千早「賽は、投げられた」 (640)
それは、いつのことだっただろう。
私がこの世に生を受けて、一番最初のこと。
私が気付くよりも、ずっとずっと前のこと。
生まれたままの姿の私は、何も持っていなかった。
その目は、母親の姿を見つけてさぞ安心したことだろう。
今となっては、その時の記憶はない。
だから、全ては憶測でしかない。
私の前に置かれた、一枚のシート。
マス目ごとに出来事が書き記された、長い長いすごろく。
スタート地点に、私の駒がぽつんと佇む。
生まれた私は、まっさらな出発地点から始まったのだ。
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スタートした私は手探りだった。
何をすればいいのか。
何をすれば幸せになれるのか。
そんなことは、誰も教えてくれない。
自ら進み、身をもって確かめるしかない。
私の手に握られたさいころ。
これが私の全てだ。
小さなキューブに詰まった私の未来は、とても綺麗に、輝いて見えた。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『両親の愛情を得る』
『1マス進む』
良かった。
私は、幸運に恵まれているらしい。
幸先のいいスタートを切ることになった。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『すくすくと育つ』
大きな不自由はなかった。
幼心にわがままを言っては、両親を困らせることもあった。
けれども、両親は厳しすぎず、甘すぎず。
笑いながら、泣きじゃくりながら、私は両親の愛を一身に受けた。
少しずつ大きくなり、徐々に自分なりに考えるようになった。
弟か妹が欲しいかい、なんて両親の笑顔。
私はとっても喜んで、うんうんと、何度も頷いた。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『弟が生まれる』
『1マス進む』
ああ、なんて素晴らしい事だろう。
私に、弟ができた。
可愛い、私によく懐いてくれる、大切な弟。
初めての、自分よりか弱い存在。
守ってあげたくて、頭を撫でてあげたくて。
前よりわがままを言いづらくなったけれど。
お姉さんというのは、とても心地良いものだと思った。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『両親から同じように愛され、姉弟で健やかに育つ』
『2マス進む』
家族四人で、ささやかな幸せを享受する。
私は少しずつ、歌が好きになっていった。
母の子守唄。
テレビから聞こえる童謡。
聴く者を慈しむような声を、いつからか私も発したいと感じた。
そして口にし始めた拙い歌を、弟は心から楽しそうに聞いてくれる。
それを眺めながら、両親も柔らかく微笑んでいる。
私にとって、それは、これ以上ない幸せのように思えた。
さいころを、振ろうかしら。
いえ、ここで止めておきましょうか。
このまま、
『すくすくと育って大人になり』
『伴侶にも恵まれ』
『子宝を授かり』
『時々は家族と、弟と会って、昔を懐かしみながら』
『ずっとずっと、幸せな日々を送りましたとさ』
めでたし、めでたし。
それで、いいのではないでしょうか。
そんな想いが、私の中を過ぎった。
「あ……」
きっと、幸せな記憶。
それを想い、ふと指の力を緩めた瞬間。
手のひらから、さいころが零れ落ちた。
無情な回転は最早誰にも止めることはできず。
乾いた音を立てながら、すごろくの盤上へと転がった。
ころり。
『1』
「あ…………」
私は、次のマスを見て、身体が固まった。
けれど、さいころの出た目は、絶対だ。
すごろくは、進めなければならない。
振ってしまったら、後戻りはできないのだ。
マス目に書かれた文字を、震える声で読み上げる。
「弟を、失う」
「5マス、戻る」
何故。
何故、さいころは零れ落ちてしまったの。
何故、私は指の力を緩めてしまったの。
マス目をなぞった赤い人差し指が、震える。
あの子の赤で濡れた人差し指が、震える。
押さえを失った歯が、ガチガチと、震える。
何度も夢だと思おうとしたけれど。
震える歯が時折噛む、舌の痛み。
指先にまとわりつく、赤い粘り気。
鼻先をつく、鉄の匂い。
あらゆる感覚器官が、夢であることを拒絶した。
大切な弟だった。
両親の、そして私の、拠り所だった。
その命は、
いとも簡単に。
あっけなく。
ほんの刹那に。
摘み取られてしまったのだ。
震える手から駒を何度も取りこぼしながら。
口元から堪えきれない嗚咽を漏らしながら。
駒を、5マス戻した。
震える手は、さいころを振ることを止められない。
まるで何者かに操られたかのように。
まるで死神にでも魅入られたかのように。
さいころを振る。
『1』
呼吸が荒い。
頬は、何か気持ちの悪い液体で、べしゃべしゃに濡れている。
駒を進める。
マスに書かれている文面は、先ほどとは変わっていた。
暖かさと明るさに満ちていたはずのマス目は、どこにもなかった。
『家族の幸せが途切れる』
『スタートに戻る』
ささやかな幸せは、もう欠片も残っていなかった。
大切なものを失っただけではなく。
かつて注がれていた愛情も、大きく変質してしまった。
私は、また一人でスタートに佇む。
暖かだったものが、温度を零下に冷え切らせて形を変え。
