全身が鉄でできている人の話 (83)
彼は全身が鉄でできている以外は至って普通の人間だったので
当然普通の人間がそうするように笑っていたのだけれど、
なにせ顔も鉄でできているために
その度に彼の顔は耳障りな音を立てながら大きく軋んだ。
その引きつった笑顔はどう見ても怒っているようにしか見えなくて、
彼が笑うと周りの人はみんな小さく悲鳴を上げて逃げていった。
誰も彼を怒らせたくはなかったのだ。
彼に殴られると、多分痛いじゃ済まないだろうから。
だからいつ頃からか、彼は全く笑わないようになった。
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明らかに人間離れしたその外見が恐ろしかったのか、
彼に積極的に関わろうとする人なんて誰もいなかった。
両親ですら彼を腫物のように扱った。
彼らだってどう接していいのかよく分からなかったんだろう。
それでも彼を捨ててしまおうなどと思い至らなかっただけ
十分に良心的な人間だったといえる。
そんな両親の態度を見ながら暮らしていたものだから、
彼は非常に内気で遠慮がちな性格に育っていった。
見た目が酷く恐ろしいことに変わりはなかったけれど。
道を行くと、例えそこが人ごみであっても
彼の周囲にはぽっかりと隙間ができた。
多くの人々が彼には近寄らないようにしながら、
そして恐怖と好奇心がないまぜになった視線で彼のことを眺めた。
檻から解き放たれた猛獣にでもなったかのような気分になって、
彼は体をギシギシ鳴らしながら歩いていく。
俺を言葉の通じない化物とでも思っているんだろうか。
鉄でできた自分の右腕を見つめて、彼は考える。
ちょっとした俺の気まぐれで殴り殺されるとでも思っているんだろうか。
殴るだけで人を殺せるのなんて、別に普通の人間だって同じだろうに。
周りはずっとそんな調子で、だから彼は少し引きこもりがちになってしまったけれど、
家にいたら家にいたで、両親が心底困惑した様子で彼の顔色を窺ってくる。
その姿は彼の心を結構すり減らしてくるので、
結果として彼は無事に卒業できる程度には学校に行った。
教師も同級生も彼の外見しか見ようとしない奴ばかりで
その視線や態度はいつまでたっても鬱陶しかった。
でも、なるべく目立たないように息を殺して生活する分には
そこまで問題は起こらなかった。
小学校では体育館裏にある小さな農園、中学校では屋上へと続く階段の踊り場、
高校では教師から鍵をちょろまかした生物準備室。
そのあたりが彼の定位置だった。
誰かが訪れる心配ない場所でしか彼の気は休まらなかった。
一人きりで腰を落ち着けて、本を読んだり宿題を済ませたりしながら、
彼は長すぎる休み時間をどうにかやり過ごしていった。
幸い、勉強は嫌いではなかった。
少なくとも、数式や化学反応や世界の歴史は
彼が鉄でできているからなんて理由で対応を変えることはなかった。
紙の上に並んだ無機質な活字は、人々が口にする言葉よりも
よっぽど優しいものに彼には感じられたのだ。
自然と彼は高い水準の成績を残すようになり、
そして地元のそこそこ有名な大学に合格を果たした。
こんな見てくれだからこそ、せめてある程度の学歴は持っておいた方がいい。
進学を決めたのは自分でそう判断したからだったけれど、
それでもこれから始まる大学生活のことを考えると彼の気持ちは重たく沈んだ。
どうせまた、遠巻きにされるんだろうなあ。
*
大学生活が始まってからも、彼の日々の過ごし方は特に変わらなかった。
突き刺さる視線に気づかないふりをして素早く移動、
教室ではなるべく隅に座り、他人との協力が必要な講義は出来る限り避ける。
特に入学したての頃は部活やサークルの勧誘活動が盛んなせいで、
人目を避けるのにはかなり難儀した。
当然、彼にはバイトもサークルもするつもりはなかった。
俺を受け入れてくれる集団なんてあるはずがない、そう考えていた。
キャンパスが広いせいで退避場所を探すのには多少苦労したが、
地図を必死に睨みつけて、古い校舎が並び建っている辺りに
死角の様になっている小さなスペースを見つけ出した。
実際に行ってみると、そこは校舎や植木に囲まれいるおかげで人目につきにくく、
人通りも全くと言っていいほどない、理想的な場所だった。
しかもおあつらえ向きに、朽ちかけた柱と屋根の下に
古ぼけた金属製のベンチが一脚置いてあった。
彼はゆっくりそのベンチに腰掛けて、それが自重で壊れてしまわないことを注意深く確認した。
それからため息を深くついて、この新しい秘密基地の景色を改めて眺めた。
亀裂を埋めた痕跡が所々残る校舎、苔むした地面、ドロドロになった排水溝、そして冷たいベンチ。
このじめじめした薄暗い空間は、たいそう彼の気に召した。
これでやっと、一人きりになれる。
彼は鞄から文庫本を取り出して、ページを開いた。
そのベンチの座り心地は随分しっくりときて、
久しぶりに彼は心から安らいだ気分になった。
その安らぎは、そう長くは保たなかったけれど。
新種のSCPかな?
