけど。まさかついて来るつもり?」
「んなわけないだろ。おまえが風呂出るまで自分の部屋にいるよ」
「またエロゲ?」
「してないってそんなもん」
「まあいいや。ちょっと偵察してくるよ。また後でね」
明日香は僕に軽くキスしてから僕の腕から抜け出した。
自分の部屋に戻った僕は何となく机のPCを起動した。
あれ?
前回、異常終了したのだろうか。インターネットのブラウザが異常終了時のセッション
を復元するか聞いてきた。そういや最近は自宅でPCを使うことなんてなかったな。そう
思った僕は何気なくその選択肢にはいをクリックした。それこそギャルゲの選択肢を無意
識に選んでしまったときのように。
終了時に表示されていたサイトが浮かび上がった。それは僕なんかが閲覧しようと思う
ことすらない画面だった。
それは何やらハーブやアロマを通販している販売サイトみたいだった。でも、以前警察
の平井さんの話を聞いていた僕は、そのサイトを眺めているとだんだんと販売されている
商品が理解できるようになった。これは脱法ドラッグの販売サイトだ。見た目は綺麗なア
ロマ系のハーブの商品が整然と陳列されているように見えるけど。
こんなページを見た覚えはない。考えられるのは明日香くらいだ。明日香の部屋にはパ
ソコンがない。高校生になるまではネットに接続したPCは与えないというのが両親の方
針だった。もっともスマホに買い換えた時点でネット接続なんてしたい放題なのだけど。
それで今までにもこういうことはあった。明日香が僕の部屋に入り込んで勝手にネットを
見ていることが。
僕自身に覚えがない以上、これは明日香が見たサイトなのだろう。それにしてもこんな
やばそうなサイトを何で明日香が見たのだ。これもイケヤマとか悪い友人たちの影響だっ
たのだろうか。
僕はサイトをを眺めながらその下部に表示されている「連絡先」というリンクに辿り着
いた。
何気なく「連絡先」という文字にマウスを重ねると、アンダーバーにリンク先のメアド
が表示された。僕には過去の記憶はないけれど記憶力自体が劣っているわけではない。表
示されたメアドのことははっきりと思い出せた。あのときはあれだけその内容に狼狽して
いたのに。
それは昨日、明日香のスマホに届いたメールの発信先のアドレスだった。それは捨てア
ドっぽいWEBメールのアドだ。僕は階下の様子を覗った。
まだ明日香が風呂から出てくる様子はしない。父さんたちの様子を偵察すると言ってい
たから、いつもより階下で粘っているに違いない。僕はPCをそのままにしてそっと明日
香の部屋に戻った。さっき明日香が机上に放置したスマホのメーラーを開く。
『結城明日香さんへ。しんせきの玲子さんが自分のマンションの前の車の中で気を失って
います。早く行って看病してあげてください。玲子さんは命にはべつじょうありませんけ
ど、雨にぬれているのでかぜをひくかもしれません。暖めてあげてください。あと、放っ
ておいても1時間くらいで気がつくと思いますけど起きたら砂糖水をいっぱい飲ませると
はやくよくなります。とおりすがりの者より』
差出人は不明だけど、そのメールの差出先は脱法ドラッグのサイトに表示されている連
絡先のリンクと同じアドレスだった。
要はこういうことだ。このサイトの管理人は明日香のメアドを知っていて、そこに向け
て玲子叔母さんの危機を知らせてくれたのだ。それが誰かはわからないけど。
僕は得体の知れない不安を感じながらも頭を働かせようとした。叔母さんを助けに行け
たのはこのメールを出した人のおかげだった。そして脱法ドラッグの販売サイトへの連絡
先のメアドからそれが発信されている以上、この救いのメールを送ってくれた人はこの脱
法ドラッグ販売サイトの関係者に違いない。
そしてさらに考えれば、あの救いのメールも別に玲子叔母さんを助けるのに間に合うよ
うに送信してくれたわけではない。今まであまり考えないようにしていたのだけど、玲子
叔母さんの裸身には赤い痣がいたるところに痛々しく刻まれていた。つまり僕たちが見つ
けて看病したとき、既に叔母さんは無理矢理ひどいことを強いられた後だったのだ。勘ぐ
れば叔母さんの身体を弄んで自由にしたあと、用済みの叔母さんの始末に困って明日香に
メールをした可能性だってある。そう考えると必ずしもあのメールが善意から送られたと
は言い切れない。
そしてそのメールを送信したやつは、この脱法ドラッグ販売サイトの関係者なのだろう
けど、いったい何で明日香の携帯のアドレスを知っていたのだろう。
ここで僕は明日香が暴行を受けて入院した日に、事情聴取に来た平井さんに聞いたこと
を思い出した。女帝はこのあたりの不良高校生たちを組織して脱法ドラッグの商売で利益
を上げているのだという。そして女帝が有希なのかどうかはまだ判然としないけど、少な
くとも有希ならば明日香の携帯のメアドを知っているのだ。
女帝に率いられた脱法ドラッグの商売。その販売サイトの捨てアドから明日香に送られ
たメール。そして送信者は明日香のアドレスを知っていた。
平井さんから話を聞いた後、玲子叔母さんはやるならあたしも手伝うようと言った。そ
のとき僕は叔母さんの身の安全を危惧したのだけど、結局僕の恐れていたとおりになって
しまったようだ。僕が手をこまねいて、恋愛もどきの悩みにうつつを抜かしている間に、
叔母さんが犠牲になったのだ。
僕のせいだ。
明日香のスマホを元通りに置いて部屋に戻ったとき、明日香がラフな姿でバスタオルで
髪を拭きながら僕の部屋に入ってきた。
僕はぎりぎりのところで明日香が部屋に入ってくる前にブラウザの画面を切り替えるこ
とに間に合った。
「お風呂のついでにリビングの様子を覗ってきたんだけど」
「う、うん」
「二人とも声を低くして話をしてたんでよく聞き取れなかったんだけど、レイナさんって
いう人のことを二人で話しているみたい」
「そうか」
僕の脳の容量はもうこれ以上の情報に耐えられそうもない。奈緒と会うことへの母さん
やマキさんの反対のことも気になるけど、玲子叔母さんの事件だって全く何も解決してい
ない。僕のおかげでもう忘れられたよと叔母さんは言ってくれたけど、客観的にはこれで
終わりかどうかもわからなかった。再び叔母さんが襲われることはないとも言い切れない
のだし。
とりあえず明日は奈緒の話を聞こう。そして僕と奈緒の母親であるマキさんの意図を探
ってみよう。奈緒ならばレイナさんという人のことも知っているかもしれない。それから
明日香の言い付けどおり叔母さんの家に行き、叔母さんの方の問題を考えてみよう。もっ
とも叔母さんが悪い夢を見たと思って忘れようとしているのなら、その話を叔母さんとす
るのは酷というものだ。でもそのときは平井さんを頼ればいいのだ。
僕はそう考えた。今はもうこれ以上は何も思い浮ばなかった。
「明日、奈緒に聞いてみるよ。今はもう考えても仕方ないだろ」
僕は明日香にそう言った。明日香は僕のベッドに腰かけていたけど、すぐに納得したよ
うにうなずいた。
「そうだね。あたしも明日は叔母さんにレイナさんのこととかマキさんのこととか聞いて
みるよ」
「まあ、直接父さんたちに問い質すという手もあることはあるけどな」
「それはよそうよ」
明日香は少し不安げな表情をした。「何かこわい。それで万一離婚するとか言われたら
嫌じゃない」
「そんなことはないと思うけどな」
僕はPCの電源を落として明日香の隣に座った。
「今日はここで一緒に寝てもいい?」
明日香が上目遣いで言った。
「だって、おまえが今日は我慢しろと言ったんじゃん。下に母さんたちがいるからって」
「一緒に寝るだけなら別に平気でしょ? ママたちは普段は二階になんか来ないんだから。
それに一緒に寝るだけなのに何を期待してたのよ」
「わざと言ったろ?」
ふふっていう感じの微笑をわずかに顔に浮べた明日香が僕をベッドから立ちあげるよう
にした。
「早くお風呂に入ってきて。あまり遅いとあたし先に寝ちゃうからね」
次の日は土曜日だった。僕は佐々木ピアノ教室の前で午前のレッスンの終了時間を待っ
ていた。堂々と入り口前で待っていようかとも考えたけど、奈緒より先に有希に顔をあわ
せるのが恐かったので、僕は最初と同じく少し離れた場所で入り口を覗うようにして奈緒
が出てくるのを待っていた。今日も冬の曇り空が広がり肌寒い。早めに着いてしまったせ
いで体が冷え切っている。
やがてようやく扉が外側に開き、女の子たちが固まって教室の外に出てきた。それはい
つ見ても華やかな光景だった。最初に出てきた一団の子たちの中には奈緒の姿も有希の姿
もない。それでも間断なく教室から吐き出される生徒たちをじっと見守っていると、やが
てその中に奈緒の姿が見えた。
奈緒は前にも見かけた眼鏡をかけた高校生の男と何か話しながら教室の外に出てきた。
幸いにも有希の姿はまだない。奈緒が僕の姿を探すようならわかりやすい場所に移動して
姿を見せようと思ったのだけど、奈緒は周囲を見渡したりしなかった。彼女は一緒にいる
男が自分に話しかける言葉に笑顔で応えていて、僕のことを探す素振りさえない。
そういう奈緒の笑顔はすごく可愛らしかったけど、今の僕にはそんなことはどうでもよ
かった。そのときの僕は心底から腹を立てていたのだ。僕は寂しそうな様子を隠そうと笑
顔で送り出してくれた明日香を放ってここに来ている。妹との約束を優先したためだ。そ
れなのにその妹の反応はどうだ。迎えに来いって高飛車に僕に要求したくせに、その兄を
探すようもなく男といちゃいちゃしている。
大人気ないと思いつつ僕は奈緒の前に姿を晒した。さすがに奈緒は僕に気がついたよう
だけど、それでも彼女はすぐに僕の方に来るでもなく男と話を続けた。それでも僕は奈緒
と一瞬だけ視線を合わせることができた。彼女はすぐに僕から目を逸らしたけど、これで
僕が約束を守ったことは彼女にもわかったはずだ。これ以上、奈緒からこんな態度を取ら
れるいわれはない。
僕は踵を返して駅に向かって一人で戻り始めた。
・・・・・・何かこういうことが前にもあった気がする。さっきの奈緒の様子に苛立ちながら
も僕は思った。あれは確か有希とメアドを交換したことに奈緒が嫉妬したときのことだ。
あのときもわざと僕の側に近寄らないようにしていた奈緒を置いて、僕は一人で駅に向か
っていたのだ。あのときは結局改札の前で、背後から駆け寄ってきた奈緒に抱きつかれて
謝罪された。でも今日は違うみたいで、背後には自分の態度を後悔して駆け寄ってくる奈
緒の気配はしない。それならそれでいいと僕は思った。どうせ今日で迎えは最後にしよう
と奈緒に言う予定だったのだし。
そう思いながら駅の改札まで来てしまった僕が改札をくぐろうとしたとき、携帯が鳴っ
た。メールだ。
『すぐに行くから前に入ったファミレスで待ってて』
短い無愛想なメールは奈緒からだった。
ふざけるな。僕はそう思ったけど、どいうわけか数分後には僕はファミレスの席に収ま
っていた。結局、奈緒がそこに姿を現したのは三十分も過ぎたときだった。
今日は以上です
乙
育ての親に似たか奈緒
登場人物が全部ビッチに見えてきた
密かに萌えていたwwwwww
……そういやそんなキャラだったな奈緒人
奈緒は僕が座っている席を見つけると、微笑みの欠片すら浮べずにむすっとした顔で黙
って向かいの席に座った。あの眼鏡の男と一緒だったらどうしようと思ったのだけど、奈
緒はどこかで彼とは別れてきたみたいだった。
「奈緒人さんって煙草吸うの」
相変わらず不機嫌そうな声で奈緒が言った。
煙草って何だ? というか奈緒人さんって・・・・・・。
「何言ってるの?」
「ここ煙いよ。何で喫煙席なんかにいるのよ」
「あ・・・・・・悪い。禁煙席が三十分待ちだって言われたから」
「あたし煙草って大嫌い・・・・・・。それくらい気を遣ってくれるかと思ったのに。それで何
か頼んだの?」
奈緒は相変わらず醒めた冷たい表情のままそう言った。
「ドリンクバーだけ先に頼んだ」
「・・・・・・お腹空いてるのに。あ、あたしもドリングバーをお願いします」
不機嫌な感情を全開にした奈緒が席を立って飲み物を取りに行った。このとき僕は切実
にこの場から消え去りたかった。こんなことなら明日香と二人きりで過ごしていた方がよ
かった。明日香だってその方が喜んでくれただろうし。
うまく行けばマキさんのメールの内容とかその背景とかを奈緒に聞き出そうと思ってい
たのだけど、彼女の様子はそういう感じじゃない。自分に非があるなら責められても仕方
ないのだけど、どう考えても僕に彼女ができたことが実の妹にこれほど責められることと
は思えない。
奈緒が飲み物の入ったコップを持って席に座りなおした。しばらく沈黙が続いた。
奈緒がドリンクなんてどうでもいいというようにテーブルに置いて僕の方を見た。
「何でそんなに居心地が悪そうなの? あたしと一緒にいるのがそんなにいやなの?」
「そんなことないよ」
僕は奈緒に嘘を言った。以前の奈緒ならともかくこれだけ敵対心を丸出しにしている彼
女と一緒にいることはいやだった。早く明日香に会いたい。とにかく明日香なら僕を安心
させてくれる。今の奈緒が僕に強いているように落ち着かない感覚を思いをさせるなんて
あり得ない。
「適当なことを言わないで」
「嘘じゃないよ・・・・・・」
「有希ちゃんの言っていたとおりだった。奈緒人さんって不誠実だよね」
僕が実の妹に対する恋心を諦めて、明日香を彼女にしたことはそんなにひどいことなの
か。僕の方もだんだんとイライラしてきた。
「あのさ、ファミレスに来る必要なんてなかったんじゃないの。奈緒ちゃんを教室から家
まで送っていくだけなら」
そこまで言うつもりはなかったけど、奈緒のひどい態度に心を傷つけられていた僕は思
わずそう言ってしまった。
「何であたしのことを奈緒ちゃんって言うのよ。昨日は奈緒とかおまえとか偉そうに呼ん
でたくせに」
「それは・・・・・・そう呼ぶなって言ったから」
「嘘つき」
え? 今、奈緒は何て言った?
「お兄ちゃんの嘘つき」
奈緒は僕を睨みながら再びそう言った。いつの間にか再び奈緒人さんではなくてお兄ち
ゃんと呼びかけられていることに、僕はしばらく気が付かなかった。
「約束したのに。パパもママもいらないって・・・・・・奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。
それでいいよな? ってあのときお兄ちゃんは言ったのに」
「・・・・・・そうだよ」
そのことは玲子叔母さんの話を聞いてから常に心の中で思い起こしていたことだった。
奈緒と引き離されたときの胸を引き裂かれたような痛みとともに。
「そうだよじゃない! あたしと二人でずっと一緒にいる気なんて今のお兄ちゃんにはな
いじゃない。お兄ちゃんはずっと明日香ちゃんと一緒にいる気しかないじゃない」
奈緒が泣き出した。
追い詰められた僕はついに今までは言わないでおこうとした言葉を口にしてしまった。
「あのときの気持には嘘はないよ。でも、おまえは僕の妹じゃん。何よりも大切な妹だけ
ど、それでもおまえは僕の彼女にはなれないだろそれに奈緒だってさっき眼鏡をかけた先
輩と仲良くしてたじゃんか。僕のことなんて無視して」
思わず嫉妬交じりの言葉を口にしてしまった。
「あんなの・・・・・・。お兄ちゃんに嫉妬させようと思ってしたことに決まってるでしょ。そ
んなことはお兄ちゃんだってわかってたんじゃないの」
迎えに来た僕を放っておいて他の男の言葉に笑顔で応えていた奈緒に対して、僕は嫉妬
を覚えたのだった。それは確かな事実だったけど、本気であいつと奈緒の仲に嫉妬したか
というとそれは疑わしい。それはきっと奈緒の嫌がらせだろうと僕は内心ではそう考えて
いたのだ。そしてその想いは僕の顔に出てしまっていたみたいだった。
「わかってたみたいね。それなら答えてよ。ずっとあたしと二人で生きるって言ってくれ
たんでしょ? 何でそこに明日香ちゃんが割り込んでくるの?」
「奈緒は僕の妹だし明日香は僕の彼女だから。二人とも僕にとって大事な女の子だよ」
僕は精一杯心を込めて今の僕の内心を吐露したのだけど、奈緒の表情には納得した様子
は覗えなかった。
「お兄ちゃん・・・・・・。あたしがお兄ちゃんと別れてから今までどんな気持で生きてきたの
か知らないでしょ」
「それは正直に言えば知らない。でもおまえだって僕のことなんかちゃんとは理解してい
ないだろ」
「少なくともお兄ちゃんはこれまでのあたしよりは全然幸せに暮らして来たんでしょ。そ
れにお兄ちゃんにはあまり過去の記憶がない。全部覚えているのに、そのうえ余計な話を
ママに教えられて今まで暮らしてきたあたしの気持を少しは考えてよ。ずっとお兄ちゃん
のことを想い続けてきたあたしの気持なんかお兄ちゃんは理解していないでしょ」
奈緒は何を言っているんだ・・・・・・。幸せにって、それは僕と奈緒の父親のことだろうけ
ど、少なくとも奈緒は本当の母親とは一緒に暮らしてきたわけで、そういう意味では僕と
奈緒はイーブンの関係じゃないか。
「今日は話があるって言ったでしょ」
「あ、うん。明日香を待たせているんであまり遅くはなれないけど」
「そんなこと知らない。遅くなっても付き合って」
奈緒が冷淡な表情で僕の答えを切り捨てた。「全部話すよ。あたしの話を。だからお兄
ちゃんももう逃げないで一緒に考えて」
奈緒が恐い顔でそう言った。
「何を言ってるのかわかんないよ。それにそんなに時間はないんだ。僕は早く明日香のと
ころに」
「そんなに明日香ちゃんといつも一緒にいなきゃいけないの? 今までずっと明日香ちゃ
んとは一緒に暮らしてきたじゃない。ようやく会えたあたしよりもいつも一緒の明日香ち
ゃんと少しでも一緒にいたいくらいにあの子のことが好きなの?」
「・・・・・・何言ってるの」
「お兄ちゃんの嘘つき」
「嘘じゃないって。でも一緒にいるっていろんな形があるだろう。奈緒と僕は兄妹として
ずっと一緒にいようって・・・・・・」
「誤魔化さないで。お兄ちゃんの一番大切な女の子は明日香ちゃんなんでしょ」
いい加減にしろ。僕は本気で思った。人が一生懸命に考えないでいようと思って、よう
やく決心したことを今さら蒸し返すなんて。たとえ僕と奈緒がその気になったとしてもど
ういしようもないことはこの世の中にはあるのだ。僕はもう自分を抑えられなかった。
「じゃあ聞くけどさ」
僕はこのとき泣きたい気持だったのだけど、外見はさぞかし冷たい笑いを浮かべている
ように見えたに違いない。
「じゃあ聞くけど。奈緒、おまえは僕の彼女になってくれるのか? 僕とエッチしてくれ
るのか。ずっと一緒にいるのはいいけど、僕の奥さんになって僕の子どもを産んでくれる
のか。実の妹のおまえには全部できないだろう。明日香とは違ってさ」
僕は口にした途端にそのことを後悔した。奈緒にそういう思いをさせたくなくて彼女を
冷たく振ったというのに。そして奈緒と僕の関係は今では実の兄妹とだということに奈緒
だって納得しているのだ。今さらそれを蒸し返してどうする。
奈緒の表情が固まった。でもその表情は、春の風に少しづつ溶けていく庭に積もった雪
のように柔らかく消えていった。
「ごめん。ひどいこと言っちゃった」
僕は伝票を掴んで立ち上がった。
「お兄ちゃん」
奈緒はさっきまでの不機嫌そうな感情を突然どこかに捨ててきてしまったかのように微
笑んだ。まるで兄妹であることを知らないで仲良く付き合っていた頃のようだ。
「お兄ちゃんはそんなこと考えていたんだ」
「何が」
僕は奈緒の豹変に戸惑った。
「お兄ちゃん、あたしのこと好きでしょ?」
「な、何だよ。いきなり」
奈緒は相変わらず微笑んだままだ。
「お兄ちゃんに嫉妬させちゃってごめんね。あの人とは何でもないから」
そんなことはどうでもいい。
「本当にさ、いったいどうしたんだよ。いきなり怒り出したりいきなり笑ったりしてさ」
僕は思わず自分が口走ってしまった恥かしい言葉を棚に上げてそう問い質した。
「お兄ちゃんってそんなこと考えてたんだ。でも気持ちはよくわかるから恥かしがらない
で。正直に告白するとあたしだって同じこと考えて悩んでたんだから」
奈緒の意外な言葉に僕は再び腰をおろした。でも、奈緒は僕が本当の兄だと発覚したと
きは泣き出しながら抱きつくほど喜んでいたのではなかったか。
「・・・・・・悩むって何で」
「お兄ちゃんと一緒。あたしが本当に悩まなかったって思ってたの? 一時は本当に好き
だった人が恋人にできないってわかったのに」
でもあのときの奈緒は純粋に昔離れ離れにされた兄との再会に感激していたとしか思え
なかったのに。僕は今でもそのときの奈緒の言葉は一言一句思い出せる。
『お兄ちゃん会いたかった』
『ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃ
んと引き離されたあの日からずっと』
『もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き
出すし、今のパパもつらそうな顔をするし』
『あたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好
きになったことはなかったの』
『そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白して
くれた男の子のことを断っちゃうの』
『それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔あたしのことを守ってくれ
たお兄ちゃんがどこかにいるんだから。あたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢
中になろうと思った』
『でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。
あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこ
んなに惹かれるなんて』
『奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上
がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈
緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって』
『それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ない
と思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから』
『でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっ
ぱりお兄ちゃんだったんだ』
「あのとき、おまえはそう言ってたよな」
「うん」
「あのときのおまえは僕が兄貴だって知って喜んでいたじゃんか」
僕はこのときは混乱していたので考えなしに喋ってしまっていたかもしれない。「無理
矢理引き離された兄貴の僕と再会できて嬉しかったんだよな? そのせいで自分の彼氏と
付き合えなくなるってわかっていても」
「うん」
躊躇することなく奈緒は返事をした。
「嬉しかったに決まっているでしょ。昔から夢にまで出てきたお兄ちゃんと、もう一生会
えないかもって諦めていたお兄ちゃんと再会できたんだから」
「・・・・・・じゃあ」
「でも、それとこれは違うよ。お兄ちゃんと会えたことは確かに嬉しかった。でもあの後
お兄ちゃんと別れて学校で考えたら、ついこの間まであんなにラブラブだった彼氏が消え
てしまうんだって気がついたの。これだって失恋でしょ? あたしはあの日、あんなに会
いたかったお兄ちゃんに再会したんだけど、同時にあんなに好きだった奈緒人さんに失恋
したんだよ」
奈緒はもう微笑んでいなかった。綺麗な目に大粒の涙が浮かんでいた。
「おかしいでしょ? 嬉しくて仕方がないのに悲しいんだよ。こんなことって普通ある?
お兄ちゃんだってあのときはただ妹に会えて嬉しいだけみたいだった。お兄ちゃんと付
き合っていた彼女の奈緒が消えちゃうのに何も悩んでいないみたいだったし」
「そんなわけあるか」
僕はつい大声を出してしまった。「僕だって悩んだよ。でも、兄貴との再会に喜んでい
る奈緒に、もう恋人同士には戻れないんだなとか言えないだろうが。だから我慢したんだ
よ。家で一人で悩んだんだよ」
「あたしだってそうだよ」
奈緒も大声を出して言った。「お兄ちゃんの態度にあたしも傷付いていたんだよ。この
間まで腕を組んだりキスしたりする恋人同士だったのに、何で平然とあたしのことを妹扱
いできるのよって」
奈緒も僕とほぼ同じような悩みを抱えていたようだった。
「・・・・・・でも、おまえは僕の妹だよな」
「・・・・・・うん。あたしはお兄ちゃんの妹。それも明日香ちゃんみたいに血縁じゃない義理
の妹じゃなくて、実の妹だよ」
「じゃあ、やっぱり結論は変わんないじゃないか」
「お兄ちゃん?」
「うん」
「お兄ちゃんは明日香ちゃんのこと本当に好き?」
「好きだよ」
僕は即答した。明日香の僕への献身を裏切ることはできない。
「もしもだよ? もしもあたしが本当の妹じゃなくてあのままあたしと奈緒人さんがお付
き合いしていたとしたら」
「何を言いたいの」
「そういうときに明日香ちゃんがお兄ちゃんに告白してきたら、お兄ちゃんはどうす
る?」
考えるまでもないことだったから僕は即答したのだけど、今にして思えばもう少し考え
るべきだったかもしれない。僕は明日香のことが好きだ。今では自分の彼女として他の女
の子なんか考えられないし、プロポーズだってしたばかりだった。でも、奈緒が妹ではな
くて僕の彼女のままだったとしたら、僕が奈緒以外の女の子に目を向けるはずがない。だ
から、僕は正直に答えた。
「今となっては仮定の話だけど・・・・・・。あのときの僕は奈緒以外は目に入っていなかった
から、奈緒が僕の彼女だったら明日香の告白は断っただろうね」
奈緒はまた微笑んだ。
「お兄ちゃん、やっぱり今でもあたしのこと好きなのね」
「何言ってるの。今は僕は明日香のことが・・・・・・」
「もういいよ。今日はあたしの家族の話とかしたかったんだけど、お兄ちゃんの気持ちは
わかったからもう今日は開放してあげる。明日香ちゃんのところに行かなきゃいけないん
でしょ?」
「・・・・・・いいのか」
「いいよ。これからも朝一緒に登校してくれる?」
「ああ。でも土曜日はもう迎えに来れない。明日香を放っておけないから」
「仕方ないか。じゃあ土曜日は許してあげるよ。あたしは有希と一緒に帰ればいいし。で
も平日は、いつもの電車に乗ってよね」
明日香は徒歩通学だったので、これくらいはいいだろう。正直に言うと僕だって奈緒と
接点がなくなるのは寂しかったし。でもそれが再会した妹への気持のせいなのか、この間
まで彼女だった奈緒への想いのせいなのかは自分でも判然としなかった。
今日は以上です
女神はもう少し待ってください
乙
乙
乙乙乙
おつ
やっぱり奈緒ちゃんは可愛いな
とりあえず僕は奈緒を送っていくことにした。最初からそれだけはするつもりだったし。
このときのファミレスでの話し合いでは、奈緒もまた初めてできた彼氏が実の兄だったと
いうことに悩んでいたことがわかった。
僕は複雑な気持だった。恋人だった奈緒が実の妹だと知って苦しんでいた僕は、奈緒も
また同じ悩みを持っていたことを聞くことができた。つらい別れ経て再会してた兄に対し
て無邪気に喜んでいた奈緒の態度に、僕は嫉妬じみた感情を抱いていたのだからそのこと
自体は嬉しかった。
でも、よく考えると何も解決はしていない。奈緒の告白が、これまで抱いていた奈緒の
気持に対して僕が抱いていた理不尽な嫉妬心を宥めてくれたことは確かだった。でも今で
は僕には明日香がいる。多分、今では誰よりも大切な女の子が。ようやく恋人として奈緒
のことを考えなくなるようになり、本気で好きだと思えるようになった明日香には話せな
いような内容の話し合いになってしまった。
明日香と付き合う前なら僕だって今日の奈緒の態度を喜んだかもしれない。でも今では
僕の彼女は明日香なのだ。今の僕は文字どおり身も心も明日香と結ばれている。
それに奈緒の本当の気持は理解できたような気はするけど、依然として彼女が僕の実の
妹であることには変りはない。奈緒が僕のことを男性として好きでいてくれたとしても、
僕と奈緒の関係にこの先の未来はないことは変わらない。
駅のホームでやたらに寄り添ってくる奈緒を拒絶もできずにいた僕は、今日彼女に聞い
てみようとしたことを思い出した。
「なあ」
「なあに、お兄ちゃん」
「実はさ・・・・・・。母さんから父さんにメールが来たみたいでさ。今の母さんと父さんが揉
めているみたいなんだけど」
「母さんって? あたしたちのママのこと?」
「うん。詳しくはわからないけどさ、母さんっていうか奈緒の母親が僕の父さんにメール
で、僕と奈緒が仲良くしているのをやめさせろみたいなことを言ってきたみたいなんだ。
そのせいで父さんと今の母さんが喧嘩しちゃってさ」
それを聞いても奈緒の表情には驚いた様子は見られなかった。
「そうか。ママらしいね」
「家で何かあったの?」
奈緒はそれには答えずに、僕の腕にしがみつくような仕草をした。
「お兄ちゃんって、あんまり昔の記憶がないんでしょ?」
「うん。この間までは小学校低学年の記憶は全くなかったよ。だから去年父さんに聞かさ
れるまでは今の母さんが本当の母親だと思っていたくらいだし」
「あたしのことも覚えてないの?」
「おまえと別れさせられた記憶とか、公園で鳩を追い駆けているおまえを見守ってた光景
とかは少しづつ心に浮かぶようになったよ」
「そうか」
奈緒がぽつんといった。
「まあ、記憶が戻ったっていう感じじゃないんだよね。むしろ、ある短い光景だけ思い出
せたっていう感じかなあ。つらい記憶を自己ブロックするような病気らしいんだけど」
確か解離性健忘とかいうらしかった。
「お兄ちゃん、ママのことは覚えているの」
「・・・・・・前にさ、おまえと二人きりで自宅で過ごしていた記憶があるんだけど、そのとき
突然帰宅してきた女の人がいたような。多分、それが本当の母親なんだと思う」
「あたしはね、そのあたりのことは全部記憶にあるの。しかも鮮明に。今日はその話とか、
今のママとかあたしの家庭の話とかしようと思っていたんだ」
奈緒が昨日話があるからと言っていたのはそういうことだったのだ。奈緒との仲がどう
なったのかが未だに自分でもよくわかっていなかったけど、昔の話を聞けるようなら聞い
てみたい。父さんと今の母さんとの仲違いの原因がつかめるかもしれない。それに今の僕
は昔の話を聞かされることに恐れを感じていなかった。一番つらかった奈緒のことを聞か
されて、自分でもその思い出の一部を思い出した以上、もうこれ以上のショックは受けな
いだろうと僕は思った。過去の話については玲子叔母さんからいろいろと聞かせてもらっ
てはいたけど、当時は叔母さんもある意味部外者で傍観者の立場だったから、叔母さんの
知識にも限りがあった。
「教えてもらえるなら聞きたいな」
僕は真面目に奈緒に言った。
「うん。話すのはいいけどあまり時間はないよね」
一瞬、早く僕に会いたがっているだろう明日香の顔が浮かんだ。でも、自分の過去をは
っきりと知りたいという欲望に僕は負けた。
「奈緒さえいいなら時間がかかってもいいよ。だから、全部教えてほしい」
結局その方が僕と明日香のためにもなるのだと、僕は自分に言い聞かせた。
奈緒の自宅の最寄り駅で降車して、駅前にあるドトールに僕たちは入ることにした。ス
タバと違って年配の人が多いし、パーテーションで区切られているだけの喫煙スペースか
らは煙草の煙が洩れて漂っていたけど、もう奈緒は文句を言わなかった。
駅から出たとき一応僕は明日香に電話してみたのだけど、コール音だけがむなしく繰り
返されるだけで明日香は電話に出なかった。もう仕方がない。明日香にはあとで謝ろう。
再び飲み物を前に向かい合った僕たちはしばらくは黙ったままだった。明日香は目の前
のコーヒーに砂糖を入れて延々と掻き回していた。でもやがて奈緒がゆっくりと話を始め
た。
「あたしね、今まで大切にしてきたものが二つあるの」
「うん」
「一つはピアノ。あたしにとってはピアノを弾いている時間が一番充実しているの。お兄
ちゃんというか奈緒人さんを好きになるまでは」
それには何と答えていいのかわからない。ひょっとしたら答える必要もないのかもしれ
ない。
「・・・・・・最初はママに勧められてそれほど関心もなく始めたんだけど、弾くことによって
普段は出せない感情表現ができるとか、それが聞いている人たちに思っていたよりはっき
りと伝わることがわかってからは、自分からのめり込んでいったの」
「そうか」
「でも演奏が感情表現に至るまでの距離って意外と遠くてね。やっぱり技術も必要なのよ。
正確に演奏するとかそういうテクニックがあって、その次に初めて感情表現が来るって感
じかな。それでもピアノが好きになって必死に練習しているうちに段々と技術の方は身に
付いてきたんだけど、そうなってみると逆に何を聞いている人に伝えたいんだかわからな
くなっちゃったのね」
ピアノの話にはそれほど関心がなかった僕だけど、そのとき父さんの書いた記事を思い
出した。
『中学生離れした正確でミスタッチのない演奏だが感情表現の乏しさは、まるでシーケン
サーによる自動演奏を聴いているかのようだ。同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有
希は技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏の感情表現に関して
は彼女の方が将来に期待を持てるかもしれない』
奈緒が自分の娘だと知っていながら父さんはあの記事を書いたのだ。そのときの父さん
はいったい何を考えながら記事を書いたのだろう。
「最近までそれで悩んでいたの。行き詰まりっていうのかなあ。佐々木先生にはそんなに
あっけからんと弾かないでもっとしっとりと情感を込めて弾きなさいって言われるし」
指導されている先生にまで言われているなら父さんの感想も的外れなものではないのだ
ろう。
「ピアノの話はもうそこまでにするけど、結局あたしは失ってしまった大切なものをずっ
と求めすぎていて、そのほかのこと、家族への愛情とか友情とか将来への希望とか普通な
ら心の中に自然に溢れている前向きな感情が他の人より希薄だったのね。ある意味感情面
で欠陥があると言ってもいいのかも。そんなあたしには人に伝えたい気持ちなんかろくに
なかったから、演奏時の感情表現が下手というより人に伝えたい感情そのものが希薄だっ
たんだと思う」
何だか難しい話になってきた。
「まあ、ピアノの話はそこまで。もう一つあたしが大事にしてきたことがあるの。何だか
わかるよね」
「・・・・・・僕か」
「正確に言うと希望かな。いつか絶対にお兄ちゃんと再会できるんだっていう望み。そし
て、ただ待っているだけじゃその希望だって実現しないってことはあたしにもわかってい
た」
奈緒が今までで一番と言っていいほど真剣な表情で僕を見た。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「あの雨の朝、お兄ちゃんと出会ったことだけど。あれは偶然っていうかあり得ないくら
いの奇蹟だったよね」
「そうだな。あの雨の日に奈緒は高架下で傘がなくて立ち往生していたよね」
「そうだよ」
「あのときは家庭でいろいろトラブルもあって、僕は珍しく早く家を出たんだ。そんな偶
然もあって僕はおまえとあの高架下で出会ったんだもんな」
「あれはお兄ちゃんが思っている以上にすごい偶然だったんだよ」
奈緒がそう言った。
あのとき明日香とのトラブルを避けるために僕が早く家を出なければ、そしてあの朝突
発的な雨が降って奈緒が高架下で立ち往生しなければ僕たちは再会することすらなかった
はずだ。そういう意味では奈緒の言うようにすごい偶然と言えるだろう。
「あたしは毎年パパと面会していたから、お兄ちゃんがどこに住んでいてどこの学校に通
っていたかなんてパパから聞いて知っていたんだよ」
僕は虚を突かれた。玲子叔母さんの話で、実の両親と離れ離れになっている子どもたち
との面会権のことは聞かされていたけど、これまで僕はそのことをあまり真剣に考えたこ
とはなかった。とりあえず僕の方は母親と面会した記憶はないのだから。
「お兄ちゃんの家とか最寄り駅なんか全部パパから聞いてたもん。あたしはお兄ちゃんの
ことが気になっていたから、面会するたびにお兄ちゃんのことをパパに聞いたの。そして
お兄ちゃんと会いたいとも。でも、パパはお兄ちゃんのことは何も教えてくれないし、会
わせてもくれなかった。お兄ちゃんには昔の記憶がないから、あたしとお兄ちゃんが会っ
たらお兄ちゃんが混乱するからって」
父さんは奈緒にそんなことを言っていたのか。僕のことを心配してくれてのことなのだ
ろうけど、父さんが邪魔しなければ僕と奈緒はもっと早くに再会できていたのかもしれな
い。
「でもね。あたしはパパの家を知っていた。そしてお兄ちゃんがそこに住んでいることも。
だからパパに黙ってお兄ちゃんと会おうと思えばいつでも会えたの。本当にあたしがその
気にさえなればね」
「じゃあ、おまえはずっと僕に会いたくて、しかも会おうと思えば会えたってこと? そ
して父さんに言われたこと、僕の記憶喪失のこととかを気にしたからおまえは僕に会いに
来なかったってことなのか?」
「それだけじゃないの。ママにも釘を刺されていたからね。ママはパパに会う日は必ずこ
う言うの。『約束だから奈緒がパパに会うことは止められないけど、奈緒人に会っちゃだ
め。会うと奈緒と奈緒人が二人とも不幸になるから』って」
何で僕と奈緒が再会すると不幸になるのだろう。それに父さんも奈緒を僕に会わせなか
ったという。僕の実の両親が離婚してそれぞれ再婚家庭があって、それを守るために今さ
ら昔の付き合いを蒸し出したくなかったからなのだろうか。それにしてもお互いの家庭の
のことだけが問題なら、僕と奈緒が不幸になるとは言い過ぎのような気がする。
あれ? ふと僕は気がついた。奈緒は僕の家や最寄り駅を知っていた。そして会おうと
思えばいつでも僕を探し出せる状態だった。
このあたりで僕はだんだんと奈緒が何を言いたいのかわからなくなってしまっていた。
いや、わからないというより考えたくないと言う方が正しいのかもしれない。マキさんは
何で奈緒と僕が再会すると、お互いが不幸になるなんて考えたのだろうか。何より、奈緒
と僕のあの朝の出会いは偶然ではなかったのだろうか。
「あの朝ののこと、あれは偶然の出会いじゃなかったのか」
僕は震える声で奈緒に聞いた。
「自分から行動しなきゃいつまでも望みはかなえられないって思ったし、このままじゃも
う一つの大切な夢の方も叶わないかもしれないって考えるようになったから。そう思って
いたのは本当だよ」
「じゃあ、おまえがあんな早い時間に駅前の高架下にいたのは、自分の兄と・・・・・・僕と会
うためだったの?」
「そうじゃないの。あの朝は本当に偶然だったの。あの日は学校の課外学習の日で、あそ
こで有希ちゃんと待ち合わせしてたのね。そしたらいきなり雨が降って来て、おまけに有
希ちゃんから電話が来て急用が出来たから今日は課外学習休むって言われてどうしようか
と思っていたの。そしたら知らない年上の男の人が傘に入らないか? って聞いてきた」
「・・・・・・僕のこと待っていたんじゃないのか」
「違うよ。もうそろそろ自分でお兄ちゃんに会いに行くべきだとは考えていたけど、あの
ときは完全に偶然だよ。だからあれはすごい偶然だって言ったんじゃない」
「あたしは今のお兄ちゃんの面影なんか知らなかったから、それがお兄ちゃんだとは思わ
なかった。駅前で立っていたくらいで簡単にお兄ちゃんと再会するなんて思ってもいなか
ったからね。ただ、傘に入れてもらって駅まで送ってくれた男の人が気になって・・・・・・、
自分でも惚れっぽいなって思ったけど、その時にはもうその人のことが、奈緒人さんのこ
とが好きになってしまってたんだよ」
奈緒が本当のことを話しているとすれば、僕と奈緒はやはり凄いくらいの偶然のおかげ
で再会したのだ。それに奈緒はさっき僕と付き合い出したあとに僕が兄であることを知っ
て悩んだと言っていた。最初から兄に会うためにあそこにいたのならそんなことに悩むわ
けはないし、第一僕に告白なんかするわけがない。
「お兄ちゃんの思っているとおりだよ」
奈緒は僕の表情から僕の考えていることを読み取ったようだった。
「うん。そうだよな」
「ただね、お兄ちゃんは勘違いしていると思うんだけど」
「それって何? まだ何かあるの」
「あたしはね。お兄ちゃんより早く奈緒人さんがとあたしが兄妹だって気がついていた
の」
「どういうこと」
僕は唖然とした。
「最初はわからなかった。でも一目ぼれしちゃって次の日も奈緒人さんを高架下で待ち伏
せして」
「そうだったね。あのときは驚いたよ」
「そこでお互いに自己紹介したじゃない?」
「うん・・・・・・あ」
僕はそのことに気がついた。
『そう言えばお名前を聞いていなかったですね』
あのとき奈緒はそう言ってから自己紹介したのだ。
『あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です』
僕のそのとき鈴木奈緒という名前に何も反応しなかった。記憶もなかったから反応する
はずもない。でも奈緒は僕の名前も通っている学校も知っていただろう。
『僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ』
「うん。結城ナオトって聞いたとき、奈緒人さんがお兄ちゃんだってすぐに気がついた
よ」
奈緒が言った。
「・・・・・・何でそのときにそう言わなかったの」
「お兄ちゃんには過去の記憶がないってパパから聞いていたから。あたしが勝手に話しち
ゃっていいかわからなかったし。それにあのときはすぐに明日香ちゃんが・・・・・・お兄ちゃ
ん?」
目の前が真っ暗になっていく。体から力が抜けこのまま座っていることすらできそうも
ない。フラバとは少し違う感覚。むしろ絶望感が暗雲のように突然心を外部から切り離し
たような感覚だ。
奈緒は再会した次の日の出会いのときから、僕が兄貴であるあることに気がついていた。
それでいてその後も平然とそれを隠して、僕に告白したり僕に寄り添ったり僕に嫉妬し
たり僕とキスしたり・・・・・・。
最初から奈緒は僕と本気で付き合う気などなかったに違いない。なぜなら僕が実の兄貴
であることを彼女は知っていたから。僕がそれを知ったのは正月のことだったけど、奈緒
は僕と付き合う出す前からそのことを知っていたのだ。
やはり明日香が言っていたことは正しかったのだろうか。最初の出会いこそ偶然にして
も、奈緒は僕が兄だと気がついていたにも関わらず僕に告白したのだ。
今日は以上です
ここまでお付き合いいただいた方には感謝しています
乙
乙
乙
やがて意識が覚醒した。フラッシュバックのときのような大袈裟な発汗や頭痛などは感
じない。そして奈緒は戸惑いながらも僕を冷静に見ているだけのようだ。明日香が自分を
見失ったときの僕を抱きしめてくれたような素振りはない。
「大丈夫?」
「うん。何とか」
「最初からあまり驚かないで。これじゃ最後まで話せないじゃない」
「大丈夫だよ。ちょっと慌てただけだ」
僕は気を取り直した。奈緒の言葉にどんなにショックを受けたとしても、今では明日香
がいてくれる。
「あたしにとってはね、奈緒人さんは始めて本気で好きになった人だったの。だから告白
してOKをもらって付き合うことになったときは本当に嬉しかったな」
「それは・・・・・」
「そう。だから有頂天になった瞬間、お兄ちゃんの名前を聞いたときあたしは凄くショッ
クだった。地の底に突き落とされたようだった」
「さっきの話、あたしが彼氏がお兄ちゃんだと知って悩んだ話ね、嘘じゃないの。お兄ち
ゃんと同じくらいにあたしはショックを受けて悩んだ。ただお兄ちゃんと違うのは、お兄
ちゃんより大分早く、というか付き合ってもらえたその直後からあたしは間違っていたこ
とに気がついた。お兄ちゃんがあたしのことを付き合い出したばかりの彼女だと思ってく
れていたとき、もうあたしは出来立ての自分の彼氏が付き合ってはいけない自分のお兄ち
ゃんだってわかっていた」
「兄貴だって気がついていたのなら、何でそのまま付き合うような真似を・・・・・・・」
これは本当にきつかった。初めてのキス。初めての嫉妬。初めての諍い。
それは僕は初めてできた彼女との大切な思い出だった。奈緒が実の妹だって理解した後
でさえ、未練がましい自分に自己嫌悪に陥りながらも大切にしていた記憶なのだ。
「そうね」
奈緒が僕から視線を外した。
「ごめん」
「何がごめんなの」
「だから・・・・・・。あのときあたしがやめておけばお兄ちゃんだってあんなに苦しくならな
かったのにね」
「どういう意味だよ」
「一応考えたんだ。お兄ちゃんに自分が妹だって言おうかって。あたし・・・・・・何で黙って
いようなんて、このまま黙っていればお兄ちゃんの彼女になれるかもなんて考えちゃった
のかな」
「本当にさっきから意味わかんないよ」
「・・・・・・」
「告白後にしたって僕のことが兄貴だって気がついたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、何でそのまま付き合う振り、つうか僕の彼女でいるような振りをしたんだよ。
今さら言い難かったのか?」
「ううん。あのときは、嬉しいけどつらくて。つらいけど再会できたのは嬉しくて。それ
で、自分の中でもよくわかんなくなちゃって。でも落ち着いて考えてみたの。自分が今本
当にしたいことは何かって。そしたら簡単だった」
「簡単?」
「うん。考えてみたら、あたしは奈緒人さんと別れるのなんて絶対に嫌だったの。奈緒人
さんが自分のお兄ちゃんだったにしても。そして彼氏とじゃなくて本当のお兄ちゃんに再
会したい気持も嘘じゃなかった。しばらく悩んでたんだけど、あるときふっと簡単に結論
が出ちゃった」
奈緒が吹っ切れたように淡々と喋る様子に僕は何だか嫌な予感がした。
「お兄ちゃん、あたしを嫌いにならないで」
「何だよいったい」
「聞いたら絶対気持悪いとか思われるもん」
「え」
「あたし・・・・・・。奈緒人さんが実のお兄ちゃんでもいいと思ったの。こんだけ好きになっ
た人があれだけあたしが求めていた人だったのなら」
「・・・・・・奈緒」
「気持悪いでしょ。でもあたしはあのときそう決めたの。そしてその後、お兄ちゃんと手
を繋いで抱き合ってキスもしたけど、後悔なんかしてないよ」
僕はもう何も言えなかった。
「世間じゃ近親相姦とか言われるんだろうけど。でも、あたしは本当のお兄ちゃんのこと
が好き。恋人としても兄としても。だから悩んだけど何も気がつかない振りをして、お兄
ちゃんと付き合ってたの。お兄ちゃんには何も言わなかった。っていうか言えなかったけ
ど」
僕は妹の告白に唖然とした。
「・・・・・・言っちゃった。お兄ちゃんには気持悪いって思われるよね」
それでも奈緒はようやく心の重荷を降ろしたように見えた。一番最初に高架下で出会っ
たときのような少しよそよそしい、でも綺麗な微笑を彼女は浮べた。
結局、明日香が正しかったのだ。奈緒は僕を兄だと知って僕と付き合っていたのだから。
ただ、奈緒の言葉を信じるなら、それは僕を苦悩させようという彼女の悪意から起こした
行動ではない。そういう意味では明日香は間違っていたということもできた。今の僕にと
ってどちらの方がより心が休まるかという問題になると、必ずしも奈緒の善意が判明した
ことの方が僕の心が休まるかというと、そうではない。
明日香は僕とは血縁関係にはないけど、それでも彼女と付き合い出すときには兄妹の関
係であることにだいぶ悩んだ。玲子叔母さんも僕とは血が繋がっていしない、本当の叔母
ではないのだけど、明日香は僕と叔母さんが関係したとしたら世間体が悪いと言った。
奈緒に悪意がないにしても、本当の兄貴だと知りながらもなお僕の彼女になろうとした
彼女の心の動きは、今の僕には理解できなかった。僕だって奈緒が本当の妹だと知ったと
きには悩んだし、無邪気に兄との再会を喜ぶ彼女の心情に嫉妬だってした。でも、どんな
に悩んでもどんなに奈緒を恋しく思っても、実の妹だとわかった奈緒をそのまま黙って彼
女と付き合うなんていう考えは思いつきもしなかった。それは真実を知った奈緒が僕自身
がそうであったように傷付くことを恐れたせいだけど、それだけでなく実の兄妹が恋人同
士になれるなんて思いもしなかったということもあったのだ。
「お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのな
らそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前
だったら明日香ちゃんのことは振っていったって。あたしにはそれだけで十分だから。こ
れ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから」
ここまで比較的冷静に話してきた奈緒は今では必死の表情で僕に言った。
僕は奈緒に何と言っていいのか言葉が見つからなかった。しばらく沈黙が続いた。
「この話はとりあえずおしまい」
奈緒が俯いたままで言った。
「そうだね」
僕には他に言うべき言葉は見つからなかった。
「でも、お兄ちゃんには悪いけど自分の気持ちには嘘はつけないから」
僕は黙ったままだった。
「だって好きなんだもん。お兄ちゃんが・・・・・・奈緒人さんのことが好きなんだもん。お兄
ちゃんに駄目って言われたって自分ではどうしようもないの」
「・・・・・・実の兄妹なんだぜ」
「わかってる。さっきお兄ちゃんが言ったとおりだよね。あたしはお兄ちゃんとは結婚も
できないし子どもだって産んであげられない。そんなことはわかってる」
「奈緒・・・・・・」
「いくら話してたって解決するようなことじゃないね。もうおしまい。それに今ではお兄
ちゃんには明日香ちゃんがいるんだし」
「奈緒」
僕は呆けたように繰り返して彼女の名前を呼んだ。
「じゃあ、約束どおり我が家の歴史をお兄ちゃんに説明しますか」
奈緒は明るく言ったのだけど、彼女が無理をしているのは明らかだった。
「麻季さんのこと、あたしたちのママのことを話そうか」
もともとマキさんの話とレイナさんという女の人の話を聞きたかったのだけど、そんな
風にいきなり話を変えられても、僕の考えは切り替えることはできない。頭の中で、清楚
で可愛らしい奈緒の口から出るとは思わなかった四文字の単語がぐるぐると渦巻いていた
からだ。
近親相姦。
正直に言うとそれは見慣れない単語とまでは言い切れない。趣味のゲームやアニメでは
ありがちな陳腐なシチュエーションともいえる。それが二次元限定の話だったのなら僕に
だってついていける話題だった。でもそれが現実に自分に起きると、そんなに気軽に考え
ることはできなかった。
全く血の繋がっていない明日香と付き合うときだってそれなりに逡巡はあったというの
に、奈緒の場合はどんなに幼い頃からお互いを求め合ってきた仲だとしても、父母が一緒
の本当の兄妹なのだから。
もう奈緒の話を聞くまでもなく、僕と奈緒の実母だというマキさんという人が何を心配
しているのか、理解できたような気がした。奈緒とずっと一緒に暮らしてきたマキさんに
はわかっていたのだろう。奈緒が僕を求めている気持の強さに。そして真っ当な母親なら
考えるように実の兄妹の仲が深まることに不安を覚えたのではないのだろうか。そう考え
れば父さんに僕と奈緒を仲良くさせるなっていうメールを送ったとしても無理はない。
僕がさっき激情に任せて奈緒に言い放った言葉は本心だった。
『じゃあ聞くけど。奈緒、おまえは僕の彼女になってくれるのか? 僕とエッチしてくれ
るのか。ずっと一緒にいるのはいいけど、僕の奥さんになって僕の子どもを産んでくれる
のか。実の妹のおまえには全部できないだろう。明日香とは違ってさ』
僕のそのときの言葉は、奈緒が僕とは実の兄妹であることを知っていてもなお、世間の
常識に背を向けて僕を異性として好きになる道を選んでいたのだとしたら、彼女にとって
はつらい言葉だっただろう。それなのにさっき奈緒は微笑んだ。僕の気持を確かめること
ができたからか。奈緒の告白を聞いてしまった今となっては、自分が言ってしまった言葉
を撤回したい気持でいっぱいだった。
ひょっとして僕は選択を迫られているのか。決断するようにそれとなく奈緒に催促され
ているのだろうか。
僕がいろいろ悩んでいる間にも奈緒は自分の家族の話をし始めていた。過去の記憶がな
い僕にとってはそれは重要な情報だったのだけど、このときは全く奈緒の話は自分の頭の
中に届かなかった。
「ごめん。ちょっと今はその話無理」
「どうしたの? お兄ちゃん」
奈緒が言った。でも、自分の質問に対する答を彼女は既に持っていたようだ。
「・・・・・・そうだよね。何か恥かしかったから勝手に話を進めちゃったけど、実の妹から愛
の告白なんかされたらお兄ちゃんだって混乱するよね」
「正直に言うとそういうこと」
「そんなに気持悪い?」
奈緒が傷付いたような目を僕に向けた。その視線に僕は混乱した。
「気持悪いとかは感じないけど・・・・・・でも僕とおまえが本当に付き合えるのかって考えた
ら、いろいろと無理じゃないかとは思う」
「・・・・・お兄ちゃん?」
「何だよ」
「どういう意味で無理なのか教えて。あたしバカだからよくわかっていないのかもしれな
いし」
奈緒がバカとかそういうことじゃない。というか、学力的な意味では奈緒は中学受験で
は名門の富士峰に合格しているのだし、ピアノだって将来を期待されるような人材だ。少
なくともマキさんは奈緒の才能を開花させるように大事に育てたようだった。両親の愛情
を疑ったことはないけれど、やや放置気味に育った僕と明日香とは違って。
そういう地頭のいい奈緒なら僕の言うことも理解してくれるだろう。だから僕は奈緒を
見つめて言った。
「僕と付き合って奈緒には何かいいことが将来にあるの?」
「お兄ちゃんが何を言っているのかわからないよ」
「僕と結婚できる?」
いきなりの直球を僕は投げた。そしてその意味を妹は正確に理解できたようだった。
「法的にはできないでしょうね」
「僕と付き合える? 恋人として。で、僕を家族に彼氏だよって紹介できる?」
奈緒は黙ってしまった。
結局こういうことだ。奈緒が僕のことを兄だと知っても、なお異性として好意を持って
くれていたことは正直嬉しい気もした。でも僕たちの関係には将来がない。
「変なこと聞いてごめん。もう今日は帰るよ。奈緒の家族のこととか聞きたいことはあっ
たんだけど、今日は冷静に聞けそうもないし」
思っていたより素直に奈緒は頷いた。
「わかった」
僕の厳しい質問に答えなくて済むことにほっとしたのだろうか。奈緒の表情が少しだけ
緩んだ。
「そうでしょうね。変なこと話しちゃってごめんね」
「いや。また月曜日にマキさんのこととか聞かせてくれる?」
「うん、わかった。いつもの電車で待ってるから」
僕は奈緒とファミレスの前で別れた。僕はこれから混乱している思考を落ち着かせない
といけなかった。これから玲子叔母さんのマンションに行かなければいけないのだ。そこ
で僕の婚約者と、ついこの間寄り添ってキスしながらデートした叔母さんと会わなければ
いけないのだから。
僕はついさっきまでもう揺るがないでいられると思っていた。もう僕には明日香しかい
ない。いや、そういう言い方では明日香には失礼だったろう。もうとか言うべきじゃない。
もともと僕には明日香しかいなかったのだ。明日香の僕への献身的な態度のせいだけじゃ
ない。きっと僕は明日香が僕につらく当たっていたあの頃から、彼女のことが気になって
いたのだ。その想いは決して嘘じゃない。僕だっていい加減な気持ちで明日香に対して結
婚しようと言ったり、彼女を抱いたりしたわけじゃない。
それでも奈緒が近親相姦になることを乗り越えてまで、実の兄である僕に対して愛情を
示してきたことに対しては、真剣に向き合わないわけにはいかなくなった気はしていた。
自分の本当の気持はどうなのだろう。
そんなことはもう乗り越えたつもりだったのに。明日香に選択を迫られた僕は明日香を
選んだのだから、今さら悩む必要なんてない。それなのに何で今さら後出しじゃんけんの
ような情報が入ってくるのだ。そういうことは選択する前に知りたかった。
いや、そうじゃない。事前に知らされていたとしても、奈緒の気持が本当だと思ってし
まっていたら、それはそれで悩んでいただろう。ついさっきまでは僕は喜んでいた。奈緒
が僕と同じ気持を共有してくれていたことに。実の兄妹と知った僕と同様に、奈緒も悩ん
でくれたのだ。悩んだ時期はずれていたとしても。
でもお互いには悩んだ末に出した結論は全く異なる。僕は自分の始めての彼女が実の妹
だと知って、奈緒と距離を置こうとした。奈緒は違う。奈緒は自分の気持を優先すること
にしたのだ。そのためなら近親相姦になることすら気持の上で乗り越えて。
時系列で考えれば明らかだ。最初の告白の後、僕たちは名乗りあった。そして奈緒はそ
のときに僕が自分の兄であることを知ったのだ。それでも彼女は僕との付き合いを続けた。
奈緒とのささいな諍い。奈緒とのキス。僕が抱き寄せた奈緒の細い肩。僕の胸に押し付
けた奈緒の涙顔。
その全ては奈緒が僕を兄だと認識していた後の出来事なのだ。僕は明日香が好きになっ
てはいたけど、これまで明日香の言うことを本気で信じたことはなかった。奈緒が僕のこ
とを兄だと知りながらも、悪意を持って僕を誘ったということを。でも、その方がまだし
も迷わないで済んだのかもしれない。それなら少なくとも奈緒は、僕のことを近親相姦的
な愛情で誘惑したのではないのだから。
明日香との愛情溢れる(と僕は考えていた)関係を、再考すべき自体が訪れたのかしれ
ない。
僕は実の妹の禁断の愛情に応えるかどうかを考えなければいけなくなっていたのだ。
僕はもうどう考えていいのかわからなかった。それでも不思議と明日香に会いたいとい
う欲求が胸の中で起こってきた。明日香なら、あいつなら僕をなだめてくれる。慰めてく
れ、自分では気がついていない気持を整理してくれる。今の僕にはそれが救いだった。
僕はいつのまにかこんなにも明日香に依存するようになってしまっていたのだ。
悩みつつ夢うつつのような状態で歩いていた僕は、いつの間にか叔母さんのマンション
の前まで来ていることに気がついた。
今日は以上です
乙
ふらふらし過ぎ
これは明らかに奈緒人がダメ夫だわな
こいつが一番ビッチかも
「ああ、お兄ちゃん」
明日香が笑顔で僕を迎えてくれた。
「何だ、思ってたより早かったじゃん」
玲子叔母さんの声は屈託がないように聞こえた。明日香は自分で言ったとおり僕たち三
人の仲を修復してしまったのだろうか。奈緒にされた衝撃的な告白で気が乱れているせい
か、このときは僕はあまり叔母さんのことを意識しないで済んだ。
「お兄ちゃん、お昼ごはんは?」
それでも多少は居心地は悪い。僕は必死で平静を装った。
「まだだけど」
明日香が悪戯っぽく笑って叔母さんの方をからかうように眺めた。
「明日香、おまえなあ」
叔母さんが不貞腐れたように明日香に言った。
「いいじゃん。ちょうど味見できる人が来たんだし。あたしには全く理解できなかったけ
ど、お兄ちゃんなら別な感想があるかもよ」
「君たちに理解してもらわなくても結構。あたしが自分で美味しいと思ってるんだからそ
れでいいの!」
叔母さんには僕との関係に悩んでいる様子はなかったけど、何か他の理由で少しお冠の
ようだった。
「いいじゃん、余っているんだし。お兄ちゃんの感想も聞こうよ。あたし用意してくる
ね」
「あ、こら。明日香!」
「いったい何の話?」
明日香は勝手に叔母さんのキッチンの方に行ってしまった。
「はあ。あんたの妹、つうか彼女は本気で性格悪いわ。育ての親のあたしに向かってあの
態度はどうよ? あんたも見たでしょ、あの態度」
「だから、いったい何の話なの」
「あんたもうるさいなあ。あたしの料理のことは放っておいてよ」
意外な言葉を耳にした。玲子叔母さんの料理? そんなものは今まで一度だってお目に
かかったことはない。多忙な両親の代わりに一時期叔母さんが僕たちの母親代わりをして
いてくれたことは知っていたけど、叔母さんの手作りの料理だけは見たことはない。過去
の記憶はあまりないのだけど、当時は今の母さんの実家が食事の面倒をみていたのではな
かったか。
「叔母さん、何か作ったの?」
「いや・・・・・・作ったっていうか」
一瞬叔母さんの顔が赤くなった。僕はいけないと思ったのだけど、叔母さんを抱き寄せ
てキスしたときの記憶が蘇みがえってしまった。明日香への罪悪感を感じる。さっきまで
奈緒の告白に動揺していたのに、僕は言い寄ってくれる女性なら誰でも気になるような人
間だったのだろうか。
「お兄ちゃん、お待たせ。叔母さん手作りのお食事だよ」
明日香が何やら黒っぽい物が乗った皿を運んできてテーブルに置いた。
「・・・・・・何? それ」
そう言った途端に赤くなっていた叔母さんが恐い顔をした。明日香はけらけら笑い出し
ている。
「ピザだって」
もはや笑いのせいでまともに喋れていない明日香が可笑しそうに言った。
「ピザって」
「まあ、普通は驚くよね。あたしも一応食べてみたんだけど」
「どうだった?」
好奇心もあって僕は明日香に聞いてみた。何しろ玲子叔母さんの手料理なんて見たこと
もないのだから。
「あたし、お兄ちゃんのいい奥さんになれる自信がついちゃった。叔母さんには感謝しな
いとね」
言われて見ると確かにピザかもしれない。円形の生地の上に赤いピザのソースとか溶け
たチーズとかが乗っている。でもそれはピザと言われたからそう理解できたのであって、
上面が黒く焦げているせいで初見ではその正体はわからなかった。
「どういう意味よ」
「だから叔母さんに感謝しているんだって」
叔母さんが真っ赤な顔で反論しようとした。
「で、これ食べたの? 味は」
「焦げたところを根気よく削っていくと食べられる部分が出てくるから、そこを食べる分
には普通に美味しいよ」
明日香の言葉に叔母さんがぷいと顔を背けた。
「じゃあ、僕も食べてみようかな」
「無理に食わなくていいよ。全くあんたたちには本気でむかつくわ」
叔母さんが言った。
・・・・・・やはり明日香は自分で宣言したとおり、僕たち三人が一緒にいても気まずくなら
ないように叔母さんと話を付けたらしい。今さらだけど、明日香の行動力には感心するし
かない。
「奈緒人、あんた本当にお腹空いてるの?」
叔母さんが少し真面目な顔で僕に聞いた。正直に言うと食欲なんてあまりない。僕がそ
ういうと明日香と玲子叔母さんが顔を見合わせた。
「じゃあ、叔母さんのピザもどきの話はもうやめよう」
明日香がそう言った。
「ピザもどきって何だよ・・・・・・。って、本当に奈緒人に話すの?」
「あたしはもうお兄ちゃんには何も隠し事をしないことにしたの。叔母さんだってそうな
んでしょ」
なぜか叔母さんは赤くなって黙ってしまった。
「叔母さんがマンションの前にいるから助けろっていうメールがきたでしょ?」
何も僕には隠さないと言った明日香が叔母さんの様子には構わず唐突にそう言った。
「あれってさ、叔母さんが取材に行こうとした相手のと同じアドレスから送信されてたん
だよ」
例の脱法ドラッグの販売サイトのアドレスのことだ。僕はそれに気がついたことを明日
香には隠していたのだけど、明日香は自力でそのことに気がついたようだった。
「あたしもうっかりしてたよ。イケヤマって名前を聞いたときに気がつくべきだった。前
に明日香が襲われたときに明日香を助けた男の名前は警察の人に聞いていたのにね」
冷静さを取り戻したらしい叔母さんが口を挟んだ。
「・・・・・・どういうこと?」
「池山はあたしの元彼だよ。お兄ちゃんも会ったことあるでしょ」
金髪ピアスの男のことだ。そいつが明日香の元彼なのは知っている。
「あたしさ、ちょっと仕事でハーブ関係の取材をしてたんだけど、ちょっとした伝手でそ
の取材に応じてくれたのが高校生の池山ってやつなんだ。もっと早く気がつくべきだった
けど、池山って明日香を助けた元彼じゃん? 彼と会って取材してたときは全然気がつか
なかったんだけど」
叔母さんは最初の取材のことや、その後追加で池山から取材しようとあいつに連絡し、
指定の場所に行こうとしたことを話してくれた。結局そのときは叔母さんは池山には会え
ず、その代わりに。
嫌な予感が胸中に広がっていった。
「・・・・・・叔母さんを襲ったやつってもしかして」
「違うよ。取材したときに会っているから顔はわかってる。池山じゃない」
「名前だけが根拠なの?」
答えはわかっていたけど僕は聞いた。
「叔母さんが取材を申し込んだ先のメアドが、あのときあたしの携帯に来たメールと一緒
だったの。あれって博之がハーブの販売サイトで使っているアドレスだもん」
博之と池山のことを呼んだ明日香には悪気はないと思う。単に元彼のことを以前呼びか
けていた名前で呼んだだけで、それに嫉妬している僕がバカなのだ。それに今はそんなこ
とを考えている場合ではない。
「博之が何か知っていると思うんだ。あいつは叔母さんにひどいことした犯人の仲間では
ないとは思うんだけど」
何で明日香は池山が犯人じゃないと言い切れるのだろう。確かに明日香は池山に救われ
た。それは平井さんから聞いてもいたから事実だろう。でもその動機については結局何も
聞いていない。ただ元カノである明日香を飯田に取られるのが悔しかっただけけもしれな
いじゃないか。仮にあいつが明日香のことは今だに大切に考えていたとしても、玲子叔母
さんには平気で残忍な態度を取るようなやつかもしれない。偏見と嫉妬から思考にバイア
スがかかっているのかもしれないけど、ああいうやつならそうであっても不思議はない。
僕は昨晩考えていたことを話すことにした。あまり直接的に表現して叔母さんを再び傷
つけないよう注意しながら。
「とにかく池山が関係者であることは間違いないよね。あんなメールを送れる立場にいた
んだから。それにあのメールのタイミングはおかしいよ。本当に善意で明日香に連絡して
きたのなら、あんなになる前に知らせてきたはずだよ。もっと早く連絡してくれてたら、
警察に通報するとかして、叔母さんがあんなひどいことをされる前に・・・・・・」
ちょっと言い過ぎたかもしれない。明日香に反論するにしても叔母さんに嫌なことを思
い出させてはいけない。でも叔母さんは何も言わなかった。
「もちろん博之は何かを知っていたからメールしてきたんだとは思うよ」
明日香は僕が微妙に不機嫌そうな様子であることに気がついたようだ。僕をなだめるよ
うな口調で明日香はそう言った。
「あいつが叔母さんが襲われることを知っていたことは確実だろう。あんなメールを寄こ
したくらいだし」
「だけど、彼は叔母さんを助けたくてあたしにメールしてきたんだと思うの」
「落ち着いてよく考えてみようよ。叔母さんは池山から指定された場所に行こうとして、
明らかに待ち伏せしていたとしか思えない男たちに、その」
「あまりあたしに気を遣わなくていいよ」
叔母さんがそのとき冷静な声で言った。「あのときあたしは高校生くらいの男の子たち
に襲われたの。もうあまりあたしに気を遣わなくていいから」
「ごめん」
「だから気を遣うなって。もうあたしは立ち直ったんだからさ」
叔母さんがほんの少しだけ僕の方を見て微かに微笑んだ。それは一瞬の出来事だったか
ら明日香がその微笑に気がついたかどうかはわからなかった。
「・・・・・・あのとき叔母さんとの待ち合わせ場所や時間を指定した池山が怪しいと思わない
おまえの考えの方が、僕には理解できないけどね」
明日香はあいつに未練があるのだろうか。明日香は自分の大切な叔母さんを汚した仲間
かもしれない池山に肩入れし、今では婚約者であるはずの僕の話にも納得していないのだ。
「何で明日香は池山が善意で行動したって思うの?」
「お兄ちゃんが知っているかどうかはわからないけど、博之はあんな仲間とバカやって遊
んでいるけど、本当はまともな考えをずっと持っていた人から」
「明日香・・・・・・」
おまえは僕より元彼の方を信じるのか。
「前にお兄ちゃんの親友の兄友さんにも言われたことがあるの。池山はあんなバカだけど、
根は本当にいいやつだし、本気で曲がったことをするようなやつじゃないって」
確かにそんなことをかつて兄友から聞いたような気がする。あれは奈緒と付き合い出し
たばかりの頃だった。
兄友の言うことだから根拠のない話ではないだろう。でも警察に目を付けられているよ
うなドラッグの販売グループに所属し、あんな格好をして周囲を睨みつけながら歩いてい
るようなやつのことを明日香はまだ信じているのだ。本当に明日香は僕のことが好きなの
だろうか。ひょっとして奈緒との関係に苦しむ僕を助けようとして、自分の意思に反して
無理にあいつと別れたのだろうか。明日香はそういう行動を取っているうちに僕への愛情
に気がついたと言っていたけど、それは本当なのか。最初は明日香は奈緒でなければ僕の
彼女は有希だっていいと考えていたのだし。
「おまえは僕よりあいつのことの方を信じるんだ。将来を誓いあったばかりの僕のことよ
り、あんな不良の元彼の方を」
僕は思わず言わなくていいことを口にしてしまった。
「お兄ちゃん・・・・・・それ本気で言ってるの?」
その言葉を口にした瞬間、明日香への嫉妬や不信感より、自分への嫌悪感を感じた。ふ
らついているのは僕の方なのに。奈緒の告白に悩み、叔母さんとの交情を忘れようと必死
になっているのは僕の方なのに。
明日香は僕の言葉に顔を青くして、傷付いたような目に涙を浮べている。
「はいはい。もうよせ」
叔母さんが口を挟んだ。
「叔母さん」
「あたしはあんたたちに言ったよね? あたしの部屋でいちゃいちゃしたり痴話げんかす
るのはよせって」
「・・・・・・ごめん」
「ごめんじゃないよ。あんたたちは昨日将来を誓い合ったんでしょ? 早速こんなつまん
ないことで痴話喧嘩してどうすんのよ。こんなんじゃあたしだって、あんたたちの味方を
してあげられないじゃん」
「ごめん」「ごめんなさい」
僕と明日香が同時に叔母さんに言った。
「あたしに言うな。お互いに謝れよ」
「悪かったよ明日香」
「お兄ちゃんごめんなさい」
再び僕と明日香が同時に、今度はお互いの目を見ながら言いあった。
「よし。これで二人とももうやめろ。池山がメールしてきた動機なんて、ここで話しあっ
てたってわかるわけないんだし」
それは叔母さんの言うとおりだった。
「池山はもともとあたしが見つけた取材先じゃなくてさ。うちの編集部の仕事を請け負っ
ているプロダクションの編集の大学時代の後輩の、そのまた後輩なんだよね」
叔母さんが冷静に言った。
