モバP「し、しんでる…」 (85)


※不快な気分になる可能性があります
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申し訳程度に植えられた街頭の木々から、その本数からは考えられない程の蝉の大合唱が響いている。

陽光が俺を焼き尽くしていくような感覚を、文字通り肌で感じた。

手で庇を作ってみるけど、そんな程度じゃ気休めにだってなりはしない。

まるで、体中の血液が沸騰しているみたいに、体の芯から熱を感じる。

そう言えば、特に見ている訳でも無いのに惰性でつけていた朝のニュース番組で、今日は今夏一番暑い日になると言っていたような気がする。

そんな、思い出した所で一層憂鬱になりそうな情報が、熱でおぼろげな俺の頭を掠めていた。



照り返した日光で、いつも歩んでいるこの道は、まるで別世界の様相だ。

それが本当に照り返しだけなのか、暑さに中てられた俺の視野が幻想を見せているのか、そんな事さえ判別できない。

ただ、はっきりとわかる事が一つ。


「………あっついなぁ」


拭っても拭っても額から滴る汗が、これが現実であることを認識させた。

暑い。今日はとにかく暑い。それだけは自明だ。





まだ朝も早い時間だというのにこれだけの暑さなのだから、昼を過ぎた辺りではいったいどうなってしまうのだろうか。

毎年聞く話だが、こういう日は熱中症で亡くなる人間も出てくるらしい。

どんなに健康でも、これからに希望があっても、そんな人間にだって不運というのはこの日差しみたいに往来行く誰にでも平等に振りかかってくるものだ。

次の瞬間、俺が暑ささえ感じる事のないただの肉の塊になってしまっていたって、何ら不思議な事ではない。

明日は我が身ではないけれど、それが身近で親しい人物に降りかかったら、俺はどうするだろう。

社長、事務のちひろさん、担当するアイドル達。

個々の親交の深さは別にしても、悲しいって事には恐らく変わりない。




悲しい時には泣くというのが一般的な行動だろう。

だけど、俺にそんなことが出来るだろうか。

…格好つけてるわけでも無いし、感情が欠けてるとかそういう話でもない、俺はごく一般的な人間だ。

今まで近しい人と今生の別れというものを経験した事が無いからわからない。

考えた事が無い訳でも無い。でも、当り前の様に俺の前に居た人間が消えると言う事が、どうにも想像につかない。


「やっと着いたか…」


………なんて、ありもしない事を考えて気を紛らわしている内に、見慣れた扉の前に辿りつく。

俺が務める会社… __プロダクションとでかでかと書かれている。




扉に手をかけると何の抵抗も無く開いた。まだ早い時間だが、誰か既に来ているようだ。

ちひろさんだろうか。誰にせよもう人が居るなら、室内はクーラーですっかり冷やされている事だろう。

汗を拭い続けたハンカチは水に浸したみたいになって、いい加減限界だった。

シャツも汗ですっかり透けてしまい、女性ならまだしもビジュアル的に厳しい。

そろそろ聞き飽きていた耳がどうにかなりそうな蝉の声を背に、俺は既に疲れ切った体を冷気という期待に躍らせながら室内に足を滑らせた。


___


「おはようございます」


とりあえずいつも通り挨拶をしながら、室内を見渡してみる。

期待した通り、室内は壁一枚隔てられた外とは別世界だった。

締め切られたガラス窓から降り注ぐ光が、この室内とはあまりにかけ離れている。

本当だったら心地いいと思うはずなのに、どこかうすら寒い。不気味なほど静まり返っていて、誰かいる筈なのに明かりの一つもついていない。


「誰もいないのか……… って、藍子?」


何処か戸惑ったような足取りで自身のデスクを目指しながら、彼女… 高森藍子の姿を確認した。

他の誰が座っている訳でも無いのに、ソファーの端に申し訳程度に腰掛けている。

綺麗に纏められた髪を、後姿だとはいえ流石に彼女以外とは間違えない。



藍子、と、名前を呼び掛けたのにも拘らず、彼女は振り向くことは愚か、まるで俺に気付いていないみたいに身じろぎ一つしなかった。


(寝てるのかな…?)


まだ出社時間には幾分かの猶予がある。

それに、その時間なんて飽く迄俺とちひろさんの目安でしかない。

アイドルがこんな時間に来ているのは珍しい事だったし、しっかりした藍子の事だから時間を間違えたなんて事も無いだろう。


昨日は藍子と仕事があったけど、終わったのは割と遅い時間だったと思う。

藍子は着替えて帰ると言っていたし、俺も疲れていたから施錠はまだ事務所に残っていたちひろさんに任せて先に帰ったんだ。


………いったい藍子は今朝何時から事務所に居るんだ?



