まゆ「あなただけいればいい」 (32)
佐久間まゆという少女は、プロデューサーにとって一つの例外だった。
仕事上、最も先に事務所に入るのはプロデューサーである。始発の電車に乗り、誰よりも早くその扉を開ける彼には、当然にその鍵を持つ必要があった。
しかしある日を境に、彼はその鍵を持ち歩かなくなった。
理由は単純で、先客がいるからだ。
先客である彼女は二人分のコーヒーを淹れ、ソファーに座って彼を待っていた。湯気のたつコーヒーは黒々として、小綺麗なコップに湛えられている。
「おはようございます、プロデューサーさん」
「ああ……おはよう、まゆ」
素知らぬ風をして言葉を返すプロデューサーに、まゆはただ微笑んだ。
「コーヒー、淹れ立てです。よかったら、飲んでくれますかぁ?」
いつも通り、佐久間まゆは目を細めて、にっこりと笑う。
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今日、プロデューサーが行うべき仕事は、ほとんどが彼女に関連するものだった。
まゆの送り迎えを除けば、書類の整理が微々たる程度にあるくらいだ。整理する書類を持ち出して、出先で片づけたほうが、よほど都合がよかった。
ルーチンワークを済ませ、事務員の千川ちひろに報告を行ってから、まゆを連れて車へ向かう。
「まゆ。いつも朝が早いが、疲れてないか?」
「心配、してくれてるんですかぁ?」
「当たり前だろ。うちのアイドルなんだから、疲れて失敗されても俺が困る」
まゆはいつものように微笑み、囁くように返事をする。
「大丈夫ですよぉ。まゆは、プロデューサーさんが困るようなことは、絶対にしませんから」
撮影所は車で数十分程度の所だった。行き慣れた道を通りながら、彼はちら、とバックミラーを覗く。
目と目が合い、まゆはにっこりと笑った。
はは、と口だけでも軽く笑い返して、目線を戻す。バックミラーからは、彼女の熱い視線が投げ続けられている。目が合わない訳はなかった。
目の前の信号が赤に変わる。ゆっくりと車を止めて、肩の力を抜く。
「そんなに見られてると、恥ずかしいな」
「……イヤ、でしたかぁ?」
曇った声音で、言葉が帰ってくる。
「そういう訳じゃない。ただ見られているだけってのが、なんだか、くすぐったくてな」
プロデューサーがそう訂正すると、バックミラーの向こうで、まゆはうふふと笑った。
「そうですかぁ。嬉しいです」
「嬉しい?」
「ええ、嬉しいですよぉ」
まゆの言葉に首を傾げながら、プロデューサーは青信号に合わせて、正確にアクセルを踏む。
「まゆのこと、気にしてくれているって、そういう所からわかるじゃないですかぁ」
プロデューサーは、そうか、と生返事をした後も、静かに車を走らせた。
モデルという範囲であれば、このプロダクションでは佐久間まゆを上回る逸材はいない。元モデルのアイドルというのは競合他社にも何人かいるが、その中でも引けを取らないと、プロデューサーは考えている。
彼女は自らの見せ方を熟知している。自らという身体の魅力をどのように表現すべきかという点では、限界まで研ぎ澄まされた刃物に似ている。
(正直言えば、異常だ)
撮影風景を見ながら、プロデューサーは思った。
身体全体の動きから表情の子細に至るまで、彼女は齢十六にして不備がない。人並み外れたという所はないが、必要なものはすべて取り揃え、そして完璧に使いこなしている。
ストロボの光の中で、まゆは笑顔を振りまく。ライブの時も同じだ。あの笑顔は作られた物ではない。
心の内にある感情がそうさせている。そうでなければ、こうも大成はしない。作りものの笑顔なんてものは、案外するりとわかるものだ。
「はい、オッケーです! 次の撮影は外になるんで、いったん休憩になります!」
「お疲れさまでしたぁ」
まゆは皆に笑顔でそう言うと、まっすぐにプロデューサーの元に駆けてきて、にっこりと笑って言う。
「プロデューサーさん、お弁当作ったんです。一緒に食べませんかぁ?」
寸分違わぬ笑顔。振りまく笑顔の底が、なにも変わらない。背筋に冷たいものが走るような悪寒を、プロデューサーは感じた。
仕事を滞りなく終えた帰り道のことだった。
「少し、寄り道がしたいです」
こんな提案をまゆがするのは初めてのことだった。
車を路地に入れ、いつもと違う道を進んでいく。
「このあたりに、公園がある。そこでいいか?」
「はい、プロデューサーさんがそう言うのなら」
夕焼けで赤く染まる公園に、人影は見られなかった。プロデューサーは自販機で缶コーヒーとアイスココアを買い、ココアをまゆに渡す。
銀色の缶を丁寧に受け取ると、満面の笑みで嬉しそうに返事をする。変装用の伊達メガネは、むしろ妖艶さを際だたせているようだと、プロデューサーは思った。
「嬉しいですよ、プロデューサーさん」
「別に大したことじゃない」
缶コーヒーを開けて、いつの間にか乾ききっていた口を潤す。
「誰にだってやることだよ」
「でも、今日はまゆにしてくれましたよねぇ?」
ココアをくいと飲みながら、彼女は目を細める。
「今こうしてくれることが、とても幸せなんです」
「……そうか」
まゆとプロデューサーは、暗くなりつつある公園の中を歩く。
春が終われば夏が近づき、暖かい風が二人にそっと吹き寄せる。
あまり広くはない公園を丁度一回りしようという辺りだった。
少ない玩具を散らかしたように、ちらほらと遊具が散らばる場所で、まゆが立ち止まる。
「シーソーって乗ったこと、ないんですよねぇ」
「そうなのか」
「ええ、一緒に乗る人がいなくって」
ちらつく街灯の下で、青色のシーソーがぽつんと佇んでいる。
地面との間で手を挟むから、このごろ撤去され始めているらしいと、プロデューサーは耳に挟んでいた。
「よかったら、一緒に乗りませんか?」
「……いや、体重差もあるから、流石に無理だろう」
「……そうですよねぇ」
少し残念そうな声が、静かな公園ではよく聞こえる。
「じゃあ、あれにしましょう」
まゆが指で示す先、ちょうどシーソーの向こう側で、小さいブランコが風に煽られ、揺れていた。
「わ、わっ」
人に押してもらうだけで、ブランコの動きは随分と変わるものだった。
弧状に揺れる勢いは強い。プロデューサーは、まゆの慌てる顔を見ながら、背中を押してやる。
次第に怖がるような顔つきも薄れて、楽しそうに風を受けるようになる。
楽しげな笑顔を見て、プロデューサーも少しだけ微笑む。
「あそこまで早く漕いだこと、ありませんでした」
ブランコを止めて座ったまま、まゆは言った。
「まぁ、女の子だもんな。男子だと平気で立ち漕ぎなんかをするけど」
まゆの後ろに立ちながら、プロデューサーは言った。
「流石に、スカートでそれはできませんねぇ」
まゆがくすりと笑った後、しばらく沈黙が訪れた。
すっかり暗くなった公園で、依然として二人きり。
目の前の街灯につられた蛾が、はたはたと明かりのそばで飛ぶ。
遠くで車が地面を低く鳴らしている。
「プロデューサーさん」
「……どうした?」
まゆは上着のポケットから、丁寧に折り畳まれた紙を取り出した。そっとプロデューサーに、後ろ手で渡す。
「なんだこれ、しゃし……」
プロデューサーの動きが止まった。
見開いた目は写真から離れず、口は少しのあいだ呼吸さえ忘れた。
街灯の向こうに顔を向けたまま、まゆは呟く。
「プロデューサーさん?」
「えっ、あっ」
まゆの静かな言葉に、プロデューサーは反射的に返事にもならない声をこぼす。
同時に手から写真が落ち、ひらひらとまゆの足下に着地した。
「あら、いけませんねぇ」
まゆはブランコから立ち上がって、足下の写真を拾う。
「こんなものが落ちていたら、加蓮さんのスキャンダルになっちゃいます。アイドルがこんな、ねぇ?」
「まゆ、これは」
「プロデューサーさんにも迷惑がかかって、大変ですからねぇ」
写真を真一文字に破る。
破る。
破る。
破る。
細切れになった破片が、風に吹かれてひらひらと飛んでいく。
指先よりも小さくなった破片が風にさらわれるまで、まゆはそれをちぎっていた。
プロデューサーはその様子を見て唾を飲み込んだ。乾いた口の中で歯を噛みしめ、できる限り落ち着き払って言う。
「俺は、まゆに、迷惑をかけるようなことをして欲しくないと、言ったはず……」
「してませんよぉ」
プロデューサーの声に被せるように、まゆは即答する。
「じゃあ、あんな盗撮、どうして……」
「加蓮さんがくれたんですよぉ」
プロデューサーは一瞬、まゆの言葉の意味がわからなかった。
「『プロデューサーさんは、もう私のものだから』って、とても嬉しそうに、楽しそうに、誇らしげに、幸せそうに……」
「わかった、もういい!」
自ずと語気が荒くなる。そんなプロデューサーを、まゆはじっと見つめる。
「他にも、智絵里ちゃんもボイスレコーダーをくれました。録音日時はちょうど二週間前の真夜中ですねぇ」
プロデューサーは、一瞬倒れそうになった。ブランコの手すりに、縋るように手を当てる。
「あ、大丈夫ですよぉ。まゆは何もしてませんから。これは単なる報告です。プロデューサーさんの為の」
まゆはにっこりと笑った。いつもの笑顔。
それを見て、プロデューサーの体に悪寒が走る。
気色の悪い汗が、あちこちで滲む。
絞りだしたように、声を出した。
「……怒らないのか」
「怒りませんよぉ」
「……それは、どうしてだ?」
プロデューサーの震えた声音を、まゆはじっとりと抱き止めるようにして、答えを返した。
立ち上がって、プロデューサーを笑顔で見つめる。
「プロデューサーさんが、事務所の人たちから好かれてるのも、それをわざと放っておくのも、プロデューサーさんの考えてのことですよねぇ?」
一歩、プロデューサーに近づく。
「だって、恋をすることほど、魅力を増すものはありませんから。まゆも、プロデューサーさんが好きで好きでたまらなくて嬉しくてそれでこうやって、アイドルをしているんですよぉ。
プロデューサーさんが望んでいることを、どうしてまゆがやめなきゃいけないんですかぁ?」
一歩、プロデューサーに近づく。
「まゆのことアイドルにしたいって、プロデューサーさんが言ったから、まゆはアイドルをしているんです。
これは、まゆにとって心からの望みなんですよぉ? だって、プロデューサーさんが、そうして欲しいって、心から望んでいることですもんねぇ?」
一歩、近づく。
「プロデューサーさんが心から望んでいることが、まゆの心からの望みですよぉ。
プロデューサーさんが『そう』やって、ほかのアイドルをプロデュースするのも、まゆをプロデュースするのも、プロデューサーさんが望むなら、まゆは喜んで受け入れますよぉ」
一歩、近づく。
小さい体がプロデューサーの目の前に立ち塞がって、目線はプロデューサーの顔を離さない。
「たとえプロデューサーさんが、まゆを弄ぼうと、
利用しようと、
汚そうと、
汚させようと、
見捨てようと、
愛そうと、
求めようと、
壊そうと、
許そうと、
嘆こうと、
請い縋ろうと、
あざ笑おうと、
逃げようと」
「まゆは絶対にプロデューサーさんの求める通りにしますよぉ」
心からの笑顔でそう言った。
「まゆはプロデューサーさんが大好きですから」
「……そうか」
プロデューサーはまゆの顔を見る。満面の笑み、目を細めて、恍惚とした、魅力的な笑みだった。
諦観に似た感覚を覚える。
「……ありがとうな」
プロデューサーの声に力は入らなかった。
「いえ、プロデューサーさんの為ですからぁ……平気ですよぉ」
力のない言葉さえ嬉しそうにして、まゆは微笑む。
「……帰るか」
「はい、プロデューサーさん」
まゆは、プロデューサーの手を握りしめる。
振り払うにも、握り返すにも、プロデューサーの手は力不足だった。
おわり。
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