【艦これ】提督「風病」【SS】 (685)
風病という言葉がある。
古くは、風の気に当たって起こると考えられた病のことだ。他にも中風なんて意味もあるが、私にとっては前者の意味が何よりも関わりがあった。
昨日のことだ。すっかり日も暮れた鎮守府の波止場で、風に当たりながら私は大好物のウィスキーをストレートで嗜んでいた。
晩秋の海風は仄かな潮の香りを漂わせ、長く続いた夏日に終焉を告げたかのように冷たかった。寒がりな人には充分鳥肌を立てるくらいであったが、ウィスキーで火照った身体には、丁度よかった。
月明かりに照らされた海を見ながら呑む酒は格別だった。飲んでいる酒はブラックニッカ。トランプに出てくるような髭の王様が描かれたウィスキーで、いかにも高級そうだが、安酒中の安酒だ。しかし低級品といっても侮るなかれ。飲みやすくて中々美味いウイスキーだ。安酒では、美味い方だと私は思う。
もちろん、より上等な酒を楽しみたいというのが本音といえば本音だ。しかし、今は戦時中でただでさえ物資が不足している。私の所のような駆け出しの鎮守府では、高級品など望むべくはない。安酒でもこうして配給されればいい方だし、贅沢はいえないだろう。この『髭の王様』とは、それなりの付き合いができて、今では愛着さえ湧いていた。
相棒を傾け、喉と胃を焼きながらただ海を見る。
月を写した暗い海は、ゆったりと動いていた。押しては返す穏やかな潮騒が、静かな夜に木霊する。俺は、この静かな一時が何よりも好きだった。
何もかも忘れていられるから。
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楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しいことも、辛いことも、全て。
自分が提督であり、年端のいかない少女たちを死地に追いやる悪魔であることも——。
この広い海の前では、全てがちっぽけに思えるのだ。俺など、浜辺の一握の砂ほどもない存在なのではないかと、錯覚できる。波に飲まれ、すぐに形を崩して分からなくなるつまらない存在だと。
しかし、現実というのは、記憶というのはふとした瞬間に頭を過る。身悶えするほど恥ずかしいことや、内臓が沸騰するほどの怒り、そして目尻を湿らせる悲しさ。それが途端に湧いて来ると、俺は己の残忍な実像を思い出してしまう。
それは俺にとって、とても残酷なことだった。
現実からは逃げられないぞ。目を逸らすな。そう内側から何者かに語りかけられる気分になり、気が滅入る。現実は残酷さの象徴だった。
だから、相棒の力を借りて、現実さえも歪めてしまう。頭の中を歪め、仮初めの高揚感に委ね、静かに笑うのだ。
決まって、酔いが覚めれば死にたくなるのだが。しかし、そうと分かっていても身を委ねてしまうのだから、俺は立派なアルコール中毒者なのだろう。
こうしてこの波止場で1人晩酌に暮れるのも、もう何度目か分からないほどだ。
いつも淡々と、ボトルが底を突くまで呑む。
潮騒に揺れて、歪んだ現実を一頻り楽しんだ後、部屋へと戻るのだ。
だがしかし、昨日はそうしなかった。何故かは分からないが途中で記憶が途絶え、気がつけば波止場で大の字になって寝ていたのだ。
つまり、一晩中冷たい夜風に曝されていたことになる。酒の火照りなど、薪をくべない篝火のようにすぐ消し飛ぶから、結果として俺がどうなったかなど簡単に分かるだろう。
間抜けにも、風邪を引いてしまったのだ。
そして、俺は自室の布団に押し込められてしまった。頭には氷を乗せられ、口には検温機が挿さっている。鎮守府の長としては、何とも恥ずかしい格好であった。
ピピピピ、と小さな機械音がした。
俺の枕元に鎮座する浜風が、口から検温機を抜き取った。検温機をしばし眺めて、大人びた端整な顔をしかめた。
浜風「……三十八度五分ですか。朝より酷くなりましたね」
浜風は溜息混じりにそう言った。艶かしい口から息が零れるのに併せ、豊満な二つの脂肪が揺れる。そこに目が行ってしまうのは仕方ない。男の性だ。
浜風「提督……、何を見ているのでしょうか?」
浜風が目を細める。
提督「いや、空は青いなあと思ってな……」
浜風「今十九時ですよ。とっくに日は暮れています」
提督「……」
ぐうの音も出ない。
俺が目を逸らすと、浜風は頭痛を抑えるように頭に手を置いた。白銀の髪がハラリと動く。
浜風「いやらしい……」
提督「はい、ごめんなさい」
浜風「別に謝らなくて結構です。提督がいやらしいのは、今に始まったことではないのですから。この前だって……」
真面目そうな見た目にそぐわず、浜風は以外と毒舌である。チクチクと、言われたくないことを小言のように言ってくるのだから、まるで小姑だ。
クドクドと説教し出した浜風に少しうんざりして、俺は寝返りを打った。氷が落ちたが気にしない。とにかく聞かないフリをした。
浜風「まだ話の途中ですよ。こっちを向いて下さい」
無視無視。
浜風「提督、聞いていますか?」
聞こえないですよ。
浜風「……」
浜風「ちょっと、この部屋熱いですね……。上脱いじゃいましょうか」
俺は振り向いた。ほとんど条件反射だった。
浜風の呆れた顔が、そこにはあった。
浜風「嘘ですよ、ハレンチ提督」
提督「計ったな」
浜風「いい大人がこの程度の罠に引っかからないで下さい。全く、呆れてものも言えません」
提督「だがな……」
俺は反論しようとして咳き込んだ。胸の内側に幾度か衝撃が走り、腫れた喉が震える。
浜風「大丈夫ですか? 提督」
心配そうに、浜風が覗き込んできた。咳をしながら手振りで大丈夫と伝える。
浜風「無理しないで下さいね。ちゃんと咳止めは飲まれましたか?」
提督「あ、ああ……。渡されたクスリはお粥を食べた後にちゃんと飲んだよ」
浜風「そうですか」
そう言って、浜風は微笑む。その可愛らしい表情に、何処か熱っぽい艶やかさがあるように感じたのは錯覚だろうか。風邪のせいで頭の中がぼやけているから、そう見えるのかもしれない。
浜風「それなら、そろそろ効いてくるでしょうね……」
ふふっ、と笑う浜風。
何だか、少しぼうっとしてきた。睡魔が襲ってきたと言った方が正しいか。咳止めや抗生剤には服用すると副作用で眠くなるものもあるが、俺が飲んだのは強力だったみたいだ。眠気を感じた瞬間、睡魔が恐ろしい速度で侵食を始めた。黒いシミが津波のように広がり、意識が遠くなる。
浜風「提督……」
浜風が優しげに俺を呼んだ。
浜風「おやすみなさい」
その声を最後に、俺の意識はブラックアウトした。
………
……
…
可愛い寝顔。
私は、提督の穏やかな寝顔を見ながら安らぎと高揚感を感じていた。
この安心し切ったあどけない寝顔を独り占めにしている。そう思うだけで、私は身が震えるほどに幸せだった。
ここには、私たち以外誰もいない。時計の音と提督の小さな寝息しかなく、静寂に満ちた楽園であった。この世界では提督がアダムであり、私がイブである。
浜風「ふふっ……」
笑いが、堪えられない。
私の理想とする世界が、擬似的であっても創造されたのだ。絶頂を覚えずにはいられなかった。
私は安らかに眠る提督の額に氷を載せ直した。そのまま手を彼の柔らかい頬へと進ませた。
撫でる。二度三度、その柔らかさを確かめる。
浜風「全く、外でお酒を飲んで寝るなんて、不要人ですよ。風邪引くに決まってるじゃないですか」
私は呟きながら、どの口がそんなことを言うのかと思った。
そうなるように仕向けたのは、私だと言うのに——。
浜風「でも、あなたが風邪を引いてくれたおかげで、今は二人きりです……」
心臓が鼓動を強める。血流が速まり、全身が多幸感で溶けてしまいそうだ。
喉がやけに渇いた。飲み込んでも飲み込んでも唾が溢れて止まらない。渇きと飢えで私はどうにかなってしまいそうだった。暗い欲望が理性に陰りを生み、飲み込もうと胎動し出した。
ああ。ああ、あなたを食べてしまいたい。
貴方と繋がり、あなたの愛の結晶をこの身で受け止めたい。あなたの肉も、骨も、血も、体液の全てに至るまでこの身に取り込み、私だけのものとしたい。ああ!ああ——。
提督の頬を撫でる手が寝巻きから露出した胸板へと伸びかけたところで、私は手を止めた。
冷静になれ——。
私は自分にそう言い聞かせる。
私は、盛りのついたメス猫どもとは違う。ここで一方的に提督を求めてしまえば、私はその低俗な獣どもと一緒になってしまう。
堪えるのだ。
襲うのは簡単だ。無理やり繋がって子種を得るのもそう難しくはないだろう。既成事実を作ってしまえば、この優しい提督のことだ、真摯に応えようとするに違いない。だが、それでは意味がないのだ。私のイデアは、そんな結末に生じたりなどしない。
そこには、提督の意思がないからだ。
真実の愛とは、お互いの同意があってこそのものだと私は信じている。
だからこそ、私が求めるだけでは意味がない。提督が私のことを求めるようになって始めて、私の愛は真の形を得るのだから。
提督が、私を……否、私だけを求めるようになるまで、待たなければならない。
今は、ひたすら我慢だ——。
計画はゆっくり慎重に、確実に進めることが肝要だ。欲望に流されれば、全てが台無しとなる。
浜風「我慢、我慢……」
私は、提督が咥えていた体温計を眺める。熱を感知する先端部分が、しっとりと濡れていた。提督の唾液。それは、私にとって蜜に他ならない。
このくらいなら、いいだろう。
浜風「はあ、はむ……ちゅう……」
私はアイスのように、検温機を舐め回した。舌でねぶり、吸い、その極上な甘さに酔いしれる。
浜風「ああ、提督……。あなたは、何故こんなに……」
こんなにも甘いのか。
浜風「待って……ちゅる、ちゅ……ちゅう……いて、くださいね。どんな手を、使ってでも……ちゅ……必ず……はむ、れろ……あなたを、私の虜に……」
投下終了です。
以下は注意書きと簡単な説明です。
・計算高いヤンデレ浜風のSSを目指しています。
・地の文ありで進行します。そっちのが書きやすいので。苦手な方ご了承下さい。
・鬱、グロ注意。別作品よりある意味グロくなると思います。
・轟沈表現ありです。
・内容が内容なんで、人によっては胸糞かもしれません。
・一週間から二週間の間で更新します。勉強とかしないといけないので、ご了承下さい。
・浜風は俺の嫁。異論は認める。
第一章
「風の訪れ」
彼女、浜風と出会ったのは、二月の中旬、身を切るような寒さがまだまだ残っている頃だった。
その頃は俺が鎮守府に着任して三ヶ月の節目を迎えていた時期で、各エリアの攻略も順調に進み、ついに南西諸島海域のバシー島沖攻略に乗り出していた。
南西諸島海域は、鎮守府近海の敵に比べてかなり強くなっていた。赤く輝くeliteクラスに、空母ヲ級などの強力な敵が次々と現れ、我々艦隊は非常な苦戦を強いられていた。
何度かバシー島沖に出撃しては、誰かしら大破をし帰投するという流れを繰り返していた。悪い流れが生まれ、資材も段々と少なくなり、焦りを感じずにいられなかった。
ある日、第一艦隊を出撃させて旗艦の榛名が大破してしまい、帰還する流れになった。またしても攻略できず、頭を抱えたが、出来なかったものはしょうがない。すぐにマイナス思考を断ち切った私は、当時の秘書艦だった雷とともに、第一艦隊を波止場にて出迎えることとした。
帰ってきた第一艦隊は皆、事前の報告通りボロボロだった。服は焼け焦げ、血を流しているものもいた。
榛名「只今帰投しました。提督……その、申し訳ありません」
敬礼した榛名が申し訳なさそうに言う。彼女の装甲はほとんどが剥がれ落ち、弾が掠めたのだろう。腹部が赤く染まっていた。
大破状態だった。俺はその痛々しい様子に眉を潜める。彼女に労いの声をかけて、雷に榛名を入渠させるよう指示を出した。
雷「さあ、榛名さん。行きますよー!」
榛名「ちょ、ちょっと。雷ちゃん、もう少し優しく」
快活な雷に引き摺られるように連れて行かれる榛名を横目で見送り、俺は第一艦隊の方へと向き直った。
皆、軍人だけあって直立不動で待機していた。幸い大破は榛名だけで、その他の皆は中破している者はいたものの、さほど大きな外傷は見られなかった。事前の報告で知ってはいたが、俺は胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
羽黒「あ、あの、提督……」
羽黒が、ビクつきながら遠慮気味に発言する。彼女が何を言おうとしているのかは、すぐに分かった。
提督「ああ、分かっている」
俺は、一列に並ぶ第一艦隊の背後を見遣った。そこには見覚えのない少女が立っていた。
プラチナの輝きを思わせる銀髪に、サファイア色の瞳が特徴的な少女だった。身長は低いが、その顔は端整な作りをしていて大人びて見える。髪で片目が隠れているせいか、何処かミステリアスな雰囲気を感じさせた。
彼女は、第一艦隊と同じく、所々負傷しているようだった。顔や腕には鮮血が流れている。右腕が紫色に変色し腫れ上がっているところを見ると、骨折している可能性が高い。
負傷の具合は、榛名以上だろう。すぐに救護妖精に診せて入渠させた方がいい。
提督「君が報告にあったはぐれ艦の子だな」
浜風「ええ、浜風と申します。艦隊にはぐれて彷徨っていたところを助けていただき、ありがとうございます」
落ち着いた様子で、浜風は頭を下げた。
彼女の表情は氷のように冷たく、涼しげであった。激痛で身悶えしてもおかしくない程の負傷があるにも関わらず、脂汗一つたりとも流していない。
俺は首を傾げる。
やけに冷静すぎはしないか。
提督「まあ、詳しい話は後で聞くとしよう。それより怪我を治してもらう方が先だ」
浜風「そういえば、そうですね」
さも興味なさそうに浜風は言った。まるで他人事のようなその口調に違和感を覚える。しかし、その違和感は一旦頭の片隅に追いやることとした。今は彼女の傷の手当てが何より優先されるべきだ。
提督「羽黒。済まないが、救護室に彼女を案内してやって欲しい」
羽黒「は、はい!」
羽黒は慌てて頷くと、浜風に声をかけて案内を始めた。浜風は怪我の具合から考えられないほど、しっかりとした足取りで羽黒に着いていく。足の負傷はなさそうであったが、それにしても……。
提督「……浜風、か」
変わった娘だな。
執務室で、私は書類整理をしながら浜風を待っていた。榛名や、羽黒たち第一艦隊はすでに入渠を終え報告まで済ましてくれたが、浜風は中々来なかった。第一艦隊が帰還してから六時間が経つ。まだ入渠しているのだとしたら、戦艦並みの入渠時間だ。
俺はふと、救護妖精が提出した浜風の診断書に目を落とした。そこに書いてある内容を見て、暗澹たる気分になる。
裂傷十箇所、打撲跡二十五箇所、内出血四十二箇所、微細骨折六箇所、完全骨折四箇所、全身への火傷――。これ以外にも聞き覚えのない様々な症状が、列を作って並んでいる。
俺が想像していたよりもずっと酷い。普通なら息をするだけで激痛に悩まされるほどの重症だ。昔交通事故にあって、肋骨を折ったことがあるから分かる。寝返りを打つだけで激痛が走るから、しばらくの間寝不足に悩まされたほどだった。
浜風の負傷は、その時の俺の怪我とは比肩に値しないほど酷いものだ。どうしてこんな怪我であんな涼しい顔ができるのか、いや、そもそも動くことができるというのか。
診断書を持ってきた救護妖精の報告を思い出した。
浜風は検査の際も冷静な表情を崩さず、まるで何事もないかのように振る舞っていたらしい。負傷箇所を確かめる触診で「痛いところはないか?」と幾度か尋ねても、浜風はそのすべてに「いいえ」と答えたそうだ。検査が終えて、診断書に書いてある結果を伝えても、至極どうでもよさそうに一言礼を述べただけだったという。まるで他人事のようだった、と救護妖精は戸惑いを隠さない顔でそう言った。
波止場での彼女とのやり取りで、私が感じた違和感と同じだった。
おそらく、浜風は痛覚がマヒしているのではないだろうか。そう考えると納得がいったし、何より救護妖精も同じことを指摘した。浜風はおそらく、「無痛症」なのではないかと。
「無痛症」とは、遺伝的要因により起こる神経障害のことで、文字通り痛みを感じない病気のことだ。国内でも推定二百人ばかりしかいない珍しい病気である。これは、一見すると羨ましく感じるかもしれない。なぜなら、人は痛みに恐怖するからだ。世界には様々な痛みが溢れている。通常人は、その痛みを避けられるなら極力避けて生活するはずだ。特殊な性癖でもない限り、自分から痛みを受けに行くものなどいないだろう。
だが、痛みとは危険信号なのだ。熱したヤカンを触れば熱くて痛いから人は手を放すし、胃や腸、筋肉などの体内の組織に痛みが走ることで、人はそこに潜んでいる病気に気が付くことができる。だが、無痛症はそれらの警告に全く気付くことができない。ヤカンを触って皮膚がグズグズになっても、骨を折っても、体内の病気が深刻なレベルまで進行したとしても、気付けないのだ。それは、恐ろしいことだ。
「無痛症」の患者は、「痛み」がないことを恐れるという。それもそうだろう。自分がいつ、何が原因で死に至るのか分からないのだから。
浜風も、そうなのだろうか。
提督「……いや」
そうは思えなかった。
浜風、彼女は……。
その時、ノックがなった。こんこんと、小刻みにウッド調のドアを叩く音が木霊する。俺は浜風の診断書を机の引き出しに仕舞うと返事をした。
提督「入れ」
ドアが開いた。現れたのは浜風だった。彼女はドアを丁寧に閉めると、背筋を伸ばして敬礼した。
浜風「浜風です。入渠が終わりましたのでご報告に参りました」
提督「ご苦労。随分長かったな」
浜風「ええ。どうやら大変な怪我をしていたみたいで」
またしても、浜風は他人事のように言った。
提督「そのようだな。戦艦並みの入渠時間だった」
浜風「申し訳ありません。私はただの駆逐艦ですのに……」
提督「別に謝らなくていい……って、え?」
俺は驚きのあまり目を白黒させた。
提督「君は、駆逐艦だったのか……」
浜風「はい、そうですが」
怪訝な顔をする浜風だったが、すぐに何やら得心がいったみたいで自分の胸元を見て、呆れたように息を吐いた。どこか、悟ったような表情だった。俺はすぐにその意味を理解して慌てて訂正する。
提督「いや、勘違いしないでくれ。なんというか、すごく落ち着いてて大人びていたから駆逐艦には見えなかったというだけだ。てっきり軽巡洋艦だと思っていた」
浜風「大丈夫です。慣れているので」
浜風は呆れた表情を崩さない。どうやら俺の言葉は、ただの助べえの言い訳と解釈されたらしい。正直、そのような誤解は御免被るが、変に訂正を重ねても疑いが増すばかりなのでやめておいた。
俺は咳払いをする。
投下終了します。
ぶつ切りっぽくて、申し訳ない。
提督「それより、君について色々と聞かなければならないことがある。まずは君の所属と艦隊からはぐれた経緯を聞きたい」
浜風「了解しました」
浜風は敬礼して、続ける。
浜風「私は南鎮守府所属です」
提督「南……。こことは随分離れているな。確かあそこは今沖ノ島海域を攻略中だったはずだが、君は何故バシー島沖などに?」
浜風「……」
提督「浜風?」
浜風「聞いたら驚くかもしれませんが、私は沖ノ島海域攻略中に艦隊とはぐれました」
提督「は?」
俺は驚くどころではなく、絶句した。
提督「ちょっと待て、今、沖ノ島海域攻略中にはぐれたと言ったよな……?」
浜風「ええ」
提督「沖ノ島海域からバシー島沖まではかなり距離があるぞ。君は一体何日間彷徨っていたんだ?」
驚愕する俺とは違い、浜風は実に落ち着いていた。顎に指を当て、思考を巡らせている様子は可愛らしくすらあった。
浜風「太陽が四回昇ったので、おそらく四日ほどではないかと……」
提督「四日……」
そんなに長い間、おそらくは飲まず食わずで漂流していたというのか。しかも、ただの漂流とは違い、南西諸島海域は深海棲艦が出没するから常に命の危険が伴う。四日間たった一人で生き残っているのは奇跡としか言い様がない。
提督「よく、無事だったな」
俺の言葉に、浜風は苦笑いを浮かべる。無事とは言えませんでしたが、とその表情は語っていた。
浜風「悪運が強いのでしょうね。何度も敵と遭遇して、数え切れないくらい砲雷撃を叩き込まれたというのに。自分でも、よく生き残れたものだと思います」
浜風は目を落として小さく笑った。吊り上がった口元とは対照的に、青い瞳は輝きを失い、黒ずんだガラス玉のようになっている。何処か自嘲を匂わせた、翳りを帯びたその表情に、俺は眉を顰めずにはいられない。
まるで生き残ったことを後悔しているようではないか。浜風は、やはり無痛症による無自覚な死を怖れているわけではなさそうだ。むしろ、積極的に死にたがっているのではないかと、俺は思う。
浜風の顔には黒い影が取り付いている。俺はその影に見覚えがあった。
絶望という名の影だ。キルケゴールの言葉を借りるなら、死に至る病である。浜風は間違いなくその凶悪な病を患っている。見紛うはずはない、今でも時折この影に取り憑かれた人達の顔が夢に出てくるくらいなのだ。
俺の、両親の顔が——。
いけない。思い出すな。あの老け切った顔と四つの仄暗い虚ろな瞳が頭の中に浮かぶたび、火のようなムカつきで胸が焼け、強烈な吐き気に襲われる。ここで催してしまうのはまずい。
胸にせり上がりかけた焼ける感覚を、深呼吸をして抑えつける。暖房によって暖められた空気は、焦熱感を抑え込むのにあまり向いているとは言えなかった。
それでも、マシにはなった。俺は口元を隠すように腕を組み、浜風を見る。
提督「とにかく、無事でよかったよ。南の方には俺が連絡を入れて無事を伝えよう。おそらくは数日程で君を引き取りに来ると思う。それまでの間、我が鎮守府でゆっくりしていてくれ」
浜風「お気遣い感謝します。ですが……」
浜風は何かを言いかけて、
浜風「……いえ、何でもありません。流石に疲れたので、お言葉に甘えて少しの間ここで休ませていただこうかと思います」
提督「そうしてくれ。後で皆にも君のことを紹介しようと思う。構わないか?」
浜風「はい、わかりました」
淡々と答える浜風の瞳は、欠けた月のように仄暗い光を帯びていた。
浜風が退出した後、俺はすぐに南鎮守府へ連絡をかけた。
当然、浜風を保護したことへの報告と、引き取りをお願いするためである。
南提督も、はぐれた浜風のことを心配していることだろう。なるべく早く連絡して、相手を安心させてあげたかった。難関海域である沖ノ島海域ではぐれれば生存率はほぼゼロに近いから、浜風が生きていることを知れば手を挙げて喜ぶに違いない。
俺は面識のない南提督の喜ぶ姿を勝手に想像して、気分を良くしていた。だが、その気分は南提督へと電話をし出してから消し飛ぶこととなった。
南『断る』
浜風の引き取りをお願いすると、南提督はそう即答したのだ。
俺は耳を疑った。
提督「はい?」
南『だから、断ると言っている』
南提督は苛立ちを匂わせた声で答えた。
提督「どうして断るのでしょうか?」
南『あれは、もう我が鎮守府の所属ではなくなったからな。私の預かり知るところではないよ』
提督「……は?」
所属ではなくなった? 一体どういうことだ。
俺の困惑が伝わったのだろう。南提督はわざとらしい溜息を零した。嫌味な感じが鼻につく。
南『私はあれが助かる見込みはないと踏んで、すでに轟沈報告を本部に送ったのだよ。艦娘の轟沈は除隊を意味する。まあ、そういうことだ』
提督「……つまり轟沈報告して、すでに除隊申請が通ったから、浜風を引き取れないと?」
南『ああ』
提督「いやいや、ちょっと待って下さいよ。浜風は生還したんですよ? それなら轟沈報告を取り消してすぐにでも引き取るのが筋ってものじゃないですか」
南『知らんな』
南提督は憮然と言い放った。
一瞬唖然とした俺は、しかしすぐに憤慨した。眉根を寄せて、遠くにいる相手を睨みつける。
提督「知らないとは何ですか。あなたそんなことを言える立場ではないでしょう?」
南『なんだと?』
提督「浜風の遭難は、作戦行動中に部隊の確認を怠ったあなたの責任です。浜風を引き取らないということは、その責任を放棄するということに他なりません」
南『……』
提督「あなたが引き取りを断る場合、責任放棄と見做して、本部へ抗議させていただきます。こちらには浜風という生き証人がいるんです。あなたは間違いなく、本部から厳重注意を受けて信用をなくすことになるでしょうね」
厳しい口調で脅す。容赦はしない。俺はすでに南提督への印象を悪い方に傾けていた。
南提督は押し黙っている。電話では彼の表情を伺いしれず、それが小さな不安を煽った。気味の悪い沈黙がしばしの間降りて、時計とエアコンの音が強調された。
静寂を破ったのは南提督だった。ふっ、と小さく鼻で笑った。
南『なるほど、生き証人か』
それは俺へ向けた言葉ではなく、自分の中で吟味するために出したものなのだろう。なるほど、と二度ほど繰り返し、南提督はくつくつと笑い出した。低い笑い声は不愉快でしかない。
南『なあ、南西提督……。取り引きをしないか?』
提督「取り引き?」
この後に及んで、この男は何を言い出すのか。
南『君は確か……バシー島沖海域の攻略に手こずっているはずだったな。確かにあの海域は中々に困難だ。私も攻略には随分骨を折ったから気持ちは分かるよ。……早く攻略したいとは思わんかね?』
提督「……まあ、そうですね」
南『ふふ、そこでだ。君に浜風をくれてやろうではないか。あれは憎たらしいほどに優秀だからな、旗艦に添えれば役に立つぞ』
提督「……あんたふざけてるのか?」
俺は頭に血が上って、失礼な言葉使いをした。お互い階級は中佐であるが、面識のない相手だったので気を遣っていたのだ。だが、敬意を払う必要など一切なかった。俺はこの男をはっきりと嫌悪した。
南『おいおい、そんなに怒ることはないだろう。私は建設的な提案をしているんだぞ?』
提督「何が建設的だ!」
俺は怒鳴った。
提督「あんたの言っていることは交換条件にすらなっていないんだよ。こちらに浜風を押し付けて口止めをしようとするなど……。恥を知れ!」
南『ふん、確かに私は恥知らずかもしれんな』
開き直った物言いだった。
南『ならば、恥知らずとして頼もうではないか。どうか、何も言わずあれを貰って頂けないだろうか。南西提督殿』
提督「性根が腐ってやがるな、あんた」
南『かもしれん』
南提督は笑い声を零した。卑屈で陰気な笑い声だ。
南『さて、どうする。本部に私のことを報告して浜風を引き取らせるか。私のような性根の腐り切ったやつの元に戻るあれも、気の毒だろうなあ』
殴り飛ばしてやりたいと思った。だが、南提督はこの場にいない。代わりに机を叩きつける。ガン、と甲高い音と共に振動が起こり、置かれていた書類の束が地面に散らばった。拳が痛い。だが、そんな痛みなどどうでもよかった。
提督「貴様……っ。何故だ、どうしてそこまで浜風を拒む! あの子がお前に何かしたのかっ!?」
南『ああ、したね。あれは、ただの兵器の分際で出過ぎたことを色々してくれたからな。私が指揮官だというのに、あの小娘……っ。私より……名門出身のこの私よりも……!』
南提督の声は憎しみで震えていた。その憎しみの正体が醜い嫉妬であることは明らかであった。
まさか。俺はある可能性に考えが至ってしまった。だが、あまりにも人道に反することなので、否定したくなる。それはないだろう、と。しかし、次の南提督の言葉で、それは確信に変わってしまった。
南『あのクソガキ……! まさか、生きていたなんて……っ』
ああ、やっぱりそうか。
このクズ野郎、なんてことをしてくれたんだ。
怒りを超えた冷たい感情が俺を満たした。それは、心底からの失望と悲しみであった。
浜風は。
浜風は、はぐれたのではなく捨てられたのだ。自信が優秀なために理不尽な妬みを買って。なんということだ、と私は思った。
汚ない言葉を吐き続ける南提督。その全てが嫉妬で濁り切り、聞くに耐えない。俺は全てを聞き流す。このクズに不運にも仕えることとなってしまった浜風へ、憐憫の情を抱かずにいられなかった。
浜風は、無痛症というハンデを抱えているだけではなかったのだ。南提督の憎悪の有り様から、他にも理不尽な目にあったのであろうことは容易に想像がついた。そして、挙句に捨てられた。しかも、遭難したら生還不可能とまで言われる沖ノ島海域にだ。悪意の程が知れている。
死に至る病——。浜風の抱える絶望の片鱗を、見た気がした。
提督「もういい」
深い深い溜息の後、俺は言った。自分でも驚くほど疲れた声だった。
怒りはある。もちろんだ。だが、それ以上に落胆と悲哀が大きかった。
もうこんなやつとは話をしたくない。
提督「浜風は俺が引き取る。本部にもあんたのことは報告しない。約束しよう」
おお、本当か。受話器から聞こえた声は歓喜に満ちており、俺をより一層疲れさせた。
提督「だから、俺の鎮守府には今後一切関わるな。あんたとは口も効きたくない」
俺は返事を聞かず、受話器を叩きつけた。乱暴な音が鳴る。黒電話の上で踊る受話器は、陸に上げられた魚のようであった。
力を抜いて、椅子に背中を預ける。黒革でできた椅子の柔らかさが、これほど有難いと感じたことはなかった。
少しの間、ぼうっとする。
提督「……」
提督「……、酒が呑みたいな」
俺はそう呟いた。ナーバスな気分になると、どうしてもあの喉を焼き脳を溶かす感覚が恋しくなる。まだ執務中であったが、もう仕事をする気分ではない。とにかく呑みたい。呑んで忘れたい。
酒は何処だ。俺は机の上を見る。いつも、オブジェクトとして置いているブラックニッカがない。さっき、机を叩いた時に落ちたか。
億劫だが立ち上がると、すぐに見つかった。赤い絨毯の上に転がる瓶は、黄金色の輝きを放っていた。見慣れた色光だが、荒んだ心中では砂漠の中のオアシスとさえ思えた。
拾い上げ、椅子に座ると、フタを開けて呷った。グラスに注ぐことさえ面倒だった。今は風情など気にしてられない。
嚥下する度に、焦熱した感覚が食道にきた。ウィスキーを一気には呑めないので、何度か小分けにして呑んだ。だが、常より速いペースで。
まさに自棄酒だった。
雷「あの、司令官?」
いつの間にか執務室に雷がいた。酒に夢中で入室に気づかなかった。
俺はボトルを置いた。酒はほとんど空かしたが、暗澹たる気分を打ち消してはくれなかった。酒に酔えないなど久しぶりだ。
提督「雷か……。どうした?」
雷「どうしたじゃないわよ。こんな時間にお酒を呑むなんて……。何かあったんでしょ?」
雷は心配そうに尋ねてきた。
提督「……ちょっとな。少しだけ、嫌なことがあったんだ」
雷「嫌なこと? それは私には話せないことなの?」
提督「ああ……」
話せるはずがない。あんな話、純真無垢なこの子には聞かせたくなかった。
雷は目を落とした。人から頼られるのが好きな彼女だ。俺が話さないと言ってしまったせいで、力になれないと思い、落ち込んだのだろう。少し罪悪感があったが、こればかりはしょうがない。浜風の名誉のためでもあるのだ。
提督「すまないな」
俺は謝った。少しでも、後ろめたさを和らげたかった。
そんな俺の浅はかな意図を読み取ったのか、雷はにっこりと笑ってくれた。「いいのよ」と言ってくれる。人間の汚い部分を見た後だと、彼女の純な優しさが心に染みた。
提督「ありがとう」
雷「お礼はいいわ。もし、話したくなったら、その時は私を頼っていいんだからね?」
精一杯に胸を張る雷。あまりにも可愛らしくて、俺は思わず微笑んだ。
雷「さて、それより散らばった書類を拾いましょ」
提督「ああ、そうだな」
俺は立ち上がる。酒を結構呑んだのにも関わらず、立ちくらみは起こらなかった。雷と向き合う形で、俺は書類を一枚一枚集めていく。存外量が多く中々集まらない。
雷「ねえ、司令官」
雷が話しかけてきた。「ん?」と返事をする。
唐突に、何か柔らかい物が顔面を覆いつくした。俺は驚いた。雷に頭を抱きかかえられたのだと、少ししてから気づいた。菓子のように甘い香りが鼻腔を擽る。
雷「辛い時は、我慢しなくていいのよ。あなたはただでさえ溜め込むんだから。……今日のことは聞かないけどね」
雷「私は秘書艦なんだから……。お酒なんかじゃなくって、私を頼って……」
温かい。その言葉が、彼女の体温が全て。
俺は年甲斐もなく、泣きそうになった。だが、辛いのは俺ではなく浜風なのだ。俺が泣いていいはずがない。それでも……。
これには、心を揺さぶられた。酒などよりもずっと。
俺は無言で彼女の抱擁を受けた。言葉はいらない。その優しさの期待に沿えるよう頑張りたいと、小さな身体を抱き返して伝えた。
雷は、子供をあやすように俺の頭を撫でた。
雷「私だけを……ね」
投下終了。
南提督がクズになりすぎた。ぶち殺したい。
雷は二番目に好きです。
翌日。
朝までにしなければならない仕事を片付けた俺は、雷とともに食堂へと向かっていた。
二月の廊下は空調のある執務室と違って、鳥肌が立つほどに寒かった。窓に張り付いた結露が凍りつき、ステンドグラスのように陽光を淡くしている。寒がりな性分である俺にはたまらない。部屋に戻って布団を被りたいと思ったが、しかし空腹には勝てず、足は引き返す選択をしなかった。
書類整理や、浜風に関する報告などに手間取ったおかげで、もう十一時近い。遅目の朝食、早目の昼食といったところか。
雷「お腹空いたわねー。今日のメニューは何かしら?」
雷がお腹を抱えながら言った。
提督「B定食じゃなかったか?」
雷「Bってどっちだっけ? うどんと唐揚げ」
提督「うどんだな。俺的には唐揚げがいいんだがなあ」
雷「贅沢言わないの」
雷に怒られた。リスのように頬を膨らませて、俺を睨んでいる。かわいい。
提督「ごめん。でもな、最近麺類ばかりじゃないか。ちょっと飽きてこないか?」
雷「そう言われればそうだけど……。司令官は唐揚げを食べたいの?」
提督「まあな。最近食べてないし、それに俺唐揚げが大好物なんだよ」
雷「ふうん……」
雷はそう言って、顎に人差し指を当てた。考え込む時の彼女のクセだ。少しして、彼女は頭上に豆電球を浮かべたような顔をした。
雷「なら、今度私が作ってあげよっか?」
提督「本当か?」
俺は思わず雷を凝視した。
雷の手料理は間宮からも定評があるほどだ。しかも唐揚げ。食べたくないはずがない。
雷「そ、そんなに食べたいんだ……」
俺のリアクションに驚いた雷は、少しだけ引きつった顔をした。だが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべる。
雷「それじゃ、今度時間がある時に作ってあげるね」
提督「ぜひ頼んだ」
雷「頼まれた」
お互いそう言って笑い合う。彼女とのこうしたやり取りが俺は好きだった。心が洗われる。とくに、浜風の件で色々ナーバスになっている今は……。
俺には、大事な仕事がこの後控えている。浜風に、南西鎮守府へ異動が決まったこととその経緯を説明しなければならない。嫌な仕事だ。できるなら、やりたくない。
俺の話を聞いた浜風は、一体どんな顔をするのだろう。彼女はおそらく、自分が捨てられたことに気づいているはずだ。昨日、退出する直前、何かを言いかけてやめた。それはおそらく、捨てられた件を伝えようとしたのではないか。
連絡しても無駄だ、と。
提督「……」
雷「司令官?」
提督「今日は寒いな」
俺は窓を見た。風が、枯れ木を揺らしている。細く頼りない枝は、簡単に折れてしまいそうに思えた。
雷「そうね……」
俺たちはその後も雑談を交わしながら歩く。そして、すぐ食堂についた。
食堂は騒々しかった。食事時はやかましいのはいつものことであるが、今は昼食時ではないので、不思議に思った。皆、早く食べに来たのだろうか。
雷「あれ、みんないるんだ……」
雷がぽつりと言った。
提督「今日は休みのはずなんだがな」
雷「休日でこんなに人がいるなんて珍しいわね。なんか、あっちの方にみんな集まっているけど……」
雷が指差した方向を、俺は見遣る。
ずらりと並ぶ長机の一画に人集りが出来ていた。この鎮守府の顔ぶれが一同に介している。一体何事か、と少し驚く。
人集りの中心に居たのは浜風だった。皆から色々と質問を投げかけられているようだ。浜風はその一つ一つに対して表情をコロコロ変えながら応答していた。彼女が答える度に、大げさな声が上がる。
俺は目を白黒させていたと思う。浜風が、こんなにも表情豊かだとは思わなかったからだ。執務室で見せていた冷たい雰囲気とは百八十度違う。とても愛想よく振舞っている。
ふと、浜風が微笑を浮かべた。少女のものとは思えないほど、あまりにも艶やかで美しかった。まるで群生したタンポポの中に、一輪の白薔薇が咲いているかのようで、俺は思わず見惚れていた。
袖を引っ張られる。我に返ってそちらに目を遣ると、雷が面白くなさそうな顔で俺を見ていた。唇を尖らせている。
雷「司令官、あっちに行こ」
雷は、浜風たちとは一番離れた位置にある席を顎で示した。急かすように引っ張る力が強くなる。
提督「いや、しかしなあ……」
俺は戸惑ってしまう。せめてみんなに一声かけたかった。
俺がアタフタしていると、
鈴谷「おっ、提督じゃん。ちぃーすっ!」
その中にいた鈴谷が気付いて手を振ってきた。その声で全員俺に気がついたようで、慌てて表情を引き締め敬礼をした。
熊野「鈴谷、敬礼なさい」
熊野が鈴谷に注意する。俺はそれを手振りで制した。
提督「作戦行動中ならいざ知らず、今日は休日だ。そう畏まらなくていいよ」
熊野「ですが……」
提督「堅苦しいのは苦手でね。出来れば普通にしてくれた方が有難い」
食い下がろうとした熊野に、やんわりと言う。真面目な彼女は少しだけ渋い顔をしたが、溜息をついた。
熊野「分かりました。普通にしますわ」
提督「助かる」
俺は小さく笑みを浮かべてそう言うと、浜風の方を見た。目が合う。綺麗な青目は澄んだ海を思わせる美しい色彩だった。昨夜の淀んだ暗さはそこにはない。
浜風「こんにちは」
提督「ああ、こんにちは」
挨拶を交わすと、浜風は苦笑した。
浜風「色々聞かれちゃいました」
提督「何を聞かれたんだ?」
浜風「私の個人的な話とか、遭難したときのこととかです」
俺は顔を顰める。
遭難ではないだろう、と言いそうになった。君は、畜生にも劣るクズから捨てられた被害者ではないか、と。だがそんなこと、皆がいる前では口が裂けても言えない。
提督「そうか……」
青葉「いやあ、興味深い話でしたよ」
浜風の対面に座っている青葉が言った。ペンとメモ帳を手にもち、満足そうに笑っている。
青葉「最近面白い出来事がありませんでしたが……。これはいい記事が書けそうです。表題は『奇跡の生還——魔の海域より舞い戻った駆逐艦に密着取材!——』ってところでどうでしょう!」
陽炎「こら、私の妹のことを記事にしたら許さないわよ」
浜風の隣に立っていた陽炎が、青葉を睨んだ。
青葉「えー」
陽炎「えー、じゃないわよ。あんた、どうせ余計なことまで書くつもりなんでしょ?」
青葉「嫌だなあ、書きませんよ」
陽炎「ダウト」
鈴谷「ダウト」
熊野「ダウトですわ」
提督「ダウトだな」
その場にいた全員が、口々にダウト、ダウト、と続ける。いつも笑顔を崩さない青葉も、これには困惑顔を浮かべた。
青葉「信用ないですねー……」
陽炎「普段の行いが悪いからよ。当たり前でしょ」
陽炎の言葉には棘があった。彼女は正直な性格をしているため、嫌っている相手に対しては分かりやすいくらい冷たい態度をとる。青葉は旺盛な好奇心が悪い方向に作用することが多々あり、人に迷惑をかけることがよくあるから、真面目で芯の真っ直ぐな陽炎とは相性が悪いのだ。
青葉はちぇーっと言いいながら、アヒル口を作っていた。
それにしても、気になることがある。
提督「なあ、陽炎?」
陽炎「なんでしょう、司令?」
提督「さっき、私の妹と言っていたがもしかして……」
陽炎「ああ。そうですよ、浜風は陽炎型なんです」
浜風「十三番艦です」
浜風が続ける。
浜風「まさか、こんなところで陽炎姉さんと会えるとは……。因果なものです」
陽炎「私も驚いたわよ。保護された艦娘がいるって聞いて誰かと思えば、まさか浜風だったなんてね」
腰抜かすかと思ったわよ。陽炎は妙におばさん臭い冗談を口にする。
陽炎の浜風に対する気安い接し方を見ると、姉妹艦だというのは納得がいった。しかし、陽炎が姉で浜風が妹なのか。正直、そうは見えない。浜風が姉と言われた方がしっくりするだろう。
浜風はそれだけ大人びている。決して、そう決して身体の一部を比較して判断した訳じゃない。
雷「司令官」
今まで沈黙を決め込んでいた雷が口を開いた。その未熟な声は、隙間風のように酷く冷たかった。
提督「ど、どうした、雷?」
雷「どうしたじゃないわよ。お腹空いてるんじゃなかったの? 早くご飯食べましょうよ」
袖を引っ張られる。買い物に飽きて帰りたがっている子供が母親を急かすような調子があった。
言われて、俺は腹の具合を思い出す。ぐぅ、と小さな音が中から響いた。
提督「そうだな……。そろそろ飯にするか」
雷の白けた顔に、チューリップが咲いた。
雷「もう、私もお腹空いてたんだからね。さ、あっちに行って食べましょ?」
雷の指差した場所は、先程彼女が顎で示した席と同じであった。浜風たちよりも一番離れた席。
どうやら、雷は皆と距離を取りたいらしい。おそらく、食事中に皆と話をするのが嫌なのだろう。前、昼食を一緒にとっている時に、「食事中に喋るのはマナー違反よ」と彼女から怒られたことがある。彼女は甘やかすように見えて、そうした礼儀作法には存外うるさいのだ。
それは、俺も納得するところである。会食という言葉があるように、食事は人との交遊を深める機会である。その観点からすると、人を楽しませるために会話をすることが、マナーであるはずだ。
しかし、静謐さを重視することも、これまた一つの作法なのだ。静寂の中に洗練された美を感じる、人間の高潔さが生み出した誇りの顕現。それを重視する彼女を俺は感心していたし、素直に見習わなければとも思っていた。
提督「分かった。それじゃ行こうか」
もう挨拶も済ませたし、従わない理由もない。雷に引っ張られるままついて行こうとすると、
鈴谷「え、あっちに行っちゃうの? 提督たちもこっちで食べようよ」
鈴谷が笑顔でそう誘ってきた。太陽のように明るく可憐な表情だった。どきり、と俺の心臓が音を立てた。
鈴谷「みんなで食べた方が楽しいじゃん。ね?」
鈴谷の提案。それは前述した一つのマナーである。それに従うのも悪くないかもしれない、と意識が傾きかけた瞬間——。
鈴谷の顔が、強張った。
まるで、何か、恐ろしいものを見たかのように。
雷「ねえ、司令官」
抑揚のない声。
あの雷が出していると思えないほどに、その声は無機質だった。
提督「な、なんだ雷……?」
雷がこちらを見た。いつもの快活な表情がそこにはあった。
雷「司令官は、あっちで食べたいんだよね?」
提督「あ、ああ」
俺は雷の静かな迫力に押されて、思わず頷いてしまった。
雷がくるりと首を動かし、鈴谷を見た。鈴谷の肩が跳ねる。
雷「ごめんね、鈴谷。司令官、あっちで静かに食事がしたいんだって。ほら、それに私たちこの後仕事があるから早く食べないといけないのよ」
鈴谷「そ、そうだね……」
雷「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
雷の声は、明るさを取り戻していた。いつもの甘い響きに、何故か俺は安堵を覚える。鈴谷も、何かから解放されたように小さく息を吐いていた。
雷「ほら、行くわよ司令官」
提督「あ、ああ……」
厨房の方へと歩いていく雷を、俺は追いかける。鈴谷が気掛かりで、俺はちらりと振り返った。
疲れたように座る鈴谷へ、皆は訝しげな目を向けていた。熊野が首を傾げながら、鈴谷に声をかけている。
皆、鈴谷に注目していた。ただ、青葉と浜風だけは俺たちを見ていた。
青葉は口元を吊り上げ、浜風は氷のように無表情であった。
投下終了。
食事は静かに取るべきですよね(ニッコリ
お疲れ様これ長く続くかい?続いてくれるとうれしいんだが・・・
>>56
結構長くなるかもです。
今んとこ3章までは構想があります。そっからはやりながら考えていこうかなーと思ってます。
すいません。
卒業旅行に行ってくるんで、こちらの投下は少し遅れます。
なるべく早く投下します。
食事を取った後、俺と雷は執務室に戻って仕事を再開した。
黙々と大本営から送られてきた書類に目を通し、記入事項があればサインし、あるいは判子を押す。
その作業を機会的に繰り返す。
ふと、一枚の資料に目が止まった。来月に迫った大規模作戦の参加報告書である。呉や佐世保などの有名鎮守府がずらりと名乗りを上げる中に、南鎮守府の名前を見つけて、俺は顔を顰めた。
初参加の鎮守府ということで、大々的に取り上げられている。しかも、南提督の写真付きだ。初めて奴の顔を目にする。メガネをかけ、いかにも自尊心の高そうな顔つきをしていた。
浜風を捨てといて早速『祭り事』に参加か。いいご身分だな、クソ野郎。
写真に唾を吐いてやろうかと思ったが、辞めておく。何故なら、目の前にはニコニコと笑いながら俺の仕事ぶりを見守っている雷がいるからだ。純粋な彼女の前でそんなことはできない。
代わりに、俺はその紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。綺麗に収まり、心の中でガッツポーズをする。
雷「あー、要らない紙だからって投げちゃダメよ。行儀悪い」
雷に怒られる。
提督「ごめんごめん」
雷「まあ、いいけど……。次から気をつけなさいよね?」
提督「はいはい。なんか、やっぱり雷って母親みたいだよなあ……」
俺が分かりきった事実を指摘すると、雷は「そうかしら?」と首を傾げる。
雷「前の鎮守府でも良くそう言われていたけど、どうなんだろ? 自分じゃ分からないわね」
提督「自覚なしなのか……。世話焼きなところとか、ちょっと口うるさいところとか、そんな感じがするけどな」
雷「ん〜、言われて見ればそうかもねえ……」
雷は難しそうな顔をする。その顔は、納得していないようにも見えた。
雷「でも、お母さんみたいって言われてもあまり嬉しくないわね……、年的に」
確か彼女は十三歳だったか。その年でそう言われても確かに嬉しくはないだろうな。
雷「どちらかというと……」
ちらりと雷は俺を見て、
雷「母親より、奥さんがいいかな?」
提督「んー、それはないな」
雷「ひどーい!」
プンスカと怒る雷。
漫画の登場人物みたいな怒り方だったので、俺は噴き出した。「笑うなあ」と雷は更に怒ってこちらに突進し、持っている書類で叩いてきた。結構痛い。
提督「痛い痛い。冗談、冗談だよ」
雷「もう、次からかったら許さないんだからね!」
何だかんだ言って次も許すんだろうなあ。甘いところはとことん甘い。それが雷だ。
提督「分かったよ。次はからかわない」
雷「ホント?」
嘘だ。
提督「ああ、神に誓うよ」
雷「随分安っぽい神様ね……。まあ、いいわ」
雷は溜息をついた。
嘘だと分かっていて許す辺りが、やっぱり甘い。
提督「それにしても……」
雷「ん?」
提督「……」
小首を傾げる雷を見詰める。すると雷は、少しだけ顔を赤らめ、恥ずかしさを誤魔化すように歯を見せた。
雷「何よ、司令官?」
提督「いや……」
昔に比べて、感情表現が豊かになったよな。
心の中に浮かんだ感慨は言葉には出さず、「何でもない」とお茶を濁した。
続きは夜上げます。
雷「変な司令官。そんなに私の顔が気になるの?」
提督「別にそういう訳じゃないけど。何ていうかさ、雷の顔を見てると元気出るんだよな」
雷「ふうん、そうなんだ」
雷は嬉しそうに笑う。少しだけ照れ臭そうだった。
雷「司令官が元気出るなら、もーっと私を見てもいいのよ?」
提督「今はこれくらいでいいかな。また、元気がなくなった時にでも頼んでもいいか?」
雷「はーい!」
雷の返事に、俺は微笑み返した。
元気が出るのは本当だ。快活な彼女の愛らしい笑顔を見ていると、落ち込んでいた気分が癒され、頑張ろうと思うようになる。
この後、浜風への報告という憂鬱な仕事が控えていることを考えると、少しでも気持ちを楽にしていたかった。鬱屈さが進みすぎると酒を飲みたくなるからだ。
ブラックニッカより、雷の笑顔。
うむ、健全だ。
提督「さて、そろそろ浜風を呼び出そうかな?」
俺は気持ちを切り替えて、浜風を呼び出すことを雷に伝える。すると彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
雷「えー、浜風さんをここに呼ぶの?」
提督「ああ。少し、連絡しないといけないことがあるからな」
雷「なによ?」
むすっとした顔で、雷は言った
提督「大した用事じゃないよ。ちょっとした報告だ」
雷「なら、一々呼ばなくても私が伝えるわよ?」
提督「いや、できれば直接伝えたいんだ」
雷「……ふうん」
提督「不服か?」
雷「別にー」
思いきり不服そうだが。
雷「せっかく二人きりなのに……」
雷は目線を下に落として、そう呟いた。
溜息が出た。
どうしてこう、排他的なのか。彼女はどうにも俺以外の人間にはよそよそしいところがある。挨拶したり話したりはするのだが、積極的に関わろうとはしないし、むしろ関わることを避けている節すらある。
思えば、食事の時皆と離れた席に座りたがったのも、静かに食事をしたいだけではなく、そうしたよそよそしさがあったからだろう。
鈴谷に対する態度なんて、露骨だった。
提督「……」
どうにか皆にも心を開いてくれないものか、と思う。雷は、俺以外に中々気を許そうとはしない。特別好かれているようで正直悪い気はしないのだが、しかし鎮守府の長としては、皆とも仲良くして欲しいのだ。
俺にいつも見せるような愛想を振り撒けば、皆すぐにでも打ち解けてくれるはずだ。気のいい奴らばかりだから、そんなに警戒する必要はないんだけどな。
だけど、それは簡単に見えて実は難しいことを俺は理解していた。
彼女が抱える過去のトラウマが、足枷になっているのだ。
大切にしてきた、寄る辺としてきたものを全て奪われ、
信じてきたものに裏切られ、
傷つき過ぎて、人間不信に陥っていた雷。
彼女にかかっていた絶望の影は落ちたものの、今もなおそのトラウマは彼女にしこりを残しているのだ。過去は消えない。だからこそ、均衡の崩れた心を元に戻すことは容易ではない。
俺も、彼女と同じだ。全てを失ってしまった人間だ。だから、彼女に共感と同情を抱いてしまい、皆ともう少し仲良くするように言えないでいる。
甘えさせ、甘やかしてしまう。
彼女のただ一つの寄る辺となっている事実を黙認してしまう。
それでは、駄目なのだ。雷は、もう少し人と接する喜びを思い出すべきである。集団生活をしている以上、もっと人を見なければならない。俺にだけ気をさいて、時間を取られてはならないのだ。それは、彼女の自立心の養成にも関わることなのだから。
雷「……分かったわ」
沈黙を破ったのは雷だった。少しだけ落ち込んだように肩を落とし、息を吐いていた。
雷「浜風さん、呼んで来るね?」
提督「ああ」
残念そうに微笑む雷を見て、心にチクリとした痛みが走る。
どうして、こんな感情を覚えたのかよく分からなかった。ただ浜風を呼び出す。それだけのことの筈なのに。
雷は扉を開けて執務室を出た。音は鳴らなかった。
提督「……」
やはり、今日はブラックニッカを一本空かすことになるかもしれない。
投下終了。
すいません、書き直しまくって遅れました。
雷ちゃんの過去はいずれ書きます。お楽しみに。
雷「連れて来たわよ」
浜風「連れて来られました」
不機嫌そうな雷の声に、浜風が応じた。困ったように曖昧な笑顔を浮かべているところを見ると、無理やり引っ張って連れて来られでもしたのだろう。
提督「雷……、浜風にちゃんと説明したか?」
雷「したわよ。司令官が呼んでるって」
確認を取る意味で浜風を流し見ると、彼女は小さく肩を竦めた。米神を押さえそうになる。
提督「まあいい……。浜風、君に少し報告しなくてはならないことがあってな。呼び出させてもらったよ」
浜風「そうですか」
感心がなさそうに言う浜風。
提督「……君の今後の所在についてなんだが、少し変更になってな」
浜風「ああ、南から所属が変わるんですね」
何でもないように、浜風は言った。あまりにもあっさりした口調だったので、深く考えず頷きそうになった。
ある程度予想したことであったが、それでも面喰らった。見ると、雷も目をパチクリさせている。
提督「……察しがいいな」
浜風「まあ、事態は全て把握しているので」
ふっ、と鼻で笑った浜風を見て、悲憤の念に駆られる。浜風の諦観に満ちた表情が、あまりにも空虚で物悲しかった。
やはり、捨てられたことを自覚していたか。出来れば、それだけはあって欲しくなかった。
提督「そうか……」
両肘をつき、指を絡めて組んだ両手に額を預ける。瞑目し、深い溜息をついた。
雷「司令官……?」
この中でただ一人事情を知らない雷が、心配そうな声を出した。答える余裕が、俺にはなかった。
雷「どうしたの? 頭痛いの?」
提督「……」
雷「ねえ?」
提督「……大丈夫だよ、雷」
やっとの思いで、俺は声を出せた。
雷「どこが大丈夫なのよ? どう見ても辛そうじゃない」
提督「大丈夫だから、心配しないでくれ。ちょっとだけ、嫌なことがあっただけだから」
どうにも俺は感情が表に出やすい性分らしい。隠そうといつも努力しているのだが、どうしても表情に出てしまう。とくに嫌なことがあって鬱になった時は。
部下を心配させ、その上で取り繕うこともできないとは、司令官として失格だ。
雷「浜風さん……っ。あなた、司令官に何かしたの!?」
雷が激昂して、矛先を浜風に向けた。
彼女は被害者だ。止めなければ。
提督「雷、浜風は……」
浜風「してませんよ、何も」
雷「嘘着くな! あんたが何かしたから、司令官が落ち込んだんでしょ!」
提督「雷……!」
雷の怒りは浜風の言葉でさらにヒートアップする。掴みかからんばかりの勢いだ。
普段優しい彼女は、俺のことが絡むと人が変わったように感情的になる。こうなったら、彼女は中々手が付けられない。
浜風「そう言われましても。あの会話のどこにも貴女の司令官を貶めるような内容はありませんでしたし、距離がありますから物理的に何かするのも不可能です」
顔色一つ変えることなく、浜風は冷静に指摘する。全て正論に違いないが、感情の昂ぶった相手に冷静な論述は、火に油を注ぐ行為だ。
雷「ふざけるな! あんたが何かしないと!!」
提督「雷っ!!」
やむ負えず怒鳴り声を上げた。雷の肩がビクリと跳ね、途端に大人しくなる。不安気に目を潤ませて、俺を見てきた。
雷「あっ……」
雷「司令、官……っ。あ……あの、私、貴方が心配で……」
怯えたように後退り、袖を伸ばした右腕を左手でギュッと握り締めた。不安を感じた時の彼女の癖だ。
提督「分かってる」
雷「だから、あの……その……。き、嫌いに……嫌いにならないで」
提督「ああ、嫌いになるわけないだろ」
雷「捨て、ないで……っ!」
悲鳴のように、雷は叫んだ。ドングリのような瞳から涙が零れ、唇が戦慄いている。雷の悲痛な様子に、刺すような痛みが胸に走った。
俺は堪らず立ち上がり、雷に駆け寄った。
泣きじゃくり出した彼女を抱き締める。小さな身体は暖かく、しかし小刻みに震えていた。甘い香りが、手折られる寸前の花を思わせた。
提督「ごめんな、雷。俺が不甲斐ないばかりに」
雷「……し、れ」
提督「俺は大丈夫だから、な。怒鳴ったりして悪かった。別に怒っているわけじゃないんだよ」
雷「捨て、ない……?」
提督「捨てるわけないだろ。誰がそんな酷いことするもんか」
ゴミ箱にいる奴への怒りも込めて、強い口調で言った。グスグスと鼻を鳴らす音がくぐもって聞こえる。俺はさらに力を込めて、雷を抱き締めた。
雷「そう、だよね。司令官が、そんなことするわけないよね……」
雷が確認するように呟いていた。
提督「ああ。だから、落ち着いてくれ、な?」
雷「ん……」
雷の頭が動いて髪が擦れ、少しむず痒かった。
俺は安堵の息をついた。腕を緩め、頭を撫でる。
提督「あのな、雷。俺は別に浜風から何かをされたわけじゃないんだよ」
雷「でも……」
提督「本当だ。俺がただちょっと嫌なことを思い出しちゃって、勝手に凹んだだけなんだ」
雷「そうなんだ……。何を、思い出したの?」
しまった、言い訳を考えていなかった。俺は狼狽しながら何とか頭を捻る。
提督「あれだ! この前青葉に全裸で寝ているところを写真に撮られてな! 間宮アイスを買わないと、この写真ばら撒きますって脅されたんだよ!」
雷「あいつ、オシオキしないとね」
底冷えする声に、体が震える。
すまん青葉。
提督「そ、そうだな。それより、あれだ……。浜風に謝らないとな。誤解だったんだから」
意外なほど素直に、雷は頷いた。目尻を袖で擦って涙を拭き、浜風の方へと向く。
雷「その、ごめんなさい。勘違いして怒鳴っちゃって……」
浜風「別にいいですよ。気にしてませんから」
怒りに表情を歪めることも、愛想笑いを浮かべることも一切なく、浜風は淡々と許した。まるで、精巧なビスクドールのようだと不謹慎にも思ってしまう。
提督「よし、ちゃんと謝れたな。偉いぞ」
雷「もう、子供扱いしないでよ……」
拗ねたように雷が抗議する。いつもの調子が戻ってきたらしい。
提督「なあ、雷。ちょっとお願いがあるんだけど聞いてくれないか?」
雷「なに?」
提督「少しの間だけでいいんだけど、席を外してくれないか? 人に聞かれたら困る話をこれから浜風としないといけないんだ」
雷「や」
雷は駄々をこねる子供のように、頭を横に振る。
提督「頼むよ、本当にちょっとの間だけだからさ」
雷「どうして私がいたら駄目なの? 私、誰にも言いふらしたりしないよ?」
提督「君が口の硬いことは分かっている。だけど、駄目なんだ。浜風の名誉に関わることだから」
ここまで言えば、雷も分かってくれるだろう。そんなに聞き分けの悪い子ではない。それに、彼女も我儘を言ってまた怒られるのは本意ではあるまい。我ながら卑怯な考えだ。
俺の予想通り、雷は不服そうに頬を膨らませていたものの、諦めたように息を吐いた。
雷「分かった……。司令官の言うとおりにするね」
提督「ああ、ありがとう」
俺がお礼を言うと、雷は俺から離れた。真っ直ぐ扉の方に向かう。
ドアノブに手をかけたところで、雷は振り返った。
雷「司令官、気を付けてね……?」
浜風をちらりと見ながら、忠告した。返事をせず、俺はただ微苦笑を浮かべて小さく頷いた。
一体何に気をつければいいと言うのか。気をつけるものなど何もありはしない。
雷が部屋を出た。扉が閉まる。相変わらず、音はしなかった。
残った俺と浜風の間に天使が通った。柱時計の秒針が小刻みに、沈黙を揺らしている。
浜風「……好かれているのですね」
沈黙を破ったのは、浜風の皮肉であった。僅かに口を吊り上げて、艶やかな雰囲気を醸し出す。
提督「そういう冗談は、好きじゃないよ」
非難を込めて言う。すると、浜風の口元が更に歪んだ。
浜風「お気に召しませんでしたか。なら言い換えましょう。カクレクマノミとイソギンチャクのように仲がいいですね」
俺は思わず乾いた笑みを溢した。その比喩は、かなりの部分で正鵠を射ていたから、笑うしかなかった。
たったあれだけのやり取りで……。なんて鋭い子だ。
途中ですが、投下終了。
青葉は犠牲になったのだ……。
戦慄すら覚えた俺の心情を知ってか知らずか、浜風は続ける。
浜風「あるいはサメとコバンザメ、カッコウとモズと言ったところでしょうか。いえ、もしくは……」
浜風「もしくは、レウコクロディリウムとカタツムリ、だったりして」
わざと遠回りな言い方をして、ジワジワと俺を責めてきた。「やめないか」と、情けない声で反論することしかできない。
顔を引きつらせる俺を、楽しげに眺める浜風。その顔は、食堂で皆に見せていたあの笑顔とはまるで違っていた。墓を暴いているかのような背徳と愉悦に塗れた、危険な色香を匂わせる表情であった。
楽しんでいるのだろう。俺が困惑しているのを。
嘲笑っているのだろう。気づいていながらも雁字搦めになっている俺の現状を。
浜風「ふふっ」
蠱惑的な声。微かに湿り気を帯びた桜色の唇が滑らかに動くたび、俺の背筋にゾクゾクとした感覚が走る。浜風が腕を組んだ。腕の動きに合わせて豊満な二つのものが官能的に揺れ動く。
本当に、駆逐艦なのか。
浜風「私は、貴方が気に入りました」
突然の告白に、俺は狼狽した。浜風の言葉の意味が恋愛感情を含んだものでないことが分かっているのに。恋愛に免疫のない童貞のごとく、呼吸を詰まらせた。
提督「何をいきなり……」
浜風「冗談じゃありませんよ」
浜風はゆっくりと近づいてきた。
浜風「あなたは、とても優しい方のようです。そういう人、嫌いじゃありませんから」
提督「俺は、優しくなんてないよ……」
優しくない。他人にも自分にも、ただ甘いだけ。そして、臆病なだけ。
浜風「いいえ、優しいですよ。前の提督さんと違って、貴方は沢山の人から慕われています。皆さんから貴方の印象を沢山聞きました。お酒臭いけど、優しくて情に厚い人だって誰もが賞賛していました。無理な出撃は決してさせないし、傷ついたらすごく心配してくれる、と。『こんな指揮官他にいない』なんて、伊58さんが絶賛してましたよ」
違う。俺はそんなに立派な人間ではない。南提督みたいな人でなしと比べないで欲しい。俺は、ただ彼女たちを当たり前のように扱っているだけだ。
言葉にはできない。間近に立つ浜風から漂うカトレアを思わせる香りに、頭が溶けそうだった。
浜風「それに、彼女。雷さん……でしたね。あの人にも、貴方はよく好かれているようです。形は歪ですけれど」
提督「……っ」
浜風「でも、あの人から懐かれている、好かれているという事実が、貴方の優しさの証左になると思います。……どうしてそんなことが分かるって言いたげですね。簡単ですよ。何故なら、あの人は私と同じ匂いがするからです」
提督「……決めつけるのは良くないよ。自分の匂いは、感じないものだ」
浜風「嫌でも感じますよ。それが、酷く据えた臭いなら」
提督「そんなこと……」
浜風「貴方は気付いているはずです。私の欠陥に」
俺は押し黙る。欠陥という言葉が、何のことを指しているのかはすぐに察しがついた。
彼女が抱える沈黙の病。どこまでも鈍感で、だからこそ何よりも恐ろしい、『無痛症』という名の死神のことだ。
提督「……それは、無痛症のことか?」
確信を置きながらも尋ねる。自嘲を匂わせた笑顔で、浜風は答えた。
浜風「ええ、そうです。まあ、それだけではないのですけど」
浜風の瞳に、黒い影が落ちる。
まただ。死に至る病が顔を出した。
浜風は乳房に手袋がはめられた白い指を這わせ、心臓のある位置を差した。
浜風「私は、痛みを感じません」
するり、と今度は口元へ。舌をペロリと出し、人差し指を舐める。
浜風「私は、味を感じません。カレーやケーキがどれだけ美味しいのか皆目見当つきません」
舌から指を離した。唾液が銀の橋を舌と指の間に作り、艶かしい。橋が下に落ちたのに合わせるかのように、その指を俺の胸元に押し付けた。円を描くように撫で回す。
浜風「そして、私は熱を感じません。私には、人が当然に持っているありとあらゆる感覚がないのです。これらの全ては無痛症がもたらし、私の心すら奪っていきました」
その独白に、俺は言葉を失うしかなかった。彼女の抱える絶望の片鱗が更に顔を見せ、未完成の暗鬱たるパズルにピースを増やした。絵が、完成に近づく。
浜風に差し込んだ影がより濃さを増し、俺の両親が死ぬ間際に浮かべていたそれと近似を強めた。
心臓が早鐘を打つ。汗が流れ、極度の緊張で胃が収縮する。俺は慌てて口を抑えて、浜風から目を逸らした。
何と勘違いしたのか、浜風がクスリと小さく笑う。苦い笑いだった。
浜風「すいません。不快だったみたいですね」
提督「いや……。そんなことはない」
浜風「無理しないでください。顔に書いてありますよ」
自分の性格に嫌気がさしたのはこれが何度目だろう。どうしてもっと上手く隠せないのか。
浜風が指を離した。くるりと反転し、背中を見せる。
浜風「私は自分に絶望し、この世の全てに失望しています。雷さんも、そうだったのではないですか? 彼女の過去は知りませんが、それで間違いないはずです。貴方は、雷さんを救ったのでしょう? だからこそ、彼女はあなたに固執している」
提督「……」
本当に、鋭い子だ。
浜風「当たったようですね。やはり、貴方は優しいです。優しくて、お人好しに違いありません」
俺は答えない。浜風の言葉が誤解であることを知っていながら、何も言えない。もっと汚くて浅ましい思いの発露から、俺は行動しているだけだ。そう指摘してやりたかったが、喉から出かかった言葉を飲み込んだのは、やはり俺の浅ましさからだった。
暫しの沈黙が降りる。
嫌な静寂だ。俺は何とか言葉を探す。頭を捻って捻って、ようやく出てきたのは浜風を呼び出した元々の要件についてだった。
提督「君の所属についてだが……」
浜風がこちらを見た。
提督「君は今日付けで、こちらの鎮守府へと配属になる。よろしく頼む」
きっと、彼女はこのことにも気付いている。そうでなければ、わざわざ俺に自分の抱えている問題を吐露する意味がない。
やはり、その予想は当たっていた。彼女はただ小さく口元を吊り上げただけだったが、それで十分伝わった。
浜風「ええ、よろしくお願いします」
投下終了。
次回は浜風視点です。一章もようやく折り返しに入るかな?