シザーハンズじゃないですかー
秘密基地を見つけてからしばらく経ったある日。
彼が代わり映えもなくベンチの上で本を読んでいると、
急に誰かの足音が近付いてきた。
それまでこの場所を人が通りがかることなんて一度もなかったから
これだけでもう彼は飛び上がらんばかりに驚いた。
急いでどこかに身を隠そうかとも考えたけれどそんな場所はどこにもなく、
彼はじっと動きを止めて、この通行人をやり過ごすことにした。
早く足音が通り過ぎるようにと彼は願った。
ところが、足音の主がまっすぐ彼の方へと向かってきて、
「隣よろしいですか?」と尋ねるより早く彼の左に腰掛けたりなんてするものだから、
彼の鉄でできているはずの心臓は、一瞬完全に動きを止めた。
真っ白になった視界が色を取り戻すまでに数秒の時間を要した。
なんとか極度の驚きと緊張から身体の主導権を取り返して、
顔は文庫本に向けたまま、彼は横目で隣の様子を窺った。
俺のことを知っていて近づいてきたのだろうか。
遠い場所から面白半分にからかいを投げつけてきたやつは何人かいたけれど、
いきなり直接話しかけてきた人なんて初めてだ。
一体何のつもりなんだ?
「なにを読んでるんですか?」
聞こえてきたのは、少し甲高い、良く通る声だった。
彼は顔を上げて、隣を見た。
そこに座ってたのはおそらく大学生であろう女の子で、
小柄な体躯と不釣り合いに大きな鞄とギターケースを肩に負い、
そして厳ついヘッドホンを首から下げていた。
彼は文庫本を少し上げて、その背を隣人に見せた。
その作者知ってます、と彼女は嬉しそうに笑った。
それからその作者が若くして病死したことだとか、遺された原稿についての話だとか、
そんなことを矢継ぎ早に語り出した。
突然のお喋りな来訪者に面食らって、彼は視線を所在無げに
手に持った文庫本と隣に座る彼女の間に漂わせていた。
彼はしばらく黙ったままだった。
これは別に彼女の話を聞こうとしていたわけではなくて、
単純に彼の喉から声が出てこなかっただけだ。
経験がある人には分かるだろうけれど、長らく何も話していないと
言葉を口にするのはどんどん億劫になってくる。
散々文庫本の作者について語ってからようやく彼女は口を休め、
彼の顔を覗き込んで、もしかしてお邪魔でしたか、と尋ねた。
「何の」
酷くしわがれた声が出て、彼は咳込んだ。
その動きに、彼の身体は大きく軋んだ。
「何の用だ」
改めて発したその問いに、彼女は
「噂を聞いて、一度お話ししてみたくなって」と答えた。
本当に全身鉄なんですね、と彼女は言った。
それは案の定彼の異形を面白がるようなもので、
彼の神経を逆なでするには十分過ぎる台詞だった。
彼は隣に座る女性を思い切り睨みつけて、
興味本位なら今すぐ失せろ、と精一杯低い声色を作って脅しにかかった。
「えー、もっとお話ししましょうよ」
彼女には効果がなかった。
それどころか、何の他意もなさそうにヘラヘラ笑うその顔に、
彼はむしろ毒気をすっかり抜かれてしまった。
「お名前教えてもらってもいいですか?」
「…………」
「じゃあ鉄さんとお呼びしますね、
全身が鉄でできているし」
「…………」
「では私のことは肉と呼んでください。
全身が肉でできているので」
「……それはさすがにどうかと思う」
「ウヘヘヘヘ」
彼が返事をしてくれたことが彼女は嬉しいようだった。
「鉄さん、無表情ですね」
「……俺が笑うと、顔がギシギシうるさいから」
「大丈夫です。私、黒板引っ掻く音とか平気ですから」
「はあ」
「だから笑ってください。さあ!」
「さあって言われても」
いきなり笑えるかよ、と彼は言った。
私ならできますけどね、と彼女は甲高い声で笑った。
「鉄さん、無表情ですね」
「……俺が笑うと、顔がギシギシうるさいから」
