京都の夜は、仕事をする気にはなれなかった。
やらねばならないことは山積していて、なんなら今日中に片付けなければならない書類もあるのだが、不愉快な頭の重さが仕事への没入を許してくれない。
理由は明白だった。
昼間の出来事――早坂愛をこちらに引き込む目論見が失敗に終わったことは致命的ではない。ではないが、驚くべきことではあった。驚愕に値すべきことであった。腹違いの妹の涙と叫びは、まるで「四宮」という人間のそれではなかったからだ。
失望がそこにはあった。一流の家柄に生まれ、一流の指導者による一流の教育を受けた結果があれでは、なんのために大枚を叩いたのかわからない。あんなのはまるで、まるで……。
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息を吐く。傘を閉じる。
きゅっ、ぎゅ、と皮靴の底が大理石の床を鳴らす。夕方までは晴れていたのに、一時間ほど前から土砂降りだ。日付の変わる前には止むらしいが帰りには間に合わないだろう。
扉を開くと静かなジャズが耳に届いた。眼に痛くならない程度の琥珀色の灯りが緋毛氈を照らしている。
僅かに酒の香りが鼻を衝く。窓際のカウンター席へと腰かけ、
「ドライマティーニ」
バーテンダーに告げ、前を見る。壁は一面ガラス張りになっており、水煙に霞む京都の街灯りがうすぼんやりと滲んでいた。
……ただの学生ではないか。
妹があそこまで愚かであるとは思わず、あまりの自分の不明を恥じたくなる。
従業員が上着と傘を預かろうと近づいてくるのを視線で制する。長居をするつもりはない。一杯飲んで、気持ちを切り替えたらホテルへ戻ろう。誰にも行先を言わずに出てきたので部下たちは慌てているに違いない。それでも滞りなく仕事は進むように手配しているが。
「ドライマティーニです、どうぞ」
カクテルのサーブは確かな所作を伴っていて、それだけで満足感がある。透明なグラスの中に、透明な液体。そしてアクセントのオリーブには銀色の楊枝が刺さっている。
マティーニを口に含む。涼感と同時に独特の灼熱感。それでいてそのどちらもが後にひかない。そしてオリーブをほんの僅かに齧る。
「同じものを」
あくまで自然に、滑らかに、コートを着た女が隣に座ってきた。
「……行先は」
言葉をゆっくりと選ぶ。動揺を悟られないように。
「誰にも言ってないはずだがな」
早坂はちらりとこちらを見て、すぐに前へと視線を向けた。
「雨が降っていましたから」
説明のつもりなのかもしれなかったが、まるで脈絡のない言葉を早坂は吐く。
こいつは昔からそうだった。全てを見透かしたような視線でこちらを見てくるくせに、積極的に何かを選び取ろうとしない、生粋の従者。四宮の犬。陽の光の下では生きていけない溝鼠。
早坂の言うように雨は依然として降り続けている。
「雲鷹さまは短時間でも雨に濡れるつもりはないでしょう。たとえ傘があったとしても、雨の中を自分の足で行くなどしないはずです。だからタクシーを使ったのは見当がつきました」
「……それで」
「京都には本邸もあり、土地勘もあります。場末のバーやスナック、ましてやチェーンの居酒屋にいくなどしないでしょう。クオリティの保証された店に目星をつけて」
「ホテルの近くにもいいバーの一つや二つはあったろう」
「えぇ、ありましたよ。ですが雲鷹さま、それらは全てタクシーのワンメーター圏内でして。そう言うのはお嫌いでしょう?」
思わず舌打ちが出そうになる。あぁそうだ、どこで俺の顔を知っている人間と出会うかもわからないのだ。そんな貧乏くさいマネができるはずもない。
が、タクシーでの行動半径を考えれば、選択肢はほとんど無限に広がる。それにしては早坂の到着はあまりにも早い。
「この店に真っ先に来たのは、ここが京都で一番高いからです」
「……そうだったか?」
手元のメニューに目をやろうとすると、早坂はうっすらと笑った。
「ふふ、違いますよ。値段ではなく、物理的な。三次元的な」
前を見る。京都の街並みが一望できるビューラウンジ。
俺は早坂を一瞥すべきかどうか、判断にあぐねていた。さて、どうしたものか。頭はいつものように冷静で、けれど、どこかが猛烈に不快だった。こんな、俺のようなクズにも心の柔らかい部分があるのだとして、そこが執拗に針で突き刺されているような錯覚が確かにあった。
あるいは、錯覚ではないのかもしれない。
早坂の頼んだマティーニがやってくる。それに一口つけて、
「雲鷹さまは高いところが好きですから」
その言い方は極まりなく癪だ。馬鹿と煙は高いところが好きだと揶揄されているようで。
だが、事実でもある。俺は妹のような愚かさとは無縁ではあるが、高いところは好きだった。地下のような――ネズミの蔓延る薄暗さは嫌いだった。
俺がそれを早坂に話したのは、果たしていつのことだったか。
「……早坂」
「なんでしょう」
「お前の論理には前提が大きく欠けている」
「そうですか?」
「俺が酒を飲みに行くという確信がなけりゃ、そういう探し方はしねぇだろう」
それはおかしな話だった。論理的に導けるものと導けないものがこの世にはあって、今までの早坂の話は「四宮雲鷹が酒を飲みに行く」という前提で構築されている。ならばその前提はどこから出てきたのか。
早坂は決して愚かではない。寧ろ、俺が知る中で十分上位に入るほどの有能さを持つ。記憶力はよく、機転は利き、論理的整合性に長け、予測がうまい。
だから、こいつの話に穴がある場合、それは単なる誤りではないのだ。こいつは有能すぎるがゆえに、その有能さを根拠にして誤謬を見抜かれる。
俺はこいつに、もう二度と騙されてやるつもりはない。
「……」
「……」
いつの間にか俺は早坂の方へ視線を向けていた。早坂はオリーブを齧り、そしてマティーニを口に含む。
「お酒を飲みたい気分だったんです」
と、早坂は言った。
私も、と、言外に伝えてきている。私も。俺の詰問への回答として。
……。
参ってしまいそうになる。
昼間に見た妹のアホ面と、その従者の姿が脳裏を過った。血は争えない。全てとは言わないまでも、大半は再生産される。容姿も、性格も。妾胎と言えど妹は妹だし、鼠の子は鼠であるはずだ。
はずだった。
昼間に見た妹のアホ面と、その従者の姿が脳裏を過った。血は争えない。全てとは言わないまでも、大半は再生産される。容姿も、性格も。妾胎と言えど妹は妹だし、鼠の子は鼠であるはずだ。
はずだった。
「もしっ、」
僅かに跳ねる口調で、早坂はこちらを見た。視線があう。嘗てと変わらない瞳、そして髪の毛は、時代を錯誤させるには十分すぎるほど十分。
一瞬、何かに気づいたように早坂は目を見開いて、口を噤んだ。
「……」
もし。その先は無力な言葉だろう。そうはならなかったのだ。少なくとも、俺たちは、そうならなかった。手から零れ落ちていったものを惜しんで一体どうなる?
もし、お前が「ごめんなさい」と言ってくれたのなら、だとか。
もし、俺が「いいんだよ」と言えたのなら、だとか。
そうなればよかった。よかったのだけれど。
そうはならなかった。
少なくとも、俺たちは。
「……忘れていました」
「なにをだ」
「飲む前にすることと言ったら、一つでしょう」
早坂がグラスを持ち、軽くこちらに向ける。俺は自然と、それに合わせた。それは驚くべきことだった。恐ろしいことだった。まるで俺までが、あの腹違いの愚かな妹のようになってしまった気さえした。
「乾杯」
なにに対してなのかは考えるまでもない。
――――――――――――――――
おしまい。
苦しい話は心が苦しいのに心が求める。
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