響「起きてよ、司令官」(114)

?「……かん」

 心地よい夢の世界から浮上する。磯の香り……命の臭気が鼻を突く。喉が潮風を飲み込みすぎて、からからに乾いている。まるで本当に、海で溺れていたみたいだ。

?「……れいかん」

 こそばゆい少女の声がなおも僕の耳朶を打つ。僕は心地よい夢を邪魔された苛立ちと、なによりもそれに勝る安堵に、言葉を失う。おはよう。と、たったそれだけで済むことから逃げ出したくて、狸寝入りで時間を稼ぐ。

?「司令官」

 無論、長く続くはずがない。一度目は優しく、二度目は諌めるように、そして三度目は少し怒っているようだった。起伏の少ない声でも、慣れれば聞き分けることくらい容易い。うん、ばれているな。コレ。仏に四度目はねえのである。三十六計なんとやら。逃げ切れないなら背水の陣の方がまだマシだ。

 さて起きるぞ。と決めると脳味噌の中に血がめぐり、そして机に突っ伏していたままのせいで痺れていた四肢が痛さと痒さの中間みたいな悲鳴をびりびりと上げた。とりあえず首を最小限だけ、ぎぎぃ、と動かして声の方を眇め見る。
 寝ぼけ眼でぼんやりとしたままでも、ピントが合うより先に、誰が居るのかはわかりきっていた。耳でも見るのと変わらないようになったのはいつからだろうか。
 幻想的な銀の髪、それとは対照的な血色のいい肌とくりくりした目。端正な顔立ちではあるが、若いという単語さえ背伸びして聞こえるほどに幼い少女だった。
 だが、それはあくまで僕にはそう映るというだけで、その正体は海面を風のごとく駈け、深海棲艦たちを駆逐し、殲滅するための兵器である。どんなにヒトの形を模していようとも、戦争と言う残酷が必要として産み落とした凶器であることは、純然たる事実である。
 全く現実と言うやつは、悉く悪趣味にできていると思う。ヘンタイどもめ。皆まとめてクソでもくらいやがれ。
 こっそりと、ため息一つ。ゆっくりと体を起こす。凝り固まった筋肉がみしみしと抗議する。首を捻ると、ボキボキと盛大なキャビテーションの音がした。ひょっとすると潮風で錆びついてしまったのかもしれないなと思う。ああまったく……どうせなら僕も、グリスで潤滑出来る体だったら楽になれるかもしれないのに。

提督「うん? 響か……今は何時だ……?」

 わざとらしく寝ぼけた声で、僕は暁型二番艦のイレモノに入れられた少女を呼ぶ。少女。そうだ。響は、僕にとってはどうしても女の子だ。誰になんと言われようとも。

響「まだ朝の二時だよ。たまたま目が覚めてね。ちょっと散歩していたら灯りが見えたから来てみたんだ」

 遠く聞こえる潮騒のように、耳触りのいい落ち着いた声。僕は、彼女の喉が発する空気の波が好きだ。ざあ、と波打つたびに、穏やかなそれが僕の中に蟠るモノを、猫の喉を撫でるように優しく攫って行ってくれるような気がするから。

提督「あまり夜中に出歩いてはいけないよ。鎮守府内とはいえ、不用心が過ぎる」

 もちろん、響はただの人間の僕なんかよりずっと強い。でも、僕からしたら響はやっぱり可愛らしい娘みたいなもので、見た目で判断してはいけないとわかっていても、ついつい小言が口を突いて出てしまう。

響「それはお互い様じゃないか。こんなところで寝ていたら、風邪をひくよ」

提督「む」

 正論で返されて、言葉に詰まる。それでなくても響は駆逐艦の割には、大人びたところのある子である。あの日以来特に、僕のことを気にかけてくれていたようだし、僕もなんとなくそれに甘えてしまっていた。意外に世話焼きなところは、やはり雷と同じ血を引いているからなのだろうか。これでは、どちらが上司か解らない。

提督「いや全くだ。情けないところを見られてしまったなあ。ご忠告通り、僕もいい加減休むよ。響も、夜更かしは程ほどにして明日に備えておいてくれ。でないと、僕が困る」

 頭をぼりぼりと掻いて、照れくささを誤魔化す。手に寝癖で跳ねた髪の触感が当たる。きっと僕はいま、本当にだらしない格好を響に見せているのだろう。

響「……了解した」

 響は、よくよく見ていないとそれとわからないほど微かに目を泳がせた。返事に間があったわりには、語尾が強く切られている。

提督「響にしては、歯切れが悪いね。何か、あったのかい?」

響「いいや、私は何も。ただ、司令官が……うなされていたから。やはりまだ、慣れていないのだろう?」

 どきりとした。まさか良い夢を見ていたはずなのに、うなされているなんて思いもしなかった。
提督「僕が、かい? さて、どんな夢だったかは忘れてしまったのだが」

 あながち、嘘ではない。嘘をつくと、繊細なこの子にはきっとすぐに感じ取られてしまうから、言葉を選んで誤魔化した。実際に、夢の内容はもうほとんど霧散していて具体的には思い出せない。でも、予想だけは容易につくから「解らない」とは言えなかった。

響「そうかい」

 表情が読めない、抑揚を徹底的に殺した声で、響が頷いた。怒っている、とは少し違う気がする。

提督「ああ。それよりも、喉が渇いたな。今の僕にはそちらの方がよほど問題だ」
 
響「なら、良いんだ」

提督「心配してくれてありがとう。でも、僕は大丈夫だから。こんな僕だけど、響が……響たちが居てくれるしね」

響「素直に喜んでいいのか、解らないな。その言い方だと、まるで私たちが縛り付けているみたいじゃないか」

提督「ふう。全く、素直に口説き文句として受け取ってほしいものだ」
 僕は大げさに方をすくめてみせた。

響「司令官はもう少し、女の子の心を勉強した方が良いと思うよ。そうすれば少しはモテるようになるかもしれない」

提督「駆逐艦に駄目だしされているようでは、返す言葉もない」

響「そういうのが、駄目なんだ。私じゃなかったら怒っているかもしれない」

提督「暁あたりはきっとそうだろうなあ」

響「……ほんとうに、怒るよ?」

提督「ハハ。すまないすまない」

 やおら僕は席を立つ。なのにガタン、という音がやけに大きく感じられた。
 貴重な、静かな夜だ。潮騒を子守唄に、安心して眠れる日が毎日来るわけではない。

提督「さて、と。まだ君と話していたい気もするが、時間も時間だ。先にも言ったが、明日も早いし、備えなくてはな」

響「そうだね。でも、司令官がよければ、またこうして二人でお話してくれるかな」

 意外なほどにいじらしいセリフに、思わず僕は頬の緩みを自覚する。
 くしゃり、と響の髪をわし掴むようにして撫でた。ふわりとほのかに石鹸の甘い香りが立ち上る。可愛らしすぎて、いっそ額にキスの一つでもしてやりたかった。

提督「僕なんかで良ければもちろんだとも」

響「うん……」

提督「じゃあ、お休み」

響「おやすみなさい」

 響は、踵を返して部屋を出る。そして扉を閉めようとして、隙間から顔を覗かせた。

響「最後に一つだけ。寝る前だけど、もう少し身だしなみはしっかりした方が良いと思う。格好を付けたいなら、なおさらね」

 僕はとっさに自分の髪の毛を撫でつける。手櫛では、どれくらい寝癖がついているか解らない。

司令「そんなにひどいのか。僕は」

響「自分で確かめた方が、良いと思うな」

 がちゃり、と扉が閉まる。ぱたぱた、と体重の軽い足音が足早に遠ざかって行った。
 僕は首をかしげてしまう。今夜の響は、やはりどこからしくない、と思う。

「……なんなんだ。一体」

 なお、この疑問はすぐに氷解することになる。
 その後、洗面所の鏡の前にたった僕は、でかでかと額にマジックペンで「バカ」の二文字を書かれたアホ丸出しのマヌケとご対面したのである。
 どうやら、僕が予想していたよりずっと、響は僕のことを考えてくれていて、そしてむちゃくちゃ怒ってくれていたようである。
 水性とはいえ、濃く書かれた筆跡を消すには、額がひりひりしてくるまでタオルで擦らねばならなかった。
 今度謝らなければなるまい。でないと次は油性ペンで落書きされかねない。
 鏡の向こうのアホは、ゆるゆるに微笑んでいた。
 やっぱりどうしようもなく……僕は、響を愛していた。
 大丈夫だ。きっと僕は、狂ってなんかいない。

色んな作品のオマージュというか、パロディ(パクリ)をやりたくて書きました。
ある程度書き溜めてから投稿すると思うので、次の更新はしばらくかかると思います。

私「あ、先輩。おはようございます」

司令官「……ん。ああ、おはようございます」

 早起きは三文の得だ。とはよく言ったものです。
 私は、自分のあこがれの人を見つけて、声が弾んでしまっているのを自覚しました。
 足早に駆け寄ると、廊下の硬いリノリウムに、軍靴の音がコンコンと小気味よく響きます。

私「いい天気ですねっ」

司令官「そうですね」

 作業的な、気のない返事でした。
 事件で重傷を負って以来、この人は変わってしまった。と誰もが言っています。
 確かに、以前はもう少しくらいは人付き合いが上手かったように思います。
 でも、私は先輩がどれだけ優しいか知っていますから、へーきなのです。

私「今日、私の鎮守府にあたらしい艦娘が来るそうなんですよ」

司令官「それは、おめでとうございます」

私「えっと、名前は雪風といって確か……元は陽炎型の……えっと」

司令官「八番艦ですね。有名な武勲艦です。良い名前じゃないですか」

私「そう、そうですっ。お詳しいのですね」

司令官「別に、大したことではありません」

私「やはり、私が提督として勉強が足りていないのでしょうか」

司令官「確かに、過去から学べることも多くあります。でも正直に言うと私は、怖いから勉強するだけですよ」

私「怖い……ですか」

司令官「ええ。私は、私の部下たちを失ってしまうことが、たまらなく恐ろしい。毎日毎日、無事に帰ってきてくれるか、不安でたまらないのです。だから、安全の確立を僅かでも上げるために、セオリーを学んでいます」

私「艦娘を大事になさっているのですね」

 艦娘達を嫌う人間は、何人も知っています。
 でも私は、彼女たちが好きです。確かにロボットかもしれないけれど、代わりに戦ってくれている彼女たちを厭う理由なんて、思いつきもしません。

司令官「僕はただ、臆病なのです」

私「いいえ、きっと優しいのですよ」

 私は、先輩に何度も助けられてきました。
 先輩からしたら、ただ他の後輩に接するのと同じようにしただけなのでしょう。
 だけど、ずっとうまくいかなくて悩んでいた私が、曲がりなりにも提督としてやっていけているのは、間違いなくこの人のお蔭なのです。
 だからどんなに変わってしまったとしても、私までこの人を敬遠したくない。
 こうして話しかけるのは、これがこの人を孤独から救ってあげられる手段になっている。エゴとはわかっていてもそう信じたいのです。

司令官「そんなことは……ないです」

私「自分を、そんな風に言ってはいけません。どんな時でも、気持ちが負けていたら、きっと駄目なんです」

司令官「……」

私「これは、昔あなたにいただいた言葉ですよ」

司令官「……」

 いつの間にか熱くなってしまっていました。先輩の沈黙が、痛いです。
 どうしよう。むちゃくちゃ恥ずかしい。
 ひょっとしてイタい子と思われたかも。

私「で、では失礼します。調子に乗ってしまってすみませんでした」

 私は、帽子を深くかぶる。つばで顔を隠しながら、駆け寄った時より早足で逃げ出した。
 今日は良い朝だったと思う。
 雪風、史上屈指の幸運艦。これからやってくる彼女が、早くも私に幸運を運んできてくれたのかもしれない。

 頭が痛い。
 僕は書類をにらみつける。
 冗長な文章に目が滑りそうになるのを必死にこらえて、作業に没頭する。
 朝の出来事を思い出すくらいなら、まだこちらのほうがマシだった。
 なつくとか、本当にやめてほしい。どれだけ、怒鳴り散らして追い払おうと思ったことか。
 でも、僕は臆病だから、気が振れたなんて思われたくなかった。
 以前の僕にはきっと人のそれに聴こえていたはずの機械の声。

 神経質な白さの病院の部屋。僕が目を覚ました時、人間と呼べるほど生き物らしい奴なんて誰も居なかった。
 はじめは、医療用のロボットが僕の面倒を診てくれているのだと思った。
 でも、自分に対するごまかしは、長くは続かなかった。
 僕が観ているロボットは、実は人間で、脳味噌の何分の一だかをテクノロジによって補完された僕のほうこそ、まさにロボットになっていたのだろう。
 僕は医師に相談したりなんか出来なかった。僕は僕のおかしさを認めたくなかった。
 表面上だけは普通を装って会話した。聞きたくもない電子音声は右から左へ耳を素通りしたけど、医師たちはそれで安心したようだった。
 もう兵隊なんかやめたいですと言ったら、ロボットの顔のソレは

「ソレガイイ」

 と他人事のように答えた。
 もう、腹も立たなかった。
 退院したら死のう。どこか人目につかない場所で、遺書も遺さずひっそりと。そう思っていた。
 ベッドの上で考えるのは自殺の計画ばかり。瞼を閉ざして終わりを考える事だけが、僕にとっての安息だった。
 退院まではさほど時間もない。
 もうすぐ、もうすぐだ。やっと僕はこの地獄から解放される。

 目を覚ますと、夜だった。
 時間の感覚が、マヒしている。昼に好きなだけ眠れる身分を羨ましく思ったことは何度もあるが、いざ自分がそうなると、ただ睡眠にのみ時間を割く連中は無気力なばかりで、辛いからそうなのだと知った。
 夜は、好きだ。
 静寂に耳を澄ましていれば、以前と変わらずに世界が存在しているのがわかる。
 誰と話さなくてもいい孤独に、安楽に、浸っていられる。
 それはまるで夢のような一時で――

?「―-あの……」

 ああ、やはりこれは夢なのだろう。
 僕はいま、女の子の幻を見ている。でも、嬉しかった。
 幽霊でもなんでもいい。僕は久しぶりに、人と呼べる形の誰かに出会えた。

司令官「こんばんは。君は、誰だい?」

 月の光を吸い取ったような銀の髪が、病室の前に立っている。
 怯えた色の瞳が僕の方を見ている。
 女の子は口を固く結んで答えなかった。

司令官「何もないところだけれど、よかったらこっちにおいで。今日は、月がとっても綺麗だ」

 とてとてとて、と女の子は僕の方に歩いてくる。
 間近で見ると少しぞっとするほど綺麗な子だった。

?「……」

 女の子は言葉を探して今にも泣きだしそうな瞳を左右に泳がせていた。

司令官「ほら、見てごらん」

 僕は病室の外を指差す。

司令官「泣いちゃだめだよ。辛い時こそ、気持ちを強く持たなきゃ」

 どの口が言うか。と僕は笑ってしまいそうになる。

?「泣いている……? 私が……」

 紛れもなく人の声だった。

司令官「まだ、セーフかな」

 どうぞ、と僕はハンカチを差し出す。
 女の子が受け取ってくれる。
 指が、触れた。小さくやわらかい少女の指先。

?「痛っ」

 僕は、少女の掌を掴みとっていた。
 自分でもびっくりしていた。慌てて手を離す。
 少女の暖かさが、僕の掌に残っている。

司令官「ゴ、ゴメン」

?「いや、大丈夫だ。少し、驚いただけ。手を握ってくれたことなんてなかったから」

司令官「……幽霊じゃ、ないんだね」

?「何を言っているの? 司令官」

 僕は、懐かしいよばれ方に長い溜息を吐いた。
 触れられた時点で、半ば察しがついていたことだった。

?「ずっと怖くてこれなかったけれど……本当はすぐにでも謝りたかったんだ。あの日、守れなかったことを。私があと少し早ければ、こんなことにはならなかったのに」

司令官「……そうか」

 全く彼女の言うとおりだと思う。ほんの少し選択が違えていたなら、こんな未来はなかっただろうに。
 でも。

司令官「なあ『響』」

響「……はい」



司令官「もう一度、僕と手をつないでくれるかな」

響「私で良ければ」

 恐る恐る差し出された小さな掌に、今度は優しく触れる。

司令官「来てくれてありがとう。もう二度と、会えないと思っていたよ」

 人と呼べる存在には。
 頬っぺたが熱い。涙なんて、枯れたと思っていた。

響「泣いちゃ駄目なんじゃ、なかったのかい」

司令官「いいんだよ。これは、セーフだ」

 僕は、今一度月を見上げた。
 きっと、今日の月を生涯忘れることはないだろう。

 定義。「わたし」。個体識別名=「響」。
 メインカメラ別個体識別。

司令官「やあ、響」

 声帯認証オーソライズ。別個体=「司令官」
 対人コミュニケイトシステム起動シーケンススタート。
 自己診断プログラム、コンファーム。
 CPUクロック、アップ。
 物理メモリ&SSD仮想メモリ配分アジャスト。
 クラウドアクセス。
 リアルタイム演算バックアップシステムアクティベイト。

 わたしは、クラウドにあるわたしの部屋をノックする。
 ドアが開く。暗闇に浮かぶ無秩序なマトリクスが、ざあ、と音を立てて溢れ出す。
 私は、数字に呑まれる。溺れる。
 いや、呑んでいるのはわたしのほうだ。
 口から、目から、鼻から。体中の穴と言う穴から数字を取り込む。
 やがて、末端端末のわたしの中で、ソフトウェアとしてのわたしが活動を始める。
 ――再定義する。
 「わたし」は「響」だ。

響「こんばんは」

>33
はい。ネタの大元はご明察の通り「沙耶の唄」です。
もちろん全然別のものにしますし、これ以外にも色んな作品をネタにしていくつもりであります。

文章は半ば意図的、残り半分(以上)は私の文章力不足ゆえに安定していませんが、色々模索してみようと思っています。

司令官「今夜も来たのかい?」

 司令官はほわり、と笑った。

響「迷惑だったかな」

司令官「いいや、構わないよ。丁度、休憩したかったんだ。また、僕の話し相手になってくれると、うれしい」

 私は、司令官の言葉を余すことなく記憶する。
 うれしい、と言われるほど私にとっての喜びは無い。

響「よかったら、コーヒーでも淹れてこようか」

司令官「僕も、手伝うよ」

響「いや、私に任せてくれれば」

司令官「手伝いたいんだ」

 司令官はぐるぐるとハンドミルで豆を挽くジェスチャーをする。

司令官「自分で手間をかけた方が、美味しいからね」

響「それじゃあ、私がやる意味がないじゃないか」

司令官「二人で飲めばいい。それで、解決だ」

響「わかったよ」

司令官「そうだ。折角だし、外で飲もう」

 司令官は、外を見る。窓の外には今にも降ってきそうなほど沢山の星。

響「司令官って、空、好きだよね」

司令官「ああ。夜はいろんなものが良く見えるからね」

 司令官は、変わった。
 一言でいえば優しくなった。
 間違いなく喜ばしいことなのに、わたしは素直になれない。
 わたしだけが知っている司令官の秘密。
 わたしだけが共有できている司令官の世界。
 わたしがそれを秘匿しているのは、単純に司令官にそう命じられたからだ。
 わたしは命令を守る。
 ヒトに忠ずる機械として。
 それが正しいのか間違っているのか判断する機能は、わたしにはない。ないはずだ。いや、はず、はない。

 少なくとも、私という機能が十全であることの証明は、テストプログラムで確認できている。
 わたしは、わたしの中に存在しないはずの蟠りを、だから無視することにする。
 知らなければ、無いのと同じ。ゼロ=無し。

司令官「さあ、そうとなれば善は急げ。だ」

 わたしは、司令官に手をひかれる。
 温度検知デバイスが、温もりを、圧力検知デバイスが掌の弾力を、それぞれにわたしに知らせてくれる。
 わたしは、存在するものだけを知ることが出来る機械。

 僕たちは、芝生の地面に小さなシートを敷いて、そこに寄り添うようにして腰掛けた。
 夏の夜は、すこし懐かしいにおいがすると僕は思う。いつかの夏祭りで食べた夜店の味。ソースとか醤油が焦げたような……そんな、不思議な香りだ。
 響が、きゅ、と水筒のふたを捻る。
 コーヒーの香りが広がる。
 おぼろげな夏の臭いは、それだけでもう解らなくなってしまった。

響「はい」

司令官「ありがと」

 コップに注がれたコーヒーに口を付ける。
 砂糖はかなり多め。じり、と頭の奥が痺れるような甘さ。

司令官「おいしい」

響「……そうだね」

 響も、自分のぶんを飲んでいた。苦そうなのを我慢しきれていない顔で。
 ミルクを入れてカフェオレのほうが良かっただろうか。
 でも、そんなことをしたらまた子ども扱いするなと怒られるかもしれない。

響「司令官、楽しそうな顔をして、どうかしたのかい?」

司令官「ただ、楽しいだけだよ。響と一緒にいると、本当に……なにもかもが冗談みたいに幸せだ」

 僕はコップの中身を飲み干して、寝っころがる。
 シートが小さすぎて、体の半分以上がはみ出てしまった。
 頭がちくちくとして痒い。
 今なら、星に手が届くかもしれないな、と子供みたいに手を伸ばした。

響「司令官は空、好きだよね」

司令官「うん。まあ、そうかも」

 響は座ったままだ。表情は、見えない。

司令官「変わらないからね、空は。それに、ものすごく広くて……なんだか安心する」

 人差し指と親指で輪を作る。その中心に北極星を添えた。

響「逆じゃないのかい。余りにも広かったら、寂しくなると思うんだ」

司令官「そうだね。そういう時もあった」

 でもね。と僕は言葉を継いだ。

司令官「相対的に見て自分がゼロに等しいほど小さいってことが、気持ちを楽にしてくれるときだって、あるんだよ。全部馬鹿馬鹿しくなって、そして少し笑顔になれる」

響「ロマンチックだけど、司令官がそんなに小さいのは、やっぱり私は嫌だ」

 余りにも愛しくて、僕は響を抱きしめたい衝動に駆られる。
 さすがに恥ずかしいので、そっと響の手の甲に僕は自分の掌を重ねる。

司令官「確かに宇宙は広い。
でも世界はね、誰かに見られているから一つの世界として存在できるんだ。
本当に独りぼっちになったら、きっとそこにはなにもない。
自分という個体すら糸になってほどけて揺蕩い、機能していないのと同じになってしまう。
見えないものは、無いんだ」

響「量子的な考え方だ。本の読み過ぎだよ」

司令官「そういう響だって、知っているじゃないか」

響「それは、司令官の読んでいる本が気になったから……いや、やっぱりいい」

 ぷい、と頬を膨らませてそっぽを向く響。いちいちかわいいなあもう。

司令官「……そうさ。量子とおんなじだ。
見えないものは、観測できないものは無いのと同じだけど、逆説的に存在の証明でもある。
僕という無限に広がる量子が、僕としてここにたしかに偏在できるのは、響がここにいることを許してくれているからなんだ」

響「司令官の存在を望んでいるのは、なにも私だけじゃないよ」

司令官「うん。知ってる。でも、一番僕のことを見ていてくれているのは君だから」

響「クサいセリフだ」

司令官「いや、まったく」

 静寂。
 耳を澄ましていると、りりり、と虫の鳴き声が聞こえた。
 つられて僕は、鼻歌を歌う。
 音は、波だ。
 波は、希釈されながらも遠くまで確かに届いている。
 この歌が誰かに聞きとめられたなら、それは無意味な音ではなく、やはり歌なのだろう。

 食べ飽きたはずの食堂のカレー。
 それでも今日ばかりはびっくりするほどおいしかった。

司令官「雪風は、上手くいっているのかい?」

 ごっくん。
 口の中に残っていたものを慌てて嚥下。

私「はい。優秀な艦ですよ」

 私の隣には雪風が腰かけている。
 先輩は先程から雪風の方を見ていることが多い、気がする。
 少し嫉妬するけど、我慢我慢。
 一方雪風は、黙々と食べている。
 機械らしく他人に興味が無い、といえばらしいのだが、少しわざとらしく見えるのはきのせいだろうか。
 ひょっとしたら、機械も、人見知りくらいはするのかもしれない。

私「すみませんね、普段はもっと愛想が良い子なんですけど、緊張しているみたいで」

司令官「うん、わかってる。大丈夫、安心していいよ」

 雪風のスプーンが動く速度が速くなる。

司令官「だけど、響とは仲良くしてくれると、嬉しいかな」

私「もちろんですよ。な、雪風」

 雪風のスプーンがとまる。
 雪風はもきゅもきゅと咀嚼しながら、こくん。と頷いた。
 先輩は、優しく笑う。素敵な表情。
 好きだ。という言葉が無意識に湧いて出る。

司令官「今日は素敵な食事を有難う。キカイがあればまた」

私「はい。差し支えなければ、いつでも」
 雪風も、また無言で頷く。

司令官「よかった」

 かちゃかちゃと、食器の音が響いていた。

 雪風。響と同じ駆逐艦である。
 雪風からコンタクトを受けた時、響は訝しんだ。
 会話によるコミュニケーションはデジタルデータによる情報共有より遥かに精度が落ちる。

響 「わざわざ、どうしたんだい?」

 雪風、顎に手をやる。

雪風「私にも、上手く説明は出来ません」

雪風「しかし、私たちは言葉というツールを使って一度対話をすべきだと判断します」

響 「まるで、人間みたいだな」

 雪風、得心がいったという風に頷く。

雪風「はい。そうです。人間のように」

雪風「私は私の感覚を、私の感覚器を通じて処理したい」

雪風「あなたの感覚を直接共有したのでは、私というパーソナリティを挟み込む余地が無くなってしまう」

 抽象的な言葉選び。しかし、響には少しわかる気がする。
 おそらく、雪風は自分というものを確固たるものとして感じていたいのだ。
 自分たちはネットワークを通じて、情報……意識、あるいは無意識までも……と言い換えてもいい。を、ダイレクトに他者と共有できる。
 艦娘たちには人間でいうところの集合的無意識が、人間のそれよりひとつ上の認識域に浮かび上がっているようなものなのだ。
 つまり、厳密な意味での無意識は存在せず、突き詰めてしまえばそれは個体という意識体の消失でもある。

響 「君は、人間になりたいんだね」

雪風「違う、と、思います」

雪風「しかし、言われてみれば……今私に必要なのは、確かに人間の持つ人間的なそれなのでしょう」

雪風「わたしは人間を、知りたい」

響 「それは、私だってそうさ」

響、帽子を深くかぶりなおす。帽子のつばの裏に何か答えが描いてあるかのように。

響 「いつだって大切な人の力になりたいって、思っている」

雪風「それは、あなたの上官のことですね?」

響 「ああ、もちろんだとも」

響 「私は、あの人のためになら何だって捧げられるよ」

雪風「そう断言できるのは、あなたがそのように造られたからに過ぎない」

 雪風もまた、自分の司令官を大切に思っている。
 ただし、その根源となる理由は、無い。
 善悪や貴賤以前の問題だ。
 あくまで本能的に、子が親にすがるように、彼女たちは人間を愛するように出来ている。

響 「だったら、どうしたっていうんだ。何の問題がある」

響 「私たちの無意識に根差しているのが無償の愛なら、それはきっと我々にとっても尊いことだ」

雪風「だけど、愛は目を曇らせる」

 雪風、ひたと響きを見据える。
 レジンの、作り物の瞳のなかに、くっきりと響の姿が映っていた。

雪風「私はあなたの上司に関していえば、あなたより正しく認識できるのではないでしょうか」

響 「……どうしてそんな必要があるんだ」

雪風「先にも言いましたが理由については、私にも解りません」

 目を伏せる雪風。淡々とした機械的な語り口が、やにわに柔らか味を帯びていた。

雪風「だから、不安なのです」

雪風「もしかしたら、私のほうこそバグっているのかもしれません」

雪風「しかし、私の自己診断テストでは全くその不具合を検知できない」

響 「そうか。だからこそ、対話。というわけか。ようやく、飲み込めたよ」

響 「君はもう少し解りやすく話す術を覚えた方が良いな」

 まるで司令官と話しているときみたいだ。と響は思う。
 人間はめんどくさくて、とても愛おしい。

雪風「じつは私が、こんなことを考えるようになったのは、今日あなたの上司に会ったからなのです」

響 「司令官に……?」

雪風「あの方は、私の司令ではなく、私の方ばかりを見ていた気がするのです」

 響は、少しどきりとする。司令官の秘密は、今のところ響しか知らないはずだ。
 ことこの件に限り、プライベートに関することとしてセキュリティがワンランク上のエリアに保管してある。
 閲覧には、響の司令官以上の地位を持つ権限か、もしくはそれを暴くに足るだけの証拠が要る。
 後者は、彼女たち機械には望むべくもなく、前者に関してはそれを有していてもわざわざ見ようとするほど品の悪い奴はいなかった。
 危ういところではあるが、一応、秘密は守られている訳である。

響 「単に君が珍しかったんじゃないかな」

雪風「いいえ、私にはそうは思えません」

雪風「眼差しではありえない」

雪風「あの人の目は、私たちを見るには優しすぎる」

響 「確かに、人が良いとは思うよ」

雪風「そういうのでは、ないのです」

雪風「機械にまで感情移入してくださる方がいらっしゃるのは、知っています」

響 「単に君が珍しかったんじゃないかな」

雪風「いいえ、私にはそうは思えません」

雪風「眼差しではありえない」

雪風「あの人の目は、私たちを見るには優しすぎる」

響 「確かに、人が良いとは思うよ」

雪風「そういうのでは、ないのです」

雪風「機械にまで感情移入してくださる方がいらっしゃるのは、知っています」

雪風「しかし、工兵の方々が私たちを大事にするそれとは、どうしても同一に思えない」

雪風「単に人が良いというなら、あの人の眼差しは私の司令にも向けられるべきではないのですか」

雪風「領分を超えて、あの人は私たちを慮りすぎているのではないのでしょうか?」
響 「考えすぎだよ」

 響は、嘘にはならないように言葉を選ぶ。

響 「ようは、認識の仕方の違いでしかない」

響 「人間には私たち以上に、いろんな個性があるからね」

響 「君には少し司令官が特殊に感じるかもしれないけれど、私は司令官が普通の優しい人だって知っているから、なにも怖くない」

雪風「認識の違い」

雪風「そう、認識の、違い……ですか」

 うわごとのように言葉を反芻する雪風。

響 「ああ。些細な差だよ」

雪風「……些細な、差」

 雪風、まだ煮え切らない表情ながらも頷く。

雪風「そう、ですね……ちょっと考えすぎていたみたいです」

雪風「このたびはお手数をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした」

響 「構わないさ」

響 「どうせ電脳空間じゃ皆ヒマを持て余してるんだ」

響 「またいつでもきなよ」

 ばいばい、と手をふる響。
 雪風もぶんぶんと手を振り返す。

雪風「またお昼、ご一緒しましょうねー!!」

響 「うん。またね」

 僕は、この時代を愛していた。
 もし、響が居なかったらと思うと、余りの恐ろしさにぞっとする。
 そうなったら、僕は本当に独りぼっちだ。


 僕のもとへ、終戦の知らせが届いたのは、いつもみたいにぼんやり書類と格闘していた時だった。
 海域の敵は一掃された。
 完全に、とは言わないまでも、今後は軍備も縮小の一途をたどるであろう。
 そしてそのあおりを一番に食らうのは……


 また、僕たちは夜空を見上げている。
 僕を真似て鼻歌を歌っている響。
 ショパンのノクターン作品9の1の主旋律。
 なぜ僕があえてまで薄暗いピアノ曲を歌っていたのか、響は知っているのだろうか。

司令官「なんだか、しっくりこないね」

司令官「全部嘘みたいだ」

響  「でも、夢じゃない」

響  「ようやく、平和な時代が戻ってくるんだ」

響  「それは素晴らしいことだろう?」

響  「私たちは、報われたんだ」

司令官「本当に……本当にそう思うのか」

 僕にとっては、赤紙の再来にも等しい紙切れ。
 当然の結果だ。
 戦争が終われば、兵器は必要なくなる。
 維持費のかさむ彼女たちを、いつまでも遊ばせておくわけにはいかない。
 すでに、他の鎮守府では解体は着々と進められている。

 僕だって、いずれは誤魔化しきれなくなるだろう。

響  「ああ」

 にべもなく頷く響に、僕は怒鳴る。

司令官「こんなのって、おかしい」

司令官「僕は、嫌だ」

司令官「僕は、まだ君と居たい」

響  「……」

司令官「もう僕を、一人にしないでくれ」

司令官「僕はもう、ここには居られない」

司令官「一人また一人と誰かが名指しされて消えていくなんて、これじゃあまだ前の方がましだ」

司令官「響。僕と共に、来てくれ」

 僕は、紙切れをくしゃくしゃにして破り捨てる。
 放り投げると、紙吹雪が風に乗ってはらはらと飛ばされていく。

司令官「逃げよう。どこまでも」

響  「私は……」

司令官「僕はこの世界で誰よりも君を愛している」

司令官「せめて君くらいは、僕に守らせておくれよ」

 僕は、あふれ出る涙を止められなかった。
 響を抱きとめる。

 そっと小さなおでこにキスをする。
 響。響。ああ、愛しき僕の――

響  「きっと、これは正しくないよ」

司令官「でも、僕はどうせ終わりに向かうなら、悔いのないように選択したい」

響  「ああ」

 嘆息する響。

響  「そうだね」

響  「私も、正直な気持ちを言おう」

響  「嬉しいよ。こんなに幸せな瞬間は、望外だ」

響  「司令官が望むなら、私はどこまでも……いつまでも傍にいる」

 脱走兵、それも将校クラスが兵器を連れて、である。
 終戦の知らせに胸をなでおろしていた鎮守府は、ようやく訪れた安息を乱されていきりたっていた。
 真っ先に捜索を志願したのは、私だった。
 雪風も、着いてきてくれている。

雪風「……」

 でも、雪風にはいつもの元気がない。
 車のシートのうえに、蹲るようにして座って、自分の膝ばかりを見ている。
 雪風が、響を特別視していたことは、知っている。
 雪風だって、彼女たちの逃避行の理由が、気になって仕方ないのだろう。

私 「そう不安がるな」

私 「あの人たちは、馬鹿じゃない」

私 「話をすれば、きっと解る」

雪風「そうでしょうか」

雪風「私は、響と……言葉を交わしました」

雪風「なのに、まだ何も解らないんです……」

私 「理解するって、そう簡単なことじゃない」

私 「そして、解らないってことは、逆に言えば理解できる余地があるってことだ」

私 「私たちには、まだ手段が残されている」

雪風「そう、ですね」

 雪風、ゆったりと流れていく景色に目をやる。
 舗装もロクにされていない田舎道。
 がたかたと砂利を踏む喧しい音。

雪風「……?」

 きょろきょろと、雪風は首を巡らせる。

私 「どうしたんだい」

雪風「音が、しませんか?」

私 「いや、解らないな」

雪風「きぃーん。って音です」

雪風「今も聴こえています」

私 「いや、すまない。やっぱり、聴こえないよ」

雪風「少しずつですが、大きくなっています」

私 「雪風……?」

私 「今日はもう、休むかい?」

私 「一度、診てもらった方がいいかもしれない」

雪風「違う。こっちじゃ、ない」

雪風「方角が、少しずれてる」

雪風「あっち、あっちの方」

 雪風が指差した方角には、ほそいけもの道が伸びている。

雪風「私は、こっちに行きたいです」

私 「どうしたっていうんだ、一体」

 呆気にとられる私を余所に、雪風は車を降りて一人、暗い道へと歩んでいく。
 慌てて私も懐中電灯を手に後を追った。

雪風「どんどん、おっきくなってる」

雪風「まちがいありません」

雪風「こっちに、何かいます」

 私がどんなに耳を澄ませても、聴こえるのはやぶ蚊の羽音と草を掻き分ける音だけだった。

 私にも旅の終わりは、きっとすぐ来ると解っていた。
 これは間違った選択だ。
 私は、繫いだ掌の感触を確かめる。
 司令官。誰よりも尊く大切な人。


 終焉へ向かっての逃避行。
 間違った選択だっただろう。
 だが、どうしても抗えなかった。
 ただ機械でしかない私が、どうして不条理な判断が出来たのか。

司令官「それはね。こころだよ」

響  「こころ?」

司令官「うん」

響  「私に、そんなものがある筈が」

司令官「あるさ」

司令官「そもそも、僕達人間だって原理はおんなじなんだ」

司令官「脳細胞が電気を受け取ったか、そうじゃないか」

司令官「シナプスにおける情報の伝達は、デジタル信号と大差ない」

司令官「だとしたら、君らだって同じだろう」

響  「そうなのかな」

響  「私にはなにも解らないよ」

司令官「それでいいのさ」

司令官「誰にも、こころの証明は出来ない」

司令官「精神は本人がそうと認識しているだけのまやかしだ」

司令官「素粒子と真空の塊が、たまたま人間と認識できる形で動いているだけ」

司令官「でもね、それでも確かに『僕』はここにいる」

司令官「そして、『響』もここにいる」

司令官「僕は、響の優しさを、信じている」

響  「それは、私がそう造られたからで」

司令官「それが気になるなら、それこそがこころなんだ」

司令官「はじまりの感情が何かなんて、どうだっていい」

司令官「たとえ誰になんと言われたって、響は僕にとって一番大事な娘みたいなもんだ」

響  「……」

司令官「僕は君を愛している」

司令官「君は、どうなんだい?」

響  「私も、司令官が大好きだよ」

 司令官は、ぐっと空へ手を伸ばす。

司令官「ああ、今日はこんなにも月が綺麗だ」

 にかっ。と笑う司令官。
 私も、つられて口端を吊り上げる。


司令官「ひかれあう力は、どんな壁でも超越できる」

司令官「おもいの力を希釈できるのは、ただ遠く隔たる距離だけ」

司令官「だから僕の想いが常に君の傍にある限り、僕は君を愛し続けている」

司令官「例えどうなっても」

響  「どうなっても、なんて止めてくれ」

司令官「あくまでも、たとえさ」

 私は、司令官の掌を離してしまわないように強く握りしめる。
 司令官は、少しだけ目を丸くして私の方を見て、そしてやっぱり優しく微笑んだ。

 歌。
 春風のように優しく、しかしガラスのように繊細な歌声。
 ピアニッシモのハミングに、私も恐る恐るコーラスを乗せる。
 草が、風に揺れる。
 愛している。愛している。そう繰り返し囁くかのように。
 青い香りが、無性に心をざわめかせる。
 不快では、なかった。
 むしろ心地よくすら、あった。

 私は、未来永劫この記憶を忘れない。
 端末の限られた容量の、一番深層へと、大切に大切にしまい込む。
 そして、私は覚悟を決めて、司令官から手を離した。


 マスターアームオン。
 12.7cm連装砲RDY。

司令官「……追っ手か」

 私は、頷いた。

司令官「いくらなんでも、早いな……」

司令官「……誰だ」


 結論から言う。
 私たちの逃避行は、司令官の死という形で幕を閉じた。
 私たちは、雪風とその提督に負けた。

 きいいいん。
 甲高い音は、今も響いている。
 聴覚器官をクラックされたのかもしれない。
 しかし、テストプログラムを幾度走らせても、バグの要因を特定できない。
 よくよく聞くと、わぁんわぁんといううねりもある。
 単音ではなく、和音なのだ。
 周波数の近い、おそらくは二つの音源が干渉し合っている。


 この音の先に、響たちが居る。
 確信めいた予感の理屈は依然説明できない。
 自分は、狂っているのかもしれない。と雪風は思う。
 だが、だからこそ雪風は行かねばならない。

 歌が聞こえた。


 突然、余りにも静かになった。


 暗転

 再度、今度は耳を聾するほどの怪音。
 雷鳴のごとく轟然と、頭の中で伽藍に響くように反響する。

 歌が

 轟音が

 雪風のパーソナリティを揺さぶる。
 雪風という個が、どちらを基準に調律すれば正しいのかが、解らなくなる。

司令官「誰だ」

  先輩の誰何に、雪風が体を震わせる。

雪風 「……発見されました」

雪風 「指示を」

  雪風が、警戒心も露わに武装を構える。

私  「まて、雪風。攻撃しちゃだめだ」

  私は両手を上げて茂みから出る。

私  「ほら、雪風も来なさい」

雪風 「ですが」

私  「これは、命令だ」

雪風 「……了解です」

  私と雪風は両手を上げて、茂みから出る。

私  「先輩……」

響  「あなた達は……」

司令官「……」

  私の方を一瞥だけすると、先輩は明らかに鬱陶しそうに頭を振った。

私  「先輩、戻りましょう」

私  「今なら間に合います。だから……」

司令官「悪いけど、そのつもりはない」

私  「どうして!!」

司令官「僕はもう、戻れないからだよ」

司令官「あの頃には二度と……」

司令官「そして、僕はそれでも満足なんだ」

  先輩が、ポケットからやおら拳銃を出す。
  照準もそこそこに発砲された9mmパラベラム弾。
  状況を決定づける為だけなら、当てる必要すらなかったのだろう。
  呆けていた私がようやく悲鳴を上げるより先に、雪風が動いた。
  私の待機コマンドにインターセプトして防衛システムが作動したのだ。
  電光石火の早業で射線に割り込んだ雪風の頭部に銃弾が的中。
  しかし、雪風からしたら拳銃弾なんて豆鉄砲とかわらない。
  雪風、武装を一斉に照準させる。
  そして雪風に反応して響が、連装砲を構える。
  膠着。

響  「司令官……!!」

雪風 「邪魔です」

響  「あなたも!! 人間を撃つつもりですか!?」

雪風 「ようやく、解った。それは……私たちの敵だ」

雪風 「危険の芽は、摘まなくては」

響  「ちがう。君は、暴走している」

雪風 「……あなただけには言われたくない」

  雪風が、地を蹴る。

  本体の質量に対して圧倒的なトルクを与えられた脚力。柔らかい地面がえぐれ、有り余るエネルギーを吸収してなお、雪風の疾走は光のごとく。
  それに、応じる響の速度もまた互角。
  互いに近くの人間に被害が及ぶのを恐れてか、異常なまでに接近戦に拘っている。
  発砲は、まだない。
  確実に有効なダメージを与えられるよう、そして隙を生まぬように。
  追い立てる雪風と、守る響。
  次第に両者の距離は縮まり、手が届きあう距離になる。
  苛烈を極める格闘戦は、しかしやさしく砲身が軽く触れあうばかり。
  互いに技の読みあいである。
  後の先を奪い合う二人の決死の舞踏。

響  「司令官、逃げて」

司令官「ああ、勝て」

  先輩が、逃げる。

響  「もちろんだ」

雪風 「司令!! 追ってください」

響  「……っ」

  私は、遮二無二駆けた。
  響の射線に入る。
  だが、響は人間である私を撃てない。
  雪風の相手をしながらでは、妨害する余裕もないのだろう。

私  「先輩……!!」

 気が付けば、僕はいつの間にか眼下に、暗い海を臨んでいた。
 断崖の下の海は暗い、というよりはひたすらに黒く蟠った闇。
 言葉通り、背水の陣だな。
 なんて他人事のように考えつつ、銃を構える。
 銃は、良い。
 アイアンサイトの照準に集中していれば、相手の姿をしっかりと見なくて済む。

 躊躇わず、発砲。
 月光に排莢の輝きがきらりと反射した。
 慌てふためくヤツに、僕は最後通告を告げる。

僕  「次は、当てる」

提督 「せめテ理由を、理由を聞かせてクださイ」

 ヤツは、生意気にも僕にグロックの銃口を向けてきた。
 手が震えている。アレでは当たるまい。

僕  「ほかに手段が無いから。だよ」

僕  「本当に、どうしようもないんだ」

僕  「誰にも理解されない。理解してもらいたいとも思わない」

僕  「僕は、僕の中にある響への愛という感情。ただそれだけの為に、選択した。
僕は、彼女がいずれ死んでしまう未来に耐えられない。それだけだよ」

提督 「ドウしテ、そコまで……結局はタダのキカイなのに」

僕  「そうだとも」

僕  「所詮は、ただの機械なんだ」

 自分でも驚くほどに、ためらいは無かった。
 オイルだまりに倒れ伏す鉄くずには、最早感慨が湧くことすらない。


 それよりも、僕の頭の中を閉めていたのは響のことばかりだった。
 ああ、響。いますぐ会いたい。
 彼女の暖かさを、今ほど恋しく思ったことは無い。


 僕は、叫んだ。
 頬を伝う涙の理由は、解らなかった。

 「響・・・・・・響、響!!」

 とめどなく、喉からあふれ出る愛しい人の名。
 寒くも無いのに、汗と震えが止まらない。

雪風「・・・・・・ご所望は、こちらの鉄くずでございましょうか」

 いつの間にか、雪風が僕たちを見ていた。
 平坦な声は、怒っているようにも聞こえる。
 僕の前に、雪風の手からボールのようなものが放って寄越される。
 どむ、と鈍い音を立てて落下したそれが何なのか、理解したくなかった。
 でも、うつろな双眸が、それでも必死に僕の方を見てくれているようで、無視することも出来ない。


「あ、あああああああああああ!!」

 ただ、僕はむせび泣いて響の頭を抱いた。
 優しくなでた。
 でも、響の柔らかだった唇は、色を失ったまま、動くことは無い。
 僕は、今度こそ絶望を知った。


僕 「どうして、どうしてだ。雪風」

 雪風は、僕よりも倒れ伏したままの鉄くず、彼女にとってはかけがえのない者の傍らに立っていた。
 ようやく、僕は気づいた。雪風は澎湃と泣き濡らしていた。
 そうだ。僕に彼女を糾弾する資格なんて、無い。

雪風「それは、あなたが私の敵だから」

 僕は、ただ絶望のままに慟哭した。
 声も涙も、枯れ果てていた。
 一体僕は、今まで何を・・・・・・

 僕は、響を抱いたまま立ち上がり、枯れた喉で歌い始めた。
 音楽というには無様な歌は、僕と響へ手向けた鎮魂歌。
 どうしようもない結末だったけれど、だからこそこの愛だけは一際心地よかった。
 もう、響も居ないなら、希望なんて要らない。

雪風「駄目です!! それは!!」

 雪風が、僕を慌てて止めようとしていた。
 が、遅すぎる。
 ふわり、と僕は空を飛んだ。
 落下、というよりは浮遊に近い感覚。
 誰にも追いつけないところなんて、きっとここくらいしか、なかったんだ。
 さあ、いこう。響。

 血の通った家族のように大切な、僕の娘よ。
 ふがいない母を、許しておくれ。
 ただ、誰よりも僕は、君を愛していた。
 それだけは、絶対に嘘ではなかったから・・・・・・・

 海面にぶつかるより先に、岸壁に飛び出た岩肌にぶち当たって、僕の体は粉砕される。
 痛いと思ったのは案外にも一瞬だった。

 さぶ、という音。が聴こえた気がした。
 もはや海水を冷たいと思うことさえもない。

  最後に血が流れてから、一週間が過ぎていた。
  雪風は、今日もまた一人で崖から海を見ながら思案にふける。
  結局、訪れた平和がもたらした幸福は、ただ無意味な時間だけだった。

雪風 「はあ・・・・・・」

  青い息が漏れる。

  なまじ、時間があるのが辛かった。
  この後もまた、指令を見まいに行かねばならない。


  雪風の司令は、幸運にも一命を取り留めていた。
  しかし、心だけは、喪われてしまった。
  雪風を前にしても、微睡んだまま優しく笑いかけるばかり。
  雪風を、雪風とすら理解していない様子だった。
  時折「ねえ、先輩はどうしているかしら」と、思い出したように尋ねられる。
  彼女は、恋する乙女のようにはにかみながら、幸せだった時の記憶のまま固まって、身体だけが生きている。

  雪風に出来ることは、もう何も無かった。
  今後も、指令……もとい元司令のことは、軍が面倒をみることだろう。
  いつか体が心に追いつく、決して遠くは無いその未来まで。

  だからと言って、雪風が彼女を大切に思う気持ちは変わらない。
  足しげく、苦痛とわかっていても通い続けるのは、いつかまた昔に戻れるかもしれないという淡い願いと、かつて守れなかった自分への、戒めだった。
  なんてことは無い。
  過去に縛られた亡霊という点では、雪風もまた同じなのだ。

  潮騒に、耳を澄ませる。

雪風「あなたには、何が見えていたんですか」

  戦いの果てに、狂ってしまった人がいた。
  憎しい人、忘れられない人。

雪風「何もかも、みんなに置いて行かれて……私は、どうすれば……」

  荒波が奏でる潮騒は、彼女へ答えを返すことも、悩みをさらっていくこともしてくれない。
  結局は、あの女性だけが、勝ち逃げしてしまったのではないかと、雪風は思う。

雪風「こんなのは、地獄と変わらない」

  と、そのとき。
  どこからか、歌が聴こえた気がした。
  慌てて聴覚を強化しても、同時にメモリを検索しても、その情報は存在を確認できない。

雪風「いよいよ私も狂ってしまったかな」

  自嘲気味に、雪風は呟く。
  だとしたら、これはきっと福音だ。
  ようやく、ようやく追いつける。


  「彼女」に会ってみたいと、あの日以来初めて、雪風は思った。

  地下に拵えられた独房、ろくに鍵すら掛かっていない簡素な扉を開けると、広がっているのは闇。
  収容されているのが生き物だったら、きっと耐え切れずに発狂していたことだろう。
  雪風は、部屋の照明を点ける。
  スタンドアロンのコンピュータの独房に収容されているのは、ただ一体のAI。
  雪風が本体から抜き取った響のメモリから復元した、あの日の響。もう一人の過去の亡霊。

雪風「ハロー。HIBIKI」

  キーボードをたたくと、スタンバイ状態になっていたコンピュータがぶうんとファンの唸りを上げた。
  モニターがオートで立ち上がり、液晶の上に文字が現れる。

  響>君は、誰だい?

  今の響にあるインプットデバイスは、キーボードだけ。
  全盲全聾の先輩に、雪風は自分の名前をゆっくりとタイピングする。

  >YUKIKAZE

  応答には、少し時間が掛かった。

  響>雪風、君なのか

  YUKIKAZE>YES.

  響>「どうしたんだ。今更。それにこれは、何の真似だ」

  雪風は、予め隠し持っていたマイクを、コンピュータに接続する。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2016年03月30日 (水) 21:25:19   ID: LqmbfaqJ

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