「大丈夫です。私、黒板引っ掻く音とか平気ですから」
「はあ」
「だから笑ってください。さあ!」
「さあって言われても」
いきなり笑えるかよ、と彼は言った。
私ならできますけどね、と彼女は甲高い声で笑った。
「なにか喋ってくださいよ、会話になりません」
苦手なんだ、と彼は答えた。
今まで人とまともに会話してきたことなんて、数えるほどもない。
なんでこの子は初対面相手にこれだけ口が回るんだろう。
モーターでも付いているのか?
「今読んでるその本の感想とか」
「…………読み終わってない本の感想は言えない」
「それもそうですね」
そう言って彼女はまた笑った。
彼女にとっては、このなんでもない会話の殆どが笑えるほど面白いみたいだった。
突然、彼女の鞄からけたたましい音が鳴った。
何か着信があったらしい。
彼女は慌てて大きな鞄をごそごそ探って携帯電話を取り出し、
それを見て素っ頓狂な声を上げた。
「サークルの集合時間、過ぎてました!」
「はあ」
「それではお暇します!」
「…………」
「じゃ、また来ますね!」
また来るのかよ。
彼はそう思った。
次会うときには本の感想を聞かせてくださいね。
そんな言葉を残して、彼女は慌ただしく去って行った。
後には呆けたようにベンチに座っている彼と、
爆弾でも爆ぜた後かの様な静寂が残されていた。
ややあってから、どうやらこの秘密基地がもはや意味を成さないようだと気付いて、
なんてこった、と彼は嘆息した。
またあの子はやってくる。
もうここでは一人になれないらしい。
なんてこった、ともう一度彼は呟いた。
それがどうやらそこまで嫌ではないらしいということに、
自分でも驚いたからだった。
嫌いじゃない
ぜひ続けたまえ、どうぞ
*
それからというもの、あの女の子は度々彼の秘密基地を襲撃した。
相変わらず大きい荷物を引っさげ、小動物のように彼の様子を窺い、
彼がベンチの少し右寄りに座っていることを確認してから、
彼女は嬉しそうにその左隣の空いたスペースに腰を落ち着けた。
彼女はよく喋った。
日常の下らない出来事や自分の好きなものについて話すことを
彼女は愛しているようだった。
特に本の話となると口が止まらなくなるらしく、
お気に入りの物語について彼女は延々と話し続けた。
軽音のサークルやら喫茶店のバイトやらでそこそこ彼女は忙しいらしく
読書量は彼に比べれば少なかったものの、
その代わり彼女は一冊一冊をしっかり読み込んでいた。
そしてその仔細にわたる感想や評論を彼の前で披露して見せた。
最初はそれに適当な相槌を打つだけだった彼は、
そのうちになんだか悔しくなってきた。
自分がただ本を読み流しているだけなんじゃないかと思えてしまったからだ。
彼は更に熱心に本を読みふけり、
彼女に負けじとその感想を語るようになった。
ちゃんと会話ができるようになってきて、
彼女はやっぱり嬉しそうに笑っていた。
これは実際に会話をして初めて気付いたことだけれど、
彼には思っていた以上に話したいことがたくさんあったようだった。
会話自体は変わらず苦手だった。
でも、自分の考えをなんとか言葉にしてみようとするのは楽しかった。
めっちゃ錆臭そう
彼女はファンタジーやSFのような、
非現実的な成分が多く含まれる物語を好んで読んでいた。
特にロボットやアンドロイド物が大のお気に入りらしく、
電気羊について熱心に話す彼女を見ていると、
彼女が何故自分に話しかけようと思ったのか、その理由に彼はなんとなく察しがついた。
「魂ってあるんですかね?」
その日、彼女は唐突にそんな話を持ち出した。
「一寸の虫にも五分の魂とか言いますけど、
一体何をもって魂があるとしているんでしょうかね」
無いんじゃないか、と彼は答えた。
「魂なんて、死後の恐怖に脅えた人間が勝手に考え出したものだろう?