レウコクロディリウムは是非画像検索することをオススメします。可愛いですよ(すっとぼけ
………
……
…
私の人生を絵に描いて、題名をつけるとするなら「沈黙ゆえの絶望」である。
私は生まれ落ちた時より、無味乾燥とした世界に生きることを宿命づけられていた。先天性無痛症と呼ばれる極めて症例の少ない奇病を持って生まれたが故にだ。人は生まれた時より原罪を背負っているというのはキリスト教の教えであるが、この奇病が私の原罪であるというのなら、私は地獄に落ちてでも神を呪ってやろう。
許せない。不完全な世界を歩かされたことが。
いや、完成した世界に不完全なまま生誕させられたことが。
私には、最初からすでに二つの感覚がなかった。文字通り痛みと、熱感覚である。あの忌まわしき奇病は、何よりも静かなくせにどこまでも貪欲に人の体を蝕むパラサイトなのだ。あれに取りつかれた者の多くは痛覚だけではなく、熱感覚さえも奪われてしまう。熱を感じなくなる幅には個人差があるらしいが、私は全てを無くしていた。
春の陽光の平穏な暖かさも、夏の照り付けるような暑さも、秋風の涼しさも、冬の寒さと降りしきる雪の冷たさもまるで感じない。そこに一切の風情はなく、感動も生じない。私にとって季節とは、全てが等しく同じものなのだ。
乳呑児の頃より潜在的にすらそうした感動を知らない私は、実に意思希薄な幼子へと成長した。私の目の前に、沈黙の世界の決して感ずることができぬ悍ましさが幾程にも立ちふさがった。
まず、私は出歩くたびにほとんどと言っていいほど怪我をして帰った。痛みという危険信号がない私には、何が怪我をもたらすのかてんで検討がつかないからだ。人の危機回避プロセスは「認知」「判断」「行動」の三段階を経るが、私にはこの入り口である「認知」が働かないわけである。
例えば、あまりにも高いところから飛び降りれば捻挫や骨折などすることは誰にでも分かるものだが、それが理解できなかったからよく高所から飛び降りて怪我をしていた。しかも性質の悪いことに、痛みがないせいで防衛本能が上手く機能しないから、大抵の場合大怪我を負った。ただ転んだだけでも、私は大惨事を起こした。救急車を呼ばれた回数は一体どのくらいだっただろうか。思い出せないほどだ。
また、私はよく口から血を流した。何故かというと、舌や咥内を頻繁に噛んでしまうためだ。しかも加減が分からないから口の中が血塗れになるまで気付けなかった。
何度も何度も舌を噛み続けたせいか、この頃には味覚も無くなってしまった。私は物心ついてすぐに、情緒を養うために必要な感覚をほとんどすべて失ったことになる。
そんな欠落した私を、両親はどう扱ったか。
彼らは腫れもののように私に接してきたが、しかし愛してくれた。これだけは、心を失った今の私でも確信をもって言える。彼らは本当に愛情を注いでくれたし、私を人間扱いしてくれた。
ある日、私がケーキの箱についていたドライアイスを面白がって触ってしまった時のことだ。私は全く気付かずにそれを触り続けていたわけだが、勿論両手はただでは済まない事態になっていた。そんなこと露知らず、私は無表情のままそれを父に見せびらかしたわけだ。「お父さん、何これ?」と小首を傾げながら。
父は当然、仰天した。鬼気迫る形相で私からドライアイスを取り上げると、手を火傷しながらもそれを台所に放り捨てた。自分の手の損傷など全く気にした素振りを見せず、グズグズに皮膚が爛れ血に塗れた私の手を急いで応急処置すると、涙を流した。そして、力強く抱きしめてきた。
「ごめんな、ごめんな。目を離しちまって……」
子供のように泣きじゃくる父を見て、どういう顔をすればいいのか分からなかった私は、取りあえず笑った。
「どうして、そんなに泣いているの?」
「ごめん……ごめん……」
父は謝り続けた。それは彼の自責であり、そして涙と抱擁は愛するものが無自覚に傷つく姿を見て堪え切れなかったためであろう。しかし、頬を渡る水滴の冷たさも抱擁の温もりも感じない私には、それが愛ゆえの行為であることが理解できなかった。
ただ、包帯の巻かれた手を見て、「ああ、また私は仕出かしてしまったのだな」と無感情に思っただけだった。
母も、父と同じくらいとても過保護だった。でも、危なっかしい私を甘やかすだけでなく、時には叱り、そして優しく諭してくれた。温めたものは触っちゃだめよ、高いところから落ちたら足を怪我するから危ないわよ、といった具合に。
しかし、母の教えも虚しく私の怪我はあまり減ることはなかった。それでも母は諦めず懸命に私と向き合ってくれた。私の頭を撫で、穏やかな微笑みを絶やすことなく接してくれた。
「いい○○、あなたには『痛い』ってことが何なのか分からないと思う。だから、もしかしたら人の痛みが分からないかもしれないわ。だから知らないところで、人を傷つけてしまうかもしれない」
「もしそうなってしまったら、あなたは多くの人から嫌われてしまうかもしれない。それは、ある意味仕方ないことなのよ。でもね、○○」
「あなたには、私たちがついているわ。私とお父さんはあなたのことを絶対に嫌いになったりしない。だって、私たちの大切な娘なんですから。貴方が誰かを怪我させたとしても、私たちが一緒にその重みを背負ってあげる」
「だから――」
この後の言葉は覚えていないが、何か大切なことだったような気がする。
忘れてしまったのだから、もしかしたら大切ではないのかもしれないけれど。
ただ、この時も私は母の言葉から愛情の一片も感じることができなかった。言葉の意味さえ、あまり理解していなかったと思う。人を傷つけたらいけないのだな、と漠然に思っただけだった。
危険と隣り合わせで、しかしどこまでも静謐な日常にあった私は、父と母に愛され、しかしその愛を正しく受容できずにいた。それはとても無味乾燥とした空虚な時であったが、今からすると私にとって一番幸せな日々だったことは間違いない。
だって、人として愛されていたのだから。
欠落した私が人として生きていられたのだ。それを幸せと言わず何という。
だけれども、私の『幸せな日々』は長くは続かなかった。
家具もカーテンもない真っ白な部屋を彩っていた、たった一輪のベコニアが枯れてしまった。
両親が死んだのだ。
事故だった。私たちが旅行から帰っている途上、飲酒運転の暴走車が私たちの乗用車に猛スピードで突っ込んできた。私たちの乗用車は激しく横転し、中に乗っていた父と母が死亡した。即死だったらしい。後部座席は幸い衝撃をあまり受けなかったようで、私だけが助かってしまった。
運が良かったのだろう。いや、運が悪かったと言った方が正しいか。その時死んでいれば、私はこの世界に失望することはなかったはずだ。
その日より、私の元に沈黙の絶望を運ぶ使者が舞い降りた。
途中ですが、今日はこの辺で。
親を失った私に待っていたのは、親戚の容赦ない冷遇だった。
私を引き取った親戚は、無痛症の私を気味悪がっていた。だからだろう、私は彼らから人扱いはされなかった。
何か少しでも粗相をすれば容赦なく殴られたし、食事もまともなものを与えられたためしがなかった。外に出て何か問題を起こすのではないかと疑われていたためか、親戚の許可がなければ外出すらできなかったほどだ。
まるで、犬畜生だった。いや、それ以下だった。彼らが大層可愛がっていたラブラドールレトリーバーの毛並みの良さは素晴らしいものだったのに比べ、私はやつれていく一方だったから。
彼らは私を手酷く取り扱ったが、中でも酷いのが義姉だった。彼女は私が痛みを感じないのをいいことに、まるで私をストレス解消の道具のように扱った。実験といって、私の爪を穿いだり、金属バットで殴ってきたりした。彼女は嬉々として、私が壊れる限界を見極めて執拗に暴力を振るった。
虐待だった。それが、一年近く続いた。いくら痛覚のない、感情の乏しい私といえど、人扱いされない日々に段々と心の平静を失っていった。
ある日、私はとうとう我慢できなくなってしまった。
あいつらは、平然と私を傷つける。私が痛がらないのをいいことに、まるで人形の糸を一本一本抜き取るがのごとく。自分の身体がおもちゃにされている事実に、幼く希薄な精神しかない私でさえ、静かな怒りを覚えた。
母の話を、私は「人を傷つけてはいけない」という意味で解釈していたが、それは誤りだったと思い直したのだ。母は、私が痛みを知らない故に無自覚に人を傷つけてしまう可能性を言及したものの、「人を傷つけるな」とは一言も言わなかった。
そうだ、あいつらは私を傷つけてくるのに、どうして私があいつらを傷つけてはいけないという道理になるのか。
それは誤りだ。我慢する必要なんてなかった。
だったら、やってしまおう。奴らが私にしたことをそのまま返してやるのだ。
気が付くと、私は金属バットを手にしていた。義姉が私を殴打したそれで、私は義姉と義父、義母を何度も殴った。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も——。
ただ怒りに任せて。悲鳴が聞こえようと、泣きわめき懇願されようとも私は止まらなかった。
初めて感じた激しい感情のうねりを、私はコントロールする術を知らなかった。そして、痛みを知らないから彼らの味わう苦しみの一切が理解出来なかった。だから、やり過ぎた。
激情から解放された私が見たのは、血だらけになった部屋と、苦しげな呻き声を上げ動かなくなった三人だった。
三人とも酷い有様だった。頭からは大量の血を流し、腕や足がまるで蛇行する蛇のような形に変形していた。奇抜なオブジェクトを見ている気分だった。私は笑った。ただ、笑った。
返り血で真っ赤に染まりながら笑う私は、きっと不気味に違いなかっただろう。何が可笑しいのか、自分でも分からなかったくらいだ。
初めて私は罪を犯した。母の言葉とは違って、自覚的に私は人を傷つけてしまった。幸い三人が死ぬことはなかったが、一番殴打された義姉は脳に障害が残ってしまったらしい。ざまあみろとも思わなかったし、かと言って罪の意識も湧かなかった。
ただ、どこまでも空虚なだけだった。
その後のことはあまり覚えていない。いつの間にか、床も壁も真っ白な場所にいた。何故かそこの窓には鉄格子が嵌っていて、まるで監獄のようであったが、それにしてはあまりにも清潔すぎる場所だった。
白衣を着たおじさんが、優しく何かを語りかけてくる。それに淡々と答える。毎日のようにそのやり取りを繰り返していた。それ以外にはとくに何もせず、寝ているだけで過ぎていく静かな日々。
暴力だらけの日常から、私はまた静寂に戻された。だけどその頃にはすでに、私の心は親戚たちから蹂躙され続けたおかげで、すっかり壊れていた。私は自分を人間だとは思えなくなっていた。彼らから常に言われ続けた蔑称が頭の中に強く残っており、自分をそう思い込んでしまっていたのだ。
『欠陥品』。私のことを、親戚たちはそう呼んでいた。
痛みも味も熱もない私に、その名称は言い得て妙だ。なるほど、私は人が当然にもつ感覚がほとんどなければ、感情も無に等しいから、欠けているというのは確かにその通りなのだろう。言い換えると、人が当然に持つものを持っていない私は、人ではないということになる。
『欠陥品』という呼称に、疑念を持つことはなかった。受け入れていた。
白衣のおじさんは、その考えを改めさせようとしてきた。「君は人間だよ」と、私にいつも言い聞かせていた。それでも、根底にまで絡みついた暗いアイデンティティは、中々変革を起こそうとはしなかった。
それでも彼はサジを投げず、私のために色々としてくれた。
話を聞くだけではなく遊びに誘ってくれたり、勉強を教えてくれたりした。私はあまり遊びには積極的ではなかったが、勉強の方は熱心にやっていたと思う。感情が薄いくせに、知的好奇心は多分にある子供だったのだ。
どうやら私は賢かったようで、彼や看護婦さんが教えてくれることを砂漠が水を吸収するような速度で憶えていった。これには、彼らも大いに驚きつつも、意志薄弱と思われていた私が勉強に積極性を見せたことが嬉しかったのだろう。彼らは次々とテキストや本を持って来てくれた。
半年も立たないうちに、私はそこらの子供の水準を遥かに超える学力と知識を身につけていた。本、中でも小説を沢山読んでいたこともあってか、情緒面でもそれなりに成長したと思う。無感情なのは相変わらずだったけど、それでも人の感情の機微が分かるようにはなっていた。
実に多くの本を読んだ私であったが、ある時、とある本との出会いが私の意識を大きく変えた。
人間の振りをして生きる、人喰いの怪物を主人公にした話である。主人公は人間と全く同じ見た目をしているが、しかし人間以外のものを食べることはできない。パンやケーキなど普通の食べ物は、吐瀉物や排泄物みたいな食感に感じ、決して食べられないらしい。身体が、人間の肉以外を受け付けないのだ。
そんな主人公であるが、しかし食料であるはずの人間が好きであり、彼らと共存しようとする。そのために人間のフリをすることが必要不可欠であり、彼は人前で不味くて喉も通らないはずの普通の食べ物を咀嚼するという無茶までやってのける。また、食料にする人間も自殺した人や悪人などであり、一般人には決して手は出さない。
私は、この主人公の生き方にいたく関心を抱いた。どうしてそこまで主人公は人間と共存したいと思っているのか、気になったのだ。彼は、人間が好きだからと言っていた。人喰いの怪物のくせに、人間が好きなんておかしな話である。
だが、それにはちゃんとした理由があった。彼はいつも孤独だったそうだ。仲間もおらず、食料の人間と仲良くするなど考えられないと思っていたから、独りでいるしかなかったのだ。
そんなある日、主人公は怪我をした。死にそうになる程の大怪我で、動けなくなっていたところをある人間に助けられた。助けた人間は、献身的に主人公を治療しようとし、また多くの他の人間たちに協力を要請した。彼らのおかげで、主人公は助かった。病室で目を開けた彼を見て、多くの人たちが喜び合った。その光景を見たことと人の温かさに触れたがきっかけで、主人公は人間が嫌いになれなくなり、ついには好きになってしまった。
そして、独りだった主人公は、人との触れ合いに喜びを感じるようになった。人は誰しも、誰かから認められたいという承認欲求があるが、彼も例外ではなかった。自分を認めてくれる誰かの存在が、彼を幸せにしたのだ。頼られることが何よりも嬉しいと、作中泣きながら語っているのが印象的だった。
私は、主人公が羨ましいと思った。
私にも、両親という自分の存在を認めてくれる誰かがいた。そして、今は白衣のおじさんや看護婦さんたちがそれにあたる訳だ。だけども、正直彼らでは私の奥底に生じた欲求を満たすに足らなかった。
何故なら、彼らは私を一方的に認めてくれるだけであって、私を頼りにはしてこないからだ。相手は大人で、自分は子供なのだからそれも当然だが、しかし私は頼られたかったのだ。私を頼る誰かが欲しかったのだ。
だから、そのために私も主人公と同じような努力をしようと思った。つまり、普通の人間のフリをしようと思案したわけだ。
怪我をした時に痛みを感じている演技をしたり、食事をして食べたものの感想を正確に言えるようになったり。そうすれば、私も人に近づけるのではないか。人に近づけば、障害がないと思わせれば、人が頼ってくれるようになるのではないか。そう考えた。
しかし、その努力をするには大きな障害が一つあった。この場所には、私を頼ってくれそうな誰かがいないということだ。皆、私の障害を知っているためである。どうしようか、と頭を悩ませていた時だった。
大きな転機が訪れた。
私に、艦娘の適性が出たのだ。国は毎年、一定年齢に達した女児を対象に、艦娘の適性検査を行う。軍艦の記憶を人に植え付けて艦娘にするわけだが、誰でも良いわけではなくて、それなりの基準を満たしたものにしかなれないのだ。その基準を満たせるものは一万人に一人の確率であるそうだが、私はその極小数に選ばれた。
選ばれたからには、拒否権はない。逃げようとした場合は法律違反となり下手を打つと一生幽閉される。私は艦娘になるしかなかった。
白衣のおじさんも看護婦さんも私のことを心配した。当然だ、無痛症患者が戦場に立つなど自殺行為に他ならないからである。しかし、私は私に出せる精一杯の明るさで大丈夫と答えた。
これは、他人に必要とされたいという承認欲求が芽生え始めた私にとって、チャンスであった。
艦娘の適性が出たものはまず最初に、養成学校に入ることとなる。私は駆逐艦だったから、最短二年で卒業するコースだ。もちろんその二年間は集団生活することとなるから、『人間のフリ』についての練習や研究が出来るわけだ。
これから戦争しなければならなくなるというのに、私は呑気なものであった。恐れや不安などより、小さな期待感の方が大きかった。
こうして私は駆逐艦『浜風』になり、養成学校へと入学を果たした。
投下終了。
人喰いの本の話は、自分の創作です。設定は石田スイさんの漫画「東京喰種」からお借りしました。
浜風となった私は、養成学校で艦娘としての生き方や戦い方を学んだ。私たちが教官から最初に教えられたことは、兵器として生きろということだった。私たちは軍艦の生まれ変わりであり、深海棲艦を倒すことが本懐であるから、人としての意識を捨て去れということである。
これから『人間』になろうとしている私は、最初、教官の言葉に戸惑いを覚えた。結局ここでも人扱いはされないのかと思って落胆したものだ。
しかし、すぐにそれは気にしなくてもいいのだと気づいた。何故なら、このような人格否定は軍隊では珍しいものではないからだ。ある種人格や感情を捨てなければ、人が簡単に死ぬ狂気と理不尽の極致である戦場では生き残ることはできない。その点からすれば、人格すら否定する苛烈な訓練はある種仕方のない部分がある。大事にされて甘えた精神しか持たないものに、銃が握れるはずはないのだ。
実際、私の同期たちもその点には理解があった。もちろん、理不尽な扱いに怒りを感じてはいたが、戦場の厳しさを同時に教えられていたから、納得はせずとも妥協できていた。おそらく軍人とは、こうした妥協によって戦士としてのアイデンティティを獲得していくのだろう。
つまり、私たちに行われる人格否定は、あくまで艦娘としての、戦士としての人格を新たに形成するためのものだ。だから厳密に言うと『完全な人格破壊』ではない。私が親戚たちから受けてきた拷問とは、訳が違うのだ。あれは完全に私の人間性そのものすら認めぬ鬼畜の所業であった。
だから、私は訓練において精神的な苦痛を感じたことはほとんどなかった。むしろ、教官の意図された暴言に、生温さを感じていたほどである。そもそも感情なんて初めからないに等しい私に、そうした訓練は不要とさえ言えた。
しかし、私はつまらなさすらあったこうした訓練に、熱心に取り組んだ。理由は色々ある。まず単純に、真面目だからだ。何かをやり始めると一切妥協ができない、ある種の融通の効かなさが私にはある。極めるまで気が済まないというわけだ。
次に、訓練を適当に受けて低い練度しか獲得できなかった結果、戦場で犬死するなんてことになるのが嫌だったということもある。死ぬことを恐れてはいなかったが、かといって無駄に死にたいわけでもなかった。この頃の私はまだ生に幾ばくかの期待を持てていた。生きていれば、何かできることがあるはずだと思ってさえいた。ああ、笑える。
そして、これが最後だが、人から認められるようになるためには、自身が優秀でいなければならないからだ。愚鈍なものを好きになるものはいない。私の承認欲求を満たすためには、どうしても私は優秀でいなければならなかった。
だから、私は己を高め続けた。その結果、座学では私に並ぶものはいなくなり、また運動神経も鈍い方ではなかったから、実技も五本の指に入るほどには秀逸した成績を残した。
その時点で、私はすでに周りから一目置かれた存在になっていた訳だが、しかし距離を置かれていた。能面とも思えるほど表情の変化が希薄な私に、冷たくて近寄りがたい印象を抱いていたせいだろう。これでは意味がない。
私は入学当初から『人間のフリ』の研究と実践を欠かさなかったが、中々上手くいかなかった。ずれた反応ばかり繰り返していた。
誰も食べなかった食堂で一番まずいメニューを美味いといいながら食べていたり、偽装整備室の空調が壊れていることに気付かず蒸し焼きになりながら作業を続け倒れたり(何故か教官からは感心された)、足首を捻挫していることに気付かなくて、顔色一つ変えずに訓練に参加したり、など。
私の奇行は訝しまれ、優秀だけど取っ付きにくい変人だと思われるようになってしまった。今期一番の変わり者だとレッテルを貼られるまでとなったのだ。
しかし、私は諦めなかった。あの主人公は決して人との共存を諦めなかったのだから。肝胆を砕く思いで、私は切磋琢磨し続けた。これまで以上に膨大な本を読み、映像作品でリアクションと表情を学び、同期の子達を人知れず観察して差異や共通点を検証した。
だが、中々上手くはいかなかった。やはり、第一印象で失敗したのが痛かった。中々、私とコミュニケーションを取ろうとしてくれる子がいなかったのだ。
だが、中には例外もいた。その例外が、ここでの私の生活を大きく変えた。
どうしようと途方に暮れながら、食堂でまさに味気ないカレーを食べている時だ。淡々とカレーを口に運ぶ私に、小さな影が差した。誰かが近づいてきたのだ。
「ねえ、前の席いいかな?」
その子はとても快活に笑う子だった。私とは違ってとても自然で、違和感がない。
私は一瞬惚けていたと思う。まさか、声を掛けられるなんて思ってもいなかったからだ。私と同じように、周りにいた他の子達もギョッとした目でその子を見ていた。
無反応でいる私に、彼女は少しムッとしていた。無視されたと思ったのだろう。流石に良くないと思って、私は「どうぞ」と答えた。
「ありがとう。いやあ、いつも一緒にご飯食べている友達が教官に呼び出されちゃってねえ。話し相手を探してたのよ。ね、あなた相手になってよ」
浜風「いいですよ、私で良ければ。陽炎さんの暇つぶしの相手になれるかは分かりませんが」
陽炎、私がそう呼んだ子は、驚いたように目をパチクリさせていた。「あらまあ」なんて、おばさん臭い声を漏らした。
陽炎「私の名前知ってたんだ。隣のクラスなのに」
浜風「有名人ですから」
実際、有名人だ。彼女は私とは違う意味でとても目立つ子だった。実技では私より上の成績を保持しているし、何より誰に対しても気さくで別け隔てなく接するため、皆から人気があった。
陽炎「え、そうなの?」
浜風「はい。人当たりが良くて接しやすいと評判ですよ。私も見本にしています」
陽炎「見本だなんて。照れるじゃない」
陽炎さんは、本当に照れたように頬を赤らめた。分かりやすい人だな、と思った。多分、あまり裏表のないサバサバしたタイプだ。だから人気があるのかもしれない。
陽炎「あなたいい子ね。あ、私もあなたのことは知ってるわよ。浜風さんでしょ? 座学一位の」
私は頷く。
陽炎「あなたも有名よ。色々話を聞いててね、面白そうな子だなあとは思ってたの」
浜風「そうですか」
陽炎「そうそう。ねえ、ところであなたって何型なの? 吹雪型? それとも白露型?」
浜風「あなたと同じ、陽炎型です」
陽炎「ふーん、陽炎型ね。て、ええっ!? あんた陽炎型なの!?」
机を叩いて、陽炎さんは身を乗り出した。顔が近づく。周りの子達がこちらに視線を向けていた。瞳には、少し非難するような色があった。
浜風「落ち着いて下さい。周りが見ています」
陽炎「あ、そうね。……すいませーん」
小さく謝りながら陽炎さんは戻った。
陽炎「それにしても、あんたが私の姉妹艦だったなんてね。こりゃ、驚きだわ」
浜風「私もまさかネームシップに会えると思ってませんでした。ちなみに私は十三番艦です」
陽炎「十三番艦ってマジ?」
浜風「マジです」
陽炎「十三番艦……妹……」
陽炎さんは、ジロリと観察眼を向けてきた。私の存在意義が皆無な二つの膨らみに焦点があっている。やがて、自分の胸元に視線を移し、平原のようなそれを手で触った。少し涙目になった。
陽炎「……負けた。妹に、負けた」
浜風「胸ですか?」
陽炎「……みなまで言うな」
浜風「やっぱり胸ですか」
陽炎「みなまで言うなと言っている!」
ちょっと怒られてしまった。
そんな敗北感に打ちひしがれる必要はないのにと思ったが、私はそれ以上追求しなかった。
どうして貧乳の人は私の胸を見ると、溜息をついたり涙目になったりするのだろう。こんなものついていても邪魔でしかない。合う下着も中々見つからないし、大変なだけだ。それに、男からもジロジロ見られる。いい事などありはしない。
そんなに欲しいのなら、引き千切って渡してやろうか。どうせ痛みなんて感じないのだからやろうと思えばできなくはない。まあ、やらないけど。そんな猟奇的なことを仕出かしたら、私の努力が全て水泡に帰すこととなる。
陽炎「まあ、いいわ。いつか私だって大きくなるはずよ」
浜風「そうだといいですね」
陽炎「勝者の余裕ってやつ? ちょっとムカつくわー」
浜風「すいません」
陽炎「謝らなくていいわよ。冗談なんだから」
そう言って、陽炎さんは楽しそうに笑った。何故か知らないけど、私もつられて顔の筋肉を緩めていた。
陽炎「あら、あなたが笑ったところ見たの初めてね」
浜風「え?」
私は驚いた。笑っていたのか、この私が。
陽炎「笑うと可愛いわね。その笑顔を見せたら、きっとみんなと仲良くなれるわよ」
浜風「……」
なるほど、そういうことか。
陽炎さんがどうして私に話しかけてきたのか分かった。友人が呼び出されて話し相手が欲しかった、なんて方便でしかないのだ。彼女なら、苦労せずとも友人の代わりを探すことができるはず。私にわざわざ声をかける必要なんてない。
きっと、いつも一人でいる私に、皆と馴染めないでいる私に、気を遣ってくれたのだろう。誰も話しかけようとしないから、自分から私に歩み寄ることで、私が皆と仲良くなるためのパイプになろうとしてくれているのだ。隣のクラスの私に対してわざわざ。
何て気の利く人なんだろう。人に対して感心を抱いたのは久しぶりだ。彼女の優しさに、凍っていた心がほんの少しだけ溶けた気がした。
浜風「陽炎さん、いえ陽炎姉さん」
私は敬意を込めて、陽炎姉さんと呼んだ。いきなり呼称が変わったせいか、彼女は困惑顔を浮かべていた。だけれども、何も言わず元の優しい笑顔に戻してくれた。
陽炎「何?」
浜風「その……、ありがとう」
本心から誰かにお礼を言ったのは、これが初めてだと思う。何だか首が上げづらい。どうしても俯いてしまう。
陽炎「お礼はいいわ。ま、頑張りなさい」
陽炎姉さんはそう言って、私の肩を叩いた。痛みは感じない。温かさもない。だけど、そこにある優しさが伝わって来たことが嬉しかった。小さな子供の頃、両親に対して感じることができなかったそれを読み取れるようになっていた。私も、成長したということなのかもしれない。
途方に暮れていた私の内心に、一筋の木洩れ陽が差した気がした。
陽炎「ところで浜風」
浜風「何でしょう、陽炎姉さん」
陽炎「そのカレー、美味しいの?」
浜風「……『甘ったれカレー』のことですか? はい、とても甘くて美味しいです」
陽炎「……」
浜風「……姉さん?」
陽炎「あんた、本気で言ってんの?」
浜風「え?」
陽炎「そのカレー、この食堂のメニューで一番辛いやつよ? 一口で舌が痺れて食べられなくなるほどにね」
浜風「……」
陽炎「あんた、相当な辛党みたいね。これが甘く感じるなんて……」
浜風「……」
後日、私は知ることとなった。この『甘ったれカレー』の甘ったれというのが、甘さを指すのではなく、甘ったれた精神をもつ兵士に罰ゲームとして食わせていたことに由来するのだということを。
あまり調子には乗らないようにしよう。そう思った。
投下終了。
レウコクロリディウムをレウコクロディリウムと書いていました。まとめ速報の方で指摘して下さった方、ありがとうございました。
その後、陽炎姉さんは頻繁に話しかけてくれるようになった。一人で来ることもあったし、友達を連れて来ることもあった。
陽炎姉さんは、私に友達のことを紹介してくれた。浦風と谷風という、同じ陽炎型の姉妹艦だった。近寄り難く変人としても知られていた私に会わせられた二人は、最初明らかに戸惑っていた。浦風は上手く表情を隠していたが、谷風は露骨に引きつった顔をしていたのを覚えている。
しかし、何度か顔を合わせていると、彼女たちは次第に警戒を解いてくれた。私に対する偏見もほとんど無くなったようだった。二人は陽炎姉さんが居なくとも私の元に来てくれるようになった。
陽炎姉さん達が私と普通に接しているのを見てか、一人また一人と私に近寄ってくれる人が現れた。その数は段々と増え、歩いていればたくさんの人達から挨拶され、食堂にいれば私の周りには人が集まるようになった。わずか一月の間に、私を取り巻く環境は大きく変化した。
全ては、陽炎姉さんの後援があったからこそだ。彼女は私の知らないところでも、皆の偏見を消すために行動してくれていた。そのことは決して言わないが、私は知っている。
陽炎姉さんには感謝してもしきれない。彼女は私にとって、恩人であり尊敬すべき姉であった。それは今でも変わらない。そう、今でも。
陽炎姉さんが開いてくれた入り口に、私は足を踏み入れた。後は、支援してもらうこともあるが、基本的には自分で歩いていかねばならない。それは楽な一本道ではない。罅も入っていれば穴もある。しかし、それは扉さえ開いていなかった最初に比べれば何てことはないものだ。それにこれこそが、私が望んでいた道ではないか。
『人間になるための道』。その本当の切符を掴んだ。
私は今までの成果を存分に発揮した。最初の頃と比べたら演技力も上がっていたが、しかし、まだまだ周囲の怪訝を取り去るには足りなかった。ズレた反応をしてしまった時は、陽炎姉さんや浦風がからかいながらも上手く誤魔化してくれた。「浜風は天然なところがあるから」といった具合に。
そのおかげか、皆、私のことをクールで天然な子だと思うようになった。その頃には私を訝しむ人はいなくなったと思う。奇しくも私は、輪の中に入ることができるようになったわけだ。
だけれども、足りない。何故なら、これは陽炎姉さんから与えられた場所であって、私の力で手にしたものではないからだ。それに、欲求の本懐は、「人から頼られるようになる」ということにある。私はまだ、人から真に必要とされていない。ただ、与えられているだけだ。
それでは、白い場所にいた時と何も変わらない。私はさらに研鑽を積んだ。これ以上、ただ受容するだけの存在で居るのは嫌だった。
さらに二ヶ月が経った。ついに、痩せた大地を耕して巻き続けた種が、全て芽を出し花を咲かせた。この頃には、私の演技力は格別なものとなり、もう普通の人のそれに限りなく近づいたと言っても良かった。
怪我を負うと、傷口を庇ったり痛そうな表情を自然に作れるようになった。怪我に気づけないことも勿論あったが、その時は「感覚が鈍っていてあまり痛みがなかった」と嘘をついた。アドレナリンが分泌されている間は痛みを感じにくくなるというのは有名で、私が怪我をして気づけないのは、大半が激しい運動をしている最中だから、疑われることはほとんどなかった。
熱感覚の把握はそこまで難しいことではない。季節によって暑いか寒いかははっきりしているからだ。夏なら暑いし、冬なら寒い。大雑把でいい。また、天気予報を毎日確認していれば更に気温の詳細が分かる。とにかく気をつけたことがあるとすれば、気温が高い日の行動だ。あまり蒸し暑いと思える場所には近寄らず、水分はかなり小まめに取った。
そして、一番苦労したのが味覚であった。味を把握するのは、至難の技だ。同じ品目でも味に結構な違いがある。甘いカレーもあれば、辛いカレーもあるように。私は五味表現をなるべく避け、「美味しい」と曖昧な表現をするようにした。味の細かい感想は、会話中に相手を誘導して上手く引き出した。後はそれに同意すればいい。逆に相手から聞かれた時は、知識の中から予測して言うしかない。だが、ほとんど当たってくれた。勉強の賜物であろう。
巧妙に作られた影絵を見せられた観衆のごとく、皆は私の演技に騙されてくれた。
もちろんこれらの感覚だけが欠落したものではなく、感情表現や表情もそうであったから、これらの表現についても技術を磨いた。これらも違和感なくできるようになった。作り笑いなら、誰にも負けない自信がついたほどだ。
まるで詐欺師にでもなったかのようだ。しかし、あまり罪悪感を感じてはいなかった。確かに人を騙してはいるが、それで誰かが損をしたわけではないからだ。
もう、私は陽炎姉さんの助けを借りずとも、社交的に人と交流できるようになった。自分の力で『友人』を作れるようになったのだ。また、人の観察や研究をし続けていたおかげか、私はいつの間にか人の感情や気持ちの機微や変化に気配りできるようになっていた。面白いくらい、気付けるのだ。人が何を考え、何を求めているのか。私は彼女たちの欲求をことごとく満たしてやった。
するとどうだ。皆、私を頼るようになってきたのだ。ただ、人から擁護されるだけであった私が、反対に頼られるように――。
その事実に確かな愉悦を覚えた。私は、生まれて初めて何かに喜びを見出したのだ。
ああ、なんて、なんて、香しい。これが、「頼られる」ということか――。
あの主人公が泣きながら喜んだのも分かる気がする。まるで、溶けそうだ。性感なんてないけれど、多くの本に触れてきた私には分かる。私は初めて快感を覚えたのだ。
気持ちいい。私の中に残っていた微弱な感情が全て総動員されているかのようだった。私は、空腹な獣が捉えた獲物を貪るように、この承認欲求を満たそうとひたむきに動いた。
最初は良かった。未知なる感覚に酔いしれたものだ。だが時間が経つにつれ、私は異変に気付いた。
どこか、物足りなく感じるようになってきたのだ。まるで衣服に生じた小さな綻びのように。その物足りなさは段々と大きくなり始めた。針で刺すほどに小さかった穴が、徐々に虫食いのごとくぽっかりと。
その正体が何なのか、私はおそらく気付いていた。しかし、無意識下で考えないようにしてしまったのだ。初めて感じた明確な感情の波に、逆らうような真似をほんの少しでもしたくなかった。人は圧倒的な愉悦の前では、思考停止して普段見えているものが見えなくなるというのは本当なのだろう。これは、私の数少ない精神的な隙となってしまった。
そして、承認欲求という名の黄金の杯に空いた穴。
いや、始めから空いていたといった方が正しいか。この穴が、人の道を歩んでいた私を地獄へと叩き落とす片道切符になろうとは思いもしなかった。全ては、醜い人の本性を忘れていた私の慢心だったのだ。
――笑えばいい。この後に待っている、私の滑稽な結末を。
投下終了。多分、後二三回の投下で回想は終わります。
桜が蕾をつけ始める季節となった。皆に囲まれながら過ごした養成学校もついに卒業を迎えたのだ。これからは各々が各地の鎮守府に配属され、深海棲艦と戦わなければならない。
皆、別れを惜しんで涙を流していた。二年間は彼女たちにとって厳しく辛いものであったはずだが、それでも友人たちと過ごした時間は楽しい思い出であったのだろう。永遠の別れではないけれど、しかし皆と過ごした時間はもう帰って来ない。私は一切泣かなかったが、彼女たちの目から溢れる結晶がどういうものかは理解出来ていた。
私にも、微かにそうした気持ちがあったと思う。苦労して築き上げた人間関係であり、私の欲求を満たしてくれていたものたちだったのだ。だから、ほんの少しだけれども、失いたくはないと思った。
厳かな式が終わり、配属先発表が終わってから解散となった。これから一週間の休暇の後、鎮守府へと移ることとなる。
私の配属先は南鎮守府と言う、開設して半年ほどの新しい鎮守府だった。主席で卒業した私には配属先を選択する権利が与えられており、行こうと思えば横須賀にでも行けたのだが、あえて南鎮守府にしたのだ。
何故なら、横須賀には優秀な人材が集まっているからだ。頼ってくれる人が少ない場所には行きたくなかった。
教官は私の進路希望に難色を示したが、新しい鎮守府だからこそ私の能力が活かせるということを説明すると、渋々と納得してくれた。横須賀や呉などの大きな鎮守府に優秀な人材が集中しすぎている危険性について理解を示していた方だったから、説得は難しくなかった。「新しい鎮守府を支えたいんです」なんて言葉を使ったが、偽善なんてものではない。私の想いはもっと邪なものなのだから。
配属先発表で、私の南鎮守府行きが読み上げられた時は皆一様に驚いていた。やはり、皆は私が横須賀か呉に行くと思っていたようだ。誰だってそう思うはずだから無理はない。国の官吏になるチャンスを蹴って、地方の小役人になる道を選ぶようなもので、私の選択は通常では有り得ないものである。
桜が蕾をつけ始める季節となった。皆に囲まれながら過ごした養成学校もついに卒業を迎えたのだ。これからは各々が各地の鎮守府に配属され、深海棲艦と戦わなければならない。
皆、別れを惜しんで涙を流していた。二年間は彼女たちにとって厳しく辛いものであったはずだが、それでも友人たちと過ごした時間は楽しい思い出であったのだろう。永遠の別れではないけれど、しかし皆と過ごした時間はもう帰って来ない。私は一切泣かなかったが、彼女たちの目から溢れる結晶がどういうものかは理解出来ていた。
私にも、微かにそうした気持ちがあったと思う。苦労して築き上げた人間関係であり、私の欲求を満たしてくれていたものたちだったのだ。だから、ほんの少しだけれども、失いたくはないと思った。
厳かな式が終わり、配属先発表が終わってから解散となった。これから一週間の休暇の後、鎮守府へと移ることとなる。
私の配属先は南鎮守府と言う、開設して半年ほどの新しい鎮守府だった。主席で卒業した私には配属先を選択する権利が与えられており、行こうと思えば横須賀にでも行けたのだが、あえて南鎮守府にしたのだ。
何故なら、横須賀には優秀な人材が集まっているからだ。頼ってくれる人が少ない場所には行きたくなかった。
教官は私の進路希望に難色を示したが、新しい鎮守府だからこそ私の能力が活かせるということを説明すると、渋々と納得してくれた。横須賀や呉などの大きな鎮守府に優秀な人材が集中しすぎている危険性について理解を示していた方だったから、説得は難しくなかった。「新しい鎮守府を支えたいんです」なんて言葉を使ったが、偽善なんてものではない。私の想いはもっと邪なものなのだから。
配属先発表で、私の南鎮守府行きが読み上げられた時は皆一様に驚いていた。やはり、皆は私が横須賀か呉に行くと思っていたようだ。誰だってそう思うはずだから無理はない。国の官吏になるチャンスを蹴って、地方の小役人になる道を選ぶようなもので、私の選択は通常では有り得ないものである。
発表が終わった後、多くの人が私の元に来て理由を尋ねてきた。私が教官にしたものと同じ説明すると、彼女たちは嘆息し、あるいは目を輝かせながら私を褒め称えた。あまりにも純粋な反応だったので、もう少し疑ったらどうかと思わず言いそうになった程だ。
話しかけてくる人たちがいなくなった頃、そろそろ帰ろうかと歩き出したら、谷風がついてきた。軽く挨拶を交わして、一緒に歩く。
谷風「いやあ、しかし驚いたぜ。まさか浜風が私と同じところに配属されるなんてなあ」
浜風「そうですね。これからもよろしくお願いします」
谷風「おう! でも、勿体ねえなあ。せっかく横須賀とかに行けたのにさ」
私は困ったように笑って見せた。この日、その言葉を投げかけられたのは何度目だろうか。答えるのもいい加減面倒だった。
私が答えないのを見て、谷風は小さく肩を竦めた。そして快活な笑顔を浮かべる。
谷風「ま、いっけどよ。浜風には浜風の考え方があるんだろ? 私は浜風と一緒になれて嬉しいしな」
浜風「ありがとうございます。そう言って貰えるとこちらも嬉しいです」
谷風「おいおい、本当にそう思ってる? あんま嬉しそうじゃねえぞ〜」
浜風「そんなことは」
からかってきた谷風にそう言って、お互いに笑い合う。私はほとんど演技だが、それでも無邪気な谷風と同じように笑えたはずだ。
谷風と雑談しながら養成学校の出口付近にまで来た。すると、正門近くの壁に背を預ける陽炎姉さんの姿を見つけた。彼女は私たちに視線を送り、小さく手を上げた。
陽炎「よ、待ってたわよ浜風」
谷風「えー、私は?」
陽炎「あんたはいいわ」
谷風「ひっでー。同じ陽炎型なのに、浜風とは随分扱い違うじゃねえか」
谷風が頬を膨らませて抗議する。
陽炎「あんたとは散々教室で話したじゃない」
谷風「ま、そうだけどさ」
陽炎「浜風とはまだ話してなかったからね。ちょっと話がしたくて待ってたのよ」
谷風「ふうん」
陽炎の言葉を聞いた谷風は、やや不満を残した声を出したが、私と陽炎姉さんを交互に見ると、小さく息を吐いた。
谷風「私はお邪魔みたいだねえ」
陽炎「……悪いわね」
谷風「いいってことよ。じゃ、お二人さん。後はごゆっくり」
谷風は私の背中を叩くと、手を振って足早に去って行った。
後には、私と陽炎姉さんが残った。陽炎姉さんは何も言わず蕾をつけ始めた桜を眺め、私は憂いを表情に滲ませた彼女を見ていた。風が草木を揺らし、静寂に心地よいアクセントを与える。
陽炎「桜、咲いてないわね」
陽炎姉さんが口火を切った。
浜風「桜が咲くにはまだ少しだけ早いですからね。近年は気温も低いし、開花日は遅れるのではないでしょうか?」
陽炎「……そう。あーあ、どうせなら満開になった桜を見ながら卒業したかったわね。これじゃ風情がないわ」
浜風「そうですね」
私が頷きながら言うと、陽炎姉さんがこちらを向いた。困ったような、それでいて寂しそうな何とも言えない表情を浮かべている。
陽炎「聞いたわよ。あんた、南に行くんだってね」
浜風「はい」
陽炎「そっか。私は岬鎮守府に行くわ」
浜風「……そうですか」
陽炎「離れ離れね、私たち」
浜風「……」
私は、何も言えなかった。普段明るくて暗い雰囲気を嫌う彼女が、こんなにもメランコリックになるなんて思いもしなかった。
彼女のアメジストを思わせる瞳は惜別に沈み、そこに映した私の姿が霞んでいた。どうしてなのかは、すぐに分かった。雨が上がって開けた青空の下、葉っぱから溢れた雫のように清々しいものが、彼女の頬を伝っていた。
すぐに陽炎姉さんは目を閉じて、誤魔化すように笑った。
陽炎「あんたと過ごした一年間、とても楽しかったわ」
浜風「姉さん……。私も、楽しかったです」
何も言わず、陽炎姉さんは頷いた。
陽炎「あんた、最初は見てられないくらいおっちょこちょいでドジだったけど、どんどんそういうところがなくなっていって……。すごい成長だったわ。誰よりも、みんなと仲良くなろうと努力していたものね」
彼女は、私の障害のことを何も知らないし、努力の方向性が似て非なるものであることも理解してはいない。だけど、誰よりも私の努力を見守ってくれていたし、認めてくれていた。それは、疑いようもないのだ。
言葉を切って、陽炎姉さんは短く息を吸い、続ける。
陽炎「あんたは、いつの間にかみんなの中心になっていた。嬉しかったわよ、自分の妹が成長して立派になっていくみたいで」
浜風「……」
陽炎「もう、あんたは一人でも大丈夫よ。私が言うのは何だけど……自信を持ちなさい」
浜風「はい、ありがとうございます……」
陽炎「浜風」
陽炎姉さんは、突然私を抱きしめてきた。
いったいどうしたんだ。陽炎姉さんがこんなことをするなんて。
私の背中に強く回された陽炎姉さんの腕は、微かにだけど震えていた。あの陽炎姉さんが、震えている。それは、私の希薄な感情を小さく波立たせた。私は気付いたら、彼女を抱き返していた。
陽炎「あんたは、私の妹であり――誇りよ」
浜風「……姉さん」
陽炎姉さんが、抱き締める力を強めた。
陽炎「だから、だから絶対……」
陽炎「絶対、死なないで……」
私の胸の中で、ついに陽炎姉さんは決壊した。くぐもった嗚咽が、木々を揺らす風の中でもしっかりと聞こえてきた。
彼女は強い人だ。一年以上見てきたから分かる。どんなに過酷な状況にあっても、彼女は弱音を吐いたことなんて一度もない。いつも明るく振舞って、率先して皆を引っ張ってきた誰よりも頼り甲斐のある人なのだ。今の彼女は、そんな陽炎姉さんの凛々しい姿からはかけ離れていた。
そうか。
彼女も、泣くのだな。
きっと怖いのだろう。私たちはこれから戦場に行き、理性の効かない怪物たちと命をかけたやり取りをするのだ。それに、駆逐艦は数が多く養成も容易なため代わりが効きやすいから、他の艦種に比べると軽く扱われる傾向にある。そのため、一番死亡率の高い艦種でもあるのだ。間違いなく、私たちの同期の半分以上は数年以内に死ぬだろう。皆、それを知っていて何も言わず、だからこそあんなにも涙を流したのだ。確定した永遠ではないけれど、この卒業式が今生の別れになる可能性は十分すぎるほどあるから。
友人が、二年間仲良くしていた誰かが死ぬ。それほどに怖ろしいことはないはずだ。とくに、陽炎姉さんのように仲間との絆を大事にする人にとって、想像するだけでも怖いに違いない。彼女はあまりにも気高く、思慮深く、そして優しすぎるのだ。きっと彼女にとって、自分が死ぬかもしれないということよりも遥かに、仲間が死ぬかもしれないということの方が耐え難いものがあるのだろう。
それでも。それでも、彼女は最後まで泣かなかった。誰よりも泣きたいくせに、弱さを見せまいと、別れ行く友を不安がらせまいと、気丈に振舞っていた。だけど、私の前で耐えられなくなって泣いてしまったのだ。
なんという、美しい心をもった人だ。
やはり、陽炎姉さんは私の誇りだ。私はこの時ほど、自分が陽炎型駆逐艦であることを誇らしく思ったことはない。この姉のためなら死んでもいいと柄にもなく思ったほどだ。
陽炎「お願い……お願いよ……」
浜風「姉さん」
私は、彼女の頭を出来るだけ優しく撫でた。少しでも安心させてやりたかった。
浜風「大丈夫、私は死にません。私の慎重さは貴女だって知っているはずです。そんなヘマは絶対にしません」
陽炎「でも……!」
浜風「私は陽炎型駆逐艦十三番艦です。貴女の妹を信じて下さい」
陽炎「浜風……。あんた……」
浜風「約束します。私の、陽炎型の誇りにかけて」
顔を上げた陽炎姉さんに向って、私は小さく微笑んだ。どうしてだろう、彼女の前だと自然に笑えてしまうのは。温もりなんて一切感じないのに、それでも彼女の優しさを感じてしまうのは。心が、承認欲求を満たした時とは違う、心地よさで満ちていく。
浜風「約束します、必ず」
私は力強く言った。そしてまた、陽炎姉さんは泣き出した。彼女の頭をゆっくり抱きながら、もう一度髪を梳くように撫でた。
まだ蕾を開かぬ桜。しかし私たちの桜は、咲いている。桃園の誓いのように厳かでしっかりとした約束ではないけれど、私は確かに陽炎姉さんとの間に桜を見たのだ。
桜という、徒花を見た。
投下終了です。
遅くなってすいません。どうしても、中々進みませんでした。次回からは一旦書きためて投下しようと思うので、また遅くなるかもしれません。ご了承下さい
続きまだー?
ごめんなさい。もう少しお待ちを。
就活などでssに集中する時間があまり取れなかったり、ちょっとスランプ気味で行き詰まってたりで遅れてしまってます……。
卒業から一週間が経ち、私は谷風、他数名の仲間と一緒に南鎮守府へと配属されることとなった。その頃には桜が咲いていおり、新しい生活の始まりを美しく彩っていた。ただ、これから戦場へと続く切符を初めて切ろうとしている私には、その美しさも何処か白々しいものに思えてしまった。
出来たばかりの真新しい鎮守府の門をくぐり、まず私達は最高責任者である提督の元へと行った。
提督は中背の若い男性だった。年齢はおそらく二十代後半になるかならないかといったところだ。痩せこけた頬とキツネのように尖った目が印象的で、黒縁の眼鏡を掛けており、如何にもインテリゲンチャらしい感じであった。
私たちが挨拶を済ませても、彼はつまらなさそうに鼻を鳴らしただけで、挨拶らしい挨拶を返してくれなかった。私たちに向けた目は無機質で、まるで岸に捨てられた河豚でも見ているかのようであった。駆逐艦などに興味はないとでも言いたげな、見下した態度だ。
はっきり言って、私はこの時点で南提督に対してあまり良くない印象を抱いていた。しかし、海軍の上層部が駆逐艦を軽視している現状は周知の事実であるから、士官である提督が私たちに対して見下した態度を取るであろうことは想定してはいた。しかも、南提督は提督会議の副議長を務める呉鎮守府提督のご子息であり、名家出身と血筋においてもエリートである。その傾向は顕著であろう。
まあ、私たちは代えの効きやすい駆逐艦だし、偉ぶったエリートというのは軍隊に限らず大きな組織になると少なからずいるものだ。私たちの扱いなどこんなものだろう。私はそう納得した。この時は、棒アイスの外れを引いた時のような軽い残念さしかなかった。
南提督への挨拶は直ぐに済んだ。退室すると、皆一様にがっかりした顔をしていた。特に谷風は「かあっ、外れたぜ!」と大きな声で言っていた。聞こえたら不味いので、口を塞いで黙らせたが。
その後は、艦娘の先輩達と顔合わせをした。この鎮守府は始まって半年にしては、戦艦が二隻、正規空母一隻、軽空母三隻と戦力が充実していた。聞くと、まだ南西諸島海域入りを果たしたばかりなのにだ。普通なら南西諸島入りして初めて、戦艦を一隻持つことを許されるというのに。家柄の力だろう。
戦艦や空母などの優遇される艦種(一次戦力という。重巡・軽巡・潜水艦などが二次戦力、駆逐艦は三次戦力)は、軽巡や駆逐艦を見下すものは少なくない。だが、ここの一次戦力はそうした態度を取らなかった。口調も丁寧で優しく、私たち駆逐艦に対しても笑顔で接してくれる。
しかし、彼女達の笑顔にあった違和感を私は見逃さなかった。かなり微妙にだが引き攣り、作為的な気配があったのだ。巧妙に隠しているため、表情の変化に敏感な私だからこそ気付けたといっていい。実際、谷風達は気づいていなかった。
私は、ここでの艦娘の扱われ方がどのようなものか、かなり大まかにだが察することができた。その推察を決定付けたのは、一次戦力の後に出会った駆逐艦の先輩達である。
一番最初に出会った駆逐艦の先輩は、片腕がなかった。おそらく、深海棲艦との戦いで消失したのだろう。砲撃で吹き飛ばされたか、食い千切られたかは分からない。風に揺らめく長袖が、あまりにも軽やかで痛々しかった。
衝撃的な先輩の姿に、谷風たちは息を呑んでいた。私も少しだけ驚いていたと思う。先輩といっても、私達とほとんど年が変わらない少女には違いない。その少女が片腕を失っているという事実は、残酷なまでの現実を知らしめるには十分過ぎた。
彼女の姿は、戦場の狂気と恐ろしさを体現したものだった。
先輩は淡い影がさした瞳で私達を眺め、薄っすらと微笑んだ。
「貴女たちが新入りね、宜しく」
答えるものは誰もいなかった。先輩が少し不機嫌そうな顔をしたのを見て、すぐに私が答えた。
浜風「はい。私は浜風と言います。今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願いします」
私の挨拶で皆も我に返った。一人一人挨拶する。全員の挨拶が終わったのを見て、先輩は背中を向け歩き出した。
「着いてきて。皆の事を紹介するから」
私達は言われた通りに先輩の背中を追いかけた。
数分ほど歩き、鎮守府本館と離れた位置にある建物へと辿り着いた。入り口に立てかけられていた看板には、「駆逐艦娘寮」と墨が入れられている。中に入り、廊下を歩くと、百人くらいが入れそうな広間に出た。食堂である。
ずらりと並んだ長机。それに添うような形で置かれた数多の椅子に、駆逐艦の艦娘たちが座っていた。全員ではないが、彼女達は先輩と同じように所々負傷を抱えていた。片腕がないもの、眼帯をしたもの、火傷でもしたのか顔に包帯を巻いたもの――。怪我をしていないものを探す方が難しいほどだ。
ふと私は、幾つか空席があることに気がついた。すぐにその意味を理解したが、それ以上は考えないようにした。
「皆、注目!」
先輩が声を張り上げると、席についていた全員がこちらに注目した。彼女達の目は、どこか土のついたガラス玉を思わせる濁りがあった。一斉に向けられた暗い視線の束に空恐ろしさを感じたのか、同期の誰かが押し殺したような悲鳴を上げた。
それは先輩にも聞こえていたはずだが、彼女は特に気にした様子も見せず続けた。
「今日配属の子達を連れて来たわよ! 皆、色々と教えて上げなさい。……それじゃ自己紹介してもらおうかしら」
ちらっと先輩が私に目をくれた。私から紹介しろと言うことなのだろう。頷いて、私は自己紹介をした。
疎らな拍手が起こった。あまり歓迎されているようには見えない。
続いて、谷風がガチガチに緊張した様子で挨拶し、他の子達も谷風と大差のない自己紹介をした。拍手は誰の紹介の時でも変わらずにやる気がなかった。流石の私も、もう少し歓迎してくれても良いではないかと思ったほどだ。
谷風「こりゃ、やべぇところに来ちまったかもな……」
隣の谷風が耳打ちしてきた。私は思わず苦笑いをしてしまう。ある程度予想していたことではあったが、いくらなんでも先輩たちの表情も態度も暗然としすぎている。まるで、年中通夜でもしているかのような雰囲気だ。
棒アイスの外れどころではないらしい。私は考えを改めた。私達はとんだ貧乏くじを引いてしまったみたいだ。
「どこもこんなもんよ」
先輩が私と谷風を見て言った。谷風の肩がびくりと跳ねる。どうやら聞こえていたらしい。
先輩は諦観の籠った微苦笑を浮かべた。
「ガッカリしたでしょ? 気持ちは分かるわよ。でもね……鎮守府なんて、私達駆逐艦の扱いなんて、こんなものなの。戦艦様や空母様達と違って、私達は代えが効きやすいからね」
谷風が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。説得力が凝固したような先輩の言葉に、部屋の空気が一層重苦しくなる。ここにいるルーキーたちの安直な覚悟を圧し折らんばかりの重圧だった。
「これがあんた達が踏み込んだ現実よ。これからは常に棺桶に片足を突っ込んでいることを意識しておきなさい。そして、割り切りなさい」
先輩はひらりと揺れる長袖を握り締めた。そこにあったはずのものを惜しむように。
「それができないものから、死ぬわよ」
これが。
これが、戦争というものか。私の予測や想定は、教本を読んで将棋や囲碁を理解したつもりになったが如く、甘いものでしかなかった。
私達を地獄へ誘う死神との距離は、思ったよりも近い。感じないだけで、もしかするともう既に肩に手を置かれているのではないか。
私と谷風を虚ろに見つめる先輩。彼女はもう、囚われているに違いないだろう。
承認欲求を満たすどころでないかもしれない。まず、忍び寄った死神の手を払うことから始めなければ。そうでないなら、誇りを賭けて誓った陽炎姉さんとの約束を破ることになりかねない。
それは、あってはならないことだ。
怯えて涙目になった谷風を、「大丈夫ですよ」と笑顔で励ましながら、私はこの鎮守府で生きる術を探ることから始めようと思った。
お待たせしました。投下終了です。
二三回の投下で終わると言いましたが、当初の予定より話が長くなりそうなので、ちょっと難しいと思います。
後、艦娘の適正が出るのは一万人に一人の確率と言っていましたが、千人に一人の確率に訂正します。細かい訂正で申し訳ないですが、お願いいたします。
続きが気になるねー。
このssを書く上で参考にした本とかイッチのオススメの本とかあれば教えてほしい。
>>154
参考にした本は、設定をお借りした東京喰種とかになるかなと思います。後は無痛症の記事や戦争に関する書物ですかね……。なんというか、今まで読んで来た本や資料の知識から捻出してる感じなので、はっきり「これ」というのはないんですよね……。
自分が好きなのは太宰治です。ssに限らず創作においては、彼に影響された部分は多いです。
オススメは、「女人創造」、「人間失格」、「十五年間」あたりですかね。
その他は、「戦艦武蔵の最期」、艦これとかには全く関係ありませんが、佐藤賢一さんの「傭兵ピエール」とかは好きでした。
長くなったのでここら辺で(笑)
長文失礼しました。
すいません。
他のss作者様と酉が被っちゃったんで、酉を変えたいんですけど変えても問題ありませんか?
