提督「夕立の蜃気楼」 (17)

工廠の一室、立て掛け鏡の前で夕立は得意げに上機嫌であった。目線が高くなったので、以前より離れた位置より己を鏡に映して色々な格好を試す。小さい鏡像からは以前の大きな像には感じ取ることができなかった惹きつけるような存在感があった。

熟した。この夕立には細い枝先に赤々とぷっくり実った夏蜜柑の爽快な潤色があった。その重さに戸惑って揺れる梢のように、夕立もしなやかな四肢全体を使ってどうしたものかとポーズをゆらゆらと試行錯誤していたのだ。

腰曲げて鏡に顔を近づけてみると怪しげに輝く赤い目に赤みがかった金髪が覆いかぶさってくる。邪魔なのでヘアピンでまとめた。夕立は鏡の夕立とはたと目を合わせた。一体これは誰なのだろう。夕立。それは分かっていた。

しかし、ここにやってきた吹雪と睦月にはそれがわからなかったようで、ここに顔を覗かせたかと思うと途端に亀のように慌てて頭を引っ込めて慇懃に無礼を詫びて出て行ってしまったのだ。友人に赤の他人の如く扱われたことに夕立は自由の愉悦を覚えた。それは今世界で夕立の居場所を知っているのは唯一自分だけだという隠棲への解放と安堵であった。

夕立は改めて自分の形貌を眺めた。以前のどこかおっとりとした感じはない。物憂げな陰に潜む不敵な聡明さは夕立という輪郭を明瞭にしようとするが、更にそこには未分の野性があって、するりと今しがたの先進的な印象を解体していく。夕立は水渦を内にする冷たい鉄杯を思い浮かべ、静的なのか動的なのかと自分自身に複雑な印象を覚えた。

夕立は少し急いでグローブをはめて長いマフラーを首に巻きつけた。吹雪と睦月はいまだ夕立を探しているはずである。誤解を解いてやらねばと颯爽と肩で風を切ると、白いマフラーの端は旗印のようになびいた。夕立は改造の結果に満足した。

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鎮守府の目立たない小道の傍らには二体の青銅像が鎮座されてある。片方は二宮金次郎像だった。歩きながら文字を読むのは至難の業だ、夕立はこういったあからさまな勤勉さを憎々しく思う。もう片方は判別できない、なにせこちらは金次郎像より遥か以前のもので、雨ざらしの長い中で軍服の色は青白く剥げ落ち、名札も表情も見えないぐらいだったのだ。

それらは誰からも忘れ去られていたから、掃除もされず金次郎も名もなき軍人も頭の天辺に鳥糞をへばりつけていた。夕立も普段は歯牙にもかけない像であったが、今は何かとても印象づけられる光景に思えた。彼らの惨めな有様。若い金次郎像はその仰々しい嘆息と相まって何か滑稽だったが、無貌の軍人にはどこか穢れた神秘性があった。

夕立には芸術の素養というものはなく、音楽絵画彫像どれを見てもあくびしてしまうのだったが、その二体の像には関心が向いた。そうだ、私も芸術というものが分かるぐらいに成長したんだ。ちょっと勇み足で鑑賞に踏み込んだ。そして、「全て過去の偉大さというのは現在にて糞をつけられることによって確証されるのだ」と一人納得したりもした。

夕立は以前の自分が褒めてもらいたがり積極的に頭を撫でてもらったことを思い出し、赤面した。偉大さへの賞賛にはいつも対象を小さく切り取るような哀れみがあるのではないか。睦月のあたかも無邪気そうな表情には、妙に大人びた感じがなかったか。睦月の瞳には、一回り後の時間を生きたような如月がなかったか。

夕立は独りでに気まずさを覚えた。そしてすぐさま睦月と吹雪に合流して誤解を解いた。彼女たちは「これが夕立ちゃん!?」と大げさに驚いてくれる。夕立は何だか金剛的な西洋風に初めて出会った時のようだった。「夕立ちゃん、本当に格好よくなったよ」「うん! これが改二かあ、すごいね!」「えへへ、そうかな、そうかな」。夕立は妙に白々しい気持ちになった。

この異質感は夕立自身の成熟した姿への気負いからくるものなのか、容易には組み敷くことができなさそうな手強い雰囲気の夕立に睦月と吹雪が戸惑いを覚えての遠慮から生じたものなのか。「夕立ちゃんはやっぱり夕立ちゃんだね!」といくら張り切って言い合っても、違和感はなくならない。

鎮守府には学校機関もあり、その鄙びた木造校舎にて艦娘、多くの駆逐艦娘は学業に励んでいることになっている。明治か大正を彷彿とさせる一応は西洋建築の風体を保ったボロ校舎にはエアコン設備が完備されている。艦娘運用の必要から突貫工事で建てられたこの古い建物は鎮守府内で一番の新築だった。

教科書もどういうことか和本綴じのものであるし、その紙質までも仙花紙時代の劣悪さを再現したためか、辞書も二三度と引けばもう何十年の使用にも耐えてきたという貫禄を出してしまう有様であった。新品なのに既に満身創痍の教科書を用いる授業風景は傍から見れば彼女たちが何か逼迫した鬼気でもって強烈に勤勉であるようにも見えるだろう。

外からの忖度はおしなべて外れてしまうように、夕立には全然そんな学問への志なんてものはなかった。だから、足柄女史に酸素魚雷の優位性を答えよと問われても夕立は何のことか分からず口を噤むのは自然でさえあった。後ろに座る吹雪からひそひそと囁いて貰いながら答えていく。

長射程で、炸薬量が多く、また雷跡も見えにくい。その隠密性の理由は二酸化炭素が海水に溶け易いから、なに? 酸素魚雷は酸素を出すものではないのか? と思ったが、教科書には大きく圧縮酸素を推進力に使用とあった。二酸化炭素にも意味はあったのだな。夕立にとって二酸化炭素は人間の口から吐き出される「ゴミ」という程度の認識だったのだ。ノートに「人間の口から出るものは雷跡を消す」と書き記した。夕立は勉強した気になった。

休み時間。唐突な「イメチェン」を行った夕立に第六駆逐隊がわらわら転校生にでも群がるように集まってくる。しかし、声をどうかけたものか考えてこなかったらしく、妙にぶらぶらと体を揺する時間があった。「夕立さん」。暁が緊張した面持ちで言った。夕立は面食らう。呼称が敬称化されるとは意外のことであった。

睦月と吹雪は以前と変わらず「夕立」呼びであった。彼女たちと夕立のルームメイトという親しさの中では呼び方を変えるというのは厄介な難渋さがあり、黙契により現状維持の関係を続けることも出来たが、暁たちはあくまで級友の仲であった。その独特の距離感が呼称の変更を当然としたのだ。

「夕立さん」と言われて初めて夕立は自分が何だかクラスから浮いているんじゃないかと省みた。留年生が下位学年の教室に座る居心地の悪さを感じた。夕立は狼狽して「今まで通り夕立でいいよ!」と弁明した。吹雪と睦月にふと気兼ねする思いもあったが、同級生の敬称に対する羞恥が強かった。

「でもすごいわね。前の夕立ならあんな口述答案はできなかったのに、改二になると頭脳も明晰になるのね!」とほっと一息脱力した暁が今度は目を輝かせて夕立を褒めそやす。暁の席は夕立たちより前だったので内情を知らないのだ。

夕立は曖昧に笑ってお茶を濁した。正直に告白することがいつも以上に難しい。夕立は無言の肯定を欲した。同時に夕立はその虚栄が露見してしまうことをも望んだ。吹雪を見た。暁たちと同調するように力なく笑っていた。夕立の「ポーズ」をそのまま素直に受け取って斟酌したようだった。吹雪は能力人柄ともに優秀であったが、些か直線的すぎると夕立は感じた。