輪廻転生とか、極楽浄土とか、そういうのにこじつけるために」
この頃には彼も随分と話せるようになっていた。
入学してから既に一年以上が経過していて、
二年生になりましたねー、という彼女の言葉を聞いて
彼は初めて自分達が同学年であることを知った。
「そんなこと言っちゃうと人間が考えたもの全部が否定されちゃいますよ。
もっと夢とロマンを持ちましょうよーう」
彼女は口を尖らせた。
「魂があると仮定して!」
「はいはい、あると仮定して」
「植物に魂は宿ってるんでしょうか」
「あんまり考えたことないな。
植物か、無いと考えたほうが自然かなあ?」
「ですよね。
そう考えると、魂イコール命ではない」
「植物も生きてはいるもんな」
「はい。で、一方虫には魂があるとする。
ということは、そこに意思が存在するかどうか、が鍵なんじゃないですかね」
「自我を持つものに魂は宿るってことか?」
「そうです!」
彼女は勢いよく頷いた。
「つまりですね、今後人工知能の開発が順調に進んでいったとして、
いつか自我と呼ぶのに相応しいものを持つようになると思うんですよね」
「ああ、なるほど」
ここらで彼は彼女の言いたいことに合点がいった。
「非生物でもいずれは魂を宿すかもって?」
「そんな感じです!」
「そりゃ、確かにロマンだな」
「はい、夢とロマンです」
そういう風に考えるとするならば、
とりあえずは俺も魂を持っていると言っていいんだろうか。
こんな、無機物の身体でも。
「魂を持ったロボットが誕生したと仮定してさ」
「はい」
「そいつはそれでも生きてはいないんだろうか?
魂と生命は、別物なんだよな」
「うーん、生きているとは考えにくいんじゃないでしょうか。
代謝も繁殖もしないのなら、それはやっぱり非生命体でしょうし」
「そうだよな」
「でもどんなロボットでも、動き始めた瞬間があるなら、
動きを止める瞬間も必ずあります。
それをロボットが生まれて、生きて、そして死ぬことだと、
そう言っても良いんじゃないかなあと私は思います」
なるほどなあ、と彼は呟いた。
「鉄さんだって、いつかは死ぬんですよね?」
少し考え込んだ様子の彼に向かって、彼女はそう言った。
随分と不躾な質問だ。
「まだ死んだことが無いからわからないね」
彼はそう答えた。
自分が本当はロボットか何かなんじゃないかと確認したくなって
頭を叩き割ろうとしたことは何度もある、ということは言わなかった。
金槌を脳天に振り下ろす勇気は結局持てなかったということも。
「少なくとも鉄さんは生きてます」
「そう願うよ」
「じゃあやっぱりいつか死ぬんでしょう」
「そう願う」
「火葬するときが大変ですね」
「溶鉱炉の予約が必要だな」
「親指立ててゆっくり沈んでって下さいね」
「死んでるのにか?」
「アイルビーバーック、って」
「無茶言うなよ」
余りにも不謹慎で下らないジョークに、二人して吹き出した。
彼の顔が軋む音は、それよりも大きな彼女の甲高い笑い声がかき消してくれた。
彼は次第に彼女が訪れるのを心待ちにするようになった。
その頻度はそう高くなく、せいぜい月に二、三度で、
大抵の場合、彼は少し肩を落としながらとぼとぼと家路についた。
彼女はたまに悪戯を仕掛けてきた。
遠くから磁石を投げつけてきた時もあった。
彼は自力では磁石を外せない。
取ろうとしたその手にまた磁石が張り付くからだ。
なんとかしようと慌てふためく彼の滑稽な様を見て、
彼女は腹を抱えて笑っていた。
「やっぱり磁石、くっつくんですね!」
「当たり前だろ! 取ってくれよこれ!」
「いや、くっつかない鉄もありますよ。ステンレスとか」
「無駄知識はいいから取ってくれ」
「鉄さんを探したくなった時は、超強力な電磁石を持ってくることにしますね」
「磁石を取れ!」
他にも、彼女はいろんなことをしては彼の心を揺さぶった。
例えばその冬の日はこうだった。
寒さが苦手らしく、彼女は全身をニットに包んだ服装をしていた。
その膨らんだ格好はまるで越冬準備をしているリスのようで、思わず彼は吹き出してしまった。
なんなんですか、と頬を膨らませながら彼女は彼の左隣に座った。
「鉄さんは寒くないんですか?」
「いやあんまり」
「なんでですか、鉄なんですから身体がすぐに冷えるでしょう」
「そうなんだけど、暑さ寒さをもともとそんなに感じないんだよ」
「なにそれ、ズルい!」
なにがズルいものか、と彼は言った。
そう言ってから、少し自分が腹を立てていることに彼は気付いた。
「暑いとか寒いとか、お前らにとっちゃただ煩わしいだけのもんなんだろうけど
俺はそれをどれだけ願っても感じられないんだぞ。
ただ想像することしかできないんだ」
感覚が他人より少ないこと。
それはつまり鉄の身体が自分に見える世界を狭めているということで、
彼が自分の体質を最も憎むのはそれを実感するときだった。
彼女は返答に窮した様子を見せ、
それから顔を少し伏せて「すみません」と呟いた。
彼はまだムスッとしていた。
それは別に普段の表情と殆ど見分けはつかなかったけれど。
彼女は右手袋を外して、本を支えていた彼の左手に自分の右手をそっと添えた。
「冷たっ!」と彼女は叫び声を上げた。
彼の心臓は飛び跳ねた。
叫び声ではなくて、もちろん彼女の手のせいだ。
「少しはあったかいですか?」
「いや、別に」
彼女の右手が彼の左手としっかりかみ合った。
「しょうがないから、温めてあげます」
その日読んでいた本を、彼は後日もう一度読み直す羽目になった。
内容が全く頭に入ってこなかったからだ。
これはもう言うまでもないことだろうけれど、彼は彼女のことが結構好きだった。
でも「全身鉄でできている人はさすがにちょっと」なんて言われてしまうんじゃないかと思って、
例えばデートに誘ったりだとか、思いの丈をぶつけたりだとか、
そういった行動を起こす気にはなれなかった。
拒絶されることには十分すぎるくらいに慣れていたけれど、
もし彼女との関係が絶たれてしまったら
多分俺はもう生きていられなくなるんじゃないか。
そんなことを彼は思ってしまった。
結局彼は何も状況を変えようとせずに、忙しさの合間を縫って
たまにベンチに遊びに来る彼女を待っているだけだった。
十分に満足だったのだ。
彼女がわざわざ自分と話しに来てくれるという、それだけで。
何かに熱中していても、何もしようとしていなくても、
信じられないくらいの早さで時間は過ぎていく。
あっという間に四年が経って、
二人は卒業を迎えることになる。
*
彼は卒業式には出なかった。
惜しむべき学生生活も振り返るべき思い出も特にない。
卒業は彼にとっては記念するようなものではなくて、
カリキュラムをどうにか消化してきたことを証明してくれるだけのものだった。
卒業証明書と必要のない粗品を受け取るためだけに彼は学校へ赴いて、
それから彼はまっすぐいつもの場所へやって来た。
そしてベンチの右半分に腰掛けて、鞄から取り出した文庫本を開いた。
スーツはちゃんと着込んでいた。
約束は何もしていない。
ただ、来てくれるんじゃないかな、とそう思った。
「似合ってるじゃないですか」
その声が聞こえたのは数十ページほど物語が進んだ後で、
彼は本を畳んで顔を上げた。
華やかに着飾った女性がそこにいた。
彼はその姿に、一瞬目を奪われてしまった。
「なにか言うことないですか」
と、彼女は振り袖姿を見せびらかすようにして、
ニヤニヤ笑いながら彼に尋ねた。
特にない、と彼は言った。
似合っているだとか、かわいいだとか、本当はそんな感じの
言葉を口にしようかとは思ったのだけれど、
それを実際に言う気恥ずかしさにはとても耐えられそうになかった。
彼女は卒業証書の入った筒で彼の頭を軽く殴った。
コーン、と澄んだ音色がした。
もう卒業ですね、と言いながら彼女は彼の左隣、
いつもの位置に腰掛けた。
「あっという間な気がします」
そうだな、と彼は答えた。
