双葉杏「優しさの形」 (95)
杏はいつも怠けている。
前世はナマケモノだと言われれば、ああ通りで、と皆思うだろう。ポストが赤いのと同じように、杏は怠けているものだ。
理由などは知らないけど、そういうものだからそうなんだ。ぐらいに皆は杏の事を思っているだろう。
しかしこんな杏でも、ちゃんとしっかりしていた時期はあったのだ。
そう言うと、プロデューサーは笑うだろう。本当か?と少し意地悪気な笑みで杏に尋ねるだろう。
プロデューサーだけでなく、他の皆も疑うだろうな。誰も信じはしないだろう。杏だってあちらの立場なら信じない。
それだけ杏は怠けているのだ。
でも確かに杏だって頑張っていた時もあるのだ。
優しくされたかったから。
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「あつい」
小さな事務所内に、杏の間抜けな声が広がった。間抜けな声といったのは、別に杏の声にコンプレックスがあるわけではない。
扇風機の前で喋ったから、なんだか間抜けな声になっているだけだ。
「あつい」
もう一度唱えてみる。しかし涼しくはならない。けれど黙っていられず、訴えるようにもう一度。
「あーつーいー」
「うーるーさーいー」
ずっと黙っていたプロデューサーが声を上げた。椅子を回し、机と向き合っていた体を杏の方へ向ける。
プロデューサーと目が合う。
とりあえずニヘラと笑っとくと、プロデューサーも杏の真似してニヘラと笑い返してくれた。
その表情が可笑しくてそして少し嬉しくて、杏は普通に笑ってしまった。
なんだか睨めっこで負けてしまったような時の気持ちだ。
プロデューサーはそんな杏にニコニコした顔を向けて、静かにとジェスチャーした。
プロデューサーは基本いつもニコニコしている。応用の顔が出てくる事は滅多にない。
というか杏は見たことが無い。
ウンコを踏んだ時もニコニコしながら落ち込んでいた。怒ったり落ち込んだりしないわけではないけれど、表情はいつも笑顔なのである。
きっとプロデューサーは笑うのが趣味なのだろう。
「じゃあ涼しくして」
「そんな無茶な」
プロデューサーは苦笑いで肩をすくめる。
「大体事務所に冷房がないってのが有りえない」
プロデューサーに向かって、逆転裁判の、異議あり!!のポーズをイメージしながら指を突きつけてやった。
「仕方ないだろう故障して、新しいのを買う金も無いんだから」
事実を述べられると、どうしようもない。金がないなら仕方が無い。
この暑さを許せる訳ではないけれど、プロデューサーを責めるのはやめてやろう。
「あー、なんでこんな弱小事務所に所属したんだろ」
「…そんな事を言うなよ」
プロデューサーは、口元を引きつらせた。
でもやはり一応笑顔だ。
なんだかプロ意識を感じてしまう。
「プロデューサー、一緒に違う事務所に移籍しよー」
それを聞くと冗談だと確信したのか、余裕のある笑顔に戻る。
「事務所でよく堂々と言えるな。そして断る」
「なんでー?」
「ここが好きだから」
にっこりとした顔でそう答え、また仕事を始めた。
杏も本当はここが好きだ。
移籍したいなんてのは冗談だ。
確かにこの事務所は何にもない。資金もコネも、冷房もない。
だけどこの事務所が好きだった。
でもこの部分が好きなのだと指定出来るものがある訳ではない。自分でもどこが好きなのか、良くわからない。
もしかしたら妙に狭い事務所が良いのかもしれない。
もしかしたらやたらと古いマンガが沢山置いてあるからかも。
周りが高いビルだらけの中で、一つ小さな建物が逆に目立ってる事なのかもしれない。
そのどれでも無いかもしれないし、どれもがそうなのかもしれない。
とにかく杏はこの事務所が嫌いじゃなかった。
支援
プロデューサーの横顔を見た。
パソコンの画面に集中していて、見られていることに全く気付いていない。
この部屋には仕事用の机が二台、接客用のソファーが二脚とその間に一つ机がある。それでこの部屋の7割は埋まってしまう。他には小さな部屋が二つあるだけで、この事務所は本当に狭い。
杏がいま立ち上がれば、プロデューサーをすぐ抱きしめれるぐらい狭い。
別に抱きしめたいという訳ではない。
もしかしたら、プロデューサーとのこの距離が好きなのかもな。
「そういえばさー」
「なにー?」
プロデューサーは、パソコンとにらめっこしたままで返答する。
「なんでここはこんなに小さいんだろ」
前から疑問に思ってた事を尋ねてみる。
「金がないから」
プロデューサーは即答する。
「でもさ、ここの土地って高いでしょ」
「まあな、相当だろうな」
ここは都心の中でも便利な場所だ。
周りに有名なお店の本店もたくさんあるし、周りの物件はどれも恐ろしく高かった。
そんな土地のど真ん中にポツンと場違いなボロい建物がある。
それがこの事務所だ。
「何でこんな土地を持ってるのに、こんなに小さな建物なの?本当に金が無かったらなんでこんな土地が買えないでしょ。何処かに金を隠し持ってるの?」
実はアイドル事務所は表の顔で、何か非合法な商売があったり。
「あー、ここは社長が先祖から持ってる土地なんだよ。俺でも買える程度の価格だった頃からの」
「えっ、そうなんだ」
「なんかずっと昔から社長の一族がここで自分の仕事場を作ってるらしい。最初はラーメン屋で次は八百屋、そいでラーメン屋で今はアイドル事務所だ」
「ふーん、凄く妙な事をするね」
「だよな、俺も思う」
売らないのかな。
この土地を売ってもっと安い土地で大きな事務所を構えた方がいいんじゃないのかな。
「この場所が好きだとか言ってたから、売らないと思うよ」
驚いた、プロデューサーは杏の考えてる事に返答をしてきた。
「プロデューサーはエスパーなの?」
「ハハ、やっぱりそう考えてたのか。杏が考えそうな事ぐらい分かるようになって来たよ」
「え、本当」
それって、なんだか長年連れ添った夫婦みたい。そんな馬鹿な事を考える。それも悟られるてしまうのではと怖くなり、プロデューサーの横顔観察をやめた。
「ずっと、一緒にいるからな。こんな狭い事務所で」
「ふーん」
恥ずかしいのと嬉しいので、黙ってしまう。
杏が黙ると他に誰もいない事務所だから、プロデューサーのキーボードを打つ音だけが広がった。
カタカタという音に妙な緊張を感じてしまう。
杏は赤い顔を隠すように、プロデューサーに背を向けた。
そして勇気を出し、口を開く。
「ならさ」
「ん?」
「今…杏は何を考えているか、分かる?」
プロデューサーの横顔をもう一度覗き見る。プロデューサーはそれに気づき、手を止めこちらを見た。
目があってしまい、杏は動けなくなる。
数秒見つめあっていると、プロデューサーは杏の心を透かして見ているような気がしてきた。
そう思うと恥ずかしくて仕方がない、でも目を離したくても離せない。
プロデューサーの静かな瞳に吸い込まれてしまったようだ。
無限に続いてしまうように感じられた長い数秒後、プロデューサーは呟いた。
「…ファミチキ下さい?」
「…え、ああ、うん。そう、そうだよ凄いじゃん」
杏は内心拍子抜けしながら、拍手をしてプロデューサーを褒めた。
「まあな」
と、プロデューサーは調子に乗る。
「エスパーさんの称号を上げるよ」
「やった、資格が増えたぜ」
プロデューサーは大して嬉しくなさそうに喜んでみせた。
「あーつーいー」
「俺だって暑い」
「ねえー、帰ろう」
「駄目だ」
「えー、もう帰りたい」
「駄目だ」
「ううーだいたいこんなの、アイドルがやることじゃない」
「そんなだらしない表情の方がアイドルらしくないぞ」
「それが杏らしさでしょ」
「そうだった」
今年の夏は去年よりも暑い。
そんな事が毎年ニュースでやっていると、ああ本当に温暖化しているんだ、と少しは実感が湧く。
