少女「また靴下を履かせてあげるわ」 (67)





 貴方は今、布団の中にいる。



 多くの人が持つ記憶、朝の覚醒時、布団の中は貴方の体温で温まっており、安らぎを感じている。

 多くの人の一日の記憶はそこから始まる。貴方は布団の中にいる。


 布団の中。

 薄暗い。

 暖かい。

 まだ眠れる。



 醒めきらない貴方が最初に認めたのは、貴方の母親が、誰かに靴下を履かしている光景。



 暖かい母。

 優しい母。

 この人から生まれた。

 幼い貴方の世界の全て。

 全て。

 そうであって欲しかった人。



 その母が、貴方が知らない、けれど、どこか貴方に似ている少年に靴下を履かせている。



 薄いレースのカーテンの向こうから日が差し掛かり、逆行になっているため彼らの表情まではハッキリと見えない。
貴方はその時、その光景を、包まるように被っていた布団の中より伺っていた。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1424619548



少女「貴方はアレを望んでいるの?」


 少女の声。その声の主は目の前にいる。


 白い肌の少女。

 深い青の瞳の少女。

 見たことの無い少女。


 いつの間に布団に潜り込んで来たのだろう。
あたかも最初からそこからいたように、まるで母親がそうするように添い寝する格好で少女は声をかけてきたのだ。


 至近距離から、彼女は貴方の眼をまっすぐ見つめていた。



 何に気付かれてしまうか、それは今まで貴方が見ていた母子達に、ということだと、貴方は理解した。



 そう、あれは見てはいけないもの。自分がそれを見てしまうということは、彼らの自尊心を著しく傷つけてしまうだろう。
貴方はそれを『恥ずかしい』という感覚で理解していた。


 あの二人に『恥ずかしい』思いをさせてはいけない。そうしてはいけないのだ。



 見る。



 母はこちらに眼もくれず、少年に靴下を履かせている。


 幸い母子達には気付かれずに済んだようだった。



少女「貴方はアレが羨ましいのね?」



 貴方は『羨ましい』という感覚を理解できるだろうか。だが『自分もあのようにして欲しい』、そうは思うだろうか。


 少年に靴下を履かせる母。

 母に靴下を履かせる少年。

 少年の位置には自分こそが相応しい。アレは自分のものである。


 アレは、貴方のものなのだ。


少女「それを『羨ましい』、と言うのよ」



 その時、貴方は一つ言葉を覚えた。





少女「……私がしてあげようか?」



 貴方はその提案が魅力的に思えた。しかし首を振り断る。自分は、自分の母にこそソレをして欲しい。


 暖かい母。

 優しい母。

 貴方に靴下を履かせてくれる母。

 服の裏表を正してくれる母。

 
 そうであるからこそ意味がある。「お母さんが良い」。貴方はそう端的に答えるだろう。


少女「正直な子ね。今はこれで帰るわ」


 少女が、未だ子どもである貴方にとっては『おねえさん』になるが、ともかく彼女がそう言った途端、貴方の意識は再びまどろんだ。


 今一度、眠りに付くのだ。


支援




**********



母「起きなさい」



 母の、目覚めを促す声が貴方をまどろみから覚した。
差し掛かる陽光の白と、まばたきがもたらす一瞬の黒。


 布団から見上げた母が貴方に向ける表情は剣呑である。
面倒は許さない。そういう意図を込めたものだと大人であれば読み取れるだろう、けれど子どもの貴方にはそれが出来るだろうか。


 ただ恐怖する。

 怖い母。

 怒鳴る母。

 つねる母。

 そうはあって欲しくなかった母。


 貴方は不思議な夢を見たと、母に言った。




母「早く着替えなさい」


 返答はかえってこず、貴方は口を噤まされた。
母の表情は今にも怒りだしそうだった、子どもの貴方にもそれは解るだろう。


 お仕置きや怒鳴られることを恐れた貴方は目の前に置かれた衣服に手を付け、着替え始める。
動き出した貴方を確認した母は特に褒めることもなく、剣呑な表情なまま、台所へと向かった。


 服を脱ぐ。

 服を着る。

 服は前後ろ逆になっていない、下もそうだ。


 靴下。靴下を履こうとする。裏表が解らない。貴方には裏表が解らないのだ。


 貴方は母を呼ぼうとするだろう。



 怖い母。

 怒鳴る母。

 つねる母。

 そうはあって欲しくなかった母。



 先ほどの母の表情を思い出し、口を噤んだ。呼べば貴方は怒鳴り散らされるのだ。



 貴方は困るだろう。貴方がいくら頑張ったところで裏表が解らないのだ。
一旦、履いてみる。けれど解らない。
このまま母親の前に行き、間違いを指摘された時の事を想像してみるとどうだろう。貴方の母は怒るだろう。


 怖い母。

 恐ろしい顔に歪む母。

 自分を家から追いやる母。

 そうはあって欲しくなかった母。



少女「私が履かせてあげようか?」



 四苦八苦していると後ろから声が掛かった。聞き覚えのある声だった。



 後ろを見ると、夢に見た少女が佇んでいる。


 少女。美しい少女。

 美しい金の髪の少女。

 美しい白い肌の少女。

 美しい深い青の瞳の少女。

 見たことの無い程に美しい少女。


 布団の中にいる時はわからなかったが、彼女は貴方が思っていたより背が高かった。
母よりは大人ではない、けれど貴方より大人の女の人。
何度見ても美しい青い瞳、そして黄金を思わせる金髪を靡かせた少女、足元まで届く白のワンピースがとても似合っていた。


