【モバマス】「橘ありすの電脳世界大戦」 (33)
モバマス、橘ありすのSSです
少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いです
【モバマス】「幸子、俺はお前のプロデューサーじゃなくなる」
【モバマス】「まゆ、お前は夢を見せる装置であればいい」
と、同じ世界観の話です
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卒業を間近に控えた、十二月の初頭に、今年初めての雪が降りました。
算数の授業中、窓の方から「うわぁっ」って無邪気な声が聞こえてきたんです。
見ると、窓際の席の子たちが、総立ちになって、窓から身を乗り出していました。
「雪だ!」
広い校庭に向かって、灰色の空から、白いかけらがはらはらと落ちてきています。
歓声が上がり、私の周りの席の子たちが、窓の方に駆けていきます。
今が授業中だってこと、分かってるんでしょうか。
溜め息をひとつ。
まったく、幼稚なんだから。
私はそんな子どもじゃないです。
そう主張するつもりで前を向けば、先生までもが教壇からおりて、雪を眺めています。
ぶすっとした顔で、私は手元の計算問題に挑みます。
雪なんて、はしゃぐほどのものじゃないでしょう。
結局、三限目はほとんど授業になりませんでした。
休み時間になると、みんなは、我先にへと教室を出て行きます。
「橘さんは、行かないの?」
物腰柔らかな、年を召された算数の先生が、微笑んでいます。
「結構です。ころんだら危ないですし、風邪を引いても困りますから」
きっぱりと言い、私はランドセルの中から、読みかけの小説を取り出します。
ふと辺りを見渡せば、私だけが残された教室は、静かで、なんだか物悲しい。
窓の外からは、きゃっきゃという声が聞こえ続けています。
「……非論理的です」
私は小説のページをめくります。
放課後になっても雪は降り続けています。
私はさっさと荷物をまとめると、口元を隠すようにマフラーを巻き、手袋をはめました。
クラスメイトたちの多くは、仲の良いグループで集まって、居残りをするようでした。
私が教室の出口に向かっていると、間近で「可愛い!」という声が上がり、驚いて足を止めます。
近くにいた女子グループの子たちが、机の上に大判の本を広げていました。
少しだけ、気になって、覗き込んでしまったのが間違いでした。
私に気づいた一人の子が、振り返り、目を輝かせていました。
「橘さんも、まゆちゃんのこと知ってる? すっごく、可愛いよねえ」
彼女たちは、佐久間まゆというアイドルの写真集を広げていました。
「私、アイドルとか、興味ありませんから」
返事も待たずに教室を出て、足早に下駄箱へと向かいました。
外は寒く、吐く息がたちまち白く立ちのぼっていきます。
私は手をこすり合わせ、歩き出します。
校庭の地面は、降り続ける雪によって真っ白く覆われてしまっていました。
正門と逆の方向に向かう、私の行く道に人の姿はありません。
振り返ると、閉められた校舎の窓には、たくさんの人影が映っています。
毎日通っているのに、私の居場所とはかけ離れたところであるように思えてしまいます。
直視できなくなった私は、校舎に背を向け、校庭の隅っこに建つウサギ小屋を目指します。
私が来たことに気づくと、三匹のウサギたちは食事の時間かと色めき立ちます。
金網一枚を隔てて屈み込んだ私は、口元部分のマフラーを下げました。
「今日は、寒いですね」
手袋を外し、金網の間から指を差し入れると、ウサギの一匹に甘噛みされました。
美味しくなんてないだろうに、一生懸命、もぐもぐとやっています。
「あなたたちは、檻の中にいて、嫌にならないんですか」
ウサギたちと見つめ合いますが、答えを期待するほど、メルヘンな頭はしてません。
「もうすぐ、私は小学校を卒業します」
口に出してみても、これといった感慨はありません。
「あなたたちとも、お別れですね」
ウサギは、三匹揃って、憎らしいぐらいに無表情です。
「まあ、だからなんだ、という話ですけど……」
私が指を引くと、ウサギに名残惜しそうな瞳で見上げられました。
「また、来ます」
腰を上げると、視界の端に、雪が分厚く積もっているところを見つけました。
どうやら、小屋の、斜めになった屋根からうまい具合に雪が滑り落ちたみたいです。
私は、じっと、目の前の雪の絨毯を見下ろします。
辺りに誰もいないか、何度も振り返って確認をします。
白い、息を、吐き出して。
ぼふん。
私は、前のめりに倒れ、全身を雪にめり込ませていました。
立ち上がると、雪には、人の形をした型が、くっきりと刻まれています。
「えへへ……」
笑みが自然とこぼれます。
だけど、ウサギが私を見ていることに気づいた途端、頬が熱を帯びました。
私は、髪や服についた雪を払い落とし、歩き始めます。
「……非論理的です」
通学路の途中には、夏頃にできた行きつけのコンビニがあります。
立ち寄ろうとした私は、妙な雰囲気を感じずにはいられませんでした。
普段、お世辞にも賑わっているとは言えないのに、コンビニの駐車場が埋まっています。
よく見る客層とは違う、若い男性の方々が、店舗周りを歩いたり、写真を撮ったりしています。
不審者だらけ、というのが正直な感想です。
極めつけは、店舗を取り囲むように立てられた旗です。
おにぎりセールとか、おでんの値引きとか、そういう宣伝に使われているのが普通なのに。
今は、佐久間まゆというアイドルの笑顔が、いくつも風に揺れています。
店内に入ると、店員さんたちが忙しそうにレジ打ちをしています。
列の最後尾に並び、店内を見渡せば『祝!佐久間まゆ初写真集発売!』という文字が躍っています。
このコンビニは、佐久間まゆというアイドルのファンにとっての聖地みたいですね。
興味、ありませんけど。
少しばかり顔が綺麗なだけの女の人に、熱狂するなんて、馬鹿げています。
「ピザまんひとつ」
コンビニを出た私は、ピザまんをかじりながら帰路につきました。
駅前では、クリスマスソングが流れていて、そういえばそんな時期だなって思います。
広場では、サンタの衣装を着た女の子が、行き交う子どもたちに風船を配っていました。
いままた、家族連れが、彼女の傍に近寄っていき、男の子二人が風船を手渡されています。
ぼうっと、その光景を眺めていたのがよくなかったんだと思います。
一人でいる私に気づいた彼女が、近寄ってきて、笑顔で風船を差し出してきました。
その子は、私と同い年ぐらいで、非常に整った顔立ちをしています。
「……どうも」
無視するのも失礼なので、仕方なく受け取ってあげました。
手を振る彼女を見送り、歩き出します。
ふと気づいたのですが、どこもかしこも、クリスマスムード一色という感じです。
多くの店の屋根には金銀のモールが巻きついていますし、扉にはベルが取りつけられています。
クリスマスツリーが置かれている店もあって、電飾が点滅していて目に痛いです。
周りを歩く人たちの顔も、心なしか、浮かれているみたい。
サンタなんて、世界中どこを捜したって、いないのに。
クリスマスなんて、お菓子業界の陰謀みたいなものでしょう。
「馬鹿みたい」
私は風船の紐を握る手に力を込めました。
お風呂から上がった私は、キッチンに行き、ポットでお湯を沸かします。
家族におやすみをしてから、ティーバッグのお茶を持って部屋へと戻ります。
宿題は昼休みのうちに仕上げてあるので、これから寝るまでの数時間は自由です。
私は勉強机に向かうと、ノートパソコンを立ち上げます。
一年ぐらい前、成績が優秀だったご褒美として買ってもらいました。
インターネットに接続し、開くのはもちろん、有名な巨大掲示板です。
雑多な情報が集積し、人々の善意と悪意が渦巻くその場所は、知の宝庫と呼ぶに相応しいです。
ここではすべてが自己責任。
私と同年代の子たちなんかは、触ると火傷してしまうに違いありません。
かくいう私も、無事では済みませんでした。
道理の分からない人たちと対決しましたし、無限に出現するウインドウに驚きもしました。
少し、泣いてしまったこともあります。
ですが、様々な経験を積んだ私は、インターネットのヘビーユーザーです。
彼を知り、己を知れば、百戦あやうからず、という言葉もありますからね。
膨大な種類の掲示板のうち、私は行きつけの、雑談系の掲示板を開きます。
雑談系の掲示板は、さらに地域別に区分されていて、私は自分が暮らす地域を選びます。
まずは、どんな書き込みがされているのかをチェック。
今は、クリスマスが近いということで、楽しみだの、予定はどうだのと話しています。
今日は、私と同年代の子が多いのか、幼稚な内容が目立ちます。
例えば、これ。
名前:冥府より出でし堕天使
祝祭を前に歓喜せし我が魂!
意味が分かりません。
分かりませんが、クリスマスを前に浮かれ気分であることだけは伝わります。
この世間知らずの誰かに、少し、世間の厳しさを教えてあげましょう。
名前:三匹のウサギ
宗教徒でもないのにクリスマスを信仰するなんてちゃんちゃらおかしい。
お菓子メーカーの営業戦略に踊らされている自分が滑稽だとは思わないんですか。
直前まで活発に書き込みをしていた堕天使氏の書き込みが、ぴたりと止まります。
例え、嫌われ役になっても、本音を言わなくてはならない時があります。
辛い役回りですが、私以外に適任がいないというのが悲しいところです。
そのうちに、今年来るサンタには、どんなプレゼントをお願いしようかといった話題が流れてきました。
サンタさんは来てくれるかな、今年こそ起きて待ってようとか、無邪気な書き込みばかりです。
サンタが、自分の両親であることを、この人たちは知らないんでしょうか、知らないんでしょう。
私は小学五年生の時にはもう気づいていたのに、夢見がちな人たちが多いと見えます。
名前:桃缶
三匹のウサギさん、そういう言い方、ないんじゃないですか。
クリスマスを楽しみにしてる人、盛り上げようとしてる人、どっちもに失礼です。
私はむっとして、キーボードを叩きます。
名前:三匹のウサギ
クリスマスに興味がない人だっているんです。
外に出る度に、ツリーだとか音楽だとかサンタのコスプレだとか、もううんざり。
家に引きこもって、ひとりで音楽流すなりケーキ食べるなりしててください。
名前:桃缶
三匹のウサギさん、名前と同じで、寂しがりやなんだ。
ふふ、かわいい。
頭にかっと血がのぼります。
部屋の天井に引っかかった風船の、ぶらぶらと揺れる紐がめざわりで、思わず払いのけました。
私はブラウザ上に別のタブをつくり、検索窓に「ツーショットチャット」と打ち込みます。
ツーショットチャットとは、邪魔者が入らない、二人きりで話すためのチャットです。
私は部屋を作成すると、掲示板にそのアドレスをコピーして、こっちに来るよう伝えます。
名前:桃缶
よろこんで。
寂しがりやのウサギさん♪
掲示板を表示させたタブを消し、ツーショットチャットで待つこと十数秒。
桃缶さんが入室しました、というメッセージと共に、その忌々しい相手が現れました。
三匹のウサギ:いい度胸ですね、桃缶さん。
桃缶:そうでなければ、やっていけませんもの。
三匹のウサギ:どういうことですか。
桃缶:わたくし、アイドルをしていましてよ。
三匹のウサギ:つまらない嘘をついても、ボロが出ますよ。
桃缶:自分の仕事に、嘘はつけませんわ。
淀みない返答に、私は戸惑いを隠せません。
とはいえ、ここに呼び出した以上、逃げては私の負けになります。
相手が本当にアイドルだったとしても、だからなんだって感じです。
桃缶:それより、わたくしに用がありまして?
三匹のウサギ:私を馬鹿にしたことを訂正してください。
桃缶:?
三匹のウサギ:寂しがりやで、かわいいとかってやつです!
桃缶:あら、可愛いっていうのは、褒め言葉でしてよ?
三匹のウサギ:かわいくないです。
桃缶:別に、訂正しても構いませんけれど……あなた、変わってますわね。
三匹のウサギ:可愛いってだけで、お気楽に暮らせる身分の方とは違うんです。
桃缶:聞き捨てなりませんわ。
三匹のウサギ:事実でしょう。
桃缶:あなたにアイドルの何が分かるんですの。今すぐ訂正なさい。
顔の見えない相手の怒りを感じ、キーボードを打つ手が止まった。
心臓が激しく脈を打ち始めたけれど、売り言葉に買い言葉です、私は退きません。
三匹のウサギ:嫌です。せいぜい、男の人たちにこびを売ってればいいでしょう。
桃缶:それ、わたくしの前でも言えまして?
三匹のウサギ:当たり前じゃないですか。何度だって言ってやります。
桃缶:なら、会いませんこと。
三匹のウサギ:どうやってですか。
彼女は、通学路の途中にある、駅の名前を挙げました。
桃缶:わたくしは、夕方頃、毎日そこにいますわよ。
三匹のウサギ:それがあなただっていう証拠はあるんですか。
桃缶:疑い深いですわね。文句ついでに、直接訊いてみればいいでしょう。
三匹のウサギ:なら、そうさせてもらいます。
桃缶:じゃあ、お待ちしておりますわよ。
三匹のウサギ:べそかかないよう、ハンカチの用意でもするんですね。
桃缶:あなたこそ、白旗でも用意してきなさいな。
会いに行くわけないでしょう、馬鹿じゃないですか。
そんなことをしたって、私に何の得もありません。
とはいえ、帰り道ですし、気にならないといえば嘘になります。
どうせ、向こうには、私の顔なんて分からないわけですし。
「……見物だけ、行ってみますか」
私はピザまんをかじりながら、駅前広場に向かいます。
すると、大きな木の陰に、見覚えのある顔の人物が立っていました。
昨日、私に風船をくれた、あの子です。
今日もまた、サンタの服を着て、その手にはマイクを握り締めています。
足元にはこじんまりとした音楽機材が置かれ、傍らには顔写真入りの立て看板があります。
『櫻井桃華』
どうやら、それが、桃缶という人物の正体みたいです。
物珍しさからか、櫻井桃華の周囲には、何人かの男性が集まってきています。
気づかれるとまずいので、私は彼らよりもさらに遠くから、様子をうかがいました。
看板の説明書きによると、近々、櫻井桃華が出演するライブイベントがあるそうです。
つまりこれは、本人による、チケットの販促イベントということなんでしょう。
櫻井桃華は深々とお辞儀をしてから、クリスマスソングを歌い始めます。
その歌声を聞いた瞬間、私は驚きに目を見開いてしまいます。
どうせ、素人に毛が生えた程度だろうって思っていたのに、その声はとても綺麗。
悔しいけど、上手いって、認めざるを得ません。
そのうち、曲が終わり、拍手が起こります。
櫻井桃華は、ひとりひとりに頭を下げ、握手を求めています。
その時、ひときわ強い夜風が吹いて、私は両肩を抱きます。
「寒ッ……」
雪こそ降っていませんが、マフラーと手袋で完全防備していたってこれです。
サンタ服を着た櫻井桃華は、手足の肌が大きく剥き出しで、見ているだけで凍りつきそう。
ひとまず、相手の素性を知ることができました。
今日の成果としては、それで十分でしょう。
二曲目の歌声を背中に受けながら、私は手をこすり合わせ、足早に家へと帰ります。
「橘さん、クリスマスパーティー、どうする?」
帰り支度をしている時、さほど親しくもない子に話しかけられました。
「私、その日は用事がありますから」
手短に拒絶して、教室を後にします。
結局、その日も、私は駅前広場に足を運んでいました。
手頃な位置に置かれたベンチに腰かけ、今日も今日とて、歌う櫻井桃華を観察します。
見ていると、櫻井桃華の歌に足を止める人間は、ほとんどいないことが分かります。
行き交う人たちの多くは、他に目的があって歩いているわけですから、当然です。
歌ってる子がいるな、ぐらいには思うかもしれませんが、そのまま無視です。
あれだけ必死に歌っても、九割九部九厘の人は聞いてなんてないです。
実際、私が来てから、チケットは一枚も売れてません。
無駄な努力をして、いったい、何になるんでしょうか。
理解しがたいです。
櫻井桃華は、ひとときも笑顔を崩さずに、寒空の下で歌っています。
道行く人に声をかけ、無視をされてしまっても、笑顔でいます。
仕事だから、仕方なく、そうしているんでしょう。
何でこんなことしてるんだって、本心では思っているに違いありません。
世の中はもっとシンプルでいいと、私は思っています。
嫌なことなら嫌だと言えばいいし、納得いかないことは納得しなくていいんです。
適当言ってごまかして、いい顔をするなんてのは、保身しか考えてない人のやることです。
アイドルなんていうのは、自分に嘘をつくだけの、まやかしの存在に過ぎません。
櫻井桃華は、今でこそ、必死に歌って、笑顔を取り繕っているけれど。
人の目がなくなれば、どうせ、すぐに化けの皮が剥がれます。
「寂しがりやなんて、言われる筋合い、ないです」
私は、言いたいことを言って、やりたいことをやってるだけ。
それでひとりになるのなら、仕方がないことです。
あなたにそれができますか、できないでしょう。
櫻井桃華の、輝くような笑顔を、私は遠目からじっと見つめています。
夜になると、私はいくつかの掲示板を巡り、面白そうな話題を探します。
ある時は、下らない悩みでうじうじしている人たちに下らないと言ってやりました。
ある時は、壮大な夢を語る人に現実を教えてあげました。
ある時は、クリスマスを心待ちにする人をせせら笑ってやりました。
こうして書き込みをした掲示板には、しばらく立ち入らないようにしています。
だって、口汚い文句が返ってきたら、怖いじゃないですか。
私はお茶をすすり、夜食として持ってきたクッキーをかじります。
明日は学校が休みなので、いつもより夜更かしができます。
書き込みに飽きた私は、テレビをつけて、ゲーム機を起動させます。
世の中は便利になったもので、インターネットを介して日本中のプレイヤーとゲームができます。
家に人を呼ばなくても、対戦相手に困ることはないんです。
素晴らしい時代だと、思いませんか。
コントローラーを握り、私は猛者との対決の旅に出かけました。
対戦をしながら、私はふと、自分の小学校生活を思い返します。
思えば、印象に残る、小学生らしい思い出は、ほとんどありません。
ウサギと仲良くなれたことぐらいでしょうか。
「……あ」
負けてしまいました。
何となく、再戦する気になれなくて、そのままゲームの電源を切ります。
私は、ガスが抜けて床に落ちた風船を拾い、ベッドに寝転がります。
「あの子たち、寂しくしてるでしょうか」
三匹のウサギたちの、こちらを見上げる赤い瞳を、私は思い出していました。
その日の放課後、私は何日かぶりにウサギ小屋に足を向けます。
曲がり角を曲がろうとした時、話し声が聞こえてきて、反射的に足を止めます。
こっそりと覗き込めば、ウサギ小屋の前には、先生を従えた何人かの生徒がいます。
彼らは、先生から受け取った鍵を使い、小屋の中へと入っていきます。
「ほら、ご飯だよ」
置かれたお皿の上には牧草や野菜が載っていて、三匹は勢いよく食べ始めます。
「可愛いね」
女性徒たちが微笑みながら、間近でウサギたちの食事を観察しています。
食事が終わると、彼らは順番にウサギを抱っこしています。
私は、金網越しにしか、あの子たちと触れ合ったことがないのに……。
あの子たちは、あの生徒たちに、よく懐いているように見えます。
もしかすると、これまでに何度も、食事を与えてきたのかもしれません。
その光景を見ていると、心に、ちりっとした痛みが走りました。
分かっています、あの子たちは、私が飼っているわけでもなんでもないです。
望めば、飼育係になれたかもしれませんが、私はそうはしませんでした。
だから、こんな気持ちになるのは、非論理的で、何かの間違いなんです。
なのに、何でこんなに、心が痛いの。
私は振り返らずに駆け出して、学校を後にします。
気がつくと、私はまた駅前広場に来ていました。
相変わらず、櫻井桃華は、ほとんどいない観客に向かって歌を披露しています。
私は呼吸を落ち着けます。
そうしてから、いつも定位置にしていたベンチを越えて歩いていきます。
元々が少ない観客です、私が最前線まで来たことに、櫻井桃華はすぐに気づきました。
憎らしいほどに、きらきらとした笑顔が、私に向けられます。
嫌いな相手のはずなのに、何でこんなことって、自分でも思います。
だけど、少し考えてみて、分かりました。
気に食わない相手だけど、櫻井桃華は、私から逃げませんでした。
真っ向から喧嘩を売ってきたんです。
だったら、私も逃げるわけにはいきません。
ほら見たことか、アイドルなんて所詮こんなもんじゃないですか、って。
そう、面と向かって言ってやらないとおかしいじゃないですか。
どちらかが折れるまで、この喧嘩は終わりません。
私は挑むような目をして、櫻井桃華を見つめました。
そうして私は、櫻井桃華のイベントの、一番の常連客になります。
だけど、チケットは一枚も買ってあげません。
仮にチケットの話を持ち出されても断固として拒絶です。
櫻井桃華が嫌いなんだから、当然でしょう。
私は、さぞかしおかしな常連客だったと思います。
学校が終わるとまっすぐに、私は駅前広場へ向かいます。
既に歌い始めている時と、準備中の時とは、半々ぐらいです。
私は最前線に居座り、楽しそうな顔をするでもなく、櫻井桃華を見上げます。
どう思われてるか知りませんが、嫌われたって知ったことじゃありません。
私はそのまま、夕食に間に合うぐらいの時間までいて、無言で立ち去ります。
もちろん、いつも天候に恵まれていたわけじゃありません。
前が見えなくなるぐらいの雪が降ることもありましたし、土砂降りもありました。
暴風雨で傘が粉々になりもしましたし、くしゃみが止まらなくもなりました。
それでも、私は一度としてイベントに欠席はしませんでした。
完全に意地です。
そしてまた、櫻井桃華も、決してイベントを中止にはしませんでした。
一日ぐらい休めばいいのに、正気とは思えません。
いよいよ私の意地も極まって、休日には、夕食後も駅前に繰り出しました。
その時間帯になると、寒さも一段と厳しさを増して、コートを羽織っていても震えます。
その日は、あまりの寒さに、観客は早いうちから私ひとりになりました。
櫻井桃華は、八時まで、私の為だけに歌い続けて、最後には長い長いお辞儀をします。
私は拍手もしませんでしたが、今までもそうだったので、向こうが気にした様子はありません。
すると、改札口の方から、私たちよりも一回りほど年上の、スーツ姿の男性が歩いてきました。
身構えた私を無視し、彼は、親しげな感じで櫻井桃華に話しかけています。
彼の手で、櫻井桃華の肩にコートが掛けられ、缶のスープが手渡されました。
相手を信頼しきったような、櫻井桃華の目を見ていると、自分がみじめに思えてきて。
私は足早に駅前広場を立ち去ると、自宅に帰り着いてすぐ、ノートパソコンを立ち上げます。
開くのは、私と櫻井桃華の因縁の始まりである、あの掲示板です。
今見たことを書いてやろうって思いました。
男の人と親密にしていたなんて、アイドルにとっては致命的な情報です。
ですけど、本文を打ち込み、投稿しようとした瞬間、私の指は凍りつきます。
「なんてっ……卑怯……っ!」
歯を食い縛り、ノートパソコンを閉じました。
自己嫌悪の渦の中、櫻井桃華の笑顔が、何度も浮かんでは消えました。
その日も、私は櫻井桃華の歌を聞いて、家路につきました。
不本意なことに、今の私は、櫻井桃華の持ち歌を完璧に記憶しています。
あれだけ、毎日同じ歌を聞いていれば、無理もないことです。
お風呂に入って、さっぱりした私は、ノートパソコンを立ち上げます。
お茶を片手に、掲示板を眺めていた私の手が、ふと止まります。
名前:名前を入力してください
駅前広場の、櫻井桃華っての、いつまで居座んの。
うぜーんだけどさ。
私は、なんだか放心して、じっと画面を見ています。
「……ほら、見たことですか」
ぽつりと、そんな言葉が喉からこぼれ落ちました。
所詮、人間なんて、自分勝手な存在なんです。
あなたが笑顔を振りまこうと、遠慮なく悪意をぶつけてきます。
凍えそうな寒空の下で、声を張り上げていても、知らんぷり。
食事もせず、ほとんど休みなく歌っていたって、報われません。
みんな、無関心なんです。
誰も、あなたのことなんて見てません。
あなただって分かっているはずでしょう。
名前:名前を入力してください
あー、見た見た。
チケット売り、ご苦労さんなことだ。
名前:名前を入力してください
売れてるの、見たことないけどね。
まあ、なんか、普通だし。
ちょっと可愛くて、ちょっと歌が上手いだけじゃね。
名前:名前を入力してください
粘ってたって売れるわけないのになー。
仕事とはいえ可哀想だねえ。
というか虐待じゃね?
匿名だけあって、容赦ない言葉が次々と投げ込まれます。
これには、さすがの櫻井桃華も、こたえるでしょう。
明日からは、もう来ないかもしれません。
そうなれば、不戦勝ということになるでしょう。
私がもう一押しすれば、それがとどめとなるかもしれません。
ふん、自業自得です。
「アイドルなんて馬鹿げたもの、選んだあなたが、悪いんです」
私は、睨むみたいに目を細めて。
キーボードを、叩いて。
名前:三匹のウサギ
あなた方に、櫻井桃華の何が分かるんですか。
「……ふざけたこと、言ってんじゃないです」
私は唇を噛み締めます。
名前:三匹のウサギ
誰かひとりでも、あの子の歌を最後まで聴きましたか。
誰かひとりでも、真剣にあの子を見てあげましたか。
知った風な口をきいてんじゃないです。
名前:名前を入力してください
は? なにおまえ?
名前:名前を入力してください
意味分からねー。何様ですか?
名前:名前を入力してください
ていうか本人? 見てらんないね。
名前:三匹のウサギ
櫻井桃華は、毎日毎日、馬鹿正直に歌ってやがるんです。
無視されても、誰も自分を見なくても、必死に。
あれだけ寒い中で、あなたたちは笑顔で歌ってられますか。
あんなにきらきらと輝いてられますか。
ちょっと可愛くて、ちょっと歌が上手いだけの子に、それができると思うんですか。
遠くから石を投げることしかできない弱虫に、あの子をけなす資格はありません。
名前:名前を入力してください
知らねーよ。
だから、誰だよお前は。
……どうして。
どうして、涙が流れるんですか。
好きに言わせておけばいいじゃないですか。
標的は私じゃないし、どころか、私の嫌いな相手です。
それがいま、嵐みたいな罵声が、今度は私に向けられています。
だけど、そんなの、怖くない。
怖くて、泣いているわけじゃない。
悔しいんです。
あんなに頑張ってるのに、どうして、人はこんなに冷たいんですか。
どうして、私みたいな人間しか、あの子を擁護してあげられないの。
ぽたぽたと、頬を伝う涙を拭い、私は拳を握り締めます。
「悔しい……」
仄かに発光するノートパソコンの前、私の声は、誰にも届きません。
翌日の私は、授業を、ほとんど上の空で聞き過ごしていました。
取り返しのつかないことをしてしまった、という後悔だけがあります。
放課後になり、私は、教室に居残っていた人たちに、恥を忍んで声を掛けます。
駅前広場に、一緒に来てくれませんかと。
ひとりでも多くの観客を連れて行くことが、せめてもの罪滅ぼしみたいに思えたんです。
だけど、誰もが、用事があるからと言って私を拒絶しました。
ついに誰もいなくなった教室の中で、私はひとり自嘲します。
他の人たちを拒絶してきた私が、何をいまさらって、自分でも思います。
ぼんやりしたまま、吸い寄せられるように駅前広場に着いた私を、櫻井桃華が出迎えます。
昨日、あんなことがあったというのに、その輝きが褪せることはありません。
「きれい……」
吐息みたいにこぼれます。
サンタの衣装で着飾り、自信満々で歌う櫻井桃華は、掛け値なしに美しかった。
色眼鏡を外した今、私の口からは、ただ感嘆のつぶやきだけが漏れ出ます。
櫻井桃華が身にまとう輝きは、まぶしくて、私の目には、少し、痛い。
私の人生は何だったんだろうって、今また改めて思わされました。
物事を、斜に構えて見て。
綺麗なものを、素直に綺麗だと言うことすら、できなくなって。
たくさんの人を、見下し、傷つけました。
私は、馬鹿です。
私こそが、馬鹿なんです。
歌う櫻井桃華が、今は、ひどく遠い存在に思えます。
手を伸ばしたって、永遠に届くことがない星々のよう。
この気持ちが。
この憧れが。
人を魅了してやまない、アイドルという存在がもたらす奇跡なのかもしれないと。
今になって、ようやく気づきました。
その瞬間、私は、勝負に負けたんです。
……クリスマスソングが、途絶えます。
お別れの時です。
私は、櫻井桃華と関わるに値しない人間でした。
彼女の人生をかき回したことは、本当に申し訳なく思います。
もう、私が彼女の前に現れることは、二度とないでしょう。
そう決めた時、どうしようもない寂しさが、胸を締めつけます。
私は、輝かしい場所へ歩いていくだろう櫻井桃華に背を向けました。
「……さようなら」
小さく別れを告げて、
一歩を、
「待ちなさいな」
足を止めます。
「今立ち止まった、あなたですわ」
長い沈黙の後、私はようやく振り返ります。
互いの息が掛かる程の距離に、櫻井桃華がいました。
今にも泣き出しそうな、潤んだ瞳をしています。
「やっと、見つけましたわ」
私の心臓は、張り裂けそうなぐらいに暴れていて。
「寂しがりやのウサギさん――あなたなのでしょう?」
決して届くはずのないところから、投げかけられた声に。
私の瞳が、大きく見開かれ。
そこから、大粒の涙が、落ちました。
「どうして……分かったんですか」
「わたくしを庇っていただいて、嬉しかったですわ」
「あれは……」
声がどうしようもなくかすれます。
「あなたは、毎日、ここに来てくださいましたわ。それがどれだけ、心強かったか」
「私は……あなたの、あらを探そうと、ばかり……」
彼女は首を横に振ります。
「理由なんて、関係ありませんわ。わたくしは、わたくしを見てくださる方に、最高の桃華をお見せするだけ」
だけど、と彼女は少し照れくさそうに微笑みました。
「今日は、あなたの為だけに、歌いましたわ」
私はぶるっと全身を震わせます。
「……ごめんなさい……私……」
彼女は困ったように苦笑して、ふと何か思いついたみたいに人差し指を立てます。
「では、お詫びにひとつ、わたくしのお願いを聞いてくれまして?」
「なん、でしょうか……」
「――お名前を」
「……橘、ありす」
「櫻井桃華ですわ」
彼女は、私の手を、両手で優しく包み込んで。
「どうか、わたくしの、お友達になってください」
季節は巡って、校庭の桜は美しく色づいています。
卒業式は厳かな雰囲気のまま、終わりました。
泣いている子も多かったですけど、私は泣きませんでした。
教室での最後のホームルームを経て、私は今、ウサギ小屋の前にいます。
他の生徒たちは、ほとんどが、正門前で記念写真を撮ったり、話をしたりしています。
その輪の中に加わるなんてこと、私には到底無理でしょう。
そういう学校生活を送ってきたのですから、当たり前のことです。
「元気にしてましたか」
私が声を掛けると、三匹のウサギたちは、慌しく寄ってきます。
「少し、待っていてください」
私は、先生に借りた鍵を使い、小屋の扉を開けます。
ウサギたちが逃げないよう、慎重に、自分の体を滑り込ませました。
「ようやく、こうして出会えましたね」
少しためらいましたけど、私は小屋の床にぺたりと座り込みます。
制服が汚れちゃいますけど、どうせこれが最後なんです、好きにさせてください。
「よしよし」
一番近くにいた子を、抱っこしてみます。
なかなかに重みがあって、何よりあったかいです。
「えへへ……」
私は、三匹ともを、満足がいくまで、順番に抱っこしていきました。
「私は、今日で、この学校を卒業です。どうですか、寂しいですか」
最後ぐらい、奇跡めいたことが起きないかって、期待しちゃいます。
だけど、ウサギたちは、相変わらずの顔をしたままで。
「私、夢ができたんです」
誇らしげに胸を張ります。
「多くの人々に夢を与える、やりがいのあるお仕事です」
聞いているのか、いないのか。
一応、こっちを向いてはいるウサギたちに、語りかけます。
「決して簡単な仕事ではないです。辛い目にも遭うでしょう。だけど、やるって決めました」
だから、と、私は身を屈めて、ウサギたちと視線の高さを合わせます。
「いつか、私がトップアイドルになって会いに来るまでには、人の言葉を覚えてください」
約束ですよ、と、ウサギたちの腕に、小指をちょんちょんと触れさせていき。
私はひとり、微笑みます。
もう、寂しくなんて、ありませんでした。
以上となります。
ありがとうございました。
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