でもそれは何となくそうなっているんだなと感じるだけで、危機感はそんなにない。
きっと危機感を持つようになるのは、今年の夏をどうやれば生き延びられるかみたいなレクチャーをニュースで特集し出してからだろう。
人間は危機が迫って来ていても、それがまだ遠くの間はのほほんと出来るものだと思う。
だから人は毎年夏休みの宿題を最後までやらないのだ。
そうならない奴は人間ではないのだ、きっと人間のフリしたサイボーグとかなんかだろう。
あれ、なんでこんなに無駄な事をウダウダと考えているのだろうか。
「暑すぎて、杏の思考回路がおかしくなってる気がする」
「涼しくてもおかしくないか?」
「そんなことはないです~」
反論するのもめんどくさい。
空を見上げると太陽が杏を睨みつけていた。
太陽の鋭い眼光に臆して、視線を逸らす。
「来年も今年より暑くなるんだろうね」
「やめろよ、来年の分まで暑く感じてきたじゃないか」
「帰りたい」
「なら早く配り終えるんだ。さっきから杏は俺におんぶしてもらっているだけじゃないか」
いま杏は真夏のコンクリートジャングルのど真ん中で、プロデューサーと共に()ビラ配りをしている。
今度開かれる杏のライブに向けて、知名度のない杏は一生懸命ビラ配りをしているのだ。まあ杏は配ってないけど。
プロデューサーが配るビラを受け取ってくれた人に「来てね~」と、プロデューサーの背中から目も合わせずに手を振るだけだ。
しかし決して楽ではない。
この灼熱の太陽の中、外にいることが既に重労働なのだから。
今度開かれるライブは、うちの事務所的には結構大きなライブになる。
社長とプロデューサーは、杏に無駄に期待して下さっている。
きっかけがあれば、大手事務所にも負けないほど売れると信じているのだ。
今度のライブはそのきっかけにしようといているらしい。
「ううー辛い。暑いよぅ…」
「頑張れライブに人さえ来てくれれば、成功は間違いないから」
「なぜ言い切れる」
「だって杏は世界一のアイドルだからな」
プロデューサーは振り向いて、杏の顔を見ながら子供のように無邪気な笑顔でそう言った。
「…あっつい」
急に4度ぐらいは体温が上昇した気がする。原因はプロデューサーのせいである。
なんでこんなに恥ずかしい事を平然と言いやがるのだろうか。
いや、嬉しいけどもね。
「おい、凄く顔が赤いぞ。ごめん無理させたか。少し休憩しよう」
プロデューサーは勘違いをし慌てて杏の手を引き、近くのファミレスに向かった。
勘違いだと説明する訳にもいかないし、休憩は願ってもない事なので黙っていよう。
杏を気にかける時プロデューサーの笑顔は崩れていた、流石に本気で心配する時は笑顔じゃないんだなぁ。
杏が病気になったりしたら、またこの顔で心配してくれるのかな。
そうだといいな。
もしもそうなら、病気になるのも悪くないかもしれない。
ファミレスでジャンボパフェを食べ、その日はもう帰ることになった。
ジャンボパフェは予想以上にジャンボだった。
杏では一割程しか食べ切れないぐらジャンボだった。
残りの九割はプロデューサーが食べ切った。
色んな事務所がある設定すき
睡眠は大切だ。
人間が生きていく上でとても重要だし、純粋によく寝ると気持ちいい。
そんな睡眠を邪魔する事は許されるだろうか?いや、許されるはずがない。
「だから杏の睡眠妨害はやめてください」
そう言って電話を切った。
さっきまでやかましかった携帯は、急に大人しくなる。
夜泣きの赤ん坊がようやく寝付いた時の母親のような気分である。ようやく寝れるわ。
しかしすぐに電話がかかってきた、夜泣き再来の気分だ。
「なんでしょうか?杏の意思は伝えた筈ですが?」
「私の意見は聞かれてませんが?」
「ではどうぞ、手短に」
「早く起きて事務所に来なさい」
「断る」
「断らせない」
「…それも断る」
「それも断らせない」
プロデューサーの話を無視して電話をを切り、携帯の電源を落とす。
電源を切れる、これが夜泣きの赤ん坊と違った、携帯の優れているところだろう。
「おやすみなさい」
そう呟き、ゆっくりと眠りの世界に戻っていく。
ピンポーン
しかし、またも杏の睡眠を邪魔するものが現れる。
杏の家に訪れる人は宅配の人ぐらいしかいない。Amazonでゲームか本を買ってたっけ。まあ後日でいいやと思い、杏は居留守を決めた。
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピピンポーン
Amazonではなかった。
携帯の電源を入れる。
電源がつくまでの数秒間もチャイムは叫び続ける。
プロデューサーの携帯に電話をかけた。
「なにしてんの?」
「来ちゃった」
「なんで?いや、それは分かるけども、対応が早すぎるよ」
「なんか今日は駄々をこねる日だと思ったから、最初から来てたんだよ」
本当にエスパーさんですか。
しかし嫌がらせがストーカーの様な真似をされても、杏が感じるのは喜びであった。杏も変態ではないのだろうか。
杏の事をここまで理解して、杏の為に動いてくれている。
それが例え仕事だとしても、と思ってしまうのだ。
「鍵開けて出てこい」
「…はーい」
ドアを開けると、笑顔でプロデューサーは立っていた。
「ほら、今日もビラ配り頑張るぞ」
「えー、今日もー」
「まだ全然配れてないじゃないか。ほら早く行くぞ」
「んー」
「あーつーいー」
今日は秋葉原でビラ配りだ。
秋葉原は結構好きだ。
初めて来た時は、物凄くワクワクした。
テレビやネットで見かける秋葉原というのは、とても不思議で刺激的だった。
実際にあまり見たことのないようないかにもオタク臭い店が沢山あり、メイドさんがビラを配っていた。
その光景は不思議で刺激的だった。
でもそれから何度か訪れてみると、だんだん普通だなと思うようになった。
確かにマニアックなお店がたくさんあって、他の場所とは違う。
だけど、不思議や刺激を感じる事はなくなっていった。
しかしここにはまだ杏が見つけてないだけで、何処かにとても面白いものがあるような気がするのだ。
だから杏は時々ここを探索する事がある。だけれどその何か面白いものの痕跡を見つけれた事はない。
「今度背中にいる子のライブありまーす!是非きてくださーい!」
プロデューサーは、昨日の3割り増しぐらいに元気な声で叫ぶ。
こんな呼びかけは聞いた事が無い、インパクトはあるだろう。
好印象なのかどうかは別として、印象には残る。
不思議なアイドルだなぁ少し気になるぞ、となるのか。
なんだか変なやつらがいた、と話のネタにされるかは分からないけれど。
「暑いのに元気だねぇ」
「うるせえ」
プロデューサーは接客スマイルのままで文句を言った。
今日のプロデューサーは、昨日よりも気合を入れてビラ配りをしている。何でもこの街にいる人達がメインターゲットなのだと。
理由を聞いたら「杏はロリコンに人気が出そうだからな!オタクにはロリコンが多そうだからな!!」と元気に馬鹿っぽい事を言っていた。
でも確かにその通りかもしれない。
「てかさ、これ杏いなくてもいいんじゃないの?」
杏はほとんど何もしていない。
ならば涼しいところで飴を舐めながら、休憩してもいいんじゃないかな。
「そんな事ないよ」
「そう?」
「あの」
一人の男性がプロデューサーに声をかける。プロデューサーは慌ててビラを渡し、ライブの紹介をした。
「是非来て下さい!」
「あの、なんでその子は背中に?」
「めんどくさいそうです!」
「…はぁ」
その男性は不思議な目で杏を見ながら去って行った。
彼の反応は間違っていないだろう。
あの説明で納得したら、それこそ驚きだ。
「で、杏がいる意味は?」
「ああ、いるだけで意味があるの。ほら杏は可愛いから」
「どゆこと?」
「杏が凄く可愛いから、いるだけで多分来てくれる人はぐんと多くなるって」