「開けて、急患よ!」
「あああぁ……、痛い……痛いよぉ!」
怒声が飛び交い、苦しげな呻き声が穏やかな潮騒を打ち壊す。昼下がりの港は、殺伐とした空気に満ちていた。
身体中に包帯を巻かれた少女が担架で運ばれている。血が滲んで真っ赤に染まった包帯が、少女の傷の深さを物語っていた。
少女は陸に上げれた鯉のように暴れ、喉が千切れんばかりの勢いで泣き叫ぶ。担架の横についていた他の駆逐艦の子達が少女を取り押えた。落ちてしまわないように気をつけているのだ。苦しむ少女を励ます声が幾度か聞こえる。
「しっかり! しっかりしなさい!」
「痛い……顔が痛いぃ! あああ、助けてお母さん! お母さん!!」
「くっ……、早く運ぶわよ!」
駆逐艦の子が焦った様子で急かす。実際、重症だ。急がなければ少女が危ないだろう。
少女を乗せた担架が医務室へと運ばれていく。姿が見えなくなり、呻き声も聞こえなくなってから、私は小さく溜息をついた。
これで負傷者を見るのは何度目だろうか。配属されてから一カ月しか経ってないというのに、私は多くの怪我人を目にしてきた。そのほとんどが駆逐艦というから、他人事では片付けられない。気をつけなければ、私もああなるかもしれないのだ。
しかし、その思考とは裏腹に、私の心は凪のごとき静けさで満ちていた。呆れはあっても、恐怖心もなければ怪我をした少女に対する同情もない。
痛みがない私に、彼女の苦しみの一切を理解できるはずがないからだ。ただ、上部の意味で「痛み」を理解できるだけである。私に生じるのは、「こうならないように気をつけよう」という冷たい教訓のみ。
私は医務室から視線を逸らし、騒動で中断していた連装砲の点検作業を再開した。
もうすぐ私は遠征任務に着かなければならない。そのために、艤装の最終チェックを港でしていたのだ。その途中に朝の遠征をしていた艦隊が帰還して、先程の騒動に至ったわけである。
連装砲の角度調整や砲筒の清掃など、一通り作業を済ませた私は艤装を背負った。肩にかかる圧力は慣れたもので、違和感や不快さはない。ただ、ベルトが胸に食い込む感触だけはどうしても慣れない。この無駄に大き過ぎる胸のせいだ。任務の度に引き千切りたいと思ってしまう。
予定よりやや早かったが、私は艦隊の集合場所へ向かうことにした。
その途上で谷風と出会った。後ろには四人の駆逐艦の子達がいる。皆、暗澹とした表情を浮かべていた。谷風たちは先程帰還した遠征隊のメンバーであるから、負傷した少女のことを思えば、暗くなるのも無理はない話だろう。
浜風「お疲れ様です」
谷風「ああ……」
私に気づいた谷風が、疲れた様子で返事をした。取り繕うように笑顔を作っていたが、全く隠しきれていない。
ぎこちなく吊り上がった口元。そこが、青く変色していることに私は気がついた。
浜風「……、……何かあったんですか?」
尋ねながらも、凡そ何があったかは予想がついていた。おそらく、南提督の仕業だろう。
谷風「あはは……やっぱ気付くよね。提督に殴られちゃった」
そう言って、谷風は困ったように笑う。
やはり、予想通りだったか。
浜風「もしかして、資源の回収に失敗したからですか?」
谷風「それもあるけど、ちょっと違うかな……」
浜風「それなら、一体何が……?」
谷風はきゅっと下唇を噛み、眉根を寄せた。何かに耐えるように表情を引き締めている。固く握られた小さな拳が震えている様が、内に秘められた彼女の感情を物語っていた。
押し黙った谷風を見兼ねたのか、後ろにいた駆逐艦の子が代わりに事情を話してくれた。
「私達は帰還してすぐに呼び出されて、報告に行ったんだけど……。私達が資源回収を出来なかったことを報告すると凄く怒ったのよ。『どうして回収出来なかったんだ! ウスノロどもめ!』って……」
映像を見せられたかのように、その情景が思い浮かんだ。あの提督は仕事に少しでも不足があれば、短気を爆発させて叱り付けてくる。特に駆逐艦に対しての当たりは酷いものがあり、ほとんど理不尽と言っていいほどである。
しかし、今回の谷風たちの失敗には致し方ない理由があった。任務の途中、谷風たちは伏兵から奇襲を受けたのである。全員が中破以上の損害を被った上、大破状態で至近弾に巻き込まれた少女は致命傷を負った。とてもではないが任務を続行できる状態ではないのは明白であろう。資源回収を断念した旗艦の判断は正しかったと言える。そのまま作戦を無理に続ければ、全滅していたはずだ。
浜風「……なるほど。それで、弁明したんですか?」
私は訊いた。深い溜息が、谷風以外の全員から溢れた。
「もちろんしたわ……。でも、聞き入れてもらえなかった。言い訳するなって更に怒られただけ。で、その時にね……」
私は谷風を見遣った。
谷風の小さな身体が震えている。栗のように丸い瞳が、溢れてきた感情の高ぶりに濡れそぼっていた。唇を震わせながら、口を開いた。
谷風「提督のやつ……、『それがどうした?』って言いやがったんだぜ……。○○が大怪我を負ったのを聞いて、そう言いやがった……」
浜風「……谷風」
谷風「確かに、資源を持って帰れなかったのは私達のせいだと思うぜ? でもさ、あいつもギリギリまで少しでも資源を持って帰ろうと頑張ってたんだ。それで無茶をして、怪我を……。飛び散った破片が、散弾みてえに顔に突き刺さって……。そんなあいつを、せめて一言くらい労ってやってもいいじゃねえか。それなのに、提督は……あの野郎は!」
谷風の目からついに涙が溢れた。怒りに満ちた声に嗚咽が混ざり、どうしようもない悔しさが滲んでいるようだ。
谷風「あの野郎は、私達を道具としてしか見てねえんだ……! 許せねぇよ……クソッ!」
浜風「……」
谷風が何故殴られたのか分かった。彼女は、少女の負傷を歯牙にも掛けなかった提督を許すことができず、反抗したのだろう。それが提督の怒りを買う結果となったわけだ。彼女が文句を言いたくなる気持ちも分からなくはない。私だって、そんなことを聞いたら決していい気はしないだろうから。
「谷風ちゃん……。落ち着いて、ね?」
事情を説明してくれた子が、谷風の肩に手を置いて優しく微笑んだ。しかし、その表情に隠しきれない翳りが見えている。それは、少女の件や提督からの叱責により気分が落ち込んでいるだけではない。間違いなく、連日の遠征任務による疲労のせいでもあるはずだ。
その子に便乗して他の三人も谷風を慰め出した。谷風の勇気を称えたり、南提督への文句を述べたりしながら、彼女たちはなるべく明るい感じで振舞っていた。しかしやはり、彼女たちの顔にも疲れが見える。
興奮気味になっていた谷風だが、周りの励ましによって段々と落ち着いてきたようだ。目元を拭い鼻をすすりながら、「すまねえ、皆」と謝った。
浜風「別に謝らなくていいんですよ。貴女は間違っていませんから」
谷風が少しだけ嬉しそうに笑った。
谷風「浜風にそう言ってもらえると嬉しいや。やっぱ、私は間違ってなかったんだな……」
浜風「はい。でも、提督に反抗するのは少し無謀ですので、今後は気持ちを抑えた方がいいと思います。下手に目をつけられると、自分が損をするだけですから」
谷風「そうだな……。気をつけるよ……」
「さ、そろそろ行こう谷風ちゃん。医務室に行って湿布貰おう? 浜風も、もうすぐ出撃なんでしょ? 気をつけてね」
谷風「……頑張れよ」
浜風「ええ。ありがとうございます」
その後、谷風達とは別れた。医務室に向かう彼女達を見届けてから、私は遠征メンバーとの集合場所へと足を進めた。
歩きながら、私は南鎮守府のことについて思案する。
配属から一カ月の間に、私は与えられるタスクをこなしながらこの鎮守府の内情を探った。一カ月は組織を理解するのに決して十分な期間とは言えなかったが、それでもかなりの範囲で鎮守府の現状を把握できたと思う。
はっきり言ってしまえば、この鎮守府は異常だ。人も組織運営も尽く疲弊し、有効に機能していない。組織として崩壊しかかっていると言っても良かった。
その一番の要因は、異様なまでに艦娘達へ過重労働が課されていることである。とにかく出撃回数や遠征回数が多いのだ。
まず出撃についてであるが、そのペースは「一日に二回」である。そう聞くと、人によっては「少ないのではないか?」と取るかもしれない。しかし、これは決して少ない回数ではない。私の調べたところによると、大本営が定めた出撃回数の最低基準は「二日に一回」である。これは、出撃によって艦娘が受ける疲労とストレスを勘案した結果によるものだ。
艦娘達が出撃任務で被る疲労とストレスは並大抵のものではない。出撃は常に命懸けの状況であり、どこに伏兵が潜んでいるのかもしれないので、片時も気を抜くことができないのである。監視を怠らず、開かれた棺桶の蓋を意識しながらも緊張の糸を貼り続けなければならない。艦娘達の平均出撃時間が三時間以上であることを考えれば、いかに艦娘達への精神的な負担が大きいかは分かるだろう。それに、戦闘中に怪我を負ったり、仲間が目の前で敵に撃たれ轟沈してしまったりすることもある。それによる磨耗も考慮しなければならない。
これらの疲労とストレスは、決して数時間の休息で解消できるものではなく、一日休みを取らせたとしても正直足りない程である。「一日二回」の出撃は、艦娘の心身の健康維持をまるで配慮していない。
そして、次に遠征任務の回数についてだ。これに至ってはもっと酷い。出撃すればするほど、資材や資源をより多く確保する必要があるから、必然的に遠征任務の数も増えていく。通常、「一日二回〜三回」と規定された遠征任務であるが、この鎮守府では「一日六回」も実施されている。
遠征任務はただのおつかいではない。谷風たちのように、任務の途中で敵と遭遇したり待ち伏せされていたりする可能性は大いにある。だから、出撃ほどではないが、それなりの精神的負担はかかるのだ。
大本営も遠征における規定の中で、一度遠征へ出した艦娘には、一日の休暇を与えることを推奨している。だが、南はその規定を完全に無視していた。遠征任務の編成が適当で、一日に同じ艦娘が二度以上任務に就いていることは珍しくない。私も、最大で一日に三度遠征をこなした事があるが、ストレスを受けにくい私でもしばらく立てなくなるほどに堪えた。他の子たちからすると、拷問に近いものがあるだろう。
この鎮守府での負傷・轟沈の大半が、もちろん出撃によるものも少なくはないが、実は遠征任務によるものである。そして、過重労働によってモチベーションの低下が起こり、ミスも増えるから、遠征の失敗率も高い。加えて、失敗すれば提督の激しい叱責や暴力が待っているから、それもプレッシャーとなり、遠征組を縛る。だが、そのプレッシャーは決していい方向に繋がることはなく、ただストレス要因を悪戯に増やし、負傷率や失敗率の増加に「貢献」している。
失敗が増えれば、獲得できる資源や資材は減り、それを何とか確保しようと、遠征の回数は増える。「一日六回」という回数は、間違いなくそのせいであろう。そして、負傷して任務をこなせないものが増えれば、残っているものたちの負担が増す。つまり、負の連鎖が起こっているのだ。
私達はこの連鎖に巻き込まれ、異常に働かされる。そうして、怪我を負い、精神を病んで、使い捨ての電池のように空になるまで絞られてしまう。初めて食堂で会った先輩たちの濁った目を思い出した。あれは、過重労働とパワーハラスメントという黒い絵の具で塗り潰された結果なのである。
「……来たわね」
声をかけられ、私は思考の海から帰った。集合場所についたのだ。声をかけてきたのは片腕を失った先輩であった。後ろには、他のメンバーが既に揃っている。皆、少しだけ非難がましく私を睨んでいた。
「あんた、少し遅いわよ。もう少し早く来なさい」
浜風「はい、すいません」
私は謝りながらも、内心では一切反省してはいなかった。時間に遅れたなら分かるが、私は集合時間より早く着いたのだ。本来、責められる謂れはないはずである。
先輩は「まあ、いいわ」と言って、溜息をついた。
「それじゃ、早く行くわよ」
浜風「了解しました」
そう言って、早々に歩き出した先輩たちの後ろをついて行く。先輩の揺れる片袖と、小さな背中を見ながら私は思った。
どこもこんなもの。先輩は顔合わせの時、食堂でそう言った。あの時は鎮守府の内情なんて知らなかったから、その言葉を否定できなかったが、今ならハッキリとそれが誤りであると言える。
確かに、他の鎮守府でも似たような状況はあるかもしれない。だが、多くの鎮守府が組織の機能を保ち、順調に成果を上げていることを考えると、ここより酷いところはないはずだ。ここは、南西諸島海域の攻略が、配属した当初からまるで進んでいない。苦戦しているというレベルではなく、一切の成果を出せてないのだ。そんなところ、他にはない。
先輩のあの言葉は、防衛機制が働いた故のものであろう。
先輩は、過酷な労働と腕を失った受け入れ難い現状の中、心が壊れてしまわないように己を「合理化」したのだ。どこも同じ環境で、他の艦娘達も同じように苦しんでいる。だから、己の苦しみに満ちた現実は特別なものではない――。そう、心を納得させた。
事実、彼女はこの鎮守府以外で働いた経験はない。半年前に私とは別の養成学校を卒業し、それからずっとこの地獄に身を浸している。
ずっと虚構と自己欺瞞で、己を守っているのだ。
そうでもしないと、壊れてしまうから。
浜風「……」
私は鎮守府本館のある一室に目を向けた。そこは、執務室。この鎮守府の「歪み」を生み出した最大の原因、南提督という名の悪魔が住まう部屋だ。そこから悪魔が顔を出し、冷ややかに私達を見下ろしていた。目が合う。初めて会った時からその無機質さは変わらない。嫌悪感を抱きながらも、不自然にならないよう、私はゆっくりと目を逸らした。
――無能め。
内心で吐き捨てる。
あの提督がリーダーでは、この鎮守府はそう遠くない内に崩壊するだろう。今の疲弊しきった状態を変えるには、この鎮守府の制度そのものを根本から見直さねばならない。だが、あの提督が玉座にいる以上、それは困難を極める。
絶望的な状況に思えたが、しかし私は攻略の糸口を見つけていた。それをこれから実行していく。
思い知らせてやろうではないか。自分の本質が、誰からも肯定されず、慕われてもいない「裸の王様」であることを。
私は連装砲を握り締めながら、薄く笑った。
投下終了。
早く浜風を病ませたいですね。
癌に侵された患者を救うために何が必要か?
それは手術だ。放置すれば癌は広がり続け、やがて取り返しのつかないほど体を蝕んでいく。そうなる前に癌を取り除く必要がある。
私がやろうとしていることは手術だった。手術は改革であり、そして癌とは南野鎮守府に蔓延する暗い現状そのものだ。過重労働とパワーハラスメント、よそよそしい壊れかけた人間関係、そして無能の指揮官。それら全て。
鎮守府を取り巻く問題は、あまりにも課題が多く複雑なものとなってしまっているから、すぐに解消することは不可能だ。幾重にも絡まった糸を解いていくように、どうしても時間がかかってしまう。しかもやり方を間違えてしまえばさらに絡まって事態が悪化する可能性もあった。だから、時間をかけて段階的にやっていく必要があるのだ。
まず、メスをどうやっていれるのか。そこから考えていかねばならなかった。
私は慎重に問題の現状と課題を精査し、どこからがアプローチしやすいか検討を重ねていた。鎮守府の現状を把握しきる頃には、すでにもっとも取り組みやすく、そしてもっとも効果的であろう改善点を見つけだしていた。それは、多大な遠征回数や重複編成、そしてずさんな健康管理などの「遠征隊を取り巻く悪環境」である。
理由としては、私自身が遠征隊であり、駆逐艦の子たちと鎮守府内の地位が同じであることが一つ。駆逐艦は言わずともがな軽視されるため、当然鎮守府内での地位は低い。現状の私では、出撃やその他の根幹をなす運営に口出しすることなんて不可能に等しかった。だから必然、遠征隊の問題が取り組みやすかったのだ。
そしてもう一つ。これが最大の理由と言ってもいい。遠征隊の編成から運用に至るまでの仕事を担当しているものが、提督ではなく秘書艦である戦艦の先輩だったことである。
そう、あの提督は本来ならば自分がやらなければならない遠征隊の運営を秘書艦に丸投げしていたのだ。何故かというと、「ただのお使いごときに頭を使う必要はないだろう」という、空いた口が塞がらないような理由のためだった。これを先輩たちから聞いて知ったときは、あまりの無知蒙昧さに眩暈を起こしそうになったほどである。この世にこんな馬鹿が存在していいのか、と小一時間考える羽目になった。
癌に侵された患者を救うために何が必要か?
それは手術だ。放置すれば癌は広がり続け、やがて取り返しのつかないほど体を蝕んでいく。そうなる前に癌を取り除く必要がある。
私がやろうとしていることは手術だった。手術は改革であり、そして癌とは南野鎮守府に蔓延する暗い現状そのものだ。過重労働とパワーハラスメント、よそよそしい壊れかけた人間関係、そして無能の指揮官。それら全て。
鎮守府を取り巻く問題は、あまりにも課題が多く複雑なものとなってしまっているから、すぐに解消することは不可能だ。幾重にも絡まった糸を解いていくように、どうしても時間がかかってしまう。しかもやり方を間違えてしまえばさらに絡まって事態が悪化する可能性もあった。だから、時間をかけて段階的にやっていく必要があるのだ。
まず、メスをどうやっていれるのか。そこから考えていかねばならなかった。
私は慎重に問題の現状と課題を精査し、どこからがアプローチしやすいか検討を重ねていた。鎮守府の現状を把握しきる頃には、すでにもっとも取り組みやすく、そしてもっとも効果的であろう改善点を見つけだしていた。それは、多大な遠征回数や重複編成、そしてずさんな健康管理などの「遠征隊を取り巻く悪環境」である。
理由としては、私自身が遠征隊であり、駆逐艦の子たちと鎮守府内の地位が同じであることが一つ。駆逐艦は言わずともがな軽視されるため、当然鎮守府内での地位は低い。現状の私では、出撃やその他の根幹をなす運営に口出しすることなんて不可能に等しかった。だから必然、遠征隊の問題が取り組みやすかったのだ。
そしてもう一つ。これが最大の理由と言ってもいい。遠征隊の編成から運用に至るまでの仕事を担当しているものが、提督ではなく秘書艦である戦艦の先輩だったことである。
そう、あの提督は本来ならば自分がやらなければならない遠征隊の運営を秘書艦に丸投げしていたのだ。何故かというと、「ただのお使いごときに頭を使う必要はないだろう」という、空いた口が塞がらないような理由のためだった。これを先輩たちから聞いて知ったときは、あまりの無知蒙昧さに眩暈を起こしそうになったほどである。この世にこんな馬鹿が存在していいのか、と小一時間考える羽目になった。
遠征の運営は、出撃のそれと同じくらい重視しなければならない。それによって遠征の成功率や、資源の確保量が大きく変わってしまうためである。だから、通常は提督が勘案しなければならない最重要案件として扱われているのだ。こんなこと運営論を独学しただけの私でも知っている。それを、仮にも海軍大学校を卒業したはずのエリートが知らないなんて有り得るだろうか。いや、現実有り得てしまっているのだから目も当てられなかった。
こんな無能が提督を務めていられるのも、呉鎮守府提督のご子息であり、華族の家柄をもっている故であろう。名門意識に胡坐をかいて、大した努力もせずここまで上がってきたに違いない。それならば、あの無能さにも納得がいくというものだ。
……思考の道筋が逸れたので戻そう。重要なのは、遠征の運営が秘書艦に任されているということである。
私はここに目をつけた。提督ではなく同じ艦娘の秘書艦が相手なら、交渉次第で仕事を譲ってもらうことも不可能ではない。秘書艦に意見具申し運営を改善してもらった方が早いかもしれないが、私はどうにも人をそこまで信用できない性分のようで、あくまで改革は私自身がおこなった方が良いと思っていた。だからこそ、彼女から仕事をもらおうというのだ。
仕事を譲ってもらえるようになるには、まず彼女から信用を得ることが不可欠だ。信頼関係という土台をしっかり作ってから交渉に移る。しかし、一次戦力と駆逐艦の確執はこの鎮守府にも当然あり、遠征隊と出撃組の間には溝があった。だから、コミュニケーションを取るのは難しいように思える。
だが、私にはそんなこと苦にもならない。これまで比べ物にならないほど深い溝の中、蛆虫のように這いばり抗ってきたのだ。感覚の消失した世界と、人ではないという意識。それを必死に変え、多くの人から信頼を獲得してきた。
そう、養成学校時代さんざんやってきたこと。人とより良い関係を築き、その心を掌握する術は心得ていた。
私は秘書艦に接近し、交流を図った。ただ、私も相手も多忙であるから中々機会をつくるのは難しかった。短くて数分しか話せないことは珍しくなかったし、長くても三十分時間が取れればいい方だ。私は限られた時間を有効的に使って、なるべく急いで信頼関係を養成しなければならなかった。時間をかければかけるほど、それだけ「犠牲者」が増えていくからである。
私は急ぎながら、しかし慎重に秘書艦との仲を深めていった。さいわいなことに秘書艦が比較的穏和で友好的な性格をしていたおかげで、さほど苦労することはなかった。こちらが話しかけるようになって二週間ほどで、傍から見ても「仲のいい先輩と後輩」ほどの関係を築くことに成功。
頃合いを見計らい、私はある質問を彼女に投げかけた。
浜風「秘書艦」
秘書「どうしたの、浜風さん?」
秘書艦はやや翳りの見える微笑みを浮かべた。緩んだ目元には水墨のような隈がしみ込んでいる。
浜風「秘書艦は、遠征の運営についてどうお考えですか?」
彼女の表情が、まるで一時停止ボタンを押した映像のように固まった。
秘書「……どうって、言われてもね。もう少し具体的に聞いてきて欲しいわ」
浜風「そうですね、言い直します。遠征の運営が現状、上手くいっているとお思いですか?」
秘書「……上手くいっていると思う、わよ。出撃で必要な分も大本営に送る分も十分に確保できてるんだから」
秘書の目が私から逸れ、冷たいアスファルトの地面を見ていた。人は本心とは違うことを口に出すとき、相手の顔を無意識に見ないようにするものだ。つまり、彼女は運営が上手くいっているとは思っていない。
私はすかさず追い討ちをかけた。
浜風「数字の上では確かに仰るとおりです。ですが、その数字を確保するために通常より多くの遠征が課せられています。それによって駆逐艦の子達は負傷率が高く、轟沈するリスクも並以上です」
秘書「……」
浜風「遠征の編成が重複していることや、負傷者が多すぎて入渠ドッグに空きがないことなど、他にも問題は多数あると思います。……秘書艦は『提督』の運営方針に疑問を持ったことはありませんか?」
私はあえて秘書艦が運営を担当している事実を知らないフリをして、そう尋ねた。『提督』が見当違いな運営をしていると指摘することで、間接的に彼女を否定し責めたのだ。
秘書艦が奥底にしまった不満と苛立ちを吐露しやすくするために。私は、彼女が指摘されては困る部分を指先で軽く撫でた。
秘書艦は苦しげに眉根を寄せた。
秘書「そう、ね……。貴方の言うとおり、色々と問題があると思うわ」
浜風「やはり、秘書艦もそう思いますか。提督は一体、何をお考えなのでしょう。遠征の運営を真剣にやっているとは思えません」
秘書「浜風さん、その……提督じゃないの」
浜風「はい?」
かかった。
秘書「だから、遠征の運営をしているのは提督じゃないのよ。……私よ。私に、一任されているの」
浜風「そんな……」
私は驚いたフリをしながら、内心で小さくほくそ笑んでいた。
浜風「どうしてですか? 遠征の運営は、提督がやるのが当たり前のはずです。補佐をするのなら分かりますが、運営そのものを任されるなんて幾ら何でも……」
秘書「そう思うのが普通よね……。提督に『遠征の運営なんかお前でも考えられるだろう』って言われて、いきなり任されたの。……私は、遠征の運営のやり方なんて全く分からないのに。やり方も、情けない話だけど木刀で殴られるのが怖くて、聞くに聞けなかったわ……。他にもやり方を知っている人なんかいなかったしね……。なんとか、私一人でやるしかなかった」
浜風「そうですか……」
光の萎んだ瞳がちょっとずつ湿り出した。やがて、するりと一筋の水滴が頬を滑る。
秘書「私がもっとちゃんとしていれば……。駆逐艦のみんなも大変な目には合わずにすんだかもしれないのよね。ごめんね……ごめんなさい……」
浜風「秘書艦」
私はそっと彼女の手をとった。「あ……」と小さく声を漏らした秘書艦が、私を見た。
微笑む。出来るだけ優しく、私は言った。
浜風「自分を責めないでください。貴方はよく、頑張りました」
秘書「そんな……私は……」
浜風「卑下することはありません。ただでさえ一日に二回も出撃任務をこなしながら、秘書の仕事をしなければならなかったんです。それにも関わらず、遠征の運営まで任されてしまったのですから……。遠征の運営をするのは難しい状況だったはずです。勉強する時間も、中々取れなかったんでしょう?」
彼女は唇を噛み締めた。握った手が微かに震えている。
浜風「そんな状況では仕事を上手く回せなくても仕方ありませんよ。……きっと辛かったんですよね? 誰にも話せなくて。私でよければ、話を聞きますよ」
秘書「浜風、さん……」
秘書艦はついにボロボロと泣き始めた。そしてダムが決壊したように、抱えていた苦悩を次々と吐き出していく。
無茶な要求をしてくる提督に対する不満と悪口。
自分に課せられた加重労働へ怒りの感情。
他の一次戦力の先輩と関係が上手くいっていないこと。
駆逐艦のみんなが一次戦力と距離を取り、コミュニケーションを取ろうとしないこと。
そして、己が秘書艦として自信を持てないこと。
それらひた隠しにしてきた思いを、私は黙って聞いた。表情は相手が安心しやすいよう柔らかく、しかし内心は冷ややかに――。
この秘書艦は、はっきり言って秘書には向いていない。事務処理能力がないことはもちろんだが、秘書艦として必要な能力であるリーダーシップ、そして決断力が全く備わっていないのだ。秘書艦に選ばれるべき人材ではないのは明白である。しかし、あの提督のことだ、おそらく自分の言うなりになって扱いやすそうだから選んだに違いない。
素直で心根の優しい性格をしているから提督と違って嫌いにはなれないが、だからと言って好きにもなれない人だった。いくら無茶振りされたからと言っても、この秘書艦の間違った采配で犠牲者が増えてしまったことは、忘れてはいけない。
そう、この秘書艦はアテにはできなかった。
浜風「秘書艦……、貴女の苦しみは痛いほど分かりました。私は貴女の負担をどうにか減らしてあげたいです」
秘書「浜風さんありがとう……。貴女、いい子ね」
その褒め言葉を、私は黙殺した。
浜風「そこで提案があります。どうでしょう、私に遠征の運営を手伝わせて頂けないでしょうか――」
投下終了です。酉ミスしましたすいません。
最近説明が多くなってる部分があるので、分かりにくかったり退屈されるかもしれませんが、良かったらお付き合いしてくれると嬉しいです。
「はやく浜風を病ませたい→はやく浜風をヤンデレにしたい」です。訂正します。
秘書艦との交渉は案の定上手くいった。
秘書艦は提督の無茶ぶりにかなり不満を抱いていたし、自分の忙しさと未熟さのせいで仕事を回せていないことを自覚していた。仕事を譲れるなら是非とも誰かに譲りたかったところであろう。彼女からすると、私の提案は棚から牡丹餅だったはずである。この提案に乗らない理由はない。
もし秘書艦が承諾しないとしたら、私が失敗することを恐れる場合だろう。だが、この可能性については全く心配していなかった。提案した段階で、すでに私は彼女の信頼を獲得していたからである。いくら優しくほだされたとはいえ、私に対してひた隠しにしてきた弱音を吐露したのがいい証拠だ。それに、私が全国の養成学校において今期最高の成績で卒業していることは周知されている。横須賀や呉を蹴って、ここに来ていることもだ。能力的にも任せる上で不安はないだろう。
秘書から仕事を譲り受けることを確約した後、すぐに改革へと乗り出したかったが、その前にやらなければならないことが一つできてしまった。引き継ぎの件を南提督に報告しなければならなくなったのだ。
秘書艦から聞いて知ったことだが、南提督は運営のすべてを投げ出しているわけではないようで、大本営へと送付する最終報告書の作成だけは自分でやっているらしかった。報告書を書き上げるためには、当たり前だが遠征に関する情報へ目を通す必要が出てくる。つまり、南提督は遠征の内容をある程度は把握していると考えなくてはならない。
それでは、私が改革を行なったとしても、遠征に関する変更点を見咎められる可能性が高かった。改革は筋力トレーニングと同じように、効果が現れるまでどうしても時間がかかってしまう。軌道に乗る前に口出しされでもしたら、すべてが水泡へ帰してしまう危険があった。だからこそ、提督に引き継ぎを認めさせる必要が出てきたのである。
どうせ発覚するのなら、先にこちらから報告し、釘を刺しておこうというわけだ。多少のリスクは伴うが致し方ない。なんとしても提督を説得し、認めさせようではないか。
秘書艦との交渉は案の定上手くいった。
秘書艦は提督の無茶ぶりにかなり不満を抱いていたし、自分の忙しさと未熟さのせいで仕事を回せていないことを自覚していた。仕事を譲れるなら是非とも誰かに譲りたかったところであろう。彼女からすると、私の提案は棚から牡丹餅だったはずである。この提案に乗らない理由はない。
もし秘書艦が承諾しないとしたら、私が失敗することを恐れる場合だろう。だが、この可能性については全く心配していなかった。提案した段階で、すでに私は彼女の信頼を獲得していたからである。いくら優しくほだされたとはいえ、私に対してひた隠しにしてきた弱音を吐露したのがいい証拠だ。それに、私が全国の養成学校において今期最高の成績で卒業していることは周知されている。横須賀や呉を蹴って、ここに来ていることもだ。能力的にも任せる上で不安はないだろう。
秘書から仕事を譲り受けることを確約した後、すぐに改革へと乗り出したかったが、その前にやらなければならないことが一つできてしまった。引き継ぎの件を南提督に報告しなければならなくなったのだ。
秘書艦から聞いて知ったことだが、南提督は運営のすべてを投げ出しているわけではないようで、大本営へと送付する最終報告書の作成だけは自分でやっているらしかった。報告書を書き上げるためには、当たり前だが遠征に関する情報へ目を通す必要が出てくる。つまり、南提督は遠征の内容をある程度は把握していると考えなくてはならない。
それでは、私が改革を行なったとしても、遠征に関する変更点を見咎められる可能性が高かった。改革は筋力トレーニングと同じように、効果が現れるまでどうしても時間がかかってしまう。軌道に乗る前に口出しされでもしたら、すべてが水泡へ帰してしまう危険があった。だからこそ、提督に引き継ぎを認めさせる必要が出てきたのである。
どうせ発覚するのなら、先にこちらから報告し、釘を刺しておこうというわけだ。多少のリスクは伴うが致し方ない。なんとしても提督を説得し、認めさせようではないか。
私は説得材料を周到に用意し、秘書艦とともに執務室へと向かい、引き継ぎに関する説明を行なった。
私が運営の引き継ぎをしたいと切り出すと、予想通り南提督は難色を示した。そして、「お遣いの管理すらまともにできんのか」と辛辣なまでに私の横にいた秘書艦を責め始めた。自分のことは棚に上げ、秘書艦の無能さや人格否定に関する暴言を散弾のように次々と浴びせかける。肩を震わせ、顔を真っ青にしながら秘書艦は小さくなっていった。普段からこうして罵声を受けてきたのであろう。
しかし私は一握の砂ほども秘書艦に同情しなかった。助け舟を出して上げようという気概も、彼女に対する何かしらの感慨も湧いてこなかった。ただ冷たい心持で、南提督の罵倒が終わるまで静聴していた。
一しきり秘書艦をこき下ろした南提督は、その矛先を私に向けた。「駆逐艦ごときがよくも大言壮語を吐いたものだ」と。狐のように鋭い眼差しで睨まれたが、私は怯まなかった。
――このタイミングだ。一秒の遅れもなく、私は即答した。
浜風「大言壮語ではありません。私ならより効率の良い運営を行うことが可能です」
私のきっぱりとした物言いに、提督が目を白黒させた。ほんの少しだけ気圧された様子で、目を逸らし口に出すべき言葉を探しているようだった。だが、上手い返しが思いつかなかったのだろう。舌打ちしてこう言った。
南「……貴様、ずいぶんと自信があるようだな。ええ?」
浜風「はい。私は遠征効率化に関する論文を書いたこともありますので。専門的な知識のない秘書艦よりは、有用な運営を行うことができるでしょう」
大嘘だ。そんな論文など書いたことはない。
浜風「駆逐艦ごときがおこがましいとは分かっていますが、秘書艦に運営を任せるのは得策ではないのではと。たかが『お遣い』程度、私に委ねてしまった方が秘書艦も出撃任務に集中する時間が増えていいと思います。適材適所、お遣いは頼まれた子供に任せてしまった方が管理も楽なはずです」
一旦言葉を切って、ゆっくりとしかし明瞭な声で告げる。
浜風「――提督、どうかご一考を」
南「…….」
提督は机に目線を落としながら顎を撫で始めた。眉間のしわがより一層深くなったところを見るに、駆逐艦程度に正論を吐かれたことが相当気に食わないのであろう。だが、正論は正論だし、私の提案は目先の数字ばかり気にする南提督にとってもメリットがある話なのだ。私が言葉通りに獲得資源量を増やせるのなら、だが。
執務室に沈黙が降りる。時計の針が音を立て、秘書艦が唾を飲み込んだ。
南提督の狐のような目がこちらを向いた。乾いた唇が、重そうにゆっくりと開く。
南「……仮にだ。仮に貴様が運営をやるとして、どの程度増やせる?」
浜風「二か月ほどで、現在の一・五倍ほど資源を獲得できると思います」
南提督は、微かに目を見開いた。
南「一・五倍だと? その根拠はなんだ?」
浜風「現在の運営状況を効率的に見直して、どの程度獲得できるか計算しました。……こちらが、私が計算したグラフになります」
私は胸ポケットから折りたたんでいた数枚の紙を取り出して、机の上に広げた。そこには、私が事前に用意していた獲得資源量の変化値における計算結果が克明に記載されている。
その資料を基に、どのような運営方針をとっていくか大まかに解説した。遠征の効率をいかに上げ、獲得資源量をどのように増やしていくかということだけ終始話し、遠征回数の削減などの過重労働に対する抑制案については触れなかった。南提督は上辺の数字にしか興味がないからである。
説明をすべて終えると、私は深夜の凪のように静かな心で南提督の返答を待った。
提督は腕を組んで、目を瞑っていた。私の案を熟考し、吟味しているようだ。
さて、なんと答えるか。自分で言うのはナンセンスかもしれないが、これ以上はないと言うほどにかなり練り上がった運営案を示したはすだ。これを無碍にも却下するのなら、ただでさえ底のしれた将としての器がひっくり返ることとなるだろう。
南提督が瞼を開いた。無機質な瞳に火のついたマッチ棒ほどの光を宿し、口の前で手を組んだ。
南「貴様……名はなんと言ったか?」
浜風「浜風です」
南「浜風……なるほど、貴様が今期の『工廠』で最優秀成績を残した船だったか。ふん、それなりには出来るようだな」
『工廠』とは、養成学校に対する揶揄である。海軍では艦娘を兵器扱いするための一環として、そうした揶揄がよく使われているのだ(ちなみに艦娘の育成事業は、『建造』と言われている)。一応褒めているつもりなのだろうが、根底にある差別意識を隠そうとしないあたりがいかにも彼らしい。
南提督は聞くものを不快にさせるような低い声で笑って、
南「駆逐艦ごときがなあ……。まあ良かろう。貴様、やってみろ。貴様の言ったとおり二か月期間をやるから、それまでに一・五倍に増やして見せるんだ」
浜風「はっ、お任せください」
私はただでさえ乏しい感情の波を押し殺し、敬礼して答えた。たとえ豚が上官でも敬礼しろという、養成学校で受けてきた軍人としての教育は、こんなところで役に立ってくれた。
南「しかし、貴様……」
南提督はドスの利いた声を出す。
南「もし失敗したら、その時はどうなるか分かっているだろうな?」
浜風「……」
明確なまでの脅しだった。眼鏡のレンズから三白眼が鋭い光を放っている。秘書艦が再び顔を青くしていたが、私は恐怖どころか一片の感情さえも湧いてこなかった。
下らない。心の底からそう思った。
その脅しにいったい何の意味があるというのだ。失敗すればどうなるのかなんて一々言われなくても想像がつく。運営から外されるのは当然として、よくて営倉行きであり最悪監獄に入れられる可能性もなくはない。私以外に鎮守府の改革を推し進められる人材はいないから、私の失敗はすなわちこの鎮守府の崩壊を意味するといっても語弊ではない。だからこそ、私は絶対にしくじることができないのだ。自身の置かれた状況を把握しきっている私からすると、南提督の脅しなど興ざめするものでしかなかった。
軽蔑は最高潮に達し、もはや失望へと変わっていた。
浜風「重々、承知しております」
自分でも冷え切っていると分かる声で、そう答えた。
無能の提督から引き継ぎの許可をもらってからすぐに、私は改革へと取り掛かった。
私がどういう改革をしようとしているのか。簡単に言ってしまえば「過重労働を減らしつつ、獲得資源量を向上させよう」というものであった。
一見無茶なことをしようとしているように思えなくもないが、実はそうでもない。元々行われていた遠征が、最悪なまでに効率もクソもない拙劣なものだったのだ。これらの悪い箇所を一つ一つ段階的に精査しつつ改善を図り、極限まで無駄を排除して効率化を行えば、私が事前に南提督へ示したデータどおりの結果を得ることは可能だ。
まず私がやったことは編成案の見直しであった。重複編成を見直し、最低限ではあるが過重労働の軽減を図ったのだ。しかしこれは大前提でしかない。次からが重要だった。
次にやったのは遠征内容の変更だった。私は編成した遠征隊の練度に見合った遠征内容を考察し、それぞれに担当を割り振った。遠征の失敗率が高い理由は過労によるものがほとんどであるが、一度で獲得できる資源量に注目した、練度に見合わない遠征が行われていたことも問題の背景にあった。
さすがに露骨なほど高いレベルの遠征が行われていたわけではなく、頑張ればなんとか成功できるくらいのものであった。しかし私たちには頑張る余裕なんてそもそもないし、それがなくとも失敗する可能性が高いので、非効率でしかないのだ。
やるならば、たとえ一度に獲得できる量が少なくとも、確実に成功し資源を安定して持って帰ることができる遠征をおこなった方がよい。塵も積もれば山となるという言葉通り、長い目で見れば明らかに獲得できる資源量はこの方が多くなる。それに、成功率が増えるということは、遠征隊のモチベーション向上も期待できる。失敗するプレッシャーは減り、それによるストレスも減るからだ。失敗しないから、提督から『罵倒』されることも少なくなるのでそれによる心労も和らぐと考えられた。
遠征隊のみんなは、遠征内容が見直されたことに困惑を隠せないようだった。「こんな簡単な遠征任務で良いのか」と何度尋ねられたか分からないし、不安の声も多かった。だが、それは予測の範疇であった。
私は遠征隊の皆に繰り返し説明を行って、彼女たちの漠然とした不安の解消を図った。従来の遠征案と新しい遠征案の、獲得資源量の予測結果とその比較を示すと、みんな目を白黒させて驚いていた。遠征の難易度が下がったのに獲得資源が増加するというのだから、一見すれば矛盾した結果に思えなくもないだろうし、みんなには魔法を見せられたように思えたのかもしれない。しかし、結果に至るまでの構造を理解しさえすれば、それが魔法でもなんでもないことは簡単に分かる。
事実、詳細を解説するとみんな納得してくれた。そして、自分たちがいかに無茶な遠征をさせられていたのかを知って、激しい憤りと悲しみを感じていたようだった。説明が終わった後、怒りに満ちた声とすすり泣く声が渦のように起こった。『提督』に対する暴言や憎悪の言葉、呟かれる死んだ仲間の名前……。
彼女たちの悲憤は、もっともだ。
以前の遠征が、どれだけ私たちの心や身体を傷つけ、あるいは壊してきたか。そして、どれだけの仲間を奪ってきたか――。
それを思うと南提督を憎まずには、悲しまずにはいられないだろう。この時、私達遠征隊の気持ちは一つになったのだ。なんとしても自分たちの現状を変えたいという想いで繋がったのだ。
計画通りであった。私は改革を主導しやすくするために、意図的に彼女たちを煽るようなことを言ったのだ。今までのあり方を論理的に、あるいは感情に訴えかける形で否定し、すべての憎悪を南提督へと向けさせ、私の改革がいかに効果的で正しいのかを説いた。
これは、そう、言ってしまえば『演説』である。過去の偉人たちは演説を有効的に使って、聴衆を引きつけ支持を集めたという。私もそれに習ったわけだ。
私はその『演説』によってみんなから支持を集め、改革を行いやすい環境をつくることに成功した。誰もが、私の改革に協力的な態度を示してくれた。
後は、結果を出すだけだ。
私は改革を進めていった。
改革から約一月が経ち、みんなが変化に慣れ始めた頃、効果は見え始めた。資源量に関してはまだだが、明らかにみんなの顔から疲労の色が薄まり、少しずつではあるものの余裕が現れるようになっていた。負傷率も下がったし、一月に数名は出ていた轟沈は新しい遠征案に変わってからはゼロであった。成功率も格段に上がったためか、任務をこなす遠征隊のモチベーションもかなり向上していた。
予想通りの結果が現れようとしていた。私は更なる改善のため、次々と施策を展開して行った。
遠征ルートの研究と開拓、人間関係の改善とコミュニケーション強化を目的としたミーティングや交流会の開催、そしてカウンセリングに代表されるアフターケアの実施……等々。私の余裕がある限りではあったが、様々なことをやっていった。
この中でも私がとくに熱心に取り組んだのは、アフターケアの実施であった。
鎮守府によっては艦娘のストレス軽減や精神疾患の予防対策としてカウンセラーを雇っているところもある。だが、当然この鎮守府にそのような人たちはいない。だからといって雇おうとしても、南提督が許可を出すはずもないことは分かり切っていた。
ならばどうするか。簡単だ、私がカウンセリングを担当すればいいだけの話である。
そもそも雇う余地があったとしても、はなからその気はなかった。なぜなら、カウンセリングこそが、心の奥底で燻っていた承認欲求を満たす最良の手段であったからだ。鎮守府に入った当初は、生存する手段を得ることに必死だった私も、改革を通してゆとりがでてきたためか、本来の欲が出てきた。まるで、雨上りの後、暗所から湧いて出て来るナメクジのように――。
秘書艦に近づき運営を譲るよう交渉したときと同じ手段で、私は遠征隊の駆逐艦娘たちの心を掌握していった。積極的に交流をもち、信頼関係を築き、彼女たちが抱える心の傷や苦悩を上手く引き出し、そして白々しいまでに優しい言葉と態度で彼女たちを受け入れ、ほだした。
私は罪深い子羊たちの懺悔を聞き入れる神父にでもなった気分だった。どうしようもないと諦観し、殺してきたはずの救いを求める心は、洞に投げ入れただけで死んではいなかったのだ。その小さな叫びを見逃さず拾い上げた私は、彼女たちにとっては神父どころか救世主に映ったかもしれない。
『カウンセリング』を受けた駆逐艦娘たちは、誰もが目を輝かせ、私に縋るようになっていった。ややもすれば、私の『カウンセリング』が忘れられず依存するようになった子たちも現れたほどだ。これは、正直言って予想以上の結果であった。それだけ彼女たちがひた隠しにしてきた闇は深かったということである。
彼女たちが私の足もとに縋りつくたびに、快楽と愉悦の波が迸った。その大きさは養成学校時代のそれとは比肩にならないほどのものであった。巨大な波に呑まれ、私の身体が砕け散り、喜悦の海に溶けて消えてしまうのではないか。そんな馬鹿げた不安さえ何度か頭を過ったほどだ。
ああ、これだ。私はこれを、この感覚を待ち望んでいたのだ――。
その大きさに酔いしれた。それが欲しくて欲しくて堪らず、光に向かう羽虫のごとく寄ってくる彼女たちを、暇さえあれば向かい入れた。そのたびに、なみなみと満ちてゆく黄金の杯。そこに空いた穴に気付くことができないほど、多量の水が注ぎ足されていった。
私はこの魔窟としか思えない腐った鎮守府であっても、充足感を覚えるものに出会うことができたのだ。盲目になっていることは言うまでもないが。この時の私も、まだまだ実に呑気なものだった。
そうして、予定していた二か月が過ぎた。
改革の結果はいうまでもなく、大成功を収めた。獲得できる資源量は予定よりも多くの数字を叩き出せたし、過重労働の問題は、遠征回数自体はほとんど減らせなかったものの、かなりの部分で改善することができた。
私の改革がこれほど上手くいくとは思っていなかったのだろう。南提督は私の報告書を目を見開いて何度も何度も確認していた。そうしてつまらなさそうな顔で、見下しを多分に含んでいたものの、一応は私に賛辞を投げてきた。それから、これからも遠征の運営を担当するように指示を出してきた。
報告が終わり執務室を出た私は、次の用事を片付けるために艦娘寮へと向かった。
鎮守府本館を出ると、照り付ける日差しの眩しさが私を襲った。思わず目を細める。配属から四か月ほどが経ち、八月になっていたためか太陽の勢いは増しているようだった。しかし、私に感じることができるのは眩しさだけであるから、どれだけ熱くなったのかはまるで分からなかった。
蝉がジリジリと鳴いている。私の愛用する目覚まし時計よりもやかましいと思うのは錯覚だろうか。
その騒音に被さるように、地面を蹴る軽快な音が聞こえてきた。誰かが後ろから走ってきているようだ。
私が振り返ると、片腕を失った先輩がこちらに向かってくるのが見えた。どうやら、こちらから向かうまでもなく、用事の方が来てくれたらしい。彼女は私の近くで立ち止まって、呼吸を整えると、ぎこちなくはあったが笑顔を浮かべた。汗で濡れたその顔は、日に照らされたせいか、いつもより赤く見えた。
「その……浜風さん……」
蚊の鳴くような声を出し、何度か目配りを繰り返して私の表情を伺っていた。最初に知り合った頃からでは考えられないほどいじらしい彼女の様子に、私でも思わず噴き出しそうになった。
浜風「分かってますよ。待ちきれなかったんですよね?」
私に図星を突かれ、先輩は恥ずかしそうに身を捩った。
「そ、そうよ……。その、はやく浜風さんに会いたくて……」
浜風「そうですか、それは嬉しいですね。でも、そんなに慌てなくとも私は逃げませんよ?」
「それは分かってるけど……」
私は微笑んで、手を差し出した。
浜風「さあ、行きましょうか。今日も貴方の話を聞かせてくださいね――」
「うん……」
先輩は私の手を取った。まるで、宝物を貰った子供がそうするように。目を潤ませて、うっとりとした顔で私を見つめた。
身体に快楽の波が走った。なんて弱々しくて、可愛らしいのだろう。彼女の『カウンセリング』をやって良かった。
腐りきった内情は予想外であったが、配属前に思っていたとおり、ここでなら私は満たされる。そう、私は『人間』でいられるのだ。
たとえ、ここが無慈悲な戦場であろうと。
投下終了です。すいません、また最初の方に同じ内容を二回投下してしまいました。
九月となった。
遠征の改革を成功させ、想像以上の成果をもたらした私は、新しい秘書艦に任命された。
とはいっても戦艦の先輩と秘書を代わったわけではない。二人目の秘書艦になったのだ。別に大本営は秘書の人数を限定していないから、二人だろうが三人だろうが増やしても問題はない。それは承知しているのだが、私はどうにも気に食わなかった。なぜなら、私は先輩の影にさせられたからである。
分かりやすくいえば、ゴーストライターのような感じであろうか。私が実際の業務を全てこなし、先輩が『本当の秘書』として表で振る舞うわけだ。
どうしてこのようなことを、あの提督がしたのか。簡単な話である。私が秘書では体裁を保てないからだ。
私は鼠と揶揄されるほど下等に扱われる駆逐艦だ。対して、南提督は士官であり、華族の血筋を引いた貴族である。アケビの実ほども食えない見栄と驕慢を舐めて悦に浸り、宝石の散りばめられた仮面を被らないと歩くこともできないような、下らない人種だ。外面を取り繕うことには人一倍敏感なのだ。補佐とする艦娘の、社会地位的な『質』にも拘らずにはいられないのであろう。
秘書艦は言わば、鎮守府の艦娘代表であり、顔とされている。「秘書艦を見ればその鎮守府の実力が分かる」とまで言われるほどで、それはこの鎮守府の元々の秘書が誰かを考えれば、皮肉にも言い得て妙だった。しかしだからこそ、その実力を映す鏡が鼠では面目が立たなくなってしまうのである。いくらその鼠が猫を食い殺すほどに優秀な存在であってもだ。周囲はそのことを知らないのだから、間違いなく笑われて恥をかくこととなるに違いない。
事実、南提督は会食や交流会などに参加することがままあり、そうした体裁が重要となってくる場合には私ではなく戦艦の先輩を連れて行っていた。客人が訪ねてきたときも、その対応をさせられていたのはやはり先輩だ。
私はまさに鼠よろしく穴倉に追いやられたわけだ。海軍の上官たちと面倒な交流をしなくてもいい分楽ではあったが、このような扱いを受けて面白いはずはない。これは明確な差別であり、そして私に対する侮辱に他ならないからだ。
しかし、これ以上の差別と屈辱的な扱いを今まで何度も目にしてきたし、受けてきた。だから、この程度では別に大して腹が立つことはなかった。
慣れているからといえばそうだし、私の感情が人より希薄だからというのもその通りだ。だが、どれも正解とは言えない。この程度では感情が波立たなくなっている。そう言ったほうが正鵠を射ているのだ。それほどに、内に秘めた南提督への負の感情が巨大なものとなっているのである。時化った海に石を投げ込んでも波紋が起こらないのと同じように。灼熱地獄に松明を一つ落としてもその勢いが変わらないのと同じように。
こんな程度では、もはや、失望し足りないのである。
影に追いやるのなら追いやればいい。そう思った。元々私は光に照らされるような『人間』ではないと、自覚していたからだ。暗がりに灯された僅かな灯だけしか、触れることが許されぬ希薄な存在。それが私の本質である。
だからその扱いを甘んじて受け入れようではないか。だが、ただではすまなさい。
お前も引きずりこんでやる。影の中へ。暗暗たる地獄の底へと。
私は、あの提督と顔を突き合わせるたびに、その高慢な顔が絶望に変わるところを想像し、心にどす黒いロベリアを咲かせていた。
その花を臓物を撫でるように愛でながら、素知らぬ顔で淡々と秘書艦として仕事をこなした。南提督から理不尽な要求をされたり、改善が追いついていない出撃部隊から様々なトラブルを持ち込まれたりしたものの、しばらくは比較的平穏に日々が過ぎていった。もちろん、その間に何もしない私ではない。あの無能を地獄へと叩き落とすための準備を着実に進めていた。
事件が起こったのは、秘書艦任官から一月後、十月上旬のことであった。
その頃、南鎮守府はバシー島沖の攻略を数か月かかって終わらせ、ようやく東部オリョール海へと進出していた。あの、潜水艦の資源集めで有名な海域である。練度の高い艦隊を有する上位の鎮守府なら、潜水艦をお遣いに出せるほど楽な海域であるが、海域攻略が進んでいない鎮守府からすると、十分すぎるほど難しい場所であった。当然、南鎮守府は苦戦を強いられた。
ところで、海域を攻略する基準……定義についてであるが、これは回数制と定められていた。つまり、出撃して最深部にいる敵を決められた回数倒さなければ攻略したとは認められないわけである。十回なら十回。二十回なら二十回と言ったように。この回数は各海域によって変化し、南西諸島海域ではどの場所も十回と定められていた。
なぜ回数制が取られているのか。それは深海棲艦の驚異的な再出現速度に理由があった。
倒しても倒しても、やつらはゴキブリのように湧いて出て来る。しかし、復活にも不思議なことに規則性があって、湧いて出て来る数には上限があり、さらに一定回数倒すとしばらくの間復活しなくなるのだ。しかも、最深部に潜んでいる『ボス』を一定回数倒し、復活を遅らせると、その場所全体の深海棲艦の行動と活性が鈍る。理屈としては女王蜂を失った蜂の巣に近いだろうか。
だが、どちらにしろ不可思議な生態だ。深海棲艦については出現してから十数年経って研究もそこそこ進んではいたものの、まだまだその生態については解明されていない部分が多かった。前述した生態についても、よく分かってはいない。
深海棲艦の生態に合わせ、回数制が取られたわけだが、だからこそ偶然やまぐれによる攻略は絶対にできないのである。一回や二回ならそうしたことも起こりうるだろうが、せいぜいその程度。天候や海面の状況など様々な不確定要素を受けることがある。そして何よりも深海棲艦はゲームの敵ではない。奴らは生物であり、学習する。配置や編成を巧みに変えて、私たちを出迎えるのだ。
当然、このような戦況の変化に対応するには、指揮を執るものの手腕が重要となってくる。無能が指揮棒を握っていたら、いつまでも攻略は進まないのだ。南鎮守府の攻略が遅いのは、全てにおいてあの愚図に原因があるというわけだ。
南鎮守府の攻略が遅いのはいつものことだが、東部オリョール海に入ってからは格別であった。まさに亀の歩みというに相応しいものだ。上手くいったのは一回目だけ。天候の条件と敵が油断していたことに助けられた。だが後はお察しのとおり。
その後は何度出撃しても、最深部にさえたどり着くことが適わなかった。秋雨前線や台風の影響によって天候にも恵まれないことが多く、警戒心を強めた敵に待ち伏せを受け、返り討ちにされていたのだ。
南提督はかなり苛立っているようだった。自身の指揮能力の無さが最大要因だというのに、理不尽にもすべて出撃部隊のせいにして、八つ当たりした。怒鳴り散らし、罵声を浴びせかけ、あるいは暴力を振るった。
秘書となってからよく見る光景ではあった。だが、これまで以上にどれも執拗で悪質だった。虫の居所が悪い時は制裁と称して木刀で頭を殴りつけることもあったくらいだ。しかも一発で済ませることはなく、何発も何発も。頭をかち割られた空母の先輩が、医務室へと運び込まれ、入渠させられていたのを見たことさえある。陸で大破とは、笑い話にもならない。
南提督の仕打ちはどれも常軌を逸していた。おそらくただの苛立ちだけが原因ではないだろう。苛立ちの影に、何かに急かされているかのような焦りが見えたのだ。それが、彼の心に怪物を生み出したのか。
しかし、そんなことはどうでもいい。それよりも深刻なのは被害を受ける出撃部隊だ。
このような過酷すぎる状況の中で、これまでどうにか均衡を保っていた彼女たちの精神も、次第に崩れ始めたようだった。まるで、死人のように目を濁らせ、絶食しているのかと思えるほどひどく痩せこけた真っ青な顔をしていた。そんな顔色の女性が六人ほど、入渠室を行き来している光景を想像してもらいたい。身の毛がよだつような光景であろう。
もちろん、私は彼女たちをただ放っておいた訳ではない。遠征隊のときのように、何度かアプローチをかけた。だが、秘書艦となって私自身が忙しくなったことや、彼女たち自身が多忙すぎて時間も精神的な意味でもゆとりが持てないことなどが影響し、『カウンセリング』には苦戦した。ほとんど、進まなかったといっていいくらいである。
連日の出撃による抜けきらない疲労、大きすぎるプレッシャー、死への恐怖、地獄の拷問と化した南提督の暴力――。彼女たちが追い込まれるには十分すぎる理由であろう。入り込む隙間すら見つからないほど、彼女たちは蝕まれていた。
そしてついに犠牲者が出た。
軽空母の先輩が、壊れた。
「ああああああああああああああ……!」
彼女は、唐突に発狂した。戦闘終了後、出撃部隊が鎮守府へと帰投した直後のことだ。わけの分からない叫び声を上げ、頭を掻き毟りながら走り出したのである。そして、鎮守府本館の壁へ向かって頭を何度も打ち付けだした。まるで、呪いのわら人形でも打ち付けるがごとき壮絶なる狂気を孕んだ瞳で、だ。
血が飛び散り、壁と地面が真っ赤に染まっていく。昼間の鎮守府に、惨劇が幕を開けた。
突然のことに呆然とした私と先輩たちだったが、すぐに我に返って、全員で彼女を止めにかかった。彼女を捕まえて壁から引き離そうとしたが、その力は信じられないほど強く、六人がかりでも止めるのに苦慮したほどである。致し方なく、戦艦の先輩が締め落として何とか事は収まった。
しかし、それだけだ。直後には嫌な静寂が起こった。私たちは気を失った軽空母の先輩と鮮血で汚れた地面を、呆然自失と見下ろしていた。
「もう、嫌だ……」
誰かがボソリと零した。
誰なのかは分からない。そこに思考を割く余裕がなかった。ただ、その言葉は私の心の中で、暗い洞穴に石を投げ込んだときのように反響した。
はやくなんとかしなければならない。このままでは出撃部隊の心がもたなくなってしまう。それはこの鎮守府の崩壊をも意味するが、それ自体は別にどうでもよかった。こんな鎮守府なんて滅んでしまえばいい、と思っているくらいだ。しかし、その過程で壊されてしまう人たちを無視することはできない。
計画を実行する目途を、早々につけるべきだ。慎重な私も、ジリジリと静電気のように微弱な焦りを覚えた。
しかし、この出来事はただの前座に過ぎないと、これよりすぐに知ることとなった。
走れメロスの冒頭にこうある。メロスは激怒した。
同じだ。私浜風は激怒した。
あの事件から一週間後のことである。暴虐の王が全身の毛が逆立つほどに悍ましい計画を考え付き、実行しようとしていたのだ。東部オリョール海の攻略が行き詰ったあの提督は、焦燥の悪魔に脳をかき回されたのか、気が狂ったようであった。そうでもなければ、こんな外道の計画を誰が思いつくものか。
それは通称、こう呼ばれるものだ。
――捨て艦戦法。
練度の低い駆逐艦を捨て駒に、効率のよい海域攻略を目指すという、倫理や道徳の欠片すら存在しない戦法である。いや、死ぬことを前提においたものを作戦と呼んではいけない。狂気の極地。私たちは、それに追いやられようとしていた。
許容できるはずがない。こんな作戦をとってしまえば、それこそ苦労して立ち直らせた遠征隊の心が再び崩れてしまう。
そして、それに付き合わされる出撃部隊も間違いなく精神のバランスを欠くこととなるだろう。当たり前だ。ピラニアの群れに投げ込まれた鼠がどうなるか。それを目の前で見なければいけなくなるのだ。バラバラに食い散らかされる少女たちの姿を目に焼き付け、あるいは絶叫を鼓膜に刻みながら、作戦を実行することがどれだけ苦痛をもたらすか。凄まじい自責と後悔に苛まれることは間違いないから、普通の神経を持った人間ならマトモではいられなくなるだろう。
間違いなく、今度こそ取り返しのつかない事態となる。いま南提督に逆らえば計画に支障をきたす可能性が大きかったものの、そんなことを気にしている場合ではなかった。
戦わなければならない。
過酷な懲罰を覚悟してでも、反対の意を示すのだ。
私は真っ向から南提督に逆らった。執務室、南提督が出撃部隊に『捨て艦戦法』を取ることを伝えたタイミングで、暴虐の王の前に立った。
私が言葉を述べた瞬間、その場の空気が凍り付いた。
南「……なんといった?」
怒りに打ち震えた声。南提督は獲物を奪われた肉食獣のごとき鋭い眼差しで私を射ぬいた。
浜風「その作戦は許容できないと言いました」
私はもう一度告げる。
南「ふ、ふふふ……」
不気味な笑いが乾いた音を伴って、口から紡ぎ出される。怒りが行き過ぎているのか、大きな肩が小刻みに震えていた。
南「駆逐艦の分際で……よくも、よくもこの私に口出しを……」
浜風「申し訳ありません。ですが、その作戦だけは取らせるわけには参りません。そんなことをしてしまえば――」
南「貴様ァ!」
私が言い終わる前に、南提督は激昂した。
側に立てかけられていた木刀を掴むと、近づいてきて、私の頭に向かってそれを振り下ろした。ガツンと硬質な音が響き、私の脳内が激しく揺れた。視界が一瞬黒く歪む。
痛みはない。私はなんとか踏ん張った。
そこに、もう一撃が飛んできた。視界がもう一度黒く染まり、チカチカと星が明滅する。今度は耐えられなくて、吹き飛ばされた。
地面の堅い感触が頬から伝わってくる。それとともに、一斉に血が頭から溢れ出した。
痛みがなくても、私は無敵ではない。他は、普通の人間と同じなのだ。殴られれば脳震盪を起こすし、最悪死に至る。むしろ痛みがない分、己の限界が見極められないから普通より危険ですらあった。
だが、殴られるのは慣れていた。それに、ここで引くわけにはいかない。
負けるか。私は、誇り高き陽炎型駆逐艦だ。あの誰よりも凛々しく気高い姉なら、ここで引いたりはしない。血塗れになってでも立ち上がるだろう。ならば、その妹も同じだ。あの姉に恥をかかせるわけにはいくものか。
私は唇が破れるほど噛みしめて、足の震えと闘いながら懸命に立ち上がった。
目を吊り上げて、南提督を睨み付ける。
南「多少有能だから使ってやっていればつけ上がりおって……っ! 貴様はここで殺処分にしてやる!」
南提督が金切り声を上げ、木刀を大上段に振り被った。
「やめてください!」
戦艦の先輩が私たちの間に割って入った。両手を広げ、私を守るように立ちはだかる。
「もうこんなこと……。私たちは人間なんですよ! どうしてこんな酷いことばかりするんですか!」
南「……人間だと?」
南提督はせせら笑う。
南「笑わせるな! 貴様らは化け物を殺すことだけが存在理由のただの兵器だ! 海軍の所有物ごときに人権も心も不要! 下らんことを言って邪魔をするなら貴様も殴り殺すぞ!」
戦艦の先輩は怖気づいたように小さな悲鳴を零したが、引かなかった。体を恐怖に震わせながら、立ち続けている。
彼女の勇気ある行動に触発されたのか、残りの先輩たちも私の前に立った。空母の先輩は私に寄り添い、支えてくれた。
南「貴様ら……!」
激しい歯ぎしり。
「提督……これ以上はお止めください」
空母の先輩が、静かな声で告げた。しかし目には刃の反射光を思わせる、鋭い光が宿っている。南提督の態度と言葉が相当腹に据えかねたようだ。いや、もともと抱えていたものが、私や戦艦の先輩の行動をきっかけに溢れてきたのであろう。彼女も我慢の限界だったのだ。
南提督は隠し切れない動揺を顔に浮かべ、口をつぐんだ。空母の先輩が放った怒気に気圧されたようだ。忌々しそうに眉を顰め、木刀を振り下ろすか否か逡巡していた。
この時生じた空白を、私は見逃さなかった。彼がやけを起こし先輩たちを殴り出す前に、口を開いた。
浜風「私が行きます……」
全員の目が見開かれた。構わず続ける。
浜風「私が囮役になって出撃します。残り九回攻略し終えるまでです……!」
「浜風さん!」
戦艦の先輩が悲鳴を上げた。
私のトチ狂っているとしか思えない提案を聞けば無理もないだろう。私は自ら、生贄になろうとしているのだから。
しかし、現状打てる手がこれしかないのだ。遠征隊を向かわせ、悪戯に死人を増やし、彼女たちの精神を破壊させてしまうくらいなら、私が向かう。常に慎重さを忘れず抜かりなく作戦を遂行し続け、生き残るために最善の努力をし続けていた私ならば、まだ生き残る可能性があるからだ。しかし、一瞬でも気を抜くことは許されない。それだけですべてが終わる。
海域攻略を済ませる前にしくじり、私が沈めば、結局は遠征隊が捨て駒にされることとなってしまう。つまり、私は犬死するというわけだ。これほど馬鹿らしい提案はないと我ながら思った。
そもそも、あの提督が提案を呑む保障すらない。なぜなら、東部オリョール海はそもそも駆逐艦を連れていくような海域ではないので、私が生きて帰ることができる確率は極めて低い。それが最低でも九回続くと仮定すると、もはや絶望的な確率しか残されていないのだ。そんなこと、あの提督も十分理解しているだろう。
予想通り、提督は鼻で笑った。木刀を地面に叩きつける。
南「貴様……ふざけているのか? そんな馬鹿げた提案、軟弱な駆逐艦ごときに遂行できるはずなかろう!」
浜風「確かに達成する可能性は低いでしょう。ですが、まったくのゼロではありません」
南「話にならん! やはり貴様はここで殺処分にしてやる! ええい、貴様らどかんか!」
南提督は私の提案を狂言と断じ、再び声を荒げた。木刀を構え直そうとしたところで――
浜風「殺すならば構いません!」
私は声を張り上げた。
これまで一度たりともこの鎮守府で、はっきりとした大声を出したことはなかった。だからだろう、先輩たちも、そして提督も私の怒声に意識を飲み込まれてしまったようだった。
浜風「殺すならば……殺して下さい。ですが、私は艦娘です。たとえ鼠と揶揄されようと、その事実は変わりません。ならばこそ、私を殺すなら『海』でお願いします……!」
南「なんだと……?」
浜風「私がどれだけ生き残ることができるか、それは分かりません。しかし、その作戦をどうしても遂行なさるなら、最初に連れていくのは私にしてください。私ならば、他の駆逐艦よりは長く生き残るはずです。その作戦によって鎮守府が被る損害も、比較的軽微なもので済ませることができるでしょう」
南「……ほう」
南提督が残忍極まりない冷笑を浮かべた。
南「貴様、いい度胸じゃないか。自ら処刑の代案を示すとは……。確かに貴様なら他の鼠どもよりは使えるからな。使えるまで使い潰して処分した方が有益ではあるだろう」
「浜風さん取り消しなさい! そんな馬鹿げた提案する必要はないわ!」
南「黙れい! 元はと言えば、貴様ら愚図がいつまでも成果を上げなかったことが原因だろう! 異論があるのならば、貴様らだけで海域攻略を済ませてみせろ!」
空母の先輩はぐっと言葉を詰まらせた。海域攻略が遅れる理由のほとんどすべてが南提督の無能さに端を発するといえ、彼女たちの実力不足もまったく関係しないわけではないから、痛いところを突かれた形だ。
それに、常日頃から使えないと誹りを受ける人間というのは、潜在的に「自分がダメだ」という負の感情を抱く傾向にある。募らせてきた劣等感を刺激されれば、押し黙らずにはいられないだろう。
私は空母の先輩の肩に手を置いた。悔しそうな顔がこちらに向く。小さく微笑んで首を横に振ってやると、その表情が丸めた紙のように一層歪んだ。
浜風「それでは……私の提案を聞き入れてくれるのですね?」
南「ああ、よかろう。貴様が何度目の出撃で潰れるか見ものだなあ」
南提督の言葉には、不気味な加虐心が込められていた。猫に囲まれたドブネズミでも見ているような気分でいるのだろう。空母の先輩が、私を庇うように抱き寄せてきた。あるいは嫌悪に寒気さえ感じてしまい、私の体温に安らぎを求めたのか。私にはその感覚は理解できない。
ただ怒りは依然としてあった。南提督への単純なる憎悪、下衆の思い通りに扱われなければならない屈辱感、自身の行動に対する矛盾への自嘲。これらのヘドロのように濁った感情が、幾つもの支流となって、ぶつかり合い、怒りという本流を形作った。
刺す。撃ち殺す。そんな風にさえ思った。だが、私はその殺意を頭の中で砕き潰した。
この男にはいずれ必ず報いを受けさせる。今はそれよりも、この地獄でどう足掻き生き残るかということを思索しなければならない。
なんとしてでも、生き残ってみせようではないか。親愛なる姉との約束を、破るわけにはいかないのだ。
投下終了です。
十月下旬。狂気の作戦が幕を開けてから二週間ほどが経った。
これまでに出撃した回数は、天候の関係でどうしても出撃不可能だった場合を除いても、約二十回を超えていた。そしてそれと同等の回数、私は死にかけた。
私に期待される役目は囮として敵の注意を引きつけることである。つまりは、集中的に敵から狙われ続けるというわけだ。掠るだけで装甲にヒビが走る戦艦ル級の砲撃、一撃まともに食らうだけで体がバラバラに消し飛ぶ駆逐艦や雷巡などの雷撃、空母の艦載機による水平爆撃や急降下爆撃が、雨あられと注いでくる。
それを全てかわすのは至難の業だ。私に谷風並みの回避能力があるのなら別かもしれないが、あいにくそれほど避けるのが得意という訳ではない。だから出撃のたびに何度か攻撃を受けて、怪我を負うことが多かった。
もちろん、元々の作戦が『私を使い潰すこと』を前提とおいたものなのだから、私がどれだけ重傷を負おうと、撤退することは許されない。道中の戦闘が原因で複数の破片が腹部に食い込み、大量の出血をしたにも関わらず、そのまま最深部まで向かったことさえあるくらいだ。あの時はさすがに、三途の川というものを渡り切りそうになった。
私は命がけの綱渡りをほぼ毎日のように繰り返した。
だがその甲斐あってか、作戦の成果は少しではあったものの確かに出ていた。この間に海域攻略は四回ほど成功していたのである。私が囮になることで、出撃部隊の損害が大幅に減ったためだ。
しかし、それだけが要因ではない。指揮系統に若干の変化が生じたことにも理由がある。大まかな指揮を執るのは相変わらず南提督であったが、それでも現場でなければ判断できない部分などの指示は私が出すようになったのだ。知略に関してはそれなりの自信がある。囮作戦と並行しながら、上手く敵の間隙をつくような指示を出して、海域攻略を成功に導いた。
また、出撃部隊の士気が高まっていたことも、作戦成功に影響を与えていただろう。彼女たちは依然と比べものにならないほど、鬼気迫る表情で作戦に取り組むようになった。私の命を懸けた献身に心を打たれたのか、それまで諦観に満ち命令に従うだけだった彼女たちの心境にも変化が生じたようだった。私に対する負い目と、南提督への憎しみを糧にして、彼女たちは深海棲艦を撃ち殺し続けた。
鎮守府の皆は、修羅となった私たちに畏敬の念を抱いたようだった。見送る瞳は恐怖で揺れ、出迎える顔は痛々しいものでも見るかのように歪んでいた。作戦が始まってから、私に気を遣ってか『カウンセリング』を受けに来る子達は一人もいなくなった。私に依存している子達でさえだ。
日に日に、鎮守府の空気は殺伐としたものに変わっていった。だが、前と比較してもそこには重苦しく淀んだ雑多な暗さがない。南提督に対する統一的な怒りと憎しみが、花を咲かせているだけだ。そしてそれは、私が意図的に植え付けた種が成長したものである。
そして、五回目の成功からさらに数日が流れた。
ついに出撃部隊は東部オリョール海から六度目の凱旋を果たした。太陽の照り付ける港に、血塗れの部隊を出迎える鐘がなった。
「浜風さん!」
遠征部隊の皆が、心配そうに出迎えてくれた。しかし、その掛け声に応える余裕は一縷も残されていない。空母と戦艦の先輩に担ぎ上げられる私は、歩くことさえできなかった。
私は戦艦ル級の砲撃をまともに受けたのだ。強烈な爆発によって全身に火傷を負い、破片が体に食い込んで大量の出血をしてしまった。大破状態であり、死んでいてもおかしくはないほどの重症である。四肢が消し飛んでいなかっただけ、まだマシではあったが。
「はやく担架を持ってきて!」
空母の先輩が叫ぶと、谷風が担架を持って現れた。こうなることは分かっていたからか、事前に用意していたらしい。
「浜風! しっかりしろ!」
「いいから早く乗せて! 応急手当は済ませてるけど、血を流し過ぎてるわ! このままじゃ――」
先輩が怒鳴り、谷風が何かを叫んだ。そして、傍から様子を伺っていた遠征隊のみんなも、なにやら悲痛な声を上げているようだった。意識が朦朧としてきて、音が正常に聞き取れなくなっていた。歪んで聞こえる。潮騒なのか人の声なのか海鳥の声なのか、分からない。全てが混ざって混沌の様相を呈していた。
黒い染みが、霞んだ視界を塗りつぶしていく。谷風の泣きそうな顔を最後に捉え、私の意識は奈落へと落ちていった。
意識を取り戻したのは、それから数時間後のことだった。
私は医務室のベットに寝かされていた。目を開けて最初に飛び込んできたのはシミがついた白い天井だった。漂ってきた薬品の香りと、拭いきれていない微かな鉄臭さは嗅ぎ慣れたものである。
谷風「気が付いたか」
声につられて首を動かすと、安堵したように顔を綻ばせた谷風がいた。椅子から腰を浮かせて私の顔をのぞき込んでいる。
谷風「具合はどうだ? 起き上がれそうか?」
私は起き上がろうと身体に力を入れたが、岩をくくりつけられでもしたかのように重たくて、ほとんど動くことができなかった。頭がジンジンと痛み、億劫である。
簡易ベッドが侘しく軋んだ。
谷風「動けないようだな。身体の傷は入渠して治ったけど、輸血したばかりだし無理もねえか」
浜風「あの、私は一体どのくらい寝ていたのですか?」
谷風「入渠してから五時間くらいだ」
浜風「そんなに……。出撃はどうなりました? あと一回残っていたはずです」
谷風が顔を顰め、溜息をついた。
谷風「中止になったよ。作戦が成功したことを理由に、空母の先輩が提督と交渉してくれたらしくてな。なんとか上手く説得できたみたいだ。もっとも……」
その続きは紡がれることはなかった。谷風が何を言おうとしたのかはすぐに察しがついた。空母の先輩が、身体を張ってくれたようである。
浜風「彼女に、お礼を言わないといけませんね」
谷風「そうだな。でも、今はゆっくりしとけ。休めるうちに休んでおかないと先輩に申し訳が立たなくなるぞ」
浜風「そうします」
私は身体から一切の力を抜いて、ベッドに預けた。
さわさわと風が吹き抜け、白いカーテンが小川のせせらぎのごとく穏やかに揺れた。その動きによって生じた隙間から、白い満月と無数の星々が覗いている。灯がなくても旅に困らなさそうな明るい夜だ。
谷風が持て余したのか、戸棚から折り紙を取り出して折り始めた。指が滑らかに動き、紙を畳んで形を整えていく。あれはおそらく鶴であろうか。彼女は存外手先が器用であった。
私はゆっくりと目を閉じる。ついさっきまで爆音轟く戦場にいたためか、医務室の静謐さがとても穏やかなものに思えた。張り詰めた神経が、少しだけ解れていく。
どれくらい時間が立っただろう。紙を折る音が、ふと止まった。私は目を開けると、谷風が暗澹とした雰囲気を纏い俯いているのが見えた。ベッドには色鮮やかな鶴が群れをなし、白く波立つ海を遊泳していた。
谷風の様子がおかしい。怪訝に思っていると、彼女が口火を切った。
谷風「二日前、陽炎から手紙が届いたんだ」
手にした折かけの紙を、手紙の封を解くように広げた。そこへ向けられた谷風の瞳は淀んでいる。
浜風「私のところにも来ましたよ」
谷風「そうか。なんて書いてあった?」
浜風「こっちは色々ゴタゴタしていて大変だけど、頑張っていると書いていました。あと、そっちも元気にしているのか、と」
谷風「私も似たような内容だったかな。二ヶ月に一回、必ず手紙を送ってきてくれるから、あいつも意外と律儀だよなあ」
浜風「陽炎姉さんは情に厚い人ですし、私たちのことが心配でしょうがないのでしょう。手紙しか連絡手段がないのですから」
私たち艦娘は一度鎮守府に配属されると、外出や外部への連絡さえも自由にはできなくなる。外部への情報流出を防ぎ、機密保持性を高めるためだ。唯一許される手段は、手紙のみであった。もちろんこれには検閲がかかり、自由な内容を書くことは許されていない。しかも出せるのは二ヶ月に一回、家族と艦娘仲間に対してだけである。
私たちに、普通の人間と同じような自由など到底あり得るものではなかった。鎮守府には「牢獄」という皮肉が存在するくらいであり、この閉鎖性が提督の絶対的な権力を高めている要因ともなっていたのだ。
陽炎姉さんの手紙も、検閲を気にしてか、いくつも訂正した跡が見られた。最終的に当たり障りのない内容へと落ち着いたようだが、紙のあちこちに刻まれた筆跡を見るに、伝えたいことはまだまだたくさんあったに違いない。彼女の苦心が透けて見えるようだった。
谷風「だよな。私たちは、手紙でしかやりとりできないからな……」
その言葉はひどく乾いたものだった。手に力が入ったようで、折り紙がみるみるうちにシワだらけになっていく。
谷風「だから陽炎には、私たちのことは分からない。手紙に書けるわけないからな。このイカれた鎮守府で、ゴミみたいに扱われる私たちが、どれだけ苦しんでいるかなんてさ……」
浜風「……それは」
谷風「なあ、浜風は陽炎の手紙にどういう返事をしている? 『こちらも息災に過ごしています』って書いているんじゃないのか?」
私は首肯した。まさか、過重労働とパワーハラスメントが酷すぎて元気の欠片もありません、なんて書けるはずがない。
谷風「そう書くしかないもんな。本当はそんなことなんてねえのにさ。陽炎を心配させる訳にはいかねえから、強がりでもなんでもそう書くしかねえ。……最初はさ、それが抵抗なくできていたんだ。でも、二回目、三回目ともなると段々筆が進まなくなってきた。おかしいだろ? 私たちのどこが、息災だってんだよ。そんなの嘘だろ。私たちが健やかに過ごしているなら、他の奴らなんかリゾートで暮らしてるようなもんさ」
何がおかしいのか、谷風はくつくつと押し殺したように笑った。折り紙を放り、顔を上げる。笑顔だ。でも、不自然なまでにつくられた表情だった。
私はぞっとしたものを感じた。この表情は悪魔に誘われ、心の折れかけたものが最後に浮かべるものだ。今まで、何度も見てきた。その子達は例外なく壊れた。
谷風「私さ、もう、嘘つくの疲れちゃったよ」
谷風も、悪魔に肩を掴まれていた。
思えば谷風は、私の『カウンセリング』を一度も受けにきたことがなかった。養成学校時代から彼女の健やかな強さを知っていたし、この鎮守府でも明るく振る舞っていたから、彼女は問題ないと勝手に判断していたのだ。
そんなことあるはずがない。この異常な鎮守府に身を置いて、平静でいられるものなどどこにいるというのか。谷風は我慢して抱え込んでいただけで、本当は極限まで蝕まれていた。
気づかなかったのは、迂闊だった。
浜風「すいません」
谷風「……どうして浜風が謝るんだよ? 悪いのは、あの提督だろ?」
浜風「もっとはやく気づくべきでした。貴女がそんなにも思いつめて、苦しんでいるなんて」
谷風「違う」
浜風「違わないでしょう。我慢してはいけませんよ」
谷風「違うんだ」
浜風「しかし」
谷風「違うって言ってるだろ!」
怒声が静かな病室に響いた。谷風の曖昧な笑顔が、怒りと悲哀の混ざった苦しげな表情へと変わった。
谷風「私じゃない! 今一番苦しんでいるのはお前だろ! あんなクソみてえな作戦の犠牲になってんだぞ! いつもいつもボロボロになって死にかけてんのに、それでも休みなく次から次へと戦場に送られちまう……! それなのに、私なんかのことを気遣ってる場合じゃねえだろ!」
浜風「谷風……」
谷風「もう嫌なんだよお! 浜風ばかりが、こんな酷い目にあって傷ついていくのを見るのは……! お前が私たちを庇ったせいで、罰として任務に就かされたのは分かってる! だから、私たちじゃどうやっても助けてあげられないこともだ! それが情けなくて、悔しくて……。浜風は、私たちを地獄のドン底から救ってくれたっていうのに、私たちはお前に何もしてあげられない! お前を、救えないんだ!」
谷風は叫んだ。苦しい胸の内を、隠してきた自責と悔恨を吐き出すように。栗色の瞳から溢れる大粒の涙が、鶴の群雄へ雨となって降り注ぎ、その整然とした翼をくしゃりくしゃりと濡らしていく。
堪え切れなくなったのか、谷風はとうとう言葉すら出せなくなり嗚咽を漏らした。
彼女は、私のために泣いている。私が苦境に苛まれていることに、酷く心を痛めているのだ。それが、彼女を追い詰めた苦しみの正体であった。私に友情を感じている彼女からすると、それは自然な感情であろう。おそらく他の子達も、何も言わないだけで、同じ思いを抱いているに違いない。
助けたい。苦しみから救ってくれた恩を返したい。でも、できない。あの提督が、私への処刑としてこの作戦を取っており、手伝う余地など欠片もないことを知っているからだ。それは谷風や彼女たちに、身を焼くような葛藤と絶望を与えただろう。磔台へ十字架を背負いながら向かうイエスを見る、弟子たちの心持ちはこれに近かったのではないか。
さすがに少しだけ後ろめたかった。いくら悪意がないとはいえ、私は谷風の純真なる友情や、遠征隊のみんなの無垢なまでの敬愛を、欺瞞でもって答えていることに変わりはないのだから。
私には嘘しかない。こんなにも谷風は、苦しんで泣いてくれているというのに。ああ、しかし、申し訳なく思っているはずなのに、吊り上がりそうになるこの口元よ。笑いながら懺悔をするものがいようか。後悔よりも暗い愉悦が、溢れそうである。
私はそっと、誤魔化すように谷風の手を握った。小さな手が震えている。
谷風「怖いんだ」
浜風「……」
谷風「浜風が、沈んでしまうんじゃないかって。いや、仮に沈まずに済んだのだとしても、あの軽空母の先輩みたいに……」
浜風「大丈夫ですよ」
私は優しい声を意識して言った。
谷風「大丈夫だって? そんな保証なんてどこにあるんだよ」
浜風「私には、陽炎姉さんとの約束がありますから」
谷風「陽炎との約束?」
谷風は鸚鵡返しに尋ねてきた。困惑した様子が、泣き腫らした顔に現れている。
このことは誰にも話すつもりはなかった。しかし、自身の意図するところではないとはいえ、谷風が傷つき苦しんだのは私のせいだ。
だから、ささやかな罪滅ぼしに唯一の真実を告白しよう。
私はゆっくりと頷いた。
浜風「『絶対に死なない』。そう、陽炎姉さんに誓ったんです」
そのとき、窓から風が吹き抜けた。私の頬を涼やかに撫で、その心地よさが季節外れの心象風景を呼び起こす。桜の花びらが舞い上がり、私はその中で惜別に暮れる尊敬すべき少女を抱いていた。
谷風が、その情景を見たといわんばかりに、目を見開いた。
浜風「だから私は死なないし、死にません。あの約束があったこそ、あんな九死に一生の作戦でも、私は生き残ってこれたと信じています」
あの約束がなければ、私はとっくに水底へと還るはめになっていただろう。死にそうになったとき、いつも頭の中には桜が花開いた。その美しき桜の花に、何度も何度も奮い立たされた。
浜風「これからもそうです。私は生きねばならない。生きるために、私は戦っています。死を乗り越えるために、戦場に立っています。あと四回、なんとしても体も心も壊さずに乗り越えてみせますよ。――陽炎型の誇りと意地を、あの無能に見せつけてやるんです」
谷風「……」
浜風「いいですか、谷風。私もあなたも誉れ高き陽炎型駆逐艦です。私を信じてください。陽炎型の一員である浜風が、この程度で折れるわけないと」
――信じてください。念を押すように、私はもう一度言った。後は静かに谷風を見つめる。
視界の端で、鶴がひっくり返るのが見えた。また、風が吹いたのだ。何度かそれを繰り返し、数羽ほど白い海から飛び立ち、すぐに地面へと落ちていく。
それから少しの間があって、谷風が私に握られていない方の腕で、目元を擦った。鼻をすすり、ぎこちなく笑う。酷い表情だ。でも、先ほどまでの不吉な影は消えている。
谷風「そう、だよな……。私たちは陽炎型なんだ。とくに浜風は私や陽炎よりずっと優秀だしな……」
浜風「そんなことはありませんよ。回避能力では貴女に勝てませんから」
谷風「それ以外は全部負けてるよ。知性も人望も、何もかもな。遠征隊のみんなもたった一人で救っちまったし、あんな無謀な作戦だってかなりの頻度で成功させてる。浜風……間違いなく、お前は陽炎型の誇りそのものだよ」
浜風「そこまで言われると、さすがに照れますね」
谷風「本当にそう思うぜ。お前はすげえやつだ」
その言葉には深い感慨が籠っているようだった。本心から言っているのだろう。
谷風「だからこそ、信じねえといけないよな。浜風ならやれるって」
浜風「……ありがとうございます」
私はお礼を言いながらも、内心では複雑な気持ちであった。「信じてください」とはどの口が言うのか。いや、嘘つきだからこそ軽々しくそんな『戯言』を叩けるのだ。詐欺師の語る真実は、結局は欺瞞へと結びつく。
谷風「こっちもありがとうな。あと……取り乱してすまねえ」
浜風「いいですよ。それに、謝らなければいけないのはこちらです。心配させてごめんなさい」
谷風「ああ。心配したんだからなホント」
谷風は小さく笑って、ほっと息を吐いた。
谷風「……大丈夫だとは思うけど、私たちの力になれるようなことがあればいつでも言ってくれ。私も他のやつらも、みんな喜んで力を貸すからよ」
浜風「そうですね。頼れそうなら頼るかもしれません」
それから数時間、私が動けるようになるまで、私たちはたわいもない話をした。思えば『友達』とこうしてゆっくり雑談するなんて久しぶりのことだ。
鎮守府に配属されてから、私は様々な事態へ対処するために奔走した。まだ半年ほどしか経っていないということが信じられないほどに、劣悪なまでの鮮烈さで日々が過ぎていった。これからも、忙しくなるだろう。あの提督を椅子から引きずり落とすまで、私たちに平穏は訪れることはない。
谷風との雑談は、ささやかな平穏だった。そこに安らぎを見出すことはできなかったが、それでもその穏やかさだけは嫌いではなかった。
一週間後、十一月となった。これまでと同じように血反吐を吐きながら任務をこなし、なんとか七度目の成功を収めることができた。後三回を残すまでに迫り、鎮守府の空気もより一層ピリピリとしたものになった頃。
急に、この作戦が中止となった。
南提督が私の意地を認めたとか、私に情けをかけたとか、そんな理由で取り止めた訳ではない。彼にそのような血の通った情は存在しない。中止にせざるを得ない事態が起こったのであった。
それは東鎮守府で起こった、凄惨な悲劇に端を発するものであった。
捨て艦戦法を原因とした、内部崩壊。南鎮守府が危うく辿りかけた最悪な道を、東鎮守府が無残にも歩んでしまった。
――破滅まで、残り三ヶ月。
投下終了です。お待たせしました。
このssを見直していて修正したい部分が多々ありましたので、このssが終わったときにでも、修正したやつを上げようと思います。
東鎮守府で起こった事件は、通称『捨て艦事件』と呼ばれ、海軍全体に多大なる影響を及ぼすこととなった。
事態が発覚したのは10月の末である。東鎮守府の関係者による内部告発があったそうだ。徹底した情報管制が敷かれる中で、誰がどうやって情報を漏らしたのかは不明だが、一部では外部、それも報道関係者にまで漏洩したらしい。もちろん、軍部が方々に圧力をかけて火消しをしただろうし、そもそも軍事国家である我が国で、軍部の不利に繋がるような報道が行なわれることはまず考えられない。よって、白日の下に晒されることは辛うじて回避された。
だが、海軍内部では大騒動となった。この事件は簡単に揉み消して終われるほどのものではなかった。事件があまりにも凄惨すぎるし、一つの鎮守府が崩壊したという異常事態を、問題として無視できるはずもないからだ。
私は任を解かれてから、南提督が急に作戦を中断した理由を知るために探りを入れた。秘書艦は補佐という性質上、海軍の資料をいくつか閲覧する権限を与えられている。もちろん制限されているものもあるが、あの提督は情報管理でさえその無能さを発揮してくれるから、彼が留守のときにいくらでも拝借できた。そして、それらの情報を参照し、すぐに『捨て艦事件』が関係していることを突き止めたのだ。
東は開設して三年ほどが経つ、それなりの規模を誇った鎮守府である。西方海域のカスガダマ沖まで攻略を進め、南方海域入りは確実と言われていたそうだ。空母四隻、軽空母四隻、そして戦艦三隻以上の戦力を誇り、ビッグセブンと称えられた長門型戦艦まで任されていたようである。
提督も優秀な人物で、階級は少将であった。沖ノ島海域を歴代三位の速さで攻略してみせ、北方海域の研究を推し進め、様々な新しい戦術を見い出したことで知られている。とくに、これまで流氷が多く駆逐艦以外の運用が困難とされていたキス島周辺の攻略に、軽巡洋艦を加えた水雷戦隊の運用方法を示したことは有名であった。養成学校でも、教官から話として上がったほどである。
充実した戦力に加え、優秀な提督が指揮をとる、将来を有望視された鎮守府だった。そんな鎮守府が、なぜ『捨て艦』などという愚行に走り、どのようにして崩壊へと至ったのか――。
その始まりは、七月下旬からであると推測されていた。その頃から明らかに駆逐艦の轟沈数が急増したからだ。
舞台となった海域はリランカ島周辺と、カスガダマ沖だった。東はリランカ島周辺の攻略をすでに済ませているが、ここには潜水艦を始めとした多様な艦種が出現するため、攻略担当の鎮守府がいないとき、かつボスの出現が確認されていない間は、実戦訓練が積極的に行われているのだ。東も、対潜訓練を目的として駆逐艦を編成に組み込み、出撃をしていた。あくまで、建前の形では。
実施された期間は一週間である。ここで駆逐艦が三隻、ことごとく沈んでいた。これはあくまで訓練であり、攻略の戦法である『捨て艦』には数えられないとする意見もあるようだが、それは違う。今まで轟沈者をほとんど出さなかったはずの東が、たった一週間で三隻も犠牲を出したのだ。その異常さを考慮に入れれば、これが始まりであるとするのが妥当であろう。
そして、『訓練』が終わると、カスガダマ沖の攻略が再開された。そこで、本格的に『捨て艦』が行われるようになった。
犠牲となったのは、ほとんどが駆逐艦である。この海域攻略は八月から始まり、事件が発覚するまでの約三ヶ月間で、その数は二十名以上にものぼっていた。
しかし、被害はそれだけには留まらない。私が南の件で予想したとおり、この事件によって東鎮守府の艦娘たちの多くは精神を蝕まれてしまった。精神疾患がまるで感染症のごとく蔓延し、直接『捨て艦』に関わらされたものの中には発狂者や自殺者まで出ていた。事件後、精神の不調を理由に解体されたものは、人員の三割ほどにも上っている。艦娘は鎮守府の要だ。柱が腐れば、建物がどうなるかなど想像に難くない。
こうして内部崩壊へと繋がり、告発によって発覚した。これがこの悲劇の顛末である。
すべてにおいて異常な事件だ。私には、東提督が到底人間だとは思えなかった。ヒトの皮を被った悪魔であり、快楽殺人という麻薬にはまった狂人だと思った。
なぜか?
東提督が、明らかに『捨て艦』を遊びでおこなったからだ。
東提督は極めて優秀な人物であった。『捨て艦』の愚かさとデメリットもすべて理解していたはずである。事実、北方海域における徹底した戦術研究と、事件までほとんど轟沈を出さずにきていたことが、それを証明している。戦術研究の専門家とも言える人物が、ハイリスクローリターンの『捨て艦』を指示するとはどうしても考えられない。そもそも、海域攻略自体は順調であったのだ。カスガダマ沖の攻略も、そう苦戦していたわけでもない。つまり、『捨て艦』をする必要すらないわけだ。なのに、動機もなく作戦を遂行した。
これはもう、わざととしか考えられない。東提督は唐突に狂い、『捨て艦』にかこつけて彼女たちの命と心を弄ぶようになったのだ。なにかが彼の精神に狂気を呼び起こしたのか、それとも元々腹に抱え込んでいたのか、それは分からない。だが、彼が人間性をかなぐり捨て、悪魔へと変貌したことに変わりはないだろう。
行為に加減が一切見られないところから、その悪虐さと暗澹たる欲望には底知れないものがある。艦娘たちが沈み、苦悶し、絶望し、慟哭を上げるたび、腹の中を無数の虫が蠢くような、悍ましい愉悦を感じていたに違いない。形は違えど、性質は似たものを持っているから分かる。そうした意地汚い欲望というものは一時は満たされて、しかしすぐに溢れてしまうから、また満たさずにはいられなくなる。そして、麻薬中毒のように同じ量では満足できなくなって、行為はだんだんエスカレートしていく。
東提督は快楽殺人者であり、一種のサイコパスであろう。正直、南提督が可愛く見えるほど悪辣非道の存在であった。当然、事件発覚後に捕まり、鎮守府の司令官を解任され、重罪人として軍法会議にかけられることが決まったらしいが、その後の展開はまだ分かっていない。おそらくは死罪を免れないはずだ。まさか、これほどの凶悪犯を降格処分や懲戒免職程度で済ませはしないだろう。
この下種は、確実に生かしておいてはならない存在だ。他人を破壊することに随喜の涎を流さずにいられないものを、人間と呼んではいけない。あの親戚どもと同じ、血で祝杯を上げる怪物である。東提督にはぜひとも、地獄の底で絶叫してもらいたい。
この事件の影響で、海軍の上層部では『捨て艦』に関する様々な動きが起こった。
まず、『捨て艦』禁止を法制化する議論が活発になった。実は以前から『捨て艦』を禁止するべきだという意見は少なくとも出ていたようなのだが、提督会議(階級が中将以上の者で構成される、海軍における意思決定機関)が無視していたのだ。だが、このような事件が起こった以上、簡単に見て見ぬ振りはできなくなる。おそらくは定義や範囲で揉める部分はあるだろうが、法制化自体はされるだろう。
次に、事件を受けての立ち入り検査が行われることとなった。これは全ての鎮守府が対象になっているそうで、作戦中止から数日ほどが経って、南鎮守府にも憲兵隊の介入があった。
海軍には、「鎮守府運営は個々の提督の裁量に任されるべきである」とする、官僚制における縦割り行政にも似た、悪しき慣習が存在する。事実、海軍の上層部は海軍大学校を極めて優秀な成績で卒業したものたちで構成されており、官僚主義の色が強い組織原理をもっている。エリート特有の縄張り意識や失敗を追求されることを過度に怖れる体質が影響を及ぼし、このような慣習を生み出したのであろう。ただ、これはあくまで調べたことから類推した部分もあり、すべてが正しいかどうかは分からない。しかしこのせいで、『捨て艦事件』の発覚が遅れ、南提督のような無能がいつまでも提督で居られるのだと考えれば、間違いはないだろう。
よって、この立ち入りは異例の事態であっただろう。『捨て艦』が見られた鎮守府は複数あり、疑わしいとされたところも決して少なくはなかった。南鎮守府は『疑わしい』とされた。『捨て艦』戦法を行なったのはまず間違いないのだが、肝心の私が沈んではいないから、戦法として成立されていると言い難いと判断されたのである。ここには、家柄による酌量が見え透いている。だが、上層部が南提督に疑惑を抱いたことも事実だ。調査後、彼には連日の出頭命令が出ていた。
南提督はこれまでにないほど焦燥にかられ、青ざめた顔をしていた。私たちに対して八つ当たりをする気力すらないようであった。完全に身から出た錆だ。このときばかりは溜飲の下がる思いがした。だが、こんな程度では到底足りるはずがない。地獄に落ちて貰わねば、愉悦の花は咲き乱れないのだ。
私は作戦で中止せざる終えなかった『計画』を再開した。そして、元秘書艦と南提督が本部へと出向いて留守にしているタイミングを狙い、出撃部隊の先輩たちを自室へと呼び出した。現在、指揮官不在の関係で出撃は行われておらず、彼女たちとスケジュールを合わせるのは容易であった。
招来した理由は、『計画』を行なう上で彼女たちの協力が必要不可欠だったからだ。そのため、『計画』について説明しなければならない。私が南提督の椅子をどのように蹴落とし、この鎮守府をどうしたいのかということを。
お待たせしました。途中ですが、投下終了です。
>>215、>>216、>>217、>>218、>>219、
の内容が、ssまとめ速報ではなぜか表示されていませんでした。あちらで読まれている方には、ご迷惑をおかけします。
声をかけたのは、付き添いで留守にしている秘書官以外の一次戦力、であった。全員が部屋に集まったところで、私は社交辞令もそこそこに話を切り出した。
浜風「単刀直入に言いますが、私は南提督から実権を奪おうと考えています。その『計画』について聞いていただくために、みなさんをお呼びしました」
先輩たちの顔に動揺が走った。お互いの顔を見合わせたり、正気を疑うような瞳を私へと向けたりしながら、困惑を露わにしている。
「あなた……自分が何を言っているか分かっているの?」
重巡洋艦の先輩が恐々とした表情で尋ねてきた。
浜風「ええ、もちろん。冗談で言っているつもりはありません。本気です」
真顔で言うと、彼女は顔を引きつらせた。
「ふうん、クーデターを起こすつもりなのね?」
そう言ったのは空母の先輩だ。扉に寄りかかり、腕を組んでいる。他の先輩たちと違って、私の招集にどのような意図があったのかなんとなく察していたのだろう。落ち着いた様子であった。よく見ると、黒く淀んだ冷たい目をゆるりと細めている。
「面白いじゃない。貴女のことだから何か妙案があるんでしょう。で、どうするの? 殺すの?」
彼女は物騒な発言をした途端、抑えきれないと言わんばかりに笑顔になった。
「殺すって……。そんなことしたらタダじゃ済まないわよ……」
「でしょうね。で、それがどうしたの?」
重巡洋艦の先輩の常識的な言葉は、苛立ちを含んだ声ににべもなく封殺される。
「別にいいでしょ。今までも散々酷い目にあってきたんだし、いまさらじゃない。○○を壊したあのクズにこのまま従い続けるくらいなら、いっそのこと八つ裂きにして雷撃処分された方がマシよ」
○○とは軽空母の先輩のことだ。空母の先輩は彼女と仲が良かった。
部屋の空気が、途端に重苦しくなる。ここにいる全員が程度の差はあれ、提督に対して思うところがあるからだ。俯き、眉間にシワを寄せ、あるいは瞑目し、それぞれが自身の憎しみと向き合っている。重巡洋艦の先輩も、それ以上何も言えないようだった。
空母の先輩が、ドス黒い感情に声を震わせながら続ける。
「それで浜風さん。もし殺るつもりなら今度は私に任せて。貴女には、これ以上何も背負わせたくはないの。だから私にあの男を殺させて?」
浜風「……」
「ね、いいでしょう? ね?」
気持ちとしては首を縦に振って上げたかった。私も何度、執務室へ十二・七ミリ砲を撃ち込んでやりたいと思ったことか。しかし、それでは根本の解決にはなりえないのだ。
私は首を横に振った。
浜風「申し訳ありません。気持ちは分かりますが、提督を殺すつもりはないです」
空母の先輩が拍子抜けしたように顔を固め、やがて眉根を寄せた。
「……殺さないの?」
浜風「ええ。殺したところで私たちにはほとんどメリットがありませんから。むしろ生かしておいて利用した方が、都合がいいんです」
「生かしておくこと自体がすでにデメリットじゃない」
浜風「そうですね。現状のままならばその通りです。しかし、仮にあの男を殺したとしても問題はその後なんですよ」
「その後?」
空母の先輩が訊いてくる。誰もピンとこなかったのか、首を傾げたり表情を曇らせたりしていた。
私は溜息をつく。
浜風「そうなったら、代わりに新たな提督が着任することになりますよね?」
「当然、そうなるわね。それがどうしたのよ?」
浜風「その提督が、マトモな人間であるという保証がどこにあるんですか?」
私がそう言うと、先輩たちは「ああ……」と力なく漏らした。空母の先輩も、ぐっと言葉を詰まらせている。彼女たちの『提督』に対する猜疑心は、百年生きている樹木のように根強いものだ。『提督』を恨むように散々仕込んできたのだから、その分疑いも増すのは当然であろう。
浜風「南ほどの無能はそういないでしょうから、もしかすると、提督が変わることで状況がよくなるかもしれません。しかし、変化というのは必ずしも良い結果をもたらすわけではないんです。私が改革した運営方法だって、新しい提督が気に入らなければ、すべて白紙に戻される可能性もあります。それ以上に良い運営方法を取るなら別でしょうが、果たしてそうなるでしょうか?」
いったん言葉を切って、誰も反論してこないのを確認し、続ける。
浜風「どうにも、私には悪い方向に転ぶような気がするんです。海軍というのは官僚主義的な組織であり、かつ全体として成果主義的な考え方が根強い組織です。成果主義というのは確かに効率的で良い面もあるのですが、それが行き過ぎると結果を重んじるあまり、そこに与する労働者を異常なまでに酷使し、彼らの人権や精神を無視することがよくあります。つまりは、過重労働に繋がる危険性があるわけです。皆さんにも、嫌というほど覚えがありますよね?」
全員が青ざめた顔で項垂れた。ここまで言えば、およそ察しがついたようだ。
浜風「組織の主義、思想というのは、当然そこに所属する人たちにも反映されるものです。個々の能力にもちろん差はあるはずですが、考え方が似たり寄ったりということは、新しい提督も南と近い運営方針を取る可能性が高いと考えるべきでしょう」
「つまり、提督が変わっても今の状況が改善されるとは限らないということよね。いや、下手をすると浜風さんの改革がなかったことにされて、今よりひどくなるかもしれないのか……」
重巡洋艦の先輩は苦しげな声で確認してきた。首を動かして同意する。
全員の顔が不安げな陰りを帯び始めた。彼女たちは閉鎖的な状況下で生活してきたこともあり、海軍内部の詳しい情報などほとんど知らない。もともと抱いていた『提督』への不信感に加え、ネガティヴな海軍の人事状況を聞かされれば、不安を覚えずにはいられないだろう。
彼女たちは私がもたらす情報を疑いなく信じてくれる。秘書という肩書きももちろん役立っているが、私に絶大な信望を寄せているためだ。幼子が父親と母親の言葉を絶対的なものと捉えるように、無批判的に受容するのだ。
私は出撃部隊の心も、完全に掌握していた。優れた能力、人望、情報……これらをすべて握っているからこそ、駆逐艦と一次戦力という階層の差すら飛び越え、心理的に優位へ立つことができた。南鎮守府の艦娘たちにとって、私はすでに絶対の存在となりつつある。
そのことを改めて実感し、愉悦を覚えながらも、口角が吊り上がるのをなんとか堪えた。
浜風「さっきも言いましたが、気持ちはわかります。しかし、殺しても溜飲が下がるだけで何も得るものがありません。殺した人は反逆罪で死刑は免れませんし、殺人者を出した鎮守府と上層部から目をつけられることにもなります。次に来る提督も、私たちのことなんてまず信用しません。……分かりますか? 誰も得をしないんです」
私は目線を下げ、悲しげな表情を作ってみせた。
浜風「もうこれ以上……誰かが犠牲となり、苦しむのを見るのは嫌なんですよ。絶叫も、慟哭も、聞きたくありません。誰一人傷つかず、健やかに笑うことができる、そんな生活こそ私の望んでいるものです。私はできる限り、そんな生活が送れるような鎮守府に変えていきたいと思っています」
ひどい嘘だ。私が望むのは、『人間』でいられる生活だけだ。そんな高尚な理想など持ち合わせてはいない。
が、私の腹なんて知らない彼女たちは後光を見たようだった。目を見開き、嘆息を零している。空母の先輩だけは眉間に皺をよせ、恥じ入ったように目を逸らしていた。
浜風「先輩、ご理解いただけましたか?」
「ええ……。ごめんなさい、少し興奮していたわ。みっともないところ見せちゃったわね」
浜風「いえ、謝らないでください。私も同じ穴の貉ですから」
「違うわよ。あなたは私たちのことを考えてくれていたけど、私は自分の恨みしか頭になかったから」
私は答えず、曖昧に笑った。それならば、やはり同じ穴に住んでいる。
私は私の欲求でしか動かない。その中に、あの無能に対する殺意がないと言えようか。もちろんあるに決まっている。今までどれだけ屈辱的な扱いを受け、辛酸をなめ続けてきたか。数え切れないほどの悪辣たる記憶は折り重なり、憎悪は山となっている。
私があの男を生かしておく理由は、殺害後に起こる事態を危惧しているだけではない。
殺すより、生かしておいた方が、あの男により深い絶望を与えてやれると考えたからだ。
虐待、暴力、戦争、圧政、差別、そして沈黙の病――。真の地獄とは、死後にはない。生の営みの中にこそ存在する。
それを、身をもって、思い知らせてやる。
浜風「それでは、私の『計画』について具体的なことを説明していきたいのですが、よろしいでしょうか?」
全員が表情を引き締め、首肯した。
浜風「最初にも言いましたが、私は南提督から実権を奪うつもりでいます。とどのつまり、私の『計画』は南提督の傀儡化です。それを可能にするために、呉鎮守府を……彼の父親である呉提督を利用しようと思っています」
投下終了です。
後もう少しで過去編終わります
私はそう切り出して、淡々と語り始めた。まず、南提督を傀儡化する『計画』が、運営改革を行う上での前提でしかないということから説明していく。
これから改革するのは、今までと違って南提督の実権が色濃く絡んでくる範囲だ。出撃や資源の管理方法など、鎮守府の根幹を成す部分。ここの改善を行わなければ、南鎮守府を健全に導くことは難しい。
そのためには、南提督から仕事を譲ってもらわねばならないわけだが、そう簡単に譲るはずがないことは目に見えている。鎮守府の長としてのアイデンティティとプライドが、それを許しはしないからだ。
だから、南提督から多少強引にでも仕事を奪わなければならない。そのために、彼から権力を奪って無力化し、私の言うことを聞かざるおえない状態にする必要があった。
だが、南提督を無力化するのは容易にはいかない。彼と私の間には、権力に絶大な差が存在するからだ。私たち艦娘は提督の独裁政権の元、暮らしている。生活のすべてを管理され、生殺与奪の権力すらも握られているのだ。そんな状況下で、提督から仕事を奪うなんて望めるはずがない。
どうにかして、この差を埋めなければならない。しかし、それを行う上での方策がこれまでで一番の関門であった。傀儡化をおこなうためのさらなる前提、そしてそれを成すための方法。
それは、南提督の力を封じ込めることができる、より強力な権力者を味方につけるというものだ。つまり、後ろ盾を作ろうとしているわけである。虎の威を借る狐のごとく、強者の威光をもって、南提督を押し潰し、私に逆らえない状況を作り上げる。
その後ろ盾として、私は呉提督に目をつけたのだ。
「――呉提督を利用するというのは、そういう意味ね」
そこまで話して一旦言葉を切ると、空母の先輩がそう口を開いた。どうやらさっきまでの煮え滾るような興奮も落ち着いて、冷静さを取り戻したようだ。組んでいた腕を解き、顎に手を当てる。
「後ろ盾を作るのはいい考えだと思うわ。南を生かしたまま改革するには、それ以外に道はないでしょうしね……。ただ、こんなこと言うのは気がひけるけど、どうしても成功するかどうか確信が持てなくて、少し不安だわ」
浜風「そうでしょうね。正直、この方法は運の要素が強いですから。絶対に上手くいくという保証はしかねます」
「そう……」
浜風「ただ、成功したときの見返りは大きいですし、可能性が少しでもあるならやる価値はあるでしょう。これ以外に方法がない以上、やらないという選択肢もありません。何もしなければ、あのクズの独裁が続くだけですし」
「それだけは死んでもゴメンね」
空母の先輩は息をついた。
「……やるしかないわよね。でも、どうして呉提督なの? あなたも言ってたけど、あの人って南の父親じゃない。肉親を盾にしても有効に働くとは思えないけど」
彼女の意見はもっともだ。普通に考えれば、呉提督が南の肩を持つ可能性が高いからだ。後ろ盾にする相手として不適切だと思うのは当然であろう。
だが――
浜風「仰るとおりです。ですが、呉提督でなければならない……いえ、彼を選ばざるおえない理由があるんです」
「選ばざるおえない理由?」
浜風「それを説明するためには、まず、後ろ盾にする人物の条件について触れなければなりません。……どういう人物が適しているか分かりますか?」
私が尋ねると、先輩たちは首を捻って考え始めた。
「……南より階級が上の人かな」
重巡洋艦の先輩が、オズオズと自信なさげな声で言った。
浜風「そうですね。それが、まず一つです」
「ということは、他にもあるってことか……。えーと」
「南と家柄が対等以上である人物、じゃないかしら」
言葉に詰まった先輩の代わりに、空母の先輩が答えた。
「あのクズは曲がりなりにも華族出身だからね。家柄を重んじる風潮が帝国では根強いし、それは海軍でも同じことでしょう。生まれの貴賎が、海軍における発言力の強さに影響しているとしてもまったく不思議じゃないわ」
「あ、なるほど……。それじゃ階級が上でも、南を立てようと遠慮してしまうかもしれない」
重巡洋艦の先輩が、得心がいったように声を出す。
私は首を縦に振った。
「生まれもそうですし、何より南の背後には呉提督の存在が影のように見え隠れしています。海軍大将であり、『神算鬼謀の名将』として畏敬の念で讃えられている呉提督を恐れて、南に対し強く出られない人はおそらく少なくないでしょう。だから、『呉提督の威光を無視できる』という条件も満たしておかねばなりません」
「それらを全部含めるとなると、かなり少なそうだね……」
浜風「私が知っている限りですが、数える程しかいませんよ。海軍大臣、提督会議議長の元帥、もう一人の提督会議副議長である横須賀大将、華族出身者の佐世保中将……そして、呉提督本人。有力な候補はこの五人だけです」
「呉提督の圧力に屈しない人間なんて、上層部でも一握りだろうし、必然的に候補も少なくなるよね……。他にはいないの?」
浜風「残念ながら。私も海軍の内情についてはそれほど詳しく調べられていません。他にもいるかもしれませんが、情報が少なすぎて確信が持てないんです。確実に、南を抑え込むことができる人物でなくては意味がありませんから」
「確実なのはその五人か……」
重巡洋艦の先輩は、確認するような調子でつぶやいて下を向いた。茶色味を帯びた長髪がハラリと揺れ、首元に刻まれた戦いの傷を露出させる。
気づかないふりをして、さりげなく目をそらした。そのままゆっくり視線をスライドし、全員を見回した。みんな真剣な表情で続きを促してくる。
浜風「さて、候補者は五人に絞られましたが、ここで終わりではありません。さらにもう一つだけ条件が加わってきます。これも、絶対にクリアーしておかねばなりません」
私は一息置いて、言った。
浜風「それは、『絶対に南提督をクビにしない』という条件です。なぜこれが絡んでくるのかはさておき、辞められるわけにはいかない理由は分かりますよね?」
「ええ、南を殺せない理由とほぼ一緒でしょう」
空母の先輩は絞り出すような低めの声を出した。あからさまなほど口惜しさが滲み出ていて、不謹慎だが少しだけ可笑しかった。よほど殺してやりたいのだろう。
浜風「そうです。これから私が後ろ盾を作るためにやろうとしていることを考えると、どうしてもその恐れが出てくるんです。南が鎮守府から降ろされれば本末転倒ですから」
「まあ、人形にする存在がいなくなっては、『計画』も何もあったものではないし、当然といえば当然か。それで、浜風さんは一体何をする気なのかしら?」
浜風「簡単に言うなら、南の無能さを完全に証明した上で、私の実績と能力を提示し、後ろ盾の対象者に比較させようと考えています」
「……比較ね。つまり、あなたの能力を認めさせて、味方に変えていこうと考えているわけ」
浜風「はい。具体的に何をしようとしているのかについては、後で述べさせていただきます。ややこしい話ですから、きちんと段階に分けて説明しなくてはならないので……。申し訳ありません」
「謝らないで。むしろ詳述してくれてありがたいくらいよ」
浜風「そう言ってもらえて、よかったです」
軽く微笑んでみせ、説明を再開する。
浜風「言うまでもないことですが、南提督は海軍きっての無能です。それが今まで露呈せずにいたのは家柄はもちろん、海軍の体質にも問題があるからなんですね。話の本筋から外れるので詳しくは言いませんが、南提督の無能さが上層部に伝わりにくい、ややもすれば伝わらないような体制になっています」
「……クソね」
汚物に唾でも吐き捨てるような調子で言って、空母の先輩は眉根を寄せた。気持ちは分かるが、いちいち反応していては話が進まないので黙殺する。
浜風「ですので、今の今まで南は提督で居続けられたんです。そうでなければ、例え家柄があるといっても、呉提督の息子であろうとも、さすがに鎮守府からは降ろされていたと思います。それだけあの男は使えません。なにせ、運営の『う』の字も理解できていないのですから……。炸薬の込められていない魚雷を、そうだと気付いても使い続けるものはいないでしょう? だからこのままだと、あの男の無能さを示した時点で、計画が崩れてしまう恐れがあります」
重巡洋艦の先輩が、はっと目を見開いた。
「もしかして提督の無能さを証明しても、クビにしない人間というのが……」
浜風「そう、呉提督です。彼だけは絶対に南提督を辞めさせることはありません」
「呉提督を選ぶしか選択肢がないというのは、そういうことなんだね……。でも、どうして呉提督がクビにしないって言いきれるの?」
浜風「肉親だからです」
「えぇ? それってつまり、贔屓を期待しているということ?」
先輩の顔が困惑に歪んだ。その顔には「それじゃあ味方につけるのがまず無理だろう?」と書かれてある。
浜風「違います」
はっきりと否定をした。
浜風「贔屓ではなく体面の問題です。能無しだからと息子を解任すれば、必然その理由が海軍中に知れ渡ることとなりますからね。そうなった場合、呉提督の面子は丸潰れです。立場上、それを避けるのが当然でしょう」
肉親の失態が、自身の社会的な地位を脅かすことはままある話だ。大げさな例えだが、殺人事件の加害者家族がどうなるか考えてもらえれば分かりやすいか。むろん、息子がお払い箱になった程度で呉提督の地位は揺らがないだろうが、一生付いて回る汚点になることは間違いない。
「南は呉提督唯一の息子で、家督を継ぐことになっているから、そんなことになったら周囲の心象は最悪になるでしょうしね……。たしかに、家名をむざむざ落とすような真似を、貴族である呉がするとは思えないわ」
「一理あるね。……それにしても、あんなのが後継者なんて呉提督も可哀想……」
重巡洋艦の先輩がそう毒づくと、全員が苦い笑みを浮かべた。まったくの同意である。呉提督もみんなにとって疑うべき『提督』であることに変わりはないのに、思わず同情してしまうほど、アレはクズだ。
場の空気が乾いたものとなったことに、重巡洋艦の先輩が少し狼狽していた。私は咳払いをして、とりなす。
浜風「体裁を気にして辞めさせないと断定したのには、まだ根拠があります。先日から、南提督は本部の方に出頭していますよね? 『捨て艦』に関して本部から疑いをかけられて」
本当は疑惑ではないけど。
浜風「そのことはもちろん海軍内にも広まり、然して呉提督にも伝わります。息子が本部で晒し上げをくらって、それが周知されてしまったのですから、呉提督からすると恥以外の何物でもないでしょう。つまり、彼はすでに息子のせいで体面を汚されているんです」
「恥の上塗りになるようなことは、できないってわけか……」
浜風「そういうことです」
空母の先輩の言葉に頷いて、私はまとめに入った。
浜風「以上が、後ろ盾として呉提督を選んだ理由となります。現状ではすべての条件を満たした人物は彼以外いません。だから、呉提督を選ばざるおえないのです。――さて、次がいよいよ本題となります。実際に呉提督をどう味方に変えていくのか……。これから縷々説明していこうと思います」
途中ですが、投下終了です。
10回以上書き直したので遅れました。実際に動きがあるのは、次の次からになるかと思います。長いですが、お付き合いいただけますと幸いです。
申し訳ありません。
「〜せざるをえない」ですね。「〜せざるおえない」と書いてました。
呉提督は、海軍大将である。
階級がものをいう世界において、元帥に次ぐ地位である大将は、神にも等しい存在だった。末端の兵士にすぎない私たちでは、直接お目にかかることすら、そうやすやすとはできない。完全に、違う世界の住民である。
そんな彼を動かして、味方に変える。果たしてそれは可能か?
普通に考えれば、一介の駆逐艦にすぎない私では無理だ。海軍に関する情報を集めていく中で、呉提督に目をつけたわけだが、この点で行き詰まりを覚えた。頭を捻って捻って、なんとか善作を絞り出そうと苦慮したものの、なかなか名案は浮かばず。さすがの私も、『計画』を諦めて、『最後の手段』を取らなければならないかもしれないと、覚悟したくらいだった。
だが、ある時期に入って、案が浮かび始めた。霧は晴れ、天上へと続く道が、ぼんやりと見えてきたのだ。
十月上旬のことである。その頃、南鎮守府は東部オリョール海に苦戦を強いられていた。最悪な進捗状況に、南提督は追い詰められ、焦燥の悪魔に取り憑かれてしまった。悪魔の思うに委ねて、暴力を振るい、出撃部隊を恐怖のドン底に叩き落とした。
あの異常なほどの焦り。あれは、攻略の遅れだけを理由においては説明がつかないものがある。たしかに、東部オリョール海の攻略は特別遅かったが、遅れていたのは他の海域も変わらなかったのだ。カムラン半島のときもバシー島沖のときも、南提督はそこまで焦ってはいなかった。
ということは、それ以外に原因があると考えるべきだ。それは、攻略と当時に並行して起こっていたある出来事にある。
呉鎮守府からの、度重なる演習の申し込みだ。
干渉を嫌う鎮守府制度において、数少ない協同作業の一つが演習である。鎮守府同士で行なう模擬試合であり、互いの経験を擦り合わせながら多くのことを学べるので、練度向上においては高い効果が認められている。積極的に行うべきなのだが、信じられないことに、南提督はこれまで一回も演習を申し込んだり受けたりした試しがなかった。
なぜか? 鎮守府の実力がはっきりした型で明らかとなるからだ。艦娘たちの練度もしかり、提督の指揮能力もしかり。下手な戦闘をして、不様に敗れでもすれば、恥をかくことになりかねない。
だから、海軍全体で見ても、演習は消極的に行われる傾向なのだ。官僚制の弊害の一例といえるだろう。南提督の場合、さらに貴族としてのプライドの高さも加わってくるから、こうした回避思考はより顕著なものとなる。
恥をかきたくない。その幼稚ですらある考えは、しかしこうも解釈できる。自信のなさの表れ。つまり、恥をかいてしまいかねない要素に、心当たりがあるということだ。
南提督は自覚している。自分に、指揮官としての才能がないということを。そして、誰かに気付かれてしまうことを怖れている。あの高慢極まる態度は、単に高貴な生まれゆえの歪みだけではない。虎になった李徴のごとき、臆病な自尊心の裏返しだ。極まった小心者の愚かさだ。
あの焦り様も、そこから来ているのだ。とくに父親である呉提督は、もっとも知られたくない相手であろう。南提督が呉提督を苦手にしていることは、用事で出かけるたびに護衛として付き従い、上層部の連中とも顔を合わせる、元秘書艦の証言からも間違いない。南提督はそうした現場において、呉提督を極力避けていたという。おそらくは、彼にとって父親の存在が強力な武器であると同時に、重荷となっているからだろう。稀代の名将が親であるということは、その分周囲からの期待も大きく、相当なプレッシャーの中、生きていかねばならなくなる。父親があまりにも偉大で、眩しすぎるのだ。
その父親から、唐突に演習を何度も申し込まれるようになった。今まで、呉鎮守府から申し込みは、まったくこなかったはずなのに。
南提督はこう考えたはずだ。
呉提督から疑われている。自分の無能さを勘付かれたから、それを確かめようと要請してきたのだ、と。
だから、私たちを鞭打って、なんとしてでも攻略を速めようとしたのだ。一方で、演習をどうにか断りながら、誤魔化そうとしていた。
私はここに活路を見出した。
呉提督を動かす方法として演習を利用しようと考えたのだ。南提督が演習を受けざるをえない状況を作り出し、呉提督の前で無能さをさらけ出してもらい、彼を失望させる。その上で、この鎮守府で起こった出来事や私の働きをすべて暴露し、私の優秀さを認めさせることによって、味方に変えていく――。それが、先輩たちに語った『計画』の全容だ。
ただ、この『計画』は『捨て艦』によって一旦中止しなければならなくなった。しかも皮肉なことに、私たちの死力を尽くした活躍によって、海域攻略が進んでしまったから、演習の申し込みが来なくなったのだ。『計画』が崩壊の憂き目を見た。やむをえず、『最後の手段』に出ようか、と考え始めたとき……あの東鎮守府の事件が発覚したのである。
その後、何が起こったのかはもはや説明の必要はない。南提督は恥をさらしたあげく、一番怖れている呉提督の顔に、泥まで塗りたくってしまったのだ。死人のごとく青ざめた顔が想起される。まるで、これから死刑宣告を受ける囚人のようであった。
呉提督はこの件について激昂した。本部での査問の後に、南提督を個別に呼び出し、激しく糾弾したそうだ。それも、外で待機しながら盗み聴いていた元秘書艦が、思わず気の毒になったほどの激しさだったという。彼の立場を考えれば無理なからぬ話であろう。しかも、彼はもともと上層部でも数少ない『捨て艦規制派』だ。息子から自身のイデオロギーと反することをされてしまったのだから、たまったことではない。提督会議における面子も丸潰れとなっただろう。
これは、千載一遇のチャンスだった。
呉提督の怒りを買い、周囲から不評を受けている今なら、南提督は下手なことはできない。そう、もし呉提督から再度演習を申し込まれたとしても、断ることはできないはずだ。
呉提督に演習の依頼を出させるべく、私は工作を開始した。とはいっても、やることはただの念押しにすぎないのだが。
これには、元秘書艦に協力してもらった。彼女は南鎮守府の一員の中で、もっとも呉提督やその関係者と距離が近い。だから交渉がおこないやすいのだ。とはいえ、元秘書艦も、呉提督と直接会話ができるわけではないので、交渉は呉鎮守府の関係者に対しておこなうことにした。
その相手として目をつけたのは、呉鎮守府の秘書艦であった。噂に名高い第二航空戦隊の飛龍さんだ。彼女が相手なら、元秘書艦も同じ艦娘として対等な立場で話すことができる。彼女に取り次ぎ、呉提督へ意見具申してもらうのだ。
内容はこうである。
――現在、南鎮守府の攻略は、遅々として進んでいないのが現状である。これはひとえに、我らの練度不足が原因と言わざるをえない。南提督は、この点に不安を感じておられていたが、父君様を心配させるのは忍びないとの思いから、こ自身の力のみでなんとかしようと誰にも頼らず、試行錯誤を繰り返しながら、攻略に当たっておられた。非常に忸怩たる思いであり、提督にはただただ頭が下がるばかりである。呉鎮守府からの有難い申し入れを断っていたのも、このあまりにも情愛に満ちた子心ゆえのものであったと思われる。しかし、父君のことを気遣うあまり、苦戦を強いられる中で、次第に追い詰められているようだった。あのような作戦を取らせてしまったのは、我々の不甲斐なさが提督に心労をかけたからに他ならず、致し方ない理由もあったのだ。どうか、提督のことを、許していただきたく思う。
また、これ以上提督に心労をかけないよう、我々は強くなることが急務なのだと、改めて考え直した。そこで、恥を忍んでお願いしたい。我々にまだ期待をかけていただけるなら、どうかもう一度演習を申し込んでいただけないだろうか? 貴家からお願いさせる形をとるのは申し訳なく思うのだが、提督を説得しても、どうしてもお聞き願いしていただけず、貴家に頼る他なかったのだ。海軍一の名鎮守府よりご指導があれば、我らのような出来損ないでも、強くなることができるかもしれない。貴家との演習は、我らの切望するところである。どうか、このことを呉提督閣下にお伝えしていただけると嬉しく思う。お願い奉る。
だいたい以上のような感じだ。なんとも白々しく、虚偽と湾曲に満ちた内容だが、演習さえ受けてもらえればそれでよい。あとは、南提督が演習の中で、勝手に自爆してくれるだろう。それに、呉提督の失望感をより高めることも期待できなくはない。
結論から言うと、この企みは上手くいった。
飛龍さんは秘書艦だけあって、呉提督が以前から、南鎮守府について気にかけていたことを、よく知っていたようだ。南提督が追い詰められていたことを知り、事態の深刻さに『気づいた』のだろう。すぐに了解し、呉提督への取り次ぎを約束してくれた。
後日、呉鎮守府から、演習の依頼が届いた。いや、依頼ではなく、命令だった。
各鎮守府の自主性と相互の了承を、暗黙の了解におく演習において、これは異例の事態だ。私もまさか、重大な判子が押された命令書が届くとは思ってもみなかったので、少しだけ驚いたほどである。開催日は一週間後で、場所は南鎮守府の修練場と指定されていた。
出撃部隊を呼び出し、説明をおこなったのはそれからだった。彼女たちにはこれから起こることも含め、すべてを話した。
これで、準備は整った。あとは運が味方してくれるかどうかだ。
すべては当日にかかっている。
紅葉は地へと散り、鎮守府から見える山々から色が失せ、ずいぶんと寂しいものとなった。細々とした枝は吹きすさぶ風に揺らされ、蝶のごとく落ち葉が舞う。
冬への移ろいが、景色から伺えた。鎮守府では、夏服から冬服への衣替えが、思い出したかのようにおこなわれ、みんな嬉しそうに顔を綻ばせていた。海沿いにある鎮守府は、風の影響を直に受ける。そのため、体感気温が内地よりも圧倒的に低いのだ。彼女たちの喜びに共感はできないが、理解はできた。
地獄の中に、ささやかな幸福が咲く。それは、晩秋に顔を見せた穏やかな花であった。だが、鎮守府にこれから吹き荒れる暴風によって、ほんの一瞬で花弁を散らせることとなりそうだが。
その風が音を立て始めたのは、十一月下旬の某日のことである。この日、ついに呉提督一行が南鎮守府へと訪問することとなったのだ。
私たちは全員、出迎えのために正門前へと召集させられた。本館へと続く道を囲うように、私たちは列をつくった。随分と大げさであるが、訪問する相手は南提督の実父であり、海軍で三番目に偉い人物である。
遠征隊のみんなは、誰一人落ち着かない様子だ。何度も正門の方へ目を向けたり、こっそりと手をこすり合わせたりしている。一応これも任務だから、直立不動でいなければならないのだが、習性といってもいいほどに身に着いたはずのその決まりを、誰も守っていない。横にいる谷風はスカートでしきりに手汗を拭い、唾が溢れるのか、何度か喉を鳴らしていた。
正面、つまり向かい側には出撃部隊の先輩たちが立っている。さすがというべきか、緊張に肩を強張らせていたものの、しっかりと前を向き、背筋を伸ばしていた。誰も私へと一瞥もくれなかったが、空母の先輩とだけ一瞬目線が繋がった。
――いよいよね。
厳しく細められた目が、言外に告げた。私はわずかに頷く。
そう、今日この日こそ、温め続けた『計画』を実行に移すときだった。私たちは自身の運命を左右するほどの分岐路に立っている。そのことを、ここにいるほとんどの人間が知らない。
私は視線を走らせ、道の真ん中に立っている南提督を睨んだ。私の敵意には一切気付かず、ギャンブルで有り金全てを失ったかのような、青ざめた顔をして地面を見つめている。憐れみでも誘おうとしているのだろうか。切羽詰まったその表情は、ただただ軽蔑の念しか湧かせない。人を失望させることにかけて、このクズの右に出るものはいないだろう。
ややあって、正門の鉄格子が重たい音を立てながら開かれた。そして、用水路から飛び出す鯉のごとき優雅な動きで、三台の黒塗りの車が入ってきた。
南提督が、はっと顔を上げる。
車は、南提督の目の前で綺麗に止まった。
瞬間、私たちは示し合わせたかのようなタイミングで敬礼する。地面を蹴る音が静寂に満ちた空気を叩く。
前方から一台目と三台目の車から、軍服を着た男たちが数人と、精悍な顔つきをした女性たちが現れた。間違いなく呉鎮守府の艦娘であろう。その中の一人が中央の車に近づいて、丁寧な動作でドアを開いた。
そこから、一人の老人がゆったりとした動作で降りてきた。杖をつき、背中を丸めているせいか、とても小柄に見える。だが、皺の刻まれた顔は貫録に満ちており、精悍だ。身を包む白い軍服には、豪奢なモールが襷のようにかかり、金色の威光を放っている。
間違いない。この老人こそ呉提督だ。
なんという凄まじい存在感であろうか。まるで、巨大な惑星だ。この場の重力を一人で奪い取っているかのようである。相対する南提督の顔に、とめどなく汗が流れていた。
戦々恐々と、南提督は挨拶をした。
南「ち、父上……お久しぶりでございます」
呉「二週間前に本部で会ったばかりだがな」
辛辣な言葉であった。南提督は顔を引きつらせる。
しばし息子を睨み付けていた呉提督は、感情を抑え込むように、ゆっくりと息をついた。
呉「……まあ、出迎えご苦労とだけ言っておこう。それ以外には、今、貴様に対して話すことは何もない。さっさと修練場に案内しろ」
南「は、はっ!」
南提督は仰々しく声を張り上げ、「こちらでございます」と手を前へ突き出し、歩き始めた。
その後ろに呉提督とその一行が黙々と続き、最後に私たちが付いて行った。こうして大勢で列をなして歩くのは、養成学校での行進以来、半年ぶりではなかろうか。これほど緊迫感に包まれた行進は初めてだ。
私は、呉一行の背中を見つめる。呉提督は、石垣のように固まって歩く従兵たちに阻まれて見えない。男たちの肉壁には興味がないので、私は呉の艦娘たちへ視線を移した。
全員、知っている。有名な艦娘たちの特徴は、把握済みだ。高速戦艦の比叡さん、軽空母の隼鷹さん、高雄型重巡洋艦の鳥海さんと摩耶さん、朝潮型駆逐艦の霞さん、夕雲型駆逐艦の朝霜さん……。呉の『第二艦隊』のメンバーである。秘書艦の飛龍さんはいない。
第二艦隊を連れてきた理由は、鎮守府防衛に戦力を置いておくためと、単純に手加減のためであろう。呉提督が、第一艦隊では勝負にならないと判断したのである。それはまったくもって正解だ。しかし、第二艦隊も並の鎮守府の第一艦隊以上の戦力であるから、こちらの敗色が濃厚であることに、なんら変わりはないが。
しかし、それでいい。『最初』は、南提督が指揮を執っているときは、負けてもらわねばならない。それも、かなり無様な形でだ。
問題は、その後の『二回目』なのだ。それを考慮に入れると、最精鋭を連れてこなかったのは、こちらとしては都合がいい。
谷風「呉提督、怖えな……」
谷風が小声で話しかけてきた。私は小さく微笑んで見せる。
浜風「かなり、威厳に満ちていますよね。あんなに迫力のあるご老体、初めて見ました」
谷風「そういう割に、ずいぶん余裕そうだな。緊張しねえの?」
浜風「してますよ。ただ、私は人よりも分かりにくいだけです」
緊張など別にしていないが、常よりも意識が尖っているのは確かだ。今日、すべてが決すると言っても過言ではないのだから。
谷風「ときどき、浜風が羨ましくなるな。谷風さんは逆に顔に出やすいからさ……。こういうときに動じない心が欲しいぜ。身体、変えっこしねえ?」
谷風の冗談に失笑が零れそうになったが、肩を竦めて取り繕う。変えられるものなら、是非とも変えてやりたい。そうすれば、この無駄な二つの脂肪とも、沈黙の疫病神ともおさらばできる。
浜風「こういうときに冗談はよしてくださいよ、まったくもう」
谷風「わりいわりい。ガチガチになってっからさ、少しでも解したくて。まあ、谷風さんは、別にやるわけじゃねえんだけど……」
浜風「……」
私は答えなかった。
彼女は『計画』について何も知らない。だからこそ、知らず知らずのうちに、『計画』の当事者にさせられているなんて、夢にも思わないだろう。
それもそのはず、私はあえて谷風には何も教えていないのだ。
谷風「相手、すげえつええんだろうなぁ。先輩たち大丈夫かね……」
谷風は心配そうな眼差しを、前を歩く先輩たちに向けた。
浜風「大丈夫ですよ」
根拠が十分とは言えないくせに、私は自信満々に言ってみせる。
ここからは、ギャンブルだ。だが、だからこそ、堂々と構えていた方がいい。変に不安がってみせても谷風を動揺させるだけだし、そうした弱気は、時機を捉えるときに妨げとしかならない。
準備は周到にしたのだ。後は、信じよう。
浜風「絶対に、上手くいきますから」
修練場は、通常、鎮守府の港からやや沖合の海が指定される。その条件は深海棲艦が出現せず、定期的に巡回がおこなわれる安全な範囲である。つまりは、鎮守府の防衛上の管轄海域だ。ただ、深海棲艦が出現しないといっても例外はあって、潜水艦が待ち伏せをしている可能性がなくはないから、頻繁に対潜掃討をおこなうことが義務付けられている。
二重、三重に安全が保障された場所で、私たちは演習をおこなうわけだ。
「これより三十分後、一二〇〇に演習を開始します。ルールの確認ですが、時間制限は三十分、初期位置は中点より半径二海浬、使用弾薬はペイント弾および炸薬を抜いた魚雷です。魚雷は、審判が雷跡から被弾したかどうかの判断をおこなうこととします。被弾判定の詳細につきましては、お手元の資料をご覧ください。まず――」
修練場すぐ近くの港で、元秘書艦が緊張に声を震わせながら、説明を行っている。それを取り囲う呉鎮守府と南鎮守府の人員たちは、真剣な面持ちで話を聞いていた。
私は、手元の資料には目を落とさなかった。内容についてすでに知っているからだ。基本的な演習のルールであり、特筆すべき点もない。
それに、大して参考にもならない。
これはあくまで、ペイント弾による演習のルールでしかないからだ。
「――説明は以上です。何かご質問などございますか?」
周囲を見回しながら、元秘書艦が訊ねる。誰も挙手をするなどの反応を示さなかった。
「それでは、これで説明を終わります。開始時刻までに、各員十分な用意をしていただけますと幸いです。――解散」
その一言で、各自解散、自分の陣営に戻り、準備に取り掛かった。
私たち遠征隊のように、参加しない者たちは、審判員(呉提督が連れてきた軍人たち)の後ろから、観戦することを許されていた。私は列の前方を陣取った。ここから遠巻きに、呉鎮守府と南鎮守府双方の出撃部隊の様子を伺う。
まず、我らが陣営では、南提督が全員を集めて何やら話しているようだった。声は聞こえないが、内容は大体察しがつく。おそらく失態の無いように全力をつくせ、とでも言っているに違いない。話を聞いている先輩たちの白け切った表情が言外に教えてくれた。
次に、対する呉提督陣営は、落ち着いた雰囲気だった。まるで、これから日課の海軍体操でもするかのごとく、艦娘たちは余裕綽々、平然と振る舞っている。楽しそうに談笑しているほどだ。もうこの時点で、勝敗は分かってしまうのが、なんともつまらない。
私は小さく息をついて、陣営の奥で堂々と構える呉提督を見遣った。
油断ならない眼差しは、ずっと南提督を捉えている。愚かな息子が慌てふためく様を見て、彼は何を思うのだろうか。もし、その眼差しに、消えかけたかがり火に漂うわずかな火の粉のような、微かにくすぶる期待があるというなら、この演習で塵芥と帰すことを所望する。
そうこうしているうちに、時間となった。
艤装を身に付けた艦娘たちが、挨拶を交わし合い、海へと出る。
双方が配置についたところで、私は懐から折り畳み式の双眼鏡を取り出した。こちらから肉眼で捉えるには、少々距離があるからだ。呉提督や審判たち、その他の観客となった全員も、双眼鏡を構えた。
ひゅう、と潮風が吹き抜ける。重たい沈黙が、爽やかな港の空気を打ち壊し、徐々に緊迫したものへ変えていく。表情筋が自然と引き締まるのを感じた。
呉「始めい!」
呉提督が、無線機へと怒鳴った。無線を通し、艦娘たちへと開始が告げられる。
始まった。
堰を切ったように、艦娘たちは動いた。
まずは、航空戦からだ。ここで制空権を握れるかどうかで、戦いの優劣は決まる。隼鷹さんが巻物の紐を解き、飛行甲板を広げ、空母の先輩が弓をしならせる。
ほぼ同時に、発艦した。
結果は、予想通りであった。南鎮守府側の完敗だ。
単純な損害判定で見ても、こちらは全員が大破したのに比べ、呉鎮守府側は重巡洋艦一隻の中破以下、損害はゼロであった。言い訳のしようもないほど、圧倒的な負けである。試合内容についていうなら、それなりに見るべきところもなくはなかったものの、それでも見ていて気の毒になるくらい、酷いものであった。
最初の航空戦に関しては拮抗していた。制空権を取ることはできなかったものの、相手の優勢を阻止できたのだから。空母の先輩および、彼女の妖精たち、航空部隊が十分奮戦したといっていいだろう。
ただ、攻撃隊の数はこの時点でかなり減らされた挙句、敵艦隊上空に何とかたどり着けた僅かな生き残りも、ほとんどが防空巡洋艦である摩耶さんの手によって撃墜されてしまった(対空砲によるものは判定となる)。航空戦で上がった遠征部隊の歓喜の声が、一瞬で消え去るほどの、目を瞠る対空能力であった。厳密には、このときに制空権を握られたと言えるかもしれない。
対する隼鷹さんの攻撃隊は、悠々と艦隊に襲い掛かり、対空砲火の合間を縫い、爆撃と雷撃を見舞った。これによって、重巡洋艦が二隻大破判定を受け、落伍してしまった。
この時点で、三分の一がやられたのである。しかし、先輩たちの動揺は最低限であった。これほどの差を見せつけられたのに関わらず、だ。今まで重ね続けた地獄の日々が、彼女たちに不屈の闘志を宿らせたのであろう。すぐに、次の砲撃戦に備えて、体勢を立て直そうと尽力していた。
だが、そんな彼女たちの足を、南提督が引っ張った。彼は無線で艦隊に指示を出していたが、航空攻撃の損害に動揺してしまったようで、速やかに次の指揮を出さねばならないのに、まごついていた。
南提督から指揮が来ないことに痺れを切らしたのか、空母の先輩が代わりに指示を出した。艦隊は隼鷹さんの第二次攻撃も視野に入れ、輪形陣から複縦陣を形成した。悪くはない判断だ。
しかし、若干、立て直しが遅かった。
隼鷹さんの第二次攻撃隊よりも先に、朝霜さんと霞さんが切り込んできたのである。なんという機動力か。魚雷の有効射程圏に入った彼女たちは次々と魚雷を放ち、すばやく煙幕を張って反転。一撃離脱をはかってきた。
これをなんとかかわした先輩たちだったが、立て直した体勢は崩されてしまった。そこへ、今度は摩耶さんと鳥海さんが煙幕を切るように現れ、砲雷撃を打ち込んできた。石を穿つ雷のごとき轟音が、幾重にも幾重にも空気を揺さぶる。絶え間なくおこなわれた第二波は、艦隊に混乱を呼び、反撃の暇を奪い、防戦一方に追い込んだ。
先輩たちが苦し紛れに主砲を唸らせた。が、一切当たらなかった。摩耶さんと鳥海さんは抜群のコンビネーションで攻撃と回避をして、先輩たちを翻弄。思わず舌を巻くほどの巧妙さで、動きを抑えにかかったのだ。彼女たちの主目的は、艦隊の撃滅というより、空母の先輩に第二次攻撃隊を出させないことだろう。
次へ、繋げるための一手だ。摩耶さんたちの妨害が、ようやく終わったかと思った。その瞬間、一寸の隙も無く隼鷹さんの第二次攻撃隊が到着した。
再び襲い来る、爆撃の嵐と銃撃の雨。しかし、それだけでは済まなかった。
比叡さんの主砲が、同時に火を噴いたのだ。それに合わせる形で反転した朝霜さんたちと、摩耶さんたちも、攻撃を再開した。この日最大の音の暴力に、観客席にいた何人かが悲鳴を上げた。その声も、瞬時に掻き消えてしまう。
これが、ペイント弾による演習であることを思わず忘れるほど、凄惨すぎる試合展開だ。あまりにも……あまりにも容赦がない。
呉提督の怒りが、形となって表れているのではないか。比叡さんたちは、怒り狂う主神の鉄槌を代理として下す死神だ。そう、思えてならない。
赤、緑、黒、様々な彩をもった水柱が林立した。先輩たちの姿が見えなくなる。潮風に含まれた水気が増し、まるで霧の中にいるようであった。
すべてが終わったかに思えた。観客席は絶望に静まり返っていた。
比叡さんも勝利を確信したのであろう。口を動かし、仲間に連絡を取っている。声は聞こえなかったが、「撃ち方やめ」の指示を出したことは分かった。少々撃ち過ぎてしまったのだ。これでは、視界が塞がれて、審判側が判定をおこなえない。そのための攻撃中止でもあった。
が、彼女たちのその判断は、正着とは言い難いものであった。戦いは、まだ終わってなどいなかったのだから。
轟音。摩耶さんのすぐ傍に、天を衝くような巨大な水柱が上がった。不意打ちを食らった摩耶さんは驚愕したようであったが、すぐに退避行動をとった。しかし、上半身に所々赤い塗料が付着している。
これが唯一の被弾であり、判定は中破だったが、まだこの時、審判は判定を下さなかった。攻撃をしたのは水柱の規模からみても、間違いなく元秘書艦である。彼女の被害状況がまだ分かっていない以上、判定をするわけにはいかなかったのだろう。元秘書艦が大破だった場合、反則となるからだ。
いくつかの砲声とともに、比叡さんたちの近くで爆発が起こり、水が散ったが、命中弾は一つもなかった。
徐々に霧が晴れ、明滅を繰り返している炎光が見え、先輩たちの姿が鮮明になっていく。四つの影は、色を成した。現れた彼女たちは、ひどく汚れていた。しかし、元秘書艦と空母の先輩は、比較的汚れが少ない。審判は二隻に大破判定を言い渡し、元秘書艦と空母の先輩に対しては、中破を無線で知らせた。
それを聞いた瞬間、彼女たちは雄たけびを上げて、やけを起こしたように突撃した。
しかし、やけに見えても、この行動は間違いではなかった。これほど接近を許し、戦力差が開いた以上、もはや取る手は突撃しかない。
南「馬鹿者! 下がれ、下がらんか! いったん引いて単縦陣を形成するんだ!」
南提督が脂汗だらけの顔を歪ませて叫んだ。
馬鹿はお前だ。二隻しかいないのに、どうやって陣形をとるというのか。それに後退しても、先輩たちより遥かに足の速い駆逐艦に追いつかれ、雷撃をかまされてしまうのがオチだ。
この指示を、彼女たちは当然のごとく無視した。
疾駆しながら、二人は鉾と盾、それぞれの役割に徹する。空母の先輩が元秘書艦を庇うように前に立ち、元秘書艦がひたすらに砲撃を放つ。中破になった以上、空母は艦載機を出せない。盾になるしかなかったのだ。
ああ、そうか。
彼女たちも賭けたのだろう。被弾箇所が少なかったことを鑑み、審判が大破判定を下さないことを信じて、攻撃をしかけたのだ。どんな手段を使おうと、少しでも抵抗して、一隻でも多く道ずれにしてやろうという、戦士の執念を見せたのである。
これに関して、彼女たちを責める気にはなれなかった。
持てる力のすべてをぶつけるつもりで、戦ってほしい――。
私は、『計画』について語った日、先輩たちにそうお願いしていた。彼女たちは、それに従って全力を尽くしただけのことである。無様な敗北を目指しているといっても、できる限り飾りつけ、演出しなければならない。『南提督』のせいで負けたのだと、少しでも見えるように、だ。
彼我の戦力差など、呉提督も分かり切っているであろう。彼は、こちらが勝利する可能性など欠片も眼中にない。こちらの出撃部隊がどれだけ善戦できるのか、また自分の息子がどのような指揮をとるのか、彼の興味はこの二点にこそあるはずだ。
後者は、期待通り南提督が自爆してくれた。後は彼女たちの頑張り次第で、この演習に対する呉提督の印象が変わる。
が、先輩たちの抵抗も一瞬で鎮圧された。
突貫してくる彼女たちに対し、比叡さんたちはあくまで冷静であった。退避に見せかけて散会し、追い込み漁でもするかのような鮮やかな動きで、二人を包囲したのだ。そのまま無表情に攻撃態勢に入った。虹色の爆発が、彼女たちの間で巻き起こる。聞こえるはずもない、彼女たちの慟哭が聞こえた気がした。
もはや、審判の判断を待つまでもない。
私は眼を閉じて、損な役回りを演じてくれた彼女たちに謝罪の念を思う。ごめんなさい、そしてありがとう。
あなたたちは、十分すぎるほどに役割を果たし、舞台に彩を与えてくれた。結果は無様でも、上出来だ。
次は、私が賭けをする番である。
演習が終了した後は、通常だと反省会に移行するのが慣例である。試合を通して得た経験や知見を議論することによって、問題点や課題を洗い出すためだ。
これこそが演習の最大の目的であると言っても過言ではない。これを行わなければ、演習はただの艦隊の展覧会になってしまう。つまり、互いの艦隊の練度を誇示し合うだけの形骸化したものとなり、有用性がほぼ消失する。
だから、当然流れとして試合の後は反省会になり、呉鎮守府側から相応のアドバイスや叱責を頂けるはずなのだが……。
呉「……」
椅子に腰掛ける呉提督は、杖に額を乗せて深く瞑目していた。
南「……」
その正面には南提督が立っている。真っ青を通り越し死人のように白い顔で、沈黙を守った呉提督を見つめている。朝の出迎えのときよりも、ずっと深刻な様子であった。
二人はどちらも一向に喋ろうとはしない。まるで言葉を発すれば死ぬと思っているかのようである。
この鋭いほどの静寂に、修練場の空気は凍てついていた。
呉鎮守府の人員は、艦娘も兵隊たちも、知り合いの犯罪行為を偶然目撃したときのように気まずげな表情をしている。『計画』を知らない遠征隊のみんなも似たような感じだ。オロオロと周囲を伺ったりして、とにかく落ち着きがない。
対する出撃部隊はこの事態を予測していたためか、冷静な様子である。感情のこもっていない瞳で二人を伺っていた。
明らかにこれから反省会をおこなう雰囲気ではなかった。それもそのはず、これから開催されるのは弾劾裁判なのだ。修練場は裁判所と化し、失態を犯した被告人への判決が鬼の老将より下される。
果たして有罪となり制裁が下るか、無罪放免となるか――。
一つ目の賭けとは、この判決の行方を指していた。
演習での南提督の失態を呉提督がどう受け止めるのか。これまで集めた呉提督の情報を分析して、十中八九上手くいくだろうとは思っていた。しかし、土壇場になって呉提督の心の振り子が私の望む方向に揺れ動いてくれるとは限らない。
彼は、優れた将校であると同時に父親なのだ。ときに人間は理よりも感情でものを見ることがある。我が子可愛さに情が働いて、この失態を見逃してしまう可能性もゼロではないのだ。
情愛ゆえの盲目に陥る。私には経験がないことだが、さんざん人の感情というものを学んできたから、その可能性も馬鹿にすることはできなかった。
しかしその上で、私は呉提督の将としての器と慧眼に賭けた。情愛を無視して、正しい選択をしてくれることを信じたのである。
呉「……今回の演習を実施して、よく分かった」
呉提督が重い口を開いた。その低い声はとくに大きく張り上げられたものでもないくせに、鼓膜に突き刺さるような鋭さが込められている。
南「……」
呉「貴様に……貴様に、指揮官としての才能が一切ないことにな」
雷に打たれたかのような衝撃があったのだろう。南提督が狼狽もあらわに目を見開いた。
私は内心でほくそ笑む。最初の賭けが成功したことを悟ったからだ。
呉「これほどまでに酷い試合は初めて見た。艦娘どもの未熟さはともかく、指揮があまりにもお粗末に過ぎる。……なんだあれは? 統制がまったく取れていないどころか、なに一つ有効な指示を出せていなかったではないか」
淡々と酷評する呉提督の声は深い失望の念で沈んでいる。首を動かし、南提督を光のない瞳で見た。虚ろな、価値のない石ころでも見るかのような目だ。
南提督はその視線から逃れるように下を向いた。
呉「まるで、幼子のようにオロオロオロオロと……。みっともないことこの上なかったぞ。『いかなるときも臆せず、寛容であれ』という我が教えを忘れたか? 我が家のものとして……いや、それ以前に海軍軍人としてあるまじき振る舞いだ。私は恥ずかしい。こんな情けないやつが後継だというのだからな」
ご先祖様に顔向けできんわ。呉提督はそう言って、懐から葉巻を取り出した。
隼鷹「おい、提督……」
呉「捨て置け。別に構わんだろ」
TPOを気にしたのか、隼鷹さんは眉根を寄せながら喫煙を諌めようとした。が、呉提督は冷たくあしらって葉巻を口にくわえた。取り巻きのものが慌てて駆け寄り、ライターで火をつけると、彼は心に生じた空白を煙で埋めるように大きく吸う。紫煙がゆるゆると立ち昇り、みるみるうちに葉巻が灰へと変わっていった。
南「……お言葉、ですが」
南提督が唇を戦慄かせながら、絞り出すように言った。
呉「……」
南「お言葉ですが、父上。……先ほどの試合は、私の部下どもが能無しであったことが、敗因だと思うのです」
馬鹿もここまで極まると逆に清々しい。
隣に立っている空母の先輩が、歯が砕け散るのではないかと思えるほど激しい歯軋りを鳴らした。出撃部隊の間に剣呑な空気が漂う。一方、呉鎮守府側の人員たちは、南提督の責任転嫁があまりにも酷かったせいか唖然としていた。
呉提督が小刻みに震える手で葉巻を掴んだ。口から真っ白な煙を濛々と吐き出す様が、噴火する直前の火山のようである。みるみるうちに額に青筋が浮かび上がっていくのが、遠くからでも分かった。
南「もし、部下どもが最初の航空戦で不覚を取っていなかったのなら、私も」
呉「この痴れ者が!!」
言い訳を続けようとした南提督に、ついに老将は怒りを爆発させた。火のついた葉巻を南提督の顔に全力で叩きつける。それをマトモに受けた南提督は、小さく悲鳴を上げてたたらを踏んだ。顔を手で抑え、驚愕に目を見開く。
南「ち、父上いきなり何を!」
呉「黙れ! 自らの失態を部下のせいにするなど……! 貴様には最低限の矜持さえないようだな!」
南「ぐっ……。で、ですが、私の部下が無能なのは事実です! 父上も……それをお認めになっているではありませんか!」
呉「たしかに貴様の艦隊の未熟さには言及したぞ! だがな、それはあくまで『我が艦隊と比べて』の話だ! まだまだ動きに無駄が多かったのは事実だが、指揮系統の乱れに動揺を見せなかったことや、所々で見受けられた豪胆さは一見に値するものではあった! あの練度であれば、南西海域の攻略もさして労せずに達成できるだろう!」
愚かな反論を寄越した息子を噛み殺さんばかりの勢いで捲し立てる。あまりにも腸が煮え繰り返っているのか、声を荒げただけでは怒りの発散が難しいようで、杖を振り回し乱暴に地面を叩いた。
呉「先刻の試合も指揮さえ正着だったなら、もう少し拮抗していたはずだ! そう、指揮さえ正着だったならな! どう見ても、あれは貴様の失態だろうが! 無能は部下ではなく貴様だ!」
あまりにも容赦のない批評に、南提督は反駁しようとしたのだろう。口を何度か開けたが、言葉が出てこないようで、悔しげに下唇を噛んで押し黙った。
屈辱に耐えるように肩を震わせている。憎たらしさしかないキツネ目の端に光るものが溜まっており、最高にみっともない。口元を手で隠さないと、もう耐えられなかった。
ああ、あのクズにしてはなかなか愉快なものを観せてくれるではないか。これが笑わずにいられるはずがない。さんざん煮え湯を飲まされ続けてきた、殺してやりたいくらい憎い奴が、公衆の面前で屈辱の極みを味わっている。シャーデンフロイデの毒というものが、血液という血液に溶け込んで、痺れを伴う快楽を全身に巡らせているかのようだ。
横を見やると、空母の先輩が口裂け女かと思うほど口を吊り上げて露骨に笑っていた。気持ちはわかるのだが、どうか堪えて欲しい。まだ、本当に面白いものはこの先に待っているのだから――。
南提督が黙ったのも御構い無しに、呉提督の嗄れた怒声が矢継ぎ早に飛ぶ。試合の細かい酷評、指揮官としていかに無能なのかの説明、そして先日の本部での件に至るまで、かれこれ十数分は憤激を吐き出していただろうか。まるで、機銃を叩き込まれ、錐揉みしながら堕ちていく戦闘機のように、南提督はどんどんプライドを打ち壊され、肩を落としていった。
痛いところを突かれすぎて、完全に自信喪失した様子の南提督。彼への追及はまだ止まないかに見えた。
が、呉提督はその途中で唐突に咳き込み始めた。声を張り上げ続けたせいであろうか? 隼鷹さんが飛ぶような勢いで駆け寄り、丸まった小さな背中を労わるように撫でた。
隼鷹「提督、あんま無茶すんなよ……! 気持ちは分かるけどさ」
呉「……はぁ、はぁ。……この、この愚か者めがあ」
隼鷹「とりあえず落ち着けよ、なあ。もう、充分に言いたいことも言っただろ? ……ちょっとは自分の身体のこと考えようぜ」
穏やかな笑顔を作りながら宥める隼鷹さんは、どこかこうした事態に慣れているように見えた。もしかすると、呉提督と付き合いが長くて、彼が憤怒を露わにしたたびに調整役を務めていたのかもしれない。隼鷹さんがいくつか言葉をかけると、呉提督はゆっくりとだが落ち着きを見せ始めた。
しばし、静謐な時間が訪れた。ここにいるほとんどのものが、重石を背負ったかのような苦々しい顔を浮かべている。海鳥の甲高い声がときおり穏やかな潮騒に被さり、優しい音の調和を奏でていたが、しかしまったく空気を和ませてはくれない。みんなはきっと、段々と安らいでいく呉提督の荒い呼吸音しか耳に入っていないはずだ。
呉「……南の秘書艦よ」
息を整えた呉提督が、若干の疲れを滲ませながら言った。
一瞬、私が呼ばれたのかと思って、反射的に返事をしそうになった。が、便宜上この鎮守府の秘書は元秘書艦となっていることを思い出し、すんでのところで留まった。
元秘書艦も、一瞬自分が呼ばれたとは思っていなかったのかぽかんとしていた。
呉「聞いているのか、秘書艦」
「は、はい!」
やや語調を強めた呉提督に、元秘書艦は慌てて返した。
呉「……お前にいくつか聞きたいことがある」
「な、なんでしょうか?」
呉「まず、なぜ嘘をついた?」
「えっと……」
呉「飛龍への報告のことだ。あやつから聞いた話とはずいぶん違うからな。貴様らが不出来なせいで攻略が難航し、それゆえに息子は追い詰められてしまった……という話だったはずだ。どう見ても、その逆ではないか。なぜお前たち自らが汚名を被る真似をしてまで、そんな嘘をつく必要があった?」
呉提督がこの件について尋ねてくることは予想の範疇であった。報告と事実が丸っきり違うのだから、疑念を抱くのは当然の帰結といえるだろう。
ちらりと、元秘書艦がこちらに視線を向けてきた。その瞳は灯火のように頼りなく揺れている。ゆっくりと頷いてやると、覚悟を決めたように唇を噛み締めて、呉提督に向き直った。
「……呉大将に、この鎮守府の本当の問題を知っていただくためです。そのために、私たちは嘘をついてでも、演習をお受けしていただく必要がありました」
呉「本当の問題」
眉をひそめる呉提督。
「ええ……」
秘書艦は言いにくそうに答えて、恐る恐る南提督を伺った。話についていけないからだろう、南提督は白痴のごとく口を開いて呆然としていた。
呉「……なるほどなあ。そうかそうか、そういうことか」
どうやら大凡の事情が飲み込めたらしい。彼はシワだらけの顔を歪め、不気味な笑い声を上げる。冷静沈着で知られる稀代の老将のそうした姿を今までで見たことがなかったためか、呉の人員たちは表情を強張らせていた。
呉「たしかに、これは問題だなあ……。ああ、誇り高き○○家始まって以来の惨事なのは間違いない。くくく、知らず知らずのうちに私は狸の子供でも育てていたのかもしれん……。そうだ、そうに決まっている」
額に手を当てて考える像のように俯くと、深い深い絶望の息を溢した。苦悩に沈んだ老将の姿は、悲哀を誘うには十分すぎて、少しだけ同情の念が湧いて出てくる。
南「おい秘書艦! 一体何の話をしているんだ! 説明せよ!」
ようやく我に返った南提督が高圧的な態度で迫った。だが、元秘書艦は目を逸らして答えようとしない。
南提督は怒りに鼻の穴を膨らませ、さらに詰め寄ろうとした。が、「次に訊くが」という静かな声が、彼の足を止めさせた。
呉「今までこの鎮守府の指導は、本当に息子がおこなっていたのか?」
南「――」
南提督の表情が凍りついた。
呉「ずっと、妙だと思っていた。息子の鎮守府の報告に目を通すたび、引っかかるものを感じていたんだ。海域攻略に苦心しながら、一方では資源献上量が急激に伸びたり、艦娘どもの轟沈率が下がったりしていただろう。不自然なほどにな。……そう、そういえば『捨て艦』をおこなった時期もおかしかった。出撃回数は十を超えていたはずなのに、囮となった駆逐艦は一隻のみだという。信じられないことに、駆逐艦を轟沈させていないのだ。そのような繊細緻密なる指揮、並み以上の技量をもつ将であろうと到底不可能だ。ましてや、息子になどこなせるはずがない」
呉提督は一旦言葉を切った。
呉「ともかく、それらの情報を読み取っていくと最悪な可能性に思い当たってしまった。……息子の代わりに指揮を執っているものの存在だ。息子が胡座をかいて、肝心な手柄だけ掠め取っているのだと考えればすべてに納得がいくからな。だが……だが、私は息子を疑いたくはなかったのだ。だから、その可能性については最後まで否定しようと努めていた。しかし」
――今回の醜態を見て、そう思わざるをえなくなった。
そう言葉を紡いだ老将の顔は冷たく、それでいて苦しげであった。
話を聞いていた南提督は石像のように固まり、元秘書艦も絶句していた。呉提督の考察がほぼ正鵠を射たものであったからだ。
私も彼の洞察力に舌を巻く。事件となって仔細な調査がおこなわれた『捨て艦』の件はともかく、上層部に届く鎮守府の情報はほとんどが数字などの上辺のデータであり、内情について詳細に触れているとは言い難いものだ。だのに、よくもここまで推察できたものである。やはり南のような能無しとは格が違うらしい。
さすがは『神算鬼謀の将』。説明を弄する手間が省けて助かる。
呉「それで、どうなのだ? 答えよ秘書艦」
「それは……あの……」
私は前に出てて、答えあぐねた元秘書艦の肩に手を置いた。振り返った彼女の表情は強張っていたので、気休め程度にでも安心させてやろうと微笑んであげた。固さはほとんど取れなかったが、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
ここから先は私の仕事である。
浜風「私です」
私は敬礼しながら言った。
呉「……なに?」
浜風「僭越ながら自己紹介させていただきます。私は陽炎型駆逐艦『浜風』と申すものです。閣下の仰るとおり、この鎮守府の運営の一部は南提督以外が指導をおこなっていました。それが、この私です」
南「貴様! 駆逐艦の分際で」
呉「黙っていろ」
呉提督が南提督の言葉を遮って告げる。
呉「貴様はこれから一言も喋るな。これは命令だ」
腐っても南提督は軍人である。軍人にとって上官の命令は朕の命令に等しいものだ。そう言われてしまっては、大人しく口を閉ざすほかないだろう。悔しげに顔を歪めて、私を睨んできた。呉提督から向けられる鬼のような眼光に比べれば、そんなもの取るに足らない。
呉「……ふざけているわけではあるまいな?」
浜風「はい。閣下の前でそのような大それた真似、できるはずがございません」
呉「……秘書艦」
「はっ!」
呉「本当なのか? 本当にこの小娘が指導をしていたと?」
「……浜風さんの言葉に間違いありません。遠征の運営、資材源の管理、攻略指揮の一部は、彼女が指導していました。恥ずかしながら本当のことを申し上げますと、この鎮守府の真の秘書艦は事実上彼女です。秘書の仕事も……ほとんど彼女がこなしていました」
呉「なんだと?」
呉提督は目を丸くした。
呉「では、今までお前が表では秘書として振る舞いながら、裏では小娘がすべての仕事を担っていたというのか。どうしてそんな馬鹿げたことになっておるんだ?」
浜風「南提督の命令です。私のような駆逐艦は社交の場では相応しくないとの判断で、こうなりました」
呉「……どこまでも」
口から出かけた言葉を飲み込んで、怒りを抑え込むように息を吐いた。
呉「……まあ、いい。信じ難い話ではあるが、お前が指導をおこなっていたのは本当であるらしいな。血相を変えた馬鹿者の顔を見ても、まず間違いあるまい。……浜風と言ったな。では、お前に尋ねる」
浜風「はい」
呉「貴様が配属されてから、この鎮守府であったことを洗いざらい全て説明しろ」
その命令を聞いた瞬間、電流のような快楽が私の中を突き抜けた。
「やめろっ!」
南提督が必死の形相で叫び、私に掴みかかろうと迫ってきた。呉提督が「捕らえろ比叡」と一声かけると、比叡さんが走り、目にも留まらぬ早業で南提督を捕らえてしまった。後手にとって、そのまま地面に叩きつける。
倒された南提督は呻き声を上げながらみっともなく暴れたが、常人を超える力を持った艦娘に捕まえられてはどうすることもできまい。地面をのたうちまわる姿が、干上がった大地に出てきたミミズのようで愉快だ。ああ、たまらない。
危うく、引き締めた表情が崩れそうになる。
臥薪嘗胆とはまさにこのことなのだろう。辛酸を舐め続けてきた日々が、ついに報われようとしている。
嗅ぎなれたはずの潮の香りが、どうしてか花のように芳しく思える。まだ、これからが本番であるというのに。もし、すべてが円滑に達成されたとしたら、私は一体どうなってしまうのか?
不安さえ付き纏う甘い快楽に突き動かされながら。
私は朗々と、この鎮守府であったことの顛末を語り始めた。
投下終了です。皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ゆっくりでも構いませんよー*\(^o^)/*
体調だけは気をつけてくださいね
ゆっくりでも構いませんよー*\(^o^)/*
体調だけは気をつけてくださいね
顛末を語るとは言っても、もちろん呉提督の命令どおりすべてを話すつもりはない。私は改革をおこなう中で、いくつか法的な面で危ない橋を渡っているからだ。それこそ、監獄に叩き込まれかねないことだってやっている。
その辺りを上手く隠しながら、いつも以上に慎重な説明をおこなった。喜悦に揺られて口の滑りはよいが、内心でブレーキを小刻みに踏み、余計なことを喋ってしまわないように気をつける。
呉提督は敵性音楽でも耳にするように厳しい顔つきを浮かべていた。胸中で渦巻くドス黒い怒りを堪えているのか、嫌な沈黙を保つ。絶えず周囲の緊張を集めながら凍り付いていく空気が、波の音すら耳から消した。
どのくらいの時間、話しただろうか。
最初は暴れていた南提督も、いつの間にか下を向いて動かなくなっていた。観念したらしい。肩が小刻みに震えている。そんな死にかけた芋虫みたいになった南提督へ、軽蔑に濁った無数の瞳が向けられていた。
浜風「――以上が、これまでの顛末です」
そう結んで、私はすべての説明を終えた。幸い呉提督からは怪しまれずに済んだ。言いようもない達成感を覚えながら、意気消沈と俯く老将を見つめる。
呉「……ご苦労。話は分かった」
呉提督は椅子に深く背中を預け、枯れた息を吐いた。
呉「思っていたよりもずいぶんと深刻だったようだな。規定数を超えた出撃と遠征、部下への行き過ぎた鉄拳制裁、それゆえに艦娘どもの多くが余裕を失い、あるいは精神状態を著しく減退させていたと……」
浜風「ええ」
呉「お前の示したデータと説明は、すべてにおいて的確で理にかなったものであった。まず間違いなくお前の話は真実であろう。……よくぞここまで問題を洗い出し、改善に導くことに成功したな。駆逐艦とは到底思えぬ才気と行動力に賛辞を送ろう」
浜風「はっ、身に余る光栄でございます」
呉「うむ、これからも誠心誠意努めるがよい」
呉提督は乾いた微笑みを浮かべ、私の返礼に応じてくれた。が、すぐに表情を引き締めて冷酷な瞳を息子へと向ける。
呉「それに比べて、貴様ときたら……」
南「……」
南提督は動かない。頭を下げて、父親の追及から少しでも逃れようとしている。その子供じみた態度が癪にさわったのか、呉提督は杖を地面に叩きつけた。
一驚を喫した南提督が顔を上げる。
呉「貴様の罪状は計り知れない。規定数違反から始まり、公文書の偽装、虚偽の報告、過剰な私的制裁、そして『捨て艦』……。軍法会議にかければ懲戒免職、いや牢獄行きだろう」
南「牢獄行き……」
さっと、南提督の顔がさらに青ざめた。
呉「大変なことをしてくれたな」
南「……」
呉「……とはいえ、私にも立場というものがある。佐世保と横須賀のガキの前でこれ以上恥を晒すわけにはいかん。できれば、穏便に済ませたい」
そう思うのは当然だろう。予想どおりの展開になりつつあった。
呉提督はこのまま目をつむろうとするはずだ。他の提督たちに知られない形でなんらかの私的制裁をくわえ、それでこの件を終わらせる。彼にはそれ以外に取れる手段がない。
しかしここで問題となるのは、その手段が現状の解消にはなりえても解決にはなりえないことである。厳罰を与え反省を促したところで、南提督が無能であることには変わりはない。だから、呉提督はどうにかして息子の能力を改善したいと考えるはずだ。
そこで、ある提案を持ちかける。南提督の指揮能力の不足を一気に補い、また彼の成長をも促せる魔法のような嘘。
私を、南提督の教育係に任命して欲しいという案だ。
こうすれば、自然と南提督の権利を私に移すことが可能となる。もちろん、それでも一部ではあるだろうが、最初はそれで問題ない。そもそも私は南提督を成長させる気なんてない。ゆっくりと少しずつ実権を奪い、私がいなければ鎮守府の運営が立ち行かなくなるところまで持っていく。遅効性の毒のごとく、肝臓癌のように、静かに侵食し支配する。
これから行なうのは、呉提督の説得だ。これを成功させることさえできれば、南鎮守府は夜明けを迎えるだろう。
私は大きく息を吸い、呉提督へと意見具申すべく口を開こうとした瞬間――
呉「――だが、それでもだ」
呉提督が、今までにないほど冷めた瞳を浮かべ、鉛のように重たい声を発した。
呉「貴様のやってきたことは、○○家のものとしての誇りを忘れた卑劣極まるものだ。絶対に見過ごすことはできん」
椅子を飛ばす勢いで立ち上がり、南提督へと近づいていった。ズンズンと踏みしめる足は、老人のそれではない。まるで鎧武者のような力強さに満ちていた。
呉「たとえ、私の名誉が地に堕ちようとな」
杖をくるりと半回転させ、持ち手の部分を掴むと、バイクのスロットルのように回した。
――カチリ。
乾いた音とともに、呉提督の背後から殺気がこぼれ出た。
まさか、呉提督は――。
浜風「待って――」
声をかける間も無く、白銀の閃光が空気を引き裂いた。刹那のことである。止めようなどなかった。
私はただ虚空に手を伸ばす。
杖から抜き放たれた仕込み刀、その切っ先が地面を叩いた瞬間、南提督の首がこぼれ落ちた。まるで木の実のようにあまりにもあっけなく。
凍りついたときが急速に収縮し、そして真っ赤に迸り、弾けた。血の濁流が呉提督を襲い、比叡さんを濡らし、私を湿らせた。鉄の匂いが混ざったそれは細い横振りの雨となって、この場の全てに赤の飛沫をぶつける。
「あ、え――」
誰の口からこぼれたか判然としない。暴力的な血の動乱からやや遅れて、この場にいる全員が事態を飲み込んだ。
「きゃああああっ!!」
悲鳴という名の雷鳴が轟いた。悲鳴がさらなる悲鳴を呼び、空気が破裂せんばかりの爆音が渦を巻く。鎮守府は阿鼻叫喚の地獄と化した。絶望的に破裂した空気の中で、私と、全身を朱に染めた呉提督と、ただの肉塊だけが沈黙を守り続けている。
呉「……」
光のない瞳が、切り離された頭と向かい合っていた。舌をだらしなくこぼし、上目を向いた息子はじっと見つめ返している。そこにはもはや生命の息吹はない。ただ、絶望的なほどの恐怖だけが凝り固まり、醜い肉として落ちているにすぎない。
呉「……すまんな」
その価値のない肉に、呉提督はぽそりと語りかける。当然返事はない。
ゆっくりと目を転じ、動転する比叡さんを見た。彼女は濡れた体を気色悪そうにさすっていたが、すぐに呉提督の視線に気づいて、顔を強張らせた。
不気味なほどに中身のない笑顔を浮かべると、呉提督は言った。
呉「すまんな、比叡。……汚してしまって」
比叡「い、いえ……。その、閣下……」
呉「なんだ?」
小首を傾げる呉提督に、比叡さんは息を飲むと視線を逸らした。
比叡「……なんでも、ありません」
呉「そうか……」
今度は、私に笑顔が向けられた。血染めにした福笑いのお面から見つめられている気分だった。いや、それよりももっと空虚で、枯れていて、気味が悪い。人の心を見透かすことに長けている私ですら、今の老将から本心を読み取ることができない。
思わず、足を後ろに動かしていた。
呉「浜風、すまなかった。……息子が迷惑をかけたな」
浜風「……」
答えることなどできようがない。あまりにも唐突な終わりと、あまりにも未知な悍ましさとが、私の意志とは無関係に唇を震わせていた。私の返事など期待していなかったのだろう、彼は壊れたラジオのように、ただただ謝罪を繰り返した。
呉「……すまなかったな、すまなかった」
一体何に対して謝っているのか。虚空に死んだ睨みを利かせる彼を見ながら思う。
分からない。分からないが……一つだけ、分かることがある。
私は、失敗したのだ。
終わりは唐突に訪れた。
真っ黒な夜の帳が降り切っている。白波の砕ける音が静寂に溶けた。
狂った外灯が明滅を起こして、ドス黒い血がこべりついた地面を、繰り返し繰り返し照らし出している。まるで私の愚かさと、それ以上に愚かな死の証を強調し、嘲っているかのようだ。闇と光が道化のように踊っている。
海風はやや鉄臭い匂いを運び、それを追いかけるように蠅が飛んで、私の頬を止まり木にした。ゴミが残した赤い廃汁の匂いにつられ、やってきたうちの一匹だ。
払うのも億劫だった。
そのうちまた血の海に口づけをしたいと思い直したのか、小刻みに羽を鳴らして飛び立つ。そして歓声を上げる大衆の中に混じり、気持ち悪い集合体の一部へ転じた。
この中で歓喜しているのは、羽虫たちだけだ。
浜風「……ふふっ」
ざまあみろ。虫けらに喜ばれるなんてお似合いの末路だ。
そう吐き捨てようとしても喉元で引っかかってしまう。言葉にしてしまえば、より惨めな気分になるとわかりきっているからだ。このわだかまりは言葉という形には変わらない。胸の中で汚泥として沈んでいる。
私は呉提督を侮りすぎていた。
将としての能力を十分に評価していながら、その器を軽んじていたのだ。彼は貴族である、ゆえに自身の保身を考えて行動するだろうと。それに、彼は合理主義者でもあった。捨て艦を危険視し、艦種で差別をせずに純粋な能力で人物評価を行うことからも、それは間違いない。霞さんや朝霜さんを第二艦隊として重用し、私の説明も合理性を十分に見た上で判断していた。
だからこそ、計画を叶える上で理想的だと思っていた。理にかなった説得をおこなえば、かならず条件をのんでくれる。貴族らしい合理性を発揮して保身に走ってくれる。そう、疑わなかった。
が、彼はどこまでも将であり、誇り高い貴族であった。今の帝国にはおそらく存在し得ない、本当の意味での矜持を背負った貴族――。南提督から受けた仕打ちや醜い海軍の権利争いについて調べる中で、そんなものはいないと確信し、鼻で笑っていた存在そのものだったのだ。
呉提督は、自身の保身を顧みず、貴族の誇りを貫く選択として――今後の遺恨を一切断ち切り『終わらせる』意味で――息子の処刑を選択した。これはこれで合理的な選択と言えるのではないか。今後家の歴史に塗られることになるであろう汚辱を、最小限で済ませるという点で。
あの不気味な笑いの意味は、すべてが終わってしまったゆえの絶望がもたらしたものであろう。南提督の死によって、家督を継ぐものはいなくなり、家の断絶は決定的になったのだ。そして、なにより息子を殺さねばならなくなった運命への呪わしさもあっただろう。どんなに不出来でも、許しがたい愚行を犯そうとも、息子は息子だ。父親としての痛みは相当なものであったに違いない。
呉提督を侮り、追い詰めすぎた。それが私の敗因だ。
この失敗の責任はすべて私にある。
浜風「……」
処刑からしばらくして、呉提督は改めて私たちに謝罪をした。海軍大将から謝られるなどあり得ないことだし、なによりショックから帰りきれない私たちは、返事をすることさえできなかった。
後始末はすべて私が済ませる。安心しろ。
呉提督はそう言い残し、南提督の死体を片付けると、呉一向とともに鎮守府に帰っていった。
死体は呉に持ち帰られた。残されてもこちらではどうすることもできないし、そうしていただく他ないが、それでもなんとも後味が悪い。突然提督が消滅した鎮守府は、困惑と恐怖をそのままに置き去りにされて、混乱の極みに達していた。
それをなんとか収束させ、ようやく落ち着きを取り戻したころには、すでに夜中であった。夜の静けさと空虚さが鎮守府を不気味に包んだ。
寝れるはずもない。部屋でじっとしているのも耐えきれず、処刑の跡地を訪れて、一人自嘲の笑みを浮かべていた。
波の砕ける音がやけに響いた。車が路面の水溜りを弾き飛ばすように、海水が地面を濡らしているらしい。
いつの間にか、満潮になろうとしている。
「ここにいたのね」
空母の先輩の声だ。気だるく後ろを振り返ってみると、眉根を下げた白い顔が夜に浮かんでいた。
浜風「……どうかしましたか? まさか、また過呼吸になった子でもいたのでしょうか」
「ううん、そういうのじゃないから心配しないで。みんな大人しくしているわ」
吊り上がった頬肉はややぎこちない。あんなことがあった後だ。明かりを落としてはいるものの、鎮守府はまだ眠りにつけてはいない。
「寝れなくてちょっとね……。浜風さんの部屋に行こうと思って部屋に行ってみたらいなかったからさ。どこにいるかなって探してたのよ」
浜風「私に何の用ですか?」
「ちょっと、話をしたくて。このままじゃどうせ寝れそうにないし、話し相手が欲しかったの」
浜風「……申し訳ありませんが、今はあまり人と話したい気分じゃないんです。後日にしていただくことはできますか?」
少々冷たい言い方をすると、先輩の斜めに向いた上瞼が横向きに倒れ、萎びれた草のようになった。
「だよね……。ごめんなさい。どうしても落ち着かなくてつい」
浜風「こちらこそ、すいません」
地面へとふたたび視線を戻した。
飛び回る虫が秒針代わりに音を立てている。靴擦れ一つ聞こえない。背後から先輩が遠ざかる気配はまったくなかった。
「浜風さん、あのさ……。今は話したくないだろうけど聞いて欲しいの」
先輩が意を決したように口を開いた。私は返事をしなかった。
「あのクズ野郎が呉大将に処刑されて良かったって思うの、私。あいつは死んで当然みたいなどうしようもない奴だし……」
浜風「……」
「計画に沿うなら、たしかに傀儡化した方が良かったかもしれない。でも、その本懐は『南提督の実権が及ばなくなる』ことにあったはずよ。そういう点では、失敗していないと思う」
浜風「失敗ですよ。あいつに死なれたら困るんですから。その場合どうなるか説明しましたよね?」
「それは……」
言葉に詰まった先輩には構わず言う。
浜風「これから新しい提督が着任することになります。その提督によっては、私が今までおこなってきたことがすべて台無しにされるかもしれない。そうなってしまっては意味がないから、あいつには人形になってもらわなくちゃいけなかったんです」
そして私の汚らわしい欲と、復讐のためにも。
浜風「はははは……。それなのに、まさか殺されてしまうなんて……。さんざん耐え抜いて耐え抜いて耐え抜いてきた結果が、これ。こんな馬鹿馬鹿しいことが他にありますか?」
笑いが止まらない。
浜風「策士策に溺れる。まさにこのことを言うのでしょうね。自分の迂闊さが可笑しくて可笑しくてたまりません。……どうして良く知りもしないはずの呉提督を、ここまで純真無垢に信じていたのでしょう? 私は賭けであることを認めながら、しかし失敗を疑わずにいました。それは、私の自惚れに他なりません」
「……浜風さん」
浜風「今までほとんど失敗して来なかった。だからこそこのような慢心が生じたのでしょう。……ふふっ、馬鹿ですね」
「……馬鹿じゃない」
浜風「馬鹿ですよ。もっと慎重に考えれば危惧できたはずなのに……」
「違うわ」
肩にそっと手が置かれた。いつの間にか、先輩はすぐ背後に寄っていたらしい。
労わるように撫でてくる。
「あなたは、天才よ。あなたじゃなければ、ここまで鎮守府の改革を行うことはできなかった」
浜風「……」
「たしかに最後の最後だけは、上手くいかなかったかもしれないわ。でもね……大局で見れば、あなたは十分に成功を収めているはずよ。だって、呉提督がすべての責任を背負ってくれたおかけで、誰も不幸にはなっていないんだから。ガンを取り除く手術は、成功したの」
滑らかに動いていた手が伸び、白磁のような腕が胸元を回る。贅肉が柔らかくつぶれ、驚くほどに優しく後ろに引かれた。まるで上質なベッドに倒れこんむような感触が、背中から伝わってきた。
「浜風さんは、良くやったわ」
赤子に語りかけるような声。
「誰も……誰もあなたを責めたりしない。あなたは私たちの誇りよ。だから、自分をそんなに卑下しないで欲しい」
浜風「……」
「あなたが危惧するように、新しい提督次第ではガンが再発するかもしれない。……でも、大丈夫。そのときは、私が命にかけてでも止めてみせるから」
悲しいほどに強い決意を口にして、彼女はちょっとだけ腕の力を入れた。
「あなたには、もう何があってもこんな思いはさせない。あなたが背負ってきたものを、今度は私が背負うわ。それが、私にできる精一杯の恩返しよ」
この感覚には、覚えがある。
自分でも気付かぬうちに、彼女の腕に手を置いていた。記憶の棚にしまいきりにしていたものが蘇って、懐かしい感傷とともに溢れていく。
包帯を巻いてくれる母だった。ちょっと困ったような笑顔を浮かべ、それでも青い瞳を慈愛に染めている。ゆっくりとゆっくりと、痛みなんてないはずなのに、気遣ってくれる。そして巻き終わると、愛情一心に抱きしめるのだ。
暖かさなど生じない。けれど、不思議なほどの穏やかさに満たされていく。
ああ、あのときの気分だ。深緑の森で深呼吸するかのような、無味だけど清涼な感じ。あれを思い出してしまった。
相当、参っていたのだろうか。もう長いこと忘れていたはずなのに、いまさらになって出てくるなんて。折り重なる血生臭い日々のなか、沈んでしまった安らぎを、この手を通してたしかに感じる。
私は彼女の手を握った。苦しんでいると勘違いされたのか、力が緩められた。
「ごめんなさい。なんか、見ていられなくてさ……」
そんな言い訳が、いかにも気恥ずかしそうな感じで耳を濡らす。彼女の吐息をはっきりと感じて、それが不思議と嫌じゃなくて、「いいですよ」と自分でも気付かないうちに溢していた。
浜風「お気遣い、ありがとうございます。……先輩の言うとおりかもしれませんね」
虚しい響きの嘘だった。
道化の点滅が嘲り、羽虫の群体はなお随喜の合唱を奏でる。圧倒的な現実を目の前にして、無視などできようはずもないと分かりきっているのに、どうしてか目を逸らしてしまった。等間隔に並んだ外灯の灯りがボンヤリと、寝たふりを続ける鎮守府を映す。
その曖昧な影は、この先に待ち受ける未来の投影なのだろうか。
浜風「……これで、よかった。そう思うべきなのでしょうね」
「そうね。そう思った方がいいわ。……今までお疲れ様」
浜風「はい、お疲れ様です。先輩もよかったですね、あいつが死んでくれて」
「ホントはこの手でぶち殺してやりたかったけどね」
彼女は冗談っぽく笑った。私も笑顔を作ってみせた。ニヒルな感じが出ていないかどうか、少し自信がない。
浜風「実を言うと、私もです」
「あら気が合うわね。浜風さんとは美味い酒が飲めそうだわ。今から飲まない?」
浜風「未成年ですよ、私」
「そう堅いこと言わないでよ。小うるさいやつがせっかくいないんだしさ。今までのお礼も兼ねてね、ね、一杯やりましょうよ。……酒はギンバイしたやつがたんまりとあるし、心配しないでもいいわ。酒保開けよ、酒保開け!」
浜風「今まで主計の帳簿が合わないって思ってましたが、あなただったんですね。まったくもう……」
無理やり楽しそうに騒ぐ彼女を、やや呆れた目で見ながら息をついた。味なんて分からないけど、酒というものを体験してみるのもいいかもしれない。そう、思うことにした。
新しい『南提督』が着任したのは、それから一週間後のことであった。
投下終了です。遅れて申し訳ありません。
この投下分はかなり悩んだので、修正版を上げる際にけっこう修正するかもしれません。
次回が過去編ラストになると思います。それなりの文量を一気に書いて投下しますので、かなり遅れると思います…。また、けっこう残酷なシーンが入ると思いますので、苦手な方はご注意いただけますと幸いです。
長文失礼致しました。
その後の展開については不明瞭な部分が多い。
事実関係の調査にきた憲兵たちの質問から思案するに、呉提督の独断専行はやはり責任追及がなされたようである。法政官を通さずに処断することは禁じられているため、いかに海軍大将であろうと責められるのは当然だった。
おそらく呉提督はこれについて言い訳を一切せず、責任を認めたに違いない。彼の性格なら、そうするだろう。そもそも隠したり誤魔化したりするくらいの性根の持ち主ならば、息子を殺しはしないはずだ。責任を取る覚悟をしたからこそのあの処断である。憲兵の派遣も、この鎮守府で起こったことの事実調査を目的としたものだった。
その調査に立ち会った私は、聞かれたことには正直に回答した。嘘をつく意味も、メリットもないからだ。話すたびに背中の重石を一つ一つ外していくような感じを覚えたが、同時に何か秘密めいたものを失っていくような気分にもなり、とうてい晴れやかになったとは言えなかった。むしろ、心の空洞が広がったように思う。
憲兵隊の調査がひと段落ついたあと、平穏が訪れた……なんてことはもちろんなかった。さらに事態は加速的な変化をみせた。
呉提督の引退が決まったのだ。もちろん引責辞任であろうが、表面上は病気による退職と公表されたらしい。提督会議が体面を気にして揉み消したのだろう。海軍大将の辞任は、大物政治家のそれなどとは比べものにならないインパクトを与えてしまう。さすがにこの事実が表に出れば、世論を敵に回しかねない。ビロードを着ていなければ恥ずかしくて表に出れないような連中にとって、それはなにより恐ろしいことだったのだろう。南提督の死も、同様に心臓病による急死と発表された。
この件は、完全に闇に葬られてしまったわけである。なんと呆気ない終わり方か。結果的に家の名誉は守れたものの、すべてを失う覚悟でいたのが空回ってしまった呉提督の心境はいかがなものだろう。金メッキのような名誉をいかにも金塊のごとく扱われる。それは呉提督のような真性の貴族にとっては、おそらく耐え難い屈辱となったはずだ。
偉大な大将のその後は知らない。彼なら腹を切りそうなものだが、それならそれで情報が入ってくるだろう。何もないということは、死んではいないはずだ。
できるかぎり彼には安らかな老後を送り、静かに眠りについてもらいたいものだ。彼ほどの将が失意のうちに死んだとあっては、さすがにやりきれないものがある。
呉提督引退の件で、ただでさえ東鎮守府の騒ぎから冷めない海軍内部は大混乱に陥っているはずだ。しかしそれが嘘のように、数日後には南鎮守府へ新しい提督がやってきた。まるで、消えた電灯を変えるかのような簡潔さで、あっさりと後任が決まったのである。
後任の提督は、いかにもエリートという見た目の男であった。眼鏡をかけ、鋭い目つきをしているところは自尊心に溢れていて、前任の南提督と似ていた。しかも佐世保鎮守府の従兄弟であり、分家筋とはいえ家柄においても優れている。しかも階級まで同じ中佐だ。苦労して消した南提督が蘇ってきたかのような錯覚を覚え、めまいを感じたほどだった。
初見の時点で嫌な予感がしたが、まさしくそれは当たってしまった。新しい南提督もエリート然とした見た目そのままに捻くれきっており、大層根強い差別意識を持っていた。私が秘書艦と聞いた瞬間に、銀紙を噛み潰したような表情をわかりやすく浮かべてくれた。
もちろん私は秘書から外されることになった。なんとなくこうなるだろうなとは分かっていたものの、納得などできるはずもない。それは空母の先輩たちも同じだったようで、異議申し立てをしようかと憤然やるかたなしといった様子で提案してきた。が、どう足掻いてもこの決定は覆しようがないので、これには許可を出さなかった。それに、提督について情報がないうちから逆らうのは、あまりにも無謀である。彼女たちを私のエゴで危険な目に合わせるわけにはいかなかった。
私は秘書から転落し、ただの一介の駆逐艦へと戻ったわけだ。こうもあっさりと、苦労して得た地位を失ったのだ。失敗のツケだと思えば幾分か慰めにもなるかもしれないが、それはあまりにも惨めであろう。
ネズミに猫のフリなどできはしない、お前には路地裏の排水口がお似合いだ。何者かに指をさされ、そう嘲られているようであった。
一月下旬となった。
秋の気配は完全に消え去り、冬が重たくのしかかる。海辺に生活するものにとって、一番嬉しくない時期の到来であろう。
この日は雪が降っていた。雫は一粒一粒が小さく、風の勢いに流されて白い機銃掃射のようである。この地域にしてはよく降る方で、うっとおしい白さが外を支配していた。木枯らしが窓を叩き、食堂に寄り集まる遠征部隊のみんなを脅かそうとしている。目にも耳にもうるさい光景だった。
私は窓から目を転じ、正面に座る少女を見た。十月に養成所から配属されたばかりの、茶色のポニーテールが特徴的な新人である。汚れを知らない初々しい顔立ちを、やや緊張で強張らせ、喉を鳴らしたり額の汗を腕で拭ったりしていた。
思わず噴き出しそうになる。
私もとうとう慄かれる立場になったのだな。
浜風「それで、話というのは何かしら?」
微笑みをつくりながら尋ねると、ポニーテールの少女が「はっ!」と大仰な声をだした。
「そ、その浜風隊長にぜひご教授願いたいことがありまして……」
浜風「教えてもらいたいこと?」
「は、はい。どうすれば、その……隊長のようになれるのでしょうか……?」
思わず瞬きをしてしまう。私たちを囲んで話を聞いていた遠征部隊のみんなが、どっと笑った。
谷風「かああっ、青いねぇ……。気持ちは分からなくねえけど」
「浜風さんのようになりたい、ねえ。海軍大将になりたいってくらい無理なことよね〜」
谷風「ちげえねえちげえねえ」
隻腕の先輩の言葉に谷風が楽しげな同意をみせる。さらにみんなは笑った。
からかわれたポニーテールの子は涙目になりながらも口を尖らせた。
「だって……隊長、すごいかっこいいですし」
浜風「そうかしら? お世辞でも嬉しいわ」
謙遜すると、彼女は鼻を膨らませて身を乗り出した。
「お、お世辞じゃありません! 任務のときの凜とした佇まいとあの素晴らしい戦いぶり……いつも見ていて鳥肌が立つようです! 隊長は私の憧れなんですから!」
浜風「ありがとう。その気持ちはとても有難いのだけど、顔が近いわ。離れてちょうだい」
「あ……」
頬を真っ赤にして、彼女は席についた。
「す、すいませんでした! その、興奮してつい……」
谷風「おーおー、お熱いねえ!」
「きゃー! まるで恋する乙女みたい!」
「浜風さんと後輩ちゃんの組み合わせ。これはこれで……」
ポニーテールの子は、とうとう俯いてしまった。耳が茹でた海老のように真っ赤になっており、頭から湯気が立ち込めているみたいだ。さすがに気の毒になってきたので、彼女の名前を呼びながら肩を叩いた。
おずおずと顔を上げた彼女に、ゆっくりと気の利いたセリフを言ってやる。
浜風「私のようになる……というのが優秀な艦娘になるという意味で合っているなら、決して弛まず日々精進することね。努力をしないものに決して成長はないから」
「努力ですか」
浜風「そう、訓練だけをこなすだけではなくて常に多くを学び、学んだことを自分で考えなさい。そうすることで、色んな知識がついて物事にも臆せず対応していけるようになるから」
「なるほど……」
分かっているのか分かっていないのか、彼女は言われるままに頷いていた。少々呆れながらも続ける。
浜風「あとはそうね……これが一番大切なことなのだけれど。自分に誇りを持つことね。あなたは何型かしら?」
「松型です」
浜風「なら、自分が松型駆逐艦であることを強く誇りに思いなさい。自分の行動、自分の立ち振る舞いが、松型全体の名誉に関わってくる……。そう強く思うことで、あなたの心には魂が宿る。その魂こそが大切なの」
「……」
浜風「今はまだ、そのことが分からないかもしれないわね。無理もないわ。でも、大切なことだから覚えていて。窮地に立たされたときに助けてくれるのは、その誇りなのよ。誇りが、心に信じられない力を与えてくれる。私もなんども、これに助けられたのだから間違いない」
私は断言する。彼女が私に近づくのはとうてい不可能だろうが、これだけは真実だし、伝えねばならないことだ。
みんな、さっきまでの意地悪な様子ではなくなっていた。ゆるやかに破顔しながら、優しい眼差しで地獄を知らない彼女を見つめている。長い時間をかけて、ここにいるみんなは失った尊厳を取り戻してくれたのだ。だからこその、この表情だ。
彼女は呆然と口を開く。まるで、プラネタリウムを眺める幼子のようだ。星の名称や星座について何も分からないけど、その美しさに圧倒されている。そんな感じといえばいいだろうか。
肩を強くたたいた。痛そうに顔をしかめた彼女を少し羨みながらも頭に手をやって撫でる。少し驚きつつも、今度は気持ち良さそうに「ん」と零した。
浜風「それは……それだけは忘れないでね。技術なんて後からいくらでもついてくる。でも、矜持はそうじゃないから」
「……はい」
照れくさそうに、それでいて嬉しげに口元を解した彼女は、きっと理解できてはいない。しかし、それでいいのだ。これは、『その状況』が来たときに初めてわかるものだろうから。
それから自然と堅苦しい雰囲気も解れ、私たちは再び談笑に花を咲かせた。ほどなくして出撃任務を終えて帰ってきた先輩たちも、一升瓶を片手にこちらにやってきた。自分たちの寮があるにも関わらず、わざわざ駆逐艦娘寮の食堂にだ。最近はこうしてこの場所に、遠征部隊も出撃部隊も関係なく集まるのが習慣となりつつあった。
空母の先輩が気前よく酒を飲みながら軍歌を口ずさみ、それに合わせて谷風たちが踊る。わざとらしく可笑しな振付けを見せる谷風たちに、みんなが腹を抱え、いいぞいいぞもっとやれ、と手を叩きながら囃し立てる。みんな幸せそうに、楽しそうにこの空間を共有している。
ほんの九か月前には、絶対にあり得ない光景だった。誰もが苦しみ、誰もが荒み、そして誰もが絶望していた。その中で笑えるものなど、人のことを考えられる余裕のあるものなど誰もいなかった。出撃部隊と遠征部隊の間には大きな溝があって、みんながみんな余所余所しい態度でいたのだ。
それが、このように繋がっている。これは紛れもなく私が変えたものだった。最後の最後で見誤り、苦労して得た地位を失いっても、これだけは紛れもなく私が得たものだ。彼女たちの喜びと感謝、そして羨望と尊崇……。
一番、欲していたもの。鎮守府に入るまえに夢見てきた世界が、ここに広がっている。人喰いの怪物が泣いて喜んだ自分が必要とされる場所、承認欲求を湯水のごとく浴びることができる、私にとっての理想郷だ。
たしかに、私は『人』としてここに存在することを許された。泣けるなら涙を流すかもしれないほど、喜悦の波濤が私を襲って心の形を保てなくする。
その、はずなのに。
どうしてだろう。どうしてか、私は満たされきれずにいたのだ。心にぽっかりと空洞が広がり、水が流れ出ていく。別にあの日の失敗を引き摺っているわけではない。これは以前からあったものだ。
承認欲求という黄金の杯に、最初から空いていた穴だった。私が見て見ぬふりをし続けているそれが、彼女たちとの平穏な生活に慣れていくにつれ、だんだんと――。
「浜風さーん?」
私は思考の海より立ち返った。いつの間にか横に来ていた空母の先輩が、怪訝そうに私の顔を覗き込んでいる。
「どうしたのよ、ぼうっとしちゃって。まさか、お酒が効いてきたとか? あ、でもそんなわけないか。あなた強いし」
浜風「ええ、ごめんなさい……。少し考えごとをしていただけです」
「そう? ならいいけど」
さばさばとした性格の彼女は、あまり気にせずにそう言って腕を肩に回してきた。吐く息からいも焼酎の匂いが微かにする。
「そーそー、それより聞いてよ。新入りちゃんいるでしょ、あのポニーテールの。あの子、重巡の妹らしいわよ」
浜風「もう知ってます」
「えー、なんで知ってるの? 驚かせてやろうって思ったのにー」
浜風「お酒の席のたびに、なんどもあなたに聞かされましたから。さすがにもう驚きませんよ」
「あり? 話したっけ?」
私はこめかみに手を添えて息をついた。彼女は酔っ払うとけっこう面倒くさいのだ。
「ご、ごめんなさい浜風さん! 目を離した隙にそっちに行っちゃってたみたい」
重巡洋艦の先輩が慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「もう、あなた飲み過ぎでしょ。明日は非番だからっていくらなんでも」
「いーじゃんいーじゃん! 細かいな〜」
「細かくないわよ。……ごめんね、浜風さん」
浜風「いつものことですから、大丈夫ですよ」
「ほらー大丈夫じゃない! 浜風さんはやっぱり優しいから好きー、重巡は口うるさいからいやー」
私の体にしなだれかかりながら、空母の先輩はしっしっと手を振る。重巡洋艦の先輩のこめかみが、ひくついた。
「いい加減にしろー!」
「うわっ!」
力づくで私から空母の先輩を引き剥がした。
「痛、痛い。なにすんのよいきなり!」
「あんたが言っても聞かないからでしょ。ほら、浜風さんも迷惑そうだし、あっちいくよ」
「相変わらず乱暴極まりないわね、このゴリラ! 妹は大人しくて可愛らしいのに、なんであんたはそんなにゴリラなのよ!」
「なんですってぇ」
その言葉にはさすがに堪忍袋の尾が切れたらしい。目を三角に立てて、空母の先輩を米俵みたいに頭上へ担ぎ上げると、そのままコマのようにグルグルと回った。
これは堪らなかったのか、空母の先輩は「ストップストップ」と悲鳴を上げる。「誰か止めて」と嘆願していたが、誰も止めるものはいなかった。むしろそれを見たみんなは、ゲラゲラと声を上げていた。ポニーテールの子だけは「ね、姉さん!」と驚いている。普段は優しくされているのだろう。姉の粗野な一面が信じられないと言わんばかりの面持ちであった。
谷風「よっ! いいぞいいぞ、もっと景気良く回せ〜」
「た、谷風ちゃん、煽らないでよ! と、止めて止めて〜」
「ね、姉さん! やめてあげて!」
それから何十回か回されて、空母の先輩はようやく解放された。目を回し、よろよろと千鳥足で私の隣に来ると、倒れかかってきた。
「うぇぇ……」
浜風「大丈夫ですか?」
「たぶん、大丈夫」
浜風「やめてくださいね、ここで吐くのは」
青い顔がこくこくと動く。私はとりあえず背中を撫でてあげた。
空母の先輩が落ちついたころになって、
南「おい」
低い、耳障りな声がした。
私たちは一斉に食堂の入り口へと目を向ける。南提督が尊大に胸を張り、腕を組んで立っていた。
全員、慌てて立ち上がり挙手の礼をした。南提督は返礼せずに、私たちを順繰りに睥睨している。外の鬱屈した空気よりも濁りきった瞳だ。みんなから明るさを吸い取り、この場の雰囲気を白けたものへと変えていく。
やがて、私で止まった。その目は親の仇でも見ているかのごとく、いやに鋭い。別段動じることもなく、ただ静かに見つめ返す。
そんな態度が気に食わなかったのか、南提督は眉根を寄せて大きく舌を鳴らした。
「なにか、御用でしょうか?」
重巡洋艦の先輩が訊ねた。言葉遣いこそ丁寧であるが、そこには何の熱もこもってはいない。
提督は気にしたふうを見せずに、言った。
南「……秘書艦はどこだ?」
「戦艦○○なら、自室にいると思われます。報告書の整理をしなければならないといっていましたので」
南「そうか、ではそちらに伺うとしよう」
「あの……○○さんなら、私が呼んできましょうか? 提督のお手を煩わせるのは申し訳ないので」
先輩が気を利かせてみせた。が、実際は自分たちの生活空間に、土足同然で踏み込まれることが嫌なだけだろう。とくに親しみのない、いや、むしろ嫌っている男性からそんなことをされて喜ぶ女はいない。同様の理由で、遠征隊のみんなも渋い顔をしていた。
南「ならば頼もう。沖ノ島海域攻略について相談があるので、関係書類を持参の上、執務室に来るように伝えてくれ」
「了解しました」
南「では、私は執務室に戻る」
南提督は言葉少なめに告げ、踵を返す前にまた私へと暗い目を投げかけてきた。蛆虫をみるようなその黒さには、笑えるほどにわかりやすい敵意が染み付いている。前任が腐るほど私に向けてきたそれと同じだった。
下らない。噴き出しそうなほどの浅ましさに、私は微笑でもって相対してあげる。
南「……ちっ」
忌々しそうに顔を歪め、南提督は出て行った。
谷風「……何しに来たんだよ、あの野郎」
谷風が毒を吐きながら入り口を睨んだ。話を聞いてなかったの、と真面目ぶった指摘をするものは誰もいない。それくらい、みんな提督という存在が嫌いなのだ。
私は首を動かして、窓を見た。窓は、吹き荒れる雪風に揺れながら、半透明の鏡となって私の顔を薄く映していた。
そこには何の感慨も浮かんではいない。
秘書艦でなくなってから一番不利益だったのは、情報が入ってこないことである。そのため、私は現在の秘書艦に協力を要請した。彼女の権限で知り得る範囲ではあるものの、運営状況や南提督についてなど様々な情報を横流ししてもらえるよう頼んだのだ。
私に代わって秘書艦に返り咲いた彼女は快く引き受けてくれた。このことが南提督に知られれば懲罰は免れないのにも関わらずである。おそらく私に対して負い目を感じていたのだろうが、それでも有難い話である。
私の知っていることや、彼女から得た情報をまとめると以下の通りだ。
まず運営状況であるが、これに関しては大きな問題はなさそうであった。規定回数違反もないし、出撃任務も比較的円滑に進んでいる。呉提督の評価通り、出撃部隊は南西海域をさして労せずに突破できるほどの実力をもともと有していた。指揮がまともで、適正な労務管理がされているならば、苦戦する理由はなかった。
一月下旬までで攻略は沖ノ島海域まで進んでいる。あの海域は通称『魔の海域』とも『南西のアイアンボトムサウンド』とも呼ばれており、攻略回数も今までの倍の二十回と多く、艦娘の轟沈率はすべての海域を通して五本の指に入る。だが、七回目をクリアーした時点で、轟沈したものは誰一人としていない。
次に、新しく着任した提督についてである。前任の生まれ変わりのような見た目と家柄をもつ男だが、明らかに違うところがある。それなりに優秀なのだ。運営は基本に忠実なもので違反もしないし、指揮能力に関してもなかなかに高い。失敗したときは烈火のごとく責め立ててくるそうだが、それでも私的制裁はそれなりのところで留める。エリートらしくネジくれた性格に難があるものの、前任と比べてもはるかに弁えている方だと言えるだろう。
問題は南提督の経歴にあった。彼は、もともと西鎮守府というところの提督で、そこから異動させられたのだ。西鎮守府は北方海域を攻略中であり、ここよりもワンランク上のところである。つまり、これは左遷だ。
南提督が以前の鎮守府で何かしらの問題行動を起こしたと考えるべきであろう。家柄においても優遇措置がとられるはずの南提督が、降格処分(提督は北方海域に進出した時点で大佐に昇格するのが通例)の末に左遷されるほどの事態だ。
時期的に考えて、おそらくは『捨て艦』だろう。あの一件で咎められた鎮守府は複数ある。中には懲戒免職されたものもいるほどだし、南提督もそれで咎められた可能性が高い。この点はあくまで推測でしかないが、なんにせよ警戒に値するのは疑いようもなかった。
とはいえ、南提督が捨て艦を再びおこなうかといえば、その可能性は皆無に等しいといえる。なぜなら、『捨て艦』についてはすでに法規制されており、一ヶ月に一度予告なしで憲兵の監査が入るようになったからだ。例えるならば、労働基準監督署の臨検に近いだろうか。しかし、強制力の点では段違いだ。是正勧告なんて甘い処置はなく、『捨て艦』が認められた時点で提督会議へと報告が行くようになっている。そしてすぐさま軍法会議だ。処罰も降格処分か懲戒免職とかなり重い。
このとおり、相当厳しく取り締まられているから、簡単には『捨て艦』はできなくなっている。今や『捨て艦』はハイリスクローリターンどころではなく、ハイリスクでしかないのだ。一度この件で罰を受け、目をつけられている南提督ならばなおさらだろう。彼のようなエリートは自分の経歴の瑕疵を何よりも気にする。これ以上の失態を望むはずもない。
『捨て艦』の心配はしなくていいわけだが、注意すべきは南提督の人間性である。艦娘を使い捨てにしたような男ということ。こいつは殺人者だ。まともな神経の持ち主とは言い難いだろう。
そして、その猜疑はまさに正しかった。彼は左遷という挫折と屈辱を舐めに舐めて捻くれ、屈折したコンプレックスを抱えているようだった。一見心を入れ替えて、南鎮守府ではまともな指導をするようになったと見えるかもしれない。しかし、それは表面上の話だ。失態を重ねることを怖れて慎重になっているだけ。彼の腐った心根と、臆病なほど尊大な自尊心は変わらない。
南提督の鬱屈したやり場のない苛立ちは、私に向けられた。出る杭は打たれるという言葉があるように、この鎮守府で一番優秀な私は目立ったようである。みんなから崇拝に近い信頼を寄せられ、常に私の周りには人が居たから、目立たない方が無理な話だ。
彼もまた膨大な承認欲求の持ち主なのだ。会社で偉そうにふんぞりかえっている上司のような感じといえばいいか。周囲から尊敬されていることを望み、いや尊敬されていて当然だと考えている、厚かましい人種。そんな人間は当然失笑を買って、裏では愚痴の餌食にされるものだと相場が決まっているが、この鎮守府でもそうだった。
このタイプは、自分より下の立場のものが優秀であることが許容できない。まして、私は最下層の駆逐艦だ。嫌悪感と苛立ちはさらに強くなるだろう。
それもあってか、私は何回か嫌がらせを受けた。遠征隊長の任命もその一環である。
元秘書艦であったことを口実に、私を責任のある立場に就かせ失敗を引き出そうとしたのだ。ついでと言わんばかりに遠征の運営まで押し付けてきたから、その本気度が伺える。これは本来ならば相当な無茶ぶりだ。中学生に大学の講義を教えさせるようなもので、普通ならば絶対にできるわけがない。南提督もその点を理解した上で、こうしたのだ。
だが、南提督は私のことを何もわかってはいなかった。あいにく、遠征の運営は得意中の得意である。私は内心でほくそ笑みながら、仕事に取り掛かった。みんなも私が再び遠征の指揮を執ると聞いて躍起になったらしく、士気も相当に高まっていた。誰が指揮棒を握るかで、従うものたちのモチベーションというのはかなり差異がでるものだ。おかげで遠征はすべて大成功を収めることができたし、徹底した効率化も合わせ、一ヶ月の間で私はかなりの数値を叩き出した。同期間の比較で、南提督が指揮を執っていたときの二倍近い量である。
これには南提督も度肝を抜かれたらしい。失敗した私に罰を与えてやるつもりが、まさか逆に勲章ものの成功を収めてきたのだから。あのときの苦々しい表情は面白かった。まさか、これだけの成果を達成したものに罵声を浴びせかけるわけにもいかない。さすがの彼も、私にどう声をかけるべきか迷っていたようだった。
この隙を見逃さなかった。私は、提督の前で大げさに手を合わせ、感激したように声を震わせながら、「私のような一介の駆逐艦にもチャンスを与えてくださり、光栄でございます。提督はなんとお心が広い方なのでしょうか……。敬服いたしました。これからも誠心誠意隊長として勤めさせていただきます」と白々しく言ってみせたのだ。そのとき、執務室には出撃部隊がいた。こうまで感激するものを邪険にしたとあっては、ひんしゅくを買うどころではすまない。南提督は歯ぎしりしながら、私に労いの言葉をかけて褒美まで寄越してきた。
このように、他の嫌がらせも受け流し、やり過ごし、あるいはカウンターを返してすべて封殺した。どうせ、どう足掻いたところでいい感情は持たれない。ならばいっそのことと容赦はしなかった。
思えば、私は少しやけになっていたのかもしれない。満たされない日々の中で、焦燥にも似た苛立ちを感じていたのだ。
満たされたい、なんとしても満たされたい――。そう何度渇望しても、決して満たされることはなかった。なにをやっても、どれだけみんなから慕われ感謝されようとも、まったく足りなくなっていたのだ。これをなんとかしたくて、南提督との駆け引きに突破口を見出そうとしたのだと思う。
たしかに、南提督の策謀を叩き伏せるのは楽しかったが、すぐにその喜びも空虚なものへと朽ちていった。ただの退屈な遊びと成り果て、私はまたしても満たされない思いに喘ぐ。オアシスを追い求め彷徨い歩く遭難者と化した。
私が飽きていく反面、南提督の敵意はますます増大していくようだった。だが、火が強まればその分煙も出てくる。彼の瞳はだんだんと隠しようがない慄きで濁り始めていた。なにをやっても潰せない。すべてが看過され、予想を上回る成果まで上げられてしまう。自身の物差しでは私を測ることができないと、どうしようもなく悟ったのだろう。その無力感が不完全燃焼を起こし、恐れを生んだのだ。
それが破滅への門をあける鍵となった。
私もまた、どうしようもない虚無の中で目を濁らせていたのだ。これも慢心なのであろう。
自分でも呆れ果ててしまうほどに浅ましい。
裸同然になった山林には、紅梅だけがポツポツと灯っていた。
深い眠りについた枯木の中で、一番早く目を覚ますのが梅である。冬の気配は頑として消えようとしないが、季節の再生はゆっくりとした開花の中から徐々に現れようとしていた。立春とは梅の寝起きのことなのだろう。
あと二ヶ月もすれば桜が乱れて、ホトトギスの声音が澄み渡る空を打つ。私の着任から一年の節目が、如月に入り明瞭な色彩を持って見えていた。
その情景を眺めながら、遠征隊のみんなを連れて鎮守府本館のそばを歩いていると、空母の先輩がやってきた。
「浜風さん、重巡が呼んでるわよ」
浜風「何の用でしょう?」
「詳しくは知らないけど、相談したいことがあるから部屋に来て欲しいってさ」
先輩は小首を傾げながら言った。
浜風「重巡先輩が相談とは珍しいですね」
「たしかにそうね。あの子、あまり自分のこと話したがらないし。……相談ってなんだろ?」
谷風「もしかしたら、妹ちゃんのことじゃねえかな?」
隣にいた谷風が私の袖を引っ張り、眉を伏せる。
谷風「ほら妹ちゃん、労咳で最近休んでるじゃん? その関係でなんかあったのかもなあ……」
ポニーテールの子は、二月に入ってから結核にかかって療養中であった。結核はストレプトマイシンなどの治療薬が見つかってから久しいものの、インフルエンザのようにすぐに治せる病気というわけではない。完治するまでには長い時間がかかる。空気感染のリスクが高い病気だから、結核菌の除去が完了するまでの間は特別治療室に隔離され、面会も制限されてしまうのだ。
もう一週間、彼女とは顔を合わせていない。一応、主治医の妖精から経過が順調であることはうかがっているが、それでもみんなが懸念を抱くのは詮無きことであろう。治療薬が高価だったほんの数年ほど前まで、結核は「国民病」として怖れられていたのだ。艦娘たちはほとんどが下流階層の出身である。その恐怖から抜けきっていないのは当然だった。
浜風「主治医の話では快方に向かっているとの話ですが……。しかし、しばらく顔を合わせていないはずですし、それで不安になっているのかもしれませんね」
「でも、それだけなのかな……。なんか今朝から様子が変だったのよね。すごい顔色が悪かったというか。……谷風ちゃんの言うとおり、妹ちゃんの容態が悪くなったりしたのかしら?」
谷風「心配だな……」
谷風がそうつぶやくと、みんなは表情を曇らせた。
浜風「ふむ……。とりあえず、様子見を兼ねて先輩のところに向かおうと思います。話を聞いている中でおのずと問題も分かるでしょうから」
「私たちもついていくわ」
私たちは艦娘療へと向かった。
出撃部隊の寮は数が多い駆逐艦より幾分か豪華であり、部屋も個室が当てがわれている。赤レンガの建物の二階に、重巡洋艦の先輩の部屋はあった。
私は部屋の前に立ち、扉をノックした。反応がないので声をかけてみる。
浜風「先輩、浜風です」
応答はなかった。
浜風「……先輩?」
谷風「不在なんかね?」
「呼び出しといて外出するとは思えないけど」
私たちは顔を見合わせて、眉をひそめたり首をひねったりした。
「……ごめんなさい」
やけに重たい声だった。錆び付いた鉄扉を押すように、ゆっくりとノブが回って開かれる。
扉の隙間から蒼白な顔が出てきた。先輩たちが息を飲んだ。
「浜風さんと……。なんだ、みんなもいるの」
「……あんた大丈夫? 朝見たときよりなんか顔色が悪くなってるように見えるんだけど」
「ちょっと気分が悪いだけだから、平気だよ」
谷風「そうは見えねえよ」
谷風の言うとおりだ。今にも倒れてしまいそうな様子である。そうとう深刻な悩みをかかえていると見るべきだろう。
谷風「なあ、どうしたんだよ? はっきり言って今の先輩、普通じゃねえぞ」
「……」
谷風「もしかしてだけど、さ。妹ちゃんのことで何かあったのか?」
先輩がぐっと息を飲んだ。目に動揺の光が揺らめく。
「やっぱりそうなのね。妹ちゃんに何かあったの?」
「……」
「重巡……」
「……それについては、ごめん。みんなには言えないの」
重巡洋艦の先輩が、酸素の少ない空間にいるかのように、苦しげな声を出した。
谷風「どうしてだ?」
谷風がそう訊ねても、先輩は目を逸らして口をつぐんだ。それ以上は話せないということだろう。
はっきりとしない先輩の様子に業を煮やしたのか、谷風が詰め寄ろうとした。私はそれを手で制する。
浜風「何があったのかはわかりませんが、どうしてもみんなには話せないことなんですね。ですが、私になら話しても大丈夫と」
先輩は私に相談を持ちかけてきた。それはすなわち「私になら話せる内容」だということだ。
先輩はゆっくりと頷いた。
浜風「……ということらしいです。申し訳ありませんが、皆さんには席を外していただこうと思います。……それでいいですか?」
「ええ」と力なく溢した先輩をみて、空母の先輩が大きく息を吐いた。
「わかったわ。どうしても私たちに話せないならしょうがないわね」
谷風「でもさ……」
「谷風ちゃん。心配なのは分かるけど、ここは浜風さんに任せましょう。こういう相談事とかは浜風さんが適任だしね」
空母の先輩は私の肩に手を置いて、
「悪いけど、あの子のことよろしくね」
と微笑みながら告げた。そのまま谷風の手を引いてみんなとともに去っていく。眉毛をハの字に曲げた谷風が、廊下の角から消えるまでこちらを見ていた。
浜風「……さて、それではお話を聞かせていただきましょう。お邪魔してもよろしいですか?」
「どうぞ」
薄暗い部屋だった。曇り空からこぼれるなけなしの光が、八畳一間の質素さを重々しく強調している。ベッドが、本棚が、テーブルが、色素を吸いとられ沈んで消えてしまいそうだ。
先輩は気にせず椅子を引き、座るように促してきた。戸惑いながらも座る。
浜風「あの、明かりは……」
「あ、ああ……」
蒼然と浮かんだ微笑みはぎこちなく、硬かった。
「ごめんなさい。すぐにつけるよ」
電灯がついた。
色彩を取り戻した部屋はなお質素だった。汚水を水で薄めたような感じで、いぜんとして暗さが抜けきっていない。
先輩はそのまま台所に行って、コーヒーを淹れ始めた。ミルクを注ぎ、角砂糖を入れている。普通はミルクと角砂糖を分けて出すのが作法だと思うが、そんなことを考えている余裕もないのだろうか。
席に戻ってくると私の前にカップを置いて、対面に座った。
「けっこういい豆なんだよ。実家が喫茶店やっててさ、送ってもらったんだ」
浜風「そうですか」
「浜風さんに一度飲んで貰いたかったんだよね。すごく美味しいから、飲んでみて」
曖昧に笑いながらも、せっかく出されたものを飲まないのはマズイと思って口を付けた。火傷しないように慎重に傾ける。
相変わらず温度も味も分からない。ただ、ほんのりと豆の香ばしさだけが鼻腔の裏からするだけで、水を飲んでるのと変わりはしない。
浜風「とても美味しいですね」
息をするように嘘をつく。
浜風「私はコーヒーには詳しくありませんが、これが良質なものであることは分かります。先輩のご実家は、さぞかし素晴らしいところなのでしょうね」
「……」
下唇を噛んで俯くだけで、先輩は反応しない。髪が垂れ幕のようになって表情を覆い隠す。首元にのぞいた傷跡を気にするそぶりさえなかった。
「……ごめんなさい」
浜風「別に気にしないでください。どうせ、今日はもう仕事はありませんでしたし」
「……ごめん、なさい」
先輩は謝るばかりだった。
浜風「そうかしこまらないで。本当に、気にしてませんから」
「……」
細い指先が赤いカップのマグに添えられた。病的なまでに白く、リンゴのヘチに子蛇が絡みついているようである。カチカチカチカチと時計の秒針よりもはやく、陶器の擦れ合う音が静寂を揺すった。
――震えている。
まるで、イジメをしていたことを厳格な親に知られた幼子のように。怯えて、いた。
「わたしさ、あの子が大好きなの」
ゆらゆらと落ち着かない声で先輩は語り始めた。
「とても優しくて、純粋で……。正直、戦場に立つには向いてるとは言えないと思う。本来は実家でコーヒーを淹れたり給仕したりして、看板娘にでもなるべきだったんだよ。……選ばれた以上、仕方ないけどさ」
たしかにあの子は連装砲を握るには甘すぎる。もし、私と同じ頃に入っていたならば、初陣でバラバラにされていたか、そうじゃなくとも首を吊って死んでいただろう。十月に入ったからこそ、彼女は壊れずにすんでいる。
「あの子はとても嬉しそうだった。艦娘に憧れていたんでしょうね。……姉さんと一緒に戦いたいからかならず南鎮守府に行くって、送られてきた手紙には書いていたよ。複雑……だったよね。妹に会えるかもしれないって思うと嬉しかったけど、こんなところにあの子が来るのかって考えると……」
息を吐き、やや間を置いた。「でもさ」と続ける。
「浜風さんのおかげで、この鎮守府は変わった。戦争している日常にはなんら変わりはないけれど、それでもみんなが心から笑っていられる場所になった。明日に消えるかもしれない自分の命に悔いなく生活できるように。……ありがとう」
浜風「こちらこそ、そう言っていただけて頑張った甲斐があるというものです」
「……あの子ね、あなたにすごく憧れているの。いつも言ってるわよ、『隊長のような素敵な艦娘になってお国に尽くすんだ!』って」
浜風「光栄です」
「私もあなたのことを尊敬しているわ。あなたはきっと、十年に……ううん、百年に一人の逸材だと思う。そんな人と轡を並べていられるのは、私にとっても幸運だよ」
その言葉に柔らかさを感じなかったのは何故だろう。いぜんとして彼女は顔を上げず、茶色い波はとうとう受け皿に溢れ出ていた。そこに、揺れとは関係ない波紋が一つ、起こった。
涙だった。
「あなたが肩に手を置いてくれると勇気が湧く。あなたがそばにいるだけで安心する。あなたが手を握ってくれると、すごくドキドキする。あなたがいれば……私たちは笑っていられる。私は、あなたが大好きなの。妹と同じくらい、家族のように愛していた」
なぜ、愛していると言わないのか。
部屋が、不思議なほどボンヤリと暗くなっていく。
いや、違う……。私の視界が霞んでいる。
「私は最低な人間よ。みんなを救ってくれたあなたを裏切ろうとしているんだから」
いったい、なんの、話だ。
――ダメだ。だんだんと頭が重くなっている。考えがまとまらない。
頭が勝手に落ちていく。机に手をついた。その勢いでカップが倒れ、コーヒーが広がる。体勢を立て直そうとしたが、まともに力が入らなくて頭を少ししか上げられない。
クスリを盛られていたのだ。そう気づいたときには、もはやどうしようもなくなっていた。黒ずんだ視界の中で、ふと彼女が顔を上げるのが見えた。
その顔はひどく辛そうに歪み、涙で汚れていた。
「ごめんなさい……。浜風さん、ごめんなさい……」
私の横に一枚の写真が差し出される。そこに写っていたものを見たのを最後に、私は完全に闇の中へと落ちていった。
「こうしないと、妹が殺されるの――」
懺悔が、聞こえた気がした。
投下終了です。長いので2回に分けました。続きは2日以内に投下します。
>>142
お目通しいただき、ありがとうございます。
あちらに上げる分には修正が入ります。
重たい瞼をゆっくりと開いた。
青灰色に揺らめく海が見えた。穏やかな波が私を揺らした。もう一度目を閉じて眠りにつこうとしたが、つんざく海鳥の声に邪魔をされる。粘着剤をつけられたみたいに動かしがたい瞼をふたたび開くと、今度は灰色に濁った空も見えた。雲の動きが、枝を這い回る蛇のようだ。
ゆっくりと起き上がる。入渠した後に病室のベッドで迎える目覚めにも似た、泥の中から引き摺りだされるような最悪の寝起きであった。酒を飲んだときでもこんなに気持ち悪くなったことはない。ぐらぐらと揺れる頭を押さえながら、周囲を見渡す。
茫洋と広がる海には島影の一つも見当たらない。どこを見渡しても同じ景色だった。どうやら相当沖合いで漂流しているらしい。
私はどうしてこんなところにいるのだろう?
頭を動かすのも億劫だったが考えてみる。波に流されたときにでも思考回路が乱れたのか、なかなか思い当たるものが出てこない。今日は遠征に出かけただろうか? そのときに敵にやられて、みんなとはぐれてしまったか。しかし、そんな記憶はどこにもない。
あれこれ考えるうちに、ふと重巡洋艦の先輩の顔が浮かんだ。涙で化粧をした悲愴に満ちた顔が。
頭を殴られたような衝撃が走り、一気に意識が覚醒した。
そうだ。
私は、彼女の自室に赴いてそこで――そこでクスリの入ったコーヒーを飲み、意識を失った。
おそらくはその後に海へと運ばれてしまったのだろう。そう考えると自分の現状におよそ納得がいく。私はそう、捨てられたのだ。しかもご丁寧なことに艤装を装備させられた上で。
手のひらに目を落とし、開いたり握ったりしてみた。周囲の空気が、静電気を帯びながら不自然に揺れる。艤装の装備とともに展開される、限りなく不可視に近い『装甲』が起こす現象だ。
今度は手に持った連装砲を見てみた。異様に軽く、残弾もゼロと表示されている。そのまま太ももの方へと目を転じ、雷管を確認した。虎の子の酸素魚雷は予備に至るまで一本も入っていない。他も探ってみたが、機銃から爆雷に至るまで弾薬という弾薬は一つも補充されていないようだった。
舌打ちを禁じ得なかった。徹底的に私を生かして返す気がないようである。
こんな悪趣味なことをする奴は、一人しかいない。
南『おや、起きたかね』
耳元の無線から、下衆野郎の声が雑音混じりに響いた。
浜風「ええ、おかげさまで……。最悪の目覚めです」
南『そうかそうか、気に入ってくれたようで何よりだよ。私からのちょっとしたサプライズプレゼントだ。驚いたろう?』
浜風「そうですね。あまりのセンスのなさにびっくりしましたよ。唾を吐きかけてやりたいくらいです」
南『あはは、珍しく怒っているじゃないか。君からそんな暴言が聞けるとは思いもしなかったぞ』
浜風「暴言どころか、殴り飛ばしてやりたいですね」
南『構わんよ。帰って来れるならな』
握り締めた拳が怒りのあまり震える。
浜風「……大層な自信ですね」
南『腹を空かせた猛獣の檻に子羊を投げ入れればどうなるかなんて、考えなくとも予想がつくだろう? それと一緒だ。自身もクソもないさ。浜風くん、君は確実に死ぬ』
浜風「へえ」
南『弾薬も魚雷もゼロ、豆鉄砲もなければ鹿の糞のような爆雷もない。戦う術を無くした君に生き残る術は皆無だ。対空火器すらないのにどうやって敵艦載機をやりすごす? 戦艦や巡洋艦を相手にしたら? ほら、どうやって凌ぎきる? いつものように朗々と説明してみろよ』
浜風「……」
閉口せざるを得ない自分が腹立たしい。そして何よりも癪にさわるのは、答えようがないことを分かっていながら訊ねてくる南提督の底意地の汚さだ。
ザリザリと割れた嘲笑をならしている。今すぐに執務室へ飛んでいって喉仏を引き裂いてやりたい。
南『まあ無理だろうなあ。賢しい君のことだ、そんなこと言われなくとも気づいているだろう。……ああでも、燃料は片道分入れてある。運が良ければ万に一つでも生き残れる……かもしれないな。武士の情けというやつだよ、うん』
浜風「武士の情け?」
私はあからさまに鼻で笑った。
浜風「これのどこに情けがあると言うんですか。そんなお綺麗な概念を持ち出して、自身の愚かしい行為を正当化しようとするなど人として恥ずべきおこないです。……あなた、頭が膿んでいるのではないですか? 正気を疑いますよ。さすがは、左遷されてきただけのことはありますねえ」
南『貴様……』
南提督の声が低く、ドスの効いたものへと変わった。
南『粋がるなよ小娘が。私はなあ、貴様の普段の働きに免じて温情をかけてやったのだ。本来ならば地下室に閉じ込めて嬲ってやっても良かったんだぞ。あの、松型駆逐艦のガキのようにな!』
浜風「――」
私は倒れる直前に見た写真のことを思い出した。
コンクリートでできた薄暗い一室、そこの柱に先輩の妹が捕らえられていた。星のように目を輝かせながら私を見て、いつも天真爛漫な笑みを見せていた彼女の顔は、元のそれが思い出せないほどひどく歪んでいた。鼻は骨が突き出るほどにへし折られ、目は何倍にも晴れ上がり、黒ずんだアザが肌色を焦げ上がらせている。腐ったジャガイモが、少女の華奢な体にくっついていると言えばいいか。辺りには惨状を示すように鮮血が飛び散り、およそ見るには絶えない光景だった。
間違いなく、彼女は拷問を受けていた。鉄の棒か何かで執拗に殴られたのだろう。そうでもなければ、ああはなるまい。
口の中で、歯が削れる音が響いた。それには気づかない南提督は引きつった笑いを零しながら、凶行を暴露していく。
南『ヒヒヒ……本当はな、二三発殴って済ませるつもりだったんだ。それがあの糞ガキ……「隊長助けて」と泣きながら喚き出したんだよ。黙れ、と命じたのに聞く耳を持たず、隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長……! ずうっとそうやって貴様の名前を呼んでいてな。貴様の面が頭をチラついてチラついて、腸が焼けそうなほどに頭にきたもんだから、ついやりすぎてしまった』
話すにつれて興奮してきたのか鼻息を荒くしながら続ける。
南『艦娘とは頑丈なものだなぁ。軍人精神注入棒で何十回と殴りつけてやったのにまだ息があったのだから。まあ、死なれては困るからその辺でやめておいたが。しかしおかげでいい写真が撮れたよ。ヒ、ヒヒヒヒ……』
唇が裂けて血がこぼれた。頭が真っ白になって呼吸がうまくできない。
このクズ野郎は無垢なあの子を壊し、その姿を写真に収めて脅しの材料にしたのだ。従わない場合は妹を殺すと告げ、私を海へと捨てるように命令した。
先輩がそれに従うのは無理はないだろう。家族があんな姿にあっているのを見て、動揺せずにいられるわけがない。
浜風「この下衆野郎が……」
南『ヒヒヒヒ……。全部貴様が悪いんだぞ。貴様さえいなければ、私はこんなことをせずにすんだんだからな! そうだ、そう貴様が悪いんだ! 貴様があ』
私はとうとう無線を掴み、粉々に握り潰した。破片が海のもずくと化す。奴との会話から位置情報でも引き出してやるつもりだったが、これ以上は聞くに堪えなかった。
腕を抱き、怒りに震える身体を抑えるために大きく息を吐いた。なんどか深呼吸をして、肺の中の空気を入れ替える。
落ち着かねばならない。今の状況でこれ以上冷静さを失うのは自殺行為でしかないから。
どうにか現状を打開する策を考えようと頭を切り替えた。まさにその瞬間だった。
心電計にも似た音が鳴った。背後の十三号対空電探が感応したのだ。その音は少しずつ速さを増して鼓膜に響いてくる。
私は曇天を睨んだ。
雲に覆われて見えないが、間違いなく向かってきている。無数の敵艦載機が私の命を喰らいにやってきたということか。
くそったれが。
舌打ちをして、私は反転後すぐに機関を回した。速度を上げるまでには時間がかかるから、敵艦載機が頭上から現れたタイミングでは遅きに失する。両舷全速、速力を一気に原速から第三戦速まであげていく。
第三戦速になりきるかなりきらないかというところで、真っ黒な敵機が雲を切り、雲霞のごとく押し寄せてきた。数は多すぎてわからない。
面舵にきる。瞬間、私がいた場所に水柱が次々と上がった。水平爆撃だ。たった一隻を狙うにしては大袈裟すぎる量に、思わず息が詰まった。
が、吐き出す間もなかった。艦載機が一列に連なり、私へと突っ込んできた。考えるよりもさきに取り舵へと変える。洗練された動きのもとに行われた急降下爆撃。辛うじてかわしたが、左右から飛沫を浴び、爆弾の破片が装甲を削る。まるで、化け物の爪に嬲られているようだ。
歯を食いしばり、私はさらに速力を上げた。張り子の虎同然である連装砲と魚雷発射装置を放棄し、少しでも身体を軽くする。燃料を節約しようなどケチなことをしている暇はない。最大戦速を出した。
対空砲火という妨害のないやつらは、まさに水を得た魚となっている。もてる全力を発揮しなければ、簡単に殺されてしまう。
舵を切るたびに艤装が鉄の悲鳴を上げた。下半身の関節という関節が軋んで、千切れてしまいそうだった。それでも、力を込め、動く。動き続ける。動くことを辞めた瞬間が、私の最期だ。
浜風「ぎっ……」
横っ面に鈍器で殴られるような衝撃が走った。至近弾を喰らったのだ。視界が一瞬黒く染まり、思わずよろめいて倒れかけたが、踏ん張ってまた走る。
すべてを避け切れるはずなどなかった。当たりはしなくとも、徐々に徐々に削られていく。私は数分、いや数十分かもしれないが、そうして黒いカラスどもに突かれ続けた。
すべての攻撃が終わり、敵機が引き上げたときには、すでに私の装甲は傷だらけであった。
呼吸が、マラソンを走ったときのように乱れていた。とめどなく溢れた汗が、米神や鼻筋をするりと通り、目に入ってきて視界を滲ませた。制服が肌に張り付いて気持ち悪い。装甲を展開中に汗は拭えないし、そもそもそんなことに気遣う暇はない。
休息など取らせないと言わんばかりに、十三号対空電探がどやしてきた。整わぬ息のまま、之の字運動で白波を撒き散らす。
敵機はまたしても雲より現れた。唇がわななくのを抑えきれない。さっきよりもずっと数が増えていた。第一次攻撃で、こちらが一隻であることは悟ったはずだ。ネズミ一匹たりとも生かしては返さぬと言わんばかりで、まったく容赦というものがない。
爆音はもはや隙間などなくて、巨大な爆竹のように延々と騒ぎ立てた。私を追いかけてくる水柱の間隔が、先ほどよりもはるかに狭い。計器が振り切れるほどに機関をいじめ、無感をいいことに身体の節という節に負荷をかける。苛む。筋肉の奥からぷちぷちと音がした。
浜風「あああああああああっ!」
爆発、爆発、爆発。
濁流のごとき飛沫をかぶり、黒煙をつきやぶり、火炎にあぶられ、怪物の爪に殴られる。脳内にスパークが起こり、視界が闇に潰れ、あまりにも激しい明滅が、私を狂わせようとする。
その爆撃地獄に、鉄の暴雨が降り注いできた。
戦闘機が機銃をうならせ、私を嘲笑う。
爆弾とは違い、かわしようがない速度の攻撃。稲妻が視界に走り、重たい衝撃が幾重にも襲う。まるで、キツツキが幹に穴を開けるがごとく。
浜風「――が、あが」
痛みなんてない。偽の呻きを反射で上げていた。攻撃を受けたとき、そうなるように訓練してきたせいだ。
装甲で防御できたとはいえ、衝撃をすべて殺せるわけではない。軽く脳震盪を起こし、足が震え、航路が歪んだ。爆弾が刺さらないのが奇跡である。
しかし、刹那――低空より悪魔が突っ込んできた。右七十二度より雷撃機が魚雷を投下して上昇した。
白い槍が海面を舐めながら迫りくる。
――面舵一杯。
雷跡と平行になってやり過ごそうと右に舵をとる。それが、命取りとなった。
浜風「――」
突如として私は叩き潰され、海面とキスをさせられた。
何が起こったのか理解できない。いきなり土砂崩れに巻き込まれたような困惑が思考を押しつぶし、耳鳴りがけたたましく騒いだ。空と海が反転しているような錯覚を覚えるほどに世界が歪む。が、脳震盪など慣れきっているから、すぐに私は意識を振り絞り、体を捻って状況を確認した。
背後からはもうもうと煙が上がっている。
ちょうど私が避けた方向に、水平爆撃の爆弾が落下していたのだ。私は雷撃に気を取られすぎて、それに気づくことができなかった。
立ち上がれない。機関も完全に故障したのだろう。手元のスロットルを捻っても、まったく反応を示さない。つまり、航行不能に陥っていた。
雷撃がどんどん迫りくる。
――こんなところで死ぬのか。
死を覚悟した瞬間、脳内に光が溢れた。えもいえぬ感覚に全身が震える。桜が見えた。誇り高き姉とともに現出せしめる撫子色の閃光を放つ花びら。楽園を舞うその一枚一枚は、まるで天使の羽のようであった。
陽炎姉さんの、悲しいほどの微笑みが、私の胸を貫いた。
――死んで、たまるか。
なんとしても生き残る。あの約束だけはたとえ四肢が千切れようとも守り通さねばならない。
私は坂から転げ落ちる芋虫のように、もがいた。満足に動かない身体を捻り、手をついて、逃げようとあがく。そのみっともなさたるや、南提督が見たならば絶頂に達したかもしれない。
魚雷はもはや目と鼻の先だ。ぞっとした感覚に襲われ、内臓がせりあがる。
とてもかわしきれない。
――神よ。
もはや神にすがる他なかった。悪魔でも聖書を引用するとは言い得て妙ではないだろうか。悪魔も人も手前勝手な目的のためならば、都合よく神を利用するのだ。
神などいないと、蔑んでいながらも。
だが、このときだけは一瞬だけ神の存在を信じかけた。魚雷が爆発することなく艦底を通り越していったのだ。
奇跡という他なかった。死神とも揶揄される駆逐艦「雪風」を思わせるほどの幸運。私は呆然と、遠くに過ぎていく白い軌跡を追っていた。やがてパッと発光したかと思うと、轟音とともに水の塊が跳ね上がり、火と煙が曇天を焦がした。
安堵のあまりに肩の力が抜ける。ほっとしている場合ではないはずなのに、それでも人間とは、突発的に襲った危機から救われた瞬間、足元が泥になったように緩んでしまう。そして、神の存在に手を合わせるのだ。
が、神は不信者を何度も救うほど慈悲深くはない。
鉄のスコールが私を襲った。
四方八方から、入れ替わり立ち替わり、戦闘機が機銃掃射を敢行してきた。蹴たぐられるマリオネットさながらに私は踊らされ、蹂躙された。銃弾が波を蹴散らし、装甲をえぐり、徐々に徐々に私をなぶり上げ、裸同然にひん剥いていく。
浜風「がああぁああああああ! あああああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああっ!」
狂乱じみた劇が幕を開ける。
その劇の中で、私はひたすらに悲鳴を上げ続けた。
いったいどれほどの間、蹂躙され続けたのだろう。
五分か、十分か。あるいはもっと長い時間か。
戦闘機がすべての弾薬を使い果たし、引き返したときには、すでに私はボロ雑巾同然になっていた。
しばらく私を守ってくれた装甲も、薄皮一枚を剥いでいくように壊されてしまった。あまりにも絶え間ない弾丸は雨というよりもはや嵐で、駆逐艦のしけた装甲では到底耐え切れるものではなかった。爆撃を受けて中破になった私もとうとう大破となり、ほとんど生身のまま攻撃を受けることとなった。
まるで針地獄が逆さになって落ちてくるがごとく。足は縦笛のようになり、右の膝小僧は裏から破壊された。額も深く削られて、服を破かれ、全身という全身に裂傷が刻まれていることだろう。おそらくは内臓もぐちゃぐちゃのスクランブルエッグにされたのではないか。あまりにも負傷が多すぎて、途中から考えるのをやめたから分からない。
浜風「うぅぅ……」
呻き声が血のあぶくとともに吹き出てくる。空の色が分からなくなるほどに目が霞んでいた。わずかに視界の端に、赤くにじんだ水面が映るのみである。波は不気味なほどに凪いでいて、風もないせいかむせ返るほどの血の香りが充満していた。
身体はもはや、指一本たりとも動きそうにない。金縛りにあったように重たく、億劫さが頭を曇らせている。
こんな状況で、よくも生きていられるものだ。
自分のしぶとさに、関心を通り越して呆れてしまう。
浜風「……」
どうして、こんな目にあってまで私は死なないのだろう。普通なら発狂するほどの痛みによって、ショック死しているはずだ。私が生きていられるのは、艦娘の頑丈な身体もあるのかもしれないが、おそらく痛みを感じないがゆえ。
……なんで。
なんで、痛みも、熱も、ないのか。
そんな当たり前の疑問が、ふと湧いてくる。手に入れた種々の知識が、私の常識との間で葛藤を生じさせる。世界に当たり前に存在する痛みがないのが、おかしく思えてしょうがなかった。
普段ならこんな疑問なんて湧いてこない。とうの昔に納得し、受け入れていたからだ。だのに、今の私の朧げな思考は、すべてその奇妙さに支配されていた。
もう一度問うた。なぜ?
確認するように答える。簡単だ、無痛症という病気に侵されているからだ。
なぜ、こんな病気があるの?
くそったれな神様が、押し付けてきたからだ。
この病気は治せないの?
治せない。治療法がないから。
治す方法は本当にないの?
ない。
――じゃあ、あんたはやっぱり人形ね。
疑問ではなく断定だった。しかも、私の声ではない。
目を動かすと、そこにはあり得ない存在が幽鬼のように佇んでいた。私を虐待し、楽しんでいたあの義姉である。
口の端を三日月のように歪め、彼女は言った。
――いい気味だわ。今のあんたの姿、最高よ。
黙れ。
――気持ち悪くてたまらなかったわ、あんた。ただの『欠陥品』の分際で、得意げな顔でチヤホヤされて、人間ゴッコをしてたんだから。人形はどんなに頑張っても人形でしかないのに。
黙れ。
――なに? なんか言いたそうね。
浜風「……たしは、にんげん……だ」
――バーカ。あんたはただのオモチャよ。認めなさい。
浜風「だれ……が。だって……んな、私の、ことを……」
――みんなが認めてくれたから、人間だって? 笑わせんな! みんなに認めてもらえて、それであんたの気持ち悪い体質が治ったとでもいうの!? ああっ、どうなんだよ!?
浜風「――」
――ほら、答えられないでしょ?
義姉の亡霊は暗澹と口元を押さえ、笑う。私を痛ぶっていたときに必ず浮かべた残虐な貌。
――あんたはね、『それ』がある限り、一生人間にはなれないの。……あんたが大好きな人食い化け物の出てくる本。あれの主人公が、最期どうなったかあんた知ってるでしょ?
浜風「それ、は……」
そうだ、人間に認められて泣いて喜んだあの主人公は最期……。
正体を知られてしまい、人間たちに裏切られ殺された。
――そいつと同じよ。
やめて!
そう叫ぶこともできず、耳も塞げない。
浜風「ぐ……うぅ!」
――あんたは、そいつと同じように惨めたらしく死ぬの。しょせん、自分は人間にはなれなかった。汚らわしい存在でしかないんだって自覚しながらね!
違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うチガウチガウチガウチガウチガウチガウ――。
私は人間だ。人間なんだ。
――まあ、あんたを殺すのは人間じゃないんだけど。
そう言った瞬間、義姉は影のごとくふっと立ち消えた。そうして太陽が沈み月と星が出てくるように、代わりに不気味なほどに歪められた無数の白い笑顔が、私を見下ろしていた。
驚愕に目を見開くのを禁じえない。いつの間にか、私は複数の深海棲艦にとり囲まれていたのだ。
それも、尋常な数ではない。数十体はいる。
黄色い輝きを放つ空母ヲ級、戦艦ル級、軽空母、重巡、軽巡、駆逐艦、補給艦……。およそ考えられるほとんどの艦種が雁首を揃えている。いま私は、まな板の上の死にかけた鯛同然になっているのだと気付いた。
怪物たちは私の様子を心底楽しそうに観察していたかと思うと、手を伸ばしてきた。指を一本一本広げ、無数の腕が絡み合い、迫ってくる。
ワット・ロンクンの亡者の腕を彷彿とさせるおぞましい光景に、悪夢のような恐怖を覚え、弱りかけた心臓が早鐘のように鳴った。
逃げなければ。そう思っても、動けない。
手が、私の足を掴み、腹を撫で、胸を触り、頬を通った。冷たいのか暖かいのかどうかすら分からない。ただひたすらに戦慄に震える。
怪物どもが、一層甲高い声で嗤う。
腹の「中」に、手が入ってきた。
浜風「うぅぅぅ……!」
一度だけ大きく身体が跳ねたのは、反射だったのだろう。やつらは私の腹を裂き、手を突っ込んで中身を掻き回し始めた。そのたびに、意思とは関係なく声が漏れ、血の塊が噴水のように口から飛び出る。
助けて。助けて……お父さん、お母さん。……陽炎姉さん。私をどうか……。
どうか、この地獄より私を救い出してください。
祈るように空へと手を伸ばそうとする。しかし、祈る手すらもはや私にはなかった。両腕とも先程の機銃掃射で破壊され、鱶の餌に変わっていたから。
狂気が、世界を満たしていく。
血を浴びる怪物たちの嗤いは、もはや壊れそうなほどに響いていた。
ただ、その中で足りないのは、やはり熱と痛みであった。私の反応が鈍いことがつまらなかったのか、怪物たちは遊びにさらなる趣向をこらし出した。わたしのはらわたを引き摺り出して、わたしの目の前で食い始めたのだ。ねばっこい輝きのサーモンピンクの肉が、石臼のような牙で千切られ、擦り切られ、ねとねとと赤黒い液体が私の顔に滴り落ちてくる。
そんな目にあっても、私は死ねなかった。次々に細切れにされていく自分の腸を見ながら、とある本に出てきた事件を思い出す。肉食獣に襲われた少女が、私と同じような目に合いながら母親に電話をかけたという事件。その子もきっと私のようにショック死しにくい体質だったのだろう。だが、きっと何も感じないわけではなかったはずだ。焼けるような痛みの中、苦しみながら死んだに違いない。
私も死の途上にいる。それなのに、こんな目に合いながらも私の体には痛苦も熱も訪れなかった。
何も、何も――感じようとはしてくれなかった。
浜風「ぐ、ふふっ」
血を吹きながら、私はいつしか笑っていた。
おかしくてしょうがない。自分の身体の異常さからもはや目をそらすことなんてできなくなっていた。ああ、私はやはりおかしな存在なのだな、と思う。
だって、こんな目にあっても、何も感じない。普通なら痛みのあまりに絶望しているところが、逆に痛みがないことに絶望している。これが奇形といわず、なんというか。
ああ、そうか。
なんで満たされなかったのか、黄金の杯に空いた穴を、いま初めてはっきりと自覚できた。あの義姉が言ったとおり、人形は人形でしかいられないということなのだろう。この病があるかぎり、私は『人間』ではいられない。
つまり、私は一生、満たされることなんてない。
浜風「ぐふ、ふふふふ、ははは、ひひ、あはははは……あは、あはははははははははは、あははははははははははははははははは……」
身体を壊されながら、心が壊れた。堰が切れたように、私の心にあったものが一斉に崩れ、砂となり、一陣の風に拾われるように消えていく。
あれほど欲した承認欲求も、ともにあり続けた陽炎型の誇りも、そして陽炎姉さんと見た桜さえも――。
徒花とは、すぐに枯れゆく花。生という絶望の園に一瞬だけ咲いては消えてしまう幻想だ。まさに、桜とはそれに相応しい花ではないか。
なにが誇りだ。
なにが、約束だ。
馬鹿馬鹿しい。そんなものが、一体なんの役に立つ。この病気を治してくれることなんてないじゃないか。生きなければいけない理由のすべてが、無感の世界へと私を繋ぎ止める鎖のようにしか思えなかった。
もういい。もう、生きている意味はないんだ。
さっさと殺してくれ。
だんだんと虚ろになっていく意識のなか、そう願った瞬間だった。
時が止まったように音が消えた。
あまりにも唐突に、沈黙が訪れたのだ。
とうとう死ねたのか。最初はそう思ったが、ぼやけた視界でも怪物たちの顔はまだ見えていた。
やつらは、誰もが顔から笑みを消していた。私を見ておらず、目を見開いてじっと右側を見つめている。
もしかして、助けが来たのか? だとしたらすべてが遅い。すでに私は助からない状態だし、もはや助かりたいとも思わない。もし救助だとしたらいい迷惑だ。
だが、どうも違うらしい。
能面のようになっていた怪物たちの顔が、明らかな恐怖で染まった。深海棲艦は非常に好戦的な生物で、艦娘を見た程度では怯えることはまずあり得ない。たとえ数で負けていようとも、牙を剥き出しにして迫ってくるのだ。やつらを恐怖で屈服させることなど不可能である。
それが、ひどく狼狽している。顔が引きつり、泣き出しそうになっていた。駆逐棲艦が、まるで蹴り飛ばされた犬のようにか細い悲鳴を上げ、震えている。
「……オォォ……」
私は、たしかに、その声を聞いた。
落ちかけた意識も、覚めてしまうほどに薄気味の悪い声であった。山羊の鳴き声と、牛の悲鳴と、狂人の嘆きと、火炎に焼かれる亡者の慟哭を混ぜ合わせ、一つにしたような感じといえばいいか。およそこの世のものとは思えない、あまりにも低くく、あまりにも苦しい響き。
「オ……オオォ……」
間違いない。だんだんと近づいてきている。
深海棲艦たちが臓物を投棄して後退り、空母ヲ級が何かを喚きながら頭の付属物から艦載機を発艦させた。
爆音が何度か耳を打った。
が、
「オォォォ」
声は止まらずに近づいてきていた。
空母ヲ級に続いて戦艦ル級や、重巡たちも砲撃を打ち始めた。視界の端で膨大な火炎が吐き出されたが、それでも声は止まらなかった。あれだけの量の斉射をやり過ごしたとでもいうのか。
斉射はさらに激しさを増していく。やつらの焦燥がはっきりと耳朶から伝わってくるようだ。それから間もなく、砲音の中に黒板を刃物でひっかいたような絶叫が混じり、やがてそれだけの阿鼻叫喚に変わった。
駆逐棲艦や軽巡棲艦などが泡をくって逃げていく。重巡棲艦とおぼしき頭と肉片が私の元に飛来して、雹のように落ちてきた。ぶちぶちと音がした。咀嚼するような音も。何かが、深海棲艦たちを殺して、食べている。
やつらを喰う生物など……私は知らない。
「キィィィ……リ、ナイ……。タリ、ナイノォ……」
ついに、叫び声さえも無くなった。血で湿った声が妙な妖しさをもって聞こえてくる。近くで聞いたその声は、喉を潰された女の声にも似ていた。
影が揺らめいて、こちらに向かってきた。そのころには、私の目にもはっきりと映っていた。
枝のように細長い四本の手足と、樽のように太った胴体をもつ異形の生物だった。体色は全体的にクヌギの幹みたいに茶色く、大量の返り血がこべりついて樹液みたいに照り輝いている。一目では巨大なナナフシのようにも思えたが、明らかにそんな可愛い存在ではない。
それには顔がなかった。いや、顔らしきものはあるのだが白磁のように白く、表情がない。目も、耳も、鼻も、口も、そこにはついていなかった。かろうじて髪の毛のようなものが生えているから、おそらく顔なのだろうと推察できたが、それも不確かであった。やつは『首』を左右に傾げながら、四足歩行をしていた。ときおり何か呟いているようだが、その声が一体どこから発されているのか分からない。
なんだ、この生き物は。一体なにが起きている。
あまりにもわけがわからない展開に、ただでさえ混乱していた私の頭は狂いそうだった。生まれてこの方、一度たりともこのような恐怖を味わったことはない。はやくここから逃げ出したいと、死んでしまいたいと、心の底から思った。自分のしぶとさが恨めしくてたまらなかった。
影が、とうとう私の頭と重なった。白い顔がメトロノームのように揺れながら、ゆっくりと落ちてくる。私の歯が壊れそうなほどに音を立てた。
顔が、笑った気がした。
「カォ……チョウ、ダァイ……」
投下終了です。
次回から第二章に入ります。
回想編に長いことお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
第二章
「発病」
陽炎「ふざけんな!」
陽炎の怒号が飛んだ。
浜風を保護して二週間が経とうとしていた、三月上旬のことである。梅の花が白い輝きを放ち、桜の蕾がポツポツと赤い膨らみを見せ始めていた。春の匂いが微かに漂い、ウグイスの鳴き声なんかも楽しげで、世界は暖かく穏やかな雰囲気に包まれようとしている。
しかし、出撃ドッグの空気は反対に冷え冷えとしていた。俺がたどり着いたころには、すでに事態は険悪なものへとなりつつあった。
陽炎が浜風の胸倉を掴み上げ、ドスの効いた瞳で睨みつけていたのだ。よほど腹が据えかねているのだろう。襟が千切れそうなほどに力強く握りしめている。二人を囲うようにして立ち竦んでいる遠征隊のものたちは、一様に困惑顔を浮かべて二人を伺い、どうすればいいのか分からなさそうにしていた。
陽炎「あんた、自分がなにをやったか分かってんの!?」
陽炎がさらに声を張り上げる。普段は大らかな彼女がこのように腹を立てることなど滅多にない。俺は事情をすでに把握していたものの、それでも驚かずにはいられなかった。
浜風「……」
浜風は無言を貫き通している。憤怒に燃える陽炎を見つめる瞳は、氷のように冷たい色だった。
どこまでも無機質で、感情の欠片すら感じられない。
俺は急いで遠征隊の間に割って入り、二人の元へと駆け寄った。
提督「陽炎、やめろ!」
陽炎「うるさい! 司令はすっこんでて!」
完全にヒートアップしている陽炎は、俺の注意など聞く気もないようだった。さらに力を込めて、頭突きをするのではないか思えたほど、浜風に顔を近づけた。
陽炎「黙ってないでなんとか言いなさいよ!」
浜風「……わかってますよ」
浜風は呟くように答えるとため息をついた。
浜風「命令無視および単独行動ですね。鼠輸送の途上で遭遇した敵水雷戦隊に単独で交戦を挑み、壊滅させました」
まるで罪状を読み上げる検事のように淡々と白状していく。自分の過ちを、他人のそれと同じようにだ。
これには陽炎も一瞬呆気に取られたみたいだが、すぐに目の角を吊り上げた。襟を掴む手が小刻みに震えている。
陽炎「そうよ……。それがどういうことなのか分からないあんたじゃないはずよ」
浜風「まあ、普通なら独房行きでしょうね。激しい折檻を受けたとしても文句は言えないでしょう」
陽炎「そういうことを言ってるんじゃない!」
提督「よせ!」
さすがにこれ以上は見ていられない。
俺は陽炎の腕を掴んだ。だが、さすがは艦娘というべきか、野太い枝のようにビクともしない。俺程度の膂力では止められそうもなかった。
周囲に協力を要請しようと口を開きかけたとき、
浜風「痛いじゃないですか」
浜風が空虚な声を発した。
思わず動きを止めて、浜風を見た。どこまでも中身がない微笑みが俺たちに向けられている。
浜風「痛いじゃないですか、陽炎姉さん。私、あばらを数本と右腕を骨折しているんですよ。そんな風に迫られたら、とても痛いです」
痛いですよ、ともう一度零し、柔らかく口角を上げた。
その言葉に込められた虚無を、正確に理解できたのは俺だけだろう。
しかしながら、その不気味なほどに中身がない笑顔に気圧された陽炎は、はっきりと喉を鳴らした。死の匂いというか、それに近い異様な空気を感じとったに違いない。俺の背中にも冷たい汗が流れていた。
『死に至る病』、だ。
彼女の絶望があまりにも悲しい嘘から、アオミドロに侵された池みたいに濁った瞳から、ぞっとするほどに伝わってくる。
浜風は、緩んだ陽炎の手を片手で外した。
浜風「提督、入渠許可をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
提督「あ、ああ……」
浜風「では後ほど執務室へと向かいます。処分はそのときにでも」
凛然と告げ、彼女はゆっくりと出口へ向かった。遠征部隊のみんなが自動車を避けるように道を開ける。
陽炎「待ちなさい!」
陽炎が必死の形相で浜風を呼び止めた。
陽炎「どうしてよ……。あんた、一体どうしちゃったのよ……! 私が知っているあんたは、こんな無謀なことなんて絶対しなかったわ!」
浜風は背中を向けたまま、答えない。
陽炎「答えなさい浜風! あんたに何が」
浜風「あなたには関係ありませんよ」
冷たい声が陽炎の言葉を遮り、拒絶した。
浜風が振り返る。そこには酷薄なまでの嘲笑が張り付いていた。
浜風「それに、変わってしまったのはあなたも同じではありませんか」
陽炎「――」
陽炎の顔がさっと青ざめた。浜風の黒く煤けた指先が、陽炎の右腕へと向けられた。
浜風が言わんとしていること、それは言ってはならないことだ。
提督「やめるんだ」
俺の声は微かに怒気を孕んで、震えてしまったと思う。
だが、浜風は陽炎にとって踏み躙ってはならない領域を、嘲り半分に犯そうとしていたのだ。見過ごせるはずがない。
提督「もう行きなさい。……いいか?」
俺の忠告に、浜風は肩を竦めた。わざと憎たらしく見えるよう大仰に。
浜風「了解しました」
扉が閉じる。去り際に揺れた銀の髪が、飛沫を飛ばし、あだっぽい輝きとなってこの場に残影を残した。朝日を孕んだホコリの輝きを見るのと同じように、純粋に綺麗だとは感じられない。
後に残ったのは後味の悪い空気だった。ここにいるみんなはそれぞれに戸惑うように眉を顰めたり、鋭い目つきを出口の方へと向けたり、俯いて動かない陽炎に気遣うような眼差しを向けたりしていた。
陽炎「……どうして」
陽炎は重くつぶやいて、右腕を掴んだ。鉄の擦れ合う音が弱々しく耳をつく。
陽炎「浜風……」
浜風「無期限の謹慎……ですか」
浜風は、少し驚いたように言った。
提督「ああ、君には少し休んでもらおうと思う」
口調だけはややきつめにしながらも、内心では激しい後悔が渦巻いていた。
やはり、浜風を出撃させるべきではなかった。
南提督に捨てられ、地獄の海を当て所なくさまよった浜風。
彼女がそこでどんな事態に遭遇したのか、詳細はわからない。が、あの夥しい傷から察するに、相当な敵から襲われたことはまず間違いないだろう。
そのときに彼女が感じた恐怖と絶望。それは想像を絶しているに違いない。あまり考えたくはないが、そのときの経験に影響され、精神になんらかの変調をきたしていたとしてもおかしくはないだろう。
PTSD、鬱、統合失調……繰り返される地獄の中で、そうした心の病にかかる艦娘たちは珍しくないのだ。浜風がそうなっている可能性だって十分にある。だからこそ、俺は当初浜風の復帰には反対していた。
提督「穀潰しにはなりたくない、という君の強い要望もあって、遠征部隊に加わることを許可したがな……。やはりまだ早計だったようだ。ゆっくり休んで、今回の件を反省したまえ」
浜風「……はい。寛大な措置、感謝の言葉もございません」
謝辞を述べながらも、浜風の顔には苦い笑みが張り付いていた。皮肉なのだろう。
提督「なにか質問はあるか?」
浜風「とくには」
提督「そうか。では、退室してくれて構わない」
浜風は敬礼して執務室から出て行った。ウッド調の観音開きの扉が閉まるのを見届けてから、背もたれに背中をあずけ、息をつく。
さて……どうしたものか。
浜風のケアももちろんだが、浜風に対する周囲の不信感も無視はできない。このままでは士気の低下や軍規の乱れが発生しかねないし、なによりも浜風が孤立してしまう。
どうにかしなければならない。どうにかして、浜風を救ってやらねば。
だが、彼女の絶望をどうやって取り払ってやればいいのだろう? まず間違いなく、浜風の『死に至る病』は無痛症に起因する。あれは現在の医学では治療することはできない厄介な病だ。医者ですら匙を投げかねないというのに、俺ごときになにかできることがあるのか……。
雷「ねえ、司令官」
あまりの難渋さに頭を抱えていると、資料を抱えた雷が口を開いた。俺の顔と扉を交互に見て、眉を顰める。
雷「あれで良かったの?」
提督「……まあ、甘すぎるよな」
雷は頷いた。
雷「だって、命令無視および独断専行よ? 普通なら独房行き……いえ、軍法会議にかけられていたとしてもおかしくないわ」
提督「……」
雷「司令官、いくらなんでも優しすぎると思う。ああいう子は甘やかしたらダメよ? 付けあがるもの」
俺は手を組んで、額を置いた。
提督「……付けあがるかどうかは知らないが、たしかに雷の言うとおりだとは思う。指揮官としてはもっと厳格に、峻厳に、浜風へ罰を与えるべきだろう」
雷「なら」
提督「だが、俺個人としてはできるかぎり浜風の事情を汲んであげたいんだ。彼女は彼女なりに思うところがあるのだろう。彼女の状況を掴めていないうちから、厳しい罰を与えるようなことはしたくない」
我ながら軍人とはとうてい思えない口ぶりだ。砂糖水のように甘い感傷が人を殺すことだってあると知っているくせに、俺は臆病な俺でいることを止められないのだから、救いようもない。
雷もさぞかし呆れているだろう。
そう思って雷の方を見てみたが、目線を下に向けて薄紅色の頬を膨らませていた。呆れているというより拗ねているふうだ。
雷「……ずいぶん、あの子の肩を持つのね」
提督「そういうつもりはないさ。別に浜風だけを特別扱いしているわけじゃない。それは君だって、分かっているだろう?」
雷「でも……」
雷は言葉を詰まらせた。しばらく思考を巡らせて言うべきことを探していたようだが、何も見つからなかったのだろう。口から代わりに出てきたのは悪態だった。
雷「なによ、あんな子……」
溜息を飲み込む。
雷はどうにも浜風のことがいけ好かないようである。それはたぶん、今回の一件があったからではないだろう。単に気質や相性という根本的な問題か、もっと邪な感情から発露されたものか……。
前者もまったくないとは言えないだろうが、おそらく後者なのだろう。
俺は聞こえなかったふりをすることにした。雷もそれ以上何も言おうとしなかった。
窓から入る夕陽がだんだんと赤みを失い、部屋の明るさが増していく。夜の帳が降りつつあった。
俺は手元の資料に目を落とし、事務を再開した。
雷が持ってきてくれた資料の山を、少しずつ少しずつ切り崩しながら判を押していった。ベルトコンベアのように作業を流していくと、ふと、その中に一枚の封筒が現れた。「極秘」と書かれた茶封筒である。
俺はこめかみに手を当てた。
極秘資料を、秘書とはいえ艦娘の目につく方法で送ってくるなど、ひどく杜撰だ。このリテラシーのなさには呆れる他ないが、現海軍の情報認識の低さは昔からの体質というべきものなので、まあ慣れてはいた。
封蝋を切ろうとひっくり返した瞬間、そこに書かれている字が目に飛び込んだ。
これは……。
俺はすぐに封筒を仕舞う。慌てて雷の方に目をやると、戸棚の方でコーヒーをドリップしていた。
胸を撫でおろす。
あの封筒は、『捨て艦事件』に関する情報が入っているのだ。帝国史上最も残酷とまで称される、東鎮守府で起こったあの事件。
あれを起こした東提督は逮捕され、その後十一月に獄中死した。どうやって仕込んだのかわからないが、爆薬を使って自殺したのだ。牢屋は吹き飛び、肉片一つ残らなかったという。
ともかく、容疑者の死亡によって事件の調査は極めて困難となってしまった。あとは被害者たちから個別に聞き取り調査をする他ないが、ほとんどの子達が精神を壊されていたから、それも難しい。遅々として進んでいないのが現状である。
だが少しずつ明らかになってきてはいる。その更新された情報が俺のところに送られてきたのだ。
デリカシーのない奴らめ……。
本部の役人どもの気の利かなさ、想像力の欠如に腸が煮えくりかえる。どうしてこう、海軍には無神経なやつらが多いんだ。
雷「どうかしたの?」
コーヒーカップを置く音。顔を上げると、雷が少しだけ心配そうな顔をしていた。
提督「ん……。ああ、朝から働いてばかりだから少し疲れたのかもしれない。一休みしようか」
そう、と雷は言って可憐に微笑んだ。
雷「お茶請けも用意しましょうか。なにがいいかしら……」
提督「たしかバームクーヘンがあったろう。それを食べよう」
雷「いいわね」
バームクーヘンバームクーヘンと陽気な歌を口ずさむ彼女に、表情を緩めた。
彼女もあの地獄からここまで立ち直ることができたのだ。どうか浜風も、こうなって欲しいと願わずにいられない。
そのためなら、できるかぎりのことはしてあげたい。
投下終了です
窓枠に肘を預けて夜空を眺めていると、半月が真ん中に座っているのが見えた。爛漫な星々から憧憬を受けながら、暗い夜の中でそっと微笑みをみせている。
揺れた氷が、グラスを叩いた。
酔いの世界で聞こえる風鈴の音だ。静かな高揚に導かれ、俺はグラスを傾ける。
喉を焼く感じとともに、ブラックニッカの香りが鼻を通っていく。顔が少しだけ熱くなったように感じられた。
ああ、美味い。
ほうっと一息をついて、酔いがじんわりと広がる感覚を楽しむ。この瞬間こそが至福であり、唯一嫌なことを忘れられるときだ。
酒は、人類に許された最後の救済である。
そんなことを言った偉人が別にいるわけではない。俺が思うことだ。しかし、ただでさえ苦しい現実から気軽に逃れられる手段として、酒はうってつけではないか。酒を飲んで嫌な現実から逃れる、そんな刹那的な生き方を、もう数年近く繰り返していた。
そうでなければ、この世の中、生きるのはあまりにも苦しすぎる。現実という地獄を彷徨いながら、一輪の花を見つけては微笑む。そうやって微かな喜びのかけらを拾いながら、俺たちは生きていくしかないのだから。
たまには、逃げたっていいじゃないか。忘れようとしたっていいじゃないか。
窓枠にグラスを置いて、空を見ながら一人言い訳を重ねる。
もう、これで何度目になるかわからないな。
雷「うぅん…….」
寝言が聞こえた。ベッドの方へと目を向けると、雷が枕を抱いて寝返りを打っていた。
胸を撫で下ろす。もし起きていたら、もう一度あやしに戻らなければならないところだった。今は雷よりも、ブラックニッカとともにありたい。
瓶を掴んでウィスキーをグラスに注ぎ、また呷る。そうして空になると、同じことを繰り返す。ウィスキーはどんどん、酔えば酔うほど勢いよくなくなっていく。
とうとう瓶が空になった。それなりに酔えたような気がする。俺は肘をついて、高揚した気分のまま、うとうと微睡みの中にダイブしようとしていた。
扉がノックされたのは、そのときだった。
俺は目を開けて、扉の方を見遣った。もう一度音がなった。やや力のこもった叩き方である。
なんとなくだが、ノックの仕方で扉の向こうにいるのが誰なのか判別できる。おそらくあれは陽炎だろうなと、半ば確信しながら重い腰を上げ、扉を開けに向かった。
やはり、そこにいたのは陽炎であった。
どこか思いつめたように唇を噛んで俯いている。
窓枠に肘を預けて夜空を眺めていると、半月が真ん中に座っているのが見えた。爛漫な星々から憧憬を受けながら、暗い夜の中でそっと微笑みをみせている。
揺れた氷が、グラスを叩いた。
酔いの世界で聞こえる風鈴の音だ。静かな高揚に導かれ、俺はグラスを傾ける。
喉を焼く感じとともに、ブラックニッカの香りが鼻を通っていく。顔が少しだけ熱くなったように感じられた。
ああ、美味い。
ほうっと一息をついて、酔いがじんわりと広がる感覚を楽しむ。この瞬間こそが至福であり、唯一嫌なことを忘れられるときだ。
酒は、人類に許された最後の救済である。
そんなことを言った偉人が別にいるわけではない。俺が思うことだ。しかし、ただでさえ苦しい現実から気軽に逃れられる手段として、酒はうってつけではないか。酒を飲んで嫌な現実から逃れる、そんな刹那的な生き方を、もう数年近く繰り返していた。
そうでなければ、この世の中、生きるのはあまりにも苦しすぎる。現実という地獄を彷徨いながら、一輪の花を見つけては微笑む。そうやって微かな喜びのかけらを拾いながら、俺たちは生きていくしかないのだから。
たまには、逃げたっていいじゃないか。忘れようとしたっていいじゃないか。
窓枠にグラスを置いて、空を見ながら一人言い訳を重ねる。
もう、これで何度目になるかわからないな。
雷「うぅん…….」
寝言が聞こえた。ベッドの方へと目を向けると、雷が枕を抱いて寝返りを打っていた。
胸を撫で下ろす。もし起きていたら、もう一度あやしに戻らなければならないところだった。今は雷よりも、ブラックニッカとともにありたい。
瓶を掴んでウィスキーをグラスに注ぎ、また呷る。そうして空になると、同じことを繰り返す。ウィスキーはどんどん、酔えば酔うほど勢いよくなくなっていく。
とうとう瓶が空になった。それなりに酔えたような気がする。俺は肘をついて、高揚した気分のまま、うとうと微睡みの中にダイブしようとしていた。
扉がノックされたのは、そのときだった。
俺は目を開けて、扉の方を見遣った。もう一度音がなった。やや力のこもった叩き方である。
なんとなくだが、ノックの仕方で扉の向こうにいるのが誰なのか判別できる。おそらくあれは陽炎だろうなと、半ば確信しながら重い腰を上げ、扉を開けに向かった。
やはり、そこにいたのは陽炎であった。
どこか思いつめたように唇を噛んで俯いている。
提督「どうした、こんな時間に……」
一応尋ねながらも、要件は予想がついていた。
陽炎「遅くに申し訳ありません。どうしても聞きたいことがあったんです」
提督「もしかして浜風のことかな?」
陽炎は小さくうなずいた。
陽炎「あの子のことで、どうしても聞きたいことがあって……」
提督「……そうか」
俺は振り返って、ベッドの方を見た。雷の寝息は聞こえないが、おそらく陽炎にも姿が見えたのだろう。訝しそうな瞳で奥を覗いていた。
提督「よく来るんだよ……。俺と一緒じゃないと眠れないって言ってさ」
苦笑しながら告げると、陽炎も似たような顔をした。
陽炎「司令も大変ですね」
提督「まあ、な。……少し場所を変えようか」
陽炎「いいんですか?」
提督「大丈夫さ。一度寝たらまず起きないからな」
俺と陽炎は部屋を出た。俺の自室は鎮守府本館の一階にあるから、三階まで上り執務室へと向かう。
灯りをつけて、陽炎を隅に設えられた安楽椅子に座らせる。
提督「少し待っていろ。コーヒーを淹れてやるから」
陽炎「いえ、お気遣いなく」
そういえば、陽炎はコーヒーが苦手だったな。
俺は何も用意せず彼女の対面に座って、話を切り出した。
提督「さて、浜風の話だったな……」
陽炎「ええ」
陽炎は首を縦に振った。
陽炎「浜風に……一体何があったんですか? あの子、あんな無茶で身勝手な行動をとるような子じゃないんです。いつも冷静沈着で慎重で……生真面目と行ってもいいくらいでした」
提督「……」
陽炎「なにか理由があるとしか思えないんです。司令は、なにか知っているんじゃないですか?」
俺は目を積むって、黙考するように閉口した。
俺以外の誰も、この鎮守府で浜風の境遇を知るものはいない。それは彼女の親友である陽炎も例外ではなかった。
提督「まだ事実は明白ではないが、おおよそのことは知っているよ」
陽炎「なら」
提督「しかし、教えることはできない」
俺ははっきりと告げる。
陽炎が目の角を立てた。
陽炎「どうしてですか?」
提督「浜風の名誉に関わるからだ」
陽炎「浜風は私の大切な妹です! 言いふらしたりして、あの子の名誉を傷つけるような真似はしません!」
陽炎は身を乗り出して気炎を吐いた。
提督「わかってるよ。君がそうした軽率な振る舞いをしないということは」
陽炎は、ただただ浜風のことが心配なだけだろう。今朝のあの騒動だって、浜風を思うが故の行為に違いない。感情が先走りすぎるのは難点ではあるが、誰よりも仲間思いで、情に厚い子なのだ。
しかし、だからこそ。
だからこそ、安易に喋るわけにはいかない。
提督「だがな……。他ならぬ浜風本人が言ったことなんだよ。みんなには……とくに君には自分のことを喋らないで欲しいとな」
陽炎「どうして!?」
提督「君が大切だからだよ。家族のようにかけがえのない存在だからこそ、言えないことだってあるだろう。……浜風は、君を傷つけたくないんだ」
ただの嘘だった。浜風がなにを思って口止めしたのかなんて、俺にはまったく見当がつかない。浜風の思惑は、俺も知りたいところだ。
だから、邪推としかいいようがない、希望的観測を彼女へと告げる。
彼女をなるべく傷つけないように。それがなによりも恐ろしいから。
陽炎「……」
陽炎の表情は、柔らかい明かりに包まれた室内において、影が落ちたように暗かった。絶望的な暗さだった。
陽炎「……あったん、ですね?」
提督「……」
陽炎がさらに俺の方へと顔を近づけてきた。燃えるような瞳には、まさに陽炎のごとく頼りない揺らめきが潜んでいる。不安と恐怖がゆらゆらと、揺れている。
俺の馬鹿が。もう少し言いようがあったろうに。
陽炎「浜風が、私に隠さないといけないような、私やここにいるみんなが経験したような酷い目に……酷い目にあったんですね……!」
言い訳を考えようとして、しかし何も思いつかなくて。愚かな俺はただ閉口して沈黙を守る。
陽炎が怒りに任せて机を叩いた。
陽炎「答えてください司令! お願いです! あの子に一体何があったんですか……!?」
提督「……」
陽炎「司令!」
口を閉ざすのが辛くなってきた。目に涙すら溜めて必死に懇願する陽炎を見ていると、縫い合わせた口を解きたくなる。
喋って、しまおうか。しかし、これを言ってしまったら、陽炎は間違いなく何かしらのアクションを起こす。何もわかっていない状況下でそれは、あまりにもリスキーであろう。
それだけではない。陽炎を深く傷つけてしまう可能性もある。かつて彼女は戦場で、まさに阿鼻叫喚を聴いてきた。浜風の凍えるような絶望と諦観を知り、自分の経験と重ね合わせ、より深い穴に落ちていってしまう。
その可能性もありえなくは、ない。
俺は生来からの臆病さゆえの選択を下した。
提督「すまない。何も言えないんだ……」
二の句を告げようとした彼女を遮り、続けた。
提督「浜風のことは、どうか俺に任せて欲しい。なにぶんデリケートな問題だ。……俺が解決に当たった方がいいと判断した。悪いとは思うが、君は静観していてくれないか?」
陽炎「……、……それは命令ですか?」
提督「そうだ」
軍人の習性というべきものであろうか。何かの行動を起こすように示唆されたとき、命令の存在の有無を確認してしまうのは。その習性を、俺は意地汚くも利用した。
陽炎は悲しいかな、情深くもあれど生粋の軍人でもあるのだ。上官の命令には、律儀に従うよう訓練されている。
しかし、このときばかりはさすがに怒り心頭に達していたようだった。唇を噛み締めて耐えている彼女を見ていると、ひどく心が痛んだ。
陽炎「わかり、ました……。司令にお任せします」
提督「……」
謝罪の言葉を俺は飲み込む。彼女は椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、去り際に告げた。
陽炎「……でも、約束してください。浜風の身に何があったか、いずれ必ず教えると」
提督「……約束しよう」
彼女はなお不服そうに肩を怒らせて退室した。
執務室には重たい沈黙が降りた。時計の針の音が、こくこくと耳を打つ。
俺は無意識に胸ポケットを漁っていた。酒は自室に置いてきたのだと思い出して、項垂れる。
酒を持ってくれば、良かった。
■
月の脆弱なあかりが海面を撫でている。波の揺らめき、風の音。行きつけの喫茶店で流れるクラシカルな音楽のように、聴き慣れた心地よさがあった。
ここは、狂気の世界への出入り口だ。海は沖合に出ると、もう戦場である。深海に住んだ怪物たちがひしめき合う死の国だ。
艦娘の使命は、この死の国から怪物たちを駆逐することである。とは言っても、そんなものはただのもっともらしい大義名分でしかなく、実際はただの貴族の遊楽……『狩り』に近いものだ。一部の特権階級どもが見栄を張るための機会であり、そして出世競争の舞台でもある。
国防の要、巫女……そう持て囃される艦娘の実際の姿は、ただの出世競争の道具でしかないのだから、滑稽であろう。素直に自分たちの使命を信じている子達は、理想と現実とのギャップに苦しめられて、苦悩の末に朽ち果てていく。そんな子達を今まで何人と見てきた。艦娘というのは、いやはやなんとも世知辛い存在だ。虚構の尊敬を買う代償に、ほとんどすべての自由と尊厳を失うことになるのだから、割に合わないなんてものではない。
たぶん、ほとんどの艦娘たちは百回生まれ変わったって、また艦娘になりたいとは言わなかろう。
だが、彼女たちはまだいい。自分が何者なのか知っているのだから。自分が、「艦娘である」というアイデンティティを持っているのだから。
私には、それすらなかった。いや、それよりももっと根源的な視点で、アイデンティティが崩壊しているというべきか。人か否か問われたとしても、無言の回答をよこすしかない。それは私の無痛症に起因する部分もあれば、そうじゃない部分もある。むしろ、後者の部分が、私から完全に人間性を奪っていったというべきだろう。
その後者の部分とは、なにか?
答えは空から帰ってきた。
私はゆっくりと星のまたたく夜空に目をやった。遠くから微かに、レシプロ機の飛行音が折り重なって聴こえてくる。徐々に徐々に音は大きくなり、私の元へ向かってきた。
暗闇の中でも、私の目にはその姿が鮮明に見える。
零式艦上戦闘機や紫電改二、烈風……我が国が保有するそれらの戦闘機とは、明らかに形が異なるものだった。機械と生物の中間とでもいうべき細長い機体をしており、先端には何の役に立つのかも分からない歯が並んでいる。
そう、あれは、空母ヲ級の戦闘機。
私は右手をかざして、雨を受け取るように広げた。迎え撃つ対空火器はない。迎撃の必要なんてないからだ。
私の腕が爆発的な膨張を起こした。
肉が盛り上がり、皮膚が異様に膨れ、まるで粘菌の動きを高速化して見ているように、ぐちゃぐちゃと形を変えていく。骨の砕ける音が何回も鳴った。手はもはや原型を留めてはおらず、ただの肉風船と化していた。肌が真っ赤に染まっていたのは、中で血管が千切れたせいだ。
膨れた肉は、次第に膨張を止めて、さらなる変化をみせた。それは粘土をこねくり回して人形を作っていくのに似ていて、形がどんどん整然となっていく。赤から、光沢を帯びた黒へと変わった。
出来あがったのは、空母ヲ級の頭部の付属物とまったく同じものであった。
『口』を開けると、艦載機が一機ずつ一機ずつ吸い込まれるように入ってくる。
おかえりなさい。
あら、またたくさん殺したのね。
そう……今度は戦艦を二隻も沈めたの。おめでとう。戦艦は無駄に硬いからね、なかなか沈められるものじゃないわよ。艦載機の直衛がいなかったからかしら? なるほど、やはりそうなのね。
身体の中に取り込まれた艦載機が、楽しそうに報告をおこなってくる。私はそれを内から聞きながら、いつしか笑っていた。
狂った笑い声が、波に揉まれながら夜空へと昇ってゆく。
ああ、もう。
もう私は、完全に人ではなくなっていた。
投下終了します。最初の方が二重投下になってしまいました。申し訳ありません。
鎮守府本館の裏手は影がかかっており、微かに肌寒いくらいだった。暖かくなってきたとはいえ、冬の気配は微かに残り香を漂わせているようである。
踊り場に座っている俺は、口から煙草を離して小さく息を吐き出した。勢いよく飛び出した紫煙は、ゆるゆると空を登り消えていく。相変わらず「誉」は不味いが、心を少しだけ落ち着かせてくれるから、味を無視して吸っていた。
陽炎と話をしてから、一週間が経とうとしていた。
その間、俺は陽炎と約束したとおり浜風をケアするべく行動を起こしていた。浜風に関する情報を整理し、先天性無痛症の文献をいくつか漁ってヒントを見出そうとしたり、浜風にそれとなく話しかけて信頼関係を深めようとしたりした。しかし、どれも上手くいっているとは言い難い。
とくに浜風とのコミュニケーションは難航している。彼女は俺を気に入っていると言いながらも、まったく心を許していないのだ。話をしても本心を隠している感じがするというか、それとなく踏み込もうとしたら壁を張って牽制されるというか。
思ったとおりかなり賢い子だ。こちらの目的はすべて見抜いたうえで対処してくるから厄介である。彼女にはまだ一歩も踏み込めておらず、ゆえにその本心は欠片も見えていない。
長い時間がかかることになるだろう。
浜風のケアは、俺が今まで経験してきたものの中で一番難しいと言ってもいい。問題の根源はおよそ見えているのに、そこを解消する手段があまりにもなさすぎるからだ。無痛症は医者でも治せないし、彼女はあまりにも頭が良すぎる。だからこそ、どうしようもないことを悟って、的確に絶望してしまっているのだろうが……。
俺は短くなった煙草を煙草盆に叩き込んで、新しいものを取り出し火をつけた。
ただ、唯一といってもいいが、希望がないわけでもない。それは、浜風が自殺をしようとしないことだ。『死に至る病』に犯され、死の香りを漂わせてはいるものの、自ら命を絶つことに対して積極的な姿勢を示さない。
なぜかははっきりと分からないが、おそらく生きていく動機というか、理由というか、そういうものがまだ彼女の中で失われていないからではないだろうか。灯火のように小さなものであろうが、それがギリギリ彼女をこの世界につなぎ止めているように思えるのだ。
その理由が、プラスかマイナスなものなのかは分からない。どちらの可能性だってあるだろう。しかし、この点は見逃せないところではないか。彼女の中にある、小さな生の種火を見つけ出していこう。
できれば、明るいものであってほしいと願う。
気づけば、二本目もほとんどが灰に変わっていた。俺は大きく紫煙を吐き出して、二本目も放り込んだ。
「あれ、司令官じゃないですか?」
胸ポケットから「誉」の箱を取り出そうとして、止める。聞いてるだけで菓子の甘さが思い出せるほど甘やかな声がした。
特徴的な声だから、横を向く前に正体を把握できた。
提督「ああ、青葉か」
青葉「はい、そーです青葉です。珍しいですねえ、こんなところに司令官がいるなんて」
提督「一服するときはだいたいここにいるよ。ところで、君は?」
俺が尋ねると、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりの得意げな顔をして、カメラを突き出した。
青葉「今日は非番ですからね、バードウォッチングってやつですよ! この島は、珍しい鳥が生息してますからねえ。撮影場所としては絶好のところなんです」
提督「へえ……」
カメラが好きなことは知っていたが、バードウォッチングの趣味もあったのか。悪趣味な目的のために使っているイメージがあまりにも強すぎるから、そんな健全な理由がでてきたことに驚いていた。
青葉「むむ、なんですかなんですか。青葉が鳥を観察していたら何か変ですか?」
どうやら顔に出ていたらしい。
提督「いや、変とは思わないが。まあ、君の場合は日頃が日頃だからな……」
青葉「失礼な! ちゃんと健全な目的でも使ってるんですからね!」
提督「どうか健全な目的だけで使って欲しい」
青葉「それはできない相談ですね〜」
青葉は肩を竦めてそう言った。こめかみを押さえながらため息をつく。
提督「君らしいな、実に……」
青葉「ふふっ、取材をしない青葉は青葉ではありませんからね! 取材は青葉のアイデンティティみたいなもんです。やめたら死んじゃいます。死にませんが」
言ってすぐに自ら否定するのは卑怯だ。俺は不覚にも吹き出してしまった。
提督「適当なことを言うなよ、まったく」
青葉「よく言われます。とくに陽炎さん辺りから」
たしかに陽炎はよく言ってそうだ。
青葉「ところで司令官さんは、どうしてこんなところに? 執務室は別に禁煙ってわけじゃないですよね?」
提督「煙草の匂いが嫌いな子もいるからな。それで外で吸うようにしているんだ」
青葉「ああ、そういえば雷ちゃんも嫌いでしたね煙草」
そこまで言って、青葉は手を叩いた。意地の悪い微笑みが浮かぶ。
青葉「……なるほど、斬新な蚊取り線香ですねぇ」
口元を引き攣らせてしまったのは、仕方のないことだと思いたい。
提督「……まあ、たまには一人になりたいこともあるさ」
青葉「司令官も大変ですねぇ。大きな子供のお守りもしながら、指揮も取らなきゃならないんですから」
提督「そう言わんでやってくれ。君はあの子がなぜああなったのか、知っているだろう?」
青葉「そうですね。だからこそ、いろいろ思うところもあるわけですが」
青葉は楽しげな口調でそうこぼすと、緩やかにターンをして、ふわりと俺の横に腰掛けた。タオルを投げて渡すような、柔らかい動作に思わず見惚れる。甘い香りが横から漂ってきた。
薄い青紫の髪を揺らして、青葉は破顔した。
青葉「せっかく二人きりになったことですし、少しお話しませんか?」
提督「……」
青葉「あり? ダメですか?」
提督「もちろん構わないが……」
少し、距離が近すぎるような気がする。
さりげなく距離をとると、こともあろうに青葉はついてきた。眉をひそめても、青葉は変わらずにこやかな顔つきである。また離れる。ついてくる。三たび離れる。それでもついてくる。
とうとう端まで追いやられた俺は諦めた。勝ち誇ったような青葉の顔が、少しだけ腹立たしい。
青葉「ふふーん。久しぶりですね、こうやってお話しするの」
提督「……あまり時間は取れないぞ? 今はただの小休止だからな」
青葉「かまいませんよ。では何を話しましょうか? 最近のホットな話題は〜……」
顎に人差し指を当てた青葉は、二呼吸ほど間を置いて、
青葉「浜風さんについて、でどうでしょう?」
一番口に出しづらい話題を持ち込んできた。
提督「浜風についてか……」
青葉「はい、数日前命令無視をやらかして陽炎さんと揉めてましたよね。青葉は現場にいなかったから、聞いた話でしかありませんが」
当然と言えば当然だが、あの件はもう周知の事実となっている。
この鎮守府には、悪評を聞いたからと言ってすぐに当事者を排斥しようとする陰湿なものはいないが、それでも浜風の行動を快く思うものがいるはずはない。遠征隊のみんなが抱いた不信感は出撃部隊にも継承され、浜風を腫れ物扱いする空気が確実に醸成されつつあった。
青葉「彼女、なんか出会ったときと雰囲気変わりましたよねえ。最初は知的で話しやすい印象だったんですが、どうにも近寄り難くなったというか……。うーん、でもなあ、命令無視を犯すような人には見えなかったんですけどねえ」
青葉は小首を傾げながら、訊ねてきた。
青葉「どうして命令無視なんてしたんでしょう? 司令官は当然ご存知ですよね?」
提督「……一応、事情聴取はしている」
青葉「それで、理由はなんだったんですか?」
提督「とくにはない。それが彼女の回答だ」
青葉「……は?」
青葉は目を白黒させる。俺も浜風から理由を訊いたときは似たような顔をしただろうから無理はない。
青葉「なんの訳もなく命令無視したってことなんですか? それはさすがに謹慎程度で済ませてはいけないと思うんですが……」
提督「甘すぎるという自覚はあるさ。ただ、浜風が本心からそう言っているとは限らない。何かしら理由があって、隠匿している可能性もなくはないからな」
青葉「つくづくお人好しなんですね、司令官って……」
処置なしですよ、と言って肩をすくめる青葉に、苦笑いしか返すことができなかった。
提督「だが、妙だと思わんか? 浜風はかなり優秀な艦娘だ。彼女が動機もなくあんなことをするとは到底考えにくい」
青葉「どうなんでしょうね。ただ単に自棄になっただけなのかもしれませんよ。もしくは、精神になんらかの変調をきたしたか」
提督「もちろん、その可能性も否定はできないだろうな」
実際、作戦行動中に艦娘が発狂した事例はごく稀なものだがなくはない。できればそうであって欲しくはないと思うが……。
青葉「まあ、浜風さんへの処分が妥当かどうかは置いておくとして。彼女も彼女で、いろいろと抱えているのでしょうねえ。前の鎮守府でなんかあったんでしょうかね? もしくは、遭難中のことがトラウマになっているのかも」
提督「その辺りはまだよくわかっていないな」
俺はあえて曖昧な表現でとどめて、時計に目を落とした。
提督「さて、と……。そろそろ戻らなくては」
青葉「えー、もう帰っちゃうんですか? まだまだ訊きたいことがたくさんあったのになあ〜」
提督「すまんが、あまり長く開けることはできないんだ。仕事もまだまだ山積みだし、これ以上休むと今日の分が終わらなくなってしまう」
青葉「雷が落ちるのも怖いし?」
そのジョークには半笑いを禁じ得ない。俺は肩を竦めて立ち上がり、鎮守府本館へと歩き出した。
青葉「ああ、ちょっと待ってください」
振り返ると、後ろから風が一陣走り抜けた。ホテイアオイを思わせる、水を溶かしたような薄紫の髪がゆれる。彼女の頬に美しい笑窪が刻まれた。
青葉「一つだけどうしても訊きたいことがあったんですよねえ」
提督「なんだ?」
青葉「浜風さんが命令無視をしたあの任務についてです。あのとき、陽炎さんたちが会敵した深海棲艦の様子がなんだかおかしかったそうなんです。浜風さんを見た瞬間悲鳴に近い声を上げ始めて、彼女を集中的に狙い出したらしいんですよ。相当切羽詰まった様子でね」
猫のごとく目を細めて、続ける。
青葉「……興味深いですよねえ。深海棲艦は恐怖を感じない。それが通説です。その常識に従うなら、この話ってだいぶ妙だと思えるんですよ」
そう思いませんか、ねえ?
小さな口から紡がれたその言葉は、やけに色気を持って聞こえたような気がした。好奇心の旺盛な彼女は疑問を呈したとき、子供のように純粋な顔をすることがある。しかし、そこには未成熟な果実にはない落ち着いた瑞々しさがあった。
どこか危うささえ感じる、輝きだ。
提督「……その情報は」
俺は訊ねようとして言葉を飲み込んだ。
そこを尋ねることに意味はない。彼女がどうやって情報を引き出したのかなんて、考えるまでもなかった。陽炎たちの誰かから引き出したに決まっている。
提督「たしかに君の言うとおりだ。陽炎たちからその話を聞いたとき、私も妙だと思ったよ」
喉に引っかかる感触というか、妙な息苦しさを感じながら口を開く。愉快そうな顔のまま、青葉が続きを促す雰囲気を見せた。
提督「……だが、深海棲艦も生物だ。恐怖を感じることくらいあるかもしれないだろう?」
やつらが恐怖を持たないという生態は、たしかな実験から明らかとなったものではない。それは艦娘制度が始まって数十年の経験則と教訓から得られたものである。海軍の連中の杜撰な調査と、先入観から勝手に決められた穴だらけの理論だ。
「艦娘」というあまりにも強力な対抗手段を得たことに端を発する、「海軍の慢心」の一例である。やつらは力を得たことに満足して、深海棲艦への研究を怠ってきたのだ。そんな適当な理屈を素直に信用するのは間違っている。
青葉「言いたいことはわかります。ですが、ただの一介の駆逐艦相手にですよ? おかしくないですか?」
その点は青葉の言うとおりだった。
伝説の艦娘と謳われる戦艦「大和」であろうと、軍神と称される軽巡洋艦「神通」であろうと、艦娘が深海棲艦を戦かせた事例は、今まで聞いたことがないのも事実といえば事実だ。浜風が飛び抜けて優秀であることは間違いないだろうが、それでもあくまで駆逐艦にすぎないのだ。「大和」と「神通」、あの二人の威圧感は艦娘の中でも一二を争う。怖れない好戦的な生物を、果たして浜風が怖れさせることができるというのか。
俺は答えに窮し、地面を見た。顎をさする。ピースの足りていないジグゾーパズルのような木漏れ日が、風を受けた枝々とともに揺れ動いた。
青葉「うーん。今ここで話をしても、答えは出そうにありませんね」
提督「……そうだな」
青葉「それにしても、浜風さんは面白い方ですよねえ。彼女が来てから、ずいぶん鎮守府も賑やかになりました。いろんな意味でね」
癪にさわる言い方だったので、つい睨みつけてしまった。青葉は飄々とした様子で「失礼」と告げて、
青葉「さあ、私もそろそろバードウォッチングに行くとしますか。司令官、引き止めちゃってごめんなさいね。お仕事頑張ってください」
と手を振ってきた。
俺はため息をついて踵を返し、今度こそ本館へと向かう。角を曲がった瞬間に、青葉のつぶやきが聞こえた。
青葉「面白いですよ、ホント」
日差しの当たる場所へ出たのに、耳に触れた風はひどく冷たかった。
投下終了です。
浜風「おや、提督。こんばんは」
振り返った浜風が笑顔を浮かべる。外灯の灯りを吸う銀の髪が、ゆらりと揺れた。
夜の海。潮騒が静寂に優しく語りかけている。
艤装開発の下見で工廠へ向かう途中、港の方へ通っていると浜風を見つけた。ボラードに腰掛けて、何をするでもなく海を見ているようだったので、声をかけたのだ。
提督「こんばんは」
俺は挨拶を返し、続ける。
提督「こんな時間に港で何をしてるんだ?」
まさか夜釣りをしているわけでもあるまい。いくら外灯があるとはいえ、夜の海はほとんど見えないから眺めに来たということもないだろう。
浜風「潮騒の調べを聞きに……」
口元を吊り上げて浜風が答える。
提督「詩的なことを言うね」
浜風「詩的というより洒落が過ぎているだけですがね。本当のことを言うと、外に出たかったんです。部屋にばかりいても気が滅入りますし」
提督「……ああ」
浜風「提督はなぜここへ?」
提督「ちょっと工廠へ用事があってな。そこへ向かっている途中だった」
浜風「ふうん」
浜風はどうでもよさそうに言うと、足をパタパタと動かした。水を切るような動きだ。
浜風「そういえば、雷さんがいませんね。いつもくっついているのに珍しい」
提督「先に工廠へ行かせて、必要書類の整理をしてもらってるよ」
苦笑いを浮かべる。
ほぼ一日中一緒にいるから、そう思われるのも無理はないだろう。だが、金魚のフンみたいに思われるのはあまり好ましくは思えない。
浜風「へえ……一応、仕事はしているのですね」
提督「それはそうだろう。さすがの俺も穀潰しを秘書にはしないさ」
浜風「てっきり、カタチだけの存在かと思っていましたが」
提督「役割はきちんと与えるさ」
いくら、秘書に向いているとは言えないといえ。やることはやってもらわなければ、周りが納得しない。
ただでさえ、雷に対する不満の声は少なくないのだから。
浜風「提督は人気者ですし、そうしないといけませんよね」
浜風が妖艶に笑う。目がすうっと細められ、薄いピンクの唇に指先を這わせる。
毒の花のように危険な香りが、風に吹かれ、鼻腔を擽った。
浜風「ふふふっ、いま、その人気者と二人きりなわけです。……誰かに見られたら誤解されちゃいそうですね」
口から零れる声も溶けそうなほどに甘い。大きな胸が呼吸で揺れるところに、つい目が行ってしまった。
浜風がさらに目を細めた。
浜風「いやらしい目ですね」
提督「……」
浜風「目をそらしてもダメです。ちゃんと、見ていましたから」
提督「……勘弁してくれ。俺が悪かった」
本当に、勘弁して欲しい。
浜風は顔を合わせるたびにこの手の「悪戯」をしてくる。俺が困ると分かっていて、その反応を楽しんでいるのだ。
浜風が立ち上がり、こちらに寄ってきた。楽しげに下から見上げてくる。青い空のような瞳は、煙が溶けたようにやや黒さがあった。――虚無の瞳。
目をそらすと、浜風は小さく笑った。
浜風「そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃないですか」
提督「別に、嫌ではないが……」
浜風「嘘、嘘ですね。顔に書いてありますよ。嘘をついてはいけません」
お前が言うなと言ってやりたい。
浜風「ふふ……」
提督「……」
波が遠くで割れ、静寂の世界を揺らした。俺たちの間に天使が通る。
天使。それは目の前の少女のような顔をしているのだろうか。彼女は海を見ていた。その横顔は彫刻のごとく完成された造形でありながら、微かに少女らしい丸みもあって、天使と言われても納得できそうではある。
それほどまでに、彼女は群を抜いた美しさがあった。我が艦隊の駆逐艦の中では一番大人びている。
……なぜだろう。なぜか、彼女を思い出す。
全然似ていないはずなのに。飛び抜けた美麗さという点では共通しているとはいえ、その美しさは白と黒とでも言うべき対極のものだ。だのに、どうしてか、似ていると直感が告げてくる。
あの娘……静流と。
提督「……」
浜風。彼女は、家族とともに過ごしていたのだろうか。艦娘には戦災孤児が多いが、彼女もそうなのだろうか。
俺は、浜風のことをあまりにも知らなさすぎる。彼女が何を好み、何を喜びとし、どんな道を歩んできたのか。きっと、艱難辛苦を味わってきたに違いないだろう。無痛症と味覚障害をもつものの人生が、安易に平坦なはずがない。
彼女のことを知りたいと思った。全部ではなく、ほんの少しでもいいから。
浜風「提督」
ふわり、と風が吹きつけてくる。浜風が口火を切ったのはその直後だった。
提督「なんだ?」
浜風「……この風は、よいものだと思いますか?」
風が、いっそう強まって走り抜けた。
浜風「三月の中旬ですし、気温的にはおそらく冷たいのでしょう。しかし、それが心地よい冷たさなのか、不快な冷たさなのか……。提督にはどう感じます?」
提督「そうだな……」
浜風の言うとおり、風は水気を含んでいることもあって冷たい。それも長く触れていると体調を崩してしまうような、冬の名残を感じるものだ。
浜風の瞳が、真剣な青さをもつ。
空が青い理由を尋ねてくる幼子のごとく、純粋な目だ。彼女には熱を感じる能力がない。ゆえに季節の変化の節目にある、微妙な気温の変化を体感できないのだ。肌で触れても、肌が受容しない。
彼女の内的世界では、季節は死んでいる。無味乾燥とした感覚世界。そこを彷徨わざるをえない彼女を、ただ不憫に思った。
純粋なはずの青の瞳は、狂気の上澄というべきか。誰にも理解することができない、孤独の狂気だ。
提督「この風は、いい風だよ。冷たくて清々しい。デスクワークで凝り固まった気持ちをほぐしてくれるような、な」
浜風「……」
しばし無言で見つめてくる浜風。
彼女は、静謐な笑みを浮かべた。
浜風「いい風、なのですね」
そうですか、と確かめるようにつぶやく。忘れ去られ、冬に音を立てた風鈴のように美しく、空虚な声だった。俺の嘘を見抜いているのかいないのか、それは窺い知れない。
彼女は月に目を遣った。
浜風「嘘つき」
……どうやら、見抜かれていたようだ。
■
嘘つきな優しい提督が工廠に行ったのを確かめてから、私は港を後にした。艦娘寮や本館がある方へはいかず、雑木林の中へと入る。草木をかき分けながら進むと、磯へと辿り着いた。波飛沫くだく黒い岩の塊は、闇夜の中でもズンと重たい存在感があった。
そのまま磯を歩き断崖に立つ。海面からの距離はそう遠くはないと、顔に当たる水気が教えてくれる。
懐から折りたたみ式の双眼鏡を取り出した。海を見渡して念のために巡回の有無を確認した。この時間に巡回組がここを通らないことは把握しているが、万が一にも見られるわけにはいかないので、万全を期す。
いない。艦影一つ見受けられない。夜目が利くようになったので見逃すこともあり得ないだろう。
私はそのまま海へと降りた。
艤装など装備していないが、構わない。私にはそんなものなんて必要ないからだ。艤装がなくても海面へ足を踏みしめることができてしまう。
そんな艦娘は、まずもっていない。
ならばなぜ、私はそれができてしまうのか。簡単な話だ。私は人間でもなければ艦娘でもないからだ。なにか、よくわからない漠然とした存在である。
いや、私は『欠陥品』だったか。人間はおろか艦娘さえも超越しつつも決定的に欠落している。その歪さは、笑えるほどにおかしい。ああ、私の自我はどこにある。歪んでしまったものは、もう戻らない。戻りようがない。
私は、艤装を動かす要領で念じ、航海を開始した。
波が高速で流れていく。星がぐんぐん飛んでいく。私は頭の中でスロットルを絞る。狂ったように絞る。ギチギチと背中から不気味な音が聞こえた。何が付いているのかは知らない。確認したいとも思わない。
内側から湧いてくる絶望的な狂気を、消し飛ばすように。私は一気に速度を上げて沖へ向かう。
その途上で、だんだんと風切り音にノイズが混じり始めた。
アアアアァァ……!
オレノ足……ドコ……? チガトマラネェヨ……チガチガァ……。ヒヒ……ヒヒヒヒ……。ギャ、アァァァアァ……。腕、腕ウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデ。……ハラワタ……ヒキズ…リ、ダセ……。コロシ……テェ……。ちぎれ、アタマが……脳みそグチャグチャ、グチャグチャ……。
怨嗟、嘆き、慟哭、恐怖――。
壊れたテレビのような音に混ざって、それらの声が聞こえてくる。艦娘だったときには、聞こえなかった出迎えだ。
目を凝らして空を見る。怨念どもが――そうと表現する他ない異形の浮遊物が――蠢いていた。いや、遊浴していたというべきか。
あれらが何かは知らない。戦争や事故で失われた命が、成仏しきれずに彷徨っているもの。そう考えるべきなのだと思う。
彷徨い苦しむ魂どもは、まるで河原を飛び交う蛍のごとく明滅している。当たり前だが綺麗だとは思えなかった。もしそう感じるようになったら、この目玉を抉り出してやる。
私は怨霊も、声も無視して、手をかざした。
手が不気味な音を立てながら形を変え、空母ヲ級の頭部についた付属物と同じものとなった。口を開き、偵察機を発艦させる。空母ヲ級の艦載機は夜間でも正確に敵を捕捉できるから重宝する。誰にもバレずに「実験」をおこなえるのは、この力のおかげだ。
飛んでいく偵察機を見送りながら、おかしくて笑った。いつもだ、いつも、この力を使うと笑いが堪えきれなくなる。こんなものを有難がる自分が、おかしくておかしくてしょうがない。
いや――違う。
私は、喜んでいる。この力に溺れ、この力を使い、深海の怪物どもを八つ裂きにしている瞬間は、自分の怪物性に疑問を持たなくていいからだ。
私は、怪物である。怪物だ。人間ではない。艦娘でなくてもいい。このときだけは――。
しかし、欠陥からは逃れられないが。
浜風「どうでもいい」
殺せるなら。
やつらを、壊せるなら。そうして、私をこの地獄に叩き落としたあのクズ野郎を抹殺できると思えるのなら。
魂だってなんだって売ってやろう。
――いいわ、今のあんたこそ見たかった。
怨霊どもの声に、最悪なほどに耳障りなものが混じった。それは不気味な嗤いを連鎖的に爆発させる。私の目の前にふっと現れた義姉が、怨霊どもを呼び寄せながら、言った。
――あんたは、ああ、やっぱり可愛い。苦しんでいるあんた、すごくそそるわあ……。あんたは陰気臭い顔をしてなきゃダメよ、ダメ。
浜風「……」
――ねえ、無視しないで。今のあんたとなら仲良くなれそう。うふふ、だって私が壊そうとしなくたって、ずっとその顔をしてくれるんですもの。
浜風「……」
雑音が、煩わしい。歯を砕く勢いで噛み締めながら、目の前の亡霊を睨みつけた。
――きゃ、こわあい。そんな顔しないでよお。お人形みたいな顔が台無しでしょお。……あ、お人形だったか。
嘲笑う声が、渦巻いた。
浜風「……うるさい」
私は、貴様の……お前たちの、オモチャではない。笑われる理由なんかないんだ。
――笑うわよ。あんた、あんたほど、滑稽なやつなんかいないわ。
――ワタシハ、ニンゲンダ……。カゲロウガタノホコリィ……。ゲハハ、キャハハハ……ニンゲン、ニンゲンジャナカッタ。ケッカンヒンダッタヨォ……。カナチイ……ゲハ、カナチイ……ネェ。
浜風「うるさい」
怨霊どもの顔が、みんな義姉に変わった。
奴らは、みんな同じ顔で、嘲りをぶつけてきた。
浜風「黙れぇっ!」
背中が膨張する。膨れ上がった肉が制服を突き破り、翼のように広がると瞬時に形を変えた。戦艦ル級の艤装……十六インチ三連装砲へと。
脳髄を刺す衝動が、引き金をおろした。膨大な音の暴力が空気を叩き、内蔵に響く勢いで下腹を震わせる。砲弾がやつらを裂いた。遠間に水柱が上がった。
風が煙幕をさらい、奴らの姿が消えてもなお、腹を這いずる怒りは消えなかった。
やつらの憎たらしい声が、反駁許されぬ存在否定が、頭の中で反響する。私は歯ぎしりをした。この内なるドス黒い衝動を、いますぐぶつけてやりたい。偵察機、何をしているんだ。さっさと、さっさとエサをみつけろ。このウサは、奴らの血肉をもって晴らしてやる。
偵察機が帰ってきたのは、それから五分ほど経ってからだった。体内に吸収し、持ち帰った情報を吟味する。ここより十時の方角、五海浬ほど先に敵の艦隊が航海中であるということだった。空母ヲ級も含む機動艦隊。
私は、いつもの要領で艦載機を発艦させた。
壊してやる。八つ裂きにしてやる。皆殺しにしてやる。
お前たちは、私が扱える唯一のオモチャだ。
投下終了です。
更新かなり遅れてます。申し訳ありません……。
少し、報告があります。9月のオンリーイベントにて、こちらの作品の加筆修正版を販売することとなりました。もし、興味がおありでしたら、お手にとっていただけますと嬉しいです。カゼヤマイという名前でTwitterをやっています(詳細はそちらの方でご確認くださると幸いです……)。よろしくお願いします。
酉の情報が出てしまいましたので、今度からこちらにかえます…。ご了承くださいませ。
玩具のように蹂躙した。
奴らが私にそうしたように、私も奴らを弄んだ。
恐怖に怯え、逃げ惑い、爆撃と魚雷に食いつぶされる奴らの姿は滑稽であった。ときには砲撃で足を潰して、逃げられなくなったやつらをゼロ距離から痛ぶった。機銃で、少しずつ少しずつ壊していくのだ。装甲が崩れ、皮が裂かれ、肉片が飛び散り、臓物がグズグズに壊れていく。中がどんどん広がって、まるで肉が花弁のように開いていく。そのたびにやつらの声は跳ね上がったりか細くなったりを繰り返す。
奴らの目にはどんなふうに私が映っただろう。
悪魔だろうか。それとも死を与えてくれる天使であろうか。どんなイメージにせよロクなものには映っていまい。
怪物たちから「怪物」に見られるというのも奇妙な感覚だ。お前は人間でも艦娘でもないんだぞ、と告げられているようである。
私の曖昧な自我は、やつらから怯えた目を向けられるたびにさらに溶けていくようだった。
その感じがたまらなく不快で、不快で、いつしか壊す途中でやつらの顔に砲弾を叩きこむようになった。それでもその感覚は日に日に強くなっていく。やつらを殺るたびに、やつらから教えられる。いまや海は、ただの戦場ではなく、私の存在を否定し続ける魔女裁判の壇上と化していた。
海に出れば、すべてを否認される。
わけのわからない亡霊どもからは笑われ、義姉の幻影からはなじられ、深海棲艦からは恐怖される。月は茫漠と死を告げる鉄の鳥を空に描き出し、醜く変質した私の影を照らす。最近では、波の音も空気も星の輝き一つ一つすらも、私を拒絶しているようにさえ思えてくる。
行き過ぎた被害念慮だとは思う。だが、そう思ってしまうほどに、海というものは私の味方ではなくなっていた。艦娘にとっての故郷であるはずのこの場所から、私は排除されようとしていた。
もはやどこにも、私の居場所なんてない。この世界で自我を崩されたまま取り残されてしまった。わけがわからない混乱のさなかで、もがき苦しむことを強制させられている。
それでも私は海へと出ることをやめなかった。
意地になっているわけではない。反駁がしたいわけでもない。
ただ、憎しみを晴らしたかったのだ。
私にはどうしても許せないやつがいる。怪物どもとは比べものにならないほどに、そいつへの憎悪は根深い。そいつを恐怖に陥し入れ、悲鳴を上げさせなけば、私は死んでも死に切れない。
その憎悪が、怒りが、まだ私をこの世に繋ぎとめている。
浜風「もう、十分ね」
私は、頭部の破損した死体を蹴り飛ばした。空母ヲ級だったその肉塊は仰向けに転がり、壊れた頭部を露わにする。まるで落ちたザクロのように四散し、脳組織は撒き餌として海に撒き散らされている。絶叫の名残に開かれた口から舌を垂れ流し、海を舐めていた。
汚い死体だ。汚らわしい汚らわしい肉だ。
こんなふうにやつが変わるなら。それはさぞかし愉快であろう。もう、我慢ができない。もう、もう、もう、壊したい。実験は終わりだ。私が何者であるのか考えるのもやめだ。結局は「怪物になった」ということが分かっただけで、どのような怪物であるのか具体的なことは何も分からなかった。グレーゴル・ザムザが毒虫に変わったのか、甲虫に変わったのか、それとも「生贄にできないほど汚れた獣」に変わったのか、本当の正体が正確に分からないのと同じように。真相を考えるだけ徒労だった。
終わりにしてしまおう。最後の玩具遊びは、やつの血肉を引き裂いて終幕を迎える。
南提督の絶叫と、ともに。
かなり短いですが、投下終了です。続きは近日中に上げられればと思います。
■
浜風と話してから五日が経った昼下がり。いつものように執務をこなし、そろそろ昼休憩にしようかと思っていた矢先に、黒電話が喧しく騒ぎ立てた。
まったく、一息つこうとするときに限って連絡が入るのはどうしてなのだろうか。
間宮の唐揚げ定食を心待ちにしていただけに、水を差されてげんなりした気分になる。空きっ腹も空きっ腹だから、はやく唐揚げを胃に詰め込みたいのだが。
いっそのこと聞かなかったフリをしようか、と職務放棄も甚だしいことを考えていると、真面目な秘書官からお節介が入った。
雷「司令官、お電話鳴ってるわよ」
可愛らしく小首を傾げる雷が、指をさして教えてくれる。こう言われた以上出ないわけにもいかないから、俺は諦めの息をこぼして、仕方なく受話器を取った。
提督「……こちら南西鎮守府、柊中佐です」
『やあ、柊君』
どっしりとした物腰を感じさせる、落ち着き払った声であった。その重厚さはそびえ立つ岩壁を空想させるほどで、威厳に満ちている。俺の萎んでいた意識は一気に覚醒し引き締まった。電話の前にもかかわらず、ピンと背筋を張ってしまう。
提督「舞鶴中将……! お久しぶりです」
彼は、帝国で五本の指に入るとも言われる舞鶴鎮守府の長である。勇猛果敢な将として名高いが、ギョロリとした丸い目玉と大きな鼻、恰幅の良い大きな体?から「ダルマ中将」の異名をもっていた。
俺の恩師であり、敬愛する上官であり、数少ない信頼のおける人物だ。ぼうっと応対し、不敬を働くわけにはいかない。
舞鶴『一月ぶりだな。前に会ったのは定例会議のとき本部でだったか』
提督「ええ。その節はどうもありがとうございます。十分ご挨拶もできなかったのに、ウイスキーまで頂いてしまって……」
俺が畏まってぺこぺこしていると、舞鶴中将は豪快な笑い声をあげた。まるで、黒電話の前で頭を下げる俺を見ているかのようだった。
舞鶴「気にするな気にするな。ちょうど舶来品が手に入る機会が巡ってきてな、お前にも分けてやろうと思っていたんだ。……で、どうだ? 美味かったろう」
部屋の端に置かれた棚へと秋波を送る。ブラックニッカのボトルが林立している中に、ひときわ異彩な琥珀色の光を放つボトルがあった。
マッカラン18年。有名なスペイサイドのシングルモルトで、「シングルモルトのロールスロイス」とまで称されたスコッチウイスキーだ。深海棲艦の出現によって各国との貿易が分断された昨今では、まずお目にかかるのも珍しい一本で、値段は艦娘制度が始まる前と比較にならないほど高くなっている。市井のものでは、まず飲めないだろう。
そんなものをタダでもらってしまったのだから、恐縮する他ないが、味の感想を聞かれると少し困ってしまう。
俺は少しだけ躊躇しつつも、事実にも触れた嘘をつくことにした。
提督「すいません。どうしても、特別な日に飲みたくて、まだ開けていません……」
舞鶴『む、そうだったか。まあ無理もない。飲んでみたらそのとき教えてくれい』
提督「はい。南西諸島海域を攻略した暁には、このボトルを開けて、飲んだ感想と一緒に報告をしようと思います」
舞鶴『がはははっ、頼もしい限りだな! 楽しみに待っているとするよ』
バシバシと机を叩く音が聞こえてくる。きっとその場にいれば、岩のようにゴツゴツとした手で肩を叩かれていたことであろう。
心の中で、小さな息をこぼす。
飲まなければならなくなってしまったか。俺には安酒があればそれで十分満足せねばならないのに。あのボトルの輝きは、あまりにも眩しすぎて、目に消毒液を塗るようなものだ。
俺は憂鬱さを誤魔化すために、話題を変えることにした。
提督「……ところで、ご用件は一体なんでしょうか?」
舞鶴中将もただ酒の感想を聞きたいためだけに電話をしてきたわけではあるまい。ただでさえ、大規模作戦中で忙しい時期なのだ。暇をつぶす余裕などあるはずもないだろう。
舞鶴『ああ、そうだそうだな。前置きはこの辺りにして、本題に入るとしようか』
舞鶴提督の声が、重く鋭いものに変わった。
ピンと空気が張り詰めた。外の風が窓硝子を叩き、去っていく。そのノックがやけに大きく聞こえたのは、唐突に訪れた重力を帯びた静寂に、イマイチ耳がついてきてくれなかったせいか。
舞鶴『あってはならないこと……いや、起こるべくして起こったことと言うべきだろうか。大変な事件が起こってしまった』
提督「……大変な事件とは?」
俺は縫い付けられるように受話器を耳へ押し付けていた。
時計の針が、沈黙を刻んだ。
舞鶴『……南鎮守府という鎮守府を知っているだろう? 最近提督が交代した鎮守府だ』
提督「ええ」
知らないはずがない。
あいつの、南提督の声を思い出すだけで腸が煮えくり返るくらいだ。一体、あのクズ野郎の鎮守府がどうしたというのだろうか?