「その編集者の後輩って何で博之のことを知ってたの」
明日香が涙を拭きながら聞いた。叔母さんのおかげで明日香とは仲直りしたはずなのだ
けど、やはり博之という名前を明日香の口から聞くのは面白くない。
「その編集者の後輩はSPIDERっていうバーを経営しているんだけど、池山って常連客なん
だよ。つうかそこのマスターの高校の後輩なんだって」
「マスターって渡さんのこと?」
明日香が言った。
「うん。確かそんな名前だった。あんた知ってるの?」
「博之と付き合ってた頃、あの店にはよく行ってたから。未成年でも飲ませてくれたか
ら」
「明日香、あんた外の店で飲酒してたの? あんたはまだ中学生なんだよ」
叔母さんが驚いたように聞いた。明日香が目を伏せた。
「うん、ごめん。あのときはあたしもバカやってたから」
叔母さんも明日香が中学生のくせに遊んでいたことは知っていたのだろうけど、不良の
彼氏と飲み屋に入り浸っていたことは知らなかったらしく、ショックを受けたように黙っ
てしまった。それから叔母さんは僕の方を見た。
「奈緒人。あんたは明日香がそんな店に入り浸っていたことを前から知ってたの?」
もう誤魔化せるような状況じゃなかった。
「うん。店とかは知らないけど、明日香がたまに酔って帰って来るのは知っていた」
それを聞いて叔母さんは悲しそうな表情を見せた。
「まあ、あんただけを責める訳にはいかないけど、でも知っていたのならあたしには相談
して欲しかったな」
「ごめん」
明日香が口を挟んだ。
「叔母さん、違うの。お兄ちゃんのせいじゃないの。あたしが変な反発心から遊んでいた
のがいけないの」
「まあ、今はその話はいいや。あの頃は仲の悪かったとはいえ、奈緒人が明日香のことを
チクリたくなかった気持もわかるしね。とにかく池山に関してはあんたたちじゃお互いを
気にしあって冷静に判断できないだろうから、もう今夜はこの辺で止めておこう」
「やめないよ」
明日香が伏せていた目を上げて僕と叔母さんにそう言った。
「あんた、何言ってるのよ」
叔母さんが戸惑ったように言った。
「叔母さんだってまだ安全になったってわけじゃないでしょ。少なくとも何があったかは
調べておかないと、叔母さんがまた変なやつらに襲われたらやだもん」
「もうあんな不用意なことはしないよ。あたしだって学習したし」
「毎日叔母さんにボディーガードがついているわけじゃないんだよ。普通に会社と家と行
き来してたって危険はあるじゃない」
「それは心配しすぎだよ。あたしはそこまで弱い女じゃない」
「お兄ちゃん?」
明日香が僕を見た。これについては明日香の言うとおりだった。組織として行動する相
手なら、叔母さん一人をどうこうしようとすればそんなに難しい話じゃない。叔母さんの
ためにはここで原因となった芽を摘んでおくべきなのだ。
「明日香の言うとおりだよ。僕が池山に会って問いただしてみる」
「それはだめ」
明日香がすぐに反応して反論した。「あたしが博之に事情を聞いてみる」
「・・・・・・いい加減にしろよ。おまえだって叔母さんと同じで危ない目にあう可能性のほう
が高いんだぞ」
「博之はそんなことしないよ」
「おまえはそんなにやつのこと信じているわけ? 高校生なのにドラッグの商売なんかに
手を出しているやつのことを」
「お兄ちゃんみたいに平凡にアニメとかゲームとかだけしている人にはわからないと思う
けど、遊んだりバカなことやっている人がみんな悪いっていう発想は捨てたら? あいつ
らだっていろいろな経験を積んで、それは確かにクズみたいになっちゃうのもいるけど、
それでも人として筋を通そうとしている人だっているんだよ」
やっぱり明日香は僕より元彼の方を擁護するのか。家にこもって過ごしている僕なんか
より「いろいろな経験」とやらを知っているやつらの方が人間として上だと思っているの
か。
もしそうだとしたら、仮に今の明日香がどんなに僕のことを好きになっているとしても
僕とは価値観が合わない。これなら本当の妹の奈緒と恋愛ごっこみたいなことをしていた
方がよほどましだ。近親相姦は道徳的にどうかという問題はあるけど、それは少なくとも
法律に違反はしていない。
「犯罪まがいのことをしている男を庇うとか、僕には明日香の言っていることは理解でき
ないよ。明日香とは一生一緒にいたいと思ったけど、それは明日香が過去を反省している
と思ったからだ。今だにあの頃のことを美化しているんだったら、僕とおまえが一緒に暮
らすのは無理だと思う」
「・・・・・・何でそんなこと言うの? あたしはもうあんなバカなことしないってお兄ちゃん
に言ってるのに」
明日香が泣き出した。
「でも、まだおまえが言うバカやってた頃の池山のことを信じてるんだろ」
「・・・・・・博之が叔母さんを犯した犯人じゃないって言ってるだけじゃん。兄友さんだって
彼は悪いやつじゃないって言ってたし」
「あたしが犯されたとか変なこと言うのやめろ」
僕と明日香の諍いを冷静に眺めていた叔母さんがそこで静かに言った。
「あ・・・・・・ごめん」
明日香が狼狽したように俯いた。
「ごめんじゃないよ。あたしはそんなことされていないよ。されかかったかもしれないけ
どさ」
叔母さんは顔を赤くしたけどその口調ははっきりしていた。
「あんたらさ。これ以上痴話げんかを続けるなら今度こそ本当にここから追い出すから
ね」
「ごめん」
明日香が叔母さんに小さな声で言った。
「奈緒人は?」
「僕は別に悪いことは言っていないし」
「・・・・・・もう一回言ってみ?」
「え?」
「あんたさ、今一番大切にしなきゃいけない女の子の話をしたよね? あたしとドライブ
したときに」
「・・・・・・した」
「それが一番大切な女の子に対するあんたの態度なの?」
叔母さんは冷静そうに話をしているけど、叔母さんが泣きそうな気持で話をしているこ
とは僕にもわかった。僕はまた間違えそうになったのかもしれない。
「お兄ちゃんを責めないで。あたしも悪いんだから」
明日香が細い声で言った。
「あんたが悪いことなんてわかってるよ。いくら自分の昔の知り合いを悪く言われたから
って開き直ることはないでしょ。実際、あんときのあんたは奈緒人につらく当たってたん
だから」
「いや。そのことはもういいんだ。叔母さんごめん。明日香・・・・・・悪かったな」
「好きなのはお兄ちゃんだけだよ。お兄ちゃんにいくら怒られてもしかたないけど、それ
だけは信じて」
「うん。ごめん」
「あたしこそごめんなさい」
あたしの部屋でいちゃいちゃするなら追い出すと叔母さんは言っていた。
明日香が僕に泣きながら抱きついてきたのに、叔母さんはもうそのことは蒸し返さずに
僕たちが落ち着くまでじっと待っていてくれた。
それでも明日香が池山に会うのは危険だと思ったので、仲直りしてまだ僕に抱き付いて
いる明日香に対して、僕が一人で池山と会うと主張した。
「だめ。博之は前からお兄ちゃんのことが嫌いだから。それにお兄ちゃんが博之に殴られ
るなんてあたしはいやだもん」
確かに僕なんかでは池山に絡まれたら抵抗すらできないだろうけど、そういうことを妹
に、自分の彼女に心配されると結構真面目にへこむ。
「殴られるくらいですむなら我慢するよ。おまえや叔母さんが危ない目に会うより全然ま
しだと思うし」
明日香は何かを言い返そうとしたけど、結局口をつぐんだ。池山は自分や叔母さんに何
かをするような男じゃないって言おうとしたのだろう。でも、叔母さんにたしなめられ僕
と仲直りしたばかりの明日香はもう何も言わなかった。
翌日の日曜日、お互いに妥協しあった僕と明日香は結局二人で池山に会いに来た。
この日は池山の住まいの最寄のファミレスで待ち合わせをしていた。明日香が何と言っ
て池山を呼び出したのかはわからなかった。約束の時間にファミレスに入るとき明日香は
僕と繋いでいた手に力を込めた。
「明日香、こっちこっち」
金髪ピアスの男が喫煙席で煙草を吸いながら明日香に大声で呼びかけた。
明日香は困ったように僕の方を見た。
「彼、いつも喫煙席なんだけどそれでもいい?」
「あ、うん」
正直、このときの僕は緊張していたから煙草の煙りのことなんてどうでもよかった。
池山の向かいの席に明日香と並んで座ると、彼がむっとしたように明日香に言った。
「おまえさあ。座る場所違うんじゃんねえの」
「何で? あんた、何言ってるの」
明日香が強気な声で池山に言った。こういう強気な明日香を僕は久し振りに見た。昔は
僕に対してはいつもこういう声で話し掛けていたんだっけ。最近は明日香の甘い声ばかり
を聞かされていた僕はそう思った。
「おまえが会いたいって電話してきたんだろうが。それなのになんで俺の横じゃなくてそ
いつの横に座ってるんだよ」
不思議なのだけど、これだけ喧嘩っ早そうなやつがここまで僕に対して一切話しかけて
こない。もちろん今のところ殴られそうな様子もない。
このとき池山の向かいの席で僕と並んで座っていた明日香は、今だに僕の手を握ってい
たしそのことは池山にもわかっていたはずなのに。
「明日香の言うことを聞いたら、俺とまた付き合ってくれるっておまえは言ってたじゃ
ん? 俺、今一生懸命おまえに言われたとおりのことをしようとしてるのによ。何でおま
えはもう他の男と一緒にいるわけ?」
「・・・・・・何言ってるのよ」
明日香のが小さい声で言った。
「さっきから君は何を言いたいのかな」
僕は池山に話しかけた。結構、緊張していたので、はっきりとした声ではなかったかも
しれないけど、僕にしては頑張った方だと思う。
でもそんな必死な僕の声を池山は無視して、明日香に話しかけた。
「明日香、こいつ誰? っていうか俺とおまえの話しに何でこいつがついて来てるんだ
よ」
「この人はあたしのお兄ちゃんだよ」
明日香が小さく言った。正直に言うと僕はここで明日香がはっきりと僕のことを彼氏だ
と言ってくれるのかと期待していたので、そのことに少しだけ落胆した。
「そんなことを聞いてるんじゃねえよ。兄貴だか何だか知らねえけど、何でここに他の男
を連れてきたのかって聞いてるんだよ」
「あたしが誰を連れてきたってあんたには関係ないでしょ。あたしはもう博之の彼女じゃ
ないんだから」
ようやく強気な声で明日香が言った。
「明日香って、やっぱりそういう格好の方が似合うよな。前はケバ過ぎたし。それに髪も
黒髪の方が可愛いよ」
反発する明日香には構わず、池山は無表情のまま話を変えた。「前から俺、おまえに頼
んでたじゃん? もっと清楚な格好をしてくれって。あの頃はそう言ってもおまえに笑わ
れただけだけど、ようやくおまえもその気になってくれたのな」
何を言っているんだ、こいつ。それに僕のことを言及しているわりにはこいつはぼくか
ら目を逸らしている。
「あんたの好みに合わせたんじゃないよ。あたしはこれから真面目になろうって決めただ
け」
「誰のために? まさか、そこで偉そうに彼氏面して座ってるおまえの兄貴のためじゃね
えよな」
明日香はそれには答えなかった。
「違うよな。だっておまえは富士峰のあの女の子をどうにかしたら、また俺と付き合うっ
て言ってくれたんだもんな。確かに俺だってまだそこまではできてないけど、そうすれば
今みたいな服装のおまえが俺とやり直してくれるなら明日にでもあの富士峰の中学生を犯
してきたっていいんだぜ」
明日香が震えた。握り合った彼女の手が汗ばんでいる。
「鈴木奈緒っていったけ? 俺だって何の罪もない中坊をレイプするなんて趣味じゃねえ
けど、そうしないとおまえがよりを戻してくれないならおまえの言うとおり奈緒を犯すく
らいはするよ」
僕は奈緒の、僕の妹のことをレイプするとかしないとかっていう話を聞かされているだ。
頭に血が上り、僕は池山の服のの胸元を掴んで引き上げ、拳を思い切り池山に殴りつけた。
でも僕の拳は空を切った。逆に僕は頬に池山のパンチを食らってテーブルの上に叩きつけ
られた。
「てめえ死にてえのかよ」
僕は髪を掴まれて倒れていたテーブルから顔を引き上げられ再び殴られた。
「やめて! お兄ちゃんにひどいことしないで!」
明日香が泣き叫んで僕と池山の間に自分の華奢な体を割り込ませて、池山から僕を庇う
ようにした。
今日は以上です
週末くらいから女神の更新を再開する予定です
池山株、上がったり下がったり忙しいわ
乙
奈緒人はまさにサノバビッチだな
明日香はビッチ系普通の女の子
有希は女帝系レズ
奈緒はメンヘラ
叔母さんは乙女可愛い
つまり、叔母さん一択
このとき、明日香の顔は僕の頭の上の方にあった。明日香が僕に抱きついてくるときは、
お互いの身長差もあって彼女は自分の顔を僕の胸の辺りに押し付けてくることが多かった。
でもそのときの明日香は僕の顔面を庇おうとしたのか、半ば半身をテーブルにうつ伏せに
押し倒されるようになっていた僕に精一杯背筋を伸ばして抱きついていた。そのせいで明
日香の表情を覗うことはできなかった。
「奈緒って・・・・・。妹をレイプって」
僕は混乱してうめくように口にしていた。明日香の言葉も嘘ではなかったようで、池山
は僕との間に明日香が割り込むと、明日香のことを気にしたのかもう暴力を振るおうとは
しなかった。僕は池山から目を逸らして明日香を見た。
「違うの、違うの」
明日香が泣きながら何かを僕に向かって言っている。池山が僕から離れて座りなおした。
そのことに気がついた僕は庇ってくれている明日香をそっと自分から遠ざけて身体を起こ
した。
どういうわけか池山も動揺しているようだった。このときファミレスの店員たちが僕た
ちを遠巻きに眺めていた。注意されるくらいならまだしも、警察とかに電話されるのはま
ずい。明日香はまだ中学生なのだ。
「これくらいにしておかないと本当に警察を呼ばれるぞ」
僕は明日香を隣の席にそっと座らせながら池山を睨んだ。
池山はもう戦意を喪失したように僕たちを眺めた。
「・・・・・・おい」
彼は僕に言った。「・・・・・・明日香の兄貴。てめえ、何で今いきなり俺を殴ろうとしたん
だよ。妹って言ってたよな? 鈴木奈緒っていう富士峰の中坊はおまえの何なんだよ」
「奈緒に手を出すな。本気でレイプとか言ってるなら許さないからな」
不様に池山に負けた気がしていた僕だったけど、このときの殺気は本物だったと思う。
池山も僕の怒りが本気であることに気がついたようだ。そして彼はもう僕なんて気にせず
明日香の方を見た。それは何だか少し悲しそうな表情に見えた。
「・・・・・・そういうことか。俺は明日香に利用されたってわけか」
「何言ってるんだ」
僕はそう言ったけど池山はやはり僕の言葉に全く注意を払わなかった。
「おまえは俺の気持ちを弄んだんだな。俺は本気でおまえに惚れてたのに」
明日香は俯いたままだ。
「いまえは俺の気持ちを利用して俺にあの女を犯させようとしたんだな。この野郎の好き
なやつをひどい目にあわせるためだけによ。俺は本気でおまえに言われたように奈緒をレ
イプするところだったんだな」
僕は池山の言葉に混乱した。このクズはやっぱりまだ中学生で僕以外の男と付き合った
ことすらない奈緒をどうにかしようと思っていたと口にしているのだ。それなのになんで
こいつはこんなに裏切られたような悲しげな表情をしているのか。最初は僕に全く理解で
きなかった。ふとそのとき、有希の顔が目に浮かんだ。あのときの有希の言葉とともに。
『実の兄妹だと思って完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血
が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であるこ
とは知らなかったんでしょ?』
『兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを
手に入れてるんじゃない』
『あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だって言ったけど結局そのとおりだった
わけね』
『おまえの言うとおり奈緒を犯すくらいはするよ』
さっきこのクズはこう言ったのだ。おまえというのが明日香のことだとしたら、僕の大
切な彼女がこのクズに僕の妹をレイプするように依頼したことになる。
『明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね』
あのとき最後にそう言っていた有希の表情を僕は思い浮べた。
池山が奈緒に酷いことをしようとしていたらしいことは本人の告白のとおりなのだろう。
そしてそれに対して弱い僕が敵わないまでもこいつに殴りかかったとき、池山は反撃した。
ただ、それはいきなり殴りかかった僕に対してわけがわからず反射的に反応したように思
えた。明日香が僕を庇ってくれたあとの彼の言葉がそれを証明していた。
池山はそうすれば復縁するという明日香の言葉に踊らされていたようだった。それが本
当だとしたら、明日香は奈緒をレイプするように池山に頼んでいたということになる。有
希があのとき言った言葉の意味がようやく僕にもわかってきた。
「おまえ、こいつのこと本気で好きなの?」
池山が明日香を睨んで言った。これだけ強面の男なのにそれは泣きそうな表情に見えた。
明日香は池山の方を見ず、彼女らしくないおどおどした表情で半分泣きそうになりなが
ら僕を見た。このとき僕はどういう目で明日香を見ていいのかわからなかった。明日香へ
の愛情には疑いはない。彼女の僕への献身と愛情を鑑みればその気持を無視するなんて考
えられない。
でも明日香が僕の妹を、僕の奈緒をレイプさせようとしたことが本当だとしたら、僕の
明日香への気持はどうなのだろう。多分僕は明日香がそんなことをした動悸については理
解していたと思う。明日香は奈緒のことを警戒していたし、僕のことを誘惑して残酷に貶
めようとしたひどい女だと思っていた時期があった。そのことは明日香本人からも聞いて
いた。
・・・・・・結局、これも明日香が僕を守ろうとして暴走してしまった結果なのだろう。中学
生の少女をレイプさせようとするのはもちろん行き過ぎだし、それが自分の妹のことだと
思うと許せない気持ちもある。でも、明日香は奈緒を誤解し憎んだ挙句に暴走してしまっ
たのだ。そして、その主な動機は僕を救うためだ。
明日香はそのことを後悔し怯えた目で僕を見ている。明日香はプロポーズまでした相手
だ。僕の婚約者なのだ。
「そいつに言ってやれよ」
僕は明日香に言った。
「え?」
「僕がおまえの彼氏だって、将来を誓った仲だって言ってやれよ」
「・・・・・・お兄ちゃん」
明日香が再び僕の手を強く握った。そして俯いていた顔を上げた。今まで混乱していた
その表情にはしっかりとした決意が現われているように見えた。
「あんたには悪いことしたと思うけど、もう奈緒ちゃんを狙うのはやめて」
明日香が池山に言った。
「何でだよ」
風体に似合わず気の弱い声で池山が声を出した。
「この人はあたしの彼氏なの。血の繋がっていない兄だけど、将来結婚しようって決めた
仲なの。だからもうあんたとは付き合えない。奈緒ちゃんのこともなかったことにして」
「おまえはもう俺のこと好きじゃないのか」
「うん、好きじゃない。本当にごめん」
「・・・・・・本当にそいつと付き合ってるのかよ」
「うん、本当」
「遊ぶのやめたのも仲間から抜けたのも真面目な格好し出したのも・・・・・・」
「全部お兄ちゃん・・・・・・、今の彼氏のためだよ。あたしはもう真面目に生きることにした
の。そうじゃないとお兄ちゃんに悪いから」
明日香の言葉を聞いて池山は顔を真っ青にしてよろよろと立ち上がった。
「俺だっておまえに真面目になれって、真面目な格好してくれてって言ってたのにな」
「博之・・・・・・」
「俺、もう帰るわ。おい、明日香の兄貴」
突然池山が僕に話しかけた。「おまえがいきなり殴りかかってきたんだからな。俺はお
まえに謝んねえからな」
僕は黙っていた。
「あと、奈緒って子を狙うのはもうやめたから。ばかばかしいや。そんな無茶しても明日
香が俺とよりを戻さないって言うしよ。最初から俺のことなんか好きじゃなかったんだろ、
おまえ」
「・・・・・・ごめん」
明日香がまた謝った。
「ごめんって言われてもな。じゃあ」
池山が誰にともなく呟いてふらりと立ち上がった。
池山が店を出て行く頃には店内の視線は収まっていて、僕と明日香は手を繋いで並んで
座ったままその席に取り残された。向かいの席は空席のままで。
明日香は俯いて小刻みに体を震わせていた。
「・・・・・・明日香?」
明日香は何も答えようとしなかった。
これで何度目かな。僕はそんな明日香を見てそう思った。短い間に仲の悪かった彼女と
仲直りし、お互いに好きになり恋人同士になった。そんな明日香が僕の愛情を疑い迷う素
振りを見せるのは何度目なのだろう。奈緒のことは正直に言うとショックだったけど、今
の彼女には池山にそんなことを依頼したときのような奈緒への悪意や疑いがないことを僕
は信じたかった。
「今でも奈緒のことが嫌い?」
「・・・・・・そうでもない」
明日香は少し間をおいて小さな声で答えた。
「奈緒が僕を傷つけるために僕に近づいたって今でも思っているの?」
明日香は首を振った。
「僕を救おうとしたんだろ? そのためにあんなことを池山に頼んだんだよね」
「うん・・・・・・。本当にごめんなざい」
「もういいよ。僕のためにしてくれたことだし。でももう二度とそんなことはしないでく
れ。恋人はおまえだけだけど、自分の妹がおまえのせいでひどい目にあっていたら僕はも
うおまえのことを好きでいられなくなる」
「ごめん・・・・・・ごめんなさい」
「わかってくれればいいよ。もう終ったことだし、ずっと一緒にいよう」
「お兄ちゃん、本当に許してくれるの」
涙目で明日香が言った。僕には今はもうそれだけで十分だった。彼女の罪は僕のためを
思ったことだったから。
「うん」
僕はそう言って明日香に笑った。
でも、本当は何も終っていないのかもしれない。僕の片腕に抱きついて泣いている明日
香の頭を撫でながら僕は考えた。明日香の真意に気がついた池山はもう奈緒を襲うことは
しないと思う。兄友も明日香も池山は見かけによらず常識的な男だと言っていた。
それでもよく考えてみれば今日池山に会おうとした目的は何も果たせていない。女帝の
商売も、そのことによる叔母さんの危険すらも何も解決していないのだ。
今日は本当は有希のことを聞きだすつもりだったのだけど、それどころではなかった。
「帰ろうか」
僕は明日香に言った。
「うん」
僕たちは結局十分ほど滞在しただけでその店を後にした。
店を出て明日香と二人で多分両親が帰宅していないだろう家に帰ろうとしたとき、駅前
の広場で人だかりがしていることに気がついた。さっきまで刺激的な会話を繰り広げてい
たせいで、僕も明日香もお互いが気になって目の前に事件なんてどうでもいい気分だった。
それでも救急車のサイレンとか慌しい人の動きとかを気にしないわけにはいかない。
僕は片腕に抱き付いている明日香の方を見た。
「何かあったのかな」
「さあ、何だろう」
明日香は健気にそう言ったけど、さっきの出来事が頭にこびりついているのは見え見え
だった。この妹はわかりやすいといえばわかりやすい。
僕と明日香が何となくその人混みを見ていると、救急車が到着してたんかを持った救急
隊員が数人降りてきて人混みをかき分けてその中心に辿り着いた。
「病気かな」
「そうかも」
「帰ろうか」
「うん」
野次馬みたいに人の不幸を眺めていてもしかたない。僕たちはその場を後にしようとし
た。
駅に向うにはその人だかりの横を通り過ぎるしかない。駅に向いながら横目で見ると、
ちょうど救急隊員が地面に倒れている人をたんかに乗せようとしているところだった。
目を閉じて身動き一つしないその男は池山だった。
「お兄ちゃん、あれって」
僕の手を握っている明日香の指に力が込められた。
「池山だ・・・・・・」
「何で? まさかあたしがひどいこと言ったせいで博之はやけになって」
「・・・・・・そんなわけないだろう」
僕は否定したけど、さっき店を出て行くときのあいつの混乱した様子ならそういうこと
がないとも言い切れなかった。再びサイレンの音がして今度はパトカーが数台駅前の広場
の車止めの方に進入してきた。
隣にいるカップルらしい二人連れの声が僕の耳に入った。
「ケーサツ来たよ」
「そりゃ来るだろう。でもちょっと遅いよな」
「喧嘩相手の人たちはもうとっくに逃げちゃったしね」
「高校生くらいだよな? 最近の若い子は恐いよ。ナイフでいきなり相手を刺すとは思わ
なかった」
「何かあたしあの場面トラウマになりそう。ばっちり目撃しちゃったし」
「もう忘れよう。俺たちには関係ないし。さっさと飲みに行こうぜ」
「警察に目撃証言とかしなくていいの?」
「こんだけたくさんの人の前で起こったんだぜ。目撃者だらけだし俺たちは早く忘れよう
よ」
「うん」
「最近この辺って物騒だからなあ・・・・・・」
二人連れはその場を離れて繁華街の方に向って行ったのでそれ以上会話を聞くことはで
きなかった。
「僕たちのせいじゃないみたいだけど」
「うん。博之、大丈夫かな」
「・・・・・・わからない」
たんかを車内に収容し終わった救急隊員たちが救急車に乗り込んだ。その出発にようや
く間に合ったパトカーから一人の警官が降りて救急車の運転席に顔を突っ込んだ。
すぐに話がまとまったらしく赤色等を点滅させて駅前から出て行く救急車の後ろを、一
台のパトカーがサイレンを鳴らして付いていった。やがて二台のサイレンの音が遠ざかり
聞こえなくなった。
その場に残ったもう一台のパトカーから制服の警官が何人か降りてきた。その後ろから
私服の男がパトカーから降りてあたりを見回した。制服の警官たちが事件の現場から人を
排除してよくドラマで見るような立ち入り禁止のテープを設置している。同時に別な警官
が群集に目撃者はいないか呼びかけた。
「どうする?」
僕は明日香に聞いた。
「わかんないよ。でも、あたしたち現場を目撃したわけじゃないし」
確かにそうだが、事件を目撃した人たちと違って僕たちは被害者の素性を知っている。
どうせすぐに警察にもわかるのだろうけど、それくらいは市民の義務として通報しておく
べきかもしれない。
「おい、兄ちゃんじゃねえか」
僕は私服の警官から声をかけられた。近寄ってきた警官を見るとそれは平井さんだった。
「久し振りだな。って、お? 明日香ちゃんも一緒か」
「ご無沙汰しています」
挨拶する僕を明日香は不審そうな目で見た。それはそうだろう。明日香は直接的には平
井さんとは顔を合わせたことはない。病院に平井さんが来たときは意識を失っていたし、
後に事情聴取に来たのは平井さんではなくて女性警官さんだったから。
「明日香が怪我をさせられたときに病院に来てくれた刑事さん、平井さんだよ」
「明日香ちゃん今日は」
平井さんに言われて明日香は慌ててぺこりと頭を下げた。
「さて、つまんない仕事に取りかかるかな。兄ちゃんたちも早く家に帰れよ」
平井さんがのん気そうに言って僕たちから離れようとしたので、僕は慌てて彼を呼び止
めた。
「すいません、さっきの被害者の人を僕は知っているんですけど」
「・・・・・・何だって?」
平井さんののん気そうな顔が一変した。「・・・・・・話を聞こうか」
僕たちは平井さんに連れられてパトカーの後部座席に並んで座った。
「それでガイシャの名前と素性は?」
助手席に座った平井さんが後ろを向いて僕に聞いた。
「平井さんも知ってますよ。池山博之です」
平井さんが顔をしかめた。
「また、あいつか。それで、池山が刺されるところを、兄ちゃんは最初から見ていたの
か」
「いえ。救急車に運ばれるところを見かけたんですけど」
「それが池山だったってわけか。本当に偶然なのか」
僕は少し迷ったけど、ある程度は話したほうがいいいと思った。明日香のためにも池山
を刺した犯人を捕まえるために協力すべきだ。明日香は池山には罪悪感を感じているよう
だったし。
「実は、池山が刺される直前まで駅前のファミレスで三人で話をしていました」
「三人って、兄ちゃんと明日香ちゃんと池山ってことか」
「はい。それで池山が先に帰ったので僕たちも帰ろうとして駅前にでたときに、あいつが
たんかで運ばれているのを見ました」
「ふーん。それで兄ちゃんたちはいったい何で池山なんかと三人で会ってたんだ? 俺は
あんとき全部手の内を見せたよな。池山だって明日香ちゃんを善意で救ったわけじゃない
だろうって。おまえらだけで池山に会うなんて何でそんな危ない真似をした?」
奈緒のことは言えない。それを言えば明日香が犯罪教唆の罪に問われるかもしれないの
だ。でも全くの嘘でこの人を誤魔化せるとも思ってはいなかった。
「正直に言うと、明日香と僕は付き合っているんでこれ以上明日香に付きまとわないよう
に池山に言うためです」
さすがの平井さんも驚いたようだ。
「付き合うって・・・・・・おまえら実の兄妹じゃねえの?」
僕は明日香の手を握った。珍しく少し湿った感触がする。ここまで一切喋っていない明
日香も彼女なりに緊張しているのだろう。
「血は繋がってないんです」
「うーむ。そういうことか。それにしたって何でそれを池山なんかに言わなきゃなんねえ
の? あいつ、よほどしつこく妹さんに言い寄ってたのか」
「これまで黙っていてすいません。池山は明日香の元の彼氏なんです」
平井さんは顔色を変えた。
「おい。聞いてねえぞ、そんなこと。加山が明日香ちゃんの事情聴取をしたはずだが、加
山には嘘をついていたってことか」
「確かに池山が明日香の元彼だということは黙ってましたけど。加山さんの事情聴取っ
て・・・・・・? 明日香、おまえ加山さんに会ったのか」
「加山さんって、あのときうちに来た女の警官の人?」
「いや、違う」
「ちょっと待て」
平井さんが慌てたように口を挟んだ。「女の警官って何のことだ」
「うちに来た女性の警官ですよ。二人で明日香に話を聞きに来ました。こういう事件の場
合は女性の警官が事情聴取をするんだって言ってましたけど」
「明日香ちゃんの事情聴取に行かせたのは加山だ。報告書もちゃんとある。女性警官なん
て俺は知らないぞ」
今度こそ本気で平井さんは驚いたようだった。
今日は以上です
結局女神を更新できませんでした
すいません
なに? どんどんきな臭く……乙!
乙
じゃあ女性警官って誰なんだ
女装か!(天才的閃き)
乙
「知らないって・・・・・・。うちに事情聴取に来ましたよ。事前の予告とかなくていきなりだ
ったんで、少しおかしいなとは思ったんですけど平井さんの名前も出してたし。性犯罪の
女性被害者には女性警官が事情聴取をすることになっているって言われたんで、そういう
ものかと思って」
僕は記憶を探ってみた。
『性犯罪の被害者の方への聴取は女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴
取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう』
『それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには
慣れてませんしね』
あのとき女性警官の一人は笑ってそう言ったのだった。
僕はそのことを平井さんに話した。
「何が何だかわからねえな。そいつら制服を着ていたか?」
「いえ。二人とも私服でした」
「・・・・・・うちの署の生活安全課には私服の女性デカはいねえんだけどな」
「どういうことです?」
「それは俺が知りたい。加山の報告書じゃ、兄ちゃんと明日香ちゃんの二人を署に呼んで
事情聴取したことになっていたぞ」
僕と明日香は顔を見合わせた。
「僕と明日香は警察署になんて呼ばれたことはないですよ」
「おまえらが言っていることが本当なら、加山の報告書はデタラメってことになるな」
平井さんが考え込んだ。
「加山さんに聞けばすぐに真実がわかるんじゃないですか」
「それが、あいつ警察を辞めたんだよ」
加山さんにはいい印象がなかったので、彼がどうしようが僕にとってはどうでもよかっ
たけど、それでも警察を辞めたのいうのは少し意外だった。あのときの平井さんと加山さ
んの会話では、加山さんはエリートですぐに自分を追い越すだろうって平井さんは言って
いた。
「どっかの民間企業からいい条件で引き抜かれたらしい。まあ、連絡を取ることはできる
けど、あいつが正直に事実を吐くとは思えん。これが本当なら加山の報告書は公文書偽造
とか捜査妨害になるだろうし、退職後でも罪に問われるからな」
平井さんは考え込んだ。
「あの女の人たちは誰だったんでしょう。そして加山さんはいったい何がしたかったんで
しょうね」
「わからん。ただ、警察の人間が俺に黙って加山に協力して違法行為を犯すとも思えん」
「つまり警察の人間ではないと」
「その可能性が大だな。その警官を名乗ったやつらはどんなことを聞いてきた?」
僕は再び記憶を探った。幼少の記憶が極端に欠落しているせいで、これまで自分には記
憶力が備わっていないのだと思っていたのだけど、最近ではその考えを改め出したところ
だった。むしろ、明日香より僕の方が記憶力はいいのではないか。
このときも僕はすぐに女性二人の質問とそれに対する明日香の説明を思い出すことがで
きた。確かに二人は明日香に同情を示しながら優しい口調で話してはいたけど、その質問
は徹底していた。その場で起こったことは全て明日香から聞き出そうと決めていたのだろ
う。
同時にあのとき感じていた違和感も記憶に蘇ってきた。あのときの女性たちは、特に池
山と飯田の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだ。今から思う
と、明日香への暴行傷害の捜査というよりは池山と飯田の関係を知りたかったみたいだっ
た。僕はそのことを平井さんに話した。
「そうか」
平井さんは言った。あれは、女帝の組織する脱法ドラッグの販売組織を調べているのな
ら納得できる質問だった。そう考えるとあのときの女性警官は一見明日香に優しくし同情
しているようだけど、実は飯田の明日香への暴行なんてどうでもよくて、本心では池山と
平井の関係、さらには彼らと密売組織との関係を知りたかったのかもしれない。
明日香は池山の販売サイトのこと見知っていたようだけど、女帝のことは知らないはず
だ。なので僕はこのとき思いついたことを平井さんには口に出して言えなかった。でも、
多分平井さんなら気がついていたと思う。
「このことは誰にも言わないでいてくれ。おまえらがこれ以上巻き込まれることはない。
俺の方で少し調べてみるから」
「わかりました」
「・・・・・・兄ちゃん、俺もあんときは炊きつけるようなことを言っちまって、ちょっと反省
しているんだ。もうおまえはこの件から手をひけ」
手をひけも何も僕はまだ何もしていない。自分の恋愛関係の整理にかまけていただけで。
「お兄ちゃん、何の話?」
明日香が不安そうに聞いた。
「何でもない。わかりました。あとはお任せします」
「おう。何か危ないことが起こりそうならいつでも相談しろよ」
平井さんがそう言った。僕は自分が何となくこのくたびれた感じの刑事に好感を抱き始
めていることに気がついた。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「叔母さんのこと・・・・・・話しておいたほうがよくない?」
余計なことをと一瞬思った。叔母さんの身に起きたことを考えると、僕たちが勝手に警
察に話していいのかわからないのに。それでも叔母さんがこの先も安全かどうかはわから
ないことを考えると、明日香の心配も無理はないのかもしれない。明日香は玲子叔母さん
のことが本当に好きだった。それに今日は池山に叔母さん関係の事実を聞き出すはずだっ
たのが、それを果たす前にあいつは飛び出して行ってしまい、挙句に誰かに刺された。も
う警察の力を頼らなければいけない時期だったのかもしれない。
「わかった。僕が話すよ」
明日香がうなづいた。
「まだ何かあるのか」
平井さんが不審そうに聞いたとき平井さんの携帯が鳴り出した。
「平井だ。ああご苦労さん。様子はどうだ?」
電話の向こうの声を聞いて平井さんの顔が曇った。
「そうか。とりあえずガイシャの身元は割れたぞ。池山博之っていう高校生だ。そう、そ
いつのこと」
「両親には連絡できるか? わかった。ちょっと待て」
平井さんが明日香を見た。
「明日香ちゃん、池山の両親の連絡先はわかるかな」
明日香は首を振った。
「博之はアパートで一人暮らしでしたし、ご両親のことは一言も聞いていません」
「そうか」
そう言って平井さんは再び携帯に向って話し出した。「連絡先はこっちでもわからん。
署で調べさせてくれ。容態が変わったらまた連絡してな」
平井さんが携帯の通話を切った。
「池山、どうなんですか」
「やばいらしい。意識不明の重態だと。今、前に明日香ちゃんが運び込まれた病院のIC
Uで治療中だそうだ」
明日香が顔を伏せた。僕はその様子を複雑な感情で眺めていた。
「それよか何だっけ? 俺も偽警官の話とかもあるし、あまり時間はないんだが」
「僕たちの叔母さんのことなんですけど」
僕はためらいながら平井さんに言い出した。
「叔母さんって?」
「覚えていませんか? 明日香が入院している病院にも来ていたいましたけど」
「ああ、一番最初に来たねえちゃんか。そういや親も両親もまだ来ていなかったから、あ
のねえちゃんに最初に事情を説明したんだった」
ねえちゃんと言う言葉に明日香がびっくりしたように平井さんの顔を見た。でもまあ、
口は悪いけどこの人の言葉には嫌味や悪意はない。それに今はそんなことを気にしている
場合ではない。
「あのねえちゃん、ずいぶん若そうだったけどおまえらの叔母さんのなのか」
「まあ、そうです」
僕にとっては本当の叔母ではないのだけど。
「で、その叔母さんがどうかしたのか」
平井さんがちらりとフロントウィンドウの外を眺めた。鑑識らしい人たちがいつの間に
か到着していて、何やら地面を調べている様子だ。外は薄暗くなってきていたけど、鑑識
の人の前の地面に赤い液体が飛び散っていることに僕は気がついた。明日香に気がつかせ
るわけにはいかない。それで僕は思い切って話を進めることにした。
「その叔母さんが、あ、叔母さんは神山玲子っていうんですけど。叔母さんは雑誌社に勤
めていて、脱法ドラッグのことを取材しようとして誰かに襲われたんです」
それまで早く僕たちから解放されて偽警官のことを調べたがっていた様子だった平井さ
んが驚いたように僕を見た。
「襲われたって・・・・・・いったい何があったんだ」
僕は自分が知っている限りの情報を、自分の中で整理しつつ順序だてて平井さんに説明
した。
叔母さんの取材相手が、池山という苗字の相手だったこと。
叔母さんが知っている取材相手の連絡先の捨てアドは、明日香の知っている元彼の捨て
アドと同じもので、しかもそれは脱法ドラッグの販売サイトの管理人のアドレスと同一で
あること。
池山と会う約束をした叔母さんが指定の待ち合わせ場所に向かう途中で、複数の男に襲
われ、殴られた叔母さんが気を失っている間にどこかの建物の中に連れ込まれたこと。
「それで? それでおまえらの叔母さんは何をされたんだ」
そこからは僕たちも叔母さんからははっきりとは聞かされていなかった。最初は僕も明
日香も叔母さんの身に最悪の事態が訪れたのだろうと思っていた。でも、今ではそれは判
然とはしない。叔母さんはさっきこう言った。
『あたしが犯されたとか変なこと言うのやめろ』
『ごめんじゃないよ。あたしはそんなことされていないよ。されかかったかもしれないけ
どさ』
そのときの叔母さんは顔を赤くしたけどその口調ははっきりしていた。その言葉を信じ
るなら叔母さんは犯されてはいないのかもしれないけど、僕は叔母さんの白い裸身に散ら
ばっていた赤い痕をはっきりとこの目で見たのだ。
「暴行されたかされかかったんだと思います。何で叔母さんがそんな目にあわなきゃいけ
ないのかわからないけど」
それから僕は明日香の携帯に来たメールのことを説明した。叔母さんを助けるように示
唆したそのメールが、池山の捨てアドから送られてきたことも。
「おまえ・・・・・・それって完全に犯罪じゃねえか。明日香ちゃんのときと同じだぞ。何で警
察に連絡しなかった」
「いえ、だって叔母さんの気持を無視してそんなことはできないでしょ。それにああいう
のって親告罪なんでしょ」
「ふざけんな。誘拐監禁や傷害罪は親告罪じゃねえよ。しかも複数の犯人がいるんだろ。
親告罪とかって小ざかしいことを言ってるんじゃねえぞ」
「・・・・・・すいません」
「まあ、過ぎたことはしかたないが、その件については調べさせてもらう。それでいい
な」
「明日香?」
僕は明日香の方を見た。
「はい。それで玲子叔母さんがつらい思いをしないのだったら」
「そこはできるだけ配慮する。て言っても性犯罪の被害者だからって、女性の私服デカを
差し向けたりはできねえけどな」
それはそうだろう。それにしても今日一日で何が何だかわからなくなってしまった。個
別に生じたこれらの事件には何か整合性があるのだろうか。
「まあ、いいや。今はゆっくり話をしている時間はない。俺も少し考えてみたいし、偽警
官の件はすぐにでも調べをいれなきゃならん。今日はおとなしく家に帰れ。どこにも寄り
道するなよ」
「わかりました」
「念のため兄ちゃんの携帯の番号を教えておいてくれ。俺のも教えておくから」
そう言いながらも自分の携帯の番号を平井さんは思い出せなかったので、ここでまた少
し時間を食った。
「じゃあ、今日だけはパトカーに送らせるから。今後は身辺に注意しろよ」
早く帰れと言われているのは明白だった。
そのとき制服姿の警官が突然パトカーを覗き込んだ。後部座席にいる僕たちに気がつか
なかったのか、彼は助手席の平井さんに向っていきなり大声で報告し出した。
「平井さん。16時14分、警ら中のパトカーが不審尋問で容疑者を確保しました。被疑者は
血の付いたバタフライナイフを所持していました。二人とも高校生ですが、問い詰めたと
ころ犯行を認めました」
「お、そうか。早かったな」
平井さんは僕たちが聞いてるというのにその報告を止めようとはしなかった。
「動機や身元はこれからですが、バタフライナイフで被害者を刺したことは認めています。
現在、明徳署に移送中です。あともう一人女の子が一緒にいたので身柄を確保してありま
す」
「女の子だあ? そいつも容疑者なのか」
「わかりませんが、その子は一緒に連れられていただけだと言っているようです」
「よし。署に戻るぞ」
「了解しました」
制服の警官が車を離れると平井さんが僕らを見た。
「聞いてのとおりだ。送ってやりたいがそうもいかなくなった。とにかくおまえらは家に
帰れ」
もうそれ以上、平井さんは僕らを相手にはしてくれなかった。
僕と明日香は会話もなく電車に乗って自宅に戻った。こういう雰囲気は初めてだったか
もしれない。明日香は少しだけ遠慮がちに僕の手を握っていたし、僕も彼女の手を握り返
していたけど会話自体はほとんどなかった。元彼が危篤なのだし明日香のそんな態度も無
理はない。ここで変に慰めるよりはそっと見守っていた方がいいと僕は思った。
自宅に戻ると一階の灯りがもう暗くなった庭に漏れ出していた。父さんか母さんが戻っ
て来ているらしい。僕たちは家に入る前に顔を見合わせた。
「ママかパパが帰ってきてるのかな」
「おまえ、家を出る前に電気消してきたんだろうな」
「ちゃんと消したよ」
まあ、日曜日の夕暮れだから両親が揃っていたって別に不思議はないのだ。
「じゃあ、早く帰って来たんだろ。行こう」
「うん」
案の定予想どおり、家に入ってリビングに行くと父さんと母さんが揃ってソファに座っ
ていた。
「おかえりなさい」
母さんが言った。
「ただいま。ママたち今日は早く仕事終ったの?」
「まあね。あなたちはどこかに出かけてたの?」
僕たちは少しだけ視線を合わせた。
「うん。玲子叔母さんの家に遊びに行ってた」
「そうなの。じゃあお昼も玲子にご馳走になったんだ」
「あ、うん。なったと言えばなったかな」
明日香の要領を得ない答えに母さんは笑い出した。
「玲子の手づくりか。あいつは昔から料理が下手だから。じゃあ、お腹空いてるでしょ。
もう夕食の支度はできてるからあなたたち順番にお風呂に入っちゃいなさい」
「うん」
ここまで父さんは会話に参加せずに黙って手元に拡げた新聞に目を落としていた。
・・・・・・まだ仲直りしていないのだ。一瞬明日香が悲しそうな目で僕を見た。
「先に入っていいよ」
僕は明日香に無理に笑いかけた。
「パパとママって今夜も結局お互いに話をしなかったよね」
夕食後に二階に上がった明日香は自分の部屋に行かずに僕の部屋についてきて、ベッド
の上に座ってそう言った。
一見賑やかな仲の良い家族の団欒のように見えたかもしれない。父さんも母さんもよく
喋った。でも両親は子どもたちにはよく話しかけていたけど、お互いに会話を交わすこと
はなかった。今までなら見過ごしてしまったらろうけど、ここ最近の両親の不穏な様子を
気にしていた僕と明日香にはすぐにわかった。
「そうだったね」
「お兄ちゃんは、パパとママが離婚しても一生あたしと一緒にいるって言ってくれたけど、
それでもパパとママが別れちゃうのは嫌だなあ。いつまでも四人で暮らせればいいのに」
明日香がぽつんと言った。両親のことや叔母さんが襲われたこと、それに元彼である池
山の危篤。年齢よりませているとはいえ、ここ最近の出来事はまだ中学生の明日香が背負
うには重過ぎる。
僕は黙って明日香の肩を抱いた。いつもなら柔らかく寄り添ってくる明日香は、今は身
体を固くしたままだった。
「パパとママが別れたらさ、お兄ちゃんとパパが一緒に暮らすのかな? あたしはママと
一緒だよね、きっと」
「今からそんな心配しないでもいいよ」
「この家って再婚してから買ったんだって。離婚したらどっちが家を出て行くんだろ」
「さあ。僕にはその辺の記憶はないし。それに考えたってしかたないじゃん。まだ決まっ
たわけじゃないんだし」
「お兄ちゃんはママたちが離婚しても平気なの?」
「平気じゃないって! でもさ、何度も言うけど決まった話じゃないし、夫婦喧嘩なんて
よくある話じゃないか」
「何かそれだけとは思えないの。嫌な予感がしてしょうがない」
「まあ、レイナさんっていう人のことを調べてみようよ。何もわからずに心配していても
しかたないし」
「・・・・・・うん」
女帝や池山、それに玲子叔母さんの件からは手を引けと平井さんに言われたのだし、今
は父さんたちの不仲の理由を探った方がいいのかもしれない。それに奈緒は自分の知って
いることとは全て話す気になっているようだった。
「博之、大丈夫かな」
明日香が話題を変えたけど、その質問にも僕は答えられなかった。明日香の悩みに対し
て今の僕はあまりに無力だった。最近の僕たちの身辺で起こった出来事は急すぎる。
僕たち家族の過去。それと明日香が一時期はまっていた無軌道で逸脱した行動。
その関連性はよくわからないけど、それらはほぼ同時に動き出して僕たちを翻弄してい
る。仮に関連があるとすれば、それは女帝絡みなことは間違いない。一見、接点はないよ
うだけど、仮に女帝が有希のことだとすればいろいろと二つの話は交錯してくる。
「明日、奈緒にレイナさんのことを聞くよ」
僕は明日香に言った。
「うん。何か体が震えて眠れないの。今日もお兄ちゃんと一緒に寝ていい?」
「いいよ」
明日香がようやく少しだけ笑顔を見せてくれた。
今日は以上です
乙
女神というスレがあるらしいが知ってるか?
>>162
そんな皮肉を言わなくても・・・・・・
作者です。もう少しするとビッチの方は有希視点に変わりますが、変わった直後か直前くらいで
ビッチは一時お休みして、女神を進めようと思っています
あくまでも予定ですけれども。そろそろ何かレスしないとスレ自体が落ちそうだし
乙
パパはいつものとおりあたしに対して全く怒っている様子はなかった。忙しいときだっ
たと思うので、面倒だなとは思っていたかもしれないけど。
「いつもごめんね」
いろいろな意味でパパ以上の男と出会ったことがないのは確かだったし、あたしとパパ
の仲なのだ。ごめんって言う言葉以上は不要だった。
いつもと同じで、運転手は後部座席にいるあたしとパパの会話には全く反応している様
子はない。これだけ訓練されている運転手を雇うために馬鹿げているほどの給料を出して
いるのだから当然といえば当然だ。
「もう少し時期を選んでもらえると助かるんだけどな」
パパは苦笑しながら優しくあたしを抱き寄せた。どうも少しはパパに迷惑をかけてしま
ったらしい。でも、そういう意味のことをほのめかすパパに少しむっとしてあたしは言い
返した。
「わざとパパに迷惑かけてるんじゃないもん。時期を選ぶなんてできるわけないじゃん」
「それはわかってるよ。だから今日だってこんなところにいる場合じゃないのに、わざわ
ざ有希を迎えに来たんじゃないか」
そう言われたあたしは、パパに飛び切りの笑顔を向けてあげた。それを見たパパは小さ
なため息をついた。
「時々、パパはおまえの育て方を間違ったんじゃないかと思うことがあるよ」
「そんなに悩まないで。パパは間違えてなんていないよ」
あたしはパパを慰めた。
「で? 話を聞こうか」
「何の話?」
パパがあたしを抱きしめたせいで、あたしは今日の出来事は有耶無耶になるんじゃない
かって少しだけ期待したのだけど、それは甘かったようだ。パパはあたしを抱き寄せただけ
で、それ以上は何もせずにあたしの方を見た。
「池山とかいう高校生の話に決まっているだろ。おまえは彼を刺せって命令したのか」
パパに対しては誤魔化せないことと、言わなくてもいいことの二種類がある。逆に言う
とそれ以外の選択肢はない。いつものことだけど、こういう場合にはそれを間違えてはい
けない。
「・・・・・・あたしがそんなバカなことすると思う? あたしのこと、誰の娘だと思っている
のよ」
「それなら警察に補導されるなんてことをするな。パパの言っていることが理解できてい
るなら、こんな初歩的なミスを犯すはずはないだろ」
パパの言うとおりだった。このあたしが警察に一時的にせよ拘束され最寄の署まで移送
されたのだ。いくら参考人としてとしたってそれはあたしにだって十分に屈辱的な出来事
だった。
「最近の有希は少し調子の乗ってるんじゃないかな」
パパはあたしの肩を抱いて静かに言った。
「調子に乗る? あたしが?」
「ああ。有希はパパの言っていることがわかっているようで、実はよく理解できていない
んじゃないのか」
「どういう意味? あたし、パパの言うとおりに行動しているのに」
「おまえはまだ若い。何しろ中学生だからな。パパがいろいろとおまえに教えたことも、
おまえには少し早すぎたのかもしれないな」
「もっと具体的に話してくれないと、何言ってるのかわからないよ」
雲行きが怪しくなったことを感じて、あたしはパパに密着した。そうすることでパパの
追及が少しは甘くなることを期待して。今までは大概のことはそれで済ませてこれたのだ
けど、今日のパパは少しだけお説教モードに入っているようだった。あたしのせいでパパ
の多忙なビジネスを邪魔してしまったのかもしれない。
「少なくとも二人の高校生が殺人未遂で逮捕されたんだ。もう少し慎重になれ」
あたしは殊勝になろうとした気持を忘れてパパに反論した。それでもパパに密着して身
体を寄せることは忘れなかったけど。
「パパが教えてくれたんじゃない。世の中には価値のある人間と無価値の人間の二種類し
かいないって」
「同時に慎重さに勝る薬はないとも教えたはずだよ」
「今日はしかたなかったんだってば。あたしが池山を刺せって命令したわけじゃないよ」
「じゃあ、どうしてあの二人は池山君を刺したんだ」
「それは・・・・・・」
確かに明示的に命令はしていない。でも、あいつらはあたしが池山に対して不信感を抱
いていることを知っていた。これはあたしのミスなのだけど、池山が命令どおり明日香を
襲わなかったこととか、玲子を犯さなかったことに対するあたしの苛立ちを、あいつらは
察していたようだ。そしてあたしに媚びるつもりだったのだろう。駅前で池山を発見した
ユウトたちはあたしが止める間もなく、池山に絡み出したのだ。
池山はユウトたちでは相手にならないほど強かった。追い詰められたユウトは最後には
ナイフを出して、得物を持っていない池山を刺したのだった。全てはあたしに気にいられ
たいための行動だった。それは結局あたしが自分の意図をあいつらに無防備に見せていた
ということなのだ。
「有希が命令したのだとは思っていない。でも、部下が勝手に暴走したのならそのときお
まえはどうするべきだったんだ?」
「・・・・・・黙ってその場を離れる」
「何でそうしなかった」
「パパのお仕事の邪魔をしてごめんなさい。でも今日は本当に突然にあいつらが暴走した
んだよ。逃げるとかその場を離れる余裕なんてなかったの」
池山のことが心配だったなんてパパには絶対に言えない。
「・・・・・・そうか」
「ごめん」
相変わらず渋い表情のパパにあたしは抱きついてキスをした。パパの表情が緩んだ。
あたしは、突然にあたしの身体に這わされたパパの手に抵抗しなかった。今日はパパに
迷惑をかけたことを認識していたからだ。あたしを警察署から連れ出すためにパパがいっ
たいどんなコネを駆使して、誰にどれほどの借りを作ってしまったか想像もつかないくら
いだった。
だから今日はパパのあたしに対する欲望に素直に従ってあげよう。少しだけなら積極的
になってあげてもいいかもしれない。パパの手があたしの富士峰のセーラー服の裾を捲り
あげた。あたしの素肌を冷気が包んだけど、それを気にするより早くパパの暖かい大きな
手があたしの剥き出しにされた肌を乱暴に愛撫し始めた。
「パパ・・・・・・もっと優しくしてよ」
「悪かった」
この言葉をパパから引き出したときはもうあたしの勝ちだった。あたしの素肌を愛撫し
始めた時点でパパはあたしに文句をいう権利を失ったのだ。それはママが亡くなって、あ
たしがパパの恋人になってからずっと続いてきた我が家のルールだった。
「高速に乗ります」
運転手さんが後席のあたしとパパの様子に気がついていただろうけど、いつもと同じよ
うにそれを無視してそう言った。
高速道路に入るとパパの愛撫がいつもより少ししつこくなってきたようだ。普段は車の
中ではそれほどヘビーなことを仕掛けてこないのに、今日のパパの手はあたしの胸を愛撫
するのに留まらず、あたしの太腿づたいにスカートの奥の方に侵入し出していた。
「ここじゃだめ」
あたしはスカートの奥に進もうとするパパの手を振り払った。
「嫌なのか」
パパが少しだけ傷付いたような目であたしを見て、悪戯な手を止めた。
パパって可愛いな。あたしはそう思ったけど、口に出した言葉には冷たい感情を込める
ようにした。こういう駆け引きだってもとはパパから教わったことだったけど。
「運転手さんがいるところじゃ嫌だよ」
「中井は後部座席なんて気にしていないって」
「それでも嫌なの。それに、パパって調子に乗るともっとひどいことをあたしにしようと
するし。この間なんて両手を縛られたし、学校で手首の痣を隠すのに大変だったんだか
ら」
「有希が嫌がるようなことはしていないだろ。おまえが嫌ならあんなことは二度としない
よ。おまえ、本当に私にこういうことをされるのがいやなのか?」
あたしはそのパパの無神経な言葉に苛々した。
「何でパパってそんなひどいことを言えるのかなあ」
「どういう意味だ」
「パパって変態だよね。中学生の実の娘に欲情するなんて。それどころか一番最初のとき
はあたし、まだ小学生だったし」
小学校六年のときだったからあれはもう二年前のことなのだ。パパは驚いて硬直して声
も出せないでいるあたしに対して、低い柔らかい声でなだめるように話しかけながらも、
あたしを抱きしめて愛撫する手を決して緩めようとはしなかった。今にして思えば一度決
めたことは絶対にやり抜くパパらしい行動だったけど、そのときのあたしにはそんなこと
を洞察できる余裕なんてなかった。
あたしはその後、ただ身体の痛みに怯えていただけだった。激しい愛撫がようやく終っ
た後、あたしはぼろぼろに引き裂かれた富士峰の付属小学校の冬服を抱きしめてい呆然と
子ども部屋のベッドに横たわってた。ようやく涙が流れ出したのは、満足したパパがあた
しの身体から身を離した後のことだった。
まあ、でもそれはもう過去の話だ。
「おまえを抱いた時点で、それは否定できないと思っているよ」
「そうじゃないよ。パパはあたしのことなんか好きでも何でもないんでしょ」
「またその話か」
パパがあたしの体からうんざりとした様子で手を離した。
「有希のことが好きじゃなければ自分の娘を抱くようなことをするわけないじゃないか」
「パパの嘘つき。パパが本当に好きなのは怜奈叔母さんだって自分で言ってたじゃない」
「パパには今は有希しかいないよ」
「誤魔化さなくていいって。パパは今でも亡くなった怜奈叔母さんのことしか好きじゃな
いんでしょ? 多分、生まれてから今まで」
パパは沈黙した。怜奈叔母さんとはパパの妹だ。
「・・・・・・パパ?」
パパの沈黙があまりにも長かったので不安に思ったあたしはパパに呼びかけた。
「怜菜は死んだんだよ。今さら好きも何もあるか」
パパが再びあたしの身体を愛撫し出した。
「パパって変態だよね」
あたしはパパの手を自分の足から振り払いながら少しだけすねた様子を演じて言った。
「今までに本当に愛した女って、自分の実の妹の怜奈叔母さんだけなんて」
パパは再びおとなしくあたしの体から手を離しながら真面目に返事した。
「いや。有希のことも愛しているよ」
「無理にあたしに気を遣わなくてもいいよ」
「本当だよ。まあ、別に妹とおまえだけってことはないけどな」
「え? その他に好きな人がいるの?」
パパの妹である怜奈叔母さんは若くして事故死していたから、パパがとりあえず気にし
ているのは今ではあたしだけだったはずだ。でもそうではないのか。あたしをじらすため
にしてはパパの表情を真剣だった。
「パパ、好きな人がいるんだ。それならあたしに遠慮しないで結婚したっていいのに」
あたしはパパの愛情を試そうとした。最愛の娘が父親であるパパの欲情に応えているの
だから、亡くなった怜奈叔母さんならともかく、その他の相手と結婚してあたしのことを
裏切れるわけがないとは思っていたけど。
それにパパが以前ベッドであたしに告白したことによると、パパの怜奈叔母さんへの愛情
は一方的な想いで、叔母さんは実の兄が妹である自分にそんな歪んだ愛情を抱いているな
んて考えもしなかったようだ。そしてパパも自分の妹を純粋に愛していたせいで、怜奈叔
母さんに想いを告白したり手を出すことなんて考えもしなかったとか。
何度か考えたことだけど、純粋に愛したために一切手出しをしなかった怜奈叔母さんと
比べると今のあたしの立場は若干心もとない。パパが本当にあたしのことを大切に思い、
怜奈叔母さんと同じくらい愛していたとしたら、あたしの身体に手を伸ばすなんてできな
いはずだった。だからパパがあたしのことも愛していると言っても、自分のロリコン的な
欲望をぶつけられる程度にしか大事ではないということなのだろうと、あたしは不安に思
っていた。
「パパが好きな子って誰なの? 怜奈叔母さんは死んじゃったんだよ」
「それはそうなんだが」
パパが言った。「でも、妹の・・・・・・。怜菜の面影を残している子がいるだろ」
「それって、あたしのこと?」
「おまえじゃない。まあ、おまえとは同じ年の女の子なんだけど」
パパのロリコン嗜好には慣れていたから、そのパパの告白には別に驚かなかった。
「誰なのその子。いくらパパだって、あたし以外の中学生に手を出したらそのうち本当に
社会的に葬られちゃうかもよ」
「手なんか出すものか。おまえだってパパのことはわかっているだろう」
そのとおりだった。パパはバカじゃない。あたしのハーブのビジネスだってパパのアド
バイスがあったからビジネスとして成り立つまでになったのだ。
・・・・・・そうだ。パパはバカじゃない。自分の弁護士資格を守りながらも、弁護士とは無
縁のグレーの領域でこれまでパパは生きてきた。そうやってお金も稼いだしコネも築いて
きた。そのパパが無分別に他所の家の中学生の女の子に手を出すわけがない。
「ここまで話したんだからあたしに告白してごらん。パパが好きな中学生の女の子って
誰? 場合によっては応援してあげるよ」
あたしはそう言った。パパは首を振った。
「おまえを巻き込むわけにはいかないし、パパもその子をどうこうしようなんて思ってい
ないよ」
パパは真面目な顔で言った。もうあたしの身体を求める気持は失せているようだった。
「誰?」
あたしは駆け引きをやめて本気でパパを睨んだ。パパは少しためらったけど結局あたし
の視線の前に折れたようだ。
「鈴木さんのところの・・・・・・」
「麻季さん? でも中学生だよね・・・・・・。え、まさか奈緒ちゃん?」
「うん。奈緒。パパは奈緒のことが大好きなんだ。おまえに誘われて家に来ている奈緒を
見ていると、動揺してろくに口も聞けなくなるくらいに」
奈緒はあたしの幼馴染だ。奈緒のママの麻季さんとパパが知り合いだったせいで、昔か
ら奈緒とあたしは仲が良かった。
でも、パパがあたしの親友にまで興味を持っているとは思わなかった。確かに奈緒は可
愛い。パパのような少女趣味の中年男の心をくすぐるのは理解できる。でも、あたしはパ
パの求める女は単に幼く容姿が可愛いだけではないと思っていた。パパは自分の特殊な初
恋をいい年になってまで引きずっていたのだから。
パパの初恋の相手は怜奈叔母さんだ。パパは自分の妹に恋をした。決してその想いを叔
母さんに告げることなく今まで生きてきたのだ。そして叔母さんは兄に自分への想いを知
ることなく事故死した。
いくらロリコンのパパでも、いくら奈緒が美少女でも本気で血の繋がっていない少女を
求めるようなパパではない。あたしは混乱した。
「何で奈緒ちゃんが好きになったの」
「有希には話していなかったけど、奈緒は怜菜の娘なんだ。外見も行動もまるで怜奈が生
き返ったようで」
さりげなく、本当にさりげなくパパは爆弾を投下した。
パパは何でこんなタイミングでこんな重大な秘密を告白するのだろう。グループやビジ
ネスのトラブルなら迷うことなく一瞬で判断できるあたしらしくなく、しばらく呆気にと
られて何も言葉にできなかった。パパは平然とした表情であたしを見返している。
パパは、あたしが本気で睨んだから告白したわけじゃない。パパには何か目的があって
こんなことを突然話し出したのではないか。駆け引きの多いパパならそれくらいのことは
するだろう。もっとも自分の一人娘兼愛人であるあたしに対してまで駆け引きめいた真似
をされるとは思っていなかった。あたしはそのとき逃避気味にそんなことを呆然と考えた。
しばらくして、あたしはようやく我に帰った。あたしの親友の奈緒は、あたしの従姉妹
だったらしい。
奈緒がどうして鈴木家の娘として育てられているのかはわからないけど、彼女はパパの
姪で、パパの最愛の妹である怜菜叔母さんの実の娘だったのだ。怜奈叔母さんが事故死す
る前に結婚して出産までしていたことは全くの初耳だった。
「・・・・・・何で今まで教えてくれなかったの」
あたしは低い声で言った。
「麻季さんの意向でね。本当の自分の母親が麻季さんでないことは、奈緒ちゃんには隠し
ておきたいそうだ。だから有希にだって話せなかった」
「もしかして、奈緒のパパって怜奈叔母さんの」
「そう。あいつは怜菜の結婚相手だよ」
ではあの綺麗で陽気な麻季さんは後妻なのだ。麻季さんがいつもやや過保護なくらいに
奈緒に干渉していることは知っていた。自分でもその様子を目撃していたし、それについ
て奈緒から愚痴交じりの相談を受けたことも一度や二度ではない。奈緒はそんな麻季さん
の過干渉にうんざりしていたようだったけど、その様子は自分の娘を気遣う心配性の母親
の典型のようだったから、麻季さんが奈緒の本当の母親ではないなんてあたしは考えたこ
ともなかった。
「パパは奈緒を、死んだ怜奈叔母さんの身代わりとして愛しているの?」
あたしは震える声で聞いた。
「・・・・・・そうかもしれないな。自分でもよくわからないんだ。でも、怜菜の忘れ形見に手
を出して彼女を不幸にする気はないよ。だから有希も安心していいんだよ」
何よそれ。あたしは再び冷静さを失った。さっきは突然の告白の内容に驚いたからだっ
たけど、今度は奈緒に対する嫉妬心からだった。
「・・・・・・そうなんだ」
「どうした? 有希」
「パパは怜奈叔母さんといい奈緒といい、パパにとって本当に大切な女には手を付けずに
守ろうとするんだね」
「そうかもしれないね」
パパが不思議と優しい微笑みを浮べてそう言った。あたしは突然押さえきれない怒りを
感じて逆上した。でも、口に出した言葉は低く静かなものだったと思う。自分の感情を剥
き出しにするなと、昔からパパに教わっていたから。
「そういうことなのか。だから、小学生のあたしを抱くことができたんだ・・・・・・。パパに
とってはあたしはそこまで大事な女じゃなかったから」
「それは違う。有希は私の大切な女の子だよ」
「じゃあ、何でその大切な一人娘を犯したの? 今だって嫌らしい手で身体を撫でようと
してたじゃん」
これまであたしは冗談にだってパパの手を嫌らしいとか口にしたことはなかった。
「おまえが魅力的過ぎたからだよ。大切にしようと思ったけど我慢ができなくなってしま
ったんだ。恨むなら有希は自分の可愛らしさを恨むといいよ」
そんな言葉に惑わされるわけないでしょ。
「ふざけないでよ。パパは愛していた怜奈叔母さんには何もしなかったし告白ってしなか
ったんでしょ。奈緒にだってそうしているじゃない。結局あたしはパパの欲情のためには
多少傷つけたっていい存在だったんでしょ。何よりも大切な怜奈叔母さんや奈緒のことは
我慢して大切にしているのに」
小学六年のとき初めて経験させられた引き裂かれる身体の痛み。ずたずたにされた大切
な制服。
それでもパパを許したのはパパが本気であたしを求めたからだ。怜奈叔母さんに勝てる
とは思っていなかった。でも、これではあたしは叔母さんの娘の奈緒にまで、愛情の深さ
という意味で負けてしまう。これでは今まで数え切れないほどのパパとの夜はその意味を
失ってしまう。
「勘違いするなよ。有希は大切な私の娘だし、今の私にはおまえしか恋人はいないんだ」
このときになって幼馴染の奈緒に対する怒りが初めて自分の胸中に渦巻きながらあふれ
出した。あの清楚で世間知らずな兄ラブで奈緒に対して、あたしは今日の今日まで憎しみ
ではなく、密かに愛情を抱いてきた。もう少ししたら何とかならないかと考え出していた
ところでもあった。それが実現すれば彼女の演奏表現の幅も飛躍的に広がるだろうし。
認めたくはないのだけど、あたしの荒く不安定な演奏がそれなりに教室やコンテストで
評価され出したのは、あたしが実質的にパパの愛人になってからだった。明確な因果関係
は自分でもよくわからないけど、単に旋律をなぞる以上の感情が演奏中のあたしにとりつ
いて、それは結果的にオーディエンスに届いて、ある種の感動を観客の心に呼び起こして
しまったみたいだった。
あたし以上に安定した技術を持つ奈緒に足りないのはこの点だったから、あたしが奈緒
の愛人になれればその点も解消するのだと考えていた。
でももっといい方法がある。
「へーえ、そうなの」
あたしは冷静さを取り戻した風を装った。あたしのネゴシエーションのテクニックはほ
とんどパパから教わったものだったから、パパにそれが通用するかはわからない。
「でもパパが本当のことを言っているのだとしたら、奈緒に対して我慢することはないん
じゃないの」
「何だって」
パパが初めて困惑した様子を見せた。
「あたしだって最初は痛かったし恐かったし、何で自分がこんな目に遭うのか理解できな
かった。でも何度も無理矢理抱かれているうちにそれが気持ちよくなったし、パパのこと
これまで以上に好きになったんだよ」
「有希にそう言ってもらえるとうれしいよ」
「だったら奈緒ちゃんだって同じじゃない?」
「何を言ってるんだ」
「もっと言えばパパが我慢しないで怜奈叔母さんを抱いていたら、今頃は叔母さんだって
無駄に死ぬことなく幸せにパパと暮らしていたかもよ」
パパは黙り込んだ。パパが奈緒の話をしたのは何か目的があったからだ。パパの性格を
よく知っていたあたしは、そのことには疑いを抱かなかった。でも、パパにだって弱点は
ある。そして腹立たしいことにその弱点は娘のあたしではなく、パパの妹の怜奈叔母さん
とその忘れ形見の奈緒のようだ。
パパの告白に始まった混乱や怒りをあたしは短時間の間に昇華した。皮肉なことにパパ
に教えられた方法で、あたしは冷静さを取り戻すことができたのだ。常に原因と結果の関
係を意識すること。相手の弱点だけを正確に点くこと。それがパパの教えだった。
そんなパパにあたしごときが優位に立てるわけがないのだけど、怜奈叔母さんに関係し
たことに関しては、筋金入りのシスコンのパパはもいつものような冷静な判断ができない
かもしれないとあたしは考えた。
パパの優位に立って奈緒への怒りを晴らす方法が一つだけあった。
「怜奈叔母さんのときの過ちを繰り返さないで、あたしを抱いたときみたいに素直になっ
た方がいいんじゃない?」
あたしは微笑んでパパに言った。「奈緒ちゃんってすごく可愛いよね。写真の怜奈叔母
さんにそっくりだし。でもこのまま放っておくと奈緒ちゃんは奈緒人さんに盗られちゃう
よ。彼女、彼に夢中だし」
パパが驚いたようにあたしを見た。これがパパの演技でなければ、あたしの勝ちかも知
れないのだ。
本日は以上です
もう一回だけこっちを投下したらその後はしばらく女神の更新に専念します
ここまで辛抱強くお付き合いいただいてありがとうございます
シスコン多すぎぃ
太田が出た時点であれ?とは思ってたが…
乙
なんという変態
過去編で麻季とこのおっさんのやりとりが一切なかったから
何かあるとは思ってたけどロリコンって……
ああ、あの離婚を担当した弁護士か。
今気が付いたわ
これ以上ぐちゃぐちゃになる前に、
さっさと、みんな死んだほうがいいんじゃないかな
引き延ばしジャンプ漫画のことか?
パパに対する勝ち負けよりももっと大切なことがあった。奈緒はあたしの幼馴染で従姉
妹でもあるらしいけど、彼女がパパに抱かれればあたしは奈緒への怒りを鎮めて今までよ
りもっと仲良しになれるかもしれない。仲間になった彼女にならあたしのビジネスやグ
ループのことを打ち明けて共同経営者にしてあげてもいい。
あたしは以前、飯田たちに奈緒を襲わせようとしたことがあった。あのときも奈緒のピ
アノの才能のいっそう開花させることや、彼女をもっとあたしのいる場所に近づけさせる
ことが目的だった。あのときは明日香がでしゃばったため失敗したのだけど。今にして思
えば失敗してよかったかもしれない。奈緒の処女を奪う相手としては飯田や池山なんかよ
りパパの方がずっとふさわしい。これまでこのことを思いつかなかったほうが不思議なく
らいだ。
あれ?