「やり残したことだらけです」
これには彼は答えなかった。
彼女とは違って、自分の意志でやろうとしたことなんて
彼には殆ど何もなかったから。
「最初は興味本位だったんですよ」
鉄さんに話しかけたのは、と彼女は言った。
彼はゆっくり頷いた。
それはとっくに分かっていた。
「最初は興味本位でした。
全身が鉄でできている、人とは思えないような人がいると聞いて、
すごく気になったんです。
一体どんな人なんだろう。
どんなことが好きで、どんなことを考えて、
どんな風に生きてきたんだろう、って。
いろいろ話してみたくなったんです」
実際に話してみてどうだった、と彼は尋ねた。
ただの根暗で、寂しそうなだけの普通の人でしたね、と彼女は笑った。
「でも、なんだか小さな子供みたいにも見えたんですよ。
一人で本を読んでいる鉄さんの姿が、
遊びに誘われるのを期待しているような、
母親の帰りを待っているような子供みたいに。
だからその次は同情だったんだと思います。
多分、そういう上から目線の感情があったんです」
彼はまた頷いた。
それも十分に予想していたことだった。
「急にこんなこと言い出してすみません」
そう言って、彼女は頭を下げた。
怒りましたか、と不安そうなその問いに対して、
彼は緩やかに首を振って、「どうでもいいさ」と答えた。
突き放したようにも聞こえるその言葉に、
しかし彼女は「ありがとうございます」と言った。
実際、彼女が話しかけてきた動機なんて、
それは本当にどうでもいいことだったのだ。
今までずっと二人でやってきた、
他愛もない話に比べれば、遙かに。
「このあとはサークルの皆で打ち上げです。
卒業記念です。
皆、就職やら進学やらでバラバラになりますからね。
私も遠くに就職ですし」
「そうか」
「鉄さんはこの辺りに残るんですよね」
「まだ実家から出ないからな」
「じゃあ離ればなれになっちゃいますね」
そうだな、と随分かすれた声が彼の喉を震わした。
「なにも言うことはないんですか」
彼女は彼のほうに顔を向けて、尋ねた。
今度は笑ってはいなかった。
彼はその視線から逃げるように、
前方にある植木をただ見つめていた。
求めている答えが、さっきとは違う類の物であることには勘付いていた。
それでも、彼はやっぱり何も言わなかった。
重苦しい沈黙だけが二人の間に横たわり、そして時間が過ぎていった。
風が木々を揺らす音と、どこか遠くから聞こえてくる
学生の笑い声ばかりがやけに耳障りだった。
うおおおおおおしええええん
「そろそろ時間なので、行きますね」
彼女は立ち上がって、彼の真ん前にきた。
そして、彼の顔をまっすぐ見据えた。
「これでお別れですね」
彼は何も言えなかった。
先ほどよりも遙かに強く、卒業証書の筒が振り下ろされた。
「バーカ!!」
そして彼女は踵を返して、
慣れない下駄に歩きにくそうにしながら早足で去っていった。
頭を揺らす衝撃が身体全体に広がっていくのを感じつつ、
今から追いかけても簡単に追いつくな、なんてことを彼は考えた。
それでも彼は立ち上がることなく、
彼女が歩き去った方向を、ただぼんやりと眺めていた。
鉄が泣いてベンチで座ったまま錆になるのか
最初と、その次と。
じゃあさらにその次は何だったんだろうか、と彼は考えた。
なんで彼女はずっとこのベンチに来てくれたんだろうか。
その答えを本当のところは分かっているような気がしたけれど、
今更考えたところでそれはもう仕方のないことだったので、
彼はもう考えないことにした。
そして何も考えないまま、彼はずっとベンチに座り込んでいた。
辺りが暗やみに包まれて、遠くから誰の声も聞こえてこなくなるまで、一人で。
もしも携帯電話が存在しなかったら~みたいなの書いてた人かな
違ってたら失礼だけど
*
大学を卒業しても、始めは彼の日々の過ごし方は特に変わらなかった。
四年間で彼はとあるマイナーな言語を一つ修得し、
