杏子「地獄の機械」 (20)
「敵は来る。敵が今や航行中であることはこの私がよく知っている。敵はただ現在ここにまだ到着していないというのみである」
トゥキュディデス『歴史』
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その日。
朝。
日が昇るには少し早い時刻、見滝原を一望できる丘のうえに、鹿目まどかはひとり佇んでいた。常のときならば、動きだす人びとの姿が見えはじめるころであるのに、眼下の町は、一様に灯りを消して、静まりかえっている。
正体のない町を見下ろすまどかの後ろに、ひとりの少女が歩み寄ってきた。
美樹さやかである。
さやか「……おはよう、まどか。どうしたの、こんな所で?」
まどか「あ、さやかちゃん、おはよう。うん、ちょっと、考えたいことがあって」
さやか「……そう、なんだ」
まどか「バカだよね、私。今さら考えたって、どうにもならないのに」
さやか「そんなこと……」
まどか「さやかちゃんこそ、ここにいていいの? 皆、待っているんじゃない?」
さやか「いや、それなら、まだ余裕があるから、大丈夫。そしたら、ここからの景色を見ておこうと思って、さ」
まどか「…………」
さやか「あはは、ダメだなあ、あたしったら。不吉なこと言っちゃって。
あたしたち魔法少女は、悪いやつをみんな倒しちゃって、ハッピーエンドにしなきゃいけないのにね」
まどか「さやかちゃん」
さやか「まどかは何にも心配しないでここにいればいいよ。
杏子も、マミさんも、なぎさも、……ほむらも、皆いるんだ。負けるはず」
まどか「ねえ、さやかちゃん!」
さやか「…………」
まどか「いいんだよ、これは多分、ううん、間違いなく、私がやらなきゃいけないことだから。
ごめんね、ずっと迷惑ばっかりかけて。皆を振り回して。
もし、さやかちゃんたちが、あれに勝てたとしても、今回で終わるとは思えない。いつか、必ず決めなくちゃならなくなる。
だから」
さやか「でも、今の幸せな時間を引き延ばすことはできる。
それに、まどかが言ったじゃない、魔法少女は奇跡を起こせるって」
まどか「そうだね。でも、それはきっと、奇跡なんかじゃなかったんだよ」
さやか「まどか……」
まどか「行って、さやかちゃん。私たちには、今できることを、精一杯やるしかない。
皆が頑張っている間、私は一生懸命応援するよ。勝てればいいと思ってるよ。でも、ダメなときには、その時には」
さやか「分かった! 行ってくるよ、まどか。また会おうね、絶対だよ!」
さやかが走り去った後、まどかは先ほどの言葉の続きを、ぽつりとつぶやいた。
まどか「・・・・・・は、私が、殺す」
うお、はじまた
同じ頃、見滝原の中央にある公園には、やや場違いな少女たちの姿があった。
佐倉杏子は、落ち着かない様子で辺りを歩きまわり、百江なぎさは不安気な表情でベンチに腰を下ろし、巴マミがそのそばに寄り添っている。そして、やや離れた場所には、暁美ほむらが腕を組み、電柱に寄りかかって立っている。
誰も一言も口にせず、重苦しい空気のなか、美樹さやかは息を切らして公園に入ってきた。
さやか「いやー、ごめん。待たせたかな?」
杏子「遅いぞ、さやか。お客さんが先に来ちゃうじゃないか」
なぎさ「そうなのですよ、なぎさは怒っているのです。どこに行っていたのですか?」
さやか「本当にごめん。寄り道が長引いちゃってさ」
ほむら「…………」
マミ「ほら、喧嘩している場合じゃないでしょう。そろそろ時間よ。全員揃ったことだし、始めましょう」
杏子「まったく。じゃ、行こうか」
少女たちは各々のソウルジェムを取りだし、手のひらにのせてかざす。すると光が彼女らを包みこみ、暗い公園は一瞬、眩しさで何も見えなくなった。
「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット!!!!!」
2週間前。
朝。
美樹家。
「……チュニジアからシチリア島に上陸した難民団の対応について、イタリア政府は公式見解を表明……」
カチッ
「杏子ー」
「……ロシア、東欧から大挙流入した移民排斥運動が盛り上がりを見せるドイツでは、極右政党が議席を伸ばし……」
カチッ
「ねえ、杏子ー」
「……日本、インド、ASEAN諸国は、増加し続けるアフリカ大陸からの移民の流入を制限することで大筋合意……」
カチッ
さやか「ねえ、杏子ってば!」
杏子「うわ、何するんだよ。まだ見てる途中じゃねぇか」
さやか「いつまでのんびりしてるの。もう7時だよ、はい急いで」
杏子「いけね、ちょっと待っててくれよ、さやか」
さやか「あと30秒だよ、ほら靴下はいて」
杏子「分かってるって。おじさん、おばさん、行ってきまーす」
さやか「行ってくるね」
美樹父「ああ、気をつけてね」
美樹母「行ってらっしゃい」
さやか「どうかしたの、杏子? 朝からあんな真剣にニュースなんか見て」
杏子「いや、父さんのことが気になって。まあ、テレビ見てたって、何が分かるわけじゃないんだけどさ」
さやか「そっか……、ごめん、何だか悪いこと言っちゃったかな」
杏子「良いよ、悪いのはさやかじゃなくて、連絡よこさない父さんの方だからさ」
さやか「杏子のお父さんから、最後に手紙が来たの、いつだっけ?」
杏子「3ヵ月前。その時は、リビアからだった」
支援
何が始まってるんです?