室内は今が真夏とは思えない程クーラーによって冷え切っている。

そう広い事務所でもないけど、このクソ暑い中これだけの温度にするためには少々時間を要するというもんだ。

もしかしたら藍子は事務所に泊まったのだろうか。


…いや、ないだろ。

寮はここから歩いても数分の場所にあるし、天候が悪くて帰れなかったって事もありえない。

何よりちひろさんに任せて帰ったんだから、何か理由があったとしてもここで一夜を明かすなんて彼女が許さない。



ぐだぐだ考えても仕方のない事だし、起こして藍子本人から直接聞けばいいんだ。


「藍子、起きろ。もう朝だぞ」


事と次第によっては、少々言わないといけない事にもなるのかって、そんな下らない憂鬱を胸に抱えながら歩み寄る。


「起きろよ、いつまで寝てるんだ」


声を掛けた所で起きる気配は一抹も感じられない。

それどころか、彼女だけ時間が止まってるみたいに、本当に身動き一つしない。

こんな冷え切った部屋の中、固いソファーに座ったまま眠ったとしたら、身体が硬くなるのはわからなくもないけど。



「おい… って、うわ!」


いい加減反応を示さない藍子に痺れを切らして、彼女の肩に手を置き揺さぶろうとした。

………一瞬だったけど、そっと触れた藍子の肩は信じられないくらいに冷たかった。

反射的に離してしまった右手を宙に彷徨わせながら、どうにも嫌な直感が脳裏を駆け巡っていくのを確かに感じた。


「そんな訳… ないか」


ありえない、そんなこと起きる訳がないって、自分に言い聞かせながら意を決してもう一度藍子に触れる。


………おかしいだろ。

いくら室内が冷えすぎているって言っても、人間がこんなに冷たくなる訳がないんだ。



「おい… 起きろよ!」


俺の予感なんて当たっている訳がない。そう思いながらも焦りで語調が強くなっている自分を、何処か遥か遠く感じた。

…それに恐ろしい程に硬い。

強めに肩を揺すっているのは事実だけど、それにしても体が固まってしまっているみたいに、その揺れは藍子の全身を揺らしている。

だけど、普段の藍子から感じられるしなやかさなんて、その中には全く感じられない。


「冗談はやめろ! 藍子!」


放たれる言葉は絶叫に近く、怒気すらも内包されているように感じる。

こんなのは性質の悪い、行き過ぎた冗談で、普段は大人びている藍子でもやっぱり子供っぽい一面があって…

当り前だろ。だってまだ十六歳だ。

だから、きっと俺を困らせて反応を楽しんでいるだけなんだ。

最後には、『ごめんなさいプロデューサー』って、いつも通りの柔和な笑みを携えて言ってくれる筈だから。



揺すっても呼び掛けてもなんの反応もしてくれない藍子に、嫌な予感はどんどん重みを増し、更には不気味な感情を覚える。

胸からせり上がってくる何とも言えない… 強いて言うなら吐き気の様な感覚を呑みこみながら、俺はそっと藍子の正面に回り込んだ。

強く揺さぶったのに、変わらず姿勢がいいのは、藍子らしいと形容しても誤謬は無い。

眠っているにせよ、俺に悪戯しているにせよ、藍子は礼儀正しい子だから。

だけど、そんな姿勢のまま若干斜めに固まったままの藍子に、恐怖心とも取れないものを覚えたって、きっと笑う奴なんて居ないだろう。


「なんだよ、これ………」


………眠っている筈なのに、どうして目が半開きなんだ?



