某所で1度投下したものです。
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1.エリチカさん、ハイヒールが似合う
その高校で「ハイヒールが一番似合うのは?」という質問を生徒にしたら、
その座を獲得するのは言わずもがな
「絢瀬絵里さん」であった。
金髪、ブルーアイズのロシアンクォーター。
頭の賢さもさることながら、その容姿の端麗さは同性ですら目を奪われるほどである。
生徒会の長として彼女はその役割を堅実に果たし、学校が廃校の危機に晒されると今度は自身の身を削って、廃校を阻止しようと躍起になったのだ。
そんな絢瀬絵里、ことエリチカさんであったが
実際、彼女が履くことを強いられたハイヒールは彼女あまりにも高すぎて、
歩くたびに足首がクニクニしていた。
自身の役割を悟っていた彼女は足首のクニクニなど誰にも気付かれないように歩いていたのだけど。
彼女、本当はポンコツだったのだ。
ハイヒールなどそれまで履いたこともなく、自分の身体がそんな細い軸とつま先の2点だけで支えられているという現実に恐れおののいていた。
しかし、彼女がハイヒールを履くタイミングを計っていると
『生徒会長だからね。リアルも潤ってるんだろうなぁ~』
『やっぱ頭のいい人は違うよ! 期待してる!!』
『綺麗な人は羨ましいよ~! モデルとかしてみたら?』
知らない間に彼女の履いているハイヒールはどんどん高くなっていく。
それに気がついたときにはもう彼女には自分一人の力でハイヒールを脱ぐことはできなかった。
そんなエリチカさんの様子を見かねて、
ある日、希ちゃんが言った。
希ちゃんはスピリチュアルだから、
エリチカさんの足首クニクニをスピリチュアルに察していた。
スピリチュアルやね。
希ちゃんが「えりち、えりちにはそんなハイヒール似合わんよ。ほら、えりちに似合うんはこっち」
そう言って、希ちゃんがエリチカさんに差し出したのはミューズ。
大人ぶって強がっていたエリチカさんは
素直になれなかった。
本当は嬉しかった。
小さい頃にやっていたバレエが瞬時に頭をよぎった。
バレエシューズとハイヒール。
一体、いつの間にこんなに変わっていってしまったのか。
あの頃の、足先の一点だけで体全体を支えていても少しも怖いものなんてなかった
あの頃の私は一体どこに行ってしまったのか。
自分はどうして身の丈に合っていないハイヒールを履きこなすことに必死になって、
足の痛みを堪えているのか。
エリチカさんの眼の揺れに希ちゃんは気がついたけど、何も言えなかった。
心がカチコチに凝り固まっていて、
スピリチュアルな希ちゃんの言葉さえ、
そのコリを癒してあげるには温度が足りていなかった。
希ちゃんは別れ際につぶやく。
「今のえりち。URでもSRでも、Rですらない。Nやで」
去っていく希ちゃんの背中が少しずつ小さくなっていく。
エリチカさんは希ちゃんを追いかけたかった。
だけど、走れない。
エリチカさんの履いているハイヒールは走るためのものではなかったのだった。
2.泥だらけになる方法
エリチカさんはうみほのピーに言った。
「認められないわぁ」
3人のしかめっ面を見て
エリチカさんは自分の中に嫌な泥が溜まっていく感じがした。
うみほのピーは
それでも頑張った。
認められるために。
そして廃校を阻止するために。
なによりも、ずっとみんなで笑っていたいという願いのために。
エリチカさんはうみほのピーが屋上で練習をしているのを知った。
どういうわけか、1階の生徒会室からは屋上がよく見えるのだ。
希ちゃんが
「素直じゃないなぁ、うちの嬢王様は」
と窓際でつぶやく。
エリチカさんはこう、心の中で返事を返す。
希、私が小さな頃なりたかったのは嬢王様じゃない。
自分の足と身体に感情を纏って舞う、踊り子なのよ。
黙って、目の前にある書類に目を通す。
それはうみほのピーが出した講堂の使用許可書だった。
黙って、承認のハンコを押した。
帰り道。
桜の花びらとともに3人が配るビラが風に舞って、エリチカさんの足元に落ちた。
泥にまみれ、そのビラは汚れていてあまり見れたものではなかった。
エリチカさんがそのビラを拾うことはない。
高すぎるハイヒールで屈むとバランスを崩してしまう。
同じ目的なはずなのに
どうして私たちと彼女は泥だらけになる、そのやり方が違うのかしら
エリチカさんの去った後、
チラシはカサコソと音を立てて風に飛んで行った。
3人の初舞台。
エリチカさんは歩くたびにカツカツという足音を立ててしまうため
会場に入ることはできなかった。
仕方なく、会場の外で壁にもたれかかる。
観客が誰一人としていない講堂で
3人は何を思うだろう。
「認められないわぁ......」
だからせめて、私が見ていてあげるわよ。
そして、ビデオにでもとってユーチューブにでもあげとけば、ニコニコでもいいけど
この子たちの頑張りが本物ならば
それはきっと誰かに届くわよね