佐倉杏子の父は、神父である。もとはキリスト教の最大教派に所属し、見滝原で小さな教会を経営していた。
しかし、「新しい時代には新しい教えが必要だ」と考える彼は、伝統ある本部の保守的な教義に疑問を抱き、あるとき、思いきって分派。最初は、ほとんど相手にもされなかったが、真摯な彼の活動は、じょじょに支持者を増やし、数年後にはそれなりに大きな新興宗教団体に成長した。
その頃、天然資源の急速な枯渇により、それまで繁栄を謳歌していた多くの新興国や途上国が没落、世界規模で貧富の差がいよいよ拡大していた。
「みずから貧しい国におもむき、人々を救うべきだ」そう言って彼は、周囲の反対を押しきり、妻、すなわち杏子の母とふたりきりで渡海する。
残された娘たちのうち、まだ小さい妹は親戚の家に預けられたのだが、姉の杏子は、どういう経緯か美樹家に居候することになった。美樹さやかの意見を尊重すれば、「あたしと離れるのがいやで、パパとママに駄々こねたんだよ」ということになるのだが、もちろん佐倉杏子本人は否定している。
さやか「やっぱり、あの辺りだと郵便事情もよくないのかな」
と、さやかが慰めるように言う。
杏子「いやあ、きっと仕事に夢中で、あたしのことを忘れちゃってるだけさ。
ふたりとも、何かに集中すると、周りのことが見えなくなるもんな。便りが無いのは元気にしてる証拠だよ……。
お、マミさんとなぎさじゃねえか」
さやか「ほんとだ、おーい!」
杏子が指差す先で談笑するふたりのうち、ランドセルを背負った女の子が、さやかの呼びかけに応え、駆け寄ってきた。もうひとりの女子高生は、やれやれ、といった微笑みを浮かべて、ついて行く。
訂正 女子高生→中学生
なぎさ「これは、さやかに杏子ではありませんか。おはようございます」
さやか「あらあら、なぎさちゃんは今日も可愛いな~、今日こそあたしの嫁になれ~」
と、抱きつこうとするさやかからするりと身をかわした百江なぎさは、少し怒ったような顔をした。
なぎさ「うわきは駄目なのですよ、さやか。さやかのお嫁さんには杏子がなるのですから」
杏子「な、何言ってんだ、なぎさ。
マミさん、あんたこいつに変なこと吹き込んだだろ?」
マミ「私は何も言ってないわよ、佐倉さん。あなたたちがいつもくっついているからでしょ?」
なぎさ「おや、杏子は自分がお嫁さんだということに不満なのですか? でも、普段強気な杏子が、いざとなるとネコになるというのが、ポイントなのですよ」
さやか「分かってるね、なぎさちゃん。そうだよ実は杏子は乙女なのですよ」
杏子「うるせえよ、お前たち。ほら、なぎさは早く学校に行け。お前の小学校は7時に始まるんだろ?」
なぎさ「まったく、共に魔獣と戦う仲間だというのに、杏子はひどいのです。
それではマミ、行ってきます。夕ご飯の買い物は、どうしますか?」
マミ「今日は一緒に行きましょうか。5時頃迎えに行くから、それまで図書館で待っていてもらえる?」
なぎさ「了解なのですよ、それでは杏子、さやか。また今夜」
それだけ言うと、なぎさは小さな身体で跳ねるように走って行った。
杏子「良かったな、なぎさがあんなに元気になって」
さやか「最初のうちからは考えられませんよ」
マミ「そうね、私でも、少しは力になれたのかしら……」
百江なぎさは、巴マミの遠い親戚である。
父親の名前も分からない彼女は、母子家庭で育った。あまり豊かな暮らしではなかったものの、とても仲の良い母娘だったらしい。しかし、つい昨年のこと、その母親が突然家を出てしまった。借金を放り出して、男と逃げたのだという。
ただでさえ親戚のなかで嫌われていたその母親の娘を、引き取ろうとする者はいなかった。
そこで、事情こそ違え、同じく親のいない巴マミが名乗り出たのである。
一緒に暮らし始めた頃は、最も信頼していた母親に裏切られたショックでほとんど口もきかなかったなぎさだが、今では随分、地の明るい性格が表に出るようになっている。
さやか「少しはなんて、何言ってるんですか、マミさんが新しい家族になったからですよ」
マミ「家族か……、そうだとすると、救われたのはむしろ、私の方かもしれないわね……」
杏子「そうだな、ところでマミさん」
マミ「何かしら?」
杏子「本当に、なぎさには、何も教えてないんだな?」
マミ「ええ、もちろん」
涼しい顔でマミは答えた。
・
保守
学校に到着し、学年の違うマミと別れると、さやかと杏子は教室に向かった。
さやか「おはよー」
杏子「よう」
教室に入ると、クラスメイトがバラバラと挨拶を返す。すると奥にいた少女が2人に気づき、笑顔で近づいてきた。
まどか「おはよう、さやかちゃんに杏子ちゃん。今日も元気そうだね」
さやか「うん、おかげさまでバッチリだよ」
杏子「あたしもね。それにしても、まどかはいつも早いよな。あたしたちより遅くに来てるの、見たことないぜ」
まどか「うん、私、朝の誰もいない学校が好きだから。ちょっと早く来てるんだ」
さやか「そうなんだ、初めて聞いたよ。でもそれ、怖くないの?」
まどか「いいや、だんだん明るくなってく教室の中で、窓の外見てるとね、少しずつ生徒が登校してくるでしょ。うまく言えないんだけど、それだけですごく幸せな気分になって、また今日も頑張ろうって思えるんだ」
杏子「ふうん……」
鹿目まどかは帰国子女である。転入して2ヵ月ほど になる。明るく優しい性格のため、すぐにクラスに馴染んだが、どこかクラスメイト達と距離を置いているようなところがある。しかし、どういう訳かさやかと杏子の2人とは気が合い、学校では一緒にいることが多い。
「あら、鹿目さん、佐倉さん、美樹さん、ごきげんよう」
突然後ろから声をかけられ、振り向いた3人のうち、杏子は軽く手をあげて挨拶し、まどかは一瞬顔を曇らせてから笑顔をつくり、さやかは露骨に顔をしかめた。
ほむら「ええ、全くごきげんなようね。良いことだわ、朝から元気なことは」
それだけ言うと、暁美ほむらは3人の前を通りすぎ、自分の席につくと肘をついた。
まどか「か、変わった挨拶だね……」
さやか「嫌なヤツだね、あいつ」
少し悪くなった雰囲気を取り繕おうとするまどかに構わず、さやかは相変わらず不機嫌そうにしている。
杏子「そう言えばさやかは、暁美のこと嫌いだったっけ? 別に悪いヤツじゃないと思うぜ。確かにちょっと変わってるけどさ、目の下の隈のせいで、暗く見えるだけで」
まどか「うん、あんまり知らない人のこと、悪く言うのはあんまり良くないかな……」
さやか「いや、あたしだって特に理由があって嫌いな訳じゃないんだけどね、何だかさ、あいつ見てると、変な勘が働くんだ」
杏子「どんな?」
さやか「悪魔」
さやかは、下を向いてぼそりとつぶやいた。
さやか「あいつが、悪魔に思えて仕方がないんだよ」
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