ひどく単純な事実だったため、あたしはパパの告白を聞いてもどういうわけか今まで気
が付かなかった事実にこのときようやく気が付いた。
奈緒のパパは鈴木のおじさんでママは怜奈おばさん。
奈緒人のパパは結城という名前で、かつての麻季おばさんの結婚相手だ。そして奈緒人
のママは麻季おばさん。
これまであたしは二人は麻季おばさんの離婚した旦那と麻季おばさん自身の子どもだと
思っていた。奈緒は今でもそう考えているはずだ。でも二人の両親には全く共通の人物が
いない。
奈緒人と奈緒たちはお互いを実の兄妹だと思っているようだけど、実はあの二人は全く
血が繋がっていないということに、あたしは気がついた。
ということは、お互いに求め合ったとしても奈緒と奈緒人の間には別に何の障壁もない
ということだ。
あたしは今さらながらそのことに気が付いた。奈緒人さんが奈緒から距離を置いたのは
主にそのことが原因だろうと考えていた。そして明日香があたしを利用しようとしてまで
二人を別れさせようとしたことだって、それが理由だったはずだ。
何だ。奈緒と奈緒人は添い遂げることができるんじゃない。そう正しく理解した今、あ
たしには目の前に二つの選択肢が提示されていた。真実を告げて奈緒人を愛してしまった
奈緒を応援するか、それともパパの自分の姪に対する愛情を応援して唆すのか。
一つ目を選んでもあたしにとってはあまりメリットはない。せいぜい明日香が奈緒人に
振られる姿を見て溜飲を下げることくらいだ。一方で奈緒がパパの女になればあたしはも
っと根源的なレベルで奈緒と親しくなれる。奈緒人への失恋だって奈緒が昇華できれば演
奏における感情表現の幅は確実に広がるだろう。
実の兄妹の恋愛を許容するなら実の伯父と姪の恋愛だって許容されるべきだろう。パパ
の新しい女が奈緒なら、あたしはパパにそれほど嫉妬しない自信があった。
中井さんが高速道路に乗ったということは、自宅ではなくて都下の別荘に向っていると
いうことだった。パパはあたしのことを愛したいという欲求に駆られたときは、住宅街の
中にある自宅ではなく海辺の別荘にあたしを連れて行く。別荘の家屋の周囲には広大な敷
地があって、その建物の奥深い場所にある寝室で行われる行為は、たとえどんなにあたし
が声(それが悲鳴でも)を出したとしても、誰に気がつかれることもない。逆に言うと住
宅街の真ん中にある自宅にいるときのパパのあたしへの行為は抑制的で、性交渉というよ
りはただあたしを抱き寄せてあたしを撫でているだけということが多かった。
パパは今日は激しくあたしを求める気分だったのだろう。前もって中井さんに別荘に行
くように指示していたことがそれを証明している。パパは自分のポーカーフェイスの奥に
ある欲望をあたしには知られていないと思っていたのだろうけど、こういうところであた
しはパパの欲求に気がつくことが多かった。
だけど車内のパパはあたしを抱くことなんかどうでもいいようだった。
「奈緒人君って、結城さんの息子のことか」
どいうわけかパパが顔を青くして聞いた。感情を抑制し制御できるパパがここまで慌て
ている姿をあたしは初めて見た。
「そうだよ。パパ、彼のこと知っているの」
「ああ。麻季さんと結城さんが離婚するとき、パパは麻季さんの代理人だったからね。あ
れがパパの民事の弁護士らしい最後の仕事だったな」
「そうなんだ」
「うん。今でも思い出すけどあの頃の麻季さんの依頼は変わった依頼でね。自分の実の息
子の親権は争わないけど、義理の娘の、そして再婚相手の鈴木の娘である奈緒の親権だけ
は何が何でも確保してくれって言う話だったな」
「麻季さんの実の息子って結城奈緒人さんなんでしょ?」
「そうだよ」
「要するに奈緒と奈緒人さんは血が繋がっていないんだね」
「うん。でも、奈緒人君は麻季さんの実の息子だったし、彼女は奈緒人君を大切にしてい
たようだから一応は彼女に聞いたんだよ。本当に奈緒人君の親権も監護権も争わなくてい
いのかって。頑張れば奈緒と奈緒人君の両方の親権だって取れそうだったしね」
「よくわかんないな。変態のパパが麻季さんの代理人をするときに奈緒にこだわるのは理
解できるけど、何で麻季さん本人は自分の息子じゃなくて、怜奈叔母さんの娘の親権にこ
だわったんだろう?」
「さあ? あのときはパパもあまり気にしなかったんだ。とにかく奈緒の親権が確保でき
ればいいと思っていたし」
「あのさあ。当時は奈緒だって幼稚園にかよってたくらいの年齢でしょ。まさか、パパは
その頃から奈緒のことを」
「うん。好きだった。怜菜の幼い頃とそっくりだったしね」
「・・・・・・まさか幼稚園に通っている女の子のことが。パパの変態」
「おい、勘違いするんじゃない。どんなに可愛くたって、いくらなんでも幼稚園児の奈緒
をどうにかしたいなんて考えていたわけじゃないぞ」
「どうだか。それにパパは小学生のあたしを犯したじゃない」
「犯したとかっていう言葉は使わないでほしいな。愛しただけだ」
「どっちでもいいけどさ。奈緒とあたしは幼馴染だし、奈緒は小学生の頃からよくうちに
遊びに来てたじゃん? パパはその頃から奈緒に目を付けていたの?」
「目を付けるとかじゃない。でも気にはしていたね」
「あの頃から奈緒のことが好きなのに、どうしてパパは奈緒には何もしないであたしのこ
とを恋人にしようと思ったのよ」
「有希が可愛かったから、パパは我慢ができなくなったんだよ」
これではあたしの追及もパパの言い訳もループしてしまっている。この話には出口が見
つからない。
車はやがて高速道路を降りて海岸に沿って走る国道に入った。もう暗くなっていたせい
で、海は視界の外に黒々と沈んでいて昼間にここに来たときのように、いつもならきらめ
いている海の姿は全く見えない。海辺と道路を隔てる砂防林の松林の影が目に入るばかり
だ。
あたしにはビジネス上の悩みがある。本当は今はそのことへの対策を考えなければいけ
ないだずだった。そしてもう少しして四月になればピアノのコンクールだってある。ピア
ノに関してはそれほど重きを置いていたわけではないけれど、何の練習もしないで奈緒に
ついていけるわけがない。あたしは昔誓ったとおりまだピアノをやめるわけにはいかない。
少なくとも奈緒の演奏の感情表現がこれほど貧弱なままでは。
このときパパの手を拒否するあたしの反応にめげず、パパは再びあたしの制服のスカー
トをめくりあげてあたしの太腿を撫で回しはじめた。
「・・・・・・もう。今はだめ。今夜は真面目にパパと話をしたいのに」
「話なら後でいいだろ。それに奈緒のことだったらもう話すことはないよ」
パパの手がスカートの奥の方まで伸びてきた。
「奈緒のことだけじゃなくてハーブのこととかも・・・・・・。だから車の中では駄目だって」
「じゃあ、別荘に着いたらいいか」
「お話の後ならね・・・・・・あっ」
それは随分卑怯な、男性独特の口封じだった。あれだけあたしが処世術を帝王学並みに
直々に教わった、ある意味憧れだったパパがこんな姑息な卑怯な手を使うなんて。あたし
は少しだけパパに失望した。無理矢理なんて、説明を求められて窮地に陥った浮気男が女
に対して見せる典型的な反応じゃない。パパのような頭のいい人でもこんなことをするの
か。
それだけパパの思考の核心に触れてしまったせいかもしれない。それにパパの反応を頭
の中で軽蔑することはできたけど、パパの愛撫に反応してしまった自分のこともあった。
これではビッチの明日香としていることは一緒じゃないか。パパの手に対する自分反応を
省みてあたしはそう思った。
それでもパパが悪戯を仕掛けてくる自分の身体の熱気と興奮にあたしは負けてしまった。
力が抜けて快楽が身体を支配して行く。
もうしかたない。あたしはパパに身を寄せて目を瞑った。パパとの関係を後悔したこと
はないけれど、それがタブーだということはわかっていたので人前でパパにそういう行為
を許したことはなかったのだ。それなのに今日はパパのしつこい愛撫に負けてしまった。
運転手がいる車内での情事なのに。
何だか嫌な予感がする。
これまで自分を包んでいた秩序が崩れて行くような感覚にあたしは狼狽した。こんな乱
暴で性急な愛撫はパパらしくない。それはあたしが組織を固める過程で、あたしが抱かれ
てあげたときの池山のような未熟で青臭い行為にそれは近かった。
それでもあたしは、いつものパパらしくない稚拙で欲情や感情を剥き出しにした乱暴な
愛撫に喘ぎ出してしまったのだった。
結局、海辺の国道を走行中にあたしは自分の意に反して一度絶頂を向え、パパもあたし
の口の中で自分の欲望を開放した。車内には澱んだ空気とともにそういう行為に伴う独特
の匂いが充満していた。運転手の中井さんは何も言わずに後部座席の窓を少しだけ開けて
車内のすえた匂いを換気した。
別荘に着いたとき、あたしはバスルームに直行して身体を洗い流し、ついでにうがいを
した。パパのペースに巻き込まれてしまったようだったけど、パパの方だってあたしを愛
撫することにより奈緒への気持を誤魔化そうとしたように思えてしかたがなかった。
パパも何だか得体の知れない想いから逃げようとして、あたしの身体に手を伸ばしたん
じゃないかって思った。パパも過去の怜奈叔母さんの思い出に悩んでいたのかもしれない。
さっぱりとして、と言っても相対的なものだけど、少なくともパパの唾液の匂いから開
放されたあたしが別荘のリビングルームに戻ると、パパも着替えを済まして革張りのソフ
ァに沈み込むように座って何か法律関係の雑誌を見ていた。
とりあえずあたしは気になっているビジネスの方を最初にパパに相談することにした。
奈緒の話はそれからだ。あたしにだってビジネス上の繋がりで世話をしなければいけない
やつらがいっぱいいるのだし。
あたしはパパの隣に座った。
「奈緒人君ってどんな男の子なんだ」
相談しようとした矢先にあたしは機先を制止された。パパはあたしの相談を聞く気分じ
ゃなかったみたいだ。そんなに奈緒のことが気になるのだろうか。
「パパって奈緒人さんのこと、そんなに気になるの」
あたしは蔑むような目をパパに向けた。あたしの身体を弄んだのだからパパはあたしの
は話を聞くべきなのに、あたしの大事な相談を聞く気もしないくらいに奈緒や奈緒人のこ
とが気になるのだろうか。人と人との関係を維持して行くにはルールが必要だ。それが法
であれ暗黙の了解であれ。あたしはパパにそう教わったのに、今日はパパの方がルール違
反をしている。
「麻季さんの息子さんのことだからね」
パパが雑誌を置いてあたしの方に向き直った。
「麻季さんは関係ないでしょ。奈緒が好きな男の子のことが気になるだけなんじゃない
の?」
パパが少しだけだけど気まずそうな表情をあたしに見せた。
「別にそういうわけじゃないけど」
「・・・・・・奈緒人さんの何が知りたいの。奈緒と奈緒人さんの関係?」
「いや。悪かったよ。何でもない」
本当にバカだなパパは。考えていることが丸わかりだ。パパはあたしの言葉に動揺して
いるのだ。そして自分が姪の、怜奈叔母さんそっくりの奈緒の彼氏となる可能性に期待し
つつも、当の奈緒が気になっている奈緒人さんに対する関心を隠せないのだろう。
「まあ、パパの気持ちはわかるよ。パパの言葉が正しいなら奈緒と奈緒人さんは血が繋が
っていないんだし、二人が結ばれることへの障害って何もないしね」
そうでもないか。あたしは麻季おばさんの過度なほどの奈緒への干渉を思い出した。
「奈緒のことが好きだというパパの気持が本当なら、パパももどかしくてしかたないでし
ょうね。いつ奈緒が奈緒人さんに奪われてしまうのか不安だろうし」
そう言った後であたしは付け加えた。
「もっとも、麻季おばさんが奈緒に対して男との付き合いを許すとも思えないけど」
「それはそうだね」
パパが安心したように言った。やっぱりパパは奈緒と奈緒人の仲が気になっているのか。
「安心している場合なの? 恋愛って障害があればあるほど当人たちは燃えあがっちゃう
かもよ」
「奈緒も奈緒人君も兄妹同士で結ばれるなんて非常識なことは考えていないだろ」
「・・・・・・パパ。自分の言っていることわかってる? 論理矛盾を起こしているよ」
パパは二重に間違えている。一つ目は彼ら自身だって自分たちが兄妹ではないなんて知
らず、そのことで悩んでいるだろうということだった。麻季さんがそれを隠し、パパも麻
季さんのその思考に加担していたのだから。それでも奈緒は実の兄であると思い込んでい
る奈緒人さんへの執着を捨て切れていないのだ。
もう一つはパパ自身の価値観というか、行動との不整合だった。パパは血縁なんて意に
も介さずに妹の怜奈叔母さんを愛した。そして同じく自分の実の娘であるあたしに対する
欲望を抑えることすらせず、あたしを自分の女にした。そのパパが兄妹同士の関係を非常
識だなんて、いったいどの口から言えるのだろう。ダブルスタンダードもはなはだしい。
それでも、このあたりでそろそろあたしはパパに優しくしてあげることにした。二つの
選択肢に対してあたしはもう迷わなかった。
「パパがあたしの相談に乗ってくれるなら、あたしも協力してあげてもいいよ」
「いつだっておまえの味方になってきたじゃないか」
「そうだけど。こんどはちょっとだけあたしにとっては重いことをしなきゃいけないし。
あたしは自分の従姉妹をパパに売ることになるんだよ」
「パパはそんなことは望んでいないよ」
「うそ」
パパはあたしの視線から目を逸らした。それはあたしがパパに勝った最初の瞬間かもし
れなかった。
世の中には二種類の人間がいる。価値のある人間と無価値な人間と。
あたしにとってはパパや奈緒は価値のある人間だった。同時に、あたしを抱いたことの
ある、そして今病院で死にかかっている池山や、あたしが好意を持つふりをした奈緒人さ
ん、それに自称あたしの親友の明日香は後者だ。もっと言えば麻季おばさんや鈴木のおじ
さんだって無価値な人間のグループに入る。
価値のある人間同士は仲良くすべきなのだろう。それ以外の人には関心はない。死んだ
って構わない。
「ねえ」
「うん?」
「今週中に奈緒をこの別荘に招待したいんだけど」
「・・・・・・どういう意味だ」
「パパの考えているとおりの意味よ。でも一つだけ約束して。パパは奈緒を好きなように
していいけど、そのあとであたしが奈緒とどんな関係にあっても嫉妬しちゃ駄目よ」
「しないけど。おまえは何を言いたいんだ」
「あたしに嫉妬しないでって言いたかったの。でも奈緒にも嫉妬しちゃ駄目だよ」
パパは不意にあたしの言葉の意味に気が付いたように笑った。
「おはようお兄ちゃん」
翌朝の約束の電車で奈緒が僕に声をかけた。
「おはよう」
奈緒は随分と元気そうに見えた。あのときの告白で吹っ切れたのだろうか。仲違いする
前の恋人同士だった頃の、あるいは再会したばかりの兄妹のころのような曇りのない笑顔
で奈緒は僕を見た。
車内にたむろしている男子高校生たちの視線が奈緒に集中していることに僕は気がつい
た。これだけ可愛らしければ無理もない。僕だって奈緒の兄でなければ奈緒のことをひた
すら盗み見ていただろう。それでもこの朝、僕はそういう想いに対して必要以上に悩まな
かった。やはりどんなに可愛くても妹は妹だ。奈緒が実の兄に対して異性としての愛情を
抱いていると告白してくれたとしても、奈緒が僕の妹であることには変わりはない。
僕は自分に自信を持った。多分、もう僕は揺らがないでいられるのだろう。明日香の愛
情が僕を今の自分の居場所に繋ぎとめてくれる。ついさっき、僕を自宅から送り出してく
れた明日香のあの曇りない笑顔が。
奈緒の僕に対する恋心だって多分一過性のものなのではないか。悲劇的な別離と奇蹟的
な再会が、思春期の奈緒の心を必要以上に揺さぶった結果、僕のことを過度に美化してし
まっているのだろう。奈緒との再会は確か僕たち兄妹にとっては劇的な偶然だったし、こ
の先も僕は奈緒のことを大切な妹として一緒に歩んでいくつもりだった。
でも奈緒の言うように兄妹と恋人の関係を同一視するような思考は間違っている。僕も
奈緒と同じように彼女との関係に悩んでいただけにその想いは理解はできたけど、明日香
と恋人同士になった今では、その考えは間違っていると思った。
「何考えているの」
「いや・・・・・・別に」
言葉できることではなかった。奈緒ははっきりと実の兄である僕のことが好きだと言っ
た。そして、明日香と僕のことも仕方がないって。
これ以上、奈緒に何を求めることができるのだろう。僕を嫌いになれとか、もうおまえ
とは会えないとでも言えるのか。
『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ』
発した言葉を取りやめることはできない。それにあの言葉を思い出してから僕はそのこ
とを後悔したことは一度もなかった。
「変なの。あたしに遠慮しなくたっていいのに」
「遠慮っておまえ」
「明日香ちゃんのことを考えていたなら正直に言えばいいのに」
奈緒は元気そうにいたずらっぽく笑って言った。
気にし過ぎなのだろうか。奈緒の笑顔は少し無理をしているように見える。わずかな時
間を経ただけで、僕は奈緒の感情を理解できるようになってしまったような気がする。そ
れは錯覚かもしれないけど。
奈緒が僕の腕に手を置いた。恋人同士の頃ならなんてことはない仕草だ。
それでもそのとき僕はそのときの奈緒の何気ない仕草に動揺した。僕には明日香がいる
というのに。
今日は以上です
久し振りに女神の更新を予定しているので、次回は女神更新後になると思います
無駄に長い話にお付き合いありがとうございます
乙
有希視点は衝撃的だな
有希の心理描写が強引だな
奈緒を襲わせるために屁理屈こねてる感じ
「キャラが勝手に動く」とは逆の、作者が言わせてる感がハンパない
有希に限った話じゃないと思うけど。
頑張って考えた最強の設定()を説明されてるだけ。
ここまで来たら、オチがつくまでみたいな
例えそれが爆発オチでも
>>191
妹スレじゃないんだから……あれ、一応妹スレなのか?
その朝、奈緒は特に意味のある話をしようとはしなかった。本当に何気ない日常的な会
話だけで、特別に愛情を押し付けてくることもなく明日香への嫉妬心を露わにすることも
なかった。
これなら別に誰に聞かれても差し支えないような兄妹の会話だった。僕はそんな奈緒の
様子に少しだけ安心していた。これ以上この話を突き詰められても僕には何も答えられな
い。明日香に対する僕の感情を置いておくにしても、実の妹のこの種の感情にほいほいと
応えられるわけがない。そういう意味で僕は奈緒の反応に安心した。
かつて無理矢理引き剥がされた奈緒との再会や、その彼女が長い間忘れずに抱き続けて
いた僕への想いには心を動かされたのだけど、それが異性への愛情という形に変質してい
たのだとすると話は全く異なる。僕が真相を知る前に抱いていた奈緒への愛情は、妹への
ものではない。あの雨の日に偶然出合った美少女への想いなのだ。
明日香と愛し合い、真実を奈緒から聞かされた今でも妹への愛着は確かに自分の中に存
在しているけど、それは性愛的な意味も含めた異性への愛情とイコールかというと、もは
やそうではないと思う。
「お兄ちゃん、降りないと」
物思いに耽っていた僕に奈緒が注意した。
「え」
「え、じゃないって。ほら着いたよお兄ちゃん」
僕は慌てて床に置いていたバッグを取り上げた。
「じゃあね。また明日、いつもの電車でね」
奈緒が微笑んだ。端正で整っているけど、可愛らしく愛嬌もある奈緒の表情が再び僕を
惑わせた。
「うん。またね」
僕は締まりかけたドアをこじ開けるようにしてかろうじて車外にでることができた。動
き出す電車の窓から奈緒が微笑んだまま僕に向かって手を振った。
教室に入るとまた別な悩みが僕を待ち受けていた。兄友が真剣な表情で僕を問い詰め始
めたのだ。いつもなら止めてくれるはずの女さんは何だか恐い表情だ。
「奈緒人、おまえさ」
兄友が真面目な顔で僕に言った。「奈緒ちゃんと付き合ってるんじゃなかったのかよ」
僕は何も答えられなかった。こんなところで複雑に絡み合った事態を話すわけにはいか
ないと思ったからだ。
「・・・・・・この前、明日香ちゃんとおまえ、手を繋いでたよな?」
玲子叔母さんの会社に行くために、明日香が校門まで迎えに来てくれたときのことだろ
う。あのとき、カラオケに行こうとしていた兄友と女さんに僕と明日香は出合ったのだ。
「うん」
「うん、じゃねえだろ。おまえ、あのとき義理の妹と恋人繋ぎまでしてたじゃねえか」
「・・・・・・だから何だよ」
僕はいらいらして言った。こんな外野のやつらに複雑な僕たちの関係に口を挟まれる理
由はない。
「ちょっと待って。兄友、あんたもいきなりすぎだよ」
女さんが口を挟んだ。
「だってよ」
兄友の抗議を無視して女さんが僕に柔らかい口調で言った。でもその表情はやはり優し
い何ってものじゃなかった。
「いきなりごめんね。でも、あたしたち奈緒人君が奈緒ちゃんと付き合い出したことが本
当に嬉しかったから」
「・・・・・・うん」
「でもさ、奈緒人君って最近、明日香ちゃんと仲良しじゃない」
「僕が明日香と仲良くしたら君たちに迷惑をかけるわけ?」
こんな言い方を僕はこれまで兄友にも女さんにも言ったことはなかった。二人は申し合
わせたように少しだけショックを受けたような表情を僕に見せた。
「そんなことないじゃん。でも奈緒ちゃんがかわいそうじゃない」
「奈緒がかわいそう? 何でそうなるわけ?」
奈緒がかわいそうとか、そういうことは僕が悩めばいいことであって、僕と奈緒が実の
兄妹であることを知りもしないでこいつらに非難されることじゃない。
「奈緒ちゃん、かわいそうじゃねえか」
兄友が怒ったように口を挟んだ。「だってそうだろ? この前は学校まで迎えに来た明
日香ちゃんと人まで堂々と手を繋ぐは、昨日だって」
昨日? もしかして目撃されていたのだろうか。
「昨日の夕方のことよ」
女さんが兄友の話を引き取った。
「駅前でさ。明日香ちゃんってあんたの腕に抱きついてたでしょ。それもずっと」
池山が刺されて呆然としていた僕たちを、兄友たちは目撃していたのか。
こうなってはもう誤魔化しようもなかった。僕は覚悟を決めた。
「僕は明日香と付き合っているんだ。だから、手を繋ごうが抱き合おうが君たちにとやか
く言われる筋合いはないんだ」
これは最低の言い訳だったろう。奈緒が僕の実の妹だと知らない彼らに対しては。
「おい。おまえは奈緒ちゃんと明日香ちゃんと二股かけてたのかよ」
「ちょっと兄友! あんたの言い方じゃだめよ。あたしに任せなさい」
女さんが再び兄友をいさめてくれた。
「言いたくないけどさ、奈緒人君ってこれまで恋愛経験っていうか女の子と付き合ったこ
とないんでしょ」
「・・・・・・何が言いたいんだよ」
「誤解しないで聞いてね。別に君のことを馬鹿にしているわけじゃないの。でもさ、わず
かな時間の間に可愛い女の子二人から好かれて、奈緒人君は少し調子に乗っちゃってるん
じゃないかな」
何だそれは。僕は女さんの言葉に唖然として反論すらできなかった。僕は彼らにそんな
風に思われているのか。
「別に責めてるんじゃないよ。誰にでもありがちなことだよ。でも、少し立ち止まって考
えた方がいいときじゃないかな」
なだめるように微笑みながら彼女は言った。
「おまえさ、二人の女の子に好かれている自分のことを格好いいとか考えてるじゃねえだ
ろうな」
兄友が口を挟んだ。
「だからあんたは黙ってろって」
女さんが今度は僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「あたしさ。前に言ったじゃない。奈緒人君は奈緒ちゃんみたいな素直ないい子に好かれ
るんじゃないかと思ってたって」
「うん。そう言っていたね」
「背伸びしたくなることなんて誰にでもあると思う。人間なんだから可愛い女の子に好意
を示されたら、ふらふら揺れることもあるよ。でもさ、君には絶対奈緒ちゃんみたいな真
面目に君のことを好きな子の方が似合ってるって。今、明日香ちゃんみたいな女の子に流
されたら絶対後悔すると思う」
「どういう意味かわかならいんだけど」
明日香は真面目ではないとでも言いたいのか。かつて女さんは、僕の妹だと知らなかっ
た明日香のことをビッチ呼ばわりしたことがあった。その後彼女はそれを訂正して僕に謝
罪したのだけど、それは本心ではなかったのか。
「明日香が真面目な女の子じゃないって言いたいの?」
僕はかつて自分が本気で好きになったことがある女さんに向って言った。僕のことはい
い。でも明日香のことを貶めるのはたとえ女さんであっても看過できない。
「ちょっと待て。そういうことじゃねえよ。おまえは奈緒ちゃんに告白して付き合い出し
たんだろ? そのおまえが何で義理の妹とベタベタしてんだよ。はっきり言えば、それっ
て浮気じゃねえかよ」
兄友がまた口を出したけど、今度は女さんも彼を止めようとはしなかった。同じ考えだ
ったのだろう。
「昔からおまえとは仲が悪かった明日香ちゃんと仲直りするのはいいよ。でもよ、それが
何で恋人同士みたいにいちゃいちゃすることになるわけ? どうしても明日香ちゃんと付
き合いたいなら、せめてはっきりと奈緒ちゃんを振ってからにすべきだろうが。どっちに
もいい顔して、結果的に奈緒ちゃんを泣かせるなんて。最低じゃねえか、おまえ」
「やっぱりあんたは黙ってろ。奈緒人君を責めたって仕方ないでしょ」
恐い顔で女さんが口を挟んだ。「ちゃんと別れてからとかそういうことじゃない。奈緒
人君には奈緒ちゃんの方が似合っているって言うべきなのに」
責められれば責められるほど、僕の心の中では明日香に対する愛情、あいつを守りたい
という感情が湧き出してきた。確かに明日香は以前までは誰に責められても仕方のないこ
とをしでかしたのだけど、それでも僕がひどい状態だったときに僕を守ってくれたのだ。
僕は明日香と将来を誓った。こんな風に明日香のことをこいつらに悪く言われる必要はな
い。
「だいたい奈緒ちゃんはもう知ってるの? 奈緒人君が明日香ちゃんとそういう仲だっ
て」
奈緒が実の妹であることを話しさえすれば、あるいはふたりも納得するかもしれない。
でもそれは奈緒に断りなく勝手に他人に話していいことではない。今はせめて嘘だけは付
かないようにするしかない。きっと女さんも兄友も納得してはくれないだろうけど。
「知ってるよ」
「知ってるって・・・・・・奈緒ちゃんかわいそうに」
今朝の奈緒は僕と明日香のことを責めなかった。そのことに僕は安堵したのだけれど、
彼女がすんなりと受け入れてくれたはずがないことは自分にもよくわかっていた。だから
奈緒がかわいそうだという女さんの感想は的はずれなものではない
「本当にどうしちゃったの。いったい何があったのよ。君は何か何か勘違いしているよう
だけど、複数の女の子と付き合うことなんて格好いいことでも何でもないのよ」
「それに、明日香ちゃんは血が繋がってはいないかもしれないけど、法律上は同じ戸籍に
入っている家族でしょ。妹と付き合うなんておかしいよ。どう考えても奈緒ちゃんの方が
奈緒人君には似合っているのに」
奈緒も明日香も妹なのだ。ただ、奈緒は血の繋がっている実の妹だ。浮気とか複数の女
の子と付き合っている自分に酔っているとかそういうことじゃない。
でも、本当にそうなのか。僕はふと考えついた。奈緒を抱き寄せた自分、明日香と体を
重ねた自分。よりによって自分の大切な叔母さんにまでキスを強要した自分のことを。客
観的に見れば女さんの言っていることは間違っていないのかもしれない。
奈緒のことを話さない限り、僕は急にもて出していい気になっている不誠実なキモオタ
扱いだろうけど、それは実は正しいのかもしれない。そこに反論する権利なんてきっと僕
にはないのだろう。
「何か言いなさいよ」
黙ってしまった僕に女さんが詰め寄った。自分の不名誉はもう拭いようがない。この上
叔母さんとのことまで知ったら、僕は二人の友人を失うことになるのだろう。
ただ、明日香への兄友と女さんの印象だけは誤解であり偏見でもある。そこだけは譲れ
なかった。
そこでホームルームが始まってしまったので、女さんと兄友の追及は中途半端なまま終
了した。混乱する感情を持て余しながらも、今日帰宅して自分がすべきことを僕は思い出
した。
僕はもう彼らを気にせずに、ただ一つのことだけを考えていた。実の兄であると知って
もなお、僕のことを好きだと言った奈緒の言葉を正直に明日香に伝えよう。そのうえで、
明日香が僕を受け入れてくれるなら、もう二度と僕は明日香を離さない。
たとえ女さんと兄友に絶交されても、父さんと母さんが離婚したとしても。
その日がオープンスクールの前日であることを僕は忘れていた。明日の準備のため授業
は午前中で終了し、この日は明日の準備に駆り出されている生徒以外はお昼で下校しなけ
ればならなかった。午前の授業が終ると、女さんや兄友に捕まる前に校舎を出て明日香の
通っている中学に向かった。自宅から歩いていける距離なので一度帰宅して時間を潰して
から、中学の授業が終るくらいの時間に僕は校門の前で待機した。
明日香は僕が迎えに来たことに喜んでくれるだろうか。少なくとも驚いてはくれるだろ
う。
僕は明日香の下校時間を正確に知らなかったせいで、結構な時間を校門前で費やすこと
になった。奈緒のピアノ教室前と同じで中学生たちの視線が気になる。結局四十分ほど待
ったところで俯き加減に一人で校門の方に歩いてくる明日香を見つけた。何か考えごとを
しているような様子だ。明日香の悩みは挙げようと思えばいくつだって思いつく。
入院していて今だに意識不明の池山の容態。奈緒に仕掛けた仕打ちへの後悔。有希への
罪悪感。両親の不和。そして・・・・・・、奈緒や玲子叔母さんと明日香との間でふらふらして
いた自分の彼氏である僕への不安。
「明日香」
彼女がすぐ近くまで来たところで僕は彼女に声をかけた。俯いていた明日香が顔を上げ
僕を見つけた。僕に気がついた明日香の表情が明るくなるのを見て、学校でのできごとを
忘れるほど胸の奥が温かくなるような感情に僕は包まれた。
「お兄ちゃん」
「おつかれ」
僕は明日香の方に手を差し伸べた。周囲の生徒たちの視線が集まってくる。珍しく少し
照れたような表情を浮かべて、明日香は僕の手を取った。
「こんなところでどうしたの?」
「今日学校が早く終ったからおまえを迎えに来てみた」
「・・・・・・突然何よ、それ」
明日香が赤くなった。
「帰ろうか」
「うん」
明日香が手に力を込めて僕の手を握り返した。
明日香は僕の告白に納得して、僕のプロポーズに応えてくれた。でも、あんな一言だけ
でこれまでの僕の不誠実な行動への不安が一掃されるわけがないのだ。僕と明日香は将来
を約束していろいろな障害を乗り越えたと思っていた。でもさっきの明日香の俯いた顔が
僕の頭を離れなかった。明日香の愛を受け入れてから無邪気に僕に抱き付いていたその態
度を、僕は心からのものとして受け入れていたのだけど、実は明日香も悩んでいたのだろ
う。お互いに抱き合いながら密かに悩んでいたのは僕だけではなかったのだ。
それに女さんと兄友のあの偏見に満ちた意見。奈緒と比較すると明日香がまるで無条件
にビッチな女のようなあの言われ方。兄友の方はまだしもましだった。あいつが問題にし
たのは僕の不誠実な態度だったと思うから。でも女さんは違う。明日香と奈緒を比べて奈
緒の方が僕にふさわしいと言ったのだ。明日香が奈緒より劣っているような言い方を女さ
んは無意識なのだろうけど、そう言外にほのめかしたのだ。
「あたし、買物して帰らないと」
明日香が僕を見てそう言った。
「買物?」
「冷蔵庫に何もなくなっちゃったからね。食材とか買っておかないと」
「じゃあいつものスーパーに行く?」
「うん。すぐに済むから先に帰っていて。それとも本屋とかで待っていてくれる?」
明日香は女の子として彼女として奈緒より劣ってはいない。少なくとも僕にとっては。
僕はもっと彼女を大切にすべきだ。僕はそのとき改めて強くそう思った。
「一緒に行こう。荷物持つよ」
「お兄ちゃん、退屈じゃない?」
「いいよ。僕だって食べるんだし」
明日香が僕の手を握ったまま少しだけ笑った。
「そうだね。じゃあ行こう」
スーパーでの買物に慣れていないという意味では、明日香と僕のスキルは同程度だった。
こういうとき家庭的な女の子なら、明日香のように迷いはしないのだろう。
何が食べたいって聞かれた僕は、何でもいいというテンプレのようなどうしようもない
返事を明日香にした。それを聞いて明日香の方も混乱したようだった。彼女にも明確なビ
ジョンはなかったみたいだ。もっともあれが食べたいと答えたところで必要な食材を明日
香や僕が選べたかというと、その可能性は少なかっただろう。
結局、今晩の食事の内容が決まらないままレジに進むことになった。僕が押していた
カートに置かれた買い物籠の中には、手当たり次第に放り込んだスナック菓子やカップ麺
しか入っていなかった。
「おかしいなあ」
明日香がカートを押す僕の腕に自分の手を絡めながら不本意そうに言った。
「叔母さんのピザを見たらあたしの方がまだしも料理ができるんじゃないかと思ったんだ
けどなあ」
「まあ料理だってスキルが必要だしさ」
もう今夜の食事はカップ麺であることにとうに納得していた僕は答えた。「そのスキル
の中には食材の調達能力とかもあるんだろうしね」
それは明日香だけでなく僕にも備わっていないスキルだ。
「あたしより玲子叔母さんの方が料理が上手だとかって考えてない?」
「思ってないよ。あのピザを食べるならカップ麺のほうがまだしもましだと思うよ」
「そういうことじゃなくて。まあ、別にいいけど」
明日香はそう言ったけど、あまり納得していないようだった。
「どうした」
何かを考え込んでいる明日香に僕は聞いた。
「奈緒ちゃんとか有希とかなら、きっと家庭的で料理も上手なんだろうなあ。スーパーに
来て何を買っていいのかわからないとかって考えもしないんだろうね」
明日香がぽつりと言った。
奈緒とか有希と比べる必要なんかないよ。僕はそう言えばよかったのだ。何でこんな簡
単なことが言えないのだろう。もう明日香以外の女の子と付き合わないと決めたのに。
「ファミレスとかで食事して行く?」
これ以上明日香の曇った顔を見たくなかった。場合によってはもっと明日香を傷つけた
かもしれない言葉だったけど、幸いにも彼女はおとなしくうなずいた。僕たちはスーパー
で購入したインスタント食品がつまった買物袋を提げたままでファミレスに向った。
駅ビルの中のファミレスはカップルだらけで混みあっていた。そこは前に有希と三人で
よく待ち合わせをした店だった。
「ピザとフライドチキンにする?」
メニューを眺めずに僕は明日香に聞いた。
「何でそうなるのよ」
「だって、好きなんだろ」
「・・・・・・ここのピザは大きいから一人じゃ食べきれないもん」
「じゃあ二人で分ければいいじゃん」
明日香が広げたメニューから目を上げた。
「何か今日のお兄ちゃん少し変」
明日香が僕の方をじっと見てそう言った。
「何が? 僕、変なこと言ったか」
「ううん」
明日香は何だか取り繕ったように慌てて言った。「何でもない。あたしが選んじゃって
いいの?」
「ファミレスのピザなんて何選んだって一緒でしょ」
「まあそうだけど。せっかくお兄ちゃんの好みのピザを選ぼうと思ってたのに。張り合い
ないなあ」
「おまえ、思っていたより元気だな」
「何言ってるのよ。あたしはいつも元気だよ」
「それならいいけど」
無理をしているのか本心からなのか。さっき校門で見かけた明日香の曇った表情はもう
その片鱗すら見られなかった。
「じゃあ好きに決めちゃうよ」
「いいよ」
注文を終えた明日香は少しぼうっとして窓の外を眺めていた。いつの間にかだいぶ外は
暗くなっている。
池山の怪我とか女さんと兄友の余計なお世話とか、最近の僕にもいろいろあった。レイ
ナさんという人のこととか女帝のこととかもある。でも、僕よりももっと精神的にプレッ
シャーを受けているのは明日香の方だ。これまで僕が何となく考えていたよりも、明日香
ははるかにしっかりとした性格をしていた。叔母さんとの間を修復した明日香に僕は感心
しつつ萌えていたのだけど、それでも考えるまでもなく明日香だって中学生に過ぎない。
「悩んでなきゃ別にいいんだけどさ」
僕は外を眺めている明日香に恐る恐る声をかけた。
「何?」
明日香が振り向いた。彼女はそのときにはもういつもの明るい表情に戻っていた。
「いや」
「あ、そう言えばさ。今日昼休に叔母さんにメールしたの」
「メールって?」
「だから、言ったじゃん。レイナさんって人のこと、叔母さんに聞いてみるって」
そう言えばそうだった。池山とか女帝とか叔母さんの安全とか、親友たちの明日香への
誹謗とか、そっちに気を取られていた僕はそのことを忘れていたのだ。僕たちの両親の不
和。それは奈緒と僕の関係が原因らしいのけど、そこに至る過程でレイナさんという人が
かつて絡んでいたらしいことを。
「叔母さん、何だって?」
「これ読んだ方が早いよ」
明日香が自分のスマホに叔母さんからの返信メールを表示させて僕に手渡してきた。
「ありがと」
僕は叔母さんのメールに目を通した。
from :玲子叔母さん
sub :Re:質問!
『>>ちょっと叔母さんに質問だよ~。パパとママの会話の中にレイナさんっていう人の名
前が出てきたんだけど、どういう人か知ってる?? 知ってたら教えて(はあと)』
『何でそんなこと知りたいのよ? つうかあたし仕事中なんだけど』
『しかし、懐かしい名前だな。あたしもよくは知らないんだけどさ、姉さんと結城さんの
大学時代の後輩らしいよ。奈緒人の実の母親の親友みたいだね。詳しく聞いたことはない
けど、昔よくその名前が姉さんと結城さんの会話に出てたからさ。でもあたしにはそれく
らいしかわからないよ。何でそんなこと知りたいのよ。てか、姉さんか結城さんに直接聞
けばいいじゃん』
これでは何もわからない。ただ、学生時代の後輩だというだけで。
「これじゃ何だかわからないな」
「そだね。叔母さんもママたちのことを何でも知っているわけじゃないんだね」
明日香が言った。それはそうだろう。婚約者同士の(まあ両親は知らないんだけど)僕
と明日香にだってお互いに全てを話しているわけではないのだし、母さんの妹というだけ
の叔母さんに情報に限りがあるのは無理もない。
奈緒なら何か知っているかもしれない。明日こそは奈緒に聞いてみよう。
明日香にそう言うと彼女は小さくうなずいた。
「今夜はパパもママもお泊りで仕事だって」
「そうなんだ」
一瞬、明日香と二人きりで一緒に夜を過ごせるなという考えが思い浮かんだ。
「少なくとも今夜はパパとママの喧嘩を見聞きしないですむね」
でも明日香の考えていたことは、僕とはまるで違うことのようだった。
今日は以上です
女神の更新を再開しました
しばらくは女神優先になると思います。ここまで長文駄文にお付き合いいただきありがとうござ
います
乙
女神から
次の土曜日、僕はもう奈緒をピアノ教室に迎えには行かなかった。十一時頃になっても
リビングのソファに座ったまま付けっぱなしのテレビをぼうっと見ている僕を、明日香は
何か言いた気にちらちらと眺めていた。さりげないつもりだったのかもしれないけど、そ
の視線はあまりにも露骨だったのでしまいには僕は笑い出した。明日香は戸惑ったように
僕を見た。
「何笑ってるの?」
何を考えているのか丸わかりだ。やっぱり明日香のこういう思考回路は可愛い。
「行かないよ」
「へ」
「だからもう奈緒のピアノ教室には行かないって言ってるんだよ」
「何で? あたし、もう気にしてないのに」
「明日香を気にしているからじゃないよ。僕がおまえのそばにいたいから」
「何言ってるの」
「奈緒を迎えに行くよりここで明日香のそばにいたいからね」
「・・・・・・・バカじゃないの」
明日香が顔を赤くした。
「まあとにかく今日は出かける予定はないよ」
「突然どうしたのよ」
赤い顔のままで明日香は僕を見上げるようにした。
「どこかに遊びに行く?」
「はい?」
「どこかに遊びに行く?」
僕は繰り返した。
「さっきから何言ってるの」
「デートに誘ってるんだよ」
「お兄ちゃん、熱でもあるの」
「どうしてそうなる。彼女を遊びに誘ったらいけないの?」
「奈緒ちゃんか玲子叔母さんと何かあったんでしょ」
明日香の顔色が赤から青い顔に変わった。口調もだいぶ恐く真剣なものになった。
「何もないよ。変なこと言うなよ」
「だって・・・・・・。家でゲームをするのが一番好きって言ってたお兄ちゃんがデートなん
て。絶対何かしでかしてそれを誤魔化そうとしてるでしょ」
疑惑を抱いた明日香の誤解を解くのは結構大変だった。それでもひどい結果に終った年
末の深夜以来初めて、僕は明日香を外に遊びに連れ出すことができた。これまでもスー
パーでの買物とか一緒に外出したことは何度もあるけど、純粋に遊ぶために二人で外出し
たのは酷い結末に終った年末以来二回目だったかもしれない。
別にどこに行ってもよかったのだけど、僕は明日香と一緒に水族館に行くことにした。
デートに水族館というのが適切なのか、それとも明日香のように遊んでいた女の子にとっ
てはいい加減にしろよとかっていう感想を抱かれるような場所なのかはわからなかった。
それでも水族館に誘ったことには理由があった。
僕には過去の記憶が曖昧にしかない。最近は虫食い状態で少しづつ思い出が蘇ってきて
はいるのだけど、それでも思い出せないことの方がはるかに多い。奈緒のこともそうだっ
たけど、再婚した父さんに連れられて今の家庭で暮らし始めた記憶についても、あまり記
憶は残っていなかった。それでも最近はまだら模様のように記憶の一部が心の中に浮かん
でくることがあった。
最近思い出した記憶の中に水槽の記憶がある。そのガラス張りの立方体は内部から青い
照明に照らされていて、その中心には透明なクラゲがゆらゆらと浮かんでいる。その水槽
の中の幻想的なクラゲに感嘆しながら僕は女の子と手をつないでいる。
あれは多分明日香との記憶だ。なぜなら奈緒と一緒の記憶はつらい思い出ばかりで、そ
ういう楽しいイメージは浮かんでこないのだから。唯一の例外はあの夏の日の公園の記憶
だけだった。あれは明日香と一緒の記憶だと僕は思い込んでいたのだけど、叔母さんや明
日香の話によればあれは奈緒との記憶らしい。そう言われても僕には奈緒の姿は全く浮か
んでこない。
水族館の記憶には悲しかったりつらかったりはしないようなので、きっとそれは明日香
との思い出なのだろう。
その土曜日、嬉しがるというよりは何だか戸惑っているような明日香を連れて、僕は水
族館に明日香と一緒にでかけた。叔母さんと雪の中を歩いたあの湘南の水族館ではなく、
自宅から少し離れた東京湾に面した水族館だ。
僕の期待に反して明日香は終始戸惑ったままで、水槽の中のイルカやペンギンを見ても
はずんだ表情を見せてくれなかった。時が過ぎるにつれて僕は次第に焦りを感じた。明日
香が僕とのデートに喜んでくれている様子がないことに、僕は落胆していたのだ。
期待していたような恋人同士の始めてのデートのときのような盛り上がりは全くなかっ
た。ここに誘った僕を気にしてくれたのか、明日香は興味深そうに水槽を眺めるふりをし
てくれているようだった。でも本心から彼女がここを楽しめていないことは、鈍い僕にだ
ってよくわかった。結局、環境を変えて恋人とのデートっぽい状況を整えたりしても、本
質的に関係を改善する効果なんかないのだろう。僕はそう思った。
「そろそろ帰る?」
僕は明日香との初めてのデートらしい行動はどうやら失敗のようだった。明日香もきっ
と僕と同じ気持ちでいるのだろう。
水族館の建物の横のベンチに隣り合って座ったまま、僕は明日香に言った。こんなに重
苦しい雰囲気でなかったらシチュエーションは最高だったろう。人気の無い夕暮れのベン
チでふたりきり。目の前には夕暮れの海が広がっている。視界の端には何隻かの釣り船が
帰途を急ぐかのように動き始めていた。
「お兄ちゃんが帰りたいなら」
目の前の海を眺めようとすらしていないらしい明日香が俯いたままで言った。
「おまえはどうしたいんだよ」
「お兄ちゃんがしたいことであたしもいいよ」
これでは不毛だ。夕暮れの空気は急速に暮れなずんでいくようだ。放っておくとすぐに
真っ暗になるだろう。
もう仕方がない。僕は言わなければいけないと思っていたことをこのタイミングで明日
香にぶつけることにした。いずれは告白しなければいけないことなのだ。本当は今日くら
いは明日香と恋人同士らしい甘い感傷に耽ることにしようと期待していたのだけど。
さっき僕が奈緒を迎えに行かない理由を聞いて顔を赤くした明日香は可愛らしかったけ
ど、今の彼女の表情にはその片鱗すら覗えない。
昨日も考えたように明日香の悩みはいくつか考えつくことはあった。入院していて今だ
に意識不明の池山の容態。未遂に終ったとはいえ奈緒に仕掛けた残酷な仕打ちへの後悔。
結果的に利用したようになった有希への罪悪感。突然の両親の不和。
そして・・・・・・、奈緒や玲子叔母さんと明日香との間でふらふらしていつ自分の彼氏であ
るはずの僕への不安。中学生の彼女にとっては重すぎる悩みだし、俯いて暗い顔をするの
も無理はない。
僕は奈緒の言葉を明日香に伝えようとしたのだけど、こんな状況でそんなことを迷いが
出てきた。
「寒い?」
とりあえず僕は話を変えてみた。
「へーき」
でもいつかは言わなければいけないことだし、明日香の悩みだって今日明日に解決する
ようなものではない。それに僕が心を決めたことを伝えることができれば、少なくとも奈
緒や叔母さんとの関係で明日香を悩ますことはなくなるかもしれない。
「あのさあ」
僕は決心して明日香に声をかけた。
「うん」
「・・・・・・奈緒に言われたんだ。そのことをおまえにも話しておかないといけないと思っ
て」
「・・・・・・うん」
僕は明日香にありのままを打ち明けた。明日香と生涯添い遂げようと思うなら隠しては
いけないことだと思ったから。
『あたし・・・・・・。奈緒人さんが実のお兄ちゃんでもいいと思ったの。こんだけ好きになっ
た人があれだけあたしが求めていた人だったのなら』
『気持悪いでしょ。でもあたしはあのときそう決めたの。そしてその後、お兄ちゃんと手
を繋いで抱き合ってキスもしたけど、後悔なんかしてないよ』
『世間じゃ近親相姦とか言われるんだろうけど。でも、あたしは本当のお兄ちゃんのこと
が好き。恋人としても兄としても。だから悩んだけど何も気がつかない振りをして、お兄
ちゃんと付き合ってたの。お兄ちゃんには何も言わなかった。っていうか言えなかったけ
ど』
『・・・・・・言っちゃった。お兄ちゃんには気持悪いって思われるよね』
『お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのな
らそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前
だったら明日香ちゃんのことは振っていったって。あたしにはそれだけで十分だから。こ
れ以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから』
『でも、お兄ちゃんには悪いけど自分の気持ちには嘘はつけないから』
『だって好きなんだもん。お兄ちゃんが・・・・・・奈緒人さんのことが好きなんだもん。お兄
ちゃんに駄目って言われたって自分ではどうしようもないの』
『わかってる。さっきお兄ちゃんが言ったとおりだよね。あたしはお兄ちゃんとは結婚も
できないし子どもだって産んであげられない。そんなことはわかってる』
僕は奈緒から告白されたことを洗いざらい明日香に話した。それから俯いたまま身動き
すらしない明日香に話しかけた。
「奈緒は僕が実の兄だと知っても僕のことが好きだって、僕と恋人同士でいたいって言っ
てたよ」
「そう・・・・・・」
明日香は俯いたまま表情を変えずにぽつりと言った。
「でも、僕が今好きなのは明日香だけだよ。明日香さえよければずっとおまえの彼氏とし
て一緒にいたい」
明日香は身じろぎしなかった。
「・・・・・・明日香?」
正直に言うとここまではっきりと自分の気持を話せば、明日香はきっと僕の胸に飛び込
んでくるくらいのことはしてくれるのではないかと思っていた。これまでも明日香を傷つ
ける行動を繰り返していた僕だけど、以前心を開いて明日香に正直な想いを伝えたとき、
彼女は僕に泣きながら抱きついてきてくれたのだから。
でも今日は何だか様子がおかしい。告白したときの、プロポーズしたときのような感情
を露わにした明日香とは全く違う。
「うん。わかった」
明日香はただそれだけを言った。それでも僕に気を遣ったのかもしれない。ここで初め
て僕の顔を見てくれた。
「お兄ちゃん、そろそろ帰ろう」
僕は不安に苛まされながら黙って明日香を見た。
「ほら。行くよ」
そんな僕の様子に構わずに明日香は立ち上がった。帰宅途上、明日香は僕の手を握ろう
とすらしなかった。
別にいつものことだから驚きもしなかったけど、土曜日だというのに自宅は真っ暗なま
ま夜の底に沈んでいた。
家に入ってリビングの明かりをつけるとようやく少しだけ家が生命を宿したような感じ
がした。
「シャワー浴びちゃうね」
明日香が僕の方を見ずにそれだけ言ってリビングを出て行った。僕の顔を見ようともせ
ずに。
いくらなんでもこれはおかしい。僕はソファに崩れ落ちるように座りながらそう思った。
確かに奈緒の告白はショックだったかもしれない。実の妹だと知って少しだけ安心しだだ
ろう明日香にとっては。それに認めたくはないけど、明日香は池山のことが心配なようだ
った。もともと好きでも何でもなく、僕や両親に対する当てつけで付き合い出したと言っ
ていたのに。
池山は見かけと違って常識的なやつだと兄友も女さんも言っていた。それは叔母さんの
マンションでの小さな諍いの際に明日香にも言われたことだ。明日香が元彼が重態なこと
を心配することまでは僕にも理解できた。逆に言うと、いくら自業自得とは言え瀕死の重
傷を負って入院している人のことを心配しないよう明日香だったら、僕はここまで好きに
なったりはしないだろう。
それにしても、いくら池山のことが心配だからといってそれが恋人である僕への態度を
変える理由にはならないのではないか。僕に抱きついて池山を心配する心への慰めを求め
たっていいはずだ。明日香が本当に好きな男が僕であるなら。
それとも池山のこととかは関係なく、僕はついに明日香に見放されたのだろうか。そう
考える根拠は山ほど思い付く。
有希とのこと。叔母さんとのこと。それに実の妹の奈緒とのこと。どう考えたって僕が
明日香に愛想をつかされる理由にはこと欠かないのだ。
「お兄ちゃん、お風呂入っちゃって」
明日香がリビングのドアから顔を覗かせた。もう飯田に振るわれた暴力の痕は癒されて
いるのだろうか。前回明日香を抱いたときにはうっすらと痛々しい痕跡がまだ残っていた。
でも今夜はそれを確認することは許されないようだった。
「わかった」
僕はリビングを出て明日香の隣を通り過ぎた。情けないけど我ながら女々しい声をして
いたと思う。でも明日香はそんな僕を無視して二階に上がって行ってしまった。僕は階段
を上っていく明日香の後姿をただぼうっと眺めていた。
シャワーを出て自分の部屋に戻った僕は、携帯に着信があることに気がついた。メール
だ。
from :玲子叔母さん
sub :無題
『急にメールしてごめん。明日香大丈夫? 何かあったの?』
『さっきちょっと用があって電話したら、明日香のやつ異様に暗い声だったけど喧嘩でも
した? まあ、余計なお節介はしないけどちゃんとフォローしときなさいよ』
『あとさ。明日香が襲われたときにお世話になった刑事さんのこと覚えてる? 平井さん
というんだけどさ。今日電話があって明後日会いたいってさ。いったい何だろう?』
『念のために言っておくけど月曜日だから、あんたが立ち会おうとしたって駄目だから
ね。じゃあ、くれぐれも明日香のことよろしくね』
いったい明日香に何があったのだろう。彼女は何に悩んでいるのだろう。謝罪が許され
るなら許しを乞いたい。でも、明日香の態度には僕を恨んでいるような様子は見られない。
ただ、俯いて考え込んでいるだけで。
それに平井さんは叔母さんに何の用があるのだろう。叔母さんのことを頼んだのは僕た
ちだったけど、こんなに早く平井さんが叔母さんに直接連絡するとは。気にはなったしで
きれば立会いたいと思ったけど、叔母さんたちが会う時間には僕はまだ授業中なのだった。
あのときパパはあたしの提案を受け入れてくれたのだと思っていた。あの夜、パパはも
うあたしに手を出そうともせずに自分の書斎に閉じこもってしまった。寝る前にそっとド
アを少し開いてパパの部屋の中を眺めた。パパは写真立てを手に持ってじっとその中の写
真を眺めていた。その写真のことはよく知っていた。あたしが物心ついたときからパパの
側にある写真。その写真の複製は自宅にも別荘にもパパの事務所にも飾られていた。それ
は怜奈叔母さんの写真だった。写真の中の怜奈叔母さんは富士峰の制服姿でカメラに向っ
て微笑んでいる。それは叔母さんが高校生の頃の写真のようだった。
玲子叔母さんを大切にし過ぎたため、パパは自分の気持を深く封印しながら叔母さんと
接してきた。叔母さんが結婚したときも黙って叔母さんを祝福したそうだ。長い間静かに
抱き続けてきた自分の気持をぶつけることなく。
でもそんなパパの気持は報われなかった。叔母さんの結婚は失敗だった。奈緒のパパは
世間でも評価されている有望な若手演奏家だったけど、婚姻面では同時に浮気性の駄目な
夫だったらしい。そのことはパパにとって負い目になったに違いない。自分の気持を隠し
て妹の選択を尊重した結果がこれだ。
それにもましてつらい出来事が間を空けずにパパを襲うことになった。パパを含めた身
内全員に黙って、怜奈叔母さんは離婚し一人で娘を出産したのだ。それが奈緒だ。パパが
それを知ったとき、怜奈叔母さんは既にこの世の人ではなくなっていた。なぜ叔母さんが
両親や自分の兄であるパパに黙って離婚し出産までしたのかはよくわからない。
パパが真っ当な弁護士業をはずれたのもこの頃かららしい。離婚や相続関係の民事から
手を引き、パパは債権回収を専門にしだした。成功報酬は債権回収額に応じて一定の比率
で決まる。この頃から我が家は飛躍的に裕福になっていくのだけど、パパの動機はお金で
はなかったと思う。そうすることによってしか愛した妹のことを忘れられなかったのだろ
う。
もうパパは間違えないだろう。
大事にしすぎた挙句、妹に手を出さなかった結果がこれだ。亡くなる前におばあちゃん
から聞いた話では、二人は仲の良い兄妹で怜奈叔母さんもパパのことを慕っていたそうだ
から、パパが自分の想いを告白していればあるいは今頃二人は幸せに暮らしていたかもし
れないのだ。もっともその場合はあたしは生まれてこなかったことになるけど。
パパは二度と間違わないだろう。本気で愛した女の忘れ形見。今度は愛情ゆえに傍観し
て、結果的に相手を不幸にすることはないだろう。
あたしはそう思ったのだけど、数日後にパパから言い渡された言葉にあたしは愕然とし
た。
「本当に大切な相手を傷つけてまで自分の想いを遂げるべきではないよ」
そう言ったパパの言葉にあたしは凍りついたた。パパは再び過去の過ちを繰り返そうと
しているのだ。
「パパが奈緒をどうこうしたなんて知ったら天国の怜奈が悲しむだろう。パパにはそんな
ことはできないよ」
パパは慈しむように写真立ての中で微笑む怜奈叔母さんの姿を指で撫でるようにしなが
ら言った。パパってひょっとしたら精神を病んでるんじゃないの? あたしは一瞬そう思
ったけど、それよりも根深い怒りがあたしの奥底から湧き出てきて自分でもそれを制御で
きなくなった。
パパにとっては怜奈叔母さんはあたしのママより大切なのだ。そして、今日はっきりと
わかったのだけど、奈緒の方が実の娘であるあたしよりも大切なのだろう。
あたしは笑った。いつもパパとの夜の前に見せる控え目な微笑みではなく、それはもっ
と乾いた笑いだった。
「有希?」
パパが驚いたように言った。あたしの反応が意外だったのだろう。これまであたしはパ
パに対してだけは反抗的な態度を取ったことはなかったから。
今までは奈緒に対しては愛憎が入り混じったような複雑な感情を抱いてきた。飯田や池
山に奈緒をレイプするように命令したときも、半ばはそういう指示をした自分のメンタリ
ティに疑問を持っていた。レイプされることになる奈緒と何食わぬ顔で一緒にいたのだっ
て、最後になって奈緒を襲わせることに迷ったらその場で手を引くように命令し直せば済
むという思いもあったのだ。
でも、もうあたしは迷うことはないのだろう。パパはあたしの愛人であたしの恩師でも
あるのだけどパパの中であたしが一番ではない以上。
パパと奈緒。あたしが愛した二人にあたしは裏切られたのだ。行動しないとあたし自身
のアイデンティティが崩壊してしまう。
パパと別れて自分の部屋に篭もったあたしは再び声を出さずに笑った。奈緒は結局コン
テストで再び優賞することはないだろう。あたしの奈緒への愛情もこれで終わりだ。奈緒
を破滅させるために巻き込む人の数は少ないとは言えないだろう。目標の一つでもあるパ
パはもちろん、周囲の他の大人たちが巻き込まれることも避けられないだろう。
もうあたしはパパの自分に対する愛情に対しては全く幻想を抱いてはいなかった。これ
まで受けてきたパパからの数々の便宜は、あたしへの愛情からもたらされたのではなく、
あたしの身体や性的なサービスの代価に過ぎなかったのだ。これではあたしは風俗嬢と同
じだ。だからあたしは被害が周囲に拡散してももう心が乱れることはない。
この期に及んで手加減をするつもりはなかったけれど、それでもあたしのやり方は暴力
に頼るものではない。必要とあれば男の子たちに暴力を振るわせることに対して全くため
らいを感じないあたしだけど、事ここに及んでも肉体的な暴力ではなく対象者の精神を苛
むことこそ唯一の復讐だとあたしは考えた。
せめて泣ければいいのに。あたしは一人きりの部屋で微笑みを浮べながらそう思った。
その日のうちにあたしは奈緒の家を訪れた。平日で学校をさぼっていたので奈緒が不在
なのはわかっていた。
「学校はどうしたの」
扉を開けた麻紀おばさんが驚いたようにあたしを見た。「奈緒なら学校に行ってるわ
よ」
「おばさんにお話したいことが会ってきたの」
あたしは幼い頃からママを失ったあたしに対して、とても優しく接してくれていた麻紀
おばさんに微笑んだ。
今日は以上です
次回は女神投下後になる予定です
乙
乙
あたしが麻紀おばさんを訪ねたことは理由のないことではなかった。自分の世界が完全
に崩壊してしまったことを理解した今、どういうわけかあたしは今までよりも冷静にいろ
いろと考えることができた。そう、まるでそっち系のドラッグを静注した後のように意識
が澄み渡っていた。パパの真意を完全に理解したことに対して、ショックを受けたことに
反応したのかあたしの体は自立的に脳内物質を放出したのかもしれない。
これまで以上に、あたしはどの手を打てばどのドミノが崩れ落ち連鎖反応を起こして行
くのか容易に想像し、全体像を把握することができた。
・・・・・・麻紀おばさんは昔からあまりこだわらない人だったから、学校をサボっているこ
とが明白なあたしの行動を気にすることなく、奈緒が不在であることに関わらずリビング
のソファにあたしを招じ入れてくれた。
「有希ちゃんはコーヒーよりミルクティーの方がいいんでしょ」
そう言っておばさんはキッチンの方に引っ込んでいった。昔からおばさんは優しい。あ
る意味では奈緒に対するより、あたしに対しての方が優しかったかもしれない。あまり物
事にこだわらない性質のおばさんも、奈緒にはいろいろと口うるさく注意していたようだ
った。そのことはよく奈緒から繰り返し聞かされていたことだった。
おばさんがお茶の支度をしている間、あたしは立ち上がり、リビングの出窓に飾られて
いる結城家の家族の写真を眺めた。富士峰女学院小学校の入学式の日に校門前で撮影した
らしいスナップだ。
結城のおじさまと麻紀おばさんが微笑みながら、真新しい富士峰の制服をまとった奈緒
の両隣に立って娘の手を握っている。真ん中に立っている奈緒は入学式の緊張のせいだろ
うか。少し強張ったような顔でカメラを見つめている。
奈緒のその表情はとても懐かしい。一学年に二クラスしかなかった富士峰女学院小学校
の入学式の日、あたしは同じクラスになった奈緒と知り合った。この写真はその日の奈緒
を写したものだ。
あたしは同じクラスの隣の席に座っていた奈緒を興味津々に眺めた。そのときの印象で
は、奈緒は可愛らしいというかその年齢にして端正な容姿の綺麗な女の子だった。彼女の
ことを可愛らしいと思わなかったのは、その表情があまり明るくなかったからだろう。
どういうわけか親しくなる前の奈緒は、小学校一年生にしてあまり自分の近くに他人を
寄せ付けないような雰囲気を漂わせていた。年齢のわりにはませていたあたしよりももっ
といろいろな経験を、それもどうやらあまり楽しくない経験を積んでいるような印象を当
時のあたしは受けた。
それでも席が隣同士ということもあり次第にあたしたちは仲良くなっていった。話しか
けてもあまり表情を動かしてくれなかった奈緒が、次第にあたしの話すつまらない冗談に、
時折りだけど少しづつ不器用な笑顔らしい表情を見せてくれるようになった。
お昼休、あたしはいつも奈緒と一緒にお弁当を食べた。奈緒のお弁当はいつもとても綺
麗な色でとても美味しそうだった。麻季おばさんは料理が得意だったのだ。それに比べて
小学校に入学する前に母親を病気で亡くしていたあたしのお弁当は、当時あたしの家の家
事を引き受けてくれていたヘルパーさんが作ってくれたものだった。その人のことはよく
覚えていない。別に嫌な記憶もないので悪い人ではなかったと思うのだけど、今でも時々
やたらに茶色い色彩のお弁当を持たされていた当時の記憶が蘇ることがある。
あたしは奈緒の綺麗な彩りのお弁当がうらやましかった。一緒にお昼ご飯を食べている
ときにあたしは奈緒に自分の昼食についての不満を漏らしたことがあった。
今でもよく覚えているのだけれど、そのとき奈緒は知り合って初めて笑ったのだ。
「ユキちゃんのだっておいしそう」
聞き取れないほど小さな声で彼女が言った。
「だって奈緒ちゃんのお弁当ってきれいじゃん。ユキも綺麗なお弁当の方がいい」
「でもおいしそうだよ。食べておいしければいいんだよ」
すぐに納得できるような言葉ではなかったけれど、あまりあたしの発言に反応しない奈
緒が、これだけでも話してくれたことが嬉しかった。
「おいしくてきれいなほうがいいじゃん」
奈緒にもっと話をして欲しかったあたしはわざと反論した。
「食べちゃえばいっしょだよ。おいしいだけで十分だよ」
奈緒がまた反論してくれた。このときのあたしは、奈緒が食べ物すら与えられず自宅で
長期間放置されていた経験があることなんて知らなかったのだ。
「・・・・・・あたしのお弁当、食べる?」
奈緒が相変わらず小さな声であたしの方を見ないで呟くように言った。
「いいの?」
「うん。食べてもいいよ」
今となっては奈緒のお弁当から何をもらったのかは覚えていないけど、その何かがすご
くおいしかったことだけは記憶に残っている。それであたしは恥かしかったけど、奈緒に
あたしの茶色っぽいお弁当も食べるように勧めることができた。
奈緒は素直に箸を伸ばしてくれた。
「とってもおいしいよ」
奈緒があたしのお弁当をつまんでそう言ってまた静かに笑った。その微笑みがあたしに
はとても嬉しかった。
「そう? でもあたしのお弁当はナオちゃんみたにママが作ってくれたわけじゃないもん。
ママは死んじゃったんだし」
そのときは別に奈緒に慰めてもらおうとか考えていたわけじゃなかった。でも奈緒は再
び俯いて黙ってしまった。あたしはそんな奈緒の様子に狼狽した。別に自分の不幸自慢を
するつもりはなかったから。
「・・・・・・・あたしママなんて嫌い」
俯いたままで奈緒が言った。
「ナオちゃん、ママのこと嫌いなの? お弁当綺麗だしおいしいのに何で」
「ユキちゃんはママのこと好き?」
「好きだよ。ママは死んじゃったけど、死ぬ前も今もママのことは大好きだよ」
「ユキちゃんママいないんだ・・・・・・。あたしはママのこと嫌い」
「何で? ナオちゃんのママって怒りっぽいの?」
「ううん。いつもやさしいよ。ピアノだって教えてくれるし」
「やさしいのに何でママのこと嫌いなの」
ナオは俯いて無表情のままあたしに言った。さっきの笑顔なんかもうどこにも見当たら
なかった。
「だってママはあたしとお兄ちゃんを虐めたし、あたしとお兄ちゃんを一緒にいられなく
したから」
「ふーん」
あたしにはナオの事情はよくわからなかったけど、この子の笑顔を見たいと言う気持だ
けは、確かにこのときあたしの胸中に沸きあがってきていた。
「早く食べて遊びに行こうよ」
とりあえずあたしはナオにそう言った。
あたしはその晩夕食の席で、パパに小学校でできた初めての友人のことを話した。
初日の入学式、あたしを送り迎えしてくれたのは運転手の中井さんだけだった。それも
送り迎えしてくれただけだったので、入学式のあたしの写真なんかあたしにはない。
ナオの姓名を聞いたパパは驚いたようだった。
「何だ、もう知り合いになったのか」
結城家の人たちはパパの親しい友人の家族だよとパパはあたしに言った。
あたしが初めてナオの家に遊びに行ったとき、麻紀おばさんはあたしを優しく迎え入れ
てくれた。
「ユキちゃんって太田先生のお嬢さんだったのね。おばさん、びっくりしちゃった」
麻紀おばさんは綺麗な人だった。あまりナオには似てはいないけど、小学生のあたしが
見てもそう思ったくらいおばさんは美しかった。まるでテレビに出てくる女優さんが演ず
る若い奥さんのようだ。
「ナオと仲良くしてあげてね」
うちの家ほど大きくないけれど、瀟洒なナオの家にはナオのお父さんの姿はなかった。
ナオはママと二人でその家で暮らしていた。もう少しして聞いた話では、ナオのパパは海
外のオーケストラで活動していたため、ほとんどその家には帰って来なかったそうだ。
その頃になるとあたしとナオは本当に仲良くなっていた。ナオはよくあたしにピアノを
弾いてくれた。その演奏は学校の音楽の先生の演奏よりもあたしの心を揺すった。真剣な
表情でピアノに向っているナオの表情は凄く綺麗だった。
「ナオちゃんすごい」
あたしは言った。
「ユキちゃんは音楽はしないの?」
麻紀おばさんが言った。
残念ながら我が家にはあたしにそういう情緒的な教育を施してくれるような人はいなか
った。多忙なパパを含めて。だからあたしはそういう家庭事情を正直に麻紀おばさんに話
した。
「じゃあ、ユキちゃんもうちで奈緒と一緒にピアノを勉強しない? おばさんが教えてあ
げる」
知り合ってから初めてといっていいくらいに、おばさんの言葉を聞いた奈緒が期待を込
めた明るい表情であたしとおばさんを交互に眺めた。
「あたしがピアノ?」
「そうよ。太田先生・・・・・・ユキちゃんのパパにはおばさんがお願いしてあげる。ピアノっ
て楽しいのよ」
「一緒にピアノの勉強しようよ」
奈緒があたしの顔を覗き込んで言った。
それから小学校の低学年の間、あたしは奈緒に付き合ってピアノに取り組むことになっ
た。麻紀おばさんから電話を受けたパパは二つ返事であたしをおばさんに託した。
最初は奈緒の自宅の防音室で始まったレッスンは、あたしたちが小学校三年になると、
その場所を佐々木先生のピアノ教室に場を移すことになった。
この頃になると、奈緒はもうあまり暗い表情を見せなくなってた。知り合ったときに彼
女がふと漏らした辛い過去のことを割り切ったのかもしれない。あたしはいつも奈緒と一
緒だった。小学校の高学年になる頃には、お互いに他にこれ以上の親友はいないというほ
どに仲が良かった。
意外なことに、あたしのピアノは控え目に言っても悪くなかったらしい。もともとピア
ノ教師をしていた麻紀おばさん仕込みの奈緒に勝てるなんて一度だって考えたことはなか
ったのだけど、この頃のあたしのピアノは佐々木先生からだいぶ認められるようになって
いた。
佐々木先生から音大受験を勧められたのもこの頃だ。あたしはそのとき奈緒ちゃんはど
うするんですかって先生に聞いた。奈緒が音大を目指していると聞いたあたしは迷わずあ
たしも音大を目指しますと答えた。
多忙なパパと久し振りに会えたとき、あたしはピアニストの道に進みたいとパパに話し
た。小学校六年生のときだった。パパは笑った。
「有希がそうしたいなら、それでもいいんじゃないかな」
「あたし、ピアノが楽しいから。奈緒ちゃんと一緒にピアニストを目指したいの」
「そうか。でも、奈緒ちゃんにはなかなか勝てないんじゃないかな。奈緒ちゃんは両親共
に演奏家でその血を引いているけど、パパは芸術には疎い法律屋だし、死んだママだって
音楽とは無縁だったしな」
「あたしは大丈夫。任せておいて」
奈緒と同じ道を歩もうとしている興奮からか、久し振りにパパがあたしのことを気にか
けてくれているという安心感からか、あたしはパパに冗談交じりに話しをすることができ
た。
「おまえも大きくなったな」
ふいにパパがあたしの方を見て微笑んだ。
あたしはそんなパパに微笑みかけようとしたそのとき、パパの視線がねっとりとあたし
の肢体に絡み付いていることに気が付いた。
「・・・・・・パパ?」
「何でもないよ。何でもない」
広い家にはそのときパパとあたししかいなかった。
「有希は偉いな」
パパは囁きながらさりげなくあたしを抱き寄せた。それだけなら父と娘の微笑ましい交
流だったのだけど、パパは抱き寄せたあたしの顎に手をかけて上を向かせた。
「パパ」
「有希はいい子だな。きっとピアノも上手になるよ」
パパはそう言ってあたしの唇に自分の唇を重ねた。
その日、あたしはパパによって少女から女に変えられた。普通の子たちよりずいぶんと
早く、変則的な形ではあったけど。
中等部に入ってからのあたしと奈緒のコンクールの成績は対等だった。
中学生になる前のあたしは技術的に言えば全く奈緒には敵わなかった。奈緒の指は魔法
のようだった。テンポが早く難易度の高い変拍子のアルペディオだって、まるで世界的に
有名な演奏家のように正確に弾くことができる。
そんな奈緒とあたしの技術との間には深遠な溝が横たわっているようだった。何度練習
しても奈緒に勝てる気はしない。そのこと自体はあたしにはあまり気にならなかった。小
学生の頃は親友の奈緒と一緒にピアノのレッスンを受けられるだけで楽しかった。小学生
の部のコンクールではあたしは予選落ちの常連で、奈緒は大会入賞組でも気にならないく
らいに。
中等部に入ったあたしは周りの無邪気な女の子たちと自分が違う人種なのだということ
を何度も繰り返して考えるようになっていた。週に何回かあたしは人形のようにパパの膝
の上で、パパのすることに耐えていた。こんな経験のある中学一年生なんてそうはいない
だろう。
逆説的に言えばあたしは同級生たちよりも精神的に幼かったのかもしれない。あたしは
パパの行為によって自分が無理矢理脱皮させられ変化させられたような気持を抱いてはい
たけど、そのこと自体を嫌悪することはなかったのだ。むしろ、周りの子たちより一足早
く彼氏ができた気分だったのかもしれない。変化した自分に対する戸惑いはもちろんあっ
たのだけど、パパに対する嫌悪感は不思議なほど感じなかった。
むしろそれまで無邪気に慕っていたパパは、あたしにとって恐怖であり憧れであり嫉妬
の対象として認識されるようになった。この頃からだろう。あたしのピアノが変ったのは。
ある日、個人レッスンではなく教室でのミニ発表会が開かれた。十人ほどの選ばれた生
徒が参加していた。一人一人が他の生徒たちの前で演奏するのだ。
奈緒の性格で綺麗な演奏のあとだけど、あたしはその日、佐々木先生の鋭い表情に気後
れすることなく集中してピアノを弾くことができた。あたしが演奏を終えるとしばらく生徒たちの
間に沈黙が広がった。
「いいね」
佐々木先生が沈黙を破って言った。「すごくよくなった。タッチは荒いしテンポも維持
できてないけど・・・・・・。何ていうか聞かせる演奏だね。技術的には未熟なのに何でだろう
ね」
「有希ちゃん、すごいじゃん」
奈緒が本当に嬉しそうに祝福してくれた。
「感情表現がすごくいいよ。意識してやってるんじゃないだろうけど、間合いとか詰める
ところとかがいい間隔になっているせいか、すごく感情が伝えられてる」
佐々木先生があたしに微笑んだ。
自分にはよくわからなかったけど、誉められるのは素直に嬉しかった。
この頃から、あたしは奈緒と共に予選を勝ち抜くようになり、本選の結果も奈緒より上
位に立つことはなかったのだけど、優賞した奈緒の次点に常につくようになった。
いつだったか奈緒人さんがあたしにクラッシク音楽之友の評論記事を見せてくれたこと
があった。奈緒の彼氏の前であたしはらしくもなく少し照れた。
『鈴木奈緒の演奏は中学生離れした正確でミスタッチのない演奏だが、感情表現の乏しさ
は、まるでシーケンサーによる自動演奏を聴いているかのようだ・・・・・・。同じ曲を演奏し
て第二位に入賞した太田有希は技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、
演奏の感情表現に関しては彼女の方が将来に期待を持てるかもしれない』
その記事の評価は嬉しかったことは嬉しかったのだけど、その頃のあたしは既にピアノ
よりも熱中することを見出してしまっていた。だから、自分のピアノに関してはそれほど
重きを置いていなかったし、奈緒よりもあたしを評価してくれる記事に対して感激すると
いうほどの感情は沸いてこなかった。むしろ、奈緒の演奏をもっと高めてあげたいという
気持ちの方が大きかったかもしれない。
この頃のあたしは、パパの愛人としてパパの秘密を打ち明けられていたし、自分もパパ
のしていることのミニチュア版のようなことをしていたのだから。そのコンテストはつい
この間の夏のできごとだったけれど、あたしは中二の春には既に女帝と言われていたのだ。
そして、その頃の自分の中では女帝としての活動の方がピアノの演奏なんかより重きを
占めるようになっていた。
「お待たせ」
麻紀おばさんが紅茶とお菓子の乗ったトレイを持ってリビングに戻ってきた。
「おいしそう」
おばさんはあたしに微笑んだ。それは綺麗な表情だった。
「どうぞ。でも本当は有希ちゃんは学校に行ってなければいけないんだよ」
まるで少女のような無垢な微笑みをおばさんは浮べた。悪い癖でついあたしは自分の配
下の男たちなら麻紀おばさんをどう思うのか考えてしまった。
それが奈緒とか明日香なら考えるまでもない。そして、三十歳くらいだろう明日香の叔
母の玲子にだってあいつらは欲情を抱いた。奈緒を追い詰めるために麻紀おばさんをあい
つらに乱暴させるというのは現実的ではないだろうか。確かに玲子どころではなく高齢の
おばさんだけど、見た目は本当に美しい。中高生のあいつらだってその気になるかもしれ
ない。それに仲間の中には大の女性にひどいことをして、自分の言うことをきかせること
にサディスティックな興味を抱いているやつならいても不思議ではない。
そうじゃない。あたしは思考をとどめた。今はそんなことを考えるよりももっと優先事項がある。
ついこの間まであたしは奈緒の親友だと思っていた。まさか自分の従姉妹だなんて夢に
も思ったことはなかった。そして、二転三転した情報。最初は奈緒が身も知らぬ高校生に
惚れたのだと思った。そんな相手なら跡形もなく粉砕してやろうとも。でも、以外にも奈
緒が好きになった男の子は、池山の彼女の兄貴だというのだ。明日香には今までも散々邪
魔されてきた。その明日香があたしにわざとらしく近づいて奈緒人さんとあたしをくっつ
けようとした。
奈緒人さんのことをあたしは利用しようとしたのか。それとも明日香の言うように本当
に彼のことを好きになったのか。明日香が奈緒人さんの実の兄貴ではないということを知
ったあたしは、どういうわけか動揺した。今にして思えばその後、パパがあたしより怜奈
叔母さんと奈緒の方が好きだと知ったのと同じくらいに。
そして。あたしの世界が崩壊した日に知ったこと。奈緒と奈緒人さんは実の兄妹ではな
いということ。奈緒は運命の人が自分の兄貴だと知って悩んでいた。でも、何というとは
ない。奈緒と奈緒人はお互いに付き合おうと思えば付き合えるのだ。
その辺の事情を今日は麻紀おばさんから聞きださなければいけない。麻紀おばさんをあ
いつらに犯させたらおばさんがどうなるのか、そのおばさんを見た奈緒がどう思うのかな
んて考えている場合じゃない。
「おばさん?」
「なあに、有希ちゃん」
「あたしさ。パパに聞いたんだけど、奈緒ちゃんのママって本当はおばさんじゃなくてパ
パの妹、怜奈叔母さんなんだってね」
麻紀おばさんは驚いたようにあたしを見た。
今日は以上です
しばらくはきりのいいとい頃までこちらを更新しようと思います
乙。。。。相変わらず続きが怖い
「太田先生、あなたに話しちゃったの?」
麻紀おばさんは驚いた様子だったけどそれはあまり長くは続かなかった。おばさんには
ショックを与えるはずだったのに、どういうわけかおばさんはすぐに冷静になってしまっ
たようだ。
「うん。全部聞いちゃった」
「もう。先生ったら弁護士の癖に。依頼人の秘密を何だと思っているのかしら」
もうおばさんは驚きから醒めて、落ち着いた微笑みをその顔に浮べながらそう言った。
「まあ、むしろ今までよく黙っていられたって誉めてあげるべきなのかな」
「おばさん、もっと驚くかと思った」
あたしは少し当てがはずれた。その感情は表情に出てしまっていたらしい。
「ごめんね。でもちょっとは驚いたのよ。だから、機嫌なおしてね」
一 もっと情報を手に入れパパの話を補強して全体像を把握する
ニ その過程で麻紀おばさんを動揺させる
三 その動揺によって鈴木家が揺らぎ、奈緒もそれに巻き込まれ追い詰められる
麻紀おばさんを男の子たちに犯させるという愚作のほかに、あたしが第一段として考え
ていたのはこの程度のことだった。それはこの先のステージに続く単なる序章に過ぎない。
そしてこれ自体はとても難易度の低いオペレーションのはずだった。それなのにこんな初
歩的なところから躓くとは思わなかった。
街角にたむろしている若い子たちは、普通の女の子にとってはとても恐い存在らしい。
あたしは、そういう男の子たちの浅はかな考えを読み取ることができた。虚勢を張った態
度。派手で人目を引いてはいるけど、それは毛を逆立てて精一杯相手を威嚇する無力で小
さい猫のように底の浅い行動だ。彼らの心の中には慢心と増長しかなくて、少し本質をつ
いてあげるとすぐに屈服して今度は飼い犬のように尻尾を振り出す。
もちろんあたし一人の力のせいではない。最初は大部分はパパの力を借りての行動だっ
たけど、そいつらを靡かせて組織化する過程で、あたしは町の不良なんかを恐れる気持は
全く無くしてしまっていた。あからさまな利益の供与と遠まわしな脅し。そして時にはだ
れた組織を引き止めるための直接的で残酷な行動。世の中には二種類の人間がいる。
あたしやパパのように価値のある人間以外の連中は取るに足りないのだ。
それなのに優しく綺麗なだけで無価値なはずのおばさんに対して、あたしが仕掛けた心
理戦は空回りしてしまったのだ。奈緒の母親だというだけで、おばさんがあたしに対して
対抗できるような人間だなんて今の今まで考えもしていなかったのに。
「有希ちゃんこそショックだったんじゃないの? 奈緒があなたの従姉妹だなんて聞かさ
れたらびっくりするよね。かわいそうに」
「そうでもないけど」
「無理しなさんな。でもさ、あなたたち二人が血が繋がっているって素敵じゃない」
「素敵って・・・・・・。そんな簡単なことなの?」
「ああ、ごめん。でも間柄が遠くなるより近くなった方がいいんじゃない?」
「・・・・・・そんな」
何であたしがおばさんに攻められてしどろもどろになっているのだろう。おかしいじゃ
ない。あたしは内心焦った。人との交渉であたしがここまで主導権を握られるなんて初め
てだった。これまであまり気にしていなかったおばさんに対して、あたしは全く優位に立
てない。ついさっきまで麻紀おばさんをあいつらに襲わせようという考えを慰みに弄んで
いたあたしだったけど、今はとてもそんなことを考える余裕はなかった。
あたしは必死に態勢を立て直した。一対一のやりとりでここまで本気を出したのは久し
振りだった。
「奈緒ちゃんはおばさんが本当のママじゃないって知っているの?」
これだっておばさんへの揺さぶりになるはずだ。奈緒は事実を知らないだろうから、そ
こをつかれることはおばさんには都合が悪いに違いない。
「うん。奈緒には何も言っていないよ」
おばさんは平然と微笑んで言った。でも、強がりを言えるのはここまでだ。奈緒に知ら
れたら困るのはおばさんの方だろう。
「あたし、このことは奈緒ちゃんには黙っていた方がいいよね」
「うーん。どうなんだろうね」
おばさんはカップを取り上げ紅茶を一口飲んだ。「いつまでも黙っているというわけに
はいかないだろうし」
「え?」
あたしの仮説ではおばさんは奈緒に事実を知られたくないと思っているはずだった。で
も、おばさんには動揺している様子がない。この分ではあたしはおばさんとの心理戦に負
けそうだった。
おばさんはここで天井を見上げるような不思議な動作をした。その間の数秒間、おばさ
んはあたしの方を見ずに何か考え込んでいるようだった。
「・・・・・・うん」
おばさんは独り言を言った。
うんって。いったい誰と話をしているのだろう。
「太田先生は奈緒のこと詳しく話してくれたの?」
「ううん。奈緒が亡くなった怜奈叔母さんの忘れ形見だったっていうだけ。それ以上は何
にも話してくれなかったよ」
「そう。じゃあ、どういうことなのか聞きたい?」
もちろん聞きたい。それが学校をさぼって麻紀おばさんを訪ねた目的だったから。相変
わらず主導権はおばさんに奪われたままであることは気に入らないけど、当初の目的を達
成できるならここはおとなしくしているべきだった。というかこれを認めるのは腹ただし
いけど、これでは心理戦にすらなっていない。あたしは麻紀おばさんの手のひらの上で踊
らされているだけみたいだ。
「奈緒ちゃんは親友だし。だからとっても気になる。おばさんが話してくれるなら聞きた
い」
あたしは猫なで声でそう言った。
「そうだね。じゃあ、声の許しも出たから話そうか」
声って何だろう。
「ミルクティー冷めちゃうよ」
おばさんが言った。
麻紀おばさんは奈緒人さんの実のお母さんだ。そしておばさんは奈緒人さんと奈緒がま
だ幼い頃、奈緒人さんのお父さんと離婚して鈴木のおじさまと再婚した。あたしはおばさ
んには二人の子どもがいて、離婚に際してそのうちの一人の親権を取ったのだと今まで考
えていた。
奈緒が怜奈叔母さんの娘であるならば、麻紀おばさんは離婚に際して実の息子の親権を
手放して、怜奈叔母さんの娘である奈緒を引き取ったことになる。麻紀おばさんがそうい
う一見非常識な行動をしたことには理由があるに違いない。あたしはそこを聞きたかった。
あたしの敵はパパなのだろうか。それとも怜奈叔母さんなのか。怜奈叔母さんには復讐
できない。もうとうに亡くなってしまっているのだから。
だから、あたしは怜奈叔母さんの代替として奈緒を敵だと認定したのだ。大まかな復讐
のプランは既に頭の中にできあがっていたけど、肝心の動機の方はまだ曖昧だった。
周囲を破滅に追い込むかもしれない行動に至る動機や原因が不明のままというのはよく
ない。こういうことは全てを知ってから取り掛かった方がすっきりする。
麻紀おばさんに負けたっていいじゃない。あたしはふとそう思った。そんな勝ち負けよ
りも真実を教えてもらう方がはるかに有益だ。そのうえであたし自身の気持がどうしても
収まらなければ、あいつらに声をかけて麻紀おばさんを襲わせて溜飲を下げればいい。
おばさんは年齢の割には綺麗だったから、喜んで言うことを聞くやつらには事欠かない
だろう。おばさんがいくら毅然としているといっても、自分の息子と同じ位の年齢の男の
子に無理矢理弄ばれたらショックを受けないはずがない。
そこまで考えるとあたしは落ち着いてきた。最終手段が留保できている以上、ここはお
ばさんに下手に出た方がいい。
「おばさんね、奈緒人の本当のお父さんのことが大好きなの。自分の生命よりも何より
も」
何を言ってるのよ。
奈緒の話を聞けるのかと思っていたのに、麻紀おばさんの話は斜め上を行くものだった。
離婚して鈴木のおじさまと再婚したというのに、おばさんはまだ前父である奈緒人さんの
ことが好きだと言う。根拠のない話だったけど、何となくあたしは麻紀おばさんと怜奈叔
母さんは鈴木のおじさまを取り合ってのではないかと考えていたのだ。
最初は鈴木のおじさまと結婚した怜奈叔母さんの勝ち。それから麻紀おばさんが奈緒人
さんのパパと結婚しているにも関わらず、鈴木のおじさまと不倫の関係になり怜奈叔母さ
んからおじさまを奪って再婚する。
あたしは大まかな筋書きはこんなところだろうと思っていた。
「有希ちゃんは好きな男の子がいるの?」
「・・・・・・別に。いないけど」
「そうなんだ。好きな子ができればわかるよ。恋愛って本当に大事なことなのよ」
なんだかよくわからない。奈緒の話によればおばさんは奈緒の交友関係にはすごく口う
るさいということだ。男女の付き合いなんて、単なる友情だけだとしても奈緒に対しては
絶対に許さないくらいに。その麻紀おばさんが恋愛に対して肯定的な話をするなんて。
「ふふ。有希ちゃんって奈緒よりだいぶ大人なんだと思ってたけど、あなたもまだ恋愛の
こととかよくわかってないのね」
あたしが小学生の頃に既に処女ではないこととか、今では既に失われてしまったパパに
対する愛情とか、遊び半分で池山に抱かれてあげたこととか。この箱入りの麻紀おばさん
には理解すらできないだろうに。何でそんなに上から目線で話せるのだろう。
「有希ちゃんってまだ子どもなのね」
おばさんが微笑んだ。あたしのことなんか何にも知らないくせに。パパも含めてあたし
の家ではもはやあたしを子ども扱いする人なんかいない。おばさんはあたしのことを知ら
ないからそんなのん気なことを言えるのだ。あたしがその気になって一言言えばおばさん
さんの身体だって、この家庭だってすぐに崩壊させることができるのに。
「わかったよ。あたしは子どもです。でも、それよりお話の方はどうなったの」
「うん」
おばさんはまた紅茶を一口飲んで言った。
「怜菜はね、あたしの親友だったの。今にして思うとあたしが一方的にそう考えていただ
けなのかもしれないけど」
おばさんがカップをソーサーに戻して唐突に話し始めた。あたしはもう何も言わずにお
ばさんの話を聞こうとしていた。それが当初の目的だったから。
「有希ちゃんはさ、本当に親しい女の子の友だちっていっぱいいる?」
そう言われてみると心もとない。奈緒が本当に親しい友人ではなくなってしまったとし
たら、あたしにはそんな子は一人もいなかった。今さらだけどあたしには仲のいい友だち
なんていないのだとこのとき気が付いた。
おばさんはあたしの返事を待たなかった。
「おばさんにはね。大学に入った頃、怜奈以外には仲のいい友だちなんかいなかったの
ね」
「うん」
こんな綺麗で優しいおばさんがぼっちだったというのは意外だった。容姿やピアノの技
術、家事の能力などからあたしは今まで恵まれたリア充の典型だと思っていたのだ。
「怜奈は、有希ちゃんの叔母さんはとっても人気があったし知り合いも多かったんだけど、
何でかなあ。あまり友だちのいないあたしといつも一緒にいてくれたのね」
「あなたの叔母さんはね、本当に綺麗な人だったんだよ。別に綺麗って見た目だけじゃな
くてね。何て言えばいいのかなあ。考えとか行動とかを含めて、本当に天使みたいな女の
子だったなあ」
麻紀おばさんは、もうあたしのことなんか気にすることはなく自分語りを続けた。おば
さんがなんであたしなんかに自分の秘密を打ち明けようと思ったのかはわからない。ひょ
っとして、何かの意図があってあたしを自分の駒にしようと思ったのかもしれない。でも、
おばさんの意図がどうあれあたしにとっては知りたいことがわかるのだ。あたしのオペ
レーションにとって必要な情報が得られるのかもしれないのだ。
「怜菜は大学時代のあたしにできたただ一人の友だち、親友だったの」
麻紀おばさんはあたしの様子を全く気にすることなく話を続けた。
た。
「最初に怜奈を裏切っちゃったのはあたしの方なんだけど、結局あたしは怜奈に復讐され
ちゃったのね」
おばさんが語り出した話は興味深いものだった。怜奈叔母さんのことをあたしはほとん
ど知らなかった。パパのデスクに飾ってある写真の叔母さんは綺麗な人だった。でも怜奈
叔母さんの性格や交友関係、それに何で叔母さんが鈴木のおじさまと結婚しパパに黙って
離婚して奈緒を出産したのか、そのあたりの事情を含めてあたしは叔母さんについては何
も聞かされていなかったのだ。あたしはもう黙って固唾を飲んで麻紀おばさんの話しに聞
き入った。
「有希ちゃん、奈緒人のことは知っている?」
「あ・・・・・・、うん。最近、奈緒ちゃんと知り合った男の子でしょ。確か、明徳高校の一年
生の人」
「奈緒から聞いてたのね。その奈緒人ってね。あたしの息子なの。訳あって父親に引き取
られちゃったんだけど、あたしにとっては誰よりも大切な子」
「誰よりって・・・・・・。奈緒ちゃんや鈴木のおじさまよりも大切なの?」
「ああ、そうね。誰よりもというのはちょっと大袈裟だったね。正確に言うと博人さんと
奈緒、それに奈緒人があたしにとっては誰よりも大切なの」
麻紀おばさんは自分の旦那である鈴木のおじさまの名前を出さなかった。
「まあ、それでね。最初はあたしのせいだったのよ。せっかく怜奈がいつも一緒にいてく
れたのに、彼女を裏切っちゃったの」
おばさんは笑った。おばさんにとってこの告白がつらい想いの発露なのか、それとも既
におばさんの中では昇華された過去のいい思い出になっているのかあたしには判断しかね
た。
麻紀おばさんと怜奈叔母さんは大学に入ってすぐ、ほぼ同時に一人の男に恋をした。麻
紀おばさんも怜奈叔母さんも(少なくとも残された写真から判断する限りでは)とても綺
麗だった。写真の中の怜奈叔母さんの服装は今から見ると何だけ少し時代遅れのように感
じられたけど、当時の男性から見ればきっと魅力的なのだったろう。その二人が大学入学
直後に、あまり冴えない東洋音大の先輩を好きになった。
最初に勝利を収めたのは、なり振り構わず博人さんにアタックした麻紀おばさんの方だ
ったらしい。博人さんを手に入れたおばさんは、怜奈叔母さんから自分の彼氏をブロック
しようとしたのだと言う。麻紀おばさんはぼっちの自分といつも一緒にいてくれた怜奈叔
母さんを避けるようになった。博人さんを怜奈叔母さんに会わせないようにするために。
それは麻紀おばさんにとって心の負担となった。それでも自分の唯一の女友だちから彼
氏を遮断した麻紀おばさんの作戦は成功した。奈緒人さんのパパの博人さんも麻紀おばさ
んに惹かれるようになり、やがて二人は同棲を経て結婚に至った。
「怜菜はね、披露宴の始まる前にあたしに会いに来てくれて、あたしのウエディングドレ
スを見て、麻紀きれいって言ってくれたの」
少しだけ湿った声で麻紀おばさんはあたしに言った。
その後、麻紀おばさんは奈緒人さんを出産する。あたしの予想は完全に間違っていた。
麻季おばさんと怜奈叔母さんは鈴木のおじさまを取り合ったのではない。奈緒人さんのパ
パを取り合っていたのだ。
それでも疑問点は多かった。怜奈叔母さんは奈緒人さんのパパを諦めて鈴木のおじさま
と結婚したのだろう。それでも怜奈叔母さんは奈緒の出産直前におじさんと離婚したのは
なぜか。それに怜奈叔母さんに勝って本当に愛していたという奈緒人さんのパパを手に入
れた麻紀おばさんは、いったい何で離婚して、鈴木のおじさまと再婚なんてしたのだろう。
あたしは混乱したけど、きっと今日は麻紀おばさんが全てを語って語ってくれることを
期待して黙っておばさんが話を再開するのを待った。
今日は以上です
もう少しこちらの更新を続けたら女神の更新に戻ります
乙!
