凛「嵐のなかの」花陽「恋だから」 (115)
むかしあるところに、鎧兜に身を包み、傭兵稼業を頑張るひとりの少女がおりました。
彼女は女の身でありながら、高い身体能力を活かし、戦時中の激動の世にもかかわらず、
多くの戦果を挙げ続けました。
―――ひとえに彼女の強さの源は。
いつも信じて支えていてくれる、ひとりの町娘の存在が大きかったゆえでしょう。
傭兵の名は凛。町娘の名は花陽。
二人は選んだ道こそ違いましたが、幼い頃からいつも一緒。
昔から花陽を守りたいと考え、運動することが大好きだった凛は。
血を見ることこそ好きではありませんでしたが、それでも花陽のために。
そう考え、周りの屈強な男たちに負けない強さを身につけました。
昔から凛の陰に隠れつつ、人にやさしくすることが好きだった花陽は。
守られてばかりの自分ではなく、少しでも凛のためになろうと。
そう考え、常に凛の身の回りの世話をし、留守を預かりともに暮らすようになりました。
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そんな二人は―――幼馴染で、親友で、いつしか恋人になっていた二人は。
禁断の恋と知りつつも、時間があれば互いを求めずには、いられなくなっていました。
「かよちん、それじゃあ今日も―――行ってくるにゃ」
「うん……気を付けて」
目を伏せながら、手作りの弁当を手渡す花陽。
彼女がこれから向かうところは。
街中の、気軽に会いに行ける工場ではない。王宮の、高貴な人々だけが入れる安全な部屋の中ではない。
彼女がこれから向かうのは、戦場なのだ。依頼を受け、雇われて。敵と命のやり取りをする。
もう何度も彼女の背中を見送ってきたはずなのに。もう何度も彼女はここに戻ってきてくれたはずなのに。
―――それでも。これが今生の別れになるかもしれないと思うと。私は……。
そんな花陽の陰った表情を見かねて、凛がばしっと彼女の肩を叩きます。
「~~っ!?い、痛いよお、凛ちゃん!」
「もー、かよちんにそんな顔されたら、凛だって気持ちよく出発できないじゃん!」
「そ、そうかもしれないけど、でも、私……」
「なに?かよちんは、凛のこと信じられない?」
「う、ううん!そんなこと、絶対絶対、ないっ!」
「よしよし、それならいいの。いい、かよちん?二人で一緒に暮らすとき、最初に決めたでしょ?」
「凛は絶対、何があっても、ここに帰ってくるから。代わりにかよちんは、必ず二人のおうちを守って、って」
花陽の頭をよしよしと撫でながら、凛は言いました。
「……うん、そうだよね。ごめんね凛ちゃん」
私、信じて待ってるから。花陽はとびっきりの笑顔で、凛に向き直ります。
不意打ちを受け、かあっと凛の顔が真っ赤に染まりました。
「―――!っ、そうそう、かよちんは、そういう風に笑顔でいた方が、絶対にかわいいにゃ!」
「かっ、かわっ……!」
凛の必死のカウンターパンチ。花陽の方もすっかり赤面してしまいます。
そうして真っ赤になりながら、しばらく見つめ合っていた二人でしたが。
「―――そろそろ行くね、かよちん。かよちんのおにぎり楽しみにしながら頑張ってくる!」
「―――うん。とびっきり美味しくて、おっきいおにぎり作って待ってるね」
いってらっしゃい。笑顔で見送る花陽。
―――でも。彼女が出て行ったあとは。
不安を隠しきれない、曇った表情に―――戻ってしまいました。
―――
凛を送り出してから三日目の夜になりました。
もう慣れたものです。一度送り出したら、凛はそうそうすぐには帰っては来ない。いつものことでした。
戦いとはそういうもの。いつもいつでも日帰りで終わるほど、甘くはなかったのでした。
「―――うん。もう、慣れてるから」
だから、私は大丈夫。凛ちゃんは、必ず帰ってくるから。
そう自分に言い聞かせます。
震える手を押さえ、洗濯物を畳む花陽。
「……おかしいな、うまく畳めないや。いつもそう……凛ちゃんがいない間は、いつも」
畳んだはずの洗濯物はぐちゃぐちゃ。握ったはずのおにぎりはいびつに。
包丁で切ったはずの肉や野菜はうまく切れずに、代わりに花陽の指に傷をつけていました。
これでも、最近はマシになったほうなのです。凛が傭兵稼業をはじめ、毎日のように傷だらけで帰ってくるのを繰り返していた頃は、
そもそも家事をすることすらままなりませんでした。
―――しかし、マシになったといえども。家事が上手くできないことには変わりありません。
再び下手に包丁を握れば、重大な怪我に繋がるかもしれない。
それはわかっています。
でも、だけど。
「―――凛ちゃんが頑張ってるんだもん、私だって―――」
そうして、再び震える腕に鞭を打つのです。
そして、その日の深夜。
「ただいまー……」