尖った痛みを伴い、家族の繋がりをぼろぼろに刺し崩す。
そう。
私は、一人になっていた。
こんな家には居たくない。
早く、さいころを振って飛び出そう。
心臓を突き刺してしまいたいくらい辛かったけれど。
すごろくを投げ出すことだけは、絶対に許せなかった。
さいころを零し落としてしまったのは、私だから。
壊してしまったのは、私だから。
だからせめて、最後までやらなければ、ならないから。
さいころを振る。
『2』
駒を進める。
『淡々と学校へ通う』
特別な指示はない。
ただ、学校に行くだけだ。
学校も決して、居心地のいい場所ではなかった。
仔細までは分からずとも、みんな、私からある種の空気を感じていた。
それ故、腫物を扱うような空気で、酷く澱んでいた。
けれどそれでも、触らないでいてくれるだけ、あの冷たく刺すような家よりは良かった。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『歌を歌う』
『1マス進む』
そして、一つだけ、いいところ。
音楽の授業は、今の私にとって、唯一求めるものだった。
あの幸せなひと時を、きっとまた手に入れられる。
“歌”は、私にとって幸せの象徴だった。
歌っている間は、一人で安らぐことができる。
歌っている間は、音符の並びしか頭にない。
他の何も考えなくていい。
ただひたすら、歌うだけでいい。
その間だけは少し、あの頃の心地に浸ることができた。
さいころを振る。
『2』
駒を進める。
『合唱コンクールに出場する』
『1マス進む』
中学校。
私はまた、歌う喜びに心を開き始めていた。
相変わらずみんなは、無愛想な私を腫れ者扱い。
私も、みんなと関わろうとはしない。
それでも、歌う時はみんなと一緒だった。
私は声を張り上げ、導くように歌う。
その時だけは、みんなついてきてくれた。
コンクールで大きな結果を出すことは出来なかったけれど。
私が大きな声を出せば、みんなも大きな声を出す。
歌う度に、みんなが喜んでくれた。
ああ、そうだ。
確かあの頃も、こんな風に、みんな喜んでくれていた。
そこに、ささやかな幸せがあった。
コンクールの期間が過ぎると、私はまたいつもように戻った。
みんなもまた、腫物を扱う日々。
けれど私は、見つけかけた気がした。
小さな、幸せの萌芽。
今回は少し遅かったけれど。
次は、きっと幸せを見つけてみせよう。
さいころを振る。
『1マス進む』
駒を進める。
『高校に入学し、一人暮らしを始める』
私はようやく、檻から抜け出した。
無理矢理理由を作り、遠くの高等学校に入学して。
晴れて、念願の一人住まい。
あの家では、もう幸せを見つけることはできないから。
新しい場所で、幸せを見つけよう。
きっと。
私は、何も疑っていなかった。
きっと、思い描いていることは、間違いではないって。
さいころを振る。
『1マス進む』
駒を進める。
『合唱部に入る』
きっと、ここなら私の居場所になってくれる。
歌しか残っていない私にとって、その場所は輝いて見えた。
ここでなら、コンクールの最中に垣間見えた幸せを、共にできるはず。
思った通り、ここでは誰もが歌を愛していた。
勿論、私も。
さぁ、取り戻そう、幸せな日々を。
私は、無我夢中で手を伸ばした。
霞の中で、形も分からぬ何かを掴もうとして。
歌への想いをぶつけるように。
今は失き幸せな日々を探るように。
弟の笑顔にすがるように。
思えば、私は焦っていたのかもしれない。
幸せを目前にしているように見えて。
その実、背後はいつも崖っぷちだった。
さいころを振ろうと力んだ私の手のひらから。
ころん、と。
また、さいころが零れ落ちた。
「あ……」
力と共に右手に込められた、期待と不安は、行き場を失って戸惑って。
ころころと転がり、意に背く数字が表れるのを、私はただ眺めるしかなかった。
「1マス、進む」
心のどこかで、私は思っていた。
心のどこかで、私は分かっていた。
やはり今回も、私は幸せへは届かないのだ、と。
『合唱部での居場所がなくなる』
『スタートに戻る』
確かに、歌への想いはあった。
それは、私も、みんなも。
けれど、根底にある“もの”が、決定的に違った。
私は、歌に対して盲目的だった。
私には歌しかなかった。
私が思う理想しかなかった。
みんなには歌以外もあった。
歌を取り巻く、各々の幸せがあった。
それらの幸せから紡がれる歌があった。
沢山の幸せの中に歌も含まれるみんな。
歌の中にしか幸せを見出せない私。
“合唱”が“独唱”に変わるのに、そう時間はかからなかった。
私は再び、幸せのかけらを、完全に見失った。
手に入れる寸前のつもりだった。
実際には寸前どころか、ゴールへ向かって歩んですらもいなかった。
最初から私は背を向けて、反対方向へ独り歩んでいたのだった。
足腰が砕け、地べたにへたり込む。
幸せの青い鳥など、どこにもいやしない。
鳥籠の中を覗こうにも、それは最初に壊れてしまった。
投げ出すことを許せないなどと言っておきながら、この様だ。
私は弱い。
弱い私には、もう賽を投げる勇気はない。
このすごろくは、私に苦難しか与えない。
もう、さいころなんて振りたくない。
もう、こんなゲームは降りたい。
教えてください。
私の幸せは、どこにあるのでしょうか?
教えてください。
私は、何を探せばいいのでしょうか?