舞鶴『本日、その鎮守府が深海棲艦による襲撃を受けた』
提督「え――」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。言葉は正しく耳に入ってきたのだが、脳の処理が追いついてくれなかったのだ。
舞鶴『襲撃を受けたんだよ、南鎮守府がな』
舞鶴提督は俺の反応を察したようにゆっくりと繰り返す。
襲撃……? それは本当のことなのか。もし、本当のことだとしたら、大事などでは到底すまない。
海軍を、この国を揺るがしかねない事態だ。
俺の動揺を察したのか、トレイを持った雷が心配そうにこちらを覗き込んでくる。なにか言いたそうに口を動かしていたが、訊いてこなかったのは通話中であることを配慮したためだろう。俺は軽く眉間を揉んで、受話器をさらに強く握りしめた。
提督「……詳しい経緯を、教えていただいてもよろしいでしょうか?」
舞鶴『襲撃を受けたのは深夜だ。時刻は〇一三〇。艦載機による空襲がおこなわれた』
空襲。それはつまり空母機動部隊による襲撃ということを意味している。
提督「空母ヲ級……」
舞鶴『おそらくはだが、それで間違いあるまい。夜間艦載機を飛ばせるもので、鎮守府近海に出現する可能性が高い深海棲艦となると、やつ以外には考えられん』
提督「被害はどうなっているのでしょうか?」
舞鶴『……単純な被害で言うとだが。被害は軽微な方だ。死者は一名のみで、負傷者も三名に満たない。建築物への被害は工廠と鎮守府本館の半壊。当時、夜間哨戒が出ていなかったことを考えると、たったこれだけの被害で済んだのは奇跡というべきだろうな』
たしかに奇跡的なほどに被害は小さい。だが、被害の大小はここで真に問われるべきことではなかろう。ここで問うべきは、内地へ――それも鎮守府へ――敵の空襲がおこなわれたという事実そのものだ。
艦娘制度が始まってから三十年ほど経つが、その間に内地への空襲は一度たりとも起こってはいない。詳しい理由はわからないが、無責任な御用学者どもの間では、「深海棲艦の縄張り行動が関係するのではないか」という学説が有力視されている。深海棲艦はそれぞれ群れ……艦隊ごとにテリトリーを持っていて、その範囲内でのみしか行動しないという説だ。
それを証明するように、事実、これまで空母ヲ級や戦艦ル級のような沖をテリトリーにする深海棲艦が、近海に近づいたことはなかった。
冷静に考えれば、眉に唾をつけるような説であることはすぐにわかる。しかし、三十年という期間は、無責任な言説にそれなりの説得力を与えるには十分すぎるほど長かった。
艦娘という、強大な対抗手段を早期に得てしまったこともあって、軍の連中はこの説を疑いなく信じてしまっている。もはや驕りというほど愚直にだ。そしてこの説を根拠に、政治家どもは内地の『絶対安全神話』を作り出し、国民へ喧伝し続けた。――『帝国は神に愛された国』をキャッチフレーズにして。馬鹿げた説明だ。しかし、そんな馬鹿げた説明も、すんなり受け入れられてしまうのが軍国主義の蔓延る大衆社会の可笑しいところだと思う。弾圧され、批判がおこり難い社会というのは、実に愚かなものだ。
だが、この事実が明るみに出てしまえば、いかに愚かな国民であろうとも目を覚ましかねない。信じられ続けた『絶対安全神話』が嘘だということが明らかとなるのだから。そうなった場合、混乱は避けられないだろうし、軍への不信は多少なりとも生じてしまうだろう。いまは限りなく抑制された左翼団体にも動きが出てくるかもしれない。いずれにせよ、国内の治安が乱れる可能性が少なからずある。
上層部の連中が、この事実をどう扱うのかなんて考えるまでもない。ホラ吹きは、罰の悪さからはすぐに目をそらし、取り繕うと相場が決まっている。
提督「……提督会議は、この件をどう処理したのですか?」
少しの沈黙の後に、舞鶴提督は答えた。
舞鶴『当然隠蔽した。私が連絡を取るまで、お前のところに情報が渡っていなかったのがいい証拠だ。この件は……』
言葉を詰まらせ、続ける。
舞鶴『この件は事故として処理される。気を違えた艦娘が、狂乱の末に起こした不幸な事故としてな。そのために空母の艦娘が反逆罪で逮捕、軍法会議にかけられることとなった』
受話器を叩きつけなかったのは、俺にしては我慢した方だと思う。
クズ野郎どもめ。
どこまでも愚かで救いようのない連中だ。事態をもみ消すために、なんの罪もない艦娘に罪を着せ、捨て駒にするなど……。
雷「あの、司令官……?」
心配に耐えかねたのか、雷がいつの間にか側に来ていた。怯えと不安に潤んでいるから、瞳にぼんやりと映る俺の顔は歪んで判別もつかない。が、その形相の酷さは見るまでもなく知覚できていた。
雷の頭に手を置いてゆっくり撫でる。絹のような弱々しい柔らかさとともに、花のようなシャンプーの香りがふわりと舞う。だが、煮え立つ腸はまったく冷めようとはしなかったし、雷もいつものように気持ちよさそうな顔をしてくれはしなかった。むしろ、涙が溢れそうになっていた。
俺は正面の扉を睨みつけた。
提督「……ふざけている」
舞鶴『そうだな、私もそう思うよ。閣下が退陣されてから、我が軍の腐敗はさらに加速している』
それはそれは耐え切れないくらいの悪臭を放つほどに。舞鶴提督の言うとおり、呉提督が居なくなり、横須賀提督が舵取りを独占するようになってからというもの、海軍はさらなる利権と欲望の坩堝に入って、虫も食わないほどに酷い状態になりつつあった。
舞鶴『このような外道の行い、閣下がいたら許しはしなかったはずだ。忸怩たる思いに駆られるものだよ。……私一人では止めようがなかった』
提督「上層部の方々は、矜持を忘れてしまったのでしょうか」
ああ、と短い返事があって、
舞鶴『忘れたんだろうな……。まったく、欲とは――栄光とは怖ろしいな。あまりにも強すぎる光というものは目を眩ませて、あらゆるものを見えなくしてしまう』
栄光とは、海軍が真の意味でこの国の盾となったことを指す。
艦娘という力は、深海棲艦に対する唯一の対抗手段であり、それを独占した海軍が軍事において権力を握るのは至極当然のことであろう。この国の軍事的な権力は、文明開化以前の内戦を収めてきた陸軍の手中にあり、海軍は長らく日陰にいることを強いられてきた。半世紀以上だ。その間に溜まったフラストレーションが、権力を手にした途端爆発し、暴走をおこして歯止めが効かなくなってしまった。権力はあらゆるものを食い散らかし、成長する化け物をその内に飼っている。栄光という名の陰に隠れた化け物を。
その化け物に、我々の誇りは壊されてしまったのだ。
鉄臭い匂いが、染み込むように口に広がった。
知らない間に唇を噛み締めていた。海軍軍人の端くれとしてあまりにも情けなく、何もできない自分が許せなかった。
提督「……南提督はなにをしていたんだ」
やり場のない怒りを南提督のやつへと向ける。
夜間の哨戒は海軍全体で見ても軽んじられている傾向にあるが、それでもやつの防衛意識の低さが、この件を招いたのは事実だ。鎮守府を預かるものとして、責任を取ることは免れないはずである。これは、軍法会議にかけられて死罪になってもおかしくはないような失態だ。
舞鶴『……そういえば、まだ言ってなかったな』
舞鶴提督が声を発するまで、やや間があった。
舞鶴『その亡くなった一名というのが、南提督なのだよ』
青天の霹靂だった。腹の底の苛立ちも消し飛ぶほどに。
提督「南提督が……!」
舞鶴『ああ。まず敵は工廠を爆撃し、その後間を置かずに鎮守府本館へ爆弾を投下した。それもただ一発、執務室へ向かってな。それによって執務についていた南提督は死亡した。当然のことだが、肉片一つすら残ってはいなかった』
提督「……」
舞鶴『非常に残念で、遺憾なことだ』
痛みいるように言葉が沈んでいる。その重さが胸に落ちて、波紋のように戦慄を広げた。
南提督ことなんか嫌いだが、これは単純な嫌悪を根拠に無関心を装える程度の事態ではない。初の空襲が、提督の死という結果を迎えたことは、同じ提督という立場として無視できようもなかった。
背中が、汗で濡れているのを感じる。暖房が効きすぎていないことは、机の上の温度計が示していた。
間違いない……。
なにかが、なにかが確実に変わろうとしている。
これまで常識と思い込んできた物事が、変化を迎える過渡期に立っているのだと、確信した。
この確信が、怖れの正体なのだ。
いや……それだけではない。
どうしてか、一瞬浮かんでしまった浜風の顔が脳裏から離れなかった。
その顔は死に至る病に侵され、瞳を暗月のごとく妖しく輝かせていた。
寒気を感じるほどに凍てついた表情だった。
投下終了です。遅れて申し訳ありませんでした。
■
火炎が渦巻く鎮守府本館の執務室を見ていると、口角が釣り上がるのを抑えられなかった。
私は、殺した。
ついに、この手で、やつを殺したのだ。私を地獄の底に叩き落とし、化け物へと変質する要因を作り出した痴れ者を――。
私は無線を下ろした。やつの位置を把握するために、無線を傍受して情報を探っていたのだ。
現在、南鎮守府が大規模作戦中であることは情報として掴んでいた。大規模作戦は夜間出撃を敢行することも珍しくはないので、深夜帯でも無線での出撃部隊とのやり取りは積極的に行われていた。私が傍受したときは戦闘の真っ最中で、爆音混じりの先輩たちの声と、南提督の耳障りな怒号が飛び交っているようだった。
私は、戦闘が終了するタイミングを待った。戦闘が終了すれば、報告書をまとめるために提督が作戦指揮室から執務室へ向かうことを知っていたからだ。遠間から鎮守府本館を眺め、機会を伺った。
そして、そのときは来た。出撃が成功に終わり、帰還を告げる報告があった後、しばらくしてから鎮守府本館の執務室に明かりが灯った。
私はすぐに艦載機を発艦させた。
まず工廠を破壊した。工廠には艦娘の艤装が保管されているので、追撃を断つ目的があった。だが、狙いはそれだけではない。これは言うならば少々派手な花火のようなものである。予期していない花火の音が聞こえたとき、室内にいる人間がどのような行動をとるか。それは想像するに容易であろう。
そして予想どおり、やつは執務室の窓から顔を覗かせた。望遠鏡から見えるやつの顔は、動揺に色付いて間抜け面そのものといった感じだった。
私はほくそ笑んで、執務室へ急降下爆撃を行なった。爆弾は突き刺さるように落ち、爆発を起こして執務室を崩壊させた。飛び散る破片は、やつの肉塊が消し飛ぶ様を想起させ、黒煙が火を伴いながら闇夜に登っていくところは美しくすらあった。
そして私は、恍惚としてその光景を目に刻み込んでいた。
ああ……ああ、なんて綺麗なんだろう。
この炎が、やつの肉を焦がしていると考えただけで身体が内側から震える。腸を蠢くドス黒い感覚に擽られるようにくつくつ、くつくつ笑った。くつくつ、くつくつ。ケタケタ、ケタケタ。
ゲラゲラ、ゲラゲラ。
私じゃない、誰かの笑いが混ざった。
――おめでとう。
祝福する声は、ただ鬱陶しいだけのもの。背後から耳を撫でるように聞こえた、義姉の声。
――よかったわね、憎たらしいやつを殺せて。とても嬉しそうでなによりだわ。
浜風「消え失せなさい」
――相変わらず連れないわねえ。せっかく私が祝ってやっているんだから、少しは嬉しそうにしてもいいじゃない。
無視をした。興が一気に削がれ、思考が冷めていく。
――もう、無視しないでよ。ひどいわねえ、傷つくわ。
義姉は言葉とは裏腹に楽しそうに笑っていた。それがなおさらいけ好かない態度で、不快である。
――ほんと、あんたは可愛いわね……。どうしようもないくらい呑気で、愚かで。ねえ、あんた気づいてないの? あんた、自分が今どういう状況にいるのか。
浜風「……」
私は、黙って昇り立つ黒煙を見つめた。
そんなこと言われなくても分かっている。南提督の殺害は怪物となった私の悲願であったし、生きる意味でもあった。その悲願を達成してしまったということは、今の私には何も残っていないということになる。そう、何も残ってはいないのだ。
私は、空っぽになってしまった。
今このときをもって、無感の化け物へと変質を完遂した。
浜風「……ふふっ」
もう、それでいい。
私は私がどうなろうと、もはや構わない。
この内で蠢いていた憎悪に突き動かされるように生きてきたが、それもなくなれば後は止まるだけであろう。電池がなくなった玩具のように。
いつの間にか正面に来ていた義姉が、訝しそうに首をかしげていた。彼女の魂胆は見え透いていた。報復を果たした私に、生きる意味がなくなったことを、空っぽになってしまったことを指摘して、絶望させようとしたのだろう。
間抜けは貴様だ。そんなことが分からない私ではない。
私は、最初からそうするつもりであった。
この人間社会で生きる資格は、私にはない。
でもせめて。せめて、ここからいなくなる前に。
最後にこの景色だけは楽しみたい。
生きる意味を失った人間の選択肢は二つある。
再び生きる意味を見出そうと行動するか、諦めて死ぬかだ。
前者と後者の選択肢に単純な優劣は存在し得ないだろう。個々の複雑な状況の中で個人の自由意志によって決められる事柄だからだ。それこそ個人差というものである。
だが、そうそう前者を選び取るものがいないことはわかる。人間は誰しも強い生の欲求を持っているから、そう簡単に死ぬことはない。生きる意味を失うような出来事に遭遇した場合も、レジリエンスが有効に働けば生きる力もまた湧いて出てくる。人間の心理は基本、生の方向に軌道修正するようにできているのだ。
しかし後者の方へ転じる場合もある。それはレジリエンスが働かず生きることに意識が向かなくなってしまうことだ。つまり、他に生きるための理由が見つけられず、もはや死ぬしかないと考えてしまう状態を指す。ジークムント・フロイトがいうところのデストルドーという概念である。
私はデストルドーに支配されていた。
南提督を殺害したことによって、私は生きている意味すべてを喪失した。やつへの復讐が最後に残された生きる動機であったからだ。これからまた新しく生きていく意味を探していこうとは思えなかった。なぜなら、私の希望は絶対に叶えられないからである。元々人として不完全で、とうとう人でないものとなってしまった私に、堕ちるところまで堕ちた私に、人間社会で生きる意味が見つけられようはずもない。
だから私は死のうとした。
何度も何度も死のうとした。
だのに、死ねなかった。
鎮守府本館から飛び降り自殺を図った。なぜか死ねなかった。気付いたら地面に無傷で寝転がっていたのだ。だから何度も飛び降りた。だけどその度にコンクリートの上で無傷で眼が覚める。
わけがわからなかった。夢だと、なにかタチが悪い夢だと思おうとした。だが、何度もやっていくうちに飛び降りでは死ねないことを理解した。
だからやり方を変えてみた。刃物を身体に突き立てる。首を吊る。毒を採取して飲み込む……ありとあらゆる手段を試した。
だが、そのすべてが無駄に終わった。刃物が、透明な壁に阻まれて身体に刺さらない。首を吊ってもなぜか紐が千切れてしまう。毒を飲み込んでも苦痛に襲われることすらない。他の手段をやっても、何らかの妨害が入って無効化される。
死ねない。なにをやっても、死ねない。
どうして死ねないのか、最初はわからなかった。だが、やっていくうちにその理由がわかってしまった。
私の内に取り込まれた深海棲艦の力のせいだ。
深海棲艦は、艦娘の艤装以外で殺すことはできない。艦娘制度が始まる前は、前時代の軍艦や航空機はもちろん、ありとあらゆる深海棲艦の殺害方法の実験がおこなわれた。そのいずれも上手くはいかなかったらしい。深海棲艦はたとえ強烈な爆発を受けてバラバラになろうとも身体を再生させ、元に戻ってしまう。異常なほどの再生能力を持っていたのだ。
そして、あらゆる実験の果てに有効な手段として開発されたのが艦娘である。深海棲艦は海で死んだ怨念と沈んだ軍艦のパーツをベースに生まれた生物だ。それは研究の結果明らかとなった事実であるが、その魂を浄化する力を艦娘が有していることがわかった。
そう、艦娘の力以外では殺せないのだ。
だからその存在と力を取り込んだ私も死ねない。
私は深く絶望した。
私には死ぬ自由すらないというわけだ。こんな理不尽なことがあって良いのだろうか? 神という存在を殺してやりたいと思うくらいに、すべてが呪わしい。
どうして、私ばかりがこんな目に合わなければならない。
ふざけるな。
死ぬ自由さえ私から奪うというのか。
私はもう疲れたんだ。こんな乾き切った地獄のような世界で生き続けねばならないことに。
だから、死なせろ。私はもはやそれ以上は何も望まない。
死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。
死へ至ることができない、絶望。
それはもはや病ではなく呪いだった。
投下終了です。
あけましておめでとうございます。更新ゆっくりですが、今年も風病をよろしくお願いします。
■
雷「甘味~、甘味~。あんことお餅とアイスクリーム~」
上機嫌な歌が春日の空に飛んでいく。茶色のクセ毛がぴょんぴょんと跳ねているところを見ながら、俺は小さく微笑みを浮かべた。
昼下がりの空は穏やかな青だった。悠々とした雲を目指すように海鳥が飛び、声を立てている。潮止まりなのか、テトラポッドを打つ波も静かだった。飛沫は消え入るような透明な白。
雷「司令官、司令官は何食べたい? 和菓子? 洋菓子?」
提督「ん~、何食べようかなあ」
雷「決まってないの?」
提督「そうだな。雷と同じものでいいかな」
雷「え~、それじゃつまんないわよ。違うものを頼んで食べ合いましょう! 私はわらび餅を頼むから、司令官は洋菓子系でなにか頼んでね!」
提督「おいおい、勝手に決めないでくれ」
雷「じゃあ、いちごパフェにしてちょうだい。ちょうどいちごも食べたかったのよね」
話を聞いていないらしい。雷はパッと花が開くように笑って、勝手に話を進めていく。そして、決定と言わんばかりに再び前を向くと翼のように両手を広げて走って行った。不思議な鼻歌が徐々に遠ざかる。
苦笑いをこぼす。
まったく、仕方のない秘書艦だ。こんな子供っぽい秘書艦はどこを探したってこの鎮守府にしかいないだろう。
まあ実際に子供なのだが。
提督「待て待て。そんなに走らなくても間宮は逃げないぞ」
雷「いやー。司令官も走りなさい。ただでさえ机仕事ばかりで運動不足なんだから」
提督「それを言われると辛いな」
その上、酒と煙草に溺れているからなおのことだ。「その調子だと五十になる前に死ぬぞ」と大学校時代の先輩に冗談交じりに忠告されたことを思い出す。そのときは苦笑いで済ませたが、最近の体力の衰えをみるにあながち冗談ともいえなくなってきている。
まあ、人間の命など篝火と同じでいつか燃え尽きてしまうものなのだから、それが多少早まったところで問題はないだろう。別に長生きしたいとも思わないから、一時的な快楽のために寿命をすり減らすことには抵抗を感じない。
人間五十年。有名な敦盛の一節にもある。長生きするというのは、嫌なことだ。生きているということは地獄の中を歩いて行かねばならないということに他ならないのだから。
こうして甘味を食べに行こうとしている今も、歩いている道には俺にしか見えない血が広がっている。
数々の屍が転がり、そしてこれからも数多の屍を築き上げていくことになるであろう血濡れた道。
俺は目線を空に向けた。
空には、地上の血の色を知らない鳥が飛んでいる。俺はその鳥を羨むように見つめた。
雷の鼻歌は、鳥たちには届いていないだろう。俺は彼らを心底羨ましいと思った。
甘味処の門を開くと、多くの艦娘たちが座っているのがみえた。店内は雑談の声でやかましい。今日はオフだし、ただでさえ娯楽の少ない鎮守府内だから、ここに人が集まるのは半ば必然といえた。
トレイを抱えてあちらに行ったりこちらに行ったりと忙しそうな間宮が、俺たちに気づいて「いらっしゃい」とにこやかに挨拶してくれた。堅苦しい敬礼をしないで出迎えてくれるところが素直に嬉しい。俺が表情を綻ばせていると、雷が「間宮さん!」と目を輝かせながら彼女に抱きつきに行った。
イノシシのような突撃を優しく受け止めて、間宮は言った。
間宮「雷ちゃんもいらっしゃい。お仕事終わったのかしら?」
雷「ううん。まだ整理しなきゃいけない書類がたくさんあるわ。今はお昼休憩~」
誰に対しても懐かない彼女も、間宮には懐いている。これも彼女の包容力のなせる技なのであろうか。楽しそうに語りかける雷と柔らかく応じる間宮のやり取りは、子供と母親のそれのようで微笑ましい。
二人の様子を静かに見ていると、後ろから肩を叩かれた。
振り返る。そこには鈴谷と熊野がいた。鈴谷はコーヒカップを片手にもち、熊野はチョコレートパフェが二つ乗ったトレイを持っており敬礼ができないためか、あたふたと落ち着きがなかった。
鈴谷「提督ちーす!」
提督「やあ」
熊野「鈴谷……! 失礼ですわよ」
厳しい口調で鈴谷を諌めようとする熊野に、俺は笑って手を横に振った。オフのときはある程度フランクでいいと何度も言っているはずだが、熊野は相変わらず真面目である。きちんとしていないと落ち着かない性分なのかもしれない。
ですが、と納得のいかなそうな熊野をみて、鈴谷が溜息をついた。
鈴谷「いいかげん慣れなよ熊野~。提督はそういう畏まったの苦手なんだからさ。鈴谷みたいに接すればいいんだよ」
提督「お前はフランクすぎるけどな」
鈴谷「え~。そんなことないでしょ。実際このくらいの方が気楽っしょ?」
鈴谷のあっけらかんとした態度に苦笑いが溢れる。
熊野の目付きが厳しいものになってきたので、俺は話題を変えた。
提督「みんな来ているのかな?」
鈴谷「んー、みんなは来てないかな。釣りをするっていう子たちもいたね。深雪たちとかさ。後はどうだろ?」
熊野「青葉さんは羽黒さんを連れてバードウォッチングをしにいくと言ってましたわ」
鈴谷「あ、そういや言ってたね」
提督「へえ、青葉と羽黒が」
鈴谷「相性そんなに良くなさそうなのにさ、意外と仲良いんだよねえあの二人」
なんでだろう、と鈴谷は首を傾げる。理由を知っている俺は曖昧な返事でごまかした。
あの二人の仲が良くても別におかしくなんてない。「同郷」だからだ。
雷「司令官」
静かな声とともに袖を引かれる。
首を動かすと、笑顔の雷が見えた。
雷「あっちに空いている席を見つけたわ。行きましょう?」
提督「ああ」
溜息を飲み込んで頷く。鈴谷の方を見ると、苦笑いを浮かべながら手を振っていた。雷の存在に気づいていなかったのかもしれない。その後ろで熊野が小さく息を吐いているところを見ると、おそらく間違えではないだろう。
雷に引っ張られるのに逆らわずついていく。ぐいぐいと強引にされるのは好きではないが、逆らうともっと面倒になることが分かっているので抵抗しない。
――そのつもりだったのだが。
ある席が目に入った瞬間、思わず足を止めてしまった。急に停止したからか雷が前のめりによろめき転けそうになったが、俺の意識のほとんどは美しい髪に奪われていた。
提督「浜風……?」
そこにいたのは陽炎と時津風、そして浜風だった。店内の角に位置する、ちょうど入り口から死角になる座席にいたため気づかなかったのだろう。
彼女たちはそれぞれ山盛りのパフェと向かい合っているようだった。時津風は頬のあちこちをクリームで汚しながら嬉々として?張っていたが、陽炎はどこか浮かない表情で浜風を見つめており、当の浜風はいつものごとく人形のような表情でスプーンを動かしていた。機械じみた所作だと言わざるを得ない動きである。それなのに目を惹きつけられてしまったのは、彼女のどこか人間離れした美しさのせいゆえだ。
浜風はこの賑やかな空間において、特異な芸術性を発揮しつつその存在感を示していた。
白銀の粒子が、風鈴の音とともに舞っている。
陽炎「……どう? 美味しい?」
陽炎が、口元を緩めて尋ねた。
浜風「ええ、とても」
陽炎「そっかそっか……よかった。あんたパフェとか好きだったはずだから誘ってみたんだけど正解だったわ。ここの間宮さん、いい腕してるでしょ?」
浜風「そうですね。素晴らしいと思います」
陽炎「気に入ってくれたかしら?」
浜風「ええ」
聴いている分には普通の何気ない会話である。だが、事情を知っている俺にとっては、空恐ろしさしかない会話だった。
浜風の言葉には虚無しかなかった。
彼女は何も感じてはいない。今口に運んでいるパフェだって、味のしない泡やスポンジを食べているのと同義だ。
青い瞳は、パフェをゴミとでも認識しているように濁りきっている。
浜風の障害を知らなくても、顔色が良くないことには気づいているのだろう。陽炎の微笑みはどこかぎこちないものだった。
ここ数日のうちに、浜風は変質していた。
俺は浜風の中にある生きる希望を探そうと注力していた。しかし、彼女は相変わらずのらりくらりと躱すばかりでなかなか心を開いてくれず、見つけられてはいなかった。心の壁は想像以上に高く、一向に超えることが叶わなかったのだ。
情けなくも、俺は浜風を見守ることしかできないでいた。
そして、なにもできない無力感を噛み締めている間に、浜風の死の病は進行してしまった。顔から生気という生気が抜け落ち、その様は萎れた花のごときものである。が、それでもなお美しさを放つ彼女はまさに特異な存在だと言わざるを得ないし、だからこそなお痛々しく映ってしまう。
一体、浜風に何があったというのだろうか。心当たりといえば先日の南鎮守府襲撃の件であるが、この件は伏せているし、とくに資料もなければメモもとっていないから情報の漏れようがない。仮になんらかの方法でこの件を知ったとしたら、今の変化にも説明はつくが……彼女からそれを探るのは到底不可能であろう。
だが、浜風の中に変化を及ぼすようななんらかの出来事があったのは確実だ。それはおそらく内心の変容であり、決して可視化できる変化ではないだろう。彼女の心の奥底に触れでもしないかぎり理解のしようがないものである。それはまるで、頼りない明かりを照らして深淵を覗き見ようとするような行為に等しいものだ。
そんな彼女を、陽炎もとうとう放ってはおけなかったようだ。先日、痺れを切らした陽炎から「浜風の件については私も動かせていただきます」と申し出を受けた。だが、変わり果てた浜風を前にして、陽炎もどうしようもなかったらしい。陽炎も日々無力感に打ちひしがれながら、彼女と相対していた。
そして今日も、彼女は懲りずに妹に向かい合っている。
冷たく重く閉ざされた鉄の門を前にして、立ち竦むように。
時津風「あれ~、陽炎、イチゴいらないの?」
時津風がほとんど食べ進んでいない陽炎のイチゴパフェを見ながら、甘ったるい疑問を投げかけた。いきなりの問いかけに、陽炎の肩が跳ねる。
陽炎「え、なに?」
時津風「もーらいっ」
陽炎「あっ!」
陽炎がそうこぼしたときにはもう遅い。時津風は頂上に乗っていたイチゴを奪いとって頬張った。
時津風「ん~、うっまーい。やっぱイチゴは最高だよね~」
陽炎「あ、あんたねぇ! そのイチゴは最後に食べようと思ってたのよ!」
時津風「そーなんだ。いらないって思ったからもらっちゃった」
時津風は小さく舌を出して誤魔化すようにウインクした。
米神をひくつかせた陽炎が、時津風の頬をつねった。暴れる時津風。
時津風「いたたたたっ! 放して放して!」
陽炎「放して欲しかったら何か言うことがあるんじゃないかしら?」
時津風「ごめん、ごめん! 勝手にイチゴ食べちゃってごめんなさい~!」
陽炎から解放された時津風の頬は真っ赤であった。陽炎のことだから加減しているだろうが、それでもあの陽炎の抓りである。やられた方は相当痛いであろう。時津風は涙目になりながら頬を摩っていた。
時津風「痛かったぁ~」
陽炎「食べ物の恨みは恐ろしいのよ。覚えてなさい」
時津風「相変わらず怪力なんだから……」
陽炎「なにか言ったかしら?」
時津風「い、言ってないよ! なにも! 絶対!」
迫る陽炎に、時津風は手と首を精一杯横に振って否定する。まるでコントを見ているようでおかしかった。思わず笑いそうになったが、不満の籠った催促を袖を通して伝えられたので、コントを見るのはここまでのようである。
提督「足を止めてすまない。行こうか」
俺がそう言うと、雷は膨らませた頬を萎ませて笑顔になった。
浜風たちに一言かけたかったが、仕方ないだろう。あまり雷を放置しすぎるのも彼女に悪い。
雷に手を引かれながら席へ向かう。その途中で二人の様子を無表情で見ていた浜風と目があった。黒く淀んだ瞳は、芯から冷めていくような冷たさに満ちている。
彼女は何も言わなかった。何も言わず、ただ困ったように微笑んだだけである。二人のコントに呆れているのであろうか。それにしてはあまりにも空虚で、物悲しく見える。
それはきっと俺の気のせいではない。
俺は、そんな彼女に笑い返すことすらできなかった。
自分の無力さを思い知った気がして。
その二日後のことだった。
浜風が、無断出撃を強行した。
投下終了です。
■
白いベッドで眠る浜風の顔は穏やかであった。
だが、俺の内心は決して穏やかなものではなかった。怒りとも不安ともつかないドロドロとした感情に心を濁らせ、ベッドの柵を指で叩く。リズムでも刻んで気晴らしをしたいわけじゃない。ただただ落ち着かないからそうしているだけだ。
俺は胸ポケットから酒瓶を取り出して呷った。ブラックニッカで胸を焼きでもしないと、この不安定さに勝てそうにもなかった。
陽炎「ここ病室ですよ。お酒は控えてください」
陽炎が俺のほうを向きもせず、注意してきた。その声にはほとんど抑揚が感じらない。
感情を抑えつけているせいだろう。それは浜風に向けられた目付きの鋭さからも察せられる。
俺は酒瓶をすぐに胸ポケットへ閉まった。
提督「すまない」
陽炎「いえ。それにしても中々目覚めませんね」
提督「『強制送還』してから二時間くらいだな」
陽炎「ああ、もうそんなに。早く起きてくれませんかね。言いたいことが山ほどあるので」
ミシリ、と冊が軋む音がした。
壊さないでくれよ、とは言う気になれなかった。彼女の気持ちが痛いほどわかるからだ。
提督「まあ、そのうち目覚めるだろう」
陽炎「そのうちっていつでしょう?」
提督「さあな。もしかしたら、明日の朝まで目覚めない……なんてこともあるかもしれない」
俺は浜風の顔を見ながら言った。よく見ると首筋には紫の大きな痣が走っている。
本日の一二二〇に工廠から艤装を盗み出し、無断出撃を敢行した浜風を連れ戻したのは陽炎だった。これはそのときの痣である。後ろから絞め落としたか首筋を強かに打ちでもしたのであろう。装甲で守られている艦娘を素手で気絶させること自体驚くべきだろうが、陽炎の突出した戦闘能力を考えれば別におかしくはないし、それだけ彼女も怒っていたということだ。
とにかく、陽炎は『やりすぎた』わけである。だから浜風も帰ってきてからしばらく目を覚まさずにいた。
陽炎「顔に水でもかけてやりましょうか。バケツ用意します?」
提督「気持ちはわかるが、手荒なことはやめてくれ。それに、部屋が水浸しになるだろう」
陽炎「後で拭けばいいんですよ」
陽炎はにべもなく告げる。
陽炎「この馬鹿にはいい目覚ましになるでしょう。バケツはどこにありますっけ?」
提督「いいからやめなさい。目を覚ますまで待とうじゃないか」
陽炎「提督はずいぶん気が長いんですね」
皮肉っぽい言い方に聞こえたのは彼女が苛立っていているせいか、それともこれまで浜風に対して何もできなかった俺への当てつけか。
なんとなく気まずくなって、口を噤む。陽炎もそれ以上何も言わず、浜風を睨んだ。
時計の針が刻々と音を刻む。
病室は、俺たち以外誰もいないこともあって静寂に沈んでいた。窓から溢れる光は、室内の陰鬱とした雰囲気とは相反し、春の暖かさを感じるものである。外から見える木の枝に、メジロが止まっているのが見えた。澄んだ声で鳴いたが、今一風情を感じられない。
この空気が嫌になって、溜息を吐こうとした。気がついたのはその時である。陽炎には見えない位置――布団から這い出てきた紙片に、だ。
提督「陽炎」
陽炎「なんでしょうか?」
提督「そういえば、先日の遠征の報告書がまだだったろう。それを提出してもらいたいのだが」
案の定、陽炎の眉が吊り上がった。
陽炎「お言葉ですが提督。今はそれどころじゃありません」
提督「さっきも言ったが、君の気持ちはわかる。だが、仕事はきちんとやってもらわなければならないからな。優先順位を忘れてもらっては困るよ」
陽炎「優先順位なら」
提督「どのみち浜風はこの様子だと当分起きないだろう。報告書をまとめるくらいならすぐに済むのだし、せっかくだからやってきなさい」
言葉を遮ってそう言うと、陽炎は押し黙った。渋面を作り明らかに納得のいっていない様子であったが、俺はもう一言かけた。
提督「それに少々、時間を空けて気分を切り替えた方がいいように見える。今の君は、明らかに冷静ではないからな」
陽炎「……」
提督「命令だ。行きなさい」
卑怯だが、こう伝えればもはや何も言えないだろう。
陽炎は諦めたようにも、呆れたようにも見える様子で息を吐いた。
陽炎「わかりました。わかりましたよ。命令なら、従うしかありませんね」
提督「ああ。悪いな」
陽炎「いえいえ。上官の命令は朕の命令ですから」
嫌味たっぷりな言葉に苦笑するほかない。
陽炎は柵から手を離し、病室を去っていった。大きな音を立てて閉められたドアが軋んだ。部屋が揺れたのではないかと錯覚するほどである。
溜息をついて柵を見ると思わず顔を顰めてしまった。鉄でできた柵が手の形に歪んで、公園でたまに見かける奇怪なオブジェクトのようになっている。凄まじい怪力だ。
もう、行っただろう。
足音が遠ざかったのを確認してから声をかけた。
提督「……起きていいぞ」
浜風「ご協力ありがとうございます」
浜風は、ぱちっと目を開けて起き上がった。ゆっくりと伸びをした後に、歪んだオブジェクトへ目を移す。微苦笑が浮かんだ。
浜風「ずいぶんとお怒りのようですね」
提督「当然だろう。自分が何をしたのか分かっていないわけじゃあるまい?」
浜風「ええ。無断で艤装を持ち出し、出撃までしました。死罪を免れないほどの重罪です」
さらりと。
あまりにもさらりと、浜風は自分の罪状を述べた。澄んだ水のように透明な声なので、耳朶に触れてもしばらく脳が正常に動いてくれなかった。
頭に怒りの火が灯ったのは、数秒後のことであった。
……こいつは、本当に分かっているのか?
たしかに、浜風の言葉そのものは正しい。浜風の言う通り、通常ならば死罪に相当するほどの罪だ。だが、その言葉は正確な意味を捉えてはいても、感情的な理解がない。彼女の笑顔からは後悔も怖れも……何も感じられはしなかった。
提督「……君の言う通りだ」
感情を押し殺し、告げる。
提督「これは、以前の命令無視とは比べ物にならないほどの重罪だ。軍法会議にかければまず死罪は免れまい。それほどのことを仕出かしたんだぞ?」
浜風「……」
提督「今回ばかりは、君を庇えないだろうな。これを見逃したとあっては軍規が乱れる。君が言った通り、俺はたしかに甘いがな……これを見て見ぬ振りするほど甘くはないぞ?」
浜風「ええ、そうでしょうね」
浜風はふっと小さく笑った。堪忍袋の尾が切れた。
提督「君は分かっていない!」
浜風「何がでしょう?」
提督「自分がしてしまった事の大きさがだ! 死罪になるようなことをしてしまったのだぞ! それなのにどうしてそんなにも平然としていられる?」
声を荒げて言っても、浜風は眉一つ動かさない。その冷たい態度がなおさら俺の苛立ちをかきたてた。勢いよく立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。
声を荒げて言っても、浜風は眉一つ動かさない。その冷たい態度がなおさら俺の苛立ちをかきたてた。勢いよく立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。
提督「君は正気じゃない! 単艦で、南西海域に出撃するなど……どうかしているんじゃないか」
浜風「否定はしませんよ。あなたの言う通り、私はおかしい」
提督「ああそうだろうな! どうしてこんな馬鹿なことをしたんだ? 陽炎たちが連れて戻らなければ今頃どうなっていたか……」
浜風「死んだでしょうね、確実に」
浜風はあっさりと言ってのけた。
浜風「ですが、それがどうしたというのです? 無断出撃をしてしまった時点で死罪になることは確定していたのですから、どうせ同じではありませんか。死ぬのが後か先か。ただ、それだけの違いです」
提督「何を言って」
浜風「なぜこんなことをしてしまったのか、についてですが」
俺の声は、浜風の言葉に塞がれる。
浜風「それは、簡単なことです。私は死にたかったのですよ。せめて、艦娘として艦娘らしく。最期を迎えたかったのです」
浜風の笑顔がふと影を指して重たくなった。深海のような瞳に背筋が凍る。押し黙らずにはいられなかった。
唾を飲み込んで、なんとか声を出した。
提督「……君は、死にたかったのか?」
浜風は曇り空を映した窓を見遣った。
浜風「はい」
どうしてだ、とは聞けなかった。
聞かずとも分かってしまったから。彼女には俺と出会ったその日から侵されている病がある。
死に至る病。
その病を取り除くべく、俺と陽炎は足掻いていた。絶望の淵に立たされた彼女が、最後の一歩を踏み出そうとしないところに幻覚にも似た希望を見出し、生きる理由となる灯火を探していた。それさえ掴めば、活路はあると信じて。
だが、その火はとうの昔に消え失せていた。
それを今、この瞬間、どうしようもなく悟った。
提督「浜風、君は……」
浜風「もう、疲れました」
酷く疲れた声だった。
浜風「……私には、不完全で人未満にしかなれない私には、この世界で生きていく資格はありません」
提督「……」
浜風「なぜ、こんな風になってしまったのでしょうね。私は、ただ普通であることを望みました。人間であることを。けれども、それは不可能だったのです。猿が人間になりたいと望んでもなれないのと同じように、しょせん欠陥品は欠陥品にしかなれません。味も痛みも熱も感じない……。ふふ、ふふふふふ」
笑い声が不気味に溢れる。窓から振り返った浜風の顔を見て呻きそうになった。
目も口も何もかも、表情の全てが歪だった。今までにないほど破滅的なそれは人間が限界に追い込まれた際に浮かべる、混沌とした感情の発露だ。喜びを表すものでも、内心を取り繕うものでもない。
どうしようもなく浜風は追い詰められていたのだ。
堰を切ったように、ぐちゃぐちゃになった感情が溢れ出ていく。
浜風「私は、あの日……あんな目にあったせいでおかしくなってしまったんです。ふふ、くくっ。無数の手が私に伸びてきて、まるで陵辱するかのように私の身体を弄りました。それらは腹に穴を穿ち、私の中からあらゆるものを引き出していった。あはははは、内臓、臓器が、引きずり出されたんですよ! 顔にはいっぱい血がかかりました。食われて、内容物まで飛び散って……ひひひ、あのときの奴らの楽しげな貌が、まるでオモチャで遊ぶ子供みたいで……ひ、ひひひひはははははは」
圧倒されて言葉が出ない。
浜風が何を言っているのか分からない。取り乱すあまり誇大な妄念に囚われてしまったのか。だが、その言葉には、?偽りを感じさせないほどの身に迫る「何か」がある。それだけ彼女の歩んできた人生が、地獄のようなものだったということなのだろうか。
浜風は狂ったように頭を掻き毟った。美しい銀の髪が崩れ、乱れる。
浜風「それなのに私は何も感じなかった! 何も、何も感じなかったんですよ! あんな目にあったのに……なんで、どうして。普通なら痛みと熱でもがき苦しむはず。それがなかった。私にはそれが。あはは、こんなのが人間なわけ、ないでしょう! 私は人間にはなれない、なれないんです。挙げ句の果てに堕ちるところまで堕ちて……。私は、欠陥品としてこの世に存在する定めだったのです!」
提督「……それは、違うよ」
浜風「何が違うって言うんですか!」
その声は血を吐くようだった。
浜風「あなたなんかには何も分かりません。私の苦悩なんて、普通の人間として生まれたあなたなんかに……色彩豊かな世界で生きられるあなたなんかに! 分かるわけないんですよ!」
彼女の拒絶が、俺の心を深く抉る。
理解できないことは重々分かっていた。絶対に踏み込めない領域であることも分かってはいた。だが、それでも実際に当事者から拒否を投げかけられてしまうと辛いものがある。終着点を前にして、その向こう側にいる人々から吊り橋を落とされ罵倒された旅人は、きっとこのような心持ちなのだろうか。
俺は唇を噛もうとした。噛んで血を流し、甘い鉄の味を舐めることで少しでも気持ちを紛らわせようとしたのだ。自傷行為の甘さは落ち着く。そのことをパブロフの犬のように身に染みて知っていたから。
だが、それは許されることではない。
痛みも、味も知らない彼女を前にして。それを甘受することは彼女の領域からさらに遠ざかる愚かなことだ。ああ、俺はつくづく馬鹿だ。彼女のことより自分がそんなに可愛いのか。
違うだろう。
いま、苦しみの業火の中にいるのは誰か。それを考えろ。
そして、彼女の苦しみに目を向けるのだ。剣先を向けられたからといって、まだ諦めてはいけない。彼女が炎に焼き尽くされてしまう前に、彼女にかける言葉はないか思案しろ。
血の甘さに酔うのは、それからだ。
感情の発露に慣れていないからだろう。言葉を尽くした浜風は肩で息をしながら俺を睨んでいた。射殺すような目線を受けて、俺は歯を噛み締める。ごりごりと石臼が擦れるような音が口の中に響いた。
彼女の苦しみはなんだ。「普通の人間」になれないことだ。普通の人間と同じ感覚を持てないことだ。ゆえに、彼女は己の人間性のすべてを否定してしまっている。
だが、彼女は……彼女自身が言うほどに人間ではないのだろうか?
俺は、違うと思っている。
そうだ。彼女は人間だ。たしかに普通の人間が持って生まれてくるはずのものを彼女は与えられはしなかった。しかしだからと言って、彼女が人間でないということにはならないはずだ。
その根拠はなにか。
それは、浜風がしっかりとした感情を持っていることだ。彼女は己の障害に苦しみ、悩み、その理不尽に怒り、絶望した。その葛藤と心の激動はまさに人間だからこそ起こるものではないか。人間は、理性の生き物であると同時に感情の生き物でもあるのだ。
感情とは、卓越した人間的活動である。
浜風は、それを失ってはいない。
それに――
提督「君の言うことは、もっともだ」
俺は、窓に近づいた。浜風の目が追いかけてくる気配を感じながらカーテンを隅に追いやり、窓を開く。風がふわりと駆け抜けて、俺の髪と窓辺のガーベラを揺らした。
提督「俺には、君の苦悩を理解することは難しい……だろう。悔しい話だが、それはどうしようもない事実だ。だがな、浜風。それでも俺は――」
目を閉じて、風が止まった瞬間に浜風と目を合わせた。黒く淀んだ眼差しから逃げずに、告げる。
提督「君を、人間だと思う」
浜風の目が、微かに見開かれた。
風が柔らかく、包み込むように彼女にまとわりついて、乱れた髪を散らした。ゆるりゆるりと自然の櫛が彼女の銀髪を梳かす。
提督「この風は、優しくて心地いい」
春らしい風だった。土筆や蒲公英が、満開になった桜の花びらが、そよいでいるところを想像できるくらいの安らかさである。
今度は嘘なんかじゃない。
提督「君は、あの時、風の色を知りたがった」
あの港で吹いた風が冷たいのか暖かいのか。子供のように純粋な瞳をして尋ねてきた。あのときは狂気の上澄みだと思ったが、それも見方を変えればただひたすらに綺麗な知的好奇心の表出だとも見ることができる。
知りたい。その欲求は、誠に人間らしい素直で美しいものではないか。
提督「『人間についての真なる学、真なる研究、これが人間である』――そう言った人がいる」
シャロン。浜風の呟きに、俺は頷いた。
提督「そう。人間であることを追求するものは、たとえ答えが出せなくとも人間なんだ。君は人間らしさを誰よりも真摯に探求してきたはずだ。その上で答えが出せずに立ち止まってはいるが、今この時においてそれに苦しんでいる君が、人間でないわけがない」
浜風「……」
提督「もう一度言う。君は、人間だ」
詭弁。そう言われたとしてもおかしくはないだろう。
だが、この言葉は俺の本音だ。なにも浜風への気遣いから出たものではない。この一月あまり浜風と接し、浜風を見続けてきたからこそ分かる。彼女は暇さえあれば港に立って陽が沈むのを見つめていた。潮風と光に目を細めながら、想像していたのであろう。感じることができない世界の色彩を。
その姿が、人間でなくて何と言う。
提督「……」
俺たちはしばし無言で見つめ合った。そよ風の音が聞こえるほどの沈黙は、微かな緊張感を持ちながらも清々しさがある。コミュニケーションを重ねるとともに積み上げられてきた思いを、ようやく言葉にすることができたからだろう。
手に滲む汗を誤魔化すようにカーテンを握る。浜風の瞳は、一石を投じた水面のように感情の揺らぎを映していた。
だが、俺の言葉は所詮一石でしかなかった。
瞳の揺らぎが治ったとき、その色は以前と変わらずにドス黒いままであったから。大河の流れをわずかに揺すったにすぎなかったのだ。
浜風の口が小さく吊り上っていく。
浜風「提督は、本当にお優しいのですね」
感謝など一片もそこにはない。バツが悪くなって目を逸らしたくなる。だが、逸らさなかった。俺自身の言葉に対して責任と意地を感じていたからだ。
浜風はベッドから出て立ち上がった。
浜風「こういう言葉もありますよ。『知ることによって、人間は人間らしさに至る』と」
その言葉が誰のものか見当がつかない。ハーフェズです、と浜風が付け足す。
浜風「ゲーテも影響を受けたイランの詩人ですよ。ご存知ないですか? 『ハーフェズ詩集』はかなり有名なものですが」
提督「すまないが、未読だ」
浜風「そうですか」
浜風はこちらに近づきながら言った。
浜風「ハーフェズの言葉は、こういう風にも解釈ができると思います。『知らなければ人間らしくなれない』ということです。提督は知ろうとすることそのものが人間らしさだと好意的に解釈してくれました。認知の是非は問わないと……。ですが、それでも知ることができなければ、やはり人間にはなれないのですよ。どう足掻いてもね」
提督「俺はそう思わない。仮にそうだとしても、君には感情がしっかりと根付いている。ならば君は、やはり人間だよ」
浜風「提督はいつから哲学者になったのですか?」
浜風は嘲笑いながら一蹴した。
浜風「あなたは普通の人間で、ただの提督でしかありません。私たち艦娘を死地に向かわせて椅子に座っているだけの存在です。そんなあなたの言葉に、一体どれほどの説得力があるというのでしょう?」
凶器のような言葉に怒りすら湧かなかった。ただ、そのあまりの鋭利さに心を引き裂かれそうになっただけだ。俺は呼吸の仕方も忘れたほどに、押し黙る。
それは、俺にとって最も触れられたくないジレンマであった。目に見えて動揺した俺を馬鹿にするように、浜風は見上げてきた。手を伸ばせば触れられるくらいの距離。
風を受け、浜風は鼻を鳴らす。
浜風「何も感じません。優しいんですね、この風」
提督「……」
浜風「ひょっとして、また嘘をついたんですか? ふふ、私を騙そうとしてもそうはいきませんよ」
提督「……違う。本当だ、今回は本物の感想だ」
浜風「ああ、そう」
浜風は興味がなさそうに言って、
浜風「そうですね、少しだけ面白い見世物をあなたに披露しましょう。これを見ても、私を人間だと思えるなら……私はあなたを狂人だと思うようにします」
提督「……一体」
何をする気だ?
そう確認する前に、浜風は左手を俺の眼前に晒した。人差し指を右手で握り締め、微笑む。
浜風「こうします」
枯れ木を圧し折るような音が静謐な病室に響いた。
パキン、ポキポキ。
鼓膜に染み入る音だった。現実味がなさすぎるその音に、俺は最初何が起こったのか理解できず、白痴のごとく口を開けて立ち竦んでいた。
浜風が、左手から手を離す。糸の切れたマリオネットが、関節をぐちゃぐちゃにしながら倒れるみたいに、人差し指があり得ない方向に垂れさがった。節々から真っ白い骨が突き出て、血が一斉に溢れ出た。
浜風「あは、あはははは。あはははははっ。見てくださいよ、ねえ! 人差し指が壊れちゃいましたよ! ねえねえ!」
提督「……何をやっている」
浜風「見て分かりませんか? 折ったんですよ、自分の指を! 不思議ですよねえ、普通の人間はこんなことをやったら痛みで泡を吹くんでしょう? でも、私は吹きません。ふふっ、だって痛くないんですもの!」
提督「なんて、なんてことを……」
汗が止まらない。背筋が一瞬で濡れていた。まったく理解不能な浜風の行動に絶句して、首を振る。
指。浜風の綺麗な指が、歪んで、おかしな形になっている。なんだ、あれ。なんだなんだなんだなにが――。
目眩がした。全身に蠢めくような悪寒に耐え切れず、後退る。
新月が、二つ浮かんでいた。その下にも一つ。浜風の顔。笑顔。どうしてこんなときに笑っているの? わからない。おかしい、おかしい。
また、乾いた音。幾重にも重ねた乾いた音。
二本目の指がぐちゃぐちゃになっていた。視界が真っ赤に染まったと思うくらい血が流れ、白い床が汚れた。
浜風「どうしたんですか? さっきまであれだけ私に優しい言葉をかけてくれたのに。ふふっ、怖くなっちゃいましたか? 顔が汗まみれで、真っ青ですよ」
提督「あ、ああ……。こんな、なんて……」
浜風「あははっ、あはははははははははははっ! やっぱり、私は人間ではないんですよ! ねえ、私の言った通りでしょう? 安心しました。あなたが、私のような壊れた欠陥品を人間だと思い込む異常者じゃなくて。よかった、ふふっ、よかったです」
吐き気がこみ上げてくる。指の歪な形が、現実味がなさ過ぎて見ているだけで辛い。忌避感のあまり身体中が震えて止まらない。口を押さえた。その手もまるで自分の身体じゃないみたいに震えている。
浜風「あーよかった。私は、間違えてはいなかったようですね。やはり私は欠陥品です。ふふっ、それが改めて確認できた記念に、『これ』、全部折っちゃいましょうか?」
提督「――」
声にならない悲鳴が、酸味とともに口内に広がる。
浜風が、薬指に手をかけた。
提督「や、めろ……」
浜風「嫌です」
指が、徐々に曲がっていく。
提督「やめろ!」
耐えきれなかった。衝動的に浜風の暴走を止めに入った。彼女に駆け寄り、右腕を掴んだ。
血が、舞い上がる。力が入りすぎたせいであろう。俺は腕を掴んだまま浜風を壁へと押し付けてしまった。何かが落ちる音が背後から聞こえる。何が落ちたかはわからない。衝撃に思わず目を閉じた。
時計の秒針が刻まれるか刻まれないかの刹那、意識に空白が生まれる。その空白から早く復帰したのは、浜風の方であった。
浜風「……え」
さっきの狂気はどこに消えたのか。突然の大きな音に驚いた赤ん坊のような顔で、俺に掴まれた右腕を見つめていた。
遅れて我に返った俺は、その変化に戸惑った。押し付けられたのだから驚くのも無理ないかもしれないが、それにしても様子が妙だ。
浜風の表情が、爆発的に変化した。
目が飛び出しそうなくらい見開かれ、口元をひくつかせている。まるで毒蛇に噛み付かれでもしたかのように、明らかに怯えた顔をしたのだ。首を横に振りながら、
浜風「いや…….!」
俺の手を信じられないほどの力で振り払おうとしてきた。
提督「お、落ち着け!」
俺も一杯一杯で、頭が働かない。今浜風を振り払えば、なにか恐ろしいことが起こるのではないか。そんな考えに囚われて、より一層力を込めて押さえつけようとした。
悲鳴が上がった。
ファラリスの雄牛を連想するほどの、恐怖に満ちた叫び声だった。
浜風「いや、いやああああっ! 離して、離してええええええっ!」
提督「浜風! やめろ!」
浜風「離せえええっ!」
米神の辺りに鈍い衝撃が走った。浜風がボロボロになった左手で殴りつけてきたのだ。凄まじいその力に耐えきれず、俺は浜風の腕を離してしまった。そのまま突き飛ばされ、血で濡れた地面に尻餅をついた。滑り気のある感触。意識が真っ黒に染まった。
遠くから、扉が乱暴に閉められる音がした。
意識の混濁が治った頃には、浜風は居なくなっていた。ただ血で汚れ、荒れ果てた病室がそこにあるだけ。
まるで殺人現場のようになったそこで、俺は一人、茫然と倒れていた。
提督「……浜風」
ドアの方に目をやると、ノブが真っ赤に濡れている。血の足跡が、彼女が外に飛び出したことを無言のうちに告げていた。
投下終了です。
すいません、>>625の最後の一文が誤っていました。
曇り空→空です。よろしくお願いします。
■
あり得ない。
あり得るわけが、ない。
提督に右腕を掴まれた瞬間、感じたもの。
なんだあれは。
あれの名前が分からない。あれをなんて形容すればいいのか分からない。私は、あんなものを知らない。
怖い。今までのどんなものよりも、怖い。
内側からこみ上げてくる恐怖から目をそらすように、私は走った。廊下を駆け抜け、階段を落ちるように降り、そして誰かとぶつかった。
陽炎「きゃっ!」
小さく悲鳴を上げたのは陽炎姉さんだった。勢いあまって尻餅をつき、私も後ろに倒れた。
陽炎「何よもう、前を見なさいよ! ……って、浜風?」
浜風「……」
陽炎「目が覚めたのね。良かったわ。……それより、廊下を走って一体どうしたのよ? なんか、顔色もすごく悪いし」
気遣うような眼差しを向けてくる陽炎姉さんの目が、大きく見開かれた。
陽炎「あんた……それ、どうしたのよ!」
私は何も答えられなかった。
陽炎「体中血だらけじゃない! それに、その指……」
陽炎姉さんは絶句した。指先が震えている。
浜風「指……?」
なんのことを言っているのだろう。私の指がどうかしたのか?
私が呆然としていると、陽炎姉さんはすぐに表情を引き締めた。
陽炎「とにかく立ちなさい。今から入居施設に行くわよ!」
浜風「入居施設に、なぜ?」
陽炎「いいから! 来なさい!」
陽炎姉さんは、私の腕を掴んで無理矢理引っ張った。ふわりと一瞬だけ無重力状態になったかのように、軽々立ち上げられてしまう。
そのまま、陽炎姉さんは何も言わず私を引いて駆けた。私はされるがまま付いていく。
ああ、そうか。そういえば指を折ったのだった。
他人事のように思い出して、小さく笑う。
何がおかしいのか、よく分からなかった。
入居施設に半ば強制的に入れられた私は、高速修復材による回復を施された。
高速修復材は、提督の許可がなければ使ってはならないものだが、陽炎姉さんはそんなこと関係ないと言わんばかりに使用した。なけなしの修復材を独断で使用したとあっては始末書ものだが、彼女のことだ、紙一枚書けば済むことだと思っているのかもしれない。
私の指は、瞬時にして原型を取り戻した。
別に修復材なんてなくとも、深海棲艦の能力ですぐに再生したのだが。陽炎姉さんに見られるわけにはいかないし、見られたら説明が面倒だったので、ちょうど良かったかもしれない。
『お湯』を浴び、指が治ったころには、私の混乱も大分引いてくれていた。
だからこそ、余計にあのことばかり考えてしまうのだが。
陽炎「骨はズレてはいないようね」
私の指を微生物の運動でも観察するように注意深く見ながら、陽炎姉さんは安堵の息をこぼした。指を動かすように言われたので大人しく従うと、よしっと言って笑った。
陽炎「完治したみたい。よかった」
浜風「ええ……ありがとうございます」
陽炎「違和感があったらすぐに言うのよ? 高速修復材使っているから大丈夫だとは思うけど、折れ方が折れ方だったんだから」
浜風「ええ……」
生返事ばかり口から零れる。
頭の中にあるのは、あのことばかりだった。
提督の手から感じられた違和感。あれは、まったくの未知の感覚であった。そもそも何かを感じる機能を持ち得ないはずなのに、感じるというのはおかしいではないか。
もしかして。
もしかして、私の気のせいだろうか?
私が何かを感じたように勝手に思い込んだだけで。錯覚だったのではないか。私の醜い未練が生み出した幻想。そう考えれば納得はいく。そうだ。気のせい。そうに決まっている。そうじゃないなら、そうじゃないのなら、私の存在そのものが蝋燭の火のように揺らいでしまう。
だけど、あれを単なる錯覚と片付けてしまってよいのか? あれは幻想だと断じるにはあまりにも現実味がありすぎた。
頭の中で、反駁がぶつかり合う。あれを否定したい自分と、否定しきれない自分がせめぎ合い、落ち着かない。
陽炎「浜風?」
陽炎姉さんの言葉に我に帰る。
浜風「はい、なんでしょう」
陽炎「いや、さっきからぼーっとしていたから。話聞いてた?」
浜風「……いえ、すいません。少し考え事をしていました」
やっぱり、と陽炎姉さんは息を吐く。
陽炎「あんた、一体どうしたの……? 朝の件といい、最近これまでにないくらい妙よ」
浜風「……」
陽炎「何があったのか教えてちょうだい。たぶん、私が部屋に戻った後に提督と何かあったんだろうけど。それにしたって、どうすればあんな風に指がなっちゃうのか分からないわ」
浜風「……」
陽炎「答えない、か。もしかして、提督に何かされたの? だったらあいつのこと締め上げるけど」
浜風「いえ、提督は何もしていません」
思わず、強い口調で否定してしまった。陽炎姉さんが少しだけ驚いた顔をする。
陽炎「そ、そう。なら、あの怪我はどうしたのよ?」
浜風「自分でやりました。目が覚めてから、錯乱してしまって……。わけが分からなくなっていたもので。提督は、必死に止めようとしてくれました」
陽炎「自分でやったの?」
ゆっくりと首肯すると、陽炎姉さんは額に手を置いて俯いた。
陽炎「なんて馬鹿なことを……」
そう呟いて、しばらく黙っていた。
きっといろいろ問い詰めたいに違いないし、私の愚かな行いを責め立てたいだろう。だが、そうしないで黙っているのは、私に気を使ってくれているからだ。姉さんは、根っからのお人好しで優しいから。きっとそうだ。
水滴の音が静寂に落ちる。入居施設は音がよく響くからか、まるで木霊を聴いているかのようだった。私は、ただ姉さんを見詰めていた。
陽炎「朝の件はもう、私からは何も言わないわ。今回のことについてもね」
ただ、と姉さんは重たい口調で言って、顔を上げた。真剣で、それでいて悲壮なアメジストの目に私の虚ろな影が映っていた。水面のように揺れている。
陽炎「あんたに何があったのか、それだけでいいから教えて。お願いよ、浜風。私は知りたい……ううん、知らなければならないと思うわ」
包み込むように手を握られる。人肌の柔らかさと、鉄の硬さが同時に触れた。本物の手と、作り物の手は、どちらも同じく温度がない。
陽炎「親友として、そしてあんたのお姉ちゃんとしてね」
入渠施設に窓はない。
けれど、風が吹いているような気がした。思い出したのはあの日、姉さんに抱かれながら受けた風。暖かさのない、何も感じることはなかった風。それでも私の心を揺さぶったもの。
ああ、姉さん。あなたはやはり優しくて、尊敬すべき姉だ。ただ、もはや何もかもが遅い。
桜はもう、枯れているんだ。
浜風「姉さん」
私は手を添える。
浜風「ごめんなさい。今までご迷惑とご心配をおかけしてしまって。私は……少し、おかしくなってしまっていたのです」
何も言わずに耳を傾ける姉さんを、真っ直ぐに見つめる。
そうして私は嘘をついた。
浜風「話します。『全て』を」
全部なんて話せはしない。彼女に話すのはせいぜい、南鎮守府であったことと南提督に捨てられたことぐらいだ。その先の私が見た地獄については一切を秘匿する。
信じられるわけもない。
姉さんも、自分さえも。
信じたいものは――。
滔々と話しながら、提督の覇気のない顔と、大きくてざらついた手が頭に浮かぶ。
姉さんの顔を見ているはずなのに、目に入らない。私は遠くの世界を見つめていた。
縋りたいのは、この手ではない。
浜風「――以上です。これが、あの鎮守府であったすべてです」
話し終えると、姉さんは俯いて「そう」と力なく返事をこぼした。肩が震えている。
水滴の跳ねる音。一つ、また一つと響いた。
姉さんの涙だった。
浜風「姉さん?」
私が声をかけると、堰を切った水のように彼女は抱きついてきた。突然のことに身体が上手く反応しなかったが、なんとか抱き留める。機械の擦れる音が耳朶を打つ。肉と鉄に抱かれながら、私は声にならない悲哀を受けていた。
嗚咽に濡れる。
蕾をつけた桜の木で抱きあったときと、同じようで違う涙だった。あのときのは惜別と無事への祈り。そして今のは悲劇への嘆き。案じていた結果とは違うものになってしまったことへの絶望が、彼女を突き動かしたのだ。
陽炎「はまかぜ……! はまかぜ……!」
ごめんね。
浜風「謝らなくて、いいんです」
姉さんは首を横に振る。
陽炎「守ってあげられなくて、側にいてやれなくて……。あんたが、そんな辛い目に遭っているなんて知らなかった! ……ごめんね」
浜風「大丈夫ですから。姉さんは、本当にお優しいですね」
赤い髪を撫でながら、出来る限り感情をつくって言う。
自分も利き腕を失っているくせに。
彼女はいつもそうだ。自分のことよりも友のことばかりを優先する。友の不幸を自分のことのように悲しみ、それを防げなかったことを責めてしまう。実直で、仲間想いなのだ。かつては、そんな彼女の姿に花が咲くような美しさを感じたものだが。
今は、何も、感じない。
この手の中には、無味乾燥とした残滓しかない。
労るような手つきは、どこか機械的だった。
陽炎姉さんは、それに気づくこともなく謝り続けていた。
ああ、姉さん。
あなたさえも、今の私にとってはもう、有象無象の一つでしかないようだ。
私の関心のすべては、提督の手にある。
たとえ錯覚だったとしても。答えは、あの中に――。
投下終了です
■
春の風は暖かい。
四月七日。南西鎮守府の島の桜は咲き誇っていた。輝かしいばかりのピンクの花々が大きなカーテンのように波打つ。蜜を運ぶミツバチたちが忙しそうに飛び回り、桜の開花を喜んでいた。花びらが、艶やかに舞う。
メジロの鳴き声が空気を叩いた。爽やかな朝だった。
俺は日の光を浴びながら港を歩いていた。
防波堤の先には、銀の少女が佇んでいる。凪いだ海を静かに見詰めながら、揺蕩う髪を抑え、少女は何を思っているのか。きっと青き眼差しで自分に見えないものを求め、考えているのであろう。美しい無味乾燥とした世界へ疑問を投げかけている。いつも彼女はそうしていたから。
だが、今回はおそらくそれだけではない。
彼女は、待っている。不思議なくらい、そう確信していた。
俺は、浜風の背後に立った。
提督「浜風」
声をかけても、浜風は振り返らなかった。手を掲げ、ひらりと流れる花びらを一枚受け止める。
浜風「今日は、いい天気ですね。桜も綺麗に見えます」
提督「ああ」
浜風「私の処分は決まりましたか?」
たとえ死刑でも甘んじて受け入れます。
そう告げながらも、声には揺らぎがあった。いつもの淡々とした、投げやりで空虚な感じがない。たしかに、微かな死に対する抵抗のようなものが認められる。
提督「まだはっきりとは決まっていない。だけど、死刑にするつもりはないよ」
浜風「……そうですか。あれだけの過ちを犯したのにも関わらず、それでもあなたは許すと」
提督「許しはしないさ。相応の罰は受けてもらうからな」
浜風「あなたは本当に……本当にお人好しですね」
呆れたような、安堵するようなそんな言い方だった。
提督「俺はそんなに優しいかな?」
浜風「優しいですよ。だからこそ、みんなあなたに付いてくるのだと思います」
思わず苦笑いが零れたのは無理のないことだった。
付いてくる、か。
このアルコール中毒者に。俺は酒がなければ立っていることも難しいような弱い男でしかない。ただ、周りがあまりにも彼女たちに優しくないから、相対的に美化されてしまうだけだ。それはほとんど、錯覚に近い。
だが、たとえ錯覚でも、縋りたくなってしまうのも分からなくはないから。俺がアルコールに救いを求めるように、彼女たちが甘美な酔いにも似た「優しさ」を欲するのも無理はないと思うから。
俺はこの「優しさ」に満ちた世界の玉座に腰かけている。
滑稽で、虚しい王なのだ。
提督「……ありがとう」
か細い声が出てしまったから、風に攫われたかもしれない。浜風には聞こえていないようだった。
浜風「ねえ、提督」
花びらが、ふわりと宙に浮いた。浜風が花びらを手放したのだ。
銀の髪が太陽の光を孕みながら揺蕩う。水平線により近い海面の輝きよりも美麗で、髪の一本一本、細部に至るまで、まるで光が形を成した工芸品であるかのように感じられた。
浜風が振り返った。銀の粒子が舞った気がした。
風とともに、問うてくる。
浜風「この風は、良いものですか?」
ああ、なんて。
なんて、美しい瞳なのだろう。澄んだ青さに引き込まれる。
間違いない。俺はいま、この世で最も純粋な美しさに触れている。
浜風「……提督?」
提督「……」
浜風「あの、提督。聞いていますか?」
提督「あ、ああ……。すまない」
浜風「もう」
浜風が頬を膨らませて抗議する。そんな浜風は初めて見た。
提督「ちゃんと聞いていたよ。そうだな、この風は……」
言葉を区切り、続ける。
提督「この風は、とても温かいよ。いい風だ」
浜風「……」
答えを聞いた浜風は、しばし何も言わなかった。そのままじっと俺を見詰めてくる。俺は気恥ずかしさを隠しながらその眼差しを受けた。
浜風は、ゆったりと微笑んだ。
浜風「そうですか」
今までにない、嬉しそうな表情だった。決して作り物なんかではない本物の感情の表出だった。
浜風「……そうですか。この風は、温かいんですね」
提督「ああ」
浜風「いい風、なんですね」
浜風は嬉しそうに言いながらも、目を伏せた。
浜風「……でも、私には何も感じられません」
提督「浜風……」
浜風「だから、言葉だけではどうしても信じることができません。とくに、提督はお優しいですから……私に嘘をついている可能性だってあります」
俺は黙って聞いていた。
浜風の声にも、表情にも猜疑心を感じさせるものは一切なかった。浜風は本当に俺を疑っているわけではない。それがなんとなく分かったから、俺は彼女の言葉を待っていた。
浜風「だから、証明してください。私に嘘をついていないことを。信じさせてください。この世界に本当に色彩があることを」
私に、信じさせてください。
浜風はもう一度そう言うと、目を上げて、グローブを取った。白く細い手がすっと俺の方へと伸びてくる。
俺は静かにその手を受ける。指を置いた瞬間、焼け石にでも触れたかのように浜風の手が反射的に引いた。が、彼女は恐る恐るだがその手を戻した。
震えていた。怖いのだろう。
何を恐れているのか、それは察していた。だが、答えは俺が述べてはならない。
浜風「ああ……」
桜色の唇が重たく動いた。
浜風「ああこれが……これが……」
もう一つの手も、添えられた。小動物を包み込むかのごとく俺の手は優しく扱われる。
いくつもの感嘆の声が、風とともに昇っていく。
彼女は今、答えに至ったのだ。
世界の色彩を見つけてしまった。
浜風「これが『温もり』というもの、なんですね」
海と空が一際輝いた。世界が金色に包まれる。神々しい光の中に溶ける浜風は、悲しいほどに華やかだった。
浜風の頬に、一筋の涙が伝う。
浜風「あれ?」
次々に溢れて止まらない。困惑したのか、どうすればいいのかわからないのか。浜風は首を左右に振って、涙を拭うことすらしなかった。
浜風「なんでしょうこれは……。胸の内から、次々と込み上げてきて止まりません。提督、どうすればいいのでしょう」
提督「いいんだよ、そのままで」
きっと今まで一度も泣いた事がないのだろう。過酷な運命にありながら。
提督「いいんだ、浜風。嬉しくて泣いたっておかしいことじゃない」
浜風「……私は、泣いているのですね」
提督「ああ」
浜風「そうですか」
そう短く言って、彼女は俯いた。
彼女の肩はこんなにも小さいものだったか。震える肩を見ながらそう思った。きっと、凛とした彼女ばかり見てきたせいだ。
浜風「離さないで……」
提督「離さないよ」
浜風「怖いんです。この手を離してしまったら、この『温もり』も消えてしまうんじゃないかって……」
提督「大丈夫、消えない。絶対に消えないから」
彼女が安心できるように、俺は握る手の力を少しだけ強めた。
ほうっ、と吐息が桜色の唇から零れる。
浜風「……ああ」
提督「……」
浜風「……たしかに、ここに。提督、どうかお願いです。しばらく、このままで」
提督「わかった。君の気が済むまで付き合うよ」
浜風「ありがとう、ございます」
水滴が、地面を次々と濡らしていく。彼女はとうとう耐えきれず、嗚咽を洩らして泣き始めた。今までの苦悩をすべて吐き出すような、堰を切った感情の爆発。
波音がかき消される。でも、その声は静謐な朝の空気を不思議と壊さない。俺は胸が締め付けられるような思いで、唇を噛んだ。
抱きしめたいと、思ってしまった。頭を撫でて慰めてやりたいと。だけど、それはしてはならないことだ。浜風のあまりにも気高い純真さをこれ以上穢してしまうような気がしたから。
浜風の叫びを聴きながら、俺は素直に喜べないでいた。それは、俺の意図しない形で浜風を救ってしまったことに対してではない。救えてよかったと思いつつ、また救ってしまったとも思ってしまう自分がいるからだ。その吐き気を催すほどの身勝手さに、自分自身ほとほと呆れた。
風が俺たちの間を吹き抜けていく。その暖かさもどこか今は薄らいで感じられた。
後悔するなら救わなければいいのに。
そんな静流の皮肉が、空から聞こえてきそうだった。
■
私は、とうとう見つけた。
自分が生きる意味を。自分が人間でいられる寄る辺を。あの優しくて大きな手の内から感じられた『温もり』によって。
自室の布団に丸まりながら、胸の内に手を抱いた。
今は何も感じない。だが、港で感じていた『温もり』はまだこの中に残っている。これが錯覚でしかないことは分かっているが、ここにはない今でも忘れることなどできなかった。
提督。
あの人の覇気がない顔が浮かんでくる。いつも顔色が悪そうだけど、とても端正な顔つきで優しい目をしている。
また、あの人に触ってもらいたい。
あの手の温もりを感じたい。
提督。
あの格好いい顔立ちを見たい。あの目を見たい。あの声を聴きたい。あの人と話したい。あの人に会いたい。あの人をからかいたい。あの人を困らせたい。あの人に、あの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人に……。
あの人が、欲しい。
太ももをすり合わせる。何故か下腹部に違和感があって落ち着かない。どうしてだろうか、あの人のことを、あの人の温もりを考えただけで心と体が震えてくる。気持ちが昂って、ああ……抑えられない。
浜風「……ん、はぁ」
提督が、今すぐ欲しい。
衝動のように湧き上がってくる。提督を求める気持ちが。
私は確信する。
私には、彼しかいない。私が人間で居られるのは彼と過ごし、彼と触れ合っているそのときだけだ。彼が居て、初めて不完全な私は完成するのだ。いわばパズルの失われたピースのようなもので、絶対に不可欠な存在。
私は、誓った。
なんとしても彼を手に入れる。
たとえどんな手を使ってでも。何人殺すことになろうとも。絶対に。
この小さな島の鎮守府で、私は私の世界を見つけた。その世界にいるのは私と提督だけでいい。
あの温もりは、私だけのものだ。
投下終了です。
これで二章は終了となります。
このSSまとめへのコメント
更新楽しみにしてます!
読みやすいし面白い 期待でしてます
面白いです
更新楽しみです
続き楽しみにまってます
がんばってください
面白いので続いてくれると嬉しい
内容が凄く俺得
か''わ''い''な''ぁ''い''か''つ''ち''ち''ゃ''ん''
これは続きが気になる
地の文はあまり好きではないけどこれはすごく読みやすかったです。期待しています
ああ^~(小声)
あれ?この人喰いの本ってやつ東京喰種に似てね?
と思ったらやっぱり東京喰種だった(小声)
ディリウムじゃなくて、リディウム…いや、なんでもない(小声)
期待
グールのところで辞めた
まぁ頑張ってくれ
更新頑張れ!
楽しみにしています!
人から艦娘って言う設定なら捨てられたって所は普通に殺人にならんのかな
そんな簡単に轟沈報告が通るものなのか
主人公もそのことに言及しないで物のやりとりのような感じだったし
人じゃなくて感情のある兵器の方の設定だったら違和感なかったんだけど
いくらでも待てるので完結まで行ってくると嬉しいです
頑張ってください
ヤンデレ浜風は新鮮
期待してます!
うい、ワンピースばりの回想の長さ…
てっきり空の境界を参考にしているかと思った
回想長いけど面白いわ
続きはよ
この程度で面白いの?
読んでる奴らはよっぽど退屈してるんだな。
※19 この程度と判断した作品にわざわざコメント残すの?
わざわざコメント残すなんてよっぽどの暇人なんだな
※20 それなw
しかも平日午前4時の書き込みときたもんだ。どうせ負け犬ニートがコメントしてるんだろうけどな
※20.21全くだね、ていうかつまんないと思うならコメント残すなよ鬱陶しい構ってちゃかよきっも~
※20.21.22
まぁ、そう言ってやんなよ。構って位しかコミュ手段が無いニートがかわいそうだろww
※そうだなwwwwwwwwww
ヤンデレ浜風は大好きだ、
更新期待してます。
それはそうと
※21〜24
が臭すぎる。
読みやすいしおもしろい!
きっと※19があまりにも臭いから皆で蓋をしてあげてるんだよそんな人達を臭いだなんてとんでもないよ
※25まあまあ落ちつつけ
くっさ
とても面白いです続き楽しみにしてます
頑張ってくれ
あけおめです。
更新楽しみに待ってます!
あけおめッス!頑張って下さいまし。
いいねぇ、ここからだね
南提督がボッコボコになるのが楽しみだね
一回だけ浜風が痛みを感じちゃってるな…
勢いでそう書いてしまったんだろうが…
愉悦!
あけましておめでとうです。
続きが読める事に電流のような快楽が突き抜けてうんぬん、、w
引き続き期待しています!
でも浜風はのんべぇ提督に拾われてるんだよな
しかも南提督は大々的に喧伝されてる
この展開からどうなったらそうなるのか
すごく楽しみだ
ヤンデレ浜風ちゃんの話かと思ってワクワクして読んだら長い回想編で半沢直樹だった事が発覚したでござる
なんだこの読みやすくも濃密な文章は・・・! 俺の一時間あっという間に奪われちまったよ・・・
>>39
フフ・・・1時間半奪われたぜ・・・(面白かったです)
回想なっがーぃ
問題先送りしたいなら酒なんか飲むなよ提督…更に状況が悪化する悪寒
よく分からない、正直全く分からないが雰囲気が好き
更新続いていて嬉しいなのです
面白いです!
更新頑張ってください!
全て読んだ。まだ続きがあるだろうし、最後はハッピーエンドになるとしても、不快。ただただ不快。最近こういうのばかりで陰鬱な気分になる。
すごく良く練られてて面白いとは思うんですが、落として上げるの前座段階に時間をとりすぎというか落としすぎなような... 続いてくれることを願います
やはり浜風は化け物や(胸を見ながら)
結構続いてるけど話が崩れない
もしかしてこれ、相当長いSSになるんジャマイカ
続き楽しみ
ここの浜風は右目に万華鏡写輪眼開眼してそう
更新感謝
これからも頑張ってほしい
今回もすごく面白かったです。
一気読みしてしまったわ
面白かった
無理しない程度に頑張ってください
完結したら起こして
ここから鎮守府が血に染まっていくんだな
初めからずっと読んできましたが物語が加速してきましたね
次回の更新も楽しみに待ってます
ずっと読んでます!
これからも楽しみにしています
これは良い作品