藤原肇「彼方へ」 (40)



ここは何もない所だ。

あなたが初めて私、藤原肇を東京に連れてきた時に言った言葉です。

辺りに立ち並ぶ高層ビルにも、見渡す限り一面の人の群れにも、本当に辟易した様子でポツリとそう零しました。

ですが、あなたはそう言った時に、しまったという風な表情で私を見ましたね。

それはそうだと思います。だって、私をこの東京に連れ出した張本人でしたから。

この町で夢を掴むのだと… トップアイドルになるのだと、片田舎から私を連れだしてきた人間の言うべき言葉ではないと自覚していたのでしょう。




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「余計な事を言ってしまったな。忘れてくれると嬉しい」


申し訳なさそうな顔で私にそう言ってくれたことを覚えています。

でもあなたのそんな謝罪の言葉は、ほとんど頭に入ってきませんでした。

あなたが称した何もないこの町は、私にとっては目新しいものばかりでした。

立ち並ぶ高層ビルも、一面の人の群れも、私は見たことがありませんでしたから。

だから私は、気にしないでくださいと、それだけを言いました。

何よりも、表情がコロコロと変わるあなたに、目を奪われていましたから。






あなたが何もないと言った町の一角に、その建物はありました。


「俺たちの事務所だよ」

「これが、ですか」


芸能事務所と言うくらいですから、いったいどんなに立派な建物かと想像していました。

ですが、案内されたのはなんて事のないオフィスビルの一室でした。

書類や何が入っているか分からないような大量の段ボールが積まれた室内を見渡していると、本当にこの場所で人が仕事をしているのかと疑念が生じます。


「がっかりさせちゃったかな?」

「…い、いえ! そんなことは…」


不意の意識の外からの言葉に一瞬反応が遅れて、慌てたように返答してしまいました。

がっかりした、なんてことは本当にないのですが、これではそう思われても仕方がないかもしれません。




「まぁ、見た通りさ。あまり売れているプロダクションではないんだ」

「そんな風には…」

「ははは」


気を遣わなくてもいいと笑いながら、あなたは部屋の隅に申し訳程度に置かれたデスクへと向かいました。

並べて置かれた二つのデスクの上には、二つのパソコンが置いてあります。

機械類に詳しいという訳でも無い私ですが、そのパソコンが型落ちした古いものであることくらいは理解できました。


「えっと、確かこの辺に資料があったんだが」

「あの、私はどうすれば…?」

「ああ、すまん。藤原さんはその辺に掛けといて。お、あった!」


肇と呼んでください、と訂正を加えながら、来客用と思われるソファーに腰掛けます。

所々に継が当てられた古ぼけたソファーに、なんだか少しだけ懐かしいという感情が湧きました。




「じゃあ、改めて自己紹介からでいいかな」

「ええっと、あのままでいいのでしょうか…?」


手にした資料を探し出すために引っ掻き回したデスクをほったらかしにしたまま、あなたは私の対面に座りました。


「気にすんなって! 戻しておいてくれる奴がいるんだ」


町を歩いていた時とは打って変わってあなたは快活な様子でした。

あなたが何もないと言ったこの町にも、あなたの居場所はあるのだと思いました。


「俺はこの事務所でプロデューサーをやっているPって者だ。よろしくな」

「藤原肇といいます。トップアイドルになるためにこの事務所に来ました」


お互い顔を見合わせて、真剣な面持ちで自己紹介。


「…ぷっ」

「ふふっ」


でもなんだか急に真面目に話し始めたのが可笑しくて、二人とも雰囲気に耐え切れず笑ってしまいました。





「それで、藤原さん… ええっと、肇でいいのかな?」

「はい。肇と呼んでください。嫌でなければ、ですが」


肇と言う名前は、祖父がつけてくれた大切なものです。

男の子みたいだと言う方も居ますが、私はとても気に入っていますから。


「いい名前だな、肇。これからよろしくな!」


嫌なわけがあるかと、そう笑顔を携えながら言ってくれました。

あなたが名前を誉めてくれて、肇と呼んでくれるだけで、なんだか胸の奥が温かくなるのを感じました。

出会ってほとんどの間もない私がそんな風に思うのはおかしい事でしょうか?