睦月のほうへ助けを求むるべく視線をやった。観測的な微笑を浮かべて夕立のことを眺めていた。睦月は夕立の困窮に気づいている。それでもって、睦月は夕立に冷淡な敷居を作ったようだった。互いの信頼からくる冷淡さというのは夕立にも息苦しくない充実を与えたが、時折それを意地悪にも思う。睦月は些か曲線的すぎると夕立は感じた。

話は暁が「私も改二になれば」と言うと、「ハラショー」「暁は改二になってもきっとお子様のままよ」「なのです」と周りからカウンターを受け、暁が「もう何よー! 私だって一人前のレディーなんだから!」と激しく拳を振り回す局面に移行していた。夕立は暁の「装いとしての背伸び」を羨んだ。

「暁ちゃんはもう一人前のレディーよ」。わざと夕立は言った。すると天使が通るかのような教会的な静寂が一瞬生じ、暁はもじもじしだす。今の大人びた夕立がそれを言うことに何か冷笑に近いものを感じたのかもしれない。「そうよ! 暁はもう一人前のレディーなんだから!」。休み時間の集いは散会となった。

夕立は憂鬱だった。これからの授業は高学年が低学年の問を解くような余裕さをもってしなければいけない。さもないと、夕立自身が己を嘲笑することになりそうだった。今日の宿題は勿論のこと、予習までもしっかりやろうと夕立は決心した。

演習訓練は鬱々とした夕立に爽快感を与えた。改二になって初めての戦闘行為というのもあってか、尋常でない集中をみせた。最近は吹雪にスコア勝負で負けがちになっていたが、今回は夕立の快勝であった。「やっぱり夕立ちゃんには敵わないや。改二ってすごい」と言われると、何だかケチを付けられたようで不機嫌だったが、それでも夕立は自分の改二の実力を嬉しく思った。

睦月が波の縞目を割って追いついてきた。「もう夕立ちゃんの攻撃力は一緒の駆逐艦とは思えないよ」。夕立の機動は以前と明らかに違っており、敵の急所を食い刺すぞという気迫があったという。「えー? そうかな。夕立はいつも通りにやっただけっぽい」。賞賛されることに悪い気はしなかった。

実際夕立はこの吹雪と睦月からのいくらか親しみからくるカサ増しもあるだろう高評価には冷や汗を流すこともなかった。正直に生きた末の評価はやはり気持ちのいいものだ。夕立は誠実な生を志した。

しかし、誠実に生きようといっても無論褒められたい気持ちもあるので、あるがままの夕立を飾り立てるために、いよいよ訓練にも熱が入っていくのである。嚮導艦の神通も夕立の頗る速く熟練した技量に好意的な姿勢を見せたが、そこに感情的な自強を確認し、やんわりとたしなめた。夕立は聞く耳を持たなかった。

夕立は執務室へ向かう廊下を軽い足取りで進む。懐には出撃戦果のMVPの簡易証書を忍ばせていた。夜戦帰りであったから空はまだ暁のほの暗さであり、廊下には洋灯の光が亡霊の如く淡く揺れていた。夕立はこの時間帯が好きではなかった。風呂掃除をした時に流れる濁り水のようなどんよりした明るさは夕立をいつも憂鬱にした。

しかし、新生夕立にとってはそんな汚穢として消し去られようとする暗がりの未練がましさもまた楽しいものであった。改二になって初のMVP。夕立は密かな思慕の情もあってか、このお目通りにわくわくした。

執務室の無垢の木で作られた重いアンティークドアを開けると、年季の入った高雅な香りに圧倒される。その香りは視覚から共感覚的に引き起こされたものに違いない。杉浮き造りの床には真っ赤なペルシア絨毯が敷かれ、チッペンデール様式の机はすらりと伸びる四本の猫脚が軽やかだが天板のゴテゴテした重厚さが目立った。

夕立の入室を確認した提督は骨太で線の明瞭なゴシック調の椅子を引いて出迎える。硝子のサイドテーブルには帝政様式のティーカップが緑茶の湯気をくゆらせていた。夕立に一番甘ったるく思われるのは提督の背後にある一枚の絵画だった。額縁の意匠のきめ細やかさは何だか曾祖母のタンスを漁ったときの感覚に似ていた。

眉唾物だが、その額縁は「リンダーホーフ城の宝物庫から譲り受けたものだから、存分に感謝しなさい」というのが持参者ビスマルクの言葉であった。それだけ立派なものだから絵の内容もさぞクラシカルなのかと思いきや、怪しく紫紺に輝く寂然の海を一匹のイルカが飛び跳ねるというラッセン的な幻想絵画だったりして、妙に収まりの悪い気がするのだった。

夕立の着任当初、執務室はこんな瀟洒で格調高くもなかった。畳張りの広々とした部屋にあるのは机代わりのみかん箱にひと組の煎餅布団だけであった。そこで夕立と提督はじゃれあうように追いかけ合いをしたものだった。しかし、いくらものがないとは言い条、室内であるのだから走るというより、布団の上で団子状にもみくちゃしあうというのが実際だった。夕立は頭を撫でられたり腹をくすぐられたりと愛玩的な関係にある可愛がりが好きであった。安心できたのだ。

しかし、繊細さが所狭しと並ぶこの豪華絢爛たる執務室ではそんな悪ふざけももうできない。金剛、ビスマルク、ローマなどの海外文化勢が質素さの中にある貧困や吝嗇を毛嫌いして執務室を改装した。提督も彼女たちの遠き地への郷愁ということでそれを許した、むしろ提督自身も西洋風の部屋に憧れを持ち乗り気であった。

現在、彼は余りに格式ばった内装に肩をこらせて苦い微笑を浮かべている。凡夫を囲う調度品がこうも驕奢になると、己も貴族なのだと自己錯誤に陥り振る舞いを清逸にと意欲し、所作を石像のように削り固定化しようとするものだ。どこかくたびれた疲憊の気色を漂わす提督に夕立は寿陵余子という語が浮かぶ。都会的な歩き方を身に付けようとして、自分生来の歩行をも失うという。

外来種が土着種を根こぎにする現象を自然環境誌が報ずるよりも鮮明に夕立は実感した。だからこそ、西洋窓にぶら下げられた二体の季節外れのてるてる坊主と部屋の隅に追いやられた内部が露出し傾いたジュークボックスに提督なりの自己主張と救済があるように夕立には感ぜられた。

ジュークボックスの損壊は加賀が「うっかり」「偶然にも」「転んだ」ことが原因らしい。頭にたんこぶを作った瑞鶴が加賀を背後に涙ながらに訴えたことから、同情に基づいてその真理性は保証されている。事件直前に瑞鶴が大音量で加賀岬を流してずいずいと煽る声を聞いたという証言もあったにはあったが黙殺されている。提督は内部が抉り取られているボックスを見ては「明石に修理を頼まねば」と半ば口癖のように呟いているが、さしあたりその依頼は今なお先送りにされ続けている。

てるてる坊主は睦月が梅雨入りに作成したものであった。一体は睦月をモデルにしたのだと分かったが、もう片方については誰をモデルにしたのか不明であった。夕立や吹雪ではない。長い赤黒髪に桜花弁で作られた翼のような髪飾りが印象的であったが、夕立も吹雪もそのような風体の艦娘は記憶になかった。睦月にいったいこれは誰ぞやと聞いたところで、何とも言わず艶然と口元を綻ばせるのみであった。睦月は艦娘として最も古株であった。梅雨の闇にしとしと寂しい雨響きの合間に艦娘運用黎明期の闇を重ね見たのだろうと誰もそれ以上には追究しなかった。

てるてる坊主はずっと隣り合わせで吊り下げられていた。それに関して密かな揣摩憶測が飛び交って、いわばそこは晴天たる台風の目と化していた。ただのてるてる坊主ではない、かの戦場を生きた証であり甲勲章よりも尊いものであるとか云々。そんなわけだから、室内装飾にうるさい艦娘もこればかりは持て余してしまったようで窓際だけは「洗練化」に与ることがなかった。今のところ窓に一本の風鈴が平和に揺れているのは、埃を被ったてるてる坊主たちのおかげである。

夕立と提督は困った事態に陥った。執務室の扉前で向かい合ったのは良いが、そこから完全に手持ち無沙汰になってしまったのだ。変わったな変わったなと思っていても、いざ当人を前にすると習い性となった関わり方が自然に出てくると互いに楽観視していたためだ。

意識上は互いに相も変わらずと確認しあえても、肉体記憶の弁別閾においては別存在と存外互いに判断してしまったようである。在りし日の懐かしい関係を現在に持ち込むにはこの懸隔が余りに互いを疎遠にしてしまっていたのだ。

提督は夕立にソファを勧めた。夕立は素直に従う。我ながらこのぎこちなさは別れた恋人同士がどこまで行きずりの関係を認めるか模索しあっているようだとも思った。実際の夕立にそんな経験はなかったが、テレビの知識を自分のものとしていたのでそんな類比も浮かんだのだ。

提督は夕立に茶を出してくれた。緑茶はあの帝政様式のティーカップ、恐らく金剛が持ち込んだものだろう、に七分程度に注がれていた。提督は夕立に隣り合って座り自分の分を用意していた。その間は沈黙。夕立はカップの黄金の縁を指でなぞったり、回して眺めたりしていた。茶道では器の美しさを見るために茶碗を回すと聞いたとき夕立は馬鹿らしいと思ったが、今ならそれも解することができる心持ちである。

提督はカップに自分の茶を注ぎ終えると、数寄を凝らした柄の部分ではなく縁の部分を酒飲みのようにつまんで茶をずずずと啜る。そんな下品な飲み方をするものだから、内容はすぐさまなくなり、またティーポットから注ぎ直すといった風である。

夕立の方はというと、ずっとカップを眺めていると、そのうちこれが金剛からの贈り物であるということに妙な引っかかりを覚えて、それに囚われだした。夕立のことを忘れても、このカップを通して金剛のことは思い出しているのではないか。浮気者。そんな言葉が浮かんでは消した。夕立と提督はそんな関係ではなかったのだ。

「夕立、ちょっと変わったな」。そんな折である。提督が言ったのは。夕立は自分の中のこの妙な観念の原因を探っていた最中であったから、かなり素っ頓狂な声で返してしまった。提督はそれに驚き、その拍子に緑茶が波打つカップを転覆させてしまい、ズボンを汚した。提督が熱さに跳ね上がるものだから、今度は夕立が驚かされて跳ね上がる。幸い夕立は茶をこぼすことをしなかったが、足を机にぶつけた。夕立は跳ねて立ち上がると同時に冷たい布巾を準備して、提督のズボンをこすったりした。

「災難だった」「ぽい」。笑い話が出来たためか、語り口も軽くなったようだった。提督は夕立に改二になってどうかと尋ねた。少し答えあぐねた夕立は賢くなったと返した。賢く? そうっぽい。賢いってどんな風にだ、数学や漢文ができるようになったのか? それは違うっぽい。じゃあ、どんな風に? わからないっぽい。賢くない答えだなあ。提督さん、ひどいっぽーい!

しかし、いくら打ち解け親しく会話を交わしても夕立と提督はどこか核心を逃し続けている。それは核心に踏み込む勇気がないと言った、彼らの意気地なしだけが原因ではなかった。夕立も提督も互いにどこかよそよそしさがあるのを自覚している。しかし、それを解消するとなると原因をどうにかしないといけないが、その原因がわからなかった。むしろないのかもしれない。

ないものは話せない。だから、ずっと核心の周縁部をぐるぐる回っている感じを持ちつつも踏み込むことができない。そもそもこの違和感を解消するべきかどうかも互いに見解を一にしていないようだった。ならば、捨て置け放っておけとも思わないでもないが、何かじりじりと焦燥にも似た圧迫感がそこにはあった。

夕立は静かにすっくと立ち上がり、扉の方へ歩く。マフラーがなびいた。提督は突然の夕立の行動に、驚き、そして何か不機嫌にしたのかと慌てて背中を追いかけた。夕立は提督が声をあげて追い縋るのを確認して、にわかに立ち止まり、くるりと踵を返した。慌てた提督はそれに反応できず、夕立に衝突する手前であった。夕立の顔は提督の胸に埋もれた。

夕立にとって正念場であった。もしかしたら提督にとっても。誰かが夕立に平行世界説を教えた。この世界は重要な選択によってそこから枝分かれしていき、いくつもの可能性の総体を形作るんだって。夕立はまさにこの瞬間を始点とする樹形図を水平線の果てまで眼前に捉えたようであった。

己を縮減するか拡増するか。それが問題であった。換言すると、夕立はここでかがむべきか背伸びするべきかの問題であった。膝を曲げれば、以前のように頭を撫でられ愛玩されるだろう。それには維持への安堵がある。以前と同じという魅力は大きい。

しかし、己を小さくすることは可愛がられるかもしれないがと夕立は不満であった。美や偉大さは小さくなってこそ輝くと夕立は考えているが、それを無視してまで抗いがたい欲望も確かにあった。己を大きく見せたい。せっかくできそうなことが増えたのならば、結果はどうなろうともそれを試してみたい挑戦してみたいと思った。

夕立の長い瞬間の逡巡はついに終わった。夕立は体をたわめたかと思うと一気に芯を引き伸ばしつま先立ちになる。顔は上を向き提督の表情をしかと見つめる。撫でられている時とは全く異なる視覚風景であった。柔らかい感触にいよいよもって瞠目する提督に対して、反逆してやったぞという悪戯心まで逞しく湧いて出た。

すとんと踵を落とすと、夕立の伸びきった体の芯はそのまま脳髄まで震動を伝える。少しの間。徐々に赤面。夕立は自分がなんだかとても恥ずかしいことをしてしまったのではないかと後悔しだした。提督が見かねて声をかけようとする。夕立は提督と目を合わせることもできず、押取り刀も大慌ての遁走に踏み切る。重さなんて気にしてられない、アンティークドアを蹴破った。

鎮守府内における執務室から正反対のところまで逃げて、ようやく息を整える。いまだ心臓はばくばくと鼓動を強めている。どうしよう、どうしようとしゃがんだりジタバタしたりしていると懐からMVPの簡易証書がひょっこり出てきた。提出忘れであった。顔は熱く火照っていたけれども青ざめた。今からもう一度執務室に行かねばならぬと思うと気分も………。ドアの隙間からこっそり差し出すのはどうだろう。だけれども、羞恥を超えてもう一度提督と顔を合わせたい気持ちも。

廊下はもはや曙光が差し込んで白じみ、夕立の真っ赤に熟れた頬を明らかにしていた。眠たげな太陽だけがそれを見ていた。もっとも太陽でさえも唇を優しく撫でる夕立その内側の甘さまでは知らないのだけど。


おわり

夏の雪シリーズの息抜きに書くアニメネタssの二作目。前作は下に。

提督「如月の深海にて睦月は盲目」
提督「如月の深海にて睦月は盲目」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1438968853/)

ついでにふと懐かしくも思い出した前スレがある故この場に付すことを許し願う。

提督「なに?RAINだと?」
提督「なに?RAINだと?」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1431563146/)

哲学の人か
なんか地の文付いてから若干読み辛くなった希ガス


思春期真っ盛りのようだ


シリアスな話のはずが瑞加賀のところで吹いたw

乙 この後ステキなティーパーティーが開かれたな間違いない

おつ


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