ガチャリと扉が開きます。
「かよちーん……は、もう寝ちゃってるよねー……えへへ」
できれば、すぐにでもかよちんの顔が見たかったんだけど。起こすのも悪いし、仕方ないよね……。
そう思い、二階の自室に戻ろうとした時でした。
がばっ。
階段を上がりかけた凛の背中が、温かい感触に包まれました。
その感触はじわりと熱を伴って、背中の中心で広がります。
「うっ、ぐすっ、ひぐっ……凛ちゃん、おかえり、おかえり……」
「―――ただいま。寂しい思いさせちゃったね、かよちん」
……わかっていたはずだったけれど。
でも、こうしてかよちんが抱き着いてくると―――いつも凛は実感する。
ああ、こんなにも―――凛はかよちんを悲しませていたんだ、って。
「ん、ううん……いいの。私は―――大丈夫」
凛ちゃんが帰ってきてくれれば、それでいいの。
花陽はそう答えました。けれど。
―――大丈夫なわけない。その絆創膏だらけの指も、眼の下にくっきり映るクマも、凛が出ていくまではなかったものなのに。
言葉にはしません。ただ、ぎゅっと。
花陽のほうに向き直り、謝罪と感謝と―――同情を込めた抱擁を。
「―――ねえ、凛ちゃん」
「なあに?かよちん」
「ごめんね、疲れて帰ってきてるのに……でも、私―――」
ずっと寂しかったんだ。
火照った顔と、濡れた瞳の上目遣いで。恥ずかしそうに花陽は言います。
どきり。凛はいつも、花陽のこの誘惑に打ち勝てません。
かよちんのおにぎりが食べたいにゃーとか、お風呂に漬かってゆっくりしたいにゃーとか、今日はベッドでぐっすり寝たいにゃーとか。
いろいろと呑気なことを考えていた凛の頭の中は、全部吹っ飛んで真っ白になりました。
「……お、お手柔らかにお願いします」
その日は二人、朝まで愛し合いました。
―――
それから数日が経ちました。
今日は凛も花陽も、どこに出かける予定もなく。
久々に、二人で自由を満喫できる休日でした。
彼女たちのデート先は、もう決まっていました。
「おっきな劇場……凛、こんなの見るのはじめてにゃー……」
「ふふ、だろうと思った♪ここでやる演劇、すっごく面白いから凛ちゃんにも見てもらおうと思って」
「見る見る!凛、演劇なんて見るのもはじめて……あれ、昔見たことあったんだっけ?あれ……どうだったかなあ??」
「ふふ、凛ちゃんったら可笑しい……!」
手をつないで劇場に入っていく二人。
席についてもなお、中のホールの大きさに、じっとしていられない凛。
「すごい!天井あんなに高いの!?どうやって作ったんだにゃ!?」
「り、凛ちゃん、静かに……」
「席も見渡す限りいーっぱい、あっちのほうまであるよー!?すっごーいっ!」
「り、凛ちゃんってばー!」
凛がひとしきり騒ぎ終える頃、開演ブザーが鳴り、劇が始まりました。
二人が見に来たのはミュージカル。歌と踊りの融合したパフォーマンス。
「すごいねえ凛ちゃん……みんな、歌も踊りもすっごく上手で……」
「…………」
「……凛ちゃん?」
寝ちゃったのかな?そう思いながら凛の横顔を覗き込むと。
「……かよちん、すごいね……衣装も綺麗で、すっごくかわいくて……」
「歌も踊りも……こんなに人を魅了するものだったなんて……凛、全然知らなかった……」
キラキラと輝く、凛の瞳。
「……!」
「うん……気に入ってもらえて、よかった……!」
舞台は盛大な拍手と共に幕を閉じました。
―――
「かよちーん、これとかどう?」
「ええっ、こんなキラキラしてるの、私には似合わないよお……」
劇場を後にした二人は、宝石店へとやってきていました。
「えー、絶対似合うって!ほらほら、着けてみるだけでも!」
「うわっ、ちょっ、凛ちゃん……っ、っあ」
無理やり首にペンダントを着けられてしまう花陽。
ふと、近くの姿見を覗いてみると。
「――――――あ」
宝石そのものの輝きに呑まれたせいか。あるいは―――。
花陽は鏡に映った自身の美しさに、息を呑みました。
「ほら言ったじゃん!かよちんは緑色の宝石が絶対似合うって、凛思ったもん!」
「で、でも、私なんかがこんな……」
「何言ってるの!かよちんはすっごくすっごくかわいいんだから、遠慮しちゃだめだよ!」
「そ、そう、かなあ……」
「絶対そう!エメラルドのペンダント、凛からかよちんにプレゼント!」
「え、ええっ!?だ、だめだよ凛ちゃん、こんな高そうなの……」
「いいのいいの!せっかく二人で久々のデートなんだもん、奮発しなくてどうするの!」
「いつもかよちんには寂しくて大変な思いさせちゃってるから……凛からのお詫びと、普段のお礼!」
「……えっと、その……いつもこんな凛の帰りを待っててくれて……本当にありがとうね、かよちん!」
「……凛、ちゃん……!ぐすっ」
「ちょっ、ちょちょちょっ!な、なんで泣くの!?い、嫌だった!?ペンダント」