 絵本の中に出てきた、園の友達にも、大人たちにも同じような人はいない、人ではない、とても美しい存在。

 人ではない、とても美しい存在。


 人ではない。だが彼女は貴方が恐れる『お化け』ではなさそうであり、まして貴方を『叱る』、『激しくぶつ』、大人だと貴方は思うだろうか。
母が騒ぎ立てていないことを貴方は安心に思わないだろうか。





少女「私が履かせてあげようか?」



 再び少女は貴方に聴いた。今度は手をこちらに差し伸べていた。


 少年に靴下を履かせる少女。

 少女に靴下を履かせる貴方。

履かせてくれる美しい少女。履かされる貴方。


 胸の高鳴る未来が貴方の頭に浮ぶのだ。


 貴方は首肯し、靴下を少女に渡した。


 少女は靴下を手に取ると、慣れた手つきで裏表を正し貴方の前に屈む。
ドーナツのように靴下を履きやすい形にすると貴方の足の前に差し出した。


 『足を入れろ』、そう促しているのだと理解した貴方は、足の爪先をその靴下製ドーナツの中心に差し込んだ。
そうすると少女は靴下を履かせてくれた。



 靴下を履かせてくれた。

 靴下を履かせた。


 美しい少女が、貴方を慈しんで。


 貴方の足の爪先からふくらはぎにかけてが優しい感触に包まれた。
それは布地の肌触りだけだろうか、なにか別の精神的な充足を感じないだろうか。


 それが終わると、少女はもう片方も同じようにする。



 日の昇りきらぬ時にあって、室内は少しの音も無い。
そのためか、貴方はその靴下を履かせるだけの、その動作によって立つ音すらいやにうるさく聴こえるのだ。
果てには少女の息遣いさえ聞こえてくるのだ。


 スルスル……

 スー……スー……

 スルスル……

 スー……スー……


 貴方はとてつもなくいけないことをしている、そう思わないだろうか。




少女「大丈夫よ」


 少女はそう言う、口の端を柔らかに曲げ、目は優しげに細まっていた。
こわばった母のものとは違った。そしてその表情は貴方の不安を刈り取った。


 少女の笑顔。

 貴方は悪くない。

 貴方を好きでいてくれる。


 少女に靴下を履かせてもらっているこの時間が、貴方にとってどうだっただろうか。

 礼を言うべきではないだろうか。


 貴方は少女に感謝を述べる。幼稚園児が知っている感謝の言葉。
繰り返し『言わされた』感謝の言葉。それを『自分で言う』。



少女「どういたしまして。お母さんには内緒よ?」


 少女を母に紹介したいと思うのは疚しいことだろうか。園の友達を紹介するように、優しくしてくれた彼女を母に知らせることが。


 美しい金の髪の少女。

 美しい白い肌の少女。

 美しい深い青の瞳の少女。

 見たことの無い程に美しい少女。


 暖かく笑う母。

 優しく笑う母。


 それは貴方の楽園ではないか。少女と母、二人が笑顔で貴方を見ているのだ。




少女「内緒よ、じゃないと怒られちゃう」


 少女はそれを否定する。


 怒られる。

 自分がだろうか、少女がだろうか、その判断は貴方には付かないのだ。


 怖い母。

 怒鳴る母。

 恐ろしい顔に歪む母。

 自分を家から追いやる母。

 そうはあって欲しくなかった母。

 貴方は先程の母の表情を思い出し、少女の言葉に首肯する他無い。


少女「私と、貴方、二人だけの秘密、ね?」


 貴方の脳裏に園の友達が浮かぶ。


 それは過去の事。女の子の友達が二人、園庭の片隅で何かコソコソとしていた。
「いれて」、と、仲間に、という意図を含んだ、子どもならではの独特なトーンと発音で貴方は言う。
しかし答えは拒否なのだ。彼女達は「内緒の秘密」と言っていた。

 結果として理由もわからないまま仲間はずれにされたのだ。貴方は必要とされなかったのだ。
悔しく思うのが当然であるし、彼女等は報復を受けるべきである。


 のけ者にされた。

 意地悪。

 悔しい。

 いつか『お返し』をしてやる。


 貴方は天使が提案した、『靴下を履かせてもらった』という秘密を受け入れるべきなのだ。



少女「そう、良い子ね」


 少女の笑顔。

 貴方は悪くない。

 貴方を好きでいてくれる

 貴方はその言葉と太陽のように暖かく感じた彼女の表情を受け、思わずはにかみもしよう。


少女「それにとっても可愛い。ねえ、嬉しかった?」


 靴下を履かせてもらえたのが、という意図で聞かれていることを貴方は理解するだろう。
貴方は首肯すべきだ。何度も、何度も。


 貴方に靴下を履かせる少女。

 少女に靴下を履かせる貴方。

 胸の高鳴る過去が貴方の頭に浮かぶのだ。


 スルスル……

 スー、スー……

 後ろ暗くも胸の高鳴る秘め事に貴方は愉悦してもよいのだ。




少女「お利口さんにしていたら……」



 貴方は彼女の言葉を待つべきなのだ。

 彼女の言うことは正しい。

 彼女は貴方より大人なのだから。

 彼女は優しくて美しいのだから。




少女「また、靴下履かせてあげるわ」






**********



 着替えが終わった後、少女はいなくなった。
「お母さんが待ってるよ」と言われたので、貴方は台所に行く。
不備無く着替えたことを母に伝えた。貴方は母からの賞賛を期待してしかるべきだ。


