北条加蓮「アタシ努力とか根性とかそーゆーキャラじゃないんだよね」 (59)

モバマスSSです。

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「少し時間いいかな?」

 学校の帰り道、あてもなくぶらぶらと街を歩いていると、そんな声が耳に届いた。
 目を向けるとスーツ姿の男性がいた。年齢はよくわからない、20代中盤ぐらいだろうか?
 しゃれた仕立ての黒いスリーピースのスーツは、男性服にくわしくないアタシでも安いものではないとわかる。

「ナンパならどっか行ってよ。そーゆーの興味ないから」

 正直なところ、あまりいい印象は持たなかった。
 男は、いかにもお金のかかっていそうな格好をしているわりに、やたらと穏やかな顔つきをしていて、声からも妙な親しみやすさを感じた。それが、相手に警戒心を与えないよう、意識的に作っているものに思えたからだ。
 男は苦笑を浮かべて、「ナンパじゃない」と言った。

「違うの? じゃあ、どちらさま?」

 男は返事の代わり、とでもいうように上着のポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜いてアタシに差し出してきた。
 ふだん名刺なんて目にすることはないけど、たぶんよくある一般的な形式だと思う。社名と役職と名前が載っている。『Cinderella Girls Production』、女性アイドルを専門とした大手の芸能事務所だ。

「……芸能事務所の、プロデューサー?」

「知っててくれてよかった」

 当たり前だろう、と思った。CGプロと通称されるその事務所は、芸能通でなくとも、名前ぐらいは誰でも知っている。

「そのプロデューサーさんが、アタシになんのご用?」

「アイドルにならない?」と男は言った。「君には素質がある」

 胸がどきんとした。

「素質って……アタシが?」

 男がうなずく。

 やめておけ、と頭の中で声がする。変な希望なんて持つな、傷が深くなるだけだ、と。

「……でも、アタシさぁ、特訓とか練習とか、下積みとか努力とか、気合いとか根性とか、そーゆーキャラじゃないんだよね。体力ないし。それでもいい?」

 アタシは少しおどけたように言った。つまり「その気はない」ということだ。
 言ってしまってから、かすかな後悔が心をよぎったが、

「いいよ」

 男はこともなげに答えた。

「……いや、いいわけないでしょ」

「いいよ、本当に。あ、悪いけど今ちょっと時間がなくて、その裏に地図載ってるから、興味あったら明日の午後に来てね、それじゃ」

「え……いや、ちょっと…………えぇ?」

 男の背中が遠ざかり、雑踏に飲み込まれる。
 ひとりぽつんと取り残されたアタシは、手に持った名刺を裏返した。裏面には、男の言っていたように簡単な地図がプリントされていた。サイズ的な都合だろう、かなりの部分が省略されていて、駅と道路と事務所しか載っていない。駅のどの出口から出ればいいのかもわからないような、簡単な地図だ。

 ……アイドル、アタシが?

 まさかね、とため息をつきながら、小さく首を横に振った。
 そんなことあるわけない。きっとこれはなにかの間違いだ。

 アイドルになんて、なれっこない。アタシは、そんな人間じゃないから。

   *

 小さいころから体が弱く、いつも入院ばかりしていた。

 まるでもうひとつの自宅のように、頻繁に病院を出入りする日々を送っていると、お医者さんや看護師さんと顔見知りになってくる。それから、他の入院患者とも。
 入院しているのは当然、重いケガを負った人や、病気を抱えている人たちだ。中には歳の近い子もいて、会えばちょっとしたおしゃべりをするぐらいには仲よくなることもあった。
 お互いの病室を行ったりきたりして、入院生活の退屈さや、病院食のまずさの愚痴を言い合う。「あの先生は針を刺すのがへたくそだ」なんて話もした。
 あとは、テレビ番組の話題が多かったと思う。
 ずっと寝たきりというわけではないにしろ、病院の中で娯楽はそう多くない。だからアタシも含めて、入院患者はたいていテレビをよく観ていた。自販機で専用のカードが売っていて、それの制限時間分だけ観れるというシステムだったけど、家族がお見舞いに来るたびに、なぜか決まってこのカードを買ってくれたので、いつしか消化が追いつかないぐらいの枚数が貯まっていた。だいたいどの家庭でも同じようなことになっていたみたいだった。

「加蓮ちゃんって、**に似てるね」

 たまにそんなふうに言われることがあった。
 それは人気のアイドル歌手の名前で、当時は毎日のようにテレビに出ていた。
 歳はアタシよりかなり上だったけど、そう言ってきたのはひとりやふたりじゃなかったから、たぶん本当に似ていたんだと思う。

「加蓮ちゃんも将来アイドルになるのかな?」

「なれるわけないよ」

「えー、加蓮ちゃんならなれるよ、かわいいもん」

 そんなやりとりを何度も交わした。
 もちろん悪い気はしなかった。幼いながらも、自分の容姿はなかなかいいんじゃないかと自惚れてもいた。だけど、そんな未来は決しておとずれないだろうとも思っていた。
 少し体を冷やしたら熱が出る。風邪の流行るシーズンは誰よりも早く流行に乗る。アタシにとって、たかが風邪は命に関わるものだった。

 もしもこの体がふつうだったら、『外』の人たちのように元気だったら、アタシもあんなふうになれただろうか。
 いつも、そう考えていた。

 仲のよかった子を、ある日から突然見かけなくなる。長期の入院をしていると、ときどきそんなことが起こる。
 いつものように病室をたずねてみると、まるで元からそこには誰もいなかったかのように、空っぽのベッドだけが残されている。
「あの子はどこへ行ったの?」と看護師さんに訊いてみると、決まって、「退院した」と返ってきた。

『退院』にはふた通りの意味がある。
 ひとつはケガや病気がよくなった場合、もうひとつは、とてもとても悪くなった場合だ。
 よくなったのであれば、そうと言ってくれるはずだった。退院の日なんてしばらく前からわかってるのだから。
 少なくともアタシはそうしていた。「〇〇日に退院するから」と仲のいい子には必ず伝えていた。「またね」と言われたときには、反応に困ってしまったけど。
 もちろん、絶対とは言い切れない。うっかり言うのを忘れることもあるだろうし、本人が退院の日を把握していないということだって、ないこともない。

 最近見かけないあの子はどっちなのか?
 アタシにそれを知ることはできない。そこらのお医者さんや看護師さんをつかまえて尋ねれば、返事はもらえるのだろう、「元気になって退院した」と。
 どちらの場合でも、そう返ってくる。

 病院の消灯は早い。アタシが別荘にしていたところでは、午後の9時が消灯時間だった。
「その時間に必ず寝ろ」というわけではない。部屋の明かりが落とされるだけで、枕元の読書灯や、テレビは付けることができた。数時間おきに看護師さんが見回りにやってくるけど、よほど真夜中でない限り、とやかく言われることもない。
 とはいえ、朝の回診やらなんやらで、起こされる時間もほぼ決まっていたため、自然と規則正しい生活が体に染み付いて、消灯に合わせて眠る習慣ができていた。

 ただ、仲よくしていた子が、いなくなったと気付いてしまった夜には、なかなか眠ることができなかった。
 その子の身を案じる気持ちはもちろんあった。
 でもそれ以上に、『次は自分の番じゃないか?』という恐怖が強かった。

 だいぶあとになってから、「死刑囚は自分の刑が執行される日を知らされない」という話をどこかで聞いた。知ってしまうと、恐怖と絶望のあまり、その前に自殺してしまうのだそうだ。
 だから死刑囚たちは遠くから足音が聞こえると、「止まってくれ」と願い、足音が自分の部屋の前までやってくると、「通り過ぎてくれ」と願うらしい。そのストレスで病気になってしまうこともあるという。
 アタシにはその気持ちがよく理解できた。アタシは執行の日を怯えて待つ死刑囚だった。

 あの子は生きているのだろうか?

 わからない。

 自分はいつまで生きていられるのだろうか?

 わからない。

 わからなくても、考えないわけにはいかなかった。

 夜の病院は静かだ。
 静かで暗いというのは、どうしても死を連想させる。
 だからアタシはテレビをつけた。
 病院の売店で売っている、馬鹿みたいに長いイヤホンをジャックに差し込んだ。
 震える体にふとんを巻き付けて、声を噛み殺して泣いて、画面の明かりをにらみつけた。

 テレビには女の子が映っていた。
 女の子はアイドルだった。
 アタシが似ているとよく言われる、あのアイドルだ。
 彼女はキラキラしていた。きれいな衣装に身を包んで、たくさんの歓声を浴びていた。

 いいなあ、と思った。
 それは羨望ではなく、嫉妬だ。

 どうしてアタシは、ああじゃないんだろう?

 どうしてあの人はあんなに楽しそうに笑えるんだろう?

 死に怯え、布団にくるまって涙を流しているのは、どうしてアタシなんだろう?

 どうして、どうして、どうして。



『かれんちゃんならなれるよ』



 ……なれるわけない。だってアタシには、将来なんてないもの。

     *

「ここ、かな?」

 スカウトされた次の日、アタシはCGプロの事務所の前に立っていた。
 昨日のことはなにかの間違いだ、夢でも見たと思って忘れよう――そう思っていたはずなのに。

 学校帰り、ついうっかり家の最寄り駅を乗り過ごしてしまった。
 気付けばちょうど名刺の地図に載っていた駅にいた。
 駅からそんなに遠くないみたいだし、せっかくだからひとめだけでも見ておこう。
 そんな、我ながら無理のある言い訳を重ねながら、とうとうここまでやってきてしまった。

 事務所は、家から電車で3駅分ほど離れたところにあった。
 近くといえば近く、だけどこの辺り一帯はほとんどオフィス街なので、普段はおとずれることはない。大手というだけあって、事務所となっているビルそのものが、見るだけで気後れするぐらい大きい。「こんな地図でたどりつけるのかな?」と思っていたけど、なんのことはない、いちばん大きな建物に向かって歩けば、それがここだった。

 さて、ここからどうしよう?

 ……さっさと帰るべきだよ。アイドルなんて、なれるわけないでしょ。アタシはそんな人間じゃないんだから。
 アイドルなんてテレビの中だけの夢物語。報われない努力なんてするだけ無駄。
 努力なんて――

『いいよ』

「……なんで、いいのよ?」

 昨日の男の顔を思い浮かべる。理不尽なのは承知の上で、なんだか無性に腹が立った。あの男はいったい、なにを考えてあんなことを言ったのだろう?

「あ、あの、ちょっといいですか?」

 見ると、高校生ぐらいの女の子がいた。かなりボリュームのある長い髪を後ろでまとめていて、まっすぐに切りそろえた前髪の下から意志の強そうな太い眉がのぞいている。あたりに他に人は見当たらない。

「ええと、アタシ?」

「はい! あのっ、ここのアイドルの人ですか?」

「いや、違うけど」

「あれ?」

 女の子はあわてた様子でポケットから名刺を取り出し、建物とそれを交互に見比べた。
 もしかして、アタシと同じようにスカウトされてやってきたのかな?

