ひよっ子魔女の短編集 (148)
ひよっ子魔女と嘘嫌い
ひよっ子魔女と嘘嫌い - SSまとめ速報
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に続く短編いくつかを書いていきます
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ひよっ子魔女と夢見る老人
ラリー爺さん困ってた。どうしたもんかと悩んでた。
あまりに深く悩んでたので、仕事で少し怪我をした。
大した傷じゃなかったけれど、手元がよく見えてなかったのだ。
切り傷を手当てしてもらいながら白髪頭をかく爺さん。
周りのみんなは心配し、どうしたのって訊ねてみた。
爺さんかなり渋ったけれど、ようやく重い口を開いてくれた。
話が終わってみんななあんだと拍子抜け。
全然大したことじゃない。そんなの悩みと言えないよ。
爺さん反論しなかった。そう言われるのはわかってた。
すまんねみんな、もう怪我しないよう気を付けるから。
言葉の通り爺さんあれから怪我してないけれど、それでも悩みはなくならない。
むしろ日に日に気分がなえてくる。
爺さんすっかり元気をなくして、ぼーっとしてることが多くなった。
これはまずいとみんなは思う。
なんとか気分転換させないと。
爺さん町へ行ってきて。町にはたくさん人がいて、少しは気分が上向くかもよ。
そこで爺さん馬車に乗り込み、町の方へと繰り出した。
物々交換用に特製の燻製肉をたくさん載せて、ガタゴトガタゴト繰り出した。
爺さんなんであんなに悩んでるんだろう。
見送るみんなは首を傾げて考える。悩むほどのことには思えないのに。
馬車はすでに小さく遠ざかり、どことなく寂しそうにも見えた。
……
規則正しいようでいて案外そうでもない揺れが、爺さんを小さく揺すっていた。
出発からかなりの時間が経っていて、そろそろ道の先に町の影が見えるかなといったところ。
ここまで特に何もなく、ここからもこれといった出来事は起こりそうにない。
正直なところを言えば爺さんかなり退屈していて、大きなあくびを連発していた。
馬車をひく馬のひづめの音と馬車のガタゴトいう音、
それから近くの木立から聞こえる鳥のさえずり以外は何も聞こえない。
それはある意味静寂と同じだ。柔らかい日光を浴びて、爺さんぼんやり考え事をしていた。
考える内容はもちろん悩み事について。
それはみんなが言ったように大したことじゃないんだけれど、
そのくせこれといった解決方法が見当たらない。
延々考えても頭をよぎるのは役に立つことじゃなくて困ったなあ困ったなあと泣き言ばかり。
爽やかなそよ風も爺さんに助けを与えてはくれないみたい。
爺さん憂鬱なため息をついて荷物の箱に背中を預けた。
空を見上げてまたため息。
悩みが解決しないのはまあ仕方がない。
でもせめて誰か分かってくれないだろうかこの気持ち。
婆さんが生きていてくれたならなあ。
爺さんは寂しくなって目をつむった。
ぼんやりとしたまぶたの裏の暗闇。
温かくてとりあえず居心地はいい。
ゆったりと考える力がほどけて意識が遠のいていく。
そして眠りに落ちるギリギリのところでふと爺さんは思いついた。
普通の人が解決できないことは、普通じゃない人が解決してくれるかもしれない。
虫のいい話だけれど、眠りの手前で考えの鈍った爺さんは気づかない。
普通じゃない人、不思議な人。例えば……例えば、魔女、とか。
そこまで考えて、爺さんは寝息を立て始めた。
「すみませーん!」
しばらくして呼びかけの声で爺さんは目を覚ました。
自慢の馬はちゃんと道に沿って進んでくれていたようで、
馬車はいまだ町に向かって進行中のようだ。
そしてこちらに手を振る人影。
髪を三つ編みにして背中に垂らした、黒っぽい野良着の女の子。
腕にはバスケットを提げていて、中から何かがひょいと頭を出した。仏頂面の黒猫らしい。
爺さん手綱を操って、少女の前に馬車を停めた。
「何か用かね?」
そう訊ねる爺さんに、少女はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい急に呼び止めて。わたし、ミナっていいます。
この道の先に行きたいんですけど思ったより遠くって。
もしよかったら乗せていただけませんか?」
爺さんは親切な人だったしすっかり退屈もしていたので、こりゃ話相手にいいやと思って快諾する。
荷台にスペースが余ってたから、ミナにはそこに乗ってもらうことにした。
彼女は身軽に乗り込んで、よろしくお願いしますと再び頭を下げた。
「どこで下ろせばいいかのう」
「ちょっとわかりにくいので、その時になったら声かけます」
爺さんはうなずいて、馬に進めの指示を出した。
ゆっくりと馬車が動きだす。背後で猫が一声にゃーと鳴いた。
爺さんさっそく上機嫌に口を開いた。
「お嬢ちゃんはどこから来たんだい? わしの村ではないじゃろう。
お嬢ちゃんみたいなべっぴんさん、うちの村にはおらんから」
さすがに持ち上げがすぎたけど、ミナは気にしなかったようだった。
ふふっと笑った後、別の村からと答えた。
「道を少し戻ると南の方から合流する道があります。
その先にある小さな村から歩いてきました」
爺さんほほうとうなずいた。
そんな道は知らなったけれど、多分居眠り中に通り過ぎてしまったのだろう。
そりゃ爺さんだって全部の道を覚えているわけじゃない。
爺さんは続けて訊いてみた。
「どこに何しにいくところだったんだい?」
「この先に湖があって、その近くの木立でしか採れない薬草があるんです。
そこに向かってたんですよ」
ほほう。爺さん再びうなずいた。
爺さんが訊ねてミナが答えてそれにまた爺さんが頷く、そんな会話がしばらく続いた。
「その猫はお嬢ちゃんの友だちかい?」
「ええ。ペルという名前です」
「ほほう」
話をしているうちに爺さん不意に懐かしくなった。
なんとなく数年前に亡くした奥さんを思い出したのだ。
奥さんは口数の少ない人だったけれどいつもにこにこ笑っていて、
爺さんの話を静かに聞いてくれていた。
そういえば奥さんも爺さんとは別の、小さな村の出身だった。
物思いに少し言葉が途切れて、今度は逆にミナが爺さんに訊いてきた。
「そういえばなんですけど、お爺さんさっき居眠りしてました?」
「おや見られておったかのう」
爺さん恥ずかしくて頭をかく。ミナはくすっと笑ったようだ。
「お昼寝日和ですもんね。いい夢見てる顔でしたよ」
それを聞いて爺さんはぴたりと黙り込んだ。その気配を察したのか、ミナも一緒に言葉を止める。
「どうかしました?」
気を使う声色でミナが問いかけてきたけれど、
爺さんは「夢……夢な」と小さくつつぶやくだけだった。
居心地の悪い沈黙が流れて、しばらくしてから爺さんはようやく口を開いた。
「夢は見んかった」
見られたらどんなにいいことか。元気のない声で爺さんはそうも言った。
爺さん実は長いこと夢を見ていない。
もしかしたら起きた瞬間忘れてしまっているだけかもしれないけれど、
とにかく夢を見た記憶がない。
爺さん夢が大好きだった。
鳥になって空を飛ぶ夢、魚になって海を泳ぐ夢。
夜になるたび今度は何の夢だろうと楽しみにしていたのに、ある時ぱったり見なくなった。
何かこれと分かる原因があるわけでもない。
そもそも何かあったからといって夢を見られなくなるなんてそんなことあるのだろうか。
多分年のせいだろうけれど。
そんなわけで、夢を見れなくなったのにそれへの対処方法が全然思いつかないのだ。
かといって周りは大したこととは思ってくれず、助けは全く得られない。
爺さん完全に孤立無援。
つまり、夢を見たいのに見られない。そのことこそが爺さんの悩みなのだった。
つづきます
おつ
乙。期待
事情を聞いたミナは、ふうむと軽く腕組みしたようだった。
後ろを確認したわけじゃないけれど、気配や衣擦れの音でそうと分かった。
「それは大変なことですねえ」
おや、と爺さん奇妙に思う。この子は呆れたりしないみたい。
「心配してくれるのかい?」
「ええ。夢が見られないなんて一大事じゃないですか」
爺さんなんだか嬉しくなって、目頭ちょっと熱くなった。
まさか理解者がいたなんて。
死んだ婆さん以外は誰も分かってくれないと思ってた。
「ありがとう」
「? 何か言いました?」
爺さんこっそり目元の湿りを拭き取って、いいやなんにもと首振った。
「そんなわけで困ってしまってのう。なんとかならんものかねえ」
荷台のミナは考えたようだけれど、沈黙だけが長引いて、
確かな答えは返ってこなかった。
爺さんもちろんがっかりはしたけれど、欲張っちゃいけないと思い直して、
いやいやすまんと取り消した。
「病気ならともかく、そんな小さなことに治す方法なんてあるはずもなかったな」
後ろから小さくごめんなさいの声がした。
すごく申し訳なさそうで、爺さんの方も恐縮してしまう。
「ああいやそんな。
わしこそ変なことを言って悪かった。
どうか気に病まないで忘れておくれ」
それからしばらくどちらも何も言わなかったので、馬車の進む音だけが辺り一帯を満たしてた。