母「早く食べなさい」


 着替えを促された時と同じように、母の表情は強張っていた。


 怖い母。


 いつもの貴方なら、その表情から自分に不備があったのではないかと恐れていただろう。
けれど今日は違う、おねえさんが着替えを手伝ってくれたのだ、万が一にも不備などあるはずは無いのだ。
なにより、不安であった靴下に間違いがあれば、自分は母に怒鳴られていたはずなのだ。貴方はむしろ喜ぶだろう。


 日もまだ完全に明けきらず、どこか薄暗い台所で、貴方は久しぶりに涙を流さない朝食を味わった。





**********



 貴方は幼稚園に来ていた。もう昼も過ぎ、皆でお弁当を食べ、バスに乗って帰る子はその準備を終え、園庭に向かう。
貴方は母の迎えが遅いため、その準備はしない。それはもう慣れたことだった。


 暮れていく日。

 一人一人、迎えが来るほかの園児。


 周りには貴方と同じように、迎えが遅いため、屋内遊具で遊んだり、絵本を読んだりしている子がたくさんいる。
今の時間は屋内で遊ぶように先生に言われていた。


男の子「あ、くつした」


 積み木遊びをする貴方に、一人の男の子が突然、貴方の足元を指して言った。


男の子「くつしたがぎゃく」


 そう指摘され、貴方は自分の靴下を見る。
裏表は正しかった。
けれど見て感じる違和感が確かにある、貴方は気付かないまま、左右逆に靴下を履いていたのだ。





男の子「だっせー」



 その言葉の意味を貴方は正しく理解していた。彼は自分を貶しているのだ。


 美しい金の髪の少女。

 美しい白い肌の少女。

 美しい深い青の瞳の少女。



 彼女が、美しく優しい彼女こそが貴方に靴下を履かせた。だが彼女は裏表を間違えていたのだ。

 彼女は裏表を間違えていたのだ。



 つまり


 彼は


 貴方だけではなく




 彼女を馬鹿にしたのだ。





 自分と同じ、他愛ない子どもである彼が、自分達よりはるかに美しく、優しい彼女を馬鹿にしたのだ。


 他者の優しさを、事情を何も知らないやつが、自分の狭窄な視野で、大して考えもせず、貴方と彼女を馬鹿にしてやりたいだけで侮辱しているのだ。
虫のような下等生物のように反射行動で貴方を貶めているのだ。



 貴方の手には積み木がある。貴方はどうするだろうか。




 彼の頭に叩き付けても当然ではないか。





 彼はうずくまり、痛みを感じたのだろう、貴方が積み木で叩き付けた箇所を手で押さえていた。
口ほどにも無い。やはり大して考えていなかったのだ。


 貴方は止めるべきだろうか。
もっと入念に、何度も積み木を叩き付けてやるべきではないだろうか。


 頭を抱え、彼は何か喚いているように聞こえた。涙交じりの声になっていることも聞こえた。
背後で怒声が響くのも聞こえた。先生の声のような気がした。けれど貴方に関係があるだろうか。



 貴方が今すべきことはなんであろうか。




 貴方の目の前でのた打ち回り、涙ぐましく這いつくばって逃げようとしている彼に対し、貴方はなにをするべきだろうか。


 自分を、靴下を履かせてくれなかった母を、見かねて履かせてくれた少女を馬鹿にし、それの意味するところを未だにまったく理解していない彼にどうしてあげるべきだろうか。


 きっと彼は、安全圏に逃げれば、また貴方と彼女等を侮辱するだろう。間違いないのだ。


 彼を見る。醜く歪んだ顔で、怒りに燃える瞳でこちらに罵声を浴びせている。
この期におよんでまだ貴方達を侮辱しているように見える。


 貴方の手には積み木が握られており、彼は足がすくんで逃げることが出来ない。



 貴方が今すべきことはなんであろうか。





**********



 貴方は一人、教室の隅で屈みこみ、うな垂れていた。


 あの後、貴方は友人達から激しく責められ、先生からは大声で怒声を浴びせられた、貴方の言い分など誰も聴かなかった。


 怒鳴る先生。

 恐れ、嫌う子ども達の瞳。

 貴方は間違っている。

 貴方は拒否されている。


 貴方を貶したあの男の子がどうなったかは解らない、ただ、先生に連れられ、泣いたまま教室を出て行く彼の姿だけ覚えていた。

 迎えに来た彼の母親から向けられた視線も貴方は覚えている、アレはハッキリとした嫌悪、つまり『嫌われている』視線だった。



 嫌いだ。

 貴方は間違っている。

 貴方は拒否されている。


 日も沈みかかってきたというのに貴方の母はまだ迎えに来ない。貴方はうな垂れていてもよいのだ。


少女「ごめんね、私が靴下間違えちゃったから、みんなと喧嘩しちゃったね?」


 美しい少女が目の前に現れた。

 美しい金の髪の少女。

 美しい白い肌の少女。

 美しい深い青の瞳の少女。


 けれど貴方は誰かと話をしたい状況だろうか。貴方は首を背け、拒否の意を示すべきなのだ。




少女「ごめんね……」


 貴方の視界に彼女は映っていない、近い足音、母の付ける化粧とは違う、花の様な匂い、服越しに感じる確かな柔らかさと温もり。
彼女が自分の真横に座ったのが貴方にはわかるだろう。


