あずさ「Short Hair」 (25)




「あずささん。俺、律子と結婚することにしたんです」





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 事務所を出るときに言われたその一言は、私には少し重すぎました。

「わぁ、おめでとうございますっ」

「ありがとうございます……あの、あずささん」

「すみません、プロデューサーさん。今日は友達と出かける約束があって」


「……わか、りました。では、また明日」

「はい。また明日」

 逃げるように事務所のビルを出て、思わず走って。
 息が切れて足を止めた時、私の世界が少しずつ書き換わっていくような、そんな感覚に陥りました。

「……はあっ、はぁっ」


 顔を上げると、ビルの隙間から夕焼け空が見えました。
 街を行き交う人の流れは、立ち止まって身体を屈めかけている私を避けるようで。

「結婚、かあ」

 私はきっと何も変わらないまま、変わり続けるプロデューサーさんを見ていたんじゃないか、と思います。

 あの告白を断られて、しばらくの時間が経っていました。


 ――

 涼しい風が事務所を通り抜けていた、あの夕方。
 私はずっと胸に秘めていた想いを、誰にも知られないようにしていた感情を、プロデューサーさんに伝えました。

「ずっと、好きでした」

 私の運命の人になっていただけませんか? というお願いに、彼はつらそうな表情で首を横に振ります。


「すみません」

「えっ……?」

「俺、恋人がいるんです」

「こい、びと?」

 恋人という言葉を、一瞬理解することが出来ませんでした。


「すみません……だから、あずささんの気持ちには応えられないです」

 こんなに優しい人ですから、誰かに好かれていて当然なのに。
 それでも私は、この人は運命の人だっていう確証もない女の勘なんかに頼りきりで。

「……それなら」

「え?」

「それなら、プロデューサーさんの恋を、精一杯応援させて下さい」


「……あず」

「もし悩みがあったり、結婚の報告があったら……私に教えて下さいね?」

 そう言った時の私の表情は、どうだったのでしょう。
 泣いていたのか、笑っていたのか。

 プロデューサーさんは、すみませんと一言。
 こんな時にも謝ってしまうのは、やっぱり人柄が表れているんですね。


 ――

 スマートフォンを取り出して、彼の写真を出してみます。
 事務所のみんなで写った集合写真、彼と、その隣の律子さんを拡大して。

「……こんなに幸せそうなのに」

 ふたりは本当にお似合いで、笑い合っているのに。
 私はそんなことには全然気づかないままで。


「律子さん、だったのね」

 言われてみれば、そうだったような。
 気づかせるためのパズルのピースはたくさん散らばっていたようにも思えました。

 あの夜、たるき亭で不自然な目配せをしていたのも、恋愛関係にあったから。
 合点がいきます。


 律子さんはやっぱり、同じプロデューサーという立場だから。
 プロデューサーさんも惹かれたのかもしれません。

 また駅に向かって歩き出そうとした時に、プロデューサーさんを振り切って事務所を出たことを思い出しました。

「……ダメねぇ、あんなこと」

 何かを言おうとしていたはずです。
 それがなんだったのか、聞かなきゃ。


 それに、恋愛相談に乗るといったのは私で。
 相手が律子さんだと分からなくても、分かったとしても、ちゃんと聞かなきゃいけなかったのに。

 後悔が少しずつ、新雪のように心に積もっていきます。
 嫌われたらどうしよう。良い関係でいたい、と。

「……メール?」

 スマートフォンのかすかなヴァイブレーションを感じ取って、画面を見ます。


 プロデューサーさんから、1通のメールが来ていました。

「『あずささん、突然報告してしまいすみません』……?」

 そこに書いてあったのは、私の帰り際にこんな話をしてしまい申し訳ないという内容と、もうひとつ。
 律子さんとの結婚式で祝辞を読んで欲しい、ということ。

 それをお願いするために声をかけた、らしいんですけれど。


「プロデューサーさん、お茶目だなぁ」

 私はプロデューサーさんのことだけを考えていたけれど、あの人は私よりずっと大人でした。
 あなたの瞳にはもう、律子さんしか映っていないんですね。

 あなたの運命の人は……律子さん、なんですね。


 少しだけ、まだ少しだけ。
 結婚すると聞いても、ほんのちょっぴりの心の空白が『チャンスはある』と侵食していきました。

 でも、こんなプロデューサーさんを見てしまえば、奪うなんてことが出来るはずもないと分かります。
 あんなに優しい人が、誰かを捨てるわけがないのですから。

「……そうだ」


 何気なく思いついたことがあって、私は駅の方向に再び歩き始めました。
 長い髪の間を冷たい風が通り抜けていくこの感覚は、アイドルを始めてからずっと存在していたもの。

 なら、今までのプロデューサーさんへの恋心と一緒に。

「……あの、お願いできますか?」

 私は美容室に入り、外がよく見える窓側の座席へと向かいました。


 ◆

「おはようございますっ」

「おはようございます、あずささ……!?」

 律子さんは私を見るなり慌てた表情になりました。

「ど、どうしたんですか! 髪の毛……」

「これ……ショートヘアにしてみたんです。似合ってますか?」


「お似合いですけど……どうしていきなり?」

「ほら、律子さんが今度から私をプロデュースしてくれるんですよね?」

 だから心機一転です、とお茶を濁します。
 律子さんは腑に落ちなさそうな顔をしながら、頷いてくれました。

「似合ってるし、良いと思いますけど……ロングヘアのあずささんのファンが居るっていうことも、忘れないでくださいね?」


 本当の理由は、多分誰にも言えないと思います。でも。

 失恋をした女は、髪を切る生き物でしょう?
 ――きっと誰も彼も、そうやって新たな道を見始めるのかもしれません。


 誰も傷つかない世界で、誰かが傷つか無くてはならないのなら。
 私はきっと、身を差し出します。

 昔から自分に根付いている自己犠牲の精神。今更考えることを変えられるとは思いません。

「おは……あれ、あずささん。髪、切ったんですか?」

「はい。おはようございます、プロデューサーさん」

 だから私は、ずっと浮かんでくる彼のことを頭の中で抑えつけながら、笑うんだと思います。


 Base Ball Bearの「short hair」の雰囲気を見たかったので書きました。
 お読みいただき、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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