馬が疲れたようなので、道の脇に馬車を停めて休ませていた時だった。
馬を拭いてやっている爺さんに、ミナが荷台から顔を出して声かけた。
「夢の話を聞かせてもらえませんか」
爺さんは「え?」とそちらを見た。
声は聞こえていたけれど、内容を聞き取ることができなかったのだ。
少女は「夢の話をしてほしいんです」と繰り返した。
「夢の話、かい?」
「ええそうです。昔どんな夢を見た、とか」
「そりゃまたなんで」
不思議に思った爺さんが訊ねると、彼女は自らを指で示して言葉を続けた。
「わたし薬草のことならそれなりに知ってるつもりです。
だからよく眠れる薬ぐらいなら作れますが、夢を見させてくれる薬の作り方は知りません。
というよりそもそもそういう薬はないんじゃないかと思います」
「そうじゃのう」
爺さんは素直にうなずいた。そんな便利で不思議な薬、聞いたことがない。
だから確かな解決策はないと思うんですけど、と自信なさそうな声になりながらも少女は言う。
「できることは全部試してみた方がいいんじゃないかなと」
「それが夢の話なのかい?」
爺さんが訊くと、ミナはそうですとうなずいた。
「起きているときに見たものや聞いたものが夢に出てくることって結構多いじゃないですか。
だから今夢の話をして強めに意識していれば、もしかしたらまた夢が見られるかもって」
爺さんふうむと感心した。この子は頭がいいんだなあ。
「確かに噂をしていれば夢の方から近寄ってきてくれるかもしれんのう」
なんだか希望が見えた気がして、気分が少し明るくなった。
「なるほどそういうことならば」
爺さん出発のために御者台に身体を持ち上げて、
一番お気に入りの夢はどんなだったかなと記憶の底を探ってみた。
昔どんな夢を見たかなんて覚えてない人がほとんどだろうけど、
爺さん夢が好きだから割とたくさん覚えているのだ。
「あれはいつ見た夢だったか。大海原から始まるんじゃが――」
爺さんちょっと遠い目をして、静かな口調で話し始めた。
つづきます
乙
なぜ爺さんの夢が海から始まったかというと、
眠るときに深く暗い海に潜っていく感じをイメージするのでそのせいじゃないかと自分では思ってる。
「こう、大きく耳の悪い魚になったつもりになってまぶたの裏の暗闇にゆっくりおりていくんじゃよ」
大きい魚だから、速く泳げない代わりに襲われる心配もない。
ゆったりと身体を伸ばして次第に意識が閉ざされていく。
闇の底に着いたなと感じた瞬間夢が始まるのだ。
「そう、その時の夢ではわしは鈍重な身体を捨て去って、とても素早く泳いでおった」
きらめく泡を追いかけて、輝く世界を目指してた。
うっすらとした光はどんどん強くなって、視界いっぱいに広がった。
強い衝撃(夢の中では爺さん確かにそう感じたのだ)の後、
夏の日差しの下に飛びだして、水平線を向こうに見る。
空には雲が巨人のようにそびえたち、鳥が何羽か飛んでいた。
と、そこで再び衝撃と音。視界が水中に引き戻される。
ざぶんざぶんと数回水と空を行き来して、そのうち爺さん空を飛んでいた。
いつそうなったのかは分からないけれど、夢の中では爺さん気にも留めなかった。
「そういうところ、あるじゃろう?」
夢では誰も疑うことは許されない。疑おうとも思わない。
ミナの同意の声を聞いてから、爺さんさらに話を続けた。
「わしは鳥になっていた。遠くまで飛べる強い翼を持つ鳥だ」
夢では説明されなくともそういうことが自然と分かる。
爺さん力強く羽ばたいて、太陽の方向目指してた。
他にも鳥はいたけれど、爺さん一番早かった。
遠く、遠くまで飛んで、ふと見下ろすと島があった。
爺さん進行方向を少し変え、その島の上を旋回した。
島は確か三日月に曲がってて、弧の内側が広い浜辺になっていた。
浜辺の上にはポツンと何かが立っていた。
真っ黒に日焼けした、健康そうな少年だった。
一体何をしてるんだろう。
爺さん目を凝らしていると、いつの間にか爺さんがその少年で、一生懸命空の鳥を見つめてた。
とても変なことだけど、爺さんやっぱり疑わない。
爺さん、というより少年は、顔を下ろして背後の森を振り返った。
そのままそちらへ歩きだす。足の裏に浜の砂がちりちり熱い。
潮のざわめき、森が風に囁く声。
その中を少年は進んでいって、森にゆっくり入っていった。
うっそうと茂る森には黄色いヘビや緑のサル、ものすごく大きいネズミがいたりで面白い。
虹色リンゴをかじっているといつの間にか目の前には小さな泉。
泉の中には誰かがいる。白いワンピースの女の子。
長い髪を洗っていて、顔はこちらからじゃ見えないみたい。
ほっそりした体にたおやかな仕草。
なんとなくどぎまぎしてしまい、少年ゆっくり回れ右。
そのとき後ろから鈴のような優しい声。
でもなんて言ったのかは分からない。夢はそこで終わったからだ。
「わしはとてもがっかりしたよ。なんて言ったか知りたかった」
「女の子が出てきたのはそれ一回だけですか?」
「いいや。何回か夢で見た」
忘れたころにぽつりぽつり。
夢の原っぱや花畑で。
でも少女の顔はいつも見逃す。彼女の言葉も聞き取れない。
「誰なんでしょうね」
「そうさなあ。あれは、きっと――」
爺さんそこで言葉を止めた。
なんとなく想像はついたけれど、それは確信というより願いに近かったので、
やっぱり言うのはやめといた。
つづきます
「他にはどんな夢を見たんです?」
馬車の進むガタゴトの音の中、ミナがそう聞いた。
「いや、はっきり覚えている夢はあれぐらいでな」
他はよく覚えていないか、
さっきのよりもさらに入り組んだりわけがわからなかったりしたので話すのは難しかったのだ。
まあ話せるものもないわけではないけれど、
「ひたすら小石にを眺めて何か考えながらぐるぐる歩く夢とか面白くないじゃろ?」
「ううん、そうかもしれませんねえ」
ミナは曖昧に笑ってそうだじゃあと手を打った。今度はわたしの夢の話をしましょう。
「お嬢ちゃんの夢?」
少女は元気よく頷いた。
「お爺さんの夢にはかないませんけれど、わたしも素敵な夢を見るんですよ」
どうです、聞きます? 悪戯っぽい声だった。
爺さんもなんだか愉快な気分になって、ぜひ頼むと大声で笑った。
さて、ミナは深呼吸する。彼女の夢は温かい暖炉から始まるそうだ。
「わたし、昔はお婆ちゃんのところで過ごして、冬には暖炉がついてたんですよ。
多分それが記憶に強く焼き付いてたんでしょうね」
夢の暖炉の火は不思議にゆらゆらと揺れていて、最初は強く燃えているんだけれど、
でも次第に小さくしぼんでいく。
ミナが慌てて近くに寄ってみても火はあっけなく消えてしまう。真っ暗になった。
怖くなってしゃがみ込むけれど、でもよく見るとぼんやりと光っているものがある。
床がほのかに光を放ってる。
足の下に星の輝きがあふれていた。
足下の星々は、ミナに気づかれると逃げるように舞い上がり、暗い上空へと飛んでいく。
それから虚空でぴたりと静止し複雑な模様を形作り、さながら丁寧に編まれたレース生地のよう。
いつの間にかミナは、揺り椅子に座ってそれを眺めていた。
隣にも揺り椅子が並んでて、覗き込むと少年が気持ちよさそうに眠っている。
優しく呼びかけてみるのだけれど、彼はちっとも起きてくれない。
ミナはがっかりしたけれど、無理に起こすのも気が引けて、自分の椅子に座りなおす。
その時星の一つがひときわ強く光を放ち、流れ星のように飛び回った。
まばゆい軌跡はけれども消えゆくことはなく、そのままミナに降り注ぐ。
ミナはその星の絹糸を上手に集め、水晶の編み棒でマフラーを作り始めた。
編んでいる間もどんどん星糸は降り注ぎ、積みあがって薄緑の光が胎動する。
ミナがマフラーを完成させた頃、星糸のマユから真白い鳥が飛び出して、夜の彼方へと姿を消した。
ミナは輝くマフラーを隣の少年の首に巻き、伸びをして立ち上がる。
少年の揺り椅子の足元に腰を下ろし遠く向こうに視線を伸ばす。
いつの間にか地平に太陽が顔を出している――
「そんな夢です」
爺さん黙って聞いていた。
途中まではほうほうと相槌をうっていたけれど、少し前からじっと黙って聞いていた。
ミナも口を閉じたので、あたりはとたんに静かになった。
いやいや馬車の音は相変わらずなんだけど。
「五回くらい前の冬のことなんじゃが」
爺さんぽつりと言葉を漏らした。
「それまで寄り添って生きてきた婆さんが死んでしまってのう」
思い出すのは白いマフラー。編みかけのままの白いマフラー。
「暖炉の前で一緒にあったまっておったんじゃ。
少しうたたねをしてふと気づくと、編み物の手を止めたまま婆さんは眠るように逝っておった」
ひどく穏やかで、微笑んでいるように優しい。それがお爺さんの見た、お婆さんの最後の顔だった。
背後の少女は何も言わなかった。
「……あの夢の女の子はやっぱり」
言おうとして、やっぱりそこまでしか言えなかった。
悲しくなったわけではないけれど、寂しくだってないけれど。
爺さんなんだか胸の奥に穴が開いたような気がして、どうにもつらくなってしまった。
何も頭に浮かばないのに言葉だけが口から際限なくあふれてくる。
