鬱蒼とした森の中。幼女の隣を、腹を空かせたオオカミが歩く。
1人と1頭の他には誰も居ない。木々の間に響く音も、1人と1頭が歩く音。
そしてコツ、コツとした、杖の音だけだ。
幼女 「オカさん、案内、ありがとう。独りぼっちで寂しかったトコなの」
オオカミ「なに、道が同じだっただけだ。その瞳では大変だろう」
目が悪いのか、幼女は道を探るように杖をついていた。
魔物ひしめく迷いの森で、多少、肉付きが悪くとも、柔らかい肉はごちそうだ。
オオカミが、盲目の幼女を引き裂くのに、三秒とかかるまい。
込み上がる飢餓感は、その細首に喰らいつけと牙に命ずる。だが、オオカミは、そうしない。
生きるために喰う。そこに、ためらいは無い。
問題は、幼女が右手に持つ忌まわしき拳銃だ。
かつて、オオカミの親兄弟達は、皆あの道具に殺された。
それに、あの左手の杖で骨を折られたら、オオカミの今後にひびく。
手負いで生き残れるほど、魔物は甘く無い。
オオカミ「お前のような娘に、右手の鉄は重かろう。俺は自分の倍ある獲物を担ぎ、この森の端から端まで走れるほど力持ちだ。どれ、そいつを持ってやろう」
幼女 「ありがとう。でもこれは村長から預かった大切な物なの」
オオカミ「では、左手の杖はどうだ。俺の鼻は危険を嗅ぎ分け、どんな目よりも役に立つ。どれ、俺がお前の目になろう」
幼女 「ありがとう。でもこの杖は羽根より軽く、ずっと私の目となってくれた自慢の杖だよ」
幸いにして、幼女はオオカミを人間と思い込んでいたが、思いの外に頑固だった。
そして幸運な娘だと、オオカミは思った。
ここは護神が去った後に残された、迷いの森。
どこまでも変わらぬ景色に、大抵の人間どもは発狂するが、幼女の瞳には、森もオオカミも映らない。
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オオカミ「疲れたろう。今日はここらで、一休みを入れないか?」
幼女がコクリ頷くと、オオカミは唇を舐めた。
所詮は、ひ弱な人間。丸一日歩いた今、その横顔には、疲労が滲む。
疲れ切った娘が、銃を手放して眠るまで、あと少しだろう。
だがオオカミも、空腹で目眩を覚えていた。
何日も飲まず食わずだ。思い出したかのように、腹の虫が鳴く。
幼女 「お腹が、空いているの?」
オオカミ「気にするな。もうすぐ、とびきりのご馳走にありつける」
幼女 「でも辛そうだよ。そうだ、これを食べなよ」
差し出されたのは、残り半分も無いパンだ。そんな物、普段は喰えたものじゃない。
だが囓ったそれは、それほど悪く無かった。
さらに水筒を飲み干して、やっと腹の心地が付く。
オオカミ「お前は、腹が空かないのか」
幼女 「うん、森に入る前、たっぷり食べたから。まだ、お腹空いてないの」
こっちは飢え死に間近なのに、随分と良い身分らしい。
すると、幼女が銃を手放していることに、気づいた。
――しめしめ、狩るならば今だ。
オオカミは、その大きな口を開け、牙の先端が白い喉元に、近づいていく。
娘が唇を開いたのは、その時だ。
幼女「ふふ、オカさんは、私のお兄ちゃんみたい」
オオカミは、牙を引いた。自分も誇り高きオオカミの端くれ。
最期の言葉くらいは、聞いてやろう。それが強者の作法だ。
幼女 「お兄ちゃんは、とても優しかったんだ。目がダメな私のために、ご本とか、読んでくれたんだよ」
オオカミ「そうか、それは俺と違って、良い兄だ。だからお前はこんなにも急いているのか。早く兄の元へ帰りたかろう?」
幼女 「……それも、悪く無いかな。私も早く、お兄ちゃんに会いたい」
オオカミ「ならば早く、用事を済ませて帰ることだ」
どこか娘の言葉が引っ掛かるが、どうせ帰すつもりは無いの。
だから、些細なことだと、オオカミは特に深くは考えなかった。
疲労に負けた少女が目を閉じると、オオカミは口を開いて、ふと思い直す。
まずいと思っていたパンが、空腹だとそれなりに感じたのだ。
もっと腹を空かせてからなら、少女の肉も、さぞ旨く感じるだろう。
滅多に無いご馳走だ。どうせなら贅を尽くしたく、それは我ながら名案に思えた。
娘が体を震わせた。毛皮に覆われたオオカミと違って、薄いケープしか羽織らぬ娘に、森の冷気は堪えるらしい。
死んで固くなった肉は旨くない。オオカミはその巨体で寄り添うと、驚いた幼女が毛皮を掴む。
――しまったと、オオカミは思った。
幼女 「これはこれは、まるでオオカミの毛皮みたいに、力強い毛皮だね」
オオカミ「そ、そうだとも。これはオオカミの毛皮だ」
幼女 「それに温かい。まるでこの毛皮がまだ、生きているみたい」
オオカミ「そ、それは俺は暑がりで、俺が着ていた物には、いつまでも体温が残るのだ」
幼女 「そんな温かい物を借りたら、オカさんが寒いでしょう?」
オオカミ「言っただろう。俺は暑がりなんだ。この程度の冷気、むしろ心地が良い」
納得したのか、娘は再び眠りにつくと、今度は深い寝息を立てる。
やれやれと、オオカミは息をついた。
危なかった。もし娘の瞳が僅かでも見えていれば、今の間に撃たれたことだろう。
翌日も一人と一頭は歩いた。
太陽が再び沈みかける頃、森が急に開けたその場所に、朽ちた神殿が現れる。
幼女 「ありがとう。ここまで来れば、大丈夫。これで私も、お役目を果たせるよ」
オオカミ「それは良かった」
これで、こちらも心置きなく喰えるものだ。
胃袋がキリキリ痛む。もう限界だ。
少女の柔らかい肉も、そろそろ食べ頃だろう。
どこから喰ってやろう、考えるだけで涎が零れる。
すると、少女が唐突に問うた。
幼女 「右足で良い? それとも腕の方が好みかな?」
一体、何を言っているのかと、オオカミは呆気にとられた。
そして娘は寂しそうな表情を浮かべ、オオカミを見つめた。
視線を合わせて、しっかりと、オオカミを〝凝視〟したのだ。
幼女 「ごめんね。実は少しだけなら、見えるんだ。オカさんが狼だということは、最初から知ってたの」
オオカミ「……狼と知って何故、俺を撃たなかった」
幼女 「この銃に込められた、一発だけの銃弾は、こう使うからだよ」
娘が撃鉄を上げた銃口を、自らのこめかみに付けると、オオカミは絶句した。
幼女 「魔物に家族を殺され、村の荷物でしかない私は、神への供物に選ばれました。どうぞ私の一部を引き裂き、お持ち下さい。それがオカさんへのお礼です」
オオカミ「待て、ならばお前は、命を捨てるために、ここまで生きたのか」
幼女 「はい。お兄ちゃんに似たオカさんのお陰で、ちょっぴり懐かしかったよ。それじゃ、ばいばい。いつまでも元気でね」
銃が吼えて血飛沫が飛ぶと、握られた銃口から硝煙が昇る。
その赤い雫を頬で受けた娘が狼狽しながら見上げると、右耳を吹き飛ばされた狼が、少女を組み敷いていた。
オオカミ「おい小娘、勘違いをするな。俺がお前を喰いたいのは、憎いからでは無い。お前の命で、俺の命を繋ぐためだ。繋ぐ前に、絶ってくれるなよ」
幼女 「ならどうすれば。村は私を、疎み、蔑み、暴力を振るい、私は誰が私を犯したのかも判らない。もう嫌だよ。私はやっと楽になれる。兄にも会える。それなのに――オカさんが、私を殺してくれる?」
オオカミ「馬鹿者が。命は生きようとするから、価値がある。見ろ、この先をさらに三日進めば、外の世界だ。人の感覚では無理だろうが、俺が案内すれば、抜け出せる」
幼女 「私を、食べてくれないの?」
オオカミ「俺は誇り高きオオカミだ。お前みたいな粗末な命を喰って生きながらえるほど、落ちぶれちゃおらん。お前がどこでのたれ死ぬのは、勝手だ。だが、この森では死ぬな。ここに生きる者は皆、誇り高い。お前の亡骸で、汚してくれるな」
激痛は後からやって来た。鼓膜も一緒に破れ、右は完全に聞こえない。
だが自分は誇り高きオオカミだ。死ぬために差し出された餌を貪る畜生では無い。
それから再び、一人と一頭は歩き出した。
娘が、杖を手放し倒れ込むと、オオカミが娘を背負って歩いた。
たらふく喰ってきたなど、嘘だろう。
あのパンも、最後の食料だったに違いない。
背中の娘が、狼に捕まりながら呻いた。
幼女 「……オカ、さん」
オオカミ「何だ」
幼女 「ありがと、う」
オオカミ「礼を言うくらいなら、もっと気の利いた物をよこせ。そうだな、パンが良い。お前の命を繋ぐあのパンを、森を出たら、俺にも、しょっちゅう持ってこい」
本当はあんなまずい物が喰いたいわけじゃない。
だが少女が他に、何を食べたことがあるのか、オオカミは知らなかった。
そして一歩、一歩を歩くごとに、体が軋んでいくのが解る。
幼女 「もう、もう良いよ、オカさん。私を食べて。これ以上はもう、貴方自身の体が」
オオカミ「俺を誰だと思っている。俺は恐ろしい人食いオオカミだ。お前なんぞの痩せぽっちを担いだ所で、鳥の羽を体に身につけるのと、さほど変わらん」
オオカミは焦った。
自分の体力以上に、段々と少女の命が尽きかけているのが、背中越しに伝わるからだ。
オオカミは昼夜を問わず、少女を背に載せて走り続けた。
既に自分も空腹と疲労で限界に近い。吹き飛ばされた右耳を中心に、満身創痍だった。
だがそれ以上に彼を動かすのは、捕食者の誇りと、命を冒涜する人族への憤りだ。
オオカミにとって命とは繋ぐ物。
それ以外の理由で奪い取るなんぞ、例え相手が神であったとしても、決して許されない。
それがオオカミのオオカミたる誇りであった。
そしてついに、森の端が見えてくる。
あまり、この辺りまで来たことは無いが、この先には、確か人里があったはずだ。
森を抜けて、その近くでこの娘を捨てれば、運が良ければ生き残れるだろう。
オオカミ「見ろ、あれが出口だ! 今、あそこから再び、お前の命は産声を上げる!」
光り輝く森の切れ目が迫ってくると、オオカミは雄叫びのように吠えた。
だが度重なる疲労と空腹と、何よりも片耳を失い、そっちから聞こえていたはずの気配を聞き逃した。
ズドンと、遠くで火薬が吼えた。
狼がこめかみに激痛を感じたか否か、少女を背負った巨体が急に失速し、少女の体を宙に投げ出して動かなくなる。
狼は、もう二度と動かなかった。
それから猟師によって呪いの森から救出された少女は、猟師がその日に仕留めた獲物のスープを食べて、命を繋いだ。
よっぽど腹が空いていたのか、その娘は泣きながらスープを平らげた。
そして、かつて少女だった女は猟師との間に子を成して、その子孫達は、狼を象った祠に、毎日パンを捧げ続けた。
おしまい。
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