「う、ううん……違うの……嬉しくて……」
「で、でも……ほんとにいいの?私、なんにもお返しできないのに……」
「お返しなんていらないよ、そもそも凛がかよちんにお返ししてるんだから!」
「そのまま受け取ってもらえれば、それでいいんだよ!」
「―――うん、わかった。ありがとう、凛ちゃん」
「えへへ……」
宝石店を後にする二人。
ですが、まだ彼女たちは知りませんでした。
このデートが、二人にとって最後のデートだったことを。
―――
それからひと月ほど経ったある日のこと。
「えっ―――」
―――嘘、だよね。
嘘だって、言ってよ、凛ちゃん。
激情に任せて、そう言いたかった。掴みかかって、真偽を問いたかった。
でも、踏みとどまった。到底、そんなこと―――私が言えるような状況じゃなかった。
だって―――それを告げた凛ちゃんが。一番辛そうで、一番苦しそうな顔をしていたから。
きっと、ずっと―――私のためを思って。言うべきか言わざるべきか、逡巡していたんだと思う。
いつから決まっていたことなのか。どれほど悩んでいたことなのか。
それは―――聞かなくていい。ううん、聞きたくなかった。聞く必要もない。
だから、私は。事実を受け入れようとして。
「―――もう帰ってこられないって、本当なの」
凛ちゃんにとって、告げるだけでも苦しい言葉を―――聞き返してしまった。
「……うん。今まででいちばん長い遠征。行く途中だって安全じゃないし、無事に目的地にたどり着けたとしても―――」
そこは他所の国の領地。戦うべき敵の本拠地。
私には詳しい事情も、政略的なことも何もわからないけれど。
とにかく危険なんだって―――それだけは、はっきりとわかる。
凛ちゃんの表情は今まで見たこともないくらい暗くて―――見たこともないくらい真剣だった。
その仄暗い表情は、まるで凛が別人になったように―――花陽にとっては感じられて。
決して口には出せないけれど。
ああ、ああこれが―――戦い、人を殺してきた者の眼光なのかと。
花陽は一人、深く気分が沈んでいきました。
「…………」
「…………」
二人の間には、重い沈黙が流れます。
花陽の前では決して見せなかった、傭兵としての一面を、もはや隠し切れないほど余裕を失った凛。
凛に突き付けられた残酷な現実と、見たくはなかった彼女の表情とを見てしまい動揺している花陽。
じわじわと、二人の間に溝ができていく―――。
そんな直感が二人を呑み込むと。
「あ、あのっ!」
「あのね、かよちんっ!」
二人は同時に、反射的に。互いを呼び止めようと、声をあげていました。
「あ―――えと。り、凛ちゃん、お先にどうぞ?」
「う、ううん!言いたいことがあるなら、かよちんから先に!」
「……言いたいこと―――。」
言いたいことならいっぱいあるけれど。
でも、今声をかけたのは、そうじゃなくて。
「―――なんでもないことなんだ。だけどね……なんだか、一瞬、凛ちゃんが遠くに行っちゃうような気がして」
あ、でも、これから本当に遠くに行っちゃうんだよね……。
頭の奥ではそう思ったけど、それは言わないことにした。
「あ……かよちんも?凛もね……なんか、二人の間に、壁ができちゃって、このまま戻れないような気がしたから―――だから、咄嗟に」
「……そっか。一緒だね、私たち」
「あ……うん。そうだね、一緒だよねっ」
「ふふっ」
「ははっ、あははっ」
―――そうだ。別に、気負うことなんかないじゃないか。
いつも通りでいいんだ。
ただ。ただ、ちょっとだけ。いつもより遠くに遠征するだけ。
花陽は、いつも通り凛の帰りを。
凛は、いつも通り花陽の迎えを。
互いに互いを待っていれば―――それでいいんだ。
それだけで、いいんだ。
だから。
「―――ねえ、凛ちゃん。絶対、何があっても。必ず―――ここに帰ってきてね」
「信じてる」
にっこりと。凛の大好きな笑顔で、花陽が言うと。
「―――かよちんこそ。絶対、何があっても。必ず―――二人のおうちを守ってよね」
「約束だにゃ」
しっかりと。花陽の大好きな声で、凛が応えました。
出発は明日。二人でいられるのは、今日が最後。凛は花陽にそう言いました。
だから、最後の夜には。
「―――凛ちゃん、優しくしてね……?」
「う、うううう、うん……ま、まかせるにゃ……」
夜通し、愛を確かめ合って―――。
―――
翌朝。運命の日。
二人は馬車に乗って、街の外へ続く門に向かっていました。
「……ねえ、凛ちゃん」
「…………」
「…………」
今朝からずっと―――凛ちゃんはこう。
必要以上に私と話せば、未練が湧いてくる―――まるで、そう言っているみたいで。
私と、口をきいてくれない。
―――それでも。一つだけ、どうしても言いたくて。
「―――今ならまだ間に合うよ……ねえ、凛ちゃん」
「逃げだしちゃおうよ……ねえ、凛ちゃんってば……」
「…………」
縋るように、精いっぱい甘えるように、凛ちゃんの耳元で囁いたけれど。
―――だめだよ。そんなこと、できるわけない。
態度で示された。無駄だと、はっきり思い知らされた。
私とは違う。凛ちゃんは、とっくに覚悟を決めてたんだ。
昨日、たくさん好きだよって言い合って。
昨日、たくさん、お互いのまだ知らないことを教え合って。
昨日……たくさん泣き合って。
昨日―――凛ちゃんは不安を吐露してくれた。
本当は離れるのが怖い。逃げ出せるなら逃げ出したい。かよちんとお別れしたくない……って。
そう言って思いっきり甘えて、思いっきり泣きついてきたんだ。
だから私は、この弱弱しい凛ちゃんなら、説得できるかもって思っていたけれど。
実際は逆だったんだ。
凛ちゃんは、昨日思いっきり泣きわめいて、不安を全部置いてきちゃったんだ。
だからもう―――何も未練はない。そういうことなんだと思う。
「―――わかったよ、凛ちゃん」
じゃあせめて。せめて―――これを受け取って。
あるものを凛に差し出す花陽。
「……これは?」
「羽根ペン。私が小さかったころから、ずっとずっと大切にしてきたお守りだよ」
「なっ―――う、受け取れないよ、そんな大事なものなのに!」
「気にしないで受け取って、凛ちゃん」
「―――今の私には、これがあるから大丈夫なの」
しゃらん。
花陽の首には、いつか凛にもらった、エメラルドのペンダント。
「これがあれば―――私は凛ちゃんといつでも一緒だから」
「悲しむことなんてない」
「かよちん……」
「だから、凛ちゃんも。これを私だと思って―――頑張ってね」
「―――うん、ありがとう」
その会話を最後に。二人は言葉を交わすことはなくなりました。
街の外へ広がる門。その手前で、馬車が止まります。
「着いちゃったね……」
「…………」
門の手前には、多くの兵がずらずらと並んでいます。
遠征に向かう兵士たちは、凛以外は男性が殆どです。女性の兵は数えるほどしかいませんでした。
「―――それじゃあ、かよちん」
「―――うん。いってらっしゃい」
「……いってきます」
馬車から降りて、凛の背中を見送る花陽。
本当は納得なんかしていない。引き止めたくて仕方がない、けど。
だけど―――これが彼女の決意ならば。
私にできることは。彼女の帰りを―――信じて待つことだけ。
振り返らない凛。隊列の中に紛れ、その姿が消えていきます。
これが。これが、最後なのか。
ううん、そんなはずはない。彼女は、凛は……必ず帰ってくる。花陽はそう、信じている。心の底から。
―――なのに、どうして。
どうして……涙があふれてくるのか。
―――
出発の時刻。門の先へ、隊列が移動していきます。その中に。
―――見つけた。凛ちゃんの姿。
目と目が合います。
頷きで返す凛。声は聞こえない。けれど、花陽の耳には。
―――かよちん。必ず帰ってくるから。信じて待っていて。
そう聞こえたような気がしました。
「凛ちゃん―――!」
大声で呼びかけたい気持ちを、ぐっと抑え込みます。
だって、彼女の目にも。花陽と同じように、涙があふれていたから。
ここで呼びかければ、きっと―――。
だから。
目線一つで合図して。お互い笑顔を交わし合って。
最後まで。涙をこらえて、別れを告げました。
門の向こうに踏み出す凛。
門の手前で見送る花陽。
―――どうか、振り返らないで。
―――どうか、行くなら―――すぐに消えて。
じゃないと、私、もう―――。
たまらず視線を逸らす花陽。
凛が果たしてこちらを振り返ったのかどうか。それはもう、花陽にはわかりませんでした。
なにしろ、次に花陽が顔を上げた時は。
もう、街の門は―――固く、閉ざされていたのですから。
―――
それから、三か月が経ちました。
英雄の凱旋、と称して兵隊たちを送り出して以来、街の中でも、外でも。
何の音沙汰もありませんでした。
新聞を取って読んでみても、定期的に送られてくる戦死者の死体を見てみても。
凛の情報はまったく掴めませんでした。
でも。それはつまり、まだ凛は生きているということです。
どのくらい過酷でつらい状況かはわからない。どこで何をしているのかさえ、わからない。
だけど、それでも彼女はまだ生きている。どこかで必ず。
―――それなら、私も。信じて待っていなくちゃ。そう思える。
もう昔の花陽とは違います。
じっとしていても手は震えない。
洗濯物もきちんと畳めるし、料理だってちゃんとできます。
それは、いつもペンダントを持ち歩くようになったからでしょうか。
これがあれば、凛がいつでもそばにいる。そういう気持ちになれるのでした。
「……そうだ、そろそろ教会にお祈りに行かなくちゃ」
凛が遠征に出かけてから、彼女が毎日欠かさず行っている、教会への巡礼。
凛のために直接できることは―――残念ながら、今の花陽には何もない。
だから、せめて。祈るだけでも。
そんな願いから、毎日祈りをささげに、彼女はここへやってくるのです。
凛にもらったペンダントをぎゅっと握りしめ、教会の天井を仰いで。
花陽は心から、彼女の無事を祈るのでした―――。
―――
「にゃああああああああっ!!!」
一方の凛は、剣を片手に血しぶきを浴びて、並み居る敵をなぎ倒す日々。
数え切れないほどの敵兵の首を撥ね飛ばし、
数え切れないほどの量の返り血を浴び続けました。
もう洗っても洗っても血の匂いが取れないくらいに。
―――互いに疲弊し、長引く戦争。
味方の兵も、次々と倒れていきました。
見知った顔の、同期の兵も。
過去にお世話になった、先輩の兵も。
数少ない女性同士で、仲の良かった友人の兵も。
戦えば戦うほど、減っていくのでした。
―――それでも。
今対峙する敵を放っておけば。いずれ祖国に進軍し、もっと身近で大切な人たちが被害に遭うかもしれません。
雇われ傭兵のくせに、死に物狂いで戦ってるのは。
国に仕えてるわけでもないのに、戦いを拒まずにいられなかったのは。そのためだから。
「凛は……かよちんを、守るために―――!」
もうすっかり血の染み込んだ、赤い羽根ペンを懐に。
振り返らずに、剣を構えて。立ち向かっていきます。
「はああああああああああああああああっ!!」
―――
「―――よちん」
「―――かよちん」
「……ん、んん……?」
見渡す限り真っ白い空間。どこまでも広がる、空と大地。
……ここはいったい。
いや、それよりも。
「今の呼ぶ声……り、凛ちゃん!?」
「かよちん、こっちにおいで……」
「凛ちゃん……凛ちゃん!ずっと会いたかった……ずっと、ずっとっ!」
花陽を呼ぶ凛の声に応じて、駆けていきます。
でも。
どこまで行っても、彼女は遠ざかっていく。一向に距離は詰まりません。
「一目見ることができて―――それだけで、よかった」
「凛は、それだけで……幸せだよ」
「なっ……ま、待ってよ!それだけじゃ嫌!」
抱きしめてほしい。口づけをしてほしい。慰めてほしい。愛してほしい。
それなのに、どうして。
見つめ合うだけでいいなんて、そんなのって―――
そこまでして。花陽は目が覚めました。
「……夢……?」
夢の中だけでも凛と会えてよかったと見るべきか。
それとも、夢の中でしか会えないこの宿命を呪うべきか。
花陽の答えは決まっていました。
「…………」
花陽の目には、涙があふれて。
もう止まらなくなってしまって。
でもそれは決して―――悲しみから来る涙ではなく。
「いつになったら―――帰ってきてくれるの、凛ちゃん」
耐えかねた花陽の―――行き場のないやるせなさによるものでした。
―――
それから更に三か月。
凛と花陽が離れ離れになってから、実に半年が経った―――その日。
「……かよちん……」
凛は、鎧も兜も、露出した顔面も。
全身を真っ赤に血塗らせて、横たわっていました。
戦いの結果は、痛み分け。
味方が全滅してなお最後まで粘り続け、たった一人で敵を撤退に追い込んだ凛の功績によるものでした。
―――でも。それは、彼女の最後の輝き。
肩に、胸に、腰に、脚に、腕に。
全身あらゆる箇所に突き立てられた長剣が、戦いの凄まじさを物語っています。
凛は既に悟っていました。もう助からないことを。
ここから生きて帰ることは―――不可能だろうことを。
「―――ごめん、かよちん……凛、約束……守れなかった、みたい……」
からんからん。
真っ赤に滲んだ羽根ペンが、音を立てて転がり落ちました。
がくがくと震える手でそれをすくい、最後の力を振り絞って―――ぎゅっと握り。
いとおしそうにペンを見つめて―――
―――そのまま静かに。凛は事切れました。
―――
その翌日の話。
今日もいつも通り、教会で祈りをささげようと。
身支度を整え、出かけようとした花陽のもとに。
凶報が届きました。
「―――うそ」
凛の、死。
目の前に突き付けられた現実。
目を逸らしたくても、逸らせません。
事実を―――目の前の死体が。
真っ赤に濡れた、動かない凛の死体が。雄弁に語っているのですから。
「そん、な……どうし、て……」
約束したのに。信じていたのに。
必ず帰ってくるって。そう言っていたのに。
どうして……?いつも、いつも凛ちゃんは。
どんなに花陽が不安な時も、必ず帰ってきて―――慰めてくれたのに。
これが。これが、戦いというものか。
これが。死というものなのか。
もしも争う必要なんかない世の中だったら、こんな悲しみは背負わなくても済んだかもしれないのに。
たとえ自分で選んだ道だとしても。
凛ちゃんは、時代に殺された―――?
凛の形見のペンダントを握りながら。
花陽はやり場のない怒りと悲しみに、じわじわと苛まれていくのでした。
―――
「…………」
凛がいなくなって一週間。
意外なことに、花陽は普段とあまり変わらない様子で生活していました。
「花陽ちゃん、おはよー!」
「あ、穂乃果ちゃん。おはよう」
「今日もかわいいねえ、相変わらずほっぺたが柔らかそうで……ぷにぷにしたくなっちゃうねえ」
「や、やめてよお穂乃果ちゃん、あははっ」
この通り、花陽の生活はいつも通りなのでした。
―――そう、表面上は。
あくまでも花陽は気づいていないだけだったのです。
自身の中にぽっかり空いた、凛がいなくなった虚脱感に。
「…………」
洗濯物を畳むときも上の空。
「…………」
掃除をする時も、気が抜けて。
―――しまいには。
「……あれ?二人分作っちゃった、お昼ご飯」
「なんで?凛ちゃんは―――もういないのに」
「…………」
無意識にフタをしていた事実に、不意に触れてしまって。
急激に腹の底から、何か熱い激情が蘇って。
「―――っ、っぁぁぁぁああああああああっ!!!」
がっしゃあん。
二人分の食事は、大きく音を立てて床に叩き付けられてしまいました。
「っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「―――何してるの、私……食べ物、粗末にするなんて……」
「はあ、ダメだ……少し、落ち着かないと……」
その日は結局、食事は喉を通りませんでした。
―――
「ぅっ……ううっ、うっ、はあああああああっ……っ、あっ、っあ……―――っ!!」
がばり。
飛び起きるようにベッドから跳ね上がります。
―――まただ。凛ちゃんがいなくなってから、ずっとこう。
夜もまともに眠れたためしがありません。
いつもいつも、夢に見る。
あの日の光景を。
城下町から外へ続く門が開いて。
その先に―――凛ちゃんが、離れて行ってしまって。
そのままバタンと、大きな音を立てて―――二度と会えなくなる。
あの日の―――運命の分かれ目。
こんなにも後悔するのなら―――あの時止めておくべきだったのに。
凛ちゃんの反対を押し切ってでも、二人して逃げるべきだったのに。
「……どうして―――!」
自分が情けない。苦しい。悔しい。辛い。悲しい。惨い。酷い。みっともない。
もう―――頭がおかしくなりそうで。
どうすればいいのか―――私にはわからなくて。
いろいろな感情が、ないまぜに―――ぐちゃぐちゃになって。
私は、もう……。
「うっ、うぐっ、うっ……おえっ、げえっ、おえええええ……」
ろくに物も食べていないのに。
吐き気ばかりが強くなる。
―――
「凛ちゃん、凛ちゃん凛ちゃん、凛ちゃん、凛、ちゃん……っ、はあっ、はあっ……!!っあ、っ―――っ……あっ!!」
ある日の昼のこと。
花陽は、凛を求めるあまり―――欲求不満を抑えきれずに。
もう幾度となく、自身で自身を慰めるようになっていきました。
「はあ、はあ、はあ……っ」
「―――こんなところ、凛ちゃんに見られたら……いやらしい子だって思われちゃうのかな」
「でも、元はと言えば凛ちゃんがいけないんだよ……花陽を置いて行ったりするから……」
乱れた服装を整えながら、花陽は昔のことを思い出します。
引っ込み思案で、いつも臆病で、奥手だった花陽を。
凛はいつも引っ張ってくれました。
―――彼女は今でも鮮明に覚えています。まるで昨日のことのように。
幼き日、劇場で目にしたオペラの歌手に憧れて。自分もあんな風に、歌や踊りで誰かを魅了したい。
結局、叶うことはなかったけれど。それが彼女のかつての夢。
そんな小さな夢を成就させたいがために、町外れの小さな公園で歌の練習をしていると。
「綺麗な歌ー!凛にも聞かせて!」
そう言って、彼女は花陽の目の前に現れました。
戸惑い、恥ずかしがる花陽をよそに、ぐいぐいと近づいてくる凛。
そんな彼女の強引さが―――眩しくて。
いつの間にか―――なぜか、友達になっていました。
それだけでなく、まさか恋人同士になってしまうなんて―――果たして誰が予想できたでしょうか。
あれが、彼女との馴れ初め。凛と花陽の、運命の出会い。
同性同士の恋なんて、間違っているかもしれないけれど。
それでも、いつか必ず。二人は結ばれると、そう―――信じていたのに。
また涙があふれてきました。
もう何度目でしょう。とっくに慣れたはずなのに。
まだ―――まだ悲しみから抜け出せないのか。
とめどない涙は、拭っても拭っても―――溢れ出すことをやめませんでした。
―――
また別の日の話。
「かよちゃん、おはようー」
「……ああ、ことりちゃん……おはよう」
「かよちゃん……元気ないね、やっぱり凛ちゃんのこと―――」
「…………」
「……あ、ご、ごめんかよちゃん!その、私……!」
「……ううん、いいの……ことりちゃんは心配してくれただけだもん」
「悪いのは、私だから……」
「かよちゃ―――」
ことりは引き止めようか迷いました。
でも、ことりがこれ以上何を言っても―――おそらく彼女の心には届かないから。
つらい記憶を呼び起こすだけで、きっと何にもならないから。
だから、彼女はそれ以上声をかけることができませんでした。
家に戻った花陽。
すると……彼女は目を疑いました。
「―――凛、ちゃん?」
目の前に、屍ではなく。
かつて愛し合った、あの凛の姿が。確かにそこにあるではないですか。
「生きてた―――んだね、凛、ちゃん」
そうだ。凛ちゃんが死んでしまうなんて、そんなこと―――あるはずがない。
今までのことこそが。悪夢でしかなかったのだ。
凛ちゃんは確かにここにいる。ここに、こうして、生きて―――。
「……凛ちゃん?」
「…………」
「凛ちゃん―――どうして?どうして、何も言ってくれないの……」
凛ちゃん、凛ちゃん。
何度花陽が呼びかけても、彼女からの返答はありません。
「むぅ―――こうなったら」
不意打ちしてやる。目の前の凛をぎゅっと抱き寄せ、唇を奪ってしまおうと―――手を伸ばした時。
すっ、と。花陽の腕は、凛の身体をすり抜けていきました。
―――まるで蜃気楼のように。
「……え?」
動揺して目をごしごし擦って見ると。
もう辺りのどこにも、凛の姿はありませんでした。
「―――幻を、見てた、だけ……?」
花陽の目が翳ります。
―――こんな滑稽なことがあるものか。
私自身思っているよりも、よほどひどい精神状態じゃないか―――。
ふふっ、あはははは。
低く唸るような、掠れた声で笑います。
いいえ、嘲うというべきでしょうか。
ひひっ。あはは。いひっ、あははははは。ははっ、ひっ、ひひひひひ。
壊れたビデオテープみたいに。花陽の声は、にわかに狂気を孕んでいきます。
もういないんだ。とっくにわかっていたのに。
いつまで私はフタをして、逃げているんでしょう―――。
とうとう幻にまで見るようになってしまって。
もう帰ってこない彼女の姿を、私はいつまで待ちぼうけてればいいんだろう―――。
もう、疲れてしまった。
花陽は、疲れてしまったのです。
―――でも。それでも。
もう一度会えたなら、どんなに嬉しいだろうと―――。
未練も捨てきれないから。
だから、彼女は苦しむのです。
苦しみから―――逃れられないのです。
―――
「あら、花陽?久しぶりね、元気―――」
「…………」
―――そうには、到底見えないわね。
花陽とすれ違った彼女のの友人、にこは。
別人のようにほっそりとした花陽の身体。
はっきりと濃く現れた目の下のクマ。
虚ろにどこか遠くを見ている視線。
そのすべてに異常性を感じていました。
歩き方にも生気を感じない。まるで死人のような堕落ぶり。
誰が見ても、今の花陽は異常であると気が付くことでしょう。
「―――花陽?大丈夫……?どうして、こんなことに……」
「…………」
「花陽……花陽ってば……ちょっと、しっかりしなさいよっ!」
花陽の肩を掴んでがしがしと揺するにこ。
しかし、それでも。花陽はこちらに反応する素振りを見せません。
「もう、どうしたらこんなことになるわけ……!?いくら凛のことがショックだったからって、そんな……!」
―――凛?
生気を失っていた花陽は―――その名前に反応して。
「……凛ちゃん、凛ちゃんに……会いに行かなきゃ」
「ばか、どこに行こうっていうの!?あの子はもう―――いないのよ、どこにも!」
「―――凛ちゃん」
「花陽っ!」
「凛ちゃん、凛ちゃん、凛ちゃん……」
「花陽ってば、聞きなさいよ……!」
にこが花陽の腕をがっしり掴みます。
すると。
「―――離してよ」
「……離さない」
「ここで離したら……あんた、何するかわからないでしょ」
「―――いいから、離して」
「離さない」
「―――だったら……」
精いっぱい、掴まれた腕を振り回し抵抗する花陽。
負けじと花陽を抑え込もうとするにこ。
―――ですが。最終的に、花陽は自分ごと倒れ込んで。
「うぐっ……!」
にこに覆いかぶさる形で、拘束をほどきました。
「―――凛ちゃんっ……!」
「ま、待って、花陽……っ!」
にこの声は虚しく、花陽の胸には―――届きませんでした。
―――
思い出した。
凛ちゃんは。
凛ちゃんは―――時代に殺された。
ああ、そうだ。最初からわかっていたことじゃないか。
だったら。だったら、私がすべきだったことは。
凛ちゃんの死を嘆くことじゃない。
この腐った戦いの時代を―――修正すること―――!
もう、花陽には自我はありませんでした。
ただそこにあったのは、凛を失いたくなかったという―――悲痛な願いだけ。
ただそこにあったのは、凛を殺した戦争に対する―――抑えようのない憎しみだけ。
ここにいるのは、もう。
凛の愛した花陽では―――ありませんでした。
そして、同時に。
凛を愛した花陽でも―――なかったのです。
―――
その日の夜。一人の少女が、城に攻め入り、衛兵に射殺されました。
国同士の存在があるから、戦争もまた存在する―――と。
きっと彼女の思考は飛躍してしまったのでしょう。
やり場のない怒りが、彼女を暴走させました。
猟銃を手に取り、城内での無差別な発砲。
衛兵十数名が重傷を負い、城の内部にも甚大な被害が発生しました。
羽交い絞めにして止めようにも、暴れ回る彼女に容易に近づく手段は存在しなかった。
―――故に。彼女は撃ち殺されてしまった。
周囲の人々には、愉快犯か―――あるいは、精神異常ゆえの行動と断定されました。
革命の炎は彼女の中だけで燃え上がり―――そのまま。消えてしまったのでした。
―――
「―――ちゃん」
「―――凛ちゃん」
「……ん、んん……?」
見渡す限り真っ白い空間。どこまでも広がる、空と大地。
……ここはいったい。
いや、それよりも。
「今の呼ぶ声……かよちん?」
「凛ちゃん……やっと、会えたね」
「かよちん……そっか、かよちんも、こっちに―――」
「……今度は、夢じゃないんだよね?」
「そうだね……正確にいうと、二人とも夢みたいな存在に……なっちゃったんだと思うけど」
「―――いいの。いいんだよ、私は……もう、それでいい」
「凛ちゃんに―――やっと、やっと、会えて―――!」
抱きしめてほしい。口づけをしてほしい。慰めてほしい。愛してほしい。
それだけだったのに、どうして。
見つめ合うこともできなかったなんて、そんなのって―――
―――そんなのって、おかしい。
だから。これからは、もっとたくさん。二人で一緒に。
永遠の愛を―――。
「ねえ、かよちん」
「なあに、凛ちゃん」
「―――もし生まれ変われるなら。かよちんは、何を望む?」
「……決まってるよ、そんなの。私は―――」
歌と踊りを、自由に楽しめるような。
争いなんてない、平和な世界で。
また、凛ちゃんと、出会いたい―――。
―――
「かーよちん!一緒に部室まで行こうー?」
「うん!……ねえねえ凛ちゃん、私今朝ね、変な夢見たんだけど―――」
「変な夢?怖い夢でも見たのかにゃ?」
「うーんとね……私と凛ちゃんが、離れ離れになっちゃう夢―――」
「にゃにゃっ!?り、凛は嫌だよーそんなの!絶対絶対、かよちんとずーーーーーっと、一緒にスクールアイドルやっていたいっ!」
「……うん。私もだよ、凛ちゃん」
「心配しなくても、正夢になんてなったりしないよ、きっと」
「―――ほんとに?ほんとにほんと??」
「うん、ずっと一緒にいようね、凛ちゃん♪」
「かーよちーん!大好きにゃー♪」
―おしまい―
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