藍子の両肩に手を置き、今度こそはと優しく揺すってみる。


「なぁ、藍子。怒らないからさ、何か返事をしてくれよ…」


声色も優しさを含んでいたと思う。

でもやっぱり藍子は何の反応も示さない。

………それどころか、息すらしていなかった。

左手は肩に置いたまま、右手でそっと両眼を閉じてやった。


「………あぁ」


溜息とも取れなくはない、言葉にもなっていない呟きが零れ落ちた。

不運なんていつ誰に降りかかったって可笑しくない。自分に関係無いなんて思っていたって、自分以外にはわからない。

運があらずで、不運。これもまた藍子の運命だったのかもしれない。


「死んでる…」


誰にも返されることのない言葉を漏らしながら、藍子の隣に乱暴に身を下した。


___
__
_


「急性心不全、だそうです」

「…うぅ、グスッ………」

「風邪とかの感染症や、暴飲暴食… あと、心理的、肉体的ストレスから誘発されることがあるそうです」


とはいっても珍しい事は確かですけど、って目の前で涙を隠そうともせず流し続ける事務員に端的に説明した。

俺は専門家でもないし、直接の原因なんて知ったこっちゃないが、藍子もああ見えて溜め込むタイプだったって事なのかな。




昨晩ちひろさんは、疲れていたという理由で先に帰ったらしい。

その場に居たのが藍子だけで、藍子ならしっかりしているから鍵を任せても大丈夫だと、勝手に判断したそうだ。

貴重な資料や個人情報なんかも保管してあるのに、何が大丈夫だと思ったのだろうか。


「わ、私… 本当に疲れていて… それで………藍子ちゃんならって………」

「それはもう何度も聞きましたから」


仕事はきっちりしている人だと思っていたのに。彼女のいい加減な一面に、俺は苦い顔を隠そうともせずに吐き捨てた。





直接の原因はちひろさんだって事になるんだろうけど、世間はそう簡単じゃない。

事務所として、担当の俺が責任を取らされることになるんだろうか。

それに、藍子はかなり売れっ子だったし、仕事関係への謝罪や記者会見の手配も必要になってくるだろう。


………一番心配なのは保護者への説明と謝罪だ。

信頼して預けて貰っていたのに、まさかこんな形で親の下に帰る事になるなんて、本人すらも想像していなかっただろう。

それこそ藍子本人がいてくれたら、俺は悪くないって言ってくれたのかもしれないけど、死人に口は無い。




これから数日… もしかしたら数週間、数か月は金にならない仕事で忙殺されることになるんだろう。

下手すればその後はお払い箱だ。そんな状態でも、親御さんに関しては一生かかっても支払えないような慰謝料なんかを要求されるのかもしれない。

果たして本当に不運なのはいったい誰なのか?

こいつは泣けば済むとでも思っているか?

忙しくなるであろう日々に辟易としながら、隣で泣いているだけの同僚を睨みつける視線は、冷たい感情だけで模られていた。


___


「おはよう、ございます………」


今日は特に忙しいだろうから、アイドル達のレッスンや仕事なんかは全てキャンセルした。

急なキャンセルになったけど、藍子以外はさして売れてもいないし、そんなに迷惑をかける事も無いだろう。

要するに本日休業って事なんだけど、意味を汲み取れなかったのか、扉を開けて一人のアイドルが入ってくる。


「…おはよう、歌鈴」

「………はい」


道明寺歌鈴は藍子と特に親しかった。何度か藍子にくっついていかせる形で仕事をさせた事もある。

藍子はそんな歌鈴を疎ましく思ったり、蔑ろな扱いをした事も無い。

歌鈴の方が年上だけど、二人の間にはそんな事は関係ないみたいに、(俺の主観ではあるが)まるで本当の姉妹の様に親しかった。




そんな歌鈴だから。彼女にだけは事の詳細を話していた。

別に口止めされている訳でも無かったけど、本来今言うべきではないって事くらいわかっていた。

歌鈴自身、いてもたっても居られなかったのだろう。

この場所に来たって歌鈴に出来る事なんてないのに、そして、恐らく本人もそれを分かっているだろうに。

友情って奴なのか、それとも俺の何か知らない感情が二人の間に横たわっていたのか。


「えっと… Pさん………」

「………まぁ座れば?」


夏真っ盛りの外を歩いてきたにしては妙な程蒼白としている歌鈴に座るように促す。

立ったままでは落ち着くことも出来ない。

事と次第がアレだから、落ち着くなんて歌鈴には今出来ないのかもしれないけど。


「あ………」


………歌鈴が申し訳なさそうに腰かけたのは、ソファーの淵だった。


無言で冷えた麦茶を差し出す。

歌鈴はどうにも定まらない手つきでそれを受け取った。

何時もなら『ありがとう』の一言でも言いそうなもんだが、会釈すらも無く、何とも歌鈴らしくない。

傍から見れば病的なほど白い顔をしているから寒いのかとも思ったけど、額には脂汗が滲んでいるし、何処か息も荒い。


「………」

「………」


………………………。

俺からしてみれば、歌鈴に対して話すべきことは話したし、これ以上何か言うと愚痴になってしまいそうだったから口を噤んでいた。

ただ落ち着かないから事務所に来たのか、そうでなければ歌鈴が口を開いてくれるだろう。

傷ついているであろう歌鈴を、俺が矢継ぎ早に捲し立てて結論を急いだって仕方がない。




だけど、俺は黙って対面に座りながら、落ち着かない挙動で両手を揉みあっていた。

………個人的に、俺は歌鈴が好きだ。

単純に俺好みで可愛い。それに、歌鈴はアイドルとして光る物を持っていると思う。

だから、藍子が亡くなった事をきっかけに、歌鈴がアイドルを辞めるなんて言い出したらと思うと、気が気じゃなかったんだ。

贔屓みたいで公平な立場の者としてはあまり誉められた事ではないんだろうけど。




黙って俯いたまま、すっかり空っぽになったグラスを手中で転がす歌鈴を眺めて見る。

俯いていて表情は窺えないけど、まさか笑顔って事も無いだろうし、苦悶に顔を歪めているに違いない。

もし一人でいる事が不安で、俺を求めて事務所に来てくれたんだとしたら、………まぁその、なんだ。正直嬉しい。

ただもし、辞めるって予想が当たっていたとするなら、俺に対しては一番言い難い事だろう。

歌鈴をスカウトしたのは俺だし、…藍子に引き合わせたのも俺だ。

別に藍子と仲良くしてほしかった訳ではないけど、藍子と仲良くなることでアイドル活動を楽しんでくれていたのもまた事実だった。




………何も今死ななくてもいいだろ。

心中で苦虫を噛み潰しながら、とても表面に出せないけど、率直にそう思った。

藍子と組ませて歌鈴の名を上げていく算段だったのに、頼みの藍子はもういない。

当の歌鈴は『藍子ちゃんの分まで頑張ります』なんて、とてもじゃないけど言い出すとは思えない様子だ。

しかも、藍子が亡くなった事で俺に余計な仕事と心労が増えるし、事務所としても妙な噂を立てられたって可笑しくない。


「…はぁ」

「………っ」


堪えきれない程の感情を押し殺す努力はしていたけど、溜息となって微量に漏れ出す。

それと同時に、歌鈴がビクンと身を震わしたのには気付いていたけど、フォローするような言葉は熱を持った頭には浮かんでこない。

藍子の事は商売道具としては高く買っていたんだけど、その評価は改めなければならない。

まぁそもそも、居ない奴を評価したって何の意味も為さないんだけど。




藍子が居なくなったことで歌鈴はとても悲しんでいる。

アイドルを辞めたって可笑しくないし、辞める理由としては十分過ぎて釣銭で家が建つ。

もし続ける選択をしてくれたって、モチベーションが上がる訳がないし、そんな状態でいい仕事が出来るなんてありえない。

………まぁ元より、大して仕事なんて無いんだけど。


それにしても、だ。

立つ鳥は後を濁さないんじゃないのかって。

藍子。死ぬなら俺と歌鈴の将来に迷惑をかけない様にしてくれよ。





でも、そうだとしても。