こういう事を言われるとは嬉しいけども、反応に困る。
最初は適当に流していたのだけども、プロデューサーに少し好意を持ち始めてからはそれが上手く出来ない。
「…それならビラに写真を載せればいいでしょ。写真なら修正も出来るよ」
「本物の方がずっと魅力的だから」
プロデューサーは当たり前だろ、とでも言いたげな口調でそう言った。
昨日と同じ展開で休憩に入ることになった。
でも休憩した後、もう一度ビラ配りを開始した。
プロデューサーが心配していたけど、杏がやりたいと言ったのだ。
プロデューサーは余計に心配した。
きっと熱でおかしくなったに違いない、と真顔で嘆いた。俺のせいで杏が狂った、と。
プロデューサーの脛を蹴ってから、ビラ配りを開始した。
プロデューサーは痛みに涙しながらも、嬉しそうにビラを配った。
長年ニートの息子がハロワに行ってくれた母親のような顔で、プロデューサーは杏に微笑みを向けた。
杏はプロデューサー達の言うような、トップアイドルになってみたいと少し思ったのだ。
トップアイドルになったら、プロデューサーは杏になんて言って褒めてくれるのだろうか。それが聞いてみたくなったのだ。
しかし、頑張ろうと決めた瞬間に問題が起きた。
人生は時に作られた話のように、タイミング良く障害が現れることがある。
だが現実は作られた話と違って、何も得るものがなくただ打ちひしがれてしまう事が多い。
杏はこれまでそうだった。
いくら頑張ろうと何も得ることができずに、ただ傷ついてきた。
だから杏は戦うことをやめた。
けれど、今回は逃げるわけにはいかないかった。
逃げ込んだこの街で、杏は決して手放せない大事なものを手にしたのだ。
支援
面白い期待
その日、杏はいつものようにプロデューサーからの電話で起きた。
そしていつものように二度寝をしてから、いつもの時間の地下鉄で事務所へ向かった。
そしていつものように事務所に入ろうとした時、何か強い違和感を感じた。
掴んだドアノブ離し、一歩下がる。
首を傾げながら、小さな事務所を見上げた。
相変わらず小汚いな。
うん、いつも通りだ。でもなんだろう、何かが違う。
事務所に入るのに、妙な緊張感があるのだ。
しかしいつまでも悩んでいるわけにはいかないので、事務所に入ることにした。
「プロデューサー、なんか今日…」
プロデューサーにこの違和感について尋ねてみようとしたところ、すぐに答えが分かった。
それは杏の直感だったのだ。虫の知らせというやつだったのだ。
事務所の中には杏の母と父がいた。
杏の身体は動きを止めた。蛇に睨まれた蛙のように、ピクリともしない。
身体中の感覚が消える。
頭の中は真っ白で何も考えられなくなる。
「帰るわよ」
母は平坦な声でそう言った。
それを聞いて、首の後ろ辺りから身体中に冷たい血が流れていくような感覚がした。
頭が真っ白でで最初は音でしか認識できなかった母の言葉も、徐々に言葉として認識できるようになった。
帰る、と母は言ったのだ。
そう分かるようになると、今度は熱い血が流れていく感覚がした。
嫌な汗が流れる。
「な、なんで?」
「何が?」
「ど…どうして、ここが分かったの?」
母は顔色を変えないままで、几帳面に畳まれた紙を取り出した。
それはプロデューサーと配った、今度のライブのビラだった。
「全国中探し回ったわ。親戚、知り合い、部下、全員を使ってね」
母は人を、しかも親戚や知り合いまでもを使うと表現した。
そんな自分の母を、プロデューサーに見られたくなかった。
「まさかこんなところで」
母は目を細め、苦い顔で事務所を見渡す。そしてビラに目を落とし、溜息をついた。
「こんな事をしているなんて」
誰かに助けて欲しくて、プロデューサーの方を見た。
社長は何が可笑しいのか、必死に笑うのを堪えていた。プロデューサーは顔を伏せ、何を考えているのか分からない。
そんな二人を母は鼻で笑う。
そしてもう一度言った。
「帰るわよ」
杏はどうすれば良いか分からなかった。杏は絶対に帰りたくない。
でも母達に逆らえるわけがない。
杏に出来るのは逃げるだけだ。
母達と戦うことをなど出来るわけがない。
でもここから逃げたくはないのだ、杏はここにいたいのだ。
母達のとこから逃げ出したいという気持ちより、今はプロデューサーと離れたくないという思いの方が強くなっていた。
杏は呆然と立ち尽くした。
「失礼した」
ずっと黙っていた父がそう言い、立ち上がる。そして杏の手を強く掴んだ。
「帰るぞ」
「…やだ」
「馬鹿を言うな」
「…やだ」
父は杏の手を強引に引っ張ってドアへと歩く。
「痛いっ」
「じゃあ自分で歩け」
父は杏の手を投げるように離した。
そして私の顔をじっと見つめる。
どうにか帰らない手はないか必死に考えるけども、そんな手段は全く思いつかない。
両親を説得してアイドルを続けるなんて、絶対に無理だ。
もう杏は帰るしかないのだろうか。
また孤独で苦しい毎日に戻るのか。
そして、プロデューサーともう会えないのだろうか。
そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。
「あんずっ」
プロデューサーの呼ぶ声に振り向く。
プロデューサーはいつも通りの、優しい笑顔をしている。
「帰りたくないないか?」
と、プロデューサーは杏に言った。
杏はうん、と大声で答えようとした。だけど嗚咽で上手く喋れない。
代わりに思いっきり頷いた。
何度も何度も大きく頷く。
それを見たプロデューサーは、いつも以上の笑顔になる。
そして元気な声で言った。
「じゃあ帰るな!」
その言葉に、杏は思わず笑ってしまう。
帰りたくなくても、そう出来ないから泣いているのに。
でもその無責任なその言葉からは、不思議な力を感じた。
「ふざけるな!!」
父が激怒してプロデューサーに詰め寄る。
「家出した娘を商売道具にしやがって!警察を呼ぶぞ!!」
「すいません!!!!」
プロデューサーはもの凄い勢いで土下座をした。勢い余って床に頭を叩きつけていた。
皆、鈍い音と突然の行動に驚き固まった。
プロデューサーの頭からジワリと血が出る。白いタイルにプロデューサーの血が広がっていく。
大した量ではないけれど、頭からの出血はヤバいのではないだろうか。
「だ、大丈夫か?」
上ずった声で父が尋ねる。
そのままの姿勢でプロデューサーは叫んだ。
「次のライブが終わるまで、杏のアイドル活動を許可して下さい!」
その言葉を聞くと、父の目に怒りの色が戻ってきた。
「ふざけるな!いくら頼まれても許可するか!!」
息を荒くして父はそう言った。
プロデューサーは動かない。
皆がプロデューサーの動きに注目して動けない。次にどう動くのかが気になって仕方がない。
父の荒い息遣いと時計の針の音だけが聞こえる。
ゆっくりとプロデューサーは顔を上げた。
その顔は笑顔だ。
いつもよりも眼光の鋭い、強い笑顔だった。
「どうか…」
プロデューサーはすうっと息を深く吸った。
そしてさっきよりも勢いよく、頭を地面に叩きつけ土下座をした。
「お願いします!!!」
ドロリと血が流れる。
白いタイルの床が少しずつ真っ赤に染まっていく。
杏はさっき以上に震えて動けない。
プロデューサーを止めたいけれど、杏の体は思うように動かない。
「…狂ってる」
父は弱々しく口にした。
父はプロデューサーに恐怖を抱いていた、けれどプロデューサーを見る目が少し嬉しそうに見えた。
「ライブが終わるまででいいんです!お願いします!!」
プロデューサーは真っ赤な顔で、父に詰め寄り懇願した。
「…わ、分かった。…また来るぞ」
いくら父でもプロデューサーの相手するぐらいなら少しぐらい待った方がいいと判断した。
父が妥協したのを見たのは初めてだ。
父と母は逃げるように事務所を出て行った。