そしてその翻訳業に携わることで生計を立てようとした。
これならば直接人と接しなくても生きていけるだろうと言うのが彼の目論見で、
そしてそれはある程度成功した。
最初の方こそ父親や大学教員のコネに頼る必要があったものの、
ある程度経つと自然と依頼が舞い込むようになってきた。
自立の見込みはすぐに立ち、彼は自宅からそう遠くない場所に
アパートを借りることにした。
六畳一間の狭苦しい、しかし幼い頃から夢に描いた
自分一人だけの空間を彼はようやく手に入れた。
普段は部屋で仕事を黙々とこなし、疲れたらベッドに寝転んで本を開く。
外出は最低限の買い物だけで良い。
彼にとっては理想だったはずの環境がそこにあった。
違和感はすぐに訪れた。
部屋の静けさに、彼は耐えられなくなってしまった。
頭の奥で響き続ける耳鳴りに彼は苛立ちを抑えきれなかった。
テレビの番組も、スピーカーから流れる音楽も、
この静寂を打ち消してはくれなかった。
原因は、考えるまでもなく分かっていた。
静かな部屋とは裏腹に荒れる心を落ち着けようと、
彼はアルコールをひたすら身体に放り込んだ。
体質のためかあまり酔えず、酒量は益々増えていった。
心が軋んだか
そのうち、彼は街をフラフラと彷徨うになった。
なんてこった。
前までは別に平気だったってのに。
一人でいるのはとてもとても寂しいことなんだと、
あいつのせいで知ってしまったじゃないか。
落ち着きなく視線を動かしながら道を歩く。
目が合う人がいる。
彼は笑いかけてみる。
ギシ、と大きな音が鳴る。
向こうは決まって脅えたような表情になり、
そして一目散に逃げていく。
なあ、どうやって俺は君と話していたっけ。
なんで君は俺と話してくれたんだっけ。
今となっては、もう分からなくなってしまった。
少しずつ彼の身体は錆び付いて、上手く動かなくなってきた。
どうやら自分も老いているらしい。
ということは、俺もちゃんと死ねるんだろうか。
いつかの会話を思い出して、彼は薄く笑う。
そうやって、かつての幸福を支えにして、彼は歩く。
一気にとし食ってきたな
年々身体は酷く軋むようになっていく。
耳障りな音をかき消してくれる甲高い笑い声はもう聞こえない。
冷えた左手は冷えっぱなしだ。
彼はそれでも歩き続けた。
隣で笑ってくれる人がどこかにいないか探しながら。
ずっと。
以上になります。
ここまで読んで下さった方々、
どうもありがとうございました。
せつねぇー……
悲しいなぁ…
いやでも面白かった
そう面白いのだ
面白い
オチらしいオチのないまま終わったなぁ
まぁそれもまた一興、乙です
以前書いたのは一つだけ、【Q「世界の終わりを見たことはある?」】ってやつだけです。
そのときに勢い余ってホームページまで作ってしまったので、宜しければ覗いてって下さい。
http://sidedrain.web.fc2.com
お目汚し失礼しました。
それでは改めて、ありがとうございました。
面白かった乙
前のもリアルタイムで見たけど基本幸せになれない終わり方だなぁ…
おもしろかった
一瞬体は剣できている人かと
面白かったよ
乙
乙!
すごく良かった。
ハッピーエンドを望んでしまうのは無粋だろうか
こっそりあとがき
ハッピーエンドはありません。
というより、そういう風には書けませんでした。
彼には明らかに幸福になるチャンスがありました。
でも、目前にまで降りてきた蜘蛛の糸を彼は掴もうとしなかった。
自分の異形を免罪符にして。
だから、今後彼は救いの手がもう一度伸びてくるのをみっともなく待ちながら生きることになります。
もし、蜘蛛の糸以外の地獄からの脱出方法を探し出そうと本気で努力するなら、
その時はもしかすると、強力な電磁石が彼を引っ張り出してくれるかもしれません。
あとがき乙!
では、そのストーリーで……
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません