遊星「お慕いしております、衣遠兄様っ!」 (20)

「遊星君、五歳にもなってこんな問題もできないのですか。お仕置きが足りないようですね」

「あなたは将来、大蔵家に仕える身なのですよ。この程度のことで腕が上がらないなどと甘えてはいけません。旦那さまに報告いたしますよ」

「さあ、早くお立ちなさい。あなたの怪我の痛みなど、大蔵家の偉業にはなんら関わりのないことです」

うんと小さいころ、ぼくはよく泣いていた。

泣けば泣くほど叱責と体罰が増すのだから、ほんとは泣きたくなんかなかった。

ある夜、いつもの屋根裏部屋、ぼくは母の胸でアイルランドの子守唄を聞いていた。

「お母さま。どうすれば恐いのや痛いのをがまんできますか」

尋ねると唄が止まった。

ぼくを抱く腕に、苦しいぐらいの圧力が加わったのを覚えている。

しばらく間があってから、やがて彼女は取りつくろうような笑顔をこしらえて、「ごめんね」と切り出して言った。

あの人たちはあなたを虐めているわけじゃない。

あの人たちはあなたを、厳しさに負けない強い大人にしてあげたいと思っている。

あなたが誰かの為に尽くせるような、立派な男の子になってほしいと思っている。

「だから恐がらないで大丈夫よ」と母は優しく言い聞かせた。

それは、ほんとかなあ。

それは、ほんとにぼくのためなのかなあ。

だけど幼い息子を説きふせる母の辛そうな笑顔が、幼心を抱えた小さな胸にじくりと刺さった。

「辛い思いさせてごめんね。お母さんの子に産まれちゃってごめんね」

「…………」

ぼくは何も言えなかった。

あまりにも優しげな、陰を帯びた母の笑顔がそれ以上の弱音を飲み込ませた。

しかし話は終わりだと思っていたぼくに、母はぽそりと呟きを漏らす。

「……もし、心から尽くしたいと思えるような相手にめぐり会えたなら……」

「お母さま?」

「…………い、いえ、なんでもないの。遊星……ごめんね」

その時母がくれた言葉の意味を、ぼくはまだ知らなかった。

ーーーーあの人に会うまでは。



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「なにを見ている」

内蔵まで響く重いバリトン。

「は」

ぼくは反射的に身を正したが、すぐに振りかえることは出来なかった。鼓膜を鷲掴みされたかのようだった。

像と像を結んで映された人物の姿、兄がぼくに声をかけたという、極めて珍らかな事象。

何もかもが驚きに繋がるその事態に、けれどぼくの心は恐怖に震えるではなく、静かに昂っていた。

「ご無沙汰しております、お兄さま。はるばるトーキョーより、ようこそいらっしゃいました」

「ふン」

兄は舞台俳優のように顎をそびやかし、ぼくの鼻先めがけて人差し指を突きつけた。

「聞かれたことに答えろ、雌犬の子。貴様はなにを見ていた」

「さ」


桜の木ーー


ーーを眺めていただなんて、そんなことは傍目にも明らかだ。そんなことなら、わざわざ確認を要すまでもない。

彼は、ほとんど家族などとは思っていない不浄の子に、長閑な世間話を持ちかけるような兄ではない。

不浄の子が桜の木を見る、その本質。閃くように思いついた答えがあった。

ぼくはそれを口にした。

「元型です」

そして本質を語る。

「自らの元型を視ていました。私のやってきたところ、私の還るところ。私の心を映すもの、私の心が生まれるところ」

「ほう……?」

兄が口の端を上げた。催したのは興味か侮蔑か。

「桜の前にたたずむとき、何故だか私の胸には不思議とさまざまな想いが去来いたします。
そして名状しがたい雄大な心地に至るのです」

「この心地がなにを意味するのか、私には分かりません。しかしそれはまるで重力のように私を引きつけるのです」

「ゆえに私は桜を見ておりました」

ぼくは小さく息を吸い、吐いた。

「なるほど小賢しい……」

兄は見透かすような視線で、ぼくの頭から腰までを舐めまわす。

そのとき生まれた熱っぽい感情がちりちりとぼくの心を焦がしたが、表には出さないように努めた。

そして兄はぼくの小さな疑問に答えた。それは、我らが民族だれしもの内奥にあまねく共通して在るもので、日本人の集合無意識だと。

それが許される立場と風格を兼ね備える故に尊大な口ぶりで、泰然と兄は採点を下した。

「狂おしく咲きみだれた満開の桜に心惹かれない魂を、俺は同胞(はらから)と認めない。悪くない答えだ、弟よ」

即興の試験は、かろうじて彼の満足を得て終わった。

大蔵衣遠が大蔵遊星を、初めて弟と呼んだ瞬間でもあった。

ーーだから。


「我らが祖国に咲くソメイヨシノはまた別格だぞ。おまえとはいずれ、青山の夜桜を肴に杯を交わす日も来よう」

だから、その言葉がおよそ情愛というものを孕んでおらず、ひたすら冷たくて隙がなくても。

ぼくは、その衝動を抑えることができなかった。

「ありがとうございますっ、お兄さま!」

小さな胸にじわりと広がった喜びが満面の笑みへと変わっていく。

感謝を述べる声はとみに弾み、歓喜という感情が全身から溢れだす。

「な……ッ!」

明らかな戸惑いを浮かべる兄にも意は介さない。
ぼくは思いの丈をこの笑顔に乗せてぶつける。

それは、明らかな嫌悪を兄が滲ませても止まらない。変わらない。何故なら。

先ほどの問い。ぼくが答えた本質。
本心であっても、本意ではなかったのだから。

「……フゥー。見込み違いか。わずかなり“使える”と感じたのは勘違いだったようだ」

「お兄さま、お願いがございます」

「いい加減弁えろ、貴様ごとき凡俗とは……」

「お兄さまの下でお仕えさせてください。不浄の身なれどお兄さまの為、粉骨砕身の覚悟でお役に立ってみせますっ!」

「……話にならんな。おい」

うんざりとため息をついた兄が少し離れた場所で控えていた秘書を呼ぶ。
兄の指示で何事かを携帯端末で調べさせられる。秘書はディスプレイに映った結果に外聞もなく、驚きの声を上げた。

「これは……凄い。全科目オールS。初等課程は全て修了しています」

「なんだと……?」

驚きの目を向けてくる二人。
たかが初等課程。されど大蔵で施される“教育”だ。そこらの子供に施されるものとは質からして違う。

けれどそんなことはどうでもいい。

「お慕いしております、衣遠兄様っ!」

あの夜、母が口にした言葉。

『心から尽くしたいと思えるような相手』。

その相手を見つけたぼくは、未だ困惑する兄や秘書にも構わず、思いの丈を言葉にしていた。

遊星くんの衣遠に対する好感度が最初から限界突破(一目惚れ)していたら
ふと思いついた妄想を一発ネタにしてみました
原作わからない人が多いよなあ…と思いつつ衝動でやってしまいました

完ッ!

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