八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」 (936)
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のSSです
時系列的に7巻以降の話なので原作未読の方はネタバレ注意
スレ立て初めてなので何か問題があれば指摘してください
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1375267813
①彼と彼女はまだそれに気づいていないのかもしれない。
修学旅行後の代休の翌日、つまり学校の通常の授業が再開される日。本来であれば俺は学校にいるはずだった。この際、
いるはずなのにいないもの扱いされるとかそういう細かいことには言及しない。いないもの扱いしないとクラスの人間が
死ぬとかじゃないのにどうしてなんだろうね。いや、むしろそういう扱いを受けてるおかげで死なずに済んでいる人間が
いると考えよう。もしかして俺、救世主?
まぁ、救世主というのは大げさにしても半ば強制的に入れられた部活のせいでこの半年間、色々な人間の「問題の解決を
するための『お手伝い』」とやらをやらせていただいたので、あながち間違った言い方でもないのかもしれない。しかし、
手伝いという割に何故こんなに負担を感じているのか…………そのせい、とは言わないが今の俺は絶賛風邪引き中である。
だるい……そしてまだ熱い。
とりあえず、家にあった市販の風邪薬を飲み冷却シートを額に貼ったので本当にただの風邪ならそのうちよくなるだろう。
まだ、風邪――かどうかは本当はわからないが、をひいて2日目なので医者にかかるのはまだ早い。俺の場合、医院でも
持ち前のステルス能力がいかんなく発揮されてしまいナチュラルに順番が飛ばされ、むしろ体調を悪くすることが多々あ
った。したがってそういう場所に行くのは最終手段である。まだこんなことを考えていられる時点で余裕はある。
本当に体調悪い時って何も考えられないか、同じ考えがループし続けているだけだからね。…………ん?
いや、今俺の中での嘘と欺瞞について考えても仕方ないし。たぶん風邪なんて引いてなくても堂々巡りになるだけだ。
俺がしたことは問題の解決でも手伝いでもなく、ただ時間稼ぎをしただけに過ぎない。そしてあの時点ではそれが一番
良かったのだ。葉山や海老名たちにとっては…………いや、とって”も”なのか…………?
自分としては上手く調節しているつもりだったんだが…………あんな反応返されても困るっつうか。今まで散々相手の考
えを読めずに失敗してきて今度こそは多少は理解してるつもりだったのにね。やっぱりつもりはつもりに過ぎなかった。
相手が自分との距離をどう捉えてるかなんてわかるわけがない。ただ、ひとつ言えるのは今の状態は近すぎて色々と危険
だということ。ここはお互いのためにも少し離した方が良いのだろう…………自分が退くか、相手を退かせるかは後々
検討するとして…………そんなことをベッドの上で考えながら俺は再び眠りに落ちた。
コンコン
唐突に部屋の扉をノックされる音で俺は目を覚ました。
寝転がったまま体勢を変えて窓の外を見やるともう空が紅くなり始める時間だった。近頃はますます日が短くなっている
のでそう遅い時間というわけでもない。ノックした人間が誰かは明らかだ。
「小町、か?」
「うん……お兄ちゃん、入っても……いや入れても大丈夫?」
「ん、大丈夫……入れても?え」
ガチャリ
違和感のある小町の受答えに疑問を持つ間もなく生返事をしてしまったせいで俺の物理的な最終結界は破られてしまった。
「……こんにちは」
「こ、こんにちは」
俺が上体を起こしている間に小町に続いて部屋に入ってきたのは誰あろう、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣だった。
いや、おかしいだろ。あんなことがあった後で。
彼女らにどういう感情があるにせよ、しばらくは俺となんか顔も合わせたくないぐらいに思っていたのに。
マズいな、こういう時に来られると。うっかり本当のことを喋ってしまいそうで。
そんなことを考えているうちに小町は二人を俺のベッドの横に来るように促し、自分は再び扉に向かいながらこう言った。
「じゃあ、あとはお三人でごゆっくり~」
「あ、おい小町!俺は二人を中に入れるのを……」
ガチャン
無情にも扉は閉められ、部屋には俺と雪ノ下と由比ヶ浜だけが残された。
「や、やっぱりまずかったよね……ごめんねヒッキー。あたしたちもすぐ出るから……」
最初に口火を切ったのは由比ヶ浜だった。
いや言ってることはすごく真っ当なんですけど、そんな捨てられそうになってる子犬みたいな目で見ないでもらえます?
この子は口調やらも賑やかだが、表情もやたらと雄弁なのであまり無碍にできないので困る。
なにせあの雪ノ下雪乃が拒否できないレベルだからな。
「いや…………どうせ小町のいらん計らいだし」
「それに何かその……用事があったんだろう?ここでさっさと済ましてもらった方が俺にとっても幸いだ」
本音を言えばこんな状態のしかも自分の部屋になんぞ入れたくはなかったが、とりあえず雪ノ下に関して言えばお互い様
みたいなものなのであまり強く拒否することはできなかった。
「あ、あたしは別に……用事がなくても来てもいいけど、さ……」
「だからそういうこと言うのやめろって……」
「え?」
ヤバい。今思ったことがそのまま口に出てたか。いかんいかん。どうも自分の部屋だと独り言の感覚で喋ってるな。
「あ……いや……俺自分の部屋に人入れるのとか……慣れてないから」
微妙にズレた話題にシフトさせつつこれ以上関係ないことを言わせないように牽制した。
「ご、ごめん……」
「……そろそろ本題に入ってもいいかしら?由比ヶ浜さんと風邪引きさん」
「……また変なあだ名つけられるのかと思ったらほんとのこと言われたからビビッたぞ」
「何か期待を裏切ったようでごめんなさい。でも今日は本当に……あまり喋らせるわけにもいかないから、ね」
ふむ。部長さんには部長さんなりの気遣いがあるようだ。
驚くべきはそんな雪ノ下の変化なのか、それともそんな存在になってしまった俺という人間なのか――――
「それで、具合はどうなの?」
「ん、まあ熱も下がってはきてるし明日には行けるんじゃないか」
「よ、良かった……」
ホッとした様子で胸に手をあてて胸をなで下ろす由比ヶ浜。雪ノ下の表情も少し和らいだように見えた。
「それで、その…………この間は……ごめんなさい」
「あ、あたしも……ごめん」
そう言って雪ノ下は長い黒髪をしなだり落としながら俺に向かって頭を下げ、由比ヶ浜は手を胸の前で合わせる。
「…………な、何のことだよ」
“この間”が何のことかは推測できるが、この二人に謝られるという状況が理解できないので訊いてみる。
「えっと……よく知らずに……ちょっと言い過ぎた、というか……」
「私も……少し言い方が不適切だったと思うので……あなたに謝るわ、比企谷くん」
心の内を素直に吐露する由比ヶ浜と、あくまで表現にのみ問題を絞って謝罪する雪ノ下。実に彼女たちらしい。
しかし、よく知らずに……とはどういうことだろうか。まるで今は知っているかのような言い方である。
「もしかして今日……何か話したのか?その…………海老名とかと」
「い、今もあんまり詳しいことは分からないけど……」
「姫菜に『比企谷くんをあまり責めないであげて。悪いのは全部私だから』って言われちゃって……」
…………なるほど。直接俺と海老名の間に何かあったと言ったわけではないが、それを示唆することを告げたのか。
“内容はわからないが何か事情があってそうなった”。世の中案外それで納得できることも多いのかもしれない。
そして、お互いに踏み込んでいいと思っている領域がわかっているならそれで上手くいくものなのかもしれない。
しかし、他人の事情なんてそもそもあるのかどうかさえも分からないことの方が多い。そして、普通はそんなことは
気にしないで口に出すものだ。それこそ、あの時の彼女たちのように。だから、そこまで気を遣われる必要はない。
「……そんなに気にするようなことでもないけどな。別に間違ったことを言ったとも思わんし」
「うん。あたしも今でも自分の言ったことが間違いだとは思ってないよ。でも、結局それでヒッキーを……」
先に答えたのが由比ヶ浜だったのでいささかたじろぎそうになったが、俺は続ける。
「仮に正論で相手を傷つけるようなことがあったとしても、俺はそういうのには当てはまらない。だから気にするな」
「それは、その相手のことを何とも思っていないからではなくて?」
出し抜けに発せられた雪ノ下の言葉に一瞬胸が止まった気がした。
だから、だからお前たちのことも何とも思っていないから……俺は傷ついてなんかいない、とはさすがに言えなかった。
俺が沈黙してしまった間に雪ノ下が続けた。
「この際、あなたがどう考えているかは気にしないわ。だから、この謝罪は自己満足と思ってもらって全く構わない」
「……そうですか」
先に向こうからそう言われてしまってはこう返すしかない。
まぁ相手が俺のことなんて気にしていない、という体の方が自分も気が楽でいい。
これはこれでぼっち同士の気の遣い方としては一つの解なのだろう。俺が奉仕部の活動でそうしてきたように。
俺の自己満足で他人を助けてきたんだから、それで自分がどんな目に遭おうともそれは自己責任の範疇だ。
「あ、あたしは気にしてるけど……ヒッキーが……何考えてるのか」
「え?」
「だって最近のヒッキー……思ったことそのまま言ってくれてない……気がするから」
……全くそういうことには相変わらず目ざといのな、由比ヶ浜は。つい最近まで俺自身すら自覚してなかったことなのに
もうお見通しなの?あなたはエスパーか何かですか。絶対可憐とか言い出しちゃうの?
「……それはお前の気のせいじゃないか?というか思ったこと言うかどうかなんて俺の勝手だろうが」
嘘にはならない程度の言い回しで適当に誤魔化してみるテスト。
「それはそうかもしれないけど…………今のヒッキーは……文化祭の時のゆきのんみたいだから……その」
「その程度のことならこの男の場合、別に心配するほどのことではないわ」
「そ、そうだ。心配することのほどではない。俺と由比ヶ浜があの時のお前をどう思っていたかは置いておくにしても」
ここまではいつもの雪ノ下の気を遣わないという気遣いだと思っていたのだが。
「”本当にその程度のこと”だとしたら、ね」
「ゆきのん……」
意味ありげな視線をこちらに向けた雪ノ下の表情は……何故か文化祭後の平塚先生のことを思い出させた。
今まで散々皮肉を言い合ったりあてこすりをしてきた相手だ……その言外の意味するところがわからないはずがない。
しかしその内容を口に出すことははばかられた。認めてしまうのは怖かった。だから俺はまた黙るほかなかった。
「まあそういうことだから……私はそろそろ失礼するわ」
「じゃ、じゃああたしも……あ、あと来る途中でポカリ買ってきたからもしよかったら飲んで」
「小町ちゃんが冷蔵庫に入れておいてくれたと思うから」
「……そりゃどうも」
雪ノ下が向きを変えて扉へ歩いていく中、由比ヶ浜はリュックをおろして何か取りだそうとしている。
「あと、これも」
取り出して掌の上に乗せられていたのはSDカードだった。由比ヶ浜とこういう物の組み合わせってなんだか妙だ。
「……何か由比ヶ浜が俺に渡すようなデータなんてあったか?」
「しゅ、修学旅行の写真だよ……一緒に撮ったでしょ?」
そういえばそうだった。普段写真なんて撮る習慣がないからすっかり忘れて…………いや、珍しいことなら覚えてなきゃ
むしろおかしい。修学旅行は……最後の記憶がインパクト大きすぎだったからだ。それを認めてしまっていいのか俺は。
「そうだったな……これはデータだけコピーして明日にでも返せばいいのか?」
「うん、そうして」
「了解」
俺が受け取ったSDカードを机の上に置いたのを見ると由比ヶ浜もリュックをしょい直して扉の方に向かって歩き出す。
「じゃ、じゃあヒッキーお大事に」
「……お大事に」
「ああ」
扉の前で待っていた雪ノ下は頭を下げ、由比ヶ浜は小さく手を振って部屋から出ていった。
「……ふぅ」
部屋の中が静かになり、また横になると安堵か寂寥か自分でもよくわからない変なため息が出る。
「…………寝よ」
俺は再び視界を暗くした。
夕飯を済ませた後くらいには熱もほぼ下がっていたので由比ヶ浜が渡したSDカードのデータをコピーすることにした。
が、いいのかよ、これは…………俺と由比ヶ浜が写ってる写真だけじゃなく修学旅行中の他の写真もあるんですが。
いや、それだけならまだしも…………由比ヶ浜のデジカメで撮ったものたぶん全部見れちゃうんですけど…………
これってたぶん夏休みに行った家族旅行の写真だよな…………てかそれ以外にも色々撮ってるのね、この子は。
わざと?…………と言いきれないのが由比ヶ浜の所業…………明日返す時なんて言おうか。黙っとけばいいのか?
あ、さすがに良心が咎めたので俺が写ってる写真以外はコピーしてないですよ。ホントですよ。
…………なんだか寝る前にまた熱の上がりそうなものを見てしまった気分だ。
今日はこんなところで終わりです。週末までにはなんとかして続きを投下したいと思います。
続きを投下します
足音のする方に振り返るとそこには以前に見たのと同じような光景が広がっていた。青みがかった長いポニーテールの髪。
冷めた瞳。すらりと伸びた長い脚。そして、アングル的にその…………スカートの中が…………幸いにも?今回は黒の
レースではなくて体操服のハーフパンツでした。パンツじゃないから恥ずかしくないもん!いやいや、そういう問題では
なく女子のスカートの中が見えてしまうというのは中身がどうとかいうことではなく気恥ずかしいものである。反射的に
目をそらすと、こちらの視線のことなど意に介せず川崎はもたれていた給水塔から離れて下の梯子を使ってこちらの方に
降りてきた。俺が顔を正面に向ける前に彼女は話し始める。
「何考えてんの?あんたは」
「な、何、というのは……」
こういうのは俺の嫌いなセリフだ。表面上疑問形だが、実態は反語でそのまま答えようとするとたいていの場合怒られる。
先生の言う「何で宿題やって来なかったんだ!」と種類的には同じである。したがって「ごめんなさい」でも「○○を
考えてました」でもなく第三の選択肢を模索した。この場合は”何”というのがそもそもわからなかったのでとりあえず
それを訊くことにする。
「修学旅行の時と昨日あんたがやったこと」
……彼女の場合、別に怒っているわけではないんだろうが無愛想で言い方がぶっきらぼうなのでどうしてもこちらは委縮
してしまう。いや…………やっぱり怒っている?
「お前には…………別に関係のないことだろ」
「確かにね。まったく事情を知らないならたぶんあたしもあんたにこんなこと訊かなかったと思う」
「でも、昨日…………あたしはあんたが葉山と話してるのを聞いてしまったから…………」
「え?」
彼女は少し気まずそうな顔をしてそう言った。おいおいおいおい、昨日俺と葉山が話しているのを聞いたってことは由比
ヶ浜や雪ノ下がどう思っているか、とかも…………いやいや、というかそもそもどこにいたんだっつうの。……まさか。
「お前……もしかして昨日もここに……」
彼女は何も言わずにただ頷いた。う~ん……ぼっちにはステルス機能が標準装備されてでもいるんだろうか。戦闘機か
何かか。いや、雪ノ下みたいな奴もいたか。彼女は存在そのものが爆弾みたいなものだが。
「い、いや……仮にそうだったとして……やはり俺がお前に自分の考えを言う必要性はないように思えるんだが」
「他人の事情には勝手に首を突っ込んでおいて……」
川崎にはそう言われると反論できないな。基本的に奉仕部の依頼は悩みのある本人が直接相談しに来るものだが、彼女の
場合は弟経由でこちらが一方的に家庭の事情を聞きだしたようなものだった。それは彼女からしてみれば知られたくない
ことではあったのだろう。そうなると、こちらも答えなくてはいけないのか?しかし…………何を?
「そちらの家庭のこととかをお前の望まない形で聞き出したのは、その……悪かった」
「あたしが言いたいのはそのことを謝ってほしいんじゃなくて……その…………本気だったの?あれは」
「あれって?」
「だ、だから……あんたが海老名と雪ノ下に…………」
「まさか。芝居だよ。ちょっと色々と込み入った事情があってだな……」
「そう……」
俺がそう答えると、川崎は残念と思ったのかほっとしたのか……何かを悟ったかのような顔をした。その表情はどこか
寂しげで、元々冷たかったというよりは何か熱が冷めて冷たくなったような感じがした。
「どういう事情かまで訊く気はないけどさ…………芝居でも……あまりそういうこと言うもんじゃないよ」
「はい……」
「あんたこのままだと…………たぶん狼少年になる」
……まったく耳の痛い指摘だ。たまたま俺は一人だったから嘘をつく必要性がなかったというだけであって、もう心の
どこかで人間関係を維持するための嘘というものを認めてしまっている気がした。しかし、結局はその嘘によって信頼
関係を失ってしまう。いずれにせよ失うのであれば、やはり本当のことを言った方がいいのだろうか。そういう考えが
浮かんでも、俺の口から出る次の言葉はまた心にもないことだった。
「俺は狼少年というより一匹狼って感じだと思うけどな」
「……あんたのどこが一匹狼なんだか」
「……」
ですよね。これではもはや単なる嫌味でしかない。本当の一匹狼の川崎からしてみれば。俺は否定することができず
に黙り込んでしまった。
「ま……本当のことを言った方が良い時もあるんじゃないの?あんたのためにもその周りの人間のためにも」
「…………そういうものですかね」
「さぁ?元々嘘でつながれた関係なら違うのかもしれないけど」
「……」
……彼女は既に理解している。俺とその周りの人間の関係の成り立ち方について。彼女自身も俺と似た考えを持って
いるせいなのかもしれない。嘘や欺瞞によってつくられた人間関係を嫌悪するという考えを。だから、今現在の俺として
はこう答えるしかない。
「本当のことを言うしかないか。その時が来たら」
「その時が来たら、か」
もうその時は来ていると言わんばかりの川崎の口調に俺も心の中では半ば同意せざるを得ない。しかし……俺にはまだ
考えなければならないことが山ほどある。それに、葉山が何をするかにもよってそれも変わってくるだろうし。だから
これが嘘でない範囲で答えられる精いっぱいだった。
「…………あんまり女子を待たせるもんじゃないよ」
「そうならないように努める」
「そ。…………じゃあさよなら」
「さ、さよなら……」
あきれたような表情の川崎は俺が挨拶を返す前にもう振り返ってしまい、さっさと扉を開けて足早に階段を下りていって
しまった。……思ってもみなかった人間に、着々と退路を断たれていっているような気がする。もうこれ以上人に会い
たくないな。まだこれから葉山に会いに行かなきゃいけないのに。ため息が出て、しばらくして俺は屋上を後にした。
一度誰もいない教室に戻り、あいている時間を適当に宿題などをやりながらやり過ごして部活が終わる時刻を待つ。そう
いえば、もう少ししたら期末試験だな。試験準備期間に入りさえすれば、部活にも行かずに済むんだが。学校の試験を
待ちわびるなんて俺の頭も相当イカれてきていると感じる。葉山みたいにイカしてればいいんだが。
そのイカした葉山に再び会わないといけない時間がやってきたので、やけに重く感じる鞄を肩にかけて俺は昇降口に
向かうことにする。……よく考えたら、というかよく考えなくても部活終わりに昇降口って普通に雪ノ下や由比ヶ浜と
鉢合わせになる可能性があるじゃないか。…………ますます肩の荷が重くなった。
猫背が余計に酷くなりながら、ようやく昇降口に辿りつくと壁際に立っているクールな爽やかイケメンと目が合った。
「やあ。君なら来てくれると信じていたよ」
右手を挙げて笑顔でこちらに手招きする葉山。これが大抵の女子なら喜んで傍にいくのだろう。残念ながら相手は俺なん
ですが。昨日のことと葉山が目立つということで既に周囲からの視線が集まり始めている。なんか嫌だなあ。
「はぁ……あまり信用されても困るんですが」
「……君らしい答えだね」
「そうですか……」
肩をすくめる俺にたいして葉山はまた笑顔を返す。しかし、何かいつもの調子と違う気がした。何だろう……そわそわ
している?動きに落ち着きがないというか……なんかやたら鞄を持ち直したりしているし。誰かが来るのを待っている?
「ところで……俺はいつまでここでこうしていればいいんだ?」
「ん……ちょっと人を待っていてね……たぶんもう少ししたら来ると思うよ。だから悪いけどここで……」
「……わかった」
五分くらいその場で待っていると、葉山のお目当ての人間が来たのかまた手を挙げる。その姿を見て思わず声が出る。
「げ」
「げ、とは失礼ね。今日はあなたがなかなか来ないからずっと待っていたというのに」
「そうだよヒッキー。授業にはちゃんと出てたのに…………どうして?」
「いや、今日はその……体調がちょっとアレで……その」
ロクな言い訳も考えられずにしどろもどろに俺が答えていると雪ノ下と由比ヶ浜は苦笑いをした。ついでに葉山も。
二人はともかくお前にそんな表情をされるのは腹が立つ。俺が怪訝な顔で葉山の方を見ると、
「俺が呼んだんだ。比企谷くんに見てもらうのに必要だったから」
「はぁ……」
俺がため息ともつかないような生返事をしていると雪ノ下が葉山の正面に来る。由比ヶ浜は迷子の子供みたいな顔で
ただ彼女の後ろについているだけで何も事情は知らなさそうだ。葉山のセッティング?が終わったのか彼はいったん
鞄を下に置いた。雪ノ下に用があるのかと思ったのに何故か先に由比ヶ浜に話しかける。
「結衣。事情を事前に話せなくてごめん。先に謝っておくよ」
「え?」
由比ヶ浜は雪ノ下の後ろからこちらを覗き込む。いやいや、俺も何も知らん。首を横に振ると今度は雪ノ下の方を見る。
しかしその視線に彼女は無反応を決め込んだ。由比ヶ浜も諦めたのか、少し顔をうつむかせる。
葉山と雪ノ下が無言で向き合っている様子が、周囲の人間を静かにさせる。既視感のある光景だ。……まさか。
昨日、葉山は俺に「君と同じことをするだけだ」と言っていた。それは、単にやり方が同じというだけの話であって
本当に文字通りの意味だとは思いもしなかった。そういえば、葉山の好きな女子はイニシャルがYって言ってたっけ。
葉山は雪ノ下に向かって頭を下げ、よく通る声で告げた。
「雪ノ下雪乃さん……俺はずっとあなたのことが好きでした。付き合ってください」
「ごめんなさい」
冷たい視線……冷たい声色……雪ノ下のあまりに無碍な反応に、周囲の空気が凍り付く。
あぁ……これこそ俺が彼女に期待していた反応そのものだ。”いつもの雪ノ下雪乃”がそこにいた。
「……そっか。……まぁそうだよね。悪いね、時間取らせちゃって」
「いえ……ただ…………私、あなたのこと……少し誤解していたみたいね」
口調は相変わらずだったが、その表情はほんの少しだけ眉が下がったように見えた。ふっと息をついて葉山が答える。
「いや、たぶん君の印象は正しいんだと思うよ。俺が変わったんだ…………ほんの少しだけだけど」
「……なるほど」
そう言ってこちらの方を見やる葉山。その動きで言葉の意味を理解したのか雪ノ下も顎に手をやりこちらに顔を向ける。
「い、いや……俺は何も……」
何故かこちらを見られたので、なんだかよくわからない言い訳めいた言葉をつい口走ってしまう。俺のその反応を見て
由比ヶ浜までやれやれといった顔をする。何でだよ……。
「葉山くんの用事はこれでもうお済みかしら」
「ああ」
「そう。じゃあ、さようなら」
雪ノ下は髪をかきあげて後ろに振り返り、自分のクラスのロッカーに向かって歩き出す。
「さようなら…………雪ノ下さん」
名残惜しそうに彼女の名前を呼んだ葉山のその後姿は、この俺ですら何か励ましたくなるような気がした。実際には
そんなことしてやらないが。下に置いていた鞄を重そうに持ち直すと、由比ヶ浜と俺に向かって挨拶する。
「じゃあ君たちも。さようなら……由比ヶ浜さんに比企谷くん」
「さ、さようなら」
「……さようなら」
背筋が伸びきらないまま、葉山も自分のクラスのロッカーに向かう。俺と由比ヶ浜だけがその場に残された。周囲の喧騒
は元に戻ったが、その話題はどう聞いてもさっきの告白話だ。由比ヶ浜は片手を胸の前で握りながら心配そうに言う。
「だ……大丈夫かな、隼人くん」
「相変わらず優しいんだな……由比ヶ浜は」
「えっ?」
俺の言葉が予想外だったのか彼女は驚きの声を上げて少し頬を紅潮させた。そうか……まだ由比ヶ浜は葉山の本当の意図
に気づいていない。雪ノ下への告白はそれが本心だったとしてもそれ自体が主たる目的ではない。そういえば、修学旅行
の時も戸部の告白に一番乗り気だったのは彼女だったな。クラスの人間関係に気を遣えるとはいっても、由比ヶ浜はあま
り恋愛がらみでそういうトラブルには遭ったことがないのだろう。だから俺や葉山、三浦が心配していたことに関しては
疎かったのだ。しかし、結局こうなるのかよ。これじゃああの時俺のやったことって…………
「い、今のはどういう……?」
俺がそんなことに考えを巡らせていると由比ヶ浜はこちらをちらっと見ながら訊いてきた。
「いや、なんでもない……」
ここで俺が葉山の意図について話すと結局は俺の考えている問題に行き着いてしまう。だからこうやって誤魔化すしか
なかった。それに、どうせ明日になればわかることだ。今あえて言う必要もない。ただ、由比ヶ浜が葉山のことを心配
することに関して一言だけ言うとしたらこんなことだろう。
「葉山は……たぶんこうなると全部わかっていて……それでも自分の意思でこうしたんだ。だから、まだそれほど心配
する必要はないと思う」
「そういうものなのかな……」
「そういうものだ」
それは、遠まわしに自分の意思以外で結果が左右されることの方が心配であるということが言いたかったが、今の彼女に
はそこまで伝わってないだろうし、また自分としても伝える気はなかった。
「それならいいけど…………ところで……明日はちゃんと来てよ」
「それは無理だ」
即答した俺に、由比ヶ浜は両手を胸の下でいじりながら目をそらし気味にぽそっとつぶやく。
「き、昨日のことならさ……あ、あたしもゆきのんも……もう気にしてないし……だから」
「いや、そういう問題じゃないんだ」
「ね、ねぇ……もしかして昨日のアレって本当は……本気で……」
「いや、それはないな。本気だったらあんな時にあんな場所でしてないだろうよ」
「そ……それもそっか……」
「……」
「……」
お互いが言っても大丈夫だと確信できる内容を探っているうちに沈黙が生まれてしまう。こういう種類の沈黙はあまり
好きにはなれないな。だから、もう話を切ってしまう。
「じゃあ、そういうことで。またな」
俺は由比ヶ浜の顔もよく見ずに先にロッカーに向けて歩き出してしまう。彼女も諦めたのかそれ以上話しかけたり追って
きたりすることはなかった。
葉山は葉山なりの”選択”を俺の目の前で見せてくれた。それならば、その覚悟に俺も応えなくてはいけない。しかし……
葉山の言った”覚悟”が俺にはまだできていない。だから、俺がその”選択”と”覚悟”ができるまで奉仕部には行けない
だろう。由比ヶ浜の言ったように、今の状態の俺でも彼女たちは受け入れてくれるのかもしれない。しかし、結局はその
行為がすべてを失わせることにつながってしまうのだろう。それこそ、葉山のように。
もう戻ることができない以上、留まるか進むかの二つの選択しかない。しかし、今の俺が留まっている場所は薄氷の上で、
じきにその氷も融けてしまうのだろう。それに、進んだところでどうなるのかもわかるものではない。何より、進んだ
ところで上手くやれる自信がとてもじゃないが今の俺にはない。そもそも、どの方向に進むのかもまだ決めきれていない。
戻っても、留まっても、進んでも、いずれは失ってしまう…………それならどうするべきなのか。まだ、俺はその答え
を見つけることができずにいた。
今回はここで終わりです。次回は火・水あたりを予定しています。隔日で投下するのが理想なんですが、なかなか
そこまで書くスピードが上がらないですね……
少し区切るところに悩んでますが、続きを投下します
雪ノ下が扉を開けると、そこにはもう既に机の上に弁当を広げていた由比ヶ浜結衣の姿があった。雪ノ下と俺の姿に
気づいてパッと表情が明るくなったように見えた。
「ゆきのん、ヒッキーやっはろー!…………あんまり遅いから一度電話しようかと思ったし」
「ごめんなさいね、由比ヶ浜さん。この男が何故かいつもの場所にいなくて探すのに手間取ってしまったのよ」
雪ノ下は部屋に入るやいなやそう言って由比ヶ浜に謝る…………のはいいんだが、何?これ俺が悪いの?
「わ、悪かったな…………俺も雪ノ下を探してたのと、途中で材木座に捕まっててだな……」
「……そういうわけだから、別に比企谷くんが悪いわけではないのよ」
「そ、そうなんだ…………ならしょうがないね」
由比ヶ浜は今の雪ノ下の言葉を聞いて、なんだか妙に嬉しそうな顔をする。なんでだよ。というか、雪ノ下は俺を責め
たいのか庇いたいのかハッキリしろよ。……どう反応していいかわからなくなるだろ。当惑しているのを見て、由比ヶ浜
は俺と雪ノ下を促す。
「ま、まぁ……それはともかく、二人とも早く食べちゃおう!今日はあんまり時間ないし」
「そうね」
「そうだな」
俺と雪ノ下は返事をして、各自いつも座っている席に着く。別にそう長い期間離れていたわけでもないのに、妙に懐か
しい感じがしてしまう。俺が感傷に耽っているのを横で見ていた由比ヶ浜がこちらを覗き込んでくる。
「ねぇ、ヒッキー…………もしかして泣いてるの?」
「ハァ?バッカお前、俺がこんなところで泣くわけないだろう?……もし泣くとしてももっと先の話だ」
「え?それって……」
俺の含みを持たせた返答に、由比ヶ浜の眉が歪む。雪ノ下まで怪訝そうにこちらを見てきた。ここでこれ以上追及されて
も困るので、状況の説明に終始して逃れようと思う。
「え~と、だな……今の俺はただ部室に戻ってきただけだ……それ以上でもそれ以下でもない。でも、俺はこれから先に
いくつか行動を起こすことを決めてしまった。だから……」
「私はこの男がこれから先、どの場面で泣くことになるかなんて興味ないわ。それよりさっさと食べましょう」
助け舟?なのかどうかはよくわからないが、雪ノ下は俺の話を途中で遮ってしまった。まぁ、そうしてくれた方が自分と
してもありがたい。食べる体勢に入らせるために、俺は机の上に置いたパンと飲み物を前にして手を合わせる。
「いただきます」
「え……あ、いただきます」
「……いただきます」
由比ヶ浜はまださっき言っていたことが気になっていたようだが、俺の挨拶で諦めたのか自らも食べる体勢に入った。
雪ノ下はいつものすまし顔といった感じだ。この”いつも”もなんだか久しぶりだな。食べているところじゃなかったら
頬が緩むのを誤魔化しきれなかったぜ。
別に特にこれといって何かがあるわけではない。むしろ何もなかったという方が正しいのかもしれない。部室で三人で
昼食を食べて過ごした。ただ、それだけのことだ。でも、”ただ、それだけのこと”を回復させるだけでもこんなに時間が
かかってしまった。そして、今こうして過ごしていることもどれだけ貴重なことなのかも自分はまだ完全には理解して
いないのかもしれない。それでも、俺はここに戻れて……………………良かった、と思う。
とりあえず部室に戻ることはできた。次は部活に戻る番だな。ただ、俺の方法はというと――――――――。
⑧ようやく比企谷八幡は彼女との約束を果たす。
12月に入ってますます日は短く、空気は寒々とするようになったが、幸いにも俺は部室で昼食を食べることを許される
ようになったため、以前のように外にいることはなくなっていた。初日こそ時間がなく何も話すことはできなかったが、
それ以降は依頼をこなすという行為以外は普段の奉仕部の様子とそう変わらない雰囲気に戻っていた。最近になって、
やっと雑談というものがどういうものなのかわかった気がする。ほとんどの人間はそんなに深く考えて喋ってはいないん
だよな、たぶん。でも、自分の場合はそれは許されなかった。話せば話すほど向こうから離れられるのが常だった。
だから、いちいち内容を頭の中で整理しないと話せなかった。ただ、いつの頃からか無視されるのも嫌悪されるのにも
慣れてしまったので、あえて自分を出すようなこともしてみたりした。案の定、ドン引きされるか話したことをなかった
ことにされるか、避けられたりした。
でも、そうはならなかった人間がここにはいる。…………しかも二人も。
おそらくもうこんなことは二度と起こらない。だからこそ、このままの状態が続けばいいと、ついそう思ってしまう。
だが、それももう許されない状況になってきた。進まなければ、現状を維持することすらできない。しかし、進んだ
ところで上手くいくかどうかなんてことはわかるはずもない。だから、それは自らの手でわかるようにしなければなら
ない。そうすることによってたとえ全て壊れることになったとしても。わからないでいるままよりはいい。どちらにせよ、
壊れる時は必ず訪れるのだから。
期末試験直前の日も、お昼休みは奉仕部の三人で過ごしていた。普段より早く弁当を食べ終わった雪ノ下は自分の荷物を
片付けてこう言った。
「私は少し教室ですることがあるから、今日は先に戻るわ」
「あ……そうなんだ。じゃあまたね、ゆきのん」
「ええ……」
雪ノ下は立ち上がり、部室の前の扉の方へ歩いていった。扉の取っ手に手をかけたところで体の向きは変えずにこう切り
出す。こちらからはその後ろ姿しか見ることはできない。
「比企谷くん」
「は、はい」
「試験終了日のことについてなのだけれど……」
「お、おう……」
このタイミングでその話をされるとは思っていなかったので、俺の口からはそんな言葉しか出てこなかった。俺は雪ノ下
の方を見ていたので由比ヶ浜がこの時どんな反応だったのかは知る由もない。
「学校が終わったら、あなたは一度家にまっすぐ帰りなさい。後で私の方から連絡を入れるから」
「そ、そうか…………わかった」
俺のその返事を聞いて、雪ノ下は安堵からなのかふっと息をついた。同時に自分も息をついてしまう。実のところ、少し
心配していたのだ。雪ノ下の指定した時間の方法について。今の彼女がそういうことに無頓着でなくなっているというの
はある程度は予想していたが、もし学校から直接一緒にどこかに行くとかいう話だったら俺としてはちょっと気が引けた
のだ。だから、雪ノ下の方から家に帰ってから出直してこいということを言われてそういう懸念はひとまず解消された。
「では、そういうことで…………よろしく」
「ああ……じゃあ連絡、待っているよ」
雪ノ下は振り返ることなく、扉を開けてそのまま部室から出ていった。俺と由比ヶ浜だけが部屋に残される。今の話の
流れで切り出した方がいいのだろうか。さすがにあれから何も言わないままというのもアレだし。
「あ、あのさ…………由比ヶ浜」
「ん?なになに?」
由比ヶ浜は椅子をこちら側に引き、少し身を乗り出してきた。近い近い。俺は彼女の方には顔を向けずに話を続ける。
「試験終わった後の土曜日のことなんだが……その……今も予定、大丈夫か?」
「うん、あけてあるよ。で、どうするの?当日」
「え~と…………とりあえず、朝の8時にお前ん家の最寄り駅で待ち合わせってことでいいか?」
「……わかった。それで、その後は?」
会話が進むたびに由比ヶ浜の顔が接近してくる。もうこれ俺が顔の向き変えたら…………って何を考えているんだ自分は。
落ち着け。というか由比ヶ浜がまず落ち着け。
「と、とりあえず体勢を元に戻してもらえませんか?…………ち、近い……」
「えっ?あ…………ごめん……」
今の行為は無意識だったのか、由比ヶ浜はハッとして乗り出した身を引っ込めた。そしてみるみるうちに顔が赤くなる。
いや、もうこっちはさっきから頭が熱っぽくて大変だったんですけど……。俺は頬を撫でつけながら、また口を開く。
「それで、その後は……と、当日の……お楽しみ、と言いますか…………」
「え?あ、あ…………そうなんだ…………なるほどね」
由比ヶ浜は一瞬怪訝な顔になった後、こんどは何故かニヤニヤし始めた。なんでだよ。顔の向きをこちらから前に戻すと
何やらブツブツ呟いている。あんまりよくは聞きとれない。
「ふ~ん……ヒッキーが……へぇ……そういう……」
何回かふんふんと軽く頷いてまた俺の方を見ると、由比ヶ浜は人差し指を顎に当てて何か尋ねてくる。
「それはわかったけど…………あたしの方は……何か準備しなくても……いいの?」
「準備、ねぇ…………特にこれといって必要な持ち物はないと思うが……むしろ荷物は軽くした方がいいかもな。あと、
なるべく動きやすい格好で来てほしい。それなりに歩くことになると思うから」
「…………わかった」
由比ヶ浜は俺の言葉に何か納得した様子を見せたと思ったら、今度は口に手を当ててふふっと笑う。
「俺なんかおかしいこと言ったか……?」
「い、いや?…………ヒッキーがこんなことするの……珍しいと思って」
「一応お前との約束だったしな…………でも、確かにそうかもしれない。たぶん二度目はないと思うぞ」
「え?……」
俺が何気なく言った一言に、由比ヶ浜の表情が固まった。あ~……やっぱりスルーしてもらえなかったか。
「あ、え~と……だな……二度目はない、くらいに考えていた方がたぶん楽しめるんじゃないかと思って、だな……」
「出た……いつものネガティブ発言…………でも……うん、それもそうかもね」
……とりあえずこの場はなんとかしのげたか。危ないな…………。あまり勘ぐられるようなことを言ってしまうと、それ
こそ当日に楽しんでもらえなくなるだろうから。
「ま、だから土曜日もあまり期待するんじゃないぞ。あとでガッカリされるのも嫌だしな」
「うん、ヒッキーのことだし期待しないでおくよ」
「あぁ、そうしとけ」
由比ヶ浜はその言葉と裏腹に、その表情は期待に満ち満ちていた。……ちょっと今日は色々と喋り過ぎたか。これからは
もう少し気をつけないと。失敗するにしてもタイミングというものがあるからな。特にこれ以上喋ることはなかったので
その後は昼食の残りを食べるだけとなった。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴ったので、俺と由比ヶ浜は教室に戻る準備をする。昼にここに出入りする時はいつも
二人で時間をずらしているので例によって今日も由比ヶ浜が先に扉に向かう。扉の前で彼女はくるりと俺の方に向き直る。
「ヒッキー、ありがとね。約束…………守ってくれて」
「いや、まぁ……約束しちまったものは仕方ないからな…………ずいぶん待たせたが」
「……それはもういいよ。その代わり、え~と…………そこそこ期待してるからね」
「あぁ……そこそこ、な」
俺の相変わらずの受け答えにも関わらず、由比ヶ浜はニコッと笑いかけてくれる。今はその笑顔に対して何も返せないの
がどうにももどかしく、胸がチクリと痛む。いや、それどころか俺のやろうとしていることは――――。
「じゃあ、また教室でね」
「おう……」
笑顔のまま踵を返して扉を開け、部屋を出ていく由比ヶ浜の姿を見て、俺の胸の痛みはますます強くなるばかりだった。
光陰矢のごとし。英語で言うとTime flies. まさに飛ぶようにして、それからの日々は過ぎ去ってしまった。
鐘が鳴って先生が「やめ」と言い、試験の解答用紙が集められる。この科目で期末試験ももう終わりだ。普段から勉強は
しているので、試験勉強自体はそれほど負担にはならないのだが、今回はちょっと他に考えることと準備しなければなら
ないことが多すぎた。そのおかげで今回の試験の結果はあまり自信がなかった。そういう意味でも、由比ヶ浜に今度の
土曜日の予定を教えなかったのは正解だったような気がする。今の俺みたいなことになられても困る。最近は少しは良く
なったとはいえ、由比ヶ浜の成績が悪いことには変わりないからな。周りを見渡すと、試験が終わってほっとしたのか
伸びをしていたり、答えを教え合ったりしている人たちが見える。葉山もいつもの男子の取り巻きに囲まれて、答えを
訊かれたりしているようだ。ただ、話を振られたら答える程度で自分から話しかけるような様子はもう見られない。最近
はもうずっとこんな感じだ。話しかけている方はそれで繋ぎとめているつもりなのかもしれない。もう葉山の心はそこに
はないというのに。心が近くにないのに、ただ距離が近いなんて俺にはとても耐えられないだろう。諦めが悪いというの
も考えものという印象だ。むしろ、諦めた先にしか見えないものだってある筈なのに。
そんなことを考えているうちに今日のSHRもさっさと終わってしまい、周りの席でも帰り支度が始まった。俺も帰る
ことにするか。雪ノ下からもそうするように言われているのだし。鞄を取りに行く途中で、ふと由比ヶ浜と目が合う。
俺は軽く会釈をし、彼女は胸の前で小さく手を振った。教室での俺と彼女もここのところはずっとこんな感じだ。葉山
が雪ノ下に告白して以降、三浦と葉山がつるむことが少なくなっていたため、必然的に由比ヶ浜と葉山の関わりも少なく
なっているようだった。まぁ、だから何だというのだ。いずれにせよ今の俺にそんなことまで感知している余裕はないの
だし、俺が自分の選択をすることが葉山の望んだことでもあるのだ。…………結果いかんに関わらず。
それから教室を出て、昇降口で靴を履き替えて駐輪場へ向かう。コートを着るようになっても寒いものは寒い。ただし、
試験期間中は昼には終わるのでいつもより気温が高い時に帰れるのは幸いだった。今日は薄曇りで日差しがほしいところ
ではあった。今のところ天気予報では土曜日も晴れになっていたが…………。
自転車に乗って学校を出て住宅街の横を走っていると、ちらほらとイルミネーションを飾っている住宅が見える。そう
いえば、もうすぐクリスマスもあるのか。…………まだ何も考えてないな、そういえば。クリスマスに何か考える必要が
あること自体が俺にとっては驚愕の事実なのだが、しかしそれも今日の午後と今度の土曜日と来週の月曜日次第だな。
状況によっては何も考える必要がなくなるという可能性も充分ありうる。今は午後のことに集中しよう。
ほどなくして家に着き「ただいま」と形式上挨拶はするものの、カマクラ以外には誰もいない。小町とは微妙に試験の
日程がズレているため、今日は通常通りの授業らしい。そういえば、ここのところあまり妹の勉強も見てやれてなかった
ような気がする。結果がどうなるにせよ、今の問題が片付いたら少しは付き合ってやろう。そんなことを考えつつ、俺は
昼食を適当に済ませた。
一休みしてから、俺はPCの前に向かう。今度の土曜日の参考にするためだ。しかし、こういうものは調べても調べても
キリがないように思えてくる。ある程度の準備は必要だが本人の要望もあることだろうし、あまりガチガチに予定を組め
るものでもない。時期が時期だし小町に助言を求めることもできない。それに、中途半端にこちらの状況を知られると
後々やっかいなことになりそうだ。……うんうん唸り始めたところで唐突に俺のスマホが鳴る。いや、電話というものは
いつも唐突に鳴るものではあるんですが、ぼっちの自分にはなかなか慣れないものでして…………。
「もしもし」
「もしもし、比企谷くん?雪ノ下です」
「比企谷です…………それで…………自分はこれからどうすればいいですか?」
「………………………」
沈黙が15秒ほど続く。沈黙が好きな俺でもさすがに電話でこれは長いので、待ちきれずに口を開いてしまった。
「雪ノ下?」「あの」
「あっ……すまん。ど、どうぞ……」
同時に喋ってしまったので反射的に謝ってしまった。すると、雪ノ下が息をすっと吸う音がかすかに聞こえた後、
「比企谷くんは…………今から私の家に来なさい」
「え?」
どこかに呼び出されることは想定していたが、まさかそれが自宅だとは思わなかった。……しかもあの雪ノ下が。
「え、じゃなくて…………あなたは来れるの?来れないの?どっち?」
「い、いや俺は行けるけど…………むしろお前はその……いいのかよ」
「何が」
俺の動揺が声に出ていたかはわからないが、雪ノ下は相変わらずのいつもの冷然とした声色で答える。
「何がって……その……お前の家、今誰かいるのか?いないんだったら、さ」
「いるわけないでしょう。話の内容を他の人に聞かれたくないから、私の家を指定しているのに。それとも何かしら?