プロデューサーは笑顔のままで崩れ落ちた。
「プロデューサー!大丈夫っ!?」
「…無理っぽい、救急車呼んで」
苦しげな笑顔で答える。
「もう呼んでるよ。お前ナイスガッツだったぞ!」
社長は笑顔でグッドポーズをする。
プロデューサーも弱々しくだけどそれを返す。
「馬鹿なの?そこまでやる必要ないでしょ!?」
安心したからか、急に感情が沸き上がってきた。涙が溢れて仕方がない。
さっき悲しくて流した涙とは別の、もっと胸が締め付けられるような涙だった。
「そんな、事ないさ。…次のライブから杏のトップアイドルの道は始まるんだ」
「…っ!、杏を買いかぶりすぎだしっ、それにライブが終わったら帰るじゃん!」
「ああ、どうしよっか。その時はまた考えるよ…なんならまた土下座するか」
冗談で言っているのか、本気なのか。
どちらにしろ正気じゃない。
「馬鹿っ!…もう黙ってて」
「はい」
プロデューサーは肩をすくめながら目を瞑った。
「杏」
「…なに?」
「ライブ、成功させような」
「…うん」
ちなみに社長は杏の父が偉そうなくせに、杏に似て凄く小さいのが可笑しくて堪らなかったらしい。
このタイミングでそんな事を笑っていたなんて馬鹿じゃないかと思う。
数ヶ月ほど前の事だ。
杏のお小遣いを貯めたお金を握り締め、杏は家出をした。
電車を乗り継いで、当てもなく遠くまで行った。
適当なホテルに泊まり、次の日も電車で当てもなく遠くまで行く。
その次の日は、船に乗った。
そして新幹線、飛行機、様々な乗り物で北や南へと向かった。
普通の家の子だったら、こんなに豪華な家出は出来ないだろう。
そこについてはお金持ちで良かったなと思う。
杏は全国のあちこちに行った。
しかしどこへ行っても、心は満たされなかった。
ぽっかりと空いた穴は、日に日に大きくなった気がした。
結局どこへ行っても、杏の心を満たすものなどないなのだなと思った。
最後に東京に行く事にした。
たくさんの人や物がある東京なら、もしかしたら何か見つかるかもしれないと思ったのだ。
東京の駅を降りると、改札を通る沢山の人に驚いた。
皆が駅を迷う事なく歩いていて、なんだか自分とは違う生き物の群れに見えた。
杏が巡った中で一番人がいる場所なのに、一番孤独を感じた。
駅に着いて早々、東京にも杏の探す何かはないのだろうと思ってしまった。
だけど一応、東京の街を巡ってみた。適当な乗り物を乗り継ぎ、適当に巡った。
日が落ちる頃、杏は嫌に背の高い建物に囲まれ、呆然としていた。
「…はあ」
どうしよう。
結局何にも無かった。
でも帰りたくは無い。
だけど帰らずにどうやって暮らしてけるのだろうか。
そろそろ杏のお金も尽きてしまう。
「ねえってば」
優しそうな声に気付き、顔を上げた。目の前には笑顔の男性が立っていた、杏と目が合うとまた一段と笑顔になった。
「やっと気付いてくれた」
「…なに?」
「君、すっごく可愛いね!まるで妖精みたいだよ!!」
男性は外人のようなハイテンションで杏を褒めた。
もしやこれはナンパなのだろうか。
だとしたらロクな奴ではないだろう。杏の外見では高く見ても、中学生にしか見えない。
つまりこいつは道の真ん中でjcをナンパするロリコン野郎だ。
杏の警戒した目線に気付いたのか、男性は笑顔を少し崩した。
「あ、ああ…ごめん誤解させたかな?」
男性は慌てた様子で、名刺を差し出した。
そこにはアイドル事務所のプロデューサーと書かれている。
でも名刺なんて誰でも作れる、杏を騙す気かもしれない。
警戒を解かないままで、名刺を受け取る。
「ふーん」
「あれ、まだ疑ってる?」
「で、プロデューサーさんが何の用?」
「スカウトです!」
「お断りします」
「ええ!そこを何とか」
「嫌です」
「せめて理由を!」
「働きたくないからです」
「…でも、働かないと生きていけないですよ?」
「…ぐぬぬ、今は生きれるから、その時になってから考えるよ」
「どうせ働くなら、パアッと稼いで後をダラダラ生きる方がいいんじゃないですか?」
確かにこの人の言う通りだ。
ほんの少しのやり取りで杏の思考を読んでいる。こいつは人の良さそうな顔して、油断出来ない奴だ。
「儲かるの?」
「あなたのような美少女ならもう」
なんだがとても怪しい言葉だ。
「えー、でも杏はアイドルなんてキャラじゃないし」
「大丈夫!絶対に上手くいきます!僕が保証しますよ!!!」
「え…保証するって、ダメだったら養ってくれるとでも言うの?」
「はい!!」
その人は、子供のようにキラキラした目で肯定した。
自分の言っている意味が本当に分かっているのだろうか。
杏の冗談を本当に交渉の条件とでも思ったようで、鼻息荒く杏の反応を待っている。
「…ふふっ」
その人は、思わず笑う杏を不思議そうに見た。
そしてすぐに満面の笑みで言う。
「その笑顔もすっごく可愛いです!!間違いなく売れますよ!!!」
どうやらこの人が本気で杏をスカウトしているのは確かみたいだ。
笑顔の押し売りをしてくるこの人を、少し信用して見ることにした。
アイドルのプロデューサーとしての審美眼はともかく、悪い人ではなさそうだ。
「アイドルしてみようかな」
「本当ですか!!」
「でも杏、家出中だよ?」
「…え?」
その人は数秒硬直してから口を開いた。
「一度家に帰ってから、アイドル活動の許可を取る事は?」
「絶対に帰りたくないし、帰ったらもう来れない。それに絶対に認めてくれないよ?」
「…えー、うーん」
「駄目なら別にいいよ」
杏は別にアイドルをしたいわけでもない。印税は惜しいけども。
「ちょっ、待って」
その人は頭を抱えて、必死に悩んでいる。冷や汗を垂らすほど悩んでいるのに、あくまで笑顔のままだった。
スマイルが顔に張り付いているのではないだろうか。
「まあ、大丈夫かな。うん、バレなきゃ…多分」
「でも売れるっていうなら、いずれ目につくよね」
「その時はその時はだな、うん」
笑顔が見苦しい。
そこまで杏をアイドルにしたいのだろうか。
「ロリコンなの?」
思わず疑問を口に出してしまった。
「いやー、ロリコンではないよ多分」
「なんか妙に杏にこだわるから」
「それだけ君が逸材なんだよ」
「一目で分かるものなの?」
もしかして、大手プロダクションの敏腕プロデューサーだったりするのだろうか。
「いや、普通は分かんないんだけど。なんだろう、運命を感じたというか。君を見た瞬間に、これはアイドルにしなくちゃみたいな衝撃があったのね」
「随分恥ずかしい事を口にするんだね」
「そう?」
その人は不思議そうに答えた。
「思った事を言ってるだけだから」
それが恥ずかしい事だと、この人はきっと分からないのだろう。
純粋な好意は久しぶりにぶつけられた。ここまでの純粋な好意は初めてかもしれない。
愛情に飢えていた杏には嬉しかった。だけど、同時にとても怖かった。
「杏の事を褒めてくれるのはいいけど、杏の事何も知らないよね。運命とか何とかで無責任に褒めない方が良いんじゃない」
悪い気はしないけど。
何も知らないのに、勝手に期待されて勝手に失望されたら堪らない。
「じゃあ君の事を教えてくれ。その後で、もう一度褒めるよ」
「…ふふっ」
「ん?面白かったか」
「うん、面白い人だね…いいよ」
「ん?」
「アイドル、やってみる」
「本当、やったあ!よろしくな!」
その人は右手を差し出した。杏も右手を差し出し握手をする。
「よろしく、プロデューサー」
杏はこの、プロデューサーを信用してみようと思った。
これはいい杏
杏ちゃんかわいい
程よい甘さの杏
杏が可愛い
真理だな
まだ完結してないです
終わる時は終わりと書きます
すでにまとめてるサイトをみつけて、もう完結したように見えてるのかと不安になったので
多分、ほぼ自動でまとめるとこじゃないかな?
あまり気にしない方が精神衛生上良いかと
素晴らしいですね
杏のちっぱいprprしたい
「んー、眠い」
プロデューサーと初めて会った日の夢を見た。
プロデューサーの言う、杏の才能というやつは杏にはまだ分からない。
プロデューサーはいつも杏の為に色々頑張っている。
昨日なんかは、自分の体を張って杏を引き止めてくれた。
その行為は凄く嬉しい。
けど同時に怖くなる。
プロデューサーが期待してくれてる程のものが、杏にあるのだろうか。
今度のライブで杏は上手くやれるのだろうか。
プロデューサーは杏に失望するんじゃないか。
プルルルルル
「…はいもしもし」
「おはよう!」
「おはよう」
「さあ!ライブまで日がないぞ!!早くレッスンに向かおう」
携帯からだけじゃなく家の外からも、元気なプロデューサーの声が聞こえる。
当社比8割増しの元気さだ。
きっと杏に気を遣わせないようにと思っているんだろう。
プロデューサーは良い人だけど割と単純なので、気を遣われるとそれに気付いてしまう。
「…はーい」
「おお、やけに素直だな」
「杏はいつだって素直だよ」
プロデューサーの車は古くて小さい。エアコンは壊れていて、あまり涼しくならない。
だけど、嫌いじゃなかった。
「臭いなー」
「悪かったな」
プロデューサーの周りにあるものはそれまで杏が持っていたものよりも、どれも小さくて暖かかいものばかりだった。
「まあ、嫌いじゃないよ」
「…汚臭フェチ?」
「違うよ」
「そっか」
「そうだ…ねぇ、飴ちょうだい」
「ああ、右ポケットにある」
「ん…あ、これ新商品のあずぎバー味だ」
「そうそう。凄く微妙そうだろ?」
「凄く微妙そう。食えないことはないだろうけど」
袋を開けて口に放り込む。
「どう?」
「凄く微妙」
外を見ると、景色がゆったりと流れていく。
普段はプロデューサーの車に乗っている間は、外の景色をぼんやりと眺めている。
でも今はぼんやりとしていると嫌な事を考えてしまう。
だからいつもよりも口数が多くなってしまう。
「いつも安全運転だよね」
「いや、そうでもないぞ」
そう言うわりに今も安全運転だなあ、そう考えているとプロデューサーがこっちを向いて。
「杏が乗ってる時だけだよ」
と笑った「ふうん…立派なプロデューサーだね」
「だろう」
プロデューサーは得意げに笑う。
杏は表情を悟られないように、プロデューサーから目を逸らす。
時間はあっという間に過ぎて、ライブ前日になった。
今朝はやけにソワソワして、二度寝ができなかった。これは異常自体である。
前日からこんなに緊張していたら、明日はヤバイんじゃないかと心配になってきた。
でもやれる事はやった、つもりだ。
最後のレッスンが終わり、プロデューサーに車で送ってもらっていた。
プロデューサーはニヤニヤしながら言った。
「どうした杏?今日はやけに大人しいな」
「杏がアクティブな日なんてある?」
「まあそうだけど。今日は怠けて大人しいというより、緊張して大人しいように見えるぞ」
プロデューサーはまるでアニメの中の名探偵が推理を披露するように、演技がかった口調で話した。
杏はプロデューサーを睨む。
気づいてるじゃないか、ならば聞くなよと思う。
「プロデューサーの気のせいじゃない」
「そうか」
「そうだ」
「…寄りたいとこあるんだけど、いいかな?」
「…今日は早く寝たいから、先に送って欲しい」
今日じゃなかったら喜んで行くけども、明日は万全の状態にしたいのだ。
杏の真面目な返答を聞いて、プロデューサーは嬉しそうに笑った。
馬鹿にされた気がして、少し腹が立つ。
「何か可笑しいですか?」
「…いや、別に」
少し間をおいて、プロデューサーはさっきよりも落ち着いたトーンで話し始める。
「杏と一緒に行きたいとこなんだけど、駄目かな?」
なんだか意味深にプロデューサーは言う。
そういう言い方をされると困る。
だって期待してしまうじゃないか。
もしかしてプロデューサーも、って。
「…駄目、じゃない」
「ありがとう」
車は向かう先を変えた。
プロデューサーが連れて行った先は、高いビル達に囲まれた小さな公園だった。公園といっても小さな遊具がポツンとあるだけの、本当に小さな公園だ。
「何でここに来たかったの?」
というより連れて来たかったか。
「ああ、ここさ…俺の好きな場所なんだ」
「何もないのに?」
「滑り台があるぞ」
と小さな滑り台を指差す。
「そうだね」
「ジャングルジムだってある」
プロデューサーの指差す先は、とても小さなジャングルジムがある。
多分今まで見てきた中で、最も小さなジャングルジムだ。
「そうだね、遊べば?」
「言われずとも」
冗談で言ってみたのに、プロデューサーは本当に遊び出した。
とても面白い絵面だ。
もしも杏がたまたま通りかかった人だったら、通報するぐらいに面白い。
「…プロデューサー?」
「ふうっ!」
気持ち良さそうな顔している。
ジャングルジムの上で。
爽やかな顔をしていても、とてもカッコ悪い。
不審気に見る杏にプロデューサーは言った。
「杏の両親と仲悪いの?」
「…え、なに?どうしたのいきなり」
「前に言ったろ、杏の事を教えてくれって。もう今日聞かないとな」
明日には杏は帰ってしまうから、か。
また土下座して止めてくれるんじゃなかったの、と言いそうになったけど我慢した。
にしてもなぜこの公園に来たのかは本当に謎だな。
「仲悪いよ」
「何で?」
「…杏にお兄ちゃんがいたの」
プロデューサーは笑顔じゃない、真剣な顔をしている。初めて見る顔だ。
なかなか悪くはない。帰る前に見れて良かった、そう思いながら杏は話し出す。
杏にはお兄ちゃんがいた。
とても優秀な人だった。
いつも色んな所から賞状やトロフィーをもらっていた。
お兄ちゃんの部屋には毎日、様々な先生がやってきた。勉強、音楽、絵画、運動全ての事に努力していた。
毎日忙しくて大変だったはずなのに、いつだって杏に優しかった。
杏の自慢の兄だった。
両親にとっても自慢の兄だった。
そんなお兄ちゃんがある日死んでしまった。
事故だ。
重症だったけど、助かる可能性はあった。本人の生命力とあとは運しだいだった。
きっと助かると思った。
あのお兄ちゃんだ、ヒーローのようなお兄ちゃんだ。
死んでしまうはずかないと思った。
だけど、死んでしまった。
それから杏は一週間ぐらい引きこもった。父や母も毎日嘆いていた。
でもある日父が杏の部屋に来て、怖い顔で言うのだ。
兄は死んだ
悲しいが受け入れないといけない
代わりが必要だ
今度はお前が頑張る番だ
その言葉の意味は全く分からなかった。
その日のうちから、杏はたくさんの勉強と習い事をさせられた。
兄は好きで色々なものをやっていたものだと思っていたが、どうやら違ったようだった。
父が言うには杏の家系は皆、優秀な人だったらしい。
優秀な職業についてきちんと結果を出さないと、とても不名誉で先祖に顔見せ出来ないと言う。
今までは兄が二人分頑張るから、杏には好きにさせてくれと言っていたらしい。
そして兄は二人分の優秀な結果を出していたから、杏はのんびりと自由な育てられた。
でも兄は死んだ。
だから今度は杏が頑張る番だという。
その話を聞いた時に、また泣いてしまいそうだった。
お兄ちゃんは杏の分まで頑張ってくれていたのに、何も知らなかった。
お兄ちゃんは苦しくなかったのだろうか、幸せだったのだろうか。
色々な思いがあったけど、とにかく今は頑張ろうと思った。
それがお兄ちゃんへのせめてもの恩返しのような気がしたから。
杏は必死に頑張った。
だけども罵声を浴びせられる毎日だった。親を憎く思う気持ちはなかった、ただ不出来な自分が惨めだった。
お兄ちゃんが死んでから親は冷たくなったけども、杏が頑張ればきっと前みたいに愛してくれると思った。
死んだお兄ちゃんだって、杏のことを褒めてくれるだろう。
そんな思いをバネにして努力を続けると、少しずつ結果が出るようになった。罵声も少しずつ減った。
このまま頑張れば、杏が褒められる時が来ると思った。
また前みたいに、両親と仲良く喋れる時が来るのだと。
杏がお兄ちゃんの年を少し越えた頃、杏の賞状やトロフィーはお兄ちゃんのものに大分追いついた。
父は言った。
「あいつが生きていれば、きっともっと上に行ってたよ」
「そう、だね。でも…杏も頑張ってる、と思わない?」
「…お前にしてはな」
父の目は冷たかった。
その時気づいた。
ああ、杏はそもそも愛されていなかったのだ。
昔はただお兄ちゃんが庇ってくれていたから、親は杏を愛してくれていたのだ。仕方なく愛していたのだ。
でもお兄ちゃんがいない今、そうする必要はないのだ。
お兄ちゃんの下位互換である杏は愛されないのだ。
不出来な杏はこの家ではいらないのだ。
それに気付くと、杏は空っぽな気持ちになった。
杏が必死に取り戻そうとした日常は、幻だったのだ。
とにかくこの場所から逃げたくなった。
「それで気づけば、なぜかアイドルだよ」
「…そっか」
プロデューサーそう呟くと、夜空を見上げた。
杏もつられて夜空を見た。
真っ暗はずの夜空は、街の明かりでほんのりと明るさがある。
その明るさのせいで星は見えない。
ここの空は、あまり好きじゃない。
地元の空はとても綺麗だったな。
「何も見えない、つまんない空だろ」
「うん、そう思うよ…エスパーさん」
「でもさ、俺はこの空も嫌いじゃないんだ」
「なんで」
「俺はこの街で育って、この空を見て育った。こんなつまらない空しか知らなかったから、田舎の澄んだ夜空を見た時に心から感動できたんだ」
確かに綺麗な空をずっと見て育ってきた杏は、その綺麗な夜空を見て綺麗だとは思っても感動という程のものはしなかった。
杏にとってはそれこそが夜空だっから。
「…なに?不幸を知ったから幸せに気づけるって言いたいの?」
どこかで聞いたことあるようなセリフだ、プロデューサーなら真顔で言いそうな。
それなら少しばかり腹が立つ。
ただ少し話を聞いただけで、知ったように綺麗事を言われたくない。
それが正しかろうと間違っていようと問題ではない。
プロデューサーは空を見たままだから表情が見えない。
「いや、そうじゃないよ。これは俺の話」
「…はい?」
「 こんな下らない街のつまんない人生だったから良かったなって」
プロデューサーの口から、冗談ではなくモノを蔑む言葉を聞いたのは初めてだ。
少し驚いているとプロデューサーはこちらを向いた。
満面の笑みだった。
「杏を見逃さなかった。こんなに素敵な娘は初めて見たからね。杏のプロデューサーになれた、それだけで俺は幸せだよ」
「…また、そういう事を平気で」
「思った事は口に出ちゃうんだよ」
「杏は…なんでそんなに杏の事を買いかぶってくれるのか分からないよ」
「杏が素敵だからだよ」
「どこが?」
杏は両手を広げて見せる。
プロデューサーは不思議そうに杏を見た。
杏は少しはにかみながら、拗ねたように言う。
「ちゃんと見て、ちゃんと褒めてよ。モヤモヤした言葉じゃ、不安になる」
「…ははっ、うんいいよ。まず可愛い」
「本当に?」
「いや、凄く可愛いな。初めて会った時は妖精かと思った、マジで」
「…それで?」
「そして、すっごく可愛い」
「え、他に無いの…?」
「いやさっきのは外見、今度のは中身」
「…中身こそ、ただのナマケモノだよ?」
「ダラダラしてるのも杏だと何故か凄く可愛いよ。それに杏は実は優しくて臆病者、そこがまた可愛いんだ」
「優しくはないよ」
臆病者なのは認める。
相手が怒らない範囲を見極めて、甘えたりワガママを言うようにしている。それに周りを見てないフリをして、ちゃんと確かめたりする。
そういうとこをプロデューサーは気づいてたという事は、本当に杏の事をしっかり見てくれていたのだろう。
凄く、恥ずかしくて嬉しい。
「あとね…」
「ま、まだあるの?」
「いくらでもあるさ!」
「じゃ、じゃあ…あと一個だけでいいよ」
それ以上聞いてたら、もう耐えられる自信が無い。
それに一度に全部褒めてもらうのは勿体無い気もするしね。
「そうだな」
プロデューサーは腕組みをして考え込んだ。
「そこまで真剣に考えなくても」
「…いやぁ」
少ししてから、プロデューサーは口を開いた。
「杏のとこかな」
「…え?」
全く持って意味不明である。
「俺はね、例え杏が可愛くなくても、優しくなくても、魅力的じゃなくてもそれでもきっと杏に惹かれたと思うんだよ」
「…それじゃ、まるでプロポーズみたいだよ」
「ん?そうだな、確かに。まあそれぐらい杏が素敵ということで」
簡単にはぐらかすプロデューサーに、踏み込んだ言葉を投げたかった。でも、杏は臆病だから。
「まあ、プロデューサーの言うことを信用してあげるよ」
傷つくのが怖くて、踏みとどまってしまう。
「杏」
「…なに?」
「明日は楽しもうな」
「自分じゃなくて、お客さんを楽しませるんじゃないの」
「それは二の次でいいよ」
それはプロデューサーの発言としてどうなのだろう。
「杏が楽しめればいいよ。そしたらお客さんだって楽しい。だって杏が楽しいんだからさ」
「意味わかんない」
「杏はきっとね、向いてるよアイドル。明日、分かるさ」
「…だといいけどね」
「…俺は別に杏が失敗したって構わないから。だから、上手くやろうと思わないで楽しんでやってくれ」
「…杏は成功させたいよ」
「俺にとっての成功かどうかの判断基準はそれなんだよ。まあ、不安になったら思い出して、気楽にやってよ」
なんだか期待されてないような言い方に思えて、少し悔しい。
いや、プロデューサーが杏に期待してくれいるのは知っているけど。
だけど、杏が感じていた期待とは少し違う形のようだ。
「でも一生懸命やるんだぞ」
そう言って杏の頭を軽く撫でた。
杏の頭を完全に包み込む大きな掌が気持ちよかった。
二次創作の杏は見た目に反して設定が重くなりがち
そこが可愛い
妄想力を色々高めてくれる存在ではある
面白いのが色んな人の色んな妄想が馴染みやすい所
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
目が覚めた。
あまり気分は良くない。
よく眠れなかったせいだろう。
今日の事を考えると上手く寝付けなかったのだ。
今日、杏のライブがある。
ずっと待ちわびた杏のライブだ。
そして今日、杏は帰ってしまう。
最高で最低な日だ。
喜ぶべきか、嘆くべきか。
取り敢えず笑ってみた。
いつものように、取り敢えず笑ってみた。
杏を迎えに行くと、もう既に着替えて外に出ていた。
こんな事は初めてだ。
きっと我が子が初めてパパと読んでくれた時は、こんな気持ちになるのだろう。
そう杏に伝えると、本当に嫌そうな顔で「気持ち悪い」と言われてしまった。
「そう言わないで。パパと呼んでもいいよ」
「馬鹿なの?」
そんな風にジトッした目で見られていると、新しい趣味に目覚めてしまいそうだ。
「駄目か?」
「嫌だよ」
「そんなに俺がパパは嫌か」
結構懐いてくれていると思ってたのに、実はそうでもなかったのかもしれない。
最後の日に嘆かわしい事が発覚してしまった。