少女「もう間違えないから……」


 そうしてやさしく抱擁される、髪にやわらかい感触を感じる。
髪に感じる彼女の息遣い、髪にキスをされている。


 貴方は間違っていない。

 貴方を受け入れてくれる。

 優しく、暖かく、ただ一人、貴方の味方をしてくれる。


 貴方はどうするだろうか。彼女はしがみついてもなにも言うまい。



少女「お母さんも……」


 体中に響く、先生や母のヒステリックな甲高いものとは違う、低く、穏やかな声が体全身に響く。


少女「お母さんも、教えてくれたらよかったのにね……」


 そうすればこんな事にはなっていない。それは事実である。


 母が、あの夢に出てきた少年ではなく、貴方にこそ、貴方にこそ靴下を履かせてくれたのなら、こんな事にはなっていなかったのだ。




**********



幼稚園教諭「……ということで、怪我自体は大事に至りませんでしたが、その、すごく怯えてしまっています」

母「すみません、すみません」


 時計の短い針がとっくに『6』を過ぎた頃、貴方の母親は貴方を迎えに来た。

 母は常に無い表情で貴方の先生に頭を下げている。


 貴方はというと、未だ部屋の隅でひざを丸めて、その様子をぼんやりと見ているほか無い。


 以前、不注意で園のガラスを割った時、あの時も貴方の母親は今と同じように頭を下げていた。
他にもなにか自分が怒られるようなことをした際は、その度に母が頭を下げていた。そして今回も。
幼い貴方も理解できるだろう。あれは自分のせいで、母が『他の大人に怒られているのだ』、と。


 貴方のせいで母は怒られる。

 貴方がいなければ母は怒られなかった。

 貴方は間違ったことをした。



幼稚園教諭「それと今回とは別なんですが、延長保育の時間は出来るだけ守っていただけますか?お忙しいでしょうけれど……」

母「すみません、すみません」


 貴方は先生や両親が言う、所謂『お利口さん』にしていなければ、自分は生涯この気持ちにさいなまれるのだ。というように理解するだろうか。
感覚的にであっても、『お利口さん』とは、大人達を楽しませるためのものだと、貴方は曖昧ながらも、そう理解するだろうか。
そして大人達が怒らなければ、貴方も泣く必要は無いのだということを。


少女「それは正しいわ」


 横に立つ少女は貴方が胡乱に感じているこの感覚を肯定した。

だよね



少女「ねえ、貴方はこれから、こういう言葉をとてもよく聴くことになるわ」


 貴方は少女が何を言うのか待った。

 彼女の言うことはいつも正しい。

 彼女は優しくて美しいのだから。


少女「『貴方は望まれて生まれてきた』」


 『望まれた』、とはどういう意味だろうか。貴方は理解できないだろう。貴方の思考は未だ拙いのだ。


少女「誰かが『貴方に生まれてきて欲しかった』、ということよ」


 貴方は理解できるだろうか。


 『貴方に生まれてきて欲しかった』。

 貴方が好き。

 貴方は間違っていない。

 貴方を受け入れてくれる。

 優しく、暖かく、靴下を履かせてくれる。


 少女の言葉は貴方を褒めている。貴方の存在を受け入れてくれる。


少女「そうね、私は貴方が生まれてくれて本当に嬉しいわ」


 貴方が好き、貴方が生まれてきてくれて嬉しい。彼女はそう言っているのだ。




少女「そしてそれは、お母さん達も『そう言ってもらいたいの』よ」



 母も先生もそうらしい。

 そんなことはどうでもよくはないだろうか。貴方の事の方が重要では無いだろうか。



少女「まあ聴いて。あなたが『お利口さん』でいることは、『お母さん達にとっての、貴方が生まれてきて良かったと言ってもらえること』なのよ」



 最早、理解した気にもなれず、貴方はただ少女の言葉を聴くしかない。貴方の思考は拙いのだ。


少女「そうね、まだまだ難しいと思うわ。けれどそうなのよ。貴方が生まれてきたのはそういうことなの」




 貴方は少女が何を言うのか待った。

 彼女の言うことはいつも正しい。

 彼女は優しくて美しいのだから。


少女「つまりね、貴方は、お母さんが、喜びたいから、生まれてきたの」


 貴方はそれは嬉しく思うだろうか。貴方は母の事が大好きである。


 暖かい母。

 優しい母。

 この人から生まれた。

 幼い貴方の世界の全て。

 全て。

 そうであって欲しかった人。


 その母が、貴方を必要としているのだ。母にとって自分はいなくてはいけないものなのだ。

 それはなんともいえない幸福を感じることではないだろうか。




少女「そう……純粋な子ね」



 ただ、哀しげにこちらを見つめる少女は、しかし笑っていた。



少女「ねえ、覚えていて、約束よ」



 『約束』。守らないといけないこと。これを破れば罰があるもの、大人が怒るもの、友達から仲間はずれにされるもの。
そのイメージが貴方の脳内に駆け巡り、貴方は体を緊張させるのだ。