ただの部活仲間の家に行くというだけで変な想像でもしておいでで?」
「そ、そんなことしてねぇよ…………ただ、お前が嫌なんじゃないかと思っただけだ」
ごめんなさい、雪ノ下さん。また嘘つきました。ホントはちょっとだけしました。しかしそんなこと言えるわけないし、
声がうわずったのもたぶん気のせいです。俺の反応はまるで無視して雪ノ下は話し続ける。
「今さらそんなこと思わないわよ…………それより…………早く、来てね」
「えっ?……お、おう……」
俺の答えを聞いて、雪ノ下は電話を切った。最後にぽそっと言われた言葉に俺の動揺はさらに大きくなった。心臓の鼓動
が向こうに聞こえてないか心配になったほどだ。あ、あんな喋り方もするんだな…………雪ノ下って。
胸の音が収まるまで、俺はさっきの調べものの続きをすることにしたが…………全然集中できねぇ。仕方ないのでPCの
電源を切り、また出かける準備をすることにした。ほら、あれだ。早く来いと言われたし、なんか今は体が熱いから外に
出てもそんなに寒く感じない筈だし。珍しく絡んできたカマクラを適当にあしらいつつ、俺はまた玄関の扉を開けた。
「マンションに自転車置くところあったか覚えてないし…………たまにはバスで行くか」
誰に言ったわけでもないよくわからない独り言をつぶやきながら、俺は雪ノ下のマンションへと向かうことにした。
バスに乗って十数分、雪ノ下のマンションの最寄りのバス停に着く。建物はすぐ見えているのに、ここからまたちょっと
歩くんだよな。敷地内の庭園を横目にしながら数分後、ようやく入口に辿りついた。自動ドアの前に立って中に入ろうと
するが…………開かねぇ。どうやら俺は機械にも認識されていない存在の模様。周りに誰もいなかったので、何度か立つ
場所を変えたらやっとドアが開いた。まったく…………高級マンションならドアセンサーも高度にしてもらいたい。
無駄な疲労をしつつ、これまた広いエントランスホールを進む。平日の昼間ということもあって人気もしない。それに
しても綺麗なマンションだな。この床なんてピカピカで映り込みが凄いし、もう少し頑張れば…………って何を考えて
いるんだ自分は。ともあれインターホンの前まで来たので、部屋番号を押して雪ノ下を呼び出す。以前訪れた時とは違い、
今回はすぐに反応した。
『比企谷くんね。……上で待っているわ』
中扉があき、俺はエレベーターに乗って15階を目指す。今は誰も使っていないせいか待たされることもなくすぐに来た。
ほどなくして15階に着き、雪ノ下の部屋の前まで来てもう一度インターホンを押す。
『比企谷だ』
『はい……少し待ってて』
複数の鍵が開く音と重厚そうな扉の音が聞こえて、雪ノ下の部屋の扉が開かれる。わざとなのかどうかよくわからないが、
以前文化祭前に俺と由比ヶ浜で彼女の家に行った時と同じような格好をしていた。単にこういう服装が好きなだけなの
かもしれない。俺が立ちっぱなしでいるのを見て、手招きする。彼女の表情はいつも通りといった感じだ。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します…………」
用意されていたスリッパを履いて、雪ノ下の後に続く。さすがに今は暖房が入れられているようで部屋の中は暖かかった。
相変わらず生活感のないリビングに通されて、以前と同じようにソファへと促される。
「そこに座っていて。飲み物は……紅茶でいいかしら」
「……いいよ」
俺の答えを聞いて、雪ノ下はキッチンに向かった。その間に部屋を見回してみるが、前に俺と由比ヶ浜で来た時と様子は
ほとんど変わってないようだった。せいぜい加湿器が置いてあるのが見えるくらいのもので、TVの下に置いてあるDVD
コレクションの内容までは俺は覚えてないからな。増えていたりするのかどうかはよくわからない。
しばらくして、プレートの上にソーサーとカップを乗せて雪ノ下が紅茶を運んできた。彼女は俺が座っている二人掛けの
ソファの前にあるリビングテーブルの上にそれを置く。そして俺の隣に腰を下ろしたところで、彼女は口を開いた。
「……どうぞ」
「……どうも」
俺がカップに手を伸ばしたのに続いて、雪ノ下もそれを手に取る。まだ熱いので、口でふうふう言いながら冷めるのを
待った。何故かつい雪ノ下の唇に視線がいってしまう。チラチラ見ていたのがバレたのか彼女は怪訝な顔をする。
「何か」
「い、いえ……なんでもありません」
「…………そ」
俺が視線を元に戻すとそれ以上追及することはなく、雪ノ下は紅茶を飲み始める。俺もそれに続く。……美味しい。
「雪ノ下は紅茶を淹れるのも上手だよな」
「…………普通に淹れているだけだと思うのだけれど」
「その普通ができない奴が多いんだよ、案外。世の中そういうものだ」
「そう…………かもしれないわね。そして、それは私とあなたにも当てはまることではなくて?」
そう言いながら雪ノ下はこちらに視線をチラッと向けた。何故だかその表情はどこか得意げに見える。
「ま、俺とお前はそもそも普通じゃないしな…………」
「そうね…………ねぇ、比企谷くん」
雪ノ下はそう言いかけて、カップをいったんプレートの上に置き直した。そして、こちらの方に身を乗り出してくる。
そんな状態で紅茶を飲めたものではないので俺もカップを戻す。
「な、なんだ?…………雪ノ下」
「…………そろそろ本題に入ってもいいかしら」
視線はそのままで乗り出した身を少し戻しながら、雪ノ下は俺に尋ねてきた。彼女とは色々と話すべきことがあるのは
重々承知だが、あえて本題といわれても思い当たる節が多すぎる。
「それが何かは色々あると思うんだが…………まずは雪ノ下が話したいことからで……いいんじゃないか?」
「そう…………それはありがとう、比企谷くん」
そう言って雪ノ下はニッコリと微笑んだ。これが並の男子ならコロッとやられちゃうな。しかし、俺はその笑顔にほんの
少しだけ毒が含まれていたのを見逃さなかった、いや見逃せなかった。…………もう、戻れないな。これは。
「比企谷くん…………あなたもこちらを向きなさい」
「は、はい…………」
彼女にそう言われて拒めるはずもなく、俺は雪ノ下の方に顔を向ける。その途端、さっきまでの毒は消えて今度は憂いを
帯びた笑顔になった。そして、雪ノ下は小さくつぶやくようにこう言った。
「私…………あなたのこと、好きよ」
今回はここまでです。次回もちょっと切るところに悩みそうなので時間かかるかもしれません。週末までを目途に投下
したいと思います。
プリティーリズム・オーロラドリーム・ディアマイフューチャー・レインボーライブ
春音あいら
第一属性=太陽属性
天宮りずむ
第一属性=月属性
高峰みおん
第一属性=太陽属性
上葉みあ
第一属性=月属性
大瑠璃あやみ
第一属性=太陽属性
ヨンファ
第一属性=星属性
彩瀬なる
第一属性=月属性
あん
第一属性=星属性
りんね
第一属性=星属性
プリティーリズム・レインボーライブ
蓮城寺べる
第一属性=太陽属性
小鳥遊おとは
第一属性=星属性
森園わかな
第一属性=地球属性
荊千里
第一属性=太陽属性
DJ.Coo
第一属性=月属性
りんね
第一属性=太陽属性
彩瀬なる (プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=月属性
福原あん (プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=星属性
涼野いと (プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=太陽属性
りんね!(プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=月属性
蓮城寺べる(プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=太陽属性
小鳥遊おとは(プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=星属性
森園わかな(プリリズ・レインボーライブ)
第一属性=地球属性
続きを投下します。冒頭の部分で違和感を覚える方もいるかもしれませんが、後で補完します
それから雪ノ下のマンションを去るまでの間は、たぶん俺が今まで生きてきた中で一番密度の濃い会話をした時間だった
と思う。まぁ、俺が他人としてきた会話などたかが知れているのかもしれないが、今日のこの時間のことはこれから先も
ずっと忘れないだろう。少なくとも、現段階においては俺にとっても雪ノ下にとっても最善の選択肢を取れたと思う。
嘘や欺瞞ではなく、また妥協でもなく。ただ、未だに自分の考えていること全てを話せたわけではない。雪ノ下は、あと
は俺と由比ヶ浜の問題だと思っているかもしれないがそう首尾よくいくともわからない。俺の考えが明らかになる前に、
今度こそ完全に失望される可能性も充分ある。しかし、それでも俺は自分のやり方を通したい。現時点で俺が考え得る
最善の方法を。
マンションの建物から出て、敷地内の庭園から空を見上げるともう星が見え始めていた。風が吹くと庭園に植えてある木々
の葉がかさかさと音を立てる。落葉樹はもうほとんど葉が落ちているものも何本か見受けられる。その光景を見て、俺は
最後の一葉の一部分を思い出す。確かその短編小説では、あまり状態の良くない肺炎で入院している画家が窓の外の木の
葉を見て「最後の葉が落ちたら自分も死ぬ」みたいなことを思っていた筈だ。話の流れはともかくとしてもどうにもこの
登場人物の心情は理解できなかった。病気で弱気になり、自分の境遇をその木の葉っぱに重ね合わせていたのは理解でき
ても、だからといって葉が全部落ちたら自分も死ぬというのはいきすぎだ。どのみちいつか葉は全て落ちるのだし、それ
でいつ落ちるか不安になるよりもさっさと全部落ちてしまった方が気が楽になれると思うのだが。ただ、まぁ由比ヶ浜
なんかは最後の一葉を描き足す方のタイプの人間なんだろうな、たぶん。だが、残念ながら自分はそうではない。
だから、俺はこれから最後の一葉を落としに行くことにする。
土曜日の朝7時前、俺は由比ヶ浜の家の最寄り駅のコンコースで彼女が来るのを待っていた。時間が繰り上がっているの
は俺が予定の時刻を勘違いしていたせいだ。後から電話して変更してもらったから大丈夫だとは思うのだが……。まぁ、
まだ15分前だしな。そう焦る話でもあるまい。土曜日だから、平日に比べれば人通りは少ないが行楽と思しき格好の人と
幾度かすれ違う。……大丈夫だよな。いや、万が一そうなったとしても……今さら心配するようなことでもあるまい。
由比ヶ浜もそう言ってくれたのだし。ただ、来週の火曜日まではなんとか秘匿しておきたいよなぁ…………今日の出来事
については。あ~…………昨日はあまりよく眠れなかったな。遠足前の小学生かと思われそうだが、楽しみというよりは
不安の方が実際のところは大きかった。でも、そのおかげでテンションが上がり過ぎずになんとか平常心を維持できて
いるような気もする。不意にあくびが出てしまい、開いた口に手をあてていると後ろから声がかかる。
「おはよ~ヒッキー…………大きなあくび」
振り返ると由比ヶ浜が少しあきれたように肩をすくめて微笑んでいた。黒のタートルネックのリブセーターの上に赤い
ダッフルコートを着こみ、デニムのパンツに低めのショートブーツといういでたちは普段の彼女から考えるとむしろ大人
しめな印象を受ける。ただ、髪型はいつも通りで手袋がピンクというのがいかにもといった感じだ。
「お、おはよう……」
私服姿を見るのも久々だったので、返事をするタイミングが若干遅れる。ついでに服装についてコメントするのも遅れて
しまう。電車が遅れると後ろの電車がさらに遅れる、みたいな。俺が沈黙していると向こうから目を逸らされてしまった。
頬を指で掻きながら、なんとか次の言葉を紡ぎだす。
「あ、えっと、その……服……似合ってるし…………か、可愛い、と思うぞ」
「か、か!?……あ、……ありがと」
俺の言葉に目を見開いた後、由比ヶ浜の顔はかーっとコートとおそろいの色になった。そりゃ驚きもするだろうさ。心の
中ではいくら思ってもそれを口に出すことなんてなかったんだから。でも、もうそれもやめだ。俺はもう彼女への好意を
隠しはしない。相手がどう思っているかに関わらず、俺は自分の想いを彼女に告げなければならない。だから……
「あ、あのさ…………俺、由比ヶ浜に大事な話が……あ、あるんだけ」
「ちょ、ちょーっと待って!ヒッキー」
俺が言い終わる前に由比ヶ浜が両手をバッと前に出して制止の体勢を取る。彼女が急に大声を出したせいで周囲の通行人
の視線がこちらに突き刺さる。痛い。由比ヶ浜もその視線を感じたおかげでまだその顔は赤いままだ。今度はその自分の
顔の熱を冷ますように、手でパタパタと扇ぎ始めた。ふ~っと息をついて少し落ち着いた様子を見せると、今度はこちら
に一歩近づいた。そして俺をチラチラ見ながら小声でそっとつぶやく。
「こ、ここだと……恥ずかしいから…………ちょっと……来て」
こちらが返事をする前に由比ヶ浜は外の方をちょいちょいっと指さし、小さい歩幅で歩き始めた。仕方ないので、俺は
彼女の後ろについていく。いったん駅舎から外に出て、通路からは植栽で陰になって見えないところにまで来て由比ヶ浜
は立ち止まった。ゆっくりと振り返って体をこちらに向け、視線は斜め下にやったままで彼女は言う。
「ここで、なら…………いいよ」
「そ、そうか……」
「……」
俺も彼女の方を見れないまま、沈黙が続く。由比ヶ浜は前髪をいじったりセーターの首の部分を触ったりしている。
早く言わなければいけないと思うほど、体はうまく動いてくれない。口を開けても声がすんなりと出てこない。そのまま
だとただの間抜けなので、いったん口を閉じてそれから息をふぅーっとゆっくりと出した。もう何も考えるな。結果は
もはやどうでもいいのだ、この期に及んでは。俺が今思っていることを口に出せばいいんだ。簡単なことじゃないか。
普段の自分がやっていることと何も変わりはしない。俺は由比ヶ浜の方をまっすぐ見据える。すると彼女もそれに応じて
こちらと視線を合わせてくれた。俺はすっと息を吸い、
「俺は……由比ヶ浜結衣のことが……………………好きだ。だから……もしよければ……俺と……付き合ってほしい」
言い終わってすぐ俺は思わず下を向いてしまう。へ……返事は……?おそるおそる前を見上げると、由比ヶ浜は何故か
泣きそうな顔をしていた。その潤んだ瞳の意味が俺にはまだわからないまま、彼女は眼を細めて唇を開け、
「はい……」
とだけ、噛みしめるようにしてその一言だけを俺に聴かせた。こ、これは…………OKということでい、いいんだよな?
ど、ど、どうなんだ?俺の拭いきれない不安が顔に出てしまったのか、由比ヶ浜は肩をすくめた。そして、
「あ、あたしも……ヒッキーのこと…………好き……だよ」
「そ、そうか……」
何故か他人事みたいなセリフが出てしまった後、俺は安堵から前かがみになり両膝に手を置いてため息をついてしまう。
ようやく安心できた筈なのに、なんだか疲れがどっと噴き出してくるような感じがした。現時点でこんな調子で今日一日
俺の身はもつのだろうか?…………そんな不安が頭をよぎる。このペシミスティックな思考…………いつもの自分だな。
大丈夫だ、問題ない。頭の中が元通りになったところで顔を上げると、やれやれといった感じで由比ヶ浜は俺を見てきた。
「な……なんだよ」
「い、いや?えっと……ヒッキーは相変わらず心配性だな、と思ったっていうか……」
「正直なところ、今の告白でさえ振られることを想定してたからな…………なんか今は拍子抜けしてるみたいだ」
「……さすがにこれで断ったらあたし悪い子だよ」
逆に俺のあまりに悲観的な思考に恐縮したせいなのか、由比ヶ浜はてへへと照れ笑いをした。
「いや……まぁ……お前は良い子だけど悪い子だからな、言っとくけど」
「……どういう意味?」
「由比ヶ浜は誰にでも優しいけど、そのせいで男子を勘違いさせるから悪い子ってことだよ」
俺なりにわかりやすく説明したつもりだったが、由比ヶ浜は首を傾げている。まさかこいつ…………。
「お前さぁ…………もしかしてモテてるって自覚なかったりする?」
「えっ?あ……え……う~ん……よくわかんない。告白とか…………そんなにされたことあるわけじゃないし」
“そんなに”って言ってる時点で充分モテてると思うのは私だけなんでしょうか……。今さらこんな話したところで別に
何かメリットがあるわけでもないのに、つい話を続けてしまう自分がいる。
「そりゃお前…………人気あるから最初から諦めてる奴が多いってだけの話だろ。釣り合わないとも思うだろうし」
「そ……そうなんだ……。っていうか何でヒッキーがそんなに詳しいの?」
由比ヶ浜は不思議そうな顔をする。いや…………俺も心の中はごく普通の男子高校生なんですよ?だから、
「そんなの……自分の好きな子がモテるかどうか気にするのは当たり前だろ?それに……俺だって……正直なところ、
分不相応なことしてるな、と今でも思ってる」
「そ、そんなことないよ!分不相応なんて思わないし…………それに本当はあたしの方から自分の気持ち……言わないと
いけないと思ってたし……」
「へぇ、意外だな。由比ヶ浜が分不相応なんて言葉知ってるとは思わなかった」
「意外って……え?も、も~ヒッキーあたしのこと馬鹿にし過ぎ!」
俺の言葉が唐突だったためか一瞬怪訝な顔になった後、由比ヶ浜は膨れっ面になって俺の胸をぽかぽか叩き始めた。
俺は由比ヶ浜といるとぽかぽかするし、由比ヶ浜にもぽかぽかして欲しいが、今彼女がやってるような意味ではない。
そんなどうでもいいようなことを考えつつ彼女を適当になだめて、俺は鞄から帽子を取りだしてそれを目深にかぶる。
「……どうしたの?急に帽子なんてかぶったりして」
「え~と…………だから……困るだろ?俺と一緒にいるところを知ってる人に見られたら」
俺がそう言うと由比ヶ浜は少しむっとした表情になり、ヒュッと俺の帽子のつばを掴んで奪い取ってしまった。
「おい!何すんだよ」
「あたし、もう気にしないってこの間言ったじゃん。ヒッキーと一緒にいるところを他の人にどう見られてもいいって」
「いや、お前が気にしなくても俺が気にするんだが…………そんなことで自分の立場悪くしてもらいたくないし」
「自分の立場のこと全然気にしない人に言われたくないかも。それに、あたしが前より自分の立場を気にしないで済む
ようになったのは、ヒッキーのおかげだから」
「……」
以前からその片鱗はあったが、ちょっと最近の由比ヶ浜は口が上手くなり過ぎなんじゃないだろうか?そういう風に言わ
れてしまうとこちらは何も反論できない。俺が黙っていると彼女はさらに追い打ちをかける。
「ヒッキーがあたしを変えたんだよ…………だから……その責任、取ってよね」
「そ、そう…………なのか?」
「うん、そう」
「……どうしたの?急に帽子なんてかぶったりして」
「え~と…………だから……困るだろ?俺と一緒にいるところを知ってる人に見られたら」
俺がそう言うと由比ヶ浜は少しむっとした表情になり、ヒュッと俺の帽子のつばを掴んで奪い取ってしまった。
「おい!何すんだよ」
「あたし、もう気にしないってこの間言ったじゃん。ヒッキーと一緒にいるところを他の人にどう見られてもいいって」
「いや、お前が気にしなくても俺が気にするんだが…………そんなことで自分の立場悪くしてもらいたくないし」
「自分の立場のこと全然気にしない人に言われたくないかも。それに、あたしが前より自分の立場を気にしないで済む
ようになったのは、ヒッキーのおかげだから」
「……」
以前からその片鱗はあったが、ちょっと最近の由比ヶ浜は口が上手くなり過ぎなんじゃないだろうか?そういう風に言わ
れてしまうとこちらは何も反論できない。俺が黙っていると彼女はさらに追い打ちをかける。
「ヒッキーがあたしを変えたんだよ…………だから……その責任、取ってよね」
「そ、そう…………なのか?」
「うん、そう」
なんか二重投稿になってますね。>>449は無視してください
由比ヶ浜は笑顔でそう答え、強い意志を持った瞳で俺を真っ直ぐ見つめてきた。俺は彼女のその想いを無碍にもできず、
目を背けることはためらわれた。由比ヶ浜は俺が視線を合わせてくれたのに満足したのか、いったん帽子を俺の胸の前に
差し出してきた。
「そういうことだから…………今日はかぶらなくていいよ。この帽子は」
「…………わかったよ」
俺は帽子を受け取って鞄の中に戻す。その様子を見て由比ヶ浜は一度視線を外してはにかみながらこう言う。
「それにヒッキーもさ……その……えっと……モテる女子をゲットしたんだからもっと堂々としなよ」
「俺は基本的に堂々としてると思うけどな。欠点を隠そうともしないし、人から嫌われても平気だし」
「そういうことじゃなくてさ…………わかるでしょ?ヒッキーなら」
いや、由比ヶ浜の言うことは理解はできるが…………要は卑屈になったり自虐したりする必要はもうないってことなんだ
ろうが…………そう簡単に思考回路を変えられるとも思えない。理解するのと実践するのは全くの別問題だ。
「それはわかるが…………急にそんなこと言われても、な…………」
「ちょっとずつでいいから…………ね?」
「まぁ…………ちょっとずつなら、な」
由比ヶ浜に諭すように声をかけられて俺も渋々それに応じざるを得ない。それに、彼女は自分が変われたと言っていた
のでそれを理由に俺にもできると説得されたらまた反論するのに困ってしまう。だから、ここは仕方ない。
「じゃあそろそろ…………行こっか?」
「ああ」
由比ヶ浜が早めに来てくれたおかげで、ちょうど今ぐらいに待ち合わせ本来の時刻になっていた。彼女は行き先を全く
知らないので、俺が先に歩き出す。最初にいたコンコースに戻ったところで、俺は由比ヶ浜に必要なことを尋ねる。
「ところで由比ヶ浜…………今Suicaどれくらいチャージしてある?」
「え?……ちょっと券売機で確かめないとわからないけど…………千円以上はあるかな」
「……それなら大丈夫か。じゃあ行こうぜ」
さっさと改札の中に入ろうとするが、由比ヶ浜は俺の服の裾を引っ張って止める。
「あ、あの…………あたし、まだ何も知らないから……その……お金とかもいくら必要とか……」
「ああ、その心配はいらない。今日は基本的に全部俺が持つから。あんま高いもの買い物されると困るかもしれないけど」
「ぅええ!?」
急に間近で叫ぶもんだから、耳が……。周囲の視線を感じて由比ヶ浜は少しうつむいてしまった。そしてこうつぶやく。
「ほ、ほんとに?…………だ、大丈夫なの?」
「もともと奢ってもらったもののお返しなんだから、ある意味当然といえば当然だろ」
「そ、それはそうかもしれないけど…………」
「まぁ、いいからいいから」
少し申し訳なさそうな表情のままの由比ヶ浜を促して、改札の中に進む。それから電車に乗るまでは、特に会話らしい
会話をすることもなかった。
ほどなくして東京行きの電車がホームに入線して、二人してそれに乗り込む。車内はそれなりに混んでいて、仕方ない
ので吊革に手を伸ばした。電車が動き出してしばらくすると、横から小さく声がかかる。
「ねぇヒッキー…………ちょっと学校では言いづらかったんだけどさ……」
「なんだ?」
「その…………ゆきのんとは…………うまくいったの?うまくいったって言うのも変かもしれないけど」
話の内容が内容なので、俺は思わず隣に立っている由比ヶ浜の方を見る。すると、それまでこっちを見ていたのか彼女は
パッと視線を逸らした。そして、自由になっている方の手で由比ヶ浜は頬を人差し指で触りはじめた。
「まぁ、とりあえず…………現時点で必要なことはだいたい話せたのかな。俺と雪ノ下の間で考え方にそんなに違いが
あったわけでもないし、由比ヶ浜が心配するようなことは何もないよ」
「そ、そっか~…………よかった」
由比ヶ浜はふぅっと息をついて胸をなで下ろした。そうか…………由比ヶ浜はあれから俺とも雪ノ下ともその話について
何も聞いてなかったから今の今までずっと不安に思っていたのか…………なんか悪いことしちゃったかな。
「今まで話してなくて、その…………悪かったな」
「い、いいよいいよ!うまくいったんなら…………あたしは、別に……」
そう言って由比ヶ浜は手を胸の前で細かく振った。そうした後、彼女の表情は少し憂鬱そうなものに変わる。友達思いの
優しい由比ヶ浜のことだ、結果を知ったが故にそれはそれで雪ノ下の心配をしているのだろう。だが、それは筋違いだ。
「俺と雪ノ下は…………現時点において最善の選択をしたつもりだ…………だから、お前は何も気にする必要はない」
「う、うん……」
どうも表情が晴れないな…………ここはもっと優先して考えるべきことがあると教えてやらねばなるまい。
「そんなことよりもだな、由比ヶ浜…………お前はこの俺を恋人にしたんだぞ、今はもっと俺のことを心配しろ」
「ふふっ……そ、それもそうかもね。じゃあ今はヒッキーの心配をするよ」
「あぁ、そうしとけ」
由比ヶ浜は普段見るような、あきれ混じりの笑顔になって俺は少しほっとする。その後はまたしばらく沈黙が続く。
電車に乗り始めて20分ぐらい経った頃、さすがに目的地が気になり始めたのか由比ヶ浜がまた話しかけてくる。
「ね、ねぇ…………まだ着かないの?」
「あともう少しの辛抱だ。降りる駅になったら言うからさ」
「う、うん……」
それからまた数分経ち、やっと今日の目的地の駅に近付いてきた。アナウンスが流れるより先に俺が口を開く。
「次で降りるからな」
「えっ?……ほ、ほんとに?」
由比ヶ浜は目を丸くしてこっちを見つめてくる。なんかさっきまでと目の輝きが全然違うぞ、おい…………。
「ほんとにほんと」
「そ、その駅で降りるってことは…………そういうことで……いいのかな?」
「まぁ……お前の考えてることで合ってるんだろうけど……ただ、二つある選択肢のうちどちらを選ぶかまでは自由に
させてあげられなかったけどな」
「い、いいよ!どっちでも…………えっ……でも……」
その後は声が小さくなってこっちに聞こえるかどうか微妙な感じで何かぶつぶつ言っていた。「もしかしてド、ドッキリ?」
とか「いや、ヒッキーのことだしまだ……」とかさり気なく失礼なことを言われた気がするが、たぶん気のせいだ。まぁ、
普段の行いが悪いからな…………仕方ない。しばらくすると車内からも目的地の風景がうかがえるようになり、由比ヶ浜
は窓の方に少し身を乗り出す。着く前からこんなテンションだとなんか逆に申し訳ない気持ちになってくる。いや、これ
は先回りした罪滅ぼしみたいなものだからな…………今日一日は楽しんでもらうしかない。
電車が駅に到着してドアが開くと、俺と由比ヶ浜以外にもそれなりに人がホームに降りていく。前の人に続いてぞろぞろ
と歩いて改札を抜け、コンコースを過ぎて駅の外に出る。駅に着いた時点で色々と演出はされているのだが、その間は俺
は黙っていた。ペデストリアンデッキにまで来たところで、俺が口を開くより先に由比ヶ浜が興奮気味に尋ねてきた。
「ねぇヒッキー、そ、それで今日はど、どっちに行くの?」
「…………ランドの方。東京ディスティニーランド」
「ほんとに?ほんとにディスティニーランドに?し、しかも……え?ヒッキーの……お、奢りなんて……」
由比ヶ浜は目を爛々と輝かせながらこちらに迫ってきたかと思えば、一歩退いてもじもじし始めた。忙しいやっちゃな、
お前は。人差し指を突き合わせながらこちらを時々チラッと見ては黙っているので俺が話を続ける。
「ここまで来て嘘つく必要もないしな。まぁ、かなり待たせてしまったし…………これがハニトーのお返しってことだ」
俺はチケットを取りだして由比ヶ浜に渡そうとする。が、すんなりと受け取ってくれない。……何故だ。
「わ、悪いことしちゃったかな、あたし…………あ、あたし……実は……」
「年間パス持ってる、とか言うんだろ?どうせ。それ使わせたらお返しにはならないし、サプライズにすることも無理
だったし…………それに日程が試験の直後だったからな。試験前からそわそわされて勉強どころじゃなくなるのも困る」
だから…………と言いかけようとしたら、由比ヶ浜はチケットを俺の手からさらってあっという間に距離をつめて、
「ヒッキーありがと~、ほんっとうにありがとう!ヒッキー大好き」
そう言って飛びかかるようにだ、抱きつかれちゃったんですけど…………あ、い、色々なものが、その……あたってるし、
いい匂いはするし、は、恥ずかしいし…………周りからの視線が…………。し、しかし肩の後ろをがっちり掴まれている
ので抵抗しようにもできないし……いや、するつもりもないんだけど…………。しばらくそのままの体勢で由比ヶ浜は
何度かありがとう、と繰り返して言うと回していた腕を離して正面で向き合う形に戻った。衝動的にやった行動のせい
なのか、今になって由比ヶ浜の頬が染まった。もう俺なんかさっきから顔が熱くてたまらないんですが。このまま黙って
見つめあっていてもしょうがないので、次の行動を促すために俺は口を開く。
「そ、それはどういたしまして…………えっと…………とりあえず入口に行って…………並ぼうか」
由比ヶ浜は声を出さずにコクリと頷く。それを見て先に俺が足を踏み出すと、片方の腕が引っ張られる。
「こ、こことか…………人多いから……ね?」
上目遣いで手をつなぐことを要求されて拒める筈もなく、俺は手の体勢を変えて由比ヶ浜の指と絡めた。ほ、ほら……
あれだ、今由比ヶ浜は手袋してるから俺の手汗を気にする必要もないしな、うん。別に問題はない。
こうして、俺と由比ヶ浜のディスティニーランドでの最初で最後のデートが始まったのだった。
今回はここまでです。次回は月曜あたりを目途に投下したいと思います
少し続きを投下します
⑩ついに彼と彼女の終わりが始まる。
帰りの電車の車内、ディスティニーランドの袋を抱えて幸せそうに眠る結衣の寝顔を俺は吊革に掴まりながら眺めていた。
ついつい、視線がその唇に向かってしまう。あれから結局五回くらいねだられて、その…………キスしてしまった。今頃
になって何やら罪悪感のような寒気が全身を襲う。これが夢から現実に還るということなんだろうか。肩がかすかに上下
に揺れている彼女はたぶんまだ夢の中にいるのだろう。もう少ししたら、目を覚まさせてやらないといけないのが辛い
ところだ。そう、俺は結衣を醒めさせないといけないのだ。今日の今までがむしろ夢みたいなものだったのだから。
電車は幾度か駅に停まるのを繰り返し、次が結衣の家の最寄り駅になった頃に俺は肩をぽんぽんと叩いて結衣を起こす。
左右にゆっくりと頭を揺らしながら、むにゃむにゃと何かつぶやいているようだがその内容はわからない。しばらくは
結衣はそんな様子で俺が起こすのを諦めかけたその時、彼女の頭がピタッと止まりハッとしてその目が見開かれた。パチ
パチとまばたきをした後、顔を上げて申し訳なさそうにこちらを見た。
「ご、ごめん…………あたしだけ寝ちゃって……」
「疲れてるんだからしょうがないだろ、そんなことでいちいち謝らなくていい。それよりそろそろ着くぞ」
「あっ……うん……」
返事をしてから彼女はまだ眠そうなその目を手で擦り、あくびが出そうになった口を手で隠した後、拳を胸の前で握り
しめて「よし!」と小声で言って立ち上がる。俺は邪魔にならないように脇に移動し、結衣と一緒に網棚の上に置いた
袋を下におろした。
電車が駅に着き、結衣の後に続いて俺も一緒に降りる。土曜日の夜で帰宅ラッシュの時間を過ぎたとはいっても、俺たち
のように行楽帰りの人もいて駅はそれなりに混雑している。先に続く人の歩調に合わせて自分たちも外の方に向かう。駅
から出ると、冷たい空気が顔や手にあたる。しかし、俺と結衣の手が繋がれるようなことはない。俺がひとつ袋を持つと
言ったので、今は二人とも両手に袋を提げた状態だ。今の彼女の歩みのテンポは遅い。それは疲労とか寝起きとかだけで
説明できるようなものとはまた違う理由があるような気がしないでもなかった。横に並んで歩き、半歩だけ先を進む彼女
は時々こちらに視線をやる。
「……どうした?」
「え、う、ううん……なんでもない……」
……わかっててそのセリフを言っているのかねぇ?君は。人がそう言う時は大抵は何かあるんだよ。それに、彼女の顔に
も何かあると書いてある。実にわかりやすい。
「……何か言いたいことがあるなら遠慮しなくてもいいぞ」
「えっと……その……こんなこと言ってもどうしようもないというか、なんというか……」
「お前が口にすることって割と言ってもどうしようもないことの方が多いような気がするけどな」
俺がそう言うと、結衣はむすっと顔を膨らませて「ひどい」とつぶやいた。仕方がないじゃない、だって本当のことなん
だもの。彼女が言うことというのは基本的には何か目的があるというよりは、感情の発露みたいなことが多い。だから、
それによって何か新たな知識を獲得したりだとか問題が解決したりだとかそういうことは直接的にはない。だが、それが
肯定的なものだったらそれは人を元気づけたり、傷を癒したりする効果がある。どうしようもなくてもそれが直接無意味
な行為を意味するかというとまたそれも違うのだ。
「ま、この世の中どうにもならないことの方が多いからな。だから、そういうことを言うお前が悪いとかいう話ではない。
口にしたら気が済むってこともあるしな、今さら躊躇することもない」
俺の言葉を聞いて、結衣の膨れ顔は元に戻ってふっと少し笑みをこぼす。
「うん……だから……今からあたしが言うことも別にヒッキーに何かしてほしいってことじゃなくて……ただあたしが
そう思ってるってだけだから」
「お、おう……」
「帰りたく……ないな」
「は?」
俺に何か要求するわけではないと先に断っていたにも関わらず、結衣の言葉に俺は間抜けな声を出してしまった。こちら
の反応は織り込み済みだったのか、彼女は無視して話を続ける。
「今日のことは本当にヒッキーに感謝してて…………今のあたしは……今まで生きてきた中で、一番幸せだよ」
「さすがにそれは大げさなん……」
「大げさなんかじゃないよ」
俺が言い終わる前に、結衣は俺の正面に回り込んできてこちらを真っ直ぐ見て目を細めた。その微笑はさっきの言葉を
これ以上ないというくらい裏付けるかのような幸せそうなものだった。俺は何故か彼女から視線を逸らしてしまう。
「だから…………この時間が終わってほしくない」
「そうか……」
「うん…………ヒ……ヒッキーは?……その……」
もちろん、俺もそう思っているさ。だからこそ、それが意図しないところで、自分の意思とは関係ないところで終わって
しまうのはとてもじゃないが耐えられるものじゃない。しかし、そのことは…………まだ…………。
「まぁ、俺なんかそもそも人と一緒にいられたことが少なかったし、いられたところで幸せだと感じたことなどあまり
なかったからな。今まで生きてきた中で俺も、今が一番幸せだ」
「……そっか……」
俺のいつも通りのセリフに、結衣もまたいつものように少しあきれるように笑って肩をすくめた。二人で想いを共有して
満足したのか、彼女はまた振り返って俺の隣に戻って前に進みだした。
「あたしもまた…………お返ししないといけないね」
「何を?」
「今日のこと。さすがにハニトーとディスティニーランドじゃ、釣り合ってないでしょ」
「二か月以上も待たせてしまったんだから……これは利子みたいなものだと思ってくれればいい」
結衣は俺がそう言ってもまだ何か納得していないような表情でこちらに視線をやる。まぁ、仕方ないよな。彼女はまだ
知らないのだから。今日、俺が多少の無理をしてでもあそこに行った理由を。いや……待てよ?向こうからそう言って
くれているというのは…………もしかしたら、これは使えるのかもしれない。
「じゃあさ、ちょっとこれから…………俺のわがまま、というかお願いをひとつ……聴いてくれよ」
「お願い?」
小首をかしげる結衣。
「そうだ。それでチャラってことで……どうだ?」
「ヒッキーがそれでいいなら、あたしは別にいいけど…………」
……一応、これで言質は取れたな。まぁ、俺には最初から言うとおりにしてもらう以外のシナリオは考えていないのだが。
「で、そのお願いって?」
「ん……歩きながらというのもなんだし、ここで言うのもちょっとな……」
そう言って俺は両手に提げている袋を少し持ち上げる。すると彼女の歩みが止まり、ぽそっとこんなことをつぶやく。
「じゃ、じゃあ…………うちで話す?」
「え?」
彼女を見ると頬を染めて少しうつむいていた。……さすがにそれはマズい、色々と。恥ずかしいだとか、もしも家族に
会ったらどうしようだとかそういう理由も挙げられるのだが、何よりもたぶんこのまま家に上がってしまったら俺の考え
ていることがうまくいかなくなる。それだけはなんとしても避けたかった。断る理由を適当に考えながら俺は口を開く。
「いや、たぶんすぐに終わるし…………別に立ち話じゃダメってわけでもない。だから……」
「す、座る場所があればいいってこと?」
「そんな感じかな……」
俺がそう答えると、彼女は「ふーん」と言ってまた先に歩き始めてしまった。これはついて来い、ということでいいの
だろうか?さっさと先に行ってしまいそうな感じの足取りだったので、仕方なく俺もその後に続いた。しばらくは俺も
結衣も黙ったまま道を進む。二人の歩く音以外は、たまに通る車の音か風の吹く音くらいのもので静かだった。しかし、
夏休みの花火大会の帰りの時と通っている道がまったく同じなのは気のせいだろうか?もうそろそろ彼女のマンションも
見えてくる頃だ。さすがに俺も気になってきたので、結衣に声をかけることにした。
「あの……今向かっているのって……」
「あたしの家だけど?」
「いや……そういうことじゃなくてだな……」
「大丈夫。家の中には入らないからヒッキーが心配するようなことはないよ」