誰かに届くならば、そのまた誰かにもきっと届くはず
感動は連鎖反応だから
誰かの感動は、そのまた別の誰かに伝染するものだから
エリチカさんは信じたかった。
ハイヒールを履き、人よりは高い場所にいるものだから言うことは出来ないけど。
誰の元にもスポットライトは当たっているということを。
たとえそれが、コンクールに負けた敗者であったとしても。
だって、あの時、お祖母様が泣いている私の頭の上に置いてくれた手のひらはとても暖かかったのだから。
エリチカパパに借りた少し型の落ちたデジタルカメラで動画を撮影した。
盗撮ではないことを祈りながら。
音が止む。
そこに賛賞と感嘆の声も拍手も響きはしない。
余韻も何も残らない、
誰の目にも映らせてもらえない、
そんな高さの舞台であなたたちは一体どうするの
エリチカさんは泥だらけな気分になりながら、カツカツと音を立ててその講堂を立ち去った。
だから、エリチカさんは知らない。
その静まり返った講堂で2つの掌が打ち合わされた音が1つ鳴り響いたことを。
3. 親友希ちゃんの友達
エリチカさんは驚いた。
うみほのピーがいつの間にか
うみほのピーまきりんぱなになっていたからだ。
「一気に2倍になっているなんて......認められないわ」
希ちゃんはそんなエリチカさんの横でニコニコしていた。
「えりち、ミューズ入らん?」
「希......まだそんなことを言っているの」
エリチカさんは書類から目を離さずに言った。
希ちゃんはそんなエリチカさんにため息をつく。
そして、
この子の、この強がりは一体どこからきてるんやろうなぁ
と思う。
希ちゃんはこないだエリチカさんが挙げた動画をいち早くスピリチュアルに見つけていた。
その動画をあげていたuser名でもここで告げたら
えりちはハイヒールを履くことを止めることができるのかな
そんな考えが頭をまるで高速道路をかっ飛ばしていくスポーツカーのように駆け抜けて行ったけど、
自分でも暴力的なやり方だな、と思って希ちゃんはそれはやめておいた。
生徒会室の窓から外を見る。
今日は風が強くて、木々がへし折れそうに風の吹くがままにカタチを変えている。
窓を開けたらきっとエリチカさんの前に積まれた書類の山は
とても簡単に吹き飛んで部屋に散らばってしまうだろう。
窓の冊子に着いた手を支点に、エリチカさんの方をクルリと向いて希ちゃんは言ってみる。
「ちょっと心の中、穏やかやなさすぎて周りが見えてないんとちゃう? えりち」
「何を言ってるのよ、希。私が履いているハイヒールは誰よりも高いのよ」
エリチカさんがようやく、希ちゃんの方に顔をあげ、いつものように笑顔を作って言った。
「見渡せない場所なんて、この学校にはないわよ」
うちが見たいんは、そういう笑顔じゃないんやけどなぁ
それでも、この学校、と範囲を限定しているところにエリチカさんの冷静さを感じた希ちゃんは
それ以上、エリチカさんにこの件のことを問い詰めることをやめようと違う話題を振った。
「そういえばな、えりち。矢澤にこっておるやん」
「矢澤にこ......。いつも希が話かけているクラスメートのちんちくりん?」
「ちんちくりんやって。にこっちが聞いたら怒るからそれ本人の目の前で言ったらあかんよ~?」
「本人の目の前って......。私、矢澤さんとはクラスメートだけど話したこともないし。これからも話す機会はないでしょう」
希ちゃんは、さぁどうかな、と左手に持っていたファイルで口元を隠してエリチカさんに微笑んだ。
4. 心さく友の現在地
ロンリーハートで蕾ですらない現状にいた矢澤にこにーは
気取ってお高くとまっていらっしゃるエリチカさんの眼中になかった。
彼女はエリチカさんの眼中の下にいた。
ハイヒールガールなエリチカさん、
その高さゆえに死角ができていた。
その死角のデッドスペースで人目を気にせずまったり安らぎ空間を演出し
部室と言う安全性を保証されたラベリングがなされ、
ただのアイドル趣味全開の部屋に堕ちた魔界の中で薬用石鹸の効力に本当はおののいていたが、
あまりにもひねくれすぎた自尊心ゆえに石鹸叩きを行っていたのが何を隠そう
矢澤にこにーであった。
彼女はアイドル研究部の部長であり、この春にも部活動の予算会議でエリチカさんと顔を合わせている。
それにも関わらず、エリチカさんはにこにーを認識してはいなかった。
希ちゃんは優しいからそういうの、追求とかしない。
「覚えてないとは思ってたけど、ほんまに覚えてないとはー。まぁ、やりやすくてええけど」
希ちゃんの横で短いが、手入れの行き届いたツインテールが風に揺れる。
「なに独りごと言ってんのよ、希。春の日差しにでもやられたの?」
「ううん。スピリチュアルやな、って思って」
にこにーは、何やら希ちゃんがよくないことを企んでいそうで、そのムズムズさに思わず口に咥えていたストローを噛んだ。
矢澤にこにーは、エリチカさんの眼中下に存在する盲点である。
彼女はこれから、うみほのピーまきりんぱなに出会うことになる。
それは彼女が望んでいる以上の出会いとなり、彼女を変える。
希ちゃんはそれを望んでいたから、ロンリーハートで蕾ですらなかったにこにーが
蕾になる瞬間に立ち会えて心がニコニコになった。
そういう風に誰かが良い方向に変わっていくことは、希ちゃんの心をホッコリとさせた。
とくに、それが自分の大切な人であるならば、なおのこと。
希ちゃんが気に留めている2人はそんなことなど露知らず。
しとしと降る梅雨の雨に打たれて、放課後の帰り道をエリチカさんは希ちゃんの横を歩く。
エリチカさんが歩くたび、泥が跳ねているのだけど、
それでもそんなことはエリチカさんの意識の外での出来事だから、
エリチカさんは気にも止めない。
「これでええんかなぁ」
「うん? 何か悩みごと? 希」
えりちのことだよ、と言えればどれだけ楽になるかな
と、希ちゃんは困って、何も言わずに梅雨の雨が傘の上で踊る音を聞いていた。
そんな感じで、矢澤にこにーは盲点であった。
が、それ以上に、エリチカさんがポンコツなのかもしれない。
5. エリチカさんの知らないところで、動画は流れる
エリチカさんは、内心とても動揺していた。
放課後、夕日に照らされたベンチに、
あまり日本に精通していない妹と、
生活環境が日本文化そのものである、そのだうみと腰を下ろすことになったのだから当然である。
妹が渡したおでん缶にそのだうみは驚いた表情を浮かべたものの、その行動を決して笑いはしなかった。
そのことにエリチカさんは胸を撫でおろした。
妹へカフィーとコゥコゥアを買ってくるように言い聞かせ、この場から立ち去らさせた。
妹には自分自身のハイヒール姿なんて見せたくないものである。
やたらと珈琲と香楜阿の発音が良かったが、ロシアンクォーターならそれもそうか、とそのだうみは心の中で思った。
「あなたは......バレエをやっていらしたのですね」
そのだうみからの突然の質問の内容に、エリチカさんは息を飲んだ。
「希から、聞いたの......?」
エリチカさんは希ちゃんがミューズの人たちと仲がいいことを知っていた。
「いえ。ユーチューブを漁っていたら、にこがとあるバレエダンスの動画を見つけまして」
「ど、動画......どういうことなの......」
そのだうみは無言でエリチカさんにスマートフォンを手渡した。
目の前にある機械はユーチューブに繋がれていた。
そして開かれた動画に映っているのは
紛れも無い、見間違えることもないほどに見慣れている
幼い頃のバレリーナ姿の自分自身だった。
「再生数こそ少なかったですが、あれは幼い頃のあなただろうと、ある方が言っていました」
エリチカさんは頭をフル回転させる。
矢澤にこと私は接点を持っていない。
なぜ、矢澤にこが私の動画を......。
そもそもその動画は一体どうやって。
誰がどうやって手に入れたと言うのだろう。
希......あなた、まさか。
6. 希ちゃんによる、誰かのための宣言
「希、あんた一体何考えてるのよ」
「なに? にこっちなんか怒っとる?」
「別に怒ってはいないけど...。 手の内が見えなくてイライラしてるだけよ」
「そういうの、世間様じゃ『怒ってる』ってカテゴリーに入れても過言でもない感情やよ?」
口が下手なわけではない。
1年生の頃から周りの自分へのマイナスな態度には全て口で返してきた。
手を出した方が負けだ、とにこにーは思っていた。
だから、手よりも先に口を出す。
さっさと自分の考えを相手に伝えてしまった方が
グダグダと自分の中で思いを煮込ませて悩み込むよりもラクだという思いがあるからだ。
でも、希との会話はいつもラチがあかない。
矢澤にこにーは会話を諦め、このやり取りに終止符を打つべく上半身を回して前を向いた。
置かれたパソコンモニターに映るのは、ハイヒールガール、エリチカさんが踊るバレエシーン。
何回も見て、にこにーは思う。
こいつ、踊り上手ね.....ついつい魅入いらされる
にこにーはアイドル研究部なだけあって、アイドルヲタであった。
私には観察者としての経験がある。
私にはアイドルの質を見極める眼がある。
私にはダンスの良し悪しの区別ができる。
私には本物を見分ける力がある。
そんな自負はにこにーを、孤独な高みへと押しやっているだけであったのだが。
希ちゃんはどこからか持ってきた動画を「これ、見て」とにこにーに押し付けた。
普段はにこにことして、よくわからないスピリチュアルな雰囲気が漂う彼女が
にこにーに初めて眼光をまっすぐに光らせて言うものだから。
にこにーはそれを見る以外の選択を選べなかった。
見る前に1つだけ、せめてもの抵抗として質問をした。
「希は、どうしてこいつに構うの?」
希ちゃんはそんな風ににこにーがエリチカさんに興味を持つことは現段階では無いと思っていたから、
にこにーからの自主的なその質問になんだか嬉しくなった。
「似てるから、かな」
「似てる......。希とこいつが?」
「ううん。にこっちとえりちが」
一瞬にして、にこにーは顔をしかめた。
「その顔、他ではやめときぃよ。アイドル失格や」
「......似てないわよ。どこをどう見たらこいつと私が似てるだなんて結論に至るわけ?」
その問いに希ちゃんはにこっとにこにーに笑い返しただけだった。
にこにーはその笑顔に返事を期待することをやめた。
自分で気付け、ってことらしい
「ほんと、希。あんたはスピリチュアルだわ」
「にこっちがうちのこと褒めるなんて、なんや嬉しいなぁ〜」
ワンテンポ遅れてにこにーは返した。
「スピリチュアルって、褒め言葉なの?」
6.5 矢澤にこにー(N)
胡散臭さが漂うそのデータを、半信半疑で観たにこにーは、
まるで脳天を分厚い辞書でぶん殴られたような衝撃を受けた。
眼が釘付けになった。
それだけで、エリチカさんへのにこにーの評価は十分だった。
見れば見るほど、こけし落としのようににこにーの中で何かが下がっていく思いがする。
幼いがその表情には今の彼女にはない何かがある
彼女は、一体どうして踊りをやめてしまったのか
こんなにも
にこにーは思った。
認めなければならないもの、これはたぶん、認めなければならないものだ、と。
アイドル研究を貫き、磨き上げてきた自分の勘がそう告げていた。
ただ、自分の中にもう一つ卑しく醜い感情が広がっていくことも同時に実感していた。
「こんなの、認めなくない......」
希ちゃんは優しいから、やっぱりにこにーのそんな部分にも何も言わない。
「でも、うちがミューズにえりちを入れたい理由、わかったやろ?」
少し考えさせて、とにこにーが希ちゃんの横を通り抜け、
部室のドアが勢いよく閉まり、クラシックの、
その余韻の中で優雅に踊る幼いエリチカさんの動画が希ちゃんだけが残った部室の中で流れ続けるのは、
それから2分後のことである。
6.9 希ちゃんだって、不安を背負う
にこにーが去ってから、希ちゃんは反省していた。
やり方が
ではなかった、と。
あんな風に自分の中に長い時間をかけて築き上げてきたものをコケ落としされては、
にこっちでもなくても、まきちゃんとかならゲキ怒りされているだろうと、反省した。
その反省の念は、希ちゃんをその場に留まらせ、歩を立ち止まらせた。
「にこっちに嫌われたかな......?」
希ちゃんの後悔は、彼女から関西風味のアクセントを奪っていた。
あの2分後からさらに小一時間経ったぐらいの時間がその部屋に訪れるその瞬間、部室の扉が不躾な音を立てて開かれた。
希ちゃんはその音に驚いて振り返る。
そしてさらに驚いた。
「にこっち......どうして......」
「聞きなさい、希」
にこにーは希ちゃんの眼をまっすぐに見て言った。
その瞳の輝きに希ちゃんは釘付けになった。
7.22 矢澤にこにー(UR)
「考えたのよ。このにこにーが頭をこねくり回して考えたわよ」
「......なにを?」
「にこにーのくだらない感情に振り回されて、今後ミューズに引き起こされる物事の損害よ」
「おいくらになりました?」
希ちゃんに何らかの違和感を持ったにこにーだったが、その正体がわからない。
「......少なくとも、にこには払えそうにはなかったわ」
その言葉に隠された意図に、希ちゃんは震えそうになった。
「そ......それなら、それなら、にこっち......もしかして......」
照れ隠しでため息をつきながら、にこにーは伝えた。
「認めるわ。認めないと、そんなのアイドル研究部部長にこにーとして生き恥をさらすことになるからね......うわっぷ!?」
希ちゃんが感極まってにこにーに抱きつく。
にこにーの身体に一瞬にしてかかったその衝撃が、その圧力が、その暖かさが、希ちゃんの気持ちから発するものを表していた。
にこにーは頑張って、よろめきながらも希ちゃんから受け取ったものを全て抱きしめた。
「にこっち...ありがとう。ありがとう......私、わたしっ......にこっちにひどいことしちゃったから嫌われたと思って......それで......それで......!!」
にこにーは、先ほどの違和感に気がついて、ふふっと笑った。
「あぁ。あんた、私って何よ。普段の一人称どこいったのよ。それにエセ関西人までどこいったのよ」
「だ、だって......私、にこっちがされたら嫌なことをしちゃったから.....そんなことされたら嫌だろうってわかってたのに」
にこにーはそんな風に自分を責め出す希ちゃんをさらに優しく抱きしめた。
「バカねぇ。私があんたからもらったものと比べたら、あんなの傷にもなってないっての」
「むしろ視界が開けたわ。ううん。視界が低くなったというべきかしら」
「低く?」
「知らない間に高いところに行きすぎて、もう一人じゃ降りれなくなってたのよ」
8. 救われなければ、救えない
希ちゃんは2年生の頃のにこにーを思い出す。
次々とアイドル研究部の部員が止めていき、1人ぼっちに慣れてしまったにこにー。
その寂しげな背中、でも、誰にも泣き言1つ言わない背中。
孤立しそうになっても誰にも媚びずに自分自身をへし曲げず、
でもそれが故、
自分で自分をどんどんと人目のつかない場所へと追いやってしまった、
にこにーを思った。
希ちゃんはずっと、同情からでもなく憐れみからでもなく、もっと暖かいものでその背中を支えてあげたいと思っていた。
そして、そんな風に思いながら本当の意味では何もできずに立ち尽くすことしかできていなかった自分を許すことができなかった。
「......にこっち、私、待ってたよ。にこっちがまた誰かと同じ目線で何かを楽しめるようになること」
「なによ、そんな大げさなこと言って」
「大げさなんかじゃない。私は、にこっちのこと、見てるだけしかできなかったから」
希ちゃんが悔しそうに口を結ぶ。
「でも、えりちなら、きっと。だって、にこっちとえりち、やっぱそっくりだもん」
その希ちゃんの言葉ににこにーはムッとして、抱きしめていた腕を緩め、
希ちゃんの額にパンッとデコピンを1発食らわせた。
「いたっ!?」
「見てるだけしかできなかっただなんて、認識を改めなさい。にこに、希は話しかけてくれたじゃない。それってすごいことなのよ。私をこうして変えてしまうくらいに」
「変える......」
「希と出会わなければ、私はきっと石鹸叩きをして終わった自尊心拗らせたクソバカ女で終わってただろうから」
だから、だから、ね、と、にこにーは言葉を切れさせながらも続ける。
にこにーはこんな風に他人に気持ちを告げたいと思う自分の気持ちが信じられなかった。
それでも、この胸に確かにある、この温かなものを、伝えなければこの先、希ちゃんと一緒に肩を並べることはできないと、なぜか思ったのだ。
恥ずかしさと緊張感、そして若干の恐怖が入り混じる歌詞が、
矢澤にこにーの声という旋律に乗る。
「私をミューズと出会わせてくれてありがとう、希」
希ちゃんはこんな風に誰かに感謝の思いを伝えられたことがなかったから、
思わず、そんなつもりなんか全くなかったのに、
そんな言葉をもらえて、涙が止まらなくなった。
「泣かないでよ、そんな風に一方的に泣かれるとなんか私が悪者みたいじゃない」
「にこっちのデコピンが痛すぎたんだもん......」
「それなら、仕方ないわね」
にこはにこっと笑ってさらに続けた。
「希。自信を持ちなさい。あなたには人を変える力がある、あなたと出会わなければ、私はこんなことしようだなんて、思わなかったわ......うん。感謝しないとね」
希ちゃんはにこにーの左手に小銃が握られているのに気づいた。
「今度はにこが、今もなお華麗にハイヒール役をこなしているもうひとりのポンコツに一発食らわせて、その高さから引きずり下ろしてやるわよ」
「......にこっち」
自分の名前を心配そうに呼ぶ、希ちゃんをとてもありがたいと、にこにーは思った。
ようやく理解する。
こんな風に希に心配されているあいつは、うん、そうね。
希の言う通り、にこに似ているのかもしれない。
だから、他でもないにこがーーーやらなければいけないんだ。
「覚悟しなさいよね。絢瀬絵里......!!」
「それはなんとも......」
スピリチュアルやね
希ちゃんの決め台詞が部室に響き渡った。
9. ハイヒール・エリチカさん
エリチカさんは自室のベッドの上でボンヤリしていた。
先ほどまで妹と妹の友達の前で、高校のプレゼン原稿を読み反応を見ていたのだが、
途中で寝だしてしまった彼女たちに怒りもわかないくらいだった。
「当然よね......魅力がなくて、アピールするどころか、その歴史をツラツラと並べているだけだなんて」
左手を部屋の電灯に伸ばす。
指の間から光が漏れて、眩しい。
ホロホロと理想が溢れ落ちていく。
掴み取りたいのに、自分の意思とは裏腹に、掴み取れない。
うんざりして、伸ばした手でそのまま眼を覆った。
真っ暗なまぶたのその裏側で、先ほど見た幼い自分のダンスが映し出される。
自分のバレエのダンスをこんな風にして再び見ることになろうとは、あの頃のエリチカさんは思ってもみなかった。
「あの頃は、こんな気分の時でも私にはお祖母様の手が頭を撫でてくれていた......」
エリチカさんがそのだうみから見せられた動画は、エリチカさんが最後に臨んだバレエのコンクールのものだった。
あの日エリチカさんは帰ってきてから、幼い頃のビデオテープが保管されている棚を調べた。
どれもこれも角がピシャッと揃えて並べられ、かすかにホコリを被っていたが、
該当するビデオテープだけが少し飛び出ており、ホコリが拭き取られているらしく、
まるで新品のように黒々とした輝きを放っていた。
エリチカさんは妹を問い詰めることはしなかった。
希ちゃんにも、この話題をすることをしなかった。
希のことだ、きっとこの行動には何かしらの意味があるのだろう
そして、その意味に私は薄々気が付いている......
自問自答する。
今の私はあんな風に誰かのために踊れるかしら
そして、何よりも自分自身のために踊りたいかしら
「無理よ......そんなの。私はもうあの頃のような私じゃない......今の私は」
今のエリチカさんは、
誰よりも高いハイヒールを履いている。
「踊れないわぁ......今のこんな私じゃ......」
そしてなにより、
今のエリチカさんはミューズにとって、
誰よりも完成度の高い悪役になってしまっていた。
「ハイヒール......。確かにこの学校でそんなものが似合うなんていうのは」
私ぐらいしか、いないのかもね。
10.クラスのみんなにはナイショだよ
エリチカさんは、躊躇っている。
朝学校に来たら
「にこっちがえりちに話しがあるからちょっと時間もらえないかって」
と、希ちゃんが話をしだしたから無理もない。
思わず、窓際の方に目をやる。
右手で頬ずえをついたにこにーがエリチカさんの視線に気づいて慌てて窓の外に視線を向けてるところだった。
私がハイヒールだとしたら
矢澤にこ
あなたが私に抗う正義の味方役なのね......
「だとしたら、矢澤さんが履いているものは一体なんなのかしら」
エリチカさんがボソッとつぶやいた。
希ちゃんは、頭にはてなを浮かべながら
「学校なら、そら、にこっちだって、上履きなんやない?」
とすんなり答えた。
放課後。
すでに人がいなくなった教室で
エリチカさんと、希ちゃん、そして矢澤にこにーの席だけがいまだに埋まっていた。
エリチカさんは、矢澤にこにーの案件に応えようとして、矢澤にこにーの出方を伺っていただけなのだが、
思いの外、矢澤にこにーが動きを見せないので、教室から立ち去ることを躊躇していた。
3人以外のクラスメートが教室から出ていってから1分後、
にこにーは椅子をガガガと言わせ、おもむろに席を立ち、
エリチカさんの席に歩いてきた。
場が整うのを待っていたのか、
ならば、私はここにいて正解だったようね
エリチカさんは自身の行動の確かさに安堵した。
のもつかの間、エリチカさんの席に近づいた矢澤にこにーの左手に掴まれたものに気づいてギョッとした。
矢澤にこにーの左手には小銃が握られていたからだ。
おもちゃに決まっている。
そんなわかりきっていることに動揺するだなんて、
私らしくないわ。
「単刀直入に言うわ。絢瀬絵里」
10.21 アイドルによるアイドルのためのハイヒールの壊し方
矢澤にこにーはエリチカさんの目を据えて言った。まっすぐに言う。
ゴクリと喉がなった。
誰かに自分の名前を呼び捨てにされるのは、希のあだ名を差し引いては久しぶりのことだった。
チャキッと音がして、右のコメカミに銃が突きつけられる。
エリチカさんは突きつけられたものの正体によって、瞳をそらすことができなかった。
希、あなたはわたしにこんな結末を用意するためにわざわざあの動画をみんなに見せたの......?
希ちゃんを一瞥する。
希ちゃんの表情にはエリチカさんを心配するようなものも、にこにーの行動を咎めるようなものも浮かび上がっていなかった。
そう。あなたはそっち側の人なのね。
別に裏切られたとは思わないけど。
これが希が描いた物語なら、私はどんな結末でも心から受け入れられそうよ
エリチカさんはにこにーに向けてまっすぐニコっと微笑んだ。
にこにーはその笑顔に当てられて、眉をしかめた。
「絢瀬絵里」
「なにかしら」
私もここまでかしらね、なんて柄にもなく思う。
高校も廃校になって、希も取られてしまう。
さっさと、ミューズを認めておけばよかった
「ミューズに入りなさい。いや、入れ。これは決定事項よ」
ゴクリとまた喉がなった。
その発言元が矢澤にこにーのもさることながら、その内容に驚いている。
周りの音が消えて、心臓が途端にばくばくとした。
どうして、なぜ、あなたは、そんなことをいうの
よりにもよって、ハイヒールになれすぎている、わたしに
「認められないわ......そんなこと......」
「認めなさい。あなた、本当は踊りたいんでしょう?」
にこにーの言葉に思わず身体がビクッと反応した。
なに、今の......いえ、私はそんな、踊りたいだなんて......そんなことを思っているわけが、
そんなこと、あるわけがないじゃない
ハイヒールを履いたやつが、踊りたいだなんて、
それこそ、認められる、わけがない
「何をバカなこと言っているの。私は踊りたくもないし、そもそもミューズの存在を認めていないわ。
スクールアイドルだなんて、そんなもの、......そんなもので学校が救えるのなら既に」
その言葉の先に続くセリフにエリチカさんは息を飲んだ。
私は一体、何を言おうとしていたのか
「すでに、何よ」
言葉を繋げない。
口の中がただ、無性に乾いていた。
あまりにも口の中がカラカラになりすぎて、口を開けたら、渇きを潤すために水を欲するように、
私は何かを、欲してはいけない何かを口にしてしまいそうな予感で口の中が一杯になる。
にこにーはその間もエリチカさんを黙って見つめている。
「1つ提案があるわ」
「な、なにかしら」
「私は今、左手に小銃を持っている」
「ええ、そうね。本来ならば生徒会長としてすぐにでも没収したいくらいの代物だわ」
「生徒会長として......ね。絢瀬絵里。あなたはこんな時でも自分の役割に正しくあろうとするのね。
そういうとこ、にこ、ほんっとそんけーしちゃうカモっ☆」
「全然尊敬なんてしてないくせに」
「あったりまえでしょ」
にこにーの秒単位でコロコロと変わる声色と表情にエリチカさんは、なにやら感動すらしていた。
こんな風に迷いなく自分を変えられたらどれほど楽なのだろう。
「あんた、ポンコツだから、ハッキリ言ってやるけどね。自分の役割に正しくあろうとし過ぎなのよ」
「自分に与えられた役割に忠実になって悪い?」
「悪いわよ。何言ってんの?
人に迷惑かけなければ何してもいいとでも思ってるの?
そんなの無理よ。
人間必ず誰かの迷惑になるように世の中廻ってるんだから。
役割ってね、役を割り振るって書くの。
知ってる?
役を割り振られなかった人にとって、
そんなどこの誰かが勝手に決めた役割に忠実です、
だなんて言われても、
そんな者迷惑以外の何者でもないのよ。
役を担っていて誰かに迷惑をかけずに生きてくだなんて、
まさかそんな甘っちょろいこと考えて生きていこうだなんて考えてないわよね?
自覚ないんだろうけど、
あんたの行動、
ニコたちにとってスッッッッゴク迷惑かかってるんだから」
面と向かって言われる事実に、グッと息
が詰まった。
怖い。
心から自分の目の前にいる人は私に敵意を向けている。
本気で私を引きずり降ろそうとしている。
怖い。
今更どうしたのよ、私。
これしきの言葉で心を揺らしてはいけない。
迷惑がかかるなんて、当たり前でしょう?
敵意を向けられるなんて、十分必要条件でしょう?
だって、私はお高く気取ったヒール役なのだから。
「そう。迷惑よね。でも、学校が廃校の危機に晒されているのにスクールアイドルで救えるだなんてそんな今時の小学生でもしなさそうな陳腐な考えの方が、迷惑よ」
その言葉に、にこにーは思わずクククッと笑いを漏らしてしまった。
「あんた、本当、上手ね、ハイヒール。もう自分でも脱げないんでしょう。高すぎて引き下がれないんでしょう、1人じゃもう降りれないんでしょう」
もうそれって道化の一歩手前よね。
エリチカさんは耳までカッと赤く、熱くなる。
「あなたに一体なにがわかるのよっ!?」
エリチカさんの右拳が机に叩きつけられる。
その衝撃音に希ちゃんが顔を歪ませた。
「わかるわよ。にこもそうだったもの」
「えっ.........」
「そういう風に強がりなところまで、似てなくてもよかったのに。スガタカタチはこんなにも違うのに、本当、自分を見ているみたいだわ」
にこにーの赤い眼が、エリチカさんの青い眼と交差する。
思っていたほどこういうのも悪い気分ではない、とにこにーは思った。
「さて。前置きが長くなったけど、提案よ。絢瀬絵里」
右のコミカミ辺りで、カチャッと、弾丸が装備される音がした。
「ヒール役は正義の味方に殺されるってベタだけど、やっぱり素敵な物語の運びだと思わない?」
にこにーは、ニコっと笑う。
その笑い方を、エリチカさんは、とても正義の味方に相応しくない笑い方だと思った。
にこにーはためらいもなく、トリガーを弾いた。
突如としてパンっという破裂音が耳元で鼓膜をつんざいて、
周りに火薬の臭いが立ち込める。
まさか本当に打ってくるとは思っていなかったエリチカさんは驚きすぎて反応が出遅れた。
目をすぐさま瞑ったが、ギュッとした瞼の裏側でチカチカと、星が四方八方に飛び散るのが見えた。
それくらいの音量だった。
エリチカさんの心臓はバクバクと、身体中に血液を送り出していた。
怖い、とすら思う余裕がなかった。
耳に残っていた破裂音がようやくなくなった頃、恐る恐る、エリチカさんは両目を開けてみると。
目の前には矢澤にこにーの笑顔があった。
「はい、死んだー。これでハイヒール役の生徒会長は死にましたー! 正義の味方役の矢澤にこちゃんの大勝利っ☆ やったねっ!!」
にこにーが右手で作ったVサインをエリチカさんに突きつけた。
エリチカさんは、状況を理解できてない。
「えっ、えっ......私打たれたけど、......死んでないわよ?」
「はぁ!? 何ポンコツなこと言ってんのよ。この小銃が本物なわけないでしょ! いやよ、にこ。人殺しなんて前科背負うの。どうせなら年の瀬にNG大賞とか貰った方がまだマシよ」
「......でも、こんなに火薬臭いし。すっごい音がして今も鼓膜痛いし」
右耳がジンジンして、手のひらで耳を覆った。
「あんた、ロシア住んでたから知らないだろうけどね、日本の駄菓子屋とかには、火薬だけでめちゃくちゃ音のなる無害なおもちゃの小銃とか売ってるのよ?」
「そんなの、知るわけないじゃない......」
「でしょうね。あなたはきっと外を駆けずり回って遊び疲れるような子供じゃなかったんだろうし。むしろ、1日中バレエで回りすぎて足先とか痛くさせてたのでしょう?」
幼い頃の日々が、にこにーの言葉でフラッシュバックした。
バレエが好きだった。
踊ることが好きだった。
コンクールで賞を取ることに一生懸命だった。
なにより、自分が踊ることで
お祖母様に笑ってもらえることが嬉しかった。
「なんなのよ......。あなたは一体なんなのよ。私をどうしたいのよ......」
「いや、だから、ミューズ入れって言ってるでしょ。勉強はできるのに、本当、ポンコツすぎるっての」
エリチカさんは口を真一文字に結んだ。
いまさら、私がスクールアイドルだなんて、できるわけがない
散々他人の行動と熱意を否定しておいて、そんな私がいまさら、自分が誘われたからって、
ノコノコとハイヒールからシューズに履き替えられるわけがないじゃない。
「そんなこと、誰も許してくれないわ」
「うちらは許してるよ、えりち」
「希......」
希ちゃんは優しくエリチカさんの左手を、その両手で包み込んだ。
「どうしても許す許さないの問題にすり替えたいのかしら。そうね、許されたいのなら、あなたはやっぱりスクールアイドルとして踊りなさいよ。
高みの見物されてても腹が立ってしょうがないわ。
私たちはあなたのお抱えの踊り子なわけじゃないんだから」
「踊る......私が......スクールアイドルとして......」
11.おもいおもいあしかせをつけるもの
複数の足音が近づいているのに気がついて、エリチカさんは後ろを振り向いた。
そこには、うみほのピーまきりんぱなの6人が並んで立っていた。
「あなたたち......」
こうさかほのかがゆっくりとエリチカさんの方へ歩いてくる。
「ってことなんだけど、どうかな、絢瀬先輩」
「......いいの?」
「いいんですよっ。むしろ、ーーー絵里ちゃんじゃないとダメなの」
そうしてにっこりと微笑むこうさかほのかを、エリチカさんは、とても眩しく思った。
スッと手を差し出される。
その迷いのなさにエリチカさんの瞳が揺れた。
沈黙が続く。
エリチカさんの中で後悔と戸惑いが螺旋のように渦を巻く。
手を伸ばせない。掴めない。
ハイヒールを脱ぎ捨てた、私は、綾瀬絵里はこんなにも臆病者のポンコツだったなんて。
希ちゃんの両手がエリチカさんの左手をから解かれ、そのままポンっと手を置かれた。
じんわりと希ちゃんの手のひらの暖かさが肩エリチカさんのに染みてくる。
「えりち。大丈夫。こわくないよ」
「希。......でも、だって、私は、これまでみんなに」
「ええこと教えてあげるよ、えりち」
希ちゃんはスピリチュアルに優しく笑って言った。
「ミューズは最初から9人なんよ。えりちを入れて」
エリチカさんは、目頭が熱くなった。
でも、泣いてはいけないと、自分に言い聞かせて必死に堪える。
希ちゃんには見られたくなくてさりげなく見えるように前を向いた。
そうして向いた先にはあるのは、差し出されたこうさかほのかの手のひら。
迷いはもうなかった。
「ミューズに入り......ます......」
手を掴む。
こうさかほのかのてのひらは暖かく、
すぐにエリチカさんの左手を掴み返してくれた。
エリチカさんはその瞬間ホッとした。
ああ、私が欲しかったもの、
私が望んでたもの、
それはこんな風に、
ハイヒールとして役割を全うすることではなく、
絢瀬絵里というどうしようもなくポンコツな人間が
誰かと笑いあうことだったんだ
「うん。ーーーここにいる全員が認めましたっ!!」
履いていたハイヒールを正義の味方にこにーにぶち殺されたエリチカさん、こと、絢瀬絵里は
こうしてミューズに加入した。
本格的に泣き出した絢瀬絵里をそれぞれが抱きしめた。
誰よりも先に絢瀬絵里を抱きしめた矢澤にこはみんなに押しつぶされた。
そんな風にして
1人の人間が長年積み上げてきたものは、
このように時を経て誰か誰かの思い思い足かせをつけられて、
その高度を下げられてしまうものなのかもしれない。
それでも。
12.エリチカさん、夏の空の下
帰り道。
すっかり目の赤くなった絢瀬絵里は希ちゃんにこう尋ねた。
「どこからどこまでが希に作られたストーリーなのか、わからなくなっちゃったわ」
「ふふっ。そんな、作られたストーリーだなんて。ただうちは、本心からやりたいことをして笑うえりちの傍にいたいなって思っただけやん」
桜は既に葉桜と化し、梅雨は明け、外の木々では蝉が歓喜の声をあげていた。
「スピリチュアルやろ?」
希ちゃんが絢瀬絵里にいじわるっぽく問いかける。
そうね。
絢瀬絵里は照れ隠すために、空を覆い尽くすほど高く、積もりに積もった入道雲を仰ぎ見た。
泥だらけのハイヒールを脱いだ今となってはとても空が、全てが、高く、遠くに見える。
手を伸ばしても掴めないかもしれない。
それでも、たとえそうだとしても。
私の手を掴んでくれる人たちが私と同じ目線で、私の傍にいてくれる。
それはきっと
「とっても、ハラショーなことね」
前方から矢澤にこが
「絵里! 希! 歩くの遅いわよっ!! ほら、早くっ!! 置いてくわよ!!」
と2人を呼ぶ声が夏の空に響く。
それに追いつくように、
1度お互いに目配せをし合った後、
希ちゃんと絢瀬絵里は声の方へ駆け出した。
おわり
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