俺は歌鈴の名を上げたい。それは独りよがりな自己満足かもしれないけど、歌鈴はこんなところで終わってしまう素材じゃない。

それに、今歌鈴がアイドルを辞めてしまったら、俺との接点は無くなってしまうに等しい。

藍子との思い出が染みついたこの場所に、態々俺の為に顔を出してくれるほど関係は深くないし、歌鈴はそんなに強い子じゃない。

他で会ったとしても、話す事は共通の一つ。避けられるに決まっている。


………なんとかしなくては。

歌鈴をここの場所に引き留めなければいけない。


久しぶりだなおい


「………」

「………」


冷え切った空間は変わらず無言という静寂が支配している。

だけど、俺の頭の中は、策を纏めるために、自分でも信じられない程に回っていた。


歌鈴が何か話し始めるまでは黙っておこうって思ったし、それが正解だろうと今でも思う。

だけど、歌鈴が何も言い出さないって理由で、俺が口を開いたって可笑しくない。


………歌鈴は押しに弱い。

気が弱いとも取れる。芯には強いものを持っているけど、それが表層に出てくるタイプじゃない。

少し狡いけど、今回は俺の意見を押し通らせてもらう。


>>32 半月ぶりくらいですかね 読んでくれてありがとう



そもそも上司の命令には逆らえないのが部下ってもんだ。

アイドルとプロデューサーの関係がそれに当てはまるのかはわからないけど。。

藍子の事で骨身に染みたが、部下の尻拭いをするのも俺だ。

その尻拭いを今後に活かす方向に持っていたって、文句を言う奴は、今この世には存在しないんだ。




「歌鈴」

「っ………はい?」


唐突に投げかけられた呼びかけに、歌鈴は驚いたように顔を跳ね上げた。

俺が話しかけてくるとは思っていなかったのだろうか。

………それとも、ただ本当に俺と居たかっただけなのか。

後者だと申し訳ないが、もう声を掛けてしまったし、ここで黙ってしまったら不自然極まりない。


上げられた歌鈴の瞳には、やはりといってはなんだが、涙の跡が克明に刻まれていた。

いつもは大きくて澄んだ目をしているんだけど、赤く腫れぼったくなっている。

そんな歌鈴もまた素敵だが、俺はやっぱり笑顔の彼女が一番好きだ。


大丈夫。

今は辛くても、俺が笑顔にしてみせる。




不を負うものが居れば、その裏で幸せに巡り合う者が居る。

現実味のない話だけど、世の中の幸不幸はそうやって巡っているんじゃないだろうか。

平等で誰もが幸せなんて事はあり得ないし、損をした分誰かが得をする仕組みになっている。

………歌鈴は、得をする立場。そうでなければならないんだ。


「………アイドル、辞めようと思ったか?」

「えっと… それは………」

「怒らないから、素直に言って構わないよ」



「ええっと…」


率直な俺の問いかけに、歌鈴はやっぱり言葉を迷った。

その逡巡が示していたのは、やっぱり歌鈴がアイドルを辞めようと考えているんだと思った。


「………その通り、です」


申し訳なさそうな声色でで呟き、もう一度俯いた。

…その拍子に、歌鈴の瞳からぽたりと水滴が垂れたのを俺は見逃さなかった。


「そうか」


まぁ予想通りだったし、数分前ならまだしも今更驚くような事でもない。

自分でもよくもこんなに落ち着いていられると、不思議な感覚だった。



「藍子ちゃん… ふえぇ………」


事務所を訪れてからは涙の一滴も零さなかったのに、堰を切ったみたいに泣き出してしまった。

気丈に振る舞っていたのだろう。俺の前ではきっと弱い自分を見せたくなかったんだ。

だけど、藍子の死やアイドルとしての今後… 様々な思いが錯綜して、もう我慢の限界だったんだ。

辞めるって。そんな辛い選択を彼女に強いた、今は亡き藍子を恨めしく思う。

辞めたくないに決まってるだろ。

だってここまで頑張って来た。いつ来るかもわからないような仕事に備えて、毎日厳しいレッスンも乗り越えた。

お世辞にも上手いとは言えなかったダンスも、今では何処に出したって恥ずかしくない。

………それも、俺がスカウトしたから、俺の為に頑張った。




藍子を媒介に徐々に顔を売っていくつもりだったのに…

思えば思う程、迷惑な奴だ。

藍子と仲良くなってから、俺が食事に誘っても来る頻度は減っていった。

『藍子ちゃんと約束があるんですっ』

………藍子の奴、ふざけやがって。お前の仕事は歌鈴を連れ回す事じゃなかったのに。


今回だってそうだ。面倒な事は全部俺に押し付けて勝手に居なくなったんだ。

依然泣きじゃくる歌鈴を目の前に、感情が昂っていくのを抑えられない。

それを表情には出さないように努めるけど、果たしてうまく出来ているのか、判別は自身の事ながらつかなかった。




結果的に歌鈴の役に立たないわ、俺に面倒を押し付けるわ、挙句の果てに俺の歌鈴をこんなに泣かせるわで、藍子の俺の中での評価は地に落ちていた。

碌な奴じゃない、それだけははっきりしている。

だけど、居なくなった事で余計な手出しをする事も無くなった。…歌鈴を俺の手中に戻せるんだ。


「…俺は辞めてほしくない」


アイドルを。

委縮させてはいけないと、熱の籠っていた頭を冷やすべくなるべく落ち着いた声を意識したけど、内容が端的すぎたような気がしなくもない。


「…なんで………ですか?」