そう言って彼女はマンションの裏口の方へ進んでいく。敷地内にはもう入ってしまっているのですが……。通路を進んで
いくと、途中で左右の生け垣がなくなり小さい遊び場のようなところに出る。砂場の隣には滑り台とブランコが設置して
あった。そして、その遊び場の隅にはベンチがひとつだけぽつんと置いてある。近くに街灯があったのでその場所は周り
よりも明るくなっていた。その光に連れられるように、結衣はそちらに向かっていく。
「ここなら、座れるしちょうどいいと思って。……ダメだったかな」
「ダメじゃない…………ここで話そう」
二人ともベンチに辿りついたところで、手に提げていた袋をその上に置く。結衣は先に腰掛けて、手で横をぽんぽんと
叩いて俺にも座るように促した。立っている理由も特にないので、俺もそこに座ることにする。腰を落ち着けると、疲労
のせいかふぅ~っとため息が出てしまった。結衣は隣でそんな俺を見てふふっと笑う。
「ヒッキーもさ……疲れてるなら、うちで休んでいってもいいんだよ?」
「それは断る。この時間にいったん落ち着いたらそれこそ本当に帰れなくなるし、好きな子の家に初めて入るんじゃ緊張
して休憩どころじゃなくなるわ」
「そ、そう……」
少し意地悪そうな顔をして誘ってきた彼女だったが、俺の返答にそれ以上は何も言わなくなってしまった。今さらこんな
セリフで照れられてもなぁ…………まぁ、可愛いからいいんだけど。俺はふと彼女の隣に置いてある袋を見てあることを
思い出す。
「ところでその袋の中身……友達へのお土産とかも入っているのか?」
「……そうだけど?なんで?」
「あ、いや……できればそのお土産を渡すのは……来週の火曜日以降にしてもらえないかな、と思ってさ」
「それは別にいいけど…………今のがさっきヒッキーが言ってたお願いってこと?」
あ。マズいな……確かにこれもお願いといえばお願いか……う~ん……後々色々とトラブルになるのは避けたいから、
思わず言ってしまったが……。結衣は俺の顔を見て何か理解したのか、こちらが答える前に口を開く。
「いいよ、それくらいのこと……さっきのお願いとは別でも」
「そうしてもらえると助かる……結衣」
「わかった……」
お土産の話が済み、また二人の間には沈黙が流れる。俺はどうにも次の話を切り出せずにいた。俺が地面の方を見ている
と、不意に片方の手に生温かい感触が走る。いつの間にか手袋を外していた結衣の手が俺の手の上に覆いかぶさっていた。
そちらの方に頭を向けると、結衣はこちらに少し身を乗り出してきていて顔が触れそうになり、俺は思わず顎を少し引く。
結衣はそのままの体勢で、こちらをじっと見つめる。そして耳が溶けるかと思うくらいの甘い声でこうささやいた。
「ねぇ……これからは……ずっと……一緒、だよね?」
ああ…………ダメだ、俺は…………。やっぱりそのような質問には…………まだ、肯定の返事ができない。結衣の言った
言葉は、別に恋人同士なら普通に交わせる類のものだ。もしも俺がもっと平凡で、素直で、楽観的で、人と自分を信じる
ことができて、失うことを恐れず、表面上の人間関係を取り繕うことのできる人間だったのなら、いとも簡単に同じ答え
を彼女に返せていたのだろうに。そうできたのだとすれば、結衣も安心できるし喜んでくれたのだろう。だが、今の俺に
とってその言葉は嘘であり、欺瞞に他ならない。だから、ここでYESと言うのは俺の考える誠意ではない。しかし、これ
から先も同じようなことは訊かれ続けるのだろう、おそらくは。その誘惑に、自分は耐えられる自信がなかった。そして、
その瞬間から真実は失われ始める。お互いがお互いのためを思って嘘をつく。それが優しさであると勘違いをして。いつ
の日にかそれが日常となり、お互いの本当の気持ちがわからなくなっていることに気づきもしない。恋人というレッテル
に安住し、真に関係を続けるための努力をしなくなる。仮に途中で自覚することができたとしても、十中八九そんな関係
は破綻する。俺はそんな将来は絶対に見たくない。そんなことにならないように、俺は”今”をも捨てる覚悟をしたんだ。
俺が黙ったままなのを見て結衣は心配そうな視線をこちらにやる。ワンクッション置くために他に言っておくべき言葉を
自分はとっさに考える。
「ヒ、ヒッキー?」
「あ、あのさ……俺……来週の月曜日から……また奉仕部に……行くつもりだ」
「あっ……う、うん……」
直接返事をしてもらえなかったことに結衣はガッカリしたのか、俺から視線を外してうつむき加減に前の方を見る。俺は
結衣に握られている方の手を持ち上げて、彼女から離した。彼女の手の横に自分の手を置き直し、俺はこちらを見るよう
に言った。結衣は顔をこちらに向けてくれたものの、その視線はさっき離れてしまった手の方にあった。一度、深呼吸を
して息を整えてから、俺はこう切り出す。
「由比ヶ浜。俺はお前に、ひとつ聴いてほしいお願いがある」
「え……や……やだ……」
由比ヶ浜は、俺の表情と呼び方で何かを察知したのか声を震わせながら、首を何度か振った。俺は彼女の制止を無視して
先の言葉の続きを言う。
「俺と、別れてほしい」
俺の彼女――いや、彼女だったその女の子――は、崩れ落ちた。
今回はここまでです。次回は水・木を目途に
続きを投下します
⑫彼と彼女はもう一度始めることができるのか。
昼休み以降は、また誰と話すこともなく時間は過ぎていき、帰りのSHRも終わっていよいよ部活の始まる時刻が迫って
きた。俺は修学旅行後に起こった出来事に思いを巡らせる。一か月程度しか経っていないのにその間にずいぶんと色々な
ことがあったように思える。脳裏には自分に対してかけられた言葉の数々が浮かび上がってくる。
――――もしヒッキーがわざと嫌われるようなことしても、あたしのヒッキーに対する印象は変わらないからね
まったく……いくらこんなことを言われたからといって実際にそれをやる奴がいるかっつうの。もし、いるとし
たらそいつは愚か過ぎる。まぁ、自分のことなんですが。
――――あとそうだ…………君は君でいい加減に他人から好かれる覚悟をすべきだと思うよ
とりあえず、好かれる覚悟はもうできたと思う。あとは自分が好く、好きでい続ける覚悟をするだけだ。
――――ま……本当のことを言った方が良い時もあるんじゃないの?あんたのためにもその周りの人間のためにも
多少時間はかかったが、ようやく本当のことが言えそうだ。たとえそれが自分にとって、あるいは相手にとって
少しばかり都合の悪いことであったのだとしても。
――――だから、君も君なりの正しさを発揮すればいいのさ。どうにも間違っていると私が思ったらその時は叱ってやる
一応、自分なりの正しさというものを考えてはみたんですがね…………果たしてそれは先生のお眼鏡に適うもの
なのかどうか、俺にはまだよくわからないです。
――――なに、そう深刻になりすぎることもないだろう。いざとなれば一人に戻るという選択肢もある
どうやら、もうその選択肢はなさそうです。あるいは、最初から最後まで一人は一人、という言い方も無理やり
しようと思えばできないこともない。
――――あんまりのんびりしてると、由比ヶ浜さん他の誰かに取られちゃうよ
ああ、わかっているさ。だから、ずっと自分のことが好きだと、何をしても自分のことが好きだなんて自惚れた
ことはもう金輪際考えないようにする。
――――我としても主が部に戻ってもらわぬと困るのでな。正直なところ一人であの者どもを相手にするのは荷が重すぎる
正直なところ、俺にとっても荷が重い。だが、もう背負わないということは許されなくなった。だからどうにか
して、その荷を少しでも軽くする方法を考えてはみたんだ。
――――もしも思慮深く聡明で真面目な生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難
に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め
ともすれば、彼女は浅慮で愚昧で不真面目な生活をしているようにも見えるかもしれない。でも、本当はそうで
ないことくらいあなたならわかるでしょう?ねぇ、陽乃さん。
――――じゃあ、あんたも早く結衣との未来なんとかしろよ
その“未来”をなんとかするために、今はそのことを考えたり口にしたりすることが俺にはできない。未来が今と
して積み重ねられるようにする方法しか自分には思いつかなかった。
そんなことを考えつつ、これから彼女に伝えるべきことを整理していると、いつの間にか教室に残っているのは自分だけ
になっていた。
…………俺もそろそろ行くか。机から鞄に荷物を入れ直し、教室から出た。
廊下を歩き、渡り廊下を通って特別棟に向かう。
昼休みに三浦に会ったのと同じ場所から窓の外を見ると、空がピンクがかった夕焼けになっていて思わずその足を止める。
天気が良くなったとはいっても快晴になったわけではなく、空の半分くらいは濃い灰色の雲で覆われていた。
だが、それが明暗のコントラストを際立たせており、情感のある景色になっている。
その美しさ故か、夕焼けに感じる独特の寂しさ故か俺の口からはため息が出る。
そのまま少し立ち止まったまま空を眺めた後、また奉仕部部室に向かって俺は歩き出した。
しばらくして部室の前まで辿りついたが、何故か今日は人の気配がしない。中の電気も点いていないようだ。
一応、ノックをしてみるが何も反応はない。仕方ないので、俺はそのまま扉を開けて部室へと入る。
中には由比ヶ浜結衣一人がぽつんと椅子に座っていた。
俺が電気を点けて挨拶をすると、うつむいていた彼女はゆっくりと首を動かして笑顔でこちらを見る。
その表情は痛々しくてとても直視できたものではなく、思わず目を背けてしまう。
反射的に「ごめん」という言葉が喉まで出かかるが、それをどうにか引っ込める。今謝ってしまうと、また誤解を招き
かねない。謝罪するにしても、何に対しての謝罪なのかハッキリさせるのが先だ。
俺は机の横まで歩いていき、鞄を下に置いた。
二人の間に沈黙が流れるが、先にそれを断ち切ったのは由比ヶ浜の方だった。
「えっと……今日は……ゆきのん、遅いね…………いつもは一番先に来てるのに」
「雪ノ下は……少し教室で待たせている。俺と由比ヶ浜二人だけで話がしたい、と先に連絡しておいた」
「え?あっ……そうなんだ……」
俺が雪ノ下の居場所を知っているのが意外だったのか、少し驚いた様子を由比ヶ浜は見せる。一瞬だけ俺と目が合うが、
それもすぐ互いに逸らしてしまった。
さっき見た濃い灰色の雲が覆う空のように、重い空気が流れる。俺としても珍しく沈黙が怖くなったのか、あまり間を持
たせずに立ったままでまた口を開く。そして、彼女に向かって頭を下げる。
「由比ヶ浜。今日は、ここに来てくれて…………本当に……ありがとう。お前には感謝してもしきれない」
「え?あ……いや……そんな大げさなもんでもない、と思うけど……」
俺が頭を上げると、由比ヶ浜は横を向いてこめかみを指で掻く動作をする。それを見てほんの少しだけ空気が軽くなった
ような気がした。俺は一歩彼女に近づいてこう続ける。
「ちょっと由比ヶ浜も立って…………机の前に来てもらっても……いいか?」
「う、うん……」
俺は由比ヶ浜を促して席から立たせ、机の前まで移動させる。そうして、俺と彼女が正面で向き合う形となる。由比ヶ浜
の視線はこちらには向かず、目が泳いでいる。脚の震えを抑えるためなのか、彼女は太ももに片手をやる。
今は自分の心臓の鼓動の音しか聞こえない。俺は一度、由比ヶ浜の方を真っ直ぐ見据える。すると、それに彼女も応じて
体も視線もこちらに向けてくれた。
俺は胸に手をやって一回深呼吸をして息を整えた。そして、
「俺は由比ヶ浜結衣のことが、好きだ。俺ともう一度、恋人として付き合ってほしい。ただし…………一日だけ」
「え?……ど…………どういうことなの?」
俺の告白を聴いて一瞬表情が緩んだように見えたが、すぐにそれは困惑へと変わる。……そりゃそうなるよな。
「理由は今から説明する。とりあえず、最後まで話を聴いてもらっても……いいか?」
由比ヶ浜は俺に聞こえるかどうか微妙なくらいの小さい声で「うん」と言って頷いてくれた。俺は彼女の返答に感謝を
しつつ、話を続けることにする。
「俺は土曜日に、お前と恋人としてうまくやっていく自信がないと言った。そして『ずっと一緒にいよう』という由比
ヶ浜の気持ちには応えられない、とも言った。それは、俺の自分に対する信用のなさが原因であって、お前には嘘をつき
たくないからこんなことを口にした。それなら逆に、どういうやり方だったら自分は由比ヶ浜の気持ちに応えられるのか、
それを俺は考えた。その結果がこれだ。俺が口にできるのは“今”由比ヶ浜結衣のことが好きで、“今”お前と恋人でいたい。
それだけのことに過ぎない。ただし、それを今日だけで終わりにするつもりはない」
そこまで一気に言い切って、俺はいったん息をふっとつく。由比ヶ浜はまだ状況が飲み込めないのか、ぽかんとした表情
で口を半開きにしたままこちらの方を向いている。その口が動いてしまう前に、俺はある誓いの言葉を彼女に告げる。
「俺は……お前のことが好きで……二人でいることが、互いの幸福になると信じられる限り、俺はこれから…………
“毎日”由比ヶ浜結衣に告白し、お付き合いのお願いをする」
「え?……ま、……まいにち?え?……告白?…………え?」
由比ヶ浜は目を見開いて皿のようにしながら、こちらをじっと見つめて幾度か「え?」とつぶやいた。しばらくして俺の
言ったことを理解し始めると、彼女の顔はだんだんと外の夕焼けの色に同化していった。顔色が変わると、由比ヶ浜の
視線はこちらから逸れていく。少し横を向いて床の方を見るような状態になって由比ヶ浜はぽそっとつぶやく。
「い、今の…………本気、なの?……ヒッキーは……」
「……ジョークでこんなこと言えるかよ。本気だ、本気」
「ヒッキーって本当に…………タチ、悪いなぁ……」
俺と由比ヶ浜は、土曜日にしたのと同じようなやり取りをする。でも今の彼女は泣き顔ではなく、苦笑いとあきれが混じ
ったような表情だった。俺はそんな彼女の表情に少し安心しつつも、言うべきことを先に全部伝えてしまおうとする。
「由比ヶ浜の言った『ずっと一緒にいたい』という想い……俺もどうにかしてその想いに応えたい。でも、まだ自分は“今”
のことについてしか口にできない。だから、由比ヶ浜の想いに応えるには実際の態度で示し続けるしかないと思っている。
お前に信用してもらえるまで、そして俺が自分を信じられるまで…………俺は毎日お前に告白し続けたい。あ、いや……
ちょっと違うか……」
「え……?」
俺は話している途中で、後で言うことと整合性が取れないのに気づいて訂正しようとする。すると、由比ヶ浜の顔色が
みるみるうちに不安そうなものに変わっていったので、俺は慌ててまた口を開く。
「あ……えっと……その……俺が毎日告白し続けるのは、別に由比ヶ浜に信じてもらえるまでに限定するわけじゃない
っていうことが言いたかったんだ。好きって気持ちは常に言葉にしてちゃんと伝えないといけないと思っているから」
「そ、そういうこと……」
俺の言葉を聴いて、由比ヶ浜は手を胸に当ててほっと胸をなで下ろす。自分もまた息を整えて、このアイディアについて
考えていることをとりあえず最後まで言い切ってしまう。
「なんというか、その…………悪い意味で慣れてしまいたくないんだよ。自分が由比ヶ浜結衣と一緒にいられるという
ことに。一番最初に何かを話した時とか……一番最初に何かをもらった時とか……一番最初にどこかに出かけた時とか
……一番最初に、その……キスした時とか……そういう経験の最初に感じた喜び、というか胸のト、トキメキ、とでも
いうのか……そういう気持ちをこれから先もずっと忘れないように、俺はしたい。だから、常に“最初”で“最後”でいたい
んだよ、自分は。それで…………恋人として付き合うのも期間を区切ることを考えてみた。そうやって、最初の気持ちを
持ち続けられれば…………恋人としての関係も続けられんじゃないかと、そんな風に自分は思っている」
どうにかこうにか、これから先の二人の関係についての提案を話し終わり、俺の口からは安堵の息が漏れた。
由比ヶ浜はある程度納得しているようにも見えるが、案の定この質問が自分に向かって突き刺さってくる。
「……ヒッキーとあたしが一日限定?で恋人になるって話は……まぁ、だいたいわかったつもりだけど…………。でも、
そういうことなら……どうして土曜日の時にそれを言ってくれなかったの?あたし、今の今までずっと…………不安で
不安で…………やっぱりヒッキーは一人に戻りたいんじゃないか、とか……ほんとはゆきのんのことが好きなんじゃない
か、とか…………」
そう話しているうちに彼女の声は震え始め、目に涙が溜まっていく。そんな姿を見て俺は、由比ヶ浜を抱きしめたくなる
衝動にかられるが、先に伝えるべきことがあると自分に言い聞かせてそれを思いとどまった。
俺はもう一度、由比ヶ浜に向かって頭を深く下げた。
「そればっかりは本当にもう…………俺がどうしようもなくおかしくて、捻くれていて、悲観的で、人と自分を信じる
ことができなくて……失うことが怖くて、人間関係を表面だけ取り繕うなんてことができないのが原因で……由比ヶ浜を
こんなことに付き合わせてしまって…………本当に申し訳ない」
俺はお辞儀をした状態でそのまま言葉を続けようとするが、それは由比ヶ浜に遮られる。
「頭…………上げて?ヒッキー。ちゃんとこっち見て…………話してほしい」
「…………わかった」
俺は顔を上げて由比ヶ浜を見ると、彼女とまた見つめ合うような体勢になった。由比ヶ浜は怒っているようでも悲しんで
いるようでもなく、その顔からどんな感情かを読み取ることはできなかった。普段は表情や仕草などが饒舌なだけに、
そんな彼女の様子に違和感を覚える。唯一感じられたサインは、“話を聴く”ことただそれだけだった。
俺も由比ヶ浜の瞳に視線を真っ直ぐ合わせたまま、また口を開く。
「何を言っても言い訳にしか聴こえないだろうし……まぁ、実際そうなんだけれども…………。でも、俺は由比ヶ浜と
恋人として付き合う前に……もう全部曝してしまいたかったんだ。自分の良いところも悪いところも。俺は今まで、人
とうまく関わることができずに……多少仲良くなったと自分がそう思っても、結局どこかで失望させて去っていかれて
しまうことが何度もあった。もちろん、それはどちらか一方が悪いということではないし、そもそも相性が合わないと
いうこともある。だから、いつからか自分は他人に期待したり信用したりすることはなくなったし、自分にとって替え
のきかない大切な存在というのもつくらないようにしてきた……つもりだった」
そこまで一気に話してふっと一息つくと由比ヶ浜は俺の方に一歩近づいてきて、腕を伸ばしてきて何故かこちらの片手
を握った。俺が首をかしげると彼女は微笑を浮かべてこうささやく。
「言い訳でもいいから…………でも、ちゃんと……全部、話してね」
「……ああ」
俺は、視線をさっき握られた手から由比ヶ浜の目に戻して再び話し出す。
「でも、いつの間にか……俺にとって由比ヶ浜結衣は“そういう”存在になっていて……俺は、これ以上距離を詰められる
のが……怖かった。そういうこともあって……俺は修学旅行の時にあんなことをして……結果的に由比ヶ浜を傷つける
ようなことをしてしまった。俺は、俺が……臆病だったせいでお前を傷つけた。だから、もうこんなことはしたくない
……ちゃんと……自分の気持ちと由比ヶ浜の気持ちに向き合おうと思った。それで…………俺はお前に告白をした。
ただ、俺は由比ヶ浜と恋人として付き合っていくにあたってどうしても心のどこかで信じきれない気持ちがあった。
やはり彼女もいつか俺に失望して去って行くのではないのか、と。先に……」
「そ、そんなことは!」
由比ヶ浜は俺の不安に思っていることを否定するため、語気を強めてもう一歩こちらに近づいた。俺は自由になっている
方の手を前に出して制止させてから、そのままの距離で俺は言葉を発する。
「わかってる。先に言っておきたいが、これはあくまでお前の事を信じきれない俺の心の弱さに問題があるってことだ。
普通の人ならとっくの昔に由比ヶ浜のことを信じられただろう。もういい加減、俺もこの悪癖を治したいと思っている。
だからこそ、表面上取り繕ったり誤魔化したりするようなことはしたくなかった。俺はちゃんとこの問題と向き合った上
でそれをなんとかしたかった。それで、わざとそれを表に出すようなことをした。しかも由比ヶ浜にも見えるような形で。
つまり、後で失望されるのが怖いなら先にそういうことをしてしまえ、と」
「それで……土曜日に……『別れよう』って……そう、言ったってこと?」
「そうだ。さすがに今回ばかりは先に由比ヶ浜が悲しむということはわかっていたし、本当に失望されて離れられても
おかしくないと思っていた。そういう別の意味でも怖かったといえば怖かった。もうその時にはどうしようもなく俺は
由比ヶ浜のことが好きになってしまっていたから」
「す……う、うん……」
“好き”という言葉に反応して由比ヶ浜の頬がまた染まり、握られていた手の力が少し緩んだ。今度は俺の方からその手を
握り返し、少し声のトーンを上げて話を続ける。
「でも、それでも由比ヶ浜は今日…………ここに来てくれた。お前の立場になって考えてみれば、あんなことの後で何を
言われるかわかったものではないのに。俺だったら怖くて無理だっただろう。わざと由比ヶ浜を不安にさせるようなこと
をしてしまって本当に申し訳なかった。そして……ありがとう。由比ヶ浜にはなんというか……人を信じきる強さがある。
そういう人を信じきれるところは自分にはとても真似できない美点で、それに関して俺は本当に由比ヶ浜を尊敬している。
だから、今すぐには無理かもしれないがこれからは俺もそこに少しでも近づけたらいいと……そう、思っている。
これで、もう俺はこれから先どんなことがあってもお前を信じるし、俺の方から関係を絶つようなことは二度としない。
とりあえず…………土曜日にああいうことをしたのは……今言ったような理由だ」
言いたいことを言い終わって、俺は少し下を向いて安堵のため息を漏らしてしまう。顔を上げて由比ヶ浜の方を見ると、
瞳が少し濡れているのがわかった。俺がまた話しかけようとすると、手がほどかれて後ろを向かれてしまう。由比ヶ浜は
俺に背中を向けたまま何やらぶつぶつ言っていた。何をつぶやいているのかまでは聞き取れない。
「ゆ……由比ヶ浜…………あの……」
「なんか…………ほんっとうにもう!」
叫ぶようにそう言って振り返ると、キッと睨んで俺の方に飛びかかるようにして両手を伸ばし、俺の頬を強くつねった。
「どうしてもう……こんなに……ヒッキーは……」
痛いという間もなく由比ヶ浜は涙目のまま俺を上目遣いで見つめ、ぱっと手を離したかと思うと今度は顔を俺の胸にうず
めてくる。手が俺の背中に回されたので、俺の手もそれに応じることにした。髪の匂いが鼻孔をくすぐり、鼓動の音が
彼女に聞こえるような気がしてそれがますます心臓に早鐘を打たせる。そんな状態で何も言えない俺をよそに、由比ヶ浜
は俺の胸の中でまたぽそっとつぶやく。
「あたし……別に……強くないし……ここに来る時も、ずっと、不安だったし……」
「ごめん……」
「……」
二人の鼓動と息の音以外は何も聞こえない状態がしばらく続き、少し落ち着いたのか由比ヶ浜は両手を俺の体から解き、
顔も離して元の距離に戻す。正面に向き合う状態になって由比ヶ浜は両手を後ろに回し、ほんの少し毒のあるような笑顔
で小首をかしげて俺の方を見てこう尋ねてくる。
「それで、その…………もう一度……最初のヒッキーの告白とお願い……言ってもらってもいい?確認のために」
「え?あ、ああ……」
俺は彼女の表情からその意図が読め切れずに少し不安になるが、由比ヶ浜に応じることにする。
「改めて言う。俺は、由比ヶ浜結衣のことが好きだ。もし一日だけでもよければ…………俺と付き合ってほしい」
言い終わると、何故か由比ヶ浜はくるっと回って俺に背中を向けてしまう。彼女の表情などわかる筈もなく、スカートに
触れながら組んでいる手をちょこちょこと動かしている様子しか、俺からは見えない。声をかけようとしたその時、
「やだよ……そんなの。そんなの…………やだ」
今回はここまでです。次回は火・水を目途に
続きを投下します
ある程度は覚悟していた返答だったが、いざ実際に言われてしまうと瞬時に反応を返せない自分がいるのに気づく。答え
となる言葉を考えながら、俺はもう一度由比ヶ浜の後ろ姿に呼びかけようとする。
「由比ヶ浜。俺は……」
「あ~!もう……ほんとになんか……もう!」
そうやって唸りながら、彼女はまた振り向いてこちらに視線をやって睨む。それから、両手で自分の髪を掻きむしった。
「嫌に決まってんじゃん。一日だけの恋人なんて。そんなの……」
「そ、そりゃ……そう、だよな……」
突き刺さる視線と申し訳なさから、俺は少し目を逸らしてしまう。すると、由比ヶ浜はこちらにずいっと迫ってきた。
「もう……どうして『毎日告白する』なんてことが言えるのに、『ずっと一緒にいよう』とは言えないの!?」
「すまん……」
「それにヒッキーもさ……あんまりあたしのこと、言えないよね」
「え?」
唐突に言われた彼女の言葉に、つい疑問の声が漏れてしまう。な、なんかお互い様みたいなことって俺と由比ヶ浜の間に
あったっけか?人として、タイプ的には全然違うと思うんだが。俺の反応に彼女はあきれ混じりにこう続ける。
「ヒッキー、土曜日の時にあたしにこう言ったでしょ?『由比ヶ浜は優しいけど、男を勘違いさせるから悪い子』だって。
でも、ヒッキーも相当だよ。捻くれてほんとのこと言わなかったり、向き合ってくれたのかと思ったら逃げられたり、
上げたと思ったら落とされたり…………そういうことされたら“勘違い”しちゃうよ、あたしも……」
「すみません……」
彼女の指摘はまったくもって正しいので、俺はただ頭を下げるほかなかった。
「それにさ……ヒッキーは自覚してないんだろうけど……あたし、気分的には……ヒッキーに対してもう四回失恋してる
んだからね!」
「え?よ、四……」
次々にたたみかけられる由比ヶ浜の言葉に、俺はもうオウム返ししかできなかった。
「そう。あたしの誕生日の前の時と、修学旅行の時と、ゆきのんに告白した時と、この間の土曜日で四回」
「ごめん……」
最初の誕生日の時は由比ヶ浜の勘違いではないかとも思ったが、現に自分は勘違いさせるようなことをしてしまっている
ので、そんなことを指摘する資格などある筈もなく俺は頭を垂れて謝るだけだった。
由比ヶ浜はとりあえず言いたいことを言い切ったのか、一歩下がってまた後ろに振り返ってしまった。俺はどうにか彼女
に次々に言われたことを咀嚼して、返す言葉を考えあぐねていると先に向こうが小声でつぶやいた。
「とりあえず今は…………これでおあいこ、ね」
「え?」
由比ヶ浜は体は後ろを向けたまま、顔だけ横に動かして片目で俺の方をチラッと見る。
「さっきヒッキーが…………言ったでしょ?恋人になる前に、自分の良いところも悪いところも全部見せておきたいって。
だからね、あたしも…………あたし、普段は人の顔色うかがってることの方が多いのに……肝心な時ほど、その……自分
の感情を優先して……それを口に出しちゃうから……。それは、その……あたしの悪いところだと思うから……見せて
おいた方がいいんじゃないか、と思って……」
「そ、それで…………さっきあんなこと言ったのか?」
「う、うん……」
「い、いや…………でも、さっきのは……言って当然のことだと思うし、悪いのは俺で……」
「うん、だからね……。別にヒッキーに謝ってほしいとかじゃないんだ。ただ、あたしがそう言いたかっただけ」
「そ、そうか……」
なんだろう、この気持ちは…………。さっき俺は由比ヶ浜に怒りの感情をぶつけられた筈なのに、何故か全然悪い気が
しなかった。いや、俺が悪いのは確かなんだが……。その時の素直な感情をぶつけてもらえるって…………なんだか……
嬉しい。俺が嘘や欺瞞に満ちた人間関係を嫌っていたせいで余計にそう思うのかもしれないが。そんなことを考えると、
自分の体温が上がる気がして、つい額を指で掻きながら俺も思ったことをそのまま口にすることにした。
「いや、なんだろう…………俺としても……そうしてくれた方が嬉しいというか……。別にどういう感情でもいいんだ。
それを素直にそのままぶつけてくれればいいと思う。今さら由比ヶ浜に何を言われようが俺がお前を嫌うなんてことは
もうないだろうしな。それに、感情が昂ったらつい口に出るのは誰でもそうだと思うし」
「あたしもそう思ってるよ。だからね…………もうね……今回のことはしょうがないと思った。だってそれはヒッキーが
言いたいこと言うためには必要なことだったんだから」
「ごめん……」
「いいよ、もう謝らなくても。ちょっと話がズレちゃったけど…………さっきの返事、改めて答えるね」
由比ヶ浜は正面に向き直って、俺の方を澄んだ瞳で真っ直ぐ見据える。自分も視線でそれに応える。
「それに、本来はこれはあたしが先に言うべきだったんだ…………だから、言わせてください」
彼女は胸に手をあてて目を瞑り、一度深呼吸をしてから俺の方に目を見開き、ハッキリとした口調で告げる。
「あたしは、ヒッキーのことが……好きです。あたしと……恋人として、付き合ってください」
「一日だけなら、な」
「もう……」
相変わらずの俺の返答に、由比ヶ浜はあきれたように笑う。とりあえず、その表情から了承は得られたようなので俺の口
からは安堵の息が漏れる。少しだけ間のあいた後、由比ヶ浜はまたこちらに腕を伸ばしてきて俺の手を取った。
「あたし、まだヒッキーに色々話したいことがあるんだけど…………ちょっと座ってもいい、かな?」
「あ、う……うん……」
俺は彼女に手を引かれて机の後ろに回り込み、いつものポジションに腰を落ち着ける。二人とも椅子に座ると、由比ヶ浜
は椅子をこちらに寄せてきて肩がもう少しで触れ合うような距離にまで近づく。そして、改めて俺の左手が握られた。
手汗が気になるのを紛らわすために、俺の方から話しかけてしまう。
「そ、それで……由比ヶ浜……話って……」
「あっ……そうだ!」
「な、なんだ……?」
「とりあえず……今はもう……恋人に戻ったってことでしょ?だったら、また……その、名前で……」
声が小さくなるとともに、その頬に朱が差した。俺がその表情に見とれていると、彼女は顔をこちらに向けて上目遣いで
俺の方を見る。彼女の求めに応じるために、自分も少し顔を近づけて小さめに声をかける。
「わかったよ、結衣」
結衣はえへへと照れ笑いをして、左手で頬を撫でつけていた。土曜日に何度も名前を呼んでいる筈なのに、そんな彼女の
反応になんだか自分も恥ずかしくなって顔を背けてしまう。しかし、そんな甘い空気は早々に断ち切られる。
「ヒッキー、ちょっとこっち向いて」
「は、はい」
振り向くと、結衣は口角を上げてこちらを見つめてきた。でも、その目は笑っていなかった。
「ヒッキーもわかってるとは思うけど…………別に、あたし土曜日のこと許したわけじゃないからね」
「そ、そんなすぐ許してもらえるなどとは……」
「だから、その代わり……」
結衣はそう言いかけて、俺の方にどんどん顔を寄せてくる。鼻と鼻とが触れそうになる直前で、俺が顔を少し横に向ける
と彼女は吐息混じりにこう耳打ちをする。
「『好きって言う』約束…………ちゃんと、守ってね」
「も、もちろんです……」
顔と手に変な汗をかきながら、俺がたじろぎながらそう答えを返すと結衣は満足したのか、顔の位置を元に戻してから
ニッコリと妙に凄みのある笑顔で俺に微笑みかけてくれた。どうにも手汗が気になって俺は握られた手をほどこうとする
が、かえってそれが向こうの握る力を強めてしまう。俺は思わず結衣に話しかける。
「い、いいのか?たぶんベタベタしてるのに…………」
「いいよ、あたしは……。あたし、ヒッキーともっとベタベタしたいもん」
「そ、そうですか……それなら、まぁ……」
彼女の言った“ベタベタ”という音の響きになんだか変な気分になりつつ、俺と結衣は手を握り合っているのだった。
二人とも無言のまま時計の針を進めさせて、しばらく経つと結衣がまた口を開いた。
「ところで、さっき言ってた話なんだけどね……」
「お、おう……」
「実は……あたしもヒッキーと同じようなこと、考えてたんだよね」
「えっ?」
結衣の唐突な告白に、俺は困惑して首をかしげる。“同じようなこと”というのは具体的には何を指しているんだろうか?
俺がそのことを尋ねようとして口を開きかけると、先に結衣が続ける。
「あのね…………あたし、土曜日にデートしてた時はその……浮かれてて、ヒッキーのことをあんまり気にかけてあげ
られてなかったんだと思う。だから、別れるって言われた時は正直ショックだったけど…………でもヒッキーが心配性な
こと、甘く考えすぎだったなって後で思い直した。今日、もしヒッキーがまた付き合おうって言ってくれなかったら……
……あたしはあなたにもう一度告白するつもりだった。それでもダメだったら、また明日も…………それこそ、ヒッキー
が本当に安心できるようになるまで」
自分は自分で結衣にそこまで気を遣わせていたことに、申し訳なくなりまた頭が下がっていってしまう。
「安心させられるようにって……それ本来は男が言うべきセリフなんじゃ……」
「それはそうかもしれないけどヒッキーは言ったじゃん、あたしと対等な関係でいたいって。それでヒッキーがあたしを
安心させようと頑張るならあたしも同じように頑張りたいと思う。だから、ヒッキーがあたしに一方的に告白することは
ないんだよ」
「由比ヶ浜……」
目頭が熱くなり、俺は彼女の心遣いに思わずそうつぶやく。すると、由比ヶ浜は何故か首を横に振る。
「ゆ、い」
「あっ……悪い…………結衣」
俺が名前を言い直すと、結衣はふふっと微笑みかけてくれた。その笑みに自分もつられて頬が緩んでしまう。しかし俺の
緊張の糸は、まだどうにか切れずに済んでいた。結衣は目を細めて話を続ける。
「あたし…………土曜日にデートしてる時にね……普段とは違うヒッキーをたくさん見ることができたと思ってたんだ。
そのことがとても……嬉しかったし、楽しかった。まぁ、あんなことがあったから無理してた、という言い方もできる
のかもしれないけど…………。だから、別れようって言われたのは嫌だったけど…………でも、それでヒッキーのことが
嫌いになるというよりは……もっと知りたかった。ヒッキーの考えを。好きとか嫌いとかいう前に、ヒッキーの考える
ことってちょっと普通ではありえなくて、変わってて……面白いから。だから、その……今日……まぁ、ずっととは言わ
なくてもヒッキーがこれからもあたしと一緒にいたいって言ってくれて……良かった。だって、一緒にいなかったら知る
ことさえできないでしょ?」
「結衣……」
同情でも憐憫でも気休めでもなく…………ただ、ただただ純粋に自分の存在に興味を示してくれていることに、俺は感嘆
の声を上げざるを得なかった。結衣が気遣いではなくそう言ってくれたことが、俺の感情をさらに揺さぶる。自分が平静
を保ちたいが故に、俺はこんなことを口にしてしまう。
「でも……その、なんというか…………もう、結構なんだ……お互いのこと知ることは、できてはいるんじゃないか?」
「“今”のあたしとヒッキーに関しては、そうかもね。でも、これから先のあたしたちのことはまだわからないでしょ?」
「そ、そうだな……」
今まで散々自分が心の中で思って、また口にしてきた“先のことはわからない”というセリフをこう使われるとは…………。
「あたし、楽しみにしてるよ。恋人同士になったあたしたちのことを。それで、もっとヒッキーがあたしのことを知って、
あたしがヒッキーのことを知ることができるのを…………」
「……」
これ以上感情の波に飲まれたくないので、俺は下手なことは言えずにただ黙るしかなかった。結衣の言っていることが
間違っているわけでもないのだし。俺と結衣が恋人同士という関係になって…………たぶん、その過程で由比ヶ浜結衣も
比企谷八幡も少しずつ変わっていくのだろう。でも、何だろうか……自分はもはやそういう“変化”というものに嫌悪を
感じなくなっていた。たぶん、それは――――。
「ヒッキー?」
少し間があいてしまったので、結衣に顔を覗き込まれる。あ、あんまり今近寄らないでくれよ…………目が潤んでいるの
がバレるから。
「ああ、悪い…………俺も……楽しみにしてるよ。自分と結衣とのこれからについて。少し怖いとも思うけど、な」
「そ、そっか…………でも、大丈夫だよ」
「……何を根拠にそんなこと言えるんだよ」
「あたしが大丈夫だと思ってるから」
「……そうか。なら、…………大丈夫だな」
「……うん」
俺と結衣は何やら曖昧でふわふわした会話を交わすが、でも何故か現時点でこれ以上とないくらい確実な言葉の応酬で
あると自分には感じられてしまった。何の混じり気もない澄みきった、ただただ純粋な感情のやり取り。なんだか胸が
ぞわぞわして、自分の中にある澱んだものが浄化されるような感覚に俺は襲われる。しかし、結衣の言いたいことはまだ
これで終わらなかったのだった。
「ねぇ、ヒッキー?」
「ん?」
「土曜日の別れ際に…………あたしに言ったこと、覚えてる?」
「え?」
あの時も結構色々なことを口にしていたし、思い当たる節が多すぎて一体何のことか判然としない。結衣は俺の反応を
見て少し眉根をひそめる。
「ヒッキー言ってたでしょ?今の幸せは自分の手に余りすぎるって。それで、それを逃したくないって。でも、どうして
も自分の手からは零れてしまうって。それで、ちょっと考えてたんだ。ヒッキーの言ったことを……」
「ああ、うん……」
確かにそんなことを言った気はするが、だからどうしたらいいとかそこまで考えて口にしたことではなかったので、結衣
が今その言葉を発したのが少々意外に感じられた。まぁ、結局は臆病だったからそんなことを自分は言っただけだと思う
のだが。しかし、頬を緩めて微笑を浮かべる結衣が次に告げたのは予想外の内容だった。
「それでね…………なんでヒッキーの手から零れちゃうのかっていうとね……それは、ヒッキーの手がボロボロだから」
「!」
「そうなったのはたぶん、人と関わって傷ついたり……自分の手のことは無視して困ってる人に手を差し伸べてきたから
なんだよ」
「ゆ、由比ヶ浜……もう、それ以上は…………」
なんとなく次に言うことが予想できてしまって、俺は反射的に“由比ヶ浜”と呼んでしまう。だが、彼女は俺の制止を無視
してそのまま続ける。
「でも、あたしは…………“そういう”手をしているヒッキーのことが、好きになっちゃったんだ」
そう言って結衣は握っていた手をいったん離し、両手を前に出すように促す。こちらがそれに応じると、彼女は俺の両手
を組ませる。そして、結衣に撫でるようにして触れられて俺の手が包み込まれる。
「だからね…………ヒッキーの手から幸せが零れなくなるまで、こうするんだ」
「こ、こうするって……」
「あたしがヒッキーを……“手当て”するよ」
「!!!」
――――ああ、いかん。もう…………ダメだ。抑えきれない、この感情は。
そんな言い方をしたら、“今”の俺の存在そのものを認めてしまったようなものじゃないか。
しかも、その“今”の自分というのは“過去”の出来事の積み重ねによってつくられたものだ。
人間関係がうまくいかなくて一人ぼっちだった自分。
斜に構えたり、捻くれたものの見方をするようになってしまった自分。
でも、いつもどこかで自分の“影”を他人に見出して、自身のことは無視してそれに手を差し伸べてしまう自分。
そういう過去の積み重ねを否定しないで、結衣はそのまま受け入れてしまった。
“今”の俺によって、結衣には色々と迷惑をかけたり、傷つけたりしてしまったのに。
それなのに、そんな自分を差し置いて俺を“手当て”するだって?
結衣は俺と一緒にいることで起きる悪いことも、不都合なこともすべて飲み込んでしまったかのようだ。
俺は今まで、自分の存在は自分が認められていればそれでいいと思っていた。
でも、今は違う。俺の一番好きな人が、俺の存在そのものを――――
今までずっと自分の中に溜めていた心情が、奔流のように襲ってくる。
俺の中の“引き出し”が、開け放たれてしまう。
感情の緊張の糸が、すべて切れてしまう。
溢れ出してくる思いに、俺は耐えきれなくなって手をふりほどき、椅子から立ち上がり、結衣に背中を向けてしまう。
「ヒ……ヒッキー……?」
少し不安げな声を出す彼女を無視して、俺は虚空を見上げる。でも、もう間に合わなかった。
堰を切ったように俺の目から涙が溢れ出した。
さっと制服の袖で拭き取ろうとするが、そんなことをしても次から次へと流れ出てくる涙に動きが追いつかない。
嗚咽が漏れてしまい、ガタッと音がして結衣の足音が近づく。
「な……泣いてるの?ヒッキー……」
「お、俺は……な、ないて……っ……なんか……」
そんなバレバレの嘘をつく俺に、結衣は後ろから優しくささやくように声をかける。
「ねぇ……こっち……向いて?」
「や、だよ…………こんなっ……カッコ悪いところ……好きな子、に……見せ……」
俺は往生際の悪い抵抗をするが、次の彼女の言葉にそれも無駄だと思い知らされる。
「ヒッキーはあたしの泣き顔を見たのに?それってなんか…………ズルくない?」
結衣の言ったことに反論できる筈もなく、俺は渋々彼女の方に振り返った。結衣は困ったような、ほっとしたような表情
で俺の方を見る。そして、ポケットからハンカチを取り出して手を伸ばして涙の流れる俺の頬を撫でた。
「い、いいよ……結衣……俺……自分のっ……あるし……」
「このハンカチ、ヒッキーのだよ」
「え?」
「土曜日の時、あたしに渡してそのままだったでしょ?だから……」
「ああ……そ、そうか……」
俺は結衣から自分のハンカチを受け取り、涙を拭く。自分がそうしている間に、彼女にはさらに距離を詰められてしまい
そのまま両手を背中に回されて抱きしめられてしまった。その行為が、俺の涙をさらに増やしてしまう。
俺はしばらく、結衣に「ごめん」とか「ありがとう」とかしか言えずに泣き続けるほかなかった。
その間、結衣は俺の頭をぽんぽんと触ったり、「大丈夫だよ」などとあやすように声をかけてくれた。
どうにかこうにか、流れてくる涙が収まってくると俺はいったん彼女から体を離そうとする。結衣も状況を理解したのか
それに応じて回していた手を戻して、再び二人で立って正面で向き合う形になる。
「……少しは落ち着いた?」
「ま、まあな……」
そう答えると、結衣は微笑んで少し首を傾けて涙の流れた痕のある俺の頬を指で優しく撫でる。俺は彼女に言うべきこと
があると思っていたのでそれを口に出そうとするが、泣いた後のせいなのかなかなか声が出てこない。先に口を開いた
のは結衣の方だった。
「ヒッキーもずっと…………辛かったんだね。なかなかあたしには……見せてくれなかったけど」
「やめろ、今そんなこと言うんじゃない。また泣きたくなっちゃうだろうが」
「いいじゃん、泣けば。良いところも悪いところも全部…………見せておきたかったんでしょ?」
「お前な……」
ちょっと意地悪な気遣いに、俺は苦笑いを返す。結衣は相変わらず微笑んだままだった。今度こそ俺は自分が伝えるべき
ことを言うため、ハンカチをしまって彼女の肩に手を置いた。結衣は少し驚いたような表情をする。
「ヒ、ヒッキー?」
今度は自分の方から近づき、手を回してそのまま結衣を抱き寄せる。
片手を頭の後ろにやって、彼女の髪を撫でる。
くっついた体で、彼女の柔らかい感触をその肌に感じる。
少し鼻で息を吸い、彼女の匂いを嗅ぐ。
俺は全身を使って由比ヶ浜結衣という存在そのものを味わう。
もういい加減、年貢の納め時か――――。
今の俺はこの子のためなら何だってできると、そう思える。
何を口にしたっていい。
何を実行したっていい。
何を犠牲にしてもいい。
自分のくだらないポリシーなんて投げ捨ててしまってもいい。
俺は自分で、お互いに対等な関係でいたいと、そう彼女に告げた。
その彼女は、俺が直接口にはしていないけれども、でも俺が心の奥底でもっとも望んでいたことをしてくれた。
そうであるのなら、俺もこの子が今一番望んでいることをするべきなのだろう。
今こそ、今をおいて彼女が一番に望む言葉を言わないで――――いつ言うというのか。
もう、覚悟は決めた。俺は一度深く息を吸ってから、由比ヶ浜結衣にこう告げる。
「これからは、ずっと一緒にいよう…………結衣」
今回はここまでです。次回は金曜あたりを目途に
「ええと……雪ノ下さんが俺のどこを好きになったのか…………教えてください」
改めて俺がした質問に、彼女はうつむき加減で唇をかすかに動かしてこうつぶやく。
「……弱いところ」
「それ、素直に喜んでいいのか困る答えだな……」
「当然、喜んでいいわけないでしょう?もっとも、あなたが素直でないことくらいはわかっていたつもりだったから、
喜ばないのは想定内だったけれど」
「なんで俺の好きなところを言ってもらう話で俺の心がえぐられているのでしょうか……」
ある意味正常運転の雪ノ下に、安心とあきれで変なため息が出てしまう。そんな俺の様子に彼女はふっと笑みをこぼして
さらに言葉を続ける。
「比企谷くんは自分の弱いところをはっきりと認めてしまっているし、そうであるが故に人の弱いところも認めてあげる
ことができる人だと私は思っていた。そういう面においては私もずいぶんと救われた部分があると思うわ」
「そ……そうですか……」
「ええ、そうよ」
落として急に持ち上げられたので、俺は戸惑いを覚えると同時に体が熱くなるような感覚に襲われる。しかし、彼女の
言ったことの理解が進むにつれ、俺の心にはまた影が忍び寄ってきていた。案の定、微笑んでいた雪ノ下の表情が曇り、
少し哀しげな顔に変わってこう告げられる。
「でもね…………そういう意味では正直に言って、最近のあなたの行動に私は失望していた」
>>794の続きを投下します。予定より回想が長くなってますが今回含めて後3回で終わるので
もう少しだけお付き合いください
雪ノ下の“失望”という言葉が俺の肩に重くのしかかり、自然とうつむきがちになってしまう。しかし、次の瞬間彼女は
俺の方を向いて顔をこちらに少し近づけてから、頭を下げた。どんな表情かはうかがい知ることができない。
「……ごめんなさい。私も反省しているわ。文化祭以降、あなたに過剰な期待を抱いていたことに。そして、結果的に
それがあなたを追いつめていたことに」
「いや、そう言われてもな…………俺もそういうところはあるし、期待するのも失望するのもお前の好きにすればいいん
じゃないか?」
つい口からそんな言葉が出てしまう。それがいけないことだとは自分でも半ば承知しているつもりなのに。俺の言葉を
聴いて雪ノ下は頭を上げ、眉をひそめる。
「それよ、それ。そういうことを言うところよ。本当はそんなこと思っていないくせに」
「……」
「比企谷くん……例のメールが来てあなたが私に嘘の告白をした時、本当に私を助けるつもりであんなことをしたの?」
「それは……」
改めてそう尋ねられると、俺は肯定の言葉を返すことができなかった。確かに、建前として雪ノ下を噂から解放すると
いうことがいえなくもないが、この件に関してはこれしか方法がなかったというわけではない。緊急性があるというもの
でもなく、自然消滅に任せることだってできた筈だ。俺は自分の行動にうまく説明をつけることができずに黙るしかなか
った。そんな俺の濁った目を、雪ノ下は何かを見透かすようにじっと見つめた。そして、俺の心を撫でるかのような声で
彼女はこうささやく。
「本当に助けてほしかったのは…………何よりもあなた自身だったのではなくて?」
「!」
俺が反射的に雪ノ下の方に頭を振ると、こちらの反応は織り込み済みだったためか、彼女は穏やかな表情で目を細めて
そのまま言葉を続ける。
「そうでなければわざわざあんな行為をする必要がない。私にも責任の一端がなかったとはいえないわ。修学旅行の後、
私があなたにきちんと自分の気持ちを伝えていたら……」
「い、いや……あれはお前が何かしていたからといって……」
よく頭も回らないままに適当な言葉を返そうとするが、そんなことはお見通しに決まっていて俺が言い終わる前に彼女
は自分の言葉を話し続ける。
「あなた……私や由比ヶ浜さんに失望されて自分の元を去られるのが怖かったのでしょう?それこそ…………かつての
私のように。それであなたはあえて私たちを失望させるようなことをした。……違う?」
彼女の言葉は、まるで潤滑油のように頭の中の歯車の隙間に流れ込んできた。俺は修学旅行後に、彼女らとの関係をどう
するべきか考えていたのを思い出す。さっきとは違って口からすんなりと言葉が出始める。
「……たぶんそうだったんだと思う。俺はあの時、雪ノ下や由比ヶ浜にこれ以上距離を詰められるのが怖かったんだ。
親しくなればなるほど、その分離れていった時のダメージは大きいから。だから、お前たちと距離を取るという意味合い
もあってあんな方法を取ったんだ。……実際はうまくはいかなかったけど。むしろお前の言うように、俺はこんな自分で
あるということを、雪ノ下や由比ヶ浜に見てほしかったのかもしれない。そういう弱くて臆病な自分の姿を。でも、それ
はなんというか……ちょっと甘えてるよな」
急に饒舌になった俺の姿を見て雪ノ下は少し目を見開くが、それも一瞬のことで終わる。俺はどうにも情けなくて彼女
から顔を背けるが、それについては何も触れずに雪ノ下は優しくこちらに声をかける。
「別にいいのよ、甘えたって。ただ、もう少し方法を考えてほしいというか……」
「それは…………その通り、だな」
「もう私も弱くて臆病なこと自体をどうこう言うつもりはない。私だって……あまり人のことは言えないのだし」
「そ……そうなのか?」
俺がぽかんとして彼女そう訊き返すと、雪ノ下は不機嫌そうな顔になる。
「あなた、人の話を聴く能力くらいは人並みにあると思っていたのだけれど。さっき言ったでしょう?私もあなたと同じ
だったって。私もあなたに失望されるのを恐れていたから…………夏休み明け、事故の件を黙っていたことで……」
「……ああ、そういうことか」
「だから、あなたの気持ちもわからないでもないの。でも、だからといってわざと失望されるようなことをして……
おまけにそれで自分は平気な顔をして……それはもう……ただの強がりよ。比企谷くんは自分の弱点を曝せるところが
強みなんだから、ちゃんと弱いところも見せなさい」
「そ、そうですね……」
次々と他人に自分の心の内を暴かれていくのでどうにもむず痒く感じるが、だがそんなに悪い気分ではなかった。そして
雪ノ下はいかにも彼女らしい言葉を俺に投げかけるのであった。
かつて「人ごとこの世界を変える」と言った彼女らしい言葉を。
「むしろそういう……失望されるのが怖いということは、認めてしまった方がいいと私は思うわ。そして、その上でその
ような弱い部分を変えられるのであれば、変えた方がよいのではないかと…………」
「……相変わらず雪ノ下は、雪ノ下だな」
あきれと安堵からふっとため息が出ると、雪ノ下はニッコリと笑ってこんな言葉を返す。
「あら、これも……あなたの期待に応えてみただけよ」
「そうかい……」
「ねぇ、比企谷くん」
「……なんだ?」
「もうこれからは、何かに理由をつけて私たちから遠ざかろうとするのはやめてもらえないかしら。私もあまり人のこと
を言えた義理ではないのかもしれないけれど、これからはありのままのあなたときちんと向き合っていきたいと思って
いるわ。たとえそれが私の中の幻想を壊すものであったとしても」
「…………わかった」
たぶん俺と雪ノ下は今でもほぼ同じ場所に立つことはできているのだろう。だから、距離自体はそれほど離れてはいない
のだ。でも、互いの姿を直接見ることはおそらくまだできていない。背中合わせになって見ているのは、自分の前にある
幻想という名の鏡だ。二人とも振り返って直接向き合うのには、おそらくまだ時間がかかる。しかし、現時点ではそれが
確認できただけでも充分だろう。俺もまだ、自分の中にある雪ノ下雪乃の幻想を見ているところがあるのだし。彼女の
そんな言葉を聴いて、自分も言わなければならないことがあるのを思い出す。
「それはたぶんお互い様だ。俺もお前に嘘の告白をした時、期待していたのは“いつもの”雪ノ下雪乃だったしな。まぁ、
結局それも幻想に過ぎなかったわけだが」
「……そうね」
話が一段落つくと、再び沈黙が流れる。俺はその間にカップに残っていた紅茶をすべて飲み干してしまう。それを見て
雪ノ下がつぎ直すと言い俺は一度遠慮するが、彼女にまだまだ話したいことがあると言われてしまい、結局大人しく
従うことになってしまった。
しばらくして、再びテーブルに熱い紅茶の入ったカップが二つ並べられる。俺と雪ノ下が一口だけ口をつけたところで、
また彼女は話し始めた。
「比企谷くん。あなたは、その…………由比ヶ浜さんと付き合いたいと思っているのでしょう?」
「ま、まあ……それは、そうだが……」
一度話したこととはいえ、こうも直球で来られるとそうなかなか自信を持って返せない自分がいる。ああ、情けない。
しかし、たじろぐ俺の反応は予想通りだったようで、雪ノ下はふっと息をついてこんなことを尋ねてくる。
「でも、今のあなたはそれを躊躇している。もし私に遠慮しているというのなら、その必要はないと先に断言しておくわ。
さっきも言った通り、もし今の私とあなたが付き合ってもおそらくお互いのためにはならない」
「そ、そう……だな」
「そして、今のあなたが由比ヶ浜さんとこれ以上距離を詰めるのを恐れているということも確認できた。それについては、
まあ……あなたに勇気を出してもらうしかないとして……」
「……」
「もしこの二つの障害がなかったとして、あなたが彼女と恋人として付き合うことを躊躇わせるものは、もう何もない?」
「……いや、それは…………違うだろうな」
俺には思い当たる節がないわけでもなかったが、しかしそれをこちらから口にしてしまうのはなんとなくはばかられた。
だが、彼女にはあっさりとそれを言い当てられてしまう。
「それはもしかすると…………あなたの……人助けの方法、かしら」
「……ああ。このまま同じようなやり方を続ければ、必然的にお前や由比ヶ浜を巻き込むことになってしまう。ただ……」
「自分にはそれしかできないって?」
俺は声を発することができずに、ただ頷くしかなかった。すると、雪ノ下はこちらを向いて少し身を乗り出した。彼女の
手が近づき、俺の小指の先に触れる。手の脈打つ動きが激しくなったように感じると、雪ノ下は俺の方をじっと見つめて
少し強い口調でこう話す。
「それは違うわ。確かに、自分の身を顧みず人を助けられるのはあなたの美点であることは認めるし、私自身もそこに
惹かれてしまったことは否定できない。でも、濫用していいような方法ではない。もはやあなたはあなた一人の身では
ないのだから」
“あなたはあなた一人の身ではない”、か…………。まさか雪ノ下にこんなことを言われるようになってしまうとは、な。
今まではぼっち同士の気楽さというものが互いにあった筈だが、いつの間にこんなことに…………。しかも、そうなった
理由のひとつが“ぼっち”にしかできない方法で人助けをしたこと、なのだからもう笑うしかない。俺の口からはため息
とも失笑ともつかない変な声がふっと出る。そんな自分の反応を見て、何故か彼女は頬を緩ませて話を続けた。
「それに、こんな方法をあなただけに押しつけるのは明らかに間違っているわ。いい加減、私も葉山くんもあなたの自己
犠牲に甘えすぎたと思う。だから彼もあんなことをしたのではなくて?」
「そう……そうだったな」
彼女が言っているのは、葉山が雪ノ下に告白して俺の噂を解消したことについてだ。結果的には自分の行動が引き金と
なって葉山グループが崩壊したといっても過言ではない。さすがにこんな状況になってしまっては俺のやり方も本末転倒
と言わざるを得ないだろう。しかし、そこまで言われても俺は最後の切り札を封じることに対してすぐに承諾の返事を
することは躊躇われたのだった。
「まぁ、すぐに変われというのもあなたには酷な話ではあるし、今は濫用しないでほしいとだけ言っておくわ。それに、
私がさっき言ったことは確かにあなたの大きな武器ではあるけれど、何もそれだけがあなたの取り柄ということでもない
でしょう。他にも色々と美点はあると思うわ」
「へぇ、お前が俺の美点について話すようになるとはな。ちなみにそれって例えば何があるんだよ」
俺は照れ隠しの意味もこめてそんなことを雪ノ下に尋ねてみるのだった。彼女はそう訊かれて、指を顎に当てて思案する
様子を見せる。しかし、少し自分が期待した様子を見せたのが失敗だったらしい。
「……何かあったかしら」
「おい!今お前があるって言うから訊いてみたのに…………いや、いいよ別に……ないならないで」
俺はツッコミを入れつつ、少し拗ねてみると雪ノ下はこちらを見てふふっと笑う。何がおかしいんだよ……。
「例えば、今みたいなあなたとのそういうやり取り、私は好きよ。それと…………まぁ、ロクでもないけど自分だけの
正しさを持っているところとか。単に人に流されているだけの人よりはよほどマシだわ」
「また、そういう俺が反応に困るような褒めてるんだか貶してるんだか微妙な言い回し……。それに、最近の俺は人に
流されてないとはいえなくなっている気もするな」
「それもそうかもしれないわね。ただ、私もあなたに変わってほしいと言ったのは事実だし、もし変わることによって
そういうあなたの美点が失われるのだとしたら、その責任は私が持つわ」
「責任を持つって…………一体何するつもりなんだ、お前は」
「私が『あなたには色々な美点がある』と言った以上は、比企谷くんがもしも変わってしまっても私があなたの美点を
探してあげる、ということよ」
「雪ノ下……」
「……そういうこともあるから、これからは私たちから勝手に離れるようなことをしては、その……駄目よ」
「……わかったよ」
俺は目頭が熱くなるのを誤魔化すために、また手を伸ばしてカップを取って紅茶を一口飲んだ。一応の承諾の返事が得ら
れたことで、雪ノ下も満足げな笑みを浮かべてくれた。
一息ついて再び沈黙が訪れたところで、俺は自分が変化することについての思索を巡らせることにした。
結局のところ、俺は変わらないと思い続けてそれを言い続けてきたわけだが、何故そうしてきたのかというとそれは自分
自身を守るために他ならなかった。どれだけ他人から否定されようが、自分が変わらないことで自分で自身の価値をどう
にかして守ってきたつもりだった。だから、他人から見た自分などどうでも良かったのだ。でも、今ようやく初めて他人
から見た自分というものに価値を見出せそうな気がしてきている。それは、その人本人が俺にとってもとても価値ある
存在であることに他ならないからだ。その人から見た自分を守るために、変わってもいいかもしれない、と思えるよう
な気分になった。実際にはそう簡単には変わらないのだろうが、そう思えた時点でもう変化は起こっている。今はその
思いをなんとかして後退しないように努めなければならないのだろう。それがたとえ、自分やその人を一時的に傷つける
ようなことであったのだとしても。
しばらく俺が黙ったままでいると、再び横から声がかかる。
「比企谷くん」
「……なんだ?」
「あなたがそう簡単には変われないのは私も重々承知しているし、たぶんまたあなたは同じような方法で人を助けてしま
うのでしょうね。もし、それであなたが謂われのない非難を受けるようなことがあれば…………その時は、私が奉仕部の
部長として責任を持って“対処”してあげるつもりよ」
「い、いや……そんなことしなくていいですから…………勘弁してください、雪ノ下さん」
妙に凄みのある笑顔で彼女にそう迫られてしまい、どもりながら自分はそんな言葉しか返せなかったのだった。俺の反応
を見て、雪ノ下はまた表情を変える。一転して今度の笑顔は穏やかだ。そして、彼女は手を置き直して俺の手の上にかぶ
せてきてこんなことを言う。
「ま、さっきのは半分冗談みたいなものだけれど…………本当に……無理、しないでね」
「あ、ああ…………わかったよ」
「それなら、いいわ」
もはや何がいいのかなんだかよくわからないが、とりあえず雪ノ下は鞘を収めてくれたようでほっと一息つく。しかし、
彼女は話したいことがまだまだあるらしく次にはこんなことを言い出した。
「ところで、さっき比企谷くんは『自分も人に流されてきている』と言っていたけれど、あれは…………」
「ああ、それはまあ…………ダラダラとぬるま湯に浸かっているような人間関係を自分も認めてしまったってことかな。
そんなことはただの時間稼ぎにしかならないのはわかっている筈なのに……」
「それもまた、あなたらしい優しさの発露の結果なのかもしれないわね」
「えっ?」
嘘や欺瞞を嫌う雪ノ下のことだから、てっきり非難ないしは窘められるくらいのことは言われるかと思ったのに。おまけ
にそれを認めてしまったのは自分自身が臆病なせいだ。決して優しさなどではない。俺が困惑の表情を浮かべると彼女は
こう返す。
「あなたは他人の弱さを認めてあげられるから、修学旅行の時にあんなことをしたのでしょう?それは、あなたなりの
優しさといってもいいと私は思うわ」
「それはちょっと過剰評価だろう。それに、俺がああいうことをしても結局あいつらは…………」
「……そうね、それも理解している。だから……だからこそ、私たちに対してそういうことをするのはやめて頂戴」
「ああ…………わかっている」
そう。だからこそ、俺たちの関係を嘘や欺瞞に満ちたものにしてはいけない。そうなってしまった関係は、結局のところ
壊れてしまうものだから。そこで、俺はあることを思い出す。
「ああ、そうだ。あのさ…………俺が部活を休んでいる時、先生に無理やり連れて来させないようにお願いしてくれたの、
あれ雪ノ下なんだよな?そのことに関しては本当にお前に感謝している。ありがとう」
俺がそう言うと、雪ノ下の頬が少し紅潮する。俺の手の上に置かれていた彼女の手はさっと置き直されてしまう。
「あ、いえ……それも私が勝手にしたことで、その…………あなたには、多少時間がかかっても本当のことを言ってほし
かったから……」
「じゃあ俺にも勝手に言わせてくれ。ありがとう、とな」
「まったく、あなたは…………」
俺がたたみかけるようにしてそう言うと、雪ノ下はそっぽを向いて一人で紅茶を飲み始めてしまったのだった。
今回はここまでです。次回は木・金を目途に
予定通り、今回で完結です。今から投下を始めます。
⑭だから、俺の青春ラブコメはこれからもまちがっていける。
コンコン、と扉をノックされる音が聞こえる。
俺が「どうぞ」と返事をすると、ガラガラという音とともに扉が引かれる。
ほぼすべて扉が開いた状態になり、さっきの二つの足音の主が確認できる。
雪ノ下雪乃と、由比ヶ浜結衣。
「……こんにちは、比企谷くん」
「や、やっはろー」
「こ、こんにちは……」
毒のある笑みと、少し困り顔の彼女らに先に挨拶をされてしまい、自分も挨拶を返すがその口が歪んでしまう。
「……この私をここまで待たせるなんて、あなたもいい度胸してるわね」
雪ノ下はこちらから少し顔を逸らして、ふぅっとため息をついた後、俺の方に向かって歩き始める。反射的に俺は椅子
から立ち上がって彼女に向かって頭を下げる。
「すみませんでした。それと…………長いこと部活を休んでいたことも。ご心配とご迷惑をおかけしまして……」
雪ノ下は自分の席の前まで来て、肩にかけていた鞄を下におろした。そして、頭を上げた俺に向かって笑顔でこう返す。
「……別にいいわよ。部活を休んでいたことは私が許可したのだし、特に心配も迷惑もかかっていないわ」
「ゆきのん……」
“いつも通り”の俺たちの言葉の応酬に、由比ヶ浜はほっと胸をなで下ろしてこちらに駆け寄ってくる。
三人ともいつもの自分のポジションまで来たところで、雪ノ下はまた口を開く。
「……とりあえず座りましょう」
「そ、そうだね」
「……おう」
「……」
昼休みにここで昼食を食べていたのに、なんだかこうして部室で三人で座っている構図というのがずいぶんと久しぶりの
ことのように思えてしまった。他の二人もそう考えたのかはわからないが、少しばかり無言で時が過ぎる。
最初に沈黙を破ったのは由比ヶ浜だった。彼女は俺の方を向いて、頭を掻いて少し照れながらこう話す。
「ご、ごめんね、ヒッキー。あたしたちも待たせちゃって。ここに来る間にその……ゆきのんに……」
「由比ヶ浜さん、こんな男に謝る必要なんてないわよ。彼があなたにした仕打ちを考えれば」
途中で言葉に詰まった由比ヶ浜に、間髪入れずに雪ノ下が助け船を出す。俺を見る彼女の目はあきれかえっていた。
そんな視線に耐えきれず、俺は自然とまた頭が下がっていってしまう。
「すいません……」
「い、いいよ、もう……。ヒッキーにはさっき謝ってもらったし……その……」
「……最後はさすがの比企谷くんも由比ヶ浜さんの情に折れたみたいね。私もあなたの泣くところ、見てみたかったわ」
「……」
そんな素敵な笑みでそんな内容のことを言わないでもらえますかねぇ?雪ノ下さん。まだ俺の心を折るおつもりなんで
しょうか?おまけに本当のことだから反論もできやしない。
そう、俺は…………折れてしまったのだ。
臆病だから、ずっと踏み出すことができなかった。
でも、それを言い訳にするのも限界に来ていて臆病者なりの考えで告白して付き合う方法を考えてはみた。
しかし、その相手は思っていた以上に強くて、自分も強くなる必要があると思った。この人と並び立つためには。
だから、自分の考えを折ってしまった。
何故なら、自分は臆病だから。
でも、後悔はしていない。
その人は、“今”の俺という存在を認めてくれたから。臆病な俺でさえも。
だからこそ、踏み出すことを決めることができた。“過去”も“今”も否定することなく――――。
俺がそんな捻じれに捻じれた考えに思いを巡らしていると、またしても雪ノ下の声でそれは遮られる。
「由比ヶ浜さんも、ちょっと比企谷くんに優し過ぎるんじゃないの?」
「い、いや~……ヒッキーのあんなところ見ちゃったら、もうあんまり怒る気にもなれなかったというか…………それに、
最後はあたしとずっと一緒にいようって言ってくれたし……」
由比ヶ浜はそう話すうちに、だんだんと顔が紅潮していく。彼女の話す内容とその表情に自分も体が熱を帯び始める。
雪ノ下は掌を上に向けて「やれやれ」とジェスチャーをしてから、クールダウンを試みる。
「まぁ……由比ヶ浜さんがいいなら、私も今ここでこれ以上追及する気はないわ。ただ、これだけは言っておきたいの。
比企谷くん、あなたのせいで土曜日の夜は大変だったのよ。電話口での由比ヶ浜さんのあの取り乱しぶり……」
「わ、わ~!ゆ、ゆきのんそれ今言わないでよ~!」
慌てて由比ヶ浜は手を振って雪ノ下の口をふさごうとする。が、ひょいと向きを変えられてそれは阻止されてしまう。
かわされた由比ヶ浜は、机に突っ伏す格好になってしまった。こちらからはどんな表情かはうかがえない。
「一応その時は、『比企谷くんのことを信じましょう』と言ってどうにかこうにかなだめたのだけれどね」
「ゆきのん……」
由比ヶ浜はそのままの状態で、唸るように低い声で名前を呼ぶだけだった。どうやらもう諦めたらしい。雪ノ下もそれ
以上は口にすることはなかった。今の言葉を聴いて、俺はもう一度彼女たちに向かって少し頭を下げた。
「自分がここに戻って来られたのも、雪ノ下と由比ヶ浜が俺のことを信じてくれたおかげだ。本当に……ありがとう」
「比企谷くん……」
「ヒッキー……」
頭を上げると、少し心配そうに俺の方を真っ直ぐ見つめる二つの顔があった。どうにもそんな目で見られるのは気恥ずか
しくて、つい目を逸らしてしまう。そして、俺はさっきの雪ノ下の言葉を思い出して柄にもないことを口にする。
「あ、あと……そうだ。別に、その……なんだ?優しいのは由比ヶ浜だけじゃなくて雪ノ下もだろ?方向性は違うけど」
「え?」
唐突な俺のフォローに雪ノ下はきょとんとする。由比ヶ浜はそんな彼女の反応を見て笑みを浮かべた。
「駄目なことはハッキリ駄目だと伝えるところとか…………本人のためとは思っても、なかなかできる奴は少ないんだ
よな。嫌われたりするのが怖かったりして」
「い、いえ……そんなことは……。むしろ、私は人を遠ざけるためにそんなことをしていたと……否定しきれるものでも
なく……」
今度は雪ノ下の方が紅くなって下を向いてしまった。俺と由比ヶ浜が顔を見合わせて笑みをこぼすと、彼女はむすっと
して不機嫌そうな顔になる。そして、俺の方をチラッと見てこう返す。
「そ、そんなこと言ってご機嫌取りしようなんて思っても無駄よ。それに……あなたもあまり人のことは言えないのでは
なくて?」
「え?」
「それもそうだね。ヒッキーもわかりにくいけど……うん、すごく優しいと思う」
「……」
由比ヶ浜はうんうんと頷いてニコニコしながらそう言った。急に同時に二人から矛先を向けられて、俺は言うべき言葉が
見当たらずに黙ってしまった。俺が沈黙するのを見るや、雪ノ下は追い打ちをかけにくる。
「ああ、それとたぶん…………私は、またあなたに“そういう”優しさを発揮する時が来るのでしょうね」
「……どういうことだ?」
「つまり、さっきあなたは私たちに心配と迷惑をかけたと謝っていたけど…………今後そういうことが起こらないのか?
と訊いているのよ」
「……なるほど、そういうことか」
それは、例えば俺が自己を犠牲にして人を助けたりすることを指しているのだろう。そして、彼女の立場からはそれは
止めたい、と。しかし現時点では、何も保証できるものがあるわけでもない。それと、俺はこの件に関して由比ヶ浜に
伝えておかねばならないことがあるのを思い出す。日曜日に陽乃さんが言っていたように、今の俺には守るべきものが
できてしまった。それは雪ノ下と由比ヶ浜本人であったり、その二人の中にいる比企谷八幡という存在であったりする。
彼女らは俺のやり方を半ば追認するような形で認めてしまったが、しかしそれはこの二人を自分のやり方に巻き込んで
いいということではない。だから、自分は由比ヶ浜との表面上の繋がりをいつでも切れるような方法を取ったのだ。
「今のところはなるべく避ける、としか言いようがないな。まぁ万が一その時が来たら由比ヶ浜には悪いが、恋人という
ラベルは一時的に剥がさせてもらうことになるんだろうな」
「ぅえええ!?」
思わぬところから自分の名前が出たのと、その内容から由比ヶ浜はそんな声を出して俺の方を見る。驚愕と心配が入り
混じったような表情だった。彼女は胸の前で手をいじりながらぼそぼそと話し始める。
「ヒ、ヒッキー……さっきあたしに言ったじゃん。ずっと一緒にいようって。あ、あたしはもう別にヒッキーがそういう
ことするの気にしないっていうか、そりゃもちろんやめてほしいけど……それでヒッキーのこと…………嫌いになったり
しないっていうか……」
そんな彼女をよそに俺の口から出てきたのは、まぁ…………相変わらずな内容だった。
「確かに、さっき由比ヶ浜には『ずっと一緒にいよう』と言った。しかし、恋人としてずっと一緒にいようなどとは一言
も口にしていない。それに、俺の自分勝手な行動でお前やその周りの人間まで巻き込んだら悪いしな。だから……」
「まったく…………この男はこの期に及んでまだそんな屁理屈を……」
「……」
案の定、雪ノ下はこめかみを指で押さえて首を横に振りながらあきれていた。由比ヶ浜にも怒られると思ったのだが、
何故か彼女は黙ったまま少し下を向いて思案している様子だった。無言の間に俺は少し怖くなって声をかけようとする。
「ゆ、由比ヶ浜……?い、いや……まだそうすると決まったわけでもないし……あの……」
「いいよ!別にあたしは……」
「え?」
「ヒッキーが今言った…………ずっと恋人として一緒にいるわけではないっていうの」
顔を上げてこちらを向いてそう口にした由比ヶ浜の表情は、笑顔で何故か少し頬を染めていた。俺が彼女の予想外の反応に
戸惑っていると、向こうから「ハッ」と何かに気づく声がした。雪ノ下の方を見ると口に手を当てている。
「由比ヶ浜さん、あなたまさか……」
「えへへ~……」
「……さすがにここまでいくと由比ヶ浜さんの楽観的思考にも感心せざるを得ないわね。比企谷くんにはそんな意図は
まったくなかったのだろうけど。彼が折れるというのも頷ける話だわ」
「ど、どういうことなんだよ。二人だけで納得して……なんで由比ヶ浜はニヤニヤしてるんだ」
「べっつに~」
由比ヶ浜は顔が火照ったのか、頬を手で撫でつけたり、顔を手でぱたぱた扇いだりしながらそう答える。
「まぁ、あなたは…………由比ヶ浜さんが彼との恋人のラベルを剥がすことに同意している、という事実だけわかって
いれば充分なんじゃないかしら?」
「……」
雪ノ下は、また小憎らしい意地悪そうな表情になってニッコリと笑って俺に向かってそう言う。これ以上追及すると、
どうもドツボに嵌りそうな予感がしたのでもう黙っていることにした。
それに、自分は自分で独断専行で秘密裡にことを進めるきらいがあったので、あまり二人のすることに抵抗する権利も
なかったのだった。俺が沈黙すると、また彼女らは顔を見合わせてふふっと笑い合う。なんだか居心地が悪くて、二人
から顔を逸らすと不意にまた名前を呼ばれる。
「比企谷くん」
「は、はい」
「先週も言ったとは思うけれど…………これからは、なるべく先に相談してね。たとえ他に方法が見つからなかったと
しても……」
「はい……」
俺がまともに雪ノ下の顔を見れずにいると、今度は横からも視線が刺さる。
「ヒッキー……あたしにも、ね?」
「はい……」
もう嬉しさなのか恥ずかしさなのか、よくわからない感情がない交ぜになって俺はここから逃げたしたいくらいの気分
だったが、彼女の話はまだ終わらなかった。雪ノ下の眼光が少し鋭くなる。
「比企谷くん、由比ヶ浜さんのこと…………頼んだわよ。彼女は私の大切な友人なのだから。彼女を幸福にしろ……とは
いわないけれど、でも、もしあなたが原因で不幸になるようなことがあったら……」
そこまで口にして、彼女は俺の目をじっと見つめた。目を光らせるって表現がまさにぴったりな視線だった。今回ばかり
は目を逸らすわけにもいかず、俺は雪ノ下の光った目を見て膝の上で拳を握りながら、どうにか口を開く。
「わ、わかってます……」
俺の返事に満足したのか、今度は同じ視線を由比ヶ浜の方に送る。思わず、由比ヶ浜は顎をすっと引いた。
「由比ヶ浜さんも…………ね?」
「わ、わかってます……」
「それなら、いいのよ」
雪ノ下が元の笑顔に戻ると、俺と由比ヶ浜は揃って安堵のため息を漏らす。それを見て彼女もふっと息をついた。話が
一段落して、再び部屋の中は静寂に包まれた。
しばらくして、由比ヶ浜がパチッと胸の前で手を叩いて何かを思い出したかのような動きをする。
「あっ……そうだ!実は今日…………ゆきのんとヒッキーに渡したいものがあるんだった」
「「え?」」
唐突な彼女の言葉に、俺と雪ノ下は思わずそう口にしてしまう。そんな反応は無視して、由比ヶ浜は鞄とは別に持って
いた手提げから何かを取り出し始める。そうして机の上に置かれたのは、三つの箱だった。ラッピングされた赤い箱と
青い箱が一つずつ、何も包装されていない白い箱が一つ。由比ヶ浜はまず、赤い箱を雪ノ下の元に移動させてこう言う。
「これはゆきのんへのプレゼント」
「あ、ありがとう……」
そして青い箱を俺の元にやって、
「これはヒッキーに……」
「ど、どうも……」
「……」
突然の出来事に、自分も雪ノ下も状況がよく把握できずにただ自分の前に置いてある箱を見つめるだけだった。由比ヶ浜
は、俺と雪ノ下のそんな様子を見てから説明をし始める。
「えっと……これは、その……ヒッキーが奉仕部に戻った記念というか……あと、あたしの誕生日の時のお返し?みたい
な意味もこめて……奉仕部の備品にでもできれば、と……」
「由比ヶ浜さん……」
「由比ヶ浜……」
雪ノ下と俺は思わず、彼女の名前を同時につぶやいた。二人の視線が一度に注がれて、その視線の熱が彼女に移ったかの
ように由比ヶ浜の顔が赤くなる。照れ隠しのためか、彼女はすぐ両手を二つの箱の方に伸ばして掌を上に向けて「どうぞ
どうぞ」というように催促する。
「と……とにかくっ!早く開けちゃって!あ、あんまり今日は時間もないし……」
「そうね」
「そうだな」
急かすように言う彼女とは裏腹に、俺と雪ノ下は箱の包装紙を丁寧に剥がし始める。二人とも一度もラッピングの紙を
破らずに箱を出すと、どうやら由比ヶ浜と同じものであることがわかる。タイミングを見計らったのか、由比ヶ浜も同じ
ように箱を開け始める。
緩衝材を取り除いて、中から出てきたのはガラスのコップだった。
側面にはディスティニーのキャラクターがあしらわれている。雪ノ下に渡されたのは、当然パンさんだった。
俺がディスティニーランドの城の中のガラス工芸の店で彼女にねだられて、恥ずかしいと言って一度は断ったものだ。
由比ヶ浜のやつ、これを買うために俺と別行動をしていたのか。移動する時や帰る時に、俺が荷物を持つのを拒否したの
もそういう理由からだったのか。さすがに、これを中身が何か知らない他人に預けるわけにもいかないよな、そりゃ。
おまけに、このコップよく見ると…………。
「……由比ヶ浜さん」
「ん?なに?」
雪ノ下も同じことに気づいたのか、由比ヶ浜を少し怪訝な目で見てこう尋ねる。
「プレゼントしてもらったのは本当にありがたいと思っているのだけれど…………どうしてこのコップにはローマ字で
YUKINONと彫られているのかしら」
「え?だってそれはゆきのんのものだから」
「……は……恥ずかしい……」
由比ヶ浜のあっけらかんとした答えに雪ノ下はそう口にするしかなく、下を向いてしまった。
しょうがないから俺がフォローしてやるか。俺は彼女にコップの側面が見えるように置き直す。
「おい雪ノ下。お前なんてまだマシだぞ?俺なんてほれ……見ろ、HIKKYだぞHIKKY。引きこもりじゃねーっつの。
それにコップにニッキーマウスがついているから間違えて彫ったみたいになってんじゃねーか」
俺が言いたい放題言ってしまったので、由比ヶ浜は顔を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまう。俺のフォローが効いた
のか、雪ノ下はまた顔を上げてくれた。そして、次に疑問に思って当然のことを口にする。
「ところで由比ヶ浜さん…………あなたのは?」
「あ、確かにそれは…………ってお前だけ普通にYUIって彫ってあんのかよ、なんかズルくね?」
「だ、だってゆきのんもヒッキーもあたしのこと名前以外で呼ばないじゃん!だから……」
由比ヶ浜は少し声が小さくなり、寂しそうな顔になってしまった。慌てて雪ノ下がフォローしようとする。
「ま、まあ……確かにあなたの言うことにも一理あるし…………この部屋だけで使う分には特に問題もないでしょう」
「ゆきのん!」
由比ヶ浜は笑顔に戻って身を乗り出すようにして腕を伸ばして、雪ノ下の手を取った。何故かこっちに助けの視線を送ら
れるが、それは無視する。すると雪ノ下の表情が少し曇るが、今度は何故か由比ヶ浜が俺の方に向いてこう言う。
「ねぇ、ヒッキー?」
「な、なんだ?さ、さっきはちょっと俺も言いすぎたというか……」
「ううん、それはもういいの」
「そ、そうか……」
俺が少し安心してふっと息を漏らすと、由比ヶ浜は雪ノ下から手を離してさらにこちらに顔を近づける。そして、上目
遣いで俺を見ながらこう続ける。
「ヒッキーもやっぱり…………このコップ使うの、恥ずかしい?」
「恥ずかしくないと言ったら嘘になるが……」
「じゃあ、いい方法があるよ!」
「ほんとか?」
ここで食いついたのが失敗だった。彼女は口角を上げてニヤッと笑って自分のコップを差し出す。
「ヒッキーがあたしのを使えばいいよ!ほら…………ちゃんとあたしのはYUIって名前だし」
「いや、それはますます恥ずかしいんで勘弁してください。HIKKYで大丈夫です、HIKKYで」
「そう?ならいいけど」
由比ヶ浜は少し残念そうな表情をして、自分のコップを元の場所に引っ込める。
まったく、この子は…………油断も隙もありゃしない。もともと恋人同士でペアグラスなんて恥ずかしいと言って断った
筈なのに、もっと恥ずかしい目に遭うところだったぜ…………ふぅ。
とりあえず、三人とも由比ヶ浜が渡したコップを使うということでどうにか落ち着いた。しかし、部の備品として使うに
あたってもっともな質問を雪ノ下は由比ヶ浜に投げかける。
「これを使うのはとりあえずいいとしても…………ガラス製だから、温かい飲み物は入れられないわね」
「あっ……そ、そっか。ごめん、そこまで考えてなかった……」
「まぁ由比ヶ浜の頭がそこまで回るとは思えないし、それを責めるのは酷というものだろう」
「なに、そのフォローしてるのかバカにしてるのかわからない言い方!」
由比ヶ浜はこっちを向いて叫ぶようにそう言って、いーっと唸った。もうなんか最近はこういう反応が見たいがために
自分もわざとそういうことを口にしているような気がする。俺の頬が緩んだのを見て、彼女はそっぽを向く。雪ノ下は
やれやれといった表情で俺と由比ヶ浜を眺めた後、こうつぶやく。
「あまり気にすることでもないわ、由比ヶ浜さん。年が明けて、もう少し暖かくなるまで待つというだけの話よ」
「まぁ、その時に全員揃ってるかどうかはわからないけどな」
「ま~た、ヒッキーはそういうことを……」
由比ヶ浜はまた俺の方を向き、あきれながら笑って肩をすくめた。そして、彼女は思わぬことを口にする。
「ねぇ、ヒッキー」
「……なんだ?」
「壊さないでよ?…………このグラス」
「え?い、いや……俺そんなことするつもりないし、ちゃんと大事に……」
不意にされた質問に、そんな当たり前のことしか自分は答えられなかった。しかし、何故かそれを見て彼女は安心した
様子を見せた。俺の疑問は由比ヶ浜の次の言葉ですぐに氷解する。
「……良かった。じゃあ、あたしたちのことも…………そうしてね?」
「……そういうことか。それは…………うん、重々承知しているつもりだ。由比ヶ浜、雪ノ下」
俺は彼女らの方を向いてそう答える。俺の言葉に、二人とも安心した顔になって微笑み返してくれた。
由比ヶ浜がグラスに喩えたのは、俺たちの関係性のことだろう。このグラスのように、いつ壊れるかなどわかったもの
ではない。だから、それを扱うのは少し怖かったりもするのだ。でも、だからといって自分から壊すようなことをしては
いけない、と彼女はそう言いたかったのだ。しかしその理屈からいくと――――。
「ただ、俺があんなことをしたのは絶対に壊れないと信じていたから、なんだけどな」
「もう、ヒッキーズルいよ…………」
「そうね。本当にこの男は卑怯で狡猾で陰湿極まりないわ。……私だったら正々堂々と負けるのに」
あぁ、と呻きながら虚空を見上げる由比ヶ浜と、俺を睨めつけてそう言い放つ雪ノ下。含みを持った言葉に、俺が首を
傾げると彼女はこう続ける。
「どうしても今日、あなたに言っておかねばならないことがあるのを思い出したのよ。先週に少し話したでしょう?私と
あなたの勝負の結果について」
「それは確かに話したが…………」
正直なところ、今の雪ノ下が何を考えているのかよくわからなかった。結果についてと言われても、先週は俺が負けを
認めようとしたら彼女に断られて、でも雪ノ下がそんな簡単に負けを認めるとも考えにくいし…………結果の先送りでも
するんだろうか?ふと由比ヶ浜の方を見ると、もう何か彼女から話を聴いたのか、頬杖をついて微笑んでいるだけだった。
俺が沈黙しているのを見て、雪ノ下はすっと息を吸ってからまた話し出す。
「今回の勝負は、完全に私の負けよ。そもそも、平塚先生の依頼を比企谷くんが拒否したところから私とあなたの勝負は
始まったわ。私とあなたでどちらが人に奉仕できるか、とね。それであなたは相変わらず、更生することを認めていない。
それなら、おのずと勝負としてはどちらが人に奉仕できたのか?ということになる。その結果は火を見るより明らかよ。
私よりもあなたの方がずっと人に奉仕していた。だから、この勝負は私の負け。異論反論は一切認めません」
そこまで一気に言い切って、彼女はふっと息をついた。
俺は勝負の裁定そのものがどうであるかよりも、単純に雪ノ下が負けを認めてしまったことが気に入らなかった。だから、
ついこんなことを口走ってしまう。
「雪ノ下が負けをあっさり認めるってなんか…………お前らしくないな」
すると、彼女は少し下を向いて寂しげな目で俺の方を見つめてきた。なんだか悪いことをした気分に自分もなってしまい、
頭が下がってしまう。雪ノ下はちょっと不機嫌そうな声を出す。
「なにも、私だってただ負けを認めるって目的でこんなことをしているわけではないわ」
「えっ?」
俺の頭の上に浮かぶはてなマークがますます増えて思わずそんな声を出すと、雪ノ下はやれやれといった表情で話すの
を再開する。
「比企谷くん」
「は、はい」
「比企谷くんは、その……“らしくない”私とは…………向き合ってくれないのかしら」
「!……い、いや……違う……」
少し声が小さくなって、頬を朱に染めながらそう口にする雪ノ下を見て、俺の疑問は解消した。…………そういうことか。
「むしろ、そういう私とも向き合うという意思表明をあなたにはしてほしいから私は負けを認めたのよ。あなたが私に
ずっと前から言いたかった言葉がある筈だわ。今ならそれを私に断られる心配も必要ない。だって、勝負に勝った者は
負けた者になんでも“命令”できるのだから。これは、臆病なあなたに対する私なりの格別の配慮のつもりよ」
…………なるほどね。彼女は最初からこうするつもりで、先週の俺の“答え”を拒否したのか。先に由比ヶ浜との“答え”を
出させるために。それで今はその“答え”を出せる状態にある、と。俺が雪ノ下に対して望んできて、でも一度も叶えられ
なかった願いが今、実現しようとしている。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、俺が黙ったままでいると再び雪ノ下
から声がかかった。
「比企谷くん……それで…………どうするの?」
「……わかった。俺が勝者だということを、認めるよ」
「そう……」
俺の返事に雪ノ下と、何故か由比ヶ浜もほっとして胸をなで下ろした。
しかし、雪ノ下の言う“命令”というやり方に、抵抗がないわけでもなかった。だから、俺は彼女にこんなことを尋ねる。
「でも…………いいのか?雪ノ下は俺がこれから言うことは把握しているとは思うが……こんなこと、命令しても……。
命令するような類のお願いじゃないし、それにもしお前がそれを望まないのであれば……」
「その心配はいらないわ。命令というのは形式上のことであって、たぶん今の私なら普通にお願いされても肯定の返事を
返せる。だから、あなたがそれを気にする必要はないのよ」
「そ、そうか……」
“形式上”という言葉に、俺の抵抗感も幾分和らいだ。そして、彼女はダメ押しとばかりにこう続ける。
「私は比企谷くん……あなたのことを愛している。だから、私は今あなたが一番望むことをしてあげたいと思っているわ。
そういうわけで、…………大丈夫よ」
雪ノ下の告白と、俺に向けられる彼女の微笑にこっちの心臓が大丈夫じゃなくなりそうになるが、どうにかそれを堪える。
何回か深呼吸をして自分を落ちつかせた後、俺は椅子ごと雪ノ下の方を向く。彼女もそれに応じてくれた。
…………やっと俺はこの言葉が言える。
一度目は単なる拒絶。
二度目は今から思えば…………あれも照れ隠しだったんだろうか?
今は…………二人で“同じ答え”を出すことができる。
俺と雪ノ下の目が合う。
そのままの状態で俺はすっと息を吸ってから、
「では、勝負の勝者として敗者に以下のことを命じる。雪ノ下雪乃――――――――俺と、友達になってください」
「――――――――もちろん、いいわよ」
彼女はそう応えてくれた――――――――冬なのに、春に咲き誇る満開の桜のような笑顔で。
――――これで、ようやく“答え”を出すことができた。
とはいえ、実際にやったことといえば人間関係に適当なラベルを貼り付けただけのことなのかもしれない。
でも、それはとても意義のあることだと俺は思う。何故なら、俺と彼女がずっと避けてきたことなのだから。
俺は今まで正解を選んできたつもりで色々とまちがえて、取り返しのつかない失敗をしてきて、一人になって…………。
おそらく俺はずいぶんと前から諦めていたのだろう。まちがえることさえも、失敗することさえも。
そもそも、答えを出すことそのものから俺は逃げていたのかもしれない。
でも、今ようやくそれができるようになった。
正解でもまちがいでも俺が答えを出すことを尊重してくれる人たちが、ここにはいる。
――――――――だから、俺の青春ラブコメはこれからもまちがっていける。
了
とりあえずこのSSはこれで終わりです。感想とか、まあ野暮だとは思いますが質問とかあったら、それも含めて。
ちょっと1時間くらい席外します。
☆×4 アルティメットレア排出者!!!!
ヒーローズGM7弾
3/26 5回目坂上あゆみ(5月7日以降お楽しみ)アルティメットレア 孫悟空 HG7-41(3月17日以降お楽しみ)
4/1 21回目谷口翔子(9月29日以降お楽しみ)アルティメットレア 孫悟空 HG7-41(4月1日以降お楽しみ)
このSSまとめへのコメント
SSの完成度じゃない……
もしかして「ブラコンめ、シスコンめ」の人かな?
選ばれなかったヒロインを粗末しない展開も好きです
ゆきのん派閥の自分も楽しめました
感動したっ……!
乙です!