藤原肇「ナイトフィッシングイズグッド」 (42)

藤原肇さんと釣りに行くタイプのSSです。

・地の文
・P一人称
・短め

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 彼女がぷくうと頰を膨らませているのを見て、最近仕事に行かせてばかりでしばらく話せていなかったな、と俺はようやく思い出せた。

 肇はとても、本当に、良い子である。

 年頃の娘っ子だからと覚悟していたのに、一年ほどの付き合いの中でもとんと我が儘を言われたことがない。
 その子が頰を膨らませて、「私は怒っています」と感情を露わにしているのだ。

 俺は俺で、新卒で入った会社で、歳下の女の子との接し方なんて全く知らず、なんなら女の子との接し方もよくわかっていない。

 つまるところ、初めての担当アイドルである彼女に、随分と許されてきたのである。

 そこにきて彼女が初めて怒っている。それも俺に向かって。慌てないわけがない。

 デスクの中にお菓子の一つでもないかとゴソゴソ漁って、ようやくミルク味の飴を発見した。

 まあこれでも舐めてください、と献上したところ、俺の賄賂は彼女の口の中に納められた。

「お久しぶりですね」

「へい、一週間ってところぶりでしょうか」

 思わず小物っぽい口調になった。
 怒っていらっしゃるのは表情だけでわかっているけれど、そうか、語気も強くなるほどでしたか、と、俺は体をキュッと縮める。

 十六歳の女の子に本気で萎縮する成人男性は、情け無いったらない。

 しかし、なんとまあ嘆かわしいことに、この業界ではさして珍しくない光景である。
 同僚たちが担当に叱られてるのを見て笑っていたが、自分で経験するのは初めてだったのだ。

 なるほどこういう気分だったのか。

「一か月以上です」

 彼女から飴をパキンと齧る音がした。

 おや、そんなに経っていただろうか、とカレンダーを見た。
 「目を逸らさないでください」と鋭いご指摘があった。

「あのとき、レコーディングが終わったらオフを合わせて何処か行こうかと言ったのはプロデューサーさんでしたよね。でも、レコーディングが終わってから、プロデューサーさんのお休みと私のお休みが合わなくなって……それからもお互い忙しくてなかなか会えず……。これは、それぞれスケジュールがあるから納得もしました」

「そ、そうだよ、レコーディング終わって忙しくなったもの。仕方のないところだと俺は思うなあ」

 彼女は今度、大々的にCDデビューを果たす。

 前々から俺たちは虎視眈々と狙っていて、プレゼンテーションやら営業やら、随分と走り回ってやっと、楽曲を頂戴することになった。

 その後の方がキツいなんて誰も教えてくれなかったのだが。

「明日から、プロデューサーさんはお休みですよね」

 もう一度、今度は横目でカレンダーを見る。

 明日、明後日と大きくはなまるが書かれていた。確かに書いたのは俺だった。

 頰を膨らませた彼女が来たのも、もう休日となると嬉しくって、さあ明日は何をしようかとうきうきで残業をしていたところだったのだ。
 「はひ」と情け無さの極みみたいな声がした。

「私もお休みなんです。スケジューリングをしているのはプロデューサーさんですから、当然知っているはずです」

「も、もちろん」

「それなのに私に声もかけないというのは、どういうことなんでしょう?」

「そそそ、そうだよいやあ明日の予定ね、仕事終わったら連絡しようと思っててね、そうだよ俺明日休みじゃんどこか行きたいところありませんか⁉︎ あまり遠くないところしか一緒に行けませんけど車出しますよ!」

 必死になって言い訳を探したものの上手い言葉が見つからず。嘘ももう少し上手に吐いたらどうなんだ、と彼女は目で語った。

 いや、おそらくはスケジュールを決めだしたころは覚えていたのだ。

 そのつもりで休みを合わせた気がする。

 ただはっきり言って、そんな約束をしたのも忘れていた。

 忙しくって家に帰れば即就寝、貴重な休日は自分の趣味に没頭していたもので、明日からもようし昼まで寝よう、ロックバンドのライブでも見に行こうと考えていたところだった。

 許してください、と俺は目で語る。彼女はそれはそれは大きな息を吐いた。

「釣りに行きます」

「おっそれはリフレッシュにぴったりだ、ヤマメですか、渓流に行きますか」

「今日は海ですね、七海ちゃんが、海も良いって教えてくれて」

「おお、海。今日っていうか朝からかな、早く帰って寝なくちゃ」

「夜釣りです」

「へっ」

「今から、堤防釣りに、行きましょう。……寮で、プロデューサーさんの分も準備して待ってます。プロデューサーさんは服を着替えて、車でお迎えに来てくださいね」

 ポリンと彼女は飴を噛み砕いた。

 最後は笑顔でそう言った。有無を言わさずに、一礼とお疲れ様でした、という声を残して、彼女は事務所を後にする。

 ははあなるほど。俺は海釣りに行くことになった。



 俺のことに大半の人は興味が無いとはいえ、少しくらい自分のことを振り返ったって良いだろう。

 大学生の頃はバンド活動をしていて、割と本気で曲を作り、活動していたのだが、どこのメジャーレーベルも俺たちを引っ掛けようと針を垂らすことはなかった。

 所詮凡庸、星の数ほどもあるロックバンドの一つでしかないと夢を諦めたのは、俺が夢見ていた数千人規模のライブハウスを、まだまだ新人とも言えるアイドルがソールドアウトさせた時だった。

 俺の夢はそこで破れたけれど、少しも悔しくなかったのが不思議だった。

 そうか、と腑に落ちた。

 だから、仇討ちだとかではなく、それまで本気でやっていた音楽を少しでも活かせたのなら……と、今の事務所に履歴書と、それから作った楽曲を送った。

 それが思いがけない事に通ってしまい、俺はなんとアイドルのプロデューサーになったのである。

 現在でもバンドマンだった頃の趣味は抜けず、聴く音楽の趣味も変わらず、服装も同様。

 たまに曲を作る習慣も抜けず。

 インドア趣味なおかげで、今回の釣りのようにアウトドアな遊びをするとなったら、どうしても音楽フェスに行くような……ハーフパンツと、寒さ対策にレギンスを履いて、という格好になってしまうのだ。

 この服装になると、肇と初めて出会った時のことを思い出す。

 彼女の採用を決めた先輩に「この子の担当になってみない?」と軽めに言われて、「明日寮に来るらしいよ」と付け加えられた。

 彼女が寮に来るらしい日はちょうど休みだった。

 なら、普通にスーツで会いに行けばいいだろう、いいだろうに、どうしてか俺は今の格好……Tシャツ、ハーフパンツにレギンスで寮に向かい、「君のプロデューサーでもなんでもありません。ランニング中なんです」という顔で寮の周りをぐるぐると走ることにしたのだ。

 アプローチが気持ち悪いったらない。

 俺が寮の周りを五周もした頃に、寮の入り口で大きなキャリーバッグを引いた肇を見つけた。

 彼女は一度、寮を真剣な目で見つめていた。

 一つ深呼吸をしたあと玄関までの階段を登ろうとしたようだが、どうやらキャリーバッグが持ち上がっていなかった。

 彼女が困り顔で辺りを見回しているのを、俺は走るフリをするのも忘れて、ボケっと見ていた。

 一目見ただけで、また夢を見た。

 それは白昼夢と言っていいものかもしれなかったけれど、肇の黒い髪がライブのステージで揺れ、白いサイリウムの光に手を伸ばして歌う光景をはっきり見た。

 素朴な雰囲気のあの子が、俺が作り出した舞台で、仕事で、欲を言えば楽曲で、白い花を大きく咲かせたように素敵に着飾る姿を、確かに見たのだ! 

 居ても立っても居られず一歩二歩と駆け出して、彼女に「持ち上がらないの?」と話かけた。

 彼女はきゃっ、と驚いた声を上げ、その後おずおず「はい」と答えた。

 俺は、俺は胸の高鳴りを抑えながら、あくまで親切な男だよ、というていで、キャリーバッグを持ち上げた。

 彼女が持ち上げられなかったバッグは綿のように軽々持ち上がる。寮の玄関にたどり着くと彼女はぺこり頭を下げて、俺は羞恥により走りさった。

 今思えば肇には随分怖い思いをさせたと思う。

 なぜあの時「君のプロデューサーです」と切り出せなかったのか。

 いや、それを言っても怖がらせてしまったかもしれない。ただ、もう少しやり方はなかっただろうか。

 休みが明けてスーツ姿で初顔合わせしたとき、肇ははっきりと「初めまして」と言った。

 寮の前で会った時の俺は、肇からするとただの親切な人、或いは不審者である。

 おそらく不審者寄りの、というかバッチリ不審者である。

 今のところあの不審者が俺だとはバレていなかったが、今日でバレるなと思った。

 今のうちから言い訳を考えておくのが賢明だろう。

 さて、着替えも終わり、軽自動車に乗り込む。

 学生時代からの相棒に久しぶりに火を入れると、なんとか元気な様子で安心した。

 ギアを入れアクセルを踏むと、ボロロロという音がした。

 ガソリンも、寮までは十二分。
 海まではちと不安が残る。

 肇を乗せてから、ガソリンスタンドに行こうと決めた。




 寮の前に車を停めると、既に肇は表に立っていた。

 竿を二本とクーラーボックス、アウトドアチェア、ライフジャケットも俺の分まで持ってきてくれていた。

 あの時の不審者ルックである俺が表に出てもいいものか、と一瞬不安がよぎったものの、エンジンを切り外に出る。

「こんばんは、プロデューサーさん」と彼女は言った。

「おす。早速荷物を後ろに乗せちゃおう。タックル一式は浅利釣具店から?」

「七海ちゃんにそれ言うと、きっと怒られますよ。でも……ふふ、そうですね。フィッシングナナミのレンタル品です」

 軽口を叩いて荷物を積み込む。

 機材車にもなっていたから、荷台が大きくて助かった。結構大荷物だから、普通のトランクだと難儀していただろう。

 門前には五十嵐さんも立っており、俺たちを見送りに来たようだった。

 いくらか手伝ってもらいながら、彼女にそっと耳打ちをされる。

「深夜、ふたりきり。いいですかっ、変なことはなしですよ」

「ええ……俺ってそういう風に見えるの? これでも肇のプロデューサーなんですよ」

「誰が一緒とか、関係ないんですこういうの! 肇ちゃんもぽやっとしてるところあるから、心配なんですっ」

「寮母さんにまで釘を刺されたら、絶対に無事に帰す他ないですね」

 そう言って茶化したら、五十嵐さんが「もうっ!」と怒ったのでここまでにしておく。

 寮の炊事洗濯掃除を担う寮母さんは、とっても心配性であった。
 プロデューサーたちの耳にまで入ってるんだぜ、五十嵐さんのこわーいエピソード。

 ちなみに前述した「担当アイドルに叱られる同僚」とは彼女のプロデューサーのことである。

 積み込みが終わり、俺が運転席に乗り込む。

「後ろに乗りなよ」

 と肇に言ったが、肇は澄まし顔で助手席に乗り込んだ。

 時間は午後十時。夜釣りには少し早い時間だろうか。だいたい明け方近くが釣れやすい時間らしい。

「たくさん釣ってきてくれたら、明日のおかずがその分増えますよっ!」

 五十嵐さんからの激励を受け、俺たちは寮を後にする。

 彼女が寮に戻るまで、肇は窓を開け「行ってきます」と手を振っていた。

 そこから少しの間、俺たちの間で会話はなかった。

 肇はうっとりと窓の外を見ており、俺は俺でガソリンの残量を気にして、スタンドを探すのに躍起になっていた。

 目的地を実は聞いていなかったが、ガソリンスタンドに行くよ、と言うと彼女は「はい」とだけ言った。

 ガソリンスタンドは割とすぐそこにあり、セルフのスタンドだったことに安心する。

「目的地はどこ?」

「神奈川の、東扇島西公園……というところです。海釣りの場所は詳しくないのですが、調べたところそこで釣りができるらしくて」

「へえ、ならまあ、結構入れとこう」

 給油口にノズルを差し込んで、二千円分ガソリンを注ぐ。

 がちょんと音がして給油が終わると、キャップを締めながら地図アプリを開いた。

 湾岸線に乗ると早いそうで、うええ、と舌を出した。どうにも得意じゃない。

「ゆっくり行っていいかな」

 と俺が聞くと、彼女はこっくり頷いて微笑んだ。

 コンビニに寄りコーヒー、エナジードリンクと、サンドイッチなどを買い込む。

 煙草を一本吸ってから車内に戻ると、肇が顔を顰める。

「臭いですよ」

 彼女は煙草を嫌う。彼女と会うときは吸わないよう努めていたのを、一か月会っていないおかげですっかり忘れてしまっていた。

「ごめん、車運転するとどうにも吸いたくなって。なるたけ堪えるよ」

「そうした方がいいです。体にも良くないから……」

 そう言い、彼女はふわふわと欠伸をした。肇は夜きちんと眠くなる。

 性来夜釣りには向かない体質なのだろうことは予想がついていた。

「眠ってて良いよ」と言った。夜明け前に間に合うように、三時頃に起こせば良いか。

 どうせ俺も少しは眠ろうと思っていた。

 釣り場に着くまで一時間くらい、俺はスマートフォンをスピーカーに繋いで、ごく小さな音でフィッシュマンズなどを聴いた。

 肇の静かな寝息を邪魔することのないように、ごく静かな音量で。

 肇のレコーディングにほとんど携われなかったのが少しだけ心残りだった。

 彼女はきっと……と、アイデアばかりが膨らんで、それを実現する前に、気分がぽしょりとしぼんでしまう。

 今回のデビュー、俺は彼女の力になれた気がしていなかった。

 彼女はいずれ認められると確信があった。なかなか会わなかったのは自らの力不足を認めたくなかっただけかもしれない。

 コーヒーの蓋を開ける。これも腑に落ちる日が来るのだろうか。

 運転をしながらだと、肇の寝顔を見られないのが残念でならない。

 一度だけ見たことがあるけれど、この子はそれほど可愛らしい顔で眠る。

 海が見え、橋をいくつか渡り、目的地に着いた頃には日付けが変わりそうになっていた。

 助手席を見ると、肇がこちらを向いて、すよすよと眠っていた。

 頰を二、三度つつき、安心しきってるな、と思うと急にこちらまで眠くなってくる。

 俺も少しだけ眠ろうと、彼女の寝息を子守唄にしようと思った。




 午前三時、ピピピ、とスマートフォンが鳴ったのでビクリと身体を震わせた。

 肇の肩を叩くと身じろぎしたので、起きろい、と頰をつまむ。

 それでもふにゃあだとかふわあだとか言っていたから、「釣りをするんじゃないのかー」と言うと、そこで彼女はようやく目を覚ました。

 モゾモゾと動き出した彼女を尻目に、エナジードリンクを飲んだ。

 市販の物は昔ほど効かなくなっている気がして、やはり事務員謹製のものが最高だ、と再確認する。

 一本百円、なんとお得なんだろう。

 次はダースで買わねばなるまい。

 肇がまだ蕩けた目で俺を眺めていたので、飲むか、と聞いた。

 はい、と言って俺の飲みさしを取り、こくりこくりと白いのどを揺らす。

「間接キッスじゃんね」

 思わずそう言った。

「……はっ、いや、そういうわけじゃなくて。いや、間接キッスなんですけど、うう……」

 うおお、可愛いなうちの担当アイドルは。

 刺されても可笑しくないぞ。藤原肇と夜釣りだなんて。

 釣り具を担いで、夜の海に行く。

 あたりに人は疎らで、お忍びで夜釣りをするには丁度良い。少なくとも刺されはしないだろう。

 夜の黒いインキが溶け出したように、海と空の境界はおぼろげだった。

 午前三時だというのに遠くのビルと、工業地帯がやたらと明るく、作業灯と月が海に揺れていた。

 よっこいしょ、と足元にクーラーボックスを置く。

 俺がいそいそとバケツに海水を汲んだりしているあいだ、肇は手際よくタックルを組み立てていた。

 エサ釣りではなく、重り、針、ワームだけの簡素なルアーを使うようだったので、俺も真似をして針にワームを引っ掛ける。

 正直、ズブの素人である俺が釣りの戦力になれるとは思っていないから、肇の見よう見まねで仕掛けを飛ばすだけなのだ。

「今日は何を狙うの」

「今日は、チヌ……黒鯛です。結構難しいと聞くので、それ以外にもいろいろ釣れないかなと思っていたら、ワームをお勧めされたんです。欲張りでしょうか」

 肇なら夕食分はなんとかなるんじゃないか、と俺は言った。

 しかし、難しいのか。プラプラと眼前でルアーを揺らしたが、今日もボウズ、太公望を気取ることになりそうだな、と思った。

「ハゼ釣り用の仕掛けも借りるべきでしたね」

「いやあ、どちらにせよ変わらないよ」

 ふふ、と笑う。月明かりに照らされて、白い花のようだ。

 彼女は細い指にハリスを引っ掛け、流れるようにキャストする。

 しゅるしゅるリールから糸が引き出される。

「釣れると良いですね」

 二十メートルほど仕掛けが飛び、チャポンという音を立てて月を揺らした。

「良いですよね。仕掛けを投げて、波紋が広がって……落ち着きます」

 彼女は独り言のようにそう言う。

 俺が見惚れていたのに気づいたんだろうか、とびくりとした。ふと、不審者だったときと同じ格好をしていることを思い出した。

 俺も負けじと仕掛けを飛ばしたけれど、彼女よりも手前で着水する。

 そのまま重りが底につくまで待っている時間は、水の流れが手にも伝わって、なんとも言えない、自分の深いところまで沈んで行くような気持ちになる。

 底に着いてふわふわと揺られているような、そんな感覚だ。

 二、三度竿をしゃくると、コ、コン、と当たりがあった。しかし、それだけだった。

 どうかしのか、目線をよこした彼女に向かって、俺は曖昧に笑う。「そんな気がしたんだけどな」

 しばらく、俺の竿には当たりもなく。

 三十分ほど投げては巻き、投げては巻きを繰り返している。

 一方肇の竿には何度か当たりがあったらしく、合わせを入れては首を傾げていた。

「移動する?」

 ルアーを巻き取って、俺はそう尋ねた。

「いえ、もう少し、あと少しでわかりそうなんです……」

「そう言うと思ったよ」

 この娘っ子は頑固ものなのである。そりゃそうだよね、と俺が投げようとしたとき、ククンと肇の竿が揺れた。

「黒鯛?」

「いえ、たぶん根魚ですね」

 彼女はギュルギュルとリールを巻く。「美味しいやつだ」

「ええ、そうですね。とっても美味しいやつです」

 タモを使おうか、と言ったところ、肇はそのままで大丈夫です、と答える。

 言葉のままざばりと持ち上げると、二十センチを超える魚が竿先にぶら下がっていた。

「カサゴですね……岡山の辺りじゃ釣れない魚です。ふふっ!」

 わあわあと二人で盛り上がり、バケツにカサゴを入れる。

 カパカパとエラ蓋を開き呼吸をしているが、君は明日の味噌汁になる運命であるよ。

 彼女は再びルアーを投げた。

 肇が竿をしゃくしゃくと動かすのを見て俺は真似をする。

 うんともすんとも言わない俺に対して彼女は再び魚を釣り上げ、今度はメバルだ、と二人ではしゃぐ。

 君は煮付けに内定であるぞ、南無南無と心の中で唱える。

「肇は楽しい?」

「ええ、楽しいですよ」

 と彼女は言った。俺も楽しいと言った。

 俺は肇が楽しそうなのを見ているのが、一番楽しいのだ。

 しかし、彼女は表情を少し暗くする。

 俺は竿を動かすのをやめて、「どうかした」と聞いた。

 彼女は顔を横に振った。

「楽しいんですけど、でも……まだチヌは釣れてないんです。今日はチヌを釣りに来ましたから」

 そう言うと再びルアーを投げ、真剣な顔で竿を動かす。

 彼女は頑固なところがあって、その真剣な目線は遠い水面を見つめていた。

 俺はリールを巻きとった。しばらく、やはり何も付いていないルアーを眺めていた。

 思うに、俺は彼女のそんな目に「夢」を見たのだ。

 一度夢破れ、ぼんやりとした目的でプロデューサーになり、なったといえど音楽の知識が活きたことも多くなく。

 丁度、色々と忘れそうになった頃に、彼女に出会えた。去年、あの日着ていた服を着ているから、これほど彼女との出会いを思い出しているのかもしれない。

 あの日、五周も無駄に走り周って、彼女と出会えた瞬間のあの夢は、彼女にとっての今日の黒鯛なんだな、とスッと思えた。

 彼女は黒鯛を釣り上げようとしている。釣り上げるつもりで、必ず釣り上げようと、何度もルアーを投げている。

 諦められないものってあるよな、と俺は独り言つ。

 肇に言ったわけでもないんだけれど、彼女は「そうです」とはっきり言った。

「まだ、目的を叶えたわけではないんですよね」

 そう、俺はあの時の夢をまだ半分も叶えちゃいなくて、彼女は夢の先で待っているのだ。

 俺はまたルアーを投げた。何も当たりがなかったけれど、負けじともう一度投げる。二度、三度。

 朝が随分と近くなっていた。

 あれだけ朧げだった海と空の境界線がはっきりしだして、俺は眩しいと思った。

 遠くのビルに反射する朝焼けにほとんど目が眩んでいた。ただ、沖に向かってルアーを飛ばす。

 ルアーが底に着いて、ワームがひらひらと潮に揺られる。一つ、二つと竿をしゃくり上げる。

 コ、コ、と、何かが竿を突くような感触があった。

 直後の、ゴン! という重さと、急激にしなる竿。ギリギリとハリスを吐き出そうとするリールに、俺は悲鳴を上げた。

「は、肇っ! なんか、うお、すげぇ引くんだけど!」

「チヌですかっ⁉︎ ドラグ……ドラグを緩めてください!」

 わかんねえよ、俺釣り初心者だもの! ドラグってどこだ、肇助けてえ、と、さんざ情け無いことを言った。

「大丈夫ですよ、大丈夫です……。私がいますから」

 リールを巻く手に、そっと白くて細い指が添えられる。

 その指が少しばかりリールを弄ると、竿ごと俺を海に引き摺り込もうとしていたのが、少し楽になる。

「あとは、魚との体力勝負……」

「腰抜けてるよ、俺」

「でも、二人ぶんですよ。釣れないわけないじゃないですか」

 俺と肇は、魚をゆっくりと手繰り寄せる。

「いつも、これまでも二人でなら出来たんです。なんだって」

 それはだいぶ近づいたと思いきや、すぐさま逃げようと走る。

 追いつこうとしても、なかなか近づいてこない。

 それでも、負けじと、諦めなければ見えてくるのだ。

 水面から飛び出た大きな魚影。

 伸ばした、しなる竿。水しぶきの煌めきは白く、あの日夢見たサイリウムのようで。

 彼女は歓喜の声を上げた。

 俺も上げていたと思う。

 俺たちは確かに、伸ばせば届くところまで手繰り寄せてきた。

 バチャバチャと暴れる黒い、大きな鯛を、二人で一緒にタモですくい上げた。

 やりましたよ、と彼女は言った。俺は初めての衝撃に少し泣いていた。やったよ、やったな、と興奮したまま、黒鯛を持ち上げる。

 五十センチを優に超える、大きな大きな黒鯛だった。

 黒い鱗は鈍く太陽を反射していた。すっかり朝が顔を出している。眩しさに彼女は目を細める。俺は俺で、持ち上げていた腕が悲鳴を上げていた。

「重っ」

 と、俺はまた悲鳴を上げる。肇はふふっと笑って、黒鯛を支えるように抱き上げた。

「あの時のキャリーバッグとどちらが重いですか?」

 そう肇は言う。俺は笑って、今それを言うかよ、と言った。






お 







釣りとかしばらくやってないです。

今回のタイトル(など)の元ネタはサカナクションの「ナイトフィッシングイズグッド」でした。→ https://youtu.be/vg2cGSPb-mw

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