でも、失意でぐしゃぐしゃであろう歌鈴にも意味は伝わったみたいだ。



「藍子もまだまだこれからだったし、きっと悔しがってる」

「………はいぃ… グスッ」

「藍子は果たせなかった自分の夢を、歌鈴に掴んで欲しいんじゃないか?」


トップアイドル。藍子には少し荷が重かった。

藍子本人だけの問題でなく、…少なからず俺の意識の問題もあったけど。

それは藍子だって歌鈴だって知らない事だし、知らなくて構わない事だ。


「で、でもでも、藍子ちゃんでもなれなかったのに… 私なんかじゃ…」

「なれるさ」

「え………?」


歌鈴だってアイドルだ。その夢舞台を一度でも思い描いた事が無い訳がない。

だから、少しだけ上ずった歌鈴の声を聞いた時、これはいけると確信したんだ。



「………いや、俺がしてみせる。歌鈴はトップアイドルになるんだ」

「私が、ですか…」

「その名声が、雲の上の藍子にも届くように」

「藍子ちゃんに… うぅ」


今だけじゃない。きっとここに来る前も枯れ果てる程泣いただろうに、藍子の名前を出した瞬間に、またも大粒の涙を零し始めた。

歌鈴にとって藍子はそれほど大きな存在だったというのだろうか。


「っ………」


吐き捨てようとした暴言を、歌鈴が目の前にいるからって飲み込んだ。

俺は藍子の代わりになれるだろうか。

…いや、歌鈴の中で藍子なんて消してやる。



どんな人間にだってチャンスは巡ってくる。

藍子は上手くそれを掴めたから、ある程度の地位まで上り詰めた。

藍子亡き今、その機会は歌鈴に訪れている。

問題はそれをしっかりと活かせるかどうかなんだ。

歌鈴の幸せはアイドルとして輝く事。………大丈夫俺が付いている。

歌鈴の中では藍子の為だって思ってるのかもしれないけど、それが俺の為に挿げ替わるのもそう遠くない未来だと思う。


「ふぇ… 藍子ちゃん、グスッ…うえぇ」

「…頑張ろうな」


歌鈴をさりげなく胸に抱き寄せて、柔らかな髪の感触を確かめるように撫でる。今は存分に泣けばいい。

その涙が本当に枯れた時、歌鈴は新しい一歩を踏み出す。

俺と踏み出すんだ。

雑音なんて立てさせない。絶対に成功させてみせると、心に誓った。



___
__
_


今日もミンミンジージー蝉の声が煩い。

いよいよこの夏日和も佳境と言った所か。

色んな意味で金が無い今のこの事務所は、節約だといって冷房もついていない。

それどころか扇風機の一つもないもんだから、とりあえず窓を開けている。

開け放たれた窓に歩み寄ってみるけど、頬を撫でる風は生ぬるく、とてもじゃないが涼なんて感じられない。

節約するにしても他に何か方法は無かったのだろうか。

余りの暑さに死んでしまいそうである。ちひろさんは自殺願望でもあるのか?

………不謹慎か。どうでもいいけど。


藍子の死から一週間は本当に大変だった。

記者に追われ、あらぬうわさが流れ、事務所が潰れでもしたらどう責任を取ってくれるのかとそればかりを考えていた。

でもまぁ、俺が一番心配していた問題は驚くほど丸く収まった。

…藍子の親だ。

藍子は本当に楽しく活動していたからって、特に何の御咎めも無かった。

葬儀に参列してくれればいいって話だった、それだけ。…歌鈴と一緒にだけど。


「あつい…」


今はその言葉しか出てこない。

氷なんて一瞬で溶けてしまった水滴まみれのグラスから生ぬるい麦茶を啜る。

ぬるい液体が胃に染み渡る感覚は、不快以外の何物でもなかった。




正確にどのくらいの時間が経ったかわからないけど、まだまだ暑い季節だしそんなに経過していない事はわかる。

だけど、俺の中での藍子の存在というのは、あれほど憤りを覚えたのにも拘らず、驚くほど希薄になっていた。

少々薄情な気がするが、やっぱり実際に居ない奴なんて、忘れていくもんなんだろう。

でも、俺みたいにみんなすっきりした性格だったら、世の中もっとうまく回ってる。

引きずって、割り切れない。それもまた人間らしさと言う事なんだろう。


「おはようございますっ」


………噂をすれば、か。誰とも会話していないけど。

事を割り切れない代表みたいなやつが、あまり意味を為していない扉を開けて入ってきた。




「おはよう、歌鈴…」

「Pさん、今日もあつそうですね!」

「おう…」


歌鈴を筆頭にもうぼちぼちとアイドル達は復帰してきている。

とはいってもレッスンにだけど。

俺の気だるさを隠そうともしない語調にも、歌鈴は元気よく話しかけてくれる。

やっぱりいい子だ。可愛いし。


「今日で三週間、ですね」

「ん………? ああ…」


でも、そうかと思えばこれだ。




「藍子ちゃん…」


歌鈴は一転泣き出しそうな顔になった。

満面の笑みも取り繕っていたのだろうか、そうだとしたら演技力が付いてきたと誉めたい所だが、そう簡単な話じゃない。


「なぁ、歌鈴」

「うぅ…、なんですか…?」

「もう三週間だぞ?」


真偽は定かではないけど、もうあれから三週間も経っているんだ。

…ちらっとメモ帳を確認すると、今日でぴったり三週間だった。

歌鈴だってそれをわかっているんだし、もうそろそろ藍子なんか忘れてしまってもいいころではないだろうか?