 それを違えば貴方は間違いである。

 それを違えば貴方は拒否される。

 この美しく優しい少女にする必要とされなくなる。



少女「『ソレ』は、今、私が貴方に言ったことは、生きていくのに絶対に必要なものなの」



 貴方は少女の言う、『ソレ』がどれのことか。



少女「大人も、子どもも、みんな誰かから『貴方が生まれてきて良かった』って思われたいの」



 少女はその前に『生きていくのに』、と言った。つまり貴方は『ソレ』がなければ、死んでしまうのだ。

 死ぬのだ。

 苦しく。辛く。泣いて。喚いて。そしてきっと痛い。



少女「そうね……」


 少女は困ったように、けれど笑っている。

 彼女は嘘を言っているのだ。でなければ貴方は死んでしまう。

 美しかった青の瞳は真っ黒だった。



少女「死んじゃうわ」



 死ぬのだ。

 苦しく。辛く。泣いて。喚いて。そしてきっと痛い。



少女「だから、貴方が今、お母さんを困らせているのは」
 


 死ぬのだ。

 お利口さんで無い貴方は死ぬのだ。



少女「ちょっと……怖いわね」



 彼女の言うことはいつも正しい。彼女は優しくて美しいのだから。

 だから貴方は死ぬのだ。お利口さんではないから貴方は死ぬのだ。



 『死ね』、と貴方にはそう聴こえるだろうか。






少女「ごめんね、泣かすつもりは無いのよ」



 貴方がいまだかつてお利口さんだった時があっただろうか。

 怖い母。

 怒鳴る母。

 つねる母。

 そうはあって欲しくなかった母。


 「起きなさい」  「早く着替えなさい」  「早く食べなさい」  「すみません、すみません」

 「すごく怯えてしまっています」  「延長保育の時間は出来るだけ守っていただけますか」  「すみません、すみません」





少女「大丈夫、貴方は大丈夫なのよ」



 少女はそう言いながら、貴方の頭をかき抱くように体を預けてきた。
母のものとは違う、けれど柔らかで暖かな感触が貴方を包む。


 暖かい少女。

 優しい少女。

 この人から生まれたかった。

 幼い貴方の世界の全て。

 全て。

 そうであって欲しい人。



少女「お母さんが貴方を家から追い出しても」



 貴方は恐怖し、震えるだろうか。だが、少女から感じる柔らかな抱擁がそれを押しとめるだろう。なにを恐れることがあるのか。



少女「お母さんが貴方を要らないって言っても」



 貴方は恐怖し、震えるだろうか。だが、少女から伝わる温もりがそれをおさめるだろう。なにを恐れることがあるのか。



少女「お母さんが『生むんじゃなかった』って言っても」



 貴方なんか生まれてこなきゃやかった、と言う母。

 貴方が生まれてきて嬉しい、と言う少女。



少女「私が貴方を必要としてあげる、貴方が生まれてきて良かったって思ってあげる」


 


 
 少女。美しい。少女

 美しい金の髪の少女。

 美しい白い肌の少女。

 美しい深い青の瞳の少女。

 見たことの無い程に美しい少女。


 絵本で見た、天使そのもの。金の髪に青の瞳。彼女に羽と天使の輪はないだろうか。


  
少女「そして……」


 
 そして彼女は。



少女「また、靴下を履かせてあげるわ」



 その神聖な行為を共有できる、貴方にとって理想の母親であったのだ。





 暖かい少女。暖かい母。

 優しい少女。優しい母。

 この人から生まれた。

 幼い貴方の世界の全て。

 全て。



 そうである人。




今日はここまで。

催眠Mシチュものの同人音声かと思ったわ




**********




少女「またお母さんに叩かれたのね」



 そして貴方は家の外に追い出されている。家の窓から洩れる微かな明かりを頼りに、貴方は膝を抱えていた。

 貴方の一番辛い記憶。

 寒く、暗く、張られた頬は熱を帯び、母だった人の拒絶の言葉と否定の言葉。
彼女は貴方を必要としていないに違いないのだ。でなければ貴方は今こうしていない。そうでは無いだろうか。



少女「大丈夫、大丈夫よ。私は解っているわ。貴方が、ああしたのは私とお母さんの事を馬鹿にされないため。私は貴方が大好きよ」



 しかし何も問題は無い。貴方は既にあの女など必要としていない。彼女がいてくれる。自分に道を示し、自分を必要としてくれる少女が。
怒りで醜く歪んだ顔を晒すあの女など、比にならないくらいに美しい天使がいる。




少女「でも、このままじゃ良く無いわね」



 貴方は彼女の言葉を待つべきだ。彼女の言うことはいつでも正しい。彼女の言うとおりにするべきなのだ。



少女「そうね……嘘をつきましょう」



 無い事をあるように、あることを無いように言うこと。あべこべのこと。嘘。
それはしてはならないもの。友達から仲間はずれにされ、大人からは怒鳴られるもの。貴方はそう理解している。