それから二時間かけてあたしは麻紀おばさんの話を聞いた。最初はこんなどろどろした
話を娘の友だちの中学生にするかという気がしないでもなかったけど、聞いているうちに
あたしは麻紀おばさんの話にのめりこんでいった。それは、今ではいい年の大人たちがか
つて愛憎をぶつけ合っていた話だ。結局、あたしも奈緒も奈緒人さんもその愛憎劇の尻拭
いをさせられているのかもしれない。親の因果が子に報いる・・・・・・。あたしはおばさんの
話に集中しながらも頭の片隅で何となくそんなことを考えていた。
何だかあたしはむかついた。考えるほど麻紀おばさんの話は理不尽なことのように思え
てくる。
あたしがパパに傷つけられたのも、奈緒が奈緒人さんへの愛情に悩んでいるのも、全部
大人たちの昔の非常識な行為の結果だったらしいのだから。そうと思うと何だか無性に腹
が立つ。
これではまるで親たちの世代の相克をあたしたちが引き受けているのと同じだ。これで
はあたしたち自身のアイデンティティなんでまるでないのと同じじゃないか。
あたしはそんなことに踊らされない。自分の意思で行動する。パパを裏切ることはあた
し自身が破滅に至る道のりなのかもしれない。パパのアシストがなければ正直言ってあた
しのはねっかえりの商売なんか成り立たない。そんなことは最初からわかっていた。それ
でもついにこのときがきた今、あたしは躊躇しなかった。
「今でもおばさんにもわからないの。おばさんが本当に悩んだことは、怜奈と奈緒人さん
がお互いに惹かれあったことなのかどうかって。でも確かなことは、もうこれ以上怜菜の
思うようにはさせないって思った自分の決心だけだった。それだけを考えて今まで生きて
きたのよ」
怜奈叔母さんは本当に事故死ではなく自殺したのだろうか。おばさんの話で一番衝撃的
だったのはこの部分だった。パパにはそんなことを聞いたことがない。そして、怜奈叔母
さんは非常識にも自分の切ない想いを本当に自分の娘に、奈緒に託したのだろうか。
それが麻紀おばさんの妄想だったらいい。あたしはそう思った。普通に考えたら麻紀お
ばさんの被害妄想も行き過ぎているというしかない。でも、それにしては奈緒と奈緒人で
の出会いといい結果的に二人がお互いに求め合っている現状といい、おばさんの妄想とし
て片付けてしまうにはできすぎている。
パパと奈緒への復讐にもう少しだけましな理由を付け加えることができそうだ。それは
大人たちからの因縁から自分たちを開放するということだった。おばさんの話を聞きなが
らあたしはそういうことを考えていた。人間とは弱い者なのだから、何をするにしても大
義名分というのは必要だ。あたしのようにたいていの常識を無視できる人間にとっても。
「・・・・・・結局怜菜は何も話さずに亡くなっちゃったのよね。残されたあたしたちはは彼女
の意図を一生懸命探ろうとして右往左往するばかりだったのね」
おばさんが自嘲的に笑った。「そんなことで悩んじゃって、あたしは博人君ともぎくし
ゃくしちゃった。正直、それこそが怜菜の目的なんじゃないかって思ったこともあった
よ」
「それにしても自分の娘と奈緒人さんに希望を託すなんて、そんなひどいことを怜奈叔母
さんが考えたなんて」
あたしはおばさんに言った。
おばさんにはそうは言ったけど、そういう「ひどい」ことは、あたしやパパなら平気で
できそうではある。というか現に他人の気持や被害を考慮しないビジネスでパパは成功し
ていたし、あたしも中学生にして同じことをしている。
血は水よりも濃いというのが本当なら、パパとあたしと同じ血が流れている怜奈おばさ
んはパパや奈緒人さんが信じているような聖女なんかではなかったのかもしれない。その
仮定が正しいとすると、パパの何十年にも及ぶ妹への切ない片想いは意味を失うかもしれ
ない。
そこまで考えついていたあたしはわざと鈍い普通の女の子を装って、信じられないって
いう表情をおばさんに見せた。
「パパから聞いている怜奈叔母さんはそんなひどいことをする人じゃないよ」
「まあ、今となってはわからないけどね。でもあのときは眠れないくらい悩んだよ」
「・・・・・・そんなに悩むくらいなら最初から奈緒ちゃんなんか引き取ったりしなければよか
ったんじゃないの?」
奈緒ちゃんなんか。
親友の奈緒に対する言葉としては自分でも冷たいものだったと思うけど、自分語りモー
ドに入った麻紀おばさんはあたしの様子には気が付かなかったみたいだ。
「話が前後してわかりづらいと思うけど、最初はあたしだって怜奈への罪の意識でいっぱ
いだったのよ。博人さんと怜菜は関係を持ったわけじゃないし、むしろあたしが今の旦那
を怜奈から奪ったというのに、怜菜はあたしのことを恨んでなかったみたいだし」
「それが何で奈緒ちゃんに奈緒人さんや彼のお父さんを盗られるなんて思うようになった
の」
「それはね」
おばさんは何も隠すつもりはないようだった。
「最初はよかったのよ。博人さんはあたしの浮気を許してくれたし、奈緒は家族に馴染ん
でくれたし」
おばさんが続けた。
数時間にも及ぶ時間、ひたすら麻紀おばさんの話を聞かされて全容を把握したあたしは、
混乱しながら奈緒の家を出た。
愛情や憎悪、そして無理解と誤解。嫉妬。
そういう人間同士の感情の相克については、あたしは何となく若い男女の特権だと思い
込んでいた。もちろんパパの怜奈叔母さんに対する歪んだ愛情や、実の娘であるあたしに
対する冷酷な情欲について忘れたわけではなかったけど、それは変態的な嗜好をもつパパ
の特殊で例外的なケースだと考えていた。
でも事実はそうではなかった。過去の登場人物たちはみな普通の人たちだったのだけど、
その普通の人たちはいろいろと感情をぶつけ合って軋轢を生じさせ、結果として罪のない
自分たちの子どもたちの生活を歪めてしまったのだ。
あたしは他者を気遣うことなくひどいビジネスを運営している。自分の感情を逆なです
る人やあたし自身の利益に反する人に対して、容赦したことはない。さすがに無関係の人
間を巻き込むことはなかったけど、不用意にあたしのビジネスに踏み込んでくるような人
間に対しては、それが善意の大人の女であっても襲わせるような指示を気に病むことすら
なく出してきた。
そのことに全く罪の意識がなかったかというとそれは微妙だった。ためらいこそしなか
ったけど、何の感慨もなく冷酷に遂行してきたわけではない。むしろそのことに怯む自分
を一生懸命に宥めながらここまで来たという方が正しいかもしれない。
でも今でははっきりと目が覚めた。直接的な暴力に訴えないにしても、普通の生活を送
っている普通の人が、自分の感情を救うためにどれだけ残酷になれるかという実例をあた
しは麻紀おばさんから聞かされたのだ。
麻紀おばさんの行動は徹頭徹尾身勝手なものだった。そして麻紀おばさんの話が真実で
あるなら、怜奈叔母さんや鈴木のおじさまの行動だってそうだ。
彼らの行動によって奈緒と奈緒人さんの人生は狂わされた。そもそも奈緒と奈緒人さん
が別れがたいほどに惹かれあう兄妹になったことすら、おばさんとおじさまの身勝手な行
為の結果なのだけど、この二人はそれにとどまらず奈緒と奈緒人さんを残酷に引き剥がし
た。
あたしやパパのような選ばれた人間だけが世間体を気にしない行動をとれると思ってい
たのだけど、世界はそんな単純な原理で構成されてはいなかった。今のあたしたちの人間
関係は、善意に溢れ尊敬すべき人物に見えている麻紀おばさんたちのエゴによる行動の結
果だったのだ。
麻紀おばさんの家で過ごした数時間はそう理解できただけでも無駄ではなかった。
それでパパや奈緒に対する復讐を遂げる方法はだいぶ明確になっていた。それにその行
動によって罪のない人を巻き込む心配なんてなかったのだ。なぜならあたしがターゲット
として想定している範囲には罪のない人なんて最初からいなかったことがわかったのだか
ら。
いや、そうでもないか。あたしはこのときどういうわけかこれまで失念していたことを
思い出した。それは奈緒人さんや結城家の人たちのことだった。
奈緒人さんのパパは麻紀おばさんに浮気され、それでもそれを許そうと頑張っている最
中に怜奈叔母さんに心を奪われた。それでも彼は自分を律しその関係を深みに導こうとは
しなかった。彼が怜奈叔母さんを選んでいたとしたら、叔母さんも当然その気持に喜んで
応えていただろう。麻紀おばさんによればそれが怜奈叔母さんの当初からの目的だったか
ら。でも現実には怜奈叔母さんはその目的を果たすことはできなかった。
明日香のママ、つまり奈緒人さんのパパと再婚した女性は、奈緒人さんのパパの幼馴染
で大学時代から彼を狙っていたらしい。彼女は麻季おばさんと奈緒人さんのパパの破談に
よって、期せずして自分の恋心を満たすことができた。
この二人についてはこれだけだ。あたしの今後の行動によって罰せられる理由などない。
つまりこの二人には何の罪もないのだ。たまたまおばさんたちの悪意ある行動の結果、偶
然かどうかはわからないけど幸福な家庭を築いてしまったというだけで。
罪がないという意味では奈緒人さんもそうだった。むしろ彼は被害者だった。
でももうしかたない。この人たちを巻き込むことを恐れていては復讐なんてできない。
そういう意味では奈緒にだって悪意はないのだ。彼女の罪は、怜奈叔母さんの娘であり叔
母さんが亡くなった後、パパの一番大切な女の子だということだけだった。それは奈緒自
身には全く責任のないことなのだ。それでもあたしは奈緒に責任を取らせようとしている。
とりあえず明日香に電話しよう。あたしはそう思った。明日香の罪は明白だった。あた
しを自分の身勝手な恋情の手段として利用しようとしたのだから。それに明日香は冷酷な
性格だ。奈緒人さんと引き剥がすためなら、池山に彼女をレイプするように言い付けても
気に止まないくらいに。ある意味、明日香とあたしは同類だ。明日香とあたしの差は頭の
良さの差だけなのかもしれない。
明日香に、奈緒と奈緒人さんは本当は実の兄妹ではないことを伝えよう。つまり明日香
さえ身を引けばお互いに求め合っている二人は結ばれるのだと明日香に理解させよう。
明日香が自分の言っているように本当に奈緒人さんのことを愛しているならば、彼のこ
とを考えて自ら身を引くだろう。それを見極めることが、あたしの復讐の第一歩になるか
もしれない。
水族館で盛り上がらないデートをした翌日になっても明日香の態度は変わらなかった。
いったい明日香に何があったのだろう。奈緒や玲子叔母さんに対する僕のふらふらした
煮え切らない態度や池山の容態。それらは明日香の心の負担になっていたことは間違いは
ない。でも、身勝手に言えばそれは昨日はじまった話ではない。そういうことを乗り越え
て明日香と結ばれたのだと、僕は考えていた。
それ以外に明日香を怒らせたり明日香が不安を覚えるようなことがあったのだろうか。
今日は日曜日の朝七時だから、まだ明日香が起きてこないのはいつものことだった。明
日香が起きてきて顔を合わせるのがつらい。
明日香が起きるまでの間、僕は必死に考えた。それでも考え得る限りでは、明日香を怒
らせたり心配させたりするような行動は自分では思い付かなかった。
「おはよ」
明日香がそう言ってリビングに入って来た。少し寝癖が付いた髪の毛や乱れたスウェッ
ト姿。そんな妹は可愛かった。ただ、その表情は昨日と同じでいつもの明日香の元気で積
極的な様子は全くない。
「おはよう明日香」
僕はそう答えたのだけど、明日香は僕の方を見もしなかった。
「朝ごはん食べる? 何か作ろうか」
「いい」
僕の申し出は一瞬で拒否されてしまった。
「じゃあコーヒーを入れるよ」
「いらない」
「紅茶にしようか?」
明日香は返事もせずにソファに座ってリモコンでテレビのスイッチを入れた。朝の天気
予報がリビングに流れ出した。
「せっかくの日曜日なのに今日はこれから雨か」
「・・・・・・そうみたいね」
相変わらず僕と目を合わせずに明日香は答えた。
それでも話しかけた言葉に反応してくれたことが嬉しかった僕は話を続けた。
「今日の予定は?」
明日香は答えてくれない。
「雨だけどせっかくの日曜日だしどっか遊びに行く? どうせお昼ご飯だって食べなきゃ
いけないしさ」
「今日はママたちお昼前に帰ってくるって」
明日香がそれだけ言った。
「そうなんだ。じゃあ午前中はゆっくりしようか。お昼は久し振りに母さんの手料理か
な」
「知らない」
・・・・・・もう無理だった。
「・・・・・・・いい加減にしろよ」
僕はなるべく怒りを抑えて冷静に話そうとした。でも幸か不幸か僕の感情はその言葉に
乗って外に迸り出てしまったみたいだ。そのせいか明日香は初めて僕と目を合わせた。
「何かおまえの気に障ることしたのか? それはいっぱいおまえに心配かけてきたけど、
今は明日香だけだって言ったじゃないか」
「・・・・・・そんなのわかってるよ」
「じゃあ、何で昨日からそんなにふさぎこんでるんだよ。僕の思い違いじゃなければ、僕
はおまえにプロポーズしたよな? それでおまえもそれを受け入れてくれたんだろ。それ
なのにそれが結婚を約束した相手に対するおまえの態度なの?」
このとき僕は不覚にも涙を浮べてしまったようだった。それがよかったのかもしれない。
明日香が昨日以来初めて心を開いてくれたのだ。
でも、それは聞かなかった方がよかったという類いの話だった。
「ごめん、お兄ちゃん」
明日香がぽつりと言った。
「・・・・・・本当に何で? 僕のこと嫌いになったのならそう言ってくれよ。そしたら寂しい
けど僕だっておまえのことを諦めるから」
「それくらいで諦めちゃうの?」
明日香が言った。さっきと違って今度は明日香の目に涙が浮かんでいた。
「いや、今のは取り消し。僕はおまえのことを諦めない。・・・・・・本当に嫌いになったの
か?」
「なってないよ」
明日香が突然僕に抱きついた。「嫌いになんてなるわけないじゃん」
僕は明日香の身体を抱き返した。明日香の嗚咽が近いところから聞こえる。
「本当にどうしたの?」
「・・・・・・あたし、自分が嫌だ。お兄ちゃんの彼女なのに。お兄ちゃんの婚約者になれたの
に」
「何が嫌なんだよ」
このとき泣いている明日香には悪いけど、僕はようやくほっとしていた。この様子では
僕は明日香に嫌われたわけではないらしい。もちろん明日香に悩みがあるのはわかってい
たけど、それを打ち明けてくれれば、僕たちなら一緒に乗り越えられると思ったからだ。
「大好きだよ明日香」
僕の腕の中で明日香が震えた。
「あたしも」
「悩んでいるなら聞かせてくれよ。一緒に考えて乗り越えようよ」
「自分が嫌なの。お兄ちゃんに教えてあげなくちゃって思いながらも、もしもそれでお兄
ちゃんに振られたらって思って恐くて。そんなことを考えて、お兄ちゃんに隠しごとして
いる自分が嫌なの」
「僕は明日香のこと振らないよ。むしろ、おまえに振られるんじゃないかって気が気じゃ
ないんだから」
僕は明日香に笑って見せた。明日香は僕の腕の中で少しだけためらっているようだった。
「明日香?」
明日香はようやく途切れ途切れに小さな声で話し出した。
「有希から電話で教えてもらったの。お兄ちゃんと奈緒は実は本当の兄妹じゃないって。
二人は血は繋がってないって。お兄ちゃんと奈緒は付き合おうと思えば付き合えるんだよ
って」
今日は以上です
乙
今朝、いつもの電車で僕は奈緒と落ち合って一緒に登校した。
土曜日にはピアノ教室に行かなかったから、奈緒から実の兄でも僕が好きだと言われた
とき以降彼女に会うのは初めてだった。奈緒はスクールバッグを片方の肩にかけ、手には
何やら紙バッグをさげている。
「おはようお兄ちゃん」
奈緒ははにかんだように微笑んで僕に言った。悲壮な顔で実の兄である僕への愛情を語
ったあのときの表情は全く残っていない。彼女はいろいろとふっ切れたようだった。
「おはよう奈緒」
「今日も天気がよくないね。お兄ちゃん、寒くないの?」
「ちょっと寒いけど、でも平気だよ」
「あの」
奈緒が僕から目を逸らして言った。「あたしはあまり寒くないし」
「うん?」
「よかったらだけど。あの、このマフラー巻いてくれる?」
それで奈緒が片手に下げていたバッグから綺麗に折りたたまれたマフラーを取り出した。
「これって・・・・・・」
「先月のクリスマスのプレゼント用に編んでたんだけど、あたしのレッスンのせいでお兄
ちゃんに渡せなくて」
奈緒はにっこりと笑って僕の首にチェック柄のマフラーを巻いた。編み物にはうとい僕
だけど、編み物でチェック柄を作り出すことの難しさは何となく想像が付く。いったいこ
のマフラーを編むために奈緒はどれくらいの時間をピアノのレッスンから割いたのだろう。
というかマフラーを編むのに時間を割くらいなら僕と会ってもよかったのじゃないか。
冬休み前後はピアノの集中レッスンのせいで奈緒にデートを断られていた僕はふとそう思
ったけど、今はそんなことはどうでもいい。
『有希から電話で教えてもらったの。お兄ちゃんと奈緒は実は本当の兄妹じゃないって。
二人は血は繋がってないって。お兄ちゃんと奈緒は付き合おうと思えば付き合えるんだよ
って』
『冗談だろ・・・・・・』
『冗談ならよかったのにね』
僕の腕での中で悲しそうに僕を見上げた明日香の切ない表情。
『明日香にこんな話しちゃってごめね。あたし、奈緒のママから聞いちゃったの』
『あたしも動揺して誰かに話したくて』
『奈緒の本当のママって、怜奈叔母さんなんだって』
『ああ、明日香は知らないよね。あたしのパパの妹だよ。あたしが生まれた年に、奈緒を
産んでそして事故死しちゃったあたしの叔母さん』
『・・・・・・どういうこと』
『あなたの今のパパと麻紀おばさんは怜奈叔母さんの死んだあと、奈緒を引き取って奈緒
人さんと一緒に育てたんだって』
『・・・・・・じゃ、じゃあ』
『うん、そうよ。奈緒と奈緒人さんの間には全く血が繋がっていないの』
「お兄ちゃん、暖かい?」
僕は無理に奈緒に微笑みかけた。
「うん、暖かいよ」
「そうか。よかった。見た目は悪いかもしれないけど、風邪をひくよりはいいよね」
「ありがとう。っていうかごめん」
「ごめんって何で?」
「奈緒へのプレゼント用意してないや」
「ああ」
奈緒が微笑んだ。「しかたないよ。あたしがイブには会えないってお兄ちゃんの誘いを
断ったんだから」
「今度埋め合わせさせてよ」
「別にいいのに・・・・・・。でも嬉しい」
『お兄ちゃんが実の妹と付き合ったことを知ったら傷付くだろうって。それだけを
考えてたのにね。あたし、ばかみたいだよね』
明日香の湿った声。
『あたしのしたことは全部余計なことだったんだね。お兄ちゃんも博之にも迷惑かけちゃ
った』
『そんなことは・・・・・・』
ないって言おうとしたけど客観的に言えば明日香の言うとおりだった。
『あたしが余計なことをしなければ、お兄ちゃんはあんなつらい思いをすることはなかっ
たし、奈緒とは今でも』
僕は腕の中にいる明日香を慰めようと思った。こいつは今では僕のフィアンセなのだ。
第一に女帝疑惑のある有希が、善意から明日香に本当のことを言ったかどうかなんてに
わかには信じられない。そして第二にたとえ結果として明日香が僕と奈緒の仲を邪魔した
動機が間違いだったとしても、それは悪意ではなく単なる勘違いによるものだ。それもど
う考えても無理のない勘違いだ。
だから僕は昨晩、混乱し震えている明日香をずっと抱きしめていた。ずっとぐずってい
た明日香は夜中になるとようやく僕の腕の中で眠りについた。今夜は帰ってくるはずの両
親は帰宅しなかった。
今朝の明日香の態度はいつもどおりだった。結局、僕たちはリビングのソファで不自由
な姿勢のまま抱き合いながら朝を迎えた。窓越しに射し込む陰鬱な冬の陽光に起こされた
僕たちは、もう昨夜の話題を蒸し返さなかった。明日香が甲斐甲斐しく用意してくれた
(でも焦げていて苦かった)ハムエッグを食べた僕は、奈緒との約束の時間ぎりぎりに家
を出た。明日香にも、このあと僕がいつものように奈緒と一緒に登校することはわかって
いたはずだけど、彼女はそのことについては何も言わなかった。
「いってらっしゃい」
明日香が僕に言った。
「うん」
僕は明日香を抱きしめてキスしようとした。明日香は僕を避けなかったけど、積極的に
応じようともせずただされるままになっていた。何となく行き場を失った手を下ろしなが
ら僕は家を後にした。
奈緒の編んでくれたマフラーは、駅から外に出た僕の首を寒気から守ってくれた。
僕は明日香のこと振らないよ。
僕は明日香にそう言った。その決心は奈緒と顔を会わせた今でも変っていないと思いた
かった。明日香のことをずっと大切にして行こうと思ったそのときの気持は変わっていな
い。奈緒と別れたかれたことに対して、明日香を責めようとは思わなかった。明日香には
悪意はないどころか、純粋に僕のことを考えて行動してくれた結果なのだから。
だけどそれだけでこの話を割り切れるかというとそんなことはなかった。明日香の前で
は表情に出さないようにしていたけど、僕の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
明日香に告白する前の僕は奈緒のことが本気で好きだったし、奈緒も僕が好きだと言っ
てくれた。明日香の善意の行動のせいで僕は結果的に奈緒が自分の実の妹だと思い込み、
奈緒のことを諦め忘れることにしたのだ。
ただ、奈緒が僕のことを実の兄だと気がついたのは別に明日香とは関係ない。僕の名前
を聞いて、この人は昔つらい別れを強いられたお兄ちゃんなんだって奈緒は気がついた。
それでもなお、奈緒はそれでも僕と付き合い続けたいと考えた。
こんな状況に至った原因は明日香というよりは過去にある。奈緒には僕と違って一緒に
暮らしていた頃の記憶があるらしいけど、それでも奈緒には遡って僕と一緒に暮らし始め
た頃の記憶まではなかったようだ。
奈緒が真実を知ったらどうするのだろう。実の兄とでもいいと言い切った彼女だけど、
実際にそれを貫くほどの覚悟はなかったのではないか。だから、奈緒は妥協して僕とは仲
のいい兄妹であることに満足しようとしているのだ。
あのとき奈緒は言った。
『お願いだからあまり悩まないで。お兄ちゃんが明日香ちゃんのことを好きになったのな
らそれでもいいから。さっきお兄ちゃんが言ってたじゃない? あたしが妹だとわかる前
だったら明日香ちゃんのことは振っていたって。あたしにはそれだけで十分だから。これ
以上お兄ちゃんに何かしてほしいとか望まないから』
奈緒が真実を知ったらどうするのだろう。
再び僕は考えた。明日香への誓いを何度も繰り返した僕には、当然ながら奈緒に真実を
告げるなどという選択肢はなかった。むしろ知られては困る。でも、あの女帝がわざわざ
明日香にこんな話を告げ口してくることに何らかの意味があることは明白だった。このま
ま静かなままでいられるとは思えない。僕がこの秘密を胸にしまって明日香に口止めした
としても、その情報の大本は有希なのだ。彼女が何らかの理由でこのことを知り合いに話
したり、あるいは奈緒自身に直接話したりしたら。
さらに言えば、明日香と奈緒との関係のことはひとまず置いておくにしても、過去の記
憶に乏しい僕には、今までになかった欲求が湧き出してきてもいた。これまでは今がよけ
ればいいというか、今を凌げればいいと考えるだけで精一杯だった。
でも僕と奈緒の関係や過去の出来事について、ここまで二転三転する情報を聞かされる
と、さすがに過去のことを知りたいという欲求も胸の奥から生じてくる。
僕と奈緒は、過去のいったいどういう出来事の結果一緒に育てられ、兄妹して育てられ
たのか、そしてどういう状況の中で引き離されたのか。僕はそのことを知りたい。自分で
思い出せれば一番いいのだろうけど、苦労して心の奥を探っても何も役に立つ記憶は見つ
からない。
そんなことを考えたのは初めてだった。奈緒には全てを秘密にして現状の関係を守る。
明日香の気持を悩ませずようやく落ち着いてきた奈緒の気持を平静に保つためにはそれし
かない。有希のことはさておきそれを考慮すれば自分の好奇心なんか抑えるべきだったろ
う。でも、一度気になってしまった自分の過去への興味はなかなか収まりがつかなかった。
過去を知るためには具体的にどうすればいいのか、僕にはよくわからなかった。
・・・・・・これからどうしよう。校門をくぐりながら僕は思った。
校門から入ってくる僕に気づくと兄友と女さんが僕の方に来た。
「この間は悪かったな」
兄友が僕に話しかけてきた。
「いや」
とりあえず僕はそう返した。
「本当にごめんね? 奈緒ちゃんのことがかわいそうだったから、つい厳しいこと言っち
ゃったけど奈緒人君が女性慣れしてないせいだとか、言わなくても良いことを言っちゃっ
た」
女さんもしおれた声で僕に謝ってくれた。
それこそ言わなくても良いことだと思ったけど、本気で悪いと思っていることは感じた
ので僕はもう彼らを恨みに思うのはやめようと思った。それに今の僕はそれどころではな
かったのだ。
「もういいよ。僕の方こそむきになってごめん」
「ううん。あたしたちが悪かったの。奈緒人君ごめんなさい」
気の強い女さんにしてはずいぶんと殊勝な態度だったから、僕はそのことに内心少し驚
いた。兄友もまるで不意をつかれたかのように女さんの方を見た。
「本気じゃなかったの。あたし、奈緒人君のことはよくわかってるつもりだし。君が女の
子にもてたからといって、いいい気になるような男の子じゃないなんて最初からわかって
た」
「あ、うん。わかってもらえたなら、僕は別に」
「あたし、ちょっと奈緒ちゃんと妹さんに嫉妬しちゃったのかな」
女さんがふふって笑った。そのときにはもう女さんの顔には申し分けそうな表情は消え
ていた。その微笑は、少しだけからかうようなそれでいて寂しいような複雑な笑いだった。
「あたしの方が君のことを振ったのに、何であたし奈緒人君にムカついたんだろ」
「な、何?」
「ふざけるなよ」
兄友が口を挟んだ。
「何よ」
「おまえってどこまで自分勝手なんだよ。今朝はただ奈緒人に謝るって二人で決めたじゃ
んかよ」
「だから謝ってるじゃん」
「奈緒人の彼女に嫉妬するって今言ったじゃねえか。おまえ奈緒人のこと好きだったのか
よ」
「好きだなんて一言も言ってないでしょ。あんたの方こそ何でみっともなく嫉妬してるの
よ」
「おまえ今言ったじゃねえか。奈緒ちゃんと明日香ちゃんに嫉妬しちゃったってよ」
「うるさいなあ。浮気しているあんたにそんなこと言える権利があるの」
「だから、誤解だって。だいたいよ、奈緒人は明日香ちゃんのことが好きなんだから
な。おまえなんかが割り込めるって思ってるならいい笑い者だぜ」
「うるさいなあ。そんなんじゃないって」
「じゃあ、何でだよ」
「浮気男には答える必要なんてありません。それに前に奈緒人君はあたしに告白してくれ
んだよ。ね? 奈緒人君」
何を言っているのだ。どうもこの二人の痴話げんかに巻き込まれているようだけど、僕
に謝るとか言いつつ痴話げんかを繰り広げるのはやめてほしい。それに僕が昔女さんに告
白したことはもう忘れて欲しかったのに。
「え・・・・・・? 奈緒人、おまえそれマジ?」
兄友が驚いたように言った。
「いや、その」
「あたし、失敗しちゃったなあ」
女さんが微笑みながら僕の腕に抱きついた。
「何?」
「あのとき、はいって答えていればこんな浮気男じゃなくて君と付き合えていたのにな
あ」
「・・・・・・くだらねえ。おまえの馬鹿な話になんか付き合っていられるか。奈緒人がおまえ
に告ったなんて知らなかったけど、どうせ昔の話だろ」
「そうよ。あんたと付き合う前だもん。文句を言われる筋合いなんかないよ」
「奈緒人、俺に気にすることないぞ。今でもこのビッチのことを好きなわけじゃないんだ
ろ?」
「うん。今まで黙ってて悪い。兄友と女さんが付き合い出す前だし、それに女さんには振
られたし」
「こんなことなら君のこと振らなきゃよかった」
「おまえは黙ってろ」
兄友はそう言い捨てて踵を返した。「奈緒人、この前は本当に悪かった。奈緒ちゃんで
も明日香ちゃんでもおまえが決めたとおりにすればいいよ。俺はどっちにしてもおまえを
応援するから」
兄友は女さんの方を見もしないで捨て台詞を吐いた。
「そんで、そこの馬鹿女の言うことは気にしなくていいからよ」
「おい」
僕のことも女さんの方も振り返らずに兄友が立ち去ると、女さんが僕の腕から手を離し
て俯いてしまった。
「ごめん」
ようやく女さんが小さな声で言った。
「いったい何があったの?」
兄友も女さんも僕への謝罪どころではないらしいことは理解できた。どうも二人の痴話
げんかの巻き添えを食ったみたいだ。二人は最初から本気で僕に謝る気があったのだろう
か。
僕はため息をついた。謝罪なんかいらないから放っておいて欲しかった。今の僕にはこ
の二人の仲を心配している余裕なんかない。
「兄友とけんかしちゃった」
やはりそうか。僕に謝るというより兄友への意趣返しのつもりで、女さんは僕に気があ
るような発言を繰り返していたのだろう。兄友の気を惹くために。以前の僕だったらその
屈辱に耐えられなかっただろうけど、明日香と奈緒のことや自分の過去のことで頭がいっ
ぱいだった今の僕には、女さんのその行動はひたすら面倒なだけだった。
「それならさ。僕のことなんか引き合いに出して兄友の気を惹くような真似をするよりか、
ちゃんと兄友と話し合ったほうがいいんじゃないの」
僕の言ったことは正論だったと思うけど、女さんは不思議そうに僕を見た。
「何かさ」
「うん?」
「何か・・・・・・奈緒人君ってわずかな間に本当に人が変わったね」
彼女の言葉に僕は意表をつかれた。というか基本的にヘタレで流されやすい性格は昔と
変わっていないと自分では思っていた。奈緒のことも明日香のことも玲子おばさんのこと
だって。
「そんなことないと思うけどな」
女さんは真面目な顔で首を振った。
「ううん。ずいぶんと大人の男の人みたいになったよ。何があったのかは知らないけど」
「別に何もないんだけどな」
「前に奈緒人君があたしに告白してくれたことがあったじゃない?」
また、その話か。正直に言うとうんざりだった。僕はあのとき彼女に振られたことは自
分の中ではとうに消化していた。それは奈緒との出会いによるところが大きかったけど。
そして女さんも僕を振ったことを兄友にも誰にも喋らないでいてくれていたのに。今さら
何であの話を蒸し返されないといけないのだろう。
「あのさ。僕はそんなに君に悪いことをした? 君に振られてすぐにおとなしく引き下が
ったじゃん。付きまとったり未練がましいこともしなかったはずだけど。何で僕の告白の
ことを兄友への意趣返しに使われなきゃいけないの?」
「違うよ」
「だってさっき・・・・・・」
「告白してくれたときの奈緒人君が今の君だったら、あたしはきっと君の告白をOKした
と思うよ」
「何言ってるの・・・・・・」
思いがけない女さんの言葉に僕は狼狽した。
「嘘じゃないって」
女さんが顔を赤くして言った。
その言葉をそのまま受け取るほど僕は初心じゃない。それに、僕の好きな女の子は今で
は一人だけなのだ。かつては女さんに惚れていたことは確かだったけど、今ではそうじゃ
ない。
僕の好きな子は・・・・・・。
あれ?
僕の好きな女の子は明日香だ。僕は迷わず明日香の顔を思い浮かべなくてはいけなかっ
たのに、そのとき頭の中には雨の日の高架下で初めて出会った奈緒の顔が浮かんでいた。
兄妹じゃないと知って混乱しているからだ。僕は自分にそう言い聞かせた。僕はあれだ
け何度も明日香に愛を囁いた。今朝だってそうした。過去を知りたいという欲求と、つら
い別れをしたらしい奈緒を求める欲求とを一緒にしてはいけない。
「僕のことなんかどうでもいいよ。告白なんて昔の話じゃない」
「君はもうあたしのことなんかそうやって割り切っているわけ?」
「割り切ってなきゃ君だって気持悪いでしょうが。女さんは兄友の彼女なんだから」
「・・・・・・だから、そうじゃなくて・・・・・・」
女さんの言葉は歯切れの悪いものだった。
「けんかっていったい兄友と何があったのさ? 君が変なことを言い出しているのだって
それが原因なんでしょ」
「それはそうだけど。でも、そのせいであたし、兄友の不誠実な態度に気がついたの。こ
んことなら君の告白に答えていた方が全然よかったなあって。君ならきっと自分の彼女に
こんなつらい想いをさせないだろうし」
「・・・・・・あのさあ」
でも一瞬、明日香と付き合っているのに抱きしめてキスした玲子叔母さんや、妹だと知
ったあとに、気持ちの悪い欲情しているような嫉妬じみた感覚を覚えた奈緒の姿が脳裏に
浮かんだ。
「わかってるよ。バカなこと言ってることは。でも、中学生の女の子なんかに言い寄られ
てほいほい浮気するような男のことなんかもう信じられない」
やっぱりそういうことだった。兄友は昔からもてていた。容姿と運動神経がいい上に成
績もいいとなれば当然だけど、あいつは入学した頃から女の子に告られまくっていた。で
も根はいいやつだった。ぼっちでオタクな僕なんかのことを本気で心配してくれるような
そんな性格だった。だから女の子だけではなく男にも人気があり、女さんは兄友のそんな
ところに惚れていたはずだった。
「何かあったの?」
僕は女さんの直接過ぎる告白をあえて無視して聞いた。
「何もないよ。ねえ? 君の方こそは明日香ちゃんとか奈緒ちゃんとかとぐちゃぐちゃに
なってるんじゃないの」
僕の心の中で起きていることを表現するには図星の言葉だった。
「そんなことないよ。僕は明日香と付き合っているしうまくいってる」
「そうかなあ。何か君の方も自信なさそうだね。今ならあたし、君と付き合ってあげても
いいかも」
このとき僕は、一時は本気で好きになった女さんに対して腹を立てた。
「兄友と何があった?」
僕は繰り返した。女さんがようやく俯きながら話し出した。
「あいつが浮気したのよ。いえ、もしかしたら浮気じゃなくて本気かもしれないけど」
「・・・・・・嘘だろ」
「本当だよ。中学生の女の子と」
「中学生? 誰」
「富士峰の中学生の女の子。太田有希っていう子」
女さんはそう言った。
放課後、下校しようと校門まで来た僕は校門前に女さんが立っている姿に気がついた。
「奈緒人君」
「君も今帰り?」
「うん」
「あれ? 今日は部活ない日じゃなかった?」
うちの学校は進学校だったので、部活動は制限されている。土日祭日と平日のうち月曜
日と木曜日は教室や図書室での自習以外は下校しなければいけない。いつもなら今日は女
さんと兄友は一緒に下校デートをする日じゃないか。
「あいつ勝手に帰っちゃったし」
あんなに仲が良かった二人なのに、目の前の女さんは唇を噛んで俯いている。
「あのさ」
女さんが顔を上げ僕を見た。
「さっきはごめん。君にひどいこと言っちゃった」
「別に気にしてないけど」
「今日、何か用事ある?」
用事はある。真っ先に家に帰って明日香と一緒に過ごしたい。過去を探りたいという強
い欲求さえ明日香の側にいたいという気持ちに勝ることはない。僕は正直に明日香に会い
たいという気持ちを女さんに伝えた。
「そうだよね。ごめん」
「別に謝ってもらわなくてもいいけど。それよか、兄友と仲直りしなくていいの?」
「だって・・・・・・」
「・・・・・・泣かないでよ。君たちならすぐに仲直りできるって」
これだけ泣かれたら仕方がない。なるべく早く明日香のところに帰れるように祈るしか
ない。
「・・・・・・僕でよかったら話聞こうか」
濡れた瞳のままで女さんが顔を上げた。
「いいの?」
「うん」
「あたし、聞いちゃったの」
駅前のスタバで向かい合って座ると女さんは話し始めた。
「あいつを驚かせようと思ってさ。いつもと違う車両から電車に乗ったのね。そしたら明
徳駅から乗ってきた富士峰の中学生の女の子が兄友に話し掛けてて」
後ろから兄友を脅かそうと思っていた女さんは、思わず乗客の背中に隠れた。
『あの・・・・・・突然話しかけてすいません。明徳高校の兄友さんですよね』
顔を赤らめた可愛い子が兄友に話しかけていた。
『そうだけど』
『ごめんなさい。こんなところでいきなり』
『別にいいけど。俺に何か用?」
顔を赤くしたままその子が何かを兄友に話しかけた。電車が陸橋に差しかかり走行音が
大きくなったせいで二人の会話は聞こえなくなった。兄友が何かを彼女に話している姿だ
けが女さんの目にフォーカスされる。
二人の会話が聞こえなかった女さんはずっと兄友とその女の子を見つめていた。電車が
陸橋を抜けたおかげで、女さんは再び二人の会話を聞くことができた。
『有希ちゃんっていうんだ』
『はい。富士峰の中学二年です』
『有希ちゃんの気持ちは嬉しいけどさ。俺、彼女いるんだよね』
『構いません』
『へ?』
『その彼女さんとあたしを比べてもらいたいです。それで兄友さんがあたしの方が彼女さ
んより魅力がないと思われるなら、あたしは兄友さんのこと諦めます』
『いやさ。俺って浮気とか嫌いだし。二股とかぜってー無理だし』
『二股とかじゃなくて、あたしのことを知ってもらうだけでも駄目ですか?』
『いやさ・・・・・・』
『・・・・・・やっぱり女子校のお付き合いとかに慣れていない女なんかには興味がないんです
か』
『そんなこと言ってねえよ。俺の親友にも君の学校の中学生の女の子と付き合ってるやつ
がいるしさ。あいつら、いいカップルだって思ってるよ』
『それなら。一度、ゆっくりお話させてもらえませんか。二人でお話するだけでもいいん
です。前からこの電車でずっとあなたのことを見ていました。初めてお付き合いするなら
あなたがいいと思ったんです』
『いやさ。それ思い込みだから。女子校だから俺なんかがよく見えるだけじゃね? 富士
峰のお嬢様なんかと俺じゃ釣り合わねえしさ。もっと他に君にふさわしい男がそのうち現
われるって』
『だって、うちの生徒と兄友さんの親友が付き合っているって言ったじゃないですか。な
んでその人たちはよくてあたしと兄友さんは釣り合わないなんて言うんですか』
『いやだから俺には彼女がいるし』
そのあたりで明徳高校前駅に電車が着いたため、兄友は有希にじゃあねって言って電車
を降りたそうだ。
・・・・・・これって全然浮気じゃないじゃん。僕は女さんの話を聞いてそう思った。
今日は以上です
乙。遂に兄友にまで魔の手が…
「あのさ、それって全然浮気じゃないんじゃないの? 兄友はちゃんと有希さんという子
の誘いを断ってるんだし」
僕は少し呆れて彼女に言った。こんなことで疑われている兄友も気の毒だけど、何の関
係もないのに巻き込まれている僕も不幸だ。
「でもね。これまでだって兄友に告ってきた女の子は結構いたんだけど、あいつはほとん
ど無視に近いやり方で振ってくれてたんだよ。それなのに有希って子にはあんなにていね
いに相手をしてた。すごく純真で可愛い子だったし兄友も気になってるんだって思った」
「兄友は何って言ってるの?」
「『盗み聞きしてたなら何もないことはわかるだろ。俺はちゃんと彼女がいるからって断
ったぜ。それなのに何で即浮気認定されなきゃならねえんだよ』って。あいつあたしに謝
りもしないで勝手に逆切れしてるの」
それは逆切れじゃないんじゃないか。まあこんなことで不安になるほど女さんの兄友へ
の想いは深いのかもしれない。ちょっと行き過ぎの気はするけど。
「それで喧嘩しているの?」
「ううん。むかついたけど一応断ってはいたようだから仲直りしてあげたの。そしたらあ
いつ、そんなことよりも一緒に奈緒人に謝ろうぜって。こないだ言い過ぎちゃったからっ
て。あたしも君のことが気になってたんで、うんって言ったんだけど」
「それで今朝校門の前で二人で待ち構えていたのか」
「そうなの。でもあたしがちょっと君のことを気になっているって言っただけであいつ、
また逆切れだよ。君だって見てたでしょ? 兄友のひどい態度を」
「いや、ひどいっていうか」
あれで責められたら兄友がかわいそう過ぎる。僕は女さんの話を聞いてそう思った。女
さんはちょっと考えすぎなんじゃないか。
「それでこれからどうするの」
女さんが僕の方を見た。
「本当はわかっているの。あたしが大袈裟に騒ぎすぎていることは」
何だ自分でも理解できてるんじゃないか。僕はほっとした。少しだけ自分のプライドを
抑えて兄友に謝ればこの二人はすぐにでも仲直りできそうだ。
「それでも少し不公平だと思う。あいつが告られるたびに心配して夜も眠れなくなるのは
いつもあたしだもん。こんなのもうやだ」
「そう言われても・・・・・・。兄友のこと好きなんでしょ」
「・・・・・・うん」
「兄友だって女さんが一番好きだと思うよ。それさえ確かなら不公平とかそういうことは
ないんじゃないかなあ」
「そういうことを平気で言えちゃうのは、君が明日香ちゃんにも奈緒ちゃんにも好かれて
いるからだよ。自分が選べる立場だからそんなに余裕で奇麗ごとが言えるんだよ」
僕が選べる立場? 余裕があるって?
高校生になるまで女の子とろくに話したこともなく、告白されたこともなく、バレンタ
インデーには明日香にさえ何ももらえず、仕事が一段落したかあさんから一週間遅れで義
理チョコをもらえるだけだった僕に余裕がある? 母さんのほかにチョコをくれたのは玲
子叔母さんくらいだ。叔母さんだけは昔から僕のことを気にしてくれてたから。
「選べる立場って・・・・・・それ皮肉? 僕が女性にもてなかったことは君だって知っている
でしょ」
僕は弱々しく言った。この手の情けない話を女の子に話すのは本当に嫌だったけど。
女さんは不思議そうに僕を見た。
「さっきあたし君に言わなかったっけ」
「何を?」
「君は変わったって。今の君は昔の君と違うと思うよ。あたし君に言ったじゃん。あたし
に告白してくれたのが今の君だったらきっとOKしてたって」
「よくわからない」
僕は戸惑った。
「何でわからないの?」
「何でって・・・・・・人間ってそんなに簡単に変われるものじゃないし」
「経験は人の性格を変えることがあるんじゃないかなあ。誰もが憧れる奈緒ちゃんみたい
な可愛い子と付き合ったり、ちょっとツンデレの義理の妹さんからすごく愛されたりとか
したらさ、自分に余裕とか自信とか備わってくるんじゃない?」
「自分じゃわからないな。僕はただ流されているだけな気もするし。少なくとも兄友とか
女さんのように選べる立場なんかには立っていないのは確かだよ」
「無駄に自己評価が低いって誰かに言われたことない? それに兄友はともかくあたしは
そんな恵まれた立場の女じゃないよ」
それもまた偽善じゃないのか。女さんは明るい性格で誰とも気さくに話してくれるせい
もあって、男子生徒には人気があった。僕だって訳隔てなく僕に話しかけてくれる彼女に
憧れて、恥かしい告白に至ったのだし。ただ早い段階で兄友と付き合ったせいでちょっか
いを出せる男がいなかったということはあるかもしれない。
「君だって人気があるじゃん。僕だって君に告って振られたことがあったしさ」
そう言った僕の表情を女さんは観察するように見た。
「平然と言ってくれるね。今の君にはあたしなんかどうでもいいんでしょ? 奈緒ちゃん
とか明日香ちゃんみたいな可愛らしくて人気のある女の子が本気で君のことを奪い合って
いるんだもんね」
「そうじゃないって。つうか話が逸れてるよ。とにかく兄友は浮気なんかしていないし、
僕から見れば君のことが好きだとしか思えない。兄友が女の子に告白されたくらいで拗ね
るのは止めた方がいいよ」
「拗ねるって何よ。あたしにはわかるの。兄友があの有希って子のことが気になっている
ことくらい」
僕はため息をついた。これではきりがない。それにもうこんな時間だ。まっすぐに帰宅
していればもう明日香は帰宅している時間だ。早く明日香に会って彼女の不安を取り除く
努力をしたいのに。
「あのさあ。女さんは人の意見を聞く気がないみたいだし、とりあず今日は」
「し!」
「何・・・・・・?」
「いいから黙って」
女さんの視線を追うとカウンターで飲み物を注文している兄友の姿が目に入った。その
隣には有希が寄り添っていた。
結局女さんの直感が当たっていたのだろうか。
二人はまるで恋人同士のように甘く寄り添っていた。兄友が有希に何か聞くと、有希は
口を手で押さえて控え目に笑った。富士峰の中学部の制服に身を包んだ有希は、幼い可愛
らしさを残しながらも十分に恋する女の子の雰囲気を醸し出していた。後で並んでいる男
たちの視線が有希に集中しているみたいだ。
「ちょっと。気が付かれちゃうでしょ。少し顔を背けてよ」
女さんが身を寄せて低い声で囁いた。
「あ、悪い」
「だから声大きいって」
「・・・・・・でもさ。隠れてどうするんだよ」
「いいから」
浮気の証拠でも掴もうというのだろうか。女さんは二人から目を背けながらも必死でそ
の会話を聞こうとしているようだ。
スタバにはそれなりに客が入ってはいたけど、同じ店内で気づかれずに済むわけがない。
ちょっと店内を見回せばすぐにでもばれそうだ。
「声かけたほうがいいんじゃない?」
「だからちょっと黙ってて」
女さんが吐き捨てるように囁いた。
ドリンクを受け取った二人は僕たちからかなり近い席に向かい合って座った。具合よく
二人の席と僕たちの席の間に大きな観葉植物の鉢が置かれていたせいで、位置が近い割に
は気が付かれる可能性は低そうだった。
二人の声が聞こえてきた。兄友と有希さんはお互いの顔を見つめあいながら会話をして
いた。これならしばらくは気が付かれないですむかもしれない。
「無理言ってごめんなさい」
「いいけど・・・・・・。俺、今朝話したこと以外に話すことなんかないよ」
「うん。わかってるけど」
「じゃあ、何で? それに俺のメアドどうして知ってたの?」
「あたしの友だちが兄友さんの知り合いなの。それで無理言って教えてもらった」
「え? 誰」
「友だちっていうかカップルなんだけど。兄友さんと女さんと二組のカップルでよく遊び
に行ってたって聞いたことがあったから」
「だから誰なんだよ」
「あたし、兄友さんとお話したくて勇気を出してメールしたのに。兄友さんはそっちばっ
か気にしてる」
「だからあ。俺には大事な彼女がいるの。君がどうしてもって言うから来ただけじゃん」
女さんはそれを聞いて安心しただろうか。僕は女さんの表情を覗ったけど彼女は顔色を
変えず黙って会話を聞き入っているだけだ。
「だって・・・・・・」
「だっても何も・・・・・・って泣くなよ。話は聞くだけは聞くから。でもその前に誰から俺の
メアドを教わったのかを言えよ」
「あたしの知り合いのカップルなんですけど、その女の子の方があたしの親友で」
「誰だろ?」
「親友は明日香っていう同い年の女の子で、彼氏は池山さんっていう高校生の人です」
「え? 有希ちゃんって池山と明日香ちゃんの知り合いだったの?」
「はい。明日香とは親友です。明日香の彼の池山さんとも何度か会ったことがあります」
「まじかよ。富士峰のお嬢様が池山の知り合い? 冗談でしょ」
「何でですか? 池山さんっていい人ですよ。明日香のこと凄く大切にしてたし」
「いや。池山がいいやつだとは知ってるけどさ。有希ちゃんとは住む世界が違うでしょ」
「世界が違うって? よくわからないですけど、明日香も池山さんも本当にいい人です
よ」
あどけない表情で不思議そうに有希が答えた。
「明日香ちゃんはともかく、池山のこと恐くない?」
「ああ」
有希は笑い出した。
「最初はすごく恐かったです。金髪だしピアスしてるし煙草だって吸ってるし。でも話を
してみると意外と普通の人でした」
「あ~あ。有希ちゃんも池山に騙された口か」
「はい?」
「いや、そうじゃねえな。騙されたは言い過ぎかもな。池山はああ見えて意外と普通の考
えをしているやつでさ、確かにバカやってるけど根は真面目なんだよね」
「兄友さん、あの二人とただ遊んでただけの間柄じゃないんですか」
「うん。池山とは中学校で三年間いっしょにつるんでいたからね。俺の親友だった」
「そうなんですか。それで高校生になっても四人で一緒に遊んでたんですね」
「まあね。でもそんなことより何で俺と池山たちが知り合いだって知ってるんだよ」
「ああ。池山さんから聞いてましたから。仲のいい友だちが明徳高校にいるって。兄友っ
てやつで、あいつは頭もよくていい高校に通っているけど、俺がどんな格好をしてもどん
なバカやっても付き合ってくれるって」
兄友は微笑んだようだった。
「あいつそんなこと言ってたんだ。本当にバカだよな」
「バカっていうか、いい人ですよ。明日香も本気で池山さんが好きみたいです」
「まあ、前はね」
「はい?」
「前はあいつら付き合ってたよ、確かに。有希ちゃんは知らないかもしれないけど、今は
別れちゃったよあの二人」
「うそ!?」
「うそじゃねえよ。明日香ちゃんは奈緒人と付き合ってるみたいだしな」
ここで自分の名前が出たことに僕は驚いた。でも、この茶番はいったい何なのだ。有希
は全てを知っているのに、情報を小出しにし兄友の言葉に驚いた風を装っている。明日香
に奈緒と僕の血が繋がっていないことを告げ口したり、有希はいったい何を始めたのだろ
う。
「あいつめ。鼻の下伸ばして中学生の小娘相手にぺらぺらと余計なことを」
真実を知らない女さんが僕の隣で呟いていた。
「奈緒人さんと明日香ちゃんが付き合っている? そんなの嘘です」
有希が笑った。いったいこの女は何をたくらんでいるのだろう。
「奈緒人のこと知ってるの?」
「もちろんです。明日香とは親友だって言ったじゃないですか。奈緒人さんは明日香のお
兄さんですから、休みの日にはよく明日香と三人で買物したり食事したりしてましたよ」
「そうか」
「はい。兄妹で付き合うなんてあるわけないじゃないですか。兄友さんも変なこと言うん
ですね」
「いや。そうじゃなくて・・・・・・まいったな」
「はい?」
「何て言えばいいか。つうか言っていいのかもわかんねえしな」
「さっきから何言ってるんです? だいたい明日香のお兄さんには彼女がいるんですか
ら」
「え? 誰だよ」
「あたしの従姉妹です。同じクラスなんですけどね」
「それってもしかして・・・・・・奈緒ちゃん?」
「はい。鈴木奈緒っていうんですけど、知ってるんですか」
その動機は不明だけれど有希の演技は女優級といってよかった。知らない人なら黙され
ても無理はない。あどけない言葉遣い。可愛らしい表情。
「いや。まあそんな話はどうでもいいんだよ」
有希の演技に比べれば情けないほど狼狽しているのが見え見えな様子で兄友が話を逸ら
した。
「そんなことより、俺には彼女がいるし浮気なんてしねえって言ったじゃん。何でわざわ
ざ俺を呼び出したわけ」
恋人同士で寄り添っているような感じを受けたのは錯覚だったか。兄友はやはり女さん
を裏切るつもりはないようだった。
「だって・・・・・・」
「だって、何だよ。俺は女一筋なの。無駄なことは止めた方がいいよ」
ちらりと横を見るとこのとき初めて女さんが嬉しそうに少しだけ頬を緩めていた。だか
ら心配いらないって言ったのに。
「だって。兄友さんは女さん一筋じゃないでしょ」
「何?」
「明日香ちゃんと浮気してたじゃないですか。あたし、知ってるんですよ」
「ふざけんな。俺がいつ」
「はっきりと浮気したわけじゃないかもしれないけど、明日香は悩んでましたよ。池山さ
んのことは大好きだけど、兄友さんのことが気になるって。兄友さんからもそれっぽいこ
と言われたって」
これは有希のフェイクだ。こんなことを信じてはいけない。思わず兄友にそう叫びたく
なる。横を見ると女さんが手で両目をふさいでいた。涙を隠していたらしい。
「あれ嘘だから」
僕は思わず女さんに言った。
「黙ってて。お願い」
声を出さずに涙を流しながら女さんは二人の会話に集中しようとしていた。
兄友はすぐに否定するだろう。僕はそう思った。
明日香が一時池山と付き合っていたことは事実だった。そのことは否定するまでもなく、
一緒に遊んでいた兄友も女さんもよく知っていたことだった。
だけど、明日香は僕を救うために池山やその仲間たちと縁を切り、僕の側に僕だけの側
に寄り添う決心をしてくれた。そこには明日香が兄友と浮気をする余地なんて全くない。
「何でそんな嘘言うんだよ。明日香ちゃんがそんなこと言うわけねえじゃん」
「兄友さんこそ誤魔化さなくてもいいじゃないですか。兄友さんって格好いいし、明日香
ちゃんが揺らいじゃっても不思議はないですよ」
「・・・・・・そんなこと言われてもなあ」
不思議なことにこれだけ荒唐無稽な話を聞かされたら、怒って席を立ってもいいはずの
兄友が考え込んだような口調で呟いた。
「どうしました?」
「確かに四人で遊んだことは事実だけどさ。俺、本当に明日香ちゃんと浮気なんかしてね
えんだけどな」
「でも、明日香はそう言ってましたけど」
「明日香ちゃん、何でそんな嘘言ったんだろ」
「本当に嘘なんですか」
「ああ。マジで確かだよ」
「じゃあ、明日香の願望とか思い込みだったのかなあ」
「さあ。確かに四人で遊んでいるとき、明日香ちゃんって俺の彼女にはほとんど話しかけ
なかったからさ。何でだろうとは思ったんだけどな」
「そんなの決まってるじゃないですか。兄友さんの彼女さんに嫉妬してたからですよ、明
日香は池山さんより兄友さんの方が好きだったんですよ」
「勝手に決め付けるなよ。明日香ちゃんが池山のことをどう考えていたのかはともかく、
俺のことが好きだなんてありえねえよ。彼女は奈緒人のことが好きだったんだって」
「奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏です。それに実の兄妹で付き合うわけなんかないでし
ょ」
「そうじゃねんだけどなあ」
「明日香が兄友さんの彼氏にほとんど話しかけなかったって本当ですか」
「ああ」
「じゃあ、もう答えはそこで出ているじゃないですか。何度でも言いますけど、明日香は
兄友さんのことが好きだったんですよ」
「いや・・・・・・」
「兄友さんの彼女さんが明日香に冷たい態度をとったって本当?」
「それは」
「本当なんですね。彼女さんも何か気づいていたのかもしれませんね」
「そんな彼女さんのきつい態度に傷付く明日香を兄友さんがさりげなくフォローしてたん
でしょ」
「・・・・・・」
「明日香ちゃんと浮気したでしょ」
兄友が何かを低く答えたようだったけど、声が小さすぎてこちらまでは聞こえなかった。
「あれ? 何か話が変な方向に行ってますね」
「変って?」
「明日香と兄友さんの浮気なんてどうでもいいんです。何でこんな話になったんだろ」
「どうでもいいって・・・・・・」
「あたし、兄友さんが好きです。兄友さんが彼女さんしか見えないなら諦めますけど、明
日香と浮気みたいなことをしているところをみると、兄友さんと彼女さんってそんなに本
気で愛し合っていないんじゃないですか」
「そんなことはねえよ」
兄友は明日香との浮気のことを明確に否定せずに呟いた。
「あたしとお試しでいいから付き合ってください。それで彼女さんの方を選ぶならあたし
は黙って身を引きますから」
有希と兄友の会話は僕と女さんの双方に打撃を与えていたようだ。
明日香が兄友と浮気? 明日香は本当は僕のことよりも兄友のことの方が好きだったの
だろうか。あの有希の言葉を信じるなんて愚かな行為だ。でも、兄友が口ごもって明確に
明日香との浮気を否定しなかったのは何でなのか。
隣で涙を流している女さんのことを忘れるほど、僕は悩んだ。
「だから、俺は浮気なんて大嫌いなんだよ」
「明日香とは浮気したのにですか」
否定してくれ。僕は心の中で兄友に祈るように呼びかけた。
「・・・・・・本当に明日香から聞いたのか」
今までより弱い口調で兄友が有希に聞いた。
何を言っている。明確に否定すればいいだけの話だろ。それに兄友は今まで明日香をち
ゃん付けで呼んでいたのに、何でここで僕のフィアンセのことを呼び捨てにするのだ。
「本当だよ。明日香は親友だし、何でも話し合う仲だもの」
「浮気とかじゃねえんだ。でもあのとき、明日香があんまりつらそうだったから一度だけ、
本当に一度だけさ」
「・・・・・・明日香を抱いたの?」
「ああ。あのときはどうかしてたんだ。明日香も池山のことで本当に悩んでたみたいだ
し」
かっとなって席を立とうとした僕を女さんが抱き止めた。
「離せよ」
僕の声を気にすることなく女さんが兄友を睨んだ。
「・・・・・・ふざけんな」
低い声で女さんが呟いた。
今日は以上です
乙!
これは…後が怖い……
乙
この二人も名前付けてあげた方がいいかもな。意外と重要な役回りになってきた
相変わらず面白いわ~
乙!
