「男、逃げろ……」
なにが起こっているのかわからなかった。
父さんの首から下は氷漬けになっていた。
そして、僕の目の前には白い着物を着た綺麗な女の人がいる。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「かわいい坊や……こっちへいらっしゃい?」
俺は顔中を涙で濡らしながら、夢中になって小屋を飛び出した。
雪山を裸足のまま駆け下りて行った。
それが俺の記憶の中の最後の父さんだった。
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「おーとーこー!おきなさーい!」
上の方で目覚まし時計がうるさく鳴っている。
どうやらいつも朝がやってきたようだ。
男「うるさい!」
俺はすかさず目覚まし時計に渾身のチョップを喰らわせてやった。
目覚まし時計(?)「ぎゃふん!!」
そんな音とともに目覚まし時計は静かになった。
目元をこすると、だんだんと視界が明瞭になってきた。
男「おい、お前。朝っぱらからこんなとこでなにしてんだ?」
どうしたんだろう。
俺の足元には幼馴染がうつ伏せに転がっていた。
すると、幼は顔をあげて涙目で俺を睨みつけてくる。
何を怒ってるんだ、こいつ。
男「おいおい、夜這いするんだったらバレないようにやれよ?」
幼「あんたのせいでしょうが~~~~~ッ!!」
男「……は?」
俺がその言葉を理解しないうちに、幼の回し蹴りが飛んできた。
直後、俺の顔はその衝撃に思いっきり揺すぶられ、俺は意識を失うことになった。
パンツは水色ストライプだった。
支援
ベタ
だがそこがいい
幼「あんた、ほんっっっとにいいかげんにしなさいよねッ!だれが毎日あんたのことを起こしてあげてるか、そこはちゃんとわかってるのっ!?」
男「だから、悪かったって何度も言ってるじゃねえか!しつこいぞ、お前!」
幼「あんたには誠意ってものが足りないのよ!謝ってもどうせ口先だけのくせに!」
男「はいはい、そーですねそーですね」
幼「ああーもうっ!あんたなんかぁ、だいっっっきらい!!」
俺たちは差向いに座って、朝ごはんをつついていた。
幼は今日も相変わらずうるさい。
この状況を何も知らない人が見たら驚くかもしれないが、口喧嘩をするのが俺たちのいつものコミュニケーションだった。
「こらー、ダメですよー?ケンカする悪い子は今日のお夕飯抜きですからねー」
男「あ、狸川さん」
台所の奥の方から狸川さんのゆったりとした声が聞こえてきた。
彼女はうちの専属の家政婦さん。俺が物心ついた時には既に、この人はうちで家政婦をやっていた。
何歳ぐらいなんだろう。見た感じ20代前半ぐらいの女性に見えるが。
前に年齢を聞いた時には、150歳とか大嘘をつかれたので、狸川さんは多分他人には年齢を教えたくないのかもしれない。
俺は気にしないことにした。
狸川「坊ちゃん、今日もいつもの時間になったら迎えに行きますねー」
狸川さんはニコニコしながら、机の上に焼き鮭がのっている皿を置いた。
男「い、いいよ。なんか恥ずかしいし」
狸川「でもー、やっぱり心配ですからー」
男「う~~~ん……」
俺は頭をかかえた。
気持ちは嬉しいんだけど、それと同時にとても困ってしまった。
この前なんか、同じクラスの連中に散々に問い詰められることになったし。
狸川さんは背も低くてロリ顔だからなあ。性格もおっとりしている。つまり、男受けがいいのだ。
幼「じーーーーー」
男「……ん?」
気がつけば、幼が俺の顔を冷めた目で見つめていた。
幼「不潔」
男「……は?」
そして、不機嫌そうな声色で、ぼそっとつぶやいた。
幼「あんた、鏡で今の自分の顔見てみなさい」
男「なんでだよ」
幼「決まってるでしょ、バカ。なによ、だらしなーく鼻の下なんか伸ばしちゃって……」
そう言ったきり、幼はそっぽを向いた。
こいつの思考回路は到底理解できそうになかった。
俺にわかったのは、こいつはひねくれているということだけだった。
ツンデレ幼馴染は至高
朝ごはんを片付けたあとの俺たちはそのまま登校することになったのだが……
男「あ、あのー……」
狸川「はいー」
男「どうして、狸川さんが……?」
狸川「やっぱり、坊ちゃんが心配ですからー」
男「そ、そっか。あはは、そうだよな、ありがとう」
俺は気恥ずかしくなって頭をかいた。
狸川さんは俺たちと一緒にいつもの通学路を歩いていた。
しかも、エプロンをつけたままの状態で。
周囲の視線が少しだけ痛かった。
幼「……っ!」
男「いでえっ!」
俺と狸川さんが笑っていると、幼が急に俺の横っ腹をつねってきた。
少しの容赦もなかった。
その焼けるような痛みで俺はその場にうずくまった。
男「つ~~~~!てめえ、急になにしやがるっ!」
幼「なによ!男のバカっ!」
男「はああああああああ!?」
バカはお前の方だろ?
そう言いかけたが、回し蹴りが怖かったので俺は言葉を飲み込んだ。
狸川「あらあら、うふふっ」
狸川さんはそんな俺たちを見て、楽しそうに笑っていた。
狸川さんとは校門の前で別れた。
そして、今の俺たちは下駄箱の前で上履きに履き替えようとしていた。
幼「うあ~~~……」
俺が上履きを履いていると、隣の幼が自分の下駄箱を覗き込んで変な声をあげていた。
男「ん、どうした?マヌケな声だして」
幼「……るっさいわね。あんたには関係ないわよ」
そう言われると、気になってしまうのが人間のサガというもの。
それに俺は幼の弱みを握ってやりたかった。
腕っ節だけが取り柄のこいつに、これ以上言いなりにされるのはこりごりだからな。
俺は幼に気取られないように後ろから覗き込んでやった。
すると、そこには……
男「手紙……?」
雑貨屋で買って来たようなオシャレな封筒が、何通も束になって放り込まれていた。
俺の視線に気づいた幼はひどく慌てた様子でそれらを鞄の中に突っ込んだ。
幼「な、なんでもないからっ!」
男「なに焦ってんだよ。お前」
幼「あ、焦ってないからっ!あんた、バカじゃないの!」
そんなに必死になって誤魔化さなくてもいいのに。
幼がこのようにラブレターをもらっているのは前々から噂で聞いていた。
実際にその光景を目にしたのはこれが初めてだったわけだが。
幼は性格も明るくて、面倒見がいい、そして何事も自分から率先してやる。
俺の目からみても容姿は悪くない。クラス委員長をやっている。
人気になるのは当然のことかもしれない。
俺自身は幼に女としての魅力はあまり感じなかったが。
どっちかというと、生意気な妹が出来たような感覚だ。
その後、俺たちは教室に入って、それぞれ自分の席に向かった。
俺が席に座ると、にやけ顔で悪友の男友が近寄って来た。
そして、俺の肩に腕を回してきた。こいつは今日も暑苦しい。
男友「よっ、男!今日も奥さんと仲良しこよしだな!あと、よかったらでいいんだけどさー、今度幼さんに友達何人か紹介してくれるように頼んでくれないかな?お前もこんなイケメン紳士が売れ残ってるのは勿体ないと思うだろ?」
男「死ね」
勘違いも甚だしかった。自覚がないから余計にたちが悪い。
男友「そんなつれないこと言うなよ!俺たち 親 友 だろぉ?なあなあ~~~!」
男「うざいから。それに俺はあいつとは幼馴染以外のなんでもないぜ?」
俺のそんな言葉に男友は目を見開いて、わざとらしく驚いて見せた。
信じられない、とでも言いたげな様子だった。
男友「お前、それマジで言ってんのか?だとしたら、お前頭オカシイぜ」
男「は?なんでだよ」
そんな俺の様子に男友は呆れ返って大きな溜め息をついていた。
男友「なんでじゃねーだろ?お前らどっからどーみても、まんまカップルじゃねーか」
男「いや、あいつは妹みたいなもんだし……」
男友「あーあ、ダメだーこりゃあ……幼さんかわいそー」
殴ってもいいかな、こいつ?
こいつの失礼極まりない態度に俺の怒りは臨界点を突破しようとしていた。
男友「ま、そんな話は今はどうでもいいんだ。それより、大ニュースだよ!大ニュースっ!」
男「うるせえ……」
耳がキンキンしている。こいつが大声で騒ぎ立てるからだ。
大ニュースかなんだか知らないが、はっきり言ってどうでもいい。
おとなしく自分の席に戻って欲しいと思った。
そんな俺の心境を知らない男友はそのまま言葉を続ける。
男友「いいか、聞いて驚けよ?なんと、今日、うちの学校に、教育実習生の先生がやってくるらしい!しかも、大学卒業したての女教師ときた!」
男「はあ……」
男友「安心しろ!ある筋の情報で美人で巨乳というのは確認済みだ。ちなみにバストのサイズは推定でEカップぐらいはあるようだ」
男「へーへー」
男友「し か も だ!そのエロい女教師がうちのクラスにやってくるらしい!これはお近づきのチャンス!最高じゃないか!おっぱいばんざーい!」
男友は咆哮とともに腕を大きく突き上げた。
周囲の女子の冷たい視線が俺たちに突き刺さった。
頼むから、一緒にしないでくれ。
男友「あ、それで、さっきの話に戻るんだがn
男友が言いかけたその時、ちょうどよく予鈴の音が鳴った。
男友は忌々しげに舌打ちをして、俺に人差し指を突き付けてきた。
男友「男っ!続きは次の休み時間だからな!覚えてろよ!」
やつは最後に捨て台詞を残し、自分の席に急いで帰って行った。
騒がしいやつだ。まるで台風のようなやつだと思った。
俺がそんな感じで頬杖をついていると、隣から机を軽く叩かれる、とんとんという音がした。
俺がその方向に目を向けてみると……
隣女「あはは、お疲れさま、男くん」
男「隣女さん」
苦笑いをしながら、隣女さんが愛想よく俺に話しかけてきた。
個性的な人物が多い俺の周囲では彼女が唯一の常識人だった。
男「そう、聞いてくれよ!あいつには、ほんとどうも参ってるんだよ。毎度毎度しつこいったらありゃしない!」
隣女「うん、あれはたしかに……ちょっとやりすぎかもしれないね」
男「だろー?それにしても、俺の周りの連中はどいつもこいつもアクが強すぎるんだよ!少しは隣女さんを見習ってほしいもんだぜ」
隣女「……うっ!男くんって、たまにひどいことをさらっと言うよね……」
隣女さんはげっそりとした顔で胃のあたりを何度もさすっていた。
なんだかよくわからないが、彼女も彼女なりにいろいろと悩みを抱えているらしい。
もしかすると、生理なのかもしれないな、多分。
女の子は何かと大変だ。
担任「おら、お前らさっさと席につけよー。HR始めるぞー」
俺たちが談笑していると、出席簿を片手に赤ジャージ姿の担任がやってきた。
担任は教卓の前に立つと大きく一回咳払いをした。
それを合図にHRが始まった。
担任「えー、早速だが、お前たちに伝えることがある。噂で聞いているかもしれないが、教育実習の先生が今日から数日間、お前らのために授業をしてくださる」
後ろの方で男子の「おおっ」とか「いよっ、待ってました」とかいう声が聞こえた。
その中には男友の声も混じっているかもしない。いや、混じっているだろう間違いなく。
担任は呆れた顔をしていた。
担任「お前ら、嬉しくて舞い上がる気持ちはわかるが、くれぐれも迷惑だけはかけてくれるなよ」
そう一言断ると、担任は顎髭をなでながら、教室のドアの方へと向き直った。
担任「では、こいつらの準備もよさそうなんでそろそろお願いします」
Eカップ「はい」
凛々しくてよく通る、きりっとした声が聞こえた。
それを合図にゆっくりと教育実習の先生が入ってきた。
そして、恭しくお辞儀をしたあと、自己紹介を始めた。
Eカップ「今日からこちらの学校でお世話になります、雲井と申します。勉強不足なところはあるかもしれませんが、今日から数日間どうぞよろしくお願いします」
高身長でモデルのようなプロポーション。
妖艶な色気漂う透き通った唇。
大人のお姉さんというのはこの人のためにある言葉なのかもしれない。
男子連中は揃って大きな歓声をあげた。
男友「はい!はーい!質問!質問でーす!雲井先生は今フリーですかー!」
鼻息を荒くして男友が質問をした。
周りの男子連中は面白がって笑っていたり、同じような質問をしたりしていた。
その様子を見るに見兼ねた担任は男友の近くまで寄ってきて、その頭を出席簿の角で小突いた。
担任「この馬鹿垂れ!雲井先生が困っているだろうが!」
男友「な、なんで俺だけ……」
涙目の男友は叩かれた部位を痛そうにさすっていた。
担任は「自業自得だ」というような表情をしていた。
渦中の人である雲井先生はというと、そんな光景を目の前に軽く微笑んでいた。
そして、さっきの質問に対する返答を今頃になってした。
雲井「先生はね……今は、フリーかな?」
教室が一瞬静まり返った。
一拍遅れて、男子連中はまたもや大きな歓声をあげた。
女子はドン引きしていた。
担任「雲井先生、困りますなー。生徒の模範であるべき教師がそのような態度では……」
男友「るせー!固いこというんじゃねー!そんなだからいまだに独身なんだよ!」
モブ男「そうだ、そうだー!万年独身貴族ー!」
担任「お前ら、次余計なことを抜かしたら廊下に立たすぞ!」
男子連中はみんなそれぞれに担任に向かって野次を飛ばした。
この喧騒はHRが終わるまでは、とてもじゃないが収まりそうになかった。
雲井先生がこのあと質問攻めにあったのは言うまでもないだろう。
午前の授業が終わり昼休みになると、俺はいつものように弁当を片手に教室を抜け出した。
今の俺は"いつもの特等席"を目指していた。
そこは誰の邪魔も入らない俺の秘密基地だった。
体育倉庫の横の桜の木の下、俺はそこに一人腰を下ろした。
男「もうすぐ、夏かあ……」
青々と色づいた新緑の間を抜けて、木漏れ日が顔を覗かせた。
今年の夏はどうなるだろう。しばらくその場で考えてみたが、それもすぐにやめた。
いつも通り、幼と狸川さんと三人で海に行って終わりなような気がした。
今の俺はこんな変わらない日常に飽き飽きしていた。退屈だった。
運命を変えるほどの強い刺激が欲しかった。アニメのヒーローにでもなれたらいいのにと思った。
だが、現実にはそんな超展開は存在しない。大抵は平凡に終わってしまう。
俺は現実と理想の余りにも大きな違いに嫌気が差していた。
猫「にゃ」
その声に顔を向けると、俺の目の前には無愛想な表情の三毛猫がちょこんと座っていた。
それによって俺の思考は一旦中断されることになった。
男「よう、元気だったか?待ってろよ、今日もいつものやつやるから……」
俺はすぐに包みを開いて、弁当箱の蓋を開けた。
中には朝ごはんの残り物が詰まっていた。
その中にある焼き鮭の切れ端を箸でつまんで、猫の目の前にいくつか落としてやる。
猫「にゃ」
猫は鼻をひくつかせ、短く一声鳴いた。
どうやら礼を言ったつもりらしい。
そして、猫は夢中になって焼き鮭を貪った。
無愛想だが、礼儀は心得ているようだ。
猫の癖に大したやつだと俺は感心した。
男「お前は呑気でいいよなー。どうして人間なんかに生まれちゃったんだろう」
男「人間は面倒だ。勉強、就職、結婚、法律、もうたくさんだよ」
俺は猫が羨ましかった。
いつも自由で何者にも縛られることがない、そんな猫が羨ましかった。
だが、猫はそんな俺に対して何も答えなかった。
必死になって焼き鮭にがっついている。
当たり前だ。猫には人間の言葉なんかわかるわけがないんだから。
すると、遠くの方で予鈴の音が聞こえた。
俺は怠そうに立ち上がると弁当箱を脇に抱えた。
男「じゃあな、また明日も来るからな」
人間の俺は授業の用意をしないといけない。
猫とは生きている世界が違うのだから。
雲井「ええ、ですからここは解の公式を用いると……」
雲井先生が黒板に数式を書き込んでいた。
6限目は数学の授業だった。
真面目に授業を受けているやつも中にはいるが、大半はボーっとしているか、机に突っ伏しているかのどっちかだった。
俺はボーっとしていた。
雲井「……というわけで、答えを導くことが可能です。では、今からみなさんが理解できているかどうか確認を行うことにしますね」
教室は緊張に包まれた。
もしかすると、自分があてられるかもしれないと思ったのだろう。
寝ているやつを除いて、ほとんどのやつがビクビクと怯えていた。
雲井先生は詰まることなく淡々と授業を行っている。
教育実習生特有の初々しさがまったく感じられなかった。
雲井「では、ここの解答を……そうですね、男くんにお願いしてみましょうか」
男「……げっ!」
どうやら俺は出遅れたらしい。
教科書をめくり始めた時には既に名指しされていた。
俺は藁にもすがる思いで横の隣女さんの顔を覗き込んだが、手を合わせて申し訳なさそうな顔をしていた。
つまり「ごめん、わたしもわかんない」ということらしい。
男「わかんないです……」
ついに観念した俺はそう答えた。
そんな俺に雲井先生は妖しく笑った。
そして……
雲井「授業はしっかり聞いておくこと。次同じことをやったら今度は居残りだからね、わかった?」
雲井先生は俺に向かって軽くウインクをした。
俺の心臓はどくんと高鳴った。
幼の視線が痛かったが、今回は勘弁してほしい。
男は美人には弱いんだからな。
幼「なによ!あの先生!あんなんだから女子の間では評判がよくないのよ!」
予想通りだった。
その日の帰り道、幼は不機嫌な様子で愚痴をこぼしていた。
狸川さんはそんな俺たちを見て、相変わらずニコニコと笑っていた。
男「お前の気持ちもわかる。だから、まあ、落ち着けって」
この状況の幼を刺激してもいいことは何もない。
だから、俺は比較的穏便に相槌を打ったが……
幼「男だって、鼻の下伸ばしてたくせに……スケベ!」
こいつは一度へそを曲げると面倒だった。
そして、俺は言い返せなかった。俺は乾いた笑いを浮かべているだけだった。
幼「なによ……」
男「え?」
幼「否定しなさいよ!男のバカぁっ!」
男「お、おい!」
幼はそのまま駆け出してしまった。
その場には呆然と立ち尽くす俺と、いつもの狸川さんがいるだけだった。
遠くの方ではカラスが気の抜けた声で鳴いていた。
もう夕方だった。
これが俺のいつもの日常だった。
それに変化を求めていたあの頃の俺は馬鹿だったのかもしれない。
だって、俺は失った時に初めて思い知ったのだから。
変わらない日常はあんなにも心地よくて、温かくて、優しかったんだということに。
急激な変化が訪れたのはあの日から数日たったあとだろうか。
いつものように授業中ボーっとしていた俺は雲井先生に呼び出された。
そして、居残りを言い渡されたのだった。
補習が始まってから2時間ほどたっただろうか。
夜の帳が落ちて、もう既に外は真っ暗だった。
先生は突然嬉しそうに口を開いた。
雲井「やっと、二人っきりになれたね。苦労したのよ、あなたの周りは"監視"が厳重だったもの。迂闊には手を出せなかったわ」
男「え?」
俺はシャーペンを走らせる手を一旦とめて、先生の顔を見た。
発言の意図がよくわからなかった。
そんな俺に先生は優しく微笑んだ。
雲井「なにも考えなくてもいいのよ?あなたはわたしに身を委ねれるだけでいいの。ね、簡単でしょ?」
俺の首元に先生の手が回される。
そして、先生の顔がどんどん近づいていく。
お互いの心臓の音や息遣いが聞こえてきそうな距離だった。
雲井「命を懸けて愛してね。わたしもあなたの全てをもらってあげるから」
男「う、あ……」
柔らかくて感応的な女の匂いが俺の理性を刺激した。
スーツの上から突き上げている胸のふくらみ。
スカートから覗いた細くて真っ白な太もも。
少し湿り気を帯びた艶のある唇。
それらが全力をあげて、俺という一人の人間を一匹の獣に変えようとしていた。
これが俺の求めていたものなのかもしれない。
男なら誰もが憧れるシチュエーション。
俺がずっと夢に見ていた非日常的な展開。
それが今、目の前にある。
このまま流されてしまえばいい。
そう思ったが、俺の理性は紙一重のところで必死に持ちこたえていた。
どうしてなのかわからない。
俺の頭の中に浮かんできたのは幼の顔だった。
不器用で、怒りっぽい、いつものあいつの不機嫌な顔だった。
それが俺の理性をあと一歩というところで押しとめた。
男「や、やめてください!」
雲井「きゃっ!」
俺が勢いよく突き放したので、先生は小さな悲鳴をあげて床に倒れ込んだ。
そして、理解が出来ないといった様子で俺の顔を見上げた。
雲井「どうして?ねえ、どうして受け入れてくれないの?くすぶっている情熱の炎をわたしにぶつければいいじゃない」
男「…………」
たしかに、そうかもしれない。
若さに任せて暴走してしまえばいい。
それに向こうも同意の上だ。何も問題はないはずだ。
男「俺もさっきまではそう思ってました。でも、どうしてでしょうね?」
男「幼の顔が……あいつの顔が浮かんでくるんですよ。それで考えてみたんです。果たして、俺は流されてもいいのかって」
男「どうしてかわかんない。わかんないけど、あいつ、きっと泣くんじゃないかなって思うんです。プライドの高いやつだから、俺に隠れて一人でこっそり泣くんじゃないかなって思う
んです。実際のところはどうなのかわからない、ただそうあって欲しいっていうだけの都合のいい自惚れですけどね」
俺は苦笑いをした。自分の発言が余りにも支離滅裂だったからだ。
だけど、本当は自惚れなんかじゃない。
理由はないけど、今の俺には絶対の自信があった。
雲井「なによそれ……意味がわからないわよ」
男「わからないでしょうね、欲望だけで生きているあなたには特に」
雲井「は?」
男「これだけ言っても、まだわかんねえのか?なら、教えてやるよ」
俺は椅子から立ち上がった。
男「生徒に手を出すようなあんたには純愛の何たるかは一生理解出来ないっていうことだよ!この ビ ッ チ がッ!!」
俺は先生に向かって中指を立てた。
俺の突拍子もない行動に驚いた先生は顔をうつけたまま黙り込んだ。
男「補習やる気ないんだったら俺帰りますよ?先生」
俺は教科書やノートを鞄にしまってさっさと歩き出した。
そして、教室のドアに手をかけた。
男「え?」
だが、ビクともしなかった。
男「なんだよ、これ……」
力強く引いても押しても、まるで外側から鍵をかけられたかのように動かなかった。
一応確認してみたが、鍵はちゃんと開いている。
どこにも異常はないはずだった。
雲井「いい加減にしなさいよ、あなた……!」
いつの間にか先生は立ち上がりこちらにゆっくりと向かってきていた。
雲井「よくもわたしを恥をかかせてくれたわね。心臓を一突きにして、せっかく苦痛を与えずに殺してあげようと思ったのに。それからゆっくりと血肉を味わおうと思ったのに」
メキメキと骨が軋むような音が、静まりかえった教室を支配している。
やがてそれが収まったかと思うと、今度は繊維の破ける音とともに、先生だったものの背中から新たな骨格が現れた。
真っ黒な八本の骨格のようなもの。
長さ人間の足より少し長いくらい、太さは人間の首ぐらい。
よく見ると表面は細かい毛のようなものに包まれている。
俺は似たようなものを見たことがあった。
男「こ、これは……」
そう、これはまるで蜘蛛(くも)のようだった。
男「ぐっ!開きやがれ!このっ!!」
俺は教室のドアに向かって何度も蹴りを放ったが、まるで変化はなかった。
先生だったものは勝利を確信したかのような余裕の笑みを浮かべていた。
雲井「無駄よ。外からわたしの子どもたちが念入りに糸を張ってくれたのだからね。あなたは逃げ場を失った、いわば袋のネズミというわけよ」
ゆっくりと足音が近づいてくる。
ひたり、ひたり
スリッパの音が一定のテンポを刻んでいる。
歯はかちかちと音を立てていた。
嫌な脂汗で顔はべったりとしていた。
俺は恐怖を感じていた。
長門の登場まだ?
雲井「……ふっ!」
男「うわっ!」
先生だったものの手首の位置から放たれたねっとりとした白い塊、それが四肢にまとわりつき俺を教室のドアのところへ張りつけにした。
その粘着力は強力だった。大の男がいくら踏ん張っても身動きをとれそうにないほどに。
雲井「後悔しても遅いわよ。今更謝っても許してあげない。最大限の苦痛を与えて嬲り殺してあげるから。それまでは絶対に死なせない」
背中に氷のように冷たい戦慄が走った。
先生だったものと俺との距離は約一メートルにまで縮まっていたのだ。
彼女は自らの唇を一舐めして、いやらしく笑った。
雲井「冥土の土産に教えてあげるわ。わたしの本当の名前は絡新婦(じょろうぐも)。残念だけど、あなたを殺さないといけないの。"あの方"が絶対の安心感を得るためにはね」
男「絡新婦……」
聞いたことがある。
歳老いた蜘蛛が人間の女の姿に化けた妖怪、それが絡新婦らしい。
その美貌に魅了され犠牲になった男は数知れず、みんなやつの餌にされた。
そんな恐ろしい妖怪だ。
絡新婦「男ってみんな馬鹿よね。ちょっといい顔をしてみせれば、ハエのようにたかってくるんだもの。だけど……」
絡新婦の背中から太い足が勢いよく飛び出してきたかと思うと、そのまま俺の顔を強くぶった。
男「ぐ、おお……!」
絡新婦「あなたはそいつらよりもっと馬鹿よ。楽に死ねるチャンスを自らどぶに捨てたのだからね、ボウヤ?」
衝撃で周りの世界は揺れた。
そして、骨に響くような鈍い痛みが俺の顔全体にゆっくりと広がっていく。
危ないところだった。油断をしていたら気を失っていたかもしれない。
絡新婦「これはほんの挨拶代り。これでおしまいと思ったら大間違いよ」
俺は絶望のどん底に突き落とされた。
今までの俺は妖怪なんて空想上の生物だと思っていた。
たしかに、そういう未知のものに対する憧れは心の中に持っていたが。
男「ざけん、なよ……」
だが、それがまさかこんな形で現実に現れるとは思わなかった。
そして、それは俺の望んでいた物とは遠くかけ離れていた。
信じたくはなかったが、信じるしかなかった。
逃げ道を塞がれている俺には他に選択の余地などなかったのだから。
絡新婦「さて、これからどう料理してあげようかしら?」
絡新婦は唇に人差し指をあてて、考え込むような仕草をした。
こうして、処刑の時間が始まった。
一旦投下終わりです
狸川「坊ちゃん遅いですねー」
幼「う、うん……」
狸川さんとわたしは男の帰りを待っていた。
机の上では出来立ての夕食が湯気をあげている。
壁時計の針を確認してみると6時のところに差し掛かろうとしていた。
沈みかけの夕陽に照らされて窓から見える外の景色は一面が茜色に染まっていた。
補習で帰りが遅くなるから今日の迎えはいらないって、男は言ってたけど、いくらなんでも遅すぎよね?
……というか授業中にボーっとしてるあいつが悪いのよ!バカ!ノロマ!
こんな感じでわたしはイライラしていた。
狸川「幼さんー」
幼「え?」
わたしがそんなことを考えていると、隣に座っている狸川さんがいきなりわたしの名前を呼んだ。
どうしたんだろう、わたしは顔を向けた。
狸川「先にお夕飯召し上がっててくださいー。ちょっと出かけてきますのでー」
幼「え?ちょ、ちょっと待ってよ!夕ご飯もう出来上がってるのよ?」
そんなふうに慌てているわたしを見て、狸川さんは優しく笑った。
狸川「だいじょうぶですー、ひとっ走りですからー。すぐにもどりますー」
幼「あ」
狸川さんはわたしに背を向けて、玄関へと小走りに向かい始めた。
わたしはすぐに予想がついた。
狸川さんは男を迎えに行くつもりなんだ。
幼「ま、待って!わたしもっ!」
それはほとんど無意識の行動だった。
気がついた時には、わたしは勢いよく席を立ちあがって、狸川さんの背中を追いかけていた。
だけど……
狸川「いけませんッ!!」
大きな声がリビングを通り抜けた。
いつもの狸川さんからは考えられないくらいに大きな声だった。
わたしはその場に固まって動けなかった。
とっても怖かったから。
狸川さんがわたしに見せた初めての表情。
その瞳はまるで親の仇を見るように血走っていた。
怒りの表情だった。
幼「……っ!」
でも、わたしは負けなかった。
恐怖を振り払うように、奥歯を思いっきり噛みしめる。
わたしは狸川さんから目をそらさなかった。
今の狸川さんはものすごく怖かった。
怖かったけど……
幼「わたし、怖いの……そんなことないって、できるなら思いたいけど」
幼「あいつに……男に、もしものことがあったら、わたし……!」
狸川「幼さん……」
それ以上に、男がどこか遠くへ行ってしまうような気がして怖かった。
それで、なにもできないまま時間がただ過ぎていってしまう、その方がよっぽど怖かった。
いつの間にかわたしの頬には熱いものが伝っていた。
手を触れてみると、それが涙だということに気づいた。
幼「おねがい、おねがいだから……わたしも、つれてってよ……!」
わたしは拳を握りしめて、狸川さんに訴えかけた。
だけど、狸川さんは表情を動かさなかった。
狸川「ごめんなさい」
そして一言、短く告げた。
色を失った冷たい声だった。
次の瞬間、狸川さんの目から強い真っ白な光が放たれたかと思うと、わたしはあっという間に意識の底に沈んでいた。
投下終わり?
乙です
>>49
いえ、書き溜め終わり次第また投下します
待ってます
頑張って下さい
乙
やっぱり展開もうちょっと考えたいんで、次の投下は明日にします
ごめんなさい
乙!
よくある謎の力で扉が閉ざされてるのかと思ったら割と物理的だった
逆に厄介かもしれんけど
男は四魂の珠みたいな存在なのか?
乙です
幼「あぅぅ……」
目を覚ました時には、わたしはリビングのソファーに寝かされていた。
照明は消えていて、部屋はすっかり真っ暗だった。
しばらくそのままぼんやりしていると、寝起きの頭に一つの疑問がわきあがってくる。
幼「い、今何時よッ!?」
わたしは急いで飛び起きた。
壁時計に目を凝らすと、針は7時のところを差していた。
あれから一時間が経っていた。
なのに、男も狸川さんもまだ帰って来ていない。
嫌な予感がした。
幼「男……」
わたしは浮かんできたネガティブ思考を追い払うように、首をぶんぶんと何度も横に振った。
それからすぐにソファーから立ち上がった。
幼「バカじゃないの、そんなこと絶対にあるわけないじゃない!」
イライラした口調で呟きながら、わたしはずんずんと歩き始めた。
電気をつけたあと、台所にある蛇口をきゅっとひねった。
すると、勢いよく水が噴き出してきた。
手のひらを受け皿にしてそれを溜めこみ、顔に向かって一気にぶちまけた。
つめたくて気持ちいい。
やっと目が覚めたような気がした。
机の上に目を向けると、夕食の皿が寂しそうに並んでいた。
料理はもう冷めてしまっている。
幼「なによ……!」
ついさっきの狸川さんの言葉を思い出すと、急に怒りが込み上げてきた。
気に食わなかった。
一生懸命に自分の想いを伝えたのに、狸川さんはそれを理解してくれなかった。
ただごめんなさいと一言謝ってみせただけだった。
わたしの言ったことは、まるで初めから狸川さんに許されていなかったような気がして、気に食わなかった。
幼「いいわよ、そっちがその気なら……」
わたしはわたしのやりたいようにやってやるんだからっ!
だれが、狸川さんの言いなりになんてなってやるもんですか!
気がついた時には、わたしは手ぶらのまま駆け出していた。
ある一つの決心を胸に秘めて。
幼「待ってなさいよ、男!腕を引きずってでもわたしが連れて帰ってあげるんだからねっ!」
乙です
あけおめ支援上げ
乙
ちょっと遅れて明けましておめでとう
乙
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