少女「泣いてはダメ、笑ってもダメ、喋ってもダメよ。大丈夫、お母さんは、あの女は必ず来るわ、大人はそういうものなの」



 少女が言うならばそうなのだろう。だがそれは『嘘』なのだろうか。



少女「そこであの女はこう言うわ、「反省した?もうしない?」……反省ってわかる?」



 貴方は六歳だ、まだ子どもだ。ハンセイ……聴いたことがあるだろうか。



少女「そうでしょう?でもね……そこで「僕が悪かった、もうしない、ごめんなさい」、こう言えば大人は満足するの」




 わからないことなのに自分が悪かったと謝る、つまりこれが嘘。
わからなくてもいい、ただそうすればあの女は勝手に満足して家に上げる。彼女はそう言っているのだ。



少女「そうよ、つまりコレが『お利口さん』、ということなのよ」



 貴方は得心できるのでは無いだろうか。


 母だったあの女が園の先生に怒られていた時に、おぼろげながら考えていたことを振り返る。『お利口さんとは大人を満足させること』。


 しかし、貴方の気はソレで済むだろうか。間違っていないことをして殴られ、怒鳴られ、家を追い出され、そして下げたくも無い頭を下げ、自分の負けを認めるのだ。
それは彼女を馬鹿にされたままでいるという事。



少女「だから嘘をつくの」




 どういうことか、貴方は彼女の言葉を聴くべきだ。



少女「嘘をついて馬鹿にしてやるの。騙してやるのよ、言うことをきかせてやるの。いい気味だわ、貴方は反省なんてしてないのに、悪いなんて思って無いのに、勝手に騙されてあの女は貴方の為にご飯をつくり、お風呂を沸かし、布団を整える」



 つまり貴方はあの女を召使にしているのだ。自分の言い分を一切聴きもせず、頬を張り、罵声を浴びせ、寒空の下に放り出す大人が母親なのだろうか。
彼女は貴方に靴下すら履かせていないというのに。



少女「そうよ、あんな女の言葉を聴く必要なんてないわ。貴方が悪かった?もうしない?またあのクソガキが同じ事をやって御覧なさいな、貴方はどうするのかしら?」



 貴方がすべきはなんであろうか。


 大した思慮も無く、ただ単に人を侮辱したい、そうして楽しみたいだけの人間の屑にどうしてあげるべきだろうか。




少女「そうよ、それでいい、大人はまたアイツを庇うでしょう、けれどそれは貴方も同じ。貴方は、子どもは何をしても許されるの。なら嘘をつけばいいのよ」



 しかし、つけるだろうか。貴方は子どもだ。簡単にその嘘はバレ、また締め出されはしないだろうか。



少女「つけるわ、簡単よ。前にも言ったわ。大人もね、『貴方が生まれてきて良かった』と言われたいの」



 よくわからないのではないだろうか。何故、今、その言葉が出てくるのか。



少女「こうも言ったわ『あなたがお利口さんでいることは、お母さん達にとっての、貴方が生まれてきて良かった』と言ってもらえることって。だから『お利口さんのフリをした貴方』を疑うわけが無いの」