皆おかしくて、だからこそ面白い
乙
僕は、店を出て行った兄友と有希の跡をつけずに呆然と座ったままだった。女さんも一
緒に店から出て行った有希と兄友のことを気にする余裕はないみたいだった。今聞かされ
た明日香と兄友のこと以外のことは考えられないのだろう。
「あいつと有希って子、店を出て行ったけど」
女さんが呆然としている僕に話しかけた。さっきふざけるなと呟いた女さんは激情を抑
えているようだったけど、今の女さんはさっきの反動からか落ち着いた静かな声だった。
「そう」
むしろ混乱していたのは僕の方だったかもしれない。
明日香は池山には身体を許していなかったのだ。そして初めて結ばれた夜、明日香は処
女だったと僕は勝手に思っていた。明日香もそういうことを言っていたし僕は幸せだった。
その明日香が兄友に抱かれていた? いったい何の話だ。
「奈緒人君・・・・・・」
「うん」
「やっぱり早く家に帰って明日香ちゃんに会いたい?」
「わかんない」
「・・・・・・そうだよね」
「ごめん」
「何で謝るのよ」
「いや」
「君があたしに謝ることなんか何にもないじゃん」
「・・・・・・うん」
「早く家に帰りたい?」
「だから、よくわかんないよ」
「偶然だね。あたしもだよ」
女さんが微笑んだ。いつもと違って寂しげな笑いだった。
「もうちょっと付き合ってよ」
スタバを出てしまえばもう行ける所なんてあまりない。僕は薄暗い公園のベンチで女さ
んと並んで呆然と座っていた。目の前の景色に焦点が合わず目の前が滲んで薄れて行く。
「あたしさ、前に明日香ちゃんのことでひどいこと言ったことあったでしょ。覚えて
る?」
しばらく沈黙したあと、女さんが口を開いた。
「うん」
あのときは明日香が僕の妹であることをまだ女さんが知らなかったのだ。
「今だから言うけど、あたし明日香ちゃんのこと大嫌いだった。別に池山君のことはそん
なに好きだというわけでもなかったけど、それにしても明日香ちゃんの彼への態度ってひ
どかったもん。すごく彼を下に見てばかにした態度で」
「・・・・・・そんなことは」
「ないって言えるの? 明日香ちゃんってやたら兄友には愛想がいいとは思ってたけど、
まさか兄友を狙ってたとはね」
僕には何も言えなかった。女さんは静かな口調だったけど、その目から涙が流れている
ことに気がついたからだ。
「まあクズなのは兄友も同じか。クズ同士仲良く浮気してたんだもんね」
慰めたかったけど声が口から出ない。出ないだけでなく頭の中にも女さんにかける言葉
が浮かんでこない。
少し冷静に考えれば、明日香が兄友を好きになったとしても関係を持ったとしても、そ
れは僕と付き合う前なんだからこれは僕に対しての浮気じゃない。そういう意味では明日
香は僕を裏切ったわけじゃない。
それなのに何でこんなに心が凍りつくのだろう。奈緒が妹だと知ったときとは全く違っ
た感覚だった。まるで自分の体の一部が取り返しのつかないほど永遠に失われていくよう
な喪失感が繰り返し波のように襲ってくるのだ。
明日香のことを清純で純真な女の子だと思って好きになったわけじゃない。もともと派
手な夜遊び妹だったのだ。そんなことは全て飲み込んだうえで僕は明日のことを好きにな
ったのに。それなのに何で僕はこんなに打ちひしがれているのだろう。これは過去の話だ。
今の明日香が僕のことだけを見ていてくれるならそれでいいはずなのに。
それによく考えれば僕には明日香を責める資格はあるのだろうか。奈緒や玲子叔母さん
に心が傾き一瞬でも明日香を忘れたときの自分の姿が思い出された。あれだけ自分勝手に
行動して明日香を傷つけたというのに、僕自身は僕と付き合う前の明日香のことがなぜこ
んなに気になるのだ。何でこんなに許せないという感情を抱くのだろう。
これは嫉妬だ。明日香に対しての、そして兄友に対しての。
ベンチに座って俯いて腑抜けたように思いを巡らせていた僕はここでようやく気がつい
た。奈緒を失った狼狽や玲子叔母さんへの思慕にも関わらず、今では僕は明日香のことが
本当に一番好きになっていたのかもしれない。たとえそれが依存と言われるような感情で
あったとしても。本当に今さらな話だ。気がついたときにはもう遅かったのだろうか。
「・・・・・・大丈夫?」
自分の心の底から浮き上がると女さんが僕を心配そうに見ていた。僕よりもつらいのは
女さんだったろうに。付き合う前の明日香の浮気を知らされた僕と違って、女さんは付き
合っている兄友に裏切られたのだ。有希と兄友の関係は心配だっただろうけど、今では女
さんはそれほどそのことに真面目に悩んでいたわけでもないだろう。
でも、明日香と兄友との浮気を聞かされた彼女のつらさは想像すらできないほどだった。
「ふふ」
意外なことに女さんが笑った。
「え?」
「せっかくさっきまで君のことを、今までと違って格好いいなあって思ってたのにね」
・・・・・・何なんだ。
「今の君って雨の中で震えている子犬みたい。さっきまでの格好いい君の姿の片鱗もない
ね」
泣き笑いというのはこういうことなのか。強がっているように見えて女さんは全然動揺
を隠せていないじゃないか。
「君の方こそ涙流してるじゃん」
「うるさいなあ。ちょっとは浮気されたあたしのことを慰めなさいよ。男の子でしょ」
「そんなこと言われても」
「やっぱり君ってヘタレなのかなあ。せっかく見直してあげたのにすぐに元に戻っちゃう
のね」
「・・・・・・思ってたより元気あるみたいだね」
途端に女さんが僕を睨んだ。
「そんなわけないでしょ。もう頭の中はぐちゃぐちゃだよ」
「ごめん」
「君に謝られてもなあ。君だって被害者だし」
「兄友とこれからどうするの?」
「・・・・・・わかんない」
それはそうだろう。こんな質問を今女さんにする僕の方が愚かだ。
「君はどうするの? 明日香ちゃんと今までどおり付き合うの?」
「わからないよ」
「ねえ」
「何?」
「仕返ししちゃおうか」
「何言ってるの」
「寝ちゃおうか? あたしたちも」
「何なんだよいったい。冗談にもほどがあるよ」
「だって悔しいじゃん。こんなにあいつらに舐められてバカにされて」
女さんは泣きながら食いつくように僕を見ている。これではまさしく意趣返しだ。本気
で兄友に仕返しするつもりなのだろうか。本当に好きでもない僕に抱かれてまで。
「本気で復讐するつもりなら、本気で好きな人を見つけてからにしたら?」
「嫌いじゃない」
今にも消えそうな声で女さんが言った。
「え?」
「君のこと嫌いじゃないよ。君さえいいなら浮気じゃなくて本気で付き合ってもいいくら
いに」
「君が見ているのは奈緒と明日香に惚れられてるいい男だっていう君の幻想の中の僕のこ
とでしょ。僕は君に振られたときと同じ情けないオタク男だよ」
「・・・・・・いい」
「何? 聞こえないよ」
「あたし、それでもいい」
「どういうこと?」
「さっきのは嘘。落ち着いて格好よくなった君なら告白をOKしてたっていうのは嘘」
「・・・・・・まあそうだろうね」
「本当は君に告白されたとき、君と付き合えばよかったって後悔している」
「自棄になってるの?」
「違うよ。格好いいとか女の子にもてるとかそんなことはどうでもいいよ。今だって君は
真剣にあたしを見て向き合ってくれた」
何か勘違いしているんじゃないのか。僕は今だって自分の悩みで精一杯だ。
「あたしね。あのときのあたしを怒鳴りつけてビンタしたいほど、あのとき君を拒絶した
ことを後悔している」
自棄になっているとしか思えない。女さんの思いつめた表情を眺めながら僕はそう思っ
た。
「きっかけは兄友と明日香ちゃんのことかもしれないけどね」
女友さんは無理をしている。兄友の浮気で心が壊れているんだ。僕はそう思った。
「奈緒人君、あたしなんかにもう興味ない?」
「もうあいつらのどろどろした関係なんかどうでもいいじゃん。あたしと付き合って。あたしを見て」
「よしなって」
「君とならずっと仲良くやっていけそうな気がする」
「よせよ」
「・・・・・・もうあんなバカたちなんかどうでもいいじゃん。君はあたしのこと嫌い?」
女さんは僕の首に両手を回して僕にキスした。
心だけの浮気でも明日香を裏切ることには変わりない。奈緒、玲子叔母さんと続いて再
び間違いを犯すわけにはいかない。ましてキスなんて。
唇が触れた瞬間、僕は顔を背け女さんの手を振り払った。
そのときの女さんの傷付いた表情を見て僕は怯んだ。
「こんなにされても、まだ明日香ちゃんのこと許せるの?」
わからない。僕がこれほど動揺したのは明日香のことが好きだからだ。でも何もなかっ
たように明日香とこれまでどおりの関係でいられるのかは自信がない。
明日香の過去のことは飲み込むことができた。池山と付き合っていたことすらも。でも、
親友の兄友に抱かれた明日香のことを僕は許すことができるのか。
処女じゃなかったとかそういうことはどうでもよかった。たとえそれが池山のようなど
うしようもないやつであっても、自分と付き合っている彼氏を裏切って彼女のいる男に言
い寄って抱かれる。そんな明日香の貞操観念を見せ付けられたことの方がダメージは大き
かった。
女さんには悪いけど兄友への嫌悪感はそれほどでもない。あいつはこの間まで明日香が
僕の妹であることを知らなかったのだから、そのときには親友の妹を抱いているとは思わ
なかったのだろう。
「わからない」
「うん。そうだよね。ごめんね、変なことしちゃって」
「女さんはどうなの? 兄友のこと許せるの」
「・・・・・・あいつさ。池山君のことあたしにすごく誉めてたんだよね。みんなあいつのこと
服装とか髪型で誤解しているって。あいつは本当にいいやつだって」
「ああ。そう言ってたね、兄友は」
「池山君もそんな兄友には心を許してた。少なくともあたしにはそう見えた。浮気されて
兄友に裏切られたことだって悲しいよ。でも一番ショックなのは兄友が自分の親友だって
いつも言ってた池山君をを裏切って平然として皆を誤魔化していたこと。あたしの彼氏が
そんなことができる男だったってこと」
女さんの気持ちはよくわかった。
「ごめん」
「君が謝ってどうするの。むしろ謝るのはあたしの方だってば」
「・・・・・・ごめん」
「だから・・・・・・。まあ、いいか」
「奈緒人君」
「うん」
「さっき言ったこと嘘じゃないよ」
「何?」
聞きたくない。そんな話は聞きたくなかった。どう言い訳してもあいつらと同じになっ
てしまうだけなのに。
「明日香ちゃんや奈緒ちゃんがうらやましい・・・・・・。ごめんね奈緒人君。お互いに相手の
の浮気に悩んでいるのに、一番言ってはいけないこと言っちゃった。あ、明日香ちゃんは
別に浮気したわけじゃないか」
女さんが立ち上がった。
「付き合ってくれたありがとう。一人じゃとてもこんなに冷静になれなかったよ。君がい
てくれてずいぶん助けてもらっちゃった」
「僕は何もしていないよ」
僕はようやくそれだけ言った。
女さんが微笑んだ。
「そんなことないよ、奈緒人君。じゃあさよなら」
「さよなら」
相変わらず霞んでいる視界の中を女さんが静かに消えていった。
「それで決定的な瞬間は撮れたの?」
「うん。キスしたところ? よくやったけどそれだけなの」
「使えないなあ。ユウトなら最後まで食らいついてたのに。抱き合ってるとことかホテル
に入るとことか撮れなかったの?」
「まあ仕方ないか。とりあえず写メ送って。うん、今すぐ」
「・・・・・・・ああ。思ったよりよく撮れてるね。実際に見たらどういう状況だったのよ」
「うん、うん。そうか。あの女っていう子が抱きついてキスして、奈緒人はそれを振り払
ったのね」
「わかった。さっきの言葉は取り消すよ。一瞬のキスでしかも男の方が振り払ったわりに
はよく撮ったね。とても振り払ったようには見えないね」
こういうことは勢いが大事だ。それにこのことだけにかまけているわけにはいかない。
今のあたしは忙しいのだ。この先の人生で二度とこんなことはないかも知れない。あたし
は迷わず明日香にメールした。
『明日香のこと何度も驚かせちゃってごめん。もう二度とあなたに嫌な話はしたくなかっ
たんだけど、やっぱり明日香に黙っていてはいけないと思ったんでメールしました』
『本当は直接明日香と会って話したかったんだけど、そこまで勇気のない自分が情けない
です。でも、あたしやっぱり明日香の泣き顔は見たくないから』
『奈緒ちゃんのことでショックだと思うけど、さらに明日香を悲しませると思うととても
悲しい。でも黙ってはいられないよ』
『もう何も言わない・・・・・・ううん、言えない。添付の写真見てください。もう一度言うけ
ど、明日香本当にごめんね』
自宅に辿り着いたときにはもう外は暗くなっていた。自宅に全く明かりが見えないこと
に気がつくと、僕は少しほっとしたような気分だった。両親が不在なことは別に意外でも
何でもないけど、二階の明日香の部屋にさえ明かりが見えないところを見ると明日香も不
在らしい。
明日香の顔を見て僕は冷静でいられるだろうか。先延ばししているだけだとはわかって
いるけど、やはりもう少し自分の考えをまとめる時間が欲しい。とりあえず僕は誰もいな
い家に入った。バッグを床に置いてソファに座った僕は、リビングのテーブルにメモが置
いてあることに気がついた。
『お兄ちゃんへ』
『ちょっと用事があるので今晩は玲子叔母さんの家に泊まります。学校には叔母さんの家
から直接行くね。夕ご飯を作っておいたから電子レンジで暖めて食べてね』
僕には少なくとも今晩は猶予が与えられたのだ。正直、今明日香と顔を会わせたら自分
がどんな行動を取ってしまうのか自信がない。落ち着いてよく考えよう。冷静になればい
い考えも浮かぶかもしれない。僕はそう思ったのだけどさっきから考え続けている想いは
頭から去っていってくれなかった。
・・・・・・兄友に抱かれた明日香はそのときどんな表情だったのだろう。どんなに甘い声を
出していたのだろう。僕なんかに抱かれたときとはまるで違った嬌態を晒していたのだろ
うか。
こんなことを妄想していても何もいいことはないことはわかっているのに。これは明日
香と兄友の仲への嫉妬なのだろうか。明日香は自ら兄友に近づいていたと聞いた。これは
兄友への劣等感なのだろうか。
さらに言えばこんなことで僕の明日香への愛情は揺らいでしまうほどもろいものだった
のか。
そう言えば今日は叔母さんは平井さんに呼ばれていたはずだった。それどころじゃない
はずだけど、叔母さんと平井さんの話は気になっていた。何の話だったのか叔母さんに電
話したいところだけど、明日香が叔母さんといるのではそれもしづらい。
シャワーを浴びて戻るとテーブルの上に明日香が用意しておいてくれた料理がラップに
包まれて置いてあることに気がついた。
奈緒と僕が兄妹じゃなかったことに明日香は悩んでいた。明日香が僕に会うのを避けて
玲子叔母さんのところに避難したことも半ば予想どおりの行動だった。その場合、僕はど
こまでも明日香を追いかけようと思っていた。
でも今ではよくわからなくなっていた。あの頃の明日香の行動は無軌道で衝動的なもの
だった。そんなことは一緒に暮らしていた僕が目の当たりにしていたことだった。だから
僕と付き合いだす前の明日香が池山を裏切って兄友に抱かれていたくらいで動揺すること
なんて何もないのだ。
もう何度になるかわからないくらい、僕はそのことを自分に言い聞かせた。僕だって奈
緒との因縁がある。そんなお互いの過去なんて承知のうえで僕と明日香は求め合い将来を
約束しあったのに。
再び思考がループに陥った。今日はただ悩みながら眠れぬ一晩を過ごす覚悟を決めたと
ころで、携帯電話が鳴った。ディスプレーも見ずに僕は反射的に電話に出た。
「何があった?」
玲子叔母さんの不機嫌そうな声が耳に響いた。
「あんた、明日香に何をした」
「・・・・・・叔母さん?」
「仕事から帰ってみればあたしのマンションの前で明日香がうずくまって泣いてたのよ。
何を言ってもろくに返事さえしないし。誰があんたに明日香を傷つけろて言ったのよ?
あんた最近。いろいろといい気になってるんじゃないでしょうね」
「何を言われてるんだかわかんないよ。明日香がどうしたって言うんだよ」
何で自分がこんなに冷静に返事ができているのかわからない。明日香の悩みなんて奈緒
と僕との間に血が繋がっていなかったことに決まっている。明日香が悩んでいることは嘘
ではない。それは僕だってわかっている。でも、今うずくまって泣きたいのは僕の方だ。
「とにかく明日香をお願い。一晩泣けばまた元気になると思うから」
「・・・・・・ふざけんな」
玲子叔母さんの声が電話の向こうで低く沈んだ。こういうときは叔母さんは本気で怒っ
ているのだ。一瞬、叔母さんの細い身体を抱きしめてキスしたとき、目を瞑って体から力
を抜いた叔母さんの身体の記憶が頭に浮かんだ。
「明日香を大切にしろって言ったでしょ。そのためにあたし・・・・・・」
叔母さんの声が低いのは怒っているせいもあるだろうけど、明日香に聞かれないせいも
あるのかもしれない。
「まあ、いい。・・・・・・いったい何があったのよ。あんたが明日香のことを気まぐれに傷つ
けるとは思わないけど、それにしても明日香の状態ってすごくひどいよ」
「ちゃんと話すから。とにかく今晩は明日香をお願い。じゃあ」
「ちょ、ちょっと。今話せよ。それにあたしも今日は平井さんと会ったんでその話もある
んだけど」
「ごめん叔母さん。明日また連絡するね。じゃあ」
「おい奈緒人。ちょっと」
僕は電話を切った。自分が目の前の問題から逃げているだけなのはわかっていたけど。
切ってすぐにまた電話が鳴った。ディスプレイに『玲子叔母さん自宅』という文字が表
示される。僕は携帯の電源を落とした。
リビングのソファに腰かけて僕は静まった携帯をテーブルの上に投げ出した。こんな態
度を叔母さんにとってはいけないことはわかっていたけど、今は冷静に叔母さんと会話な
んかできない。
僕と付き合う前の明日香の浮気。彼女が裏切ったのは僕ではなく池山だ。それでも僕は
こんなに動揺している。
とにかく落ち着こう。こんなに同じことをうだうだと考えていても結論は出ない。
家の中は誰もいないせいで静まり返っていた。食欲もない。茫漠としたまま何となく室
内を眺めたとき、視線が自分の座っているソファの端に止まった。
何かがソファの端っこに置き捨てられている。どうも古い小さな携帯電話のようだ。
それは家族の誰のものでもなかった。僕以外はみんなスマホだし僕自身のスライド携帯
は電源を切られたままテーブルの上に放置されている。
僕はその携帯を手に取ってみた。
・・・・・・どうやら古いキッズ携帯とかいうやつみたいだ。緑色の筐体のその折りたたみ携
帯を開くと、小さなディスプレイの周囲がピンクのプラスティックで縁取られている。
僕の携帯は今の物が初代だ。明日香の昔の携帯電話だろうか。明日香がスマホに変える
前の携帯のことなんか思いだせないけど、小学生の頃の明日香なら両親がこういう子供向
けの携帯電話を持たせていても不思議はない。
電源ボタンを押してみたけど、やはりバッテリーが切れているようでその携帯は何の反
応も示さなかった。
僕は改めてその携帯電話をしげしげと眺めた。何やら心の奥底でざわめいてくるような
感覚があった。今の僕の悩みから逃避するようだったけど、僕は必死になってその感覚を
探ろうとした。
そのとき何かの記憶の断片が心の奥で浮かび上がった。
『ごめんね、奈緒人。君のこと大好きだよ』
『でも、もう君の力にはなってあげられないの。もう今までみたいに一緒にいてあげられ
ない。そのことが本当に悲しい』
『あなたにとって、本当に大切な人は奈緒なのに。まさかお兄ちゃんが奈緒人のことを裏
切るなんて』
心の中に蘇ったのは若い女性の声だった。
『お姉ちゃん? どうして泣いているの』
『これ、持ってて。お兄ちゃんと理恵さんには内緒よ。そして奈緒ちゃんにも同じ携帯電
話をあげたから。君たちはこれでお互いに繋がっていられるの。お兄ちゃんや麻紀さんな
んかに、大人たちなんかに負けちゃ駄目よ』
そうして僕は初めて持たされた携帯電話の使い方を唯お姉ちゃんに教わった。
メモリーされているのは妹の携帯電話の番号だけ。父さんと新しい母さん、そして明日
香との三人での暮らしが始まってから数日後、もう我慢できなくなった僕は教わったとお
りにその携帯電話を使った。電話はすぐに通じた。その声の相手はすぐにわかった。パト
カーに捕まって引き離されて以来初めて聞く奈緒の声だった。
翌日、僕は初めて訪れた駅に着き奈緒に指示されたとおりに夕暮れの町の中を歩いた。
奈緒の指示がよかったのか僕は全く迷わずにその場所に着くことができた。その家の中か
らはピアノの音が静かに漏れ出していた。
今日は以上です
あと少しこちらを投下したら女神に戻ります。そろそろあっちも更新しないとスレがやばいんで
需要のないSSにお付き合いいただいている方、本当にありがとう。もう少しお付き合いください
有希うぜぇぇええ
需要あるんだよなあ
乙
そうだ。思い出した。
今までそこは初めて降りた駅だったと思っていた。初めて奈緒を迎えに行った住宅地の
中のピアノ教室。そしてあの時感じた懐かしい違和感。初めてのはずなのに方向音痴の僕
が全く迷わなかった複雑で迷路のような街並み。
あのとき感じたデジャブは錯覚ではなかったのだ。僕はようやく思い出した。無理に引
き離された奈緒と僕は、唯お姉ちゃんのおかげで密かに再会できたのだ。目の前に鮮やか
な夕暮れの風景が広がった。
見た目は僕が父さんや、新しい母さんと妹と住んでいる住宅地とあまり違いはない。駅
前から緩やかな坂が住宅地まで続いている。元来方向音痴な僕がこの道を覚えるには相当
時間がかかるだろう。でも早く覚えなければならない。父さんにも新しい母さんにも頼れ
ないのだ。奈緒を迎えに来るには、奈緒と会うためには自分でこの道を覚えなければいけ
ないのだ。学校の勉強だってこれくらいしたことがないくらい僕は必死でここの地理を覚
えた。
駅前からは直線で続く坂道。曲がり角に時計塔のような突き出しを持つ赤い屋根の家が
見えたら右に曲がる。少し歩くと広い前庭に芝生が敷き詰められた家があるので、その家
を左に見て斜めの道に入る。その先でもう一度だけ左に折れると、緑に覆われた崖のすぐ
脇に佐々木ピアノ教室があった。それを覚えるのにはそれほど時間はかからなかったよう
だ。何よりその目的地には奈緒がいた。
少し早い時間に着いて入り口の前で待っていると、小学校低学年の子から先に教室の外
に出て来る。奈緒と連絡を取ってから道を覚えるまで四日。道を覚えて奈緒を待つように
なっても、そこにはママが奈緒を迎えに来ていて僕はこそこそと姿を隠すしかなかった。
それからさらに三日後、教室の前にママの姿はなかった。
でもその日、僕の目の前で教室のドアが開いた。小学生の女の子たちが固まって騒ぎな
がら外に出てきた。その中に奈緒がいることに僕は気がついた。
後で奈緒に聞いてわかったことだけど、ママは体調を崩したらしい。それでも奈緒のピ
アノ教室の送迎をしようとしたママの新しい夫が心配して止めたらしい。わずか数駅まで
の道のりくらい奈緒だって平気だろうって言って。
奈緒とのあの別れの日以来、僕はようやく奈緒と再会できた。父さんとママの離婚以来
始めて僕は奈緒を見たのだ。教室から出てきた奈緒はきょろきょろと周囲を見回した。期
待と不安に溢れているような表情で。
僕を探しているんだ。きっとこのときの僕も奈緒と同じような表情だったに違いない。
久し振りに見る小さな奈緒はやっぱり可愛らしかったけど、そんなことなどどうでもい
い。引きちぎられた自分の半身とようやく再開できたのだ。奈緒と早く手を繋ぎたい。僕
が奈緒の方に駆け寄ろうとしたとき、奈緒と僕の視線が合った。
「あ」
奈緒が顔を明るくして声を出した。「お兄ちゃん」
「奈緒」
僕は不覚にもそのとき泣いてしまったようだ。奈緒も明るくなった表情をすぐに崩して
涙を流しながら僕の手を握った。
はっきりと全てが明瞭に記憶の中に蘇ったわけではない。それでも何で今まで忘れてい
たのか不思議なくらい胸が痛くなるような思い出だった。
それからしばらくの間、土曜日になるたびに僕は父さんと新しい母さんには黙って電車
に乗って奈緒を迎えに行くようになった。当時両親からもらっていったお小遣いを全て電
車代に変わったはずだ。今にして思えば両親が多忙だったことも、僕の毎週土曜日の秘密
が両親には知られなかった原因だったのだろう。
この頃になると奈緒は友人の女の子と行きき返りを共にすることになって、ママは奈緒
の送迎をやめていた。奈緒とその友だちとの間でどんな話し合いが行われたのかはわから
ないけど、彼女と奈緒が一緒にいるのはピアノ教室への行きだけだった。
奈緒と一緒に夕焼けの街並みを手を繋いで歩いていたことを思い出すと、明日香と兄友
とのことを忘れるくらい幸せな気持になった。両親の離婚で無理矢理引き剥がされた僕と
奈緒は唯お姉ちゃんのおかげで奇跡的に週に一度だけ二人きりになれるようになったのだ。
今思えばこの頃の奈緒は言っていた。ピアノが好きになったのは、この教室に来れば僕
と会えるからだと。
そう言えばこの幸せな日々はいったいいつ終ったのだろう。奈緒のことも含めて僕が過
去の記憶を全て失ったのはいつのことなのだろう。
もう少し幸せだった頃の奈緒との記憶を探りたかったけど、僕はこのとき自分の記憶喪
失の時期と原因を考えてみようと思った。これだって明日香のことを考えないための逃避
だったかもしれないけど。
ただいくら記憶の底を探ってみてもその後のことは思い出せなかった。奈緒とのこの秘
密の時間がいつ、どうして終ったのかという記憶は全く蘇ってこない。奈緒と再び別れが
あったことだけは確かな事実だ。そして多分そのときに起きた出来事は僕には受け止めき
れないほど衝撃的だったのだろう。僕の過去の記憶の大半はそのショックのせいで失われ
たのだ。
僕は記憶を探ることを諦めた。こうして考えると記憶を失った僕と記憶を持ったままの
奈緒とではどちらの方がよりつらいのだろうか。多分考えるまでもなく記憶から逃げた僕
よりも、心に衝撃を受けるくらい思い出来事の記憶と戦った奈緒の方がよほどつらかった
だろう。
僕は手に取っていた古い携帯電話を眺めた。そう言えばこれは今までどこにあったのだ
ろう。そして何でこんな物が今さらソファのうえに放置されているのだろう。
これは考えるまでもない疑問だった。今朝この部屋になかった携帯が帰宅した時にはソ
ファにあった。両親がこんな時間より前に一時的にせよ帰宅することはないだろう。
明日香だ。彼女が何をしたかったのかはわからないけど、これは明日香がしたことだ。
明日香はメモを残していった。おばさんのところに泊まるということと夕食が用意して
あるという内容のメッセージを。彼女が僕に言いたいことがあるのならそこに記せばいい
だけのことなのに、古い携帯電話を残していったい僕に何を言いたかったのか。あるいは
ただ戯れに家のどこかで見つけた古い携帯電話を置き忘れただけなのか。
僕はためらったけど結局自分の携帯を取り上げて電源を入れた。明日香に連絡するかど
うか決める前に、とりあえずセンター問い合わせをすると受信メールがすごいことになっ
ていた。
ほとんどが玲子叔母さんからのメールだ。明日香からも奈緒からも、そして女さんから
のメールは一件もない。二十件ほどの叔母さんのメールに混じって知らないアドレスから
のメールが一件混じっていた。
叔母さんからのメールは開くのが恐かったし、その内容は半ば予想できていた。僕は時
間稼ぎのつもりでその知らないアドレスからのメールを開いた。
from :×××@docomo.ne.jp
sub :お久し振り
本文『お久し振り。奈緒人君が覚えていてくれているかわからないけど、私は結城唯で
す。あなたのお父さんの妹です』
『忘れちゃったかな? 一時期、ほんの一時期だけ君と奈緒ちゃんを私が面倒みてたこと
あるんだけど、覚えていないかな』
『君の両親、つまり私の兄と麻紀さんが長い離婚調停をしていた時期に、君と奈緒ちゃん
はあたしと兄の実家で育てられていたの。そのときに君たちの面倒を看ていたのがあたし
なの』
『事情があってあたしは兄の離婚以来兄友君たちとも会っていません。兄とは縁を切っ
たから。突然のメールで驚かせたとしたらごめん。ちょっと事情があって君と話をしたい
の。ある人から君には過去の記憶がないことを知りました。それから最近君が奈緒ちゃん
と再会したことも』
『君に話しておきたいことがある。できれば君に直接会って話をしたい。返信してくださ
い。念のために携帯の電話番号を記しておきます』
これも偶然なのだろうか。唯お姉ちゃんからもらった携帯電話を見つけたその夜に、そ
の贈り物をしてくれた当の本人からメールが来るなんて。
気がついたとき僕は何も考えずに記されていた番号の上で反転していたリンクを押した。
数コールのあと、電話の向こうで女性の声がした。
『はい』
見ず知らずの番号からの電話に出たにしては落ち着いた声だった。
『あの、結城さんですか』
『はい』
『すみません、遅い時間に。奈緒人です』
きっと予想していたのだろう。驚くことなく女性が答えた。
『電話してくれたんだ。唯お姉ちゃんだよ。って、こんな年になってお姉ちゃんはない
か』
お姉ちゃんは笑った。
『奈緒人、あたしのこと覚えてる?』
『覚えてる、っていうか今まで記憶がなかったんだけど今日ちょうど思い出したよ』
知らず知らずのうちに僕は幼い頃に戻ったように、かつて奈緒と二人でお姉ちゃんに甘
えていた頃の口調に戻ってしまった。ママが突然消えたあとの短い間、本当に短い間僕と
奈緒はお姉ちゃんのお世話になったことがあった。もう僕はそのときの一時の安寧の日々
を完全に思い出していた。
『そうなの? でも覚えていてくれて嬉しいよ。元気だった?』
『うん、まあ』
『元気なわけないか』
お姉ちゃんの声が少し暗くなった。
『ごめんね。君たちを守ってあげられなくて』
『そんなことないよ。お姉ちゃんにもらった携帯電話のせいで僕は奈緒と連絡できたんだ
し』
『それも覚えていてくれたの。でも、結局引きはがされたんでしょ?』
『そのあたりはまだ記憶がないんだ』
『そうか。奈緒人・・・・・・。明日、会えない?』
『うん。僕もお姉ちゃんに会いたい』
僕は即答した。
『高校終るの何時ごろ?』
『お姉ちゃんは昼間は忙しい?』
『仕事はあるけど・・・・・・。いいよ、あけるよ。奈緒人君は学校はどうすんの?』
僕は瞬時に心を決めた。過去の話を聞くのに最適な人が現われたのだ。それに記憶が許
す範囲で判断するとお姉ちゃんは僕と奈緒の味方のはずだった。父さんや母さんには聞き
づらいことでもお姉ちゃんになら聞けるかもしれない。玲子叔母さんはいろいろ教えてく
れたけど、その知識には限度があると叔母さん自身も言っていた。
『明日、午前中に会ってくれる?』
『いいよ、奈緒人君に会えるならいつでも。時間と場所はどうしたい?』
『お姉ちゃん、今でもおじいちゃん達の家にいるの?』
電話の向こうでふと微笑むような気配がした。
『そこまで思い出したんだ。ううん、今は都内で一人暮らしよ。家に来る?』
『うん』
お姉ちゃんは自分の独り暮らししているというマンションの住所と行き方を教えてくれ
た。
お姉ちゃんは都内と言ったけど教わった場所は都内というよりはほとんど隣県との境に
近い場所だった。この辺りに来たのは初めてだ。初めて訪れた臨海部の駅に降り立つと、
海の景色はまるでないのに潮の香りがした。お姉ちゃんに教わったとおり駅の構内から姿
を見せない海の方に向って歩いて行くと、駅から十分も歩くまでもなくそのマンションに
着いた。
部屋の番号を押して入り口のインターフォンを鳴らすと女性の声が応えた。
『はい』
『結城さんのお宅ですか』
『奈緒人君、早かったね。今ロック外すから』
声を聞いてすぐにわかった。これは蘇ったばかりの記憶の中の唯お姉ちゃんの声だった。
やっぱり記憶は正しく再生されていたようだった。この声は間違いなくあのとき傷付いて
いた僕と奈緒を無条件で受け入れて僕たちを慈しんでくれたお姉ちゃんの声だ。
十四階のお姉ちゃんの部屋のリビングに入ると、広い窓からこれまで少しも見ることが
できなかった灰色の陰鬱な海を見下すことができた。
「いい景色でしょ? もっとも東京湾だから青い海に白い砂浜ってわけにはいかないけど
ね」
お姉ちゃんがトレイに何か飲み物を載せてリビングに入ってきた。
「わざわざ来てもらってごめんね。ちょっと事情があって奈緒人の家には行けないんだよ
ね」
「そうなの? お姉ちゃんって父さんのこと大好きなんじゃなかったっけ?」
「奈緒人君、そんなことまで覚えているの」
「思い出したんだ。母さん・・・・・・あ、今の母さんだけど、母さんから聞いたことあるよ。
お姉ちゃんはブラコンだったってよく父さんをからかってたよ」
狼狽したようにお姉ちゃんは赤くなって僕を睨んだ。やはりその表情は記憶の中のお姉
ちゃんと一緒だった。
「全く理恵さんは・・・・・・。まあ、そういうこともあったけどね。今は、君のお父さんのこ
と、兄貴のことは大嫌いだけどね」
お姉ちゃんが真面目な表情でそう言い捨てた。
「何で・・・・・・?」
「うん。それはこれから話す。って言うか、君も大人になったね。なんか寂しいなあ。昔
の君は私に甘えてきてくれたのに」
「はあ」
「昔みたいに抱き付いてきてもいいのよ」
「何言ってるの」
「あはは。冗談だよ。でもまた君に会えて嬉しいよ」
お姉ちゃんは僕の方を向いて微笑んだ。どうも本当に再会したことを喜んでくれている
みたいだ。
「お姉ちゃんさ」
「ほら、ジュース飲んで。ケーキも食べて」
「お姉ちゃん、何で僕のアドレス知ってたの」
「ああ、そのことか」
お姉ちゃんがグラスをテーブルに戻して僕の目を見た。
「あたしのボスのお嬢さんに聞いたの。あ、ボスってあたしの職場の上司ね」
ボスのお嬢さん? いったい誰なんだろう。なぜその人が僕のアドレスを知っているの
か。僕は奈緒が妹だと知って彼女から距離を取ろうとしたときに、明日香の勧めで携帯の
番号とアドレスを変えた。だからもともと少なかった僕のアドレスを知っている人はその
ときに更に減ったのだ。
「誰? 僕のアドレスを知っている人はあまりいないんだけど」
「君の知っている子だと思うよ。有希ちゃん。太田有希ちゃんだよ」
もう驚く気持ちすら残っていなかった。
・・・・・・また有希か。
いったいあいつは何がしたいのだろう。まだ明日香に自分の気持を利用されたことを恨
んでいるのだろうか。いや、違う。今にして思えば有希が僕のことを好きだったなんて怪
しいもいいところだ。
やはり、女帝絡みなのか。
池山と付き合っていた明日香といい、仕事の取材から偶然にも事件に巻き込まれてしま
った玲子叔母さんといい、僕たちは期せずして女帝の脱法ドラッグの商売の邪魔でもして
しまっているのだろうか。
「有希ちゃんって奈緒人の友だちなんだってね。有希ちゃんから聞いたよ」
このとき僕は何気ない表情を装うのに精一杯だった
「何でお姉ちゃんが有希ちゃんのお父さんと一緒に働いているの?」
「うん。まあ、話せば長くなるんだけどね」
「長くてもいいけど。まさかお姉ちゃん有希さんの味方なんじゃないだろうね」
「うん? お姉ちゃんは奈緒人と奈緒の味方に決まってるじゃん」
「う、うん」
それからお姉ちゃんは話し始めた。
お姉ちゃんは父さんのことが今は大嫌いだと言っていた。
お姉ちゃんは家庭を捨てて出て行ったママの代わりに僕と奈緒の面倒を見てくれた。そ
の辺りの記憶は今ではあった。
「あたしはあのとき、本気で兄貴を責めたの。これまで家族全員で頑張って麻紀さんと戦
ってきたのは兄貴のためだけじゃなくて、奈緒人と奈緒をこの先ずっと一緒に暮らせるよ
うにしてあげたいって、ただそれだけだったの。それなのに」
おたしはあのとき本気で内定していた一部上場企業を辞退しようと思い詰めていた。最
初は兄貴のためだった。
最初に兄貴に連れられてうちにあいさつに来たときから麻紀さんのことは気に入らなか
ったのだ。あたしが見るに、麻紀さんが兄貴のことを本気で好きなことは確かなようだっ
たし、お父さんとお母さんとも上手に距離をとって付き合っているようだった。
でもこの人は何か違う。あたしだって別に兄貴を盗られたとかそういう子どもっぽい反
発から麻紀さんを警戒したわけではない。最初はあたしだって兄貴のために、麻紀さんと
仲良くしようと思っていたのだ。でも麻紀さんのあたしに対する態度は、お父さんやお母
さんとに対するそれとは全く違っていた。
あれは兄貴が結婚することを報告しに、婚約者の麻紀さんを連れて家に来たときのこと
だ。
家族みんなでいる時は麻紀さんは理想的な兄嫁だった。兄貴にベタベタするわけでもな
くお母さんがキッチンに引っ込むと麻紀さんもすぐに席を立ってお母さんを手伝いに行く。
お父さんとお母さんはそんな麻紀さんの様子に相好を崩していた。それだけを見れば確か
に麻紀さんはいいお嫁さんだった。
でもあたしが兄貴と話をしているとき、麻紀さんが時々ほんの一瞬だけ刺すような冷た
い視線であたしを見ていることに気がついた。それは仲のいい夫の妹に対して向けられる
ようなものじゃないとあたしは思った。
確かにあたしは兄貴が大好きだったし、兄貴とあたしは世間一般の兄妹とは違った雰囲
気を醸し出してしまっていたのかもしれなかった。でもそれは男女間の雰囲気ではなかっ
たはずだ。あたしと兄貴が一緒に話しているくらいでいちいち嫉妬じみた視線を飛ばして
くるなんて。兄貴のことが好きなのはいいけど、これは少し行き過ぎではないか。
でもこのときはあたしは麻紀さんのあの憎しみを込めたような視線を忘れようと思った。
行き過ぎにしてもやはり兄貴のことを少しだけ愛し過ぎているせいなのだろうから。兄貴
のことを大好きな女の人が兄貴の伴侶になったのだし、何よりもその彼女を兄貴自身が本
気で愛し慈しんでいるようだったから。
あたしは自分の感情を抑えて兄貴のいい妹として好意的に麻紀さんに接するように努め
た。彼女の本心はわからないけど、麻紀さんもあたしに対して普通に接してくれるように
なった。次第に麻紀さんに対して心を許し始めていたあたしは彼女をお姉さんと呼ぶよう
になった。
正直に言えば兄貴を失った喪失感はまだあたしの中にくすぶっていたけど、兄貴を幸せ
にしてくれる人が麻紀さんであるなら、あたしはその結果を受け入れる気持ちになってい
たのだ。
兄貴と麻紀さんの間に奈緒人が生まれ、お姉さんの表情は確かに以前より穏かに変わっ
ていた。あのときのお姉さんの視線は結婚前に精神が不安になっただけだったのだろう。
あたしはそう思い始めていた。
・・・・・・あの日、兄貴の海外出張中に児童相談所から電話が入るまでは。
今日は以上です
もう少ししたら女神の更新に戻ります
うーむ、乙
その頃あたしは卒業に必要な単位を取得し終わっていたし、希望していた企業からも内
定が出ていたせいで、同じく余裕のあった彼と卒業旅行として海外にでも行こうかと相談
していた。
久し振りのゼミのために登校したあたしは、久し振りに会った彼と二人で連れ立って大
学の構内を出た。社会人としての人生の出だしが順調だったせいで心が軽かった。何もか
もうまく行っていたし今日はいい天気だ。
「で、どうする」
彼が不器用にも照れた表情でぶっきらぼうにあたしに言った。
「どうって? 何が」
「旅行だよ、旅行。唯と二人で海外なんて初めてじゃん。俺なんかわくわくして来たぜ」
「バカじゃないの」
あたしは彼に微笑んだ。「今さら何言ってるのよ」
「だって海外に一緒に行くのは初めてだろ。まあ、就職してからは何度だって一緒に行け
るんだからそんなにはしゃぐことはねえかもしれないけど」
彼もあたしと一緒で企業志向だったからゼミのほかの友人たちのように司法試験を受け
る気はなかったようで、あたしと同業他社の上場企業に内定していた。きっと就職してか
らも彼との関係は続くのだろう。だから彼の言っていることは正しかった。
あたしは笑って答えた。
「そうかもね」
彼は少し不満そうな顔をした。あたしの淡白な反応が不満だったみたいだ。
「そうかもねって、そうだろ?」
彼はいきなり立ち止まって真面目な表情であたしを見た。
「何、真面目な顔してるの・・・・・・え?」
いきなり彼に両肩に手を置かれたあたしは戸惑った。
「俺さ。唯と一生一緒にいたい。唯、俺と結婚してください」
プロポーズはスクランブル交差点の真ん中だった。彼は凍りついたあたしを抱き寄せて
歩道の方に引っ張っていった。そのままそこにいたら車に轢かれてしまう。
ここは泣いてもいい場面だった。それはあたしがずっと望んでいたことでもあったから。
「はい」って答えよう。それでこの人と一緒の人生を歩んで行こう。
あたしが気を取り直して彼に返事をしようとしたときに携帯が鳴った。
このタイミングかよ。
あたしはそう毒づいて電話に出た。
『唯? 唯なの』
慌てたような母さんの声が響いた。
『うん。お母さん、どうしたの』
『大変なの。電話があったのよ。奈緒人と奈緒ちゃんが児童相談所ってとこで保護されて
るって。麻季さんがいなくなっちゃったんだって』
あたしは目の前の彼のことを忘れ狼狽した。
兄貴の家の最寄の駅から反対方向に明徳児童相談所はあった。あたしはこれまでこんな
施設があることすら意識していなかった。それは灰色のコンクリートの無愛想な二階建て
の施設だった。
お父さんとお母さんと三人で児童相談所に入るとケースワーカーの女性職員があたした
ちを待ち受けていた。その女性から聞かされた話にあたしたちは呆然とした。そしてしば
らくしてあたしの心の中に激しい憎しみが沸きあがった。
・・・・・・あの女。少しでもあの女のことを信じて兄貴を任せた自分が許せないくらいに、
あたしは激怒した。いったい兄貴のどこが不満だっただろう。あれだけ兄貴に愛されてい
たくせに。それにたとえ何があったとしても自分の子どもを放置して男と遊び行くか。し
かも一日や二日ではない。あの女は兄貴が出張で不在なことを幸いに、五日間も子どもた
ちの食事や入浴も何もかも放棄して家に帰りすらしなかったのだ。
近所からの通報で児童相談所の職員が家庭訪問したとき、奈緒人と奈緒はリビングの床
で抱き合ったまま意識を失って倒れていたらしい。児童相談所によって一時保護される前、
二人は入院させられた。それだけ衰弱していたのだ。入院中、それまで二人の素性を突き
止められなかった児童相談所は、警察の助けを借りて二人の保護者を特定した。
あたしたちは必死で混乱している感情を鎮め表情に出さないように努めた。傷付き衰弱
しているだろう奈緒人と奈緒にこのうえ更に不安を感じさせてはいけない。
しばらく児童相談所のケースワーカーから子どもたちへの接し方のアドバイスを受けた。
父さんと母さんは一生懸命その話を聞いていたけど、あたしはこのとき何を聞いたのか今
でもあまり思い出せない。正直に言うと奈緒人と奈緒の受けた心と身体の傷のことよりも、
兄貴が今どんなに想いでいるのだろうか、あたしはそれだけを考えていたのだ。
ケースワーカーの長い話が終り、やがて一時保護されていた奈緒人と奈緒が女性の保育
士に連れられて面談室に入って来た。
麻紀さんは奈緒を引き取ったときからあまり子どもを連れて家に顔を出さなくなったの
で、奈緒人に会うのは本当に久し振りだったし、奈緒にいたってはほぼ初対面と言ってい
い。
「ナオト君、ナオちゃん。ほらお家の人だよ」
保育士の女性が優しい声で二人に呼びかけた。
奈緒人と奈緒は酷く痩せて青白い顔をしていて、あたしたちを見ても表情が変わらない。
二人は保育士の女性の腕にしがみついてその後ろに姿を隠そうとしていた。
一瞬その場にいる人はみなどうしていいかわからずに沈黙してしまった。多分、ケース
ワーカーも保育士も、あたしたちの姿を見れば子どもたちはあたしたちに駆け寄って抱き
つくと思っていたのだろう。お父さんもお母さんもどうしていいかわからないようで、二
人は途方に暮れて揃ってあたしの方を覗った。
そのときあたしは奈緒人が保育士の手を取っていない方の手で奈緒の手を握っているこ
とに気がついた。今は周囲全てが敵に見えているだろうに、自らも傷付いているだろう幼
い奈緒人はそれでも妹を守ろうとしていたのだ。
奈緒人の健気さに胸を突かれたあたしは、気がつけば席を立って奈緒人と奈緒の前で腰
をかがめていた。奈緒人が奈緒の手を握ったまま警戒するようあたしを見上げた。
「こんにちは奈緒人。お姉ちゃんのこと覚えてる?」
「・・・・・・唯お姉ちゃん?」
お姉ちゃんと呼ぶように奈緒人に言い聞かせていたとき兄貴は「叔母さんじゃないの
か」と言って苦笑していたけど、麻紀さんは黙っていただけだった。でも奈緒人はあたし
のことを覚えていてお姉ちゃんと呼んでくれたのだ。
奈緒人の無表情な顔が少し崩れた。
「パパも明後日には外国から帰ってくるよ」
「パパが?」
これまで黙っていた奈緒が小さな声を出した。
「そうだよ。パパが帰ってくるまでお姉ちゃんたちと一緒にいよう」
「ママは」
「え?」
「ママも一緒?」
「ママはいないのよ」
あたしは慎重に言った。身内に虐待を受けた子どもは直ちに虐待した身内を嫌いになる
わけではない。さっきケースワーカーの話をろくに聞いていなかったあたしだけど、どう
いうわけかその言葉だけは耳に残っていた。不用意に麻紀さんを責めてはいけない。
でもその心配は無用なようだった。
「ママ恐い」
奈緒が小さく呟いた。
「ママがいるなら僕たちは行かない。パパがお迎えに来るまでここにいる」
奈緒人があたしを見てはっきりと言った。
あたしは奈緒人と奈緒を二人一緒に抱きしめた。二人は驚いて身を固くしたようだった。
「ママなんかいないよ。来てもお姉ちゃんが追い返しちゃうから安心していいよ」
しばらくしてあたしの腕の中でようやく二人が大きな声で泣きじゃくり始めた。
「ようやく泣いてくれました」
背後でケースワーカーが両親に話していた。「これまでこの子たちは泣かないしろくに
話もしてくれなかったんです。でもこれで多分大丈夫だと思いますよ」
「もう大丈夫だよ」
二人の背中を撫でながらあたしは言った。このときはまだこの先に待ち受けていた困難
を理解していたわけではないけど、兄貴が不在の間はなんとしてでもこの子たちを守ろう
とあたしは決心していた。
そのせいで彼氏との卒業旅行はキャンセルとなった。多分、内心では相当がっかりして
いたはずだけど、事情を聞いた彼は気にするな応援するよと言ってくれた。
このときはまだ彼も寛容だったのだ。
兄貴が一時帰国したことで奈緒人と奈緒は完全に落ち着きを取り戻した。奈緒人と奈緒
は兄貴の帰国前からあたしには気を許してくれるようになっていたけど、兄貴の帰国後は
あたしを完全に味方だと認識してくれるようになった。兄貴があたしに気を許しているこ
とを理解したからだと思う。麻紀さんにネグレクトされた二人は、母親に恐怖を感じた分
だけ兄貴への信頼を深めていたのだった。
兄貴の短い一時帰国の間、兄貴は麻紀さんと接触することを諦めて奈緒人と奈緒の心の
ケアに専念することに決めた。
兄貴とあたしは奈緒人と奈緒を連れて買物をしたり公園で二人を遊ばせたりして兄貴の
短い帰国中を時間を過ごした。
昼食に訪れた屋外にテーブルのあるカフェで、奈緒人と奈緒は迷わず隣り合って座った。
兄貴は兄妹のそんな様子に微笑して黙ってあたしの隣に腰掛けた。
「何食べる? ここってカレーが有名なんだよ。カレーは嫌い?」
「カレー辛い?」
あたしの問いかけに奈緒人と奈緒が顔を見合わせて聞き返した。
「ここのは辛くないよ」
「じゃあ食べる」
二人の元気な声にあたしたちは顔を見合わせて微笑みあった。奈緒人と奈緒はもう大丈
夫だろう。
何か若い夫婦が幼い兄妹と休日のお出かけをしているようだ。あたしは兄貴の笑顔を見
ながらそう思った。兄貴の家庭の非常事態だというのにあたしは奇妙な幸福感を覚えた。
こういうことを考えてはいけないとは思ったけど、もうとうに諦めていた夢が今かなった
ような気がしたのだ。
「ねえ、ママ。このお店のカレーってそんなに美味しいの?」
「ママじゃないのよ。お姉ちゃんって呼んで」
あたしは顔を赤らめた。そして奈緒人は単純に間違えていただけなんだと考えようとし
た。
「お姉ちゃんも違うだろ。叔母さんって呼ばせないの?」
兄貴がよけいな口出しした。
「お兄ちゃんは黙っててよ」
「お姉ちゃんのことママって呼んじゃ駄目なの?」
麻紀さんのことをママと呼びたくないのかもしれない。あたしはそう思った。そしてこ
のときあたしは兄貴とまるで夫婦のように並んで、大切な子どもたちと一緒に過ごしてい
る幸福感に少し酔っていた。
「・・・・・・奈緒人が呼びたいならママって呼んでもいいよ」
「おい、唯」
兄貴が少し慌ててあたしを遮った。
兄貴が再び帰国したとき、麻紀さんからの挑戦状が我が家に届いていた。それはひどい
中傷とでたらめを並び立てた内容だった。
麻紀さんの離婚協議を受任した弁護士は証拠もなしにこんな内容を信じるほど酷く無能
なのだろうか。それともどういう理由かわからないけど、麻紀さんのことを信じる振りを
しているのだろうか。こんな悪意だらけの文書を作成する弁護士なんてそのどちらかでし
かない。司法試験の勉強こそしなかった法学部の学部生に過ぎないあたしにだってそれく
らいのことはわかる。
太田という弁護士の受任通知が届いてから、長い離婚闘争が始まった。お互いの言い分
が真っ向からぶつかっていたせいで調停は長びかざるを得なかった。証拠不十分な状態で
は、事実認定することは滅多にない調停向きの戦いではなかったので、初めから不調にし
て裁判にした方がよかったのかもしれない。ただ、長びくことも悪いことばかりではなか
った。長びけば長びくほど兄貴の側に育児実績が有利に積みあがっていくのだから。
この頃になると大学ではもう講義はなかった。一月に一度ゼミの指導教授に面会して卒
論の指導を受けるくらいだ。
ある日、指導教授との面会後に廊下に出ると彼が立っていた。
「よう」
「あ・・・・・・」
「何か久し振りだな」
「うん」
あたしは今の今まで彼のことを忘れていたのだった。奈緒人と奈緒の世話、それに兄貴
のフォロー以外のことなど何も考える余裕はなかった。それでこのときのあたしは彼の優
しい視線に少しだけ罪悪感を感じた。
「まだ家庭のごたごたで忙しいのか?」
「あ、うん」
「そうか。無理するなよ。俺にできることがあれば何でも言ってくれよ」
「ありがと。でも大丈夫だから」
「じゃあな。寂しいからたまには連絡してくれよ」
「うん。メールするね」
本当に彼には悪いとは思ったのだけど、今のあたしにはあのときの彼のプロポーズなん
てどうでもよかった。
彼には大丈夫とは言ったけど実は全然大丈夫じゃなかった。今のあたしに取っての悩み
は時間だった。着々と育児実績を積んでいるようでいて、実はその有利な状態には期限が
付いていたのだ。
病気がちな両親だけでは奈緒人と奈緒の面倒を見ることはできないだろう。兄貴だって
編集長に昇格したばかりだし、兄貴一人で子供たちの面倒をみるなんて不可能だった。
自分で言うのもおこがましいのだけど、親権争いに有利になるかもしれない二人の育児
実績とは、あたしがいて初めて成立するものなのだ。
そして来年の四月になってあたしが内定した企業に就職してしまえば、二人の子どもた
ちの世話を今までみたいにみることは不可能になる。
このとき追い詰められたあたしにはある考えが真面目に心の中で浮かんでくるようにな
っていた。
内定を辞退して就職を諦めること。そして兄貴のために奈緒人と奈緒の育児をすること。
そうして妹として家族として兄貴を助けることに比べたら、ついこの間まであれだけ希
望して輝いて見えた大企業でのキャリアも何だかそんなに楽しいことではないような気が
してきていた。
何度か冗談めかして兄貴にそれを提案したことがあった。
『・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか』
『別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わりをしてあげてもいいけど』
『別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないからお兄ちゃんに養ってもらうしかな
くなるけどね』
『だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない』
『・・・・・・お兄ちゃん?』
『お兄ちゃんがそれでいいなら、あたし彼氏と別れてお兄ちゃんの奥さんになってあげよ
うか? その方が奈緒人と奈緒も喜ぶと思うし、お兄ちゃんも好きな仕事を続けられる
し』
お兄ちゃんはやはり真面目に受け取ってはくれなかった。あたしは内心でため息を付い
て、その場は冗談として済ませたのだけれど。
そして兄貴は理恵さんと再会した。この二人が愛し合うまでは時間は不要だった。
あたしと兄貴の仮想夫婦生活もこれで終わりた。彼氏を放置し、内定まで蹴ろうとして
いたあたしの一時の熱情にうなされたような日々は終ったのだ。
自分でも意外なことにあたしは恐れていたほど気落ちすることはなかった。兄貴が麻紀
さんの裏切りから立ち直ろうとしているのだ。兄貴のためにあたしができることはまだあ
ったのだから。
あたしは玲子ちゃんと連絡を取り合い、兄貴と理恵さんの再婚に関してお互いの両親に
根回しした。別に兄貴の隣にいる女があたしである必要はないのだ。というよりあたしが
兄貴と一緒に奈緒人たちと暮らす選択肢なんか初めからなかったのだ。あたしが勝手に夢
を見ただけだ。兄貴と理恵さんがお互いを愛し合っていることは確実だった。それに理恵
さんは麻紀さんとは違う。自分でも不思議なくらいあたしは兄貴と理恵さんの再婚を祝福
できた。
兄貴と子どもたちさえ幸せになれるならそれでいい。
この頃になると奈緒人と奈緒は兄貴に対するのと同じくらいあたしに心を許してくれる
ようになっていた。逆に言うと麻紀さんに傷付けられた心の傷が癒えてきていたのだろう。
子どもの立ち直りは思ったより早い。
この子たちのことを考えれば、理恵さんが兄貴と結婚してくれることが二人にとっても
ベストな選択肢だとあたしは自分に言い聞かせた。
兄貴への自分の思慕は外に対して表現することは許されないけど、奈緒人と奈緒に対す
る愛情は許される。兄貴にはもう理恵さんがいる。理恵さんに全てを委ねるときまであた
しは奈緒人と奈緒に最大限の愛情を注ぎながらこの子たちの母親役をしよう。
兄貴に対する執着を割り切ってそう決心したものの、調停の状況はあまり思わしくなか
った。このままではあたしの入社のときが訪れてしまう。そうしたらあたしは大切なこの
二人の面倒を見ることができなくなる。養育実績の面では致命的なほどマイナスだった。
こうして再びあたしは選択を迫られるようになった。兄貴と一緒に暮らすことができな
くなった今、あたしは兄貴の離婚が成立するまでの間のリリーフとして奈緒人と奈緒の面
倒をみるために内定を辞退すべきなのだろうか。
調停は一進一退という感じだった。理恵さんと再婚予定で養育環境が整ったことを主張
した兄貴は、引き換えに麻紀さんが自分の浮気相手で、奈緒の実の父親である鈴木雄二と
再婚することを聞かされた。同時に麻紀さんが主張を変更して、奈緒人の養育権を放棄し
奈緒の養育権と監護権のみに的を絞った。
そんなある日、あたしは兄貴に真面目な顔で話しかけられた。兄貴が仕事から帰ったと
きもう子どもたちは眠りについていた。両親は子どもたちよりも早く就寝してしまうのが
いつもの習慣だったから、あたしはリビングで兄貴と二人きりだった。
「なあ唯」
「うん」
「親権のことなんだけど・・・・・・」
「大丈夫だよ。いくら奈緒の実の父親がいるっていったって、怜奈さんの死後自分の娘を
引取りすらしなかったのよ。麻紀さんが二人をネグレクトしたことは調停委員に事実認定
されているし、お兄ちゃんの育児実績だって問題ないよ。これで負けることなんか考えら
れない。奈緒はお兄ちゃんと理恵さんと一緒に暮らせるよ」
そうだ。時間はかかっても勝利は確実だ。育児実績が順調なことが一番大切な点だ。あ
たしのしていることは無駄じゃない。
そのためなら内定を辞退しよう。あれだけ悩んだことが嘘のようにあたしは不意にそう
決心した。兄貴のためなら、大好きなお兄ちゃんのためならそれだっていい。そして兄貴
と子どもたちを理恵さんに託すときがきたら、黙って身を引いて司法試験の勉強でもしよ
う。
「奈緒のことは麻紀に任せようと思う」
・・・・・・兄貴が何を言っているのかしばらくあたしには理解できなかった。その後で絶望
の黒い闇が心を覆って行った。
「食べないの? 覚えていないかもしれないけど、そのケーキは昔奈緒人と奈緒の大好物
だったのよ」
お姉ちゃんがそこで話しをいったんとぎって僕に微笑んだ。
「僕と奈緒を離れ離れにさせたのは父さんだってってこと?」
僕は今まで考えもしなかった事実を聞かされ呆然としていた。複雑な事情がありそうだ
とは思っていた。そしてその黒幕はママ、つまり麻紀さんという女の人だろうとも。その
ことは玲子叔母さんからも確かなことは言えないけどという前提付きで聞かされてもいた。
いろいろ僕の知らない事情もあるのだろう。単純にママの浮気や育児放棄だけが奈緒と
の別離の原因だと考えていたわけではなかった。
僕は父さんと新しい母さんに、とりわけ父さんには感謝していたし、明日香に嫌われて
いた頃はひねくれながらも父さんだけは唯一の自分の味方だろうと考えていた。
その前提が根底から覆されようとしていた。
「兄貴と麻紀さんの両方がね。結局兄貴は麻紀さんを憎みきれなかったんだよね。あれだ
け兄貴自身に対しても君たち兄妹に対しても残酷なことを平然としでかした麻紀さんのこ
とをね」
お姉ちゃんがどういうわけか自嘲するような複雑な表情で言った。初めて真実を知った
僕と違ってお姉ちゃんにとってははるかに昔の出来事のはずだけど、父さんのその行動は
今でもお姉ちゃんを傷付け苛んでいるのかもしれなかった。
僕はもう本当に一人ぼっちだ。奈緒と知り合い明日香と仲直りして僕の人生は立ち直っ
たのだと思っていたけれど、結局それは幻想に過ぎなかったようだ。
奈緒とは付き合えない。これだけこじれてようやくお互いに着地点らしい場所を探し当
てたのに、今さら奈緒に対して僕たちは血が繋がっていないから前のように恋人同士に戻
ろうなんて言えるわけがない。
自分の彼氏を平気で裏切った明日香のことを許せるのかどうかだって、今だにわからな
い。ひょっとしたらもう僕と明日香の仲は駄目かもしれない。たとえ僕の方が明日香を許
せたとしても、兄友との浮気を僕に知られたことを明日香がしったら、明日香の方から距
離を置かれてしまうかもしれない。
玲子叔母さんだってきっと怒っている。明日香を悲しませてしまった僕に対して。
そして僕は身近にいる唯一の身内である父さんに対してまで不信感を覚えることになっ
てしまった。もう本当に僕はひとりぼっちだ。僕はその事実を自分をわざと傷つけるよう
に繰り返し考えた。
「今日は奈緒人にこんなことを言うためだけに来てもらったんじゃないの」
注意深く僕の表情を見守っていたらしいお姉ちゃんが言った。
「奈緒人。あたしは兄貴と君たちのためなら自分のキャリアを捨てるつもりだった。君た
ちが大好きだったから。あのつらい時期に無条件にあたしを頼ってくれた小さな奈緒人と
奈緒のことが、今でも大好き。だから自分に味方がいないなんて考えないで。あたしは君
たちの味方だよ。誰にも内緒で奈緒人と奈緒に携帯電話を持たせたりしたのだっ
て・・・・・・」
「お姉ちゃん」
「有希ちゃんが教えてくれたの。最近奇跡的に君と再開した奈緒を、また麻紀さんが君か
ら引きはがそうとしているって」
「え?」
「有希ちゃんは奈緒の味方だよ。そして彼女は奈緒と君を仲直りさせようとしているの。
自分の父親と麻紀さんに逆らってまで」
「どういうこと?」
意味がわからない。僕は再び混乱した。
あの女帝が、不良を束ねてドラッグの商売をしている有希が、多分悪意によって玲子叔
母さんを年下の不良たちに乱暴させようとしたあの有希が、奈緒のことだけは本気で気に
しているとでも言うのだろうか。
「何でお姉ちゃんは有希さんのことを信じてるの」
「それはね」
お姉ちゃんの話は再び父さんたちの離婚の頃まで遡った。
今日は以上です。無駄に長い文章ですいません
あと一、二回投下したら女神に戻ります
ここまでお付き合いありがとうございます
Σ∧_∧
(´・ω・)
O┬O ) キキーッ!
_,,..,,,,_
./ ,' 3 `ヽーっ
l ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
∧∧
( )
(_ <ъ
,,0宀0~
._,,..,,,,_..,,:''' ,,:' i i
. , - =;=:=.=/=,';$=#;:;#っ;;::-'´ , '´
i /´ `'ー-〃`〃"
.; ヾ ノ'' ,:''
ヾ `"~""''" /
乙
おつ
その日以来、あたしは情けない兄貴のことを、あれだけ小さな頃から大好きだった兄貴
のことを見限った。いや、あたしの好きだった兄貴はとうにいなくなっていたのだろう。
お互いに慕いあっている自分の二人の子どもを、前妻に気を遣って平然と引きはがして傷
付けるような奴はあたしの知っている兄貴じゃない。奈緒人と奈緒は深刻な心の傷からよ
うやく立ち直ったばかりだった。兄貴や両親、そしてあたしも二人の心の傷をいやすこと
を最優先してここまで頑張ってきた。そしてようやく二人の子どもに屈託のない笑顔が戻
って来た。そんな二人に兄貴は追い討ちをかけるように残酷に二人を引きはがそうと決め
たのだ。
『何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈
緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの』
あたしは取り乱して兄貴を責め立てた。兄貴は俯いてしまった。そして何も言いわけを
しなかった。ただ、どんなにあたしに罵られても決心を変えることはなかった。
あたしは兄貴と二度と関らないことを決めた。奈緒人と奈緒のために捧げた献身的な時
間は惜しくはないけど、そのあたしの想いは結果的に兄貴の麻紀さんに対する未練に負け
たのだ。
あたしの大好きだった兄貴は死んだのだとあたしはようやく悟った。麻紀さんのせいで
兄貴は変わってしまったのだ。離婚してもなお、麻紀さんは兄貴の心を支配していたのだ。
そうだ。兄貴は死んだ。今目の前にいる人間は兄貴とは別人だ。
確かに奈緒は兄貴の実の娘ではないかもしない。麻紀さんの裏切り発覚後、兄貴は二人
を分け隔てなく愛しているのだとあたしは思っていた。でも今にして思うとそれは単なる
思い込みに過ぎず、兄貴にとっては血の繋がっていない奈緒よりも、自分を裏切り子ども
たちを虐待した麻紀さんの方が大切だったわけだ。
麻紀さんの虐待紛いのネグレクトに傷付いた奈緒人と奈緒は、ようやくその傷も癒えて
いたというのに再びもっとひどい仕打ちを受けることが決まってしまったのだ。大好きな
父親の決断によって。
兄貴のことはもうどうでもいいけど、あたしは奈緒人と奈緒が別れさせられると知らさ
れたときの心情を想像するといてもたってもいられない気分になった。
せめてできることをしよう。あたしは自分の名義でキッズ携帯を二台契約した。あまり
早く渡すと兄貴に気づかれてしまうかもしれない。あたしはもう僅かしか残っていない奈
緒人と奈緒と一緒に過ごせる日々を、必死になって笑顔だけを見せるようにしながらその
チャンスをうかがった。
調停が終了すると、自業自得ながら麻紀さんの要求を飲むことを選んだ兄貴には味方が
いなくなった。唯一の例外は理恵さんだけだった。
奈緒人と奈緒を残酷に引き離す結論を出した兄貴に対して、お父さんとお母さんは戸惑
い諭しそして最後には兄貴に対して縁切りを言い渡した。
『確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に
過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ』
お父さんが混乱した表情で兄貴に言った。お母さんは俯いて涙を拭いているだけだ。
あたしはその光景を黙って眺めていた。
『もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん』
こうして麻紀さんの悪意と兄貴の未練は、奈緒人と奈緒を苦しめるだけではなくあたし
たち一家の離散という結果までももたらしたのだった。そして後になって玲子ちゃんから
聞いた話だけど、兄貴のこの決断の影響は理恵さんと兄貴に関係にも及んだらしい。
『おまえがいいなら余計なことを言う気はないんだが、一度立ち止まってよく考えて方が
いいんじゃないか』
『小さな頃から博人君のことは知っていたんだけど・・・・・・。何かあの子昔とは違うって言
うか』
『はっきり言うと、あのひどい奥さんから子どもたちを守ろうと頑張っていた博人君は信
頼できると思った。でも実の兄妹を引き裂くなんて人格的に何かおかしくなったとしか考
えられん。もう彼は昔の博人君とは違うんじゃないか』
理恵さん以外は玲子ちゃんもご両親も奈緒が兄貴と麻紀さんの実の子どもではないこと
を知らなかったのだから無理もない。実の兄妹を引き裂くなどたとえどんな理由があった
としても理恵さんのご両親にとっては想像を絶していたのだろう。まあ、実の兄妹でなく
ても二人を引きはがすなんてあたしには許せなかったのだけど。
結局、実の両親にも理恵さんの実家にも距離を置かれてしまった兄貴だったけど、理恵
さんだけは兄貴を見捨てなかった。それがどういう理由かわからないけど、兄貴と理恵さ
んは双方の実家の反対を押し切って再婚することを決めた。
「あんたのお姉さんってさ、ちょっと心が広すぎなんじゃないの」
あたしはある日、玲子ちゃんに呼び出されたカフェで向かいに座った彼女に言った。
「どうなんでしょうね。でもお姉ちゃんは本当に小さい頃から博人さんのことが好きだっ
たみたいだしね」
「でも、今の兄貴は昔とは違うよ」
平然と、無関心に話をしているふりをしていたけど、あたしは自分の無造作な言葉にむ
しろ自分自身の心が切り裂かれるようだった。
「子どものことより元の嫁さんの意向が大事なんてさ。理恵さんは不安に感じないのか
な」
「それはわからないけど、唯ちゃんのお兄さんにだって何か事情があるんだよ」
「事情?」
笑わせるな。あたしは理不尽にも玲子ちゃんに対して憤った。あんたは何も知らないか
らそんな甘えたことが言えるのよ。
「お姉ちゃん、博人さんと結婚するって言ってた。たとえお互いの両親に反対されても博
人さんと奈緒人君と明日香と四人で新しい家族を作るんだって」
もうあたしに言えることは何もない。兄貴とはもう二度と関わらない。あたしの二十二
年間の片想いはもう終ったのだ。あたしにとって今すべきこと、する意味のあることは唯
一つ。奈緒人と奈緒に、ほんの少さな可能性を残してあげることだけだ。
「唯さん?」
玲子ちゃんが不安そうに黙ってしまったあたしの表情を眺めていた。
翌週には調停結果が出て、兄貴の弁護士と麻紀さんの弁護士との間で最終的な話し合い
が調停委員の元で行われた。
これで結論が出て長い調停は終了したのだけど、具体的に奈緒がいつ麻紀さんに連れ去
られるのかはわからなかった。多分兄貴にはわかっていたのだろうけど、この頃はあたし
は兄貴と実家で全く目もあわせず口も聞かなくなっていた。だからその日程はあたしには
わからない。せめてもの抵抗をするならもう時間はなかった。いつこの家から奈緒が消え
てしまうのかわからないのだ。そしてそうなった場合の奈緒人と奈緒の気持ちを考えると、
胸が張り裂けそうになった。もう慎重にしている場合じゃなかった。
携帯を二人に渡すのだ。まだ幼い二人がその使い方を覚えてくれるのか、保護者の目を
騙して隠し持っていられるのか。あたしは自分の穴だらけの計画には不安しか覚えなかっ
た。でも、もうそんなことを悩んだり計画を練り直している時間はなかった。今渡せなけ
ればもう永久にそんな機会はないのかもしれない。
その日、兄貴は今日は徹夜で校正があるので帰れないと連絡してきた。兄貴と絶縁して
いたあたしたちだったけど、兄貴と二人の子どもたちがあたしたちの家から姿を消すまで
は家族としての責任を果たすつもりだったから、あたしは事務的に冷たい声で兄貴の電話
を受けた。今までなら兄貴に対して優しい声でねぎらいの言葉の一つもかけていただろう
けど、今の兄貴に対して嫌悪感しか感じられなかったあたしは、用件を聞いてわかったと
だけ言って一方的に電話を切った。
客間の和室で奈緒人と奈緒、そしてあたしは一緒に布団を並べて寝るのが習慣になって
いた。あたしが電話を切って客間に戻ると、やがて近いうちに別れさせられるという運命
を知らない二人が無邪気に枕を投げ合っていた。
あの無表情だった二人がここまで回復したのに。いったい兄貴は何を考えているのだろ
う。でも今さらそんなことを考えていても仕方がない。あたしは奈緒人と奈緒の将来に対
してわずかでも救済の可能性を残してあげることだけを考えようとした。
「あんたたちまだ寝てなかったの?」
「お姉ちゃんも一緒にやって。お兄ちゃんがいじめるから一緒にやっつけて」
奈緒が興奮した赤い顔で嬉しそうにあたしに抱き付いてきた。
「ずるいぞ奈緒。お姉ちゃん僕の味方してよ」
「こら。正直に言いなさいよ。どっちが先に枕を投げたの?」
「奈緒」「お兄ちゃん」
二人が同時に言った。
「こらこら正直言え」
あたしは二人抱き寄せてくすぐった。身をよじってあたしの手から逃れようとしながら
ふたりはきゃあきゃあ笑った。こんなときなのにあたしは幸せを感じた。つらい目にあっ
てきたこの二人があたしに対して心底からあたしを信頼して無邪気に笑ってくれていたの
だから。
それでもあたしには時間がなかった。明日かもしれないし、明後日かもしれないのだ。
兄貴のことを無批判に許容した理恵さんのことを嫌いになろうとは思わなかったけど、今
では兄貴だけではなく理恵さんも敵だと思わなければなっらなかった。
許されるなら兄貴なんか放っておいて、このままこの子たちをつれてどこか遠いところ
に行きたい。そして三人でいつまでも一緒に暮らしたい。あたしは一生結婚なんかできな
くてもいい。でも残念ながらそんな可能性はない。それなら考えていたことを実行しなく
てはいけない。
あたしは二人が笑いつかれておとなしくなるのを待った。そしてハンドバッグからカラ
フルな二つ折りのキッズ携帯を二個取り出した。
子どもたちはめざとくあたしが取り出した携帯電話に気がついた。最近の兄貴は毎日の
ように子どもたちに絵本とかのお土産を買って帰ったから、あたしにもそれを期待したの
かもしれない。
「それなあに。けいたいでんわなの?」
「おもちゃのでんわでしょ。前にパパにもらったよ。面白くないよそれ。本当には話せな
いんだもん」
「おもちゃじゃないよ」
あたしは時計を気にしながら子どもたちに電話を渡した。兄貴が帰ってくるまでに全て
を終らせなければいけない。
「はい、二人とも聞いて。もうふざけるのはおしまいね」
あたしは二人を呼び寄せた。
「はーい」
揃って声を出した二人があたしのそばに寄ってきた。
後になって両親から聞いたのだけど、兄貴は翌日の夜奈緒人と奈緒に今後彼らがどうな
るのかを話したらしい。あたしが夕食の支度をしている隙を見てそうしたのだ。二人は兄
貴の隙をついて家出した。二人はすぐに警察に保護されたのだけど、迎えに行った兄貴と
一緒に帰って来たのは虚ろな目をした奈緒人だけだった。結局あたしは奈緒に最後のお別
れさえ言えなかったのだ。
数週間後、新しいマンションを購入し理恵さんと入籍した兄貴は奈緒人を連れて実家か
ら出て行った。それまでの間せめて奈緒人とだけでも一緒にいてあげたかったけど、奈緒
人はあたしが話し掛けても抱きしめても全く反応しなかった。多分、彼の中ではあたしも
兄貴と一緒で彼から妹を引きはがした存在として認識されてしまったのかもしれなかった。
奈緒人に嫌われたあたしは、最後の最後になって密かに彼に話しかけることができた。
「奈緒人・・・・・・元気でね」
予想していたとおり彼は俯いてあたしの顔を見ようとすらしなかった。でもあたしはそ
れに構わず話を続けた。その場に兄貴がいないことを確認して。
「携帯電話無くさないで。その電話で兄貴や理恵さんがいないところで奈緒に電話しなさ
い。決して音を出しては駄目よ。教えたとおりマナーモードにしておくこと。あと奈緒も
すぐには電話に出られないかもしれないから、しつこく何度もかけちゃだめ」
このとき初めて奈緒人があたしを見た。
「負けないで奈緒人。いつか絶対奈緒似合えるから」
このとき初めて奈緒人の目に光が宿り表情が戻った。
「大好きだよ奈緒人」
奈緒人とあたしはわずかな間だけどお互いを抱きしめ合って泣いた。奈緒人はやっとあ
たしにしがみついて泣いてくれたのだ。兄貴が車を回してくる音がしてお互いに身を離す
までのわずかな間だったけど。
四月になり入社した企業での研修が始まったけどあたしには以前に持っていたこの仕事
への意欲は失われてしまっていた。兄貴を失ったこともつらいけど、奈緒人と奈緒を失っ
たことはもっとつらかった。二人を育てていた短い期間が充実していただけに二人を失っ
た反動は大きかった。
追い討ちをかけるように、奈緒人と奈緒、それに兄貴にかまけて放置していた彼から別
れを告げられた。
「唯のこと大好きだったし結婚だってしたかったけどさ。これじゃ付き合ってる意味ない
じゃん」
別れを切り出した彼は寂しそうな顔でそう言った。
やがてあたしは同期入社の人たちや指導してくれるメンターからやる気のない駄目社員
の烙印を押されるようになった。そのままやる気や意義を見出せないまま研修期間が終了
し、あたしは法務部の訟務課というところに配属になった。ここは取り引きに関わるトラ
ブルに起因する訴訟や社の知的財産所有権に関わる訴訟への対応を行うセクションだった。
通常のトラブルは、初動はお客様相談室や総務部の渉外課が対応するのだけど、それがこ
じれて訴訟沙汰になった場合は訴務課の出番となる。
実際の訴訟代理委任は複数いる顧問弁護士に依頼するのだけれど、対応方針や案件に応
じてそれぞれ得意分野が異なる顧問弁護士を選び、係争中は社の窓口として弁護士と共に
法廷の場で相手方に対抗するのがあたしたちの仕事だった。さすがに司法試験合格者まで
はいなかったけど、訟務課では課長を含めスタッフは法学部出身者ばかりで固められてい
た。
あたしは総合職として入社したので将来的には経営企画や営業に回ってもらうけど、最
初は大学の専攻を生かして法務部で経験を積むように上司から言い渡された。この仕事に
対しては、もう以前ほどの熱意は感じなかったけど給料分はしっかり働こうとあたしは思
った。
その日、あたしは係長と二人で担当案件の相談をしに担当してくれる弁護士の事務所に
伺うことになっていた。実家で夜中までチェックした資料をカバンに詰め込むとあたしは
いつものように混みあった電車で一時間以上かけて出社した。
「おはようございます」
室内にはもう半分以上の社員が出社していた。大半の人はパソコンを立ち上げてその日
のスケジュールをチェックしたりニュースサイトでニュースを確認している。それは始業
時間前の少し中だるみの時間だった。あたしはこれで何度目になるか、携帯のキャリアか
ら届いた使用明細を眺めた。基本料金以外にわずかだけど通話料金が発生し請求されてい
る。
奈緒人と奈緒は連絡を取ることに成功したのだ。
金額からすると毎日長時間電話をしている感じではない。二人は思っていたより上手に
この連絡手段を使っているようだった。多分、会う日時や場所を打ち合わせるためだけに
限って通話しているのだろう。細々ながらも通話料金が継続して発生しているところを見
ると、今のところその秘密は保たれているようだ。
どちらかの親に気が付かれたらその瞬間から通話料金はぴったりと途切れて請求されな
くなるに違いない。この請求書があたしに届くということは、奈緒人と奈緒が密かに繋が
りを保てているという証拠なのだ。
やがて九時になると社内放送で始業時間のチャイムが響いた。あたしは明細書をしまっ
て自分のシマの係長席を見た。係長は席にいないしPCも蓋を閉じられたままだ。
「あの。係長はどうしたんでしょうか」
あたしは隣席の主任に声をかけた。
「ああ。さっき電話があってお子さんが熱を出したんで今日は休むってさ」
「はい? 今朝は一番で係長と一緒に担当弁護士のとことに伺うことになってるんですけ
ど」
「そうだっけ? 係長は何も言ってなかったけど」
主任はイントラのスケジュールアプリで係長の日程を確認し出した。
「あれ。本当だね。係長忘れちゃったのかな」
無責任もいいところだとあたしは思ったけど、短い間とはいえ奈緒人と奈緒を育てた経
験のあるあたしには子どもの具合が気になる親の気持ちもよくわかった。
「係長ってさ、奥さんが浮気して離婚してるんだよね。それで男手一つで保育園に通って
いるお嬢さんを育てているからさ。君も腹立つだろうけど許してやってよ」
「それはいいですけど。先生のところには誰と一緒に行けばいいんですか」
入社してわずか半年のあたしが一人で行けるはずがない。それにこの案件はかなり社に
とって重要な案件だと聞かされてもいたし。
主任はあたしが配属されている知的財産所有権グループの課員の日程を眺めた。ここで
ようやくこれまでのん気そうだった主任が難しい声で言った。
「まずいな。みんな予定が入ってる」
「どうしましょう? 先生に電話して予定をキャンセルしてもらいましょうか」
「そんな失礼なことができるか。だいたいあの先生は多忙なんだし今日を逃したら次は一
月後とかになるぞ」
「だってそれじゃどうすれば」
「おい舘岡」
課長が奥の席から主任に声をかけた。あたしたちの話が耳に入っていたみたいだった。
「はい」
「結城だけで行かせろ。もうそろそろ大丈夫だろう」
「ですが課長」
「できるな結城」
課長があたしの方を見た。
「あ、ええと」
「ええとじゃねえよ。篠田と打ち合わせを重ねてるんだろ。それをそのまま先生に説明す
るくらいできんだろうよ」
「あ、はい」
「キャンセルすると篠田の責任になるぞ」
係長には配属されてからお世話になっている。奈緒人と奈緒との一件以来腑抜けのよう
に勤務しているあたしを根気強く指導してくれたのは篠田係長だった。同期やメンターの
噂にも気にするなと言ってくれたのは係長だった。やる気のないあたしでもここで係長の
ピンチを放置しておくわけには行かなかった。
「で? どうよ結城」
課長が言った。
「できます。やらせてください」
「おい、結城。大丈夫なのか」
主任が心配そうに言った。
「結城がやるって言ってるんだから任せろ。舘岡は過保護なんだよ」
主任は不安そうな表情で黙ってしまった。こうしてあたしは一人で弁護士の所に向う羽
目になったのだ。
「こちらでお待ちください。先生はすぐに参りますので」
都心の高層ビル内の綺麗で広々としたオフィスで、あたしは都心を一望にできる広い応
接室に通された。部屋の前に第四応接室とプレートが掲げられていたところを見ると、他
にもこういう部屋が事務所内にあるのだろう。さすがは有名な弁護士の事務所だ。
有名な弁護士のようだけどわが社は有力なクライアントだったので、あたしのような若
輩者に対しても事務所の事務員の女性はすごくていねいに応対してくれた。企業の力で自
分の力ではないのだけど、そのていねいな扱いにあたしは少しだけ緊張が解けた。
待たされている間に説明用の資料を確認していると、二十分ほどしてドアをノックする音が室内に響いた。
「お待たせしました」
ドアが開いてその偉い先生が入ってきた。あたしはその人を見てすぐに気がついた。
「太田です。はじめまして」
それは麻紀さんの代理人の太田弁護士だった。
名刺を差し出そうとした太田先生の手が止まった。
「あれ。あなた、どこかでお会いしていましたっけ」
調停の場でニ、三回顔を合わせた程度のあたしのことを彼は記憶していたようだった。
太田という名前は係長からも聞いていたけど、ありふれた名前だったからそれをあの麻紀
さんの代理人の弁護士と結び付けてなんか考えもしていなかった。あたしは密かに狼狽し
た。
これはやりにくい。弁護士は代理人として動くだけなのであたしは麻紀さんを憎んでも
太田先生自身を憎んだことはない。法学部で学んだあたしはその程度の常識は持ち合わせ
ていた。ただプライベートで争った弁護士と一緒に仕事をすることはさすがに少し気まず
かった。何と言ってもついこの間まで必死で争っていた相手なのだから。
それでもこれは仕事だったから、あたしは仕方なく太田先生の質問に答えた。
「兄の離婚調停の場で何回かお会いしました。あたしは訟務課知財グループの結城唯と申
します。結城博人の妹です。その節はお世話になりました」
お世話になりましたはおかしいかもしれない。嫌味だと受け取られてしまうかもしれな
い。あたしは言ってしまってからそのことが少し気になった。
「ああ。やっぱりそうか。明徳家裁とか清原先生の事務所とかでお会いしてますね」
「はい」
「いや驚いた。結城さんの妹さんが私の担当者だとは。もしかして私が御社の顧問弁護士
だって前からご存知だったんですか」
太田先生が微笑んで言った。言葉とは別に太田先生には驚いている様子はなく、落ち着
いた声だった。
「あたし、今年入社したばかりなんです。だから兄の調停のときはまだ大学生でした」
「そうなんですか。じゃあすごい偶然ですね」
「ええ、まあ」
このときあたしはふと不審を覚えた。大企業から大きな案件を任される企業法務を専門
としている弁護士が、訴訟ですらない離婚調停を自ら担当して引き受けるなんてありえな
い。係長と事前に打ち合わせた際、太田先生は知財関係や会社再生が専門で実績豊富だと
聞かされていた。しかも複数の大企業からの依頼を受けていてスケジュールはいっぱいだ
そうだ。とても民事の、それも調停なんかに関わっているような時間はないはずだ。
これは確認しておいた方がいい。プライベートはどうでもいいけど、社にとって重要な
案件を任せる以上ここは聞いておかないといけない。
「あの、太田先生は企業法務がご専門だと上司に聞かされていたんですけど」
「そうですよ」
涼しい顔で先生が答えた。
「でも、麻紀さんの離婚調停の代理人をされてましたよね?」
「ええ。わたしは離婚関係は専門外で苦手なんですよ。それに本当はああいう案件に関わ
る時間なんかなかったんですけどね」
「じゃあ、何で・・・・・・」
「麻紀さんは亡くなった妹の親友だし、奈緒ちゃんは私の実の姪なんでね。亡くなった妹
の旦那に頼まれたらさすがに断りづらくてね」
「・・・・・・先生はもしかして怜奈さんの」
「そう。僕は鈴木怜菜の兄です」
今日は以上です
乙
その仕事は半年ほどで相手方の会社とパテントについて折り合いがつき決着した。あた
しは初めての仕事を無事に終えたのだ。そしてこのタイミングで形式的な試用期間が終了
する。あたしは正式採用になる前に社を去ることに決めた。
社会人としては失格だと思う。結局、あたしはこの仕事に何の生き甲斐も将来性も見出
せなかったのだ。最初に辞職について相談した係長は退社後に詳しく話を聞こうと言って
くれた。最初はあたしも辞退したのだ。離婚して一人でお子さんを保育園に送り迎えして
いる係長がうちのような企業の第一線に残っている自体が奇蹟だ。訟務課長が係長の能力
を認めて庇っているらしいという噂はあった。確かに係長の能力は半年ほど一緒に仕事を
したあたしにもよくわかった。それだけに辞めて行くあたしなんかのために大事なお嬢さ
んや仕事に割くべき時間を無駄にさせるわけにはいかなかった。
でも遠慮するなと言う係長に根負けし、あたしは退社後に係長と待ち合わせをした。
「結城、こっちこっち」
「遅れてすいません」
「別に遅れてないじゃん。むしろ五分早く到着してる。結城も成長したな」
「・・・・・・これくらいで成長と言われても」
「だっておまえ、最初の頃は出先での待ち合わせに遅れまくってたじゃん」
「まあ、そうなんですけど」
「とにかく座れよ。生ビールでいいか」
「あ、はい」
注文したビールが届けられほんの形だけ乾杯の真似事をしたあと、係長は喉を鳴らせて
一気に中ジョッキの半分ほどを喉に流し込んだ。
「うめえ」
「係長ってお酒好きなんですか?」
「うん。大好きだよ」
係長は普段は課の親睦会にも部の歓送迎会にも顔を出さない。お嬢さんのお迎えがある
ので非公式で係の皆で飲みに行くときもその席には係長の姿はないのだ。
「育児してるとさあ、飲みにも行けないし。子どもを風呂に入れて飯食わしてさ。その後
相手してやって、ようやく寝付いたらもう十一時過ぎだもんな。普段は家では酒なんか飲
めないんだよな」
一人で育児をして仕事もしているならゆっくりとお酒を飲む余裕なんてないだろう。う
ちみたいな多忙な企業で、課長の理解と擁護があるとはいえよくそんな生活が成り立つも
のだ。
「本当に今日は平気なんですか」
係長はメニューを広げて、本当に楽しそうにつまみを吟味しつつ言った。
「ああ。今日は実家に迎えと明日の世話を任せてきたからな。結城のおかげで今夜は久し
振りに外で酒を飲めるよ」
係長がメニューから目を上げて笑った。
「まあ、そんなことはいいや。で、結城は何で辞めたいの? 就活してたときからうちが
第一志望だったんだろ? それともそれは面接のときのリップサービスか」
係長がようやく本題に入った。
「いえ。それは本当だったんですけど、今は何か就職活動してた頃と違って仕事にモチ
ベーションを保てないというか」
「太田先生と三人で完璧な勝利を収めただろ? あれでも結城にとっては達成感も高揚感
も感じられなかったのか」
少しだけ真面目な表情で係長が言った。
「それはあたしも嬉しかったんですけど」
「おまえ、何かやりたいことがあるの? ひょっとして司法試験受けるのか」
「はい?」
「法務部には何年間に一人は出るんだよな。就職したことを後悔して司法試験に挑戦しよ
うってやつが」
司法試験などどうでもいい。まあ、実家や世間が無職引きこもりニートじゃ納得しない
なら法科大学院に通うか予備試験を受験するくらいはしてもいいとは思ってたけど。
「別にそういうわけじゃないんです」
「じゃあ、辞めてどうすんの。結婚して専業主婦になるってことか?」
・・・・・・そうなれればそうなりたかった。結婚はしなくてもいいけど、奈緒人と奈緒を育
てて、二人が一人前になって巣立つまであの子たちの母親でいてやりたかった。その可能
性がなくなった今、正直会社を辞めても何をしていいのかわからない。ただ、こんな中途
半端な気持ちのまま社に残りたくないだけで。
「もしかして誰かにプロポーズされた? いや、それにしてもいきなり仕事をやめること
はないだろ。子どももできないうちから専業ってよ。うちの総合職の女性は出産してもや
めるやつは少ないんだぞ。経営企画部長だって高校生の子どもがいる主婦なんだし」
「結婚なんかしません。付き合っている人だっていませんし。自分でもわからないんです。
でも、このままここにいてもあたしにも社にもどちらにとってもいいことはなさそうで」
「何があったか知らないけど、決意は固いのか」
「はい。すいません。来月で辞めようと思います」
係長はため息をついた。
「まあ、それなら仕方ないか。正直もったいないと思うけど。おまえなら絶対将来はボー
ドに入れる玉だと思ったんだけどな」
ボードというのは取締役会の俗称だ。係長は入社してわずか半年余りのあたしが将来は
重役になれると言っているのだ。引き止めるためにしたって嘘臭い話だった。
「おまえ、何かあったのか。結城がどうしてもというなら無理には引き止めないけど、せ
めて理由くらい正直に話してくれよ」
係長にはお世話になっていた。人に話せるほど心の整理がついていたわけではないけど、
せめてもの誠意としてあたしは係長に自分の気持ちを話すべきかなと考え、でもこんなプ
ライベートなことを自宅で幼いお嬢さんが待っている人に時間を取らせてまで話していい
のか、あたしは迷った。
そんなあたしを寛がせようとしてなのか、係長は突然自分の話を始めた。
「まあ、結城にだって言いづらい事情はあるんだろうけど。でもさ、結城は恵まれてると
思うよ。俺なんかに比べたら」
離婚とか子育ての苦労を聞かされるのかな。あたしは少しだけ苛々した。仕事との両立
という意味では、係長には敵わないかもしれないけどあたしだって必死に子どもたちの面
倒をみた経験はある。
でも、係長の話は意外な方向に逸れた。
「おまえは国立大学の法学部出身だろ? 成績も良かったみたいだしうちをやめても司法
の世界に行くとかだって十分に可能性があるだろ?」
何を言い出すのだろう。訟務課にいる係長だって私大かもしれないけど法学部出身だろ
うに。
「俺なんかここを辞めたら娘と二人で路頭に迷うしかないしな」
「あたしだって係長より恵まれてるわけじゃないですよ」
「俺はさ、学生の頃は故郷の北海道で教師になりたかったんだよね」
思い入れたっぷりに係長はそう言った。でも、別に意外な話ではない。学生のときはそ
ういう希望だってあるだろう。それなら北海道で教員採用試験を受ければ済む話だ。少な
くともうちの会社に入社できるくらいなら、地方の社会の教員にだって採用された可能性
はあったはずだ。結局は収入やステータスを考えて、教師ではなく我が社を選んだんでし
ょうに。それを青春の過ちみたいに感慨深く語られても困る。
係長はあたしの表情からあたしの考えを理解したようだった。
「俺は君みたいに法学部じゃないしさ。驚くかもしれないけど東洋音楽大学の器楽科を出
てるんだよね」
「え」
ではこの人は兄貴の大学の後輩なのだ。
「ちょっと自分語りしてもいい?」
係長は言った。
「はあ」
あたしの辞職とどんな関係があるのかはわからない。単に自分語りがしたくなっただけ
かもしれないけど、係長はあたしの辞職の意向のことは放っておいて勝手に話し始めた。
「俺、高校生の頃から音楽の先生になりたかったんだよね。それで北海道から上京して東
洋音大に入ったんだけどさ」
「はい」
「それで北海道の教員採用試験にも合格したんだ」
「じゃあ、希望どおり先生になれたのに」
「まあ、そうなんだけどさ。学生時代、俺には好きな子がいてさ」
「はあ」
係長はいったい何を言いたいのだろう。
「大学のサークルの後輩なんだけど、家庭の事情で講義とか実技以外は全然大学に来ない
子でさ。サークルも幽霊部員だったんだよね。俺が一方的に好意を寄せていただけで、向
こうは俺のことなんか気にもしていなかったと思う」
「それが、あたしの辞職と何か関係あるんですか」
係長にはお世話になっていたとは言え、あたしは着地点の見えない彼の自分語りに少し
だけいらいらしてそう答えた。
「そうだね。ごめん、よく考えたら何も関係ないな」
「何ですかそれ」
あたしは思わず呆れたせいで笑ってしまった。係長も部下を引きとめようと必死だった
のだろうか。それで考えなしに自分の後悔した過去の話を始めてしまったのか。
「悪い。たださ、俺なんかうちの会社が学部指定をしていなかったせいで何とか受かった
口だけど、君は期待されて入社したんだろ。簡単にやめるなんてもったいないじゃん」
何だ、それは。それだけのことを言いたくて自分の教員への憧れやら彼女への未練やら
を話していたのか。そんな話を聞かされても少しも胸には響かない。
「課長は係長のことを誉めてますよ」
「そうかもな。あの人はエリートなのに俺のことなんか買いかぶりすぎだよ。音大で得た
知識なんかここでは何にも役に立たないのに」
音大ならそうだろう。兄貴だって就職したときは結構そういう愚痴を言っていた。多分、
あの頃の兄貴は麻紀さんに弱音を吐けない分、あたしに愚痴っていたんだろうけど。一瞬、
当時馬鹿みたいに必死になって兄貴を慰めていた自分の姿が目に浮かんだ。
「あたしの兄が東洋音楽大学でしたよ。係長の先輩になりますね」
「え? そうなの」
「まあ、年齢が違うからご存じないでしょうけど。兄も今は普通に就職してますよ。まあ、
音楽に関係はある会社ですけど」
兄貴の話をすると今でも心が少しだけ痛んだ。
「失礼だけど、お兄さんって何をされてるの」
「音楽之友社の編集者ですね。何か今はジャズ関係の雑誌の編集長みたいです」
「そうなのか。君のお兄さんが俺の先輩ねえ」
「係長は何で音楽の教師にならないで、うちなんかに就職したんですか」
あたしは係長に聞いた。どうでもいい話ではあったけど、子どもを実家に預けてまであ
たしを引きとめようとしてくれている係長に、自分が辞める話ばかりをするのも気が引け
たからだ。
「だから今言ったように好きな子がいたからさ。その子は東京出身だし、俺が北海道に行
ってしまえばもう二度と会えないかと思ったから」
「その女の人が係長の離婚した奥さんなんですか」
「まさか。俺は就職して久し振りに彼女に連絡を取った。そしてプロポーズしたんだ」
「・・・・・・それで」
「そして振られた。自分は今育児に精一杯で恋愛とか結婚とか考えられませんって」
「育児って? 係長、まさか他人の奥さんにプロポーズしたんですか」
あたしは驚いて言った。不倫なんか大嫌いだ。それは麻紀さんと彼女によって不幸にな
った奈緒人と奈緒のことを思い出させるから。係長に抱いていた尊敬の念が一気に揺らい
だ。
「彼女は学生時代から自分の姪の面倒をみていたんだ。お姉さんは君のお兄さんと同じで
音楽雑誌の編集者だったし」
係長の後輩で、編集者の姉の子どもの世話をしなくてはいけない大学生。どこかで聞い
た話だ。そう、まるで玲子ちゃんのことみたいだ。
まさか、この人は。
まあ、でもそれを口にして確かめる気はなかった。たとえ本当だったとしても係長は玲
子ちゃんに振られたって言ってたのだし、今さら蒸し返しても仕方がない。それに音大な
ら女性だって多いだろうし、状況が似ているだけで単なる偶然かもしれない。
「どうかした?」
急に黙り込んでしまったあたしの方を係長が当惑したように眺めた。
「何でもないです。ごめんなさい」
あたしは気を取り直した。そしてもう係長に事情を全て話してしまおうかという気にな
っていた。係長があたしのことを気にしてくれているのは確かだろうし、理由をうやむや
にしてこの場を切り抜けることは難しそうだ。
「辞めたい理由なんですけど」
「うん」
「実は、本当に家庭の事情なんですね。一身上の理由ってよくいうけどまさにそれなんで
す」
「そうなのか? 本当に仕事がつまらなくて司法試験に挑戦したいとかじゃないんだ」
「はい。まあ家庭の事情ってのはもう終ったんですけど、それ以来妙な喪失感を感じちゃ
って。今でも仕事に夢中になれないんです。それで・・・・・・。こんな中途半端なことをして
いても自分にも社にとってもいいことじゃないって思って」
「家庭の事情って何だ」
やはりこれだけでは係長を納得させられなかった。あたしは最初から去年の出来事と自
分の気持を話すことにした。あたしはかなり長い時間をかけて自分に起きたできごとを語
った。ひょっとしたら係長はお子さんのことを想って早く帰りたかったのかもしれないけ
ど、それでもあたしの話をせかすことなくじっくりと耳を傾けてくれた。
あたしは全てを話した。ただ一つのことを除いて。自分の兄貴への恋愛感情めいた想い
やこのまま兄貴とあたし、奈緒人と奈緒の四人でずっと暮らせたらいいと考えた願望だけ
は他人に話せるようなことではなかった。それでも浮気性の麻紀さんに変わって奈緒人と
奈緒を母親として育てようと一度は決心していたことは正直に話した。そして麻紀さん側
の弁護士が太田先生だったということも。
太田先生のことを聞いたとき係長はビールを盛大に噴き出した。
「おいおい。マジかよ。何で黙ってた」
「個人的なことですからね。仕事には影響させる気はなかったし、大田先生も気にしてな
いようでしたよ」
「わかんねえなあ。法律屋さんってそういうの簡単に割り切れるのかなあ」
「別にあたしは法律屋とかじゃないですけど」
「俺の本当の専門だった演奏で言えばさ。絶対にそういうの影響するよ。良くも悪しく
も。割り切って気持ちを切り替えて一緒に仲良く演奏しましょうなんてありえないけどな
あ」
「そうなんですか」
「そうだよ。でもまあ、いろいろよくわかったよ。太田先生のことはともかく、結城はお
兄さんの二人の子どもとずっと一緒にいたいっていう希望が打ち砕かれたことに対する喪
失感みたいな感情をずっと引きずっているってことなんだな」
「まあ、そうですね」
ほぼ全てを語ったあたしは思ったより落ち着いた気持ちでいられた。こんなことを兄貴
以外の人に正直に話したのは初めてだったのだ。
「大嫌いな元兄嫁さんに女の子の方を引き取られたことも気に入らないと」
これには答える必要がないとあたしは思った。
「じゃあ、俺も言っちゃうか。引き抜きみたいな話なんで俺限りで押さえてたんだけど
さ」
「はあ」
「今日は本当に結城を引き止めるつもりだったんだけどさ。まあ、決心が固いようならこ
の話もしてみようかとは考えてはいたんだよな」
「いったい何ですか」
「太田先生から言われたんだよな。もし結城にその気があるなら、太田先生の事務所に来
てくれないかなあって。冗談めかして言ってたけどあれ多分本気だぞ」
「イソ弁ってことですか」
「いや。司法試験はどうでもいいらしいよ。それは弁護士資格があった方がいいことはい
いんだろうけどさ。でも、そんなことより即戦力を求めているみたいだったな」
「どういうことでしょう?」
「どうもこうも引き抜きだろ。太田先生はおまえの能力に目をつけたんだよ。そんであり
得ないことに俺にそれを直接言ってきたんだ」
「何なんでしょうね」
いったい何の話だ。クライアントの企業、それも大企業から社員を引き抜くなんていく
ら業界で有名な弁護士だってあり得ない。こういうことが噂になれば他社だって太田事務
所との取り引きを控えるようになるだろう。あたしには太田先生がそれだけのリスクを犯
してまで引き抜きたいと考えるほど能力があるわけではない。わずか半年ほど前に大学を
卒業したばっかりの、法曹資格すらない新人に過ぎないのだ。
「あり得ない話ですね。いったいどういう冗談なんでしょう」
「うーん。常識的に言えば結城の言うとおりなんだけどさ。あの先生は変わってるからな。
本気で君を気に入ったとしたら、うちとの取り引きなんてどうなっても気にしないだろう
な」
ひょっとしたら太田先生は罪悪感を感じているのだろうか。自分が代理人となった麻紀
さんのせいで兄貴の家庭は崩壊し、仲の良い兄妹は別れさせられ、あたしは人生の目的を
失った。全ては麻紀さんの身勝手な行動が原因だけど、調停の場で太田先生の受任通知が
その手助けをしたことは間違いない。そしてやり手の弁護士なら自分の果たした役割の大
きさに自覚しているかもしれない。
ひょっとして太田先生はあたしの投げやりな態度に気がついたのだろうか。そして罪滅
ぼしの気持ちで会社の仕事に興味を抱けないでいるあたしに就職先を斡旋しているのだろ
うか。
「まあ、よく考えなよ。俺としては結城には期待しているからこのまま社に残って欲しい。
でも、どうしても辞めると言うなら大田先生に甘えてもいいかもよ。このままニートにな
りたいわけじゃないだろ」
結論を曖昧にしたままでこの夜の話し合いは終った。あたしは予定どおり辞職した。わ
ずか半年で辞職するあたしには送別会も別れの花束も何もなかった。ただ、私物をまとめ
て最後に社を去ろうとしたあたしに、係長は黙って太田先生の連絡先を記したメモをそっ
と握らせた。あたしが太田先生の名刺を暫定的な後任者に引き継いでいったことをわかっ
ていたのだろう。
それであたしは私物と太田先生の名刺だけを持って永遠に自ら志望して入社した会社を
去ったのだった。
二週間後、無職のまま実家に寄生していたあたしは、お母さんから大きな声で呼ばれた。
「唯、電話よ」
「うん」
夜遅くまで予備試験に向けて勉強していたあたしは、朝の九時にお母さんの声に起こさ
れた。社を辞めたあたしに両親は何も言わなかった。きっと司法試験を受験するために辞
職したのだと思っていたんだと思う。それともそう思い込みたかっただけのかもしれない。
兄貴が勘当され家族が一人減った家庭をこれ以上荒ませるわけにはいかなかったから、あ
たしも両親の幻想と思い込みに付き合うことにした。
法科大学院のニ、三年はどう考えても無駄としか思えなかったから、あたしは予備校で
予備試験の受験勉強をすることにした。本気で司法試験に合格したいという気持ちはなか
ったけど、せめてその振りでもしないと兄貴がいなくなった実家が崩壊してしまいそうな
気がしていた。思えば麻紀さんの身勝手な行動は彼女と兄貴の家庭を崩壊させたにとどま
らず、あたしの実家をも傷つけた。そして玲子ちゃんから聞いている話だと、兄貴と結婚
した理恵さんのせいで、玲子ちゃんの実家も理恵さんと半ば縁を切った状態になっている
らしい。全てはあの女のせいだった。そしてあんな女に夢中になって言いなりになった兄
貴のせいでもある。
そういうわけで就職したばかりの会社を辞めたあたしは、家に篭もって惰性で勉強を続
けていた。自ら縁を切った兄貴とはその間一度だって連絡を取らなかった。この頃のあた
しの唯一の楽しみは、携帯電話の明細書を眺めることだった。
明細書には基本料金のほかにわずかな通話料が毎月請求されている。これだけがあたし
の生きる希望だった。そしていつかこの通話料がなくなったとき、あたしは本当の意味で
人生の目標を全て失うことになるのだ。
玲子ちゃんからかな。あたしは寝巻き代わりのスウェットの上下のままぼさぼさの髪の
毛を撫でながら電話に出た。
「お電話代わりました」
「朝早くからすいませんね。前に一度お仕事をご一緒させていただいた太田です」
それは大田先生からの電話だった。
唯お姉ちゃんは父さんとママ、つまり麻紀という女の人に裏切られた僕と奈緒に最後の
希望を与えてくれた。それ以前にはママに捨てられた僕たちを引き取ってつかのまだった
けど幸せで安定した日常をくれた人だ。
でも、唯お姉ちゃんのマンションから出て帰宅する僕の心の中は混乱していた。果たし
てお姉ちゃんは何のために今さら僕を呼び出したのか。今でも彼女は僕の味方なのか。そ
れとも有希の見方なのか。
『大田先生の事務所に最初にあいさつに行ったときにさ、あたしびっくりしたの』
『・・・・・・何で』
『会社勤めしていた頃何度も訪れていた事務所だったんだけど、あの日応接室に通される
と小さな女の子がいたの。奈緒と同じ年くらいの女の子がね』
『本当に驚いたのよ。あなたたちと分かれてから小さい子どもと会うのは久し振りだった
し、とにかく丸の内のオフィス内で平日の昼間にこんな子どもがいるなんて非日常的だっ
たし』
『それが有希さんだったの?』
『うん、そう』
何か現実離れした光景だった。綺麗な応接室に幼い女の子がいて、その子は大きなソフ
ァに蹲るように座って絵本のような大判の薄い本を広げていた。
あたしは戸惑った。最初は、太田先生の事務所の事務員が間違った部屋にあたしを案内
したんじゃないかと思った。
女の子は応接室に入ってきたあたしに気がついて、絵本から目を上げあたしを見た。
『あなた誰?』
誰って言われても返答に困る。奈緒の面倒をみていたからたいがいの幼い女の子の相手
はできるはずだったけど、この子の子ども離れした鋭い目にあたしはたじたじとなった。
『あなたもパパの恋人なの?』
『はい?』
『あなたもパパの恋人なの?』
その女の子が繰り返した。それが日常的に繰り返しているような何気ない口調だった。
『違うけど』
『違うんだ。たまにはパパの恋人じゃない女の人がここに来るんだね』
この子は何を言っているのだろう。太田先生は仕事以外のことには興味のない種類の男
だと思っていた。わずかな間だけど業務上の必要から先生をアシストしたあたしはそう確
信していたのだ。
でも、太田先生をパパと呼ぶこの子にとっては、太田先生に対する認識はそういうこと
ではないらしい。
『パパってね。恋人がいっぱいいるんだよ。事務所の人とか会社の女の人とか』
全部身内の事務所の女じゃないか。本当のことなんだろうか。
『そうなんだ。あなたのパパは女の人に人気があるんだね』
かろうじてあたしはその子に言った。ずいぶんませている女の子らしい。
『うん。ママが死んでからパパは女の人にもてるんだよ』
『そうなんだ。あなたお名前は?』
こんなに幼い子に聞かれて、あたしはどうでもいいはずのことを思わず口にした。
「有希だよ。太田有希」
「こら、有希」
そこで応接室のドアが開いて狼狽したような声で太田先生が有希ちゃんを叱りながら部
屋に入ってきた。
「有希、何でここにいるんだ。事務室のお姉さんたちのところに行っていなさい」
「やだよ。あそこにいてもつまらないんだもん」
「つまらないことはないだろ。いつもはあの部屋でテレビを見ているじゃないか」
「テレビなんか飽きたし、パパの女たちにも飽きた」
「結城さん悪いね」
太田先生が困惑したようにあたしに言った。
「お嬢さんですか」
「うん。有希、ごあいさつしなさい」
「やだ」
「有希!」
「ユキは今このお姉ちゃんと話してるんだもん」
「この人とパパは大切なお仕事の話があるんだよ。あまりわがままを言うともう事務所に
は連れて来てあげないよ」
「いいじゃん。パパの恋人じゃない女の人とお話するの久し振りなんだもん」
「・・・・・・やめなさい」
パパと小さな娘の会話じゃないな。あたしはそう思った。
この後、生々しすぎてあまり微笑ましくない父と娘の言い争いをあたしは聞かされた。
これが有希ちゃんとの出会いだった。結局太田事務所に就職したあたしは有希ちゃんと
仲良くなった。あたしの仕事は別に子守ではない。すべき仕事と目標とを与えられたあた
しだったけど、研修期間のつもりかどうか先生の与えてくれた仕事は主に基礎調査という
べきで、しかもスケジュールにもゆとりがあった。それで結果的にあたしは有希ちゃんが
富士峰女学院に合格して晴れて小学生になるまでの間、事務所で有希ちゃんの相手をする
ことになったのだ。先生の希望ではなく有希ちゃんのわがままが通ったせいで。
「結城さんのことは一緒に仕事をする前から目を付けていたんですよ」
あの日、やっと喋りつかれた有希ちゃんが応接のソファで昼寝を始めた後に、やれやれ
と呟いた太田先生がソファに崩れるように座ってあたしに話しかけた。
「目を付ける?」
何だか嫌らしい言葉に聞こえる。有希ちゃんの言葉が正しければこの人はまるで学者の
ように上品なな学究肌の見た目と、その社会的な名声とは裏腹にずいぶんと女にはだらし
ないらしい。しかも多忙なせいか身近なところで相手を調達する性癖もあるようだ。ひょ
っとしてあたしは太田先生にそういう意味で「目を付けられた」のだろうか。
「あ、誤解しないでくださいね。今の言葉に性的な意味はないからね」
あたしの心配を正確に読み取ったように太田先生が言った。
本当にそういう意図はなかったようで、これまで結城法律事務所で働いてき間、あたし
は一度も先生に誘われたりされたことはない。働き出すとここは思っていやより居心地が
よかった。最初は断るつもりで訪れた結城事務所だったけど、この日事務所を後にする頃
にはあたしはここで働くことになってしまっていた。
小学校に入る前の有希ちゃんは幼稚園や保育園には行かず、日中は太田先生と一緒に車
で事務所に来て好き勝手に時間を過ごしていた。事実、信じられないことに有希ちゃんは
事務所内に専用の部屋を持っていたくらいだ。多忙な先生に代わって有希ちゃんの食事と
かの面倒は複数いる事務員の女性たちが喜んでみているようだった。
あたしは弁護士ではなかったので、法人の社員にも訴訟代理人にもなれなかったから、
先生のほかに十人いる他の若手弁護士のように訴訟案件を任されるわけではなかった。か
といって弁護士に付いている秘書やその他の事務員とは違って、一応個室をもらってはい
た。そして任されていたのは訴訟の下調べや訴訟に至っていない段階での相手方との交渉
だった。今までは若手の弁護士にさせていたらしいのだけど、事務所の評判が上がって受
任案件が増えたせいで、弁護士でなくもできる仕事は資格のない職員に任せざるを得なか
ったらしい。かといって秘書や事務員の女性にできる仕事ではなかったので、法学部出身
者を雇用しようということになったようだ。
あたしの待遇は、弁護士とは比較にならないけど、それでもこの法人に雇用されている
司法書士や行政書士と同程度には遇されることとなった。
要は弁護士法に抵触しない業務を預ける人間が必要になったところで、太田先生があた
しを思い出したということらしい。
「法科大学院には行けないけど、業務中でも暇をみて予備試験の勉強をして司法試験の受
験を目指してもいいんじゃないですか」
先生は穏かに言った。「別に司法試験に興味がないなら、普通に仕事していてくださっ
てもいいですよ。君の能力なら十分にできる仕事だし、仕事自体は面白いと思いますよ。
給料も前の会社以上を保証しますし昇給もありますしね」
確かに太田先生の提示したのは好条件だった。これ以上の待遇をしてくれる職場なんか、
実績もないあたしには望むべくもない。太田先生があたしの体目当てでないとしたら、何
でこんな厚遇をしてくれるのか理解できないくらいだった。
まあ、自分をよく知っているあたしは、太田先生のような人があたしごときを狙うこと
などないだろうなと内心では思い直しはじめてもいた。悔しいけど麻紀さんや理恵さん、
玲子ちゃんと比べても外見では劣っていることもよく承知していたし。
収入がない状態で実家に寄生して勉強をしているよりもいいのかもしれない。別に本気
で司法試験なんか目指しているわけじゃない。兄貴や奈緒人、奈緒を失った喪失感から会
社の業務に興味をもてなかっただけなのだし。
それでも会社の業務にやりがいを感じなかったあたしが太田事務所の仕事に興味を抱け
るのだろうか。自分でもよくわかっていたのだ。あたしはクズだ。
せっかく順調に生きてきて希望通りの職種に就職できたのに、何でやりがいを感じない
のか。
結婚しようとまで言ってくれた元彼のことをいったい何で放置したのか。
全ては大学四年のあのとき、麻紀さんが兄貴との家庭を棄てたあのときに、自分が舞い
上がって非常識な夢を見てしまったせいなのだ。あのときのあたしは両親と一緒に麻紀さ
んを非難してののしった。
でも、あのときのあたしは実は内心では喜んでいたのだ。子どもたちや兄貴のつらい思
いをよそに、育児を引き受けて兄貴を助けることができることに対して。
兄貴に頼ってもらえることに対して。
兄貴と子どもたちと四人で外出し、まるで家族のように振る舞うことに。あのときのあ
たしは、兄貴と同じくらい二人の子どもたちが大好きだったのだ。
だから冗談めかしてはいたけど兄貴には何度も言ったのだ。就職をやめてあの子たちを
育ててもいいと。兄貴の奥さんになってあげてもいいよとまで。
結局あたしのその想いは麻紀さんに負けた。別に太田先生に負けたのではない。あれだ
けひどいことをした麻紀さんに対する兄貴の未練に、あたしは完敗したのだ。
理恵さんのことは恨んではいなかった。むしろ兄貴のためを思って味方したつもりだ。
それでも、兄貴と理恵さんが夫婦になっても、奈緒人と奈緒はあたしのことを本当の母親
以上に、そして新しい母親である理恵さんよりもあたしをずっと慕ってくれるだろうと思
っていた。
でも、奈緒人と奈緒は残酷に引き離された。二人を慈しんで大切にすべき兄貴と麻紀さ
んの意思によって。
思い出しても仕方がない記憶に悩んだとき、最近のあたしはいつも携帯電話の請求明細
を見る。ほんのわずかな通話料が記されてる。これだけが、大学卒業前のあたしの行いに
対する唯一の報償だったのだ。
いつまでもこんな負の感情に身を任せているわけにはいかなかった。あたしは半ば自棄
になっていたのだろう。あたしは太田先生の事務所への転職を了解した。
今日は以上です。次の投下でこの章は終了し、次章からは最終章に入ります
次の分を投下したところで女神の更新に戻る予定です
乙
乙
結城法律事務所じゃないよね?太田法律事務所だよね?
>>318
作者です、すいません
ご指摘のとおりです
それほど業務量が多くなかったせいで、あたしは日中はいつも事務所にいる有希ちゃん
と仲良くなった。正直奈緒ほどじゃなかったけど、この子も十分に可愛らしい容姿の子ど
もだった。彼女の世話は事務の女の子たちが競うようにしてしていたけど、どういうわけ
かあたしは有希ちゃんに慕われたようで、彼女はよくあたしの部屋に来て日中の数時間を
過ごすようになった。いくら多忙ではないとはいえ数時間も仕事をしないわけにいかない
ので、あたしは当初戸惑ったけど太田先生は娘の動向をよく見ていたようで、あたしへの
業務を調整してまで有希ちゃんと過ごす時間を作るようにしたらしかった。
・・・・・・結局、太田先生はあたしの貧弱な肉体目当てでないことは確かだったけど、あた
しの能力というよりは保育士としての能力を買ったのではないか。あたしがそう邪推する
ほど、先生は有希ちゃんがあたしの仕事場の部屋に入り込むことを妨げなかった。
それでも任された仕事の合間を縫って有希ちゃんのお相手をすることにあたしはしだい
に慣れてきた。別に司法試験の勉強をする気はなかったので、時間を取られることはあま
り気にならなかった。ひょっとしてあたしは保育士になればよかったのかもしれない。
生まれた直後に母親を亡くしたという有希ちゃんは、一見母性に対しての憧れや希求を
表に現すことはなかったけど、それでも生意気な態度ながらあたしに対して興味深そうに
すり寄ってくるのは無意識のうちに母親の代わりを求めていたのかもしれなかった。
太田先生は有希ちゃんに対して一見甘やかしているようでいて、その実無関心とも思え
る放置気味な態度にあたしはどうでもいいと思いながらも、奈緒のことを思い出して少し
心が痛かった。なので、仕事の合間にあたしは有希ちゃんと真面目に向かい合おうと思っ
た。幸いに太田先生はあたしと有希ちゃんが仲良くすることを、喜んでいるようだったし。
少なくともそのことで先生に注意されたことはなかったのだから。
結局、あたしは信じられないほど居心地と待遇のいいこの事務所にしがみつく他の事務
員の女性たちと同様、太田事務所にずっと勤めることになった。あたしがここに勤め出し
てすぐに有希ちゃんは富士峰女学院に入学して小学生になったこともあり、今までのよう
に日中を事務所で過ごすことはなくなった。それでも最初のうちは彼女は学校が終るとわ
ざわざ自宅から運転手さんに頼んで事務所まで来ていた。母親を亡くしたボスの一人っ子
ということもあって有希ちゃんが来ると相変わらず事務の女性たちは彼女をちやほやした
し、社員資格のある弁護士たちも有希に明るく声をかけた。ボスの娘ということだけでは
なく、それは有希ちゃんの持つ不思議な魅力のせいだった。
この頃になるとあたしも有希ちゃんのそういう不思議な特徴というか性格に気がつくよ
うになっていた。小学校低学年の有希ちゃんを相手にしているのに、いつのまにか真面目
に頭を使って彼女の相手をしている自分に気がついたとき、あたしは有希ちゃんを子ども
扱いするのを止めた。あたしなんかが有希ちゃん相手の保育士になれるなんて一度でも考
えたことがおこがましい。これだけ頭の回転が速くて、しかも物事の本質を一瞬で把握す
る小学生なんて今まで見たことがなかった。有希ちゃんと話すたびに、あたしは昔読んだ
ことがある「恐るべき子どもたち」という古い小説のことを思い出した。
それでもこの頃の有希ちゃんはその洞察力や理解力であたしを驚かせていたけど、行動
そのものは普通の小学生の女の子の域を逸脱するものではなかった。もちろん、初めてあ
った頃と変わらずその発言は際どい。実際、小学生相手とは思えない会話なんてしょっち
ゅうだった。そもそも、就学前から彼女は父親である太田先生の仮初めの恋人がここの女
性職員であることを知っていたのだし。それについては有希ちゃんの早熟さというより太
田先生の不用意な行動に責任があった。
「唯ちゃんがパパの彼女ならいいのに」
有希ちゃんが小学校の四年生になる頃だったか、彼女がやたらとあたしにそう言い出し
たことがあった。この頃の有希ちゃんは学校で親友もできて、またピアノの演奏という興
味の対象ができたためあまり事務所には顔を出さなくなっていた。それでもピアノレッス
ンがない日とか親友と会えない日とかに退屈すると、彼女はたまに事務所に顔を出す。事
務所に来ると嬉しいことに彼女は真っ先に太田先生の執務室ではなくあたしの部屋に来て
くれる。
「何言ってるのよ。あたしは有希ちゃんのライバルになる気なんかないよ」
有希ちゃんが重度のファザコンだということにこの頃のあたしは気がついていたし、有
希ちゃんもそのことを隠そうとしないばかりか、太田先生への気持ちを自らあたしに話し
たがる始末だったので、あたしもこの話題に大分慣れてきていた。だから、有希ちゃんに
こう言われたとき、あたしは素直に反応することができた。単なる冗談としてだけど。
「だって実のパパだし、有希とパパが恋人同士になったらまずいんでしょ?」
富士峰の清楚な小学校の制服に身を包んだ有希ちゃんが、あたしの部屋のソファに腰か
けて白いストッキングに包まれた細い足をぶらぶらと揺らしながら言った。
「・・・・・・それはまあ、世間一般じゃタブーとされている関係ではあるね」
小学校四年生相手の会話じゃない。しかも相手は自分のボスの一人娘なのだ。
「まあ、パパがあたしを好きなことは間違いないんだけど、パパってば全然あたしに告白
とかしてくれないんだよね。というかあたしの手にだって触れてこないし」
「有希ちゃんさあ、そういうことはあたし以外の人には言わない方がいいよ」
有希ちゃんはふふって可愛らしく笑った。
「言うわけないじゃん」
「ならいいんだけど」
「あたし、パパが頭悪い女の人と付き合うのやなの。いつもいつもあたしが話しかけても
ちゃんと答えられない女の人ばかり」
「最近のボスの彼女ってやっぱり大部屋の人なの?」
大部屋とは事務所の中で、事務員たちが詰めている部屋のことだ。庶務頭とよばれてい
るあたしより年上の三十台後半のお局さん以外は、そこで働いているのは皆二十代の女性
たちだ。
「最近は違うみたい。今はパパはフリーみたいよ」
「そうなんだ」
「唯ちゃんがパパの彼女ならあたしはパパとの仲を認めるんだけどなあ」
「それは光栄ね」
「本当だって。唯ちゃんは頭いいし、有希とも話が合うし。唯ちゃんならパパの再婚相手
だって許しちゃう」
あたしは思わず笑ってしまった。それでも有希ちゃんの信頼は嬉しかった。
「太田先生は面食いだからねえ。あたしなんかには興味ないよ」
「唯ちゃんは可愛いって」
小学生に言われても嬉しくない。でも、そのとき有希ちゃんは秘密を打ち明けるような
顔で何か言いた気にあたしの方を見た。
「あのさ、でも本当はパパの好きな女って」
「うん?」
「誰にも言わない?」
「何が?」
「あたし見ちゃったの。パパの寝室にアルバムがあるのを」
「いつも枕元に置いてあるアルバムなのよ。そしたらさ。その中には小学生とか中学生の
女の子の写真がいっぱいあったの」
「え」
「パパってあたしみたいな小さな女の子とお付き合いしたいのかなあ。だから女の人には
もてるのに長続きしないのかも。まあ、どうでもいいけど」
どうでもよくはないだろう。この子はさらっと言ったけどそんな趣味があることを業界
に知られたら、いくら太田先生だってヤバイと思う。
「でさ。そのアルバムを最初から全部見ていったの。写真は印刷物とかネットの画像じゃ
ないみたいで、本当に撮影した写真をプリントしたやつみたいなんだけどさ」
では太田先生には本当にそういう趣味があったのか。まさか、小中学生の女の子を盗撮
とかしているんじゃないでしょうね。そういえば仕事以外ではあまり自分のことを語らな
い先生だけど、たまの休日に写真を撮るのが趣味らしいと若手の弁護士から聞かされたこ
とがあった。そのときは鳥とか花とかを撮るのかなあって思って、先生の普段の知的で論
理的な仕事振りとのギャップに驚いたのだけど。
「あたし、びっくりしたんだけど。アルバムの最後の方に、あたしの写真がいっぱいあっ
たの」
「え?」
「制服を着たあたしとか、運動会のときの体操服姿のあたしとか、水着のあたしとの写真
とかなんだけど、パパ、いつの間にあんなの撮影したんだろ。普段は行事があっても滅多
に学校に来てくれないのに」
疑問を抱くのはそこじゃないでしょ。あたしは内心で思った。
「そのアルバムって本当に小学生の女の子の・・・・・・、その体操服とか水着姿ばっかりだた
の」
「ううん。そうじゃないよ。ほとんどは制服を着ている小学生の写真ばっかだった。しか
もアップの」
「制服って」
もしかして。嫌な予感は的中した。
「うん。パパのアルバムの中の写真はぜーんぶ富士峰の制服の子だよ」
「・・・・・・それはちょっと変だね」
「変って言うか、パパは富士峰女学院フェチなのかもね」
フェチなんて言葉を小学生が普通に使うこと自体が間違っていると言わざるを得ない。
「何よそれ」
「何だかね、富士峰の小学生とか中学生の写真だらけなんだけどさ、何か昔の写真とかも
いっぱいあってね。何か二十年以上前の写真とかだと思う。だって、うちの学校のセー
ラー服のスカーフって十年位前に色が変わったんだけど、今と違うスカーフを巻いている
子の写真が結構あるし。それにその子、すごく可愛いの」
「そうなんだ」
「うん。だからさ、最初はパパのオナニー用のネタ写真じゃなくて本当に追憶のアルバム
かと思ったの。だってうちの家って女は昔から代々富士峰に入学しているからね」
小学生がオナニーとかネタとか言うな。あたしはそれをスルーして言った。
「それって単なる一族の女性のスナップ写真集なんじゃないの。有希ちゃんの家って女性
は代々富士峰に入っているんでしょ」
あたしは少しだけほっとした。この子の意味深な考えすぎな戯言にまじめに考えたあた
しがばかみたいだ。
「でも、そうじゃないみたい」
「うん?」
「だって・・・・・・。パパはよくそのアルバムを見ながら変なことをしてたしね」
「変って?」
「よくわからないけど、パパはパンツを下げて何かごそごそしながら小さな声ではあはあ
って言ってた」
「ストップ!」
「・・・・・・何で?」
有希ちゃんが不思議そうに顔を傾けた」
「どうしてもだよ。もういいよ、聞きたくない」
「唯ちゃん、変なの」
変なのはあんただ。前から大人びている子だと思ってはいたけど、この年になれば男親
のそういう行為を目撃したら少しは悩むべきじゃないか。いったいこの子は無邪気なのか。
それとも恐ろしいくらいに早熟なのか。
自分のボスに対して特別な愛着はないけど、それでも身近な人物のそういう話を聞かさ
れるのは嫌だ。今の話だけで確定というわけではないけど、これだけでもこの先ボスと普
通に会話できる気がしない。
「唯ちゃんが嫌ならやめるよ。もっと面白い話もあったのに」
「もういいよ」
この話を始めて聞いたときには本気でもういいと思った。でも、その後もピアノのレッ
スンの合間に気まぐれにあたしを訪ねてきた有希ちゃんは、意味深で気になる話をしたが
った。この年齢なら学校の友だちとかピアノ教室のライバルとかの話をしたがるのが普通
だろうに。
よく考えてみればあたしは有希ちゃんの同級生やピアノ教室での交友関係の話を聞いた
ことはない。今にして思うと、有希ちゃんはあたしに救いを求めていたのではないだろう
か。一見天真爛漫に父親の性癖を語っていた彼女は、六年生になったある日からこの手の
話を一切しなくなった。彼女に何があったかはわからないけど、さすがに年頃になった有
希ちゃんも恥じらいという感情を覚えたのだろうとあたしは考えた。
この頃から中学二年生になるで、もう有希ちゃんはあまり事務所に顔を出さなくなって
いた。育児というほどではないけど、その真似事をしている気になって満たされない想い
を満足させていたあたしは少しだけ寂しく思った。内心では有希ちゃんも年相応の友だち
と一緒に過ごすようになったのだから、そのことを喜んであげるべきだと思ってはみたけれど。
有希ちゃんとは仕事中に滅多に会わなかったあたしは、同時にこの頃になると太田先生
からも直接指示を受けたり、結果を報告したりする機会が極端に減った。いったいこの親
子に何があったのだろう。あるいは何もなかったのかもしれない。普通の家庭ならありが
ちなように有希ちゃんも父親や父親の職場に興味をなくし、普通に同級生の男の子に夢中
になったり、あるいはピアノに熱中していたのかもしれない。
それが普通なら健康的な小中学生のあるべき姿だったし、あたしは一抹の寂しさを感じ
ながらも有希ちゃんもあたしから卒業したんだなって思った。奈緒人や奈緒との別れのと
きのような寂しい感情はなかった。何年間に及ぶ有希との交流は、奈緒人と奈緒との数ヶ
月よりははるかに長い。でも、その密度は比べようもなかったから、あたしは以前の別離
のような世界が崩壊するようなあの感覚を再体験することはなかったのだ。
なので有希ちゃんとはあまり会わなくたったことは、別にあたしの人生を変えるほどの
インパクトはなかった。あたしは、相変わらず要求レベルは高かったけど勤務時間のほと
んどを捧げるまでもなく遂行できる仕事に従事しながら、主観的にも客観的にも無駄な時
間をこの事務所の与えられた個室で過ごして来た。もちろん司法試験に受験することもな
く、司法書士の資格を取得するでもなく婚活するでもなく、ただ茫漠とした日々を。
そうして忙しい曖昧で記憶の残るものがあまりない月日が何年も無益に流れた後、寒い
冬のある朝、いつもどおり出勤したあたしはビルのロビーですごく久し振りに有希ちゃんを見かけた。
確か彼女ももう中学二年生になっているはずだった。彼女の清楚な富士峰の制服姿は、
出勤時間のこのビルのエレベーターホールではやたら目立っていた。
少しだけ大きくなったけど、あたしにはすぐに彼女のことがわかった。
それは平日の朝のことだったので、有希ちゃんは学校があるはずだ。あたしは不審に思
った。別にあたしに会いにきたわけではないだろうけど、無視することもない。あたしは
有希ちゃんに近づいた。出勤する人たちの群れの中で有希ちゃんはあたしに気が付いた。
「唯ちゃん?」
「有希ちゃん。久し振りだね」
「唯ちゃん、元気そう」
「まあね。こんなに早くどうしたの? 太田先生は一緒?」
「ううん。彼は今日は審議会なんで法務省に直行だって」
うん? 彼って有希ちゃんのパパのことか。久し振りに会った有希ちゃんの大人びた表
情と彼っていう表現にあたしは少し戸惑った。
「彼って、太田先生のこと」
有希ちゃんは幸せそうに微笑んだ。
「うん。パパは最近はすごく忙しいの。政府の審議会にも呼ばれてるし、新しい事務所も
立ち上げたんだって」
有希ちゃんってこんなにパパっ子だっけ。一瞬、少し斜に構えて幼女らしくもなく父親
のこと批判的に眺めていた幼い彼女の姿が目の前にいる有希ちゃんの姿に重なった。
「そうなんだ。そんなに忙しいんだ。どおりで最近企業訴訟とかのミーティングに先生が
姿を現さないわけね」
有希ちゃんが得意そうに微笑んだ。
「うん。パパはそこいらにいる弁護士とは違うからね。忙しくてもしようがないよ」
何だか違和感を感じる。別に有希ちゃんはパパが嫌いと言うわけではなかったけど、少
なくとも多忙な仕事のせいで先生に放置されていることは気にしていたはずなのに。それ
がどうだ。今の有希ちゃんは微笑んで先生の多忙さを、まるで先生の奥さんになったかの
ように得意気に説明している。
いったい彼女に何があったのだろう。
やがて一階のフロアに到着したエレベーターに、なだれ込んでいく他の人たちと一緒に
あたしと有希ちゃんも乗り込んだ。あたしは事務所のある十四階のボタンを人混みの中で
苦労して押した。
「二十六階も押してもらっていい?」
有希ちゃんがそう言った。反射的に二十六階のボタンをおしてから、あたしは有希ちゃ
んを見た。
「うん? 事務所に遊びに来たんじゃないの?」
「新しい方の会社の事務所にね。今話したじゃん。パパが新しい事務所を作ったって」
そう言えば彼女はそう言っていた。有希ちゃんの先生に対する奇妙なほど崇めているよ
うな態度が気になって、そっちの方は聞き流してしまっていた。
新しい事務所って何だろう。あたしが所属する弁護士法人とは関係がないことは確かだ。
こんな話は全く噂にすらなっていなかったのだから。
「唯ちゃんも見に来れば?」
「うん。でもいいのかな」
「別に問題ないじゃん」
それであたしは十四階で降りずに二十六階まで有希ちゃんと一緒に昇っていった。
「ここだよ」
外見はうちの事務所と大分違うようだ。十四階の太田法律事務所の外見はガラス張りで
外からは簡素だけどお金のかかった上品な調度が見える。一見のお客さんならちょっとは
入りづらいと感じるだろう。太田事務所のクライアントには個人の依頼人はいないのだか
ら、これで問題ないのだけど。
有希ちゃんに案内された場所には頑丈そうなドアがあるだけで、ガラス張りのエントラ
ンスなんか見当たらない。ドアには金色の簡素なプレートが掛かっている。
『太田リサーチ・オフィス』
そのプレートに記されている名称は簡素だけど怪しげだった。
あたしの怪しげな場所を眺めるような視線を少しも意に介さず有希ちゃんはカードを取
り出して壁面のリーダーに通した。小さな緑色の光が点灯してロックが解除された。
「どうぞ。中を見ていってね」
入り口の無愛想なドアを開けて中に入る有希ちゃんの後についてあたしもその事務所に
足を入れた。
ドアを開けたところには、受付カウンターではなく事務用の地味な灰色のデスクが二つ
向きあって置かれていて、二人の女性がそこに座っていた。
「おはよう」
有希ちゃんが声をかけた。あたしより若そうな彼女たちは二十代半ばというところだろ
うか。二人は有希ちゃんを見ると揃って立ち上がっていきなり敬礼した。
一体何だ。驚いているあたしを尻目に有希ちゃんが笑い出した。少し遅れて真面目な顔
で敬礼していた彼女たちも照れくさそうに笑い出した。
「全然本物っぽくないね」
「まだ練習を始めたばっかりだしね」
「何か漫才の人がふざけて敬礼の真似しているみたい」
「そこまで言わなくてもいいじゃん。こう見えてもあたしたち、真似をすることはプロだ
ったし」
「女優の卵とかだっけ?」
「うん。まあ、そう言う感じ。中学生の有希ちゃんにはこれ以上言えないけどさ」
「どうせ、イメクラかなんかで働いてたって落ちなんじゃないの」
「イメ・・・・・・って、有希ちゃんなんてこと言うのよ。中学生がそんなこと知らなくていい
の」
「まあ、いいよ。まだ時間があるからもう少し練習してね」
「はい、ボス」
二人は中学生の有希ちゃんに媚びるような笑顔を見せた。
「で、この人は?」
急に真面目な口調で二人のうちの一人が疑わしそうに言った。
「唯ちゃんだよ」
そう言えばわかるとでも言いたげに気楽な口調で有希ちゃんが言った。
「結城唯です」
これだけではわからないだろうからあたしは言葉を続けた。
「結城法律事務所の事務スタッフです」
「ちょっと、有希ちゃん駄目じゃん」
狼狽したように受け付けの女性が言った。
「駄目って何で」
有希ちゃんは少しも動じていないようだ。
「法律事務所の方の表の人たちをここに入れてはいけないと、ボスから言われてますか
ら」
急に敬語で切り口上になった彼女が言った。
「ボスって?」
「え」
「ボスって誰? 名前を教えて」
急に気弱になった受付の彼女は口ごもった。
「それは・・・・・・、太田先生でしょ?」
「違うよ」
中学生の有希ちゃんが傲然と言った。「法律事務所じゃないんだから、ここのボスはあ
たし。ついでに言うと昨日までチーフだった安江さんは辞めてもらったからね」
「あ、はい。すいません」
「わたしが連れてきた人を入れない権限なんてあたなたちには無いんじゃないかな」
「あ、はい」
「あとで加山さんが初出社してくるから、来たら教えて。あなたたちの新しいチーフよ」
そう言って有希は奥の部屋に向った。「パパがあたしをボスに選んだんだから、ちゃん
と言うことを聞いた方がいいと思うよ」
有希ちゃんはそう言い棄てると先に立ってこのオフィスの奥の方に入って行った。あた
しは気まずい思いを隠しながら有希ちゃんの後を追った。
受付のあるロビー的な部屋を通り抜けると、短い廊下の両側に幾つかのドアがあった。
そのうちの一つのドアを開けて有希はあたしを中に招じ入れた。
「ここがあたしの部屋なの。学校に行きたくないときは最近はいつもここにいるの」
高層のオフィスビルには似つかわしくなく少女っぽい部屋がそこに作られていた。でも、
そのこと自体にはあたしは驚かなかった。もともと太田先生に甘やかされていた彼女は、
うちの事務所に自分専用の部屋を持っていた。そこも感覚的にはここと同じような感じだ
ったし。
「もう十四階の部屋は撤去しちゃったから。あたしに用事があるときはこれからはここに
来てね」
有希ちゃんがピンク色の大降りのソファに埋まるように座って言った。
「いいの?」
「唯ちゃんならいいよ。カード渡しておくからよかったら持ってて」
唯ちゃんがあたしにカードをくれた。
これを受け取るのは気が進まなかった。何か太田先生のこの新しい事務所はうさんくさ
い。正直に言えば関わりたくない匂いがプンプンとしている。
「座ったら」
有希ちゃんがあたしにそう言った。
「もうすぐ勤務時間が始まっちゃうからそろそろ帰らないと」
「そんなに忙しくないんでしょ? 少し付き合ってよ」
忙しくないのは本当だけど、あからさまに言われると何か悔しい。いくらボスの娘だと
しても中学生ごときに言われて楽しい話題ではない。
「どうせやりがいもないのに惰性でやってるんでしょ。いいじゃん、少しお話しようよ。
本当は今日は唯ちゃんとお話できないかなって思って、それで学校を仮病でさぼってまで
ここに来たんだよ」
すごく失礼な言葉だったけど、同時に彼女が正確にあたしの気持ちを理解したうえで言
っていることは理解できた。これでは否定しても見透かされてしまうだろう。やはり、こ
の子は恐い子だ。それに有希ちゃんがあたしに話ってなんだろう。しばらく会わなかった
有希ちゃんの言葉にあたしは好奇心をそそられていた。
「庶務頭に電話して唯ちゃんには別な仕事があるって言っておくね」
「ええ、ちょっと」
「うん? ああ、庶務頭じゃ駄目か。じゃあ佐宗先生に言っておく方がいいか」
「・・・・・・いいよ。自分で電話するから」
「やった」
有希ちゃんは可愛らしく微笑んで嬉しそうに自分の両手を握って振った。
佐宗先生は太田先生が不在時の太田法律事務所の実質トップだった。こんな時間に来て
いるわけがない。それであたしは大部屋に電話して今日は急用が出来たので一日休暇を取
る旨を事務員に伝えた。
「休暇じゃなくて仕事だって言えばいいのに」
「何でもいいのよ。どうせ有給なんか余りまくっているし」
「そう? 唯ちゃんといっぱい話ができるなら嬉しい。そこに座って。紅茶でいい?」
あたしは有希ちゃんが腰かけているソフォの正面に置いてあるカウチに腰かけた。お尻
が座面に深々と沈んで居心地が悪い。
「有希ちゃん、あたしに話って何?」
「うん。あたしさ、パパの仕事関係の人で信頼できるのって唯ちゃんだけなの」
それは喜んでいいことなのか。にわかには判断できない。でも、あたしも奈緒人と奈緒
を喪失した後に、独身の身にも関わらずこれだけ長い間一人の少女の成長を見守ることに
なるとは正直自分でも意意外だった。もちろん、それは定点観測のようではあったけど、
実際に触れ合う頻度としてはすごく少ない。現に有希ちゃんとちゃんと向き合って話すの
は何年ぶりか思い出せないほどだったし。
それでもあたしは、この実年齢よりだいぶ大人びた少女のことが嫌いではないようだっ
た。
「ありがと」
あたしはとりあえず当たり障りのない返事を口にした。
「唯ちゃん、この事務所が何をしているのか知ってる?」
「さあ、わかんない」
わかるわけがない。太田先生の新事務所とかさっき初めて聞かされたばかりだし、事務
所内に入っても受付に非常識なギャルっぽい女がいることはよくわかったけど。あれでは
まともな顧客は逃げ出すのではないか。
「聞きたい?」
何かを期待しているように有希ちゃんがあたしの方を覗った。あたしはため息を押し殺
した。
「うん、聞きたいな」
「そうなんだ、唯ちゃん聞きたいのね」
嬉しそうな表情で彼女が言った。「唯ちゃんにだけは教えてあげようかな」
「ほんと?」
それほど興味があったわけじゃない。というか、関わりにならないほうがいいとあたし
の本能は警告していた。
「そうかあ。唯ちゃんも興味あるんだ。じゃあ、教えちゃおうかなあ」
「そんなに秘密のことをしているの」
「そうだよ。とっても秘密なお仕事。パパとあたし以外の人には秘密なの。でも、唯ちゃ
んになら教えてもいいな」
有希ちゃんがにっこりと笑った。「でも条件があるの」
「・・・・・・条件って」
「教えてもいいけど、その代わり唯ちゃんもこの事務所の仕事を手伝って」
「・・・・・・はい?」
「あたしさ、一番愛しているのはパパで、次がナオで」
「ナオ?」
「それで三番目で悪いんだけど、あたしがナオの次に愛しているのは唯ちゃんだと思う
の」
え?
何を言っているんだこの子は。パパが好きならわかる。けど、実の親を愛しているって。
それにナオというのは誰なんだろう。そして、あたしを愛しているというのは何の冗談な
のか。
「唯ちゃんってさ。今だにあたしのこと、唯ちゃんと初めてあった頃の小さい女の子だと
思ってるでしょ」
有希ちゃんが言った。まあ、そういうこともないではない。あたしにとって太田事務所
での日々はあっという間に過ぎ去ったという印象がある。だから未就学児の有希ちゃんの
印象は今だに強いと言ってもいい。実際にはもうすぐ高校生になる女の子なのだけど。
「あたしはもう大人なの。あたしさ、昔から唯ちゃんのことは好きだったんだ。唯ちゃん
は女の人相手にこんな感情を持つことっておかしいって思う?」
有希ちゃんがソファから立ち上がって、あたしが座っている横に立った。身長差はあっ
たはずだけど、座っているあたしは有希ちゃんを見上げる形になった。有希ちゃんは両手
をそっとあたしの両頬に添えた。油断していたあたしの顔は、有希ちゃんの細く華奢な手
によって無理矢理上を向かされるような態勢にされた。
「ねえ。年上の女の人を抱きたいとか、無茶苦茶にしたいとか、可愛がってあげたいとか
って思うのっておかしいのかな」
そのときのあたしは呆然としていて、有希ちゃんの無遠慮な両手にに抵抗することすら
思い浮ばなかった。
「唯ちゃんを裸にして虐めたいとか。唯ちゃんを気持ちよくさせてあげたいとかって、あ
たしが考えちゃうのは異常なのかな」
それに答える前に、あたしの唇は有希ちゃんの口によって突然塞がれた。狼狽して抗お
うとしたあたしの身体は有希ちゃんに抱きすくめられて、自由にならなかった。そのまま
長い時間、あたしは有希ちゃんに口内を自由に愛撫されていたようだった。
やがてあたしは自分の口の中から有希ちゃんの舌が出て行くのを感じた。
「ねえ、あたしって異常だと思う?」
あたしは有希ちゃんの抱擁と愛撫とキスによって、身体の力が抜けてしまっていた。中
学生のガキなんかにいいように弄ばれて。
有希ちゃんは異常だ。
あたしはそう思ったけど、有希ちゃんのキスはあたしを束縛して、この子には抵抗でき
ないという甘美な絶望感を与えさせられていた。彼と別れてそういうことをされるのが久
し振りだったということもあったのかもしれない。
「・・・・・・あたしのこと、気持ち悪いとか思わないで。あたしのこと嫌いにならないで」
あたしを抱きすくめたまま、唇を離した有希ちゃんが耳元で囁いた。あたしは自分の髪
を中学生の有希ちゃんに撫で回され、一言も発することも身動きして抵抗することもでき
なかった。
「唯の反応って可愛い」
有希ちゃんがくすっと笑った。彼女はいつのまにか十何歳も年上のあたしを呼び捨てに
していた。
有希ちゃんがあたしの両頬から手を離し、あたしのブラウスのボタンを器用にはずしは
じめた。やがて有希ちゃんの手によって、ブラウスが押し開かれた。
「唯の肌、真っ白できれい。ずっと撫でていたい」
あたしは自分の首筋に有希ちゃんが唇を寄せてきたことを感じた。それは大学時代の彼
のキスを思い起こさせてあたしは狼狽した。
中学生の女の子の強引な告白と愛撫は、屈辱と官能を伴ってあたしの脳裏に圧倒的な圧
力で押し寄せていた。あたしの身体は有希ちゃんの愛撫によって麻痺したように全く身動
きできなかった。
「大好きよ、唯・・・・・・。これからもあたしと仲良くしてくれるでしょ?」
いい年をしたあたしが、中学生の女の子に押し切られ降伏して、はいと答えようとした
そのとき。
突然テーブルの上に置かれた電話がやけに大きな音量で鳴り響いた。有希がはっとした
様子であたしの体から手を離した。
予告どおりに終われませんでした。もう少しこの章の投下をします。
最終章前で、女神に戻りたいと思います。
乙
乙ー
おつ
おつん。
「ちぇ」
有希は舌打ちすると手を伸ばして電話の子機を取った。
「何?」
無愛想に答える有希を眺めながら、あたしはうつむいまま震える手で有希によって外さ
れたブラウスの前ボタンを直し始めた。その様子に気が付いた有希が空いているほうの手
であたしの腕を掴んだ。
「ちょっと待って」
電話に向ってそう言うと有希は一度電話を置いて、両手であたしの両腕を掴んであたし
をソファに押し倒した。
「服を着ちゃ駄目。まだ終ってないんだから」
彼女に押し倒されたあたしはブラウスを直すことを許されなかった。かえって彼女はあ
たしのブラウスを掴んで肩から抜くように脱がせた。
「途中で邪魔が入っちゃってごめんね、唯。このまま少しじっとしててね」
弱々しく抗って起き上がろうとするあたしは押し倒されたまま、有希ちゃんに再度口を
塞がれた。すぐにあたしは有希の唇から解放された。電話が気になっているみたいだ。
「横になっておとなしくしてて。服を着ちゃ駄目だよ? せっかく可愛い格好になってい
るんだから」
あたしは混乱したまま身体の力を抜き抵抗を諦めた。あたしは上半身を露わにされたま
ま横たわって、有希が電話を終えあたしの元に戻ってくるのを待つことになったのだ。目
に涙が浮かんだ。いい年をしたあたしが中学生の女の子に泣かされている。
「ああ、ごめん。外線? いったい誰が・・・・・・。ああ、そうか。いいよ繋いで」
何事もなかったかのようにあたしの身体から離れた有希が再び電話を取って言った。
「もしもし。うん、そう。あたしが太田有希だよ」
「今日だったっけ? ごめんなさい、明日だと思ってたよ。うん、ごめん。ちょっと待っ
て」
一瞬、電話を片手で押さえて有希があたしを見た。目で身体を愛撫されているような感
覚が体内から沸きあがり、じっとしているように有希に言われていたにも関わらずあたし
は思わず身体を横向きにして、有希の無遠慮な視線を避けようとした。
「動いちゃ駄目。そのままあたしからよく見えるようにじっとしてて」
「・・・・・・有希ちゃん」
「せっかくこれから楽しいことをするはずだったのに、ちょっとだけ面接しなきゃいけな
くなっちゃった。あたしのこと怒らないでね」
答える間もなく有希は再び電話に戻った。
「いいよ。これから事務所に来て。お話しましょう。パパからだいたいの話は聞いている
から」
「うん、うん。え、すぐに来れるの? 今どこ」
「そうか、駅にいるんだ。じゃあ、五分もかからなないね。受付には言っておくから」
電話を切った有希があたしの傍らに立った。
有希は黙ってあたしの身体を見下ろした。これからのあたしたちの上下関係を的確に教
えようとしているのだろうか、彼女はソファに横になったままじっとしているあたしを、
上から眺めていた。
「これからお客さんに会わなきゃいけないの」
「うん」
上半身を下着だけの姿でこの子に返事するのは奇妙な感じだった。
「隣で面接するから、唯はここでいい子にしてるのよ」
「え?」
「そう。うちの社員採用の面接だから待っていて」
「だって・・・・・・」
あたしは起き上がって再びブラウスを着ようとした。
「駄目」
「え?」
「これだけ長く付き合っていて、今日ようやく初めて唯の身体を見れたんだよ。勝手に隠
しちゃ駄目」
「だって・・・・・・お客さんが来るんでしょ」
あたしは中学生の少女に媚びるように、機嫌を取るように答えた。
「そうだよ。唯はその姿のままそのソファに横になってればいいよ。隣の部屋で面接をす
るから大丈夫。あたしが可愛い唯の裸を他人に見せるわけないじゃん。安心して」
安心してといわれて納得できるようなことじゃない。あたしはこのオフィスでこのみっ
ともない格好で一人で待っていろといわれているのだ。反射的に萎縮して縮こまろうとし
たあたしに、有希は苛々した様子を見せた。
「何でわかってくれないの?」
あたしは再び有希に肩を抱かれて彼女の方に引き寄せられた。そのままあたしの髪をな
でながら彼女が言った。
「年の差なんか関係ないじゃん。唯も素直になりなよ」
あたしはただ震えているだけで何も言い返せなかった。
「いっそ全部脱いじゃおうか。ここには誰も来ないし。面接が終った後、脱がすところか
ら再開するんじゃ面倒だしね」
あたしは間近にいる有希から目を逸らした。そして目を瞑って身体を固くしたまま唯の
器用な手によって体に残っていた衣類を脱がされ裸にされた。少してこずっていた有希は
五分ほどで器用にあたしの体から下着も含めて衣類を全て取り去ってしまった。慣れてい
る動作のようだった。
「緊張してるの? ・・・・・・本当に唯って可愛いね。想像していたとおりの綺麗な体」
抱き寄せられた裸の背中に愛撫の感触がきた。
「もう許して」
その相手が中学生だとか、そういう思いは既に頭の中になかった。
「許すわけないじゃん。唯のことを信頼しないわけじゃないけど、面接中に逃げられたり
また服を着られたら嫌だからさ。自力では服を着られないようにしておくね」
唯がソファの下から何かを取り出した。
「じっとしてて」
あたしはソファの上で身体を一度うつ伏せにされ、両腕を背中に回され後ろ手にされた
両手首を何かで縛られた。
あたしは下着すら許されず全裸のまま両手を拘束されたのだ。
「・・・・・・本当に可愛いのね、唯って。やばい、失敗した。あんたを裸にして縛ったら面接
とかどうでもよくなっちゃったよ」
胸に有希の手が覆いかぶさった。
「貧乳だ」
やさしく微笑みながら有希があたしの乳房にそっと撫でた。
「そんなに悲しそうな表情しないで。でもその表情可愛い」
乳房から手が離れたかと思うと突然フラッシュが光った。有希がどこからか小さなデジ
カメを取り出して撮影したらしい。
「もう逃げられないね。縛られてヌード写真まで撮られちゃったし。何か感想ある?」
あたしは黙っていた。
「まあ、喋りたくないならいいよ。続きは面接の後でね」
「じゃあね、唯。いい子にしてるのよ」
有希がそう言ってあたしから離れた。
有希が部屋を出て行くと、あたしは一人っきりで全裸で縛り付けられたままで少し冷静
になった。いい年をしたOLがこんなところで中学生にいいように脱がされて縛られてい
る場合か。別に暴力で言いなりにさせられたわけでもないというのに。
あたしの人生は希望していた一部上場企業に内定していたところまでは、何の陰りもな
かったはずだ。恋人だっていたのだし。
わけがわからない。我に返ったあたしはそう思った。何でこんなところでいきなり裸に
されて拘束されているのだろう。何でこんな屈辱に言いなりにならなければいけないのだ。
卒業以来、半ば自暴自棄になって暮らしてきたあたしだけど、さすがにこれはまずいの
ではないかという思いが覚醒した。。
あたしの人生設計は兄貴と麻紀さんのせいで狂わされたのかもしれない。そして今さら
人生を再建してキャリアを積むとか幸せな結婚をつかむとかとかという気はしないけど、
だからといって別に自暴自棄になったわけでもない。こんなところで、年齢の割には恐ろ
しいほどのカリスマ性を持っていたとしても、たかが中坊の有希に無理矢理同性愛の相手
を強要されておとなしく従うほどに人生を諦めたわけじゃない。
自暴自棄ではないにしても,やる気なく流されやすく人生を送っていたことは確かだっ
た。それでも最初のうちはここまで自棄になっていたわけではないと思う。兄貴を失い子
どもたちを失ったあたしだけど、毎月携帯電話のキャリアから請求明細が届くことだけに
は、こんなあたしも生き甲斐を感じていた。
だけどある日、一月に一度だけ与えられるわくわくした時間を楽しみにしながら届いた
封筒を開けたあたしは、明細書に基本使用料しか請求されていないことに気が付いた。
あたしが用意した手段は、あの子たちが別れさせられてから一年間の短い期間すら二人
を繋いでいることができなかったのだ。何があったのかはわからなかった。どうしてそう
なったかも。でも、二人がその細い繋がりを絶たれてしまったことだけは確かだった。
それからだろう。あたしが本当に人生における自分の目標を失ったのは。自分の人生の
目標を棄ててまで愛した奈緒人と奈緒は結局共に人生を歩む道を閉ざされたのだ。あたし
が兄貴を失なったどころじゃない悲劇が彼らの身に起こったことは間違いない。このとき
あたしに出来ることはなかった。絶縁した兄貴に連絡することも、まして麻紀さんに連絡
することもできはしなかった。あたしが自分の人生に対して投げやりでじ自棄な態度を取
り出したのはこのときからだった。
まあ昔の話はいい。それにしても今のあたしは流されるにもほどがある。何も流される
ついでに中学生の女の子の誘惑に乗って自暴自棄に身体から力を抜くことはないじゃない。
危うく流されて有希の玩具にされかかったところであたしは目を覚ました。よく見れば
あたしの両腕を拘束している縄だって、解けないというほどではない。もう少し両手を揺
すれば、あるいは。
そう考えて両手を揺すると以外に簡単に両手を戒めている綱は揺るんだ。少しあがくと
あたしは相変わらず全裸のままだけど自由になった。急いでこの場から逃げだそうとして
下着やブラウスを慌てて身に纏った。
そっと部屋を抜け出したあたしは、隣にあるドアが少しだけ開いていることに気がつい
た。閉め忘れたのだろうか。部屋の中から有希と誰かの声が漏れ出していた。
有希と誰かの会話なんかには関心がなかった。というより今のあたしにはそんな余裕が
なかったのだ。とにかく落ちるところまで落ちそうな自分を立て直そうと、決心した今は
とにかくここを脱げ出そうとだけ考えていたからだ。
ただ、空いているドアの隙間からあたしが出て行くところを有希に気がつかれたらまず
い。決心したとは言ってもあの中学生とは思えない有希のカリスマ性に対抗できるかどう
かは心もとない。さっき、有希の手に弄ばれて蛇に睨まれた蛙のように身動きできなくな
ってしまった自分を思うと。
それであたしは空いたドアの前を通り抜けようかどうしようか迷いながら何となく有希
と知らない男の人を聞いていた。
その内容を聞いたとき、あたしは凍りついた。
「・・・・・・どうも」
「あなたが加山さん?」
「ああ。あんたは・・・・・・」
「パパから聞いているでしょ」
何か暗そうな二十代後半の男の人の声のようだ。
「・・・・・・俺が聞いているのは、ここに来れば女帝と会えるってことだけなんだけどな」
「ちゃんと会えてるじゃない。女帝にね」
「おい、まさか。あんたみたいなガキが」
「ガキって失礼ね。そう、あたしが女帝だよ。初めまして。巡査部長の加山さん」
有希とこの男は何を話し合っているのだろうか。
「まさか。嘘だろ・・・・・・。あのガキがチクったのは本当だったのかよ」
「あたしのことをチクッた奴がいるの? 加山さん、パパに言われた取り引きをする前に、
参考までにそのおバカさんの名前を教えてもらえるかな」
「やだね」
「やだって・・・・・・。あなた、自分の立場をわかってるの。お金持ちになりに、パパの稼ぎ
のおこぼれを拾いたくて頭を下げに来たんじゃないの」
「違うね。まあ、金持ちになりにはあってるけど、頭を下げにきたつもりはないね。俺は
頭なんか下げる気はないぜ。特におまえのようなクソガキにはな」
「あんたさ。誰に向って話していると思ってるの。まさかと思うけどその辺に歩いている
中学生と話しているつもりなんじゃないでしょうね」
「いや。おまえ、女帝なんだろ? ならそれは今聞いたばかりなんだけど」
「そう。じゃあ、あなたはそんな態度が許されるほどすごい人か、場を読めないバカな大
人なのかどっちかね。あなたが偉い人ならうちなんかに擦り寄って稼ぐ必要はないだろう
し、バカならうちで雇うわけにはいかないわね」
「おいおい。まともな面接も無しに当社とご縁がありませんでしたってわけかよ。おまえ、
本当に太田さんにいろいろと任されているんだろうな」
「疑うならパパに電話してみたら」
「疑われるような言動をするからだろうが。おまえ、本当にやる気あんのかよ」
「それが公務員の発言なのかな。まあ、まともな公務員じゃないから仕方ないか。パパに
泣きついてくるくらいだしね」
「そんなことはどうでもいいんだよ。大事なことはおまえらが情報を欲しいのかどうか、
俺の手助けを欲しいのかどうかなんじゃねえの? 取り引きしないなら俺は真っ直ぐ署に
戻って知っていることを報告するだけだけどな」
「駆け引きのつもり? そうすることによってあんたに何のメリットがある?」
「別にねえな。おまえとおまえの親父が逮捕されるだけでよ。そうなっても俺には何のメ
リットはないな。だいたいこのネタは俺の上司の平井っていうアホが何か気がつきだして
いてるみたいだしよ。放っておいてもおまえたちには気の毒なことになるかもな」
「・・・・・・脅しているつもりなの?」
「そうだよ。俺だって安定した公務員の身分を賭けてるんだ。てめえみたいなガキの言葉
に騙されるわけねえだろ。脅しているに決まってるじゃねえか。おまえ、本当に太田さん
の代理人か」
「本当だよ。まあ、いいよ。少し落ち着いて話そう。あたしだって早くあんたなんかの話
を終らせたいのよ。大切な用事を中途半端に放置してるんだから」
「それは悪かったな。遠慮しないで当社とご縁がありませんでしたって言ってくれていい
ぜ」
「少ししつこいよ」
「あんたの態度のせいだろうが。つうかよ、この俺の面接より大切なことって何だよ」
「あんたなんかには理解できないことだよ。どうせ大切な人なんていたことはないんでし
ょ」
男の笑い声が大きく室内に響いた。
「何よ」
「おまえ、男でも待たせてるの」
「うっさいなあ。あんたには関係ないでしょ」
「中学生の、それも富士峰のお嬢様がねえ。いったいどのチンピラがあんたの男なんだ?
飯山か。それとも池山なのか」
「関係ないって言ってるでしょ」
「まさか、結城奈緒人じゃねえよな」
「・・・・・・死ね。つうかパパに頼んで殺してやる」
「まさか図星か。特別大サービスで教えてやろうか。おまえのこと女帝だって警察にちく
ったのは、結城奈緒人だよ。妹の結城明日香の事件がらみでな、兄貴の方が女帝に心当た
りがあるって言って来たってことだ。まさかとは思うけど奈緒人を取り合って明日香を襲
わせたんじゃねえだろうな」
「・・・・・・ちっ」
「・・・・・・ショックだったか。そうだとしたら悪かったな」
「就職の面接に来た態度じゃないね、あんた」
「そうだな。俺は頭を下げて雇ってくれって言いに来たわけじゃねえしな。そんなことは
どうでもいいんだよ。もう俺と太田さんの間では話がついてるんだってえの。まさか中学
生のガキが太田さんの代理人だとは思わなかったけど、それが女帝なら話は別だ」
「だったらちゃんと話なさいよ。あたしの彼とかどうでもいいでしょ。それとも何? あ
んたもあたしのこと欲しいの?」
「ば、ばか言え。何でおまえみたいな中坊を」
「だってさっきから視線が嫌らしいもん。注意した方がいいよ。そういうのって女はすぐ
にわかっちゃうから」
「違う」
「・・・・・・あんた、ロリコン? 小学生とか中学生の女の子しか愛せないタイプなの」
「おい、いい加減にしろ」
「じゃあ、これ」
「おい!・・・・・・どうして」
「あんまりあたしやパパを舐めない方がいいよ。たいていのことはできちゃうんだから。
あたしたちは」
「これは違う。俺じゃねえよ」
「どうせ家出したばかな女の子を無理矢理しちゃったんでしょ。違うも何もあんたの顔も
ちゃんと写ってるじゃん。相手の子、どう見ても中学生くらいだよね」
「いったいどうやってこれを」
「へえ、認めるんだ。あんたばかでしょ? こんな公園で昼間からやるなんてさ」
「・・・・・・何が欲しい」
「やっと素直になったね」
「ああ、わかったよ。俺の負けだ。確かに俺は小さな女の子が好きだよ。でもな、俺はお
となしい女の子が好きなんだよ。だから、あんたにはこれっぽちも興味はねえよ。これだ
けは本当だぜ」
「やっと正直になったね。じゃあ、聞きましょうか。病院で何があった」
「それは太田さんにはもう話したぜ」
「全部話したんでしょうね」
「ああ。はっきりと奈緒人はあんたが女帝じゃないかと証言した。俺の馬鹿なボスがそれ
を聞いてエキサイトしちゃってよ。あんた、やべえよ」
「奈緒人はその場で誰を大事にしていたみたいだった? 明日香?」
「そうだな。明日香のことは心配していたと思うよ。だけど、一緒にちょっと色っぽい女
がいてよ。叔母さんだとか言ってたけど、そいつのことも気にしている様子だったぜ」
「そうか」
「なあ。俺は本当は今日はこんな話はどうでもいいんだよ。俺の要求を受け入れてもらえ
れば、平井の疑いなんか報告書でぶっ潰してやれるよ」
「じゃあ、そうして」
「俺の要求は」
「まさかと思うけど、そんな証拠もない話だけで脅しているわけじゃないよね」
「太田さんから聞いてねえのか。本筋はむしろそっちじゃねえよ」
「聞いてない」
「じゃあ、特別に教えてやろう。むしろ問題は神島スポーツの件だ」
「何それ」
「神島スポーツは老舗のスポーツ用品の輸入会社だ。海外ブランドのゴルフクラブとかを
独占的に輸入販売していた。去年、その会社が無理な資金運用で巨額な債務を作って破綻
した。裁判所からその管財人に指定されたのがおまえの親父だったってわけだ」
「それで」
「太田さんのスタッフは優秀だよな。神島スポーツの債務と債権を調査しているうちに多
額の使途不明金を発見した。連鎖倒産した神島スポーツの関連会社が一昨年神島スポーツ
から都内の土地を購入しているんだが、ちょうどその購入代金分だけ資産が不足していた
んだ」
「それがパパと何の関係があるのよ。横領があったとしても、パパはそれを発見したんで
しょ? 社会的に賞賛されこそすれ問題になることなんか何もないじゃん」
「その一年後、元営業部長が自殺した。自分が横領したという内容の遺書を残してな」
「ふーん」
「遺書は手書きじゃなくてPCで作成したものだった。あとそいつが横領したと告白し
た。さらに横領したという金の行方も不明なままだ。遺書にはそれについて何も触れてい
なかったからな。どうだ? わけわかんない話だろ」
「だからそれがパパと何の関係があるのよ。その元部長ってのは無実でパパが真犯人だと
でも言うの?」
「まさか。太田さんみたいな頭のいい人がそんなことをするわけねえ。その事件を担当し
ていた奴が同期でよ。飲んだとき話を聞いたことがあるんだ。犯行がその元営業部長であ
ることは間違いないようだ。証拠も承認も充分らしい。だから被疑者死亡のまま起訴され
たんだ」
「じゃあ、何も問題なくない?」
「ここまではな」
「問題はその後だよ。奴が死んで手口の方は警視庁がだいたい解明したのだが、肝心の金
の流れがわからない。帳簿上は売り上げに計上されているくせに実際には全く入金されて
いない。こんなのは会計監査ですぐに発覚するはずだが、監査前に破綻しちゃったからな。
その金はどこに行ったのかね」
「また別な関連会社に飛ばしちゃったんじゃないの? そういうのよくあるってパパが言
ってたよ」
「関連会社の入金からやつの自殺までそんなに間がねえんだよな。短時間でそんだけの仕
組みを動かすほどの協力者が社内にいなかったことは捜査で明らかになっている。つまり、
ほぼ単独犯だったってことだ」
「まだるっこしいなあ。あたし、大切な子を待たせてるんで、あんたにそんなに時間は割
けないの。何を言われても驚かないからさっさとあんたの取って置きのネタを言ってごら
ん」
「・・・・・・どこまで強気でいられるのかな。まあ、いい。最後の会計監査後に犯行は行われ
た。そして奴は自殺。その後に管財人が入った。そして犯行を管財人である太田さんの事
務所のスタッフが発見した。発見したスタッフはまず大田さんに報告したんだろうな。そ
こであんたのパパは考えた。今なら神島スポーツの全会計処理は自分の手に握っている。
前の営業部長の不正処理分の金をちょっとだけ抜いちまっても誰にもわからねえってな」
「そうなの」
「ずいぶん落ち着いているな。まあ、そうだ。警察への告訴までに時間が空いているから
な。要するに前営業部長が何とかしようとした二億数千万円は、今頃多分あんたの親父の
会社の口座の中だと思うぜ」
「ふーん」
「ぶっちゃけこの会社だってその金の受け皿のために作ったんだろうさ。時期が近すぎる
もんな」
「わかった」
「何?」
「採用してあげる。今からあんたはって、加山だっけ? あんたはこの会社の社長でいい
や。明日にでも警察を辞職してきてね」
「合格ってわけか?」
「そこまで理解できる頭があるなら十分でしょ。パパにもそう言われてるし」
「わかった。じゃあ、世話になるぜ。条件は前に太田さんに聞いた話のとおりだろうな」
「うん、それでいいよ」
「じゃあ、善は急げだ。あの忌々しい高卒の平井に辞表を叩きつけてくるとしようか」
「ちょっと待って」
「うん? まだ何かあるのか」
「・・・・・・明日香の具合ってどうなの」
「やっぱりおまえが襲わせたのか。報告受けてないのか」
「博之も飯田もあんたたちが拘束してるんでしょ?」
「そうだな。実行犯が抑えられちゃったんで何も聞けなかったのか」
「まあ、そういうこと」
「じゃあサービスで教えておいてやる。結城明日香は外傷は負ったけどそれほど酷くなか
った。現に今頃は退院しているはずだ。俺は上司から事情聴取をしろって言われているか
ら、本来なら明日にはやんなきゃいけないんだけど、今日辞表を出したらそれはチャラだ
な」
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「何だよ」
「あんたが報告書を上司に出すまで辞職を待ってくれない?」
「いいけど。いったい何のために」
「それでさ、あんたの代わりに女の警官を事情聴取させるってできないかな」
「おれの代わりができる女性警官なって署にはいねえよ」
「署にはいなくてもいいじゃん。うちの事務所の女の子を派遣すれば」
「・・・・・・そこまでして何を知りたいんだよ。ドラッグのことか」
「わかってるなら言うなよ。うちの受け付けの二人を教えてやってよ。どこから見ても警
官らしく見えるようにさ」
「俺が事情聴取しろって言われてるんだよ」
「あんたの名前で報告書出しておきなよ。当たり障りのない報告書をさ。それで、それを
出したらすぐに辞職してうちにくればいいじゃん。その間にあんたのために広い社長室と
秘書の女の子を選んでおくから」
「そういうことなら、まあいいけどよ。最低でも今の年収の五倍は保証してもらうぞ」
「意外と欲がないのね」
そこまで身動きできずに会話を盗み聞きしていたあたしは二重の意味でショックを受け
た。
一つは会話の中にあたしにとって大切な人の名前が出てきたから。
もう一つはあたしが太田先生の指示で手がけてた調査によって露わになった横領事件の
ことが話に出てきたから。
もう、有希に弄ばれて狼狽していた感情は収まって、もっと切実な危機感があたしを襲
っていた。
結城奈緒人。結城明日香。
その二人について言及した見知らぬ加山という男の言葉があたしの胸をえぐった。
『中学生の、それも富士峰のお嬢様がねえ。いったいどいつがあんたの男なんだ? 飯山
か。それとも池山なのか』
『まさか、結城奈緒人じゃねえよな』
『まさか図星か。特別大サービスで教えてやろうか。おまえのこと女帝だって警察にちく
ったのは、結城奈緒人だよ。妹の結城明日香の事件がらみでな、兄貴の方が女帝に心当た
りがあるって言って来たってことだ。まさかとは思うけど奈緒人を取り合って明日香を襲
わせたんじゃねえだろうな』
結城奈緒人。それはあたしが人生を棒に振ってもいいと思いながら、短い間愛情を込め
て育てたあたしの大切な甥っ子だ。兄貴の子どもだからというだけでなく、一時は人生を
かけてもいいとまで思い詰めた奈緒人と奈緒。
結城明日香は、きっと理恵さんの子どもの明日香ちゃんのことだ。兄貴と理恵さんの再
婚によって苗字があたしと同じ結城に変わったのだろう。何で有希ちゃんは奈緒人を巡っ
て明日香を襲わせるなんてことをしたのだろう。もちろん、有希ちゃんはこの二人には無
縁ではない。太田先生は兄貴と麻紀さんの離婚調停に関わっていたのだから。でも、その
ときの有希はまだ就学前だ。その後の有希に何が起こったのか。
混乱しながらもあたしは別な考えをも心の中で思い起こすことになった。
神島スポーツの事件。あたしはあの会社の経理の調査要員として、一時期神島スポーツ
に日参して必死で帳簿を調べていたことがある。まあ、この会社が非常にずさんな経理を
していたことは確かで、こんなものでよく監査法人から監査証明が出ていたものだと呆れ
るほどの乱脈さだった。それを整理することを太田先生から命じられたチームの一員とし
てあたしは必死でこの会社のお金の流れを解析した。回収を焦っている債権者を宥めるた
めにはあまり時間をかけるわけにはいかなかったのだ。
この男の話は嘘ではない。少なくとも途中までは自分のこの目で確認したことだ。あの
日、不審な取り引きを見つけたあたしはその金の動きの全容を解明することができないま
ま、同じチームの公認会計士と共に太田先生に掴んだ事実を報告した。
『これはひどいな』
あたしたちの報告を聞いたとき、先生は渋い顔でそう言った。
『二億円以上ですからね。しかも行方がわからないんですよ』
会計士の方も報告しながら半ば諦めたような表情だった。
『数社から出資のオファーがあったというのにな。これじゃリストラくらいじゃおっつか
ない。この会社はもうだめかもしれませんね。営業部長の自殺も社の破綻だけが理由じゃ
なかったのか』
『どうしますか。いくらまずいといっても隠し通せる話じゃないですよね』
隠すとかこれが公認会計士の言うことかとあたしは内心思った。
『当たり前ですよ。とりあえずすぐに地裁と警察に報告してから、記者発表しないと』
『解明した範囲での報告書はできてますけど、これだけじゃマスコミは納得しないでしょ
うね』
『それでも隠しておくわけにはいかないから、なるべく早く公表した方がいいな』
『じゃあQ&Aを用意させましょう。結城さん、頼めるか』
『はい』
あたしは答えた。いずれにせよしなければいけないことだ。
『じゃあ、すぐにでも動こう。僕は地裁に報告に行くから、結城さんは作業にかかってく
ださい。佐宗先生は警察に報告してください。そのあとで記者クラブの幹事社に連絡して
記者会見の準備をお願いします』
『わかりました』
『じゃあ、私は引き続き金の動きを調べてみます。二億円以上あるんだしどっかにプール
しているはずだし』
『あたしも手伝います。Q&Aはすぐにできますから』
『いや、あなたたちはこの件から手を引いてください。通常業務も大事なんで』
太田先生が言った。一瞬、この場にいた佐宗先生と公認会計士、それにあたしは驚いて
顔を見合わせた。
『いや、だってこれ以上に大事なことはないでしょう』
『そうですよ。報告や発表とは平行して調べておかないと』
『それは僕が自分でやります。というか、外部の調査委員会を作って調べさせないと世間
は納得しませんよ』
太田先生の言っていることも間違いではないけど、実務的な調査は誰かがしておく必要
があるのではないか。あたしは太田先生の言動が理解できなかった。そしてそれは佐宗先
生も公認会計士も同意見のようだった。
その時には太田先生の強引な調査打ち切り命令の意味はよくわからなかった。
でも、今聞いてしまった話のとおりだとすると、太田先生は密かにその二億数千万円の
行方を調べ上げ、どういう手段でかわからないけどそれを回収して私物化したのだと言う。
有希と奈緒人との関わりや太田先生の犯罪行為を聞かされたあたしは完全に覚醒してい
た。年下の女の子の強引な愛撫によって流されている場合ではない。太田先生の件はとも
かく、奈緒人や明日香ちゃんに関係のあることが有希によって起こされているのならあた
しはそれを調べなければならない。奈緒人に対してできることはしなければいけない。
血中にアドレナリンが急激に分泌されているようだ。今のあたしは、今までの惰性で生
きていたあたしではない。どういうわけか判断も行動も瞬時に行える気がする。
あたしは開き気味のドアを一瞬で横切って出口を目指した。背後からはあたしを追って
くる気配はない。そのまま廊下を落ち着いて通り過ぎ、怪しげな受付嬢が二人座っている
ロビーまで辿り着いた。
二人は同時にあたしに気がついて立ち上がった。
「お邪魔しました」
あたしは軽く会釈してドアを開けて外に出ようとした。
「ちょっと待って。結城さん、だったよね」
このまま逃げ切れると思いだしていたあたしに女性の一人が声をかけた。
「はい」
一人が立ち上がってあたしと出口のドアの前に立ちはだかった。
「あなた、有希ちゃんに迫られたんでしょ? もう抱かれちゃったの」
にやにや笑うその女の顔には下卑た好奇心のような表情が浮かんでいた。
「それともびっくりして逃げ出してきたの? そうならここにいてもらわないと、あたし
たちが有希ちゃんに怒られちゃうしなあ」
突然、あたしは二人に身体を押さえられた。こいつらを甘く見ていた。この二人は思っ
ていたより手際がいい。あたしが自由になって外に脱出するためにもがいていると、お腹
に衝撃があった。痛みと吐き気が襲ってきた。
「有希ちゃんに気に入られてるからっていい気になるなよ。おとなしくしてろ」
「そうよ。あの女帝に可愛がられるのが何でそんなに嫌なのよ。あんたみたいな年増女が
女帝に相手にしてもらえるなんてラッキーだと思いなさいよ」
「あんた、こいつを抑えておいて。有希ちゃんが採用面接をしている間にこいつは逃げ出
したんだと思うから。今から有希ちゃんに連絡して」
「その必要はないよ」
有希がゆっくりと部屋の中に姿を現した。
「有希ちゃん、こいつ勝手に逃げ出そうとして」
「・・・・・・誰がそんなこと命令した?」
冷たい声で有希が言った。
「え?」「あたしたち、こいつに逃げられたら有希ちゃんが悲しむと思って」
「唯に手を出したね」
「あの」
「誰があたしの唯に手を出していいって言った? 唯から手を離しなよ」
あたしはこの二人から開放されたけど、痛みのせいで立っていられなくて、その場にう
ずくまった。有希があたしの背中を抱えるように撫でた。
「大丈夫? ごめんね唯。痛かったでしょ。ちょっとあたしの部屋で横になろう」
あたしは有希に抱えられるようにしながら、逃げてきた廊下を逆戻りして有希の部屋に
連れて行かれた。華奢で小柄な中学生とは思えないほどに、彼女の手には抗いがたい不思
議な力が込められていた。あたしは半ば引きずられるように再び有希の部屋い連れ込まれ
た。
今日は以上です
おつ...相変わらずハラハラします
支援
女神落ちちゃいましたな
まじか。女神落ちるとか最悪だわー
作者です。完全に油断してました。忙しすぎてそんなに放置していた意識はなかったんだけど、
>>348を読んで確認しに行ったら落ちちゃてましたね
需要はないかもしれませんが、そのうち続きを書くために「女神・3」のスレを立てます
ただ、このペースだとまた落ちるかもしれないので、もう少し仕事が落ち着くまで待ってからスレ立てしようと思います
ビッチの方はニ、三日中に投下します
待ってる
支援
この調子じゃここも落ちるな
・・・・・・あたしは有希の手によって再び有希の部屋のソファに横にされた。
「唯、大丈夫? どこか痛くない? 気持ち悪いの?」
あたしはさっき逃げ出したばかりの有希の部屋のソファに再び仰向けに横にされながら
黙って首を横に振った。
「無理しないで。すこしここで横になっていなさい」
「・・・・・・平気だから」
「ごめんね、唯。男の子たちに命令してあいつらには必ずお仕置きをさせるから。機嫌直
してね」
あたしはようやく我に帰った。ここで再び中学生の女の子の奇妙なカリスマ性に流され
ている場合ではない。子どもたちの安全がかかっているかもしれないのだ。あたしの人生
を捧げても惜しくなかった奈緒人と奈緒の安全が。
あたしは心配そうにあたしの髪を撫でていた有希の手を払いのけて、上半身を起こした。
「大丈夫よ。悪いけど、あたしもう帰るね」
「・・・・・・だめ」
「だめって」
「帰っちゃだめ。まだ・・・・・・あの途中だったじゃない」
「もういいよ。有希ちゃんがどんな子だったかわかったし。あたしは、これ以上もう有希
ちゃんと一緒にはいられない。わかるでしょ」
「どんな子って? あたしが女の子も愛せるってこと?」
あたしの言葉を鼻で笑うように有希が言った。まるで何をつまらないことを言っている
のとでも言うように。
「それもある。でもそれだけじゃない」
あたしの言葉を聞いて有希の余裕ぶった態度が少し崩れた。そして有希は何かに思い当
たったようだった。
「・・・・・・まさか。加山とあたしの話を聞いちゃったの」
「そうだよ。いろいろ先生のことがわかったよ」
「何で? 唯のこと身動きできないように裸にして縛ってたのに。何で勝手に盗み聞きす
るのよ。卑怯じゃない」
彼女はあたしのことを卑怯だと言った。あたしは再びあたしの髪の上でさっきまで愛撫
を繰り返していた有希の手を振り払った。さっき女帝と呼ばれていた有希に対して、年上
のあたしを裸にして弄んだ有希に対して、このときあたしはなぜか負ける気がしなかった。
あたしは唯を振り切って立ち上がった。やってみると簡単なことだった。カリスマとか何
を考えているかわからないことに対して、彼女はいろいろと恐れられているのだろうけれ
ど、思い切って押しのけてみれば、相手は単なる非力な中学生に過ぎなかったようだ。
あたしは有希を睨んだ。
「何よ。唯、何でそんな顔するの」
有希が怯んだような表情をした。こんな顔をした有希を見るのは初めてだった。女帝か
どうかは知らないけど、まだ幼い頃から有希は強気な性格以外の一面をあたしに見せたこ
とはなかったのに。
「まさかと思うけど、パパの弱みを掴んだつもり? それでそんなに強気なのね」
有希がそう言った。
「そういう問題じゃないでしょ。神島スポーツの件、あれが本当ならあたしはあなたのパ
パに利用されたことになるのよ」
あたしは吐き棄てるように言った。奇妙なことにそれを聞くと有希は少し落ち着いたよ
うだった。
「本当は何となくそうかなって思ってたんだ。ああいう調査は唯ちゃんに任せておけば安
心だって、前にパパが言ってたからね。やっぱり唯ちゃんが発見してパパに話したのね」
あたしはその言葉に黙ってうなずいた。
「パパのこと嫌いになった?」
「何言ってるの」
「あたしとパパのこと嫌いになった?」
有希が繰り返した。
「有希ちゃんは何を言いたいのかな」
「さっきまでは震えながらあたしの言いなりになっていたくせに。裸にされても触られて
もあたしに逆らえなかったくせに」
「言いたいことがあるならはっきり言ったら?」
「パパに利用されたとか裏切られたとか、そんな可愛いことを考えているわけじゃないん
でしょ?」
どうやらあたしの思わぬ強気に怯んだ有希が少しだけ態勢を整えられたのは、あたしの
ことを強請りやたかりの一種だと認定したせいのようだった。そんなことを平気で思いつ
くほど彼女の生活は荒んでいるのだろう。有希はあたしのことを大好きだと言ったけど、
大好きな人間に裏切られ強請られると知ったら普通の人間なら相当落ち込むと思う。けれ
ど有希には傷ついた様子なんて微塵もはなかった。
むしろそういう人間的な醜い欲望を持つ相手に彼女は慣れているのだろう。そういう人
間を相手にする方が有希にとっては得意なのだろう。あたしの行動が有希にとって理由の
わからないものであったであろうさっきのような状況よりも、有希が強気になったことは
それを証明していた。
つまり小さい頃からあたしのことが好きだったという有希の言葉はでたらめなのだろう。
それはあたしを自分に従わせるためのピロートークに過ぎない。やはりこの子は単なる性
的に逸脱した女子中学生というだけではない。そう考えればあたしにベッドでいいなりに
しようとしたことだって、何か目的があったのかもしれなかった。
「先生に裏切られたことはショックだったよ。でも、別に他に何か考えているわけじゃな
いよ。さっき聞いたばかりでそんな余裕もないし」
「いまさら奇麗事言わなくてもいいよ。それにこういうことにはあたしの方が唯ちゃんよ
り慣れてるしね」
いつの間にか有希の呼び方が呼び捨てからちゃん付けに変わっていることにあたしは気
が付いた。余裕を取り戻した彼女は、逆説的だけどさっきまで自由にできると舐めていた
あたしのことを警戒する余裕を取り戻したのかもしれない。
「奇麗事じゃないよ。もうこれ以上有希ちゃんにも先生にも関わりたくないだけ」
「誤魔化したってだめだよ。それに唯ちゃんに知られちゃった以上は、いくら言い訳され
ても信じるわけにはいかないしね。それで唯ちゃんは何が望みなのかな。警察の加山さん
はお金と、多分あたしの知り合いの中学生の女の子目当てに脅してきたんだと思うけど、
唯ちゃんは何が欲しいの。お金? それともパパの事務所での地位かな。たいていのこと
はかなえてあげられると思うから駆け引きはやめて素直に言ってごらん」
「じゃあ言うよ。あたしの望みはね、このままあたしをここから出してもらうこと。あと、
事務所は辞めるから揉めずに辞めさせて欲しいこと。二度とあたしと顔を合わせないでく
れること」
「それだけ? それに加えてお金なの? 横領した二億円のうちどのくらい欲しいの。ま
さか半分とか言い出さないでしょうね」
やはり有希はあたしの言葉なんか何にも信じていないようだった。
お金なんか欲しくないよって答えようとしたとき、不意に奈緒人と奈緒の顔が脳裏をよ
ぎった。
有希は麻紀さんの代理人だった太田先生の一人娘だ。そして太田先生の姪が奈緒なのだ。
寂しがり屋だった小学生時代の有希にできた友だちの名はナオ。昔その話を有希に聞いた
ときはうかつにもそれを聞き流してしまったのだけど、その友だちとはまさに奈緒のこと
だったに違いない。
そして奈緒人の方は、有希とは全く縁がないはずだったのだけど、さっきのカヤマとか
いう男の話ではどうも明日香ちゃんと奈緒人にちょっかいを出させたのは女帝、つまり有
希らしい。
今の今まであたしが考えていたのは、自分が信頼していた先生に裏切られ利用されてい
たという事実だけだった。だから、なるべく早く有希から、この事務所から逃げ出すこと
だけを考えていた。逃げ出した後は法律事務所の方も辞職すればいい。有希は疑っている
ようだけど、奈緒人と奈緒のことに考えつくまでは、あたしが考えていたことは本当にそ
れだけだった。
だけどあたしは今になって急にもっと大事なことを思いついた。ここで手を引けば、奈
緒人や明日香ちゃんの身に起きていることを知ることができない。
さっき盗み聞きしたカヤマの言葉が思い浮んだ。
『中学生の、それも富士峰のお嬢様がねえ。いったいどのチンピラがあんたの男なんだ?
飯田か。それとも池山なのか』
『まさか、結城奈緒人じゃねえよな』
『まさか図星か。特別大サービスで教えてやろうか。おまえのこと女帝だって警察にちく
ったのは、結城奈緒人だよ。妹の結城明日香の事件がらみでな、兄貴の方が女帝に心当た
りがあるって言って来たってことだ。まさかとは思うけど奈緒人を取り合って明日香を襲
わせたんじゃねえだろうな』
これは賭けだ。失敗すれば自分にどんな結末が待っているのかわからない。それでもあ
の携帯電話の通信料金の請求が途切れてから初めて、あたしは人生の目標に再会できたの
かもしれない。どうせ目標のない人生なのだ。ここで大切な子どもたちのために賭けてみ
てもいい。そして慎重にやれば、大学卒業以来したことはなかったことだけど、自分の全
能力と注意力を駆使すれば、奈緒人たちを脅かしている危機から救ってあげられるかも知
れない。
そしてそのためのネタは掴んだのだ。一時期世間を賑わせた神山スポーツ横領事件の真
犯人が地裁が選定した管財人だったというネタを。
「あとさ。有希ちゃんに話を聞きたいな」
「話って何?」
「結城奈緒人についての話」
有希は動じなかった。
「加山の話を聞いていたのね。でも、唯ちゃんには関係ないつまらない話だよ」
「それでも聞きたいの。関係はあるから」
「何ですって」
有希の口調が変わり目が光った。
「お互いに話し合うことがあるんじゃないかな、あたしたち」
有希が黙ってしまった。
「唯ちゃんのこと見損なっていたかな」
有希が呟くように言った。「ちょっと子どもの頃親切に面倒を見てくれた、年上の綺麗
な姉さんを強引に裸にして抱いてあげたらどんな反応を示すかなってさ。昨日の夜ベッド
で思いついちゃったら興奮しちゃってさ。それで今朝は興味本位で唯ちゃんに迫ったんだ
けど、どうもあたしが考え違いしてたみたい」
「そんな程度の気持であたしにさっきみたいなことをしたの?」
あたしは微笑んだ。もう戦いは始まっていたからだ。泣いてもだめだし怒ってもだめ。
取り乱すなんてもってのほかだ。これは駆け引きだった。しかも相当不利な駆け引きだ。
感情的になるわけにはいかなかった。嘘でも演技でもいいから冷静に事を進めなければな
らない。
さっきの会話から察するに、有希の下にはは実力部隊がいる。つまり暴力装置を有して
いるのだ。そういう意味では暴力団と変わらない。そういう状況下であたしは奈緒人たち
を救わなければならないのだ。恐怖は感じなかった。ただ、自分の言動に懇親の注意を払
いつつ有希の思考を読むことに集中していた。
た。
「わかったよ。ちょっとあたしたちの関係をリセットしようか」
有希が言った。「どうも唯ちゃんはあたしの玩具になるには頭が良すぎるみたいだし
ね」
あたしは黙って彼女の話の続きを待った。
「それに正直に言うとさ。奈緒人さんと唯ちゃんの関係も気になるの」
有希が続けた。
「気になるんだ」
有希はどうやら父親からあたしの素性を聞いていないようだった。でもそれすらこの子
のフェイクかもしれない。女帝相手に油断はできない。
「うん。奈緒人さんはあたしの初恋の人だからね」
いい加減にしろ。あたしはついそう怒鳴ろうとして何とか思いとどまった。こんなボー
イズギャングの女親分みたいな有希とあたしの大切な奈緒人が釣り合うとでも思っている
のか。
「あらそうなの? 有希ちゃんの彼氏って太田先生だって言ってなかったっけ」
「それはそうなの。だからあたしもつらくてさ。どっちかなんて選べないけど、パパも奈
緒人さんもあたしに他に恋人がいるなんて知ったら悩むでしょうし。最低でしょあたし。
二股かけてるようなものなの」
有希がそう言ったけど、別に本気で悩んでいる様子もない。有希なりの冗談なのかもし
れなかった。
「まあ、それはゆっくり話し合おうよ。有希ちゃんの話を聞きたいな。ちゃんと喋ってく
れたら神山スポーツのことなんかすぐにでも忘れちゃう自信はあるんだけどな」
あたしは気を張り詰めて有希ちゃんと対峙しながらふと気がついた。こういう話し方、
こういう交渉の仕方はまるで有希とそっくりだった。あたしはそのことに気が付き少し落
ち込んだ。でも、事を始めてしまった以上、ここで気を緩めるわけにはいかなかった。
「いいよ。話し合おう」
有希がどういうわけか嬉しそうに言った。
「何で笑ってるの」
「今日はね。あたしに抱かれてひどいことをされた唯ちゃんがめそめそ泣いてさ。それで
も結局あたしの愛撫に負けて、あたしに依存してくる身体になるところまで躾けてやろう
と思ってたんだけど」
やはり彼女はあたしのことんなんか好きでも何でもなくて、玩具かペットのように考え
ていたようだ。
「でも、今の唯ちゃんの方がいいな。久し振りに本気で頭を使ってやりあえる相手に出会
えたよ。こんなに近くにライバルになれる子が昔からいたのに気がつかなかったよ」
「それならよかった」
あたしはなるべく平静を装って年上らしく言った。有希はそんなあたしをどういうわけ
か眩しそうに眺めていた。
「じゃあ、あたしから話すね」
先手必勝。あたしは自分から話を切り出すことにした。「あたしにとっては以前から今
に至るまで、何よりも大切なのは奈緒人と奈緒なの」
有希の表情が少し崩れたようだった。不意打ちを受けたのかもしれない。
こうしてあたしは知っていることを有希ちゃんに話し出した。全てではないけれど。
あたしは兄貴の大学時代のことから話を始めた。兄貴と麻紀さんとの出会い。結婚。出
産。そして麻紀さんと鈴木雄二氏との不倫。不倫を清算した麻紀さんと彼女を許した兄貴
が再び円満な家庭を再構築したこと。
そして運命の兄貴の海外出張。麻紀さんのネグレクトと失踪。それを原因とした兄貴と
麻紀さんの破局。その後の長い離婚調停。その際、麻紀さんの代理人を勤めたのが有希ち
ゃんのパパであったこと。
兄貴と理恵さんの再会。麻紀さんと鈴木雄二氏の仲にも再び火が着いたこと。
そして調停の場での和解。
「まあ、そんなところかな」
あたしは話し終えたけど、それまで口を挟んでこなかった有希ちゃんが疑わしそうにあ
たしを見た。今のところ有希ちゃんは別にそんなに驚いた様子を見せなかったけど、かと
いって全てに納得したわけでもないようだった。
「唯ちゃん何か隠してるでしょ」
あたしはいきなりそう指摘されて内心狼狽したけど、何とか表情に出さずにすんだ。こ
れは駆け引きなのだ。気を抜いてはいけない。
「隠してなんかいないよ。いったい何のこと?」
「何か大切なことを話していないよね? 唯ちゃんは」
有希の指摘は正しかった。確かにあたしは有希に説明するうえで、大事なことを意識し
て省略していた。
それは怜奈さんと兄貴のことだった。そして奈緒が実は兄貴と麻紀さんの子どもではな
く、鈴木雄二氏と怜奈さんの子どもであることも。更に言えばその怜奈さんとは有希の実
の叔母さんであることも。
兄貴と麻紀さんとの離婚については、その破局の本当の原因は調停の場では語られるこ
とはなかったため、麻紀さんがなぜあんな行動を取ったのかは依然として謎のままだった。
ただ、先生からの受任通知の中では兄貴と怜奈さんの不貞行為が離婚事由の一つとして
挙げられていた。先生に聞いたことはないけど、あの受任通知の内容はでたらめであるこ
とをあたしは確信していた。あんなひどいことを兄貴がするはずがない。それでも兄貴と
麻紀さん、そして怜奈さんの間には何かの桎梏があったことも確かだと思ってもいた。
そうでなければ怜菜さんの忘れ形見を兄貴と麻紀さんが引き取って自分たちの子どもと
して奈緒人と一緒に育てようとするはずがない。
あの晩、突然実家に一人で戻って来た兄貴は、両親とあたしに対して麻紀さんの大学時
代の親友の娘を引き取ることを話しに来た。突然の話だったから、両親もあたしも混乱し、
なぜそうするのか理由を明確に答えるよう兄貴に言ったのだ。
「怜奈さんは離婚して一人で子育てをしていたんだけど、先日交通事故で亡くなったん
だ」
あのとき兄貴はそう言っていた。
「ご主人はいらっしゃるんでしょう?」
お母さんが当然の疑問を口にした。
「出産前に離婚したからね。彼女には旦那はいないんだ」
「残された女の子にとっては離婚したとしても、その人のご主人が実の父親であることに
は変りはないだろう。おまえや麻紀さんがでしゃばる理由にはならんと思うが」
お父さんが落ち着かない様子で言った。お父さんの気持もわかった。なぜなら兄貴は家
族の了解を得に来たという感じではなかったから。それは実家に一応子どもが増えること
を知らせておくと言いに来ただけという感じだったから。
「元旦那の方は引き取るつもりがないんだ。だからその子は今でも児童養護施設に入れら
れてる」
「旦那様の方がそうでも亡くなった方の実家はどうしたの? その方のご両親にとっては
孫になるんでしょ」
「詳しいことはわからないけど引き取るつもりはないようなんだ」
兄貴が他人事のように言った。
「・・・・・・また、麻紀さんのわがままに振り回されてるの?」
あたしは思わず我慢できずに兄貴を責めるように言ってしまった。最初はこの小さな集
まりの中では兄貴の味方をしようと思っていたのに。
結局そのときは兄貴の意思が固かったし、麻紀さんも乗り気だと聞いたためうちの両親
が折れたのだ。そして一度認めてしまえば、引き取られてきた奈緒は天使のように可愛ら
しかった。たまに兄貴と麻紀さんにに連れらて実家に遊びに来た奈緒に対して、うちの両
親は夢中になり溺愛するようにまでなってしまった。それはあたしも同じだった。
ただ、麻紀さんの意向かどうか、兄貴は滅多に子どもたちを連れて実家に来ることはな
かった。仕事が忙しかったせいかもしれないけど。
あたしは、奈緒人と奈緒がお互いを本当の兄妹だと信じている以上、それを否定する
ようなことは一生言わないつもりだった。それは奈緒人と奈緒の面倒を実家で見ていた頃に
自分に課したルールだったから。でもそうして結城家に引き取られた奈緒は太田先生の妹
の娘、つまり姪にあたる。そして有希にとっては従姉妹になるわけだ。有希が何かを気が
ついていても不思議はない。あたしは覚悟して有希の言葉を待った。でも、有希の口から
出たのは意外な言葉だった。
「絶対大事なことを隠してるでしょ。だって今の話を聞くと、唯ちゃんが頑張って育児し
たりとか、自分にとって一番大切なのは奈緒人と奈緒だとかって。その理由が曖昧じゃ
ん」
有希が何か変なことを言い始めた。
「だって自分の甥と姪だもの」
「それだけじゃないでしょ」
有希が値踏みするようにあたしを見つめた。この分ではどうも怜奈さんや奈緒の秘密の
話ではないようだ。あたしは少し安心した。
「ああ、そうか」
有希が笑った。
「何で笑ってるの?」
「何でって。ああそうなんだ。ああ可笑しい。唯ちゃんってあたしのことを変質者を見る
みたいな目で見てたでしょ? あたしがパパのことをを好きなこととか女の人を抱きたい
とかってあたしが言うたびにさ」
「別にそんなことないよ」
「誤魔化さなくてもいいよ。そう思われるのなんて慣れてるから」
有希が不意に笑い止んであたしを見た。
「どうしたの」
これは駆け引きだ。こんな揺すぶりに動揺してはいけない。いったい有希が何を言いた
いのかわからないけど、少なくとも怜奈さんと奈緒のことでなければ良しとしなければ。
「唯ちゃんもこっち側の人間だったのね」
「・・・・・・どういう意味」
「変態なのはあたしだけじゃなくて唯ちゃんもか。唯ちゃんって近親相姦願望がある人だ
ったんだ」
一瞬あたしは唖然として沈黙してしまった。そして多分驚きから醒めたあたしの顔はさ
ぞかし真っ赤になっていたに違いない。
「図星か。大切で大好きなお兄ちゃんのために、唯ちゃんは頑張って奈緒人さんと奈緒ち
ゃんを守ったんだね。健気だなあ」
「ち、ちが」
「唯ちゃん顔真っ赤だよ」
「違う」
ようやく口から出たのは小さな呟きみたいな声だけだった。これではもはや駆け引きに
すらなっていない。長年の間、誰にも気がつけれていなかった自分の感情をあっさりと有
希に指摘されたショックで、あたしにはもう虚勢を張る元気は残っていなかった。
「そんなにうろたえなくてもいいじゃない。あたしは唯ちゃんの理解者だよ。というか唯
ちゃんがセクシャルマイノリティーの人だってわかって嬉しいよ」
有希は再び笑い出した。
「まあ、話はわかったよ。奈緒人さんと奈緒ちゃんの兄妹を引き裂いたのは麻紀おばさん
と代理人のパパだったわけね」
ようやくブラコンを指摘されたあたしも立ち直って答えた。奈緒人と奈緒を守るために
はいつまでもショックだとか言っているわけにもいかない。
「そうなるね。あの頃は麻紀さんとあなたのパパはあたしたちの敵だったの」
「うん。よくわかった。話してくれてありがと。唯ちゃんの人に言えない恥かしい性癖の
こともわかったし」
あたしの表情が変わるのを見た有希は首をすくめた。
「そんなに睨まないでよ。いいじゃん、お互い様なんだから。それで? 唯ちゃんは結城
奈緒人のことを知りたいって言ってたけど、どっちかっていうとあなたの方がよく知って
るんじゃないの」
「兄貴と麻紀さんの離婚以来、奈緒人と奈緒にはずっと会ってないの」
あたしは気を取り直した。それに、少なくとも奈緒人と奈緒が実の兄妹ではないことや、
奈緒が兄貴と麻紀さんの実の娘ではないことは有希にはばれずにすんだのだ。あたしの恥
かしい秘密と引きかえだったにせよ。
「そうなんだ。あたしは何を話せばいいの? 二人の近況でも話そうか」
「ううん。そんなことはいいや。むしろ、有希ちゃんがあの二人に何を仕掛けようとして
いるのかを話してくれるかな」
「・・・・・・神山との会話を盗み聞きしただけで、そこまでわかっちゃうんだ」
「あと、明日香ちゃんってきっと兄貴の義理の娘でしょ。理恵さんの実の娘で奈緒人の義
理の妹」
「・・・・・・だったら?」
「明日香ちゃんを襲わせたってどういう意味?」
「本当に聞きたい? 唯が聞きたいなら全部話すけど」
「聞きたいな。あたしも知ってることは話したんだし」
「わかってないのね。これを聞いちゃったら、あたしたちから縁を切りたいなんて甘いこ
とは言えなくなるよ。いくら神山スポーツのネタを押さえていたとしても、そんなものく
らいじゃ何ともならなくなるのよ」
あたしは黙っていた。正直もう引き際だとさっきは思っていたのだけど、ここまできた
ら全部を知ってできることはしたかった。たとえ自分の身の安全が引きかえになるにして
も。
「まあ、唯ちゃんが聞きたいなら話してあげるよ。そのかわり長い話になるよ。説明する
にはあたしのことも知ってもらわないときっと理解できないから」
「うん。それでいいから全部話して」
「さすが唯ちゃん。やっぱりあたしなんかがあなたをベッドの上で玩具にしちゃうのはも
ったいないや。パパが見込んで引き抜いたことはあるね」
あたしはそれには答えなかった。
「じゃあ話すよ。実の兄貴を愛している変態の唯ちゃんなら、あたしのしたことのモラル
を問題にすることはないでしょうしね」
そして有希ちゃんは淡々とその長い話を始めた。
今日は以上です。更新速度が遅くてすみません。今仕事がデスマーチ中なのです
でもなるべく頑張って投下します
久しぶりに乙だった。
落とさない程度にがんばれ
乙
気づいたら女神の方のスレが落ちてたもん…
本気でヘコんだ
そろそろ続きをおながいします
作者ですが現在次回投下分の八割コンプ
なので明日か明後日には投下予定です
それでもまだブリッジ(話と話の間の継ぎ目の部分。アニメで言う埋め回)の段階なので
さほど話は進展しなので読んでも面白くないとは思いますけど。
三週間後くらいにまとめ読みすると少しは進展した感を感じられるかもしれません
逆にまだ二割もあるのか!
有希の母親は彼女を出産した直後に病没していたので、有希には母親の記憶がないのだ
と言う。彼女が富士峰の小学校に合格するまで彼女を育てたのは、主に彼女の家庭で雇わ
れたハウスキーパーの年配の女性だった。ただし、それは主に食事の支度や洋服のや日用
品を揃えるといった面でだけだった。厳密に言えばやはり有希を育てたのは太田先生だっ
た。
小学校に入学前の幼い有希の様子はあたしも知っている。就職の面接に訪れた先で話し
かけてきた幼い少女。かなり大人びてはいたけど、それでも彼女は事務所の女性たちの人
気者だった。あの頃の有希は小学校に入学するまでは幼稚園にも保育園にも通わずに、毎
日太田先生の車に同乗して事務所に遊びに来ていた。幼稚園はともかく奥さんを亡くして
いた先生なら有希を保育園に預けることはできたと思うけど、どういうわけか先生は自分
の側から有希を離さなかった。そして事務所内には有希の部屋が用意され有希は日中は主
にそこで過ごしていた。有希に気に入られたらしいあたしは、日中の数時間、業務を放置
して有希の相手をするようになった。もちろん勝手にそうしたのではなく、太田先生の黙
認の上でそうしたのだ。
それであたしは有希と仲良くなったのだけど、あたしにも仕事がありずっと有希の相手
をしているわけにもいかなかったから、あたしが相手にしてあげていない間は一人で絵本
でも読んでいるか、それとも大部屋の女の子たちに相手をしてもらっているのだろうと考
えていた。
「そうでのなかったのよ。あの人たちと話していたって全然面白くなかったし」
有希はそう言った。「唯が相手してくれないときはね。主にパパから勉強を教わってい
たの。もちろんパパには時間がないからずっとっていうわけにはいかなかったけど。でも、
パパも唯もいないときには一人でパパに教わったこととかを繰り返して考えてたの」
太田先生の有希ちゃんに対する一見甘やかしているようでいて、その実無関心とも思え
る放置気味な態度については、当時のあたしは少し心が痛めていた。それは麻紀さんにネ
グレクトされた奈緒人と奈緒を思い出させるからだった。だからせめて有希と一緒のとき
はせいいっぱい彼女に優しく接しようと、少なくとも真面目に接しようと思っていた。
太田先生が多忙な業務の許す限り事務所内の有希の部屋で、彼女に勉強を教えていたと
は意外もいいところだった。もちろん、彼女は当時富士峰女学院の入試を控えていたから
毎日事務所で遊んでいるわけにも行かなかっただろうけど、あの学校は親族に卒業生や在
校生がいるかどうかが合否の判定基準の大部分を占めると聞いたことがある。有希の母親
も叔母さんもこの学校の卒業生だったらしいから、何も太田先生が自ら受験指導をする必
要なんかないし、どうしてもというなら富士峰への入試指導を専門としているスクールだ
って近所には複数あったはずだった。
「パパの授業内容に興味があるみたいね」
有希はあたしの疑問をお見通しのようだった。
「普通の授業じゃないのよ。別に算数理科社会とかを教わったわけじゃないの。あえて言
えば哲学かなあ」
「哲学? 何よそれ。有希はまだ小学生にだってなってなかったのに」
「当時はよくわかっていなかったけどね。今になって思うとあの頃のパパがあたしに繰り
返して教えてくれたのはそうとしかいいようがないの」
有希は笑った。
有希が太田先生から教わっていたことは彼女の記憶が正しいとすれば、普通の学校や家
庭から教わるであろう内容の真逆のことだった。
もちろん、直接反道徳的なことを吹き込まれたわけではないのだけれど、それでもそれ
は危険な思想と言ってもよかった。先生が有希に教えたのは相対主義的な価値観だった。
『有希がお友達の中で一番偉いとするよね。そして有希は今日はお友だちみんなと仲良
く遊びたいと思っている。だから有希はみんなに今日はこういうゲームをして遊ぼうって
みんなに伝えたんだ』
『ところがいつも仲の悪いお友達同士がけんかをしてしまいちゃんと遊べなくなってしま
う。有希はちゃんと遊びたいのに。有希は一番偉いのでみんなに命令する。これからはお
友だちとはけんかしちゃいけません。けんかをするのは悪いことですってね』
『どう? お友達同士がけんかをするのは悪いことかな?』
有希は悪いことだと答える。もちろん仲良くすることのほうが正しいことだ。仲が良け
ればいちいち遊びを中断しなくなるからもっと楽しく遊べる。その方がみんなも喜ぶ。
『じゃあ、ちょっと話を変えて有希は実はお友だちの中で一番偉くない子だとしてみよう。
そして有希はこの子たちと遊びたくない。そしてお友達同士がけんかをしてくれれば遊び
は中断するから、嫌な遊びをしなくてすむ』
『そのときお友達の一人が有希にこう聞いてくる。あの子が悪いのにそれをあの子に言っ
たらだめなの? 言ったらけんかになるしけんかするのは悪いことなんでしょ』
『有希ならどうする?』
これまで普通に道徳や社会的マナーを教わっていない有希は、悪いことじゃないって答
える。なぜならそうすれば悪い子には思い知らせることができるし有希はしたくない遊び
をしなくてすむから。
『そうだよ、有希。よくできた。けんかをしちゃいけないなんて、けんかすることが悪い
ことなんて、一部の人にとって正しいだけなんだよ。この社会が秩序を保っていないと都
合が悪い人たちの都合のいい嘘なんだよ。けんかが何でいけないのかなんて、正しく説明
できる人なんていないんだよ。つまりけんかはこの遊びを続けたい人にとっては正しくな
いことであり、この遊びがしたくない人にとっては正しいことなんだよ』
「まあ、こういう内容をそれこそ百通りくらいはパパから教わったよ。は正しいことと悪
いことには絶対的な価値はないんだって。その人の置かれた状況によって物事は正しくも
なるし正しくなくもなるんだって」
「それは相対主義的価値観っていうんだけど。普通はそういうことは子どもには教えない
んだよ」
「うん。小学校に入ってそれがわかった。だって先生の言っていることとパパの言ってい
ることは全然違うんだもん」
こうして有希は太田先生から少し特殊な教育を受け続けたせいで、小学校や中学校の教
師の説くこと、特に道徳的な教育に関しては全く信用しない子になっていった。
「パパはね。それでも学校の勉強はちゃんとしなさいって言ってた。道徳とか考え方とか
そういうことはどうでもいいけど、算数とか理科とか物理的で論理的な法則性のある授業
はきちんと勉強しなさいって。それは世の中でそれだけは絶対的な原理であり法則だから
って。だからあたしは理系科目の方が成績がいいの」
「あとあたしがピアノや音楽に興味を持ち出したことは喜んでくれた。最初はね。怜奈叔
母さんが音大でピアノを弾いていたからかなって思ったんだけど。そうじゃないんだって。
音楽もその根本は物理学に基づいた理論的な科学だからって」
もうこれ以上有希の教育の奇跡を辿っても意味がないだろう。彼女の相対主義への信奉
は最終的に善悪二元論の否定にまで行き着いた。善も悪も相対的なもので主体が置かれた
状況が変化すればその概念も逆転するというものだ。
こうして有希ちゃんは少し偏った教育を受けつつ理系科目を得意になり、また思考は論
理的に考える癖がついていった。また推論やシミュレートにより現在の状況が明日にはど
う変わるのかを頭の中で予測する癖もついたのだという。
それでも小学校では別に彼女は変わった女の子とは見られていなかった。同級生でピア
ノでも研鑽しあう親友もできていたし、周囲から見れば有希は可愛らしい年相応の女の子
だったろう。小学校六年生のある日までは。
有希は淡々と語った。その日から数年が過ぎ自分の中ではもう整理できていたのだろう。
それに彼女は父親のことが大好きだったのだし。
いくら考え方が早熟といっても、実際の体験という意味では有希も周りの他の女のこと
一緒でまだ未熟な小学生に過ぎなかった。特に男子のいない富士峰の環境では共学に通っ
ている女子よりもまだ男子に対する耐性がなかったかもしれない。有希の生まれ育った環
境では男なんてほとんどいなかたはずだ。例外は父親や父の運転手、それに事務所の弁護
士くらいだったろう。
太田先生のことを彼と呼ぶその態度に不審を抱いていたあたしは、有希の淡々とした説
明ですっかり納得することができたのだった。彼女の身に起きたことに関して。
最初は混乱し呆然として泣いていた有希はすぐに父親の行為に慣れてしまったようだっ
た。小学校も高学年になると性教育も始まっている。だからそれがどんな意味を持つのか
は彼女にとっても理解できたはずだった。ただ、有希は全ての行為の善悪は相対的なもの
だと父親に教わってきたから、必ずしも学校の説明に納得したわけではなかった。別な側
面から見れば父親の自分に対する行為にも正しい理由があるのではと考えたそうだ。
これを狙ったわけではないだろうけど、太田先生の教育はこういう行為を彼女に納得さ
せるに際しても有効だったということになる。
有希は父親との行為に慣れ、自分も楽しめるようになり、そしてその行為を正当化する
ようになった。実は相対主義者の陥りやすい罠というのがまさに自分の行為の正当化にあ
るのだけれど、彼女はそこまでは思いつかなかった。
「結局時代や社会状況が変われば道徳の観念も変わるのよね」
有希が言った。
「またそういうことを言う」
あたしはどう返していいかもわからずに言った。この話を始めたときにはここまでひど
い秘密を明かされるとは思っていなかったのだ。もっと犯罪的なことはあるのだろうと覚
悟はしていたのだけど。
「古代日本や古代エジプトでは近親婚が普通だったんだって。それは自分たちの尊い血流
を薄めないためだけど。あとハプスブルク朝でも当たり前に行われていたらしいよ」
あたしにはどう答えていいかわからなかった。
「いとこ同士の婚姻は世界的に見ても禁じられている国の方が多いんだけど、日本では許
されているでしょ? 結局絶対的な基準なんかないんだよ」
有希はそう言って少しだけからかうようにあたしを見た。「だからさ。唯だってお兄さ
んへの気持を隠す必要なんかないんだよ」
「兄貴はもう再婚してるの!」
あたしは思わず強く答えた。そうしてから中学生相手に何を向きになっているのだろう
と思った。それでも有希は普通の中学生ではなかったけど。
「奪っちゃえばいいのに。それで唯とお兄さんが幸せになるならそれは正しいのよ」
「あたしは今では兄貴なんて大嫌いだからね」
ようやく冷静になってあたしは言った。そうだ。子どもたちを冷酷に引き離した兄貴は
もう昔のあたしが大好きだった兄貴ではない。
「まあ、別に他人事なんでいいんだけどね。で、ここからが本題ね」
「うん」
「明日香と奈緒人さんの話だけど」
ようやく本題に辿り着いた今、あたしは少しだけ緊張して有希の話を待った。
「あたしはその頃考えてたの。パパの彼女になってからは特にね」
「考えてたっていったい何を」
「パパの言うことは理屈ではよくわかるんだけど、これってひょっとしたら実際に実験し
て証明できるんじゃないかって思ったの」
「・・・・・・どういうこと」
普段の半分くらいの量ですいません。このままだとまた落ちそうなのでできたとこだけ
投下しておきます
つまらない回で申し訳ないけど次回も多分こんな感じです。早く恋愛パートにもどりたい
ではまた投下します
なんか更新が月イチになっちゃたね
有希も自分自身が直接的な暴力に対しては無力であることは承知していた。だから、最
初の日は父親の許可を得て父の運転手をボディーガードにすることにした。遠山はパパの
運転手兼ボディーガードだ。
最初に接触したのは繁華街のゲームセンターにいた金髪ピアスの男だった。
最初有希が彼に話しかけたとき、彼はじろっと値踏みするように有希を眺めて関心なさ
そうに無視した。きっと中学生の女の子だと知って相手にする気をなくしたのだろう。そ
れでも有希が彼に対してどうでもいい世間話を続けていると、彼はイライラしたように有
希を睨んだ。その視線が有希の顔に留まったかと思うと、やがて彼は値踏みするように有
希の全身を舐めるように眺め出した。きっと有希の容貌や容姿に気がついたのだろう。
「誰? おまえ」
「あたしは太田有希ですけど」
「はあ? 中学生だろおまえ。俺に何か用?」
「ええ。お名前を伺ってもいいですか」
「名前って俺の?」
「はい」
「ええと。俺は池山、池山博之っつうんだけど」
「ヒロユキさんですか。初めまして」
「つうかおまえマジで俺に何か用あんのかよ。何で俺の名前なんか聞いた?」
「あの。お知り合いになってもらえませんか」
「はあ?」
「ヒロユキさん、格好いいんでお友だちになってもらえないかなって思って」
池山と名乗った男は相変わらず不機嫌そうな、威嚇するような態度を維持しようとして
いたみたいだけど、密かに笑いのような表情が口元に浮かんでいるのことが有希にはわか
った。こいつもやはり単純な男の子だったのだ。それでも有希の頭の中の構想を実現する
にはこういう男の子から地味に始めるしかない。父親を見返して感心させるためなら、大
概のことは目をつぶらなくてはいけないだろう。
「おまえ、ゲーセンとか初めてか」
池山がじろじろと有希の身体を眺めながら言った。
「はい。校則で下校中は本屋以外に寄り道してはいけないので」
「おまえさ。その格好でここにいるのってやばくね?」
富士峰のセーラー服姿を舐めるように見回しながら池山が言った。
「そうなんですか」
有希は無邪気な笑顔を池山に向けて言った。
「まあ俺には関係ねえけどさ。ここはしょっちゅうおまわりとかが顔を出すしよ。その格
好じゃ捕まえてくださいって言ってるようなもんだな」
「え。やだ」
「やだって言われてもよ」
「じゃあ、どこかに連れて行ってください。警察の人とか先生とかが来ないところがいい
な」
「何で俺が」
「・・・・・・駄目ですか」
有希が自分の清楚な外見を利用したのはこれは初めてだった。これまでの有希はその逆
のことをして大人たちを不意打ちしてきたのだ。清楚で可憐な外見を裏切るような発言を
武器にして。
やってみると思ったより簡単なことで、しかも効果は抜群のようだった。まだ虚勢を貼
ってはいるけど、この金髪ピアスの男は有希に興味津々のようだった。ひょっとしたら彼
もパパと同じで無垢な女の子を汚す歪んだ興味を持っているのかもしれない。その証拠に
この池山という男の視線は彼女の顔よりは富士峰のセーラー服の方により向けられている
ようだった。
「駄目ですか?」
有希は池山の目を見つめて再び繰り返して言った。
最初に目を逸らしたのは池山の方だった。
「しかたねえなあ。おまえ、そんなに俺に興味があるのかよ」
「はい」
「じゃあ、ちょっと出るか。一緒に来い」
池山は虚勢を張っているのか、彼女の手さえ握らずに店の外へ出て行った。それでも有
希が付いてくるのか不安だったのだろう。店の外に出たとき、彼は有希の方を振り返って
彼女が付いてきていることを確かめたようだった。
「こっちだ」
池山は繁華街の更に奥の方へ向って行った。素直に彼の後を追いながら、有希は背後を
確認した。大丈夫。パパの忠実なボディガードはちゃんと自分の後を密かに追ってくれて
いる。遠山さんがいてくれれば大抵のことは問題ないはずだ。
「ちょっと待ってください」
有希はそう言って池山に追いつくと彼の腕にしがみついた。少しだけ見せた動揺を隠す
ように池山は有希を連れて夜の街の底に入って行った。
そこは小さなバーだった。外には看板も何もないので一見の客が入ってくることはまず
ないだろう。何の表示もない木のドアを開けて池山は迷わずその狭い空間に歩み行った。
薄暗い店内の片側にはカウンターがありその中に一人の男がグラスを磨いていた。池山
はその男に声をかけた。
「渡さん。ちーす」
「何だ博之か。っておまえなあ」
「何すか」
「おまえ・・・・・・その子」
「さっき知り合ったんですけど」
渡と呼ばれたバーテンダーが困惑したように有希を見た。
「君、中学生だろ。その制服は富士峰女学院だよね」
「あ、はい」
有希は反射的にとっておきの笑顔を渡という男に向けた。パパにだって滅多に向けない
くらいの表情だ。
「博之」
「はい」
ずいぶん素直に池山が答えた。この二人はどういう関係なのだろうか。有希は少し不思
議に思った。池山はただ大人だというだけで遠慮して下手にでるような人間には見えなか
った。
「さすがに中学生の女の子を俺の店に連れ込むのはよせよ。俺だってこれで食ってるんだ
し、何かあったらやばいんだよ」
「それは誤解っすよ渡さん。別に俺が連れてきたんじゃなくて、こいつが勝手についてき
たんです」
それを聞いて渡というバーテンはもっと難しい顔をした。
「まあ来ちゃったんだからしかたない。座れよ」
不意にバーテンが言った。文句をつけたわりにはあっさり引いた形だったけど、有希に
はその変心の原因は自分の容姿にあるということがわかった。この三十代くらいの男も、
中学生に過ぎない自分に興味を惹かれたのだろう。興味というかはっきり言えば自分と仲
良くなりたいと思ったに違いない。有希は微笑んだ。
「ご迷惑だったらあたしは帰りますけど」
「いや、そんなことはねえけど」
期せずしてバーテンと池山の発言が綺麗に被った。二人は気まずそうにお互いから視線
を逸らした。
「素敵なお店ですね」
有希はカウンターのスツールに腰掛けて言った。カウンターの反対側にはボックス席が
三席ほど並んでいたがそこには客は一人もいなかった。カウンターの端に若い男が一人腰
かけて黙って酒を飲んでいるだけだ。
「君、名前は」
渡という男が聞いた。
「太田有希と言います」
「ユキちゃんさ。こんな時間に外出してていいの。家の人が心配するんじゃない?」
「大丈夫です。パパはお仕事でいつも夜遅いか帰ってこないし、ママはいないから」
「おまえ何飲む?」
渡と有希の会話に割り込むように池山が言った。有希は久し振りに高潮感が胸の奥に湧
き上がってきたことに気がついた。この二人はあたしを取り合っている。中学生のまだ子
どもであるはずの女の子を。池山はともかく大人であるこの渡というバーテンも自分に関
心があるのだ。ここを最初の足掛りにしよう。ゲーセンでこの池山に目を付けたことは成
功だったのだ。
「じゃあミルクティーをいただけますか」
「え」
渡は驚いたような表情を見せた。「ごめんね。酒以外のソフトドリンクだと、ジュース
かウーロン茶くらいしかないんだ」
「じゃあウーロン茶を」
後の話になるが、その日以降このSPIDERにはダージリンとオレンジペコの茶葉が常に用
意されるようになるが、それを注文するのはいつも有希だけだった。
「渡さんって素敵ですね」
渡が新たに入ってきた数人の客の相手をするために彼らのそばを離れたときに、有希は
池山に言った。
「それはどうでもいいけど。おまえさ。マジでいったい何しに来たの」
彼は面白くなさそうな表情でそう言った。
「だから池山さんとお友達になりたくて」
「本当かよ。俺より渡さんのことばっか気にしているじゃねえか」
「そんなことないですよ」
ここでへそを曲げられてはまずいので、有希は可愛らしい笑顔を池山に向けた。
「おい博之。おもてのバイクを裏に廻しとけ。さっきどこかのガキが弄ってたぞ」
「マジすか。ちょっと行って来る」
池山が慌てて店の外に出て行くと、入れ替わりに渡がカウンターに座った有希の前に来
た。
「有希ちゃんさ」
「はい」
「何で君みたいな子が博之と一緒にいるのか知らないけど」
「けど、何ですか」
「念のために言っておくけどさ。あいつには明日香っていう彼女がいるからね」
「・・・・・・本当ですか」
「うん。あいつはそういう奴だから。彼女のことは大切にしておいてその辺で捕まえた女
の子と・・・・・・言ってる意味はわかるよね?」
「渡さんは彼女はいるんですか」
「それは関係ないでしょ」
「渡さんも彼女がいても、あたしと遊んだりできる人なんですか」
有希は上目遣いに渡を見た。
「・・・・・・俺には彼女なんかいないよ。いても君みたいな子どもを弄んだりなんかしない」
「あたし子どもじゃないですよ」
「中学生は子どもだよ」
有希が楽しそうに何か言い返そうとしたところで池山が戻ってきた。
「渡さんバイク裏に廻しました」
「おまえ、酒飲んでるんだから今日はバイクは置いてけよ」
「大丈夫ですよ」
「駄目だったって言ってるだろうが」
オーダーお願いしますという声が背後のボックス席のカップルの方から聞こえてきた。
渡は注文を取りにカウンターから出て行った。一人でこの店を切り回しているらしい。
「なあ」
池山が珍しく真面目な表情をした。
「渡さんってああ見えて遊び人だし、結構ロリ入ってるしよ。おまえも気をつけた方がい
いぜ」
この辺りがもう有希の限界だった。こいつは馬鹿すぎる。あたしに対して欲望を覚えて
その感情に正直に従っているにしても、それでもこいつは馬鹿すぎる。有希はもうそろそ
ろいいだろうと思った。最初から目標があってしたことなのだし。
「あなた、あたしのこと気になってるでしょ」
「へ」
突然、今まで清楚な中学生だと思い込んでいた有希の冷たい声に、強面の池山が困惑し
たように有希を見た。その声に反して目の前の有希はやはり押さなく清楚な富士峰の中学
生にしか見えない。
「あたしの言うことを聞いてくれたらあたしもあなたの言うことを聞いてあげる」
「おまえ。何が言いてえの」
「簡単なことよ。あたしを助けてくれればいいの。そしたらご褒美をあげるから」
「いやその。ご褒美って」
「何でもいいよ。あんたの好きなことで」
「・・・・・・おまえ。いったい俺に何をさせたいんだよ」
「あたしのパートナーになってくれればいいのよ」
「どういう意味だよ」
「お金持ちになりたくない?」
「何だって」
「お金持ちになりたくない? なんならあたなのお友だちも誘ってくれてもいいんだけ
ど」
「意味わかんねえ」
「・・・・・・ねえ。ちゃんと説明してあげるから。どこか静かなところに行かない?」
「・・・・・・ここだって静かじゃか」
「そういう意味じゃなくて」
そのとき池山の携帯が鳴った。有希に興味を抱いているであろう彼はその着信を無視す
るだろうと有希は思った。でも池山は着信の相手を確認すると、有希のことを無視してい
そいそと電話に出た。
「明日香か。昨日、はぐれたから心配してたんだぞ。おまえ、いったい何してたんだよ」
明日香。渡さんが言うにはその女は池山の彼女らしい。
「おまえ、突然消えちゃうしさ。俺がどんだけ心配してたと思ってるんだよ」
それからしばらく池山は何だか不服そうに明日香とかいう彼女の話を黙って聞いていた。
しばらくしてやっと彼は声を挟んだ。
「明日香さ。もしかしておまえ昨日、兄友と一緒にいなかった?」
「いや。切れるなよ。違うならいいんだって。ただよ、飯田がおまえと兄友が二人で歩い
ているとこを見たって言ってたから」
「待て待て。俺が言ってるんじゃなくてさ。わかったって。誤解ならそれでいいよ」
「・・・・・・泣くなよ。俺が悪かった」
「明日は会えるか?」
「ああ。合わせるよ。じゃあSPIDERで五時に待ち合わせな。ていけね。六時までここは開
いてねえや」
「うん。じゃあ六時にSPIDERでな」
このとき有希は思った。こいつを抱きこむなら今夜のうちかもしれないと。
それで思い切って有希は池山に抱きついた。
「おまえさ」
池山は有希の手を振りほどきはしなかったけど驚いてはいたようだった。
「どうしたの」
「何かさっきとは別人じゃねえか。いったい何を考えてるんだよ」
「多分今はさ。あんたと同じことだと思うよ」
「・・・・・・」
「ちょっと待って」
有希は多分これまでSPIDERの前で目立たないように時間を潰していいるであろう父の運
転手に電話した。
「遠山さん?」
「はい」
「今日はありがとうございました。でももう帰っていただいて結構ですから」
有希は父親から父の部下や使用人に対しては敬語で話すように躾けられていたのだ。
「え。パパに確認しなきゃいけないんですか」
「そうですか。パパからそう言われているんですね」
「・・・・・・わかりました。パパに連絡したら電話ください」
「誰に電話してたんだよ」
池山が不審そうに聞いた。あんたが暴走したときのためのボディーガードにだよ。有希
は胸の中で答えた。
有希の携帯が鳴った。
「パパとお話したんですか。うん、そうですか。じゃあ、今日はお疲れ様でした。ちゃん
と日付が変わる前には変わりますから。うん、一人で夜道を歩いたりはしません。タク
シーならいいでしょ?」
「じゃあ、おやすみなさい」
「だから誰と話してたんだよ」
池山が再び聞いた。
「ちょっとね。あんたこそ、明日香って彼女?」
「いや。そういうわけじゃ」
「明日香って子、兄友って人と浮気したの?」
「・・・・・・おまえ。いったい何者だよ」
「単なる純粋無垢な中学生だって」
「・・・・・・俺はどうすうりゃいいんだ」
「あたしと契約しなさい。そしたらラブホに行ってあなたの好きなようにさせてあげる」
「・・・・・・おい」
最初は池山の仲のいい数人が有希の下に集まっただけだった。それでも有希のカリスマ
性を初めて直接的に発揮する人数としては十分だった。半ばは彼女の可愛らしい無垢な容
姿に惹かれて集まってきた彼らは、やがて有希の笑顔の背後にある得体の知れない何かを、
恐れるようになっていった。
最初に有希が出した命令はすごく子どもっぽいものだった。有希は自分の元に集った不
良生徒たちにお互いに仲良くするように言ったのだ。
その次の命令は徹底されるのにしばらく時間が必要だった。仲間内の喧嘩を禁じた次の
命令は、他者に手を出すなというものだった。街中で喧嘩を売って自己実現したつもりに
なっている連中にはなかなか納得しづらいもだったらしい。
有希の命令を破ったやつが大学生のカップルにちょっかいを出したとき、ちょっかいを
出したやつは有希の命令に従った遠山により入院させられた。全身打撲。全治三ヶ月。そ
れ以降、有希の命令を無視するやつはいなくなった。
暴力を禁じられたわけではなかった。ただ、暴力に及ぶには有希の指示や許可が必要に
なったのだ。最初は同じ工業高校のグループから始まったのだけど、その影響は次第に他
校の生徒たちにも及んだ。その人数が三十名を超えたとき、有希は脱法ドラッグの商売を
始めた。
有希の勢力の発展には法則があった。実のところ有希の組織は小さなグループの緩やか
な連合体だった。直接的なメンバーへの勧誘は有希によって禁止されていて、人数が増え
るときには一気に数十人が仲間となった。つまり高校生たちのチームごとメンバーにして
いたのだ。そして、そのためなら暴力や実力行使には慎重だった有希もOKを出した。実
働部隊は池山のグループで彼らは有希に最も近いところにいたため、傘下のその他のグ
ループからは「親衛隊」と呼ばれるようになっていた。実際、池山グループの構成員は最
大の人数でもあった。
有希の片腕は今では明らかに池山だった。一度だけ有希を抱いた池山は、最愛の彼女が
いたせいか、有希に対して執着を示したり過度に馴れ馴れしくしたりしなかった。そのこ
とが有希と池山の関係を長続きさせたのかもしれない。それに池山は実は相当常識的は考
えの持ち主だった。自分の補佐役には肉体的に強いだけのバカはいらない。そういう意味
でも池山は理想的な副官だった。
もちろん有希は奇麗事だけで事業を大きくしたわけではない。必要なら有希はまるで無
関係な人間に対しても容赦しなかった。ただ、池山はそういうときに有希の意向に逆らう
ことがあった。彼の常識的な感性がこういうときには裏目に出たのだ。
そんなとき有希が頼れる人間にはまず遠山がいたけど、彼はパパの運転手であり有希が
勝手に動かすことには限度があった。それで有希がそういう汚い面で仕事に利用し出した
のが池山グループの飯田だった。飯田は池山以上に有希に心酔していた。利益や畏怖から
有希に従っている不良高校生たちと違って、彼は本気で年下の中学生である有希に憧れて
いたのだ。
有希はそんな飯田へのご褒美として飯田に寄り添ったり、飯田と一緒にいるときに彼の
手を握ったりしてあげた。それ以上のことはしなかったけど、飯田にとってはそれで十分
なようだった。奈緒や明日香を暴行するよう命令しても、池山は難色を示したけど飯田だ
けは何の文句も言わず有希の命令に従った。組織内で有希に反抗的な動きを察知すると、
飯田は有希に報告する前にその首謀者をボコボコにした。
飯田は結局明日香への傷害で警察に捕まるのだけど、この頃になると池山グループ以外
でも、有希のカリスマ性を信奉する連中が飯田の後釜を狙うようになってきた。この頃は
ドラッグの売り上げも絶頂で、この組織にいるだけで末端の高校生まで月に数万円のおこ
ぼれに預かれるようになったのだ。
いつしか有希は女帝と呼ばれるようになった。そして、自然発生的に有希のグループは
いつのまにか「ビッチ」と呼ばれるようになった。もともとは有希に抵抗するグループが
有希のことを蔑んでビッチと呼んだことからきたらしいけど、それがいつのまにか有希の
組織の正式名称となったのだ。
脱法ドラッグは常に法的な規制と追いかけっこをしている。厚生労働省がある化学物質
を違法薬物に指定するとその化学物質を成分に含有している製品は違法なものとなる。脱
法ドラッグによる被害が各地で生じメディアによって報道されるようになると、違法薬物
の指定は頻繁になっていった。
ぎりぎりでも合法の仮面を被っていくためには違法になった瞬間にそのドラッグの取り
扱いをやめなければならない。といってもそもそもハーブには信頼できる原材料表示なん
かないため、どれが違法の商品となったのかを特定することは有希にもグループのメン
バーにとっても無理な相談だった。
それを引き受けていたのがSPIDERのマスター、渡だった。彼は池山の工業高校のOBで
彼自身も高校時代は池山同様にかなり悪ぶっていたらしい。ただ、同じようにバカをやっ
ていた連中と異なり彼は成績が良かった。渡はまともな受験指導もないその高校から現役
で薬学部に入学したのだけど、それは高校創立以来初めてのことだったらしい。
六年間の薬学部への在籍中、彼は真面目に勉強したらしいのだけど、卒業時にまたその
変人振りを発揮して、就職活動すらせずに小さなバーを初めた。それがSPIDERだった。
有希は渡に対しては配下の連中に対するのとは異なり、いつだってていねいに下手に出
るようにしていた。彼からはある意味パパと同じような香りを嗅ぎつけていたのだ。単な
る悪ではなく、真っ当な側でも立派に通用する能力と人柄を備え異常と正常のボーダーで
どちらにも顔が利く立場をスマートに維持している。下手に出たというか、有希は自分の
無垢で純真な外見を渡に対してはフルに活用した。もちろん、有希が女帝でありどんな商
売をしているのか渡は知っていたから、有希のそんな演技なんか通用するわけがなかった。
それでも有希にはわかっていた。
この人はロリコンなのだ。しかも、明日香やその他のグループに近いケバい格好の女の
子たちには全く関心がないみたいだ。女子大生以上の年齢の女に対してもそうだ。彼女た
ちには彼はいつも無愛想な態度を取っている。むしろ、池山や飯田のような高校の後輩と
話しているときの方が楽しそうだった。だから彼は女の子たちからは密かにホモ呼ばわり
されていた。
でも有希にはわかっていた。渡はパパとそういう面でも同じ種類の人間だ。有希が富士
峰のセーラー服でSPIDERを訪れると、渡は不機嫌そうに文句を言う。そんな格好でバーを
うろうろされたら迷惑だと。でも渡の視線はいつも嘗め回すように有希のせーラー服に身
を包んだまだ大人になりきっていない身体を、まるで渇望しているかのように眺めるのだ。
有希は結構最初の頃から技術面でのアドバイスを渡に聞き、渡もそれに答えた。薬学部
での成績が上位だったという渡は、当然ながら化学物質や薬物について詳しかった。それ
から有希はどれが違法商品になるのかの判定を彼に頼むようになった。渡は文句を言いな
がらそれに応えてくれた。いわばビッチの技術顧問になったのだった。有希は会えて彼に
は金銭的な報酬をわたさなかった。それをしたら渡が気を悪くすると考えたからだ。その
代わりに有希は渡のことをいつも特別に扱うことにした。池山や飯田よりも彼のことを優
先した。店内にいるときは常に渡との会話を優先し、彼に頻繁にちょっとしたプレゼント
(高価なものではなかった)を買い彼に渡した。そして常に私立の女子校の中学生らしい
無垢な笑顔を彼に向けた。
それだけの報酬で渡は満足していたようだった。
今日は以上です
更新が遅くてすいません
また投下します
ガスっと進めてください。お願いします
揚げ
こっちも落ちちゃうぞ
作者です。すいません
週末には更新します
ごめんなさい
有希があたしに気を許して全てを話してくれたと思っていたわけでなかった。過去にあ
たしが兄貴のことが好きだということくらいで自分の秘密をさらけ出すわけがない。たと
え幼い頃から慕われていたとしても。ということは女帝にはあたしに秘密を明かすだけの
理由があったのだろう。その後の付き合いであたしはその理由を探ろうとした。
一見、あたしの日常は有希の告白前とは何にも変わっていないように見えただろう。あ
たしは毎日太田先生の弁護士法人に事務スタッフとして出勤し、社員である弁護士達から
の調査の指示を受けて、主に企業の体力を調べる日常を繰り返していた。ただ、以前と異
なっていたのは手許に持っているあたしのIDカードが一枚増えていたことだった。
毎日ではないけれど、あたしは自分の仕事を終えると十四階にある自分のオフィスを出
てエレベーターで二十六階を訪れた。もう一枚のカードをカードリーダーに通すと地味な
オフィスの扉が開く。いつもならいかにも水商売あがりといった風情の二人組みに睨まれ
るという素敵な出迎えを受けるのだけど、どういうわけかこの日の受付には何だか目付き
の悪い高校生らしい男の子が、足をデスクに投げ出すようにだらしない姿勢であたしを出
迎えた。
「あんた誰? 勝手に入ってくるんじゃねえよ」
「あなたこそ。ここで何してるの」
「んだあ。てめえ誰に向って」
「やりなおし」
「え」
「やりなおして。教えたとおりに」
いつのまにか現れた有希が静かに言った。
「いや、だってこいつ勝手に」
「ユウト。これからはこの人のことは結城さんって呼ぶのよ。結城さんはビッチの最高顧
問なの。覚えておいてね」
「ちょっと有希ちゃん。あたしにはそんなつもりはないよ」
ユウトと呼ばれた高校生は突然机から足を下ろして立ち上がり最敬礼した。
「どうもすいませんでした! 申し訳ありませんでした」
「・・・・・・どういうこと?」
有希の部屋に招じ入れられたあたしは有希に聞いた。
「どういうことって?」
「何でいつもの女の子が受付にいなかったの」
「今日はあの子たちの初仕事なのよ。イメクラで働いていたのを女優経験があるとか言っ
ちゃう子たちだからちょっと心配だけどね」
「・・・・・・最高顧問になんかなったつもりはないんだけど」
「ああ、そのこと。ユウトにはああいうのが一番効くのよ。ただそれだけ。これが池山か
飯田ならいきなりうちの事務所に入ってきた人をいきなり脅したりしないんだけどね。で
も池山も飯田も今は出て来れないし」
「だからあれは便宜的に言っただけ。別にビッチにはあなたの力なんかいらないし」
あたしの沈黙は安堵からのものだったのだけど、有希はどうやらそれを勘違いしたよう
で少し慌てて言いわけを始めた。
「別に唯ちゃんがどうってわけじゃないのよ。でもうちには今は法律家もすごい調査員も
必要ないの。むしろもっと薬剤師が欲しいくらいなの。だから唯ちゃんをバカにしたわけ
じゃなくて」
「まあいいけど。それでいつもの二人組みの初仕事って」
「事情聴取だよ。本来それをすべきうちの所長に代わったのよ。うまくいくか正直心配な
んだけどね」
「加山さん? 彼はもう警察をやめたんじゃないの」
「やめてないよ。今日の事情聴取が終るまではまだね」
「だって加山さんは所長室で仕事してるじゃない。一昨日も見たよ」
「それはうちの職員になったんだし」
「・・・・・・公務員の兼業は禁止されてるのよ」
「だから?」
「だからって・・・・・・」
「そういうことを言い出すからあなたにはうちの顧問は無理なのよ。ここは法律事務所じ
ゃないんだから」
「・・・・・・それで。あの二人は何を?」
有希があたしを眺めて少しだけその端正な顔に笑みを浮べた。
「あれ? 唯ちゃんはビッチには関わらないんじゃなかったの」
「まあね。別に聞きたいわけじゃないよ」
危うく有希の餌に引っかかるところだった。ビッチにはあたしは必要ないというのは多
分有希の本音だ。法律面では多分太田先生がビッチをバックアップしている。渡とかいう
薬剤師崩れのバーのマスターが技術面でアドバイスしているらしい。そして実行部隊であ
る町の不良たちの数は今では五十人を超えるらしい。何よりもそれを統括する女帝の中学
生離れした企画力、そしてその統率力。そうだ。有希が実務的な面であたしを欲している
とは思えない。
・・・・・・もちろん恋人として、あるいは自分の歪んだ欲望の対象として、今だに有希があ
たしのことを求めていると考えていることはありえるかも知れない。あたしを自由にして
言うことを聞かせるためには、あたしを自分の商売に巻き込んでしまうのが手っ取り早い
だろう。でも本当にそうなのか。
よく考えるまでもなく、愛情の対象としても欲情の対象としても有希があたしを求める
理由なんてないのではないのか。あたしがずっと有希を警戒していたのはあのとき、有希
に押さえつけられ露出させられた肌を愛撫されたことがあったからだ。あのときあたしは
自らの機転でその力関係を逆転させた。ずっとそう思ってきた。でもそうでなかったとし
たら?
有希には最愛の彼氏がいる。そして今日は姿がないけど最近よく事務所に顔を出してい
た池山や飯田という不良とも関係があるのではないかとあたしは疑っていた。つまり有希
には恋愛にせよセックスの相手にせよわざわざ無理矢理あたしに相手をさせる必要なんか
ないのだ。それなら有希のあの行動の理由は何か。
あたしの能力を欲していないとしたら、考えられる必要は一つしかない。
それは、あたしがかつて結城奈緒、旧姓太田奈緒を親しく育てたことがあったという事
実に起因するものではないか。
「女の子が二人だもん。別に荒事をするわけじゃないよ。もしそういうことを心配してい
るならね」
「いったい何をさせようとしてるの」
あたしはついに有希の垂らした餌に食いついた。いや、食いついてしまったのだ。何で
そこまで必死になったのか、そのときにはわからなかった。
「事情聴取だよ」
有希が笑顔で言った。あたしがビッチに関することに自分から積極的に興味を示したの
は始めてからだったからもしれない。
「明日香の尋問を彼女たちにさせたの。だって悔しいじゃん、あんなずるい女がただ襲わ
れたなんて証言をするのなんかさ」
「どういうこと? それに明日香ってまさか」
「うん。唯ちゃんは知っているはずだよね」
「理恵さんの娘さんでしょう」
「そうだよ。でも、もう唯ちゃんには関係ないでしょ」
あたしの頭の中で有希の声が響いた。
あたしはこのとき、積極的に有希にもビッチにも同調しなかった。そのことがその後に
起こった出来事に対するあたしの姿勢を束縛することになったのだ。
正直そのときはこのまま明日香を自分のマンションに放置することは気が進まなかった。
とにかく明日香の様子はおかしかったから、いくら約束があるとはいえこのまま明日香を
一人にしていいのかあたしは悩んだ。何でこんなときに限って奈緒人はいないのだ。何度
電話して、昨夜一度だけ電話に出ただけでその後は彼に連絡がつかない。
とはいえ、あたしにとっては自分の仕事を放置できるような状態ではなかった。今は校
了間近で山場なのだ。とはいえ、平井さんという刑事の推理を聞かされた後では、明日香
を一人で放置するわけにはいかない。まして、こんなに落ち込んでいる明日香を見たのも
初めてだったし。あたしは再びいらいらしながら奈緒人に電話した。
・・・・・・やはり彼は電話に出ない。もう決めなければいけない時間だった。
「明日香さあ。あたしは仕事に行くけどさ。あんたはどうする?」
ソファの上に横向きになって横たわっている明日香が顔を上げた。
「ここにいてもいい?」
「いいけど。学校には連絡してあるの?」
返事はなかった。しかたがない。
「いてもいいけど。学校を休むんだったら、あたしが帰ってくるまでは外に出ちゃだめだ
よ。誰か来ても家に入れちゃだめ。博人さんと姉さんと奈緒人以外はね」
「パパとママがここに来るわけないよ」
「あとさ。奈緒人が来ても声だけでロックを開けるんじゃないよ。そこのディスプレーで
顔を確認しなよ」
平井さんの話は明日香に伝えていなかったから、あたしの物言いは明日香にはずいぶん
大袈裟に聞こえたかもしれない。それでも明日香はもう反応すらしなかった。
「じゃあ、あたしは行くよ。適当に冷蔵庫とかあさっていいから、絶対に部屋から出るな
よ」
返事をしない明日香の様子に後ろ髪を引かれながらもあたしは自分のマンションの外に
出た。何だか妙に裸に人前に出たような落ち着かない気分になった。
奈緒人がいてくれたら。あたしはそのとき明日香のことを考えていたのだと思っていた
のだけど、実はそれだけじゃいのかもしれない。安全な自分の部屋から外に出ると急にそ
んな気がしてきた。あたしは多分、寂しいのだ。奈緒人にそばにいて欲しいのかもしれな
い。あたしは自分の車に乗り込んでチョークを引いてキーを回した。車内はさっきまでの
暖かい室内とは異なり冷え切っていた。
いつものことだけど、仕事を始めると時間が早い。明日香のことは心配だったけど、仕
事中にはそのことを思い悩んでいるような暇も余裕もない。それに通常の仕事のほかにも
すぐにでも心を決めなければいけないこともあった。平井さんの話を聞いてまず最初に考
えたのは明日香の安全のことだったけど、悩ましいのはそれだけではなかったのだ。
上司の気まぐれから始めたつまらない企画、女子高生のアロマブームについての記事は
来月号に掲載予定だった。だが、それは余計な副産物まで産んでしまった。酒井さんに丸
投げしてしまう道もあった。もともと女帝とかビッチとかの話は彼が拾ってきたネタなの
だから。でもいくらなんでもそう割り切るには惜しい話だった。何で平井さんがあたしに
そこまで気を許して捜査情報を話してくれたのかはわからないけど、それは聞いてしまっ
た以上簡単に捨て置ける話ではなかったのだ。
あたしはもともと調査報道を希望していた。この雑誌社に入ったのだってあたしの東洋
音大器楽科卒業の経歴では新聞社からは相手にされなかったからだ。結局中高生相手のフ
ァッション誌に配属されたあたしは、いつかは時事ネタを扱う週刊誌に転勤する希望をま
だ捨ててはいなかった。
中学生が何十人もの高校生を組織して指定薬物を含むドラッグ販売をすることだけでも、
結構センセーショナルなネタには違いない。でも、平井さんの話はそれに留まらなかった。
神島スポーツの事件にはそんなに詳しいわけでもなかった。だけどあの頃連日新聞紙上
をにぎあわせていただけだけに、あたしにもそれなりに知識と関心はあった。
神島スポーツ事件。自殺した営業部長が実行犯であることは間違いなかった。ただ、横
領された金は複雑な経理操作の果てに錯綜した帳簿のどこかに消えたままだったのだ。そ
の解明の糸口がこの事件にあるという。取材源はある。酒井さんさえ納得してくれるなら、
その道は池山とか言う男を紹介してくれたSPIDERのマスターから始まるのだろう。
午後三時頃になって仕事の目途がたった頃、あたしは意を決して酒井さんに電話した。
別に手柄をあたしが独り占めしなければ、酒井さんも乗ってくれるのではないか。酒井さ
んにとっては週刊時事を裏切ることになるには違いないけど、別に彼はあそこの正社員で
はない。もともとこの取材のきっかけを作ったのはうちの社のバカキャップなのだ。別に
あたしは特別に愛社精神に溢れているわけではないけれど、これほど化けるかもしれない
ネタを他社に黙って譲るわけにはいかないだろう。たとえあたしがしがないファッション
雑誌の下っ端編集だからとしても。
数コールの後、酒井さんが電話に出た。
「よう佐伯」
「・・・・・・佐伯はよしてください。ここじゃ渡としか呼ばれないんでね」
「今は誰もいねえじゃねえか」
「そうですけど。でも直接会うのはやばいですよ。ましてうちの店じゃあ」
「・・・・・・ガキども相手なのにずいぶん慎重なんだな」
「確かに楽な仕事ですけどね。女帝があらわれてビッチを組織するまではね」
「それはこっちのも情報が入っている。すぐ帰るよ。だが非常事態なんでな」
「非常事態? いったい何ですか」
「女帝から聞いていないのか」
「・・・・・・何の話ですか」
「太田有希の話に決まってるじゃねえか」
「有希ちゃん? 池山の彼女の。確か富士峰の中学生ですよね? 彼女が女帝とでも言う
気ですか」
「違うのか」
「止めてくださいよ。あの子は有名な弁護士の娘ですよ。女帝のわけがない」
「有名な弁護士の娘で名門女子校の中坊が池山の女で、こんないかがわしい飲み屋の常連
かよ」
「誰でも親や学校に反抗したがる時期はありますからね。でもあの子は頭がいいし、すぐ
にこんな世界とは足を洗うでしょう。高校生になったら受験していい大学でも目指すよう
になりますよ」
「時間がねえんだよ。もう。とぼけるのはやめてもらおうか。佐伯よ、おまえ裏切る気
か」
「何でそうなるんですか」
「関東信越厚生局麻薬取締部の佐伯麻薬取締官さんよ。おまえさん、潜入捜査には向いて
ないんじゃねえか」
「・・・・・・その名前をここで口にしないでください。潜入操作中なんですよ」
「情が移ったのか? 有希とかっていう小娘に」
「そんなわけないでしょ」
「職務怠慢と言われてもしかたないよなあ。佐伯麻薬取締官さんよ」
「・・・・・・俺の正体を口にするな。公務執行妨害だぞ」
「もうよそうや。あんたが女帝やビッチを摘発する気がないことはわかってるんだよ。も
ういいよ。それより聞きたいことがあるんだがね」
「何です?」
「加山はなぜ裏切った? あいつは今どこでどうしてるんだ」
「加山? ああ、明徳署のあんたの部下ですか。俺にはわかりませんね」
「地元警察への協力拒否ね。あんた、それでも司法警察員か」
「そうですが何か」
「決裂かよ。あんたにはがっかりだよ。てめえの職務さえろくに果たす気はないんだな」
「・・・・・・俺は厚労省の職員だ。警視庁のあんたの命令は受けない。第一俺は裏切っちゃい
ないよ」
「佐伯渡さんよ。あんたは大学を卒業して薬剤師の国家試験に合格した。翌年、国家公務
員試験を受験し合格して、麻薬取締官になった」
「それがどうしたんですか」
「厚労省の人事担当の目ってのはよっぽど節穴なんだな」
「どういう意味だ」
「高校時代もそうだが。大学時代だって相当悪いことしてたんだろ。こんなのが麻薬取締
官とは笑わせるぜ」
「過去は否定しない。でも、俺はその経験を生かして麻薬撲滅のために麻薬取締官を志望
したんだ」
「そうか。立派に過去の罪状から更正したんだな。見上げたもんだ」
「いい加減に」
「はい、これ。あんたの逮捕状だ」
「・・・・・・どういうことだ」
「とりあえずの容疑は、薬事法違反、麻薬取締法違反、そしてよ」
「・・・・・・」
「神山玲子に対する傷害罪だな」
「ばかな」
「本当は強姦でも行けたんだろうけどな。さすがに親告罪はハードルが高いぜ」
「・・・・・・本気なのかよ。 証拠はあるのか」
「本気って何が? 池山と飯田のことは知ってるんだろ。俺たちがあいつらを締め上げな
かったとでも思ってたのか」
「・・・・・・」
「こんなことも考えられなくなっていたのか。おまえほど頭がいいやつがよ。有希ってガ
キ、そんなにおまえ好みだったのか」
「黙れ」
「たいした男だよ。おまえって奴は。初めてじゃねえか。最初から麻薬で商売するつもり
で麻薬取締官になった男なんてよ」
「・・・・・・」
「一緒に来てもらおうか。おっと。銃は捨てろ」
そのときSPIDERのドアが破られ、防弾チョッキを着込んだ灰色ずくめの服装の警官たち
十名以上も突入してきてた。彼らは誰の指示を受けるまでもなくバーカウンターの下から
拳銃を取り出した渡を取り囲むように拳銃を向けた。
「もうよそうぜ」
平井が立ち上がって、煙草に火をつけながら渡に言った。
今日は以上です
スレが落ちない程度には、また投下します
乙
油断するとまた落ちますよ
毎月20日すぎの月イチ連載になってまつ
まじで落ちそうだ。女神に続いてこっちも落ちたらたまらん
そろそろ次行ってください。お願いします。
作者です
いろいろご心配をおかけしてすいません
週末までには更新します
本当に申し訳ありません
了解
「記事を書いて名前を売るどころか警察から重要参考人扱いですよ。まいったなあ」
待ち合わせした喫茶店に現れた酒井さんは狼狽しているようだた。参ったなあと言うの
は酒井さんの口癖だけど、今回は本当に切羽詰っている様子が伝わってきた。血色のいい
顔には汗が浮かんでいる。
「この間紹介した俺の大学の後輩がいたでしょう? あいつ、警察に逮捕されましたよ」
「後輩って、バーのマスターの人? 取材源を紹介してくれた」
「ええ。もう何がなんだかわかんないんですよ」
「それって酒井さんの取り組んでいた取材関連の事件絡みなのかな」
一見好青年のようだったけど今にして思うとあのバーのマスターは曲者のように見えた。
逮捕されたならドラッグの件だろう。あたしを襲った事件にも何か関係があるのかもしれ
ない。ハーブの記事と明日香が襲われた件以外にあたしにはあんな目に遭う理由はない。
「どうでしょうか。渡は更正したんですよ。そりゃ高校時代は無茶してたってあいつから
聞いたことはありましたけど、もうそういうこととは足を洗ったって言ってたんですよ」
「・・・・・・本当にそうなの?」
「どういう意味です」
「酒井さんには申し訳ないけどさ。あの人て何か胡散臭かったよ」
「玲子もしかしさんにはそう見えましたか」
「うん」
「そうですか。俺はあいつのことを信じたかったんですけど、やっぱりそうですか」
「いったい何があったのよ」
「薬事法違反とかで、渡が逮捕されたみたいです」
「そう」
「平井とかっていう刑事に聞いたんですけど、それだけじゃないみたいなんですけど」
「どういうこと?」
「あの」
「何よ」
「聞いたままを言ってるだけなんですよ? 気を悪くしないでくださいね」
「いいからはっきりと言え」
「その。玲子さんに対する傷害罪とか」
「・・・・・・そうか」
「あとその。言いづらいんですけど」
「何よ」
「・・・・・・」
「どうしたのよ。はっきり言えって」
「つまりその。玲子さんに対するご」
「ご?」
「ああ、もう。強姦致傷ですって」
「ああ、そうか。処女だと傷害罪になるのか」
「処女って・・・・・・玲子さん。もう少し自分を飾った方が」
「そう?」
「まあ、普通は親告罪らしいんですけど・・・・・・まあその」
「何よ」
「処女だとそうでもないようで」
「ああもうじれったいな。一言で言うと何なのよ」
「それは、つまり」
酒井さんが言いつらそうに口ごもりながら話しを続けた。
「玲子さん、あの池山とかっていう不良高校生に変なことをされたんですか」
誤魔化すには真剣すぎる表情だった。多分、彼も自分の大学の後輩が関わっているか考
えるといてもたってもいられないのだろう。あたしは自分の思い出したくもない体験を語
るしかないのか。あたしはため息をついた。
「そうだったんですか・・・・・・。つらいことを話させちゃってすいませんでした」
「いや。気にすることはないよ。無事という意味では本当に無事というか何もなかったん
だから」
「・・・・・・いつまでも無事すぎるのも年齢を考えるとどうかと思いますけどね」
一生懸命冗談であたしを和ませようとしている気持は伝わってきた。たとえは微妙だっ
たけど。
「うるさい」
「すいません」
酒井さんが首をすくめた。
「いったい何があったのよ」
「ああ。何かもう訳わかんないですよ。渡は逮捕されちゃうし取材や原稿はどうなっちゃ
うかわかんないし」
「とにかく落ち着いて話してみなよ。それにうちの原稿はどうなるのよ」
「ああ、そうでした。すいません」
「すいませんじゃなくてさ。来週締め切りじゃんか。何とかなるの」
「無理ですね。この状況では」
「さらっと言うなよ。怒られるのはあたしなんだから」
「上司に怒られる方が若い男に襲われるより心配なんですね。玲子さんらしい」
「どっちもやだよ。いいから何があったか話してよ」
「・・・・・・そうですね」
一度話し始めると酒井さんの話は止まらなかった。
それは思っていたより複雑な話だった。それは酒井さんが平井さんから仕入れてきた話
で、あたしも平井さんから多少のことは聞いていたのだけど、酒井さんの情報の方がはる
かに詳しかった。音楽雑誌の編集者のあたしより雑多な仕事を強いられているとはいえ、
基本的には調査報道のジャーナリストを目指していた酒井さんの方が情報を入手する能力
に長けていたようだった。
それは女帝という名称でこの界隈の子どもたちに知られている中学生の女の子に率いら
れているグループ。その名はビッチ。明日香を襲ったのもあたしを襲ったのも、全てはそ
の女帝の仕業だというのだ。
「渡の馬鹿野郎が。あいつはどうもそのビッチとかいうグループの顧問みたいなことをし
てたらしいんですよ。何やってるんだあのバカは」
この人は本当にあの店のマスター好きだったのだろうなとあたしは思った。あの渡とか
うマスターが過去を清算して更正したことが酒井さんにとっては嬉しいことだったのだろ
う。でもその思いは裏切られたのだ。襲われたあたしに遠慮して心境を言おうとしない酒
井さんから、あたしはここまでは理解することができた。
臨海部にあるマンションから出てきた僕はまず玲子叔母さんに電話したけど、その電話
には何の反応もない。奈緒に電話したい気持を抑えて僕は次に明日香に電話した。
明日香は電話に出ない。今日は平日だ。学校に行っているんだろう。校内では電話に出
られなくても不思議はない。それに明日香が電話に出たとして、僕は彼女に何を話すつも
りなんだろう。今日、お姉ちゃんに聞いたことを報告することはできる。僕の過去のこと
とか有希のこととかを理解させるにはそれが手っ取り早いだろう。でも本当に僕はそんな
ことを明日香に話したいのだろうか。
いや。僕と奈緒の過去や父親のこととか、お姉ちゃんが教えてくれたことは僕にとって
はすごく重く重要なことだ。それは間違いない。でも、こと明日香との関係において僕が
今話したいことは多分そういうことではない。僕は思っていたよりダメージを受けている
ようだった。
奈緒と明日香と玲子叔母さん。浮気性の男の典型のようだったけど僕はその誰にも恋を
しているようだ。ただ、今の僕がお姉ちゃんが話してくれた昔の話があまり気にならない
ほど、僕の心を悩ませていたのはやはり明日香と親友の兄友との関係のことだった。
明日香の兄友との行為は僕と付き合う前の話だったので、これは不貞とか裏切りとかで
はない。それでもこれまで何度も繰返して考えて悩んだとおり、自分の彼氏を裏切って人
の彼氏を誘って寝るという行為を、明日香が平然としていたということに対して僕はショ
ックを受けていた。
これは逆説的に言えば、僕は自分で思っていたより明日香のことが大切で好きだったと
いうことなのだろう。本当に正直に考えれば、明日香が僕のことを考えていろいろ不評を
買うような行動をしてくれたことに感謝してくれたことに僕が感謝したことが僕たちの付
き合いの出発点だと思っていた。
でも、それだけじゃなかったのかもしれない。奈緒のことを含めて考えてもなお、僕は
本気で明日香に惹かれていたのかもしれない。そうでないなら、僕が今、お姉ちゃんから
聞かされた自分のルーツのことがあまり気にならないほど、明日香のことばかり考えてい
るわけがない。
いずれにしても、この時間では今日はもう学校に行ってもしかたがない。明日香は不在
だろうけどとりあえず僕は自宅に帰ることにした。
自宅の最寄り駅まで戻ったとき、僕は女さんに声をかけられた。
「奈緒人君」
「あ。女さん」
しばらくはどちらも声を出せなかったので、見詰め合ったまま僕たちは沈黙していたま
まだった。傍から見たら恋人同士の沈黙のように思われたかもしれない。
「今日、君って学校に来てなかったね」
女さんが沈黙を破って節目がちに言った。
「何で学校休んだの」
「君は学校行ったんだ」
「当然でしょ。何であたしが休まなきゃいけないのよ」
「だってさ」
「彼氏に裏切られたくらいで学校さぼるとかあり得ないでしょ」
「・・・・・・君は強いんだね」
「奈緒人君はショックで学校をサボったのか。そうかそうか」
「そうじゃないよ」
「あたしはもう開き直ったよ。自分への自己嫌悪は残っているけどね」
「自分への自己嫌悪って? 兄友への嫌悪じゃないの」
「自分への嫌悪だって。何であんなやつのこと好きになったんだろ。君に好きですって言
われてたのに、何であのときOKしなかったんだろって。そういう意味での自己嫌悪」
「・・・・・・そこまで言っちゃうんだ。女さんてそういう性格だっけ」
「違うと思うよ。今まではね。でももう開き直ったからさ。少なくともあたしはね」
「そう」
「だってそうするしかないじゃん。池山は周囲に誤解されてるとか、あいつは見かけと違
ってすげえいいやつだとか、散々聞かされてたのよあたしは」
「そうか」
「そうよ。だから本当は不良見たいな人って嫌いだったんだけど、彼がそういうならって
思って池山君とも何度か一緒に遊んだの。そのとき連れていた彼女が君の妹さんとは思わ
なかったけどね」
「うん」
「本当にふざけてるよね。何が親友よ。その親友の彼女を寝取ってさ。何が明日香が悩ん
でいるのが見ていられなかったからよ。結局あの女とやりたかっただけじゃない。ちょっ
と色目使われてほいほい誘いに乗ってさ」
「・・・・・・そう、かもね」
「あ。ごめん。君の気持を考えないでひどいこと言っちゃった。ごめん。あたしだって
人のことは言えないね。前から君のこと傷付けってばっかだ」
「そんなことはないけど」
「ねえ」
「うん」
「時間を巻き戻す機械とかどっかで売ってないかな」
「何だよそれ」
「どらえもんの道具とかでないかなあ。今切実にそういうのが欲しいだけど」
「そんなものがあるなら誰も悩んだりしないでしょ」
「そうなのか」
「そうだよ」
そのとき女さんが真面目な表情で僕を見て言った。
「時間を巻きして昔の行動をやり直せたらなあって思ったことない?」
そう言われた僕は少し真面目に考えてみた。
後悔している過去の行動。やり直せるとしたらやり直したいこと。でも、不思議なこと
にそれは全く思い浮ばなかった。誰にでも後悔している過去はあるはずなのだけど、今の
僕にはそれがないのだ。
それは今まで自分が受動的に流されて生きていたせいなのかもしれない。奈緒と再会し
奈緒に告白されてOKしたこと。それについて後悔はない。明日香に告白されそれを受け
入れたこと。明日香と兄友との過去の関係を消化しきれていないことは確かだけど、それ
でもそのときの自分の決意を後悔はしていない。
そのとき一つだけやり直したいと思う行動が思い浮んだ。玲子叔母さんを抱きしめてキ
スしたことだ。一瞬雨に濡れたブラウス越しに見えた叔母さんの白い肌が思い浮んだ。そ
して、冷たい雪の中で腕を組んで歩いた海岸の情景も。
「・・・・・・あるんだ。何を後悔しているのかお姉さんに言ってごらん」
女さんが笑って僕にそう言ったけど、その表情の奥には気軽に応じることができないよ
うな深い悲しみがあった。僕は黙りこくっていた。
「兄友なんか好きにならなきゃよかった。そうすればこんなに悲しむことも悩むこともな
かったのに」
「気持はわかるよ」
「何がわかるの」
女さんが静かに言った。「言ってごらん。君には何がわかるの」
「いや。だって兄友のやつが」
「多分、今の君にはわからないと思う。奈緒ちゃんと付き合ったり、彼女を振って明日香
ちゃんといい仲になったりするような君には」
僕は反論できなかった。そうか。女さんから見れば僕のしていることは兄友と同じよう
に見えているんだ。改めてそう気がつくと僕には明日香と兄友の関係を非難できるような
立場じゃないかもしれない。自分では女さんと一緒で被害者のような気持でいたのだけど、女さんにはそうは見えていないのだろう。被害者は女さんだけで彼女から見れば僕は兄友
と同じ加害者のように見えているのかもしれなかった。
でもそのあとに続けて女さんが言った言葉は僕を驚かせた。
「君がさ。前に告白してくれたときに戻れるような機械ってどっかで買えないかな」
女さんは俯いてそう言った。別に僕のことを非難しているようには思えない。
「何でそういうのが欲しいの」
「だって」
このとき女さんが顔を上げて僕の方を真っ直ぐに見た。
「そしたらやり直せるじゃん。好きになってくれて告白してくれてありがとうって。あた
しの方こそよろしくお願いしますって、君に言えるじゃん」
「兄友のことで自棄になって・・・・・」
「そうだよ。あたしは自棄になっているのかもしれない。でも今の自分が本気でそう思っ
ているんだからそう言うしかしかたないじゃん」
どう答えていいのかわからず、助けを求めるように周囲をきょろきょろと見回していた
僕の視界に、俯いたまま駅の方に向かって歩いている明日香の姿が映った。
普段の投下量の半分くらいですけど、スレを落さないための保守として投下しました
また続きを書いたら更新したいです
遅い少ない進まない
でも待ってるので是非完結してください
もう女神は諦めました
二週間経って1レスしかない( i _ i )
もうだめかも分からんね
みてますよー。投下待ってます!
>>411
お待たせしてすいません
再開します
そのときほぼ僕と同時に明日香に気がついたらしい女さんが言葉を止めてすごい表情で、
本当にすごいとしか言いようがない表情で明日香の後姿を睨んだ。
今にも雨になりそうな午後の陰鬱で灰色の空の下で、明日香は下を向いてとぼとぼと歩
いている。何の脈絡もないことではあるけど、その姿に僕は何となく反抗的で顔を合わせ
るたびに僕に突っかかってきた妹の姿を重ねてた。今の明日香にはあの頃の反抗的なエネ
ルギーを感じないし、その後に僕に甘え出したときの無邪気に恋する女の子という印象す
らない。今の明日香を眺めて彼女を可愛いと思い惹かれる男なんかいないんじゃないか。
僕はそう思った。
さっきまで明日香の行動に悩んでいたはずなのだけど、肩を落として俯いている妹の姿
を見ていると、自分でもなんでわからないけど明日香の笑顔を見たいという気持が自分で
もうろたえるほどに切実に湧き出てきた。
僕が明日香を追って声をかけようとしたとき、隣から低い声が聞こえた。
「君の妹さん・・・・・・じゃなくて彼女だったっけ」
「え」
「明日香ちゃんに文句を言って来てもいい?」
僕は女さんを見た。いつも陽気だったその瞳には涙が浮かんでいる。
「いや、あの」
「あたしには文句を言う権利があるよね。あたしは自分勝手なことを言ってないよね」
女さんが明日香の後姿を眺めながら言った。
女さんにはその権利がある。僕はそう思った。明日香と兄友の関係は僕と明日香が付き
合い出す前のことだったから、池山と付き合いながら平然と浮気ができる明日香の心境に
ショックを受けたとはいえ、僕に関して言えば直接明日香に浮気されたというわけではな
かった。
でも女さんは違う。彼女は兄友の恋人だ。つまり女さんは兄友に浮気されたわけだしそ
の相手は明日香だったから、女さんが明日香を責めることには正当な理由がある。そう判
断した僕が女さんに答えようとしたそのとき、自然と明日香の後姿に目が行った。
明日香は兄友との浮気がばれたことは知らないだろうから、今の彼女が何で落ち込んで
いるのかわからない。それに関しては明日香は玲子叔母さんにも何も言わなかったそうだ。
そのとき僕は心に決めた。明日香を守ろうと。
「ごめん。今日のところは勘弁してもらえないかな」
「何で」
女さんが短く問い返した。もう涙は浮べていない。それどころかさっきまで僕とやり直
したいということをほのめかしていたときの表情も消えていて、女さんを知っている人に
はよくわかるだろうきつい表情を浮かべている。この人は自分にも厳しいけど他人にもそ
れを求める人なのだ。
「理由を言って。あたしには明日香ちゃんを問い詰める権利があると思うけど」
「それはそうだけど」
僕にはそうとしか言えなかった。女さんのいうことは正しいとわかっていたから。
「・・・・・・君が動揺しているのはわかるよ。君にとっては親友と大事な彼女に同時に裏切ら
れたんだから」
僕の狼狽した様子を見て女さんは少しだけ口調を柔らかくした。
「それでも知らなかった振りをして済むことじゃないでしょ。あたしは何も明日香ちゃん
だけを責めるつもりはないよ。今まではあたしだって逃げていのかもしれないけど、ちゃ
んと兄友とも話をするつもり」
徹頭徹尾女さんの言うことは正論だった。それでも少なくとも今はだめだ。明日香が何
かに悩んでいる今は。心の中で僕はそう思ったけどそれを正当化する言葉は全く浮かばな
かった。それで僕は俯いて黙ったいるしかなかった。
しばらく沈黙が続いた。やがて女さんがその沈黙を破った。
「あ~あ」
「え?」
「え? じゃないよ、全く。あたしって兄友には厳しくできるのに何で君にはこんなに甘
いんだろう。昔振っちゃった負い目があるからかなあ。自分でも呆れるよ」
「どういうこと」
「いいよ。今日のところは何もしないであげる」
「・・・・・・ごめん。ありがと」
「勘違いしないでね。明日香ちゃんや兄友のことは忘れないし許しもしていないの。あた
しって結構執念深いんだよ」
女さんが笑った。その笑顔はすごく寂しそうだった。
「うん」
「今明日香ちゃんを問い詰めないのは君のため。君にそんな顔されたらさ」
「女さん・・・・・・」
「今日はもう帰るね。あとさっきのことだけど」
顔を少しだけ赤くして彼女が言った。
「過去に戻れたら君に応えたいと思ったけど、今は違うからね」
「どういうこと?」
「あたしは兄友とか明日香ちゃんの同類にはなりたくないから。今、君と付き合ったらあ
いつらと同じことをしてることになるしね」
僕には何も言えなかった。本当に何も。
「だからタイムマシンが欲しかったんだよ。これで安心した?」
女さんはそれだけ言うともう振り向くこともなく駅とは反対の方に歩み去って行った。
自宅に帰るには彼女もこの駅で電車に乗らなければいけないのに。
呆然として女さんの去っていく姿を見守っていた僕は、やがて明日香のことを思い出し
た。もう既に明日香の姿はない。僕は駅の方に走り出した。何でわからないけど明日香を
捕まえないといけないような気がしたのだ。そうしないと、もう明日香との仲は終わりで
はないかという気がして。
改札を通り自宅方面へのホームに駆け上ったとき、ちょうどドアを開けた電車の中に入
っていく明日香の姿が見えた。既に発車のチャイムがホーム上に鳴り響いている。僕はダ
ッシュして電車のドアが閉まる前に何とか車内に滑り込んだ。乗客の視線が僕に集中する。
その中に明日香の姿があった。
「あ」
明日香が驚いたように僕を見て小さく声を出した。僕は明日香と顔を合わせた。彼女と
会うのはずいぶんと久し振りのような気がする。
「玲子叔母さんに怒られたよ」
僕は明日香の隣に座って言った。
「・・・・・・そんな話、叔母さんから聞いていないよ」
やっぱりここ最近の明日香と変らず、僕の目を見ないし顔も見てくれない。
「そうか」
「叔母さん、何だって?」
元気のない声でどうでもいいと言うように明日香が聞いた。
「何でおまえのことを泣かせるんだって」
「・・・・・・何言ってるんだろうね」
「明日香」
「へ」
名前を呼ばれた明日香が初めて僕の方を見た。その期を逃さず僕は明日香を抱き寄せた。
周囲の人目なんか全く気にならない。
「なになに」
「明日香。一つだけ聞かせて」
「何なのよ」
「いいから正直に言って。僕はおまえにプロポーズしたよな」
明日香は僕に肩を抱かれたまま、でも身体を固くして僕からなるべく距離を置くように
しながら目を伏せた。返事はない。
「別におまえの気が変わったのならそれでいいんだ。あのときはOKしてくれたとかいう
気はないし」
「何言ってるの」
「奈緒のこととかさ。おまえがいろいろ悩んでいるのはわかってる。でも、これだけは言
わせて」
「・・・・・・何」
「奈緒が僕の実の妹じゃないって知ったからって、僕の気持は変わらない」
「・・・・・・お兄ちゃん」
少しだけ明日香の体が柔らかくなった気がした。
「奈緒のこととか玲子叔母さんのこととか、おまえにはいっぱい心配させちゃったね」
「あ、あたしは別にそんな」
「ごめん」
本当は今日は明日香に謝るつもりなんかなかったのだ。逆に兄友との関係を問い質そう
と思っていたのだし。
でも、僕には本当に明日香を責めたり問い質したりする権利はあるのか。そう考えると、
実は反省すべきは僕の方じゃないかと思えてきた。
明日香の浮気はショックだったけど、あれは明日香が僕の彼女になる前の話だ。それに
比べて、奈緒のことはともかく玲子叔母さんに欲情したりキスしたりした自分の行為はど
うなのだ。あれは僕と明日香が付き合い出した後の話じゃないか。
もう明日香と兄友のことを責める気はなかった。むしろ、こんな僕のことを明日香がど
う考えているのかだけが気になっていた。
それまで身を固くしていた明日香が不意に僕に柔らかくもたれかかった。
「ばか」
そう言って明日香は僕に軽くキスした。
「ばかね」
明日香が口を離して繰返した。
「本当にばかだな。僕は」
「ううん。あたしこそ心配させちゃってごめんね」
「それはいいけど」
「もう一度聞かせてくれるかな」
「うん?」
「明日香とずっと一緒にいたい。父さんと母さんとずっと四人で」
「・・・・・・妹としてなの?」
「いや。僕の奥さんになってほしい。そういう意味でずっとい一緒にいたい」
「本当にいいの?」
明日香が意外なことを言った。
「・・・・・・どういう意味」
「お兄ちゃんは奈緒ちゃんと付き合ってたんでしょ。でも奈緒ちゃんが妹だと思って恋人
としての関係をやめた」
「ああ」
「はっきり言わなかったあたしが悪いの。でもお兄ちゃんの二度目のプロポーズに応える
前にこれだけは聞かせて。奈緒ちゃんはお兄ちゃんと血が繋がっていない。そして玲子叔
母さんもお兄ちゃんと結婚しようと思えばできるわけじゃん」
「あのさあ」
「もう誤魔化さないで。それでもお兄ちゃんはあたし選んでくれるの」
「そうだよ。僕がずっと一緒にいたいと思うのは明日香だ」
「実の兄貴じゃないって知った奈緒ちゃんから迫られても?」
ほんの一瞬、ほんのわずかな間だけど僕は言葉に詰まった。でも明日香に気が付かれる
前に僕は何とかその言葉を振り絞ることができた。
「明日香。誰よりもおまえが好きだ。本当に愛しているよ」
言葉に詰まった一瞬の間は明日香に気が付かれなかったようだ。明日香は人目を気にせ
ず泣きじゃくりながら僕にしがみついた。ここ最近僕に対して素っ気ない態度を取ってい
た明日香に本気で抱き着れるのは久し振りだった。そして抱きしめて彼女の頭を撫でるの
も。
もう何日も家に帰れないほど多忙な状況で、これほど心臓に悪い電話を取るとは思わな
かった。奈緒人と明日香のことが心配だったけど、仕事が忙しすぎて子どもたちを思いや
ることすらできなかったある冬の午後のことだった。
「編集長。四番に外線です」
「ああ」
電話口でひどく懐かしい、そして今となっては聞きたくないあの声がした。
「久し振りだね、先輩」
「・・・・・・麻紀か」
「そうよ。まだあたしの声を覚えていてくれたんだ」
「何の用だ。それに先輩って」
「あ、博人さんだった。間違えちゃった。突然電話しちゃってごめんね。もうあたしの声
なんか聞きたくもないでしょうけど」
「奈緒に何かあったのか?」
それ以外で麻紀が僕に電話してくるなんてありえないので、心配になった僕は心臓が止
まる思いをした。何と言っても奈緒は大切な娘なのだ。
「奈緒は元気だよ・・・・・。でも、あなたは変わってないね」
「何が?」
この後にどんな話が待っているのかはわからないけど、とおりえず奈緒が無事なことに
僕はほっとしていた。
「こんなに久し振りにお話するのに、博人さんはやっぱり奈緒のことが気になるのね。毎
年奈緒とは会っているのに」
「・・・・・・僕が娘の心配をすることに何か不都合でもあるのか」
麻紀の返事がない。
「もしもし?」
「それより博人さん覚えていた? 今日は怜奈の亡くなった日だね」
ものすごく久し振りに浮気されて離婚した元の妻からの電話を受けているだけでもスト
レスなのに。
怜奈。わずか数回しか会ったことすらない彼女。
鈴木先輩の奥さんの彼女。
僕は今では理恵と安定した家庭を築いている。仕事で滅多に会えないにも関わらず、二
人の子どもとの仲もうまくいっている。子どもたちの仲が悪いことだけがこれまでの僕と
理恵の悩みだったけど、それも最近では改善されていると玲子ちゃんからも聞かされてい
た。要は僕は何の悩みもない幸せな家庭を築いて、今さら麻紀からの電話ごときに動揺す
る理由はないのだった。
それでも怜菜の名前を聞いた僕は動揺してしまったようだった。
「電話してよかった。やっぱり間違っていなかったっていきなり思い知らされたよ」
麻紀が何を言いたいのかさっぱりわからない。
「何だって。いったい君はさっきから何を言っている。何のために電話してきた」
「・・・・・・すべきことの前にあなたの声を聞きたかったから。これまで本当にごめんね」
「すべきことって。何を言ってるのかわからないよ」
「博人君。今でもあなたのことが好きよ。この世界で一番好き」
「何言ってるんだ。言う相手が違うだろ。それとも鈴木先輩と何かあったのか」
「最初から今まであの人とは何もないよ。本当に何もね」
「・・・・・・本当に奈緒に何かあったんじゃないだろうな」
「奈緒と奈緒人は絶対にお付き合いさせないの。あなたも賛成してくれるわよね」
「ちょっと待って。奈緒人と奈緒は顔を会わせてさえいないだろ。僕は奈緒に面会してい
るときも奈緒人のことだけは何も話さないようにしているんだぞ」
「博人さんは子育てに向いてないのね。あなたの可愛い妹さんが用意した携帯電話のこと
すら知らないでしょ」
「妹? 唯のことか」
「久し振りにお話できてよかった。勇気を出してあなたに電話して本当によかったと思う
わ。もっとお話していたいけど、そろそろ奈緒がピアノ室から出てくるから。じゃあまたね」
「おい! ちょっと待って。切るなよ」
僕はすぐに携帯電話を取り出した。未練がましいようだけど麻紀の番号はまだメモリー
に残っている。機種変を繰返すたびに、その番号は新しい携帯に受け継がれていたのだ。
僕は携帯で麻紀を呼び出したけど、結局何コールしても麻紀はそれに応えることはなか
った。
今日は以上です
なるべく更新頻度をあげるようにしたいと思いますけど・・・・・・
ゴールまでもう少し。頑張れ!
がんば
「あはは」
明日香が僕の胸の中で笑った。
「どうしたの」
「あたしばかだ」
「いきなり何言っているの」
明日香が上目遣いに僕を見た。
「考え過ぎないで直接お兄ちゃんに聞けばよかっただけだったんだ」
「だから意味わかんないって」
「何だかすごく安心しちゃった」
「それならいいけど」
「疑ってごめんなさい。不安になっちゃってごめんなさい」
「いや。はっきりしなかった僕が悪い。ごめんな」
「ううん。もう奈緒ちゃんにも誰にも嫉妬したりしないから。お兄ちゃんのプロポーズの
言葉を一生信じるから」
「うん」
僕は明日香を抱いている手に心持ち力を入れた。明日香の腕もそれに応えてくれた。
これでいいはずだった。これで元通り仲直りできたのだ。
でもどういうわけか明日香に会う前よりもしつこく僕の心の片隅が鋭い刃で触れられて
いる、そんな感覚が僕に取り付いてどんなに目の前の華奢な明日香の身体を抱きしめても、
それは消えない。
それは根源的な不安だった。明日香は奈緒のように男と付き合ったことがない初心な子
ではない。それどころか一時は派手な格好をして外で遊び歩いていたことすらある。そん
なことはとっくに自分の中で克服し、折り合いをつけ、承知のうえで明日香の気持に応え
自ら彼女に告白どころかプロポーズまでした。こんなことは折込み済みだったはずだ。
明日香と兄友の関係を知ったときから何度も考えたことだけど、明日香は僕を裏切った
わけではない。池山のことは裏切ったのかもしれないけれど。当時は僕と明日香との関係
は最悪の時期だった。だから女さんには悪いけれど、少なくともそれだけをもって明日香
の行動を気に病む必要はない。僕は心の中で何度も自分にそう言い聞かせた。
それでもナイフで突かれるような痛みはいっこうに消えない。自分の心が何で自分の意
思に従わないのか考えると、認めたくはないけどおそらくその理由は二つあるようだった。
一つは兄友への劣等感だった。あいつは見た目も成績もいいしスポーツも得意だし、し
たがって女の子にも人気がある。それだけでなく、いわゆる落ちこぼれと言われるような
生徒たちとも自然と仲良くできる。ある意味、男子高校生としての理想型みたいなやつだ。
僕も最初はそんな兄友の親友であることに自分のアイデンティティを求めている時期が
あったのだけど、その感情が今では負の方向に作用しだしたのだろう。それは兄友に対す
る劣等感だ。
僕が入学して好きになり告白までした女さんは、僕ではなく兄友を選んだ。そして僕が
本気でプロポーズした明日香は、前の彼氏を裏切ってまで兄友と関係を持つことを選んだ
のだ。明日香は僕のことを好きになってくれたし時期になっているとは言え女さんも僕と
付き合っていればよかったと言ってくれた。でも、卑屈に考えれば二人のその反応は兄友
と関係したあとのことで、最初は二人とも兄友に惹かれたのだ。つまり僕は二番目の男と
いうことになる。そう考えてみれば僕の悩みは単純なことで、要するに兄友への嫉妬や劣
等感がその悩みの主成分なのだろう。
そして二つ目の理由。
僕は明日香に対して、無意識ながら優越感を感じていたのかもしれない。僕のことを心
配して身を賭してまで尽くしてくれたツンデレの明日香の行動に、僕は感謝して感動まで
したのだけど、その実その明日香の行動原理が僕のことを好きだったことに由来していた
ことに関して、上から目線で感謝していたのではないか。明日香が僕自身が戸惑うほど率
直に僕への行為をむきだしにしたことに気をよくして、上から目線で告白したのではない
か。
その根拠のない優越感は明日香と兄友の関係を知ったことにより揺らいでしまった。
それでもそれ自体は多分克服できないことではないだろう。もっと深刻なのは、明日香
と兄友の関係を知ったとき、僕が一瞬でも彼女を嫌悪する感覚を覚えたことにあった。明
日香のかつての中学生としては非常識な付き合いや奔走な行動に関しては、それが僕への
反発から発した行動だと思っていたから、僕は一面では明日香に対して優越的な位置を壊
すことなくそれを許容することができた。でも、明日香と兄友の関係、詳細は承知してい
ないけど明日香の兄友へのアプローチは家庭事情や僕への反発とは因果関係がなさそうだ
った。
それは一つ目の理由と相関関係となっていることだけど、それなら明日香の行動は単純
に好きな男を誘惑しただけのことになる。しかも池山という彼氏がいるにも関わらずに。
そのときの明日香の行動は僕に対する愛情とは全く関係ないことだから、僕が優越的な立
場に立って明日香の中学生らしからぬ行動や生活態度を許容して受け入れようとした土台
自体が崩れてしまうのだ。
きっと奈緒ならこんな心配をすることはないだろう。奈緒は、引き離されてから今に至
るまで、それが実の兄に対するものにせよ恋人に対するものにせよ、僕のことしか頭にな
い。もちろん、これまで付き合った男なんかいない。奈緒の頭の中には、かつて常に一緒
に過ごしていた僕しかいない。
明日香に誓ったばかりの僕は、彼女を抱きしめながらこんなどうしようもないことを考
えている。これでは最低なのは明日香ではなく僕の方だ。僕は無理にその考えを意識の外
に追いやろうとした。
奈緒が実の妹ではないことなんか、これ以上考えても仕方がない。
「・・・・・・お兄ちゃん?」
「ああ、ごめん。今日は学校休んだんだろ?」
「うん」
「じゃあ、家に帰ろうか」
「・・・・・・買物していっていい?」
「いいけど」
「夕食の材料買わないと。今日もパパとママ帰りが遅いみたいだし」
「別に作らなくてもいいよ。コンビニで何か買って帰ろうよ」
「作りたいの。花嫁修業? って感じ」
「・・・・・・」
「お兄ちゃん? どうかした」
満足そうに僕の腕に掴まっていた明日香が少しだけ不安そうな声で僕に聞いた。
「いや。何でもない。それよかさ、叔母さんはおまえが自宅に帰ること知ってるの?」
「あ。知らないかも。つうか玲子叔母さんが帰るまでマンションでおとなしくしてろって
言われてた」
「おまえなあ・・・・・・。とりあえず叔母さんに電話しとけよ」
「わかった」
素直にスマホを取り出して電話をかけた明日香はしばらくして困惑したように僕を見た。
「叔母さん、電話でないよ」
「打ち合わせでもしてるのかな」
「そうかも。普段だって一回で電話に出ることなんか滅多にないし。まあ着歴見たら電話
してくるよ。いつもそうだもん」
今はこれで満足するしかない。
「じゃあ帰ろうか」
「だからスーパーに寄ってって言ってるじゃん」
「コンビニでいいって」
「だめ」
「わかった」
根負けして僕は明日香にそう答えた。
気持はまだ完全に落ち着いたわけではないけど、賑わっている夕暮れのスーパーに寄っ
て、人だらけの店内ではぐれないように僕の腕に抱きついている明日香と夕食の献立や必
要な品物を探しながらカートを押しているとだいぶ気持が楽になってきた。明日香と仲直
りしてから何度も二人で買物に出かけていたので、ドレッシングはどこにあるとかカップ
ラーメンも買っておこうとかこれまで二人で積み重ねてきた行動を忠実に辿ったことがよ
かったみたいだ。真っ直ぐに家に帰って誰もいない自宅で二人きりになったりするよりも
よほどいい。
明日香も僕に密着はしていたけど、口に出すのは買物とか今日の夕食のことだけだった
ので、そういう明日香と会話を重ねて行くうちに、僕は兄友への劣等感とか明日香の気持
への不信感とか、何よりもさっき思わず思い浮かべてしまった純粋な奈緒を懐かしく思い
出した気持が次第に薄れて行くのを感じた。
「そっちじゃないよ」
明日香が僕に言った。
「味噌とかはこっちだろ」
「この店はインスタントのお味噌汁とかはスープとか置いてあるところにあるの。こっち
だって」
「そうだっけ」
「そうだよ。それともインスタントじゃなくてちゃんと出汁をとって味噌を入れたのが飲
みたいの?」
「いや。明日香にはそこまでは期待してない・・・・・・って痛いって」
「あたしだってやろうと思えばできると思う。玲子叔母さんじゃあるまいし」
「いや、それはそうだろうけどさ。学校行きながら料理作ってくれるなんて期待してない
から。これまでどおりでいいじゃない」
「だって・・・・・・。どうせお兄ちゃんの奥さんになったら家事をすることになるんだし、今
のうちに練習しといた方がよくない?」
「気が早いって。おまえは中学生じゃん。とりあえぜ勉強してその成績を何とかしろよ」
「そうだけど。前は工業高校に行くつもりだったし、あそこなら何とかなりそうだったか
ら」
池山の通っている高校のことだ。
「工業高校って・・・・・・そういうのに興味があるならともかく、そうでないなら普通の高校
にした方がいいよ」
「うん。工業とかってピンと来ないし。って・・・・・・あ」
「うん」
「違うって。つうか違わないんだけど、少なくとも今は違うよ」
「わかってる。志望校変えるならなおさら勉強しないと」
「・・・・・・あのね」
「これ買うんだっけ」
「うん。かごに入れて二個ね。それでさ」
「ああ」
僕はお湯を注げば出来上がる味噌汁を二袋かごに入れた。朝食用と夕食用の二種類を一
つづつ。朝食用と夕食用で何が異なるのかはよくわからない。
「お兄ちゃんの高校に行ければいいけど、それは絶対無理だと思うし」
「やってみなければわからないとは言え、まあ、現実的に言えば難しいかもね」
「そうでしょ? あたしお兄ちゃんと違ってバカだから」
「そんなことはない。ただ、おまえは勉強しなさすぎだけど」
「わかってる。それでさ? 工業高校は止めるけど適当に入れそうな公立高校に入って、
卒業したら大学に行かないで花嫁修業するんじゃ駄目かな」
僕は少し考えた。さっきまでと違った悩みが新たに生じてきたからだ。
結婚しようとずっと一緒にいようと明日香に申し込んだ以上、明日香の言っていること
もあながちおかしな話ではない。ただ、雰囲気に押されて適当なことを言ったわけではな
かったけど、こんなに早く具体化するのも少し急ぎ過ぎな気がする。何といっても明日香
はまだ中学生なのだから。
それに、両親にはまだ報告すらしていないのだ。両親の反応に関しては明日香は一貫し
て楽観的だったし、玲子叔母さんも味方すると言ってくれてはいる。それでも両親は明日
香が大学に行かないなんて考えたこともなかっただろう。明日香が遊んでいたときの母さ
んの口癖は、そんなことをしていると高校も大学にも受からなくなるよ、というものだっ
たし。
「どうかな?」
「花嫁修業って具体的に何をするの。就職も進学もしないってこと?」
「まあ、そうかな」
「そんな必要はないでしょ」
「何でよ。家事とかできない奥さんじゃあたしが嫌なの」
「父さんと母さんを見ればわかるだろ? お互いに仕事にに忙しくたって二人ともすごく
仲がいいじゃん」
「あたしには自信がないから」
「今だって二人きりで暮らしているようなものだけど、その・・・・・・以前はともかく恋人同
士になってからは僕たちは何の問題もなく暮らしてるじゃん」
「前に兄友さんに聞いたことがあるの。女さんって料理とかすごく上手なんだって」
妹から女さんの名前が出るとは思わなかった僕は不意をつかれた。
「だからって」
かろうじて僕は返事をした。明日香は自分の兄友との過去の関係がばれたことを知らな
い。ここで動揺するわけにはいかない。
「それに。多分、奈緒ちゃんだって」
「奈緒がどうしたの」
「ああいう感じの子だから、きっとすごく家庭的なんじゃないかなって思う。お味噌汁な
んかもあたしみたいにインスタントじゃないだろうし」
「そんなことないよ」
僕は明日香の頭を撫でた。まるで十年前によくしていた時のように。
「ちょっと。髪が乱れるじゃん」
「これは前に奈緒から聞いたんだけどね。奈緒のお母さんは絶対に奈緒をキッチンに立た
せたり料理を教えたりしなかったんだって」
「へ? 何で。ああいう子だから家庭的なのかもって思ってたのに」
「あのレベルでピアノをしている子はみんなそうみたいだよ。指を傷つけるリスクがある
ようなことは一切しないんだって」
「ああ、そうか。そういやママも玲子叔母さんもそうだったって、前に聞いたことがあ
る」
「二人とも音大のピアノ科出身だからね。奈緒もそれと一緒だよ」
「そうかあ。じゃあ、あたしもあまり気にしなくていいのかな」
「うん」
「でもさ、あたしはピアノをやってるわけじゃないし。そういう言い訳できないじゃん」
そこに気がついた明日香が反論した。
家事なんかできる範囲でしていれば自然と上達するだろう。僕はそう思ってそれを明日
香に伝えようとしたとき。
「だから。いい加減に頭を撫でるのよしてよ」
・・・・・・僕は明日香の頭を撫でた。まるで十年前によくしていた時のように。
そのときその記憶が一気に僕の中で再生された。
『お兄ちゃん、それなあに』
『なんでもないよ。明日香には関係ない』
『何で意地悪するの。それなあに』
『うるさいなあ。あっち行けよ』
『やだ』
『行けってば』
『やだ。ここはリビングだもん。お兄ちゃんの部屋じゃないじゃん』
もうすぐ奈緒から電話がかかってくる時間だ。明日香がどこかに行かないなら僕が移動
しよう。明日香のことは嫌いじゃない。でも、たとえ新しく妹になった明日香にだってこ
の時間だけは邪魔させるわけにはいかない。
『僕ちょっと出かけてくる』
『明日香も一緒に行く』
『ついてくるなよ』
『やあだ。明日香も行くの』
最近、いろいろと断片的に記憶が戻ってきてはいたのだけど、この記憶が脳内で復元さ
れたのは初めてだった。多分、今日唯お姉ちゃんと話しをした影響かもしれない。唯お姉
ちゃんの話の後半はほとんど自分と有希との関係に終始したのだけど、これは最初の方に
話してくれた秘密の携帯電話に関する記憶だった。
復元されて浮かび上がった記憶を僕は探った。
その頃、僕は父さんとも新しい母さんとも、そして妹の明日香とも表面上はうまく付き
合っていた。ただ、奈緒に会えないショックだけはどんなに新しい家庭で親切にされても
拭い去ることはできなかった。
表面上はおとなしく何一つ要求することなく、言いなりになっていた僕の心の支えは唯
お姉ちゃんから渡された携帯電話だったのだ。僕はその携帯を誰にも見せなかった。幼稚
園に行くときは与えられた部屋のクローゼットの隅に隠した。最初に奈緒から電話がかか
ってきたときは危なかった。明日香に気づかれるところだったので、それ以降はお互いが
通話する時間はお互いが就寝するために自分たちの部屋に入って以降にすることにした。
たまたま、そのときは奈緒が変則的な時間に電話をかけてきたせいで、クローゼットか
ら取り出してポケットに入れておいた携帯が振動してしまい明日香に気がつかれたのだ。
明日香を振り切った僕は近所の公園から奈緒に電話をかけなおした。明日香のせいでさ
っきの奈緒からの電話に出られなかったから。
奈緒と会いたいとか、絶対にいつかは会えるよとかそういう言葉を交わして自宅に戻っ
た僕を待ち受けていたのは、新しい母さんだった。一緒に暮らして以来いつも僕には優し
かった母さん。その母さんが険しい顔で僕を迎えた。
「奈緒人君。携帯電話を出して」
僕は無言で後ずさりした。
「出しなさい!」
それはいつも優しく接してくれた母さんから初めて聞くようなヒステリックな声だった。
僕は父さんを探したけど、まだ帰っていないようだ。
明日香が母さんに言いつけたのだ。そして母さんは僕がこの世の中で一番大切なものを
取り上げようとしている。踵を返して家から走り出ようとした僕の腕を母さんが掴んだ。
泣いて抵抗する僕から、母さんは唯お姉ちゃんがくれた携帯電話を取り上げた。このと
き、今度こそ本当に僕は奈緒を失ったのだ。
・・・・・・そして、そのときの衝撃で僕は生まれてから新しい家族と暮らすようになるまで
の記憶を失ったのだ。
今日は以上です
また投下します
メリークリスマス。
妹手握からもう2年も経ってるとか信じられん
落ちないように保守
俺のレスばっかりで正直笑えない
>>432
作者です。すいません
そしてレスありがとうございます
別スレが佳境なので少しこっちに手が回りませんでしたけど、週末には再開しますのでよかったら読んでやってください
別スレってなに?
作者です
インフルエンザ罹患中につき、しばらく更新できません
申し訳ありません
落ちるといけないので保守
作者です
更新できなくてすいません
体調はもうとっくにいいのですが、別スレが次回で最終回ですので、その投下後に
こちらを再開しようと思います
まだ読んでくれる方には申し訳ないのですがもう少しだけお待ちください
保守
女神って終わったのかなあ…
これは落ちそうだ
終わろうが終わるまいが、作者さんが無事で、元気なら何も言う事はないのです
どうかプレッシャーを感じる事がありませんように
あっちが落ちてたのでこっちに
些細な……、すばらしかったです何度も泣いたし
こっちもおもしろいけれど
>>440
終ってません。ここを終らせることができたら、一から立て直そうかと構想中です
>>442
すいません、そして暖かいレスどうもです
別スレが無事終了したのでこちらもそろそろ再開したいと思いますが、別スレモードになっている頭を切り替えたい
のと、悪いくせで衝動的に新スレを立ててしまったのでそれとの兼ね合いで。
>>443
ありがとうございます
あ、すいません
>>444は作者です
新スレのタイトルって、聞いてもいいのか…な?
>>444
些細な…を読んでいる者です。
長くてまだ読んでいる途中ですが、とてもいい作品です。
具体的には登場人物の迷うところ、汚さとか卑怯さとか、嫉妬とか理屈に合わない感情、そのような人間としてのめんどくささ、物語において無視されがちな部分を描写しているのが素晴らしいと感じました。
だからといって暗黒小説というわけではなく、人間の醜さを強調せずにあくまで日常の普通の感情というか、うーん上手く言えません…
まぁとにかく好きってことです。
これから作者さんの他の作品や新作を読んでいきたいと思っているので、過去作などまとめて教えてもらえませんか?
よろしければ作者さんのトリップやコテ名等あればそちらも合わせてお願いします。
>>446
>>447
新作はこっちです。ただ地味なSSですし、今のところレスもほぼゼロですけどそれでもよければどうぞ
ここと同時平行なので進行は遅いし、それなりに長くなると思います
トリプル~兄妹義理弟 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1394723582/)
過去作はオリジナルで完結したもの限定だと、↓の二つしかないです
その前はアマガミの二次とか書いてたんですけど既に自分の中では黒歴史化してますので
妹と俺との些細な出来事 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1375800112/)
すいません>>448も作者です
あとコテトリはないです
ほふ
ほしゅ
ほし
前スレ700までしか読み終わってないけど、感想書かせて下さい
妹のキャラクターが好きです。強くて純粋で、しかし脆くて危ういところにとても魅力を感じます
目的のために手段を選ばない、それに感情が不安定な部分は傍から見ればクズです。
でも、別の見方をすると彼女の行動はまっすぐです。そこが美しいと感じました。
素敵な物語を読ませてくれてありがとうございます。
こっちは捨てたの?
ほしゅ
ほ
ほし
作者です。前言を否定するようで申し訳ないですけど、ここは一端落させてください
職場が変わって書く時間が少なくなったので、女神とビッチは落ち着いたら再開させてもらいます
当面は新スレに集中したいと思います
読んでくれている方には本当に申し訳ありません
了解
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