私は自分の駒を掴み、放り投げようとした。
「それは勿体ないよ」
誰かが、そっと私の右手を握った。
私の手を優しく包み、その中にある駒を壊さない様に。
「許せない気持ちが変わらないなら、もうちょっと頑張ってみよう?」
「無理よ。もう、さいころを振る気力もないわ」
突然現れたその声の主は、私を明るく、容赦のない声で立ち上がらせようとした。
私はへたり込んだまま、両手はぶらぶら。
それでも彼女は、私の手を放さなかった。
「さいころを振れなくてもいいよ」
「一歩一歩、進んでいけばいいよ」
「私が、引っ張ってあげるよ」
「またさいころを振れる、その日まで」
彼女は慈しむように私を見た。
澄んだ瞳に、情けない姿の私が映る。
けれどもその目は、同情じゃない。
けれどもその目は、命令でもない。
「どうして、私に声をかけたの」
「辛そうだったから」
「私、助けなんてお願いしたかしら」
「されてないよ」
「なら、どうして」
「私、とっても自分勝手で、お節介焼きさんなんだ」
えへへ、と、彼女は笑った。
「私は、さいころを振らないわ」
「うん、私が引っ張ってあげる」
彼女は、私の手を握る力を強めた。
「だから、その代わりね」
「その代わり?」
同じくらい強い眼差しで、私の瞳の奥を見据える。
「絶対に、前に進むことをやめないで」
「それは……」
「はいっ、ゆーびきーりげーんまーん!」
「え?」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのぉーますっ!」
「あ」
「はいっ、ゆーびきった!」
とびっきりの笑顔で、私に微笑みかける。
「独りじゃなくて、一緒にさ、前に進もう?」
どうしたらいいのか、私には分からなかった。
耐え忍んできたことも、
無我夢中でやってきたことも、
何一つ、実を結ぶことはなかった。
さいころを振る力も失くした今、私は何もできない。
「分からなくてもいいよ」
「そのために、私がいるよ」
駒を私の指先に握り直させ、手を握って一緒に動かす。
伝わってくる彼女の温もり。
その中に、ほんの僅かだけ。
霞の中で、探していたものを感じた気がした。
「ほら、まずは1マス進んでみよう?」
私は言われるがままに、駒を進める。
1マス進む。
ふらつく足取りで訪れた場所。
私の前にあるのは、古びた小さな雑居ビル。
築何年くらいになるのか、多分私よりも年上だろう。
街中で小さな、素朴な広告を見て。
一度見ただけなのに、何故か頭から離れなくて。
それでも躊躇する手を引かれて訪れたのは、これまた小さなアイドル事務所。
私は社長を名乗る人に、一言だけ質問をされた。
「君は、好きなことはあるかね?」
私は、偽りなく答えた。
「以前は、歌が何よりも好きでした」
「……いいえ、歌が私に届けてくれる幸せが、好きでした」
「それをまた手にしたいと、もがいています」
その言葉を聞いた社長は、何も言わずに頷いてくれた。
1マス進む。
1マス進む。
「ん、君が新しく入るっていう子だね?」
「如月、千早です」
「うん、前から知ってるよ」
「え?」
不思議がる私を見て、その人は小さく笑った。
「以前知り合いに、中学生の合唱コンクールに招待されてさ」
「その中に、とても想いのこもった歌声を持っている子がいてね」
「気になって顔と名前だけは覚えてたんだ」
「そう、でしたか」
「これも何かの縁だ。全力でフォローするからよろしくな」
穏やかだけれど、少し空回り気味なプロデューサーに会う。
1マス進む。
1マス進む。
「ちょっと騒がしい子が多いけど、いい子たちばかりよ」
「音無さん、ですよね」
「あら、私の名前を憶えてくれたの? ふふ、嬉しい」
「細かいところまでは詮索しないけれど、千早ちゃんに複雑な事情があるのは聞いてるわ」
「……お気遣いなく」
「そうね。無理に助けてあげようとか、そういうことはしない」
いたって自然な表情で、腫れ物に触るような素振りは全く見えない。
「でも、何か少しでも不安があったりしたら、関係ない事でもいつでも聞いてね」
「自分で言うのも寂しいけれど、年の功もあるから、ね?」
「分かりました。その時が来れば」
音無さんは微笑んだ後、思い出したように深いため息をついた。
1マス進む。
1マス進む。
「あ、ごめんなさい。このプレートに名前書いてもらえる?」
「ええと、これですか」
「そうそう。ロッカー用のネームプレート。あと、こっちの書類もお願いね」
「色々とあるんですね」
「リアルな話、お金のやり取りもあるからねぇ。あ、私は秋月律子。よろしく!」
「如月千早です。よろしくお願いします」
挨拶をすると、その人は眼鏡の端を光らせ、にんまりと笑った。
「歌だけなら即戦力って聞いてるわ。基礎を固めたら、あとはダンスをみっちり鍛えるだけね」
「私、ダンスに興味は……いたっ!」
「ダ・メ・よ! 私もみっちりと鍛えてあげるから、覚悟決めときなさい!」
秋月さんの拳骨は、本当はあまり痛くなかった。
1マス進む。
1マス進む。
「あら、あなたが新しく入った……」
「はい。如月千早です」
「三浦あずさと申します。よろしくね、千早ちゃん」
「千早ちゃ……いえ、何でもないです」
「ちょっと馴れ馴れしかったかしら」
そう言うと、その人はちょっと疲れたように肩に手をやった。
「どうかしましたか?」
「ううん、気にしないで。いつも肩の疲れが取れないのよ」