平然を装ったけど、割と本気でへこむ。
「…パパは嫌」
拗ねるように杏はそう言った。
「ママが良いの?」
杏が言うなら、性転換もやぶさかではないのだが。
「…早く行こう」
まさか杏にせかせれる日が来るとは思わなかった。
いつもより真面目な杏を見て、なんだか嬉しくなりながらアクセルを踏む。
会場に着くと、杏はすぐにステージに行きたがった。
仕事に真剣な杏なんてあまりらしくはないけど、俺の思いに応えてくれているのかもと考えると凄く嬉しい。
ステージの上に立った杏は、仁王立ちで観客席を見渡す。
そして俺が飴を上げた時のように、ニンマリと笑っている。
しばらくして、何やらステージ上をちょこちょこと歩き出した。
「何してるんだ、歩く練習か?」
緊張をほぐそうと軽口を叩く。
「んー、どれだけ動かずに済ませれるか計算してた」
杏は緊張しても、やはり杏だな。
安心した、きっと上手く行く。
「ところで今日ぐらいはヌイグルミを置いてきたらどうだ」
そう言って、小さく動き回る杏に近付いて手を差し出した。
でも杏はニヘラと笑ってヌイグルミを抱きしめる。
「駄目だよ、ライブの時も一緒なんだから」
いつも持っているけども丁寧な扱いではないので、そこまで大事なものではないのかと思っていた。
でもそうじゃなかったのかもしれない。
それに杏の小ささに反した大きなぬいぐるみは、杏の可愛らしさが引き立つような気もするのでそれはそれで良いか。
「疲れた時はこいつにパワーをもらうんだから」
杏はぬいぐるみとにらめっこをするようにして、不敵に笑った。
それから杏は楽屋でずっとソワソワしていた。歩き回る訳ではないけど、ゲームをしては止めて段取りの確認をする。そしてまたすぐに止めて携帯をいじる。何にも集中出来ていなかった。
珍しく緊張している杏が可愛らしくて思わず頬がゆるんだ。
小動物をみて癒される感じだ。
「何が可笑しい?」
少し気が立っている杏がまた可愛い。
「別に」
「…じゃあ笑わないで」
「了解」
と言ってニヤニヤしている俺を見て、杏は溜息をついた。
「…今お客さんどれぐらい入ってるの?」
「知らない」
「え、なんで?」
「杏と一緒に確認したかったから。実はチケットがどれぐらい捌けているかもよく分かってないんだよ」
「え?」
「社長に任せてる」
「…んー?」
杏は苦笑いしながら首を傾げる。
こいつ大丈夫か、といった感じの不安そうな表情だ。
まさか杏に心配される日が来るとは。
今日は初めての事だらけだな。
「いや、ドキドキ感を俺も一緒に味わいたくて」
「…はは、なんだそれ」
「これで全然人がいなかったら笑えるな」
「はは、笑えないよ」
杏の顔が完全に引きつっている。
「と、そんなこと言ってるうちに時間だよ」
「…うわ、本当だ」
「行くぞ」
と言っても、杏はすぐに立ち上がらない。
「どうした?」
もしかしてどこか体調が悪いのか、と不安がよぎる。血の気が引いていくのを感じた。
杏の様子を凝視していると、杏は恥ずかし気に呟いた。
「…おんぶ」
「おんぶ?」
「ライブまで体力温存しなきゃだから」
と自分に言い聞かせるように言う。
何を馬鹿な事をと思いながら安心した。体調が悪いとかじゃなくて良かった。このライブは杏のためにも絶対に成功させたいから。
だから杏のライブの成功のためになるのなら、と俺は喜んで杏をおぶった。
「軽いぞ、おぶってる気がしない」
「どんどん重くなるけどね」
「子泣きじじいかよ」
「おぎゃー、おぎゃー」
杏は棒読みで泣き真似する。
「やるならもっとちゃんと泣きなさい」
「やだよ、泣くのって疲れるもん」
ふざけながら歩いていると、すぐに間にステージ際まで着いた。
そこから観客席を見て俺は言葉を失った。
俺の肩を掴んでいた杏の手の力も緩む。
「…おお」
「…凄い、いっぱいだね」
観客席はお客さんでいっぱいだった。期待はしていた、けれどもこれは期待以上だ。
この会場をここまでいっぱいに出来るとは思っていなかった。
「俺のおかげかなー」
嬉しそうな声が後ろからした。振り向くと、悪戯を成功させた子供のような顔で社長が立っていた。
「何かしたんですか?」
「ほれ」
社長は嬉しそうにスマホの画面を見せてきた。そこにはうちの事務所のホームページが写っていた。
「これのここを俺が色々したのよ」
と言いつつ、所属アイドル杏の紹介ページを開く。
そこには杏のレッスン中や休憩中などの写真や動画がたくさん載っていた。
どれも杏の良さが出ている写真や動画ばかりだ。
「そしてこれを2ちゃんやTwitterなどでステマ成功させたのです」
と得意気にいくつかのまとめ記事を開いた。
どれも、このアイドルロリすぎ可愛すぎみたいなタイトルの記事だった。
その記事には沢山の肯定的なコメントがついている。
「…全然気づかなかった。最近ネットなんて見てなかったから」
杏はそう呟く。
「社長!凄いです!」
「だろ!」
「でも盗撮です!犯罪です!」
「俺用に撮ったマル秘映像も上げるから!許して!」
「うおっほい!最高です!」
「いや消せよ。訴えるよ」
完全にハイになってた俺を杏が現実に引き戻した。
「…まあ、それは後で話し合うとして」
「いや、消してよ」
「ライブ頑張ろうな」
「…うん」
杏は急に真面目な表情になった俺に戸惑いながら頷いた。
「よし、行ってこい!」
杏の背中を軽く叩くように押す。
杏は「痛ー」と固い笑みを浮かべながら
、ぎこちない歩き方でステージへ向かう。
杏が出てくると、観客は杏へと注目しガヤガヤと一層賑わい出した。
俺は観客以上に杏に注目する。
大丈夫、落ち着いて、杏なら出来る、と呪文のように心の中で何度も唱える。
杏はライトがまぶしそうのか、目を細めて観客席を眺めていた。
ステージの真ん中に突っ立って、十数秒ぐらいはそうやっていた。
緊張で頭が真っ白になったのか、とこちらがどうしようと軽くパニックになる。
杏は我に返って体をビクンと震わせた。
自分が黙って観客席を眺めていた事に気づいて、気まずそうな顔をする。
その顔が大きなスクリーンに映し出されている。
会場に妙な空気が流れる。
杏は誤魔化すように、ぎこちなくにへらと笑った。
「今日は杏のライブに来てくれてありがとー。杏の夢の印税生活にご協力感謝しますっ」
会場の客は歓声を上げた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
杏の頭の中は真っ白だった。
だから、とりあえず喋ったのだ。
口から出た言葉を適当に。
喋ってると落ち着くかもしれないと思って。
別にウケを狙って何かを言った訳ではない。
「今日は杏のライブに来てくれてありがとー。杏の夢の印税生活にご協力感謝しますっ」
言葉にしてから、何を言っているんだと思った。
けれど観客からは歓声が上がった。
どうやら、今の言葉はウケたようだ。
「えっと、正直こんなに人がいると思わなかったから、杏少し緊張しているんだよ。もうね、帰りたいぐらい」
また杏の言葉に反応して会場が賑わった。
頭がふわふわして来た、さっきまでの緊張とは違う妙な感覚だ。
気分がとても高揚しているけど、感覚が研ぎ澄まされて行くような感じだ。ふわふわしているのに、頭がスッキリしている。
「なんでも社長が上手くステマしたおかげらしいんだけどね。凄いねステマって」
ちらりとステージ際を見ると社長とプロデューサーが苦笑している。
「じゃあ早く帰りたいので、早速曲を歌います」
何度も練習した曲が流れてくる。