「わしは婆さんによくしてやれただろうか。
いつも自分のことばかりしていて、話すのも自分が自分がとばかり。
婆さんが自らしゃべることなんて、気づけば聞いてやったことがない」
迷惑かけっぱなしで、そのくせお返しもしてなくて、爺さん情けなくて肩を縮めた。
背を丸めた。
喉の奥がきゅっと痛くなったけど、爺さん必死に我慢した。
せめて――
「夢でいいからもう一度会いたいのう……」
強く強く拳を握りしめ、弱く弱く息を吐いた。
それから首を振って無理に元気に後ろを振り返る。
「すまんかったお嬢ちゃん、ずいぶん湿っぽい話を」
してしまったわい。そういいかけて、爺さんの頭は完全にストップした。
「……え?」
背後にいたのはバスケットを持った三つ編みの少女じゃなくて黒猫もいなくて。
いるのはしっとりとした雰囲気の大人の女性。
顔は見えているはずなのによく見えない。
彼女の声も聞こえない。言葉の内容だけが頭に残る。
ありがとう、幸せでした。
爺さん必死に女性の名前を呼ぼうとした。
彼女のことは知っていた。
ずっとずっと会いたかった。
口を開いて、でも声は出なくて、爺さんの意識は白くほどけた。
……
「すみませーん!」
呼びかける声で爺さんは目を覚ました。
はっとして周りを見回すと、爺さんどうやらうたたねしていたようである。
道の先の方で女の子が手を振っていた。
何やらすごく久しぶりに念願の夢を見たことは覚えているけれど、どんな夢だったかは思い出せない。
ぼんやりとした思いのまま爺さん手綱を操って、少女の前に馬車を停めた。
何か用かと訊ねると、彼女はミナと名乗って、もしよければ途中まで乗せていってほしいと言った。
荷台の方に乗ってもらって、馬車はゆっくり出発する。
日はまだ高いところにあって、急がなくても町には十分早く着けそう。
爺さんミナにいろいろ話を振ったけれど、やっぱりどこか上の空で、
逆にどうしたのかと訊かれてしまった。
「大丈夫ですか?」
「いや……」
爺さん曖昧に返事をして、でも何となく気になったので振り返って訊ねてみた。
「お嬢ちゃんとはどこかで会ったことがあったかのう?」
「? いいえ?」
ミナは本当にきょとんとした声で返事をした。
そうだよなあと爺さん頷き、再び前へと向き直った。
夢というのは不思議なもの。
見ている間は夢が夢だと気づかないし、起きているときとも時間の流れ方が違う。
起きたら忘れてしまうのもまた不思議。
そういう不思議なことならば、それも魔法かもしれない。
まあそんな話。
(ひよっ子魔女と夢見る老人:おわり)
これで二つ終了、あと二つ三つやるつもりです
あとせっかくの短編集なので、もしこんな話が読みたいなどあればいつでも遠慮なくお願いします
実力の都合上必ず書けるわけではませんができる限り対応させていただきますので
ではまた次回
おつ
乙!
ひよっ子魔女と都会の少女
その日、ひよっ子魔女のミナは町の門の前にいた。
たくさんの人が行き交っていて、それでもまだまだ幅に余裕のある大きな門だ。
門扉は今は開いているけれど、一度閉じてしまえば再び開くのは難しそう。
門から続く高い外壁も重そうな石を積み上げてできているので、
どんな力のある動物も壊して入ることはできないだろう。
門からは少しだけど町の様子が見えた。
村とは違って大きなしっかりした造りの家々が整然と並んでいて、
道を歩く人々もすっきりと清潔そうな服を身に着けている。
顔つきや所作も村の人とはどこか違うように思えた。
とりあえず言えることは。
例えば人里離れて森のほとりの風車小屋に済んでいる魔女とかには全く縁のない場所だということ。
彼女らは普段は誰かを必要としない。誰かに必要とされることもない。
じゃあなんでミナがここにいるのか。
それには深いようでいてよく考えてみるとそうでもないかなぐらいの理由ならある。
ここでまず最初に確認しておかなければならないのは、
ミナが自分の明確な意思でここに来ようと思ったわけではないということだ。
時間は少しばかりさかのぼる。
「ちょっと休憩しようか、ペル」
一本の高い木の下、歩き疲れたミナはバスケットの中の黒猫にそう言った。
太陽が一番高いところからだいぶ傾いた昼下がり。
彼女は今までピクニックと称してその健脚っぷりを存分に発揮し、
長い長い道を踏みしめてきたところだった。
黒猫がのっそり顔を出して面倒くさそうににゃーと鳴いた。
木の根元に座り込んで幹に背中を預けると、涼しい風が額を撫でて汗を少し乾かした。
ミナは心地よい疲労感が身体を包んでいるのを感じて伸びをする。
「ずいぶん遠くまできたねえ」
言って見回す。
広い草原はミナの家の付近と同じだけれど、この辺りは丘が多くて起伏に富んでいる。
そしてそこに見え隠れする地平線の上には山脈が波打っていた。
意識してみれば匂い、多分風のだろうけどそれもどこか違う気がする。
ミナは『遠く』が好きだったからそういう違いはたまらなく感じられた。
できればもっともっと遠く、さらに異なる景色が見えるところに行きたい。
山や海、砂漠や沼地、出来るならば空の果てなんかにも。
きっと、とミナは思う。願えばきっと大体は叶うのだろう。
自分は魔女だから頼み方さえ間違わなければ魔法は少しだけ手助けしてくれる。
チャンスをしっかり与えてくれる。
だからあとは自分の力でそのチャンスをきちんとつかみ取ればいい。
楽しみだなあと純粋な気持ちで思った。
とてもクリアな気分だった。
あまりに爽やかだったので、自分がそのまま眠っていたことに気づかないほどだった。
ペルがぺちぺちと顔をたたく感触でミナは目を覚ました。
あれ、と思って立ち上がると、結構な時間を眠っていたようだ。
太陽はさっきよりもっと傾いていた。
「……あちゃー」
つぶやいて来た道を振り返る。
砂色のそれはずっとずっと遠く続いていて、日暮れ前に家に帰りつくのは難しそうに思えた。
野宿の道具は持ってきていない。
「ごめんペル」
不機嫌顔でこちらを見上げる黒猫に謝る。
猫はプイと横を向いた。
謝ったところで早く家に着くわけではないのだからさっさと歩けと言っているようにも思えた。
「ホントごめん」
もう一度誤ってミナは歩き出した。
けれどもその足はすぐに止まった。
なんでかというと、目の端に何かが見えた気がしたのだ。
振り返る。つまりさっきのと合わせて一回転。
その視界に入ってきたのは丘の陰に隠れて見える石の建造物だった。
道は丘を回り込むように曲がっている。
少し進むと丘で見えなかった景色が見えてきた。
「あれは……」
そびえたつ石壁。にょきっと生えた高い塔。
あまり離れていないところに町があった。
それからそれなりに歩いて、ようやく話は冒頭に戻るのである。
つづきます
乙
門を見上げながらミナがまず思ったのは、
「変だねえ」
ということだった。
いやいや門はちっとも変じゃない。
しっかりと造られた立派な門だ。
ミナが変だと思ったのは別のことだった。
「魔女が町に行きつくなんてほぼ絶対あり得ないのに」
普通の人にはそのこと自体が変に感じるかもしれないけれど、
魔女にとっては当たり前すぎるほど当たり前のことだ。
なぜかと考えることもないくらい当たり前。
そもそも歩いてくるときに見えていてもおかしくないほどの大きい町なのに、ちっとも気づかなかった。
それなのに今現実として町は目の前にある。
魔女が町と縁がないのは魔法の働きのせいだ。
彼女らは人を頼らなくてもいいし、普段は人と関わらない方が都合がいいことが多い。
だから人と会いたくないなと思う無意識を、魔法が拾って叶えているのだ。
少なくともミナは祖母にそう聞いた。
魔法は訳の分からない不思議なものだから、もっと別な理由や複雑な仕組みがあるのかもしれないけれど。
だとするならば。
とミナは視線を門から町の中へと移して考える。
魔女が町に行きつかないという当たり前のことを覆す何か別の理由があるのだ。
普通の人はただの偶然と片付けるだろうけど、そこは魔法という不思議に関わる魔女の考え方だ。
流れには乗っておこうとミナはうなずいた。
「もうすぐ日も暮れちゃうしね」
黒猫に言うと不服そうな顔はしたけれど、特に反対する様子はなかった。
てくてくと門の方へと進む。
人々は特に大きなチェックも受けることなく門をくぐっていて、ミナも何の気なしに入ろうとしたのだけれど。
「ちょっと止まって」
門の脇に立っていた番兵らしき制服の人に呼び止められてしまった。
わたし、なんか変だったかなあと不安になって自分の身体をちらりと見下ろす。
確かにあまり綺麗とはいえない野良着だけれど。
「見ない顔だね。それにずいぶん軽装だ。どこから来た?」
近づいてきた番兵さんはとても歯切れのいい声でミナに聞いた。
敵意というほどではなくて、でも無視することを許さないきっぱりとした口調。
「ええと。この道を真っ直ぐ行ったところにある森のほとりの風車小屋から……」
ミナは若干ひるみながら答えた。
その様子が番兵さんの不信感を呼んでしまったのだろう。彼の言葉に鋭さが加わった。