「…………くっ」
「あら……や、やっぱり呼び名、変えた方がいいかしら?」
三浦さんに、えも言われぬ敗北感を覚える。
1マス進む。
1マス進む。
「初めまして。私は――」
「いえ、みなまで言わずとも分かります」
「どこかでお会いしましたか?」
「いいえ。しかし、新人の方がいらっしゃるということは、既に聞き及んでいました」
そう言うと、その人は不敵な笑みを浮かべながら言った。
「今井さん、ですね?」
「いいえ、違います」
「なんと……私としたことが……」
「私は――」
「おや、もうレッスンの時間が……私は四条貴音と申します。それではまた、如月千早」
掴み所のない四条さんに、終始翻弄される。
1マス進む。
1マス進む。
「そ、その子を捕まえてぇ!」
「え? このハムスター? 大丈夫よ、もう捕まえ――」
「とりゃー!」
まっすぐ、甲子園球児のように綺麗なヘッドスライディングで。
「え? もう捕まえてくれたの?」
「今の拍子に逃げちゃったわ」
「え、ええええええ?! うわあああん自分の馬鹿ああああ……って、もしかして噂の新人さん?」
「はい、これからこちらでお世話になります、きさら――」
「自分、我那覇響だぞ! ダンスが好きで、ペットがいっぱいいて……ってハム蔵ー!」
「え、ちょっと……行ってしまったわ……」
我那覇さんには、あとでちゃんと自己紹介しておかないと。
1マス進む。
1マス進む。
「お茶、いかがですか?」
「ありがとう、ございます」
「ふふ、ちょっと緊張してるのかな。私、萩原雪歩っていうの」
「如月千早です。萩原さん、よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくていいよ、千早ちゃん」
一生懸命私をリラックスさせようとしてくれるその手は、僅かに震えていた。
「手……」
「あっ?! ご、ごめんなさい! その……お口に合うか、心配で……」
「……とっても美味しいわ、萩原さん」
「よ、良かったぁ……」
萩原さんは、ちょっと心配性だけれど、芯は強くて。
1マス進む。
1マス進む。
「ねぇ、千早さん」
「……以前にお会いしたこと、ありましたか?」
「ううん、ないよ。初めましてなの!」
その子は私を見るなり、当たり前のように私の名前を呼んだ。
「えっとね、ミキはミキなの。星井美希」
「初めまして、如月千早です」
「それでね、千早さん。えーっと……あれ?」
「うーんとね……何言おうとしたか忘れちゃったの」
「まぁいいや。ね、お昼だし、一緒におにぎり食べよ?」
「は、はぁ……」
星井さんのマイペースに、すっかり調子を崩されてしまった。
1マス進む。
1マス進む。
「だーれだっ!」
「……誰?」
「残念! 正解は亜美でしたー!」
知らない声に目隠しをされた上、理不尽な不正解を突きつけられる。
「千早お姉ちゃんだよね? 初めましてのご挨拶!」
「あまり初対面の相手にはやらない方がいいと思います」
「お堅いぜ千早お姉ちゃーん。双海亜美だよ! よろよろ~」
「私は如月千早……って、名前は知っているみたいですね」
「りっちゃんの書類覗き見したからねん。んっふっふ~」
「個人情報の保護、って知ってます?」
双海さんみたいな子供に覗かれてしまうセキュリティはどうなのだろう。
1マス進む。
1マス進む。
「だーれだ!」
「……双海さん」
「えっ!? 千早お姉ちゃん、なんで分かったの!?」
聞き知った声に振り向くと、そこで驚いていたのは、よく似てはいるけれど別の子だった。
「……双海、さん?」
「あっ! その顔、もう亜美がやったあとっぽいじゃん! ぐぬぬ!」
「双海亜美さん、じゃない?」
「うんむ。我こそはジェミニの片割れ、双海真美よ! 控えおろう!」
「如月千早です。よろしくお願いします」
「まったくもー、千早お姉ちゃんノリ悪いよー。もう少しこうさぁ」
もう一人の双海さんに、小一時間ほどノリ突っ込みのレクチャーを受ける。
1マス進む。
1マス進む。
「ちょっと。アンタが新人?」
「……そうですけれど」
「ふぅん……ま、悪くはないんじゃない? 悪くはね」
「そうですか。ありがとうございます」
「水瀬伊織よ。一回で覚えておきなさい」
「如月千早です」
やけに上から目線の言葉に、内心、少し穏やかではなかった。
「ふ、ふん、どうせ分からないことだらけなんでしょ?」
「足引っ張られるのもイヤだし、何かあったらさっさと言いなさいよね!」
「あ……はぁ……」
前言撤回、真っ赤な顔をした水瀬さんは、少し人見知りで照れ屋なだけみたい。
1マス進む。
1マス進む。
「あっ! えっと、千早さんですか?」
「はい。如月千早です」
「えっとえっと! 私、高槻やよいって言います! これから、よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
精一杯の挨拶をするその子の姿に、つい笑みが零れてしまった。
「あっ!? わ、笑いましたかー!?」
「い、いえ、そういうわけでは」
「うーっ、千早さん酷いです……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、高槻さん」
「……なんちゃって! こーはいとして、ビシバシ鍛えていきますよー!」
満面の笑みを浮かべる高槻さんは、どこかで見た鬼教官の真似をした。
1マス進む。
1マス進む。
「あれ? お客さん?」
「いえ、今日からお世話になります、如月千早です」
「そっか、じゃあ今日から仲間だね! ボクは菊地真。よろしく!」
「よろしくお願いします」
てっきり、女性だけの事務所だと思っていたのだけれど。
「男性の方もいらっしゃったんですね」
「えっ?」
「え?」
「……そうだよね、ボクの外見じゃ勘違いされても仕方ないよね……」
「えっ!?」
完全に意気消沈してしまった菊地さんを、私なりの言葉で励ました。
1マス進む。
1マス進む。
「うぉっほん! 新しい環境には慣れたかな?」
「正直、まだ慣れるとまではいかないです」
「それもそうだな……ならば、私が直々にあだ名を付けようじゃないか!」
「あだ名、ですか?」
「それで呼び合えば、みんなの仲も深まるだろう」
こめかみに指を当て、しばらく唸った末に。
「そうだな……ゴンザレスなんてどうだろう」
「嫌です」
「ならばハンブラ」
「嫌です」
高木社長は、そうか、と一言、寂しそうに呟いた。
1マス進む。
さいころは振らない。
ただただ1マスずつ、駒を進めていく。
最初は、彼女に腕ごと駒を動かしてもらうだけだった。
仕方がないなぁ、などと言いながら。
少し嬉しそうに、私の駒を、一歩、また一歩と進めていった。
「もうちょっと、私の手助けが必要かな?」
「……まだ、私一人の力では、進められないわ」
「そっか。じゃあ、まだ握っててあげるね」
そう言いながら、手の力は徐々に弛んでいった。
逆行するように、私の腕には、ほんの少しだけの力。
1マス進む。
「プロデューサー、何を唸っているんですか?」
「うーん……いや、先月分の給料、もう少しあったような……」
「音無さんとあずささんが、いっぱい奢ってもらったって喜んでました」
「!! そ、それだ!」
私の言葉に飛びつくように反応したプロデューサーは、そのまま机へ突っ伏した。
「やばい……クレジットの引き落とし大丈夫かこれ……」
「お貸ししましょうか? 私、仕送りのお金とかあまり使ってませんし」
「い、いや! 高校生にお金を借りるのは……大人として……」
「けれど、このままではクレジットが」
「! ティンと来た! 社長に借りよう!」
大人として、あまりにも情けない言葉を聞いた気がする。
1マス進む。
私が駒を進めながらため息をつくと、横から笑い声が聞こえた。
「うわぁ、プロデューサーさん、それはないよ」
「仕事に関しては本当にできる人だし、人柄も素晴らしいのだけれど」
「ちょっと見栄っ張りなんだよね」
「この人が担当で、本当に大丈夫なのかと思う時もあるわ」
プロデューサーは、時々抜けているところがある。
特にお酒が入ると気が大きくなるようで、音無さんはその隙を狙っている節もある。
けれども仕事はきっちりとこなし、その間は決して抜けているところを見せない。
プロなのか、どうなのか……。
1マス進む。
「むふふふ……」
「音無さん、それは何を読んでいるんですか?」
「ピヨッ!? ち、千早ちゃん!?」
「そんなに驚かなくても……ちょっと読ませてください」
「ダメ! こ、これは絶対にダメ!!」
音無さんは、必死の形相で持っている本を死守しようとしている。
「えい」
「ひゃっ! ち、千早ちゃんくすぐっちゃいやあははははは!」
「表紙くらい……」
「あ」
丸一日、絵柄が頭から離れてくれなかった。
1マス進んで1回休み。
初めて当たった1回休みは、なんとも言えない気分だった。
「うわぁ……」
「人の趣味をどうこう言うつもりはないけれど、流石に事務所に持ってくるのは……」
「た、多分、新刊が出て買ってきたばかりだったんじゃないかなぁ……?」
「家に帰るまで我慢できないのかしら……」
どうやらこの事務所、有能な人には駄目な面があるらしい。
多分、こんな生活だからなかなか貰い手が……。
なんて、正面から言ったら寝込んでしまうのだろう。
ああ見えて、凄く繊細な人だから。
1回休み明け、1マス進む。
「あら、これは何かしら」
「あ! それは見ちゃダメ!」
「まさか、律子も何か変なものを……って、律子へのファンレター?」
「うわあああ!」
「そう言えば、昔はアイドルだったって」
私の手から手紙をひったくった律子は、顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「昔のファンレターをデスクに飾ってるなんて、可愛い所もあるのね」
「ううううるさいなぁ悪いかぁ!」
「いいえ。とってもいいことだと思う」
「そ、そう真面目に正面から言われるのは、それはそれで気恥ずかしいのよ……」
赤くなりながらも幸せそうに手紙を握る姿は、羨ましかった。
2マス進む。
2マス進むため、私達の手は、いつもより少し長めに触れ合っていた。
「律子さんって乙女チックだよねぇ」
「普段は冗談挟みつつも、ピシッとしているのに」
「でも、この後仕事にならないんだよね」
「ええ。私も手伝うくらいだもの」
律子は照れると、仕事が手につかなくなる。
それも尋常ではなく、まともに業務ができるまで持ち直すのに、二時間はかかる。
けれどそれは、彼女がその事柄に純真に向き合ってる証。
照れるどころか、誇っていいこと。
再び、1マス進む。
「千早ちゃんは、コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」
「どちらかと言えば、コーヒーでしょうか」
「あらあら、それなら私と一緒ねぇ」
私と一緒ではない胸元を揺らしながら、あずささんは喫茶店のドアを開けた。
「……くっ」
「あ、あら? お気に召さなかったかしら?」
「いえ、何でもありません」
「そう? ここ、エスプレッソが美味しいの」
「では、あずささんお勧めのエスプレッソを」
「うふふ。私もそれでお願いしまーす」
お勧めのエスプレッソは、確かに身体に染み渡る美味しさだった。
1マス進む。
駒を進めた後、私を見ながら言った。
「あずささんって包容力あるよねぇ」
「……私には何が足りないって言いたいのかしら」
「そ、そうじゃないよう! 身体的なあれではなくて、こう、精神的な……」
「確かに、それは思うわ」
年上とはいえ、そこまで離れているわけではない。
それでもあずささんは、私達を包み込んだ上で微笑みかけてくれる。
少し別の世界にいるような余裕と空気が溢れ出ている。
時々、慌てん坊な一面を見ると、ちょっと安心する。
1マス進む。
「如月千早、ここが二十郎でございます」
「こ、ここが……?」
「ここならば、あなたの欲求を満たしてくれることでしょう」
久しぶりにラーメンを食べたいと言ったら、四条さんが妙にやる気を出してしまった。
「噂には聞いていましたけれど、凄い空気が漂っていますね」
「さぁ、こちらが二十郎のラーメンになります」
「多っ……?!」
「どうしましたか? 存分に召し上がっていただいてよいのですよ?」
「た、食べないと……注文したものは、全部、食べないと……!」
「足りないのですか? 遠慮することはありません」
何とか完食するも、丸一日体調を崩す。
1マス進んで1回休み。
二度目の1回休みの間、少し疲れた私は、隣の肩に寄りかかった。
「四条さんに合わせてラーメンを食べたら身が持たないよ、千早ちゃん……」
「それはこの件でよく分かったわ」
「いつも不思議然としてるのに、ラーメンが絡むとすっごくテンション上がるよね」
「食べてる最中のはしゃぎっぷりは少し意外だったわ」
四条さんというと、ずっと掴み所のない、秘密主義な人だと思っていた。
けれども、あの姿を見る限り、年相応の心もあるように感じる。
完全な人間、一色に染まり切った人間など、そうはいない。
認識しているよりもずっと、彼女は普通の人なのだろう。
1回休み明け、1マス進む。
「ごめんなー、千早。手伝ってもらっちゃって」
「構わないわ。どうせ暇でしたし」
「その代わりに自分、腕によりをかけて作るからな!」
「そんなに気合を入れなくても……」
ペット用品の買い出し手伝いのお礼に、我那覇さんが夕食を振る舞ってくれることになった。
「何か手伝うことはあるかしら」
「ええと、それならねぇ……っ! ち、千早!」
「どうしたの? 急に慌てて……」
「そ、そこの料理ガードしてぇ!」
「はっ!?」
間一髪、危うくご馳走がブタ太の餌になるところだった。
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駒を握る手に、ぽたりと何かが垂れた。
「……はっ!? ご、ごめん千早ちゃん! あんまり料理が美味しそうで……」
「ブタ太を見てるのかと思ったわ」
「違うようそんな酷くないよう! でも響ちゃん、相変わらず料理上手いなぁ……」
「編み物とかも得意みたいね」
普段の慌てん坊振りからは、想像できない高い技術。
もしかすると家事裁縫全般は、事務所内で一番じゃないだろうか。
活発な中で時折見せる、女性らしさというか少女らしさというか。
そういうものは、ここから来てるのかもしれない。
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「そ、そんな言い方って!」
「私は思ったことを口にしているだけよ」
「でも、それが全部じゃないよ!」
「少なくとも、私はそう思っているわ!」
萩原さんと意見が真っ向からぶつかり合い、そのまま喧嘩別れのように話さなくなってしまう。
「……」
「……」
「……どうぞっ」
「……あ、お茶……?」
「あーあ、間違って一人分、多くお茶を淹れちゃいましたぁ」
手元に置かれる歩み寄りのサインを見ては、私も歩み寄らないわけにはいかない。
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駒から手を放した後、頬をつんつんと突かれた。
「千早ちゃんの意地っ張り」
「萩原さんだっていい勝負よ」
「雪歩、普段は弱気なのに譲らない時はとことん意地張るよね」
「そうね。とっても強情」
そして、どこか私とも似てる。
萩原さんが事務所内で声を荒げるなんて滅多にない。
その数少ない内の結構な割合は、似た者同士の私との衝突だったりする。
あの意地があるからこそ、彼女はずっとこの業界に居続けている。
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「千早さん! 次はこっち!」
「ねぇ美希、そろそろ終わりに……」
「えぇ~っ!? ダメなの!」
「千早さん、滅多にこういうの着てくれないから、今日はテッテー的にミキがドレスアップしてあげる!」
「しなくていいわ、しなくていいから……」
美希には何故か妙に懐かれてしまい、懇願されて私服を買いにくることに。
「ほらほら! こっちのスカート穿いてみて!」
「お願い……そろそろ、私も限界……」
「むーっ! もっと可愛い千早さんをみんなに見せつけるの!」
「あ、あぁ……もう勝手にやって……」
強引な小悪魔の勢いに圧されつつも、こういう服も悪くないのかな、と思った。
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少し強めに、手を握られた。
「うー、美希、ずるいなぁ。私も行きたいよぉ」
「もうごめんよ。誰とも行かないわ」
「そんなぁ……。ね、一緒に行こうよ! 今度はお化粧用品でも買いに!」
「遠慮しておくわ」
美希は、私のクールなところがかっこいいのだという。
この性格はこれまで、人との間に壁を作る役割しか果たしてこなかった。
けれど彼女の、自分の気持ちに素直な性格も、私みたいに敵を作る場面があっただろう。
辛くはなかったのだろうか。
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「あ、亜美……ちょっと待って……」
「千早お姉ちゃんダメダメっしょ! オーディションなんだからアゲアゲでゴー!」
「ま、まだ一時間以上前なのに走らなくても……」
「ヘイヘイ! この程度で息が上がってたらイクサには勝てぬよ、千早お姉ちゃんクン!」
年相応にはしゃぐ亜美に、疲れつつも少し微笑ましさを覚える。
「もう……じゃ、そんな私になんて余裕で勝てるわよね」
「うえぇっ!? ち、千早お姉ちゃんいきなりダッシュは卑怯だよー!」
「いついかなる時も、気を抜いてはダメよ」
「ま、待ってぇー!」
「どうしようかしら?」
いつもはあんなに押してくるのに、押されるのには滅法弱い子。
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私の手を握る力は、大分弱まってきていた。
「亜美って防御力低いよね」
「勢いに乗ってる内は振り回されてしまうけれど、隙をつけば、ね」
「ふっふっふ、そこはやっぱり年の功かな?」
「そんなこと言ったら、音無さんに怒られるわ」
仕返しをした時のふくれっ面は、ついついからかいたくなる表情で。
まぁ、そういうことをすると大体、更に仕返しをされる。
構ってあげるのは、私のためでもあるのだと思う。
あの子とはまた少し、違うタイプだけれど。
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「千早お姉ちゃーん……真美、もっとテレビ出たいよー」
「頑張りましょう、最近は出番も増えてるじゃない」
「でも真美が映るの、本当にちょびっとだけっぽいよー! もうやる気失くすぅ」
「仕方ないわ、私達はまだまだ下積みだもの」
そんな不満を訴える真美だけれど、本当によく我慢していると思う。
「そだよね。亜美も頑張ってるのに、真美が弱音を吐くわけにはいかないよね」
「いいんじゃないかしら」
「え?」
「いいわよ、少しくらい弱音吐いても。私の方がお姉さんだから」
「……千早お姉ちゃん……」
膝の上で俯いている身体を、出来る限り優しく抱きしめた。
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暖かい手のひらが、私の頭を撫でる。
「真美はもう少し、みんなに本音で甘えていいと思うんだよね」
「それは難しいから、私達が甘えさせてあげないと」
「千早ちゃんも頑張ってるよね。いい子いい子」
「……髪、乱れるのだけれど」
そんなことを言いながら、私の顔は少し緩んでいる。
あの時の真美のように。
普通なら毎日友達と遊んでいる年頃の彼女。
はしゃぎたい時、疲れた時くらい、いつも元気をもらっているお礼をしよう。
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「ごほっごほっ……」
「全く、風邪をこじらせるなんて……意識が足りない証拠よ!」
「ごめんなさい……伊織……」
「無駄口叩いてる暇があったらさっさと治しなさいよね」
寝込んでいる私の部屋へ、伊織が風邪薬やドリンクを持って訪れた。
「こっちが薬で、これがウイダーで……」
「……ありがとう」
「べ、別に親切でもなんでもないわよ。さっさと治してくれないと迷惑なの」
「ええ。お見舞いに来てくれたから、すぐに治るわ」
「ば、ばっかじゃないの! 非科学的よ!」
長丁場の収録で疲れているだろうに、休む間もなく真っ先に来てくれた。
2マス進んで3回休み。
長い休みの間、手の甲から温もりがなくなり、少し不安になった。
「伊織、本当はとっても優しい子なんだよね」
「本人はあれで、隠せているつもりらしいけれどね」
「でも、プロデューサーさんには割と辛辣だよね」
「照れ隠し以外のも大分あるわね」
彼女も、人から誤解されやすい一人。
しかも彼女は、アイドルとしての姿も、自ら偽っている。
それでも頑張るのは、ひとえにその信念の賜物。
いつか、自分が目指す栄光を手にする日を夢見て。
長い休みが明けて、再び1マス進む。
「ありがとうございます、弟達の相手をしてくれて」
「いいわよ、私も楽しかったから」
「弟達も千早さんのこと、とーっても気に入ってました!」
「嫌われなくて良かった」
最近家族に何もしてあげられてないと悩む高槻さんの、ちょっとしたお手伝い。
「千早さんって、小さい子をあやすのが上手いですねー」
「そう、かしら」
「まるで本当のお姉さんみたいかなーって」
「高槻さんの?」
「え、えぅ……それも楽しい、かも。えへへ」
あの日々の私みたいにはにかむ表情は、年相応の無邪気さを感じさせた。
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久しぶりに感じる温もりに、懐かしい安心感を覚える。
「私なんかよりよっぽどしっかりしてるなぁ、やよい」
「家計のやりくりまでしているのよ」
「はえー……私にはとっても無理……」
「本当に頑張っているわ、高槻さんは」
もっと遊んでもいいんじゃないかとは思う。
けれど、高槻さんに聞くと、今の生活で十分幸せなのだと言う。
みんなは少し驚くけれど、私には分かる。
それは本当に、幸せな生活なのだ。
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「元気出そうよ」
「大丈夫よ。ありがとう、真」
「いや、全然大丈夫じゃないって。目が死んでるって」
誰よりも自信のあったボーカルオーディションに落ちて、真に慰められる。
「たまたま審査員との相性が悪かっただけだよ」
「違うわ。私には才能も力もないから――」
「……あああもうまどろっこしい!」
「いたぁっ!?」
「こっちなんて何度女の子であることを全否定されたと思ってっ……! くぅっ……」
「ご、ごめんなさい。ほら、真、元気出して?」
いつの間にやら立場が完全に逆転して、愚痴を聞く側に。
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駒を持つ手が、徐々に自分の力で動くようになってきている。
「でもね、やっぱり真はかっこいいよ」
「天は必ずしも、本人が望む才能を与えるわけではないのね」
「勿体ないなぁ。私がイケメンだったらいっぱい女の子侍らすのになぁ」
「あなたじゃ性格的に無理よ」
真が女の子らしいことをできるのは、いつになるのだろう。
もっとも、性格や言動も一因ではあるのだけれど。
本人もそれは理解した上で、お姫様の座を掴みとるために頑張っている。
……そもそも、掴みとる、という発想からして道のりが遠そうなのはさておき。
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「おお、如月君。調子はどうかね?」
「調子ですか。悪くはない、と思います」
「伸び悩んでいるのかね?」
「……ひと月近く前から、歌声が全く変わっていない気がするんです」
そう打ち明けると、社長は真面目な顔で話を聞いてくれた。
「如月君は最初から高い実力があったからね。そろそろ、目に見えた変化は少なくなる時期だろう」
「壁を越えようにも、その壁が分からないんです」
「そうだな……時間もあるし、私が少し見てあげよう」
「え?」
「まぁ任せたまえ、たまには違う視点から見るのも効果があるものだ」
容赦なく指摘をされ、疲れ果てて帰った夜は、久しぶりの充実感に見舞われた。
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私の手を包む温もりは、もう添えられるだけで、殆ど力は籠っていなかった。
「社長、昔は腕利きのプロデューサーだったんだね」
「いつもの姿からは全然想像できなかったわ」
「社長にも、プロデューサーさんみたいに走り回ってた時期があるのかな」
「あったのでしょうね。がむしゃらに走り続けた日々が」
少し世代がずれていて、抜けているところがあって。
それでも、みんながこの事務所に居るのは、間違いなく社長のお陰で。
どうなっても、社長がいれば何とかなるでしょう。
そう思わせてくれる、信頼感があった。
私の生活は、これまでとは大きく変わった。
耐える日々。
待つ日々。
探す日々。
もがく日々。
そんな毎日を送ってきた私にとって、この場所は異質だった。
耐えることも、待つことも、探すことも、もがくことも。
全部、これまでと同じようにある。
変わっていないはず。
けれど、それだけではない。
それだけではないのだ。
「千早ちゃん」
物思いに耽っていると、不意に、私を呼ぶ声が聞こえた。
直後、ふんわりと後ろから抱きすくめられる。
「この場所は、千早ちゃんにとって、良い居場所になれるかな」
胸元に回された手を握りしめる。
ああ、なんて暖かい手なんだろう。
かじかんだ私を、ゆっくりゆっくりと溶かしていく。
背中に押し付けられた身体の温度も、私の芯を解きほぐしていく。
「そうね。なると、いいわね」
「……いいえ。したいわ。私の居場所に」
これまで私の理想は、形になりかける度に打ち砕かれてきた。
今回もまた、同じように消えてしまうのではないか。
そう思うと、身体の震えが止まらない。
両手の震えが止まらない。
さいころを振らなければ良かったんじゃないか、と。
失うならば知らなければ良かったんじゃないか、と。
また、終わってから後悔するんじゃないか、と。
ぐるぐると、無限螺旋が頭の中を回り続ける。
ここは本当に、私が手を伸ばしてもいい場所なの?
このSSまとめへのコメント
面白い視点の、面白い進みかたの、最近少なくなった765ssの、とても貴重で面白いssです!