久方ぶりの投稿やな
また某まとめの連中が発狂するようなモノを頼むぜ


「どういう、ことですか…?」

「…歌鈴はあれから、俺と一緒に頑張るって決めたんだから、シャキッとしてもらわないと困るんだ」


最大限言葉は選んだつもりだ。藍子には触れない様に、意識をアイドルに… 俺へと向けさせるために。


「そ、それは、もちろん頑張るつもりですっ。だけどまだやっぱり…」

「…まぁ、いい。今から営業だから、そこではしっかりしてくれないと困るからな?」

「はい! がんばります…」


返事だけは威勢がよかったけど、意気込みはどこか尻窄みだった。

そんな歌鈴に対して、言いたいことは山積だけど、仕事の前に言って気負わせるのはよくないからな。


>>51 今回は>>1にしっかりかいたから大丈夫。たぶん恐らくメイビー


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「ふぇぇ…」


………結論から言うと、今日の営業も駄目だった。

歌鈴は緊張すると噛み癖が出るし、訳のわからないドジを連発する。

個人的にはそういう所も凄く好きではあるが、発揮する場所は俺の前だけにして欲しい。


「もう気にしなくていいからさ。いい加減泣くなって。な?」


泣きじゃくる歌鈴に笑いかけてみるけど、こっちを見てくれないから効果も無い。




気にするな、なんて言っても、気にするのが歌鈴だ。

引きずる性格だってのは、この数週間で痛感していたから。


………仮に、仮にだけど。

もし藍子と一緒だったら上手くこなせていただろう。

二人一緒に連れて行った時は、いつだって仕事を貰えた。

精神的な支えとして、藍子の存在は歌鈴にとってそれほど大きかったんだ。




だとしたら、俺はなんだろう?

藍子に劣っているのか。

…わかっていた事だ。藍子を忘れさせるために、今の俺は歌鈴だけに付いて世話をしている。

それだって昨日今日の話じゃない。藍子が売れていたから付くことは多かったけど、今までも俺は時間の許す限り歌鈴だけを見ていた。

それに、もう藍子はこの世に居ないのに。

歌鈴に思いを馳せ、尽力してきた俺は、歌鈴本人にとってはただのプロデューサーなのか?


「なぁ、」

「…藍子ちゃん」

「っ………!」




俺が言葉を発したのと同時に、歌鈴が声を上げた。

震えた声だった。今に泣き出したって可笑しくない。

俺が思わず声を呑みこんだのは、最も聞きたくない単語を、最も言って欲しくない相手が口にしたからだった。


「藍子ちゃんとだったら… 今日のお話しもうまくできましたかね…?」


体中が熱を持っていく感覚。

専ら、最近はよくあることだけど、その根源が精神的要因だったことは初めてではないだろうか。

ふざけるなって、それが一番最初に浮かんだ言葉だった。

藍子と一緒なら? じゃあ、今日隣に居た俺はなんだったんだ?

俺と二人だったら安心して仕事も出来ないって言うのか?

俺は歌鈴の幸せと成功を祈ってこんなに頑張っているのに、どうして歌鈴自身はそれを理解できないんだ?





「藍子ちゃんが、」

「いい加減にしろよ」

「………!」


歌鈴の前だけは始終穏やかであろうと思っていたけど、もう限界だった。

思えば、ここ最近いつだって俺は貧乏くじだ。

やっと運が向いてきたと思えば、一緒にそれを掴む筈だった歌鈴は、手の届かない影を追って俺に向き合ってくれない。


「お前いつまで藍子藍子言ってるんだ!?」

「p、Pさん急に… え…? なにがでしゅか…」



歌鈴からすれば唐突な俺の激昂に付いていけないのも当然だろう。

泣きそうで震えていた声は、今は違う理由で震えている。

だけど、俺からしてみれば我慢の限界だった。

いつだって俺は藍子と比べられている様な気がしていたし、歌鈴は俺が頑張ってる姿に本当の意味で目を向ける事はない。

時間が解決するかとも思ったけど、その前に俺が限界だったんだ。


「藍子は、もう死んだ! もう居ないんだよ!」

「な… え………?」


………言い過ぎか?