「ちょっと見せて」

 横から名刺を覗き込む。アタシが受け取ったものと同じデザイン、同じ地図が印刷されていた。女の子が名刺を表側にひっくり返す。社名や住所、代表電話番号なんかは同じ、ただし名前が違った。昨日の、あのプロデューサーとは別の人物から受け取ったものらしい。

「場所は間違ってないよ。その建物がCGプロ」

「そ、そっか、ありがとう!」

 女の子は軽い会釈をして、緊張した足取りで建物に入っていった。なんかほほえましいな、なんて思いながらその背中を見送る。

 深呼吸して気持ちを落ち着かせ、改めて建物に目を向けた。
 あの子はこの要塞みたいな事務所に向かっていった。アタシは、どうする?
 心は決まっていた。アイドルになると決めたわけじゃない、ひとつ、あのプロデューサーに訊きたいことがあった。アタシにあるって言った、『アイドルの素質』ってなに? 昨日初めて会って、アタシのことなんて、なにも知らないくせに。

 しかし、ここのアイドルじゃないと言っておきながら、中でさっきの子とはち合わせるのも気まずいな、なんて考えて、5分ほど辺りをウロウロと歩き回った。そしてようやく意を決して建物に足を踏み入れた。
 さっきの子のこと、笑えないよ、これじゃ。

 受付らしきカウンターの向こうに、女の人が3人並んでいる。
 なんとなく真ん中の人の前に行って、昨日もらった名刺を見せた。彼女は「そちらにおかけになってお待ちください」と言って、どこかに電話をかけ始めた。
 アタシは革張りの長椅子に腰掛けてエントランスの中を見回した。さっきの子は見当たらない。

 少し経って、昨日の男――プロデューサーがやってきた。

「ああ、来てくれたんだ。じゃあ、ついてきて」

 ろくにあいさつもしないままにプロデューサーが歩き出す。アタシはあわててそのあとを追いかけた。廊下を歩き、エレベーターに乗り、4階でおりてひとつの部屋に入る。

 あまり広くはない部屋だった。入ってすぐのところに小さめのコーヒーテーブルがあり、それを挟み込むようにソファがふたつ置かれていた。奥の方に机がひとつ見える。

「ん、おかえりー……って、後ろはどちらさま?」

 ソファに寝そべった少女が言った。かなり背が低くて、クリーム色の長い髪をふたつに分けて束ねている。手には携帯ゲーム機を持っていた。小学生ぐらいに見えるけど、この子も所属アイドルなのだろうか。

「昨日スカウトした子だよ。名前は、名前は…………名前?」

 プロデューサーが口ごもる。そういえば、アタシはまだ、いちども名前を名乗っていない。

「あの、アタシは――」

「あ、自己紹介するならちょっと待って。おーい、森久保、出てこーい」

 プロデューサーが机に向けて呼びかけた。なんで机に? もりくぼ?
 疑問はすぐに解けた。机の下からもぞもぞと、女の子が這い出してきたからだ。
 この子もソファの子ほどではないにしろ、かなり小柄だった。

「うう……なんですか? もりくぼの憩いのひとときを邪魔するんですか? いぢめですか? ドメスティックバイオレンスですか?」

「家庭を築いた覚えがないけど」

 森久保、と呼ばれた女の子が立ち上がり近づいてくる、と思ったら、まだ距離があるところでぴたりと立ち止まる。顔は前を向いているが、目が泳いでいた。
 プロデューサーがこちらに向き直り、小さくうなずく。もう名乗っていいということだろう。

「えっと……北条加蓮、です」

 他になにを言えばいいものかわからず、アタシは口をつぐんでしまった。

「働かざること山のごとし、双葉杏だよ」

 ソファに寝たままの少女が言った。
 キャッチコピーみたいな前置きの意味はわからなかった。

「杏ちゃんね、よろしく」

 杏と名乗った少女は、品定めでもするようにじろじろとアタシを眺めた。

「ねえ、加蓮ちゃんて、歳いくつ?」

「歳? 16だけど」

 そうか、名前だけじゃなくて、年齢ぐらいは言っておいたほうがよかったかもしれない。

「へえ、16か。ちなみに杏は17歳」

「じゅうななっ!?」

 思わず大きな声を出してしまった。
 年上にちゃんづけはどうなんだろう、杏さんと呼ぶべきなのか、双葉さんのほうがいいだろうか――と考えていると、

「呼び捨てでいいよ、杏って」

 まるで心でも読んだみたいに、杏は言った。

「森久保も」と、机の下から出てきた子に向けてプロデューサーが言った。

 森久保と呼ばれた少女は視線をさまよわせたまま、消え入りそうな声で、

「もりくぼは、もりくぼです……あの、アイドル辞めたいんですけど……」

 とつぶやいた。なにか衝撃的なことを言ってるような気がするけど。

「それじゃ名前わかんないよ、そっちの子は乃々。森久保乃々ね、14歳」

「乃々ちゃんね、よろしく」とアタシが言うと、乃々ちゃんはびくりと身を震わせた。
 なんだろう、嫌われている? 怖がられているのかな?

「ああ、森久保は最初はいつもそんな感じだから、気にしなくていいよ」

 極度の人見知りということだろうか。それでアイドルなんてできるのかな? そういえばついさっき本人がアイドル辞めたいとか言ってたけど……

「……ねえ、加蓮ちゃん、新人さんってことだよね。ウチの部署でいいわけ?」

 杏が問いかける。アタシじゃなく、プロデューサーに向けて言ったようだ。

「努力や根性は嫌いなんだって」

「なんでスカウトしたのさ……」

 ホントだよ、と心の中でつぶやいた。

「まあいいか、加蓮ちゃんモンハンできる?」

「へ?」

「モンハン、モンスターハンター」

「いや、それはわかるけど……やったことはない、かな」

「そかそか、じゃあ余ってるの貸すから、やってみよーよ。ハマる人はとことんハマるから」

 アタシはどう反応していいかわからず、呆然と立ち尽くした。
 乃々ちゃんが、「それでは、もりくぼは失礼します……」と言ってまた机の下に潜っていった。

「あのさ……杏も乃々ちゃんも、アイドルなんだよね? お仕事してるんだよね?」

 アタシは誰にともなく問いかけた。

「お仕事ねー、ウチの部署にいる限り、やることはないよ」と杏が答えた。

 頭が混乱した。アタシはアイドル事務所にやってきたはずなんだけど、それも大手の。
 そうか、候補生というものかもしれない。こういうところでは、デビューを目指して日々レッスンに励んでいるアイドル候補生がいると聞いたことがある。

「ええと、レッスンとかは?」

「そっちは申請すれば参加できるんだったかな? もちろん、杏も乃々も受けないけどね」

「じゃあ、なにをするの?」

「ゲームやったりとか、漫画読んでたりとか、あとは……寝てるかな」

「……なにそれ」

「想像してたのと違う?」

 杏が小さく笑った。

「だってそんなの、アイドルっていえないでしょ」

「……ふーん。じゃあ、加蓮ちゃんの思うアイドルって、どんなもの?」

「それは……テレビに出たりして、歌ったり、踊ったり……」

「それはアイドルそのものじゃなくて、アイドルのお仕事だね」

「だったら……杏はどう思うの? アイドルってなに?」

「ん、アイドルの事務所と契約を交わしたらアイドルだよ」

 さも当たり前だろう、というふうに言うので、アタシは言葉を失った。

「加蓮ちゃんが言ったような、テレビに出たりするアイドルってのは、全体からしたらほんのひとにぎりの売れっ子なんだよね。だったら、売れてないアイドルはアイドルじゃないのかな?」

「そうは言ってないよ。テレビってのは、たとえばの話で、他にも小さいお仕事だってあるだろうし……」

「じゃあ、量かな? 仕事の量が少なかったらアイドルじゃない?」

「……そんなことない」

「量は関係ないってことだね。それなら、仕事がぜんぜんなくたって、アイドルでしょ」

 プロデューサーがため息をついて、「あまり新人をいじめるなよ」と言った。これまでアタシと杏のやりとりを黙って聞いていたらしい。
 杏は「へいへい」と気のない返事をして、携帯ゲーム機の電源を入れた。

「これ、契約書」

 プロデューサーが書類をアタシに差し出す。

「内容をよく読んで、印鑑は……持ってきてないよな。親御さんの書く欄もあるから、いちど持って帰って、今度書いてきてもらって」

「アタシ、アイドルやるなんて、言ってないから」

 アタシはプロデューサーの言葉をさえぎるように言った。
 元々そのつもりだった。アタシは、アタシにあるという素質とはなにかを訊きにきただけだ。
 それも、もう訊く気はうせていた。努力や根性が嫌いだから? だからこの部署で怠ける素質があるってこと?

「帰る」

「加蓮」

 プロデューサーがドアの前に立ちふさがる。

「気やすく呼ばないでよ」

「これは仮契約の契約書で、契約の期間は1ヶ月。試用期間みたいなもので、これが終わってからまた、続けるか辞めるか決められる」

「だからやらないって言ってるでしょ!」

 机の影から様子をうかがっていたらしい、乃々ちゃんがびくりと体を跳ねさせるのが視界のすみに映った。

「うるさいなあ、もう」

 杏がうんざりしたような声を出す。

「加蓮ちゃん高校生でしょ、お金がありあまってるなんてことないよね。ウチの部署は、たまにきて適当に遊んでるだけでも最低限のお給料は出るから、アルバイトだと思えば、こんな楽な仕事は他にないよ。杏は関係ないから、加蓮ちゃんがアイドルになりたくないなら、それはそれで構わない。だけどさ、やらない理由ってなんなのかな?」

「関係ないなら、そんなのどうでもいいでしょ」

「まあそうだけどね。加蓮ちゃん、自分でもわかってないんじゃないかって思ってさ。いちどよく考えてみたら?」

 アタシはプロデューサーを押しのけて部屋を出た。小走りでエレベーターまで行き、追いかけてきたプロデューサーの目の前で扉を閉じた。
 1階で降りると、階段を使ったらしいプロデューサーが待ち構えていた。建物を出たところで、アタシは、「ついてこないで」と言った。

「これだけ、持って行ってほしい」

 プロデューサーは息を切らせながら契約書を押し付けてきた。これ以上問答するのも面倒だったから、アタシはそれを受けとって手荒に自分のバッグに押し込んだ。

「これで満足?」

 アタシは駅に向かって歩き出した。プロデューサーは、もう追いかけてはこなかった。

 考えてみればおかしな話だ。

 仕事をしていない、つまり事務所に利益をもたらしていないのに、最低限の給料が出る。それでは事務所にとって、そのアイドルの存在は、マイナスにしかならない。 
 だったら、なんのために契約なんて交わす? 芸能事務所だってひとつの会社である以上、目的は利益を出すことのはずだ。

 事務所と契約を交わしたらアイドル、納得はしないけど、それもひとつの事実ではあるのだろうと思う。
 杏や乃々ちゃんは、すでにCGプロと契約を交わしているはずだ。もしかしたら契約を途中で打ち切ることが難しいのかもしれない。企業イメージなどの事情で、下手に事を荒立てるよりも、契約期間の満了までほったらかしておいたほうがいいと判断したのかもしれない。

 だけどアタシは? 新たに働かないアイドルを増やすことで、いったいどんなメリットがある?

