ジャン「クマだ」(22)
足早の闇が辺りを覆い始める中、黒い吹雪が吹きすさんでいた。
オレたち数ある厳しい訓練のうちでも最も過酷とされる、厳冬期、山岳地帯での五日間に亘る歩行、登攀訓練に挑んでいた。
角度はほぼ90度な上に、凍てついた岩壁の表面は磨いた大理石のようだった。
コニーが先頭に立ち、登ってゆく。全身をバネのようにして壁を制していく技術は正に名人業だ。立体機動であれだけ小回りの利いた動きができるのも頷ける。
次にマルコ、最後にオレの順で互いをロープで結び、それぞれ登攀していった。
まずコニーが無事登り切った。ここを上がれば平地に出る。少し安堵していたその時だった。
「うわぁあああっ!!!」
疲労の見えていたマルコが足を踏み外した。オレとコニーで全体重をかけて支える。マルコは宙ぶらりんになって、どうにか体勢を戻そうともがいている。
「オイ!大丈夫か!」
「うん、何とか……」
もう一度壁にとりつき、今度は首尾よく登り、最後にオレが続いた。
「今のは危なかったね、助かったよ二人とも。ありがとう」
「おう、気にすんな!」
「お前ら足して2で割ったらちょうどいいんじゃねえかな」
ほっとしたところで笑い声が出た。
「とりあえずテントを張る場所を探すぞ。もう夜だ。」
一つの難局を乗り切ったオレたちは気が抜けていた。そう、普段だったらあんなヤツに気付かねえはずはねえんだ……
そいつは突然現れた。いや、突然のように見えただけで、注意してたら気付けたのかもしれない。だが、そいつが目の前に存在することは確かだった。
ヒグマだ
この時ほど自分の現状認識能力を恨めしく思ったことはない。冬眠期に起きている、空腹、体長3m、体重750キロ、時速70㎞、死、不可避――
選択肢は二つ。「三人」死ぬか、「オレ」が死ぬか。
前者はありえない。二人に背を向けたまま、叫んだ。
「走れええぇぇッッ!!!」
余程オレの声が鬼気迫るものだったのか、二人がGのようなスタートダッシュで走っていく足音が聞こえた。
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それから先はイマイチ覚えていない。とりあえず状況を説明すると、闇の中起きたら腹這いに寝ていて、目の前には雪の地面が一コマ見えるだけだ。
暫く寝転がったままでいると、片目でしかものを見てないのに気付いた。雪で隠れているみたいだが、頭を動かすのも面倒だった。
単調な風の音と、永遠に変わらない雪の地面にも飽きてきて、一つ起き上がろうとしてみた。
左腕と両足に雷で打たれたような痛みが走り抜ける。意識が飛ぶ――
目を覚ますと、また同じ光景。目を閉じても、同じ音。
整理すると、両足…骨折。左足…骨折。肋骨…数本。ひどいもんだった。
右腕一本で姿勢を変えるのは恐ろしく骨が折れた。だが子供のように惨めに泣きながらも、何とか傍の木に凭れて座ることができた。
何だってオレはこんなところにいるんだ? テントでココアを飲んでいるはずじゃねえのか?
どうでもいい考えが浮かんできた。まあいいや、寝よう……
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起きると、朝が近いのか大分明るくなっていた。相変わらず体は動かねえままだ。
じっとしていると、色々な考えや思い出が頭に去来する。まあいい、後一日もすれば死ぬ身だ。新聞に一行、訓練兵ジャン・キルシュタイン死亡。いや、おそらく名前も載るまい。オレの命なんか、虫けらと同じだ。
一つ思い出した。宿舎でセミが死んでいた。オレはきたねえなと思いつつそれを拾ってゴミ箱に捨てた。今のオレはどうだ、入る棺桶すらねえ!
「ははっ……」
涙と共に乾いた笑いが漏れた。ふと視線を移すと、お隣さんがいるのに気付いた。恐ろしくデカいな。
ぼんやりと眺めているとそいつが昨晩対峙したクマだと気づいた。奴さんも突っ伏してくたばってやがる。ざまあみやがれ。
待てよ、こいつとオレじゃあオレの方が悪いんじゃないか。こいつは腹減ったとこに餌が現れて襲いかかっただけだが、オレは訓練とか言ってこいつの縄張りにノコノコ入っていったんだからな。
何だってオレはこいつを殺したんだ? どうしてこいつはこんなところで死んでるんだ?
奴にだって子供がいるかもしれない。子供たちは穴ぐらで今か今かと帰りを待っているかもしれない。まあ、やっぱりどうでもいいや――
支援
オレはお隣さんへ向けた2mの大遠征を開始した。ずるずると進むが、ミリメートル単位で痛みが体に食い込む。
着いてみたが、そういやオレはナイフも何も持ってない。掌を食うのは諦めた。
それだけならまだよかったが、奴さんとんでもねえ死臭がする。それに酷い姿だ。顔はむくんで気持ち悪いし、右の眼球は飛び出ている。
オレは退却を開始しようとしたが、運悪く怪我したところに体重がかかった。
ぶっ倒れた。オレは絶望に捉えられて泣き出した――
殆ど昏倒の体で目覚めた。死臭だけが鼻に匂う。
夜風は吹き渡り、藪はざわめいている。ねぼけた小鳥が飛び立った。
辛うじて目を動かすと、クマが見えた。何かに食われたのか、顔の半分は骨が見えているし、落ちた肉が笑っているような表情を作って心底恐ろしい形相だ。
オレもすぐにこうなるんだ! ババアの飯が食いたい。ミカサに会いたい。誰か助けてくれよ!頼むから……
でも駄目だ、オレもすぐにお隣さんみたいになるんだ。死ぬんだ。
木々が揺らいで、カサカサと言う。「お前は誰にも知られずに死ぬんだな。お前は誰にも知られずに死ぬんだな。お前は誰にも知られずに死ぬんだな。」
「ここじゃ誰も見つけらんねえはずだ!」
ああ、何だか気持ちが好いな。ベッドに寝ているような心地よさだ。そうか、ここがあの世なんだな。
「……おい、おい!」
黒い髪の女がいる。まさかミカサか!? 違う、ソバカスだ……オレはあの世ですら運が悪いらしい。
なんでもいいや。接吻しよ。
「んっ!んーーっっっ!!!」
うるせえな、天国でくらい思い通りになれよ。
「ぷはっ!やめろこの馬面!」
殴られた。痛いな。あれ、痛い?
他に幾つかベッドがあって、包帯やらギプスやらをした人たちが寝ている。オレは兵団の病室に居た。
「ジャン、生きてて本当によかった!ぼくらあの後本当に後悔して心配してたんだ」
「……すまねえ。助かった」
マルコとコニーがいる。あとアルミン。そこにひげもじゃだが、頭の毛根には職務放棄された医者が入ってきた。
「起きたんじゃな。正直生き延びたのが奇蹟じゃ。言いたくないが、指の数本は覚悟しといた方がええぞい。退院までは……三か月くらいかの」
これでオレも開拓地行きかと思ったが、不思議と悲しくはなかった。ミカサに会えなくなるのが若干寂しいと感じたくらいだ。
「ジャン、窓台を見て! その花束はミカサが持ってきてくれたんだ! 完治すれば、またミカサに会えるよ!」
アルミンが何も言わないオレを見て言った。
オレの怪我は一週間で完治した。
付け加えると、後でそれはアルミンのウソだったことが判明した。
ちくしょおぉ!
了
>>12
遅ればせながらありがとうございます。
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