皆を楽しませるように歌おうと思うと、どこかに消えた緊張感が蘇ってきた。
足が震える。
マイクを持つ手に汗がじっとりと滲む。
どうやって声を出すのかさえ忘れそうになった。
不安になり横をチラリと見ると、プロデューサーと目があった。
プロデューサーは笑顔で、た、の、し、め、と口パクをした。
前を向いて息を深く吸う。
そうだ、失敗してもいいや。
できれば成功させたいけども。
これは私の最初で最後のライブなんだ。プロデューサーと作り上げた、1度きりのライブだ。
出来ることをしよう、一生懸命楽しもう。
吸い込んだ息を吐き出して、歌を歌う。
何度も一生懸命練習した、やる気のない杏の歌を。
会場に杏の歌声が広がる。
観客席からも歌に合わせた動きと音が上がる。
その時まるで観客と杏が、一つの塊になったような感覚がした。
杏の全てを受け入れてくれるような感覚だ。この人達は杏のことを、ホームページで見た“キャラクター”の部分しか知らない。杏に至っては、お客さん一人一人の事は全然知らない。
だけど今、杏と観客とは深く繋がっている気がした。
その感覚が楽しくて堪らなかった。
ずっと、この時が続けばいいとさえ思った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
疲れ果てて眠っている杏を眺める。
ライブは成功だった。
大成功だ。
杏にしてもお客さんにしても、満足してもらえただろう。
俺にとっては、杏が心から楽しんでくれたのが何よりも嬉しい。
「んー」
締まりのない顔で笑っている。
頭を撫でると、より一層気持ち良さそうな顔をした。
ふわふわとした細い髪の毛が気持ちよかった。
こうしていると体の芯から、杏を愛おしいという気持ちが湧いてくる。
そして杏がもういなくなると考えると気が狂いそうになる。
どうせ手が届かないのなら、この手で傷付けてしまいたいという気持ちすら抱いてしまう。
杏の前髪を上げる。
おでこにそっとキスをした。
「ありがとう」
寝ている杏に感謝の言葉を口にする。
その時ドアがノックされた。
急なノックに、心臓が口から飛び出そうになる。
「ど、どうぞっ」
「失礼する」
そう言って入って来たのは、杏の父だった。
「えっと、あの、迎えですか?」
俺は精一杯笑顔を作って尋ねた。
杏の父は俺の表情を見て眉をしかめた。
「へったくそに笑うな」
「はは、すいません」
と謝りながらも下手くそに笑った。
杏の父は杏に視線を移した。
その顔はとても優しいものだった。
父親が愛する娘に向けるものだった。杏に聞いた話のイメージからは想像の出来ない顔だ。
「ライブ見たよ。初めてライブというものを見た」
「ありがとうございます」
「あんなに幸せそうな杏は本当に久しぶりに見た。いや、初めてかな」
「なら、アイドルを続けさせましょう」
杏の父は、俺の満面の笑みを無視して話続ける。
「私はな、杏の幸せを考えてたんだよ」
「はあ?」
「厳しく育てて立派にする事がきっと幸せに繋がると思ったんだ」
少なくとも私はそうやって育てられて幸せになれたんだ、と笑う。
突然の人の変わり様に、俺はすっかり戸惑ってしまう。
杏の父は、優しい笑みを作ったままで言った。
「杏のアイドル活動を認めて欲しいか?」
最初、何を言ったのか理解できなかった。数秒呆然とした後で俺は食いつくように答える。
「はい!!」
「ふふ…認めてやらない」
「あ、ありがとうございます!…って、はあ?」
初めて本気で殺意を抱いた。
おちょくりに来たのかこのジジイは。
「正式に認めてはやらないが、黙認してやらんこともない」
「も、黙認でもなんでも!杏がアイドルを続けれるなら!!」
なんて素敵なお父様だろうか。
こんなに小さいのにとってもダンディだわ。
「でも」
急に鋭い目つきをして、睨むように俺に言う。
「一年以内にトップアイドルにしろ。できなきゃ誘拐で訴える」
一年でトップアイドル。今回のライブで知名度は多少上がったけども、大したコネもないうちの弱小事務所のアイドルを一年でトップアイドルにする。
そんなの夢のような話を、叶えてみせろと言う。
冗談や皮肉ではなく、それを交換条件として杏の父は言う。
俺は心からの満面の笑みで答えた。
「ありがとうございます。杏を必ずトップアイドルにします」
俺の反応を見て、杏の父は張り詰めた空気を口から吹き出したように笑った。
「馬鹿なんだな」
と嬉しそうに笑う。
杏の父は、もう一度杏を見た。
「俺は杏を幸せから遠ざけてしまっていたのかな?」
悔しそうに俺に尋ねた。
杏の父の行為が杏を傷付けた事を知っている俺は、何も言えなかった。
杏の父の気持ちはどうあれ、杏は全国に逃げ回ってみるほどに追い詰められたのだ。
「この事は杏には言わないでくれ。きっと居場所がそこにしかないと思ってる方が頑張れるだろ。でも、いつか…杏がトップアイドルにでもなったら、そっと教えてやってくれると嬉しい」
「はい!きっと、杏をトップアイドルにします。そしてっ、ちゃんとお父さんが杏の事を思っていることを伝えます」
食いつくように答える俺に、杏の父は驚いていた。
「幸せにしてやってくれよ。杏が好きなんだろう」
さんざん杏の父のペースを乱した仕返しにか、杏の父は最後にそう言った。
そして俺の返答も待たずに出て行った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
目を覚ますと、プロデューサーの車の助手席にいた。
「…ん?」
「おはようございます」
「…ございます」
周りを見ると、杏の家まで送ってくれたようだ。
「お疲れ、最高のライブだったよ」
「ん、ありがとう」
「楽しかったろ?」
「うん…楽しかった」
「言ったろ、杏はアイドル向いてるって」
プロデューサーは本当に嬉しそうに言う。でも杏はそんなに上手に笑えない。
今にも泣き出してしまいそうだった。
「はは、でももう終わりだね」
言葉にすると、それはより重たく杏にのしかかった。
「…杏」
プロデューサーは急に真面目な顔をする。真っ直ぐな眼差しが恥ずかしくて、目を逸らしてしまう。
「こっちを向いて」
囁くような声に惹かれて、自然と目を合わせてしまう。
目が離せなくなり、心臓が高鳴る。
「実はな」
「…な、なに?」
「…杏」
「…ん?」
「アイドルを続けられるぞ!!」
と急にバカみたいな顔とテンションで言う。
本当に馬鹿なんじゃないかプロデューサーは。
なんだよあの雰囲気は、凄くむかつく。
「え?」
「だから、アイドルを続けられるんだって。親父さんから許可がでた!!」
「え?なんで?」
「…知らん!!とにかく喜べ!」
「…わ、わーい」
「もっと!!」
「わーい、わーい」
何がなんだか分からなかった。ただ、嬉しくて涙が止まらなかった。
泣いてるのが恥ずかしくて、適当に喜ぶふりをした。
「明日からもよろしくな」
プロデューサーはそう言って、右手を差し出す。
「印税生活を手に入れるまでね」
杏はそう返して、プロデューサーと握手をした。
二ヘラと笑うと、プロデューサーも二ヘラと笑った。
杏とプロデューサーの、二人でトップアイドルを目指す物語が始まった。
オワリ
ここからが本番だろ?
乙です。いい爽やか系ロリコンPだった
おつおつ、こういう杏も良いね
何処からどう見ても普通じゃないから
過去妄想は人の数だけありそうなキャラだよな
乙
おっつおっつばっちし!
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません