万里花を愛でるニセコイSS「ハナヨメ」 (35)

「なぁ、橘。お前ってその……ウエディングドレスとかに興味ってあるか?」
学校帰り。一条楽の唐突な問いに、橘万里花は一瞬思考が停止し、咄嗟に反応ができなかった。

「ら、楽様? すみません、今なんと……?」
「いや、だから、ウエディングドレスに興味はあるのか、って」

己の聞き違いではなかったことを確認し、万里花の瞳が輝きを帯びる。
まさか、楽様がこんなに突然に!

「こ、ここ、子供の名前は何にいたしましょう!?」
「ぶうっ!?」

階段を軽く三段は飛び越えた万里花の反応に、楽は自分の尋ね方がこの暴走少女にあらぬ妄想を抱かせてしまったことに気が付いた。
万里花は既に遠い目をして、よだれを垂らし始めている。

「そ、そうじゃなくてだな、バイトだよ、バイト」
「バイト……?」
空想の世界から帰ってきた万里花は、お上品にフリルのついた可愛いハンカチで口元のよだれを拭きながら尋ねる。

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「ああ、実はうちの組のものが最近できたばかりの結婚式場で働き始めてな……」

その組員はコワモテながら、ウエディング業界で仕事をするのが夢だったらしい。
どんな転職活動をしたのかは不明だが、念願叶って結婚式場の仕事に就いたその彼が楽に頼みごとをしてきたのだという。

オープンしたての式場をPRするため、挙式のイメージ写真を撮影してパンフレットを作りたいが、モデルを雇う予算がない。
そこで、楽とその知り合いの女の子にそのモデルを頼めないだろうかと、直々の依頼が楽の元に舞い込んで来たのだった。

「どうにかしろって上司からせっつかれてるらしくてさ。せっかく夢が叶ったわけだし、力になってやりたいと思って」
「ふふ、楽様らしいですわね」
困っている人を放っておけない彼の優しさ。自分はこういうところが好きなのだとあらためて確認し、万里花はじんわりと胸が暖かくなるのを感じていた。

「でも」

だからだろうか。
そんな彼に、少しだけイジワルな質問をしてみる気持ちになったのは。

「どうして楽様は私をお誘いになりましたの?」
「えっ!? そ、そそ、それはだな……」

予想通り、顔を赤くして慌てる楽。本当に可愛い人だと万里花は思う。

「こ、今回用意されたドレスのサイズがちょっと小さめらしくてな。身長が150cmぐらいが丁度いいらしいんだよ。だ、だからお前に……」
「あら、それなら宮本さんでもよろしいのでは? それに、小野寺さんの妹さんでも。そういえば彼女は文化祭のミスコンで着たウエディングドレスもすごくお似合いでしたし――」

万里花がちらと楽の様子を伺うと、真っ赤な顔で目を泳がせながら何か理由を捻り出そうとうんうん唸っている。
少しやり過ぎましたかしら。万里花が声をかけようと思ったその時。

「お、俺はさ、橘だったらすげえ似合うんじゃないかと、そう思ってだな……」
「!?」
思いがけぬ言葉に今度は万里花が沸騰する。

「だからその……ど、どうだ、手伝ってくれねえか?」
そっぽを向いて、照れながら。まるでデートの誘いのように。

「らっくんは時々そがん風にいきなり恥ずかしいことば言いよるけん……ずるいばい……」
万里花の小声での呟きは楽には聞こえない。

ふう、と深呼吸して気持ちを落ち着けると、万里花はとびきりの笑顔を浮かべて言った。
「楽様のためです、私、喜んで一肌脱がせていただきますわ!」

「まあ、素敵……!」

ずらりと並べられたウエディングドレスに万里花の瞳が輝く。いつも楽のことを見つめる時もキラキラと目を輝かせているが、それに負けずとも劣らない。
式場に着いてからというもの、万里花のテンションは天井知らずだった。

「今回着てもらいたいドレスはこれなんですがね」
楽に頼みごとをしてきた組員が、もう一人スタッフらしき女性とともに奥から一着のドレスを持ってきた。

純白のウエディングドレス。ふわりとした長いロングスカートはスタンダードなシルエットながら、その裾はまるで大輪の花の花びらのようなデザインになっている。
さらに胸元から腰、背中にかけて、無数の可憐な花のモチーフがあしらわれている。それはまさに、真っ白に輝く一つの花束のようだった。


「今回のために特別にデザインした新作のドレスでして」
「無数の花に包まれるように見えるでしょう? だから、FlowerVeil、という名前をつけたの」

あとを引き取るように説明をしてくれたのは、一緒にこのドレス運んできた女性だった。なんでもこのドレスをデザインしたデザイナーらしい。
「モデルが見つからないっていう話だったから心配だったけど、こんな素敵な女の子に着てもらえるなんて嬉しいわ」

「ドレスのことなんてサッパリだけど、すげえな、これは……」
その美しいシルエットに感心する楽の横で、万里花は小刻みに震えていた。

「ど、どうした、橘……?」

「わ、私がこれを着ても……?」
「ええ、もちろん、あなたなら私の想像の通りにきっと似合――」
その言葉の終わりを待たずに、万里花がいきなり着ていた制服を脱ぎ始めた。

「うおおーい! 橘、お前何やって……!?」
「何って! 楽様のために一肌脱いでいるのですわ! さっそくドレスの試着を!」

素晴らしいドレスを目にして興奮しすぎたのか、万里花の目付きがキラキラを通り越してギラギラしている。
「おおお落ち着け! ここで脱ぐな!」
あっけにとられていたスタッフたちも我に返って止めに入る。


「ね、お嬢ちゃん、ちょっとこっちに来てくれるかしら?」
ようやく落ち着いた万里花にデザイナーの女性が声をかけた。

「え? な、何でしょう……?」
「ちょっとだけ気になることがあるのよ。あ、そっちの男の子は予定通り着替えを済ませておいてね」
「!! ら、楽様も何かお召しになるのですか!?」

万里花の言葉を無視してテキパキと周りのスタッフに指示を出すと、女性は万里花をずるずると引っ張って出て行った。

「らくさまー!」

という万里花の叫びが遠ざかっていく。まだバイトは始まってすらいないのにこの騒ぎ。先が思いやられて、楽はため息をついた。

「楽様ー!!」

万里花の叫びとともに、控え室のドアが勢いよく開いた。

楽はちょうど白のタキシードへの着替えを終えて、髪のセットをしてもらっていたところだった。
トレードマークのヘアピンはそのままに、少し大人っぽく髪を後ろに流して動きをつけている。
雰囲気としては、文化祭でロミオを演じた時に近い。

「きゃああ! な、なんですか、その格好は!? 素敵ですわ楽様! 」
いつもの3倍マシの速度で万里花のタックルが決まる。

「な、何って、パンフレットの撮影なんだから、新郎役だよ」
「私が花嫁で楽様が新郎……。私、幸せ過ぎて明日にも死んでしまうかもしれませんわ……」
縁起でもないことを口にする万里花。


「ああ、どうして私は今日カメラを持って来なかったのでしょう!」
「いや、このあと撮影だからな。写真ならいくらでも撮ってもらえる――って、あれ? 橘、お前は着替え、まだなのか?」

よくよく見ると、万里花は来た時と同じ制服姿だった。
てっきりドレスへの着替えに連れて行かれたものだとばかり思っていたけれど。

「そ、それが……」
途端に、うりゅりゅ、と万里花の目に涙が溜まる。


「ど、どうしたんだよ!?」
「あのあと、ドレスを着る前に、私の身体を採寸したいと言われまして……」
「採寸? 見たところ、あのドレスなら橘にはちょうどいいサイズに思えたけど……」

「うう、そ、それが……」
もじもじと頬を赤らめる万里花。

「その……む、胸のサイズが、お、大きくてドレスに収まらないと……」

「ぐふっ!」
鼻血を出しそうになって、楽は思わず鼻を押さえた。

「あのドレス、小柄でスリムな女性向けのデザインらしいのです。腰回りなどは問題なかったのですが……」

しょんぼりしながら続ける万里花。
しかし、それはすなわち、万里花の身体がその細さ小ささに反するボリュームの胸を備えているということに他ならない。


「せっかく万里花が婚約者んため言うて毎日揉んで大きくしたとに……」


脳裏に篠原御影の言葉が蘇り、あらぬ妄想で再び鼻血が出そうになる。
なんとか平静を装わなければならない。

「そ、それじゃ、モデルのバイトはできねえってことか?」
「あ、いえ、実はそこなのですが」

あのデザイナーの女性は万里花のことをたいそう気に入ったらしく、特別に万里花のためにドレスのサイズを調整してくれるのだという。
作業のためにかかる日数は5日。
ちょうど、次の週末に完成する計算だった。

「というわけで、撮影も次の週末にしたいとおっしゃっておりましたわ。その、楽様のご予定はいかがでしょう……?」

夏休みを前にした子供のようにキラキラした目で、だけどほんの少しだけ不安を抱えて、万里花が上目遣いで楽に尋ねる。
あんなに楽しみそうな様子を見せられては、どんな先約があろうと断れるはずはなかった。

「ああ、俺も大丈夫。楽しみだな、週末が」
「楽様ー!!!」

万里花が抱きついてくる。胸の当たる感触がいつもと違い、なんというか、何倍も柔らかい。
まさか、採寸の後、下着を着けていないのでは――?

今度こそ少しだけ鼻血が出た楽は、借り物の真っ白なタキシードを汚してしまう前に、一刻も早く脱がなければと思った。


「ねえ、ダーリン。何だか最近忙しそうじゃない?」
「えっ?」
ビクリとしてしまった、だろうか。桐崎千棘は怪訝そうに楽の顔を見ている。

実はあれから数日というもの、週末に向けての準備を整えるという万里花に毎日放課後連れ回されていたのだった。
一昨日は美容室、昨日はネイルサロン。
今日に至っては万里花はまだ学校に来てすらいなかった。
一体どこで何をやっているのやら。

バイトの話を持ちかけたのは自分なだけに無下に断るわけにもいかず、付き合ってはいるものの、髪型やネイルのデザインに意見を求められても返答に窮してばかり。
何もいい言葉が思い浮かばずに結局「いいんじゃねえか」なんて気の利かないことばかり言ってしまうにも関わらず、その度に万里花がもの凄く嬉しそうにするものだから、楽は申し訳ないやら照れくさいやら、何とも胸が痛む思いをしていた。

「ち、ちょっと、バイトをしてるんだよ。うちの組員が新しい仕事を始めたもんだから、週末まではその手伝いが忙しくてな」
何となく万里花のことは伏せてしまう。

「ふーん……でも、その割には何か楽しそうよね、あんた」
「そ、そそ、そんなことはないぞ!?」

端から見たら、自分はそんなに楽しそうにしていたのだろうか?
確かに、何てことのない些細なことでも、自分と一緒であるということだけで心底楽しそうな様子の万里花を見ていると……悪い気はしない。
でも、俺はあくまでもバイトの手伝いとして……。

「楽様ー!」
ガラリとドアが開き、もう五時限目も終わったというのに堂々と万里花が教室に入ってきた。

いつも通りの楽に向けられた微笑み。
でも、なんというか、どこかいつもと違う気がする。
まるで全身が輝きを放っているかのようなピカピカつやつやの笑顔で、万里花は楽に抱きついた。

「楽様、今日の私はいつもとひと味違いますの。どこが変わったか、お分かりになりますか?」
「ど、どこって……」

いつものスキンシップよりも、何故だか肌の接触が多い気がする。
そしてその感触も、なにやらすべすべつるつるで……。

万里花の転校以来、数百回に渡って抱きつかれ続けたことにより磨かれた楽の感覚が告げる。

「お、お肌が……奇麗になった……?」
「正解ですわ、楽様! 私、エステに行ってきましたの! ほら、お分かりになるでしょう?」

さらにするすると、楽に肌を密着させる万里花。
そのあまりの感触の良さに、楽は真っ赤になったまま身動きもできない。

隣で見ていた千棘も、いつもよりもやけにテンションの高い万里花の様子に思わず突っ込みを忘れていた。

「お、おい、橘、いい加減に……って、ん?」
「ひゃう!」

されるがままになっていた楽が、するりと手を万里花の首筋にあてる。すべすべてもちもちで、ちょっと熱い。

「橘、お前、熱でもあるんじゃねえか?」
「! そ、そんなことありませんわ。きっと、長時間のエステで肌が火照っているだけでしょう」

「……」
楽はじいっと万里花の目を見た。何も万里花との付き合いで学んだことは、抱きつかれた時の感触だけではない。
万里花がこうしてやけに元気に見えるときは、注意が必要なのだ。
こんなにオープンでアグレッシブなくせして、本当に重要なことや自分の弱さはいつだってその微笑みに隠そうとするのだから。

「……行くぞ」
ひょいと万里花を抱え上げる楽。

「きゃあ! ら、楽様、い、行くってどちらへ……」
「保健室。決まってんだろ」

あ……と小さな呟きを漏らすと、ジタバタしていた万里花がしゅんと大人しくなる。
まるで悪戯を見つかった子供のように、楽と目を合わせないように俯いたまま抱きかかえられている。

「ちょ、ちょっと、楽!?」
何が起きているのかさっぱり分からない千棘が声を上げる。
心配をかけないようにしたいけれど、咄嗟に言い訳も思いつかない。

「悪い、千棘。ちょっと、その……バイトに行ってくる」
誰も信じないであろうウソを言い残し、楽は万里花を保健室へと運ぶために教室を後にした。

「……すみません、楽様」
「だから何度も言ってるだろ、無理せずに言え、って」

保健室のベッドに寝かされた万里花は、やはり少し顔が赤い。
エステ帰りなので肌艶はよさそうだが、微かに疲れたような様子が見て取れる。

「あ、あの、楽様、私は本当に大丈夫ですから……。ですから、週末は、予定通り……」
今にも泣きそうな表情で、万里花は楽を見上げながら懇願する。

体調を崩したの原因が週末のためにアレやコレやと頑張りすぎてしまったことにあれば、体調を崩していることを楽に隠そうとしたのも、全ては週末、あのドレスを着るためだった。
万里花がそれをどれだけ楽しみにしていたか、この数日というものずっと傍で見続けていただけに、楽にそれを咎めることなどできるはずもない。

「ったくしょうがねえな……。今日はエステで、明日は何だっけ?」
「えっ? ええと……サウナと、まつげエクステ……」
「それどっちも禁止な」
「ええっ!? そ、そんな……!」

楽は必死で抗議しようとする万里花の額にポンと手を乗せた。まるで、目隠しをするように。

「無茶して週末に寝込んじまったら意味がねえだろ。いいからゆっくり休んで早く元気になること」
でも――と食い下がる万里花に、少し躊躇いながら、言う。

「そ、そんな今更努力しなくたって、橘は今のままで十分……その、可愛いと思うぞ」

きっと赤面しているであろう顔を見られないように、万里花の額に置いた手はどかさない。

「あ、あわわわ……」
万里花も変な声を出している。

ただの気まぐれから始まったことだけど、万里花はこんなにも楽しみにしてくれているなら何とか実現してやりたいと思う。
なんだか自分らしからぬ決意をごまかすように、悲鳴を無視して楽は万里花の前髪をくしゃくしゃと撫でた。


「いいお天気ですわね、楽様。まさに、空前の結婚日和ですわ!」

両手を晴れ渡った青空に突き上げながら万里花が言った。二日間安静に過ごしたおかげで元気を取り戻したらしい。

「まあ、結婚するわけではないけどな」
あくまで結婚式場のパンフレット用の写真撮影なのである。

楽様のいけずー、などと言いながらまとわりつく万里花をあしらいながら式場を目指していると、目的の建物の前に誰かが立っているのが見えた。

「あ、坊ちゃん!」
そう言って、何やら慌てた様子で駆け寄ってきたのは、式場で働く例の組員だった。

「どうしたんだ、そんなに慌てて? 俺たち時間通りに来たと思うんだが」
「い、いえ、それがその、実は……」


「何!? モデルのバイトをキャンセルしたい!?」

思わず楽は大声を上げてしまった。
万里花は驚きのあまり、両手を口に当てたまま固まっている。

「す、すみません、坊ちゃん。実は急にうちの式場にスポンサーがつくことになりまして……例の宣伝もそこの仕切りになってしまって、何でも今流行りのアイドルだか何だかをモデルに使わないといけなくなったとかで……」
申し訳なさそうに楽に事情を説明する組員だったが、そんなに簡単に納得できる話ではなかった。

「でもお前、俺たちは先週から色々と準備をして……」
「そ、それは本当に申し訳ないことで……。その、支配人からバイト代だけは出しても構わないと言われてますんで……」

そう言う彼に悪気がないことはわかっている。だけど、楽には我慢することができなかった。


「金の問題とかそういう話をしてんじゃねえよ!」


普段になく感情を露わに声を荒げる楽に、隣でじっと話を聞いていた万里花の体が震える。

この一週間、万里花がどんなに今日という日を楽しみにしていたか。

身体が弱いくせに、無理して努力して、それで体調を崩しても秘密にまでしようとして。

それなのに。

万里花の気持ちを考えると、楽は思わず熱いものがこみ上げてきて言葉に詰まる。
それでもなお、言わずにはいられない。

「橘がどれだけ――」

「楽様」

うなだれる組員にさらに言葉を投げつけかけたその時、楽の服の袖をそっと掴みながら、万里花が声をかけた。
激昂している楽をなだめるように、顔に微笑みを浮かべながら。

「楽様、私のことなら大丈夫ですわ」
「で、でもよ、橘……」
「聞けばやむを得ない事情があるようではありませんか。こちらの方を責めてもどうなるというわけでもありませんし……」

ね? と、楽の肩に手を置いて、ニコリと笑う。


「楽様の素敵なタキシード姿を見られただけで、私は大満足ですわ。それに今週は楽様に色々とお付き合いいただきましたし……ですから」
万里花の気遣いが、添えられた手から直接伝わってくるようだった。

燃えるようだった心が、次第に鎮まっていく。
本当に、コイツは……。

「悪かったな、怒鳴ったりなんかしてよ」
楽から謝罪を受けた組員は恐縮することしきりで、頭を何度も何度も下げながら、式場の中へと戻っていった。

ずずず、とジュースをストローで吸い込みながら、万里花の様子を伺う。
万里花はなんだか長い名前のコーヒーのカップを口元に当てたまま、飲むでもなく、上に浮かぶホイップクリームをじっと見つめていた。

「なぁ、橘……」
楽の呼びかけに、一呼吸遅れてから万里花が顔を上げる。

「その、ごめんな。こんなことになっちまって……」
「どうして楽様が謝られるのですか?」
「いや、わかんねーけど、お前がでもすごく楽しみにしてたのは知ってるからさ。それになんていうか、花嫁衣装は女の子の夢? とかって言うだろ?」
「夢……そうですわね、確かに夢ですわ」

ワンピースのお腹の辺りの布をギュッと握りながら。


「私が色々と想像する楽様との幸せな日々の中でも、やっぱり一番の夢。楽様の隣で、ウエディングドレスを着て、素敵に笑うんです。とっても幸せな……夢」
でも……と唇を少しだけ噛む。

「でも、叶わないんじゃないか、って。夢でしかないんじゃないか、って。そんな風に思ってしまうこともいっぱいありましたから……だから、今回のお話を聞いた時は、本当に嬉しかったんです」

万里花らしくない弱気な言葉。いつもなら、恋も夢も自ら掴み取るものですわ、なんて言ってはばからないはずなのに。

「ごめんなさい、楽様。こ、こんなことで、楽様を困らせるつもりなんて、あ、ありませんでしたのに……」
ポロポロと涙が溢れる。肩を震わせながら、それでも泣き声を上げることだけは必死で我慢しながら。


楽は自分が勘違いをしていたことに気が付いた。

万里花が楽しみにしていたのは、ただ素敵な花嫁衣装を着る、というイベントではなかった。
ずっと夢に見ていた、一条楽との結婚式。それを実現する機会だったから、だからこそ、あんなに一生懸命だったのだ。


「お嬢様にはもう……あまり時間が残っておりませんから」


その言葉にどんな意味があるのかわからない。
だけど、あの万里花に、夢は夢でしかないなんて、諦めを感じさせるようなものだとしたら。

楽は背中にゾワリとしたものが走るのを感じた。

自分に何かができるわけではないのかも知れない。
だけどせめて。
それならば、今回万里花が抱いた夢ぐらいは叶えてやりたいではないか。

ガタッと椅子を鳴らして、楽は勢いよく立ち上がった。

「ら、楽様……?」
手の甲で涙を拭い、鼻をすする万里花。

この顔を、今日本当は写真に収められるはずだったあの輝く笑顔にするために。

「悪い、万里花。すまねえけど、しばらくここで待っててくれねえか?」
「え……? あ、あの、楽様、どちらに……?」

「俺に何ができるかはわからねえけど、やれるだけはやってみる。」
そう言うと、楽は伝票を引っ掴み、大急ぎでレジで代金を支払うと店の外に走り出していった。


独り残された万里花は、しばしあっけにとられたあと、涙を浮かべたまま、くすりと笑った。
楽のことだ、きっと落ち込んでいる自分のために何かをしようと走り出していったに違いない。

いつだって優しくて、どこか不器用な男の子。
そんな風だから、万里花は彼のことが大好きなのだった。

だからこそ、万里花は心の底から怖れていた。


彼とともにいつか幸せな結婚式を挙げて、とびきりの笑顔で純白の衣装を見にまとう花嫁になるという夢――それを諦めなければならない時が、来るかもしれないということを。


「楽様にはこんな姿、見せるつもりではありませんでしたのに……」

彼の記憶の中ではいつだって、元気で笑顔の万里花でいたい。
いつまでも、自分の笑顔を覚えていてもらうために。

目が腫れてしまっているかもしれないけれど、楽が戻ってきたらできる限りの笑顔で迎えよう。
目尻の雫を拭うと、万里花は大きく息を吸い込んだ。

「お嬢様、起きてください」

ゆさゆさと揺すられて、万里花は目を覚ました。
どうやら楽の帰りを待っている間に、うとうとと眠ってしまっていたようだった。

「ううー……あれ? 本田ではありませんか……」
隣に座っていたのは楽ではなく、黒のスーツにビシッと身を包んだ自分の付き人である本田だった。

さらに辺りの様子がおかしい。
確かさっきまで喫茶店で楽を待っていたはずなのに、やけに座り心地のよいシートからは、エンジンの振動が伝わってくる。

「はっ! こ、これはうちの車ではありませんか! 」


いつの間に車に乗せられたのか。窓の外の景色は軽快なスピードで流れていく。
既に凡矢理の市街を離れつつあるらしい。
運転席を見ると、ハンドルを握っているのは父の部下、警察機動隊第一部隊の隊長を務める相葉右助だった。

「本田、車を戻しなさい! 私はあのお店で楽様を待たないといけないのですわ!」

相変わらず無表情な瞳のまま、本田が答える。
「私たちはその一条さんに頼まれまして、お嬢様をお迎えにあがったのです」

「ら、楽様に? ……ど、どういうことです?」
「詳しい事情は我々も……」

本田がふるふると首を振る。

楽の身に何かあったのだろうか。
店を飛び出して行ったときの様子からすると、彼のことだからどんな無茶をしていないとも限らない。

不安な考えが脳裏をよぎったが、万里花の迎えにこの二人を寄越す辺り、それほど切羽詰まった状況とも思えななかった。
万里花は楽のことを信じて、とにかくこのまま一刻も早く楽の元に向かうことだけを考えることにした。

「……ところで本田、楽様はどうやってあなたに連絡を?」
「……先日のキリバス共和国からの帰り、一条さんの方から私の連絡先を知りたいとの申し出がありまして」

「何ですって!?」

万里花の叫びに何だって!?という右助の叫びが重なる。
動揺の余りハンドルを切り損ねたのか車体が大きく揺れる。
遠心力で危うく万里花がドアに頭をぶつけそうになったところを本田が片手で受け止めた。

ギロリと本田が右助を睨みつける。
お嬢様に何をしているのだ、という無言のメッセージを受け取り、右助はすみませんと呟くと前を向いて運転に戻った。
心なしか肩が震えている。気の毒に。

「……お嬢様に何かあった時のため、です。咄嗟に私に連絡を取るか、もしくは私から一条さんにお知らせするか」
「そう、でしたの……」

鈍感なクセして時々鋭いところが楽にはある。楽なりに、万里花のことを気遣ってくれていたのだろう。
「それならそうと言ってくださればいいのに……」

楽と別れてからまだ二、三時間ほどしか経っていないというのに、万里花は早く楽の顔を見たくてたまらなくなっていた。
そんな思いを汲み取ったかのように、窓の外の景色が流れるスピードが少しだけ速くなった。

「ここは……」

連れてこられたのは町の外れにある小高い丘の上。そこにポツンと、小さな小さな教会が立っていた。
「来たわね、万里花ちゃん」
声をかけてきたのは先週、あの結婚式場で出会ったドレスのデザイナーの女性だった。

「話は聞いたわ。ごめんなさいね、あなたたちには本当に迷惑をかけてしまって……。まさかあんな風にモデルを変えることになるなんて思わなかったのよ」
「い、いえ、それはもう、構わないのですけれど……あの、楽様は?」
「楽様……? ああ、あの男の子ね。ふふ」
意味ありげに女性が笑う。

「万里花ちゃんは幸せ者だわ。あんなに思ってくれる恋人がいるんだもの」
「ええっ!? な、なんのことですか?」

「あら、サプライズだったのかしら。それはいけない。それじゃ早速行くわよ、万里花ちゃん。何だか目元も腫れぼったいし、髪の毛だって寝癖が付いちゃってるじゃない。これは腕が鳴るわねー」
一週間前と同じようにずるずると引きずられていく万里花。

らくさまー!? という叫び声が遠ざかっていくのを、変わらぬ無表情で、でもほんの少しだけ柔らかな雰囲気を漂わせながら、教会の正面に止めた車の脇で本田が見守っていた。

ギイイと軋む音を立てて、教会の正面扉がゆっくりと開く。
差し込んでくる夕暮れの日差しに、小さなシルエットが浮かび上がった。

大輪の花束を模したような純白のウエディングドレスは、夕陽に照らされて、少女の髪と同じオレンジ色にキラキラと輝いていた。


「ら、らっくん……」


そんなドレスよりもさらに顔を真っ赤に染めて、おずおずと万里花が教会の中に入ってくる。
本来であれば父親とともに歩むべきバージンロードだったが、あいにくこの空間にいるのは万里花と楽だけ。
二人きりだった。


「た、橘……」


自分が手配したことながら、いざ万里花がその衣装に身を包んで目の前に現れた時、楽は言葉を失ってしまった。

大胆に露出した両肩、わざわざサイズ調整が必要だった胸元はギリギリのラインで乙女の慎みを守っており、対照的に細く絞られたウエストからは裾に向かって大きな花びらが幾層にも重なって広がるようにして長いスカートを構成している。
FlowerVeilと名付けられたそのドレスは、まさに万里花を純白の花で包み込んでいるかのようだった。

「楽様、本当にありがとうございます」
バージンロードの中頃にタキシード姿で立っていた楽の元にたどり着き、万里花は心からの感謝を込めて言った。

髪のセットと化粧直し、そしてドレスへの着替えをしている間に、万里花は事の経緯を聞かされていた。

どうにかしてこのドレスを着ることができるようにと、楽はあの結婚式場に掛け合ってくれたらしい。
だけど断られてしまって、それならとあのデザイナーの女性に頼みんだのだという。
彼女が万里花をいたく気に入っていたことと、今回の事情に同じく憤りを覚えていたことで、本来はマズイのだけれど、こっそりドレスを持ち出してくれることになった。

その後も楽は奔走し、あの式場以外でウエディングドレスを着られる場所を探し求めて、この小さな教会にたどり着いたのだった。
この短時間でこれだけの準備を整えるなんてどれだけ大変だったかわからない。

それなのに。

「い、いや、俺は別に何もしてねえよ。あのデザイナーさんや、それから本田さんとかが力を貸してくれたおかげだよ」

なんて、トボケたように言うものだから、万里花は思わず吹き出してしまった。

「な、なんだよ?」
「いいえ、楽様らしいな、と思いまして」

笑顔で迎えようなんて、わざわざ考える必要はなかった、と万里花は思う。
彼の傍にいる限り、自分はきっと、自然と笑顔になってしまうのだから。

「あー、でな、結局パンフレットの写真撮影じゃなくなっちまったけどさ……」

これから言おうとしていることがとても「くさい」ことだという自覚があるだけに、踏ん切りがつかずに言葉に詰まってしまう。

だけど、照れてばかりもいられない。
楽はまっすぐな万里花の気持ちに、少しでも応えたかった。

「その、け、結婚式……やってみるか」

楽の言葉に万里花の顔も真っ赤に染まる。
これまでの話の流れからある程度は予想はしていたものの、面と向かって言われるのはやはり違う。

「……はい。そ、その、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします……」

まるでプロポーズを受理した時のような万里花の返答に、楽も顔が熱くなるのを感じた。
「お、おう。それじゃ、始めるか……」

あらためて至近距離で見る万里花の花嫁姿。

長い髪は頭の後ろで結わえられ、まるで四枚の花弁を持つ可愛い花のようにくるりとループを描いている。
キラキラ輝く純白のドレスには、上気して赤く染まった万里花の肌が映えていた。

照れているようで、だけど幸せそうに。上目遣いでちょっとだけ微笑むその表情。

「……モデルのバイトをキャンセルして、あの式場の人たち、絶対損したよな」
「損? どうしてですか?」
「そ、そこいらのアイドルよりも、橘の方が可愛いと思う……からに決まってるだろ」
「ま、また、らっくんはそがん事を……」

不意を突かれて怯む万里花。

ありがとうございます、と照れながら答える顔は幸せそうで。
ずっとこんな表情でいさせてやりたい、という思いが湧き上がってくるのを楽は感じていた。

これが、ウエディングドレスの魔翌力なのだろうか。
だけど。

「……で、橘。結婚式って、何をすればいいんだ?」
結婚式に出席したことのない、楽の限界だった。

招待客のいないバージンロードを二人で進む。
一歩毎に胸が高鳴り、これでは自分の鼓動が相手に聞こえてしまうのではないかと心配になってくる。

「こ、これでいいのか?」
「はい、新郎は花嫁をエスコートするように、腕を組んで祭壇まで歩いて行くのですわ」

がっちりと楽に密着するように腕を組む万里花。普段よりも、「ある」ように見えるのはドレスのデザインのせいだろうか。

「ふふ、この姿、皆さんにも見せて差し上げたいですわね。桐崎さんは、こちらの一番後ろの席に招待しましょう」

万里花がバージンロードの両脇に設えられた座席を指差す。
そんなことをしたら大変な暴力沙汰になりかねない。

「橘は……その、やっぱり結婚式の想像とか、するのか?」
「想像といいますか……リハーサルならしますわ」
想像以上の答えだった。

「リハーサルではいつもお父様はここで泣きますの」
父親も参加だった。

「ノ、ノリがいいんだな……」
「ですから、楽様は大船に乗ったつもりで!」

新郎役としては情けない限りだったが、この件に関しては万里花以上に強い思い入れを持つ人間がいるはずもない。
全てを任せて、楽はとことん付き合うつもりだった。

祭壇の前にたどり着くと、牧師のセリフを万里花が請け負うなんとも奇妙な結婚式が始まった。

万里花の美声をたどたどしく楽が追うようにして賛美歌を歌い、万里花がすっかり覚えているという聖書の中の愛の教えを暗唱する。
突然妙な外国人訛りを交える万里花に楽が突っ込んだり、うっかりドレスの裾を踏んでしまった楽を万里花が叱ったり。
二人きりなのに、いつも以上の賑やかさで式が進んでいく。


「一条楽さん。あなたは橘万里花さんと結婚し、妻としようとしています」

万里花が牧師さんに変わって誓いの言葉を告げ始めた。


「あなたはこの結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って夫としての分を果たし――」

あくまでも真似事に過ぎないはずなのに、楽は緊張で鼓動が早くなるのを感じた。


「――常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その……」

ふいに万里花の声が途切れた。


「その……」

万里花はまるで勇気が出ないとでもいうように目を伏せて、口の中から言葉を逃がせずにいる。

楽は片手を伸ばすと、ポンポンと万里花の頭を撫でてやった。
万里花が恐れず、気持ちを口に出せるように。

照れたように一度俯いた後、万里花は顔を上げて、決心をしたように続ける。


「……その健やかなるときも、病めるときも……富めるときも貧しきときも」

じっと楽の目を見つめて。


「死が二人を分かつときまで、その命の続く限り、あなたは妻に対して堅く節操を守ることを約束……しますか?」


その視線と一緒に、楽は万里花の想いを受け止めた。

「はい、約束します」


万里花の瞳が大きく見開かれ、涙が一筋こぼれ落ちる。

「あっ……す、すみません、楽様……」
思わず感極まってしまったことを謝りながらごしごしと涙を拭うと、万里花は笑顔を浮かべる。


「こんな時に泣くなんてもったいないですから。……それじゃ、次は私の番ですね」

涙をこらえながら、万里花は再び誓いの言葉を暗唱すると、そのまま自分で「約束しますわ!」と返事する。

そのドヤ顔に、楽は思わず吹き出してしまった。
あの父親の言う通り、万里花は強い女だった。

「誓いの言葉の後は、結婚証書に署名をしたり指輪の交換をするのですが……今はどちらもありませんし、飛ばしてしまいましょうか」

「おっと待った。指輪ならあるぜ」
「えっ?」

楽は懐から小さなケースを取り出した。
本当なら撮影の時に使う予定だった小道具なのだが、これを使いなと、ドレスを借りる時にこっそりとあのデザイナの女性が手渡してくれたのだった。

「もらいもので悪いけどさ……」
驚いて呆気にとられている万里花の左手を取ると、楽はその薬指にそっと指輪を滑らせた。

自分の左手に輝く白金色の光を目にして、万里花はようやく我に返るとそのまま楽に抱きついた。


「らっくん、大好きばい!」
「あたたたた! お、落ち着けって、橘……」

楽の首に抱きついたまま、万里花は自分の指にはめられた銀色の輪っかを眺めていた。
幸せが凝縮されて、物質化してしまったとしか思えない品物。結婚指輪。それがいま、自分の手に……。

ずっと夢に見ていた、素敵な花嫁衣装と結婚指輪。
その二つを身につけて、万里花は自分の中に不思議な力が満ちてくるのを感じていた。

絡めた腕をするりとほどいて、万里花は身体を離すと、楽の顔を見上げながら言う。

「この結婚式も、もうすぐ終わりですわ」
「そ、そうなのか?」
「はい、あと残っているのは……」

コホンと咳払いをして、万里花は表情を引き締めて楽の瞳を見つめる。


「誓いのキスだけ、です」

「き、きき、キス!?」


さすがの楽でも心当たりがあった。漫画やドラマの中でしか見たことのない結婚式だが、確かに式の終わり頃、最後は新郎と新婦が祝福の中で誓いのキスを――。
万里花はじっと、楽の反応を待っている。

その愁いを帯びたまっすぐな視線。
普段の万里花とはまったく違う雰囲気を身にまとった少女の姿を見て、楽はいつだったかの遊園地での出来事を思い出す。

不意に真剣なトーンでキスをせがんだ万里花。
あの時はからかわれただけだったけど。


――でも、本当にあれも冗談だったのだろうか?
万里花はいつだって、本音や弱音をウソで覆い隠そうとして……。


楽は両手を優しく万里花の肩に添える。
楽に触れられて、万里花の身体と瞳が揺れた。

この気持ちになんという名前をつければいいのかはわからない。

だけど、楽は万里花を笑顔にしたいと、幸せにしたいと思っている自分に気付いていた。
だから。少し早いかもしれないけれど。


そっと顔を近づけていく。
二人とも目を閉じて。


楽の唇が触れる。


柔らか――くはない感触。

これは……?


目を開けると、楽と万里花の唇の間には、万里花の人差し指が挟まっていた。
「た、橘……?」

自分の人差し指に残る、愛しい彼の唇の感触に顔を赤らめながら、万里花は楽を見て微笑む。

「ありがとうございます、楽様。私のために……本当に嬉しいです」

万里花は戸惑う楽の頬に、そっと手のひらを当てた。
心の底から愛おしいものに触れるように。

「叶わない夢だと、どこがでそう、思っていました。でも……こうして楽様と二人、フリとはいえこんなに素敵な結婚式をして、それに楽様から……その、き、キスまで……」

照れる自分を励ますように、でもですね、と語気を強めて。


「でも、私は決めたのです。やはり夢というのは自分で掴み取るべきものだと。私は、ニセモノの結婚式ではなく、本物の結婚式で楽様からキスをしていただけるように頑張りますわ!」


どこまでもまっすぐてひたむきで、キラキラと輝く万里花の瞳。
そこに宿る光はまるで、ウエディングドレスよりも純白な万里花の想いを、楽に伝えようとしているかのようだった。

楽はふっと笑う。
「ホント、強か女だよ。お前らしいと思うぜ、万里花」

いきなり下の名前を呼ばれて慌てる万里花だったが、楽がその両肩を掴んだままだったために身動きが取れない。

「でもな、俺の決意も受け取ってもらわねえと……」
「ら、らら、らっくん……!?」


もう一度顔を近づけると、楽は万里花の額に口付けた。


「――!!」

「……真ん中はまた今度、な」


照れながら言う楽だったが、言われた万里花は今日一番顔を赤らめて。

そのまま、床にこぼれた真っ白な花びらの上に崩れ落ちた。




「お、おはよう、千棘」

楽はドキドキしながら着席し、隣の千棘にいつも通りの挨拶をする。
大丈夫、そんなに簡単にバレるはずはない。

「おはよう、もやし。……って、何それ」
座って1秒。千棘は楽の左手の薬指に光る銀色の輪を指差して言った。

結婚指輪は「交換」するもの、ということで、あの後万里花から送られた品物だった。
楽としては目立たないようチェーンをつけてペンダントにでもしたかったのだが、有無を言わさず左手の薬指に装着させられてしまった。
ちなみに恐ろしいので値段は聞いていない。


「え、ええと、その、そう! 実はこれ指輪の形をした健康器具でさ! つけてると血行が良くなるんだよ。いやー最近肩が凝って困ってるんだよなー!」

言い訳をする楽を、じろりと胡散臭そうに凝視する千棘。
居たたまれなくなって目線を逸らすと、逆隣では脂汗を流しつつ、はわわと震えながら小野寺小咲が楽の左手を見つめていた。

どうしてこんなに一瞬で気付かれるのだろう。
女の子というのはそれほど他人のことを観察しているのだろうか。
二つの視線を浴びながら、この上なんと言い訳をすれば上手く納得させられるか悩んでいると、勢い良く教室の扉が開いた。

「おはようございますですわ、楽様ー!」
その声が届くよりも速く、音速を超えて万里花が楽に飛びついてくる。

「あっ、私がお送りした結婚指輪、ちゃんと身に着けてくださってますね、楽様」
「ちょ……!」

楽の左手の輝きを認めて、万里花が嬉しそうに頬を染めた。

動揺する楽には構わず、そのまま手に手を重ねて、指を絡ませる。
そんな万里花の薬指にも、同じく光る銀色の輪。

通じた気持ちが形になって、二人の指と指を結んでいるような光景に、楽も思わず赤面してしまう。


普段通りの万里花のいちゃつき攻撃かと思いきや、まさかのペアリング。
それも、結婚指輪。


万里花の手のひらの温かさとは対照的に、楽は周辺の温度が一気に下がるのを感じていた。

暴力の坩堝と化した教室の真ん中で、万里花は人差し指に残るかすかな感触を思い出しながら携帯電話を操作する。
画面をタッチして呼び出したのは一枚の写真。

とても幸せそうな顔で純白の花嫁衣装に身を包んで微笑む自分と、その隣で照れくさそうに、でもしっかりと自分の肩に手を回す想い人の姿。

式の最中に、本田が気を利かせてこっそりと撮っていてくれたのだった。


10年前の約束とはまた別に、新しい約束と、そして生きる希望と力を楽は与えてくれた。
この先どんな困難や障害が立ちはだかったとしても、今の万里花はもう負ける気などしなくなっていた。


何しろ、自分には叶えるべき、そしてきっと叶うであろう夢があるのだから。

万里花は画面の中の彼に語りかける。


「らっくん……愛しとるよ」


その答えはもう、万里花の指でキラリと光っているのだった。


おしまい

随分と長くなってしまいました。ひとまずこれで一段落。

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