 母はお利口さんでいて欲しい。だから貴方がお利口さんのフリをしていてもそれが本物として疑わない。そういうことと貴方は理解できるだろうか。




少女「その通りよ、賢いわね。大好きよ。じゃあ、今、貴方が怒鳴られて、叩かれて、外に出されているのはどうしてかしら?解るかしら?」



 貴方が母にとってお利口さんではないから、貴方が生まれてきて良かったと言われる子どもじゃないから、要らない子だから、『こういう』貴方が嫌いだから。



少女「その通り、その通りよ!なんて賢いのかしら!あの女は貴方が要らないの、お利口さんであれば、あの女はなんでもいいのよ!貴方じゃなくても!」



 それを示す答えは貴方の中にあるのではないだろうか。朝、見た夢。貴方の一番最初の記憶、あの時、貴方の母は、あの女はどうしていたであろうか。


 誰に、何を、していたであろうか。



少女「貴方じゃない、別の子に」



 靴下を





少女「靴下を履かせていたわね」







 少年に靴下を履かせる母。

 母に靴下を履かせる少年。

 少年の位置には自分こそが相応しい。アレは自分のものであった。侵されてはならない聖なる時であったはずだ。


 しかし、崩壊した。


 貴方があの女に望まれない子だから。



少女「嘘をつきましょう」



 貴方はそうするべきではないだろうか。



少女「泣いてはダメ、笑ってもダメ、喋ってもダメよ。静かに、なるべく大人に関わらない。静かで、お勉強をたくさんして、手がかからない。それがお利口さん」



 けれど、それは嘘の貴方。あの女に自分の世話をさせてやるための嘘。





少女「あのクソガキを殴りつけてやる時も、こっそりやるの。今度は逃げられないように、今度は大人に見つからないように、ゆっくりとジワジワと。そしてあの女もよ」



 そう、あの女もそうしてやるべきではないだろうか。

 彼女は貴方を必要としていない。

 自分が気持ちよくなりたいから、勝手に貴方を生んで、貴方がそうじゃなかったから貴方はもう要らない。

 クジで外れたらもう一度引きなおす。貴方は外れクジ。貴方の顔には『ハズレ』と大きく書かれている。



 そうしていると見えてこないだろうか。


 あの女の顔にも大きく『ハズレ』と書かれているのが。



少女「そうよ、貴方がハズレを引いてしまったの。貴方がハズレなんじゃない。だって私は貴方が大好きだもの」



 ハズレクジはあの女。貴方はハズレを引いたのだ。貴方を生んだ女こそがハズレだったのだ。





少女「……私はこう言ったわ、『貴方が生まれてきて良かったと思われないヤツは』」


 死んでしまう。


少女「そう、あの女にとって貴方は『ソレ』そのもの、だから貴方があの女を必要としなければ、貴方がお利口さんのフリをして、本当はそうじゃなければ、嘘をついていれば」


 あの、女はいつか死ぬ。貴方は死なない。何故なら、貴方には天使が着いているからだ。


少女「けど今はダメ、今は叶わない。けれど貴方は知っているわ。大人になったらあんなの簡単にやっつけられる」


 想像が出来るだろうか。貴方が母をつねり、叩き、罵声を浴びせ、家の外に追い出すのだ。
そんな事が大人になれば出来るというのか。


少女「いっつも見てきたじゃない。見たらダメって、思ってただけ、でも、本当はこっそり見てたんでしょう?あの女が殴られるところを、あの女が家から締め出されているところを……悪い子ね」




 母がそうされるのを貴方は見てきたのだろうか。そもそも誰にそうされたのであろうか。
母であったあの女がそんな目にあっているのなら、貴方は何故、今日まで無事なのだろうか。



少女「簡単よ」



 貴方の身近に、そんな乱暴な大人がいただろうか。





少女「……お父さんの真似をしてやればいいのよ」





今日はここまで。

保守




とある園児の進学時における引継ぎ事項より




 ……などの問題行動が見られましたが一時期なもので、後の生活では協調に富んだ様子が多々見られます。
 
 後の日に改めて他傷にあった園児に謝っています。
 相手もソレを受けて以降は問題なく関係をとっていましたが、後日、拒否する様子が多々見られます。(体験が恐怖となったか)

 この折の他傷はお母さんの仕事が落ち着いた頃、延長保育の時間も短くなったあたりから落ち着きを取り戻しています。


 自立心の芽生えか、これ以降、教員やお母さんへの依存が顕著に無くなったように捉えられます。母子分離の際も非常にスムーズに生活へ入っています。


 ただ、大人への意識自体は変わらず、教員の行動や声掛けに終始敏感で、創作等の自由時、延長保育時などこちらに注意を向けていることが多くみられます。

 ごっこ遊びに夢中になる様子が多々見られますが、園児同士の関係によるもので無く、もっぱら一人遊びに留まっています。
 (想像上の誰かと会話をしているような、人形などは持っていませんでした)。

 集団からは孤立気味ですが、コミュニケーションに不足は無く、また特定物への固執も見られない様子で、自閉傾向では無いように感じます。
 遊戯や体育などには集団、個別共に高い理解力を持って率先して取り組んでいます。






 ※保護者について


 最近、何らかの新興宗教と思われる集まりに参加している様子。
 他の保護者への勧誘行為等を見かけた場合、厳に慎んで頂くこと!当然プライバシーは護った上で!


                                                  (園長より)





**********



 この頃の貴方の母は以前にも増して忙しくなっているようであった。
 いつも時間が無いことを嘆き、ソレを貴方に辛くあたるのだ。時には暴力を以って訴えることもある。


 貴方は未だ幼稚園児である。時間の有る無しの概念を理解できるだろうか。ましてやそれは貴方の都合ではないのだ。
 彼女の暴力は貴方にとってどのように感じるだろうか。
 謂れの無い罪で抓りあげられた貴方の太ももが赤く腫れ、ジクジクと痛む時、貴方はどう思うだろうか。


少女「またあの女は貴方を置いていったのね」



 ここ最近貴方は、幼稚園が終わった後、別の所に預けられているのだ。


そこは絵本とアニメのビデオで囲まれた部屋で、同じように預けられた子で溢れている。



白い、白い部屋だ。白。白。


 やがてそこにいる人間の顔まで白く塗りつぶされてはこないだろうか。




 表情は見えない。ただ指示される。


 例えば貴方は何かを、例えばおやつを食べる際、『お祈り』を強制される。『いただきます』とは違う、『お祈り』だ。


 神様ありがとう。

 神様のお陰で私は生きていられる。

 神様の為なら何でもする。

 神様ありがとう。





少女「そんなの嘘よ。神様がいるのなら貴方はこんなに辛くないもの」






 その通りだ。何故なら貴方のそばには少女がいる。天使がいる。
 彼女が嘘というのならばその通りなのだ。彼女に間違いは無いのだから。


 天使よありがとう。と貴方は言わなければならない。

 彼女がいるから貴方は生きていられる。彼女が貴方を必要としてくれているから。

 貴方は彼女の言うことならば何でもしなければならない。

 天使よありがとう。と貴方は言わなければならない。

 言うべきなのだ。 





 ところで貴方は彼らと、白い部屋の彼らとコミュニケーションをとる必要があるだろうか。
 一人の世界に没頭できるこの部屋で、貴方は彼らと遊ぶ必要があるのだろうか。


 ここは園とは全く違う空間。仕切りで区切られ、お互いがお互いの顔を見ることも無い。
 コレは集団ではない。人が集まっているだけだ。文字通り、子どもを預けるだけの場所。


