俺ニート、悪魔の手下になる。 (58)

※オリジナル、キャラ名あり、地の文主体

パッと思いつきで単発もの書いてみました。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1443550422


 我輩はニートである、定職はまだない。
 昼は好き放題に寝て、夜になって活動を始める夜行性の生物である。
 ある時は電子の海を渡る航海者、またある時は一人だけの快楽を極める探求者。
 そして六畳ほどのアパートで孤独を謳歌する孤高の人間である。

 さて、今宵も一人きりの宴を始めようじゃないか。

 缶ビール二本とツマミのビーフジャーキー、さきいか。
 ああ、俺はなんて幸せなのだろう。
 働きもせず飲む酒はうまいか、だって――? ああ、うまいに決まっている。
 働きもせず酒にありつけられるのだから、俺は恵まれた人間だろう。
 この幸せを分けてやりたいくらいさ。
 プルタブを起こし、ツマミの封を切って…… さあ、今宵も優雅に乾杯。
 ああ…… なんて幸せなのだろう。





 どうしてこうなった。
 最近、いや…… こんな身分になってから、ふと我に返るといつもこの言葉が俺に重くのしかかる。
 傍らには缶ビールとツマミ。
 どうやら酔ってもこの言葉から逃げることはできないらしい。

 どうしてこうなった。

 ああ、認めよう…… 俺は底辺も底辺、ド底辺のクズ人間だって。
 それではどうしてこんなことになってしまったのか―― もう一度振り返ってみよう。

 成増善次郎(なりますぜんじろう)。
 そう名付けられた俺はとある田舎で生を受けた。
 善次郎という変わった名前は、どうやら「某財閥創設者のような立派な人間になれ」との希望から付けられたらしい…… まったく迷惑も甚だしい。
 俺は三人兄妹の次男として、周囲からの愛を受けすくすくと育った。
 そうして現在、父は会社員、母はパートタイマー、長男は地元で就職し家庭を築き、妹は高校生活を絶賛謳歌中。

 対する俺は…… ニートになった。

 ニートとは、就職活動もせずアルバイトもせずプータラしている人間のことを言う(厳密に言えば違うかもしれないが)。
 では何故仕事に就かないのか―― そう思うであろう。
 仕事に就かない…… いや、就けなかったのである。

 俺は決して「できない」人間ではないはずだ。
 自分で言うのもなんだが…… それは少なくとも一つの事実である。
 例えば―― だいぶ遡ってしまうが、小学生の時には親から強制的に習わされた書道で入選したことがある。
 しかも全国規模のコンクールで、入選した作品は東京のとある美術館に他の入選者の作品と共に展示されたほどだ。
 それから英語技能検定も2級まで取得したし、運動面でも中学高校と厳しい野球部で三年間やり通した(レギュラーにはなれなかったが)。
 そうして大学進学を機に上京して都内で一人暮らし。学校はいわゆる中流クラスであったが、有意義に四年間を過ごしたのであった。



 そう、俺は決して「できない」人間ではないはずなのだ。
 それなりに恋愛もして、それなりに期待もされて…… 俺はできる人間だと思っていた。
 しかし俺は気付いてしまった―― 自分は特別ではないことを。
 きっかけは大学生、就職活動でのことだ。
 今後の長い人生を決める大事な時期…… そこで俺は気付いてしまった。

 俺にはやりたいことがない。

 人間多かれ少なかれ夢や目標があるだろう。
 しかし俺にはそれがなかった。
 俺は今まで「ただなんとなく」生きていたのだ。
 周りに流され、周りの指示に従い、ただなんとなく生きていた。
 思えば先ほど述べたことも周りに言われて始めたことだ。
 確かにやっていく内に面白く感じたものもあったけれど…… しかし、情熱を傾けるほどのめり込んだかと聞かれると、胸を張って「そうです」とは言えなかった。
 それら全てが「なんとなく」だったのだ。
 なんとなく続けていく内にたまたまうまくいって…… それで飽きたら辞める。
 部活だって周りに「やろうぜ」と誘われて、そして雰囲気に流されて「ただなんとなく頑張っていた」だけであったのだ。

 その「なんとなく精神」を見透かされたのか、俺は就職活動でようやく面接などに漕ぎ着けてもことごとく落とされた。
 ある時は「目が死んでいる」だとか、またある時は「情熱が感じられない」などと言われる始末であった。
 それでも俺は自身をできる人間だと信じて身分不相応の企業に挑み続けたが…… 結果はご存知の通り全滅。
 当たり前だ。好きこそものの何とやら…… とは言うが、好きまではいかなくとも興味がある道を人は行こうとするもので、興味さえないのに行こうとすれば躓くのは自明の理であろう。
 そうだ、「なんとなく街道」を流れてきた意志もない人間がうまくいくはずがない。




 俺は決して、できる人間でも特別な人間でもなかったのだ。

 そう、上には上がいる。
 俺は「身の丈」という概念を否定し空回りしていただけだった。
 自分は特別な人間という、そんな妄念の海に溺れていただけだった。
 その癖そこから脱出するための努力もしなかったのである。
 考えてみれば書道だって入選したと言っても、同じく入選した人間は全国規模だから何百といただろうし、その中で更に選抜されるとなれば…… 俺は果たしてその中の上位に食い込めただろうか。
 英検だって―― 語弊はあるが、言ってしまえば2級。1級や準1級ではない、2級だ。
 決して自慢できるものではない、同じ人間は山ほどいるのだ。
 それにこれも高校のカリキュラムで「受けさせられた」ものであるから、合格へ向けて勉強はしたものの…… 自発的に行動し勝ち取ったものとは言い難い。

 このように、俺は決して特別な人間ではなく、努力もせず、やりたいこともなく…… 意志もなかった。
 あれこれ考えてその結論に達した時、俺の人生はまるで無駄だと感じた。
 そして次にやってきたのは「生きるって何だ?」という疑問。
 ある人間はこう言った―― 妥協することだ、と。
 仕事にしろ、夢にしろ、自分の望み通りの生き方ができる者は多くない。
 だからそれはそういうものとして受け入れて、最も希望に近かったり気持ちが許す地点を探し、そこに落ち着いて身分相応に生きる…… 即ち妥協することが大切ということ。

 それでは、妥協するくらいなら全て諦めてしまった方がいいのではないか―― 俺のように。
 意志もなく努力もしない最悪人間であり、臆病者であるにも関わらず…… 俺は人一倍の自尊心と虚栄心を持っていた。
 そんな「クソプライド」だけは一丁前で、そのプライドは俺に妥協することを許さなかったのである。
 気付くとそのプライドに自分自身が食い尽くされていて…… 最後には妥協もできず全てを諦め、燃え尽きて真っ白というわけだ。





 やがて完全に心が折れてしまった俺は就職活動を停止し、就職を諦め、大学を卒業しニートになったわけである。
 そうこうして早数年…… 新卒という唯一の強みもあっという間に消え去った。
 このままではいけないと思い、アルバイトをした時期もあったが―― どれも上手くいかなかった。
 アルバイトでさえ「なんとなく」だった。
 興味もないことが長続きするはずもなく、面白みや充実感さえも得られずに適当な理由をつけて辞めて…… また違うバイトをしては辞めて。
 そうする内にもうどうでも良くなって、またニートに戻り…… それからはずっとこんな状態で今に至る。
 就職活動を再開する意志もなく、アルバイトもせず、生きる目的もなかった。

 両親からは「一度実家に戻って来い」と言われたが、「やりたいことがある」だのと適当な嘘をぺちゃくちゃ並べては仕送りしてもらい、それで暮らしている。
 相変わらずやりたいことはない―― ただ毎日を死んだように過ごしている。
 都内の安アパートで窮屈に…… ダラダラと何の生産性もなく。

 ただ、こんな状況に陥って身に付いたものもある。
 それは皮肉のスキルと、世界を呪うこと。
 どうしようもない俺は、きっと自分には可能性があるものだと未だどこかで信じていて、そんな自分が社会に参加できないのは、きっとそうしてしまう社会のせいだと思うようになっていた。我ながらなんと情けないことだろうか。
 それで世界を呪うようになっていた。
 別の次元へ逃避し、その場所で同じような仲間を探して傷を舐め合い、他者の些細な綻びを見つけて揚げ足を取ることもあれば、挑戦して躓いた者へ皮肉のエールを送っていた。
 自分にそんな権利がないことは承知で―― 他者を嘲笑うことで傷を癒す。
 最早底辺を通り越して外道、畜生の域だ。
 挑戦も、努力も、何も行動していない自分が、そうしようと頑張っている者たちの失敗を嘲笑っているのだ…… まだ土俵にも立てていない、スタートラインにも立てていない自分が。

 やがて俺は、俺の人生であるはずなのに、その土俵に立つことすら放棄して「自分の人生の観客」となっていた。
 敗者は敗者に徹するべき―― 自分自身にも皮肉を浴びせて開き直る。
 もうこうなってしまえば末期だ。




 職業に貴賎なし―― そんな言葉がある。
 確かにその通りかもしれない。
 どんな職業であっても誰かしらそれを必要としていて、それを担ってくれる人がいるからこそ社会は成り立つ。世界は回る。
 しかしこんなクズ人間に成り果てると、それすら上から目線で嘲笑うようになるのだ。
 決してそのようにできる立場にはいないはずなのに。
 毎日毎日満員電車に揺られるくたびれたサラリーマンも、工事現場にずっと立っている警備員のおっちゃんも、どうでもいい酔っ払った人間のくだらない愚痴を親身になって聞いてあげているねーちゃんも…… 皆誰かしらが必要としている人間なのだ。
 それなのに俺は、そんな人たちを観客席で嘲笑っていたのだ。
 自分だけは土俵に立つことを拒んで。

 現実からは目を逸らし、全て社会のせいにして、他者を嘲笑う。
 俺は全く生きる価値のない人間だ。
 一層のこと死んでしまった方が世界のためである―― しかし、臆病な俺は死ぬ勇気さえなかった。
 まだどこかで可能性を信じている、信じたいのかもしれない…… なんて憐れな男だろうか。

 そして時間は待ってくれない―― 時は金なり。
 いつの間にか20歳半ばを迎え、あっという間に30になってしまうことだろう。
 それを分かっていて「まだ間に合う」と言い聞かせ現実逃避を続けるのである。
 両親も若くない…… いつまでも今のような生活を続けていけるわけがない。
 分かっている…… 痛いくらいに。
 唯一の救いは長男が家庭を築き、そして子供もできたこと。
 妹も末っ子であるがしっかりしていて、世渡り上手の片鱗を既にチラつかせていたからなんとか上手くやっていくだろう。
 そんな中俺は家族にとっての悩みの種、重い足枷となっているわけで。
 両親はこんな俺をどう思っているだろうか。




 現在の俺がこんな有様になっているなんて、まさかあの頃の俺は考えもしなかっただろう…… 例えば学生時代、駅前で酔いつぶれ倒れるおっさんを尻目に「あんな大人にはなりたくない」と思っていたし、同じクラスのやんちゃな集団を見て「何が楽しいのか、こんな馬鹿みたいな人間にならないようにしないと」と己に言い聞かせ、ワイドショーでひきこもり特集なんてものを取り上げていた暁には「クズ人間じゃん」などと嘲笑していた。

 しかし現在―― 俺はその「なりたくない人間」、「なりたくない大人」になってしまったわけだ。
 そして嘲笑していた人間から今度は逆に嘲笑されるような立場になっていたのである。
 プラスに考えるならばなんとストイックな人間だろうか。
 自ら闇の底へ落ちて追い込んでいるのだ。
 ストイック…… いや、単なる自爆、自業自得だ。
 テレビゲームを好き放題やって、漫画を好き放題読んで、ネット掲示板に張り付き、パチンコやスロットで勝ったら女の子の店に行って―― それらは全部仕送りのお金、親の金である。
 家賃も、ネット料金も、光熱費も携帯代も全部、全部…… 全部親の金。
 あんな人間になりたくないと言い聞かせていたその自分が…… 今ではそれら人間以下の外道に成り果てていた。

 そうしてようやく、俺は人を見下していたクソ野郎だということに気付く。
 そんなことをしてもなんら意味がないのに、いつの間にか他者を嘲笑うことで心の隙間を埋めていたのだ。
 俺はなんて醜い人間だろう―― 今更反省して心を入れ替えても遅い。
 ようやく自分が酷い人間だと自覚すると、今度はそんな自分自身を責めるようになった。
 こうなったのも、何もかも上手くいかないのも、全部自分のせいだ。
 こんな敗者に手を差し伸べてくれるほど、世界は優しさに満ち溢れてはいない。
 自分でどうにかするしかないのだ。自業自得なのだから。





 どうしてこうなった。

 もう何百何千回目の一人反省会(決して反省が生かされることもない)をいつものように開いて、気付くと缶ビールはすっからかん。ツマミもなくなっていた。
 今日はなんだか酔うのが早い…… タバコでも吸おうか。
 おぼつかない足取りで立ち上がり、キッチンの換気扇を起動させ、そしてタバコに火をつける。
 銘柄は「フォーチュンストライク」。なんて縁起の悪い名前だろうと今更ながら気付く。
 そしてこれもいつもの如く…… スマートフォンでSNSをチェック。
 とあるサイトで旧友の動向をこっそり覗き見するのだ。
 もちろん足跡対策で俺はアカウントを持っていない(もしくはなんの痕跡もない初期状態のアカウント)。
 どいつもこいつも充実した毎日を送ってやがる。
 例え悩んでいるような言葉を呟いていたとしても、それすら羨ましく感じる。
 いつもなら「他人の不幸で飯が美味い」などと嘲笑っているところであるが、もうなんだかそんな気分にはなれなかった。





 他人を嘲笑えば嘲笑うほど、他人と自分を比べれば比べるほど…… 惨めになって泣けてくる。

 そんなことしたって何も生まれない。
 お前は一体何をしてきたというのだ。
 いつから人を笑えるほどの身分になったというのだ?
 自分の人生であるにも関わらず、それすら傍観に徹するお前が。
 そんなお前が…… なんの価値もないお前が。
 これはお前の人生なんだぞ。
 人生は一回しかないんだぞ。
 泣いても笑っても一度きり、もしかしたら明日でも明後日にでも死ぬかもしれないのに。
 後で泣こうが手遅れだ。
 どうせ死ぬ間際に後悔するんだろう?
 過去の想い出に閉じこもり、他者の幸せに嫉妬して、世界を呪って死ぬんだろう?

 そっと、スマートフォンの画面を閉じる。
 紫煙をくゆらせ、弱々しく煙を吐き出す。
 ゆらりゆらりと…… まるで俺のように薄弱な煙が換気扇の渦に飲み込まれていく。
 一層のことこのまま消えてしまえたら。
 こんな世界から何の痕跡も残さず消えてしまえたら。
 俺という人間が生きていたという事実そのものを消してしまえたら。
 タバコを蜂の巣状の灰皿、その穴へ落とす。
 そしていい加減に布団を引っ張り出して、乱暴に部屋の電気を消した。

 このまま眠りに落ちて、明日になったら世界が変わっていますように。
 
 ここに来てもまだそんな戯言を内で呟いて、きつく目を閉じたのであった。






 夜を越えても、世界は変わらない。
 時間は俺を置き去りにして流れる。
 八月は後半―― 今日も朝から酷い暑さだ。
 いわゆるお盆休みのシーズンを過ぎて、またいつものような日常が戻ってくる。
 高校野球も終盤へ近付き、そうすると何故だか夏の終わりを感じた(まだまだ暑いけれど)。
 社会人はまた仕事の日々で、学生は残り僅かとなった夏休みを嘆く中、俺はそんな彼らに「乙でーす」とせめて強がってみせるのだ(お疲れ様という意)。
 エアコンを付けていたにも関わらずじっとりと汗が浮かび気持ち悪い。
 時刻は8時を少し過ぎたところ。
 起きて早々であるが汗を流すためにシャワーを浴びることにした。






 今日も今日とて、やることがない。
 働け――? それはもう何回も聞いたさ。
 やりたいことがないのだからしょうがないであろう。
 昨夜あれだけ反省したのに、三日坊主を通り越して三歩歩けば忘れる鶏も同じである。
 いや、鶏の方がまだ幾分か賢いだろう……

 シャワーを浴び、着替え、ダラダラとテレビを見ていた。
 その内に何も食べていないことに気付いて、すると急に腹の虫が空腹を訴えてきた。
 人間、暇過ぎてもかえって苦痛である。
 こんな身分になって気付いたこと…… 暇過ぎても苦痛なのだ。
 あれこれ好き放題やって、そしてそれもやり尽くすと、暇という名の苦痛な時間がやって来る。
 しかし、暇はあるにも関わらず…… あっという間に時間は過ぎる。
 今だってほら―― もう9時を過ぎて10時へ向かっている。あっという間に正午がやって来る。

 テレビを消し、ぼーっと周囲を見渡した。
 そういえば―― 集めている漫画の単行本、新刊出たんだっけ?
 ブランチがてら街へ繰り出し、そのついでに漫画を買って、後は適当にぶらぶら…… 余裕があれば新宿の歌舞伎町辺りで一杯引っかけて帰るのもいいだろう。いや、池袋でもいいか。
 相変わらずクズな俺であるが、昨夜の惨めさを払拭するために家を出た。






 電車に揺られ、乗り換えて。
 そしてまた電車に揺られること数分。
 欲望が溢れる街、東京…… なんとなく言ってみたかっただけである。
 山手線に乗り換えて新宿で下車、東口を出て某書店へ。
 別に書店に行くだけならここまで来る必要などなかったわけであるが、用もなく暇なので、どうせならぶらぶらと都会をほっつき歩こうという算段のもとやって来た。

 夏は終わりに近付くが…… 気温はまだまだ高い。
 じりじりと焼かれるような暑さを孕んだコンクリートジャングル。
 緑もなく、高い建物に風は遮られ、逃げ場をなくした熱は延々とうごめき続ける……
 そんな灼熱地獄から逃げるようにして書店へ入った。

 天国。

 書店へ入ると冷風が俺を出迎えてくれる。
 長時間いると肌寒いとさえ思えるほどの冷房。
 汗ばんだ体が一気に冷却され、気分はさながら天国にいるようだ。
 体に張り付いたTシャツも次第に乾いていく。
 そうして目的の漫画を探しにふらふらとさ迷い歩くこと数分。
 さすがは大都会の書店…… と言えるような品揃えで、しかもその状態が書のジャンルごと何階にも渡って続いているのだから驚きだ。
 店内の表示に従って漫画のフロアを目指し、目的の作品を見つけ出す。

 あったあった―― 作品を手に取りレジへ。
 購入して、ついでに店内を散策。
 書の海に溺れる…… まるで図書館みたいな書店だ。
 実用書や啓発本、専門書や海外文学の本まで、様々な情報が目まぐるしく交差する。
 平日の昼間だというのに店内は多くの客で賑わっていた。
 老若男女、様々な人間。
 皆何かしらの目的があって日々を生きている。そのはずだ。

 それなのに―― 俺は。




 ダークサイドがやって来るがなんとか払拭する。
 今日の俺は一段とどうにかしている…… 今日に限って。
 理由は分かっていた―― 焦りからくる不安、絶望だ。
 俺は焦っている…… いつまでもこんな生活を続けることはできないということ。
 同年代の人間はもう立派に社会人として活躍している中、俺は未だ親の脛をかじってあまつさえかじり尽くそうとしているクソ野郎ということ。
 俺は体が成熟しているにも関わらず自立できない…… 自然界ならとっくに沙汰されているようなものだ。
 いつまでも親がエサを獲ってきてくれるはずがない。
 いつかは親から離れ、自分でエサを確保しなければならないのに。
 それを分かっていて、焦っているのに―― 何故か行動に移せないのだ。

 死んだ爺ちゃんも言っていた「いつまでもあると思うな、親と金」。
 あの頃は聞き流していた言葉が俺に突き刺さる。
 分かっている…… 分かっているんだ。
 今日に限って―― 恐らく今までの不安が積もり積もって爆発でもしたのだろうか。
 まるで超新星爆発。
 払拭したダークサイドが再びやってくる。俺は暗黒面へ落ちていく……
 これで光り輝く剣や超能力が使えるようになるとでも言うのなら願ったり叶ったりだが、現実は残酷である。
 そういえばガキの頃は、そんな「ダークヒーロー」のような存在になりたいと思っていたな。
 周囲がヒーローを賛美し真似る中で、俺は唯一悪役キャラに心を奪われていた。そしてヒーローを信仰する周囲を小馬鹿にしていたのだ。
 よくよく思い返してみれば、俺はその頃からひねくれた嫌な奴だったのかもしれない。




 もうどうしようもない不安が蔓延して。
 それをなんとか振り切ろうと、気分を変えようと店を出た。
 人、人、人。
 サラリーマン、OL、学生、フリーター…… 次から次へとやってくる人の群れ。
 皆何かへ向かっている。
 少なくとも今の俺には、彼らには何一つ不安がないように見える。
 そんな過剰な妄想が俺の胸を更に深く抉る。

 人ごみを避けるように路地へ入った。
 しかし相変わらず人が多い…… 大通りのそれよりかはだいぶましであるが。
 路地へ逃げ込んだのはいいものの、相変わらず行く当てもなく。
 人生の迷子。おまわりさんも助けてくれない。
 困ってしまって大変である。
 そうして路地から路地をさ迷い歩き、周囲を見渡す。
 ここはどこか―― 腹の虫が鳴く。
 そういえば何も食べていなかったのだった。
 もう歌舞伎町で昼間から自棄酒(やけざけ)を呷ってしまおうか。
 そう思い、財布を取り出して中身を確認するが…… 閑古鳥が鳴く。
 ええい、もうどこでもいい。
 酒は諦めるしかあるまい…… もう一度周囲を見渡す。
 ふと目に入る喫茶店―― よし、もうここでいいか。

 本来ならばチェーン店などで安く済ませるのが一番いいのだろうが、さ迷う内に歩き疲れてしまい、すぐそこへ行くことも躊躇われた。
 腹を満たせばこの不安も幾分か解消されるだろう。
 路地裏にひっそりと佇む喫茶店。
 おしゃれでありながら、どこか懐かしいようにも見える―― そうして俺はそんな店のドアベルを鳴らしたのだった。







 ひっそりとした店であったので、店内もそのような様子だと想像していたが…… 予想に反してなかなかの広さだった。
 木目調のテーブルやカウンター、壁に飾られた絵画、隅に置かれた観葉植物。
 落ち着いていて、どこか気品も感じられるような…… そんなシックでおしゃれな店内。
 そんなところに俺のような人間が来てしまったのはとんでもなく場違いにも思えたが後の祭り。既におしゃれな制服を着たウェイトレスがやって来て「お好きな席へどうぞ」と通されてしまった。

 時刻は正午を回っているが、それにもかかわらず客はまばらである。
 都会の真ん中で、しかも書き入れ時と言える時間帯に―― 人の心配をしている場合じゃないが、思わず「大丈夫なのか?」という言葉がよぎった。
 まあ、俺にとっては好都合か―― 人ごみは苦手だし、座れるのだし。 
 お好きな席へ…… ということだったので、空いている席を探す。
 通りに面した窓際、一番奥。そのボックス席が目に入った。
 客もまばらだし、腹を満たしてすぐに出れば問題ないだろう。
 一人でゆったりとボックス席を使わせてもらう。

 着席して早々、先ほどの店員が来てお冷とメニュー表を置いていった。
 早速メニューを開いてみる。
 値段はわりかし高めであったが、このような喫茶店では相応の設定だろう。しょうがない。
 その中でできるだけ安く、かつ腹を満たせるようなメニューを探す。
 BLTサンドとアイスコーヒー―― 君に決めた。
 そうしてメニューを決めて、店員を呼び注文を済ませる。
 注文の品が届けられるまでの間、手持ち無沙汰な時間がやって来た。
 一人なのに―― 手持ち無沙汰。
 おしゃれな店内でかえって落ち着かない、客が少ないのが唯一の救いだ。
 例えるなら…… DVDなどのレンタルショップ、その18禁コーナーに初めて入ったあの時のような。
 これはまずかったか…… ともかく、そんな心境だ。






 間を埋めるためポケットからタバコを取り出し、オイルライターで火をつける。
 灰皿が置いてあるので喫煙可能ということだろう。
 一服している内に店員がやって来て先にアイスコーヒーを置いていった。
 シロップもなにも加えずにブラックで飲む。
 別に大人ぶってこうしているわけでもなく、ただ単にブラックでも飲めるというだけだ。
 
 そうしてタバコを吸いながらコーヒーを飲んで、頭を真っ白にしようと努めた。
 目を閉じてみる。
 かすかに流れるBGMのクラシック。
 まばらな客が発する会話、その声。
 俺を置いて流れる時間…… 世界は回っている。
 俺なしでも世界は回る。



「――それじゃ、やってみればいいじゃん」






 その時ふと、誰かの声が耳に留まった。
 目を開いて確認してみると―― 探す必要もなく、その声の主はすぐ目の前にいた。

「いや…… あのぅ」
「仲間が増えて幸せの輪が広がっていくんだよ!?」
「そうそう、皆が幸せになれるなんてすばらしいじゃん?」
「彩音ちゃんも幸せになりたいんでしょ?」

 発生源は前のボックス席からだった。
 ボックス席、こちらに背を向け座るスーツ姿の男が二人。
 テーブルを隔てて二人の向かい側に座る一人の男と、そして――

「確かに、幸せにはなりたいですけどぉ……」

 三人の男に取り囲まれるような形で窓際に座っている女が一人。

「だったらやるしかないって!」
「そうそう、これからは個人でやっていく時代だからさ」
「誰にも縛られず、やりたいことをやっていけるんだよ?」

 ここへ来た時は特に気にしなかったのだが…… この光景はもしかすると。

「でも…… これっていわゆる『ネズミ講』ですよね?」
「違うよ。これは『ネットワークビジネス』と言ってね、ネズミ講ではないんだ」
「そうそう、だから安心して大丈夫だよ」

 出た。やっぱりだ…… まさかファミレスでもチェーン系の喫茶店でもなく、こんな落ち着いた個人経営っぽい店で遭遇するとは。

「でも…… そのぉ」
「まだ何か不安かな?」
「大丈夫! 誰でも最初は同じように不安だからさ」
「俺たちは同じ夢を持った仲間がたくさんいるから」





 マルチ商法―― そう呼ばれる商法がある。
 俺も詳しくはないので解説できるほどの知識は持ち合わせていないが…… 要するに「ピラミッドを作って儲けようぜ」というようなビジネスであったと思う。
 会員を増やしてピラミッド(階層)を作り、上層にいる人間ほど利益が得られる…… といったイメージだ。
 従ってピラミッドが大きくなればなるほど下層の人間は上層の人間に利益を吸い取られ、得られるものが少なく儲けられない。ご存知の通り人間の数は有限であるから、仮に配下の人間をどんどん増やしていったとしても、いつかは終わりが来る。いつかは破綻するのだ。

 それに、あの女が言っていたようにマルチ商法はネズミ講と混同されがちなのでいいイメージがない(マルチ商法は商品販売で会員を増やし利益を得るが、対するネズミ講は商品がなく、あくまでも金品のみの取引である)。
 だからなかなか会員が増やせず困窮する一方で、そういう意味でもいつか破綻する形式と言えるだろう。
 ネズミ講と違って法律的には連鎖販売取引(いわゆるマルチ商法)自体は合法であるみたいだが、厳しい基準があり、それを破って強引な勧誘を行ったり、高価な値段設定で商品を買わせたり、誇大な宣伝文句で実物とはかけ離れたイメージを植えつけたりといった違法行為が多く発生しているので、上記の事態に拍車を掛けているようだ。

「あの…… もうお昼休み終わってしまうので」
「そっか、それじゃどうするの?」
「一緒に夢を叶えようよ!」
「絶対彩音ちゃんのプラスになるよ!」

 例に漏れず…… この男たちも「強引な勧誘」という点で違法者である。

「あの…… もう出たいのですが」
「入会にはお金もかからないし、安全だよ!」
「そう、それに芸能人の会員もたくさんいるし」
「みんなで幸せの輪を広げていこうよ! 絶対に幸せになれるから!」

 誇大広告という点でも違法である。
 誇大とまではいかなくともメリットだけを垂れ流し、どんな組織か詳しく説明することさえ省いている。
 完全に黒だ。





「あの…… あの」

 可哀想に。
 戸惑う女を尻目に、いつの間にか席に届けられていたBLTサンドに気付いてパクつく。
 美味い―― ブラックペッパーがきいたシューシーなベーコンと、ザク切りでシャキシャキとしたレタス、フレッシュなトマト。
 モグモグと咀嚼し、喉を鳴らす。
 空っぽの腹が満たされていく幸福感。ビールがあったなら更に最高だが…… そればかりは財布の事情でどうしようもない。

「もう…… 行かなくちゃ」
「俺もこれ始めてから凄い稼いでてさぁ」
「そうそう、彼はこの前新車を買ってね――」
「うんうん、僕もタワーマンションに住めたし。実際にみんなこうして成功しているんだから」

 俺も金持ちになりてえなあ。
 でも実際は…… 本当にこの男どもが金持ちかどうかは疑わしい。
 金持ち、成功者と思わせるために借金してでも見映えだけ良くしたピラミッド下層の人間かもしれないし、単純に全部嘘かもしれないし。

「あの…… どいて下さい」
「まあまあ、試しにやってみるのはどう?」
「うん、気に入らなかったら辞めていいからさ」
「まずは入ってみるだけでもどうかな? お金はかからないし」

 三人の男たちはいわゆるABCと呼ばれる勧誘テクニックで女を追い詰める。
 窓際に座らされた女は、なかなか彼らのゾーンプレスを突破できない。
 通路側の席に座られ退路を絶たれているために、彼女は強引に突破することも容易ではないのだ。
 ちなみにABCとは、アドバイザーと呼ばれる事情通(彼らが言う凄い人や偉い人、成功者の先輩)をブリッジ、つまり橋渡し役の人間が連れてきてカスタマー(客、被害者、被勧誘者)に紹介するというマルチ商法勧誘の常套手段である。
 それで言えばこの光景は一人多いことになってしまうが、それもよくあるパターンだ。
 凄い人が更に凄い人とされる者を連れてきてあれこれ説明し、とにかく信憑性を持たせ圧力をかけるのである。




 何故こんな無駄知識を持っているのかというと―― 俺も過去に勧誘された経験があるからだ。
 あれは大学時代…… 同じクラスにAくんという人がいた。
 特に親しかったわけでもなく、会話も数えるほどしか交わしたことのない、そんな「同じクラスに所属している人間」という程度の間柄だった俺たち。
 ところがある日、親しげに彼が話しかけてきた―― 今度の日曜、飲みに行かね?
 親しくもない人間から突然飲みの誘いを受け悩んだが、別に嫌な人間ではなかったので了承した。

 そしたら後は…… 皆さんの想像通り。
 幸せになれる、凄い人がいる、ここだけの話で…… そんな文句の数々で誘われた。
 馬鹿な俺はそれに乗ってしまい、後日に「凄い人」と会わされ、マルチビジネスに勧誘されたのである。
 なかなか首肯しない俺の態度を見かね―― すごいひとはなかまをよんだ。
 そうして召還された「更に凄い人」は俺に熱い語りで入会を勧めてくる。

「ね、試しに入ってみるだけでもいいからさ!」
「きっと彩音ちゃんの夢は叶うよ!」
「僕は彩音ちゃんみたいな熱い仲間が欲しいんだ」

 そうそう、今繰り広げられているこの光景のように。
 自分は騙されない、楽勝…… そんな風に思っている人間は多いと思う。
 しかし自分だけは大丈夫と思っている人間こそが危ないのだ。
 俺自身がそうであったから。
 考える暇を与えないマシンガントーク、決してマイナス面を悟らせない巧妙な話術。
 次々と発せられる甘い言葉に目が眩み、気付くと沼に嵌っていた―― そんな事態になりかねない。
 俺も危なかった…… 場所がファミレスであったから、なんとか勇気を振り絞って店員を呼び助けてもらったのである。





「僕たちは彩音ちゃんに幸せを分けて、彩音ちゃんは仲間に幸せを与えることができるんだ!」

 こんなのは全くの嘘。
 仲間は減る一方である。
 そして幸せを分けるのではなく、不幸を分けている。とんだ貧乏神だ。
 実際に、俺を勧誘したAくんであるが―― 俺は後日大学の仲間にその事を相談すると話は瞬く間に広がって、彼は「友人を金蔓にする人間」として総スカンを喰らい、果てには学生課にも話が行き…… それ以来何らかの処分が下されたかどうか定かではないが、彼の顔を見ることはなかった。

 これらの教訓から導き出された答えは、全てが上手くいくような話などないということ。
 うまい話なんてないのだ。
 当たり前だと思うだろう…… しかし、誰だって心のどこかでそんな話が実在することを願っていて、誘惑に負けてしまう者も実際にいるのだ。

 心のどこかで―― そう、今の俺のように。

「あの…… もう本当に時間がないので」

 よく観察してみると、テーブルには一冊の本。
 マルチ商法の勧誘でよく使われていると言われる、不労所得に関する啓発本だ。
 こんなことに自分の本が利用されていると知ったら著者はどう思うだろうか…… 風評被害もいいところである。

「通して下さい……」

 うまい話などない。
 地道に、実直に、コツコツ頑張ることが成功へ近付く唯一の手段だ。
 分かってるさ…… 分かってる。
 俺もこの男たちと同じだ。未だ心のどこかで自分は才能がある、輝ける未来が確実に用意されている、そんな特別な人間だと信じている。信じたいのだ。
 しかし現実から目を逸らし、妄想の世界へ逃げている内では到底望みが叶うはずなどない。
 いや、間違った方向だとしても行動している彼らと比べたら俺は…… 行動していない分、下の身分だ。

 ああ、また昨夜の感覚が…… 全身をなぞる惨めさが。
 どうせ俺なんて。





「あの、ほんとに通して…… ください」

 可哀想に…… こんな人間たちに絡まれて。
 ああ、BLTサンド美味かったな。ご馳走様。
 そして目の前の光景よ―― 他人の不幸で飯が美味い。

「通して――」

 しまった…… 女と目を合わせてしまった。
 良心が俺に問いかける。
 その瞳は「助けて」と俺に訴えている…… 気のせいだって? ああ、そう思いたいよ。
 しかし、彼女の瞳は俺に訴えかけている。
 灰色の透き通った瞳が潤んでいる。
 外国人なのか……? いや、でもさっき「彩音ちゃん」と呼ばれていた。
 しかしどう見ても一般的な日本人の容姿とはかけ離れた姿をしている。
 ストロベリーブロンドとでも言うのか? ピンクがかった金髪を一つにまとめてポニーテールにしているし、瞳は灰色。雪のように白い肌、おっとりとした美しい造りの面。少し肉感のある魅力的な体つき…… そこにピッチリと着込んだワイシャツとスーツパンツ。
 日本人でも、外国人でも―― この世の者とは思えない、そんな妖しい美しさを持った女。

 なおもマルチグループは女を通そうとしない。
 最早彼女が「YES」と言うまでそこをどく気はないのだろう。
 戸惑い、瞳を潤ませる女…… 今にも泣き崩れてしまいそうな様子だ。
 そこへ男どもは詰め寄って「君を思って言っているんだよ?」とか「大丈夫、今は泣いてもいいよ。これからきっと笑える日が来るから」などと甘い言葉をかけている。
 彼女が泣いているのはお前らのせいだろう…… 思わずツッコミたい衝動に駆られた。

 チラリ、チラリ。

 女の視線が痛い。
 何だ、俺に「助けろ」とでも言うつもりか?
 だいたいどこで知り合ったか知らないが、ポンポン付いて行くアンタが悪いんだからな(俺も人のことは言えないが)。
 どうせSNSだのなんだので「お昼だけでもどうかな?」とか誘われたんだろう。
 そして実際に来てみれば…… ご覧の通り、知らない男が二人。

 チラ…… チラ。

 何だよ。
 俺にどうしろってんだよ…… こんな俺に。
 俺は底辺のクズだ、そこにいる三人と同じような人間だぜ。
 人の不幸で飯を食うような最悪の畜生だ。
 人の不幸で……





「うぅ…… 嫌」

 ああ、ほら言わんこっちゃない。
 遂に女は嗚咽を漏らすようになった。
 もう、何だよこれ。
 沸々と怒りがこみ上げてくる。
 遠い昔に置いてきたようなこれっぽっちの良心や正義感が俺に訴えてくる。
 今更改心したってもう…… こんな最低な男がどの面下げて正義ぶってんだ。

 俺の人生はこれでいいのか?

 このまま女を見捨てたら―― いや、俺には何も関係ないことだ。
 見過ごしてもこれまで通り俺のどうしようもない人生は変わることはない。
 だったらこの憤りは何なんだ。そして何かに駆り立てられているような焦燥感は?
 ここで助けを求める手を振り払ったら…… 俺は、俺は本当の外道に成り果てるのではないか。
 いや、たまたま目が合っただけで「助けて!」なんて頼まれていないし。
 しかし…… 怖い。このまま自分が悪魔になってしまうような気がして。
 偽善でも何でもいいじゃないか…… 助けたのには変わりないのだから。
 一人の世界に閉じこもって、いつの間にか性根は腐りきっていて。
 自分自身の内なる痛みを無視するならまだしも、今ここで助けを求める人、その心の叫びにまで鈍感になってしまうなんて。
 それは―― 外道も畜生も通り越して「悪魔」ではないのか。
 俺は…… 俺はどうすればいいんだ。

「あ、あのー……」
「はい、お会計ですか!?」

 あんたじゃねぇよ!!

 声はこの上なく震え、しかしなんとか底から搾り出して。
 そうしてわなわなと立ち上がったところ…… 会計と勘違いしたのかウィトレスのお姉さんがやって来た。あなたじゃないです……
 しかし、これはチャンスかもしれない。





「あ、あの……」
「どうかなされましたか?」
「会計ではないんですけど―― あれ」
「あれ?」

 未だマルチグループに取り囲まれてプレッシャーをかけられる女。
 その光景を指し示す。

「あれ…… あの女性の方、どうやらマルチ商法の勧誘に遭っているみたいなのですが」
「マルチ商法……!?」
「はい、このお店もそのような勧誘行為って禁止していますよね……?」
「は、はい……!!」

 情けない。助けに行かず店員頼みなんて。
 しかし最低限のことはした…… ちっぽけな良心を、ゴミのようなプライドをこうして守れたわけだ。これで充分だ。
 俺の言葉があって、ウェイトレスは一つ息を吸い込み、覚悟を決めた面持ちで――

「て、店長……!!」

 お、おい!!
 あんたが止めるんじゃないのかよ!!
 ウェイトレスが止めに行くかと思いきや、まさかのまさかで素通り。
 どうやら店の責任者に助けを求めに行ったらしい。
 ああ…… もう!!
 覚悟を決めろ、俺。
 別に店長だか誰かが来るのを待てばいいだけの話だ。
 生死にかかわるような事態でもないのだし。



「ちょ、ちょっといいかね」







 何やってんだ、俺は。
 騒ぎのど真ん中へ、体が勝手に乗り出していた。
 ちっぽけな良心を埋めるだけじゃ飽き足らず、遂には押し付けがましくはりぼての正義を振りかざしに行ったのだ。

「――は?」

 当たり前だ。
 誰だって見ず知らずの紳士口調を気取った男から「ちょっといいかね?」なんて言われたら、こんな風に口をぽっかりと開けて固まるだろう。
 マルチグループの三人は驚愕し石像のように固まったまま俺を見つめている。女も同様だった。俺は本当に何をしているんだ。

「君たちがどこの人間か知らないけど―― 君たちは稼いでいるのかい?」
「あの…… どなたですか?」

 カオスの渦中へ自ら飛び込んでしまった…… ヘルダイバーだ。
 後には引けない…… もうどうにでもなれ。

「俺…… いや、私は」

 どうするんだよ…… ここから。

「私はスマイルリバティー教、SL教の教主だ!」

 おい…… やっちまった。
 何がスマイルリバティー教だ。
 マルチに宗教で対抗してどうする。

「スマイルリバティー……!?」

 マルチグループは神妙な面持ちで俺をじっと見つめている。これは意外にもいけるかもしれない。

「先ほどからこの女性に勧誘をしていたようだが…… 違うかね?」
「あ、はい……」
「君たちはどこの者だね?」
「私たちは『アームロード』という企業の――」

 出た。やっぱりな…… グループの一人が某会社の名前を口にする。
 それはマルチビジネスで有名な会社だった。マルチ商法によって得た利益で都内の一等地にドでかい本社ビルを構えるまでになった。今では全国に展開している。




「ふむふむ、あそこか…… 素晴らしいじゃないか」
「あ、ありがとうございます」
「でも―― 知っているかね?」

 演技は得意じゃないが、努めて冷静に振舞う。

「な、何をですか?」
「私も以前やっていたから分かるんだ」
「ほ、本当ですかっ!?」

 もちろん嘘だ、嘘なら得意だ。

「ぶっちゃけて言おう―― そこでは稼げない」
「そ、それは…… 努力すれば稼げます!!」

 出たよ、「努力すれば稼げる」。
 この手の人間が現実を誤魔化すために使う常套句だ。
 マルチ商法などはピラミッドの階層を成している―― とは先ほど述べた。
 その上で下っ端は自分も稼ごうと必死に勧誘するわけだが…… その時に使うのがこの文句。
 ピラミッドの下層にいる人間は上層の人間より稼ぐのが困難だ。それを「努力すればどうにかなる」などと偽って必死に現実から目を逸らしているのだ。まるで俺のように。
 もちろん努力すれば稼げるだろう―― しかしその勧誘で得たちっぽけな報酬と、普段アルバイトなり仕事で得る給料とどちらが上になるのだろうか。働かなくても食っていけるまでにどれほどの商品を売らなければならないのだろうか。ただでさえ「マルチ」という名のマイナスの重りがある中で。
 収支をプラスにするため誰彼かまわず商品を押し付けて、結果あのAくんのように友達が離れていくのだ。

「努力、ねえ…… 君たちはその会社と何番目に契約した? 君たちはどの階層にいるんだ」
「そ、それは――」

 そら、言った通り。
 きっとこの男たちは分かっているんだ…… 現実の非情さを。
 最初はお偉い人からあれこれ希望の言葉をかけられて胸を躍らせたに違いない。
 しかし実際蓋を開けてみれば…… この有様。そこでやっと自分たちが金蔓にされていたと気付くのだ。無情な現実を叩きつけられるのだ。
 口ごもる様子から見て、きっとそう感じていたに違いない。まあ、まだ信者よりはマシだ。現実を理解しているのだから。





「君たちの階層で、働かなくても食っていけるようになるためにはどれくらいの『努力』が必要か分かるかね?」
「それは……」
「勧誘で得た報酬が仕事なりバイトの給料を上回るまでに、どれほどの商品を売らなければならないか考えたことはあるかね?」
「……」
「しかもそれを継続しなくてはならない…… 全体の収支がプラスになるまでの途方もない時間を、毎年毎年だ。それでも君たちは『努力すればどうにかなる』と言い切れるのかね? ご存知の通り人は有限だ。君たちがどんな立場の人間か知らないが、よっぽどの人脈を持っている人間でない限り難しいだろう。赤の他人に勧誘するならまだしも、やがては友達へその手を伸ばすことになるだろうな…… そうなればもう終わり、友達は君たちから離れていく。最悪家族だって…… それでもまだ続けていくつもりかね?」

 そうだ、上には上がいるんだ。
 人生も、この世界もピラミッドなんだ。
 努力をしても超えられない壁がある。
 壁を越えられなかったのなら、それは「努力した」とは言えない―― 成功者はそう言うだろう。
 クソ喰らえ…… それはアンタが成功したから言えるんだろうが。
 死ぬほど努力して、這いつくばって、それでも壁を越えられない奴だっているんだ。
 俺みたいな奴は「自分は努力した」なんて言えないけれど、本当に死ぬほどの思いで頑張った奴でも越えられない場合があるんだ。
 そういう奴らに限って「自分は努力が足りなかった」と自分を責めるんだ。他人から見れば死ぬほど頑張っていたのに。
 そしてそんな言葉を真に受けて、成功者は「そうだ、努力が足りないからだ」と言いやがる。他人事のように。
 まったくふざけてる。この世界は平等ではない。
 俺は、こんなピラミッドからおさらばしたい…… 競争とは無縁の世界へ。
 別に○○主義を唱えるとか、そういうことじゃない。自由になりたいんだ。リバティではなくフリーダムだ。
 こんな絵空事叶うはずもない…… それは分かっている。どこへ行ったって、どんな世界に変わったって、そこで競争は起きるから。そして競争で得るものもあるから。
 この考えは「負け犬の遠吠え」なのだろうか?





「君たちも分かっているのだろう―― 真面目に働くのが一番だということに」

 どの口が言うのだ。

「は…… はい」

 ニートが説教する日が来ようとは、我ながらビックリである。
 それも全部ブーメランだ。
 自分で言っていて悲しくなる…… 自分に言い聞かせているようにも思えてきた。

「だったら―― こんな勧誘止めたまえ」
「は、はい……」
「君たちは社会人か?」
「大学生です……」
「それならまだ間に合う、もっとよく考えてから行動したまえ。このことが大学に知れたら大変だろう?」
「すみませんでした……」

 てっきりドップリ洗脳された信者なのかと思ったら、根は真面目そうな学生じゃないか。
 それに反論してくるかと思ったら、案外すんなり事が運んで驚きだ。

「私に謝ってどうするのだ―― 謝るべきは彼女じゃないか?」

 いつの間にか置いてけぼりの状態であったストロベリーブロンドの女に再び注目が集まる。

「すみませんでした」

 そして謝罪…… こんな展開になるとは誰が予想しただろうか。
 自分でも夢のようだ。
 三人は女に頭を下げ、対する女は困惑した様子で「は、はい……」とタジタジになる。
 怒りもせず、不快も示さず、ただ挙動不審に戸惑うばかり。

「君たち、この店で何をしている!」

 そして―― 今更登場した店主。
 もう遅いです、ありがとうございました。
 俺は早くこの場から立ち去りたい思いと、それから羞恥心があって、店主が三人に絡んでいる隙に陰で会計を済ませ、そうして店を出た。
 疲れた…… もう今日はさっさと帰って寝よう。
 まだ昼だけど。





 こっそりと喫茶店を出て―― 時刻は13時を少し過ぎていた。
 ため息を一つ吐いて、また当てもなくさ迷い歩く。

「あの…… すみません!!」

 緊張のピークが過ぎて心労が押し寄せてきたところだった。

「先ほどはありがとうございました」

 後ろから声をかけられて振り向くと…… そこには先刻マルチグループに絡まれていたストロベリーブロンドの女がいた。
 呼吸を整えているところから見て、俺を走って追いかけてきたのだろう。

「あ、いえ……」

 こんな立場になってからは他人とまともな会話をしてこなかったので、急に話しかけられると緊張してうまく言葉が出てこない。

「いや、あのー……」
「もしかして―― あなたが神様ですか!?」
「――は?」

 神様? 一体どういうことだ?

「先ほど助けていただいた際に『教主』だと――」

 やってしまった。
 しかしあれを鵜呑みにしていたとは…… それにしても教主が「神様」とは、この女ひょっとすると危ない感じの人間なのでは……

「まさか神様が日本にいらっしゃるとは」

 おいおい、待て。
 もう何が何だか…… この女やっぱり危ないぞ。下手したらさっきの男たちより。
 俺をおちょくっているようにも見えない。
 困惑し閉口する俺を置き去りに、女は嬉々とした様子でぺらぺらとまくし立てる。

「なんとお礼をしたらよいか…… 感謝してもしきれません! これが神様の奇跡なんですね!」
「あのー……」
「私のような『悪魔』も救っていただけるとは…… 神様の御心、その大地のような寛大さは――」





 あ、悪魔!?
 なになに、こいつもしかして…… いわゆる「電波系」なのか!?
 次々と押し寄せる理解不能な事態に、頭の整理がまるで追いつかない。
 逃げたい…… 早くおうちへ帰りたい。

「あのですね、俺は」
「お礼をしなくてはいけません!!」
「ちょっと……!!」

 俺の手を取ってどこかへ連れて行こうとする女。
 これは危ない…… もしかして俺、怪しい宗教を信仰している信者を助けてしまったのか!? このままついて行ったら勧誘、洗脳されてしまうんじゃ……
 やはり店員に全て任せるべきだったんだ!

「もしかして―― お礼など無用、でしたか?」
「あの、俺はそもそも」
「さすが神様です! 無償の愛、ということですね!」
「だから……!」

 この女、俺の話を聞く気なんて一つもない!

「それでもいけません……! 救っていただいた恩を返さなくては!」

 そんなのいいから! もう帰して下さい!

「ついて来て下さい!」
「あの……! 俺は神様なんかじゃないし」
「またまたぁ!」
「いや、俺は人間だから!」
「そんなことおっしゃらずに!」

 ひょっとすると―― ここまで全部仕組まれた罠だったのか?
 考え過ぎかもしれない…… しかし、こんな状況に陥ってはそう考えずにもいられないのだ。
 もしかしたらあのマルチグループも、それからこの女も…… 全員怪しい宗教の信者で、俺を勧誘するための芝居をうっていたのではないか、と。





「ちょ、離して下さい!!」
「そんなこと言わずに―― こちらです!」

 容姿からはまったく想像もできないような力で掴まれる。
 振りほどこうとも、何故かビクともしない。
 こんな力があるのなら、さっきの男たちからも逃げられたよね……?
 やっぱり全員グルだったんじゃ。

「帰りたい……!」
「まあまあ、そうおっしゃらずに!」

 そうして俺は―― 危ない美女に引っ張られ、まだ見ぬ魔界へ連れられて行った。





「神様―― この度は本当にありがとうございました」

 どうしてこうなった。
 危ない美女に強引に連れられて辿り着いた先は―― 寂れた雑居ビルの二階だった。
 どんな禍々しい宗教施設に連れて行かれるのかと思っていたら、ただの寂れた雑居ビル。
 位置的には…… 駅で言えば山手線の新宿と新大久保の間くらいだろうか。俺の方向感覚が正しければ、そのはずだ。
 大通りから外れた怪しげな路地、その一角に佇む雑居ビルの二階へ連れられて。
 建物の中は一見すると寂れた探偵事務所のような、そんな印象を受ける埃っぽい室内であった。
 そうしてそこへ連れられた俺を待っていたのは――

「神様、ここへお座り下さい……」
「そ、粗茶ですがどうぞ!!」

 もう一人の女だった。

「こ、この度は私の部下を助けていただいて……」

 理解不能、混乱、錯綜。
 通されるがまま埃っぽいソファーに座らされ、お茶まで出されて。
 そして石像になる俺の傍らで片膝を立ててしゃがみ込む女が二人。
 例えるならば…… 騎士が主君とか姫君にするような、あんなポーズだ。
 一人はここへ連れて来たストロベリーブロンドの女で、もう一人が――
 艶のある長い黒髪と妖艶な美貌、モデルのような体つき。珠のような肌と、爛々と光る淡い赤の瞳。上下は黒のスーツをピシっと着込んでいる……
 連れられて来ると、事務所にはそんな姿をした女がいたのだ。

「なんとお礼をしたらよいか――」

 一体どういうことなんでしょうか。
 俺はいつの間に神様になったんだ?
 ふざけているわけではない…… 二人とも至極真面目な表情で俺からの言葉を待っている。
 掛けるべき言葉の候補が浮かんでは消え、浮かんでは消え―― 一体俺にどうしろと。

「あのさ――」
「何でしょうか!?」

 しばしの沈黙…… 覚悟を決める。

「俺、神様じゃないから!!」

 誤解を解かねばなるまい。





「そうか、君は神様ではなかったのか」
「当たり前でしょう……」

 一悶着あって。
 あれから面倒くさい説明を経て、ようやく誤解が解けた。
 来客用と思われるソファー、テーブルを隔てて向かい側に座る黒髪の女と、その後ろに立つストロベリーブロンドの女。

「それでは君は何者だ?」

 俺が神様ではないことが分かると、何故か強気に出てくる男口調の黒髪。
 俺がいる前で許可も取らずにタバコを吸い始めた。

「何者って―― ただの人間ですよ」
「何故人間が『悪魔』を助ける!?」
「――はっ?」

 そういえばブロンド女も言っていたな…… 悪魔ってどういうことだ!?
 やっぱり宗教関連の人間なのでは…… もしくはただの電波ちゃん。

「貴様もしや天使の手先かっ!?」
「だから何でそうなるんですか!!」

 悪魔? 天使?
 こいつらほんとに大丈夫か?

「言ったじゃないですか―― 彼女がマルチ商法の勧誘に遭っていたので、俺が止めに入っただけだって。悪魔だの天使だの知りませんが、俺はただの人間ですよ」
「それでは…… あの『スマイルリバティー教』って」

 そこで気まずそうに呟くブロンド女。

「あれは、ただの出まかせですよ」
「そ、そんな……!!」
「な――! 貴様私たちを騙したのか!」
「なんでそうなるんですかっ!? あなたたち二人の勘違いでしょうが!」

 もうやだ…… この人たち限りなく面倒くさい。

「人間に助けられるとは―― 何をやっているんだ彩音!」
「も、申し訳ございません玲子様!」

 そして始まる叱責。

「あの…… もう帰ってもいいですか?」

 別にお礼なんていらない。
 早く帰りたい…… 気持ちの整理がしたい。
 今日は色々ありすぎた。



「貴様―― このまま生きて帰れるとでも思っているのか?」

 そして今度は脅迫…… 黒髪女の赤い瞳が鋭い光りを帯びた。
 どういうことだ。感謝されることはあっても恨まれることはないはずだ。
 刃物のように鋭い眼光が俺を貫く…… 冷酷で非情で、その視線だけで人を殺せてしまえるのではないか、という具合に。

「――なんちゃって。あっはっはっはっ!」

 生まれて始めて女を殴りたいと思いました。

「すまない冗談だ」
「もう俺帰りますね」
「あー、待ってくれ!」

 ふざけてる。
 助けてやったのにこの茶番劇は一体何だ? 俺を馬鹿にしているのか?

「すまない―― 私の部下を助けてくれてありがとう」

 苛立って立ち上がった俺へ、黒髪女は頭を下げる。

「いいですよ…… 別に」
「私はここのオーナーをしている赤塚玲子(あかつかれいこ)だ。そして彼女は私の部下の――」
「和光彩音(わこうあやね)です…… 先ほどは本当にありがとうございました」

 頭を下げた後、自身の名を名乗る黒髪女…… 赤塚玲子。
 そして俺をここへ連れて来たストロベリーブロンドの和光彩音。

「俺は…… 成増善次郎です」
「善次郎くん―― そうか」

 別に今日これまでの関係だろうし名乗る必要もなかったが―― つられて名乗ってしまった。

「それでは善次郎くん―― 私の部下を助けてくれたことへのお礼がしたい」
「いや…… お礼なんていいですよ」
「そんなこと言っちゃって。本当は欲しいくせに」
「もう帰ります」
「あーごめんごめん! 待ちたまえ!」

 何だか調子が狂う…… 狂いっぱなしだ。

「お礼なんて―― そんな大したことはしていませんから」
「そんなことありません……! 善次郎さんに救われていなかったら私は邪教徒になっていました!」
「邪教徒って……」

 そもそも悪魔だか悪魔崇拝者だか知らないが、悪魔を崇拝している時点で邪教徒なんじゃ…… そこんとこどうなんだ。




「そうだな、何がいいだろうか……」
「いや、本当に何もいいですから―― 気持ちだけで」
「さすが教主様ですっ!」
「だからあれは嘘だって!」

 この人たちなんかずれてる…… 少しではなく大幅に。
 いいと言っているのに、しばし考え込む玲子。

「そうだ――」

 そして、何か思いついたようでパッと顔を上げる。

「善次郎くん、君の望みを一つだけ叶えてあげよう―― ただし許容範囲内で」

 許容範囲内で―― そう小声で付け加えて、玲子は妖しく微笑んだ。





 許容範囲内なら何でも一つ叶えてくれる―― それは一体。
 何でも叶えてくれる(許容範囲内なら)と言った玲子、その言葉はエコーのように響いて俺の脳裏で悪魔の囁きの如くずっとうごめいている。
 望み、願い…… 何でも?
 何でも、許容範囲内なら何でも叶えてくれる―― いや、そんなことできるはずがない。

「そんなことできるわけがないでしょう」
「いや、できるのだ」

 タバコの火をもみ消しながら言い切る玲子。
 サラリと流れる黒髪。

「それじゃ俺が『億万長者になりたい』とでも言ったら?」
「できる」
「そんなハッタリを…… 馬鹿にしているんですか?」

 無言で二本目のタバコに火をつける。

「それでは善次郎くんは億万長者になりたいのか?」

 試すような視線。
 ああ、なれるものならなりたいさ。世の中金が全てだ。愛がどうのなどとクサいことを言う者もいるがそれは全くの欺瞞。愛さえ金で買えてしまう世の中なのである…… 現実は残酷だ。
 だからなれるものならなりたい。しかしファンタジーの世界ではない、ここはリアルワールドだ。ハッタリもいい加減にして欲しい。

「いや、冗談ですよ―― そんな魔法みたいなことできるわけがないし」
「それができるんだな」
「本当に、そろそろいい加減にして下さいよ…… 人を馬鹿にするのも大概にして下さい」

 それとも何か…… この女も「私は一年で億万長者になれるノウハウを知っている」とでも言うつもりか? そして二言目には「だから30万を払って私の授業を受けてみないか?」と来るんだろう。またマルチまがい野郎か。

「そうか…… まあ、信じられないのも無理はないだろう」

 煙を吐きながら呟く玲子。

「それでは―― 私がそうできることを証明しようではないか」



 何だ? 胡散臭い名刺でも寄越すつもりか?

「善次郎くん、君は喫煙者か?」
「――はい?」
「タバコは吸うのかい?」

 いや、言葉の意味は分かるけれど―― 一体どういうことだ?

「まあ、ぼちぼち吸いますけど」
「そうか、私だけ吸って悪かったな。君も吸っていいぞ」
「はあ…… それではお言葉に甘えて」

 俺もポケットからタバコを取り出す。そして同時にライターも――

「ああ待て。私が火をつけよう」
「は、はあ……」

 断る理由もないので従うことにする。
 こちらに手を伸ばす玲子。タバコを咥え彼女が点火しやすいように前へ乗り出すが。

「あ、あの―― ライターは?」

 しかし、玲子の手にはライターがない。
 鳩が豆鉄砲を…… とはこのことであろう。ただ唖然とするばかりである。
 散々だ、やはり最初から俺を馬鹿にしていたのだろう。

「本当に俺を馬鹿に――」
「火、ついたぞ」
「――え?」

 一体どういうことだ。

「そんなわけ……」

 玲子はライターを持っていなかった、それは事実だ。
 そして伸ばした片手、その掌はこちらに向いていた。何もなかった、スーツやワイシャツの袖に何かを隠していたわけでもない。
 タネも仕掛けもない…… 無から有を生み出してみせたというのか。

「煙が―― 出てる」

 玲子の言葉通り火はしっかりとついていたのだ。いつの間にタバコは燃焼している。
 これは―― これは一体。
 奇想天外、摩訶不思議。彼女は魔法が使えるとでもいうのか。




「あなたは一体」
「これが私のちか―― う゛ぇっ!!」
「え!? だ、大丈夫ですかっ!?」

 言い切る前に何故かむせて咳き込む玲子。

「玲子様! 大丈夫ですか!?」

 彼女の背中をさする彩音。

「玲子様……! 人間界で魔術を使うのはほどほどにして下さい!」
「う゛ぇっほ……! だ、大丈夫だ問題ない」
「あの…… 魔術って」
「お見苦しいところを失礼した―― そう、これが私の力だ」
「ちから?」

 タバコに火をつける力…… 確かに、あの光景は説得力という点においては十分過ぎるほどのものだった。マジックということも考えられるが…… 仕掛けなんてなかった。それを悟られないように上手く細工していたと言われればそれまでだけれど。
 それに「魔術」という言葉も…… こうなってしまっては「億万長者になれる」という言葉は信じざるを得ないのかもしれない。

「そうだ、これが私の力」

 髪をスッと払い、してやったりと微笑む。

「何故そんな力が―― そう言いたい顔をしているな」

 こうなってしまっては「なぜ?」と思うのが自然な成り行き。
 顔に出てしまうのは当たり前である。

「何故魔術が使えるのか、だって?」

 そこでタバコを吸い、ふぅと煙を吐き出す。

「それは私が『悪魔将軍』だからだ」

 馬鹿馬鹿しい戯言も、今は預言書の一節のような響きを持っていた。






 悪魔将軍、だって?
 何だその世紀末みたいな響きは。どこぞやの大魔王か?
 思春期特有の妄想がまだ抜け切れていないのだろうか? 何歳だか知らないけれど、少なくとも俺とそんなに離れているわけではないだろう。そんな大人の立派な女性から頓珍漢な言葉が放たれたのだから、これはもう驚愕以外、反応の選択肢はない。

「そう、悪魔将軍。悪魔の将軍だ」

 しかし当の本人は真面目も真面目な顔で言い放つ。

「ふむ…… 私の正体を知られた以上、たとえ人間だろうと説明しなければならないだろう」

 いや、正体を知ったのはそうだけど、そちらからバラしてきたんだが。

「説明を頼む―― 彩音」
「はい、玲子様」

 頼んでもいない、うんともすんとも言っていないのに勝手に説明を始める。

「信じられるかそうでないかはともかく―― 私たちは悪魔なのです」

 いや、信じられるわけがないだろう。

「ちなみに悪魔というのは、地獄界に住む種族のことです」

 そんな世界があるのか…… いや、そんなわけがないだろう。

「地獄と聞くと、善次郎さんはどんなイメージをお持ちですか?」

 何も言えずに呆然とする俺を見て、しっかりついてきているか反応を窺ってくる彩音。

「地獄…… 『悪事を働いた人間が死後に落とされる世界』ってイメージですかね」
「実は違うのです」
「はあ、そうなんですか」
「そうなんです―― 地獄はあくまでも世界の一つで、人間は関係ありません。そして悪魔も同様にただの種族の一つというだけなのです。決して邪悪な種族ではありません、ただ悪魔という名前をしている種族ってだけのことなのです」

 ややこしいことこの上ない。
 だったら悪魔というネーミングはどうなんだ。それとも人間が勝手に悪魔と名付けただけのことなのか。

「それで悪魔がこの世界…… 人間界でしたか? この世界に何で来られたのですかね?」

 信じているわけじゃない、信じられない、そして受け入れているわけでもないが…… 最早呆れ半分で適当に相槌を打つ。

「それは――」

 彩音が少し口ごもった。

「――人間界を支配しに来たのだ!」





 彩音の代わりに玲子が宣言する。

「支配って…… 子供の妄想じゃないんですから」
「ほう、先ほど私の力を見てなおもそんなことが言えるのか」
「確かにビックリしましたけど、もしかしたら完璧なマジックかもしれないし、それにタバコに火をつける程度の力じゃ支配は……」
「な――! 確かに人間界じゃ何故か魔術が制限される…… だけど地獄界じゃ凄いんだぞ! 私は偉いんだぞ! 悪魔軍の将軍なんだぞ!」
「自分から弱点バラしてるし…… それに悪魔軍って」
「地獄界の軍隊だ! 私たちの領域を侵してくる天使軍と戦っているのだ! 私はそんな軍勢の将軍だぞ! 偉いんだぞ!」
「はいはい…… 仮にそうだとして、タバコに火をつけた程度でいっぱいいっぱいになっているようじゃ……」
「うるさい! しょうがないだろう! ふん、億万長者にしてやることだって出来るんだぞ―― 今日はもう無理だけど」
「どうせお札をコピーでもする気なんでしょう?」
「それは立派な犯罪だ! おまわりさんに捕まってしまう!」
「悪魔の癖に犯罪起こすことに抵抗があるって……」

 この女…… もしかしてポンコツなのか?
 自分から正体をバラし、そして堂々と侵略宣言をしてみせるなんて。そんな力もないのに。返り討ちにされるのは自明の理だ。

「悪魔軍とのことですけど…… あなたたち以外にもこちらへ来ているということですか?」
「いや、私と彩音だけだ」
「――は?」
「はい、玲子様と私だけです」
「いや…… それじゃ支配もクソもないというか」
「ふん、これにはれっきとした訳があるのだ―― 彩音、説明よろしく」

 部下に説明役を丸投げかよ。

「何故玲子様と私だけなのか、それには理由があります―― そもそも人間界に来たのは『人類支配計画』の一環である『悪魔イメージアップ作戦』のためです」
「悪魔イメージアップ作戦?」
「はい、善次郎さんも先ほどおっしゃっていた通り…… 人間は悪魔に対してマイナスなイメージを持っております。従ってそのイメージをどうにかして良いものへ変えて、そしてゆくゆくは人間からの信頼を勝ち取り、人間と同盟を組もうというのが本作戦の主旨なのです。支配と謳ってはおりますが、一方的に侵略するわけではなく、浸透するというようなイメージです」
「はあ…… 何故人間と同盟を?」
「それは、天使という種族が住む天界と私たち地獄界はいざこざを起こしていまして現在は長い膠着状態にあります…… なので人間と同盟を組み優位に立とうというわけです」
「それなら、手っ取り早く大軍を寄越して人間界を乗っ取り強引に協力をこじつけた方がいいのでは……」

 イメージアップなんてしているより、そうした方が遥かに早いのではないか。





「そうだな―― しかしそうできないから地道に出ているわけだ」

 説明役を放棄していた玲子がそこで間に入ってくる。

「我々は天使たちと睨み合いをしている…… 従って少しでもパワーバランスが崩れれば一気に攻められる恐れもあるのだ。現在は直接的な戦火は交えていないものの、依然として緊張状態は続いている」
「冷戦みたいな状況ですか……」
「そうだ。だからこちらへ大軍を寄越すわけにもいかないのだ。そんなことをしたら天使共も黙ってはいない。侵略行為に対する正義の戦いという大義名分を与えてしまうことになるからな」
「そしたらこんなところにいないで首相とか大統領とか一番偉い人に協力を要請した方が……」
「善次郎くん、君は悪魔という存在を信じられるか?」

 正直言ってこんな説明をされても依然として半信半疑…… いや、90数パーセントは疑っている状態だ。誰だってそうだろう、半分も信じられない。

「君の反応を見れば分かる通りに、我々のことを空想上の存在だと思っているだろう…… ましてや姿も君たち人間と同じようなものだ。そんな状態で『私は悪魔なんですけど』なんて言ったところで『こいつおかしい人だ』とスルーされるのが明白だ。それに表立って大々的に行動すれば天使たちに知られてしまう恐れがある」
「それならさっき言ってた魔術とかそういう力でなんとかすればいいんじゃ……」
「地獄界と人間界は仕様が異なるようだ。魔術を使役するには魔力がいる…… あちらにはそれが漂っているものだが、こちらはそうではない。魔力に乏しい人間界で出来ることは限られている」
「タバコに火をつける程度しか使えない―― ということですか?」
「まあ、腑に落ちないがそのような解釈で結構だ―― 私は優秀だから、私の場合は別だけど」
「……」
「何だその顔は。何とか言え」
「それなら―― イメージアップって言ったって、どうやってそうするつもりなんですか?」

 イメージアップって言ったって、まず悪魔の存在が公になっていない以上何をしても無駄だと思うのだが。





「よくぞ聞いてくれた」

 憂慮状態の俺には目もくれず、玲子は胸を張って声を張り上げる。

「確かに一筋縄にはいかないだろう、しかし我々にはできる―― そう、そのために設立したのがここ、『代行サービス赤塚』だ!!」

 代行サービス赤塚……!?

「ははっ! 驚いて声も上げられないか人間よ。無理もない、エリート中のエリート、智将と呼ばれた悪魔将軍の前にあっては――」
「いや、何ですかその胡散臭い組織は」
「彩音、説明を頼む」
「あんたが説明しろよ智将」
「はい玲子様―― 代行サービス赤塚、それは人間のために私たち悪魔が雑務その他、様々なやっかいご…… いえ、仕事を代わりとなって受け持つサービスでございます」
「厄介事って言おうとしましたよね!? それに『代行サービス』なんて気取った名前にしてますけど、それただのパシリっていうか何でも屋じゃないですか!」
「そうとも言います」
「そうとしか言わないだろ!」

 何だよ、画期的な案があるのかと思えばただの何でも屋じゃないか…… 本当に大丈夫なのかこの人たち…… いや、悪魔。

「人間のために我々が厄介事を解決し、それによってイメージアップを図るという超画期的な作戦だ!」
「厄介事認めやがった!?」

 そんなこと…… どれだけ地道な作戦なんだ。

「人間どもが自身では解決できない悩みを我々に依頼し、その依頼を我々がスパッと解決。そうして『さすが悪魔様! 素敵!』となって作戦成功だ!」
「見知らぬ土地でこんなことよくできましたね……」
「褒めても何も出んぞ! はっはっはっ!」
「いや、呆れているんですが」
「私の手腕をもってすればお安い御用よ! 主に彩音が銀行から融資を受けて、彩音が起業して、そして彩音が市政へ届を出し、税金やら何やらも彩音が会計事務所に――」
「全部部下任せじゃねぇか!」
「彩音はこう見えてその筋に精通している。悪魔軍一等特技軍曹で私の優秀な部下だからな!」
「もう、玲子様ったら…… 照れちゃいます」
「はっはっはっ! かわいいなあ彩音は!」

 ダメだこの悪魔早くなんとかしないと。





「そう、私は悪魔軍大元帥サタン様から直々に命を受けこの日本という国の掌握を任されたのだ! 私にかかればこの国の人間どもなぞ易々と手中に収めてみせる!」
「それで―― 依頼とやらがあるのにこんなことしていていいんですか?」
「……」

 沈黙。
 いや、まさかそんなはずは――

「善次郎さん…… 遂に言ってしまいましたね」
「ど、どういうことですか!?」
「いい、いらい、いらい…… いらい」
「大丈夫ですか玲子様! 善次郎さん、それは禁句ですいけません!」

 まさか、あれほど強気に言っておいて。

「もしかして、もしかして依頼はまだ一つも――」
「うわああああああああ!! うるさいうるさい!!」
「本当に依頼入ってなかったのかよ!」
「いや、数件は入ったぞ」
「数件だけかよ!?」
「草むしり、楽しかったですよね玲子様! 依頼主のおばあさまが仕事終わりにご馳走してくれたお料理がまた格別で――」
「草むしり…… なんてリアルなんだ」

 本当にただの何でも屋というか、パシリというか…… 

「もしかしてあなたたちって本部からこの辺境の地へ左遷されただけなんじゃ」
「そんなわけあるかぁ! 私たちは選ばれた優秀な悪魔なんだ!」
「それなら何故二人だけなんですか…… いくら膠着状態で軍勢を動かせないとはいえ、さすがに二人はないでしょうよ二人は」
「そんなわけないもん…… わたしはゆーしゅーなしょーぐんだもん」
「拗ねやがった……」

 厄介払いされただけかよ。
 何だか最初こそ驚いたけど興醒めというか、本当に時間の無駄だったというか――






「悪魔だか何だか知りませんが、分かりました―― もう俺はこれで帰りますね」
「あ、待て善次郎くん!」
「善次郎さん!」

 まだ悪魔の存在を認めたわけではないけれど…… 地獄という世界でさえもピラミッド状の階層で成り立っているわけか。
 優秀な人間が上に立ち財を成す。下層の人間はそれに従い動かされ、それよりも下の人間はこのように爪弾きにされたり、ボロ雑巾のように使い捨てにされるのだ。人間と同じだ。
 どこへ行っても変わることのない世界の摂理。世界の真理。

「善次郎くん、まだ君へ借りを返していないぞ!」
「だからいいですって」
「億万長者か!? お金が欲しいのか!?」
「いりませんよ…… タバコに火をつけるぐらいしかできないのに、無理でしょうよ」
「そ、そんなことは――」
「大丈夫ですよ…… それじゃ頑張って下さいね、お仕事」

 帰ったら何をしようか。
 こんな長時間無駄なことで拘束されたのは久しぶりだ、帰りに酒でも呷ってやろう。鬱憤晴らしだ。

「善次郎くん――」
「まだ何か?」
「そういえば君、仕事は?」
「――は?」
「いや、仕事だよ仕事。平日の昼間から私服で歩き回っていたようだし」
「そんなことあなたたちに関係ないと思うんですが」
「いやそうだけれども…… 人間は普段どのような暮らしをしているのかと思ってな。見たところ会社勤めではないようだ、学生か?」

 おい、どんだけ干渉してくるんだこの悪魔は。
 ニートに対して「仕事は?」という質問は禁句である。
 俺たちニートはいつもこの質問と戦っているのだ。
 例えば美容室へ行ったとしよう―― そこで「今日はお休みですか?」とか「何のお仕事をされているんですか?」とか、そういった第一関門がまず俺たちの目の前に必ずといっていいほど立ちはだかるのだ。
 そこで「ニートです、はっはっはっ」とか、「自宅警備員です」とか言えるほどの強い心を持っていない俺たちはたいてい嘘をついてやり過ごすわけだ。
 とにかく―― こんな感じで俺たちニートは絶えず世間体という名の敵と戦いを繰り広げている。ニートという名の戦士である。
 ちなみに「将来どうするんだ!?」という質問も禁句である。





「学生ではありません」
「そうか、それなら何だ?」
「フリーターというか…… アルバイトですよ」
「アルバイトか―― 何のアルバイトだ?」
「そ、それは…… コ、コンビニの店員です」
「コンビニねえ…… 時給は?」
「そ、それは…… な、何でそんなこと言わないといけないんですか!」
「だから、人間がどのような暮らしをしているか参考程度に聞いておこうと思ってな」
「きゅ、900円です!」
「へぇ、週に何日働いているんだ?」
「土日以外です!」
「大変だなあ、勤務時間は何時から何時まで?」
「それはシフトによって違くて……」
「それでは今日はこれから仕事か?」

 こいつ……! なんてしつこさだ!
 何を企んでやがるんだこの女!

「そうです、これからバイトなので俺はこれで――」
「何時から何時まで?」
「ご、5時からですけど……」
「まだ数時間も余裕があるが」
「色々準備があるんですよ!」

 くそ…… しまった!
 ちっぽけな良心が俺に嘘つくことを拒ませている。
 突っ込まれれば突っ込まれるほど綻びが出る。

 俺―― 何でこんな必死になって自分を偽らなければならないんだ?

「準備…… 勤務地はここから遠いのか?」
「は、はい……」
「勤務地はどこなんだ? 時間を取らせたお詫びに、良かったら送って行くが」

 自分の人生でさえ傍観者に徹し、躓いた者を嘲笑う。
 自分の人生、その土俵にさえ立つことを放棄し、生きながら死んでいる人間。
 そうして最後になって「何故あの時、何故今まで挑戦してこなかったのか」と後悔するんだ。死ぬ間際になってようやく。
 そうなってからでは何もかも遅いのに。
 分かっているのに、動かないんだ。動けないんだ。
 きっかけがあれば動ける―― 確かにそうだ。だけど、きっかけが向こうからやって来ることなど稀だ。
 きっかけも自分で作らなくてはいけないのだ。





「勤務地は――」

 何故自分を偽る?
 自分で「それでいい」と思ってそこに納まったんだろ? だったら胸を張れよ。
 自分はニートです、そう堂々と宣言してみせろよ。

「善次郎くん…… どうかしたか?」

 何故言えない?
 もしかして俺は―― このままではいけないと思っているのか。
 そうだ、分かってる。何度も言うが分かっているんだ。このままではいけないことを。
 だから自分を偽っているんだ…… ニートでいることに後ろめたさを感じているから。

「善次郎くん……?」

 もう全てが馬鹿らしい。
 死んだように毎日を送り、夢も希望も目標でさえもない。
 死ぬ勇気もない。
 そんな人生に何の意味があるんだ。
 ニートでいることを認めていれば、本当にそれでいいと思っているなら、胸を張って「ニートです」と言えるようならそれでいい―― だが俺は違う。
 その場所にいることに焦りを感じている。抜け出したいと思っている。
 だったら何故動かない…… きっかけは向こうからやって来てくれないのに。
 俺は、俺は―― 俺はこのまま死にたくない。死んだような日々はもうウンザリだ。
 俺は生きる意味が、生きる理由が欲しい。

「すみません―― 嘘をついていました」
「ど、どういうことだ?」
「俺、仕事もアルバイトも何もしていません」
「それは…… 無職ということか?」
「はい、無職というかニートです」
「ニート?」
「大人でありながら定職に就かず、就職活動もせず、アルバイトもしないで親の脛をかじり親に寄生している穀潰しです」
「あっ……」

 無感動な日々を送ってきた。負の感情を必死に押し殺してきた。
 それが今になって開放されて、ダムが決壊したように溢れ出す。
 よりにもよってこの瞬間に。八つ当たりもいいところだ。
 けれど、もう止まらない…… 負の激流は全てを呑み込んでさらって行く。





「そうです俺は底辺のクズです。他人を、自分でさえも偽って生きているんです。自分の人生なのに」
「き、君……」
「自分からは動かない癖に、向こうからチャンスが来てくれると思い込んでいるんです! そんなわけないのに!」
「お、落ち着きたまえ」
「望みを叶えてくれるんですよね……!? だったら俺に仕事を下さいよ! できないんでしょう!? そうですよね、自分から動かなかったクソ野郎にチャンスが手を差し伸べてくれるはずがないんだ!」
「あの…… 頼むから落ち着いて、なんかごめん」
「何でも叶えてくれるんですよね!?」
「いや、そう言ったけどさ……」
「俺に下さい…… 俺に、俺に生きる理由を下さい」

 そうだ、自分は何もしていない癖に施しを受けようなどと…… そんな虫のいい話があるはずないのだ。





「ならば―― ここで働きたまえ」

 あったよ、虫のいい話。

「はい―― って、ええ!?」
「やったあ! やったよ彩音! 人間一人をこちら側に従えたぞ!」
「さすがです玲子様! よっ、悪魔将軍!」
「照れるなあ…… もうっ!」
「えええええ!?」

 どういうことだ、こんなこと許されるはずが…… 俺は最低の人間なんだぞ。

「生きる理由だって? そんなもん知らん―― ただ、仕事が欲しいなら仕事をやろう」
「そ、それは……」
「きっかけは作るもの…… 確かにそうだな。そして君はそれを作る行動をしてこなかったということ」
「は、はい……」
「だが、少なくとも一歩目は踏み出せたようではないか」

 一歩目…… それは。

「今の自分を受け入れて、そうして私に『仕事が欲しい』と頼み込んで来た―― その行為は『自分から行動した』とは言えないだろうか?」
「いや…… それは」
「仕事が欲しいならやろうではないか―― だが勘違いするなよ」
「勘違い?」
「これは部下を救ってもらった借りを返しただけ―― あくまでも君にとってのきっかけ、もしくは踏み台だ」
「踏み台って……」
「君は動いた、そして私はきっかけを与える。以上だ」
「――というと」
「生きる理由が欲しい…… そんなこと私は知らん、これは君の人生だ。私がそれを与えてやることはできない。そこまで面倒は見てやれない。だがきっかけは与えてやれる…… 後は自分で考えろ、いいな?」
「れ、玲子さん……」
「私が与えたきっかけを踏み台にして、後は自分で考えて生きていけ―― 自分のやりたいことを見つけるんだな。ただそこまでは手伝ってやれん、お前のやりたいことくらいお前で見つけることだ」





 膝から崩れ落ちた俺に手を差し伸べる玲子。
 厳しさと優しさが入り混じった、俺を諭してくれるその声。俺を引っ張ってくれる綺麗な手。
 それを掴んで立ち上がる。

「見つけられるさ―― こうして立ち上がれたんだ」
「でも…… 俺、スゲーかっこ悪いです」
「ああ、物凄くかっこ悪い」
「ええ……」
「でも、これ以上下はないぞ? 一番下まで落ちたら後は這い上がっていくだけ。どんなに惨めでも格好悪くても必死に生きていけ。それが生きるってことさ」
「あの…… なんかすみません」
「謝るな、言った通り借りを返しただけさ。よし、そうと決まれば契約書とか諸々の手続きを―― 彩音!」
「はい、玲子様!」
「善次郎くん…… ここはニート更生所じゃない、慈善事業じゃない。ここはあくまでも君にとっての『きっかけ』だ。ここにいたいならそうすればいいし、やりたい事が見つかったら出て行っても構わない。その代わりいい加減な気持ちでいるのなら出て行け。仕事の邪魔、足手まといになるだけだ。いいな?」
「は、はい……」
「男に二言はない、筋は通せ。仕事が欲しいんだろ?」
「はい…… 仕事が、仕事が欲しいです!」
「自分で踏み出した以上、その足には責任という名の重りが付きまとう。分かっているな?」
「はい……!」

 今の俺、物凄く格好悪い。物凄くダサい。
 でも…… やりたいこと、生きる理由、その欠片が見つかった気がする。
 きっかけこそ与えてもらったけれど―― どんなに惨めでも格好悪くても一歩目は踏み出せた。
 後は自分の足で歩いて行く。一歩一歩踏みしめて、時に躓き時に後ろへ下がることもあるかもしれないけれど。
 それでも歩いて行く…… 人から嘲笑されても。
 散々人を嘲笑してきた俺が、そうされないことを願うのは筋違いだ。どんな醜態を晒そうが、それで笑われることがあろうが、俺は歩いて行かなくてはならない。
 それが俺の望みだから…… 生きる理由を、生きる意味を探し進み続ける。
 それこそが今の俺の願い―― 生きる理由を、意味を探すために生きる。





「生きる理由が見つかるまで…… ここで俺を働かせて下さい」
「そんな大それたもの見つかるかどうか―― まあ、それでもいいだろう。せいぜい足掻いてみせることだな」
「はい…… 本当に急ですがよろしくお願いします」
「自分の人生、そのスタートラインにようやく立てたな。君は今二度目の生を受けた赤子だ。二本足で歩けるようになるまではまだまだ時間がかかるだろうが、それまでは必死に這いつくばってみせることだ」
「言ってることが悪魔っぽいです」
「当たり前だ、私は悪魔将軍だからな―― 周りと自分を比べている暇などないぞ? そんなことは全く意味を成さない。これは君の人生だ」
「はい、早く地上へ這い上がらないといけないですからね……!」
「そうだな―― 成増善次郎くん、君は今日から私の配下だ」
「は、配下……!?」
「そう、悪魔将軍赤塚玲子の配下だ。記念すべき人間の配下第一号だ。失望させてくれるなよ――? あっはっはっ!!」

 これからもきっと、この世界はピラミッドだ。
 競争はなくならない。競争によって得られるものがあるし、それは価値あるものだと信じられているから。
 俺はそんな世界でこれからも生きていかなくてはならない。生きていく。





 この世界は生存のための競争で溢れている―― しかし、それだけではない。そう思う。
 敗者は敗者に徹するべき、敗者は必要ない…… 果たしてそうだろうか。
 これまでは俺もそう思っていた。
 しかし働き蟻の中には一定の働かない層が生まれるように、働き蜂の中には一定の働かない層が生まれるように…… そういった「敗者」とみなされる存在にも生きる権利があるのだ。生きる意味があるのだ。敗者に生きる権利がないのなら、この世界はとっくに滅んでいる。語弊はあるが、マルチ商法だって敗者がいるから成り立っているのだ。
 だったら俺は敗者の権利を行使させてもらうことにする。
 自分なりの方法で、自分の足で歩いて生きる意味を探していく。ニートという敗者だった俺なりの生き方を。
 探し求め歩いて行く―― そうなれば、その行為はもう「敗者」と呼ばないのではないか。
 そう、新しい生き方を開拓する開拓者だ。
 開拓者は敗者ではない…… 皆、自分なりの生き方を探し日々開拓しているのだから。
 自分の人生だ、一度しかない人生だ。
 周囲と比べている暇などない。

 人間、みんな開拓者。
 そう考えると―― もとから敗者など存在しないのかもしれない。
 そして勝者も存在しないのかもしれない。
 何故なら自分が生きているこの人生は自分だけのものだからだ。
 今生きているこの瞬間、それは自分の目で見ている世界。
 それは自分の人生。
 生まれてくるとき、死んでいくとき…… そのときは一人。
 社会という概念があろうと、俺たちは俺たちの道を一人で歩いている。
 だったら俺も、俺の道を歩いていこう。
 生きる理由、生きる意味を見つけ出すために。







 そうして俺は「悪魔の配下」という新しい道を進み始めたのだ。
 都会の片隅、雑踏に呑まれながらもひっそりと佇むボロい雑居ビルの二階。
 埃っぽく古ぼけた小さい事務所には、それぞれの道を探す人間たちの居場所がある。
 そしてそこには悪魔が二人と配下の人間が一人…… そういえば配下の俺でさえも二人が悪魔だとは5パーセントくらいしか信じていない。別に悪魔じゃなくてもいいよね? その設定現時点では活かされていないし。
 ともかく―― 悪魔らしい女が二人と配下の男が一人。
 彼らは代行サービス赤塚で悩める子羊たちを救済しているのだ…… 競争社会と言われてきた現代であるが、きっと競争と無縁の世界もある。競争だけが人生じゃない。

 そんなことを一丁前に言いつつ、俺は缶ビールのプルタブを起こす。
 なかなかどうして、働いてから飲む酒も格別である。









ありがとうございました

悪魔将軍の癖に地獄の断頭台は使えそうにないな

おつ

続きもみてみたいな

>>57
ありがとうございます
続きは気が向いたら… 笑

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom