ソーニャが激烈な腹痛に襲われたのは、冬、放課後の帰り道での事だった。
人も車もあまり通らない、細くて狭い路地にソーニャはいる。
なんだこれは・・・。
帰路を歩んでいた足が止まり、手は腹部の上に置かれ、表情が徐々に苦しげなものになっていく。
鞄がどしゃと雪の上に落ちた。
一歩、足を踏み出すのも苦しい。
眉間に深い皺が刻まれる。
立っていられず、路地の端によって塀に手をおいて身体を支える。
あまりにも突然すぎる腹痛。
腹痛が去るのをじっと待っていると、不意にぐぎゅるる、と腹が鳴った。
ソーニャの顔が青ざめた。
便意の到来である。
それはソーニャのそれまでの人生で最も巨大な便意だった。
一歩も動けない。
動けば決壊する。
それがはっきりと分かった。
腹は熱を帯びて苦しく、肛門のあたりに重い圧迫感がある。
気を抜けばその時点でミサイルは発射、爆弾は破裂、ダムは決壊する。
ソーニャは唇を噛んだ。
目をぎゅっと瞑り、便意の破壊的な衝動に耐える。
・・・。
最初の大きな波をやり過ごす事に成功した。
思わず溜息を漏らす。
目を開けると、姿勢をしゃんと正した。
正したつもりだったが、膝が震えている。
そこで気づいた。
便意に耐えている間、自分は両手をお尻の上に置いて重ねて、
産まれたのシカのようにぷるぷる震えていたのだと。
なんて酷い格好をしてたんだ・・・と顔が熱くなった。
ソーニャは周囲の風景を眺める。
ちらちらと舞う細かな雪。
延々とずっと向こうまで続く塀。
その塀の上から見える家々の群れ。
その家の内部へと続く出入り口。
看板や標識。
電信柱。
ソーニャは考える。
トイレは何処にあるのだろうか、と。
公衆便所は見当たらない。
公衆便所が置いてあるであろう公園の類もない。
ソーニャはほぼ毎日、この寂れた路地を歩いているが、記憶を探っても公衆便所も公園も無かった筈。
引き返すか?学校まで。いや、途中で力尽きそうだ・・・。
と、ではどうすべきか? と考える。
そこらへんの家屋に駆け込み、
「わたくし××学校に籍を置いております、ソーニャと申します。
あの、大変申し訳御座いませんが、お宅の厠を貸して頂けないでしょうか?」
とでも頼み込めばいいのだろうか?
答えは即座に出る。
無理だ・・・。
とてつもなく恥ずかしい。
見知らぬ人にトイレを貸してくれ、なんて。
だったらどうするべきか。
更なる思考の回転。
ひとつの単語が浮上する。
コンビニ。
そう、この路地を抜けて、大きな道路に出れば、コンビニがあるのだ!
ソーニャの顔に思わずほっこりとした笑みが浮かぶが、それはすぐに翳る。
でも、コンビニのトイレを使うのは・・どうなんだろうか・・・。
ソーニャはコンビニのトイレを使った事がないのだ。
そもそもあれは客が使用してもいいのだろうか。
いいのだ、客が使っても!
と、断言できるだけの強い根拠をソーニャはもっていない。
未経験者にとっては意外にハードルが高いのだ。
だが、このままこうして便意を我慢しているだけだったら、状況はますます悪くなっていく。
人家か。
コンビニか。
あるいは無理を承知で引き返すか。
ソーニャは決意を固めた。
コンビニを目指そう。
この道を歩き通そう。
落ちていた鞄を持ち直す。
一歩、踏み出す。
賭けにでるような気持ちで。
身体に問いかける。
大丈夫か?
耐えられるか、と。
まだ、大丈夫だ。
いける。
次の一歩を踏み出す。
塀に手をついて、少しでも負担を減らして。
ゆっくりと、ゆっくりと、でも確実に目的地へと向かっていく。
雪が降っている。
目の前をひらひらと落ちていく。
神よ、助けてくれ、とソーニャは普段ならば絶対に思わない事を思った。
二度目の巨大な波は、5メートルも進まないうちにやってきた。
ぐぅっ・・・。
と、漏れてしまったのは、声だけではなかった。
お尻に違和感がニュリッと発生。
まるで何かが漏れてしまったかのような、水っぽい感触。
全身から血の気が引いた。
その一瞬の隙が忍耐という名の堤防に更なるヒビを入れる。
ぷーっ、とという屁の音が静かな路地に響いた。
ソーニャにはそれが世界の隅々にまで轟く雷の音のように聞こえた。
思わず辺りをキョロキョロと眺める。
誰か、誰かに聞かれなかっただろうか。
路地には自分以外には誰もいない。
そのように見える。
ソーニャの顔が苦しげに歪む。
もはや腹痛も便意も耐えがたい。
そのときなぜか、不意にやすなの顔が脳裏に浮かんだ
自分がこんな目に合っているのは全てあの馬鹿のせいだ。
そんな気がする。
今日も一日あの馬鹿の馬鹿に散々付き合わされたし。
昼飯にも付き合わされたし。
なんだか授業中もじろじろと人を観察してくるし。
放課後もこりずに何やらこそこそと面倒なイタズラの気配がしてたからぶん殴ってやったし。
「酷いよソーニャちゃん!」とか抜かすからもう一発くれてやったし。
それにしても腹が痛い!
くそ。
やすなが全部悪い!
あいつは馬鹿で、すごい馬鹿だから、とてつもなく馬鹿な真似をする。
その尻拭いはいつも私だ。
うんざりだ。
ソーニャは塀に身体を押し付けると、ずりずりとへたり込んでしまう。
ソーニャの心を絶望が覆いそうになった時、それが目に飛び込んできた。
寄り掛かっているプラスチックの波板の塀に大きく穿たれた、穴。
ソーニャくらいの体型なら、なんとか通り抜けができそうな穴。
顔を寄せて、向こう側を覗いてみる。
草むら。
錆の浮いた鉄骨。
ボロボロのスーパーハウスの残骸。
パイプやら木材やら。
それらの上に降っては積もってゆく、冷たくて白い雪。
放置された工事現場のようだった。
この穴以外に、向こう側へ行く為の出入り口らしくものは見当たらない、反対側にあるのだろう。
ソーニャの心に悪魔がそっと囁いた。
悪魔は多分やすなの顔をしている。
ただでさえ人の射ない路地である。
そっとこの穴を潜れば誰もソーニャがそこに侵入事に気づかないだろう。
僅かな観察だが、敷地内には背の高いガラクタがいくつもゴチャゴチャと積んであるように見える。
ますます人目にはつかない。
何か秘密の隠し事をするには、好都合の物陰は無数にある。
さっと侵入して、さっと済ませてしまえばいい。
何を?
マフラーに包まれている喉がごくり、と鳴る。
そう、それは禁断の野外―――。
馬鹿な!
それは。それだけは。
でも。
いや。
しかし・・・!
そこで嫌な予感が、夏の入道雲のようにむくむくと、凄いスピードで膨れあがる。
便意の波の三度目。
自分はそれに・・・耐えられるだろうか?
ソーニャは懊悩した。
腹痛と便意の狭間で、苦痛と苦悩に押し潰されそうになりながら。
路地の立ち並ぶ数多の家を眺めた。
路地の遥か先にあるであろうコンビニを想った。
嗚呼。
人はこんな時に、神に祈るのか。
ちくしょう、と呟いて、ソーニャは塀に開いた穴をくぐった。
膝が触れる雪が冷たい。
ソーニャは最早一刻の猶予も無い腹を抱えて、その放置された工事現場をうろうろする。
最も影が深い場所、絶対に人目につかない場所を、限界ぎりぎりまで捜し求める。
工事現場の片隅にでんと陣取っているスーパーハウスの壁と何かの建材の隙間。
終の棲家をようやく見つけた象のごとき歩みでそこに近づいていく。
くるぶしの高さまで雪が積もっている。
ソーニャはもう一度、念入りに視線を走らせる。
人影はない。
聞こえる音は微かな風、ソーニャの荒い吐息、お腹の唸りだけ。
ちらりと背後を見やる。
綺麗な新雪だけが目に映る。
鞄を雪の上に落とす。
そよ風がツインテールを揺らす。
スカートの中に手を入れて下着に指をひっかける。
ほんのちょっと躊躇してから、するりと下ろす。
太ももを滑って、膝を経て、脛までゆっくりと。
ソーニャは下着を確認する。
恐る恐ると。
下着は汚れていなかった。
ほっとする。
先程のニュリッとした感じは気のせいだったようだ。
下着をくるぶしのあたりまで下ろし、右足を抜いた。
スカートを持ち上げる。
ソーニャの下半身が冬の大気に晒される。
ぶるっと震える。
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