まだかろうじて残っていた正常な部分が問いかけてくる。

でも、そんな問いかけは無意味だ。良心に呵責は微塵も生じない。

俺が言っているのは、全て事実なんだから。





茫然自失。こんな歌鈴の表情は見た事が無かったし、これからも見る事はないだろう。

…驚いたよな。いきなり怒鳴ったし。内容も触れてほしくなかった事かもしれない。

触れたくなかったのは俺も一緒だ。

だけど、俺は言ったんだ。だから、歌鈴も自分の傷を舐める様な真似はこれっきりにして欲しい。


「藍子は… もう忘れろ。俺が居るだろ」


怒りで余計な事を言いまくった気がするけど、一番伝えたかった言葉は冷静に言えたと思う。

…きっと歌鈴の心にも響いた筈だ。





「………はい」


定まらない視点で、歌鈴はそう呟いた。

ちょっとでも気を逸らしていたら聞き逃してしまいそうな声量だった。


「…怒鳴って悪かったよ」

「いえ… はい………」


かろうじてと言った調子で歌鈴は声を絞り出している。

現実を突きつけたばかりだ、今くらいは大目に見よう。


「明日から、しっかり頼むぞ?」

「………はい」


機械的に同じ言葉を繰り返している感じがしなくもない。本当に明日からしっかりしてくれるのだろうか?

…俺を見てくれるのだろうか?





今日はもうこれ以上何を言っても無駄だと思ったから口を噤む。

…同時に、生まれ変わるであろう歌鈴との日々に胸の高鳴りは抑えられない。


「………」


今日一度も歌鈴とは目が合わなかった。

だから、歌鈴の瞳から最後の一滴が流れた事にも、俺は気付かなかった。



___
__
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「うお~やっぱり涼しいなぁ」

「あ、プロデューサーさん。お帰りなさい」


諸事情により迎えた経営難は、この一年ですっかり解決していた。

今、事務所の扉を開ければ、暑い夏とは思えない程の快適空間が新調されたクーラーによって生み出されている。


「この後の予定は?」

「歌鈴を一人で行かせてますから、迎えに行ってきますよ」




名残惜しいながらも再び外に出る。

一年で事務所はすっかり様変わりしたけど、この辺はなんの変化も見られない。

相変わらず溶けそうな程暑いし、照り返しも酷い。おまけに蝉も騒がしい。


事務所のリニューアルには歌鈴の力が大きい。

まるで別人みたいになった歌鈴の働きは目を見張るものがあった。

ここ最近は少し大人びてきて、可愛さと綺麗さが混ざり合ってなんともいい塩梅になっている。

今日だって一人でイベントをこなしている。

…この暑いのに、野外で、だ。

以前だったら不安過ぎて一人で行かせるなんて出来なかったけど、色んな意味で成長したと言う事なんだろう。




他のアイドルも歌鈴を目標に今日もレッスンに励んでいる事だろう。

いつかは日の目を見せてあげたいが、そう上手く運ぶもんじゃないから、ゆっくりやっていけばいい。

歌鈴は今確実にトップアイドルへの階段を登っているし、事務所もしばらくは安泰だろうから。


「お… やってるやってる」


額に滲む汗を拭いながら、ステージで舞う歌鈴の姿を発見した。

丁度良い頃合いに来れた。やっぱり手塩にかけたアイドルの成長を計るのは、直に見るのが一番だ。





客席に笑顔を振りまいて、転ぶ事も噛む事も無く、順調に進行していった。

これなら、安心して仕事に送り出せる。

送迎係になってしまう日も近いんじゃないかと、一人苦笑が零れた。


ステージ上の歌鈴を見上げる。日差しにやられた様子も、疲れた様子もない。

………トップアイドル、本当に見えてきたじゃないか。




あんなに笑顔を振りまけるアイドルなんて、歌鈴以外にはいないだろう。

安定感があるって事かな。歌鈴の動きには無駄が無いように見えたし、そこで踊るのが当たり前だって、そんな風に感じたんだ。


そうだ。耳を劈くような蝉の声も、溶けてしまいそうなこの日差しも、何にも関せずそこに居るだけ。


…だけど、きっとこれが歌鈴の幸せ。掴んだチャンスの賜物。


俺と仕事して、俺の隣でトップアイドルになることが、絶対に一番なんだ。


例えそこにあるのが、死んで固まってしまったみたいな、冷たい微笑みだけだとしても………




終わり。ありがとうございました。
以上、歌鈴新SRおめでとうSSでした!

もってないけど。

①モバP「ダブルクリック!!」
②モバP「愛してるって形」
③モバP「いつまでもこのままで」
④モバP「スマフォって便利だよな」
⑤藤原肇「お弁当ですか」
⑥モバP「サイキック催眠療法!」
⑦モバP「本音と嘘とチョコレート」
⑧モバP「さいごの我儘」
⑨藤原肇「彼方へ」
⑩モバP「独りでは生きていけない」
⑪モバP「初恋」
⑫モバP「また桜が咲く頃に」
⑬モバP「君の姿」
⑭モバP「うたた寝してる間に修羅場になってた」
⑮モバP「いつか晴れるから」

過去作ですよろしければどうぞ。たぶんこの順番です。

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