「そんなところは知らないな。この町には何の用で?」
これには困った。だって用事はまだ分からないからだ。
そう言うと番兵さんは顔をしかめた。
「分からない? それはどういうこと?」
ああだめだ。番兵さんもうはっきりとこちらを怪しい人と認めたみたい。
理由を無理矢理説明しようとしても、魔女の言うことを普通の人が理解できるとは思えない。
かといって魔法に逆らって帰ろうとしても、それはそれでよくないことが起こりそう。
(まいったなあ……)
ミナは途方に暮れて口をつぐんだ。
「君、ちょっとこっちに来てくれないか。話を聞かせてもらいたい」
そう言って番兵さんは門脇の詰め所を指さした。
きっと話を聞きたいといっても魔法に興味があるわけではなくて、ミナにとっては絶対愉快なことじゃないだろう。
どうしようどうしようと焦り始めた時だった。
「うわっ!」
短く悲鳴が聞こえた。ミナの後ろの方だ。
振り返ると大きな荷馬車が大きな音を立てて傾いたところだった。
道に溝でもあったのだろう。詳しいことは分からなかったし考える余裕もなかったけれど。
馬車は傾いただけにとどまらずに次に車輪がバキっと壊れた。
勢いよく荷台が落ちて半壊する。
まだ終わらなかった。荷台からさらに大きな音がする。
いや、それはただの音というよりは……
(……悲鳴?)
ミナが疑問符を浮かべるのと同時、壊れた馬車から灰色の波が勢いよく雪崩出た。
近くの男の人が押し倒されて地面に転ぶ。
波は急激に広がって周囲の人をなぎ倒し始めた。
悲鳴を上げて別の馬車から貴婦人らしき人が飛び出て、
もっと大きな悲鳴を上げる灰色の塊に突きとばされる。
彼女はもみくちゃになって倒れて、綺麗なドレスが灰色たちに踏み荒らされていく。
豚の群れだ。
近くの農村から買い付けてきたものを荷馬車で運んでいたのだろう。
それが壊れてこのありさまとなったというわけ。
と、冷静に考えられるほどミナだって落ちついていたわけではない。
壊れた馬車はミナからだいぶ離れていたけれど、豚たちは案外足が速かった。
迫る怒涛のごとき足音に背を向けて、負けないくらい大きな悲鳴を上げて逃げ出した。
たまたまその方向が町の中だっただけで、ミナに悪気があったわけではない。
番兵さんの方はといえば、豚さんに踏まれたり怒ったり事の収集に努めたりで忙しく、
ミナのことは忘れてしまうのだけれど、こちらも仕事を怠けていたわけではない。
まあ偶然というのはいつでも起こりえるしそれがなぜか今だったというだけ。
それに理由をつけたければ、やっぱり魔法という言葉を持ち出すしかないんだろう。
つづきます
乙
ぜいぜいと息切れを起こして立ち止まったときには、もう豚の足音は聞こえなかった。
ミナはそばの建物に手をついて大きく息を吐いた。
「はー……びっくりした」
奇跡的に取り落とさずにすんだバスケットの中をのぞきこむと、黒猫は目を回したようでふらふらと頭を揺らしている。
なんだか少し弱ったようにも見えたけれど、まあ一応無事ではあるようだ。
なら大丈夫。結構歳がいっている猫だけれど、身体は結構頑丈だ。
もう一度深呼吸して周りを見回す。
夕日が照らす中――もうそんな時間になっていたのだ――、道の両脇にはいくつもの建物が続いている。
どれも住宅というような造りではなくて、どうやら商店が並ぶ通りのようだ。
日暮れに向けて店を閉めるところが大半のようでまばらにしか人影がない。
ふき出てきた汗を拭きながら考える。今日はどこで夜を明かそう。
「あの」
ミナは道に出て歩いてきた男の人に声をかけてみた。
どこか泊まれるところを訊こうと思ったのだ。
しかし。
「あれ?」
男の人はちらりとミナを見ただけで何も答えずに行ってしまった。
何も見なかったし聞かなかったという様子で、そのあまりの自然さにミナは呆気にとられた。
自分が透明にでもなったのかなと思って両手を見下ろす。
魔法はたまに変なことをするけれど、大丈夫、そんなことはないみたい。
「あの!」
今度はもうちょっと大きな声で、向こうから来た中年の女の人に声をかけた。
女の人はするっとミナの横を抜けていった。今度はミナを見ることもしなかった。
「あれぇ……?」
その後もチャレンジしたけれど、何度声をかけてもまともに相手をしてもらえない。
さすがにくたびれて、ちょっとイライラもして、近くの店の壁にドンと強く寄りかかった。
「なんなの一体」
むくれてつぶやく。
これじゃあ野宿しかないかもしれない。
一応宿は探してみるけど、考えてみればお金の類は持っていない。
どうしたものか、まいったなあと頭を抱えてしゃがみこんだ。
その時声がした。
「なにやってんのあんた」
「え?」
驚いて見上げると寄りかかっていた店の入り口が開いていて、
そこから短い黒髪の少女が顔を出してこちらを見ていた。
ミナはいきなりのことと疲れているのとで、言葉もなくぽけっと見上げていた。
少女は眉をしかめてもう一度言う。
「ここでなにやってんのって聞いてるの」
「あ……」
ミナはわたわたと立ち上がってわたわたと言葉を探した。
「いや、その、ごめんなさい、わたし、あの、ちょっと困ってて……」
そこまで言って頭がストップする。
ええと、とか、あーうー、とか、そんな言葉しか出てこない。
すっかり進退窮まって俯く。
しばらく気まずい沈黙があって、それからぷっ、と吹き出すのが聞こえた。
「慌てすぎ。落ち着きなよ」
ミナはびっくりして顔を上げた。少女はにやにや笑って通りを指さした。
「さっきまでそこでいろんな人に声かけてた怪しい子だよね。見てたよ」
「そんな、怪しいなんて……」
「悪いけどすっごく怪しかった。誰が見ても不審者だよ」
そんなあ、とミナがしょげると、少女はあははと笑った後「わたしはリン」と名乗った。
「この店の店主をやってるんだ。宿を探してたんだよね? よかったら泊まってきなよ」
ミナは当然びっくりした。
「いいの!?」
「別にかまわないよ。特に困ることもないしね。その代わりちょっと手伝ってもらいたいことはあるけど」
「いいよいいよなんでもやる! わたしはミナ。よろしくね!」
ミナが手を差し出すと、リンは一瞬キョトンとした後、にっと笑ってその手を握った。
よろしく、と彼女が言うと同時、ミナのバスケットの中から夜と同じ色の猫が顔を出した。
「あ、忘れてた。この子はペルっていうの」
「……猫、いたんだ」
リンは微妙な苦笑いを浮かべた。
つづきます
ミナの朝は早い。
というより魔女の朝は早い。
特に理由もないし魔法の仕業とも思えないけれど、ミナの知っている魔女は祖母も母も全員早起きだった。
みんな夜明けと同時にはもう起きている。
まあミナの場合、寒い朝なんかはちょっと遅くもなるんだけれど。
ベッドから身体を起こして、ミナは少しの間じっとしていた。
ここがどこだか思い出すのに時間がかかったのだ。
(ああそっか、町に来てたんだっけ)
ベッドの横のバスケットを見ると黒猫はまだ丸まって眠っていた。
ミナはペルを起こさないように静かにベッドから下りた。そっと部屋を出る。
「おはよう」
ドアを開けた先には少女がいて、こちらに声をかけてきた。
ミナは少しびっくりしながらも挨拶を返した。
「あ、おはよう。早いんだね」
「なんかそれって家主のわたしの台詞じゃない?」
リンは声に笑いの気配を混ぜながら作業を続けた。
先ほどの挨拶もこちらを見ることなく机に向かっていた。
こちらからは横顔しか見えない。
店の中だ。
あまり広くもないが売り場兼作業場ということだろうか、色とりどりの布や裁縫道具が散らかっている。
窓は小さいので夜明け直後の室内は薄暗い。
どこか埃っぽいのもあって、店というには雰囲気が少しばかり解放感に欠ける感じ。
「あ、お腹空いたとかなら適当に食べてて。奥にいろいろあるから」
見回しているミナにリンが言った。
その間も手を動かし続けている。
とはいっても手際がいいのでせわしいという印象はあまりない。
仕事に慣れた人間は無駄な動きはしないというけれどそういうことだろうか。
「……もしかして夜通しやってたの?」
「んー?」
見たところ部屋はこことミナが使っていたベッドのあるところの二つしかなさそうだ。
ここには寝られる場所は見当たらないし、なんとなくリンの雰囲気は徹夜明けのそれだったからそう思った。
「ああ、まあね」
へえぇとミナは感心する。
ミナには自分が寝ずに夜を過ごすところなんて想像すらできない。
夜は眠るための時間であってそれ以外のことに使うなんてなんだかすごく不思議なことに思えるのだ。
「すごいね」
「そうかな」
どこか上の空の様子でリンは紙に線を引いた。若いながらもしっかりと仕事をする人の目で。
朝日が高くなって二人で朝食をとった。
調理はミナがやって、リンは悪いねと礼を言った。ミナは慌てて首を振る。
「そんなことないよ。泊めてもらったし寝間着も借りちゃったし」
リンはあまり気にした様子もなく「そっか」と食事を口に運び、ふと思いついたようにミナに問いかけてきた。
「そういえばその寝間着だけどさ、どうだった?」
「え。どうって?」
「着心地」
着心地? なんで?
ミナはそう思ったけれど、とりあえず思い出してみようとする。
でも特にこれといって挙げることもなくて困ってしまった。
リンはそんなミナを見てよし上出来とうなずいた。
「え、なに?」
「意識しないほど身体になじんでたんでしょ。だったら大成功」
ミナはやっぱりわからないんだけどリンは満足そうだった。
何のこと、と問うとリンは得意げに笑った。
「あれ、わたしが作った寝間着」
ミナは少し考えた後、「え!?」と驚いてちょうど持っていたスプーンを取り落としそうになった。
それくらいしっかりとした出来のいい寝間着だったのだ。
「あれを? 自分で?」
「そうだよ。さっきの作業見てたらわかるでしょ。わたしは服作る人」
そりゃあ察しはついてたけど。
ミナはまじまじと目の前の少女を見つめる。
自分とそう年は変わらない。
もしかしたらこちらの方が年上かもしれない。
それなのにあんなにしっかりとした技術を持っているなんて。
「……すごいね」
思わず言葉が漏れた。
「そんなことないよ、まだ駆け出しだし」
「駆け出し? あれで?」
ミナは疑わしい気持ちでリンを見つめた。
謙遜も行き過ぎると嫌な感じになってしまうものだけれど。しかしリンは言葉を続けた。
「そ。だから今日はあんたにもたくさん働いてもらうよ」
そういって彼女が浮かべた表情はだいぶにやにやとよくない笑みで、ミナは思わず椅子ごと身を引いた。
つづきます
「よし完成」
一通りを終えて満足そうにリンはうなずいた。
そんな彼女の目の前で、ミナは居心地悪く身じろぎする。
「なに恥ずかしがってんの。似合うよ」
「そ、そうかなあ」
果てしなく信じる気になれずに眼前の姿身を覗き込む。
そこにあるのはもちろんミナの鏡像だ。
姿見なんてミナの家では物置の奥にしまい込まれているからあまり見る機会はなくて、
そのせいで久しぶりの自分の姿になんともいえない妙な感じがしてしまう。
それがいつもと違う格好となればなおさらのこと。
雑な三つ編みにしていた髪はほどいて丁寧に梳いて整え、その後で一部だけをゆるく編み直してまとめてある。
服も汚れが入った野良着からきれいな薄青のワンピースドレスに着替えていた。
シンプルなデザインながらも地味な印象がないのは、
ほんのわずかながらも細かい各部位のバランスが絶妙に釣り合うように調整してあるのだろうか。
ふんわりと流れるスカートはかわいいけれど慣れていないので落ち着かない。
「うん、すっかりキュートな町娘だね。どう見ても田舎の芋女だったなんて思えないよ」
「い、芋っ……?」
「はいこれ」
愕然とするミナをあっさり無視して、リンは紙束の入った鞄が押し付けてきた。
結構な嵩と重みがあってあやうく取り落とすところだった。
よろめきながらもなんとか抱え直して訊く。
「な、なにこれ……!?」
「チラシ。配ってきて。全部」
そう言って彼女はミナの背中を押して店の外に追い出した。
「じゃ、よろしくー」
ミナの目の前でガタのきているドアが閉じた。
勢いに流されてしまって、ミナはしばらく言葉を失ったままだった。
呆然とした気分が引いてようやく落ち着いてから、チラシとやらを一枚引っ張り出す。
上部に大きい文字で一文、それから細かい文字でそれよりは長く別の文が続いていた。
「『仕立て屋リンのお店、明日開店』」
大字の方を読み上げて、ミナはしばしの間黙ってそれを見つめ続けた。
「駆け出しって言ったでしょ。明日店を開くの。自分の店」
夕方、ようやくのことでチラシを配り終えて戻ってきたミナに、作業を続けながらリンは言った。
芋女の文句に答えての言葉だ。
いろいろ物をあちらからこちら、こちらからあちらに動かしてはなんか違うなとやりながらなので、
こちらを向いてすらいないけれど。
「明日?」
傍らにあった肘掛け椅子に沈み込みながらミナはぐったりとつぶやいた。
「明日って、明日?」
「そうだよ」
小棚の置き場所に満足したのか、うなずきながらリン。
ただ、そのそばにはまだまだたくさん物がある。
続いてリンは小机を持ち上げて移動を始めた。
「わたしの念願だったんだ、自分の店を持つの。ようやく叶ってね。思えば長かったよ」
横顔にうっすらと笑みが浮かんでいる。
一日中開店の準備をしていたようだけど少しも疲れの気配はない。
体力があるのはもちろんだろうけど、
それよりも夢が叶った嬉しさでそんなことを感じている暇がないといった様子だった。
「店主って言ってたからてっきりもう開いてるんだと思ってた」
「あれ? そう?」
ミナの言葉にリンは一瞬だけこちらを向いたけれど、
すぐに作業に戻って「まあそんなことより」と続けた。
「今日はありがとうね、助かったよ。おかげで宣伝もばっちりだろうし明日が楽しみ楽しみ」
たくさんお客が来るといいなあとそっとつぶやくを見て、ミナも少し疲れのとれる思いがした。
「リンちゃんが心を込めて作った服でしょ? 大丈夫だよ。絶対たくさん売れる。間違いないって」
「だといいね」
小机の位置が決まったらしく、リンは再びよしとうなずいた。
もちろんまだまだ物はたくさんあるんだけれど。
「明日までに終わりそう?」
「微妙かな。また徹夜かも」
それを聞いてようやく疲れが引いてきたミナは勢いよく立ち上がった。
「じゃあわたしも手伝うよ。手伝わせて」
「ありがたいけど着替えてからね。それも売り物だから」
あ、そうなの……。
さっぱりとした声に多少出鼻をくじかれた感はあったけど、
とりあえず気を取り直して着替えるために奥に向かった。
結局徹夜まではいかないまでもかなり夜更けまで働いて、開店前準備はようやく終わった。
お疲れーと二人でふらふらとハイタッチしてそのまますぐにベッドに直行した。
それでも朝は早かった。
ミナは夜明けと同時に起きて、リンもその少し後に毛布から起き上がった。
外に出て朝日に照らされる店の様子を眺める。
両隣の店に押しつぶされるように小さくて、あまりきれいでもない建物。
それでもリンの第一歩だ。
店主本人はもちろんだろうがミナもなんだか嬉しかった。
よくよく考えてみれば一昨日出会ったばかりなのだから不思議なものではあるけれど、
気持ちの高ぶりは抑えようがないのも本当だった。
「うーん楽しみだねえ!」
「そうだね」
ミナは弾んだ声で言ったけれどリンの方はかなり落ち着いていた。
「じゃあ開店まで店の外と中を掃除しようか」
「……あ、うん」
また意気をくじかれた気分で所在なくミナうなずいた。
開店はそれからしばらく後。通りに人の姿が見え始めてから。
最後のチェック終えてから、リンが店のドアに開店の札を掛けた。
つづきます
乙
最初のお客さんが来店するまではひどく長く感じた。
その間ミナはあちこち行ったり来たりしていて、店を開いた本人であるリンより落ち着きがないほどだった。
といよりリンの方は落ち着きすぎていたのかもしれない。
売り物を淡々とチェックして、静かに来客に備えているようだった。
だからドアが開く音がした時も彼女は少しも慌てたようには見えなかった。
ミナのいらっしゃいませの声は上ずってしまって聞くに堪えないものだったけれど、
リンは「いらっしゃい」と静かに応対してのけた。
おそるおそる入ってきたのはまだ小さな女の子のようだ。
十歳にもなっていないように見える。
ミナたちを見つけるとびくっと背筋を震わせた。そのまま言葉もなく硬直する。
「いらっしゃい、よくきたね」
一瞬どうしようと戸惑ったミナを追い越してリンが前に出た。
少女のところまでいって視線の高さを合わせる。
「服を買いに来たのかな?」
「あの……チラシ」
少女が手に持っていた店のチラシを差し出した。
「これを見て来てくれたんだね?」
リンの言葉に少女がコクンと小さくうなずいた。リンはにっと笑うと「ありがと」と言って立ち上がった。
「じゃ、さっそく見ていってよ」
少女はしばらくもじもじとしていたけれど、ようやく心を決めたように小棚や服掛けの方に足を進めた。
リンは慣れていないらしい少女について選ぶのを手伝ってやっていた。
似合いそうな服をいくつか取り出してきて並べてやったりおずおずとした質問に答えたりした。
ミナはそれを離れたところから見ていることしかできなくて、ちょっと悔しい気分だった。
いろいろ悩んだ様子の少女だったが、
最後に赤いリボンのついた柔らかそうな素材の服を目にした時にぱっと表情を輝かせた。
それまでずっと硬い顔だったのでまるで花が咲いたかのようにも見えた。
「これがいいの?」
リンの言葉に少女は大きくうなずいた。
少し負けてあげた代金を払って帰っていく少女の後ろ姿は、
最初のこわばった印象が嘘のように嬉しそうに見えた。
「はあ、疲れた……」
「まだ一人目でしょ。それにあんたは見てただけじゃん」
椅子にへたるミナにリンが呆れた。
まったく、とかぶりを振っているけれど、その表情はさっきの女の子に負けないくらい嬉しそうだ。
ミナも口元をほころばせた。
「まずは一人目だね」
リンはうん、と静かにうなずいた。
開店してすぐの来客もあって滑り出しは快調に思えた。のだけれど。
その後は全く人が入ってくる様子がなかった。
ミナは椅子に座ってじっと待っていたけれど、ドアの方からは物音一つしなかった。
相変わらず売り物のチェックをしているリンをちらりと見やると、
ちょうど目が合って彼女はかすかに微笑んだようだった。
まあ最初はこんなもんだよ、という笑みにも見えたし、あるいは自嘲や皮肉の笑みにも見えた。
そのまま昼を過ぎた。
「わたしちょっと客引きしてくる」
軽い昼食を終えたミナは待つのに焦れて、リンの返事も聞かずに外へと出た。
通りを見ると人気は十分にあって、
昨日あんなにチラシを配ったことを考えあわせてもなんでお客が来ないんだろうと不思議に思った。
振り返って見やる。
確かに見栄えのする店じゃない。
なんだか日陰になっているし掃除はしたけれど古びた雰囲気はどうにもならないしで、
どこか近寄りがたいものはある。
でもそれならおいてある服がいいものだと知ってもらえばいい。
「あの、すみません!」
ミナはさっそく正面から来た中年ほどの男性に声をかけた。
また無視されるんじゃないかという考えがちらりと頭をよぎったけれど、
リンお手製の服でおめかししたおかげかそれはなかった。
足を止めた男性はわたしは忙しいんだが、と顔をしかめた。
「すみません急に。あの、素敵な服に興味はありませんか。ほらあのお店です」
店を指さしてから次に自分の恰好を示す。
「こういういい服がたくさんあるんですよ」
男性は店をちらっと見た後しばらくミナをじろじろ見ていたが、興味もなさそうにこう言った。
「地味すぎる」
「え?」
「装飾が手抜きだ。センスがないよ」
そう言い足して男性はミナに背を向けた。ミナは慌てて追いかける。
「でもあの、着心地はすごくいいんです。ちょっと寄るだけでも」
そこまで言ったのだけれど、しっしっと追い払われぽつんと立ち尽くした。
その後も何人かに声をかけてみたのだけれど、
「いくら着心地が良くてもねえ」
「チラシは見たよ。女がやってるんだって? あんまり信用できないなそれは」
「今忙しいから」
全然相手にしてもらえない。店に戻るとリンは椅子に座っていて、ミナの方に手を振った。何も言わなかったけれど、全部わかっているように見えた。
なんだかミナの方が落ち込んでしまって少しだけ涙をこぼした。リンはその間ずっと背中をさすってくれていた。
夕方になる少し前にようやく来客があった。
ドアを開けて現れたのは三十代ほどの女性だった。
「いらっしゃいませ」
ミナたちの挨拶を無視して女性はつかつかとこちらに近寄ってきた。
会計用に置いてあった机に、持っていたものを広げた。
「これ、返品したいのだけれど」
赤いリボンのついた服だった。
「……あの、これって」
言いかけるリンに女性は気難しそうな目を向けた。
「うちの子がここで買ったんですってね。勝手に。すみませんけどお金返してくださる?」
「それは構いませんけど」
「けど? なにかしら?」
とてもきつい口調だったので視線を向けられていないミナですらびくっとしたけれど、リンは少しも引かなかった。
「あの子とても嬉しそうに買っていきましたよ。親御さんが自分だけの考えで返品したらそれこそ勝手じゃないですか?」
女性は顔をしかめた。
「あの子はまだ幼いんです。良いものと悪いものの区別がつかないんですよ。親のわたしが代わって選んであげないと」
ちょっと待って、それはあまりにリンに残酷な言い方だ。
口を開きかけたミナをリンが手振りでとどめた。
「分かりました。少々お待ちください」
返金が終わって女性は店から出て行った。
その背中に向かってありがとうございましたと頭を下げるリンは、どこか寂しげに見えた。
「そろそろ閉店にしようか。片付けもあるし」
頭を上げてリンは笑った。
ミナはなんだかやるせなくて黙って立っていた。
リンも片付けと言いながらも手をつける様子もなくそばの椅子に座りこんだ。
長い長い沈黙の後にリンが再び口を開いた。
「まあ分かってたよ、わたしの実力はわたしが一番ね。自分の店でやってくなんてやっぱり夢でしかなかったってことかな」
彼女は疲れたときにするように顔を両手で覆ってため息をついた。
「ああくたびれた……」
出会ってから初めてリンの弱い部分を見た気がした。
ミナは何も言えずにいた。
何かを言わなければならないことはわかっていたけれど何も言えなかった。
そうしているうちにリンが言葉を続けた。
「一人でお金貯めてさ、店のための建物も借りてさ、服もたくさん作ってさ。
ああそういえば母さんの反対も押し切ってだっけ、まあそうやってようやく店開いたわけだけどさ。
現実って非情だよね。いやすごくシンプルって言った方が近いのかな。当然の結果だもんね」
はは、と弱弱しく笑った。馬鹿みたい、ともつぶやいた。
その時だった。ミナはようやく自分がここに来た理由が分かった。言うべきこともわかった。
それを言うために、そのために自分はここに呼ばれたのだと理解した。
「馬鹿なんかじゃないよ」
小さく、けれどしっかりと言う。リンが少しだけ顔を上げた。
「馬鹿なんかじゃない。それだけ頑張ったのが馬鹿なことなわけがない。
結果がどうだってそれとこれとは別のことだよ」
リンは答えなかった。肯定も否定もしなかった。
ただその言葉の意味をじっくり考えたようだった。
そして多くを訊ねることなく一言だけ訊いてきた。
「わたしの服、どうだった?」
「すごくいい服だった」
間髪入れずに答えた。考えるまでもなかったからだ。
たとえミナがいわゆるいい服に疎かろうと、もっと評判のいい服やそれを作る人がいようと、
百人中九十九人がリンの作る服を否定しようと。
ミナ一人はいい服だと思ったことだけは覆しようがない。
それですべてが解決するわけでもリンが救われるわけでもないだろうけれど、ミナがそう思ったのは事実なのだ。
「大勢に認められない良さだって絶対あるよ」
そしてそれは大勢に認められる良さには絶対真似できない美点を持っているに違いないのだ。
「だから――」
ミナは言葉を続けようとしたけれど、ちょうどそのとき入り口のドアが開いた。
夕日の光の中に立つ小さな人影には見覚えがあった。
「あの……」
最初に来店した女の子だ。リンが立ち上がって声をかけた。
「どうしたの?」
少女は外を一回振り返ってから店の中に入ってきた。誰かを警戒しているようなそぶりだった。
「ここにママが来ませんでした?」
ミナとリンは顔を見合わせる。心当たりはもちろんあった。
「うん、服を返しに来たね」
「その服、もう一度売ってください!」
少女が急に大きな声で頭を下げたのでミナもリンもびっくりした。
少女はお願いしますと繰り返した。
「あの服がどうしても欲しいんです。今度は絶対見つからないようにしますから。お願いします!」
ミナは呆気にとられて何も言えなかった。
リンもそれは同じようだったけれど、すぐに我に返って赤いリボンの服を取り出してきた。
「持って行って。お金はいらないから」
「え? でも……」
「服はね、きっと欲しいと思ってくれる人のところにいるのが一番なんだ」
少女はぱっと顔を輝かせると、ありがとうございますともう一度頭を下げて出て行った。
軽い足取り、嬉しそうな背中で。
嬉しそうな背中と言えばそれを見送るリンの後ろ姿も嬉しそうだった。
ほっとしたようなそんな様子でもあった。
ミナはなんだか泣きたいような気持ちになって目元をおさえた。
リンの服を認めてくれる人はもう一人いたんだってこと。
リンがドアを閉めて、夕日の光がそこで途切れた。
それからもう一泊だけして、ミナは帰路についた。
もう用事は終わったみたいだし、リンは大丈夫だと確信したからだ。
また来てね、と彼女は言った。
今度はもっといい服を作って待ってるから、と。
ミナは笑顔でうなずいた。また手伝いに来るよ。
門の所まで来るとあの時の番兵さんを見つけた。
彼は前と同じように門の脇に立っていて、ミナを見つけると訝しげな顔をして近づいてきた。
「あの時の子かい?」
「ええ」
ミナがうなずくと番兵さんは怪訝の色をもっと濃くした。
「ずいぶん様子が変わったなあ。正直見違えたよ。もう怪しくはないね」
ありがとうございますと頭を下げた後、ミナは思いついて付け足した。
「町の北の方にある仕立て屋リンのお店ってところにいい服が置いてありますから、
暇なとき行ってあげてくださいね」
番兵さんは首を傾げたけれど、一応わかったとうなずいてくれた。
「それじゃあわたしはこれで」
「ああ、気を付けて」
番兵さんに背を向ける。
ずいぶん遠くまで来たと思った。
そしてこれからももっとずっと遠くに行けるだろうとも思った。
ミナは『遠く』が大好きだし、『遠く』の方もミナの方が嫌いじゃないみたいだから。
そして、リンもきっともっともっと先に進めるんだろう。
楽しみだなあと、心から思った。
と、その時。背後でガタン! と音がした。
振り返ると町から出てこようとする大きな荷馬車の車輪が壊れて荷台に亀裂が入ったところで、
聞き覚えのある動物の悲鳴が聞こえてきた。
ミナは慌てて門の外へと逃げ出した。
(ひよっ子魔女と都会の少女:おわり)
三つめ終了
あともう一つ分話のストックが頭にあるのでそれをやって完結としたいと思います
多分短いので今日明日中に終わるはず
それではまた次回
乙乙
ひよっこ魔女と嘘嫌いの時から読んでるけど空気感がとても好きです乙
ひよっ子魔女と森の王
ある日のピクニックの最中、突然ペルの言葉が分かるようになった。
「川の上流に森の王がいたぞ」
あまりにいきなりのことだったので、
ミナはパンにかじりつく途中の口を開いた動きのまましばらく固まってしまった。
その日は以前エレクと一緒に見つけた森のお花畑に来ていた。
引っ張り出してきた黒猫は珍しく離れてどこかに散歩に出ていて、
彼の運動不足をひそかに心配していたミナはこれはちょうどいいなと思って好きにさせておいたのだけれど。
帰ってきたと思ったらなんとも奇想天外なこのサプライズ。
ミナはゆっくりとパンを下ろしながら猫を観察する。
とりあえず外見とかに特別な変化はない。
少し土汚れなんかがついているかもしれないがただそれだけだ。
とはいえ目に見える変化がないからしゃべれるようになるわけがないとは言えないわけで、
それが難しいところではある。
「ええと」
ミナは慎重に言葉を選んだ。いやそんなにマシな台詞があるわけでもないけれど。
「今なにか言った? ていうかしゃべった?」
「川の上流に森の王がいる」
声は確かに聞こえた。気がした。
気がしたというのはそのままの意味だ。
確かにペルがしゃべっているようには感じる。
でも何となく確信することができないというか。
黒猫は口を少しも動かしてなかったし、黒猫の方から声が『聞こえてくる』という感じでもないので、
ミナが勝手に心の中でペルに声を当てている感覚が一番近い。
ペルの声というよりミナの心の声だ。
つまり思い込みとよく似ていた。
思い込みと違うのはミナの頭の中に響く言葉とペルの挙動が一致しているということ。
「こっちだ」という声とともにペルはくるりと向きを変えて歩き出した。
無視することもできずにペルに続いて川沿いを歩きながらミナは考える。
(魔法……かな?)
魔法というのはそれ自体生きていて、不思議な物事を起こす目に見えない何かの総称だ。
わけのわからないことは大体これの仕業。
魔女はそれらと身内のごとく馴れ親しんでいたりその才能があったりする。
だから動物の言ってることを想像する何気ない遊びの類が現実とリンクするのは、
あり得ないこととは言い切れない。
ただの『あり得なくはない可能性』を実際に起こったことにする。それが魔法だ。
ペルは迷いなく河原を上流方向へと向かっていく。
何を目指しているのかは分からない。いや、そういえば違う。
(森の王……って言ってた?)
川上の方にそれがいるから会いに行くということになるのだろうか。
森の王? とミナは首を傾げた。
祖母から似たような単語を聞かされた覚えはあるけれど、うまく思い出すことはできなかった。
でも、と考える。王さまというからにはやっぱりすごく偉いんだろう。
それも『森の』と頭についている。
世の中にはいろんな王さまがいるけれど、その中でもかなり偉い王さまに違いない。
森は物言わぬ賢者たちの住処で、そのトップということなんだから。
「あれだ」
考えに没頭しているミナを、声が現実に引き戻した。
しっぽをゆらりとくねらせ黒猫が見やる先、河原の草の上にいたのは何やら黒くて大きい塊だった。
(……なんだろ?)
その時は結構離れていたので多少柔らかそうな黒い岩にしか見えなかったけれど、
さらに近づいていくと多少はわかるようになる。
黒いのは毛皮だ。岩のように大きい獣がうずくまっているのだ。
それに気づいてミナは慌てて距離を測った。
いつでも逃げられるように逃げ道も確認する。
場合によってはペルを連れて川に飛び込むことも必要かもしれない。
水が嫌いなペルはすごく怒るだろうがそんな小さいことは今はどうでもいい。
魔法は役に立つ? 味方してくれる?
そういうこともあるかもしれない。
魔法が気まぐれにミナを助けようという気になればだけれど。
「落ち着け」
いまだかつてない勢いで考えを巡らせるミナにペルが言う。
「大丈夫だ」
「……?」
ミナも異変に気がついた。
ひゅー、ひゅーと隙間風のような呼吸の音がする。
すごく弱くて苦しそうなそれは獣の方から聞こえてくる。
ペルは何を気負った様子もなくさらにそちらへと軽い足取りで近寄っていく。
ミナもそれに続いた。
獣はうずくまっていていたから少し縮んで見えたけれど、
それでも目の前に立ってみるととても大きいことが分かる。
もし起き上がれば四足立ちでも目線がほぼ同じ高さになりそうな、大熊だった。
相変わらず苦しそうな息の音は聞こえていて、それに合わせて背中が震えながら上下している。
「御大、連れてきたぞ」
ペルが言うと、ピクリと熊は反応した。
緩慢な動きで身体をほどき、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
「魔女……か」
今度は別の声が頭に響いた。
いやそれもミナの心の声なんだけれど、今度のは目の前の熊の代弁だという感覚があった。
顔を上げた熊の大きさはやっぱりびっくりするものがあってミナはひるみそうになる。
でもそれよりは先に口が開いた。
「大丈夫……?」
大熊の下の草は黒く濡れていた。
その時にはもう血の臭いが濃く漂っているのにも気づいていた。
大熊はいいや、と声に弱い笑いの気配を混ぜた。
「もうこの身体を持ち上げることすら、できないな」
「ちょっと待ってて! 今何か持ってくるから」
振り返るが、そこにはペルが座り込んでいた。彼はミナを見上げて言った。
「無駄だ」
「でも」
「諦めろ。仮に治せたとしても今度は返礼として食われるのがオチだ。お前の役割はそれじゃあない」
反論しようとするけれどそれを背後から制止される。
「彼の言う通りだよ魔女どの……あなたには違うことを、頼みたい」
かすれ声で、熊は言った。
「わたしは森の王……いやかつて森の王だった。ギヌという。あなたには……」
ギヌは急にうめいて頭を垂れた。それからもう一度上げた口元は、わずかに血で濡れていた。けれどそれでも目にはまだ力が残っている。
「あなたにはわたしの最後の話相手をお願いしたい」
瞳の光は小さいけれどどこか強さを感じさせた。
ミナは即座にうなずいた。
「わたしでよければ。これも魔法のめぐりあわせだと思うから」
「ありがたい」
ギヌはほっとしたように頭を下ろし体をゆっくり横に倒した。
「申し訳ない。が、この方が楽でね。もう礼を失しないだけの体力がないんだ」
ミナは小さく首を振った。
「気にしないで」
ギヌの呼吸は既に細く長い。
苦しみにのたうつ激しい痙攣や荒い呼吸はもうとっくに通り過ぎ、
あとは静かに死を待つだけの身なのだろう。
「さて、何から話したものか。意識に靄がかかってそれすらもわからなくなってきたが」
「なんでも。あなたが話したいように」
「……あなたはまだ若いが、魔女としての資質は十分のようだね」
そんなことを言われたのは初めてだ。
自分は魔女として魔法と共に生きる術を十分に身に着けてはいないし薬草の扱い方なんかも半人前。
祖母には今みたいに褒めてもらった記憶もない。
「わたしは資質と言ったんだ。それは身につけるものではなく最初からあるものだ。
鳥が鳥であるように。魚が魚であるように。それは『そうである』ということだ」
「……分からない」
どこか悲しい気持ちでかぶりを振る。理解できないことがひどく残念に思えた。
「気にすることはない。そうであるものがそうであることについてその理由を考える必要はない。
ただあるがままに生きればいい」
ギヌは大きめに息を吐いた。
「話が逸れた。いやこれも大事な話には違いないがわたしには時間がない。
ああもう目は見えないのと同じになってしまったな」
そう言って彼は瞼を閉じる。
「魔女の資質はあらゆるものの語る言葉をそのまま素直に聞いて流れに従うことだが、
かつてのわたしの――つまり森の王としての資質は、ただ強く賢くあることだった。
強くあって他を寄せつけないこと。賢くあって他を上回ること」
わたしの体を見てくれ、と彼は言った。大きい体だろう?