でも、私に新しい世界を教えてくれるあなたが、まるでシンデレラの下に現れた魔法使いの様に感じていましたから。

まだまだほんのさわり程度だというのに。これからもっともっと広い世界を教えてくれるという期待への胸の高鳴りだったのかもしれません。




「で、真面目な話に戻すとだな」


一転、そう言いつつあなたは手に持った資料をこちらに手渡してきました。

穏やかな笑顔から引き締まった表情に切り替わるあなたを見て、私の気持ちも引き締められます。


「はっきり言ってこのプロダクションはまだまだ無名だ。そんなところに連れてきてしまったのは申し訳ないが…」

「は、はい…」


そうかと思えば、急にダウナーな話に。なんだか面白い方だと改めて思いました。


「肇にはこの事務所の命運を背負って貰う格好になるかもしれない。一応他にもアイドルの子は居るんだが…」

「はあ…」


まさかいきなり命運だなんて、スケールの大きな話が出てきました。

目標と言いますか、背負うものが大きい程頑張れると言うものです。

ですが、手渡された資料を見ても、無知な私にはほとんど理解が出来ません。

売り出しの方向などが簡潔に纏められているようでしたが、節々に細かく記入されている数字などは正直な話よく分かりませんでした。




「…不安にさせちゃったかな?」

「あ、いえ… 少しだけ」


心配そうな顔であなたが私を覗き込んでいました。

私は本当に大丈夫なのかと言う不安が顔に出ていたのでしょう。余計な心配をさせてしまいました。


「資料が見辛いよな。俺が作り慣れてないから…」

「い、いえ! そんな事ないですよ」


ごめんって謝るあなたを見て、私は必死に取り繕います。

資料が云々ではなく、私は、私自身に掛けられた期待にプレッシャーを感じていたのですから。


「大丈夫だ。基本的には俺がスケジュールを組んで、肇はそれに従って動けばいいから」

「そういうものなのでしょうか…?」

「ああ、だから___」

「あっ! プロデューサーさん戻ってたんですね」




あなたが何か言いかけたとき時、軋んだ音を立てて事務所の入り口の扉が開きました。


「藍子か。お帰り。仕事はどうだった?」


藍子と呼ばれたその方は、私と同じくらいの年だと思われる女の子でした。

緩やかなウェーブのかかった髪がチャームポイントの、可愛らしい方です。

さきほどあなたが言っていた他のアイドルの子とは、きっとこの方のことだと思いました。


「仕事はいつも通りばっちりでした。…って、またこんなに散らかしてるじゃないですか」

「ああ、ごめんごめん。ちょっと忙しかったからな。片付けといてくれるか?」

「また私にやらせるんですから…」


とても気立てのいい方だと、あなたと少しだけ交わした会話の中でもわかりました。

それに、あなたととても仲がいい事も、です。

あなたと藍子と呼ばれた方の会話には、立場故の遠慮と言ったものは微塵も感じられませんでした。





「もうっ、だらしないんですから… あれ? そちらの方は?」


藍子さんは私の方を向いて言いました。ただでさえ人入りの少ない事務所らしいですから、見たことのない人間が居れば不思議に思う事でしょう。


「ん。ああ、話してただろ。今日から新しく入ることになった…」

「藤原肇です。よろしくお願いします」


今日二回目の自己紹介をして、私は藍子さんにぺこりとお辞儀をしました。

先程のあなたの時とは違って、笑ってしまうなんて事はありませんでした。

先輩に当る方な訳ですし、ここで妙な印象を持たれるのは嫌でしたから。


「高森藍子です。私こそよろしくお願いします」

「と、言う訳だ。二人とも仲良くやってくれよ。ただでさえ二人しかいないんだから」

「ふ、二人しかいないんですか!?」





私は高いトーンで声を上げてしまいました。誰だって驚いてしまうと思います。

だって、二人しかいない、と言う事は。


「………」


藍子さんと、私だけ。

驚愕の事実が私に圧し掛かり、言葉を失ます。


「プロデューサーさん、肇ちゃんに話して無かったんですか…?」

「わざわざ言う事でもないかなって…」


おかしいとは思っていました。片田舎から私なんかをスカウトするくらいでしたから。

よっぽど人材不足なのかとは思っていましたが、ここまでとは想像していませんでした。


「肇ちゃん、怒ってます…?」


不安気な表情で藍子さんが私に問いかけてきます。


「ご、ごめん肇。騙したみたいになっちゃって…」

「騙したみたい、ではなくて騙してますよ! もっとしっかり謝ってくださいっ」


そう言って藍子さんが背中をバシッと叩きました。


「うぐっ… 肇、すまなかった。今からで嫌だと言うんなら…」



「………ふふ」

「え? 肇?」


………私は、なんだかおかしくて笑ってしまいました。

さっきまで私の中にあった真面目な空気は雲散して、今はただ微笑ましいという感情しかありませんでした。

押しつぶされてしまいそうだった不安な気持ちも気づけば僅かな残滓すらありません。

藍子さんと、あなたを見ながら、きっと楽しい生活を送れると思いました。

そして、あなたが何もないと称した町の中ですが、ここが私の居場所になるのだという希望に満ち溢れます。


「改めて、よろしくお願いします、プロデューサー」


…あなたが私のプロデューサーになった瞬間でした。今日この瞬間から、私は新たなスタートを切ったのだと、そう思いました。


「肇ちゃん、よろしくお願いします!」


藍子さんの言葉を聞いて、私は再び笑みが零れました。


___


それからの日々はそれはもう大変でした。

そもそもアイドルは二人しかいませんでしたし、先輩であった藍子さんだって… とても失礼な言い方ですが、そこまで売れている訳では無かったですから。

私はと言えば、アイドルになんてなると思ってもいませんでしたから、歌もダンスも一から覚えなければなりませんでした。

体力にはそれなりに自信もあったのですが、ステージ上で優雅に舞っているだけに見えるアイドルと言うのが、ここまで過酷なトレーニングを積んでいる事を身を持って知りました。

それに、力のあるプロダクションでも無かったですから、レッスンはほとんど自力でした。

場所も中々借りられず、公園で… なんて事も当たり前でした。




勿論最初は抵抗がありました。

でもプロデューサーは言いました。


「人前で見せるために練習してるんだろ?」


…妙に納得してしまいました。確かにその通りです。

どうせ顔も知られていないアイドルの卵です。誰が気にする事も無いでしょう。

………でも、ラジカセに合わせて公園で踊っている女の子に、真昼間からあれこれと横から指示している二十代の男性は怪しさ極まりないのではないかと思います。






藍子さんは、割と仕事が入っているようで、一緒にレッスンをしたことはありませんでした。

プロデューサー曰く、しっかりしているし俺が見なくても大丈夫だろう、と。

それに実戦で伸びていくタイプだと、そう言っていました。

その藍子さんに対する放任主義は、流石に如何なものかと苦言を呈したい気持ちもありましたが、そうする事はありませんでした。

…なんだか、プロデューサーを独占しているみたいで楽しかったからです。

たった二人しかいないのに、何を小さい事をと思うかもしれませんね。

でも、私は知っていたんです。

藍子さんが、プロデューサーが構ってくれないと愚痴を零していた事。





「肇ちゃんが来てから、プロデューサーさんは明るくなりました」

「そうなんですか…?」


藍子さんと二人きりになった時、不意にそう言われたことがありました。

寝耳に水です。私は今のプロデューサーしか知らない訳ですから。


「明るくなりましたよ。よっぽど肇ちゃんといるのが楽しいんでしょうね」

「そんなこと…」


なんて否定しながらも、私は顔が熱くなるのを抑えきれませんでした。

さりげなく背を向けて両手で顔を煽ぎながら、何か繕う言葉を探しましたが、熱の籠った頭では気の利いた言葉が浮かんできません。


「………私、仕事の時間ですから」

「はい。お気をつけて…」


背中を向けたままなんて、とても失礼でしたが今藍子さんの方を向くことは出来ませんでした。

熱くなった顔を必死に冷まそうと努めながら、ふと思い出します。今日、藍子さんの仕事は無い筈では…?





はっとして藍子さんの方を向き直った時、藍子さんは既に背を向けて歩き出していました。

藍子さん。

そう言いかけて私は口を噤みました。

火照った顔を見られるのが恥ずかしいからではありません。


「プロデューサーさん………」


と、譫言の様に彼を呼ぶ藍子さんの寂しげな背中に、声を掛ける事が憚られたからです。

藍子さんからプロデューサーを奪ってしまったのは、他でもない私自身でした。

でも、私にはどうする事も出来ません。

藍子さんがどうやってプロデューサーと出会ったのか、私は知る由もありませんし、聞く必要もありません。

ですが、この町に私を連れてきたのはプロデューサーです。

プロデューサーが私にかかりきりなのは、私をアイドルとして成功させなければという責任感からも来ている事でしょう。





………何はともあれ、下積みの日々を歩みながら、私とプロデューサーはより良い方に向かっていました。

私にも少しずつですが、仕事が入るようになりました。

雑誌の隅に小さく写真が掲載された事がきっかけです。


「この可愛い子はいったい誰ですか?」と、その私の写真について問い合わせが殺到したと。


私からすれば、いったいどんな物好きか、と言う気持ちでしたが、プロデューサーはとても嬉しそうに頷いていました。


「肇は可愛いし、写真映えするから、こうなると思っていた」なんて、本当でしょうか?


それがおべっかだったとしても、私はプロデューサーがそう思ってくれている事が嬉しかったんです。

軌道に乗ってしまえば、その後はただ流れる様に進んでいきました。

いつかの不安が嘘の様です。私がアイドルとして割と名のある部類になれたのですから。






私と藍子さんの二人だけだった所属アイドルでしたが、今ではかなりの人数が居ます。

人数が増えたおかげで、引っ越しをしようかと言う話も持ち上がっています。

………自惚れの様ですが、事務所の躍進は私の活躍があったからでしょう。

現に、ずっと私を見てくれていたプロデューサーも、自慢げにそう言ってくれました。


事務所を引っ越すという話ですが、プロデューサーはあまり乗り気ではありませんでした。

そうでしょうね。だって、この場所はプロデューサーがこの町で見つけた自分の居場所でしたから。

場所自体が変わってしまっても、接する人々の気持ちが変わるわけではありません。

それでも、何と言いますか… きっと気持ちの上でここに留まりたいとそう思っているのでしょう。

現実問題として、少々無理がありますから、きっと近いうちに引っ越しをすることになると思います。

プロデューサーは表面に見せないにしても、きっと悲しむと思います。


………それでも、私はこの場所から一秒でも早く居なくなりたいと、そう思っていたんです。




___
__
_


私がここに来てから結構な日数が経ったと思います。

中々慣れなかったアイドル業も板に付いて、今では変装なしでは往来を歩けないほどに有名になりました。

たてつけの悪い見慣れた扉を開けて事務所に入ります。

相変わらず滑りの悪い金具から鳴る鈍い音が、やけに耳の奥に響いてきました。


「………おはようございます」


私の控えめな挨拶には、誰も返事をしてはくれませんでした。

声が小さかったからではありません。いつもの事です。

だから私は小さく溜息を吐いただけでした。




奥へ、と言う程でもありませんが、継ぎ接ぎの目立つソファーまで歩みを進めます。


「藍子さん、おはようございます」

「………ええ」


今日二度目の挨拶を口にします。

藍子さんは私を見たとたんに、さも怠いと言ったような表情でソファーに足を投げ出しました。


「居たんですか」

「今来ましたから」


私の方を向かずにそう言いました。

放たれた言葉には皮肉や侮蔑と言ったものは一抹も含まれていなかったかと思います。

ただ、心の底から、本当にそう思っているのだと言う調子でさらりと言ってのけたのです。





「…今私が座ってますから」


そしてそのまま目線を虚空へと逸らしながら、藍子さんは言葉を連ねます。

いくら古ぼけたソファーだと言っても、来客用と銘打たれたそれにはまだまだ十分の余地があるのにもかかわらず。


「そうですね、失礼しました」


ですが私は、そう言及する事も無く大人しく引き下がります。

これも、いつも通り。私や藍子さんにとっては日常でしかありません。

いつの日からか始まったこのやり取りも、私も最初は気にしていました。

それでも、回数を指折り数えるのが困難になってきた頃には、もう慣れてしまっていました。

………それに、藍子さんが、私と隣り合って座っていたくない理由も、わからなくはありませんから。





私は事務所の隅の誰の邪魔にもならない場所に向かいます。

別に静かにしろと言われた訳でもありませんが、音を立てず忍んだ足運びでそっと移動しました。

もう一年以上も前の事でしょうか。思い返せば、ここは所狭しと積まれていた段ボールがあった所です。

我関せずで事の顛末を見送っていたちひろさんに視線を投げかけます。

しばらくそうしていると、最初は気付かない振りをしていた彼女でしたが、藍子さんをちらりと見ながら申し訳なさそうに重い口を開きました。


「プロデューサーさんなら、少し遅れるって連絡がありましたから、ちょっとだけ待っていて下さいね…」


そして逃げる様に閉口し、視線を目の前の書類へと向けました。

さわらぬ神に祟りなしと言った所でしょうか。この重い雰囲気を醸している原因の藍子さんに、なるべく関わりたくない様子のちひろさんを見てそう思いました。

打算的な彼女らしいと、なんだか可笑しくて場違いながらも少し口角が上がってしまいます。





藍子さんは始終座ったまま身じろぎ一つせず同じ姿勢を保っています。

もしかして寝ているのではないかと言うほど微動だにしませんが、それが違う事を私は知っています。

だって、ちひろさんがプロデューサーと口に出した瞬間、藍子さんは私をちらりと見遣りましたから。

勿論、私は気付かない振りをしました。それでも、気付かないなんて絶対に無い事です。

見遣る、なんて優しい表現です。それは敵意のある眼光とでも称した方が正しかったのかもしれません。

あなただけのプロデューサーを奪ってしまった私に対する敵意なのでしょうか。

真相は藍子さんだけが知っています。ですが、藍子さんのソレは、明らかに私に向ける何らかの負の感情を孕んでいると断言できます。





思い違いも甚だしいと、直接言う事はありませんが私は内心そう思っていました。

プロデューサーが藍子さんを見てくれなくなったのは私のせいだなんて、見当違いもいいところだと言う事です。

私が来る以前、プロデューサーは藍子さんの事を私と同じように見てくれていたのでしょうかと、そう問いただしたい衝動に駆られることもしばしばですが、それが出来ないは私の性格故なのだと思います。

………いえ、そんなのは建前です。本当はプロデューサーに余計な心労を掛けさせたくないから。

現に私たちはプロデューサーの前では至って普通の間柄です。

馴れ合いはぜずとも普通に挨拶を交わし、互いの仕事を労うくらいの、ありふれていてどこにでも転がっている様な関係です。

それに関しては藍子さんだって同じです。

それに、藍子さんが表面を取り繕っているのは、プロデューサーに悪い印象を与えたくないからでしょう。

これ以上、プロデューサーの心が自分から離れて行ってしまう事に怯えているのだと、そう思います。






思考の海に全てを投げ出しても、やはり人間の体というのは正直なものです。

すっと立ったままでいるのは中々辛いもので、重心を右に左に傾けながら姿勢を維持します。

どんなに強がって見せても限界は来ます。ですが、その場にへたり込むのは、なんだか藍子さんに弱みを見せるみたいで憚られました。

それでも、藍子さんのいるあのソファーに座ると言うのは、どんなに神経の太い人でも不可能だと思います。今の私の立場なら猶更です。


「プロデューサーはどこに出かけているのでしょうか?」


そう言った瞬間、ちひろさんがびくりと肩を震わせました。


「__スタジオに打ち合わせに…」


恐々と言った様子で藍子さんを横目で盗み見ながら、ちひろさんは答えてくれました。




「…歩いてもそんなにかからない距離ですね」


私はそれだけを言って、事務所の出入り口へと歩み寄ります。

この扉だけは、あの日から様相を変えず、ずっとこのままで、これからもそうなのではないかと言う幻想を抱かせます。


「車には気を付けて…」というちひろさんの言葉をバックに、私は重い扉を開きました。


安堵したちひろさんの溜息と、…そして、抜身の刀のような鈍く鋭い藍子さんの視線を、確かに背中で感じました。

プロデューサーの下へ向かう私に突き立てる、悲痛な叫びだと、そう思いました。





私の成長を見守ってきたこの事務所も、私の居場所はありませんでした。

ですが、それは飽く迄、私にとってです。

プロデューサーからすれば、私はこの事務所で仲間たちと共に勤しむ一アイドルでしかないのかもしれません。

ただ、自分が目をかけて成長させたという達成感から、私を気に入ってくれているのかもしれません。


………もしかしたら、私の期待している様な、他の要因があるのかもしれません。


驕りが過ぎる話ではありますが、十中八九そうなのでしょう。

だって、付き合いだけは私より長く、近くであなたを感じていた藍子さんが、私を敵視することが何よりの証左であると言えますから。




この町には何も無いと、あなたは私に言いましたね。

でも、あなたはこの町であなたの居るべき場所を見つけられました。

きっとあなたは、私も此処を愛してくれていると思っているのでしょうね。

でも、やっぱりこの町に私の居場所は無かったんです。


あの日、物珍しく見えた立ち並ぶ高層ビルも、辺り一帯を埋め尽くす人の群れにも……… 

そして、私のファンであるという人にも、あなた以外の事務所の皆にも、私は空虚な感情を抱きます。


私の心に彩りを加えるのは、あなたと過ごしてきた思い出たちだけなんです。

公園でのダンスも、初めての仕事も、どんなに下らない事でも、私にとってはどんなに価値のある宝石よりも、トップアイドルという夢よりも鮮やかに映ります。


あの日と同じ道のりを、あなたの下へ向かうために私は歩いています。

いつもより人通りの少ないこの道を歩むのは、思い出に浸るにはうってつけでした。


あなたがいるから、私は今この町で生きているのです。

だって、あなたは私の居場所そのものだから。




終わり。ありがとうございました。
先日別の場所で藍子ちゃんを書く機会があったおかげで藍子ちゃんの魅力に気が付きました。

藤原肇(16)
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高森藍子(16)
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>>34 画像ありがとうございます!

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