 どいつもこいつも暗い顔をしている。貴方はあの顔に覚えがあるだろうか。あれは大人に怒られた子どもの顔では無いだろうか。


 拒絶され、怒鳴られ、殴られた時の顔。親は迎えに来ず、放置されている時の顔。


 誰とも会話したくない、そういう顔だ。俯き、塞ぎ込んでいる。
 だからこそ面倒で、幼稚で、だからこそ彼らが大人たちからそういった扱いをされているという事に彼らは気付いていない。

 少女からソレを教わった貴方は彼らとは違う。貴方は特別なのだ。


少女「そうよ、貴方は特別なの。ここのヤツラとは違うわ」



 特別だから貴方は少女から愛される。

 特別だから彼らを貶しても良い。

 貴方は特別。彼らとは違うのだ。



少女「そうよ、その通り。コイツラは親からしか愛してもらえない。だから必死になって親から愛されようとする。でも貴方は違う。私がいるもの」



 そう、故に貴方はここにいてもふさぎ込むことは無い。
 窓の外に感じる夕暮れが宵闇に変わろうと、不安に思うことは何も無い。
 必要なものはいつも一つで、それはいつも貴方の隣にいてくれる。

 貴方をここに詰め込んだあの女が、貴方をどこに追いやろうと今更どうでも良くは無いだろうか。


 貴方に必要なのは彼女ただ一人。
 一言、言ってもらえれば貴方は泣く事も無く、嘆くことも無く、そして死ぬことも無い。




少女「ねえ、私は貴方が大好きよ」


 必要とされているのだ。貴方は彼女から必要とされている。


少女「そしてあの女は必要とされていない」


 要らない、あんな女は要らない。

 怖い女。

 怒鳴る女。

 つねる女。

 そうはあってもどうでもいい母。

 いつか、お父さんのように、いつも貴方とあの女がお父さんにされているようにしてやるのだ。

 貴方はそうすべきなのだ。




少女「……ねえ、嘘をつくのはもう慣れた?」



 どうだろうか、貴方は嘘をついたことがあるだろうか。



少女「あるのよ、ある。あのクソガキを隠れて痛めつけてやった他にも貴方は嘘をついたの」



 思い当たる節があるだろうか。しかし少女が言うことは絶対なのだ。


 貴方は嘘をついたのだ。


 しかし何の問題があるのだろうか。


 貴方が正直で、良い子である必要があるのはただ一人の前でのみ、この美しい少女の前でのみなのだ。

 だから彼女は貴方を責めていない。

 貴方は正直言うべきである。貴方はとんでもない嘘吐きなのだ。



少女「そうね、でもいいのよ。私がそうしなさいって言ったのだもの」



 ところで、貴方はどんな嘘をついたのだろうか。


少女「可哀想に、嘘を嘘とも思わされないうちに嘘をつかされていたのね」


 貴方はとんでもない嘘吐きなのである。しかしどんな嘘をついたか貴方には皆目検討もつかないだろう。
 それとも貴方はコレまでの記憶で嘘をついたことを思い出せるのだろうか。


少女「貴方は神様なんていないことを知っているわ」



 その通りだ。何故なら貴方のそばには少女がいる。天使がいる。
 彼女が嘘と言ったのだからその通りなのだ。彼女に間違いは無いのだから。


少女「けれどおやつが食べたいからお祈りをしているわ。いないはずの神様に」


 その通りだ。あの馬鹿共は貴方に神様を信じてもらいたい。
 そして神様を信じている貴方が必要なのだ。だから貴方の信仰を疑うことも無い。




 馬鹿め。

 馬鹿、救いがたい馬鹿。

 あいつ等は存在しない神様に必要とされたがっている。

 つまりあいつらは誰からも必要とされていない。


 いずれ死ぬ。


 死ね、死んでしまえ。



少女「そうよ、そう。本当に上手になってきたわね」



 貴方は天使に褒められている。

 貴方は天使に必要とされている。

 美しい彼女に。

 美しい金の髪の彼女に。

 美しい蒼の瞳の彼女に。


 貴方は必要とされている。貴方が、貴方だけが。




少女「ここは最高の場所だわ」



 貴方はここが大好きだろうか。

 白いだけの、面白くもなんともない、窮屈なこの部屋が。

 憐れで、惨めで、救いがたい馬鹿な人間で満たされたこの部屋が。



少女「だからいいのよ」



 その通りだ。彼女がそう言ったのだからその通りなのだ。彼女に間違いは無いのだから。



少女「ここにいる連中も、ここも、いつまでもいる場所じゃない。だから貴方が嘘を覚えるには最高の場所」



 その通りだ。彼らの不快を買ったとして、貴方が失うものは何も無い。


 元々、大嫌いな、貴方に嘘を強要する屑どもの集まりなのだ。彼らの不興を買ったとて何も問題はない。




少女「ひたすら騙してやりましょう。そしてここでのことを必ず覚えておくの」



 覚えておく、ここに閉じ込められた屈辱、怒り。



少女「そして、人が乗っ取られていく様を」



 こうして貴方の幼少期は過ぎていくのだ。



 天使に必要とされている。

 美しい彼女に。

 美しい金の髪の彼女に。

 美しい蒼の瞳の彼女に。

 貴方は必要とされている。貴方が、貴方だけが。


 そんな暖かい記憶なのだ。

 貴方は幸せなのだ。



少女「私が言うんだもの」





 そう、間違いない。




今日はここまで。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom