【ゆるゆりSS】きもちに寄り添う数秒間 (24)

 7月23日。

 下校時刻になっても、まだ昼間のように陽が高い夏の日。うかつに外に出ることは危険と叫ばれるほどの気温になる昼間に比べ、夕方はほんのちょっぴりマシになるが、それでもじっとしているだけで汗が噴き出してくるような暑さの中。
 ばらばらと校舎から出てきた七森中の生徒たちは、なるべく日陰になるような道を探しながら帰宅の途についている。高温多湿の過酷な環境の中にあって、それでも生徒たちの表情が一様にどこか明るいのは、期末テストも終わり、明日の終業式でいよいよ夏休みに突入するという解放感のせいだろうか。
 そんな中、ある少女たちだけは、晴れやかな心とは程遠いトゲトゲした気持ちを互いにぶつけあって、大げんかを繰り広げていた。

「だからあれほど言ったんじゃないの!!」
「向日葵には関係ないじゃん!!」

 周囲の視線など気にも留めずに大声で反発しあいながら家路についている、向日葵と櫻子。いつものことといえばいつものことなのだが、今回がいつもよりもだいぶ激しめな雰囲気であったことは、周囲の生徒たちにも伝わっていたかもしれない。
 きっかけは些細なことだった。しかしその些細なことが積み重なり、別の些細なものまで降り積もってきて、やがて看過できないものとなり、先に向日葵の導火線に火がついて爆発する。その爆発に櫻子が反発し、お互いに一歩も引かずにケンカ状態となる。

「もう知りませんわ! 勝手になさい!」
「あーあー勝手にしますよ! じゃあね!」

 家の前までそんな調子でいがみ合い、もうしばらくは顔も見たくないとばかりにふんっと顔をそむけ、二人はそれぞれの家に帰っていった。

 古谷家では、家の前の喧騒をききつけ、何事かと驚いた楓がとてとてと玄関まで姉を迎えに行っていた。大室家では、「ただいま」も言わずにバンと扉を開けてリビングに入ってきた櫻子の怒り顔を、花子が気まずそうに見つめている。
「……また、ひま姉とケンカしたし?」
「ふんっ!」
 カバンをその辺にほっぽってずんずんと冷蔵庫に行き、冷えた麦茶を飲む。胸にいっぱいになってしまった怒りと暑さへのいら立ちが、冷たいものと一緒におなかの奥底に流れていって少しだけ落ち着き、そしてその空いた部分にもやもやとした嫌な気持ちが渦巻いていくのを、櫻子はなんとなく感じていた。

 ――また、ケンカしちゃった。
 幼い姉のそんな複雑そうな横顔を見て、「どうせ櫻子が悪いんだから、さっさと謝ってきた方がいいし」とでも言おうかと思っていた花子は、じっと言葉を飲み込んだ。

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――――――
――――
――


 その日の夜。
 事の顛末を花子からこっそり聞かされ、一応様子を見ておいてあげた方がいいかと判断した撫子は、もやもやを胸につかえたまま自室のベッドにつっぷし、何をするでもなくゴロゴロとしていた櫻子のそばに腰かけた。

「またひま子とケンカしたんだって?」
「……なんでねーちゃんが知ってんの」
「花子が心配してたんだよ。ま、どうせいつものことだろうけど」
「……」

 櫻子はスマホを置いてゆっくりと身体を起こし、姉の隣に並ぶようにして座り直す。
 本当は悪いと思う気持ちが自分の中のどこかにちゃんと在って、しかしまともに向き合えずに意固地になってしまっているだけというのが、むすっとした表情でうつむくその横顔から十分に伝わってきて、気づけば撫子はしょぼくれた頭に手を伸ばし、手櫛でさらさらと髪を梳いていた。

「……本当は、ケンカなんかしたくないんでしょ。櫻子も」
「……」
「ひま子もたぶん同じだよ。だから、落ち着いたらちゃんと謝んな」
「……うん」

 てっきりケンカしたこと自体を怒られるかと思っていたのに、なぜか優しげな姉の声と手つきを受け、それだけで櫻子は胸の中のもやもやが薄れてすうっと楽になっていくのを感じた。
 そして姉の魔法の手が自然と離れるまで、そのまま大人しく、頭を撫で付ける感触に意識を傾けていた。

「そうだ櫻子、アンガーマネジメントって言葉知ってる?」
 撫子はふと、思い出したように櫻子にそう問いかけた。ただでさえ横文字に弱い妹は、頭に大きなハテナを浮かべて首をかしげる。

「ハンガー……なに?」
「アンガーマネジメント」
「なにそれ、必殺技?」
「ちがう。簡単に言うと、自分の怒りをコントロールすることなの。たとえば何かイラっとしたことがあったら、じっと我慢して6秒数えてみるといいんだって。そうするだけで怒りのピークが過ぎ去って、気持ちが落ち着いて冷静になれるんだってさ。今の櫻子に必要なのはそれかもよ」
「怒ってるときに6秒も数えてらんないでしょ! ねーちゃんはできるの?」
「できるよ。まあ私はもともとイライラすること自体滅多にないけど」
「ペチャパイ!」

 瞬間、撫子は自分が履いてきたスリッパをリフティングの要領で自分の前にふっと浮かべ、それを手に取りつつそのまま櫻子の頭をスパンと叩いた。その間、わずか一秒足らず。

「痛った!! ちょっと、やってないじゃん! 6秒は!?」
「今のは櫻子が100%悪いから、私が怒りを落ち着ける必要がないの」
「なにそれ!!」

 スリッパを履き直しつつベッドから立つ撫子。ひりつく頭を押さえてベッドに横になった妹の様子を見下ろしつつ、この分なら大丈夫だろうと安心し、ドアへ向かう。

「でも櫻子は、なるべくその6秒ルールを意識してみてもいいんじゃない? あんたとひま子のケンカなんて、あんたが悪いことの方がほとんどなんだから」
「なんだとー!?」
「ほら言ったそばから怒ってるよ。数えて数えて。いーち、にーい」
「うっさい! やってられるか!」

 ベッドの上に敷かれていたストールを無造作に掴んで投げつける櫻子と、それをひらりと避けるように部屋を出ていった撫子。
 櫻子はベッドにぼすんと突っ伏し、ばかばかしいと思いつつも、試しに目を閉じて6秒を数えてみた。

 いち、にー、さん、しー、ごー、ろく。

(……長っ)

 数えてみるとその長さに驚いた。ただでさえ長いのに、怒りがピークに達しようというときにじっと数える6秒はあまりにも長すぎるだろう。こんなことは絶対できるわけない。

 ――きっとこれを考えた人は、怒ったことなんて全然ない、池田先輩みたいにふわふわした人なんだ。そういう人でもなければきっとできないはずだ。そう思いながらも、櫻子は妙に6秒ルールのことが気になって、その後も6秒間を数える練習を胸の中で繰り返し、そしてそのままひつじを数える要領で眠りに落ちてしまった。

 翌日。一学期の最終日。

 今日は終業式をした後、学活や大掃除をこなすだけで終わり、晴れて夏休みとなる。勉強のことは何も考えずにぼーっとしていればいい気楽な一日。
 一晩眠ったことで昨日のケンカのことをだいぶ消化できたーーもとい、なんで怒っていたのかも忘れかけていた櫻子は、家を出て珍しく自分より先に待ち合わせ場所に立っていた向日葵を見て、少しだけ昨日の気まずさを思い出した。向日葵の表情はどことなく険しく、自分と違ってまだまだ昨日のことを強く引きずっているようだった。

「遅いですわ」

 ツンと突き刺さるように放たれたその一言だけで、櫻子は一瞬でムっとした気持ちになり、二人の間にピリついた空気が漂う。

「いつも通りでしょ。普段は自分の方が遅いくせに」
「あなた、昨日言った復習はしたんでしょうね」
「……え?」

 歩き出しながら言われ、櫻子は一瞬何のことかわからなかったが、だんだんと昨日のケンカのときに言われたお小言を思い出してきた。

 端的に言えば、向日葵にさんざん忠告されていたのに、期末テストの点数が悪かった件について怒られていたのだ。ここができないとこれから先の授業にもついていけなくなってしまうから、わからなかったところを全部復習するようにと言われ、嫌そうな顔をしていたら向日葵の積もりに積もった不満が爆発してしまった。
 当然、昨日はもやもやの消化にすべてのリソースを使ってしまっていたので、復習なんてしていない。夏休みの宿題に早いうちから手を付けちゃいなさいとも言われていたけれど、もちろんやっていない。
 「復習」と言われ、何のことだっけと一瞬考えてから、だんだんと「……ああ!」と思い出していく櫻子の一連の表情を見て、向日葵の燃え殻に再び火がついてしまった。

「その顔……あれだけ言ったのに、何もしてませんわね!?」
「え、いや」
「復習どころか宿題も! というか配られたプリントや教科書を入れ替えることすらしてないでしょう! 昨日とカバンの厚みが全然変わってませんわよ! 今日授業ないのにパンパンじゃないの!」
「そ、それは!」
「さすがに何かしてると思ったのに! どうせ何もかも忘れて遊び呆けて、そのまま寝ちゃったんでしょう!?」

 朝からすごい剣幕になってずんずんと指で胸を突いてくる向日葵に気圧されるものの、昨日は自分なりに落ち込んでいただけで遊んでいたわけではないという部分について反発したくなり、急激にイライラが募っていくのを感じ始めたとき、昨日何をしていたのかを思い出した。

 なぜかひたすら、6秒を数えていた気がする。

 ハンガーなんとか、と言っていた説明はよく覚えてないけれど、イライラすることがあったら6秒数えてみるといいという姉の言葉と、優しく頭を撫でてくれたあの手つきが、ふと呼び起こされた。

(いち、にー、さん……)

 立ち止まって、目を閉じて、昨日寝る前に繰り返していたように6秒を数え始める櫻子。
 向日葵も同じように足を止め、突然じっと黙りこくってしまった櫻子のかつてない挙動に、思わず言葉を詰まらせた。

(しー、ごー、ろく)

 ゆっくり目を開けると、何事かと驚いて怪訝そうな表情を浮かべている向日葵の顔が視界に入った。

「さ、櫻子……?」
「……」

 自分の胸に手を当ててみる。今の今まで募っていた気がするイライラ感は、あまり感じられなくなっていた。
 朝のそよ風が櫻子の頬を撫でつける。すでに上がり始めている気温に熱されたその空気は、冬のような静謐さこそないものの、夏の香りを充分に含んでおり、櫻子の心を妙に落ち着かせてくれた。
 昨日は確かに何もしていない。本当は向日葵の言うとおり、宿題のひとつにでも手を付けるべきだった。大量の宿題を出されてパンパンになっているカバンの重みを肩に感じる。中学に上がったら少しは宿題が減ってくれるかと思っていたのに、むしろ小学生の頃よりもたくさん増えてしまって、さすがに今年は夏休み最終日の土下座作戦をしても間に合わないかもしれないのではと肝を冷やしていたのを思い出した。

 ――悪いのは、自分だ。

「ちょ、ちょっと櫻子っ」
「……向日葵、ごめん」
「え……?」
「向日葵の言う通り、何もしてなかった。怒られて、落ち込んで、ずっとゴロゴロしてた」
「……」
「ごめん」

 櫻子は少しだけ頭を下げ、心配そうに近づいた向日葵の足元に視線を落としながら、今胸の中にある素直な謝罪の気持ちを淡々と伝えた。
 驚いたのは向日葵の方だった。突然立ち止まり、黙りこくり、自分以上に激しく爆発するのかと身構えていたら、ストレートに謝罪されてしまった。こんな櫻子を見るのは初めてだった。
 まっすぐな目で向日葵を見る櫻子。激しく燃え上がってしまったぶん、自分の方がその温度感に戻ることができず、向日葵は当惑した。

「……わ、わかればいいんですわ」
「……」
「その……落ち込んでいたのは、私も同じでしたし。今日から。今日からやってくれればいいですわ」
「ん」

 こくりとうなずき、またすたすたと歩き始める櫻子。向日葵は追いかけるようにその横に並び、本当に何があったのかと驚きながら、後に続く言葉を探した。
 これではまるで、朝から大声で怒っていた自分の方が子供っぽいような気がしたし、何よりも素直に謝罪してきた櫻子に対し、何かしてあげるべきだという気持ちがふつふつと湧いてきた。

「……一緒にやります?」
「えっ?」
「復習と……それに宿題も。私も最近は自分のことでいっぱいになっちゃって見てあげられませんでしたし……宿題だってこんなにあるんですから、早いうちに取り掛かった方がいいでしょう。また最終日に泣きつかれるのはごめんですわ」
「……」

 伏し目がちにそうつぶやく向日葵の頬が紅潮している気がするのは、暑さのせいか、気のせいか。
 その横顔を見ていたら、なんだか無性に明るい気持ちになってきて、櫻子はにこやかに笑って向日葵の肩にぽんと手を置いた。

「じゃあ今日、うち来てね!」
「ええ」
「あっ、ていうかあかりちゃんとちなつちゃんにも学校終わりにうちに寄ってもらってさ、みんなでやろうよ! ついでに夏休みの予定立てたりさー!」
「いいですけど、遊びはほどほどに頼みますわね。メインは勉強なんですから」
「わかってるわかってる~」

 楽しい予定が立てられたことに嬉しくなり、櫻子は学校までの通学路をスキップし始めた。向日葵もその様子を微笑ましく眺めながら、早歩き気味にそれについていく。
 櫻子はふと顔をあげ、青空を見上げた。早くもじーわじーわとセミが遠くで鳴き始め、空にはもくもくと高い雲が立ち昇り、それはまさしく夏の空だった。
 さっきまで向日葵に激しく怒られそうになっていたのに、今はこの空と同じくらい、晴れ晴れとした気持ちになっている。
 6秒数えただけなのに?
 それだけで、全部が上手くいくようになってきたかもしれない。

(ねーちゃんの必殺技……すごいかも!)

「前見て歩かないと、転びますわよ」
「へーきへーき!」

 櫻子は重たいカバンを逆の手に持ち替え、向日葵のカバンもひょいっと持ってあげながら、再びスキップを始めた。

 みんなと一緒に宿題をする機会があれば少しは一緒になってやる気を見せることもなくはない櫻子だが、みんなが帰って一人になってしまうと途端にやる気がなくなってしまう。というか、勉強をしなくてはいけない身の上を忘れ、「次の楽しいこと」を探すのに夢中になってしまうのだ。

 夏休み初日。昨日に引き続きものすごい暑さになるようだと天気予報の女性キャスターが言っていたのを耳にした櫻子は、おもむろに庭にビニールプールをひろげてホースで水を溜め始めた。小さなガーデンチェアに腰掛け、まだ溜まっていない段階から足をつけてじゃばじゃばと楽しそうにはしゃいでいる。そばに置いてあった花子のアサガオの鉢にも、ホースでぴゃぴゃっと水をかけてあげた。

「なにしてるし、櫻子」
「見ればわかるでしょ! プール作ってんの♪」
「べつにいいけど、そこからどうやって上がるつもりだし。びしょびしょのまま家に入ってきちゃだめだし」
「あー忘れてた。花子タオルもってきて、その辺に置いといて~」
「まったく……」

 花子が脱衣所の方へと消えていくのと入れ替わりに、今度は玄関ががちゃっと開き、撫子が出てきた。ちょうど外に出かけるところだった様子で、水の音を聞きつけ、植木を避けながら櫻子のところへやってきた。

「うわ、めんどくさいことしてる」
「めんどくさいって何! 楽しいことでしょ!」
「べつにいいけど、外なんだからはしゃぎすぎないでよね。あと片付けはあんたが全部やってね」
「わかってるもーん。ねーちゃんどっかお出かけ?」
「友達とね。夕方には帰ってくるから」
「ふーん」

 買ったばかりの白い日傘を取り出し、可愛らしげなストラップを外しながら、撫子は妹に声をかける。

「そういえば、ひま子と仲直りできたみたいだね。昨日うちに来たんでしょ?」
「あー、うん」
「してみたの? アンガーマネジメント」
「あっそれ! それやったらなんか向日葵が大人しくなって、一緒に遊ぶことになった!」
「……なにそれ」

 わかんないけど、でも上手くいったの! とピースする櫻子を見て、撫子は可笑しそうに笑った。
 きっと、向日葵が大人しくなったのではなく、櫻子が大人しくなったのを見て向日葵が矛を収めたのだろうと予想する。6秒の間に櫻子が何を思ったのかはわからないが、ケンカの最中に大人しくなるだけでも充分効果があったのだ。
 すぐ感情的になる櫻子には難しいかもしれないと思いながらも聞かせてみただけたったのだが、とりあえず丸く収まったようだと安心し、撫子はぱすんと日傘を差した。

「じゃあね」
「いってらっしゃーい」

 撫子の日傘が遠くに消えていくのと同時に、今度は花子が庭への窓を開けてやってきた。タオルを持ってきただけかと思ったら、ちゃっかりとスクール水着を身に着け、丁寧に水着帽まで被っている。

「なに花子、準備万端じゃん!」
「タオル持ってきてあげたんだから、これくらい当然の権利だし」
「そんなに櫻子様と遊びたかったのか~、このこの~♪」
「きゃっ! 冷たい!」

 庭に出てきた花子の足にホースを向けて水を少しかけ、櫻子は楽しそうに笑った。
 空は昨日に負けないくらい青く澄み渡っており、遠くには今日も大きな入道雲が見える。厳しい日差しに思わず目を細めながら、そろそろとプールの中に足を入れる花子を眺め、櫻子はぐぐっと背を逸らした。

「あーあ、今年の夏休みはいっぱい夏らしいことしたいなー」
「今してるし」
「これもそうだけど、もっといっぱい! ちゃんとしたプールも行きたいし、海も行きたいし、キャンプも行きたいし~」
「そんなに遊んでばっかりだと、またひま姉に勉強しろって怒られるよ?」
『その通りですわ』
「わーっ!」

 先ほど撫子が出ていった玄関の方面から突然向日葵が現れ、櫻子は驚いてチェアから飛び上がり、そのまま体勢を崩してプールにじゃぽんと膝をついた。まだ水着に着替えていなかったのに、ショートパンツの裾が濡れてしまう。

「ひま姉、どうしたの?」
「撫子さんからちょうど今メッセージが来たんですわ。『うちの庭に来てみて』って」
「び、びっくりした……」
「もう少し水溜まったら、楓も呼んであげてほしいし」
「そうですわね。声かけておきますわ」

 櫻子は浅く張り始めた水に膝をつけたまま、先ほどまで自分が座っていたチェアにすらりと腰掛ける向日葵を恨めしそうに見上げた。白いワンピースが青い空に映えてとてもよく似合っていた。
 手元のホースからは今もプール内に溜める水が勢いよく出ている。ふとこれを向日葵の方に向けて水をかけたい衝動に駆られそうになったが、

(う……)

 とっさに目を閉じて6秒を数えようとし、ものの2秒ほどでホースを持ち上げようとしていた手から力を抜いた。

 向日葵が着ているこの服はまだ見たことがない。きっと新しいものなのだろう。それを濡らしたらとんでもなく怒られるような気がしたので、大人しく踏みとどまった。逆にホースが暴れないようにしっかりと押さえておくことにした。

「それで、何を話してたんですの?」
「櫻子が、夏休み何して遊ぶかってことばっかり考えてるから、勉強もしないとひま姉に叱られるって言ってたところだし」
「さすが花子ちゃん。よくわかってますわね」
「でも勉強ばっかりでもつまんないでしょ! せっかくの夏休みなんだから!」
「まあ、そうですけど」

 柔らかな表情の向日葵を見て、櫻子はふと昨日のことを思い出した。ちなつやあかりと一緒に勉強しながら、四人で遊ぶ予定をいくつか立てたのだが、向日葵はあまりその会話に入らず、決まったことを笑顔で聞き入れているだけだった。

 向日葵は、してみたいこととかないのだろうか。

 いつもいつも、自分がこうしたいああしたいと向日葵に一方的に伝えて、それに付き合ってもらっていることが多いので、向日葵の予定に合わせて何かをしたことがない。あっても夕飯の買い物に付き合うとかで、それは櫻子の基準で言えば「遊び」とはいえないものだった。

「向日葵は……」
「?」
「向日葵は、何かしたいことある?」

 櫻子はゆらゆらときらめく足元の水面に目を落としながら、向日葵にぽつりと尋ねてみた。べつに特段不自然な会話というわけでもないのに、なぜだか少しだけ心がむずがゆかった。
 しかし向日葵は青空を見上げ、「そうですわねぇ……」と考え込むと、

「特にないですわね」

 あっけからんとそう言い、櫻子はまた背中からプールにひっくり返りそうになった。

「ないの!? 噓でしょ!?」
「でも赤座さんたちと遊ぶ予定は昨日立てましたし」
「それだけじゃないでしょ! もっとしてみたいこととかあるでしょ! 夏休みはいっぱいあるんだから!」

 向日葵はまた首をかしげながら考える。何をそんなに難しく考える必要があるのかが櫻子にはわからない。「櫻子みたいに年がら年中遊ぶことしか考えてない人ばかりじゃないんだし」と花子に言われ、櫻子は手で水をすくって花子の頭にかけた。

「じゃ、じゃあ今日は?」
「?」
「今日は何する予定だったの? まさか初日から一日中宿題ってわけじゃないでしょ?」
「それでもいいかと思ってましたけど……そうですわねぇ」

 普段あれだけ将来のことも考えなさいとお説教してくるくせに、自分の今日の予定すら立てていない様子の向日葵に愕然としそうになる。しかし「あっ」と思いついたようで、櫻子は「なになに?」と身を乗り出してその答えを待った。

「そういえば、図書館に行こうと思ってたんでしたわ」
「……」
「読書感想文の題材にする本を探すのと、あと普通に読みたい本も探したいところだったので」

 なぜか無性に、今日は向日葵の予定に付き合ってあげようという気になっていたのだが、「図書館は遊ぶところではないでしょ……」という気持ちがどんどん櫻子の表情を固くさせていく。頭の中では海辺の砂浜できゃっきゃと楽しむ絵が浮かんでいたのだが、さすがに図書館できゃっきゃはできない。

「行けし」
「うひゃーっ!」

 櫻子が固まっていると、花子に頭からホースの水をかけられ、櫻子は思わず身を縮こめた。

「いっつも自分の予定にひま姉を付き合わせてるんだから、たまにはひま姉の予定に合わせてあげるべきだし。ていうか櫻子だって読書感想文あるんだから、なんか借りてこいし」

 首元や背中にかけて、あっという間にTシャツを濡らしてしまった水の冷たさを、身体を硬直させて我慢する櫻子。なぜか無性に懐かしい気がするその感触が、過去の情景を思い起こさせる。
 今までも向日葵が図書館に行くと言っていたことは何度もあった。しかし櫻子はそのたびに「へーそうなんだ……」「行ってらっしゃ~い」と見送る側になっていた。一緒に行ったことも少しはあった気がするが、とても退屈な思いをしたという記憶だけが残っている。活字ばかりの本が苦手な櫻子にとって、図書館は未だに楽しさがわからないスポットのひとつだった。

「図書館ねえ……」

 ここまで濡れてしまったらもういいやと思いながら、プールの底にしりもちをついて向日葵を見上げる。

「…………」

 向日葵は、眉を下げて微笑みを浮かべていた。
 その表情を見て、櫻子の胸の中にとくんと何かが芽生えた。
 笑顔ではあるが、どことなく寂しそうな、なんだか諦めに近いような、そんな複雑さが交った表情だった。

 今まで何度誘ってもついてきてくれなかったから、たぶん今回もだめだろうと思っているのだろうか。
 本当は、一緒に来てほしいのだろうか。

(向日葵……)

 いち、にー、さん、しー。
 櫻子の胸の中で、自然とカウントが始まる。向日葵の大きな瞳がこちらを向く。

「……櫻子?」

 その声が耳に届いたとき、答えが出た。

「……いつ行くの?」
「え?」
「図書館。行くんでしょ。しょーがないから私もついてったげる」

 向日葵はその返答を聞き、一瞬目を丸くして驚いたが、やがてふわりとした笑みに戻り、

「それじゃ、お昼を食べたら行きましょうか」

 そう言って、楓を呼びに自分の家へと戻っていった。
 その笑顔が妙に脳裏に焼きついて、後ろ姿もどことなく嬉しそうに見えて。
 櫻子はショートパンツの中にまで染み込んでくる水の冷たさを感じながら、その後もしばらく虚空を見つめて、向日葵のことを思い浮かべていた。

 やっぱり着いてきてほしかったのかもしれない。これまでもずっと、一緒に行きたかったのかもしれない。それを私は、何も考えずにずっと断り続けていたのかもしれない――。
 急に大人しくなってしまった櫻子を不思議そうに見つめつつ、微笑ましい気持ちになっていた花子は、言葉をかける代わりに手で掬った水を優しく頭からかけた。

「えらいし、櫻子」
「な、なにが」

 犬のようにぷるぷると顔を振って水気をきる。

「ひま姉、嬉しそうだったし。この前まであんなにケンカしてたのに、すぐ仲直りできてすごいし」

 花子の無邪気な笑顔を見て、ついこの間まで向日葵とのケンカで不安な思いをさせてしまっていたことを櫻子も思い出す。
 向日葵の表情が柔らかくなったのも、花子を笑顔に戻せたのも、ぜんぶハンガーなんちゃらのおかげなのかもしれない。腰元の水をちゃぷちゃぷと手で掻きながら、櫻子はぽつりと呟いた。

「嬉しいのかな、こんなので」
「ひま姉はきっと、嬉しいって思ってるし」
「ふーん……」
「あ、図書館行くならついでに花子が借りてた本も渡すから返してきてね」
「行く用事あったんかい! 花子も来ればいいじゃん!」
「花子はこのプールで午後も楓と遊ぶっていう用事があるんだし」
「ずるい! 私がそっちやるから、花子が向日葵と図書館行ってきて!」
「それじゃ意味ないし!」



 結局、お昼ご飯を食べた後、図書館には花子と楓も含め四人で行くことになった。
 櫻子は読みたい本を見つけたわけでも、じっと読書に集中できたわけでもなかったが、マンガ形式で偉人を紹介する本を見つけてぱらぱらとめくってみたり、楓が選んだ絵本を端の方で静かに読み聞かせてあげたりと、そこそこ楽しく過ごせていた。

 読書感想文で書けそうな本を探しなさいと向日葵に言われ、よくわからないままに適当に本棚をめぐっているとき、

(あっ……)

 アンガーマネジメントについて書かれている本があるのを見つけた。

(これだ……ねーちゃんが言ってたやつ)

 手に取って中身を見てみる。想像以上に難しそうな本だったので「うげっ」となってしまったが、いくつかの図解などを見ていると、撫子に言われたことがちらほらと書いてあったりして、納得するような部分もあった。

(6秒数える以外に、深呼吸とかでもいいんだ……)

「なに読んでるんですの?」
「ひっ!」

 いつの間にか隣に来ていた向日葵にこそっと話しかけられ、櫻子は慌てて本を元の棚に戻した。べつに見られて困るものではなかったが、難しそうな本を読んでいることがどことなく気恥ずかしくて、向日葵には見られたくなかった。

「見つかりましたの? いい本」
「ううん。でも、向日葵のと一緒でいいよ」
「だめですわ。ちゃんと自分が読みたい本にしないと」
「向日葵が読んでるものを私も読みたいの!」
「えっ……?」
「……だって、それなら写せるじゃん!」
「……そんなのダメに決まってるでしょう」

 向日葵に小突かれ、花子に「しーっ」と静かにするようたしなめられ、櫻子は別の棚へと歩き出した。
 咄嗟に出てきた言葉だったが、向日葵が読んでいる本を読みたいというのはあながち嘘ではなかった。向日葵がどういうものに興味があって、どういうものが好きなのか、ちゃんと知りたいという気持ちが、今日図書館に行こうと誘われた今朝のあのときから、ずっと自分の中にあったのだ。
 もっとも、それを正面から伝えることは、恥ずかしくてできそうにないが。



 図書館からの帰り道、コンビニに寄ってアイスが買いたいという櫻子の提案で、みんなで自宅付近のコンビニに立ち寄った。
 アイスの棚の前で楓を抱っこしてどれがいいか選んでもらっているとき、とあるアイスが櫻子の目に入った。
 少し前に学校で向日葵が友達と話しているときに、これが好きだと話題に上がっていたものだ。
 自分はその会話に参加していたわけではなかったのだが、近くの席から耳を傾けていたときに聞いて、「そうだったんだ」と心に留めた記憶がある。
 櫻子はひょいっとそのアイスをとり、向日葵の前に突き出した。

「向日葵はこれ?」
「あら、どうして私がそれ好きだって知ってたんですの?」
「べつに。なんとなく」
「ええ、じゃあそれにしますわ」

 すぐ隣で「楓が話したんですの?」「ううん、楓も知らなかったの」と話す声を聞きながら、櫻子は自分のアイスを選ぶ。友達との会話を盗み聞きしていたとは、気恥ずかしくて言えなかった。

「あっそうだ、じゃあ向日葵も私のやつ選んでよ!」
「えっ?」
「私が好きなやつ、向日葵なら知ってるでしょ?」
「あなたが好きなの……パプコ?」
「ぶっぶー、ちがいまーす」
「うそ、櫻子はパプコ大好きだし。この前ふたついっぺんに食べてるとこを撫子おねえちゃんに見られて、しばらく『パプ子』って呼ばれてたし」
「ちがうの! 大好きだけど、今日はその気分じゃないのー!」
「全然わかりませんわ」

 勘の悪い向日葵に、アイス棚のアイスを指さして最近の個人的アイスランキングベスト3を直々にレクチャーする櫻子。
 自分は向日葵の好きそうなものはどれか、アンテナをしっかり立てて把握しようとしているのに、向日葵が全然鈍いままなのが少しだけ悔しかった。

 会計を済ませている間、図書館で借りた本を持って外で待っていた向日葵が、コンビニのガラス裏に貼られていたポスターのひとつに目をやっているのを、櫻子は見かけた。
 自動ドアから出て袋のアイスを手渡しながら、向日葵が見ていたポスターに目を留める。
 それは、ここから少し離れた地域でやっている花火大会の広報用ポスターだった。珍しく7月中に開催されるらしい。昨日もちなつたちと近所で行われる夏祭りにはみんなで行こうと約束したばかりだったが、向日葵がやけに興味深そうに見つめているのが気になった。

「……」

 向日葵は何か希望があっても、自分からはなかなか言ってこない。小さい頃からずっとそうだった。だから向日葵の欲しがっているものが何かをこっそり突き止めて、こちらから渡したり、誘ってあげたりした方がいい。それは櫻子が幼いころに無意識的に身に着け、そして無意識的にずっと続けてきた習性だった。

 いち、にー、さん。目を閉じて数えると、満開の花火と、浴衣姿の向日葵の笑顔が、脳内にふわりと思い浮かんだ。
 一番 “夏らしいこと” は、これかもしれない。櫻子はくるっと振り返り、ポスターを指さしつつ向日葵に声をかけた。

「向日葵、これ行きたい?」
「んー……」
「これ、家からたまに小さく見えるやつだよね。たしか去年もやってた」
「ええ。でも少し遠いんですわよね……それに、夏祭りに行く約束なら昨日しましたし」
「夏祭りと花火大会は別でしょ!」
「ええ?」

 櫻子はアイスを咥えてポスターに近づき、開催日や最寄りの駅などをしっかりと確認した。遠いことには遠いが、電車で行けばそこまでかからない距離だ。

「決めた! これ行こう!」
「ちょ、ちょっと櫻子っ」
「向日葵大丈夫? その日予定空いてる?」
「空いてますけど、でも行くなら電車になっちゃいますし、楓を連れていくには遠いですし……」
「ひま姉いいしいいし。楓は花子が見てるから、櫻子と二人で行ってきて」
「えっ?」

 パプコを楓とはんぶんこしていた花子が、楓をよいしょとだっこする。

「花子たちは家から見てるし。ね?」
「うん、おねえちゃん行ってきてっ」
「でも……」
「花子たちはさっきのプールに入りながら見るし。夜にプール入って花火見て、ちょっとしたナイトプール気分だし」
「わぁ♪」

 なるべく気を遣っている様子を出さないよう、花子が楓に微笑みかける。楓もそれを聞いて、無垢な笑顔を姉に向けて喜んだ。
 向日葵の白いワンピースが夏風に揺れる。櫻子の方に向き直り、「いいんですの?」とでも言うようにまんまるの瞳で見つめる。櫻子はパッとその手をとって、力をこめた。

「行こっ! 決まりね!」

 答えを待たずに、櫻子は向日葵の手を引いて家路へとスキップし始めた。向日葵も早歩きでそれに着いていく。
 花子と楓はそんな二人を見て、顔を見合わせて微笑み合った。



 夜空に咲き誇る色とりどりの大きな花火。
 それに照らされる、向日葵の横顔。
 からからと下駄を鳴らして歩く、浴衣姿の向日葵。
 こちらを振り返って笑う、可愛らしい笑顔。
 
 そんな情景を毎晩夢の中で思い描きながらこの日を楽しみにしていた櫻子だが、現実は夢とはだいぶ違う景色となりそうなことを、会場近くの最寄り駅についたときから何となく察し始めていた。

 花火大会当日。駅を降りてすぐ、どこを見渡しても人だらけ。昼間は暑いから少し涼しくなったら行こうと言っていたのが裏目に出たのかもしれない。会場近くはすでに大盛況だった。

「やっぱり、浴衣で来なくて正解だったかもしれませんわね」
「う、うん」

 駅までの距離もあるし、会場も大きいだろうから、浴衣に下駄では大変かもしれないという姉のアドバイスを受け、向日葵も櫻子も普段着で来た。
 夢に描いた情景からは遠ざかってしまうと未練がましく抵抗していたが、さっそく人の波に飲まれて思うように歩けなくなってしまう事態になり、姉の言うことを聞いていて正解だったかもしれないと櫻子も実感していた。

「これ、こっちで合ってるんですの?」
「わかんないけど、みんなこっちに向かってるじゃん!」

 駅前から続く人の列はゆっくりと一定の方向に流れている。櫻子と向日葵はよくわからないままにそれに流されていく。二人とも、花火を見るための専用席を予約したわけでもなかったし、このあたりはそんなに来たことがないため土地勘もない。

 やがて人ごみは屋台街に入っていき、夏の祭りらしくなってきた。あちこちから出店の香ばしい匂いや甘い匂いが漂ってくる。そのひとつひとつに目を奪われながら歩いている櫻子と、櫻子の手をとって迷子にならないように気を付けながら後をついていく向日葵。櫻子は何か買おうかと目移りさせているが、人気そうな屋台は行列ができてしまっており、物をひとつ買うだけでもなかなか大変そうだった。そうこう迷っているうちに人の波に流されてしまい、一定の位置に留まっていることもできない。
 かなり混むと思うよ、と姉からも言われていたが、想像以上だった。やっとの思いで人の波を外れ、よくわからない道端で熱気に当てられた身体を落ち着かせる向日葵と櫻子。こんなにも大変だったのかと、少々呆然としている。屋台の明かりで気づかなかったが、いつのまにか空もだいぶ暗くなっていた。

「こんなことだったら、花子たちみたいに家から見てた方がよかったかもね……」
「まあ、一理ありますけど……」

 空を見上げてみると、自分たちがいるところはまだ建物も多く、空が綺麗に見えるわけではない。このまま花火が始まってしまっても、満足に落ち着いて鑑賞することはできないだろう。

「……ど、どうする?」
「……」

 ここまで来ておいてなんだが、帰るのもアリかもしれないと二人が軽く思い始めていると、

『あれっ、櫻子じゃん!』

 後ろから突然、快活な声に話しかけられた。

 そこにいたのは、クラスこそ違うが七森中で櫻子が仲良くしている同学年の友人たちだった。みんな同じ部活で、練習の帰りにそのまま立ち寄ったのか、体操着姿のままで屋台街をめぐっていたようだった。

「おおー!」
『来てたんだ! すっごい偶然!』

 突然の予期せぬ出会いに櫻子も反射的に嬉しくなってしまい、子犬のように駆け寄って、手を重ねてぴょんぴょんと喜んだ。まるで味方を見つけたような気分になって、テンションが昂ってしまう。「てかこれあげる」と一人に鈴カステラを差し出され、櫻子はおいしそうに頬張った。
 その後もしばらく矢継ぎ早に談笑を続ける。おおかたの予想通り、今日は夕方まで部活があったそうで、帰りにそのままこの駅までやってきて、これから花火が見えるポイントに向かうところらしい。

『てかさ、櫻子も一緒にいこーよ! 一人でしょ?』
「えっ?」

 一人の友人の提案に、周囲も賛同し始める。向日葵と来たことを慌てて説明しようと振り返ると、向日葵はいつの間にか少し離れた位置に移動して、所在なさげにスマホを見ていた。
 その横顔を見て、櫻子の中にどくんと何かが芽生えた。

『あっ、古谷さんもいたんだ! ごめーん』
『どうする? 古谷さんも来るー?』

 向日葵は面識の薄い同級生たちにおもむろに話しかけられ、遠慮がちに笑うと、櫻子に向かって手を振った。

「行って来たら。櫻子」
「え……」
「私は大丈夫ですから。やっぱり人多くて大変ですし、もう少しだけこのあたりを見たら、先に家に戻ってますわ」

 眉を下げ、困り顔で笑う向日葵。
 その姿が、あの日庭のビニールプールから見上げた、向日葵の物悲しそうな笑顔と重なった。

「……」

 向日葵が「それじゃ」と手を振って足早に去っていく。櫻子はその後ろ姿をただ見つめていた。
 今の今まで帰ろうとしていたのは事実だ。思っていたよりも人混みがすごくて大変で、落ち着いて花火を見られるような状況じゃないし、はっきり言って楽しくない。自分のペースで歩くこともできず、喧騒にかきけされて会話もまともにできず、想像していた花火大会の良さはここにはなかった。

『それじゃ、行こっ!』

 同級生に手を引かれ、櫻子は歩き出す。しかし、心の中はどうすればいいかわからなくなっていた。

 この友人たちとは学外で遊んだことはほぼなかったが、学校では本当に仲よくしている友人だし、一緒に回れたらきっと楽しいだろう。けれどそれでいいのだろうか。
 首を捻って後ろを振り返る。向日葵の背中は人ごみに埋もれてあっという間に見えなくなってしまっていた。
 途端に、またどくんと危機感が胸にうずまく。
「迷子にならないように、ひま子と絶対はぐれないでね」「手を繋いで必ず二人で回ること」と念押ししていた姉の言葉を思い出す。

 このまま行っていいのか。このまま行って、楽しく回れるのか。
 向日葵は、これでいいのか。

 どんどん呼吸が浅くなっていた櫻子は、友人の手を振りほどいて立ち止まり、思考を巡らせた。祭りの喧騒が、浮ついた空気感が、冷静な考えを邪魔しようとする。それでも櫻子は頭を振りつつぎゅっと目をつむって、心の中で必死に数字を数えた。

(いち、にー、……)

 あの日、花火大会のポスターを見ていた向日葵。

(さん、しー……)

 向日葵と二人きりで花火大会にいけるよう、気を遣ってくれた花子と楓。

(ごー、ろく……)

 遠慮がちに去っていった、さっきの向日葵の困ったような笑顔。

 本当は、楽しみにしてくれていたのに。
 さっきまでずっと、この手をしっかりと握ってくれていたのに。
 向日葵を、一人にしていいわけがない。

「ごめんっ!!」

 櫻子は友人たちに向かって深々と頭を下げ、周りの喧騒にかき消されないようにしっかりと謝った。

「私やっぱり、みんなとは行けない!」

 くるりときびすを返し、向日葵が消えていった方向に慌てて走り出す。困惑気味に『えっ!?』『またねー!?』と声をかけてくれる友人たちの声を背中で感じつつ、とにかく目の前の人ごみをかきわけて前へと進もうとした。
 離れてからものの一分ほどしか経っていないはずなのに、向日葵はすぐには見つからなかった。すみません、すみませんと人の波を割りつつ、前へ前へと進んでいく。
 後ろ姿を見つけられない時間が一秒一秒経つごとに、やっぱり向日葵と別れてはいけなかったのだという焦燥感が櫻子の胸に募り、ばくばくと音を立てる。

 もしもこのまま見つからなかったらどうする?
 自分で誘っておいて、向日葵を置いてけぼりにするなんて。

 きょろきょろと周囲を見渡しながら懸命に向日葵を探す。「もう少しだけこのあたりを見たら」などと言っていたが、まっすぐに駅に向かったのだろうという確信が櫻子の中にはあった。人ごみに流されるままに来たところだし、土地勘がなくて駅の方向がどっちなのかもわからないが、こっちだと思う方面へ進んでいった。

 そして、

(向日葵!!)

 人ごみの端っこの方を、うつむきがちに歩く向日葵の後ろ姿が、視界の遠くに入った。
 すぐその間に、背の高い別の人が入ってきてしまう。櫻子は向日葵の姿を絶対に見失わないようにと、割っていけそうな隙間をみつけて距離を縮める。

 もう少し、あと少し。人の波をかきわけて、向日葵に近づいていく。

「向日葵っ!」

 声をかけると、向日葵が立ち止まった。後ろを振り向こうとするその背中に、櫻子は思いっきり飛びついた。

「きゃっ!?」
「はぁ……はぁ……」
「さ、櫻子……?」

 勢いがよすぎて、ほとんどもたれかかるように向日葵に抱き着く形となった櫻子。
 向日葵の目じりには、キラキラと涙が浮かんでいたような気がした。
 呼吸を整えながら人ごみの邪魔にならない端の方へと移動する。向日葵はあわてて目を拭いながら、櫻子の背中をさすった。

「ど、どうしたんですの櫻子。さっきの子たちは?」
「い、行ってもらった。いいの、あの子たちはっ」
「本当にいいんですの……?」
「いいに決まってんじゃん!! 今日は向日葵とっ……!」

 そのとき、

「あ……」

 夜空に満開の花が咲いた。

 鮮やかな光が薄闇を切り裂くようにぱーんと広がり、辺りからわっと歓声が上がった。いつの間にか、花火の開始時刻になっていたようだ。
 ぱんぱんぱん、と続けざまに花火が打ちあがる。
 赤、緑、オレンジ。色とりどりの光が、向日葵の顔をほのかに照らす。
 そのまんまるい目を見て、櫻子は向日葵の手をしっかりと握り直し、もう離すまいと心に固く誓った。
 
 ついさっきの、遠慮がちに去っていこうとする向日葵の笑顔を思い出す。あの顔を見た瞬間、向日葵の気持ちが胸の中に一気に流れ込んできたような気がして、むなしさや寂しさがぐちゃぐちゃになったもので心がいっぱいになって、とにかく向日葵をそんな気持ちにさせてはいけないと、身体の中の無意識が強く警鐘を鳴らしていた。
 祭りの喧騒の中でもその鐘の音にちゃんと気付けたのは、冷静になれたおかげだろうか。
 向日葵はしばらく花火を見ていたが、握られていた手がふるふると震え出したことで、目の前の櫻子が花火を見ずにうつむいて肩を震わせていることに初めて気づいた。

「……ごめん、向日葵」
「えっ?」
「一人にさせちゃって……ごめん」
「櫻子……」
「あんなとこで一人にされて、嫌な思いしないわけないのに……あれだけ楽しみにしてて、せっかく来たのにすぐ帰るなんて、そんなのっ、いいわけ……ないのに……っ」
「ちょ、ちょっと……」

 たどたどしく言葉をつむぎながら、櫻子はなぜか涙が止まらなくなっていた。

 向日葵の気持ちに向き合い、物悲しさで胸がいっぱいになってしまった数秒間。
 向日葵が楽しくなければ自分も楽しいわけがないとわかっていたはずなのに、それでも手を放してしまった一分間への後悔。
 そしてこのまま見つからなかったどうしようという不安から解き放たれたことへの安心感。いろいろな感情でいっぱいになってしまい、それが目から溢れるのを止められなくなっていた。

 向日葵の肩口に顔をうずめ、熱い涙を染みこませていく櫻子。向日葵は困惑しつつも、子どものように泣きじゃくる櫻子がどこか可愛くて、そして自分の元に戻ってきてくれたことが嬉しくて、ぎゅっと優しく抱き留め、そして花火が打ちあがる夜空を眺めた。

「ほら櫻子、泣いてちゃ花火も見えませんわ」
「ご、ごめん……こんな変なとこで見ることになっちゃって……」
「いいじゃないの。よく見えますわ」
「でも……」
「あ、そうそう」

 向日葵はスマホを取り出すと、ある地図を見せてきた。

「撫子さんが、見るならここがよさそうっていう場所をさっき教えてくれたみたいですわ。あなたのスマホにもメッセージ来てますわよ」
「……ほんとだ」
「まだまだ終わるまでには時間ありますし、移動してみます?」
「……うんっ」

 ごしごしと目をこすり、向日葵に手を引かれて歩き出す櫻子。

「ほらほら、いつまで泣いてますの?」

 向日葵は後ろを振り返り、泣き顔の櫻子に笑いかけた。
 その姿は少しだけ、夢の中の情景と重なったような気がした。



 撫子に教えられた場所は、たしかに見晴らしがいいのに人があまりいない、珍しいスポットだった。
 櫻子は階段状になっている場所に向日葵と一緒に腰を下ろし、途中で買ったいちご味のかき氷を分け合い、静かに花火を見守った。
 向日葵の安らかな笑顔を見ていると、心が落ち着くとともに、少しだけドキドキする。
 向日葵の思い出になれたらよかったと思いながら、残りのかき氷を一気に飲み干した。

 なんだか最近、向日葵の笑顔を見るためにやけに一生懸命になっていた気がする。
 ぱん、ぱらぱらぱら、と夜空を迸る火花を見つめながら、櫻子はここ最近のことを振り返った。

 ――そうだ、ねーちゃんに言われてからだ。
 撫子に教わったアンガーマネジメントを自分なりに実践するようになってから、向日葵のことを考える時間が妙に増えていたのだった。
 イライラしそうになったときに落ち着くための6秒ルール。それ以外の局面でも、無意識的に数秒間数えることが身体に染みつき始めていた。
 その数秒間で自分の気持ちに向き合うこともあれば、向日葵は今どう思っているのだろうと、相手の気持ちに向き合うこともある。たったそれだけで自分に少しずつ素直になれているし、夏休み前を最後に向日葵とのケンカも起きていない。今日だってそれがなければ、今頃向日葵だけを家に帰して、自分だけ呑気に友達と出店を巡っていたかもしれない。

 本当に追いついてよかったと向日葵の横顔を見ていたとき、ばーん、とひときわ大きな花火が空に打ちあがった。
 向日葵の大きな瞳に、綺麗に花火が咲く。櫻子にはその瞬間だけ、まるで時間が止まったように、スローモーションに感じられた。

 今日はきっと、この笑顔を見るための日だったんだ。

「櫻子、見ました今の?」
「……」
「……櫻子?」

 櫻子が先ほどから夜空ではなくこちらをずっと見ていることに向日葵も気づく。まだ少しだけうるんでいるような気がする、まんまるの大きな目と視線が重なる。

「どうしましたの?」

 櫻子はまた無意識的に、自分の中で時間を数え始めた。

 花火よりも、向日葵を見ていたいと思ってしまっている、今の自分の心に向き合う。
 向日葵の瞳から、目が逸らせない理由。

(いち、にー、さん……)

 ――ねえ、もしかして。

(しー、ごー、ろく……)
 
これが、好きってことなのかな。

「ちょ、ちょっと……どうしたのか聞いてますのに」

 向日葵の方が先に耐えきれなくなって、頬を紅潮させながら視線を逸らした。
 櫻子はそれを見て、確信した。

(ああ、私……)

 ――向日葵のこと、好きなんだ。

 今までだって、ずっとそうだったのかもしれない。
 何をするにも、向日葵のことばかり考えている。
 他の友達と遊んでいたって、今頃向日葵はどうしてるのかなって、気になるときがあった。

 向日葵が嬉しいと嬉しい。向日葵が悲しいと悲しい。
 だからケンカだって本当はしたくない。勉強に向き合うのは苦手だけど、向日葵を怒らせてしまったときは自分もへこんでしまう。
 向日葵のことを、もっと知りたい。向日葵のことで知らないことなんかないくらいに。
 読めるかはわからないけど、好きな本も知りたいし、食べ物の好みだって、最新の最新まで常に把握しておきたい。
 向日葵は「ひまちゃん」の頃から、変わってないところもあるけど、変わってるところもある。だから常にアップデートしないといけない。

 向日葵がしたいことを一緒にしたいし、向日葵にいい思い出をいっぱい作ってあげたいって、心から思ってる。
 向日葵と、これからもずっと一緒にいたい。
 
 満開の花火が、ちょこんと並んで座る二人の影を映し出す。

「綺麗ですわね、本当に」
「……ん」

 向日葵が櫻子の手にそっと自分の手を重ねる。
 櫻子は、向日葵の肩に自分の頭を乗せ、目を細めた。
 

~fin~

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