確かに大きくて他の生き物ではどうあがいても勝てそうにない。
「わたしには森の王になるためのものが備わっていた。
他を圧倒し、出し抜き、あるいは協力もし、なるべくして王になった。
わたしは長くこの森に君臨することとなった。そして当然の結果として終わりもやってきた」
「どうして?」
「より強く賢いものには勝てないからさ」
自分で言ったことが自分で面白かったのか、彼は笑うように小さく呼吸を乱した。
「わたしは負けた。相手の方が強くこちらは老いていた。
わたしはもうすぐ死ぬ。わたしが話したいのはそのことだ。死についてわたしは知りたいのだ」
「死」
について。ミナは胸中で繰り返した。死について。
「そうだ、死だ。わたしは食べるために殺した。生き延びるために殺した。
森には生命に満ち溢れているがそれは同時に死も満ち溢れているということだ。
わたしはそうした行為を当然と思い何の疑問も持たなかった。
いや今でも持っていないが、今度は自分が死ぬ身になって思う。
死ぬとは何なのだ? なぜこんなにも怖く、寂しいものなのだろう」
うわごとのように長く続いたギヌの言葉はそこで途切れた。
ミナは慌てて彼の頭のそばにしゃがみ込んだが、まだ息はあった。
「教えてくれ。死とは何なのだ?」
ミナはしばしの沈黙の後、首を振った。
分からない。分かるはずもない。
「わたしはまだ一度も死んだことがないもの」
「……そうか。そうだな。違いない」
おそらくギヌの方が先に死を知ることになるのだろう。
その知識はどこに行くのかは知らないけれど。
「では霊魂は存在するのだろうか。霊魂の行き着く死後の世界はあるのだろうか。
そこに神はいるのだろうか」
「分からない」
「そうだな。もうすぐ分かるのかもしれないが」
「ねえ。死についてはまだ分からないなら生について聞きたいな。
あなたはどういう風に生きてきたの?」
今度は長い沈黙があった。
だがギヌはそれでもまだ死んでいなかった。
多分言うべきことを言い終わるまでは死なないのだろう。
魔法がミナをここに導いたのなら、ギヌはまだ死なない。
熊はそれから静かに話し始めた。
つっかえつっかえ、弱っているからというより遠い過去を手探りで探しているかのように少しずつ語った。
生まれたときのことは当然覚えていないけれど、
薄暗い穴の中で母親に抱かれ穏やかな気持ちでいたことは覚えている。
風の音や水の滴る音を遠くに聞きながら寝たり覚めたりを繰り返していた。
それから母親についていろいろ生きる術を学んだはずだけれど、それについては記憶が曖昧だ。
ただ母がくれた魚の味がとてもおいしかったことだけは頭にしっかり残っていた。
あとはひたすら戦う日々。
激しく牙をむき合う戦いもあれば静かで長い戦いもあった。
傷つき今度こそ死ぬと思ったのも一度や二度ではない。
そして敵は形あるものとは限らなかった。飢えや渇きや寒さや恐怖。
そういったもの全てと戦ってきた。
「そういえば魔女とあったこともある」
森の中を一人で歩く、若い魔女だったらしい。
「その人がわたしに名をくれた。わたしはその時ちょうど満腹でその人を襲う気にはならなかったんだ」
あれは魔法だったのかもしれないが、とギヌは続けた。
その魔女は大熊をギヌと名付けその晩長く語り合ったそうだ。
その中に死についてのこともあった気がするとギヌは言う。
「光があるのは闇があるから。生があるのは死があるから。黒い紙には字は書けない。
そんなことを言っていた」
ふと思い出すものがあってミナはつぶやいた。
「わたしその人のこと知ってるかも」
「本当か。誰だ? あれはどういう意味だったんだ?」
「誰かはちょっと自信がないけど。似たような話ならわたしも聞いたことがあるから」
記憶を探って言葉にまとめるのは結構難しかった。確か、と口を開く。
「光が光と分かるのは暗闇の中にそれがあるから。もし暗闇がこの世になかったら、光は光じゃない。
同じように生でない状態がなければ生は生たりえない。紙が黒かったら字は字として働かない」
「つまり……生と死は互いに存在を支え合っているということか。死はあって当たり前のものということか」
ギヌは長くため息のように息を吐いた。
「それが分かったところで死はやはり恐ろしい。寂しい」
「それも当たり前だよ。あなたがあなたとして生きてきたこと、そしてあなたという存在、
全部がなくなるんだから。怖くないわけがない。寂しくないわけがない」
そして、悲しくないわけがない。
「まったく、死とは何なのだろう……」
疲れた声で言うギヌにミナは優しく言った。
「どうしても怖かったら、少し眠るだけだと思えばいいんだよ。
起きてる時間っていうのも眠りの中にあるものだから」
「そうか?」
それまでずっと黙っていたペルがその時だけツッコんできたが、ミナは無視した。
「眠るまでそばにいてあげる。ゆっくりおやすみ、ギヌ」
それからゆったりとしたメロディーを口ずさんだ。
優しく穏やかなそれは寝る子のための子守歌。
森の熊が眠りながら見る夢のお話で、祖母がよく歌ってくれた歌だ。
祖母は若い頃各地を旅していたようで、ある森の王様にもあったことがあるという。
名前をあげて一緒に話をしたんだとか。
彼女は厳しい師匠だったけど、歌う声は優しかった。
柔らかい日の光の中、ミナの歌を聞きながら、かつての森の王は静かに息を引き取った。
……
ギヌを埋めてあげようと思ったけれど、森には森のやり方があると思い直し、
ミナはそのまま帰路に着いた。
草原の中を歩いているときに気づいたけれど、もうペルの言葉はわからなくなっていた。
もう今回の魔法は終わったということなんだろう。
バスケットの中、にゃーと鳴く黒猫の頭をなでてやりながらミナは地平の向こうを眺める。
日の光が今しも赤く染まっていくところ。
不思議に満ちた世界を照らし、沈み、そして夜がやってくる。
夜の後には朝。明日と明後日、明々後日。ミナの周りはそうやって少しずつ巡っていく。
そんな日々を、まだまだ未熟なひよっ子魔女は、ゆっくりゆっくり歩いていくのだ。
(ひよっ子魔女と森の王:おわり)
以上、完結です
正直途中でくじけそうになったけれどレスに本当に助けられました、ありがとでした
ではまたいつか
おつ
いつかまた書いてくれ
乙乙ほんとおつ
すきでした、ありがとう。
乙乙!
レスが少ない中よくやり遂げたと思う。
良い作品だった。
>>1です、レス本当サンクスです。これで次も頑張れます
ところで付け足し忘れたことがあって戻ってきました
ひよっ子魔女の話ですが、またこれで一本書こうかなと考えてます
いつになるかはわかりませんし見苦しいかもしれませんが、見かけたらどうかよろしくです
では今度こそ失礼しました
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