女「助けてください。お父さんが攫われたんです」男「はい?」(178)





女が窓を叩いている。叩かれているのは、おもちゃみたいな車の運転席の窓だ。
べつに無視すればいいのだろうけど、それが僕の車の窓となるとそういうわけにはいかない。
しかも僕はその車の運転席に座っていて、ついさっきまで眠っていた。
つまり僕は窓を挟んで女と向かい合っているわけだ。無視しろというのが無理な話なのだ。

僕は大きなあくびをして、倒していたシートを元の高さに戻した。
僕が目を醒ましたことに気付いた女は、先程よりも強く窓を叩く。
随分と乱暴なモーニングコールだ、と僕は思った。でもモーニングコールを誰かにお願いした覚えはない。
そもそも僕にモーニングコールをお願いできるような女の子の友人がいただろうか? いなかったはずだ。
ならばこいつは誰で、僕に何の用があるんだ?

僕は運転席に座りながら、寝ぼけ眼で窓の向こうの女を見た。
女の歳は16とか17とかそこらだろう。髪型はポニーテールで、服装はどこかの学校の制服の上に、
白いパーカーを羽織っただけというものだ。寒くないのだろうか、と思う。
顔はわりかし整っている。目はすこし細くて、唇は薄い。肌は健康的な色をしていた。
かわいらしいというか、僕の好みだった。というか僕に関わった女性は僕の好みになる。
30年も童貞をしていればそうなるのは必然といってもいいと思う。


しばらく女の顔を眺めていると、女は諦めたのか、窓を叩くのを止めた。
終わったかと思った矢先、今度は涙目になって窓に手のひらを押し付けた。
「おいおい、窓が汚れちゃうだろ」と僕は内心で愚痴をこぼす。

まともな人間ならここでとりあえず話を聞いてやろうと思うのかもしれないが、
どうやら僕はまともな人間ではないらしい。
そもそもまともな人間なら、仕事を辞めたら次の仕事を探すはずだ。
でも僕は仕事を辞めた後、こうやって残ったお金といっしょに東京から大阪まで車でやって来た。

目的地なんてものは存在しない。やりたいことをやりたいときにやるのがいいのだ。
だから17歳か18歳の頃に、お金が貯まったら日本中を
車で回ろうとか思っていたのを、今更になって実行しているわけだ。

以上のことを踏まえると、僕がまともなわけがない。だから、さっさとエンジンをかけて逃げようと思った。
それに、僕に寄ってきた女には、裏にろくでもない事情があるか、
僕の金を持って行こうとしているかのどちらかだ、というのが僕の持論だ。
運命的な出会いなんてものは存在しない。
神様ってのは、気まぐれで理不尽で、不平等なものなのだ。


エンジンキーを回して時計を見ると、時刻は午前の10時だった。よく寝たもんだ。頭が痛い。
まともな人間なら平日に10時まで眠っているわけがない、と僕は思った。
僕はまともではない。インセインというやつだ。マッドネスまではいかないはずだ。

出発しようとシートベルトを締めた辺りで、女はふたたび窓を強く叩き始めた。
僕はびっくりしてもう一度窓の向こうの女に目を向ける。女は目から涙をぼろぼろ溢していた。
さすがの僕もこれには参ることになる。どうやら僕は女性の涙に弱いらしいということが判明した。


僕は嫌々ながらも窓を開けた。流れこんできた外気を胸いっぱいに吸い込むと、肺が凍ってしまいそうだった。
それもその筈で、もう12月も後半なのだ。クリスマスとやらが近いのだ。
見上げると、どんよりとした色の雲が空を覆っていた。クリスマスとやらが近いのに。

僕はため息を吐き出して、もう一度息を大きく吸い込んだ。
まるでハリネズミを丸呑みしたみたいに胸がちくちくと痛んだ。

窓が全開になると、女は一瞬きょとんとした後、
上半身を窓の内側にほとんど突っ込んで、僕の胸ぐらを掴んだ。

やっぱりろくな事にならないんだ、と他人事のように思った。
「だからやめておけばよかったんだよ、この阿呆が」と僕は内心で自責して自嘲する。

女は僕の胸ぐらを両手で掴んで、口をぱくぱくさせている。
声は出ていない。相当焦っているのように見える。
顔が近い。いい匂いがする。その匂いは僕をすこし昂らせる。
でも僕はおそらく、これから酷い目に遭う。萎える。


僕が半ば死を覚悟した(この表現は大袈裟ではないと思う)とき、
女は妙なイントネーションで「助けてください」と言った。
関西弁だ、と僕は思った。大阪だから当たり前だ。ここでは僕のしゃべり方がおかしいのだ。

「なに?」と僕は訊き返した。「助けてくださいって聞こえたんだけど」

「助けてください」と女はもう一度言った。「お父さんが攫われたんです」

「はい?」僕は訊き返す。僕の耳はいささか悪い。僕は耳にイヤホンを突っ込むのが好きだったのだ。
十代の頃は暇さえあれば耳にイヤホンを突っ込んで、周りの音が聞こえなくなるくらいの
大音量で音楽を流していたから耳が悪いのだろうと思う。真相は定かではない。
そんなことを確かめるために耳鼻科に行く気にもならない。そもそも僕は病院が嫌いなのだ。


「お父さんが攫われたって言ったように聞こえたんだけど」と僕は言った。

「そう。攫われたんです」と女は鼻水をすすりながら言った。
目からは宝石みたいな粒がぼろぼろ溢れている。
女は僕の前の道路を指さして言う。「あの、白い車を追っかけてください。お願いします」

「え?」と僕は間抜けな声をもらした。それはつまり、前の車を追えってやつか?
どの車だよ、と思いながら道路に目を向けると、渋滞に引っかかっている白いクラウンが見えた。
あれを追えばいいのか。なるほど。

映画みたいだ、と僕は思った。映画は嫌いだが、そういうやりとりをどこかで見たことがある気がする。
そう思うと僕の気分はとても良くなる。なんだか酔っ払ったみたいになった。
僕は単純で、笹舟みたいに流されやすいのだ。


女は回り込んで、助手席のドアをがちゃがちゃと乱暴にいじり始めた。
僕はドアロックを外して、彼女を助手席に迎え入れる。

女はシートに勢いよく腰を下ろす。甘い香りが鼻をくすぐった。僕は大きく息を吸い込む。
女はシートベルトを締める。僕は「ちゃんと掴まってろよ」なんて気の利いた台詞を言うこともなく車を発進させる。
すぐに赤信号に引っかかった。でも白のクラウンはかろうじて見える。
僕の進む道というのは、いつもそういうふうになっている。僕はそれがそれなりに気に入っている。

まっすぐな川よりも、すこし曲がっているくらいのほうが味がある。
正直な人間よりも、すこしひねくれてるほうが味がある、というのが僕の持論だ。
その持論は自分を慰めるのに、大いに役立つのだ。





スピーカーからはスティングの『フィールズ・オブ・ゴールド』が流れている。
なぜか僕はそれが気に入っている。気付いたら気に入っていた。音楽とはそういうものだと思う。
彼の声の他には、僕と彼女の沈黙と、エンジンの稼働音が車内の空気を満たしている。
僕は彼女と大麦畑やら黄金色の畑に向かうのか? と僕はそれに耳を傾けながら自問する。
ありえないな、と僕は自答する。重力が反転するとか、時間が逆行するとか、
僕が今夜彼女とセックスするとか、そのレベルでありえない。

「寒くないか? その服装」と僕は信号が青くなるのを待ちながら、どうでもいいようなことを訊ねた。
女は何も答えなかったが、どう見ても寒いのは明らかだ。とりあえずヒーターをいれてやった。
僕だって寒いのだ。新しいコートを買おう、と思った。


平日10時の長居公園通は混んでいた。
世界中の車がここに集まってるのではないかと思うくらい混んでいた。
でもよく見てみると右ハンドルの車ばかりなので、そんなことはないらしい。
思い込みというのは怖いものだ。

反対車線の車はのろのろと進んでいる。僕らの走っている車線の車はみんな動かない。
僕の車も動かない。隣の女もそれに対して文句は言わない。
赤信号だから当たり前だ。ここで「さっさと行け」だなんて言われても困る。
どうやら彼女には僕とは違って常識があったようだ。
僕だってまともでないとはいっても、信号だけは守る人間なのだ。約束だって、たまには守る。

「それで、詳しい話を聞きたいんだけれど」と僕は言った。「お父さんが攫われたって言ってたよな」

「はい」と女は神妙な面持ちで頷いた。

「なんで攫われたんだい?」と僕は義務的な衝動に駆られて訊ねる。
ほんとうはそんなことはどうでもいいのだ。誰のお父さんが攫われようと、僕には何の関係もないはずだ。
でも僕は訊ねた。それは仕方のない事だと思う。


「多分、研究が狙われたんやと思います」と女は何事もないみたいに言った。
当たり前のように関西弁のイントネーションで、当たり前のように映画の台詞みたいなことを言った。
イントネーションに関しては、ここは大阪なのだから当たり前だ。でもこれは映画じゃない。

「研究」と僕は反復する。当たり前のように標準語のイントネーションだ。
僕は東京生まれなんだから当たり前だ。「どんな?」

「夢」と女は言った。

「夢」と僕は反復する。反復するのが癖なのだ。耳が悪いから、そうすることで
僕の耳に届いた言葉がほんとうにあっているのかを相手に確認することもできる。
でもあんまりしつこいと相手の気分を害してしまうらしい。難しい。

「夢です」と女は目を伏せて言った。「お父さんは夢の研究をしとったんです」


「夢ってあれだろ。寝てるときに見るあれだろ?」と僕は自慢げに言った。僕はいささか頭が悪い。

「はい」

僕はコートのポケットから煙草を取り出して咥えた。ライターは無い。
最近は禁煙を試しているのだ。今のところは成功している。
だから僕は頑張った自分への褒美として咥えた煙草にマッチで火を灯した。
それは仕事が終わって、家でビールを飲む感覚と似ているような気がする。

僕は窓を開けて、煙を吐き出しながら訊ねる。「なんで夢の研究が狙われるんだ?」

「お父さんの研究はちょっと特殊なんです」

「どんなふうに?」

女は口元に手を持っていって、爪を噛み始めた。
落ち着かないのか焦っているのか、それともそれが癖なのかは知らない。僕が知るわけがない。
でもそれは迷っているように見える。父の研究についてを僕に話していいのか
迷っているのだろう、と僕は阿呆みたいに真面目に推測した。阿呆だ。


やがて女は口を開く。「お父さんは、夢の中に入る装置の研究をしてるんです」

「ふうん」と僕は言った。ふうん。
「映画みたいだ。もしくは出来の悪いショートストーリーか、そんなところだ」

女は僕の言葉を無視して言う。「お父さんが言うには、その装置を使うと、
記憶を捏造したり破壊したり盗んだり、人格そのものを破壊してしまうことも可能らしいんですよ」

「それはすごい」と僕は感心して言った。「とりあえずいくつか質問させてくれ」

「どうぞ」

「僕がそんな話を信じると思うか?」と僕は言った。
見知らぬ女の突拍子もない話を信じるやつなんて、
馬鹿か身体目当てか30超えて童貞のやつくらいしかいない。


「信じてください」と女は言った。その声には真実味が含まれていた。
僕にはそういうふうに聞こえた。だからというわけではないけど、「信じてやるよ」と僕は言った。
でも僕の耳は悪いから信用出来ない。でも彼女の声は僕の好みだった。
そうなると信じないわけにはいかない。たぶん僕の耳はとても幸せな耳なのだろう。

「ありがとうございます」と女は言った。

「それで、お父さんは誰に攫われたんだ?」と僕は訊ねる。後ろでは『オール・ディス・タイム』が終わって、
『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』が流れ始める。

「わからないです」と女は頭を垂れた。

「そうか」と僕は言った。「僕に助けを求めるより、警察に電話したほうがいいんじゃないか?」

「警察に電話したらお父さんを殺すって」

「定石だな。でもこういうのは警察に押し付けるのがいちばんなんだよ」と僕は言って、
コートのポケットを探る。でも携帯電話は見つからない。
そういえば、けっこう前に利根川辺りに投げ捨てたんだったか。
となると、公衆電話か。小銭はあっただろうか? 10円あればいい。
10円で自由に戻れるのだから払わないわけにはいかない。


「お願いします」と女は僕に向って頭を下げた。「あなたしか頼れるひとがいないんです」

「なんで僕なのさ」と僕は言った。

「いちばん近くに停まってた車にあなたが乗ってたからです」

「つまり」と僕はため息を吐き出した。
「立候補者がいなかったから、僕がくじ引きで選ばれたわけだ」

「そういうことです」

「世の中には損をする奴と得をする奴がいるんだよな。僕が損をする奴で、きみが得をする奴だ」


「あなたが長居公園通で寝てたのが悪いんですよ」と女は言った。

「いきなり強気になった」と僕は笑った。「なんできみらは長居公園通をうろついてたのさ?」

「お父さん、ずっと部屋にこもっとったから、身体に悪いと思って、いっしょに長居公園に散歩しに行ったんです」

「きみは学校をサボって」と僕は付け加えた。

女は下を向いて言う。「長居公園じゃなくて、おおいずみ緑地にすればよかった」

「どっちにしろ攫われてたんじゃないかな」と僕は言った。





やがて僕らは当然のように白のクラウンを見失う。僕らの前に割り込んでくる車が何台もいて、
それらのおかげで白のクラウンとはかなり距離がひらいてしまう。
当然、通りには信号がいくつもあるので、さらに白のクラウンとの距離は伸びる。
僕の目はあまりいいほうだとは言えない。記憶力も悪い。
ナンバーなんて見えるはずもないし、見えたとしても覚えられるわけがない。

「どうしよう」と女は言って、しゃくりあげ始めた。パーカーの袖を伸ばして手で掴み、それで目を拭う。

彼女が鼻水をすする音と、エアコンが温風を吐き出す音と、
スティングの声が混ざって、カオスな空気を作り出す。
そこに僕の居場所はないようにさえ思えてくる。そして僕はとてつもない居心地の悪さを感じ始める。
これには参った。なんだか僕が悪いみたいじゃないか。

でも、だからって彼女に言い訳をしようとは思わない。僕は言い訳が嫌いなのだ。
言い訳しても怒る奴は怒るし、泣く奴は泣くというのが僕の持論だ。それに、言い訳をするのはしんどい。
好きなだけ怒鳴り散らせばいいし、好きなだけ泣き叫んでくれればいい。


とりあえず車を端に寄せて、ハザードランプを灯した。エンジンをかけたままその場に留まることにする。
僕は頭を掻きながら、「なんとかするから、泣くなって」と言った。

「ほんまに?」と女はゆっくりと顔を上げて言った。
やられた、と思った。女の涙ってのは凶器にもなり得るのだと確信した。

「ほんまに」と僕はなんとなく関西弁で言う。「おっちゃんがなんとかしたるから泣くなって。な?」

「へたくそな関西弁ですね」と女は微笑んだ。

「そうか。完璧だと思ったんだけどな」

「大阪のひととちゃうんですか?」と女は訊ねた。

「そう。東京のひとだ」と僕は答えた。

「名前は何ていうんですか?」

僕はすこし考えてから、「ジョン」と答えた。


すこし間をあけて、「東京のひとなんですよね?」と女は確認する。

「そう。東京のひとだ」と僕は言った。なんだかこの台詞が気に入ってしまった。「ジョン・ドゥだ」

「ジョン・ドゥ」と女は復唱する。「名無しの権兵衛さんですか」

「知ってたのか」と僕は言った。

「知ってますよ」と女は言った。「アメリカとかでは、身元不明の男性遺体をそう呼ぶんですよね」

「ふうん」それは知らなかった。ふうん。「きみの名前は?」

女はすこし考えてから、「ジェーン」と言った。


「ジェーン。ディズニーの“ターザン”に居たよな、ジェーンって女のひと。似てる」と僕が言うと女はこちらを睨んだ。
よく見てみると、ディズニー映画のジェーンと目の前の彼女はこれっぽっちも似ていない。
べつにターザンに似てるとは言ってないのに、そんなに怒るなよ、と僕は彼女の顔を横目で見ながら内心でつぶやく。
ターザンに失礼だろうが。それに、ジェーンはターザンに惚れたんだよ。ジェーンにも失礼だろうが。

「それはジェーン・ポーターです。ポーターじゃなくて、ドゥです」と女は言った。
辞書みたいな女だ、と僕は思った。歩いて喋る辞書だ。
持ち帰って弄くり倒したい。でも僕には帰る家が無い。

「ジェーン・ドゥ」と僕は言う。「なるほど、僕らは兄妹だったってわけか」

「そういうことでいいです」と女は吐き捨てるみたいに言った。
僕に近寄った女性は例外なく離れていく。なぜか。

つづく





「これからどうするんですか?」と女は訊ねる。

「さあね」それは僕に訊ねるべきことではないと思う。
ちらりと時計を見る。まだ10時23分だ。でも腹が減って仕方ない。
「ここらにたこ焼き屋ってないかな?」と僕は訊ねる。

「たこ焼き屋ですか?」と女は拗ねたみたいにつぶやく。「知りません」

「そうですか」と僕は肩を落として、心の底から落胆した。
なんとなくたこ焼きが食べたかったのに。「きみはお腹減ってない?」

「大丈夫です」と女は言った。


「でも僕はぺこぺこなんだよな」と僕は腹をさすって言った。「たこ焼きが食べたいんだな」

「知りません」

「僕をたこ焼き屋に連れていってくれよ」

女はすこし間をあけてから僕を睨んで、「ちゃんとお父さんを取り返してくださいよ」と言った。

「当たり前さ。僕を誰だと思ってる」と僕は自慢げに言った。

「知りません」

「あとで教えてやる」と僕は言って、車を発進させる。


長居公園通りを直進していると、大きな交差点にぶつかった。
頭上には阪神高速道路があって、曲がれば内環状線に入る。そんな交差点だ。やはりそこも混んでいる。
交差点の向こうに、聞き馴染みも見覚えもない駅名が見える。地下鉄が通っているらしい。

「あれ、なんて読むの?」と僕が訊ねると、彼女は呪文を唱えるみたいに、「きれうりわり」と言った。
なるほど。きれうりわり。喜連瓜破(きれうりわり)か。読みにくい。
我孫子とか百舌鳥とかならわかるのに。なんだよ喜連瓜破って。

「読みにくいね」と僕が言うと、「ふつうです」と女は言った。
交差点にブックオフが見えたので、「ブックオフ行く?」と僕が訊ねると、
「あとで行きましょう」と女は答えた。


内環状線には入らず交差点を直進して進んだが、たこ焼き屋は見当たらなかった。
転回してもう一度瓜破の交差点に戻ってきて、今度は左折した。
たこ焼き屋っぽいものはあったが、それは僕が求めていたのとはすこし違ったので通り過ぎることにした。
しばらくその道を進むと、高架道路にぶちあたった。足元には大きな川が流れている。

「でっかい川だな」と僕は言った。

「大和川です」と女は言った。僕はまた辞書みたいな女だなと思って、持ち帰って弄り倒したい衝動に駆られる。
でも僕は我慢して、「日本でいちばん汚い川だっけ?」と訊ねた。

「今はちゃうはずです」と女は答えた。

「ふうん」と僕は言った。どっちにしろ、僕としてはどうでもいいことだ。
大和川が日本でいちばん汚かろうと、二番目三番目に汚かろうと、そんなことは僕の知ったことではないのだ。
琵琶湖が日本でいちばん大きな湖だからって、僕がお金持ちになれるわけじゃないのと同じなのだ。


その後も何度か道を折れて、ロータリーを抜けた。
そこからすこし進んだところで僕はたこ焼き屋を発見した。
小さな屋台で、カウンターの向こう側では若い女性がたこ焼きを転がしている。
それはまさに僕の求めていたものだった。僕はへんなこだわりを持っているのだ。

僕は道の脇に車を止めて、たこ焼きを2パック買った。
もうお昼が近かったので、あの子の分も買ってやったのだ。
断じて僕が二パック食べるために買ったわけではない。僕はときどき気の利いたことができる。

踵を返して車に戻ろうとしたところで、女性店員は「おおきに」と言った。
僕はなんだかそれがとても気に入ったので、もう一度振り返って手を振った。
店員さんも小さく手を振り返してくれた。今日はいい日になるような気がした。


車に戻ると、女は熱心にスピーカーから流れる音楽に耳を傾けていた。
「スティング好き?」と僕が訊ねると、「たぶん好き」と彼女は答えた。
流れていたのは「フラジール」だった。

「たこ焼き食べる?」と僕は訊ねた。

「食べる」と彼女は俯いて答えた。かわいいところもあるじゃないか、と思った。

「どうぞ」僕が袋からたこ焼きの入った容器を差し出すと、
女はだぼだぼのパーカーの袖を手のひらまで引っ張りあげて、それを両手で受け取った。
「ありがとう」と女は言った。僕としては「おおきに」と言ってほしかった。
女は続ける。「でも、知ってました? わたし、たこ焼きよりもいか焼きが好きなんですよ」

「知らないよ。知るわけないだろ。嫌なら食べなくてもいいんだぞ」

「いただきます」と女は言って、たこ焼きを頬張り始めた。僕もそうすることにした。なかなかに美味だった。





空になった容器を袋に包んで、後部座席に置いた。窓を開けて、煙草に火をともす。
僕は煙突みたいに煙を吐き出して「さあ、どうしようか?」と言った。
女は何も答えなかった。彼女は未だにたこ焼きをむぐむぐと頬張っている。悪くない眺めだった。

「たこ焼きおいしい?」と僕が訊ねると、女は口にたこ焼きを入れたまま頷いた。
「おいひい」と彼女は言った。「でもわたしはいか焼きが好きなんですよね」

「お父さんを連れ戻したら買いに行くとしよう」と僕は言った。

「梅田の阪神百貨店のいか焼きが好きです。おいしいんですよ」


「知らないよ」僕は彼女の顔を見て言う。「わりと余裕だね、きみ」

「焦るのは性に合わないんです。それに、あなただって余裕やないですか」

「だって、きみのお父さんがどうなろうと僕には関係ないからな。
きみだって僕のお父さんがどうなろうと知ったことじゃないはずだ」

「薄情ですね」

「それでも情の欠片は持ってる。だからきみを助けてやろうと思ってるんだ」

「ありがとう」と女は言った。「それで、どうやったらお父さんを連れ戻せると思います?」

「簡単だよ。お父さんを見つけて、この車の後部座席にぶち込めばいい」

「だから、どうやってお父さんを見つけるんですか?」

「さあ。きみの嗅覚に頼るとか、警察に捜索願を出すとか?」

「真面目にしてください」

「ごめん」僕は煙草を灰皿に押し付けて言った。「せめて車のナンバーでも分かればなあ」


女は三桁の数字を口にした。どうやらそれがあの白のクラウンのナンバーらしい。

「おぼえてたんだ?」と僕は訊ねる。

女は頷いて、「アルツハイマーとちゃうんですから。ばかにせんといてください」と言った。
僕だってアルツハイマーじゃないはずだ。でも病院で検査してもらったことはないから真偽は不明だ。

「さっさと言ってくれればよかったのに」と僕は言った。

「車のナンバーが分かったら、なんかあるんですか?」

「車の持ち主が分かる」

「どうやって?」

「世の中にはそういう仕事をしてる物好きがいるんだよ」と僕は言った。「そいつに頼めばいいのさ」

「どんなひと?」と女は首を傾げて訊ねた。

「探偵って知ってるかな」と僕は訊ねた。
まさか僕がそんな胡散臭いやつを頼ることになるとは夢にも思っていなかった。
ふつうに生きていたら、まず探偵に関わることなんてないはずだ。
つまり僕はふつうではないということか。納得である。





時刻は正午を過ぎたばかりだ。道は空いている。車はあめんぼみたいにすいすい進んでいく。
信号さえなければまぐろみたいに進めたと思う。

車の中では相変わらずスティングが唄っている。
僕はそろそろそれに飽きてきたので、助手席の彼女に「なにか唄ってくれよ」と言った。
「いやです。はずかしいです」と彼女は言った。「そうか」と僕は言った。

でも、しばらくすると彼女は「仕方ないですね」と前置きして、
「“スリルなんてちょっとなら楽しみさ。でも苛々すると事故が起きる”」と唄い始めた。

「何の唄?」と僕は訊ねた。出だしからろくでもない唄だ。

「きかんしゃトーマス」と女は答えて、「“へっちゃらさなんて知らん顔して、走っているとそんな時”」と続ける。


「なんて曲名?」と僕は訊ねた。

「“じこはおこるさ”です」と女は答えて、
「“事故がほら起きるよ。いきなり来る。調子乗ってやってるとばちがあたる”」と続けた。

「そんな曲があるんだ」と僕は言った。

女は足を小さく揺らしながら、「“事故がほら起きるよ。いい気になってると、
そうさ、よそ見してるその時に、事故は起きるものさ”」と気分が良さそうに唄う。

「なあ。ほんとうにそんな歌詞なのか?」と僕は心配になって訊ねる。

「そんな歌詞です」と女は言って、「“思いつきでやると、きっと失敗するよ”」と唄った。


「ほかの曲にしてくれ」と僕は言った。
「仕方ないですね」と女は満足げに言って、「リクエスト聞きますよ」と続けた。
「きみの好きな唄にしてくれ。さっきの曲以外でな」と僕は言った。

「わかりました」女は咳払いしてから、「さーにーでーい」と唄い始めた。
セサミストリートのテーマだ。選曲が極端すぎやしないかと思ったが、
僕はそれなりにセサミストリートが好きだから何も言わないことにする。

たとえ長居公園通が曇り空でも、セサミストリートは快晴なのだ。
僕はそういうところが気に入っている。あとクッキーモンスターも。

つづく





目指していた探偵事務所は天王寺駅の辺りにあった。
それなりに大きなビルの4階とか5階とか、そんなところだ。

そこは正方形に限りなく近い形をした部屋だった。ドアを開いて正面には窓があって、
その手前に典型的なオフィスデスクが置いてあって、これまた典型的な回る椅子が置かれている。
隣にはキャビネットがあって、その上には花瓶があって、花瓶には花がぶち込まれている、そんな部屋だ。
シンプルでなかなか悪くないんじゃないかと思った。ハンガーにかけられたコートがいい味を出している。

探偵は椅子に座りながらくるくると回っていた。
あまりいい椅子ではないな、と僕は素人目で適当な評価を下した。きいきいうるさいのだ。
でもなんだか楽しそうだった。その光景は「僕も椅子を買おう」と思わせるような何かを持っていた。

探偵は僕と同じくらいの歳の男だ。でも髭は綺麗に剃られていたし、髪型も整っていて清潔感があった。
探偵を前にした僕は、そういえば最後に髪を切ったのはいつだっただろう? といらぬ心配をし始める。
髭は2日前に風呂に入ったときに剃ったけど、髪は長い間切っていないはずだ。床屋にも行かなければ。
やることはたくさんある。でもお金には限りがある。でも僕には仕事がない。僕も探偵を始めてみようか?


僕とセサミストリート女は手短に、車のナンバーを調べてほしい、
それから持ち主の住所とか勤務先とか、できるなら尾行でも何でもしてくれと伝えた。
彼女のお父さんが攫われたとか、そんなことはどうでもいい。大事なのは車のナンバーなのだ。

「わかりました」と探偵は言った。「なんかわかったら電話しますね」

「電話って、僕は携帯を持ってないぞ」と僕は彼女に耳打ちした。

「わたしが持ってますから、余計な心配せんといてください」と女は僕を小突いて、探偵に番号を伝えた。


事務所をあとにする頃には、時刻は午後の2時をまわっていた。
天王寺駅の周りは当たり前のように混んでいた。
僕らは適当な場所に車を止めて、天王寺公園前の広場のベンチに腰掛けながら
コンビニで買ったサンドイッチとレモンティー(あったか~い)を胃に流し込んだ。

「彼が車のことを調べ上げるまでは、僕らには何も出来ないな」と僕は白い煙を吐き出して言った。寒い。

「どうします?」と女は歯をかちかち鳴らしながら言った。
あまりにも寒そうなので、僕のコートを貸してやった。なかなか似合っていた。

「どうします? って、待つしかないだろ」と僕は言った。

「どうやって時間を潰すんですか?」

「きみの好きなようにすればいい」

「とりあえず建物の中に入りませんか? 寒すぎます」


「わかった」僕は立ち上がって、駅の方へ歩く。彼女も立ち上がって、僕の隣に並んだ。
「そこに動物園があるみたいだけど、そこへ行くのはどうかな?」と僕は言った。

「いやです」と女は言う。「こんな寒いのになんで動物園なんですか?」

「そこに動物園があるからさ」

「なにマロリーみたいなこと言うてるんですか」と女は僕を睨めつけて言った。
「ちなみにわたしは動物園より図書館のほうが好きです」

「僕は動物園よりも水族館のほうが好きだな」ひとりで行く程度には好きだ。

「じゃあ行きましょうよ水族館。電車にでも乗って海遊館に行きましょうよ」

「やだよ。めんどくさい」と僕は言った。「わたしもいやです」と女は言った。





結局、2時間ほど駅周辺の建物の本屋を回った。どこに行っても品揃えはほとんど変わらないのに回った。
ついでに服屋やらCDショップやら楽器屋やらを訪れた。僕は彼女にマフラーを買ってやった。
でも僕自身にはなにも買わなかった。僕は手の届かないものを眺めるのが好きなのだ。
マフラーのおかげで彼女は、より“手の届かないもの”に近づくのだ。僕はそれが好きなのだ。あと本屋の匂いが。

天王寺駅の北口の近くにドラッグストアがあって、その脇に細い道がある。
そこをすこし進んだところにまたもやブックオフがあったので、僕らはそこに入る。
意味不明な選曲の店内放送を聞き流し、僕らは螺旋っぽい階段を上がって2階のCDコーナーに向かった。

「なにか買うの?」と僕は訊ねた。

「買いません」と女は答えた。「眺めるのが好きなんです」

「貧乏臭い趣味だね」と言って、僕も彼女と同じようにぎちぎちに並んだCDを眺めた。
僕はぎちぎちに並んだ本やCDを眺めるのが好きなのだ。


やがて彼女はCDを眺めるのをやめて、文庫本の並んだコーナーに向かった。
そしてそれを眺めた。僕も隣で眺めた。ときどき中腰になって本の背表紙と睨めっこをする
彼女の姿を見ていると、僕も真似したくなったのでそうすることにした。なかなかたのしいものだ。

結局彼女は洋楽のアルバム(輸入版、500円)を一枚だけ買った。最近のものらしい。僕にはよくわからない。
僕は若かりし頃に聞いていた懐かしいCD(500円)を一枚だけ買った。
若かりし頃といってもそれは90年台のアルバムだ。信じられないかもしれないけど、僕にも若い時期があったのだ。

ブックオフを出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
冬だから仕方ないとは思うけれども、いくらなんでも早すぎるのではないかとも思う。
彼女に時間を訊ねると、「5時半です」と答えてくれた。まだ一日は4分の1も残っている。
あるいは4分の1しか残っていないというひともいるだろう。でもそんなことはどうでもいい。


「どうする?」と僕は訊ねる。

「とりあえずわたしの家に行きましょう」と女は言った。

「すばらしいアイデアだ」と僕は言った。

「あなたは入れませんよ」

「期待はしてなかったさ」と僕は言う。
「いきなり30のおっさんがきみの家に上がり込んだら、きみの家族はみんなしかめっ面をするだろうからな」

「家には誰もいませんよ」と女は言った。「お父さんとふたりで暮らしてたので」

「そうか」と僕は言った。そうか。「適当な場所に車を置いて、そこで眠るとするよ」

「そうしてください」と女は言った。





ふたたび大和川を渡って、たこ焼きを買った辺りの場所に戻ってきた。
彼女の家はそこからほんの2、3キロ先にあるらしい。
しばらく車を直進させて、適当な交差点を折れて住宅街に入った。
彼女の言ったとおり、そこからものの数分で彼女の家に辿り着く。

大きすぎず、小さすぎず、かといってふつうというには少しばかり大きい、そんな家だった。
見た目はモルタル塗りのふつうの一軒家だ。玄関前にはタイル貼りのステップがある。
中も外も灯りはともっていない。街灯だけが彼女の家を照らしている。すこし寂しい光景だ。

郵便受けの脇の表札には「小國」と書かれていた。なるほど、彼女はオグニさんというのか。
オグニ。インド神話の炎の神様みたいな名前だ。かっこいい。

「なあ、オグニさん。オグニっていい名前だね。インド神話の炎の神様みたいだ」と
僕は思ったことをそのまま言った。

「そうですね」とオグニさんは答えた。これは伝わっていないパターンのやつだ、と僕は思う。


ガレージには2台分の車が入るスペースがあったので、そこに車を置かせてもらった。
外から回りこむと、奥には小さな庭があるようだ。見た目の通り、けっこう広い家なのだろう。

家の隣にはモータープールとかでかでかと書かれた看板がある。
でもプールみたいな施設は見当たらない。
「モータープールってなんだ?」と訊ねると、「駐車場」と彼女は答えてくれた。ふうん。

時刻は7時になろうとしていた。僕はスティングに退場してもらい、FMラジオを付けた。
スピーカーからは聞いたこともない日本語の曲が流れてくる。

「じゃあ、おやすみ」と僕は運転席のシートを倒しながら言った。
やることがないと、眠る時間は早くなる。それはしかたのないことなのだ。

「お風呂とか入らないんですか?」と彼女は訊ねる。

「2日前に入ったからいいよ」と僕が言うと、女は眉間に皺を寄せて、信じられないというような顔をした。


「いちおう庭に面した窓の鍵を開けときます」と女は言った。「いつでもシャワー使ってくれていいですよ」

「きみはもうすこし危機感を感じたほうがいいと思うんだ」と僕は言った。

「なんでですか」女は訝しむように言った。

「僕は男で、きみは女なんだ。僕の言いたいことはわかる?」

「あなたがわたしをレイプするかもしれないとか、そういう話ですか?」

「理解が早くてたいへんよろしい」と僕は言った。

「べつにいいんですよ」と女は俯いて言った。「そのときはそのときです」

「そういう考え方はやめておいたほうがいい」と僕は言った。
根拠はないけれど、そういう考え方は自身を破滅に導くと思う。
計画性のなさは破滅へ向かうものの資格みたいなものだ。

たとえ大雑把でも、計画は練るべきだ。曖昧でもいいから、将来の立派な自分を思い描くことが重要なのだ。
それを思い浮かべられないものが、地面を這いつくばる羽目になる。
たとえば思いつきでお偉いさんに中指を突き立てて「死ね」とか言っちゃうと、とんでもないことになるはずだ。
それと同じなのだ。たぶん。分からないけどきっとそうだ。


「……わかりました」と女は言って、運転席のドアを開けて僕の手首を掴んで引っ張った。
「家に上がってください。お願いします」

「いきなりどうした」僕は彼女に手を引かれながら、なんとかエンジンキーを抜いた。

「寂しいんです。察してください」と女は前を向いたまま早口で言った。
「それに、お父さん以外のひとと話すのは久しぶりでたのしいんです。わかったら黙って付いてきてください」

「レイプされても知らないぞ」

「あなたはそんなひとじゃないと思います」

「やれやれ」と僕は言った。やれやれ。一度でいいから言ってみたかったのだ。


10


通されたのはリビングだった。長方形の部屋の中心にはローテーブルがある。
そのローテーブルの脇には鍵型になるようにロングソファがふたつ置かれている。
庭への窓の脇には台の上に載せられたテレビがあって、隣には灰皿があった。吸い殻はない。
よく見るとクロスは脂で黄ばんでいる。お父さんとやらは煙草が好きなのだろう。
カウンターを挟んでキッチンがある。コンロは使い込まれているように見える。

女は僕をロングソファに座らせて、「シャワー浴びてきます」と宣言した。

「覗けってこと?」と僕は訊ねた。

「ちゃいます。でもべつにどっちでもいいです」と女は言い残して部屋を出ていった。


ひとりで見知らぬ部屋に取り残されることになった。落ち着かないし、なにより寒いのだ。
久しぶりに窮屈な車内から抜け出せたと思ったのに、これはなんだ?

自問には耳を傾けず、ドア越しに聞こえる水の落ちる音に耳を傾けながら、僕はソファに身を沈める。
いいソファだ、と思った。僕もソファを買おうと思わせるような心地よさだ。
このまま眠りこけたらとてもいい気分になれるはずだ。

でも僕は眠れなかった。僕の目にポータブルCDプレイヤーが飛び込んできたからだ。
それはテレビの脇に転がっていた。僕はそれを拾い上げて、ふたたびソファに座った。
中にはレディオヘッドの「パブロ・ハニー」が入っていた。僕はそれを取り出して、
さっき買ってきたオアシスの「モーニング・グローリー」をセットして、最初から再生した。
嬉々として久しぶりに耳にイヤホンを突っ込んだ。


2曲目の「ロール・ウィズ・イット」が終わった辺りで、彼女は風呂から戻ってきた。
でも僕はそれに気づかなかった。それくらいのめり込んでいた。
女は片方のイヤホンを僕の耳から引っこ抜いて、「なに聞いてるんですか?」と言った。

僕は彼女の顔を睨もうとする。でも止めた。だから眺めた。彼女はさっきとは別人みたいな顔をしていた。
ポニーテールだった髪はほどかれて、濡れてばさばさとしている。けっこう長い。
それだけならべつに変わりはないのかもしれないけれど、彼女は赤い縁の眼鏡をかけていた。
別人のように見えたけど、それが彼女だとわかると、似合っている、と僕は思った。
それから黙って片方のイヤホンを差し出した。女は僕の隣に座って、イヤホンを耳に挿しこんだ。

「ワンダーウォール」と彼女はつぶやいた。
ちょうど3曲目の「ワンダーウォール」が始まったところだった。「好きなんですか?」

「そうだね」と僕は言った。

「わたしも好きなんです」


「ふうん」と僕は言った。「このCDプレイヤーはきみのもの?」

「そうです。あのCDも」と女はテーブルの上に置かれた「パブロ・ハニー」を指さした。

「好きなんだ?」

女は頷いた。「クリープが」

「なるほど」と僕は言った。「きみはとくべつになりたくて、救いを求めているわけだ」

「そんなとこです」と言って女は膝を抱えた。いい匂いがした。
よく見ると、もこもことしたパジャマみたいな服を着ていた。

「なんでお母さんはいないんだ?」と僕は片耳にイヤホンを突っ込んだまま、
他人の内情にずけずけと土足で踏み込んだ。僕には常識がないのだ。


「知りません」と女は言った。「わたしの話なんてどうでもいいんです。あなたの話が聞きたいです」

「僕の話こそどうでもいいと思うんだけど」

「どうでもいいなんてことないです。はよ話してください」

「いきなり“話せ”って言われても難しいんだよ。“声を出せ”って言われるのとはわけが違うんだ」

「じゃあ質問します」と女は言った。「なんで大阪におるんですか? 東京のひとやのに」

「そう。東京のひとだ」と僕は言った。彼女は静まり返って、冷めた視線を僕に送る。
「旅をしてるんだ」と僕は頭を掻きながら訂正した。「仕事を辞めさせられたからね」

「へえ」と女は感心したように言った。「旅って、どこに向かってはるんです?」

「さあね」と僕は答える。「目的地はないよ。お金が尽きるまで、行けるところまで行く予定ではあるけどな」

「お金がなくなったらどうするんですか?」

「予定では死ぬことになってる」と僕は言う。「終着駅を探す旅みたいなものだよ」

「なんですか、それ」と彼女は訝しむような目線を向けてくる。


「ゆっくりと自分のペースで終わりに向かっていくのって、いいと思わないか?」と僕は訊ねた。
彼女なら僕の言っていることが分かると思ったからだ。

でも彼女は「分からないです」と答えた。

「そうか」と僕はすこしがっかりした。「映画とかドラマってさ、1時間とか2時間とか、
決められた“時間”の中で終わってるだろ? 僕はそういうのが嫌なんだ」

「なにが言いたいんですか?」

僕は言う。「つまり僕は自分のペースで進みたいってこと。相手のペースに飲み込まれたくないんだ。
その相手ってのがひとであろうと映画であろうと、嫌なんだ。
終わるタイミングも自分で決めたいんだよ。だから僕は映画は嫌いなんだけど、小説は好きなんだ。

映画だと絶対に決められた時間で終わりは来るけれど、小説は違うだろ。
個人によって読む早さとか、頁を捲る速度が変わるだろ。そうすると、終わるタイミングも変わってくる。
途中に休憩を挟んだりして、先のことをじっくりと考えることだってできる。
僕が言いたいのはそういうことだ。きみなら分かってくれると思うんだ」


「なんとなく分かります」と彼女は抱えた膝に顔を押し付けて言った。
「わたしも、他人に合わせるのが嫌いなんです」

「だろうと思ってたんだ」と僕は言った。だから彼女には理解してもらえると思ったのだ。
「それで、僕は終わるタイミングを“お金が尽きた時”にしたってだけの話なんだ」

「分かりますけど」と女は頭を掻いて言う。「べつに死ぬことはないんとちゃいますか?」

「社会ってシステムに適合しない歯車は地面を転がる運命なんだよ。
僕がそれだ。誰もイカれた歯車なんて求めてないんだ。分かるだろ?
地面を転げる歯車なんて誰も拾わない。それが壊れてるって、みんな知ってるからな。

隣接する歯車とかみ合わないと、いずれはシステムに大きな誤差が生じるんだ。
お偉いさんはそういうのが気にいらないんだよ。
だからそいつは踏み潰さなきゃだめなんだ。出る杭は打たれるのと同じようにな」


「地面を転がり続ければいいやないですか。
そりゃあ、たしかにろくでもないことばっかりでしょうけど……」

「僕が歯車ならそうしたかもしれないけどな、あいにく僕は人間なんだ。
人間は毎日の小さな楽しみか、将来への大きな希望があれば生きていけるんだってな。
僕には毎日の小さな楽しみがあるけれど、将来への大きな希望はないんだ」

「わたしだってそうです。でも、誰だってそうなんとちゃいますか?」

「そうなのかもしれないけどな、小さな幸せを毎日噛みしめるためには金が必要なんだ。
金が尽きれば小さな幸せだって噛みしめることができないだろう」

「また働けばいいやないですか」

「イカれた歯車を欲しがる奴がどこにいる?」

「そうですか」と彼女は呆れたように言って、ため息を吐き出した。
「そういうところがだめなんですよ、きっと。錆です。さびさびですよあなた」

「だろうな」と僕は言った。「でも僕はそういうのが気に入ってるんだ」


「それやったら、死ぬなんて余計にもったいないんとちゃいますか」
彼女は目を抱えた膝の皿辺りに擦りつけた。
「わたしは自分のそういうとこがものすごく気に入らないんです」

「それはいいことだと思うよ。自分がだめだってことを受け入れるのが、いちばんだめなんだと思う。
気に入ったらおしまいだ。そういうやつは“終わってる”んだよ。
間違っていることに間違っていると言える奴は強い奴なんだ」

「まるで自分が“終わってる”みたいな言い方しますね」

「そう。僕は“終わってる”んだよ。これは蛇足なんだ。蛇足くらい楽しんでやろうと必死なんだ」
僕はひん曲がっているのかもしれないけど、
それも貫き通せばまっすぐな生き様になる、というのも僕の持論だ。

「最期に“今まで楽しかった”と思えるような終着駅が見つかるといいですね」と彼女は言って、立ち上がった。
ぺたぺたと歩いてドアの向こうに消える。そしてドア越しに、「はよシャワー浴びてくださいよ」と言った。

「分かってるよ」と僕は言って立ち上がり、風呂場に向かった。


適当にシャワーを浴びてリビングに戻ると、毛布が置かれていた。
彼女はいなかった。どうやら二階の部屋に向かったらしい。
なんだかおじゃまする気にはなれなかった。
僕には彼女をレイプしようとかそういう気は全くない。

僕は部屋の灯りを消して、毛布に包まって、耳にイヤホンを挿しこんだ。そして「ワンダーウォール」を流す。
そのまま僕はソファの上で眠る。そして僕は今日一日のことをほとんど忘れる。
病気とかじゃなくて、僕はそういうふうにできているのだ。忘れないと潰れてしまうのだ。

つづく


11


僕が目を醒ました時、ピアノの音が聞こえてきた。ピアノの音はひとつの曲を作り出している。
ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」だ。ピアノの音は隣の部屋から聞こえてくる。
僕はもそもそと毛布から這い出して、隣の部屋への横開きのドアを開ける。

視界に入ったのは小さな部屋に置かれた大きな黒光りするピアノと、椅子に座る関西弁女の姿だった。
彼女は昨日の夜と同じように、赤い縁の眼鏡をかけていて、髪も縛っていない。

「おはようございます」と彼女は言った。

「おはよう」と僕は大きなあくびを吐き出して言った。「なかなか気の利いたモーニングコールだった」
昨日のものと比べると大違いだ。ひとはひと晩でここまで成長するのかと感心させられる。

「もっと褒めてくれてもいいんですよ」と彼女は言った。


「ピアノが弾けたんだ?」と僕は訊ねた。見ればわかるのにわざと訊ねた。それくらい驚いたのだ。

「ざっつらいと」と彼女は親指を立てて言った。
でも、たしかに彼女の指は細長くて、ピアノの鍵盤を叩くのにはもってこいだ。

「寝るときも一曲頼むよ」と僕は言った。
それは今夜までにお父さんを連れ戻せないという意味に捉えることもできるが、
それに関して彼女はなにも言わない。彼女はわりかし余裕なのだ。

「こういうやつですか?」と言って、彼女はビートルズの「ゴールデン・スランバー」を弾き始めた。

「そういうやつ」と僕は言った。「完璧だ」


12


時刻は午前7時33分だ。曇った窓からは薄っすらと陽光が射している。
今頃は全国の小中学生が朝の寒さと闘っているのだろう。がんばれ。

僕はソファに腰掛けて、彼女の焼いてくれたパンと卵を頬張った。
それらを食べ終えると彼女はコーヒーを淹れてくれた。なかなか気の利く子だと思った。
いい嫁になれる。たまに文字を読み上げるソフトみたいになるけど。それもまたいいところなのかもしれない。
すくなくとも僕は彼女のそういうところも気に入っている。歩く辞書というあだ名を送りたいくらいだ。

「ウォーキングディクショナリ」と僕はつぶやく。「歩く辞書」と彼女は答える。

「英和辞書にもなるすぐれものだ」

「なんの話ですか?」彼女は首を傾げた。
だぼだぼのパーカーの袖を、手を覆うように持ってきて、マグカップを両手で包み込む。

「WD」と僕は言った。

彼女はすこし考えたあと、「ウォルト・ディズニー?」と言った。

「なるほど」と僕は感心して言った。なるほど。

「なんなんですか?」と言った後、彼女はコーヒーを啜った。



コーヒーを飲み終えた僕らは庭へ出た。僕が外の空気を吸いたいと言ったからだ。
頼りないあたたかさの太陽が僕らを迎えてくれる。真夏にぬるいお茶を差し出されるみたいな気分だ。
でも今は冬だから、僕の周りには肺を凍てつかせてしまいそうな冷たさの空気が漂っている。
とりあえず当初の目的を達成するため、肺を凍らせるみたいに思いきり深呼吸した。
刺すような空気が流れ込んでくる。肺が凍るかと思った。

庭には芝生が植えてあって、端のフェンスの辺りにいくつかの鉢植えが見える。
僕はその鉢植えから伸びているなにかの残骸みたいに干からびた植物を眺める。
それは多分あさがおだ。かなり久しぶりに見たから自信はない。

「あさがお?」と僕が訊ねると、彼女は「そう。モーニング・グローリー」と答えた後、
「わっつざすとーりー」と唄った。だから僕も「もーにんぐろーりー?」と続けて唄った。「うぇーう」


あまりにも寒かったので僕らはそのままリビングに戻った。
彼女はかじかんだ手を温めるためかなんだか知らないけど、もう一杯コーヒーを淹れてくれた。
僕はマグカップを包み込むように持って、かじかんだ手を温めた。

そういえば、と思い僕は壁にかけられた奇妙なオブジェみたいな時計に目を向ける。
時刻は8時になろうとしていた。

僕は言う。「学校に行かなくていいのか?」

「今日は土曜日ですよ」と彼女はマグカップを持ったまま答えた。

「休日なのか」と僕は言ってからコーヒーを啜った。「そうか」と納得して頷く。
今日は全国の小中学生は朝の寒さと格闘していないらしい。

学校とか職場で、歯車として他の何かとかみ合っていないと、曜日の感覚は狂うのだ。たぶん。
かろうじて平日と休日の区別はつけられていたはずなのに、もう僕の感覚は完全に麻痺している。
べつに困りはしない。困るのは歯車として回っているものだけだ。僕は違う。


「なんでパーカー着てるの?」と僕は話を逸らしたいがために訊ねる。
誰が何を着ようとそれはひとの勝手だということは百も承知である。でも訊ねた。

「好きやからです」と彼女は言った。“好きやからです”。いい響きだ。すごくいい。

「どうして?」と僕は訊ねた。

彼女はフードを目深にかぶって、ポケットに手を突っ込んだ。「フードとポケットがあるからです」

「かわいいからとかじゃなくて、実用性とかの問題なんだ?」

「“かわいいから好きで着てるねん”とかわたしが言ったら、みんなわたしのこと指さして笑いますよ」

「そんなことはないさ」と僕は社交辞令みたいに言ったけど、
本人がそう言ってるんだからそうなんだろうなと思った。僕はときどき器用になれる。

「そういうふうになってるんです」と彼女は言って、フードを脱いだ。「わたしはそういう歯車なんです」
静電気かなんだか知らないけど、彼女の髪はふわふわとしている。
そのまま綿毛みたいに飛んでってしまいそうだ。


彼女は拗ねたみたいな表情で、「そもそも、なんでわたしのパーカーの話をしてるんですか?
わたしのパーカーの話なんてどうでもいいやないですか」と続ける。

たしかにどうでもいい。でも僕は「どうでもいいことなんてない」と言った。
“どうでもいいことなんてない”なんてことはないのに。
「きみがパーカーを着ているということが、僕にとってはとても意味のあることかもしれないだろ」

「わたしがパーカーを着ているということは、あなたにとってどんな意味があるんですか?」と
彼女は律儀に訊ねる。律儀な子だなと思った。僕もそういうふうになりたい。

「ないよ。あるわけないだろ」と僕は答えた。彼女は不満げな表情を浮かべながら僕を睨めつける。
僕はなんだか楽しくなったので、「僕の目がうるおうだけだよ」と付け足した。
たのしい時に嘘を吐くのは嫌いなのだ。

彼女は表情に浮かべた不満の色をさらに濃くした。水色から紺色くらいにまで濃くなった。
ナメクジでも見てるみたいに僕を見る。その辺りで僕は楽しくなくなった。
ナメクジになったような気分になった。塩を投げつけてもらいたい。ちいさくなりたい。


「もう。パーカーの話はどうでもいいんです。わたしはあなたの話が聞きたいんです」と彼女は言った。
ナメクジを見ているような視線は消えていた。

僕は言う。「また“話せ”って言うのか?」

「なんでもいいんですよ。なんでも聞きます」

「そういうのがいちばん困るんだよな。でも仕方ない。話してやろう」
僕は息を大きく吸い込んで言う。「“もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならだな、
まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、
僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デイヴィット・カパーフィールド》式の
くだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな”」

「ライ麦畑でつかまえて」と彼女はつぶやいた。

「つかまえてやるよ」と僕は言った。

「けっこうです」と彼女は間髪入れずに言った。「もういいです」それから立ち上がって、ぺたぺたと歩き始める。


「どこに行くの?」と僕が訊ねると、彼女は「キッチン」と簡素かつ的確な答えを返してくれた。
僕も彼女のそういうところを見習うべきなのかもしれない。伝える努力をするべきなのだろう。
今度は「なんで?」と訊ねる。彼女は「コーヒー」と答えた。

「コーヒーが何なのさ」と僕は言った。

「飲みたいんです」

「カフェイン依存症?」

「ちゃいます。好きやからです」

飲み過ぎじゃないか、と僕は思った。そしたら僕の分のコーヒーも出てきた。
だから飲んだ。飲まないわけにはいかないのだ。コーヒーってそういうものだと思う。


その日の小便はコーヒーの香りがした。なにかの間違いだと思ってもコーヒーの香りだった。
よく分からないけど、そういう日もあるのだろうと僕は僕に言い聞かせる。
現に今日がその日なのだ。今がそのときなのだ。

今日はなんだかろくでもない日になるような気がした。
コーヒーで溺死するとか、そんなことが脳裏をよぎった。
いや、ありえないな。ありえない。


13


窓の外は夕闇に染められていて、ときどき吹く高い声で鳴く風が網戸をかたかたと揺らす。
僕は熱いコーヒーの入ったマグカップを抱えてそれを眺める。いとおかし。

なんだかろくでもない日になるような気がしたけど、実際には何も起こらなかった。
探偵から電話もかかってこないし、お父さんが突然戻ってくることもないし、
誰かが彼女を狙って現れるということもない。でも僕の進む道というのはそういうものなのだ。
いまさら驚愕も落胆も糞も小便もない。

「電話、かかってきませんね」と彼女はなんでもないみたいに言った。

彼女も僕の持っているのと色違いのマグカップを両手で持っている。
だぼだぼのパーカーの袖を鍋掴みみたいに使っている。
パーカーの袖は今朝よりもだぼだぼとしているように見える。
明日にはもっとだぼだぼとしているのかもしれない。ダンボの耳みたいになっているのかもしれない。
それはそれでいいと思う。そういうのが彼女らしさなのだろう。ダンボみたいな感じが。たぶん。

僕はさびさびだけど、彼女はだぼだぼなのだ。もしかすると僕らはお似合いなのかもしれない、と思う。
でも僕の思考回路はたまに都合の良い方向にしか向かわなくなることがあるからあてにはならない。


「今日もここで寝ていいのかな?」と僕は訊ねた。

「べつにいいですよ」と彼女は答えた。「べつにわたしの部屋の前で寝てもいいんですよ?」

「部屋には入れてくれないんだ?」

「レイプとかちょっと怖いですからね」

「ちょっと」と僕は確認するみたいに言った。彼女は黙っている。
僕は続ける。「安心してくれ。そんなことはしない。多分できないと思う」

「その心は?」

「僕がEDだからだ」と僕は言った。女子高校生に何のカミングアウトをしているんだろう。
「EDって分かる?」と訊ねてみる。完全にセクハラである。どうにでもなあれ。


「エレクタイル・ディスファンクション」と彼女は呪文を唱えるみたいに淡々と言った。
さすがは歩く辞書だ、と僕は感心する。ディズニーからエロチックな知識まで、なんでもござれだ。
やっぱり持ち帰りたい。車内に常備しておきたい。

サイコロジカル・ミスディレクションとか、そういう心理がどうとかいう単語と並べても違和感はないけれど
(多少の個人差はある。多分)、エレクタイル・ディスファンクションとは要するに勃起不全である。
インポテンツとかいうやつだ。完全にセクハラである。

「ごめんなさい」と彼女は頭を下げて言った。

「それは僕の台詞だ」と僕は言う。「ごめんなさい」

「たいへんなんですね」と彼女は憐れむように僕を見る。その視線は僕を(精神的に)半殺しにする。
僕のハートは発泡スチロールでできている。
あったかいものや冷たいものとの相性はいいけれど、
へんな角度からちょっと強い力がかかるとぼろぼろなのだ。

「使わない刀が錆びても困ることはないのさ」と僕は言った。
いったい僕は何を言っているんだろう。ナメクジになりたい。

「ほんとうにごめんなさい」と彼女は深く頭を下げた。
それから立ち上がってキッチンに向かった。


14


どういう事なのか、僕は彼女の部屋で眠らせてもらうことになった。

彼女の部屋はこれといった特徴のない部屋だった。
細長くて、壁にくっつけて置かれたベッドがあって、勉強のための机があって、それらの間に本棚が挟まっている。
本棚には古本屋みたいに大量の本とCDがぎっちりと詰まっていた。でも綺麗に整頓されている。
僕は床に敷かれた絨毯の上に寝転びながら毛布に包まって、その本棚を眺める。
他人の本棚を眺めるのはなかなか飽きないものだ。女性の裸体とは違うのだ。たぶん。

「なに見てるんですか?」と彼女はベッドの上で布団に包まりながら言った。
でもまだ寝るつもりはないらしい。電灯は眩しいくらいに煌々としてるし、彼女は眼鏡を掛けたままだ。
それもいいと僕は思う。眼鏡を通して見る彼女の目はビーズみたいできれいなのだ。

「本棚」と僕は正直に答えた。ここで嘘を吐いても仕方がない。

「やめてください」と彼女は言って、電灯を消して豆電球だけを灯した。
「あんまりじろじろと見んといてください。はずかしいです」
本棚は見えなくなる。いや、本棚は見えるのだけど、そこに並べられた本とCDの背表紙が見えなくなる。


「そういえば」と僕は言う。「寝る前にピアノを弾いてくれるんじゃなかったのか?」
僕は切り替えが早いのだ。ブレーカーを上げ下げするのと
同じくらいの速度で気持ちの切り替えができる。今、僕の頭の中のブレーカーは落ちている。

「きょうは止めです。明日の朝にまた弾きます」

「明日は何を聞かせてくれるんだい?」

「秘密です」

「そうか。楽しみだ」と僕は言った。「ところで、きみは眼鏡を掛けたまま寝るのかな?」

「外して寝ますよ」と彼女は言った。「あたりまえやないですか」

「付けたまま寝てほしいな」と僕は言った。

「なんでですか」

「眼鏡を掛けたきみが好きだからだ」と僕は言った。僕はときどき正直になれる。

でもそれを聞いた彼女は5秒くらい固まった後、眼鏡を外した。基本的に僕の進む道は思うようにはいかない。


「なにか言ってくれよ」と僕は言った。

「そんなことはじめて言われました」と彼女は言った。

「僕もはじめて言った」

「なんか」彼女は毛布を引っ張りあげて、口元を隠した。「めっちゃはずかしいです」

「ふうん」と僕は彼女の目を覗きこんで言う。
「でも僕は眼鏡を掛けたきみの顔が好きなんじゃなくて、
眼鏡を掛けて椅子に座っているきみの足を見るのが好きなんだよな」

「はい?」と彼女は訝しむような目線で僕を貫こうとしてくる。ちょっと怖い。


僕は言う。「きみの足は綺麗だ。くるぶしとか、指と爪のかたちとか、色とか、すごくいいと思う。
僕は他人の足を見るのが好きなんだ。足首から下を見るのがね」
特に足の裏がいいのだ。なかなか見ることはできないけど、それがいいのだ。

「完全にセクハラです」と彼女は言う。「ちょっときもちわるいです」

「ちょっと」と僕は確認するみたいに言う。

「足のどこがいいんですか?」

「どこって、普段は靴で隠れてるところとかかな」
つまり足も胸も性器もかわらないのだ、というのは僕の持論である。
足を踏まれるというのはセックスと同意義であると言っても過言ではない――とまでは
さすがに言わないけれど、ふたつの行為はそんなに離れていないのではないかと錯覚してしまうことがある。
そう。僕の頭はときどきおかしくなるのだ。あるいはときどきまともになっているのかもしれない。


「きもちわるいです」と彼女はナメクジを目の当たりにしたみたいな視線を僕にぶつける。
「足フェチってやつですか」

「ざっつらいと」と僕は言った。
「でも安心してくれ。僕には足首を切り落としてそれを並べるなんて猟奇的な趣味はない。視姦だけだ」

「もうそれ以上しゃべらんといてください」と彼女は言った。
「最高にきもちわるいです。ちょっと嫌いになりそうです」

「僕を誰だと思ってるんだ」と僕は言う。

「知りませんよ」と彼女は言った。僕は自他共に認める変態なのだ。

つづく


15


僕は目をひらく。ベッドは空っぽだった。彼女はもう起きているらしい。
時計の針はだいたい6時20分くらいをさしている。日曜日なのに早起きなもんだな、と僕は感心する。
部屋から出た辺りで、ピアノの音が聞こえてきた。ジョン・レノンの「イマジン」だ。
もしかするとオアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」のイントロかもしれない。
まあどちらにせよ朝は始まる。良くも悪くも、生きていると実感する時間だ。

僕は昨日と同じように、ピアノの置かれた部屋に向かった。彼女は眼鏡を掛けてピアノを弾いていた。
僕が「おはよう」と言うと、彼女は眼鏡を外して「おはようございます」と言った。

「なんで眼鏡外しちゃうの?」と僕はちょっと怒って訊ねた。

「だめですか?」

僕はすこし考えてから、「だめだ」と言った。

「分かりました」と彼女は言った。それから眼鏡を掛けてキッチンに向かった。


僕は彼女のあとについて歩いて、リビングに置かれたソファに腰掛けた。
真っ暗なテレビと睨めっこしていると、やがて彼女は湯気の立ち上るマグカップをふたつ持ってきた。
「どうぞ」と彼女は言って、片方のマグカップを僕に差し出してくれた。「ありがとう」と僕は言う。

「電話、いつかかってくるんでしょうね」と彼女はだぼだぼとしたパーカーの袖を
鍋掴みとかミトンみたいにして使い、マグカップを包み込む。

「いずれかかってくるさ」と僕は言ってコーヒーを啜った。熱い。

「日曜日やし、どっか出かけませんか?」と彼女は言う。彼女はわりかし余裕なのだ。

「べつにいいけど」

「ほんまですか? どこ行きます?」

僕は大阪の観光地みたいな場所をぽんぽんと頭に思い浮かべる。
でも僕が行きたいのはそんな人混みの中ではない。そういうものは遠くから眺めるだけで十分だ。
女の子の皮膚の表面を顕微鏡で見ても仕方ないのと同じなのだ。たぶん。


そして僕は一昨日の探偵のことを思い出す。
そう、僕は椅子を買おうと――ではなくて、髪を切ろうと思っていたのだ。
だから僕は「まずは髪を切りにいっていいかな?」と彼女に訊ねた。

「髪ですか?」と彼女は言う。「べつにいいですけど、それからどこ行きます?」

「どこでもいいよ」と僕は言う。「きみが行きたいところへ行こうじゃないか」

「わたしかってべつにどこでもいいからあなたに訊いたんですよ?」

「気が利くね。でも僕に行きたいところは特にないな」

「わたしにもないです」

「でもお出かけしたいんだ?」

「そう。わたしは結果よりも過程をたのしむんです。終点に辿り着くまでの電車内の時間がたのしいんです」


「分かる気がする」と僕は頷いた。「でもまずは目的地がないと話は始まらないんだな」

「そんな感じです。自由すぎたら、何からしたらいいのかが分からなくなるんですよね。
でも目的地があると、そこに向かうまでの道のりは自由ですからね。
それくらいが好きなんです。わたしにはある程度の束縛が必要なんです」

「じゃあ目的地だけを決めておこうか。どこにする?」

「とりあえず床屋にしましょう」と彼女は言う。「そこでまた次の目的地を考えます」

「いいと思うよ」と僕は言った。「僕の旅もそんな感じだからな」


16


9時くらいまでコーヒーを飲んで、僕は車を発進させる。相変わらず空はどんよりとしている。
道も混んでいる。日曜日だから仕方ないのかもしれない。
あるいは僕の進む道だから仕方ないと言えるかもしれない。
まあいずれにせよ混んでいるのだ。その事実は変わらない。

「なかなか進みませんね」彼女は助手席に座りながら、窓の外を眺めている。

なかなか絵になっている、と僕は思う。
彼女はやはり白いパーカーを着ていて、僕の買った赤いマフラーを着けている。
「派手すぎます」と彼女は言っていたが、なんだかんだで気に入ってくれたらしい。

そして僕は彼女の足もとを見る。見ないわけにはいかないのだ。
彼女は長くひらひらとしたスカートを着けていて、もさもさとしたブーツをはいている。
ファーブーツとかいうやつだろうか。僕には縁のないものだ。でもそれがいいのだ。


「でも渋滞は嫌いじゃないです」と彼女は言った。
彼女の声にかぶさるようにスティングは唄う。
「モーニング・グローリー」を持って来るべきだった、と僕は思う。そして僕は渋滞が嫌いだ。

「何か唄ってくれよ」と僕は言った。「“じこはおこるさ”以外の曲をお願いするよ」

「しょうがないですね」と彼女は嬉しげに言った。
喉の調子を確かめるみたいに咳き込んで、彼女はビートルズの「ブラックバード」を唄い始める。
「どうしてブラックバード?」と僕は訊ねると、「なんとなくです」と彼女は言った。
なんとなく視界に入り込んできた電線に、数羽のカラスが止まっているのが見えた。
ブラックバードねえ。それはどうだろう。

僕はなんとなく彼女に対抗してやろうと思って、ジーン・オースティンの「バイ・バイ・ブラックバード」を
ポール・マッカートニーのカヴァー・ヴァージョンっぽく唄った。我ながら上出来だと思った。
彼女もそう思ったのかなんなのかは知らないけど、唄うのを止めた。


「唄うのやめちゃうの?」と僕は訊ねた。

「え? 唄うのやめろってこととちゃうんですか?」と彼女は質問に質問を返してきた。「バイバイって」

「深い意味はないよ。ただ僕も唄いたくなっただけだよ」

「じゃあ続き唄ってくださいよ」と彼女は言った。
僕は楽しくなってそのまま唄った。後ろの車にクラクションを鳴らされるまで気持ちよく唄っていた。


17


床屋で髪を切り終わる頃には、時刻は正午になりかけていた。

頭はミントガムを噛んだあとの口内みたいに涼しい。僕はそれが苦手だ。
ハゲとかそういうのではなくて、とにかく苦手なのだ。だから髪を切るのはあまり好きではない。
でも生きていると髪を切らなければならない時がある。それが今なのだ。

僕はオグニさんの待っている車に戻る。彼女は助手席に座りながら半分くらい寝てた。
瞼なんかほとんど閉じているし、首の据わってない赤ちゃんみたいに緩いヘッドバンドをしていた。
とりあえず僕はヒーターを付けて、寝顔でも眺めながら彼女が起きるまで待つとしようと思った。

でも彼女はすぐに起きた。彼女はあくびを吐いてから僕を見て、
「その髪型、あんまし似合ってないですね」と言った。

「そうか」と僕は言った。「そうか」と僕はもう一度言った。


「そんなおもろい顔せんといてくださいよ」と彼女は笑いながら言った。

「生まれつきだ」と僕は言う。「それで、次はどこに行くんだ?」

「電器屋に行きたいです」と彼女は言った。

「どうして電器屋?」

「イヤホンが断線したんです。これやったら“4分33秒”しか聞けませんよ」

「なるほど」と僕は言った。「どこの電器屋に行くの?」

「おーさかうーめだのえっきのーまえー」と彼女は唄った。「うーめだのよーどばーしかーめーらー」

「なるほど」と僕は言った。梅田駅前のヨドバシカメラに行きたいと、そういうわけか。
めんどくさい。遠いのだ。めんどくさいから僕はコジマに向かうことにした。

つづく


18


「電器屋って、デートとかで行く場所ではないよね」と僕は言った。

「デートとちゃいますし、べつに何でもいいんとちゃいますか?」と彼女は言った。

「デートじゃないのなら、これは何なんだろう?」

「分からんけど、デートやないのは確かです」

「簡単に確定させるのはいいことではない。デートとは何か、
というところから話を始めるべきじゃないか? デートの定義を決めてから話すべきだ」

「デートの定義。恋愛関係にある男女がいっしょに外で行動すること、とかですかね?」


「でも家デートとかいう言葉があるんだろ? それっておかしくないかな?」

「“恋愛関係にある男女が、一定時間いっしょに外で行動すること”を
デートの定義にした場合、家デートという言葉はおかしいということになりますね」

「“恋愛関係にある男女がいっしょに行動すること”を
定義にすれば家デートという言葉に違和感を覚える事はなくなる」

「それやったら、同じ学校に通っている恋愛関係にある男女が
いっしょに下校した場合でもデートになるんですかね? 毎日デートとちゃいますか?」

「“恋愛関係にある男女がいっしょに行動すること”を定義にした場合はね」

「でもそれはなんかもやもやします」


「“恋愛関係にある男女が、ある程度の時間をいっしょに行動すること”をデートの定義にする」

「ある程度の時間って、どの程度の時間ですか?」

「3時間以上とかかな」

「恋愛関係にある男女が2時間59分間をいっしょに行動した場合は、デートとちゃうんですか?」

「“恋愛関係にある男女が、3時間以上の時間をいっしょに行動すること”を定義にした場合はね」

「なんか納得いかないです」


「そもそも、恋愛関係ってどういう関係なんだ?」

「ある一組の男女がお互いに愛し合っている状態とかですかね?」

「それだったらゲイやレズは恋愛できない事になってしまう」

「ふたつの生物がお互いに愛し合っている状態」

「よし。それで行こう。いや、でもそれだったら、“恋愛関係にある男女が、
3時間以上の時間をいっしょに行動すること”というデートの定義はおかしくないかな。
お互いに愛し合っている状態にあるホモセクシャルが
3時間以上の時間をいっしょに行動することはデートではないのかな」

「お互いに愛し合っている状態にあるふたつの生物が、3時間以上の時間をいっしょに行動すること」

僕は頷く。「ふと思ったんだけどさ、人間とナメクジの間にも愛し合っている状態というのは成立するのかな」

「ナメクジの考えてることが分かったら成立するんとちゃいますか?」

「お互いに愛し合っているナメクジと人間が3時間以上の時間をいっしょに行動した場合、それはデートになるのかな」

「なるんでしょうね」


「愛にもいろんなかたちがあるんだな」

「そもそも愛って何なんですかね?」と彼女は訊ねる。

「きみが愛だと思ったものは愛だ」と僕は言った。「受け取る側が愛だと感じたらそれは愛だ」

「その理屈が通るんやったら、あなたが“これはデートや”と思ったらそれはデートなんですかね?」

「そうだな」と僕は言う。「つまり僕は今きみとデートしているということになる」

「それはちゃいます。わたしはこれをデートだとは思ってません」

「デートじゃないのなら、これは何なんだろう?」


「この話やめにしませんか? デートがゲシュタルト崩壊寸前ですよ」

「そうだね」と僕は言う。「無関係のひとから見たら、僕らはいったいどういう関係に見えるんだろう」

「さあ。援助交際とかとちゃいますか?」

「でも違うんだよな。むずかしいね」

「むずかしいですね」と彼女は言った。


19


デートがどうだとか、この世で最もどうでもいいような話は続く。
ゴキブリは害虫か否か、という話くらいどうでもいい。

べつにゴキブリが害虫じゃなくても、彼らは冷蔵庫の裏からかさかさと這い出てくるのだ。
それを見て不快感を覚えるものは少なくはないはずだ。
そしてそのなかの一定数がゴキブリが不快なので殺すというはずだ。

僕だってそうだ。ゴキブリは害虫ではない、といってもきっとゴキブリは殺される運命にあるのだ。
殺すものがいれば殺されるものがいて、殺すものが僕で殺されるのがゴキブリであるというだけの話なのだ。
定義とはさほど重要なものではないのかもしれない。結局は自分の感覚なのだ。

そしてそんな話はこの世で最もどうでもいいことのうちのひとつなのである。


デートとゴキブリの話が終わると、僕らは黙りこむ。黙りこんでも車内に完全な静寂がおとずれることはない。
そもそも完全な静寂を体感できるのは音が聞こえないひとだけではないのか、というのはどうでもいい。
僕とオグニさんの間に広がる沈黙を埋めるためかなんだか知らないけれど、
エンジンはうるさく稼働して、エアコンはあったかい風を吐いて、スティングは唄う。

そして彼女も「かーま」と唄い始める。

「かーま?」と僕は復唱する。

彼女はフロントガラスの向こうを指さして、「ぽーりーす」と唄った。

僕は彼女が指をさしている方に目を向ける。電柱の裏に警官が見えた。ねずみ捕りだ。
ここらの制限速度は40キロ以下だったか? でも僕は60キロは出している。
僕は何かに夢中になると、周囲が見えなくなることがある。でもそれはめずらしいことだ。


20キロくらいいいじゃないか、というわけにはいかないのだろう。僕は露骨にスピードを緩める。
電柱の裏の警官の隣を通り過ぎるとき、彼女は僕を指さして、「あれすとでぃすまーん」と唄った。
レディオヘッドの「カーマ・ポリス」だ。

「なんであんなとこにおるんでしょうね?」と彼女は訊ねる。

「点数がほしいからだろ」と僕はすこしふくれて言う。

「ふうん。もっと見えやすいとこにおったら、みんなスピード緩めますのにね?」

「防止よりも処理のほうが“自分は仕事をしている”って実感を伴うんじゃないかな」と僕は言う。
「彼らは殺人が起きるのを見守ってから犯人を捕まえるのが好きなんだよ。たぶん」

「そんなことないでしょうに。八つ当たりはだめですよ」と彼女は言った。
エロチックな知識は持っていても、彼女は純粋なのかもしれない、と僕は思った。
そして僕の苛々はすこし和らぐ。


20


僕らはコジマに入る。おなじみの曲が鼓膜を揺する。彼女は不平不満を言うことなく、僕の隣を歩いている。
彼女はいい子なのだ。いつもにこにこしているし、綺麗な足を持っている(それはとても重要な事だ)。
でもこの土地に流れている空気に溶け込むために薄っぺらい笑みを浮かべたりしているみたいにも見える。
僕の目はときどき物事を都合のいいように捉えてしまう。あるいは悪いように捉える。そういう癖がある。

彼女はうろちょろと店内を彷徨うみたいに数十分歩いてからイヤホンの並んでいるコーナーに向かった。
どうしてまっすぐそこへ向かわないのかが不思議だったけど、僕もそれなりに楽しめたので良しとする。
僕はあまりじろじろと関係のないものを見ていると、それが欲しくなってしまうのだ。

だから僕はカメラを見た時、カメラがほしいとかなんとなく思った。べつに何かを写真として焼き付けておきたいとか
そういうわけではなくて、ただカメラが欲しくなった。そういうことはあると思う。
でも僕は買わなかった。それはしかたのない事だ。


イヤホンの並んでいる辺りにたどり着くと、オグニさんは
試聴できるイヤホンを片っ端から手持ちのウォークマンに挿しこんだ。
その光景はどこか楽しげに見えた。僕の目はおかしいのだろうか。
それともイヤホンをぐさぐさとウォークマンにぶち込むのはそんなにたのしいのだろうか。
僕も彼女からポータブルCDプレイヤーを借りていつかやってみよう、と思った。

僕はすこし距離を置いて、オグニさんの背中をストーカーみたいに眺める。
ちいさいなあ、と思った。なんだかよく分からないけどくすぐってやりたくなる小ささだ(完全にセクハラである)。

しばらくするとオグニさんは身体をびくりと震わせて、そのまま動かなくなった。
どうしたんだろう。運命の相手(イヤホン)を見つけたのかな。おめでとうって拍手を送るべきなのかもしれない。
僕はいろいろ考えながら彼女に近づく。肩に手を置いて、「どうしたの?」と訊ねる。

彼女はゆっくりと振り返って、僕の顔を見る。僕も彼女の顔を見る。
世界の終わりを目の当たりにしたような表情をしながら彼女は「電話がかかってきました」と言った。


「だったら早く出なよ」と僕は言った。

「ちょ、ちょっと待って下さい」と彼女は言う。「これあれですよ。アカンやつです」

「僕にも分かるように言っておくれ」

「あのですね、わたし、電話ってものすごい苦手なんですよ」と彼女は早口で言う。
「電話に出る時、わたしには“いまから電話を通して誰かと会話をする”って心構えが要るんです。分かってくれます?」

「わからないです」と僕は言った。わからないものは仕方ないのだ。

彼女はため息を吐いて続ける。
「でも、電話のコールって短いから、わたしが万全を期して通話に臨むことはほとんどないんですよ。
でも早めに出ないとだめなわけですよ。なんでって、これは電話なんですからね。仕方ないんです。
これは電話の致命的欠陥です。電話って欠陥が多すぎますよね。そう思いません?
はあ。なうあいにーどもあたいむです。あーいじゃすにーどもーたーああーいむ」

「早く出ないと電話切れちゃうよ」と僕は言った。


「で、出てください」彼女は僕に携帯電話を差し出した。僕はそれを受け取って「もしもし」と言う。
それから通話ボタンを押していないことに気付いて押す。はずかしい。電話を使うのは久しぶりだったのだ。

「もしもし」と僕はもう一度言った。

電話の向こうで「もしもし?」と低い声が鳴る。「あれ? お嬢ちゃんとちゃいますね?」

「そうなんです。実はあの子、電話恐怖症だったもんで」と僕は言う。
電話の相手はたぶん探偵だ。彼は笑っている。

僕は続ける。「ちなみに僕はあの子といっしょにあなたの探偵事務所を訪れたおっさんです」
そう。僕はおっさんなのだ。まずはそれを受け入れるべきのだ。
それから洋画の主人公みたいなおっさんになりたいとか思うわけである。
これは僕が煙草と酒をやめない理由のひとつである。
渋いおっさんにはこのふたつは不可欠なのであるというのは僕の持論だ。


「お父さんとちゃうんですか?」と探偵は訊ねる。

「違います。恋人みたいなものです」と僕は言った。僕は平気で嘘を吐くことができる。
それに僕が彼女のお父さんだとしたら、彼女は僕が14とか15の時の子になってしまう。
阿呆か。それとも僕はそんなに老け顔なのだろうか?

「そうですか」と探偵は言った。「まあいろんな愛のかたちがありますからね。詮索はしません」

「それで、何の用ですか?」と僕は訊ねる。
どう考えても車のナンバーについての事だろうと思ったけど訊ねた。仕方ないのだ。

探偵は答える。「ああ、はい、そうですね。ええと、車の事はだいたい調べ終わったんですけどね」

「けど?」と僕は訊ねると、探偵はすこし間を空けてから「まあ、詳しいことはこっちで話します」と言った。
「そういうわけでお手数ですが、いまからでもこっちに来てくれませんか?」

「分かりました。なるべく早くそっちに行きます」と僕は言った。

「うん。ほんなら待ってますね」探偵はそう言い残して、電話は切れた。


なんというか、ものすごく業務的に感じられるやりとりだった、と僕は思った。
それもその筈で、相手は探偵なのだ。彼にとってみればこれは仕事なのだ。

僕はオグニさんに携帯電話を返す。彼女は困ったような顔をしてそれを受け取る。
果たして電話恐怖症の彼女に携帯電話が必要なのかは分からないけど、返さないわけにはいかない。
ひとのものを盗ったら泥棒という事は、30人の小学生がいれば
そのなかの27人くらいは理解できているような常識なのだ。僕はその27人のうちのひとりだ。かろうじて。

「電話、誰やったんですか?」とオグニさんは訊ねる。

「探偵」と僕は答える。「車のこと、調べ終わったみたいだ。それでいまから事務所に来てくれってさ」

「そうですか」

「じゃあ早くいこうか」と僕は言ったけど、彼女は「ちょ、ちょっと待ってください」と言った。


「どうしたの?」と僕は訊ねる。

彼女は頬をかきながら舌をちょっとだけ突き出して言う。「イヤホン選んでからでいいですか?」

「余裕だね?」と僕はちょっとびっくりして言った。彼女は僕が思っている以上に余裕なのだ。
あるいは“お父さんなら大丈夫。わたし、信じてる!”みたいな根拠もない思考があるのかもしれない。

かわいそうなお父さん、と僕は思う。でもお父さんとは8割くらいがそういういきものなのだ。
僕はお父さんじゃなくて、できることならお母さんになりたいなあとか思った。


21


オグニさんは30分くらいかけてイヤホンをひとつ買った。8000円くらいのやつだ。
どうしてイヤホンに8000円もかけるのだろう、と僕は思う。イヤホンなんて7000円で十分なのだ。

ほくほくした顔のオグニさんを助手席に乗せて、僕は探偵事務所のある天王寺駅に向かおうとした。
でも時刻は13時だし、僕らはまだ昼食をとっていない。
だからまずは腹ごしらえをするためにそこらの定食屋で蕎麦をすすった。
立ち上る湯気でオグニさんの眼鏡が曇って、随分と食べにくそうだったというのはどうでもいいことのひとつだ。

定食屋を出て、今度こそ僕らは天王寺駅に向かった。
駅前の交差点に差し掛かる頃には、時刻は14時になろうとしていた。天王寺駅は相変わらずの混み具合だ。
平日でも混雑しているのに、休日となるとなおさらだ。
でもそんなことはどうでもいいのだ。僕らは駅に立ち入るような用はないのだから。


そこらに車を置いて、オグニさんといっしょにのっぺりとしたビルに
足を踏み入れ、吸い寄せられるみたいにエレベーターに入る。
僕はエレベーターという密室に充満しているなんともいえない空気が嫌いなのだが、乗らないわけにはいかない。
エレベーターとはそういうものだと思う。甘いお菓子といっしょなのだ。

べつになくても大丈夫だけど、あるに越したことはないのだ。
赤い輪ゴムとか度の入っていない眼鏡とかみたいに、なぜ存在しているのかが分からないようなものとは違って、
エレベーターはありがたい存在なのである。すくなくとも僕にとってはそういう存在だ。


典型的なオフィスデスクとうるさく回る椅子とキャビネットと花瓶とそこにぶち込まれた花と掛けられたコート。
僕はエレベーターのなかでそんな部屋を思い出す。
でも肝心の探偵の顔がいまいち思い出せない。僕はひとの顔を覚えるのが苦手なのだ。

エレベーターは機械的な女声で「5階です」と言った。言われなくてもそんなことは分かっているのだ。
『きみにはもっとすべきことがあるはずだ。速度をあげるとかあるだろう?』と
僕は内心でエレベーターに語りかけるが、答えるものはもちろん誰もいない。

僕とオグニさんはエレベーターを出て、事務所のドアを軽く叩いた。
小気味いい音が鳴る。僕はその音が気に入ったから、近いうちにドアを買おうと思った。
それは仕方のない事なのだ。


22


「あ、どうも。待ってましたよ」と探偵は言った。「どうぞ。そこのソファにでも座っといてください」

僕とオグニさんは長いソファに腰掛ける。ふたりの間には微妙な距離がある。
具体的に言うと目測で22センチくらいだ。僕と彼女の間にはだいたい22センチの距離がある。
それが広いのか狭いのかは分からないけど、とにかく22センチなのだ。そこに深い意味はないのかもしれない。

僕はソファに触れながら、こんなソファあっただろうかと回想するけど、思い出すことはできない。
たぶんあったのだろう。目の前には細長いガラスのテーブルが置かれているけど、これも前からあったのだろう。
僕の記憶力は皆無に近いと言っても過言ではない。

探偵は僕らにコーヒーを差し出してくれた。そして向かいのソファに腰掛ける。
正直に言うと僕は「またコーヒーか」とか思ってしまったわけだが、黙っておくことにした。
“大事なのは車のナンバー”。僕は僕に言い聞かせる。
小便からコーヒーの匂いがするからコーヒーはノーセンキューとか、そんなことはどうでもいいのだ。


「それで、車については何が分かったんですか?」と僕は早速訊ねた。

探偵は言う。「まあまあ、そんなに急かさんといてくださいよ。……ええと、名前、何ていうんでしたっけ?」

「アオガメです」と僕は名乗った。偽名だ。青い亀と書いてアオガメである。僕はこの名前が気に入っている。

自分が貰った最初の贈り物である名前を捨てるというのは一度死ぬのと同意義であり、
新しい名前を自分に付けることで僕はもう一度ゼロからスタートできる、みたいな考えが僕にはあった。
中学生みたいだ、と僕は思う。僕は自分のそういうところも気に入っている。
しかし結局のところ、名前を捨てるだけじゃ何もかわらないのだ。そんなことは分かっていた。
でも捨てないわけにはいかないのだ。あんなもの、僕なんかには勿体無いのだ。

「アオガメさん、それにオグニさん」と探偵は言う。「なんであの車を追いかけてるんですか?」

僕とオグニさんは顔を見合わせる。彼女は助けを求めるような目で僕を見るので、
僕はため息を吐いてから、「彼女のお父さんが誘拐されたんです」と簡単な説明をする。
「彼女のお父さんは何かすごい発明をしたらしくて、それが狙われたんだってさ」
自分で言っておいてなんだが、阿呆みたいだ。


しかし、「警察に電話してないんですか?」と探偵は驚いたように言った。

僕は驚いた。こいつ、これっぽっちも疑いやしないぞ。ほんとうに大丈夫なのか?
「……警察に電話したらお父さんを殺すって彼女は言われたらしいですよ」
僕がオグニさんに視線を送ると、彼女はちいさく頷いた。

「そうですか……。でも、それで正解かもしれませんね」

「どうしてそう思うんですか?」と僕は訊ねる。

「あなた達が追っかけてる車、やくざとかそういうやつなんですよ。
映画っぽく言うとテロリストとか、そんな感じですかね」と探偵は言った。
なぜ映画っぽく言ったのだろうとか、そんなことはどうでもいいのだ。
それに、べつにテロリストは映画の用語でもなんでもない。映画っぽい要素をどこに感じればいいのだろう。

「やくざ」と僕は反復する。


「そう。“やくざみたいなもん”です」と探偵は頭をぼりぼりとかきながら言った。
「警察だって抱え込んでるかもしれないような、それくらいでかいやつです」

「じゃあ、どないしたらいいんですか?」とオグニさんは言った。「お父さん、どうなるんですか?」

僕と探偵は黙りこむ。窓の外の喧騒が、べつの世界の音みたいに聞こえる。
彼らはお父さんがどうとか、やくざがどうとか、そんなことはいっさい知らないのだ。
でもそれは幸せなことなのだ。無知とは罪であり幸福であるのだ。たぶん。僕は本来、幸せであるべきなのだ。

長い沈黙を破るみたいに、「分かりました」と探偵は言った。僕とオグニさんは顔を上げて彼を見る。
彼は真剣な眼差しで僕とオグニさんを交互に見ながら、「私がなんとかします」と続けた。

「え?」と僕はちょっとびっくりして言った。「なんとかするって、どうやって?」

「私に任せてください。こう見えても私ね、浪速のスティーヴン・セガールとか呼ばれてたんですよ」

「シャーロック・ホームズとかじゃなくてスティーヴン・セガールなんだ?」と僕はちょっとびっくりして言った。
となると探偵の彼は合気道七段の腕前を持っていて、単身でテロリスト共を壊滅させたりするのだろうか。
それは頼もしい。「それで、お父さんを助けだすための具体案みたいなものはあるの?」


「まあまあ、そんな急かさんといてくださいよ」と探偵は言った。
オグニさんのお父さんはかわいそうなひとだ、と僕は非常に同情した。かわいそうなお父さん。
探偵は続ける。「そいつらの隠れ処はね、堺にあるんですよ」

あるんですよ、とか言われても僕には堺がどこなのかが分からないのだ。
僕は地元の人間ではない。でもそんな事はどうでもいいのだ。だから僕は「それで?」と先を促す。

「堺のそれなりに賑わってるとこにどでかいビルがあってですね、
そのビルまるごとひとつがそいつらの隠れ処なんです」

「すごい」と僕は言った。すごい。「それで?」

「お父さんはそこにおると思うんですよね」

「なるほど」それが妥当である。「それで?」


「それで、お父さんを助け出す具体案ですけど、私が適当に騒ぎを起こすんで、
その間にアオガメさんがビルに忍び込んでお父さんを探すってのはどうでしょう?」

「僕も行くんだ?」と僕はちょっとびっくりして言った。
それに、その案はさほど具体的ではない気がする。彼の案と具体案には水と紅茶くらいの差がある。
僕は続ける。「セガールひとりで十分だと思うんだけど」

「私とセガールはペプシコーラとコカ・コーラくらいちゃいますよ」

「あんまり違いが分からないんだけど」

「セガールにはちょっと劣るってことです」

「つまりペプシコーラはコカ・コーラと比べるとちょっと劣っていると言いたいのかな?」

「そういうことですね」

「それはどうだろう」と僕は言った。
「好みの問題もあるし、コカ・コーラのほうが優れていると一概には言えないんじゃないかな」

「そんな事はどうでもいいんです」とオグニさんは言った。そう。そんなことはどうでもいいのだ。
彼女は僕の顔を見て続ける。「お願いします、アオガメさん。助けてください」

そうなると僕は断ることができなくなってしまう。僕は笹舟みたいに流されやすいのだから。


23


なぜか堺のビルまでは僕の車に乗って行くことになった。
運転席に僕が座って、助手席にオグニさん、後部座席に浪速のセガールが座っている。
カオスである。でもエンジンもいつもどおりの稼働音を響かせているし、スティングもいつもどおりだ。

「スティングですか」と探偵はスピーカーから流れる、“マッド・アバウト・ユー”に耳を傾けながら言う。
「アオガメさんにぴったりやないですか」

「だろう?」と僕はちょっと自慢げに言った。

するとオグニさんが小さく吹き出して、「どこがですか?」と言った。失礼な娘である。

「“アオガメ”って名前ですよ」と探偵は言った。
彼は僕の言いたいことを的確に言ってくれた。やるじゃないか、と僕は思う。

「どういうことですか?」とオグニさんは訊ねる。

探偵は答える。「“ブルー・タートルの夢”っていうアルバムがあるんですよ。ね?」

「そう」と僕は言った。“ブルー・タートルの夢”はスティングのソロでの最初のアルバムだ。

「へえ」とオグニさんは言った。


「ポリスは聞かないんですか?」と探偵は言った。

「きょうはポリスって気分じゃないんだ」と僕は言った。
たとえスティングの居たポリスだろうと、カーマ・ポリスだろうとアクロポリスだろうと
ポリスチレンだろうと、きょうはもうポリスという単語を聞きたくないのだ。きょうはそういう日なのだ。

「そうですか」と探偵は言う。「ところでアオガメさんはどこのひとなんですか? 関西のひととちゃいますよね?」

「そう。東京のひとだ」と僕は言う。「東京のジェームズ・ボンドだ」

「じゃあオグニさんがボンドガール?」

「そういうことになるね」

「ううん」と探偵は唸った。「ううん……」


「なんなんですか。何が不満なんですか」とオグニさんは怖い声で言った。

「なんといいますか、ハードボイルドさが不足しているというか」

「わたしはハードボイルドですよ」

「いやあ、サニーサイドアップくらいとちゃいますか?」と探偵は笑った。

オグニさんは黙っている。怒っているのかなんなのかは分からないけど、とにかく黙っている。
僕は彼女の顔をこっそりと窺い見る。怒っているというよりは、拗ねているみたいに見える。
でもオグニさんがハードボイルドではないというのは確かなことだ。探偵の彼の言うように、彼女は
ハードボイルドというよりはサニーサイドアップなのだ。でも僕はサニーサイドアップが好きなのだ。
ターンオーバーよりもハードボイルドよりも、僕はサニーサイドアップが好きなのだ。そこだけは譲れないのである。

だから僕は、「僕は好きだよ。サニーサイドアップ」と言った。

するとオグニさんはこっちを見て、弱々しく微笑んだ。「卵の話ですか?」

「卵もオグニさんも、サニーサイドがいちばんだ」と僕は言った。
僕は片面を焼いた目玉焼きが好きで、彼女には陽の当たる場所にいてもらいたいわけである。


24


探偵の言っていたように、そのどでかいビルは堺市のそれなりに賑わっている区画にあった。
そこを一度通りすぎてからそのビルからさほど離れていない位置に車を停めて、僕と探偵は車を出た。
肺を凍らせるような空気とどんよりとした曇り空は相変わらずだ。クリスマスとやらが近いのに。

「わたしはどうすればいいんですか?」とオグニさんは訊ねる。

「ここで待ってるか、どこかに隠れてるか、どっちがいいかな?」と僕は探偵に訊ねる。

探偵は答える。「隠れてるほうがええかもわかりませんね。なんかあったら今度こそは拙いですよ」

「だよな」

「オグニさんは天王寺駅辺りで待っといたほうがええかもわかりませんね」

「今からまた僕の車で送り届けるの?」だったら最初からそうしていればよかったのに、と僕は思う。

「いいです」とオグニさんは言う。「ここで待ってますから」

「だってさ」と僕。「やれやれ」と探偵は言った。なんだこいつ。


僕と探偵は煙草に火をつけて、コートに包まるように歩く。
ひとの命がかかっているというのに、僕らは律儀に横断歩道の信号が青になるのを待つ。
ボンドとセガールは仲良く凍えそうになりながら信号待ちをしている。
こうしている間にも彼女のお父さんは良からぬ事態に陥っているのだ。かわいそうなお父さん。

信号は青くなる。僕と探偵は白い煙を吐き出して歩き出す。
あとふたり居れば「アビイ・ロード」ごっこができたのに、とか思った。
誰が裸足になるのかは知らないけど、そのひとは気の毒だとも思った。

僕らはビルのちょっと手前(200メートルくらい手前)で立ち止まる。
今からここに入るというのが、なんだか他人事のように思える。
ボンドとセガールの夢の共演が始まるというのに、これっぽっちもわくわくしない。
“沈黙のカジノロワイヤル”とか“暴走特急より愛をこめて”とか、そんな映画を見に行くみたいな気分だ。
それはどうだろう。とにかく僕が二度死なないのを祈るばかりである。


25


「ほんま、寒うて凍ててまうわ」

「早ういんで飲みに行きたいわ。のう?」

「ほんまになあ。終わっとるでこんなん」

「何語?」と僕はビルからちょっと離れたところにある電柱の陰に身を隠しながら言った。
どでかいビルの前にはガードマンの役割を押し付けられたと見られるふたりの男が立っている。
べつにかわいそうだとかは思わない。僕は徹底的に非情になりきれることがある。

「日本語ですね」と探偵は言った。

「なんて言ってるの?」

「『マジで寒すぎて凍っちまいそうだぜ』。『早く帰って酒を飲みに行きたいよ。お前もそう思うだろう』。
『そうだなあ。クソみてえだ、こんなの』」探偵は台本を読み上げる映画の吹き替え声優みたいに言った。
「こんな感じですかね」

「映画みたいだ」と僕は言った。「それで、どうやってビルに入ればいいんだ?」


探偵は言う。「私が正面からどかーんと突撃しますから、その隙にアオガメさんは
裏口か非常階段からささっとなかに入り込んでください」

「分かりにくいようで分かりやすい説明だ」と僕は言った。

分かりやすいのは好きだけど、分かりやすいというのはつまり複雑ではないということだ。当たり前だ。
僕らは綿密な計画とかに沿ってお父さんを助け出すわけではなく、
一か八かの一発勝負みたいな事をしようとしているのだ。
それは練習を重ねて舞台に臨むのと、ぶっつけ本番で舞台に臨むくらい違う。
失敗すると考えて臨むのと同じなのだ。でも行かなくてはならない時がある。それが今なのだ。

「じゃあいってきます」と探偵は言って歩き始める。

ゆっくりと遠ざかる背中に僕は「ブレイク・ア・レッグ」と声を掛けて、ビルの裏側に回り込んだ。


26


僕の脳内ではピンクパンサーのテーマが鳴っている。それは仕方のない事だ。
ファイナルファンタジーにメインテーマがあるのと同じくらい仕方のない事なのだ。
でも僕はピンクパンサーではない。当たり前だ。

探偵の彼がうまいことやってくれるのを祈りつつ、僕はビルの脇に付けられた非常階段を上がる。
13段くらい上ったところにドアがあった。でも開かなかった。中から施錠されているらしい。
仕方なく僕はまた階段を上る。そしてまたドアを見つける。でもやっぱり開かない。
それを3回くらい繰り返した。

そして4階だか5階だかに辿り着いた僕は、飽きもせずにドアノブを捻る。そこでようやくドアは開いた。
僕はドアに身を隠すようにして、ゆっくりと屋内を覗き込む。
誰かが見えた。どちらかというと痩せ型の男だった。ばっちり目が合った。
どちらかというと痩せ型の彼は目を真ん丸にした後に舌打ちをして、こちらに向かって歩いてきた。


僕はほとんど反射的に振り返って逃げ出した。
でも彼は僕の背後で「誰やお前!」という怒号を吐いて走り出した。
もっともな意見である。僕は誰なのだろう?

そんな哲学的な事を考えながら走っていると脚がもつれてしまいそうなので、
僕は何も考えないことにした。ただ階段を駆け下りた。

「待てや、われぇ!」と男は怒鳴る。僕はちょっと振り返って彼の顔を窺い見る。
鬼のような形相、という言葉がとても似合う顔だと思って、僕は脚をはやく動かす。
「われぇ!」だなんて怒鳴る輩がほんとうに存在したのだ。
ニホンオオカミにでも出会ったような気分である。


2階くらい下りたところで、僕の脚はもつれた。それは当然のように起こった。
朝が来るみたいに僕の脚はもつれた。壮大な脚のもつれだった。
神様はここで僕の脚がもつれるべきだと判断したのだ。
波動関数の収束がどうとかカオス理論がどうとかバタフライ・エフェクトがどうとか
そんな事は関係なくて、僕の脚はここでもつれる運命だったのだ。
そして夜が明けて朝が来るのと同じように、僕が走ることで僕の脚はもつれるのだ。
でもやっぱりそれは仕方のない事なのだ。

脚がもつれたことにより、僕は体勢を崩して階段を転がり落ちる。それも仕方ない。
順行する時間のなかを生きている僕は、起こったことには従うしかないのだ。
身体のあちこちが痛い。それも仕方ない。
そして僕は追ってきていた男に捕まる。それも仕方ない。
僕は頭を殴られて、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。それは仕方無くない。
でも僕の進む道とはそういうふうになっているのだ。もしかすると、これも仕方ないことなのかもしれない。


27


気がついたら僕は真っ白な部屋に置かれた真っ白なソファに座っている。
ソファ以外には窓もドアない立方体の部屋だ。部屋というよりは箱に入っているような感じだ。

僕の右耳にはイヤホンが挿し込まれていて、そこからはノイズが聞こえる。
チューニングの合っていないラジオみたいな音だ。ときどきノイズに混じってピアノの音が聞こえる。
何かの曲が再生されているらしいけど、僕には何も分からなかった。

僕は右隣を見る。そこには真っ白なパーカーと真っ白なスカートを着けたオグニさんが座っている。
というよりは真っ白なワンピースの上に真っ白なパーカーを羽織っているという感じだ。
まあどちらにせよ白であることには変わりはない。

彼女の左耳にはイヤホンが挿し込まれていて、それは僕と彼女の間に置かれた
真っ白なポータブルCDプレイヤーに繋がっている。イヤホンも真っ白だ。
僕の目はおかしくなったのかと思ったけれど、オグニさんの眼鏡の縁は赤いし、髪は黒いし、
肌は肌の色をしているので、この部屋がおかしいのだという結論に僕は辿り着いた。


僕は彼女に訊ねたいことがたくさんあったわけだけど、何も言わずにイヤホンからあふれるノイズに耳を傾けた。
それは不思議なことに心地よかった。非現実のなかの現実は輝いているのかもしれない、と僕は思う。
“現実”というのがたとえ汚いノイズであってもだ。それは僕に生きているという実感をくれて、
“現実”と繋がっているということを感じさせてくれる――とか思ったところで僕はそれが間違いであることに気付く。

心地良いことに違いはないのだけれど、それはノイズのおかげではなかった。
それはたぶんオグニさんが隣にいるからなのだ。隣にはひとのぬくもりがある。
結局のところ、僕は人肌が恋しかったのだ。たぶん。

オグニさんという歯車と噛み合っているわけではないけど、隣に居てくれているだけで僕は気分がよかった。
彼女は歯のない歯車なのだ。誰ともうまくかみ合わず、でも回転することで誰かを大きく傷つけることはない。

僕は歪なかたちの歯車だ。おかしな歯車なのだ。
でも高速で回転することで、彼女と同じように丸く見せることができる。
僕の歯車は止まっているように見えるほど高速で回り続けている。
おかしな歯車は高速で回り続ける。必死で自分が“まだここにいるというの”を伝えたいのだ。
僕はそれ以外に存在証明の方法を知らない馬鹿やろうなのだ。


オグニさんは目を閉じてイヤホンからあふれる音に耳を傾けている。
彼女の方からはノイズ以外の何かが聞こえているのだろうか? と僕は思ったけど、
べつに彼女のイヤホンを奪ってまで聞いてやろうとは思わなかった。
イヤホンを奪うことで今の彼女が失われてしまうというのは、僕にとっては耐え難い事態なのだ。
朝日や夕陽や雨や虹が失われてしまうのと同じことなのだ。

僕はオグニさんの横顔を眺める。彼女は目を閉じて、口元に笑みを浮かべている。
“喋ってはいけない”。僕は自分に言い聞かせる。
きっと僕が喋ることでオグニさんは目を開き、口元の笑みを消してしまう。それはだめなのだ。
すこし手を伸ばせば彼女に触れることができるけど、それもだめだ。

あくまで今の彼女は僕の夢であり、“手の届かないもの”なのだ。
それに触れることはシャボン玉を潰すのと同じことで、
もう一度いまの彼女を完全に再現するのは不可能と言ってもいい。
時間は流れている。時間は走り去っていくのだ。とても早く、僕らをどこかへ運んでいるのだ。


やがて突然ノイズは途切れ、イヤホンからは何も聞こえなくなった。
するとオグニさんは僕の方を見て、首を傾げて微笑んだ。
僕はどうすればいいのかが分からず、じっと彼女の顔を見つめていた。
それからオグニさんは膝を抱えてソファの上に座り込み、目を閉じた。
僕の耳に挿し込まれたイヤホンからはふたたびノイズがこぼれ出す。

「どうですか? この曲」と彼女は言った。どうやら彼女にはノイズの向こうにある曲が聞こえているらしい。

「いいと思う」と僕は言う。イヤホンからはノイズに混じってピアノの音が聞こえる。「なんていう曲?」

「“ヤング・アンド・フーリッシュ”です」

「いい曲名だ」と僕は笑いながら言う。「僕のことみたいだ」

「そうですね」とオグニさんは笑った。
否定しないというのはつまり彼女は僕のことを若くて阿呆な男だと思っているわけである。失礼な娘だ。

僕らはイヤホンに耳を傾ける。僕はノイズを、彼女は“ヤング・アンド・フーリッシュ”を味わうように聞く。
しばらくするとオグニさんは僕の手を握る。僕はびっくりして彼女の方を見るけど、彼女は何も言わない。
僕も手を握り返す。オグニさんの手。指の細い、小さな手だ。柔らかくて、すこし冷たい。
その冷たさはぬくもりを求めているように思える。でもそれは僕の思い違いかもしれない。


僕は激しく混乱している。いったい僕はどうすればいいのだろう。手を繋いだままいても何も変わらないのだ。
すくなくとも僕のなかに変化は訪れない。停滞は妥協や諦めと同じようなものなのだ。
僕は妥協したくはない。“妥協はいいけど我慢はだめだ”なんて僕の昔の知り合いは言っていたけれど、
僕は妥協も我慢も嫌いなのだ。もううんざりなのだ。
蓄積された鬱憤はどこかで排出される。その方法にも正しいかたちと歪んだかたちがある。

たとえば誰かに話を聞いてもらうとか、好きな事に没頭するとか、
そういうのが正しい方法なのだろうと、僕は貧相な頭で思う。
でもどこかには自分を傷つけるとか、誰かを殺すとか、誰かを犯すとか、
そういう方法で黒々としたものを吐き出すひとがいるはずだ。

まあそんな事はどうでもよくて、とにかく僕はオグニさんを抱きしめたくて仕方なかったわけである。
僕は激しく彼女を求めていた。でもどうすればいいのかが分からない。
僕はオグニさんをじっと見つめる。すると僕は彼女と同じ16歳とか17歳の頃に戻ったような感覚になる。

肺に爽やかな空気が流れ込んでくる。それは僕の内側を洗うみたいに通り抜けていく。
色でたとえるなら青。空みたいな青だ。匂いでたとえるなら花。桜みたいな感じだ。
それはたぶん僕が子どもの頃に吸っていた空気だ。僕が煙草や酒を知る前の、綺麗な空気だ。
緑のなかを暗くなるまで駆けまわったなんて時期が僕にもあったのである。

心臓が早鐘をうつ。それは息切れの時に起こるようなものではなくて、もっと自然なものだ。
冷たい冬から温かい春へ、そして夏に季節は変わるのと同じものなのだ。
鼓動の感覚はすこしずつ短くなり、僕の身体はすこし熱くなる。それは今までに感じたことのないものだった。


「どうしたんですか?」とオグニさんは言う。「顔、赤いですよ?」

「分からないんだ。なんか、へんな感じだ。こんなのはじめてだ」と僕は言った。
「身体が熱いし、息が苦しいし、すごくどきどきする」

オグニさんは笑った。「恋とちゃいますか?」

「かもしれない」と僕は言った。「初恋だ」

「随分と遅い初恋ですね?」

「本気でひとを好きになるなんてことは今までに一度もなかったんだ」

「じゃあいま本気で好きになったひとって誰なんですか?」

「オグニさん」と僕は言う。イヤホンからは何かの曲が聞こえ始めた。


オグニさんは、また笑った。「わたし達、まだ3日くらいしかいっしょにいてませんよ?」

「仕方ないんだ」と僕は言い、内心で“童貞だから”とつぶやく。
「それに時間は大した問題じゃないと思う。大事なのは密度だ」

「そうですね」と彼女は言う。
「多分わたしもアオガメさんに惹かれてるんやと思います。自分が思うてる以上に、すごく」

「ほんとうに?」と僕は言う。

「ほんとうに」とオグニさんは言う。「なんでなんかは分かりませんけど、それは確かなことです」

彼女はイヤホンを外して立ち上がり、僕の前に立つ。彼女はパーカーを脱いで、ソファの上に置いた。
それからほっそりとした腕を僕の方に伸ばす。
僕はコートを脱いで、パーカーの脇に置いた。それから立ち上がって、そっと彼女を引き寄せて抱きしめる。
彼女の身体はちいさく震える。しばらくそうした後、僕はゆっくりと離れ、彼女の目を覗きこむ。
彼女も僕の目を覗きこむ。僕の目には彼女だけが写っていて、彼女の目には僕だけが映っている。

オグニさんはワンピースを脱ぐ。ちいさな膨らみとすべすべとした肌が、僕を熱くさせる。
下着だけになったオグニさんはもう一度僕に手を伸ばす。僕も彼女に手を伸ばす。


でも僕の夢はそこで途切れる。
僕の進む道というのは、夢のなかでもそういうふうになっているのだ。


28


夢は終わり、僕は目を開く。そこにオグニさんは居なくて、僕に見えるのは味気ない灰色の天井だけだ。
左右にも同じような色の壁がある。どうやらどこかの部屋に横たわっているらしい。

身体を起こして周囲を見渡す。僕が寝転んでいたのはこれまた立方体みたいな部屋のなか、
そしてその部屋のほぼど真ん中だった。でも今度はドアも窓もある。さっきの白い部屋とは違って、現実味がある。
ドアと向かい合うように窓は置かれていて、他には机も椅子も本棚もソファもない。もちろんオグニさんもいない。

「気ぃ付きました?」と僕の背後で声がした。殴られたであろう後頭部が傷んだが、僕はゆっくりと振り返った。
そこには地べたに座り込む40過ぎの男がいた。髭の似合う男だ。そこまで髭が似合うのは
サンタクロースとか彼とかそんなくらいしかいないんじゃないかと思うくらい似合っていた。
緑のセーターとジーンズを着ているだけで、非常に寒そうに見える。
でもコートを貸してやろうとは思わない。僕だって寒いのだ。

「どうですか?」と髭の彼は言った。「今どんな気分ですか?」

「どんな気分って」僕は言う。「たとえるなら……ジェリーを追いかけるのに夢中になってて、
後ろから追いかけてきてるスパイクに気づかずにやられちゃって気絶したけど、
トゥードルといっしょに食事する夢を見れて気分が良かったのに、またジェリーに邪魔されたトムみたいな気分だ」

「なるほど。大丈夫そうですね」と彼は言った。
何がなるほどなんだ。どこが大丈夫そうなんだ。


「あなたは誰なんですか?」と僕は訊ねる。

「僕はオグニっていうもんです」と髭の彼は言った。
「見たところ、そっちも攫われてきたんですか?」

なるほど。彼がオグニさんのお父さんのオグニさん。攫われたお父さんだ。
となると、僕は階段から転げ落ちて頭を殴られて気絶して(それから夢を見て)、
お父さんと同じように捕まってしまったと、そういうわけか。

僕が捕まったというその事実を、お父さんを探す手間が省けたと捉えるべきか、
助けを求めているおっさんが増えただけと捉えるべきか。どちらなのだろう。
個人的には前者であってほしいけど、まあそんな事はどうでもいいのだ。

僕は言う。「いいえ。僕はあなたの娘さんに頼まれてあなたを助けに来たんです」

「そうですか」とお父さんは言った。「すいません」

「まあ捕まっちゃったんですけどね」と僕は言った。
そう。僕は捕まってしまったのだ。刑の執行を待っているみたいな気分だ。


「いや、そうやなくてですね」お父さんは頭を掻いた。
「ほんまにすいません。せっかく助けに来てもらったのに」

「何がですか?」

「ええと。名前は何ていいはるんですか?」

「アオガメです」と僕は言った。

「アオガメさん」とお父さんはそこで言葉を区切り、数秒の沈黙を挟んで
「僕ね、あなたの頭をちょいといじくってもうたんですよ」と言った。

「何? 僕の頭をちょっといじくったって言ったように聞こえたんですけど」


彼は頷き、頭を下げた。「ほんまにすいません」

「いじくったって、具体的にどういうふうに?」と僕は訊ねる。

「まずは脳幹の橋にですね」と彼はすこし嬉しそうに話し始める。

「いや、そこまで具体的じゃなくていいです」と僕は言った。
僕は難しい話が嫌いで、長い話を聞いていると眠くなるのだ。長くて難しい話など以ての外である。
さらにつまらないとなると、僕に言わせてもらえばそれはもはや催眠術と呼んでも差し支えない。
つまり校長先生の話とは兵器であると言っても過言ではないのである。たぶん。
「脳をいじくったことで、僕の身体に何が起こるんですか?」

「ええと。僕が何の研究をしてるかってのはあの子から聞きましたか?」

「聞きました。夢ですよね」

オグニさんのお父さんは頷いた。「そう。それで、夢のなかに入る“機械”のことは知ってますか?」

「知ってます。それも聞きました」


「そうですか。まあ“機械”って言うてもちっこいやつなんですけどね。マイクロSDカードくらいです。
簡単に言うと、それをアオガメさんの頭のなかに埋め込んだんです。でもそれは完璧なやつとはちゃうんです。
所謂、試作品とかベータ版ってやつです。
今のアオガメさんはモルモットとかベータテスターとか、そんな感じなんです」

「ほんとうなんですか? それ」

「ほんとうです」とお父さんは言う。

「どうしてそんなことしたんですか?」と僕は訊ねる。

「やれ言われたからやるしかなかったんです。僕かて死にたないんです。
謝って許されることやないのは分かってますけど、ほんまにすいません。でもほんとうはこんな事したくなかったんです。
そりゃあ、探究心とか知的好奇心とかが皆無だったとは言いませんけど……」
お父さんは一度そこで言葉を区切り、頭を掻いた。それから思い出したみたいに、
「でも、好奇心だけで人間の頭に不完全な装置を埋め込むようなことができるわけないでしょう?」と付け足した。

「分かりました。それで、その“機械”は僕にどんな影響を及ぼすんですか?」

「良い影響と悪い影響がありますけど、どっちから話しましょか?」

「悪いほうで」と僕は言った。


お父さんは、また頭を掻いた。「アオガメさんの意識が向こう側に取り込まれてまうかもしれんのです」

「向こう側」と僕は反復する。「夢のなかって事?」

「はい。現実のアオガメさんは寝たきりになって、アオガメさんは夢のなかで生きることになってまうんです。
“もしかすると”ね。確実にそうなるとは言いませんけど、確率はかなり高いです。
“機械”っていうのは、感覚を夢のなかに持っていくためのもんでもあるんです。嗅覚とか、触覚とか。
それはつまり現実と夢の区別をなくしてしまうようなもんなんです。

夢と現実の間には橋が架かってて、本来、意識の核はその橋の中心にあるんです。
ここでいう意識は人間のことやと思うてください。アオガメさんのことです。核とは心です。
まともな意識なら、右に現実があって左に夢がある、みたいに区別できるんですけどね、
“機械”はそれを曖昧にしてまうんです。アニメとかでよくあるやないですか、
自分の頬をつねって『これは夢やない』みたいなやつ。あれができひんようになるんです。
夢のなかで頬をつねっても痛いんです。

それでアオガメさんはすこしずつ現と夢の境界線が見えんようになってまうんです。
終いには夢のほうに居座ることになるかもわからんって話です。

でも、この問題さえ乗り越えたら“機械”は完成したんです。倫理とか、そういう問題を抜きにしたらね。
夢と現の区別を付ける方法を見つけたとき、アオガメさんの頭のなかのそれは完成したはずなんです」


「そうですか」と僕は自分の頭を撫でながら言った。
まともな人間なら信じがたい話だけど、僕は彼の話をほとんど信じていた。
そう。僕はインセインなのである。

それに僕は一度、無意識のうちに夢のなかへ感覚を持ち込んでいるのだ。
先ほど見た夢の真っ白な部屋に居たオグニさんの手は“冷たかった”のだから。
その冷たさの意味することは何も分からないけど、彼女の手は確かに冷たかったのだ。

次に僕は、いったいどうやって僕の頭のなかに“機械”を埋め込んだのだろう? と思う。
マイクロSDカードと言われるとかなり大きいように思える。ウイルスやナノマシンとはわけが違うのだ。
もしかすると、僕の頭は一度かち割られてアロンアルファか木工用ボンドか何かで接合されたのかもしれない。
まあ何でもいい。そんなことより、後頭部が痛くて堪らないのだ。

僕は続ける。「僕が向こう側に取り込まれるまで、どれくらいの時間が掛かるんですか?」


「3年くらいやと思います」とお父さんは言った。

「3年って、また微妙な時間ですね」僕はちょっと拍子抜けした。
どうせなら24時間とか、もっと切羽詰まった状況に置かれれば
僕だって何かを見つけることができたのかもしれないのに。
たとえば自分のなかの輝く部分とか、未来への大きな希望とか。

でも、限られた時間のなかで大きな希望を見出したところで、何の意味があるのだろう?
まあそんな事はどうでもいいのだ。べつに僕の余命は24時間ではないのだから。

「現段階ではそれが限界でした」とお父さんは申し訳なさそうに言った。

「分かりました。それで、良い影響ってのは何なんですか?」

「悪いことと比べると大したことではないんですけどね」と彼は前置きして、
「夢のなかを思い通りに走り回れるってだけです」と言った。
「橋をどちらかに渡りきってからが夢やってのはさっき言うたから分かってくれてはると思うんですけどね、
まあ橋を木の幹やとすると、渡りきった先は根っことか枝葉みたいにいろんな場所に分岐して、
それぞれの果てに繋がっているんです。記憶の海を泳ぐとか、そういう表現もできるかもしれませんね。

夢というのは深層心理や記憶の産物であり、アオガメさんのすべてが
そこに詰まっていると言っても過言ではないです。そこにはたくさんの大事なものがあるはずです。
そこでは懐かしいひとに出会うことが出来るし、叶えられなかった夢を叶えることだってできます。
でもそれはアオガメさんにとっては現実に体験することとイコールになると言えます。“機械”のおかげでね」


「なるほど」と僕は言った。“ブルー・タートルの夢”、と僕は思う。「悪くないかもしれない」

「そうですか?」

「うん。悪くない。どうせ何の楽しみもなく終わりを迎えようと思ってたところだしな」僕はなぜか笑った。
腹の底から笑いがこみ上げてきたのだ。「夢のなかで、会いたいひとにいつでも逢えるんだよね?」

「そういうことです。一度そのひとを夢のなかで見つけてまえば、いつだってそこまで歩いて行ったらいいだけです。
そのひとはあなたを待ってくれています。橋に戻ってこれるかはべつですけどね。それは意思の強さによります。
根は迷宮のように入り組んでいます。僕たちの歩くべき道のようなものですよ」

「そっか」

「アオガメさん、結構余裕ですね?」とお父さんは目を丸くして言った。

「焦るのは性に合わないんです」と僕は言った。
「でも夢を見るにはまず生き残らないとね。とりあえずここから逃げ出しましょう」


29


とりあえずここから逃げましょうとか言ったわけだけど、もちろんドアは外から施錠されているし、
窓にも鉄格子が嵌め込んである。穴を掘るためのスプーンもなければ、格子を削るやすりもない。
これからはもしもの時のためにスプーンとやすりを持ち歩くようにしたほうがいいのかもしれない。

「どうしたら出られますかね?」と僕は言った。はずかしい。何が“とりあえずここから逃げましょう”だ。

「ううん……」お父さんは目を閉じて、眉間に皺を寄せた。

僕は部屋を見渡す。天井と床があって、4枚の壁があって、窓とドアがある。
でもそれ以外には何もない。まるではじめから誰かを閉じ込めるために設計されたみたいな部屋だ。
長い間使われていなかったらしく、床は埃まみれだ。きたない。

部屋を転がるそんな埃を眺めていると、僕はひとつのアイデアを思い付いた。
ドアをぶち破るのだ。それがいちばん手っ取り早いのではないか? そして分かりやすい。
僕は分かりやすいものが好きなのだ。我ながら素晴らしい案である。
なぜ埃を見て思い付いたのかは分からないけど、そんな事はどうでもいいのだ。

そもそもドアとは開かれるためか、叩かれるためか、ぶち破られるために存在しているのだ。
テーブルだってテーブル本来の役割を果たしたり、銃弾を避けるための遮蔽物になったりするのと同じなのだ。
パイプ椅子だって座ることができて、時には武器にだってなる。でも僕はどこまで行っても僕なのだ。
爪楊枝ですら爪楊枝としての役割を果たす以外にも使い道があるというのに、僕は僕にしかなれないのだ。


果たしてドアがそんな簡単にぶち破れるのかは定かではないが、やらないわけにはいかない。
僕とオグニさんのお父さんはドアに体当りした。けっこう大きな音が鳴ったけれど、ドアは開かない。
あれはアニメや映画のなかでしか起こらない現象なのだ、と僕は思ったが止めるわけにはいかない。
「開きませんねえ」なんて言いつつもしばらくアメフトの選手みたいにタックルした。ドアは開かなかった。
そもそもこのドアは内開きなのだ。開かなくて当然なのである。

しばらくするとドアの向こうから、「静かにせえや!」と怒鳴る声が聞こえた。
僕らはタックルをやめて静かになった。

「どうしましょか?」とお父さん。

「工具か散弾銃でもあれば出られたかもしれないのに」と僕は言った。
蝶番をどうにかすればドアはドアとしての役割を果たせなくなり、僕らは外に出られるはずなのだ。
でも困ったことに蝶番をどうすることもできないのである。「お手上げだ。ドア以外からの脱出法を考えましょう」

「窓ですか? でも、窓には格子がありますし」

「他にも壁と天井と床がある」と僕は言った。
でもその三箇所のうちのどれかから逃げ出す方法なんて全く思い浮かばなかった。


完全にお手上げなので、僕は壁に凭れかかってぼんやりと宙を眺めることにした。
お父さんも向かいの壁に凭れて、僕と同じようにした。

密室には無力なおっさんがふたり居るだけで、他には何もない。
それは超現実的とも言えるような光景だった。現代日本人はそれをシュールな光景と呼ぶ。
なんだか世界のすべてがこの部屋に詰まっていると言われても信じてしまいそうだ。
そう。つまり立方体のなかのふたりのおっさんは世界の真理なのである。たぶん。

しばらく超現実のなかに座り込んでいると、お父さんは「アオガメさん」と口をひらいた。
「なんで僕のこと助けようと思いはったんですか?」

「なんでって、難しい質問ですね」と僕は言った。「あなたの娘さんに頼まれたからかな」


「でも、ふつう見ず知らずのひとを助けにこんなとこ来ませんよ」

「僕はちょっと頭がおかしいんでね」と僕は自慢げに言った。
「映画の主人公にでもなれるんじゃないかと思ったんですよ」

「映画」とお父さんは聞いたことのない言葉を聞いたみたいに言う。

「そう。映画」と僕は言い、「それに、娘さんがかわいかったから」と付け加える。

お父さんは弱々しく微笑んだ。「あの子、どうしてます?」

「心配してましたよ」と僕は言った。「泣きながら助けてくださいって言われた時はびっくりしたよ」
ほんとうの事を言っているのになぜか胸が痛んだのはおそらく8000円のイヤホンのせいだ。

「そうですか」とお父さんは笑って、目を瞑った。


「そういえば」と僕は言う。

「なんです?」とお父さん。

「“機械”があれば、“記憶を捏造したり破壊したり盗んだり、
人格そのものを破壊してしまうことも可能”って娘さんは言ってたけど、あれはほんとうなの?」

「現段階では不可能ですが、いずれは可能になるでしょうね」とお父さんは目を瞑ったまま言う。
「映画や小説みたいに、いずれは他人の夢のなかに入ることができるようになるはずやったんです。
意識や感覚を夢にではなく、外に送るんです。
それはエクトプラズムとか魂とか、そういうものになるということです。所謂、幽体離脱ってやつですね。

それで他人の夢――深層心理や、記憶の海に侵入するんです。
そこで工作をちょちょいと行えば、そういうことが可能というわけです」

「ふうん」と僕。「映画みたいだ」

「こういうのは、映画のなかだけでいいのかも分かりませんね」

「そうですね」

沈黙。

窓の外の喧騒は、相変わらず別世界の音みたいに聞こえる。この空間と外が同じ世界だとはとても思えない。
誰も僕らがこうして密室で夢みたいな(というか夢そのものの)話をしてるのを知らないのだ。
窓の向こうにはたくさんの観客がいて、僕らはスクリーンのなかで何かを演じているような感覚に陥る。
そして僕は映画の事を考える。映画は嫌いなのだけれど、映画のことを考えるのは好きなのだ。
僕は今、映画のなかに居ると仮定しよう。役はモブ1とかそこらだ。主役はたぶん探偵だ。



その映画は探偵の事務所に僕とオグニさん(娘のほう。たぶんヒロイン枠だ)が現れるところから始まる。
僕らの話を聞いた探偵はさっそく車のナンバーを調べに出かけるのだ。

そしてたぶん情報屋みたいなやつがその映画には居るのだろう。
探偵はナンバーを調べた後、その情報屋の元へ話を訊きに行く。酒場みたいなところだ。
酒場ではなぜか乱闘が始まる。ハゲの黒人と、筋肉バキバキの白人の喧嘩だ。ここが日本でもそんな事は関係ない。
探偵はどこで会得したか知らないけど流暢な英語でその間に割って入るけど、殴り飛ばされてしまう。
頭からビールをかぶって笑われるのだ。そこで探偵の彼はちょっと怒って、
得意の合気道でふたりを倒してから酒場から出て行くのだ。お金を払わずに。

車のことを大方調べ終わったのはそれから2日後の夜で、探偵の彼はちょっと遊びに出かける。
どこかでかわいらしい女の子(スーツの似合う子)を引っ掛けて、
事務所でアルコールに任せて身体を重ねるのだろう。
凛々しい雰囲気を持っていた彼女は彼の前では子猫のようになるのだ。たぶんそんな感じだ。

探偵の彼が翌日に目を醒ましたのは午前の10時頃で、
ちょうど引っ掛けた女の子が床に散乱したシャツやら下着やらをかき集めているところだ。
そこで探偵の彼が「またよろしく」とか適当な事を言うと、その女の子は満更でも無さそうに微笑むのだ。


探偵の彼が翌日に目を醒ましたのは午前の10時頃で、
ちょうど引っ掛けた女の子が床に散乱したシャツやら下着やらをかき集めているところだ。
そこで探偵の彼が「またよろしく」とか適当な事を言うと、その女の子は満更でも無さそうに微笑むのだ。

身支度を整えた女の子はそのまま出勤する。探偵は暗い部屋で煙草に火を付ける。
そして彼は部屋に充満する煙を眺めながら、BGMをかける。
ボブ・ディランの“ライク・ア・ローリング・ストーン”とか、そんな曲だ。

それを聴きながら探偵の彼は昨夜のセックスを回想するけど、女の子の顔が思い出せない。
まるで煙草の煙が記憶にまで侵入してきたみたいに、彼女の顔に煙が覆いかぶさっているのだ。
探偵は、もしかすると彼女も転がる石のように生きているのかもしれない、とか
適当なことを思うけど、彼女は着ていたスーツを着直して出勤していったのだ。
たぶんその女の子は働いていて、家があって、友人もいる。もしかすると夫だっているかもしれない。
でもそんな事はどうでもいい。誰もモブの事情なんて知りたくないのだ。


昼頃までBGMを聴きながらコーヒーを飲んだりして時間を潰した探偵の彼はオグニさんに電話をかける。
でも出たのはオグニさんではなくて僕だったから、探偵はすこし気分を悪くする。
そう。僕の役はそういう役だ。探偵は眉を顰めつつも何事もなかったかのように話し始める。

僕とオグニさんは2時くらいに事務所へ現れる。まあ、ここらは僕が見たとおりだ。
もしも僕らが諦めて帰っていたら、彼はひとりでお父さんを助けに行っていただろう。彼は主人公なのだから。
でもこれは映画なのだ。僕とオグニさんが彼に付いていくというストーリーなのである。

そして場面は堺のビルに移って、探偵の彼は正面からビルにおじゃまする。
僕もカメラにちいさく入り込むけど、すぐにぼやけて見えなくなる。
まさか僕が階段を上がっているのを見たい奴はいないだろうと思っての、監督とカメラマンの粋な計らいだ。

探偵の彼は得意の合気道で、まずガードマンふたりを軽く捻り、正面の自動ドアからビルに入ろうとする。
でも自動ドアはなかなか開かない。そう。彼は自動ドアに反応されにくい体質だったのだ(どうでもいい)。
1秒後、自動ドアは開き、探偵の彼はゆっくりと歩を進める。

エントランスは静まり返っていたが、何人かの人間が階段を下りてくる足音が聞こえる。
探偵は口元に笑みを浮かべて、エントランスの中心に立ちながらコートを脱ぐ。
やがて彼を中心に置くようにして、階段から下りてきた7人とか8人の男は並ぶ
(なかには酒場のハゲ黒人がいるのである)。
ハゲ黒人は彼に殴りかかるが、探偵の彼はそれを簡単に躱し、カメラに向かってパンチを放つのだ。

(画面暗転)



たぶんこんな感じだ、と僕は思う。そしてこれからの展開は、おそらく探偵の彼がここに現れて僕らを救い出し、
なんやかんやでオグニさんといい雰囲気になるけれど、彼はオグニさんの好意をパンチと同じように軽く躱して、
僕らに背を向けて帰るのだ。謝礼金を受け取らずに。

そして夜道をひとりで歩いて帰る探偵は、偶然にも昨晩の女の子と出会い、「今夜もよろしく」とか言うのだ。
彼女は「もちろん。こちらこそよろしく」と答えて、「昨日よりも激しくおねがいね」とかそんな要求をしてくる始末なのだ。
彼は「やれやれ」とか言いつつも口元は笑っている。彼女も同じように笑っているのだろう。たぶん。

「なんか思いつきはったんですか?」とお父さんは訊ねる。

「いいや」と僕は言う。そこで頭のなかのスクリーンにエンドロールが流れる。
僕は続ける。「でも待っていればかならず助かりますよ。ヒーローの彼は遅れてやってきますからね」たぶん。

そして僕は目を瞑る。

つづく

書き溜めが尽きたからペースダウンするかも


30


そして僕は目を開く。僕は真っ白なソファに座りながら、右耳に挿し込まれたイヤホンから聞こえる曲に耳を傾ける。
レディオヘッドの“エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス”だ。僕はその曲が気に入っている。
隣には左耳にイヤホンを挿し込んだオグニさんが座っている。真っ白なワンピースがとても似合っていた。
僕はコートを着ているというのに、オグニさんは半袖のワンピースを着ているというのはなんだか不思議な光景だった。

「寒くない?」と僕は訊ねる。「寒くないです」と彼女は答える。

「暑くないですか?」とオグニさんは訊ねる。「暑くないよ」と僕は答える。

暑くも寒くもないこの部屋は、とても居心地がいい。たとえ窓やドアがなくたって、隣にオグニさんが居ればいい。
でも彼女は本物のオグニさんではなくて、僕の記憶や心が生み出した幻想であり、僕の夢の住人なのだ。
“機械”のおかげで僕は夢のなかの彼女という幻想に、ぬくもりとかいう
安っぽい希望じみたものを見出すことができるけれど、果たしてそれは本物なのだろうか?
そのぬくもりは、僕が心の奥底から渇望していたものなのだろうか?


そのぬくもりは、たしかに僕に向けられている。そしておそらく手の冷たさは、僕が欲していたものだ。
でも、それは彼女からの贈り物ではなくて、僕の頭のなかから送られてきた信号のようなものなのである。
結局は自己満足なのだ。いまの僕は電池を与えられて光り輝く豆電球と同じなのだ。
豆電球が輝いたところで世界の全てが明るくなるわけではない。当たり前だ。

僕は誰ともかみ合わず、自分のなかで完結しようとしている。
べつに構わない、と今までなら言ったのかもしれないけど、僕のなかの何かはすこしだけ変わり始めていた。

僕は隣の彼女に目を向ける。彼女は目を瞑りながら、ちいさく口を動かしている。
それこそが僕の求めていたものだったのだと思う。でも、いま目前にあるそれとは違うのだ。
僕が求めているのは、あくまで本物なのだ。“手の届かないもの”なのだ。

僕は僕に問い掛ける。答えはすでに用意してある。
さあ答えろ、アオガメちゃん。
すべてはあるべき場所に、とトム・ヨークは唄うけれど、お前のあるべき場所はここなのか?
お前がパズルのピースだった場合、お前はここに収まることしかできないのか?


違う。たしかにここの居心地は限りなく理想に近いものだけれど、すべて幻想なのだ。
僕の記憶や心、あるいは僕自身が生み出した妄想に過ぎないのである。
そして何よりも、僕に白は似合わないのだ。僕に似合うのは濃い緑色なのだ。たぶん。

「オグニさん」と僕は言う。「どうすればこの部屋から出られる?」

オグニさんは目を瞑ったまま言う。「アオガメさんが出たいと思えば、いつだって出ることができますし、
ここに来たいと思えば、いつだって来ることができますよ。ここはそういう場所です」

「ここから出たい」と僕は言った。でも、ドアや窓は現れないし、この部屋から出ることもできない。

「アオガメさん」と彼女は言う。「この部屋のこと、気に入ってますでしょ?」

僕は答えなかった。どちらとも言えないのだ。彼女の言う通り、僕は望んでこの部屋に来たのかもしれない。
たしかにこの部屋は居心地が良いし、彼女に逢うこともできる。好きな曲を好きなひとと聞くことができる。
僕には勿体無いような陽の当たる場所だ。でも間違いなくここは僕の居場所ではないのだ。
それは深海にカラスがいるのと同じで、カラスの彼は空に向かわなければならないのだ。
たとえ“向こう”が僕を歓迎していなくとも、僕は“向こう”で生きるべきなのだ。あるいは死ぬべきなのだ。


僕はイヤホンを外して立ち上がり、オグニさんの前に立った。彼女は僕の顔を見上げながら微笑んだ。
僕とオグニさんはお互いの瞳に吸い込まれるみたいに視線をぶつけあったけど、
やがて彼女は視線を下げて目を閉じた。

「ヒントをあげます」と彼女は言う。「“待っててもうまくはいかない”。誰かも唄ってましたよ」

「ありがとう」と僕は言って振り返る。そして壁に向かって歩き始める。


部屋のなかでは雨が降りだした。温かい雨だった。ひとのぬくもりを感じることができる温かさだ。
僕は彼女に背を向けて、壁に向かってまっすぐ歩いた。
背後から、彼女の唄う“ハイ・アンド・ドライ”のサビが聞こえる。
僕はその声を一生忘れることができなくなるはずだ。夢のなかの彼女の声は僕を掴んで揺さぶって抉った。

結局僕は一度も振り返らずに、捨て台詞みたいに「また来るよ」と言った。
彼女は僕を止めたりはせず、そのまま唄い続けた。
その唄声は僕を引き止めるには十分な力を持っていたけど、僕は振り返らなかった。
“振り返ってはいけない”。僕は僕に言い聞かせる。まるでオルフェウスにでもなったような気分だ。
彼が振り返ってしまったのは仕方のない事なのかもしれない、とか僕は適当なことを思った。


31


僕は目を開く。30年とすこし生きてきたけれど、いったい今までに何度目を開いたのだろう? と僕は思う。
でもそんな事はどうでもいいのだ。とにかく僕は幸せな幻想から糞みたいな現実に戻ってきたのだ。
瞬きの回数とか、総計睡眠時間とか、気になるけれどやはりそんな事はどうでもいいのだ。

大きなあくびを吐いてからきょろきょろと頭を動かすと、部屋のなかのおっさんの数は僕とお父さんのふたりから、
僕とお父さんと探偵の三人になっていた。ふたりは並んで僕の前に座り込んでいる。

「おはよう」と僕は言い、「捕まっちゃったの?」と探偵に訊ねた。

「おはようございます」と探偵は言った。「捕まってないです」

「だったらどうしてここに居るんだい?」

「助けに来たんですよ」と探偵は自慢げに言った。


「よくここが分かったね?」と僕はクイズの答えを言うクイズ大会の司会者みたいに言った。

「ひと部屋ずつまわりましたからね」と探偵はクイズ大会の司会者に知識自慢するみたいに言った。
「ちょっと時間かかりすぎてまいましたね。おかげで外は真っ暗ですよ。スタンド・バイ・ミーですよ」

窓の外は夜の暗さに支配されつつあった。この部屋も同じように夜の闇に飲まれかけていたけれど、
窓から微かな光が射しこんできている。人工的な光だ。
黄色やら緑やら赤やら、気味の悪い色の光だ。でもそこが僕のあるべき場所なのだ。

「早く逃げないと拙いんじゃないのか?」と僕は言った。
眠っていた僕が言うべき言葉ではないというのは百も承知である。
でも言った。それはやはり仕方のない事なのだ。

「大丈夫です。みんなやっつけてきました」と探偵は何でもないみたいに言った。

「ほんとうに?」と僕は訊ねる。「ほんとうに」と探偵は答えた。


「そいつはすげえや」と僕は言った。すげえ。さすがセガールだ。
「ということは、ふたりとも僕が起きるのを待っててくれてたの?」

「そういうことです」と探偵は言って笑った。お父さんもすこしだけ笑った。
探偵は続ける。「オグニちゃんに頼まれましたからね」

「なんて?」

「“ふたりを助けて”って」探偵は立ち上がって、僕に手を差し出した。

「どうもありがとう」僕は差し伸べられた手を掴んで立ち上がった。
彼の手は大きかった。やっぱり彼が主人公なのだ、と僕は思う。


32


仲良く三人並んで階段を下りた僕らは、やがてビルのエントランスに辿り着く。
ビル内のいろんなところに、いろんなひとが寝転がっていた。
顔面を地面に押し付けたみたいに寝転んでいるものもいたし、壁に凭れたまま気を失ったみたいなものもいた。
おそらく探偵の彼がやったのだろう。もしかすると彼らにも温かい家庭があるのかもしれないが、
そんなことは僕の知ったことではない。僕にできる事といえば、彼らが風邪をこじらせないように祈ることだけだ。
でも僕は祈らない。間接的とはいえ、彼らのおかげで僕はインセインからマッドネスに向かいつつあるのだから。

祈ってなんかやるもんか。
みんな風邪をこじらせて病院から処方された薬代を支払って、温かい家で寝込んでいればいいのだ。
嫁に看病されながら子どもに額をぺちぺちと叩かれていればいいのである。


ドアをくぐり、ビルの外に出るのと同時に、冷たい夜風が顔に吹きつけてきた。
吐き出した息は黒い夜空とは対照的に白かった。そう。いまは冬なのだ。
そして目の前に立ち並ぶ街路樹に施された陳腐なイルミネーションは、
僕にそろそろクリスマスが近いということを思い出させる。

そしてイルミネーションを見た僕は、なぜかうどんが食べたくてたまらなくなった。
ケーキよりもチキンよりもプレゼントよりもサンタクロースよりも、僕はうどんを求めていた。
ラーメンや蕎麦ではだめなのだ。今の僕を救えるのはうどんしかないのである。

横断歩道を渡って、車を置いてあった場所に戻ってきた。
車のなかではオグニさんが壊れかけの洗濯機みたいにがたがた震えていた。
僕らは十五秒くらいそれを外から眺めていたけど、
オグニさんは僕らの視線に気付くと車から飛び出して、お父さんに抱きついた。

僕は親子の感動の再会という綺麗な絵から逃げるみたいに車に乗り込んだ。
僕はあの絵のなかに入るべきではないのだ。それに、僕はその再開を心から喜ぶことができない。
お父さんが戻ってきたことで、ここから僕の居場所は消滅するのだ。今この時、オグニさんの目的は達成されたのだ。
つまり僕はこれにてお役御免なのである。大したこともせずに捕まって頭をいじくられて、それで終わりなのだ。
でも僕の進む道とはそういうものなのだ。


煙草に火を付けて、窓に映った自分の顔を眺める。くたびれた顔だった。30代にしても老けて見える。
僕はほんとうに30代なのだろうか? と一瞬だけ疑問に思ったが、そんなことはどうでもいい。
べつに30代だろうが50代だろうが、僕に残った時間は3年なのだ。

後部座席のドアが開き、探偵が乗り込んできた。
僕はルームミラーに映った探偵の顔を見て、「助けてくれてありがとう」と言った。

「言い方は悪いかもしれませんけど、仕事ですからね」と彼は言った。

「かっこいいな」と僕は言った。僕もそういうふうになりたい。

「そうですかね」と彼は言う。「アオガメさんはなんでオグニちゃんといっしょにおったんですか?」

「なんでって」僕はそこで言葉を区切り、
「お父さんを助けてって泣きながら窓を叩かれたんだ。そんなのほっとけないだろ。それだけだよ」と続けた。

「かっこいいですね」と彼は微笑んだ。

「そうかな」と僕は言った。


窓の向こうでは親子が何かを話している。それは僕からもっとも遠い場所にあるもののように見えた。
“手の届かないもの”だ、と僕は思う。
でも僕はそれが好きなのだ。遠くから幸せそうなひとを眺めるのが好きなのである。

幸せそうなひとというのが、僕の足元から伸びていた可能性のひとつのように見えることがある。
もしかすると僕は、その幸せそうなひとになれたのかもしれない、と思い込んでしまうのだ。
でも僕は僕なのだ。まっすぐやった結果がいまの僕なのだ。何も間違ってはいないはずなのだ。
何も間違っていないはずなのに、何かが間違っているような気がしてしまうことがある。
でもやっぱりそれは間違いではない。そもそも、正解や間違いとは誰が決めることなのだろう?

まあそんなことはどうでもいい。とにかく僕はうどんが食べたいのだ。
うどんは間違いなく正解なのだ。はなまるなのである。


「雪ですね」と探偵は僕の背後でつぶやいた。「めずらしい」

窓の向こうでは雪がちらついていた。まるで親子の再開を祝福しているみたいに見えた。
暗い空には巨大なくす玉があって、ふたりが再開した時に割れるようになっていたのだろう。
きっと今も大きな目が僕らを見ていて、そいつがあのふたりを祝福しているのだ。
そいつは多分、神様とか呼ばれるようなやつだ。気まぐれで理不尽で不平等なやつだ。

吸い殻を灰皿に捨てて、2本目の煙草に火をともした。その辺りで親子は僕の車に乗り込んできた。
助手席にオグニさん、後部座席の探偵の隣にお父さんが座った。
僕は隣のオグニさんに目を向ける。その視線は彼女から送られてきた視線とぶつかる。

「ありがとうございます」とオグニさんは頭を下げて言った。

僕は頭をかきながら言う。「いいんだよ。べつに僕が好きでやっただけだしな」

「かっこいいですね」オグニさんは微笑んだ。

「そうか。だったら僕と結婚しておくれ」

「それは」とオグニさんはそこで言葉を区切り、「ありえないです」と言った。
そう。それはありえないのである。無職童貞足フェチ老け顔の30代の男と結婚する女子高生はいないのである。
でも言わなければならない時がある。それが今だったのだ。もう二度と言うことはない。


「次はどこに行きはるんですか?」とオグニさんは何事もなかったみたいに言った。

「次」と僕は何事もなかったみたいに言う。そう。僕には次の目的地が必要なのだ。
そうしないことには前に進めないのだ。いきなり砂漠のど真ん中にに放り投げられても困るのと同じなのである。

次はどこへ行こうか? と僕は考えるけど、僕の頭のなかはうどんのことでいっぱいだった。
僕はきつねうどんか力うどんが食べたくて仕方がなかった。カレーうどんは論外なのである。
だから僕は「うどん」と言った。それは仕方のない事だ。
僕の進む道の途中には丼鉢に入ったあったかいうどんがあるのだ。
それは僕の凍りついた心をほぐしてくれるのだ。たぶん。

「うどん?」とオグニさんは反復する。「香川?」


「なるほど。香川か」なるほど。それはわりかし良いアイデアかもしれない。
僕は言う。「じゃあ次の目的地は香川にしよう。だからオグニさんとはここでお別れだな」

「そうですね」オグニさんは俯いた。「ちょっと寂しいです」

「ちょっと」と僕は確認するみたいに言った。オグニさんは黙っている。
僕は続ける。「でもまあ、そういう経験もいいんじゃないかな。
ほら、誰かも言ってたろ、“さよならだけが人生だ”ってさ」

「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」と
後部座席のお父さんは目を瞑りながら腕を組んで言った。

「唐の于武陵の漢詩、“勧酒”を井伏鱒二が訳したものです」とオグニさんは言った。
親子揃って辞書みたいだ、と思った。でも僕は娘さんのほうだけがほしいのである。

「そのとおり」と僕は言った。

「実は知ってたみたいに言うてますけど、知らんかったでしょ?」と探偵は笑った。


「まあな」と僕は正直に言った。「まあとにかく、さよならだけが人生なんだろ?」

「そういうことです。別れが人生の本質やって事です」とオグニさんは言った。
「でもわたしは仲良くなったひととさよならするのは嫌いなんですよ」

「でもさよならしないといけない時があるのさ」

「でもそれは今ではないです」と彼女は言う。
「わたし、もうちょっとだけアオガメさんといっしょにおる方法を思いつきましたよ」

「ほう」

「聞きたいですか?」と彼女は自慢げだ。

「ぜひ」と僕は言った。


「わたしも香川にうどん食べに行きます。あとお父さんと探偵さんもいっしょに」

「なるほど」と僕はうなずく。「学校は?」

「冬休みです」

「なるほど」と僕はうなずく。
「クリスマスが近いよ。家でサンタクロースがプレゼントを持ってくるのを待ってたほうがいいんじゃないのか?」

「サンタクロースよりもプレゼントよりもアオガメさんとうどんです」

「いいんですか? お父さん」

「アオガメさんがいいのならいいですよ。どうせこの子は僕の言うこと聞きませんからねえ」とお父さんは笑った。
「それに、いま家に戻ってもすぐにまた攫われてまいますよ。
アオガメさんに付いて行けば探偵さんもおるから安心ですねえ」

「ええ? やっぱり私も行くんですか?」と探偵はすこし迷惑そうに言った。

「来てくれよ」と僕は言った。「頼むよ」

「やれやれ」探偵はすこし間をあけて、微笑んだ。「分かりました」


「いまから行くの?」と僕は訊ねる。時刻は19時になろうとしていた。

「いまから行きましょう」とオグニさんは言った。「わたしの奢りですよ」

僕は車を発進させる。香川に行くためにはどの道を通ればいいのかはさっぱり分からないけれど、
とにかく前に進むことが重要なのだ。砂漠のど真ん中でぽつりと立っているよりも、
遠くに見えるオアシスを目指したほうが気分的にはずっと楽なのだ。
たとえそれが蜃気楼だとしても、その場で干からびて終わってしまうよりはずっといい。

スピーカーのなかのスティングが「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」を唄い終えたところで、
オグニさんはCDプレイヤーをいじくって、飲み込まれていたCD(スティングのベストアルバム)を取り出した。
車内は一瞬だけエアコンが温風を吐き出す音に支配されたけど、
オグニさんはすぐにべつのCDをセットして、何曲かとばしてから再生ボタンを押した。

スピーカーから流れてきたのは、楽しげなピアノのイントロだった。
それは僕の知らない曲だったけど、僕はその曲がとても気に入った。
分かりやすくて、ちょっと古くさい感じの曲だ。
こういうのも悪くないな、と僕は思った。そして僕は目を瞑る。


おわり

読んでくれてありがとね
完全にノリと勢いで書いたからおかしいところがあっても気にしないでほしい

前に書いたやつは
“男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」”ってやつと
“男「おかえり、お嬢ちゃん」女「うん、ただいま」”ってやつ

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