安部菜々「星の海を越えて」 (129)
地の文有りモバマスssです。
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アイドルとは、どういう存在なのだろう。
どういう存在であるべきなのだろう。
その思考の道筋に轍ができてしまうほど、何度も何度も繰り返し考えてみたところで、納得のいく答えは浮かばない。
いつものように、自分のデスクで昼食を摂っている時のことだった。
綺麗に焼き上げることに成功した出汁巻き卵を齧ろうとした矢先に、誰かの気配を感じて、箸を止める。
デスクに近付いてくる足音に目を向けると、優しく微笑む彼女がいた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。レッスン終わったの?」
「はい、ついさっき。お茶、淹れましょうか?」
わたしのお弁当箱を覗きこみながら、彼女がそう提案してくれる。
「ありがとう。お願いしていい?」
「わかりました!」
そう言って給湯室に向かう彼女の後ろ姿を、なんとはなしに目で追う。
細かいことにもよく気のつく彼女は、だけれど、れっきとしたアイドルなのだ。
お盆に湯呑みを二つ乗せて、すぐに彼女は戻ってきた。
ウェイトレスのように片手でお盆を支えて、自分で開けた事務所の扉を後手に閉める。
器用なことをするなあ、と思いながら、その垢抜けた動作を眺める。
「ありがとう、菜々ちゃん」
わたしの分の湯呑みを受け取って、お礼を言う。
「いえいえ!」
彼女は手近にあった椅子をわたしのすぐ隣りに持ってきて、そこに座った。
「今日のお弁当の出来はどうですか?」
「いつもと変わんないよ」
そう言って笑う。
「一つ食べてみる?」
「え、いいんですか?」
わたしは一番の自信作である出汁巻き卵を箸で掴んで、手を添えて彼女の口元に持っていく。
まるで可愛らしい雛のようだと、口を開けて待つ彼女を見て内心に呟いた。
彼女がそれを味わい、飲み込んでしまうまで、わたしはじっと待った。
今日の出来はどうだろうか。自信がないわけではなかったけれど、それでも少し緊張してしまう。
「これ、すっごく美味しいですね」
ふっと息を吐いて、花のような笑みを浮かべて、彼女がそう言ってくれる。
「本当に? 良かった」
「ナナはもう少し甘めの味付けで作ってるんですけど、こういう味も良いですね」
「ああ。うちのお母さんはあんまり甘くしない人だったからかな」
「焼き加減も丁度良くって、ああ、本当に美味しいですね……」
すぐ隣りでふわふわと微笑む姿がなんとも可愛らしくて、こちらの頬まで緩んでしまう。
彼女の視線がちらちらと、わたしのお弁当箱に向けては、逸らされる。
「もう一つ、あげる」
そう言うと、大袈裟に首を振って遠慮された。
「ナ、ナナがこれ以上食べてしまうとPさんの分が……!」
「ほら、ここのところずっとレッスンが忙しいから、そのご褒美だと思って」
言いながら、ふっくらと焼けた出汁巻き卵をもう一つ、彼女の目の前に持っていく。
やがて観念した彼女は、恥ずかしそうにしながらもそれを食べてくれた。
安部菜々。
今を時めくアイドル。
小さな身体に愛らしいプロポーション、魅力的な人格を以て活躍するその姿を見ていると、アイドルになるべくしてなった存在なのだと思ってしまう。
彼女の担当として、彼女の一番近くにいてわかるのは、彼女が本当にアイドルを愛しているということだった。
何度振り返っても、あれは運命的なオーディションだったと思う。
はじめて彼女と顔を合わせた時、彼女は頭に大きなリボンをつけて、メイド服を着ていた。
その出で立ちに驚きながら自己紹介をさせてみれば、なんとも楽しげな言葉が出ること出ること。
彼女曰く、自分はウサミン星という星からやってきて、歌って踊れる声優アイドルを目指しているのだという。
メイドの仕事をこなしながら夢を追ううちに、いつの間にやら時間が経っていたみたいで……と苦笑いをする彼女に、年齢を尋ねた。
彼女の苦笑いが強張る。
それから暫く目線が泳いだかと思えば、覚悟を決めたようにぱっと表情が華やぎ、
「……永遠の十七歳です!」
彼女はそう言い切った。
嘘だな、と思った。
彼女には、不思議な魅力がある。
それに引き込まれている感覚があった。
好きに自己アピールをしていいと言うと、彼女は自分のアイドル観について語ってくれた。
いつからアイドルに憧れるようになったか。どんなアイドルになりたいか。
アイドルというものはどうあるべきで、自分はアイドルとしてなにを表現したいか。
きちんと言葉を選びながら、思うように話してくれた。
その格好には、その言動には、その設定には、たしかに無理はあったのかもしれない。
いかにもなメイド姿にピンク色の大きなリボンは、派手やかさが過ぎて見えること。
幾ら永遠の十七歳だと言い張られても、にわかには信じがたいこと。
聞いたこともない星からアイドルをするために訪れたという設定の、なんとも陳腐であること。
いわゆる電波系のアイドルだと、簡単に見切りをつけてしまう人もいるかもしれない。
だけど、わたしは彼女のことをいたく気に入ってしまっていたのだ。
きっと、彼女を一目見たその瞬間から。
自分の好きなものに対して、ここまでひたむきになれる人がいるのかと、ひどく驚いた。
ところどころ言動は突飛でも、こんなにもまっすぐに言葉を届けてくれるのかと、混乱さえした。
世間の求めるアイドル像を必死にトレースすれば、それこそ誰だってある程度までは人気を得られる。
芸能の世界にだってテンプレートはあるし、そこをきちんとおさえていればある程度のランクに上がるのは、なにも難しいことじゃない。
でもそれではきっと、どこまで進んでもとびきりのアイドルになることはできなくて、誰かの模倣に終わってしまう。
なんの輝きだって得られない。
彼女は最初から、自分の描く理想のアイドルを目指してここまできたのだろう。
このオーディションの舞台に立つ日まで、自分の努力を見向きもされなかったり、否定されたことだってあったかもしれない。
それでも折れずにここまで来たということを、その思いの丈をぶつけられて、わたしは自分の心が強く揺さぶられるのを感じた。
彼女のオーディションを担当したのがわたしでなければ、或いは彼女はこのプロダクションに所属できなかったかもしれない。
わたしは運命の存在を信じる。
いわゆるところ、「てぃん」ときたのだ。
「えっと、安部さん」
「は、はいっ」
「あなたの気持ちはよく伝わりました」
「これから先のアイドルとしての活動が、絶対にうまくいく保証はできません」
彼女が真剣な面持ちで、わたしの言葉に耳を傾けているのがわかる。
「だけど、うまくいくように支えます」
「わたしを信じてください」
「あなたはきっと、誰よりも輝ける」
「これから一緒にトップを目指して、頑張りましょう」
わたし達の物語はこうして始まった。
そうしてわたしはそのアイドルの、この星で一人目のファンになる。
個性は確立されている。
そんな彼女が、本格的にアイドルとして活躍するために、暫くはレッスン漬けの日々があった。
最前線で活躍するために、日夜アイドルは研鑽を積み続ける。
少し体力が足りないことに目をつむれば、彼女のアイドルとしてのセンスはなかなか光るものがあった。
レッスンで習ったことはきちんと身体が覚えるまで復習するし、レッスンだからといって気を抜いたことはなかった。
彼女のアイドルに取り組む姿勢は、誰よりも真摯だと思う。
想定していたよりも遥かに早いペースで、彼女は成長していった。
メディアに姿を見せた瞬間から、彼女は瞬く間に世論から取り沙汰された。
少しおかしな、とびきり素敵なアイドルとして。
モデルとして雑誌に載れば、普段は表立って主張されない可愛らしさや色気が前面に出て、人気をさらった。
バラエティに出演するようになれば、その濃いキャラクターがクリティカルにはまった。
端役ではありながらも、声優としてアニメ作品に参加することもできた。
少しスケジュールが過密気味ではあったものの、彼女は彼女らしく活躍できているようだった。
二人三脚で、幾つもの季節を乗り越えてきた。
それでも、いつもうまくいく筈なんてなくって、彼女の個性はしばしば受容されなかったこともあった。
心なく拒絶されることだってあった。
そんな時はわたしも彼女も落ち込んでしまうのだけど、いつも先に立ち直るのは彼女の方だった。
そして、自分自身を鼓舞して、前を向いた。
どうしてそんなに頑張るのか、尋ねたことがある。
そんなに焦らなくたって、きちんとファンはあなたを待っていてくれているのに、と。
すると彼女はどこか困ったように笑った。
「……わがままに聞こえるかもなんですけど、アイドルが楽しくて仕方がないんです」
「目に映るすべてが、きらきら光っていて、」
「世界が鮮やかに見えるようになったような気がして、」
「ナナは、今が人生で一番楽しいんです」
「毎日が充実していて、新しいことに出会えて、いつも夢に見ていた光景の中にいることが」
純粋な感情だけが、そこにはあった。
彼女の述懐を聞きながら、わたしは胸に抱いた気持ちを確信する。
誰よりも彼女が、アイドルらしいアイドルであるということを。
いつしかわたしは、彼女の虜になっていた。
懸命にひかり輝く彼女のアイドルとしての軌跡に、どうしようもなく惹かれていた。
彼女が成功を収める度に、まるで自分のことのように喜びを感じた。
異星からやってきたアイドルは、いつしか数えきれないほどのファンに愛される人気者になっていた。
ある朝のこと。
全国のアイドルファンが盛大に沸き上がった。
わがプロダクションが、全国ライブツアーの開催を告知したからだった。
それは今までにない規模で行われる一大プロジェクトで、まさしくアイドルの祭典というに相応しくて、
彼女はそんなツアーの最後を飾る、東京公演に出演することが決定した。
上層部から彼女の出演決定の通達を受けた時、思わずその場でへたりこんでしまうかと思った。
それは間違いなく、全国的に彼女の人気が確立されていることを意味していたから。
彼女の踏んだステップの一つ一つが、知らない間にこんなにも遥か高く積み上がっている。
それから、しんみりと考えた。
わたしが、心の奥底から彼女のファンだから、こんなにも嬉しく感じてしまうのだろうな、と。
彼女に伝える時は、ちゃんと落ち着いて言えるようにならなければ、と思った。
彼女はアイドルを始めて以来、レッスンに仕事にと身体を酷使しながらも笑顔を絶やしたことがなかった。
事務所の同僚と談笑しながら、和気あいあいと過ごすのを見かけたことがある。
オフの日に一緒にご飯を食べに行って、アイドルについて語り明かしたことがある。
ライブの舞台袖に控えて、真剣な面持ちで待機する姿に目を奪われたことがある。
彼女はどんな反応を見せてくれるだろう。
飛び跳ねて喜ぶだろうか。嘘だと言って笑ってしまうだろうか。
公演に出演することが決まったことを伝えると、彼女は目を細めて微笑んだ。
それからわたしの前で、はじめて彼女は涙を流した。
ツアーまでの日々は、これまでよりも過酷なレッスンが詰まっていた。
彼女は自分自身を厳しく律し、弱音を吐くこともなく淡々とメニューをこなした。
「ねえ、菜々ちゃん」
ある日の昼下がりに、レッスン上がりの彼女の肩を叩く。
「あ、Pさん! お疲れさまです」
タオルで首筋の汗を拭きながら、彼女は笑顔で迎えた。
「菜々ちゃんこそお疲れさま。調子はどう?」
「形にはなってきましたが、まだまだですね。ところでPさんこそ、どうしたんですか?」
「ん、まあ、少し菜々ちゃんに聞きたいことがあってね」
二人掛けの椅子に並んで座る。
「菜々ちゃん、この前いつ休んだ?」
わたしがそう尋ねると、明らかに彼女の表情が曇った。
「えーっと、いつだったかな、忘れちゃいました」
「忘れてしまうくらい前ってこと?」
「いやあ、この前休んだような気もしますね、あはは……」
そう言って無理やり引きつった笑顔を浮かべる。
小さくため息を吐く。
「……菜々ちゃん、今月に入って一回も全休取ってないでしょ」
既に調べはついていた。
彼女なら心配しなくても仕事の手を抜くような真似はしないとは思っていたけど、まさか休んでいないなんて思いもしなかった。
「……あはは」
「あはは、じゃないの。どうして休んでないの?」
「たまたま、お仕事が立て込んでてですね」
「それで、その……レッスンも増えましたし」
「……だから、えっと」
彼女の言葉の勢いが見る間に衰えていく。
「……もしかしてPさん、怒ってます?」
「もしかして、なわけないでしょう」
「あうう、すみません」
「加減を覚えないと、身体壊してからじゃ遅いの」
「ちゃんと休むことだって、仕事の一つなんだから、ね?」
「……えと、Pさん」
「そのことについて、お願いがあるんですけど」
緊張をまとった声がする。
タオルを握りしめる手が、少しだけ震えていた。
「今だけは、ナナのしたいようにさせてもらえませんか」
「……今っていうのは、具体的にいつまで?」
「ツアーが終わるまで、です」
「それまで菜々ちゃんが無理して頑張る姿を黙って見ていろって言うの?」
そんなこと、できるわけない。
「無理してだなんて……いえ、Pさんの言う通りです」
二の句を継ごうとして、彼女が言い淀む。
彼女のことは、彼女自身が一番わかる筈だった。
「でも、まだナナは上達します、もっとうまく輝けます」
彼女の瞳が、まっすぐわたしを捉える。
「わたしが駄目って言っても、菜々ちゃんは勝手に頑張っちゃうんでしょ」
その強い視線に耐えられなくて、わたしは目線を逸らしながら言った。
「……そうかもしれません」
「でも、これは譲れないことなんです」
「こんなこと、アイドルの私が言っちゃいけないことだと思うんですけど」
自虐めいた言い方をしながら、しかしどこか楽しげに。
「今度のライブは、たった一人のために歌いたいんです」
「ナナの、一人目のファンの方のために」
「ここまで頑張ってこれたんだよってことを、辿り着けたんだよってことを、伝えるために」
そう言って彼女は、目を細めて微笑む。
「ただ一言、お礼が言いたいんです」
彼女は、輝きを求めていた。
彼女は、メディアに出る回数を減らしはしなかった。
いつもの仕事も変わらずに、きちんとこなして見せた。
あくまで一人のアイドルとして、プロとして振舞い続けた。
そこには彼女なりの並々ならない拘りがあるのだろう。
半ば必要に迫られたように働き詰める彼女を、結局わたしは支援することに決めた。
彼女のしたいようにさせることは、どう考えても最善の手だとは思えなかった。
それでも、押し黙って彼女を支え続けた。わたしにはそうする他になにもできなかった。
彼女がレッスン中に意識を失って病院へ搬送されたという知らせを受けたのは、ある蒸し暑い夏の日のことだった。
思わず手に持っていた携帯を落としてしまい、慌てて拾い上げる。
事態を呑み込むのに暫く時間が必要だった。
さあっと血の気が引いていくのが手に取るように分かる。
一も二もなく、彼女が搬送されたという病院に向かった。
電話を繋いだままタクシーを捕まえ、目的地を告げて、それから再び詳しい事情を伺った。
電話の相手は、彼女のレッスンをよく受け持っているトレーナーだった。
トレーナーの証言によると、今日もいつものようにスタジオでレッスンがあって、彼女も参加していたという。
彼女は疲れている素振りを見せることもなく、突然倒れ込んでしまった、と。
咄嗟のことで誰も助けることができず、一拍遅れて彼女の元に駆け寄った時には、既に意識がなかった、と。
タクシーの後部座席で、顔を覆った。
浅く肩で息をする。
是が非でも意地の悪い夢であってほしかった。
病院に駆けつけて、彼女を診療した医師と話をした。
「特に大した怪我もなく、脳波に異常も見られません」
その言葉を聞いて漸く、生きた心地がした。
それでもなお、医師の表情は険しかった。
「ですが彼女は明らかに過労状態です。体力の消耗が激し過ぎる」
「今日彼女が倒れたというのも、恐らくそれに起因したことです」
「正直なところ、いつ倒れてもおかしくはない状態でした」
理解していたつもりでも、その言葉はわたしの胸に深々と突き刺さった。
「今はもう意識も戻って、少しなら話せるまでにはなっています」
「彼女と、話されますか」
「お願いできますでしょうか」
彼女の姿を一目でも見ておきたかった。
「どうか、驚かれることのないようにしてください」
「彼女は今、とても不安定な状態にあります」
その言葉に、たとえようのない不安を感じる。
医師の後に続いて病室を訪れると、奥行きのない部屋に大きなベッドがあって、彼女はその上で半身を起こして座っていた。
ぼんやりと自分の手元を見つめている。
「菜々ちゃん」
彼女は呆けた表情のまま、わたしを見つめる。
心の奥底から安心できた気がした。大事がなくてよかった。
「もう、ばか」
自然に涙が零れる。
「心配したんだから」
それでも彼女が無事でいたことが嬉しい気持ちの方が大きかった。
歩み寄って、彼女の手を握る。
「まだどこか、痛むところはある?」
誰も、なにも話さない、不自然な間がある。
彼女の表情は依然として、どこか生気が抜けている。
なにかがおかしいことに勘付いたのと同時に、彼女は口を開いた。
「あの、すみません」
彼女がいつもするような、穏やかな物腰の話し方で。
「失礼ですが、どちらさまですか?」
いつかのように、少し困ったように笑って。
彼女は、記憶の一部をなくしてしまっていた。
わたしのことも。
自分が、アイドルをしていたことさえも。
あの時の自分の判断を、こんなにも悔いたことはない。
無理にでも彼女に休養を取らせていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
自分が何者であるのかすら、定かでなくなるようなことには。
それは彼女のアイドルとしての人生を、壊してしまったことに他ならなかった。
じりじりと身を焼かれ続けるような感覚。
どう償えばいいのかも、わからなかった。
検査入院を終えて、病院から解放された彼女を迎えに行く。
待ち合わせの時間の少し前に到着したけど、既に彼女は病院の待合室で所在なげに立っていた。
「待たせてごめんなさい」
「……」
自分にあてられた言葉だと思わなかったのか、彼女は下を向いたままなんの反応も見せない。
「菜々ちゃん?」
彼女の名前を呼ぶと、はじかれたように顔を上げた。
心底驚いたような表情が浮かんでいる。
「あ、こ、こんにちは」
慌てたように、彼女が頭を下げる。
「こんにちは。待たせちゃったかな、ごめんね」
「い、いえ、ぜんぜん」
「これから、あなたの職場に案内します」
つい習慣で彼女の名前を気軽に呼んでしまったことを後悔する。
彼女にとってわたしは、殆どはじめて会ったに等しい存在なのだから。
わたしと彼女は病院を後にした。
「ここが更衣室」
扉を開けて、彼女に内装を見せる。彼女は僅かに首を横に振った。
次は給湯室に。その次は仮眠室に。先ほどと同じように、彼女は首を振る。
最後に、一縷の望みをかけて事務所を案内する。
彼女は部屋全体をぐるりと見まわして、それからわたしを見た。
申し訳なさそうに首を振る。
「すみません」
「いいの、気にしないで?」
そんなに都合良くいく筈もない。そう思いながら、弱々しく笑う。
同じ彼女の声だというのに、こんなにも違って聞こえるのはどうしてだろう。
医師が言うには、どうやら倒れこんだ際に頭をぶつけたのが原因で、彼女は一時的に記憶を失っている状態に陥っているようだった。
脳が混乱を起こしているだけで、日常生活に支障はないらしく、普段過ごしているところで暫く過ごせば、すぐにでも思い出すことは十分に考えられるとのことだった。
「身体は、まだ痛むよね」
そう尋ねると、彼女は遠慮がちに首肯する。
無理を強い続けた身体が本調子を取り戻すのは、まだ先のことだろう。
「あなたが記憶を失ってしまっているというのは、わかる?」
ガラスのテーブルを挟んで、向かい合う形でソファに座っている。
ティーバッグの紅茶をテーブルに置くと、彼女が微かに会釈をした。
彼女が、壁にかけられたカレンダーに目線を向ける。
「……なんとなく、ですけど」
不安げな声が返ってきた。
わたしだって同じような目に遭ったなら混乱しきってしまう。
こうして受け答えできるだけでも、よく頑張っている方なのだ。
「自分が誰なのかは、わかるよね」
「安部、菜々です」
彼女はカップのあたりを見つめながら、茫洋と答える。
まるでオーディションの再現をしているようだった。
「自分の年齢は? 今のあなたは幾つなのか、覚えてる?」
彼女は暫く逡巡した。何度も自分の内で確かめているようだった。
「……十七歳、です」
嘘をついているようには見えなかった。
俯いた顔に、影がかかる。
本当は心細くてたまらないのだろう。
無理もない、今の彼女はまだ十七歳なのだ。
気が付けば自分だけを取り残して、何年も時間が経過しているのだから、不安に感じて当然のことだった。
それこそ、惑星にたった一人で降り立った、違う星の住人のように。
だからこそわたしは、彼女を支えなければならない。
それが、今のわたしにできることだった。
「あなたはどうやら、ここ数年のことを忘れてしまっているみたい」
「あなたにとってここは、数年後の未来ってことになるのかな」
「……あんまし、実感はないですけど」
「ね。わたしも、せいぜい携帯電話のデザインが変わるくらいだと思う」
そう言うと、はじめて彼女が、小さく笑った。
「あなたからすれば、わからないことだらけで不安なことも多いと思う」
「だから、わたしがそばについているから、困ったことはなんでも言ってね」
怯えきった様子の彼女に、少しでも落ち着いて貰いたかった。
息をつける場所を作ってあげたかった。
カップを少しだけ傾けて、彼女は控えめに頷いた。
「あの、あなたは、その、どうして私によくしてくれるんですか」
上目遣いに彼女がわたしを見つめている。当然の質問だった。
「ああそうだ、肝心なことを説明してなかった。わたしはあなたの同僚なの」
「同僚、ですか」
「信じられないかもしれないけど、今のあなたは超売れっ子のアイドルなんだよ」
とっておきの秘密を教えるように言うと、明らかに彼女の表情が変わった。
「アイドルにっ?」
彼女が身を乗り出してくる。心なしか瞳がきらきらしていた。
「うん。それで、わたしはあなたの担当をしているの」
「本当の本当に、アイドルなんですか?」
念を押すように尋ねてくる彼女に、わたしは頷いてみせる。
再びソファに腰を下ろした彼女は、しかし先ほどまでとは様子が違っていた。
「そっか」
小さな声。
「アイドル、なれてるんだ」
くすぐったそうな、優しい声。
「あの、」
「うん?」
「そうすると、あれですか……ライブとかにも出てたりするんですか?」
「そりゃあ、アイドルだもの」
「そ、そうですよね、アイドルですもんね」
自分でそう言いながら照れくさくなったのか、頬が赤くなっている。
「……えと」
手が落ち着かないようで頻りに髪を触りながら、おずおずと尋ねてきた。
「もしよかったらでいいんですけど、その」
「観たい?」
「え?」
「あなたのライブ映像」
そう尋ねると、彼女は小さく頷いた。
彼女の中にはもう既に、ウサミン星は存在しているのだろうか。
なかったとすれば、それは彼女の目にはどのように映るのだろうか。
そんなことを考えないこともなかったけど、彼女に観せることに躊躇いはなかった。
彼女を連れて資料室へと向かう。
学校の教室くらいの大きさの部屋の中には、所狭しとアイドル関連の資料が詰まっている。
過去に取り扱った仕事をファイリングしたものや、タレント名鑑など、その手のファンが見れば垂涎もののお宝が眠っている。
この部屋は今の彼女にとっても天国のような空間らしく、活き活きとした表情を浮かべて辺りを見回している。
こうしていると、記憶なんてなくしていないように見えるのに。
そこから先のことは考えないようにした。
部屋の一角には、膨大な量のメディアが収納されている。
彼女のライブ映像もその中にあった。
数ある彼女のライブの中でも、飛びぬけてお気に入りのものを選ぶ。
再生機にディスクを挿入して、映像確認用のディスプレイの電源を点ける。
準備が終わって、彼女を呼ぼうと振り返ると、すぐそこに彼女は控えていた。
わたしが頷くと、彼女も一つ頷いた。
再生ボタンを押す。
舞台が明転する。
スモークが焚かれ、軽快なファンファーレが鳴り響き、スポットライトが主演を求めて彷徨い、辿り着く。
せりあがるステージから、アイドルが現れた。
ステージを囲う大人数のファン達の、割れんばかりの歓声が聞こえる。
曲が始まるまでの短い間も、彼女は軽快に話し続けた。
時に面白おかしく、時に夢を語るように。
満を持してイントロがかかる。
その場にいた誰もが、当たり前のようにコールを叫んでいた。
液晶の中で、彼女はのびやかに歌う。
ファンにコールを飛ばし、終盤には少し息切れ気味になりながら。
笑う、踊る、輝くアイドルの姿がそこにある。
曲が終わり、映像を止める。
「これが、アイドルのあなた」
機材を片付けながら、彼女に声をかける。
だけど彼女からの返事は返ってこなかった。
彼女の横顔をそっと窺う。
彼女の目は尚も、画面に釘付けにされたままだった。
「これが、私ですか」
ぽつりと零れるその声が震えていた。
「ねえ」
事務所に戻ったわたし達は、またソファに腰かける。
「アイドル、好き?」
まだ僅かに頬を上気させながら、彼女は頷いた。
「良かった」
「わたしも好き」
わたしが微笑むと、彼女も同じように微笑んだ。
本心から、彼女には笑顔でいてほしい。
それだけを思った。
「あなたは、本当にすごいアイドルなの」
きらきらしていて、みんなから愛されていて。
気配りが上手で、人一倍アイドルのことが大好きで。
「二か月後にうちのプロダクションが全国ライブツアーを開催するんだけど」
「それに出演することになっていたくらい。それも、最終公演に」
「全国、ライブツアー、ですか」
言葉の規模が大きすぎたのか、呆けたように彼女が繰り返す。
「そんなものに、出演することになっていた、くらい、」
あれ、という声。
自分が口にした言葉に、自分で躓いている。
すぐに彼女の表情が青ざめる。
アイドルの安部菜々が急病のため、当面の仕事に出演しないことが決定したという事務所側の発表は、瞬く間に広まった。
ツアーの出演を辞退したことも。
同じプロダクションのアイドル達や関係者にも、彼女の抱えている事情は伝えられた。
公演をキャンセルしたことを非難する声はあった。
しかし、彼女のファンサイトは、それを上回って彼女の身を案じる声で溢れていた。
「また今度の機会まで、ツアーは取っておこうかって話になったの」
笑顔を作りながら答える。
言い方に注意を払いながら、慎重に言葉を選んだ。
「ちょっと忙しくて、疲れがたまってたからね」
それでも、彼女の表情は沈み込んでしまう。
「……あの」
「ごめんなさい」
「大事な時期なのに、こんなことになってしまって」
「……たくさん、ご迷惑をお掛けしてしまって」
そう言って彼女は、また俯いてしまった。
本当は、わたしの方があなたに謝らなければいけないのに。
「あなたに責めたいから言ったわけじゃないよ」
「ただあなたが、みんなから愛される素敵なアイドルだってことを伝えたかっただけ」
「……素敵な、アイドル」
彼女が不安げに顔を上げる。叱られるのを待つ子供のように。
「ライブなんて、いつでもできるの」
「どこでだってできる」
「でも、あなたというアイドルは、あなたにしかできない」
「当たり前のことのように聞こえるかもしれないけど、それってすごいことなの」
彼女の小さな頭を撫でる。
「あなたの身体が一番大切だから、今はゆっくり休憩しよう?」
本当は、あの時にこう言うべきだったのだ。
「菜々ちゃん」
まだ少し躊躇う気持ちはあったけれど、呼び慣れた名前を口にする。
「え?」
彼女は目を丸くしていた。
「あ、は、はい」
「ごめんね、呼ばれ慣れてない?」
驚く仕草まで可愛げがあって、思わず笑ってしまう。
「慣れてないですね」
彼女もどこか、照れたように笑う。
「いや?」
「いやなんかじゃないです」
「たとえあなたが自分のことを忘れてしまっても、」
「わたしにとってあなたは、菜々ちゃんだから」
「記憶が戻るまで、ううん、戻ってからも、わたしがそばで支える」
それは約束だった。
わたしから、わたしに対する。
それから彼女は、事務所に通うようになった。
少しでも早く記憶が戻るようにと、意気込んでいるようだった。
なにかにつけて、お茶を淹れてくれたり、掃除をしてくれたりと世話を焼いてくれた。
記憶を失ったところで、彼女はいたって相変わらずだった。
彼女の元には、たくさんのアイドルが詰め寄った。
混乱してしまうから、むやみに話しかけすぎないように言っておいたのに。
彼女が疲れてしまわないかが心配だった。
彼女の笑顔を見て、すぐにそれは杞憂だったことに気付く。
みんな一様に、彼女に対して自己紹介をしていた。
各々が自分の名前を教えて、好きなものの話や最近あったいいことなんかを話した。
彼女はそれを一言も聞き漏らさないように、努めた。
彼女の周りにはいつも誰かがいた。
迷子の兎が、寂しくなることのないように。
夜になって、アイドル達が帰ってしまった後、わたしと彼女は二人して資料室に閉じ籠り、彼女のライブ映像を観続けた。
どうしても観たいと言って、彼女が聞かなかった。
わたしの方も、長らく観返していなかった映像がいっぱいあった。
夜になると毎日二、三曲だけ観るようになった。
映像を流しながら、過去を懐かしむ。
「ここの振り付け、二人で考えたっけ」
「そうだったんですか?」
「うん、元のやつが曲のイメージに合わなかったから。でも、すっごく悩んだ覚えがある」
「……あてましょうか。この本番の振り付け、Pさんが思いついたんじゃないですか?」
「あれ、どうしてわかったの?」
「なんとなく、私だったら思いつかないだろうなって思ったからです」
得意げに彼女が笑ってみせた。
「なにそれ」
つられて、笑顔になる。
わたし達は夜を明かしながら、二人の間に零れ落ちてしまったなにかを探していた。
「ウサミン星って、どこにあるのかな」
事務所からの帰り道、わたしは夜空を見上げながら、そんなことを口にした。
「もう、いきなりなにを言い出すんですか」
隣りを歩く彼女が恥ずかしそうにして、わたしを非難する。
「なんとなく気になっただけ。ねえ、菜々ちゃん覚えてない?」
こともなげにそう返す。
「ウサミン星の場所は、誰にも言っちゃいけないんですから!」
「ってことは、ウサミン星がどこに浮かんでるのかは思い出したの?」
「それも秘密です!」
二人して、星の数を数えながら歩く。
そのどれかに、彼女の故郷がある。
「……あの日、あなたがウサミン星から会いにきてくれなかったら、どうなってたんだろう」
何気ない会話の隙間にそう言うと、彼女は楽観的に答えた。
「私は、きっとそれでも後々になって、どこかで会うんじゃないかなって思います」
「そうかな?」
「私達がそうだったみたいに」
彼女を見ると、柔らかい笑顔が浮かんでいる。
それからわたしは、なにかを言おうと口を開いて、でも一言も話せなかった。
矢のように時間は流れる。
どう過ごしたところで、同じ速さで時間が流れるというのは嘘だと思う。
二か月なんて、たった一度のため息の間に経ってしまうほど早く感じられた。
日を追うごとに、嫌が応にも忙しさが増す。
それはそうだ。
最終公演が、すぐそこまで迫っているのだから。
ついに彼女は、記憶を取り戻すことがないままだった。
公演当日は、朝から大忙しだった。
一つ対応に追われれば、二つ三つとすぐに現れる。
どれだけ事前に準備をしたところで、必ず綻びは生まれてしまうものだ。
それでも後衛の忙しさなんて、本番を迎えたアイドル達に比べればなんでもなかった。
プロダクションのすぐ裏手にあるドームで、公演は開かれる。
陽の沈む頃に開演というスケジュールではあるものの、アイドル達はその数十分前に一度、プロダクションの前で公開生放送を行う予定があった。
ツアーに参加できないファンのために、その一端だけでも味わってもらうための企画だった。
放送が始まる頃になって、漸く一息つけるようになった。
今、事務所にはわたししかいない。
自分のデスクに突っ伏しながら、テレビ中継の繋がっているディスプレイを眺める。
特設のスタジオが映されていて、その後ろには通い慣れた自分の会社が、そびえ立っている。
大勢のファンが詰めかけていた。
ああ、と心の中で息が漏れる。
叶うなら、彼女にこの舞台に立ってほしかった。
ただ、それだけだった。
今になっても、まだそんなことばかり考えてしまう自分のことが少しだけ嫌になる。
そういえば、彼女は今どこにいるのだろう。
ぼんやりと考える。たしか、お昼頃までは一緒に仕事の手伝いをしてくれていた筈なのに。
いつの間にか、どこかへ行ってしまった。
まだどこかで誰かの仕事を手伝っているのだろうか。
きっとそうだろうと思った。
困っている人を、苦しんでいる人を、彼女が見過ごす筈がない。
それが、安部菜々というアイドルだった。
『だけど、うまくいくように支えます』
『わたしを信じてください』
『あなたはきっと、誰よりも輝ける』
彼女と出会った日に言った言葉を思い出す。
彼女の輝く姿が見たかった。
ふとディスプレイが騒がしくなる。
公演に出演するアイドル達が、ステージに上がり始めたのだ。
きらびやかな衣装を身にまとい、美しいメイクを施して。
そうそうたる顔ぶれだった。
だけど、それにしては歓声の様子がおかしい。
幾ら経っても、声が収まらない。
それにどうしてだか、観客の声から、
「ウサミン」という言葉が聞こえる。
それも一人じゃなく、何人もが叫んでいる。
よろけるようにデスクを離れ、ディスプレイに縋る。
そんな筈はない。
信じられない。
――彼女がそこに、立っていた。
ピンクの、要所にフリルのしつらえられたメイド服を着て。
リボンの添えられた、大きな兎の耳を頭に乗せて。
歓声は、鳴りやまない。
液晶の向こう側で彼女は、わかりやすく緊張していた。
画面越しにわかるのだから、きっと実際に彼女を目の当たりにしている人は、もっとわかるだろう。
何事もなかったように、生放送は回り続ける。
他のアイドルがトークを回していく。
今日のライブのことについて、めいめいの心境について。
たった一本のステージマイクを繋いでいく。
その間、彼女は一言も話さない。
ただその場に立ち竦んで、ファン達の姿を眺めている。
そして最後に、彼女にバトンが渡される。
「んん、あー、あー、みなさん、こんにちは」
「今まで長いことお仕事できなくて、ごめんなさい」
最初に、彼女は深く頭を下げた。
それからゆっくりと頭を上げて、力強く言い放つ。
「ナナは、帰ってきました」
二か月ぶりの彼女の声に、姿に、ファンが沸き立つ。
笑顔が堅いし、声だって震えている。
これだけの人数を前にして話すというのは、今の彼女にとっては、はじめてのことなのだろう。
それでも彼女は、決定的なまでに、彼女だった。
「ナナ、ちょっと調子を崩しちゃって、暫くウサミン星でお休みを頂いてました」
「まだ本調子じゃないですが、今日だけは、このステージだけでも、みなさんに会いたくて、」
彼女の表情がぐっと変わる。
鮮やかに色付く。
彼女が夕暮れの空を指さす。
「スペースパワーで、ウサミンワープ! してきちゃいました!」
「星の海を越えて!」
その瞬間、彼女の言葉と共に、ひときわ強い風が吹いた。
ざあっという響きが、耳に残る。
その場にいた誰もが、天を仰いでいた。
遥か彼方、気の遠くなるような先の小さな星に、思いを馳せて。
その瞬間、彼女の言葉と共に、ひときわ強い風が吹いた。
ざあっという響きが、耳に残る。
その場にいた誰もが、天を仰いでいた。
遥か彼方、気の遠くなるような先の小さな星に、思いを馳せて。
>>97
同じレスが重なりました。無視してください。
「……お休みして、少しだけアイドルから離れていた間、ずっと考えていたんです」
「どうしてナナはアイドルを目指したのかなって」
にへ、と彼女が笑う。
「やっぱり、好きだからなんですよね。アイドルが。ふふ」
「みなさんは、アイドル、好きですかー? 好きな人は手を挙げてくださーいっ!」
彼女のその声に、一斉に手が上がる。
ファンだけでなく、同じステージに控えていたアイドル達も、そして彼女自身でさえ。
一人ひとりが星を掴むように。
こんなに美しい景色があるだろうか。
それから彼女は再び、愛らしく頭を下げた。
「ごめんなさい。まだもう少しだけ、ナナはお休みをいただきます」
「だけど、絶対にすぐに帰ってきます、またステージに立ちます」
「だって私は、アイドルだから」
「ありがとう、ございました」
その時ファンの内の誰かが、あのコールを叫んだ。
最初は、たった一人の声だった。
それがワンコールごとに、コールを叫ぶ人数が増えていく。
声が重なっていく。想いが重なっていく。
ミミミン、ミミミン、ウーサミン。
どうにも発露しようのない感情から、わたしは泣いてしまっている。
熱い雫が、てんてんと床に落ちる。
正真正銘のアイドルが、そこにはいた。その事実が嬉しくてたまらない。
きらきらに輝くその姿が、まぶしい。
拭ってもそのあとから涙が、とめどなく溢れてくる。
公演が始まって暫くして、衣装姿の彼女が事務所に帰ってきた。
「……」
わたしの存在に気付いた彼女は、扉のそばに立ったままこちらを見ている。
「遅かったじゃない」
「テレビ、観てたよ」
そう言ってわたしは、彼女に手招きをする。
いつかのように、向かい合ってソファに座る。
沈黙に耐えられなくなったのか、彼女が頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「勝手なことして、ごめんなさい」
「記憶が戻るまでファンのみなさんの前に出ちゃいけないのに、出てしまってごめんなさい」
頭を下げたまま、彼女が謝り続ける。
差し出されたその頭を、丁寧にセットされた彼女の髪を、少しだけぐちゃぐちゃにする。
「ほんと、反省してね」
「……はい」
「菜々ちゃんってば、ライブの前にあんなに盛り上げちゃ駄目じゃない」
「え?」
「それに最後の方は良かったけど、最初は緊張してたよね」
「もう少し、後半みたいな感じを最初から出せてれば、ああいや、でもそしたらもっと盛り上がっちゃってたかな」
まだ呆気に取られている彼女に笑いかける。
今わたしは彼女に、一番言いたかったことを、伝えたい。
どんな陳腐な言葉にしかならなくたって。
「お疲れさま。よく頑張ったね」
「最高のステージを、ありがとう」
「で、でも私、Pさんに内緒で勝手にステージに出ちゃって、」
「そんなこと気にしなくたっていいよ」
「出てみたかったんでしょ? ステージに」
「……はい」
わたしの目をまっすぐ見て、彼女は頷いた。
「どうだった? ステージは」
そう尋ねると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
随分とアイドルらしい顔付きになっている。
「すっごく、すーっごく、楽しかったです」
「目に映るものがすべてきらきら光っていて、」
「なんというか、世界が鮮やかに見えたような気がして、」
胸がいっぱいになりながら、彼女が思いの丈を語ってくれる。
昔、同じようなことを彼女から聞いたことがあるような気がする。
わたしは、心からアイドルを楽しんでいる彼女を見るのが好きだった。
「Pさん」
「うん?」
「ありがとうございます」
「記憶を失って、不安で仕方なかった私に、手を差し伸べてくれて」
「なにも思い出せないままでいる私を、受け入れてくれて」
「Pさんがいてくれなかったら、きっとあたしは心が挫けていました」
「わたしは、あなたが思うほどの人間じゃないよ?」
首を振って、笑う。
感謝されるようなことは、なにもしていない。
わたしはただ、自分にできることをしただけだから。
「ううん、そんなことありません」
「Pさんがもう一度、私をアイドルとして蘇らせてくれたんです」
担当冥利に尽きる言葉だった。
「……わたしは、当然のことをしただけだよ」
少しでも彼女を支えになれたのなら、誰に称えられなくたって、なにも得られなかったとして、それで十分だった。
それでも本当のところは、彼女に支えられるばかりだった。
夢にまで見たステージも、届けてもらったし。
「Pさん」
「Pさんにとって、私はどんな存在ですか?」
そうだね、と言って考え込む。
言葉は素直に出てきた。
「ただ一人の、かけがえのないアイドルだよ」
わたしの中にあるこの気持ちを、そっくりそのまま彼女に伝えたい。
「努力家で、他人想いで、とびっきり素敵なアイドル」
「この世界で、いや、この宇宙で一番、」
「あなたが、誰よりも輝いているもの」
輝く。
わたしのその言葉を耳にした途端、彼女は目を見開いた。
「あ……ああ、」
驚いたような表情。
そんな彼女の目元に、涙の粒が込み上げている。
それが、柔らかそうな彼女の頬を伝っては、落ちていく。
「……P、さん」
「……ナナ、ナナは、」
彼女の声がわなないている。
まさか、と思う。
信じられない心持ちだった。
「……ただいま、帰って、きました!」
星の海を越えて、彼女が帰ってきた。
以上になります。
彼女の果てしない輝きが、みなさんにも届きますように。
読んでくださって、ありがとうございました。
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