男「いやァ、もうだめでしょう」 (15)

久しぶりの帰省だった。

また今度来れるのはいつかわからなかった。

だから、帰りの電車が来る前に、近くの山の上からの景色を、目に焼き付けておこうと思った。

やさしくはない山道だった。けれども子供の頃はすいすいとのぼっていったものだった。

昔のことを思い出しながら、山の天辺めざしてからだを動かしていると、なまりきっていたせいか、足を踏み外してしまった。

「うわあ────ッ」

そして、そのまま転げ落ちていった。木や石や岩に殴られながら、ごんごん、ごんごんと。

ようやく落ちきったかと思ったころには、体中からじんわりとした痛みのかわりに、暖かさがどこかへ流れていた。

ああ、なんて寒い夜だ。もう清明も近いというのに。

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なにもすることができず、ただ夜空とそこらの木々を眺めていたら、いつのまにか朝になっていた。

もうそろそろ、暖かくなってきてもいいころじゃないかと思っていたが、からだは冷めていく一方だった。

たぶん、死ぬなァ。

そう思っていたら、落ち葉を踏む音が聞こえてきた。どんどん、近付いてくる。

「あっ」

足音の主がこちらからでも見えるところに来たら、その人はすぐさまこの有様に気付いて駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか」

彼はなにかの入ったケースを片手に提げ、黒いフロックコートを着ていた。

こんなきちんとした格好でする仕事はこのあたりにはないので、きっと同じように、帰省してきたのだろうと思った。

「これは、いやなものを見せてしまいましたな。帰省されてきた方ですか」

「ええそうです。少しこらえてください、すぐに手当てをします」

少し早口でそう言うと、手に持っていたケースを開き、素人にはよくわからない道具をいろいろ出した。

どうやら医者の方のようだ。

「医学会の帰りかなにかで」

尋ねると、やはり早口で答える。

「はい。すぐそこに、実家が」

そういえば、確かに小さな家があった。いつもイ草のむしろが積まれていた記憶がある。

それにしても、なんといい風だろうか。

空も、青く澄み渡っている。

すぐそばでお医者様が必死に手当てしてくださっているというのに、のん気なものだ。

しかし不思議な落ち着きがあった。

そして何を思ったか、いつの間にか話し始めていた。

「このあたりは紅葉の季節が良いといいますが、やはり今のように新芽で覆い尽くされているのも、いいものですなァ」

医者の方は少し驚いたような顔をされたが、すぐにやさしい声で答えた。

「そうですね」

「わたくしも久しぶりの帰省で、帰る前にこのあたりを眺めておきたいと思っていたのですが」

およそ独り言のようなことばに、手当てに集中しながらも、こくこくと相槌を打ってくれている。

「足を滑らせてしまいまして」

「大丈夫です、助けてみせます」

弱音のつもりではなかったが、しかし力強い励ましの言葉をかけてくれる。

きっといいお医者様なのだろうと感じさせる。

けれど、自分のからだのことはやはり自分が一番わかっているとはいうものだ。

患者を自分のせいで死なせてしまったと、気負ってもらわないように、声をだす。

「いやァ、もうだめでしょう」

ああ、声が出し難い。

「血ががぶがぶ湧いて、止まりませんな」

もはや苦しくもないが、力が入らない。必死に言葉を紡ぐ。

「ゆうべから、ずっとこんな調子ですから」

ゆうべから、という言葉を聞いて、その人は顔を険しくした。

「諦めないでください、わたしが、必ず」

もう、いいのです。わたくしは苦しくもありません。きっと、たましいが半ば、からだを離れたのでしょう。

そう言いたかったが、口がわずかに動くのみで、もう声も出なかった。

その様子を見て、大丈夫です、こらえてください、と言葉をかけてくれたが、応えることもままならない。

血が流れすぎたせいだろうか。ああ、ひどいものだ。

きっと彼は、このあと悔しがるのだろうが、こんなに必死に手当てをしてくれたのだから、文句のあるはずもない。

どうにか伝えたい。しかし声はもう出ない。

わたしは彼の眼をじっと見る。

眼で語りかける。

あなたのせいではない、こんなに本気の手当てを、ありがとう。

しかし、いい空である。

風が目に見えるように吹いている。


あなたの方から見たら、ずいぶんひどい景色でしょうが、


わたくしから見えるのは、


やっぱりきれいな青空と、


透き通った風ばかりです。

宮沢賢治作、『眼にて云ふ』を基にしたお話でした。
最後にその詩をどうぞ。

     眼にて云ふ

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

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