「……わかんないな」

 夜になって、アタシは仮契約の契約書に目を通していた。いちどぐしゃぐしゃにしてしまったせいで、読みづらくて仕方がない。

 期間は1ヶ月、給料は固定給プラス歩合給、仕事はないと言っていたから、歩合の分はゼロということになる。固定給は14万円だ、これが多いのか少ないのかはよくわからない。そして、何度読み返しても、出勤日数や勤務時間に関する記述がない。
 契約書なんてものを見たのは初めてだけど、これを読んだ限りでは、たとえ1日も事務所に行かなかったとしても、給料が支払われるように見える。なにもしなくても14万円はもらえる。そんなことってある?
 ふつうなら詐欺を疑うところだろう。だけど、天下のCGプロが、たかが高校生ひとりをだまくらかして得があるとも思えない。
 アタシだって、お金は欲しい。誰だって欲しいだろう。だけど……

『やらない理由ってなんなのかな?』

 杏の言葉を思い出す。
 話がおいしすぎて怪しいから……違う、アタシが気にしてるのはそんなところじゃない。
 アタシはなんで、腹を立てたのだろう?
 アタシは、なにを期待していたのだろう?
 プロデューサーはなんで、アタシをスカウトしたのだろう?



「……なにもわからない」

「書いてきたよ、これでいい?」

 翌日、再び事務所におもむいたアタシは、必要事項を記入した契約書をプロデューサーに突きつけた。
 保護者の欄は自分で記入しようとも思ったが、大人っぽい字を書けないからすぐにバレそうだという少し情けない理由もあって、結局、「なにも言わずにこれ書いて」と母に頼み込んだ。
 あれこれ質問された場合の言い訳もいくつも用意していたけど、母は本当になにも問いかけてくることなく、『保護者の同意』に名前を記入し、アタシに返してきた。少し、笑っていたような気がする。

「はい、たしかに」

 記入項目の確認をしたプロデューサーが、顔を上げて大きくうなずいた。

「まだ決めたわけじゃないからね。納得したいから、1ヶ月だけ来てみるってだけだから」

「はいはい」

 どうも調子が狂う。のれんに腕押しという感じで、こちらの気持ちが伝わってる気がしない。

「おっ、加蓮ちゃんおはよ」

「あ……加蓮さん、おはようございます……」

 ドアが開き、杏と乃々ちゃんが部屋に入ってきた。どちらも反応が軽い。なんで? 昨日アタシはかなり険悪な空気の中で出ていったはずなのに。

「昨日あのあとね、加蓮ちゃんがまた来るかどうか、ジュース賭けようって言ったんだけどさ、みんな『来る』のほう選ぶから、賭けにならなかったよ」

 杏が言った。怒るよりも呆れてしまった。もしかしたらアタシの人生を左右するかもしれない選択に、ジュースって。

「そうだ、はいこれ」

 杏がゴソゴソとバッグの中を探り、携帯ゲーム機をアタシに差し出してきた。

「なに?」

「ひと狩りいこうぜ」

 そうして、アタシは平日の学校が終わったあとは、事務所に顔を出すようになった。

『仕事がない』というのは一種の謙遜か言葉の綾というもので、本当はある程度アイドルらしいこともやってるんじゃないか、そんな淡い期待は、あっけなく裏切られる。
 杏は本当にゲームをしてるか昼寝してるかのどっちかだったし、乃々ちゃんはいつも机の下に潜り込んで少女漫画を読んでいた。

 おまけに、プロデューサーもいっしょになって遊んでいた。
 アイドルのふたりはともかく、プロデューサーまで働かないというのはさすがにおかしいだろう。なんでこんなことが許されるのか――

「……リストラ部屋?」

 ふと、思いついた言葉をつぶやく。

「失礼なことを言うな」

 とプロデューサーが言った。

「仕事をとってくる必要はないから他のプロデューサーよりは楽かもしれないけど、そのぶん書類仕事はけっこう回されてくるんだよ。俺は働いてないわけじゃない」

「それなら、なんで今、ニンテンドー3DSを握ってられるの?」

「今日の分はもう終わらせてあるから」

 慣れとは恐ろしいもので、1週間も経つころには、アタシはすっかりこの生活になじんでいた。
 杏やプロデューサーとゲームで遊ぶことは楽しかったし、乃々ちゃんから漫画を借りて感想を言い合ったりしているうちに、ふつうにおしゃべりもできるようになった。

「そういえば加蓮ちゃん、なんだかんだで毎日顔出してるよね」と杏が言った。

「まずかった?」

「そんなことないけど、学校の友達とかと遊んだりはしないのかなってさ」

「アタシに友達なんていないよ」

 言ってから、少し後悔した。
 病弱だったことはここの人たちには話していない。同情されたくなかったからだ。
 詳しく聞かれるかな、なんて答えようかな、と考えていると、

「そっか」

 思いのほか、そっけない反応が返ってきた。

「杏も、同じようなもんだよ」

   *

 中学生のある日、アタシは激しく体調を崩して入院した。

 何日ものあいだずっと高熱が出ていて、食事もまったく受け付けなかった。
 意識があるときも、熱に浮かされてろくにものを考えることもできず、起きているのか眠っているのか自分でもわからないような日々が続いた。

 ぼんやりと、「死ぬんだろうな」と思ったことだけは覚えている。不思議と、怖くはなかった。いっそ早く終わらせてほしいとすら思った。

 そのとき、ふと指先に妙な熱を感じた。
 薄く目を開くと、看護師さんがアタシの手を取っている姿が映った。最近赴任してきたばかりの、若い女の人だ。

 ――なにをしているの?

 そう言おうとしたが、言葉は声にならず、喉からはすきま風のような音がもれただけだった。

「あら、起こしちゃった?」

 アタシは返事の代わりに、ぱちぱちとまばたきをした。

「今ね、加蓮ちゃんにマニキュアを塗ってたの」

 ――マニキュア?

「ほんとはお化粧もしてあげたいんだけどね」

 そう言って、看護師さんはほほ笑んだ。
 どうしていいかわからず、アタシはただ、ふうふうと荒い息をついていた。

「だって、こんなにかわいいんだもの、なにもしないなんてもったいないじゃない?」

 彼女がなにを言っているのか、アタシにはよくわからなかった。うつろになっていく意識の中で、「内緒ね」と言ったのが、かろうじて耳に届いた。

 その夜、アタシはバケツ一杯分ぐらいの汗をかいて、翌朝にはすっかり熱が下がっていた。
 指一本動かすことも億劫に思うような倦怠感からも解放され、ひさしぶりに体を起こすことができた。ほとんど水みたいな薄いものだったけど、お粥も食べた。
 検診にやってきたお医者さんや、見舞に来た家族と話しているあいだ、右手はふとんの中に隠していた。
 そして病室にひとりになったころ、秘密の宝物のようにそれを取り出して、晴れた日の空みたいな水色に染まった5本の爪を、飽きることもなく眺めた。

 奇跡というものは意外とありふれている。たとえばこれがそうだ。

 さすがにあのマニキュアがきっかけだなんて思わないけど、その日からアタシの病状は飛躍的な回復を見せた。体質そのものが変わったといってもいいかもしれない。
 本当にふつうの人と比較するなら、体が強いとはお世辞にも言えないだろう。ときどき熱を出したり、貧血を起こすことはあった。だけどそれ以来、長期の入院が必要になるようなことはなくなった。

 まるで生まれ変わったみたいだと、そのときはそう思っていた。

   *

「杏、ちょっと手出してよ」

 とアタシは言った。

「なに? 手相でも見てくれんの?」

 杏が小さな手のひらを差し出してくる。

「そっちじゃなくて、反対、甲のほう」

「うん? はい」

 杏が手を裏返した。その指先には短く切り揃えられた、丸っこい、かわいらしい爪が並んでいた。予想通り、なんの手入れもしていない。

「ちょっと待っててね」

 アタシは部屋を出て、向かいがわにある給湯室でお湯を沸かした。それからシンクに置いてあった金だらいにお湯を注ぎ、水を足して温度を調整して、部屋に持っていった。

「なになに? なにを始める気?」

「別に変なことじゃないよ、杏にネイルしてあげよっかなって思って」

「はあ? ネイル?」

「嫌だった?」

「だって……杏このナリだよ? ネイルなんて、似合うわけないじゃん」

「魔女みたいな長い真っ赤なのだけがネイルじゃないよ。ほら、手貸して」

「……なんか怖いんだけど」

「いいから、おとなしくしなさい」

「杏のほうがお姉さんなんだけどなー」

「はいはい、お姉さん、ここに手を浸けて」

 杏はぶつぶつと文句を言いながら、お湯に手を浸した。
 3分ほどそうしてもらったあと、アタシはバッグから道具一式を取り出した。

「少し削るね」

「うん……」

 形を整えて、甘皮の処理をして、ほんの少しだけ表面を磨く。ベースコートを塗り、なんとなく杏のイメージに合いそうな薄ピンク色のマニキュアを乗せる。最後にトップコートを塗ってできあがり。

「できたよ、ほらかわいい。しばらく触っちゃダメだよ」

「……ゲームができない」

 いかにも慣れていない様子で、杏は必要以上に大きく開いた両手をにらみつけた。

「ちゃんと乾かしてからね」

 さて、もうひとり。

 チラチラとこちらの様子をうかがっている影に向けて、「乃々ちゃんも、おいで」と呼んでみた。

「あの、その、もりくぼは……」

 視線をさまよわせながら、乃々ちゃんが這い出してくる。

「好きな色とかある?」

「えっと……では、薄い緑色とか……もしあればですけど……」

「これとかどう?」

「は、はい、それでお願いしますけど」 

「あ、お湯冷めちゃってるから、代えてくるね」

 金だらいを持ち上げ、給湯室に向かおうとしたところに、

「ありがと」

 ぼそりと、杏がつぶやいた。

「どういたしまして」

 月末になったらCGプロの給料が入る。
 その日アタシは事務所に行く前に、ちょっと使い道でも考えておこうと思ってデパートに立ち寄った。
 14万円というのは、高校生からするとなかなかの大金だ。本当にこんなのでお金をもらっちゃっていいのかな、と思う気持ちもなくはないが、CGプロほどになれば、きっとこの程度の金額は誤差みたいなものだろう。
 化粧品コーナーをながめ終えて、服や小物のショップを物色して歩いていたとき、ある一角にステージのようなものが作られているのが見えた。お世辞にも立派とは言えないような簡素なステージで、その前には客席ということらしいパイプ椅子が並べられていた。椅子は20脚ほどあったけど、座っている人はいない。

 ――ああ、たまにこういうのやってるよね。

 と、さして興味もなく通り過ぎようとした。だけど、ステージにその人が上がった瞬間、アタシは思わず息を止めた。
 黒いパフスリーブのドレスに身を包んで恥ずかしそうにたたずんでいるのは、アタシが初めてCGプロをおとずれた日に、事務所の前で出会った女子高生だった。

 なんであの子が、と思った。
 それからすぐに、アタシは馬鹿かと思った。あの子はスカウトされてCGプロに行ったんだから、アイドルになったんだ。アイドルとして、ここに来ているんだ。
 椅子に腰かける人はいなかった。だけど何人かの通行人が足を止めて、壇上の彼女を興味深げに眺めていた。
 アタシは物陰に隠れた。なんとなく、今はあの子に気付かれたくないと思った。
 やがて設置されたスピーカーから音楽が流れ始める。音質はあまりよくはない、少し音が割れていた。

 彼女は音楽に合わせて簡単なステップを踏んだ。顔は緊張でこわばり、首元まで真っ赤になっていたけど、その動きは堂々としたものだった。
 歌が始まる。彼女は開き直ったようにマイクを握りしめ、声を響かせた。道行く人がひとりふたりとパイプ椅子に腰かけ始める。さらに多くの人が足を止め、ステージを注視していた。
 曲が終わり、周囲の人がパチパチと拍手をする。あまり多くはないけど歓声を上げている人もいる。
 彼女は集まった観客たちに一礼し、照れたような表情で、少しどもりながら、「ありがとうございました」と言って――



 アタシはその場から逃げ出した。

     *

 体質が奇跡的な改善を見せ、体の調子は格段によくなったけど、それでなにもかもがうまくいったかというと、そうでもない。
 ようやくまともに通えるようになった学校生活は、アタシにとって、決して楽しいものではなかった。

 それまでろくに授業を受けていなかったため、勉強はまったくついていけなかったし、運動に関しては論外といっていいものだった。
 本気でなんとかしようとすれば、できないことはなかったとは思う。授業内容がわからないのなら、今からでも勉強すればいい。体力がないのなら、体を動かしてつければいい。それができる体になったのだから。
 しかし、絶望的な出遅れとは、追い付こうという気力すらも湧いてこないもので、アタシは真面目な学生にはなれなかった。努力してやっと人並みなら、出遅れたままでもいいと思ったからだ。

 人間関係においても、アタシはうまく周りになじめずにいた。
 いじめられていたわけではないし、話しかければ返事ぐらいはした。だけど、友達と呼べるような人はいなかった。
 あまり積極的には関わりたくないと周囲に思わせる、学校でのアタシは、どうやらそのような存在だったらしい。

 そして、アタシは生活指導の常連でもあった。
 最後の長期入院をした、あの一件依頼、ネイルがアタシの趣味となった。それほど長くは伸ばさなかったけど、いつもなにかしらの色は乗せていたし、丁寧にケアもしていた。
 それが教師には気にくわないらしい。だけどアタシは、何度注意されてもそれをやめなかった。自分の爪を磨いたり、マニキュアを塗ることが、いったい誰の迷惑になるというのか、どうしても理解できなかったからだ。

 ある日、『放課後職員室へ行くように』と、もう何回目になるかもわからないお達しを受け、アタシはそこに出向いた。職員室では生活指導担当の教師が待ち構えていた。体育教師でもないのに年中ジャージ姿で、頭部にちょっとした特徴があり、いつも身に着けている被り物の名前が、生徒のあいだでの彼の通称となっていた。
 長々と続くお説教を、頭をからっぽにして聞き流す。なにを言われたって、どうせ爪をむしりとることまではできやしない。台風は黙って通り過ぎるのを待てばいい、それだけだ。

「勉強するのに爪に色を塗る必要があるのか?」

 教師が言う。勉強に必要なことだけで生きている人なんて、この世のどこにいるのだろう、と思った。

「勉強を教えるのにカツラをかぶる必要はあるんですか?」

 と訊き返した。直後、顔にはじけるような衝撃が走った。
 体のバランスを崩し、たたらを踏んだ。左の頬がじんわりと熱くなり、痺れのようなものを感じた。引っ叩かれたのだと気付くのに、少しの時間を要した。
 教師は、呆けたように自分の手のひらを見つめていた。
 アタシは黙って職員室を出ていった。背後から制止するような声がかかったけど無視した。
 昇降口でさっさと靴を履き替え、家に向かって歩き出す。歩調が意図せずして速くなっていき、しまいにはほとんど走るみたいになっていた。
 張られた頬が、じんじんと痛んだ。
 涙がこみ上げてきそうになるのを、下唇を噛み締めてこらえた。
 こんなのどうってことない。ただ痛いだけで、死ぬわけでもなんでもない。アタシはこんなことよりずっと苦しくて怖い思いをしてきたんだもの。たかだかこの程度のことで、絶対に泣かない。

 翌日、学校に到着するなり担任の教師から職員室へ行けと言われた。ホームルームは出なくていいということらしい。
 職員室に入ると生活指導の教師が、「昨日は悪かった」と言って頭を下げた。ようするに、騒ぎにはしないでほしいということだろう。

『人に頭を下げる時ぐらい、帽子を取ったらいかがですか』なんてセリフが頭に浮かんだけど、形だけにしろ謝罪している人に言うことじゃないと思って飲み込んだ。
 だけど、「いいですよ、気にしてませんから」なんて言いたくはなかった。女の顔を叩いておいて、そう簡単に許されるなんて思ってほしくなかった。

 教室に戻ると、すでに1時間目の授業が始まっていた。四方から好奇の視線が注がれ、ひそひそとささやく声がする。
 国語の教師が、「お説教は終わったのか?」と言い、教室は笑い声に包まれた。
 アタシは、かっと熱くなった顔を伏せて、自分の席に着いた。

 すべてが憎らしく感じた。生活指導の教師も、国語の教師も、同級生たちも、アタシ自身も、なにもかも。
「黙れ」と一喝してやりたかった。「あんたらにアタシのなにがわかる」と叫びたかった。机を蹴り倒して、今すぐ教室を出て行ってやりたかった。
 だけどアタシにそんな度胸はなくて、ただ強く唇を噛み締めて、心の中で呪った。



 どいつもこいつも、全員、くたばってしまえ。

     *

 どこをどう歩いたのかもわからない。
 あるいは走っていたのかもしれない。
 気付けばアタシは事務所に来ていた。

「あったよ、ハチミツが!」

「そんな報告要らないよ」 

 部屋では、杏とプロデューサーが飽きもせずゲームで遊んでいた。乃々ちゃんは、姿は見えないけど、きっといつものように机の下だろう。

「お、加蓮ちゃん。ひと狩り行く?」

 杏の問いかけは無視して、アタシはプロデューサーの前に立った。

「レッスンって、アタシでも申請すれば受けられるんだよね」

「レッスン?」

 プロデューサーが顔を上げる。

「そう、レッスン、受けたい」

「……今日?」

「今日からできるのなら」

「少し待って」

 プロデューサーは机の上の電話機に手を伸ばし、どこかにかけ始めた。ふたことみこと言葉を交わし、受話器を置く。

「1時間後、第2レッスン室。場所はあとで案内するよ」

 あまりに簡単に事が運ぶので、少し拍子抜けした。

「こんな急に、大丈夫なの?」

「加蓮なら、受けるのは元々予定されていた初心者用の多人数ダンスレッスンになるから、トレーナーさんが手取り足取り指導するようなものじゃないし、ひとりふたり増えても変わりゃしない」

 そういうものか、と思った。なんにせよ都合がいい。

 更衣室に案内され、事務所で貸し出しているレッスン着に着替える。それからレッスン室に入ると、まだ時間には余裕があるはずなのに、すでにたくさんの人がいた。
 アタシは後ろの隅のほうに陣取り、ひとりで周りを真似てストレッチをした。我ながらびっくりするぐらい体が固かった。
 ほどなくして、黒髪を低いサイドテールにした女性が入ってきて、部屋にいる人たちが整列した。あの人がトレーナーさんということらしい。

「まず私がやって見せるので、みなさん同じように動いてくださいね」

 そう言ってトレーナーさんがラジカセの再生ボタンを押す。
 単調なリズムのインストゥルメンタル曲が流れ始め、トレーナーさんがお手本を見せた。脚運びだけの単純なステップだ。
 それからトレーナーさんが手を叩いてリズムをとり、全員が同じ動作をする。

 ――できた。なんだ、簡単じゃない。

 ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、またトレーナーさんがお手本を見せて、全員で後に続く。それを繰り返し、次のステップ、さらに次、と続けていくうちに、だんだんと動作が複雑になっていく。腕の動きも加わり始めた。しだいに頭も体も処理が追い付かなくなり、アタシは足がもつれて何度も転んだ。
 30分も経ったころには、心臓が爆発しそうになっていた。

「北条さん、少し休んでいてください」

 トレーナーさんが声をかけてくる。

「だいじょうぶです」

「でも……」

「だいじょうぶです」

 トレーナーさんは困ったような表情をしていたが、ふいにパンと手を叩き、

「今から10分間休憩とします。皆さん水分補給しておいてくださいね」

 そう言って、部屋を出ていった。
 アタシは床にへたりこんだ。肺と心臓と全身の筋肉が悲鳴をあげていた。
 全身汗だくで、喉はカラカラに渇いていたけど、飲み物を買いに行く気力もなかった。

 ふと人の気配を感じて顔を上げると、プロデューサーがアタシを見下ろしていた。

「今日はここまで」

 とプロデューサーは言った。

「まだやる」

「だめだ」

「……なんで」

「他の子らの邪魔になるから」

 言い返せなかった。休憩に入る前、トレーナーさんは明らかにアタシを気にしていた。アタシを休ませるために、休憩を前倒しにしたんだと思う。
 アタシはよろめきながらレッスン室を出た。

「最初はこんなもんだよ」

 シャワー室に向かうアタシを送り出しながら、プロデューサーが言った。

 でもアタシは、こんなものじゃ嫌なんだ。

 多人数のダンスレッスンは、平日は毎日行われていた。
 次の日、また次の日も、アタシはこのレッスンに参加した。そして、いつも途中でプロデューサーがやってきてストップをかけた。「まだできる」とアタシがいくら言い張っても、半ば強引にレッスン室を追い出された。
 歯痒かった。疲れ果てていたのは確かだけど、アタシはもっとレッスンをしたかった。もっと早く、追いつきたかった。

 ある日、レッスン開始から数十分経過したころ、「おじゃましますけど……」と言って、乃々ちゃんがレッスン室に入ってきた。

「……乃々ちゃん?」

「あっ、加蓮さん。あの、今日はそろそろ終わりで……」

「プロデューサーは?」

「えっと、あの人は、今日は用事があるとかで……頃合いを見計らって加蓮さんを止めてくれと頼まれてて……」

「そう、だけどアタシ、もう少しやるから」

「え……でも、もりくぼは頼まれて……ど、どうしましょう?」

 乃々ちゃんなら無理やり止めることはできないだろう。
 少し心は痛むけど、アタシが言うことを聞かなかったわけだから、後で乃々ちゃんがプロデューサーから責められるようなことはないはずだ。

「森久保さん、せっかく来たのですから、みんなにお手本を見せてはいかがですか?」

 トレーナーさんが言った。

「ええっ!? そんな、もりくぼにお手本なんて、むーりぃー……」

「少しだけですよ。ここにいる皆さんはまだデビュー前ですから。現役アイドルの動きというのも見てみたいでしょうし」

 気付けば、レッスン室にいる全員が乃々ちゃんに注目していた。

「なんか見られてるんですけど!?」

「もういっそ、やってしまったほうが楽ですよ。軽くですから、軽く」

 トレーナーさんは面白がっているように煽り立てる。

「あうあう……じゃ、じゃあ、ちょっとだけ」

 にっこりとほほ笑んだトレーナーさんが、ラジカセの再生ボタンを押した。
 流れ出したのは、レッスンに使っていたのと同じ音楽だ。乃々ちゃんがおどおどと踏み始めるステップも、さっきまでアタシがやっていたのと同じもの――だけど、
 これが本当に同じものかと思った。
 初心者用の簡単なダンス、そのはずなのにアタシは、いや、この場にいる全員が、乃々ちゃんから目を離せなくなっていた。
 レッスンでトレーナーさんが手本として見せていたのは、定規で測ったような正確なダンスだった。乃々ちゃんのはそれとは違い、なんとなく、ところどころに若干のズレ、揺らぎのようなものがある。だけど直感的に、その揺らぎこそが目を離せなくなる要因だと思った。
 正直なところ、アタシはダンスの上手い下手なんてわからない。正確であることを上手いというのなら、トレーナーさんのほうが遥かに上だろう。でも、目を引き付けられるのは乃々ちゃんのほうだった。アタシは疲れも忘れてそれに見入っていた。

 音楽が途切れ、歓声と拍手が沸き起こる。
 乃々ちゃんの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。

「か、加蓮さん! 早く行きますよ!」

 乃々ちゃんはそう言ってアタシの手をつかみ、レッスン室の外に引っ張っていった。
 無理くぼとか恥くぼとかつぶやきながら、ずんずんと速足で廊下を歩き、レッスン室からだいぶ離れたころ、ようやく歩調をゆるめて、手を放してくれた。

「あ、あのさ、ごめん。乃々ちゃんのこと見くびってたよ。ダンス、すごい上手なんだね、すごかった」

「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど……でも、あーゆーのはむーりぃー……」

「……杏も、できたりするのかな。乃々ちゃんみたいに」

 乃々ちゃんはぴたりと足を止めた。
 あれ、なにかマズいこと言ったかな? と思いながら隣に並び、その横顔をのぞき込む。乃々ちゃんは口元に指を当てて、なにか思い返しているように、やや上の虚空を見つめていた。

「杏さんは、こんなものじゃないですよ」

 次の日は杏がやってきた。
 そのときはちょうど休憩時間だった。もしかしたら休憩になるのを待っていたのかもしれない。

「おー、ヘバってるヘバってる。加蓮ちゃん帰るよー」

「……その役は持ち回りになったの?」

「いや、あの人から頼まれたのは乃々なんだけどさ、昨日なにか嫌なことがあったらしくて、来たくないって言い張ってね」

「杏は、アタシがまだ続けるって言ったら?」

「もちろん、止めるよね」

「……なんで?」

「なんでかぁ、むしろなんでレッスンするの?」

「え?」

「加蓮ちゃんは、なんのためにレッスンをしてるの?」

「そんなの……アタシはただでさえ出遅れてるし、自分がまだまだだってわかってるから、だからもっと――」

「あ、ストップ。つまり、上達するためってことでいいんだよね」

「そんなの、当たり前でしょ」

「だったら話は簡単。今それ以上やっても上達なんかしない。どころか、やればやるほどダメになる。だから止めるんだよ」

「どうして、そんなことがわかるのよ」

「どうしてと言われてもね、これは科学の分野だから、実際そうなってるとしか」

「科学?」

「そ、スポーツ生理学ってやつだね。人体の仕組みやら構造やらにもとずいて適切に運動能力を高めましょーってやつ。人間はね、がんばったらがんばっただけよくなるなんてことはないんだよ。過ぎたる負担は毒にしかならない。なんとなくわかるでしょ?」

「……努力は無駄ってこと?」

「努力ねー」

 杏はあざ笑うように口元をゆがめた。

「正しいがんばりかたを知ろうともしないで、無駄に苦労してがんばったつもりになるなんて、甘ったれてるって杏は思うね。そんなの、聞こえのいい言葉を言い訳にして、一生懸命な自分に酔ってるだけだよ」

「……手厳しいね」

「いや、当たり前のことだよ。トレーナーさんも、あの人もそれをわかってる、だから止める。せっかくだし、反論があるんなら納得するまで相手するよ」

「ううん……納得、した」

 もしかしたら、昨日までのアタシだったら納得しなかったかもしれない。仕事もレッスンもしない杏や乃々ちゃんがなにを言ったって、怠けるための口実にしているだけだろうと思ったかもしれない。
 だけど、乃々ちゃんは本当はすごい実力を持っていた。杏はそれ以上だという。だからきっと、杏は正しいんだ。なんでそれだけの力があって仕事をしないのかはわからないけど。

「プロデューサーは、どうしてそうやって説明してくれないの? アタシだって子供じゃないんだから、ちゃんと言ってくれればよかったのに……」

「あー……あの人は、頭ではわかってるんだろうけど、そーゆーのが大好きだからね」

「そういうのって?」

「努力とか、気合いとか、根性とかさ」

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、プロデューサーが机になにかの書類を広げ、杏と乃々が横からそれをのぞきこんでいた。

「プロデューサー、いたんだ」

「ああ加蓮、レッスンお疲れさま。今帰ってきたところ」

「ふーん、ライブハウスか。オールスタンディングでワンドリンク付き……よくあるやつだね。何人ぐらい入るの?」

「300人ってことになってるけど、詰めれば400人いけそうだから400売る」

「お客さん死んじゃいますけど……」

「ステージの近くに行こうとしなければ平気だよ。それでも前に出ようとするなら覚悟ができてるってことで、なにかあっても自己責任だ」

「乱暴だなぁ」

 3人がよくわからない会話をしている。

「……なに? なんの話?」

「加蓮もレッスンがんばってることだし、仕事を用意してみた」

「仕事って……え? アタシに?」

「嫌だったか?」

「嫌とかそういうんじゃなくて……ここって仕事をしない部署じゃなかったの?」

「しなくてもいいというだけで、してはいけないってわけじゃない。レッスンはするのに仕事しないってのもおかしな話だろ? いや、仕事しないのにレッスンするのがおかしいのか?」

「ちょっと待って、こんがらがる」

 アタシはプロデューサーを制止し、深呼吸をした。

「アタシに仕事をとってきたって?」

「そう」

「昨日今日プロデューサーがいなかったのは、そのため?」

「まさに」

「それは、アタシがレッスンに出始めたから?」

「その通り」

「……仕事って、どんな?」

「ライブ」

「……いつ?」

「2週間後の土曜日」

「そんなの無理でしょ!! アタシ基礎レッスンもろくにできてないんだよ!?」

「じゃあ、やらない?」

 プロデューサーは意地の悪い笑みを浮かべていた。
 なに考えてるの? だって、ライブって、歌って踊るってことでしょ、お客さんの前で。アタシなんかが、そんなの――

「…………やる」

 できるわけがない、と思いながらも、アタシの口はそう答えていた。

「よし」

「あの、さっき300人とか400人とか聞こえたんだけど、まさかお客さんの数じゃないよね?」

「もちろん客の人数に決まってる」

「アタシのことなんて誰も知らないよ? そんなお客さん来るわけないでしょ」

「そこのところは……」

 プロデューサーの視線の先には杏と乃々ちゃんがいた。

「……わかっちゃいたけど、杏たちも巻き込むんだね」

「頼む」

「うーん、誠意を見せてほしいかな」

「じゃあこれで」

 プロデューサーは鞄をさぐり、なにか杏に手渡した。飴、のように見えるけど……

「お、この飴は! なかなか心得てるね」

 杏はさっそく受け取ったそれの包み紙をはがし、口に放り込んだ。

「……むしろ心得過ぎだよね、もっとあるんでしょ、出しなよ」

「残りは成功報酬」

「ふうん、じゃあそれでいいよ」

「あの……もりくぼは出るとはひとことも……」

「かわいい後輩の晴れ舞台なんだ、たのむ」

「うう……加蓮さんのためでしたら、仕方ありません」

「あれ?」

 プロデューサーが首をかしげる。

「どしたのさ?」

「なんか、やけにスムーズに引き受けてもらえたなーって。ふたりとも、もっと渋ると思ったけど……」

「まあ、加蓮ちゃんには借りがあるからね」

「そうですね」

 プロデューサーは、打ち合わせがあるとかで再び外に出て行った。
 いまいち現実感が湧いてこない。アタシがアイドルとしてライブをする? 本当に?
 それに杏も乃々ちゃんも、仕事はしないんじゃなかったの?

「どうなってるんだろ……」

「そりゃ加蓮ちゃんのためでしょ」

「今ごろレッスン始めたぐらいで、そんな」

「んー……どっちかというと、加蓮ちゃんがレッスンを受け始めた理由のほうが重要かな?」

 そんなの、誰にも言ってないし、訊かれてもいない。

「加蓮ちゃん、神谷奈緒って子、知ってるでしょ?」

「神谷? 知らない」

「あれ……ああ、名前を知らないのか、加蓮ちゃんと同じ日にウチの事務所に入った子だよ」

 胸の中がざわついた。事務所の前で出会った女の子。デパートでライブをしていた女の子。
 でも――なんで、あの子の話が出てくるのだろう。

「その子は、入ってからずっと熱心にレッスン取り組んでて、もう基礎は卒業してる。ちょうど加蓮ちゃんと入れ違いになるのかな? それで、こないだその子のデビューイベントがあったらしいんだよね、近場のデパートで無料ライブ。それがあった日に加蓮ちゃんが血相変えてやってきて、レッスン受けたいって言い出した。あの日はいつもより少し来るの遅かったよね。状況を見るに、加蓮ちゃんがたまたまその神谷奈緒ちゃんのライブに出くわして触発された可能性が高いね」

「プロデューサーが、そう言ってたの?」

「いや、なにも言ってないよ。これはあの人がそう推測しただろうっていう、杏の推測」

 アタシは絶句していた。推測でそこまでわかるものなのか。

「つまり、ひいきだよね。これって」

「ひいき?」

「うん。これぐらいキャパのあるライブハウスでデビューなんて、かなり異例だよ。加蓮ちゃんと同じ時期に入って、しっかりレッスンもしてる子が、やっとこさデパートで無料ライブなんかやってるわけじゃん? これが終わったら、加蓮ちゃんは実績的には他の子がコツコツ一歩ずつ階段を上がってるのを、最後尾から一気にぶち抜いたことになるよ。なかなか爽快だね」

「特別扱いされる覚えがないんだけど」

「それだけ期待されてるってことでしょ」

「……そんなはずない」

 期待される理由が思い当たらない。

「加蓮ちゃんさ、オーディションって受けた?」

「え? ううん、アタシはプロデューサーからスカウトされたから」

「スカウトって2種類あるんだよ。ひとつはウチの事務所で定期的にやってる所属オーディションに参加しないかって誘うこと、杏はこれだった。もうひとつは、プロデューサー権限でオーディションを飛ばして合格決めちゃうこと。加蓮ちゃんは後者ってことだね」

「そんなの、聞いてないよ」

 杏はうなずいて、続けた。

「オーディションのほうはね、人数に制限がない。なんならそこらへんにいる子を片っ端からスカウトしちゃってもいい。だけど、加蓮ちゃんみたいに即合格決めちゃうほうは、たしか各プロデューサーがひとりしかできないんだよ。それも、もしスカウトした子が辞めちゃったとしても権限は復活しないから、おいそれと使えるもんじゃないんだよね。だから、加蓮ちゃん自身がどう思ってるかは知らないけど、あの人は加蓮ちゃんに、よっぽど入れ込んでる。これだけは確かなことだよ」

 プロデューサーの指示により、アタシは今までのレッスンに出るのをやめ、ライブに向けたレッスンに取り組むことになった。
 トレーナーさんは呼ばずに、レッスン室が空いている時間を使って部署内だけで行うらしい。
 やはりネックとなるのはアタシの実力だけのようで、杏と乃々ちゃんに関しては、誰も、なんの心配もしていないようだった。

「とりあえずいつもみたいにやってみて」

 とプロデューサーが言い、集団レッスンのときと同じステップを見せた。乃々ちゃんがトレーナーさん役をやって、アタシが同じ動作を繰り返す。プロデューサーと杏がそれを見ていた。
 最初のほうは、もうアタシでもすっかり覚えており、お手本を見るまでもなくこなせるようになっていた。だけど進むにつれてだんだんと呼吸が乱れて手足の動きがバラバラになり、自分でもひどいありさまになっているとわかった。

「はい、お疲れさま、筋はいいな。なんとか形にはなるんじゃないかな?」

 アタシは耳を疑った。毎回レッスンを途中退場していたアタシが、筋がいいはずがない。

「適当なこと言わないでよ」

「いや本当に。加蓮は最初のほうはちゃんとできてるんだよ。難易度じゃなくてスタミナの問題だ。最初のほうを飛ばして中盤から始めてみたら、わりとあっさりクリアできるんじゃないかな。あとで試してみるといい」

 それからプロデューサーは、「双葉の見立てだと、どのくらいもつ?」と床に寝転がって眺めていた杏に問いかけた。

「うーん……がんばってなんとか3曲かな」

「じゃあそれで行こう」

 次に、アタシが歌う曲を決めることになった。
 プロデューサーが見繕ってきた候補曲を流し、みんなで聴いて協議する。
 CGプロには何度も所属アイドル同士でカバーしあい、ほぼ共有みたいな扱いになっている曲がいくつもある。その中から、曲の調子や振り付けの難易度、曲自体の知名度などを考慮して選択する。最初はアップテンポで有名なやつがいい、次は落ち着いた曲がいいかもしれない、と2曲はすんなりと決定した。さて、あとひとつはどうしようかと悩んでいたところ、

「あれ? これ、歌は?」

 その音源にはボーカルが入っていなかった。
 ゆったりしたリズムのドラムとベースに、控えめなストレングスとピアノの音だけが乗っている。きれいで、少し寂しい雰囲気の曲だ。

「それは、作曲家の先生からもらったサンプルの曲だな。まだ誰も歌っていないから、販売もされていない」

「歌詞は?」

「あるよ、これ」

 アタシはプロデューサーから歌詞カードを受け取り、曲に耳を傾けながら、文字列を目で追った。

「……これ、歌ってもいいの?」

「問題はないけど……難しいんじゃないか? 見本がないわけだし……」

「いいんじゃない? バラードだから、これなら振りがほとんどなくても変じゃないよ。いっそ棒立ちでもいいし、体力の節約になるでしょ」

 どこまでも現実的な杏の意見もあって、アタシの3曲目も決まった。

 ライブで披露する曲が決定したことで、アタシは歌の練習も始めた。

「歌、うまいですね」

 最初のボーカルレッスンのあと、乃々ちゃんが感心したようにつぶやくのを聞いて、少し嬉しく思った。ここに来てからちゃんと褒められたのって、これが初めてかもしれない。

「でも、疲れてくるとやっぱり声が安定しなくなるね」

 杏は辛辣だ。でも、だからこそ信用できる。きっと杏は、本当のことしか言わないから。



 レッスンは、15分歌い踊っては15分休憩するの繰り返しという形をとった。
 初めのうちは、「もう休憩?」と噛みついたりもしたけど、「そのほうがトータルではたくさん練習できる」と言われて、アタシは黙った。

 この形式はおそらく正しかったのだと思う。集団レッスンを受けていたときと比べて、確かに上達しているという実感はあった。
 それでもアタシは楽観的にはなれなかった。確かによくはなっている。今までできなかったことができるようになっている。
 だけど、自分でわかってしまう。こんなのは全然すごいことじゃない。誰でもできるようなことを、やっとみんなと同じようにできるようになっただけだ。こんなの、わざわざお金を払って見に来るようなものだとは、とても思えない。
 

「前に双葉が『契約交わしたらアイドル』とか言ってたけど、俺はそうは思わない。最近はそうやって職業のひとつのような言われかたをしているけど、アイドルって本来は偶像って意味で、職種でいうならタレントってのが正しいんじゃないかな」

 ある日、アタシのレッスンを見ていたプロデューサーが唐突にそんなことを言った。

「偶像って?」

「崇拝の対象。宗教のご神体みたいなもの。だからアイドルってのは、人間として見られていないってのが本来の形なんだ。歌や踊りってのは人間の技だから、アイドルの本質はそこにはない」

「……よくわかんない」

「アイドルの歌やダンスに必要な水準なんてものは、実はそんなに高くないってことだよ。すごい技術を味わいたいのなら専門の歌手の歌を聴いたほうがいいし、本職のダンサーのダンスを観ればいい。アイドルがファンから求められられてるのは、本当はそういうものじゃない」

「じゃあ、本当に求められてるものって、なに?」

「それ以外のなにか」

「なにそれ」

「人それぞれかな。ただそれは、少なくとも、ただの優れた技術ではないってこと」

 たぶんそれは、アタシへの気休めだったのだと思う。
 それなりに歌が上手いといっても、『素人にしては』という、ただし書きがつく程度のものだし、ダンスに至っては、おそらく素人以下と言ってもいいレベルだ。

 でも、その一方でアタシは、神谷奈緒のことを思い出していた。
 偶然デパートで観た、彼女のデビューライブ。1曲だけしか観てはいないけど、それは決して上手いものではなかった。
 初舞台の緊張もあったのかもしれない、堂々とはしていたものの、明らかなぎこちなさが見て取れた。スカウトされるまで特別なにかをやっていなかったとすれば、レッスンを受けていた期間はほんの2週間かそこらのはずだから、当然といえば当然だろう。
 それでもアタシには、粗末なステージで一生懸命に歌い踊る彼女の姿が、昔病院のテレビで見たあのアイドルのように、キラキラと輝いて、まぶしく映った。

『それ以外のなにか』とは、あれのことかもしれない。

 ライブ当日、アタシたちはプロデューサーの運転する車に乗って会場に向かった。

 会場となるライブハウスは地下にあった。階段は、すれ違うにもひと苦労しそうなくらいせまく、壁には見たことのないバンドのポスターがびっしりと張られていた。
 プロデューサー・杏・アタシ・乃々ちゃんの順で一列になって階段を下りていく。一段下るごとに空気が冷えていくようで、この先は地獄にでも続いているんじゃないかと思った。

「今から緊張してちゃもたないよ」

 前を行く杏が、振り返りもせずに言った。

 せまい通路を抜けてホールに出る。床も壁も剥き出しのコンクリートで、武骨で寒々しく感じた。壁からところどころボルトみたいなものが突き出ていた。人が触れることはできないような高い位置にしかないから、あえて飾りとしてそういうふうに作られているのかもしれない。壁際にバーカウンターがあり、反対側にステージがあった。
 ステージ、ここで歌うんだ、アタシが。

 控室はせまく、薄暗かった。ステッカーや落書きで埋め尽くされた壁に、大鏡が一枚かかっていた。それと、少しタバコ臭い。
 杏が組み立てたパイプ椅子にぬいぐるみを乗せ、寝心地のいいポジションを模索していた。開演を待つあいだに乃々ちゃんが2回逃げ出し、プロデューサーが2回連れ戻した。

 アタシはプロデューサーを外に追い出し、用意された衣装に着替えた。白を基調に、水色と紺のアクセントが入ったドレス、白い手袋とオーバーニーソックスとチョーカーとショートブーツ、それらを身に着け、鏡に映す。雑誌なんかでも見たことのある、CGプロの看板のような共通衣装だ。いちど事務所で試着もしているけど、これから本当にこれを着て舞台に上がるんだと思うと、妙に胸がときめいた。

 コンコンとノックの音が響き、「着替え終わった?」とプロデューサーの声がする。
 アタシは返事の代わりに控室のドアを開けた。
 プロデューサーは、「ほう」と息を漏らし、アタシを頭のてっぺんから足までじっくりと眺めた。
 なにか感想でも言ってくれるのかな、と少しだけどきどきしながら待っていると、「靴は問題ない?」と訊いてきた。

「靴?」

「そう、靴が合ってないとパフォーマンスに関わってくるから――」

 アタシはプロデューサーの鼻先で思いきりドアを閉めてやった。
 もっと他に言うことはないのか、仕事人間め!
 と、心の中で毒づいて、なんだか笑いだしそうになってしまった。仕事人間だって、あのプロデューサーが。
 もういちどノックの音が鳴り、ドアの向こうから「加蓮」と声がした。
 アタシはそのままドア越しに、「なに?」と訊き返した。

「そろそろ開演時間だ」

 ガチガチに緊張してステージに向かうも、実際はお客さんなんて全然入っておらず、なにかの間違いでやってきたらしい、ほんの数人が、アタシになんてまったく興味がないという感じにちびちびとカクテルを舐めている。

 ――なんてことはなく、ホールは超満員だった。

 スポットライトがステージを照らし、歓声が湧き上がる。
 客席ってこんなに近いんだ、と思った。
 そこは、ぎゅうぎゅうに押し込まれた、人の海だった。プロデューサーは400売るとか言ってたっけ? 400人、800個の目が今、アタシに集中している。

 思わず全身をこわばらせた。

 頭の中が真っ白になりそうだった。


 ……なにが『ひいき』だか。こんなの、スパルタにもほどがあるでしょ。


 前奏が流れ始め、はっと我に返る。
 予定だと、まず1曲歌う、歌い終えてから、お客さんにあいさつをする手はずになっている。
 あわててステージ中央のマイクスタンドに刺さっているマイクを手に取った。

 歌が始まる。
 喉から心臓が飛び出しそうな緊張の中で、アタシは必死に声を絞り出し、体を動かした。
 有名な、耳になじんでいる曲ということもあるのだろう、お客さんたちの反応も悪くない。みんな、みっちりと詰め込まれたまま体を揺らし、リズムをとっていた。
 日常生活では味わうことのない大音量が、骨の内側にまでびりびりと響く。
 無我夢中で、自分がちゃんと歌えているのか、ちゃんと躍れているのかもわからないまま、最初の曲が終わる。
 スピーカーから流れる音と入れ違いになるように、拍手と歓声がホールを埋めた。体が熱かった。

「み、みんなー、はじめまして!」

 声がうわずった。いや、だいじょうぶ、大したことじゃない。

「……新人アイドルの、北条加蓮だよ。今日はデビューの日なんだ。みんな楽しんでってね!」

 少しの間を置いて、ぱちぱちと拍手が巻き起こる。
 このあいさつのセリフは、プロデューサーが考えたものだ。
「なにをしゃべればいいかわからない」とアタシが相談して、プロデューサーはろくに考えもせずに「こんな感じ」とメモ帳に書きなぐった。
 適当に変えていいとも言っていたけど、アタシはそれをそのまま採用した。

 新人アイドル、デビュー、まるでアタシがアイドルを続けていく前提みたいな言葉が並んでいる。これはプロデューサーの希望だろうか。それとも、なにも考えていないのか。

 2曲目が始まり、アタシは少しだけ冷静になった。冷静になって、変調に気付いた。
 すでに息が切れ始めている。早すぎる、レッスンではこんなことはなかった。この時点では、まだまだ余裕があるはずだった。
 緊張のせいなのか、体力の消耗が早い。
 レッスン通りに――と頭の中で繰り返し、なんとかその曲は、大きく崩れることなく、歌い、踊り切ることができた。

 だけど、どうしよう。
 心臓がうるさい。呼吸が整わない。体が思うように動かない。
 最後の曲はバラードだ、振り付けはほとんどない。だけど、とてもまともに歌える気がしなかった。
 疲労が積もってくると声が安定しなくなる、この弱点はレッスンでは克服できなかった。そもそもここまで消耗しないうちに終わるはずだった。
 アタシに与えられた時間は15分だ。乃々ちゃんの半分、杏の三分の一程度でしかない。
 まさか、ここまで体力がないとは、誰も思っていなかっただろう。

 ……本当に、アタシはダメだなぁ。

 自分の吐く荒い息が、頭いっぱいに響き渡る。
 頭がぼうっとして、視界が霞でもかかったみたいに白くなっていく。

 今までも何度か味わったことがある、これは、意識を失う直前の感覚だ。

 自分が特別な人間だと思いたかった。

 昔のアタシは、すべてを貧弱な体のせいにしていた。
 この体さえまともなら、アタシだってあそこに行けるのにと、テレビの中の輝く世界を夢見ていた。

 だけど現実は残酷で、アタシは特別でもなんでもなかった。
 外の世界に出てみれば、人並みのことすらできない、ただのおちこぼれだった。
 あの病室に戻りたいと思った。
 弱い体のせいにしていれば、ずっと夢を見続けていられたから。

 プロデューサーからスカウトされたとき、アタシは怯えた。
 アタシにはなにもないって、もうわかっていたから。
 これ以上、現実を突きつけられたくなかったから。

 杏や乃々ちゃんと遊び続ける日々で、アタシは幻滅する一方で、どこか安心もしていた。
 アイドルなんていってもただの人間だ、なにも特別なものじゃない。
 だから、アタシも特別じゃなくていい、なんのとりえもない女子高生でもいいんだと、そう思えたから。
 そうやって、ぜんぶあきらめてしまえば、楽だったから。



『がんばってなんとか3曲かな』



 ふいに杏の言葉が頭をよぎり、アタシは衝動的に唇の端を噛み切った。
 痛かった、予想よりずっと痛い。でも、おかげで目は覚めた。

 嫌だな、と思った。

 だって、そんなこと言われて、たったの3曲も歌いきれなかったら、まるでアタシが、がんばっていないみたいじゃない。

 口の中に血の味が広がる。あいかわらず呼吸はキツいし、体に力が入らない。
 たぶん最後の曲はまともに歌いこなすことはできない。それでもいい。

 それでもアタシは、特別でありたい。

 アイドルの歌やダンスに必要な水準は、実はそんなに高くない。
 本当に求められているのは、それ以外のなにか、だったよね。



 それならアタシは、自分の中に、その『なにか』があるって願うよ。

 最後の曲を歌い終えて、お客さんに一礼し、ふらつきながらステージを去る。
 舞台袖にプロデューサーと、出番を控えて待機していたらしい乃々ちゃんがいた。

 緑を基調にしたドレスをまとった乃々ちゃんの姿は、まるでおとぎ話から飛び出してきた森の妖精のようで、こんな状態だというのに、アタシは不覚にも少し、見とれてしまった。
 ふだんは化粧はしていない乃々ちゃんだけど、今は薄くメイクをほどこしていた。元々色素の薄い肌がいつも以上に白く、なんだか触れようとしたら消えてしまいそうな儚さを感じる。

「あの……」

 乃々ちゃんがささやいた。

「初めての舞台で……あんなに堂々とやり遂げるなんて、すごいんですけど……加蓮さんにあそこまでやられたら、もりくぼはもう逃げられないんですけど……困るんですけど……」

「う、うん……ありがとう?」

 乃々ちゃんは、まだなにか言いたげに、そわそわと視線を泳がせた。
 それから、意を決したように息を吸い込んで、

「……行ってきます」

 本当にわずかな、ほんの一瞬、目を合わせてくれた――ような気がした。

 驚き立ち尽くすアタシの横を、乃々ちゃんがすりぬけていく。
 客席から雄々しい歓声があがった。

 このままここで見ていたい、とも思ったけど、アタシはひとまず控室に戻ることにした。ステージでの緊張と疲労で、気を抜いたら倒れてしまいそうだったからだ。

 プロデューサーの肩を借りて控室に戻ると、パイプ椅子に敷いたぬいぐるみの上で杏がすやすやと寝息を立てていた。この子はブレないなぁ、本当に。

「いいステージだったよ」

 とプロデューサーが言った。お世辞だろうか。

「見てなかったの? ひどいもんだったでしょ」

「夢を壊すようで悪いけど、新人アイドルのデビューのステージなんて、大した期待なんてされてないよ。今日の加蓮は、お客さんにとっちゃ、ただのオマケだ」

 きっとそうなんだろう。
 乃々ちゃんがステージに立っただけで湧き起こった歓声は、アタシが受けたそれよりも、はるかに大きいものだった。

「プロデューサーにとっては?」

「だから、いいステージだったよ。特に3曲目がよかった」

「……本当に?」

「へたくそだったけど」

「うるさいな」

 アタシは笑った。へたくそだけどよかったって、どういうことよ。

「あ、着替えるか? 外出てようか?」

「んー……まだいい、もうちょっと着ていたいから」

「そっか」

「着替えといえばさ、杏起こさないでいいの? 準備するんでしょ?」

「双葉はそのまま出るって」

「そのままって……このまま?」

 今の杏は完全に普段着だ。胸元に『必要悪』と書かれた白いTシャツにショートパンツ、靴なんてクロックスだし、髪もいつもの通り、メイクだってしていない。

「そいつは特別だから」

 アタシはうなずいた。プロデューサーがどういう意味で言っているのかは知らないけど、杏が特別だということは、なんとなくだけどよくわかる。

 ホールの歓声が控室にまで届く。乃々ちゃんのステージは盛り上がっているらしい。

「乃々ちゃんは、見てなくていいの?」

「森久保は、いかにステージに上げさせるかまでが問題だから、あとはなにも心配していない」

「ふうん……」

 冷たいんじゃないかな、と思ったけど、これも信頼のあらわれなのかもしれない。

 ……しかし杏はよく寝るね。
 アタシが眠る杏のほっぺをつついて遊んでいると、プロデューサーがぽんと手を打った。

「新人アイドルのデビューステージなんて、顔と名前を覚えてもらえたら上等ってなもんだ」

「うん? なにを突然?」

「せっかくだから、もう少し覚えていってもらおう」

 しばらく経って、乃々ちゃんが控室に帰ってきた。

「じゃあ、行っといで」

「……ホントにいいの?」

「いい、だいじょうぶ」

 アタシは控室を出て、再びステージに向かって行った。眠ったままの、杏を乗せた台車を押して。

 薄暗い中、ステージ中央までたどりつく。スポットライトがぱっと点灯し、割れんばかりの歓声が響き渡る。

「んがっ」と声を上げて、杏が目を覚ました。

「えっ……なにこれ? ステージ?」

 杏はきょろきょろと辺りを見回し、台車の取っ手を握ったアタシに目を止めた。

「あのやろー」

 と杏がつぶやく。察しのいいことに、もうこの状況を作った犯人に思い当たったらしい。

 台車からおりた杏は、マイクに向かって「おはよう」と言った。
 客席から、「おはよう!」と怒号のような声が上がる。この場に来ている全員が叫んでいたと思う。アタシが受けた歓声なんか比べ物にならない、乃々ちゃんが受けていたものよりも遥かに大きい。

「えっとね、杏を運んできてくれたのは、新人アイドルの加蓮ちゃんだよ。……てゆーか、さっき歌ってたんだよね、杏は寝てたけど。杏のかわいい後輩だから、みんな覚えてってね。ハイ、かーれーんー」

「かーれーんー!!!」

 お客さんが唱和し、アタシは立ちすくんでしまった。これほどの音量で自分の名前を呼ばれたことなんて、今までの人生で一度もない。

「手ぐらい振ってやりなよ」

 杏がマイクを通さずにささやく。
 アタシは慌てて客席に向けて手を振った。再び歓声が湧き起こる。

「じゃ、じゃあアタシはこれで……」

 と台車を押して楽屋に戻ろうとすると、

「あ、それは置いてって、帰りも乗せてもらうから」

 杏がわざわざマイクに向かって言って、客席からパワハラだなんだとヤジが飛んだ。

「うっさいな、芸能界は上下関係が厳しいんだよ」

 ファンと掛け合いを続ける杏と台車を残して、アタシはそそくさと舞台袖に逃げ出した。
 プロデューサーがニヤニヤと笑いながら立っていた。

「少しは印象強まったろう」

「あとで杏に怒られるよ」

 それから、アタシとプロデューサーは、並んで杏のステージを観た。少し経って、着替えを済ませてきた乃々ちゃんが加わった。

「あいつは参考にするな」

 プロデューサーが言った。

「できるわけないよ」

 アタシは笑いながら答えた。

 杏の振り付けは、どうやら運動量を極限まで減らすことをコンセプトにアレンジされている。横から見ているからわかった。お客さんの位置からだと、おそらく気付けない。杏の手足は、客席から見えない部分では動きを止めてサボっているのだ。
 いくら体力の節約といっても、ひとつひとつの効果は微々たるものだろう。それでいて、あれは間違いなく、ふつうに踊るよりも遥かに難しい。あれを真似するぐらいなら、走り込みでもして体力をつけるほうが、よっぽど簡単だろう。
 あれを思いついて、しかも実践できてしまう人間が、他にいるだろうか。

「杏って、何者?」

「加蓮は、アイドルランクって知ってるかな?」

「……知ってる」

 それは観客動員数、CDの売り上げ、メディアの出演回数などでアイドルをランク付けしたものだ。
 元々は、あるアイドル雑誌が勝手に作ったものだけど、ランキングの基準となる計算式を公開しているため不正の余地がなく、今や業界全般でこのランクが指標として使われているらしい。

「双葉はCランクアイドルだ、森久保はDランク」

「うそ」

 Cランクといったら、テレビなんかにも出るようなアイドルだ。世間ではCとDのあいだが大きな壁とされていて、大雑把に言えばCより上だと一般人にも知られているアイドルということになる。本当に杏がCランクなら、アタシが知らなかったはずがない。

「少し前に、あいつの担当プロデューサーが『Cランクになったら長期休暇をやる』とか言って、当時の双葉はEランクだったけど、その次の集計期間だけものすごい働きを見せてCランクの基準満たしたんだってさ。世にも珍しい飛び級だ、笑っちゃうよな」

「笑いごとじゃないし、色々言いたいことはあるんだけど、あいつの担当プロデューサーって? 自分でしょ?」

「違うよ、双葉の担当は他にいる。森久保もだけど。まあ、そんなこんなで、やってくれたもんは仕方ないから、双葉は今休暇中なんだ。だけど、なぜか事務所にやってくる」

 少し、わかる気がした。
 いつだったろう、アタシは友達がいないとか話していたとき、「杏も同じようなもんだ」と言っていた。
 まだほんの数週間の付き合いだけど、気付いたことがある。杏はすごく頭がいい、ふつうに会話をしていても、随所でそれが見て取れる。
 なんだかんだで、世の中はふつうでないものには生きづらい。子供のような容姿に、高すぎる能力。杏の異質さは、きっと、ただ生きているだけでも大変なものだ。
 杏が事務所に入り浸るのは、アタシと同じ理由だろう。

「それで、レッスンするわけでもなく毎日事務所でダラダラしてるから邪魔だってんで、ちょうど担当していたアイドルが引退して手が空いていた俺が面倒見ることになった。といっても、いっしょに遊んでるだけだけど」

 つまり、昇格した時点で休暇に入ったから、Cランク相当の仕事はしていないということらしい。それなら知名度が追い付いていないのもうなずけるけど……

「でもそれって、今まさに売り出し中ってことでしょ、そんな時期に仕事しないのってもったいないんじゃない?」

「双葉は、少しくらい足踏みしても遅かれ早かれ上に行くよ。約束を反故にして当人の機嫌損ねるほうが痛いって判断だな」

「……もしかしてアタシ、大先輩にすごい失礼なこと言ってたのかな?」

 プロデューサーの言ったことが本当なら、杏はCGプロのなかでも特別大きな期待を寄せられているホープということだ。
 アタシなんかがあんなに気軽に接してよかったのだろうかと、思い返して血の気が引いた。

 それまでじっと黙ってステージを眺めていた乃々ちゃんが、小さく笑った。

「楽しそうでしたよ、最近」

 週が明けて月曜日、アタシは事務所にやってきた。

「お、加蓮ちゃんおはよー」

 ソファに寝そべった杏が携帯ゲーム機から顔をあげる。部屋の中には他に人の姿は見当たらない。

「おはよう、乃々ちゃんは?」

「いるよ、いつものとこ」

 アタシは机にむかって「乃々ちゃんおはよう」と言った。

「おはようございます……」と、か細い声が返ってくる。

 うん、いつもの事務所、いつもの風景だ。

 今日でアタシの契約は切れる。

 仕事をしないアイドルがふたり、思い描き、夢に見ていたアイドル像と、それはあまりにかけ離れていて、アタシは大いに戸惑った。

「……ねえ、アタシが初めてここに来た日さ、杏、アタシの思うアイドルってどんなものかって訊いたよね」

「そんなこと言ったっけ?」

「言ってたよ。それで、ずっと考えてたんだ」

「へえ、それで、答えは出た?」

 アタシはうなずいた。
 杏は、『アイドルの事務所と契約を交わしたらアイドルだ』と言った。
 プロデューサーは、『アイドルは偶像だ』と言った。アタシは――

「アタシは、自分がアイドルだと思ったらアイドルだと思う」

「……ほほー、それはまた」

 杏は少し考えこむような仕草をして、

「ロックだね」と言った。

「ロック?」

「うん、そのうちわかるかも」

 と、そのとき――

『……ォォォ』

 なにやら地響きのような音が耳に届く。

「……ねえ、杏、なにか聞こえない?」

「あー……うん、聞こえるね」

 なんの音だろう? 杏はこの音の正体を知っているのか、困ったように苦笑いしていた。

『ォォォォオオオオオ』

 それは、少しずつこちらに近付いてくるように、だんだんと大きくなる。
 杏が落ち着き払ってるから、たぶん危険はないと思うけど。これは、

 …………人の、声?

「――ォ!!!」



 突然、荒々しくドアが開け放たれ、スーツ姿の見知らぬ男が部屋に飛び込んできた。

「うるさいよ、もうちょっと静かに入ってこれないの?」

 杏があきれたようにつぶやく。知り合いだろうか。

「おお、久しぶりだな双葉ァ! ――ん? そっちは知らない顔だな、誰だァ!」

「新人アイドルだよ、北条加蓮ちゃん」

「北条ォ!!」

「うるさいよ」

「それで双葉ァ! もりくぼはどこだァ!!」

「さあねー、知ってても教えないよ」

「ほう……」

 アタシは驚きのあまり、声を出すことも忘れていた。

 男はカツカツと足音を立てて部屋の中を歩き回り、

「――そこだァ!!」

「ひぃっ!」

 机の前に差し掛かったところで、腕を高く掲げて叫んだ。その手には、乃々ちゃんが襟首をつかまれて持ち上げられていた。

「どこにいても見つけるって言っただろ、もりくぼォ!!」

「あうう……あの……お、おかえりなさい……」

「ただいまァ! 喜べもりくぼォ! 土産代わりにテレビCMの仕事取ってきてやったぞ!!」

「てっ、てれび!? う、嘘! 嘘ですよね!?」

「嘘なわけあるか! さっそく打ち合わせに行くぞ! 仕事は楽しいなァ、もりくぼォ!!」

「む、むぅーりぃぃぃいいいいい!!!」

 男は乃々ちゃんを小脇に抱えたまま走り出し、そのまま部屋を出て行った。

「お、ドップラー効果」

 杏が面白がるようにつぶやいた。

「えっと……なんだったの、あの人。人さらいじゃないんだよね?」

「あれは乃々のプロデューサーだよ。研修から帰ってきたんだね。相変わらず、いちいち声がデカくてうるさいったら」

「研修?」

「うん、よく知らないけどそういう制度があるらしくて、しばらく関西の支社に行ってたみたい。で、乃々は基本あの人の言うことしか聞かないから、そのあいだここに預けられてたってわけ」

「そうなんだ……」

 ――みんな、休暇は終わりか。

「杏も、そろそろ?」

「ああ、もう聞いたんだね。うん、乃々も連れてかれちゃったし、ちょうどいいかもね」

「なんでアタシには教えてくれなかったの?」

「口止めされてたから、加蓮ちゃんに余計なことは言わないでほしいって」

 プロデューサーから、ということだろう。

「どうしてかな?」

「試してみたかったってことじゃないかな? 仮契約って、本当ならスカウトされた子が考える期間じゃなくて、事務所のほうが、その子がアイドルとしてやっていけるか見定める期間だろうから」

「つまり、アタシがこの1ヶ月で、自分からやる気を出すかってこと?」

「そういうことだろうね」

 それからガチャリとドアが開き、プロデューサーが部屋に入ってきた。

「乃々が人さらいに連れてかれたよ」

 杏が言った。

「廊下ですれ違ったから知ってる」

「そか、杏もそろそろ行くから、後払い分は?」

「はいよ」

 プロデューサーは鞄から飴を取り出して、杏に渡した。

「……3つか、加蓮ちゃん、手出して」

「え」

 杏はその飴をひとつ、アタシの手に乗せた。

「それから、はい」

「俺ももらっていいのか」

「ばか、乃々のぶんだよ、ちゃんと届けてよ」

 杏が荷物をまとめる。といっても、バッグがひとつと、ウサギのぬいぐるみだけだけど。

 ドアの前に立ち、杏はプロデューサーを見上げて、「ありがとね」と言った。

「双葉に礼を言われたって、自慢していいかな?」

「好きにすれば」

 それから杏はアタシのほうに目を向ける。

「そうそう、前にその人が担当してたアイドルね、どこか、加蓮ちゃんに似てたよ」

「……どういうこと?」

「さあ? 好みのタイプなんじゃない? じゃあね」

 悪戯っぽい笑みを残して、杏が部屋を出て行く。

「余計なことを」

 とプロデューサーがつぶやいた。

 ドアの向こうの足音が遠のいていき、部屋にはアタシとプロデューサーのふたりだけが残された。

「訊きたいことがあったんだ」

 アタシが先に口を開いた。

「なんでアタシに、素質があるなんて思ったの?」

 プロデューサーは、しばしのあいだ考えこみ、

「寂しそうな目をしてたから」と言った。

「……といいますと?」

「人生がうまくいってなさそうだってこと」

「言ってくれるね」

 だけど、それは間違っていない。

「ライブは楽しかった?」

「うん」

「よかった」

 プロデューサーが優しい笑みを浮かべる。アタシは無言で続きをうながした。

「……ひとくちにアイドルといっても、いろんなタイプがいる。中には他の道に進んでも成功しただろうって人もいる」

「うん」

「俺は、そういう人は、必ずしもアイドルを志さなくてもよかったんじゃないかって思ってしまうんだな。決して楽な道じゃないし、他にできることがあるのなら、そっちを選んだほうがいい」

「それが、アタシの人生がうまくいってないってのと、どう関係あるの?」

「つまり、俺の目に加蓮は、周りの人間が楽しいと思うことを楽しめない。なにをやってもうまくいかないし、なぜうまくいかないのかもわからない。なにをしてても生きてるという実感が湧かないような人間に見えた」

 ひっどい言われようだなあ、と思った。

「他になにもできることがなくて、アイドルしか生きる道がないってのは、これ以上ない才能だと思うよ」

 ……そっかそっか、アタシはアイドルしか生きる道がないのか。

 それからプロデューサーはコホンとひとつ咳払いをして、

「それじゃあ改めて。北条加蓮さん、アイドルになりませんか?」

 封筒を一通差し出してきた。中には本契約の契約書が入っているのだろう。
 気のせいでなければ、プロデューサーは少し緊張しているように見えた。なんだか、ラブレターでも渡されているみたいだ。

 アタシはそれを受け取ろうとはせずに、しばらく考えた。

 仮契約の期間を終えて、アタシはどうやら試験をクリアしたらしい。

「――でもアタシさ、特訓とか練習とか」

 だけど、試されるだけなんてまっぴらごめんだ。
 アタシにだって、自分の人生を選ぶ権利がある。

「下積みとか努力とか、気合いとか根性とか」

 だからアタシは確かめたい。
 アタシの隣でいっしょに歩く人は、アタシの信頼できる人でいてほしいから。

「そーゆーキャラじゃないんだよね。体力ないし」

 これは、プロデューサーと初めて会った、スカウトされたあの日に言ったセリフだ。
 あのときアタシは、拒否の意味でこの言葉を口にした。
 プロデューサーも思い出したのだろう、どこか身構えるような目でアタシを見返してきた。

「……それでもいい?」



 答えはもちろん、

「ダメ」

 ――だよね。



 アタシは封筒に手を伸ばし、プロデューサーにほほ笑みかけた。



「だったら、もっと、がんばらなくちゃね」



   ~Fin~

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