姉「すぐ済むから」 (12)

夜、喉が渇いたので水を飲みに台所まで来たら、妹がなんだか俯いている。
元々陽気で嫌な事があっても軽い愚痴を冗談に混ぜ話して終わりにするような根に持たない質だ。
不審に思い「どうしたの?」と声をかけると

「怖いから、手を握ってて」

と小学生のような事を言い始めた。
二人共年齢で言えば成人した大人だ。
夜中に姉妹揃って寒気に包まれた台所で手を繋ぐなど異星人とて寄り付かない事だろう。
だがしかし、彼女は時折パニック障害? のようなものを起こす事がある。
停車する事の少ない特急列車や、一人で乗るエレベーター、トイレの無い場所に対して強い不安を抱いている。
○○がなかったらどうしようなどの想像により常に携帯する手荷物は増え、サブバッグは手放せない。
水分補給が出来なかったら、などが一番嫌なのか大きめのマグボトルを携行しながら500mlのミネラルウォーターを買う始末だ。

普段は彼女の元来の勝ち気な性格と、私自身の人は人という淡白な性格も相俟って此方を頼みとする機会は実に少ない。
頼り無い姉は困りものだと我ながら痛感していた。

そんな間柄を超越する程の不安に苛まれているのだろう。
青褪めるのを通り越し、土気色の目元で足元をウロウロと見つめている。
こう言った時は手を握るよりも決まって手首内側にある不安解消や血行促進に効くという『内関』のツボ押しを頼まれるのだが、今回はそれどころでも無いようだ。

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「ここじゃ冷えるよ。居間のこたつでのがいいんじゃない?」

「ううん。いや、うん…」

「? なに? どうしたの?」

「おねえちゃん…」

泣きそうだが泣いてない。
いや、押し寄せる不安に途方に暮れているのかもしれなかった。
手を握って欲しいと頼まれたが、至急ツボ押しで血行を良くしてあげた方がいいかもしれないな、と手を引き居間に促そうとしたら、今度は兄が暗い廊下に立ち尽くしている。

「お兄ちゃん、なにしてんの?」

いい年をしていう呼称では無いかもしれないが、一つ上の彼はいつまで経っても私の中では『お兄ちゃん』なのだ。

兄は暗がりの中で此方を伺っている。
無言ではない。息が荒かった。
ちょっと待て。何かがおかしい。
そもそも数年前に恋人と同棲をする為に実家を出た兄が、なぜ連絡も無くこんな夜更けにうちに居るのだろう?

「すぐ済むから」

そう言いざま兄は私から妹の手を取って居間に入る。
何がすぐ済むというのだろう?
というか、こういう時、兄を似たもの同士故に同族嫌悪してる妹がおとなしいのが変だ。
兄の名を呼び捨てし、幼少期は喧嘩の際に殴られても蹴り返していたような妹がおとなしく彼に手を引かれている。
大人になって我々も落ち着いたものだとこの間の正月に集まった際には笑い合ったものだが、そんな空気などでは無かった。


兄が唐突に履いていたジーンズを脱ぎ、下半身を露わにする。
実家で共に生活していた時分、兄は風呂上がりに素っ裸で出てくる宗旨の人間だったのでもう見慣れていたモノではあるが。
それは明らかに屹立し、先端の赤黒い皮膚を露呈させていた。

理解が追いつかない。
馬鹿みたいに私は口を開けて立ち尽くしていた。
妹は着ていた寝間着替わりのフリースズボンを降ろされ、下半身のみ下着姿に剥かれうつ伏せにされている。
兄はうわ言の様に「すぐ済むから」と繰り返しながら、押し倒した妹に覆いかぶさろうとしている。

「え、ち、ちょっと、お兄ちゃん、なにしてんの?」

「すぐ済むから」

「は? てか彼女との家からウチまでどうやって来たの? 電車もう無いじゃん、どうやって帰んの?」

終電はとっくに無くなっている。
電車で一時間以上かかる距離だ。
いや、違う。そうじゃなくて。
てかお母さんは? 母は何をしてるのだろうこんな時に。
妹が「お母さん!! お姉ちゃん!!!」と年甲斐もなく火がついたように泣き叫び始めた。
素股で竿を擦り付けるように兄が腰を動かそうとしていた。



これはあかんやつやわ

そこで漸く私は硬直から脱する事が出来た。
力任せに兄の肩を掴んで行為を引き止める。
仕事柄重い物を持ち運びなれ、出勤に往復15km自転車を漕ぐ私と、デスクワークで運動不足だと嘆いていた兄は体格で言うなら身長6センチ分以外そう大した差は無かった。

不意に、目眩を覚えて後ろに倒れる。
殴られたのだと気付いたのは、遅れてやってきた右目周辺の急激な熱さと、後頭部に広がる鈍い重みのおかげだ。
右側の視界がやや不明瞭だが見えない事は無い。
それよりも、無機質に此方を見下ろす兄の眼に、思春期の頃少しグレていた時の面影を見て気持ちが竦んだ。
私は体格や体力にそこそこ恵まれたものの、気質としては根本的には泣き虫だった。
大人になるにつれ、自身と他者の分別がつき、誰かに頼った所で所詮人は一人で死んで行くのだというちょっとした厨ニ的な悟り方(回り道)も経て、その泣き虫はいつの間にか私の心の中には居つかなくなったのだ。
その泣き虫が、再びいつこうとしている。

「お前は後でな」

あとで

後で、何をされるのだろうか。

緩慢な対峙の中、殴り倒された私を見た妹は泣き叫ぶのを忘れ呆けていた。
当たり前だ。大人にもなって兄妹でこんな喧嘩をしているのが信じられないのだ。
子供の時とは違う流血を伴ったものは未経験だったらしい彼女は、それだけでこの異常状態がより非現実なものに映ってしまったのかもしれない。
彼女と私の違いはまさにそこにある。
私は残念ながら流血を伴った喧嘩を被害者としても加害者としても経験済みだった。
今は、その被害者だった時の恐怖が身体の自由を再び奪っていた。

なんで?
何が兄をこんな凶行に駆らせて居るのだろう?
関心を私から妹に戻した兄が、臀を挟むようにして掴み、太腿の隙間へと腰を落とそうとしている。
そこで妹はまた恐怖を思い出したのか「おねえちゃん!!!!!!!!!!!!おねえちゃん!!!!!!!!!!」と声が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

居間に響く金切り声。
兄は荒い呼吸を零している。
歯の根が合わなくなったように、ガチガチと震えが込み上げた。
恐怖が、恐怖なのか? 気持ち悪い、気持ち悪い、きもちわるい、いやだ、こんなの、現実である筈がない。





「うわああああがああああああがあぎゃああああああああ!!!!!!!!!!!」




胃から迫り上がった不快感が喉を焼いている。
涙と鼻水に塗れながら、もたれ掛かっていた電話台の木製チェストを立ち上がりざまに打ち倒した。
扉に嵌め込まれた硝子が砕けてカーペットを跳ねる。
そこにこらえきれなかった吐瀉物が降り掛かった。

こんなの現実な訳が無い。

明日だって仕事があって。妹とランチの約束をしていて。楽しみにしていた海外ドラマが再開して。
来月には友達と長野へ史跡巡りにいくのに。
お兄ちゃんが誕生日プレゼントを送ってくれるからって言っていて。
読みかけの本だって、夕飯の献立を、予約していたブルーレイボックスが、ちょっと気になっていたあの人からの、お母さんのお休みに、発注したのを忘れて、そうだ、明日は寒いからしまってたダウンコート着てかなくちゃ。

幼い時はおやつをぶん取られ、都合が悪い時は一方的に叩かれもしたけれど、おそらくは本気で殴られた事など無かった。
テレビゲームや漫画も、外で遊ぶのだっていつも一緒だったのに。
私はお兄ちゃんの一の子分気取りだった。
年子で弟のように扱ってきたけど、嫌な訳では無かったのだ。
決して優しいとは言えなかったが、頭が良く誇れる兄だったのは確かなのに。
こんな浅ましい短絡で愚かな事を兄がする筈がない。


こんなやつが私の『お兄ちゃん』の筈がない。


「おねえちゃんおねえちゃんおねえちゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんおねえぢゃんんんんんんん」


うるさい黙れ。

足の裏がチクチクしてうっとおしくなり、履いていたマイクロフリースの靴下を脱ぎ捨てる。
散乱した硝子の破片があった気がしたけど現実じゃないのだから関係ない。

壊れたように喚く妹の太腿に一心に擦りつけてる『男』の姿は滑稽だった。
素股ってたいして気持ちよくなさそうなのにな。
何を遠慮してるんだ。
現実じゃないのだからパンツを剥いで直接ぶち込めば良いのに。



「―ねぇ、私が手コキしてあげようか?」

なんの感情もなく声をかけると、此方を忘れたように行為に耽っていたそいつが顔を上げた。そこへ

殴った。
力いっぱい殴った。殴った。殴った。殴った。
両手首と両肩がみしりと軋んでる気がしたけど知らない。
不意をつけたお陰で完全に俺のターン状態です。
当てどころが良くなかったらしく、握った拳の先―なんかのギャグ漫画で『峰打ち』と称されていた箇所がズグズグに擦り剥けていた。

痛い。めっちゃ痛い。
なにこれめっちゃ痛いんですけど。現実じゃないくせにちょう痛い。えー…骨折れてないよね?
ぬちゃっと赤い糸を引いて『男』の顔面から拳を離して見つめる。

これ…来月長野の温泉入る時染みたら嫌だなぁ。
あ、そうだ。
現実じゃないのだから関係ないんだ。


「うっ」とか「ぐっ」とかしか言わなくなったものへひたすら撃ち下ろすように拳を落とす。
気付けば、いつの間にやらそいつは妹から離れ、私が馬乗りになった状態だった。
いい加減手がうまく握れないというか、開けもしなさそうな案配なので、踏みつける方にシフトチェンジしようと立ち上がると、まだ『それ』は健在だった。

最早意識も定かでは無さそうなのに、尚股間に存在を示す『それ』
雄は命の危機に瀕すると子孫を残そうと勃起する、などと聞いた事があるが、これもそう言う事なのだろうか。

「……お゛…おね、えぢゃん゛?」



無言で見下ろす私に、漸く人心地というか、解放されて多少は落ち着けたのだろう妹が不安げな声をかけてくる。

可哀想に。いつも丹念に手入れしている髪はボサボサだし、声は風邪を引いた時以上にしゃがれ、「先日やってもらったの」と自慢していたチョコレートモチーフのネイルアートは最早見るも無残な有様だ。
正座している太腿には、蛍光灯の光を反射するテラテラとしたぬめり。


「……お風呂入ってきな。一人で入るのが怖かったら、お湯で濡らしたタオルで拭きな」

「…う、ぅん……わかっ、た」

ヨロヨロと立ち上がり、洗面所へ向かうべく妹は暗い廊下へと消えていく。
不意に。



「おねえちゃんはどうするの?」

暗闇の中で青白い顔をした彼女が問う。

どうするの、って。

「すぐ済むから」

安心を与える為の笑顔もなく、私はただ淡々とそう言い聞かせた。

>>4
夢見がくっそ悪くてむしゃくしゃして書いた。すまん。

両親はどうしたとか兄の彼女は何してるのとか色々気になるけど乙
大体夢の中ってこんなものだしな

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