P「お前の夢にはついていけない」律子「……そう」 (503)
愛「こんばんは! 誕生日までもうすぐ! 日高愛です!
このお話は、無印時空とDS時空のいいとこどりで進む律子さんの物語、だそうですよ!」
絵理「876組では凉さんは出て来るけど、わたしたちはあまり出てこないかも? ちょっと残念。
お話自体については
『ドーム成功エンドで、社長になってほしいという申し出をプロデューサーが断ったら……』
というifを出発点としたもの……だって」
愛「律子さんはプロデューサーさんですけど、2やアニメとは経緯が違うので、注意ですよー!」
絵理「ひとまず、お話はエンド数日後から始まる……らしい?」
愛・絵理「では、本編スタート!」
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1340369876(SS-Wikiでのこのスレの編集者を募集中!)
第一話『DREAM』
「はあ……」
日本中を虜に出来るその顔を憂鬱に染めて彼女は一つため息を吐く。
その視線は、周囲のがらんとした情景に向かっている。
そこは立派なオフィスであったが、彼女を除いて誰一人いない。机も棚も、全てがぴかぴかの新品で、使われた様子がまるでなかった。
ここが、彼女の新しい城、新しい夢の舞台……となるはずであった。
だが、彼女は——つい先日までトップアイドルの座に輝いていた秋月律子という女性は、その夢の礎となるパートナーを得ることに失敗した。
会社を立ち上げ、事務所を借り、内装まで整え、その一方で引退コンサートを大成功に終わらせながら、肝心要の人物を手に入れ損ねた。
彼女をトップアイドルに育て上げたプロデューサーは、新たな道を彼女と共に歩くことを拒絶し、765プロに残ることを選んだのだ。
「一人には広すぎるのよね……」
律子が自嘲気味に呟き、さらなる負の感情に呑み込まれそうになったところで、一つの声が響いた。
「おはようございまーす! 律子姉ちゃんいますか?」
「え? 涼?」
ひょいと戸口に顔を出したのは秋月涼。
柔らかな顔立ちをした少年は、律子の従弟であり——おそらく当人は不服であろうが——元女装アイドルとして有名な人物である。
彼は律子を認めると、途端に弾けるような笑顔になった。
「入っても大丈夫かな?」
「あ、うん。どうぞ」
招き入れながら、そういえば、涼には事務所立ち上げの話をしていたし、見学にも来たいと言っていたのだっけ、と思い出す律子。
「へー……ここが……。すごいなあ」
きょろきょろと物珍しげに見回す涼に、律子は苦笑する。
彼に底意があるわけもないのに、あるはずのない棘を感じ取ってしまう自分に対して。
一方、涼のほうは周囲への関心がひとまず収まったのか、律子当人へと視線を向ける。
「そうだ、律子姉ちゃん。引退コンサート、本当によかったよ」
「何度も聞いたわよ」
「何度でも言いたいんだよ」
彼は、姿勢を正し、深々と頭を下げた。心を込めた声が、二人だけの事務所に響く。
「お疲れ様でした」
「……ありがとう、涼」
小声で呟く律子の声が潤んでいる。アイドル仲間ではありながら、それとはもっと別のつながりのある彼にそんなことを言われるのは
なにか感じるところがあるのだろう。
「それはともかく!」
照れくささを振り払うように涼は必要以上に明るい大声で言って顔を上げた。
「これからは新しい門出だね。そっちもおめでとう」
「最初からつまずいたけどね」
「え?」
涼の呆気にとられたような顔に、律子はもう一度ため息を吐く。
「座って。愚痴るから」
「あ、う、うん」
言われて、涼は律子の正面に椅子を移動させ、自嘲気味に始まる彼女の話に耳を傾けるのだった。
「えっと、つまり、プロデューサーさんを引き抜くのに失敗して、それを前提に組み立ててた予定が全部おじゃん……ってこと?」
「そ。私は知名度あるって言ったって、それはアイドルとして。プロデューサーとしてはなんの実績もないもの。彼が居なくちゃ誰も仕事なんて……」
やけっぱちな笑みを浮かべて、彼女はがらんとした周囲を示してみせる。
「だいたい、所属アイドルだっていないんだしね」
「アイドルがいればいいのかな?」
「そりゃ、まあ……。いえ、それだけじゃやっぱり駄目ね。悔しいけれど、私の実力が足りてない」
うつむき、唇を噛みしめる律子。その姿を、涼はじっと見つめていた。同情するというだけではなく、何ごとか真剣に考え込みながら。
そうして見ると、彼の眼鏡の奥でゆらめく瞳は、その従姉に実によく似ている。
「ねえ、律子姉ちゃん。いくつか訊いていいかな」
「うん?……うん」
「ここ……というか、律子姉ちゃんの事務所って、765プロの子会社……なんだよね、たしか」
「そうね。765プロが株式の大半を所有してるわよ」
「じゃあ、協力関係にあるんだよね?」
「ええ、そう……だけど?」
「もう一つ。まず、律子姉ちゃんに必要なのは、プロデュース修行と、プロデュースするアイドル。この二つだよね?」
「修行っていうとあれだけど……業務を覚えないといけないのは確かね。それに、本格始動するならアイドルはもちろん必要だわ」
「ふうん……」
律子にそれだけ確かめて、涼は再び自分の思考の中に沈んでいく。
律子はその様子を不思議そうに眺めていた。従弟が気を遣っているというだけの反応に見えなかったからだ。
一方で、彼に現況を話すことで、これからの自分の進むべき道の困難さも改めて自覚している。プロデューサーの技術を学びつつ、
プロデュースするアイドルを見つけるなど、そうそう出来ることではない。
そもそも、プロデュース業を望んだのは、彼という偉大な先達がいたからだ。
それを失ったいま、自分はプロデュースというものにこだわる動機すら失っているのではないか。
経営に憧れていたのは事実。アイドル活動を通じて得た芸能界への知見やわずかとはいえある人脈を生かしたかったのも確か。
だが、自分をプロデューサーに、そして、彼を会社の代表にと考えたその行動は、やはり彼をこそ自分のパートナーに、という
思いからではなかったろうか。
それは、ビジネスパートナーに限らないことで、それを失った自分は……。
彼女はそんなぐるぐる回る思考の渦の中に引き込まれそうになっていたために、涼の言葉を聞き逃しかけた。
「二つほど……」
「え?」
「二つほど、提案があるんだけど」
律子が意識を戻さざるを得ないほど強い口調。その真剣な瞳を彼女は見た。
思わず背筋を伸ばすほどの熱が籠もったそれを。
「聞くわ」
「まず、今のところ、この会社には律子姉ちゃんしかいない」
「うん」
「この事務所も開いたばかりで、特に愛着があるわけでもないでしょう?」
「……うん」
「だったら、765に行けばいい」
そこまで聞いて律子は大きくため息を吐いた。
「やっぱり、あんたも諦めたほうがいいって思うのね。そうよね、そもそも……」
だが、涼はぶつぶつと一人の世界に入りそうな律子に向かってぶんぶんと手を振ってみせる。
「早とちりしないで。それなら765に戻ればいいって言うよ。まあ、律子姉ちゃんがそう結論づけるならそれでもいいけど……。僕の案は違う」
「どういうことよ」
「765に居候させてもらえばいいんじゃないかなって思うんだ。一室を貸してもらうのでも、デスクを貸してもらうのでもいいけど。そうすれば、
姉ちゃんのプロデューサーさんの仕事ぶりも近くで見ていられるし、コネをつなぐのも、やりやすくなるよね?」
「765に……居候?」
「そ。765プロの子会社なんだし、同じフロアにあってもいいでしょ? 別に765内に戻ってもいいとは思うけど、いずれ独立するなら会社の形式も
保ったままの方が……」
律子の表情が険しくなり、射貫くような視線が涼をとらえる。彼は思わず身をすくめようとして、なんとか堪えた。
「そ、そりゃ、律子姉ちゃんとしては一度独立した以上、一国一城の主を保ちたいだろうけれど、背に腹は替えられないっていうか、その……」
「涼!」
「ひゃいっ!」
鋭い声と共に律子が立ち上がり、彼のほうに身を乗り出す。反射的に防御の姿勢をとる涼。
だが、律子の手はそんなことを気にせず、彼の肩に乗った。
「それよ!」
「へ?」
「そうよ。なにも事務所なんかなくていい。私がいるところが私のオフィスなんだから。あの人をパートナーにすることはかなわなくても、
あの人の仕事からその技術を盗み取ることは出来るはずっ!」
「あ、うん。偉そうなことを言ってごめんね。でも、そのほうがきっと……」
「なに言ってるの。とってもいいアイデアだわ。早速、高木社長に連絡して……」
ぎゅっと拳を握り、大輪の花が開いたような笑顔と明るく力強い声でまくしたてていた律子は、ふとそこまで言ったところで涼に視線を戻し、
彼の顔を覗き込むように身を屈めた。
「って、えっと、まだあるんだっけ、涼」
あまりにも間近に彼女が顔を寄せたために、どぎまぎする涼。
「う、うん。実は、移籍希望のAランクアイドルが一人いるんだけど」
「え? そんな人がいるの? 知り合い?」
「知り合いっていうか……。僕」
「……は?」
ぽかんと口をあける律子。
たしかに秋月涼はAランクアイドルであり、売れっ子と言っていい。だが、それだけに876プロの顔として認知されているのが現状だ。
軽々に移籍だなんだと言える立場であるはずがない。
「え? 涼?……え? なにかあったの? 虐められてる?」
「いや、それはないけど……。まあ、なにかあるって言えばあるかな。実は、舞さんが876に来るんだよね」
「はあっ!?」
今度こそ、腰が抜けるかという勢いで驚く律子。ぼすんと元の席に戻って、彼女はまじまじと彼の事を見た。
涼の言う舞さん——日高舞とはそれだけの驚きをもたらす存在であった。
「冗談……でしょ?」
「残念ながら。あ、でも、まだ内緒にしておいてもらわないと困るよ」
「そ、それは、もちろんだけど……。なんで、また?」
「いつもの気まぐれでしょう、と愛ちゃんは言ってたけどね。実際は、愛ちゃんがいるのと……まなみさんの古巣だからじゃないかな」
「まなみさんか……」
岡本まなみは現在は日高舞のマネージャーを勤めるが、元々は876プロのマネージャーであった。
そもそも、アイドルデビューしたいという涼を律子がまなみに紹介したことから、涼のアイドル生活——という名の受難——が始まったのだが、
それはこの際関係ない。
涼いわく、日高舞、日高愛という親娘が876に所属するとなれば、スタッフもしばらくはそちらにかかりきりになる。
尾崎玲子というプロデューサーのついている水谷絵理はともかく、自分に対しての比重は落ちるかもしれない、と。
「いや、あんた売れっ子なんだから、そう簡単には……。でも、それだけじゃなさそうね」
「さすが、律子姉ちゃん」
涼はそこで居住まいを正し、律子を真っ直ぐに見た。
あ、舞台の上の顔だ、と彼女は思った。幾多のファンを魅了するときの、真剣な顔つき。
「分析が得意な律子姉ちゃんならとっくにわかってると思うけど、いまの芸能界、特にアイドル業界は四強に占められてるでしょ」
「765、876、961、それに日高舞ね」
「そう。そして、舞さんが876に入って、舞さんとトップ争いをしていた律子姉ちゃんが引退。これからの状況、荒れないはずがないんだ」
潤沢な資金力と人材を誇る961、少数ながら精鋭揃いの765、さらにその傾向が強い876、そして、伝説のアイドル、日高舞。
これまでのアイドル業界はこれらの四勢力が競い合って牽引してきた。
そのうち、765の双璧、如月千早と秋月律子は、片方は海外に主軸を移し、もう一人はこうして引退してしまっている。
「色々と勢力図が書き換わるであろうことは私も予想しているわ」
「でも、チャンスでもある」
涼は、ずいと身を乗り出して、律子に語りかけた。
この従弟にしては随分積極的な姿勢であり、語勢であった。
「駆け出しプロデューサーである姉ちゃんにとっても、そして、僕にとっても……トップを獲る、チャンスだ」
「涼、あんた……」
「どうせやるならトップに。律子姉ちゃんだって、そう考えてやってきたはずだよ。違う?」
「違わないわ」
律子は首を振る。熱っぽく語る従弟の様子を怪訝に思いつつ、しかし、自分が……いや、二人で成し遂げてきたことを否定するわけにはいかなかった。
「姉ちゃんの引退コンサートを見て決めたんだ。僕もトップを目指す。姉ちゃんが見たその場所を……ううん。それを越えてみたい」
そうか、と律子は思う。
この子は、私を継ぐつもりなんだ、と。
彼女は人気絶頂で引退した。
誰もが避ける日高舞と発売日を同じくしてランキング争いをし、それに勝利することもしばしばだった彼女が、まさにその頂点を極めたところで
引退コンサートを大々的に開き、アイドルを辞めた。
それは彼女やプロデューサーにとっては最初から予定していたことであり、そこに向けて全力を費やしてきたことでもある。
だが、ファンにしろ、同業のアイドルにしろ、それを容易く受け止めることが出来るだろうか。
まさにトップにある人間が、その座を明け渡す。その行為を見て、人はどう思うか。
ある者は嘆き、ある者は惜しみ、ある者は羨み、ある者は賞賛するだろう。
そして、目の前のこの少年……否、男性は、また別の感慨を持った。
彼女が手放した頂点に、自分が挑んでみせると。
「本気みたいね」
こくりと頷く涼。
彼の決意は、あるいは律子が近しい存在であるからこその使命感であるのかもしれない。
彼女に出来るのならば自分にも、という感覚もあるだろう。彼女が見たものを自分も味わってみたいという欲もあるだろう。
たしかに、彼にはそれだけのポテンシャルがあるのだから。
だが、きっと、真意はそんな打算的なところにはない。
おそらくは、そう、おそらくは、彼は、彼女が去った後の場所を、他の誰かに渡したくない。ただ、それだけなのだ。
もちろん、この推測には、彼女の願望も多分に入っているのだが。
律子はしばしそんな思考を巡らせた後、ふうと一つ息を吐いた。
「だからって日高舞が入って強力になるであろう事務所を抜ける理由はないと思うけど。まして、その夢を託す相手が、初っぱなからつまずいてる私じゃあ」
「舞さんの移籍話は、まだ具体化していない。もちろん、舞さんのことだから言ったことは実現させるだろうけど、時間はかかる。周りの影響もあるからね。
……たぶん、三ヶ月後くらいかな」
肩をすくめて涼は言う。
その言葉の意味はわかりにくいものであったが、悪戯っぽい表情と合わせて見れば、律子にはすぐ理解出来た。
「だから、その間に自分をトップに導けるだけのプロデューサーになっておけって? 無茶苦茶よ、あんた」
「おじけづいたの?」
「こらっ! 調子乗るんじゃないの。仕事の話じゃなきゃはっ倒してるわよ?」
一喝してから、彼女はしばし視線をさまよわせた。
周囲を見、天井を見上げ、最終的には涼の柔らかな笑顔に戻る。
「わかったわ。一ヶ月……うん、一ヶ月待ちなさい。地盤を固めて、876とも話をつけて、あんたを迎え入れるだけの態勢を整えてみせようじゃないの」
「それでこそ律子姉ちゃんだよ」
「ふん。言ってなさい」
わずかに頬を赤らめながら、律子は涼の弾けるような笑顔から、顔を逸らしている。
立ち上がり、伸びをして、彼女はうーんと一つ唸りをあげる。
「さ、忙しくなるわよ。あんた、今日暇なのよね? 暇にしなさい。色々手伝ってもらうわ」
「はいはい」
苦笑しながら立ち上がり、彼女の指示に従って動き始める涼。
その背を見つめて、彼女は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……ありがとう、涼」
と。
第一話終わりです。楽しんでいただければ幸いに思います。
誕生日にこんなifから始まるのはどうなんだろうということで、前日開始ですw
書きためはしていますが、まだ全部終わってはいない程度なので、ゆっくり投下していくことになるかと思います。
とりあえず第二話は明後日投下出来たらいいなあと考えてます、はい。
乙
あとsage無いほうがいいぞsagaならいいが
>>15
あ、そうでした。つい、他板のくせで。
今後気をつけます。
サイネリア「はい、こんばんは。
なんとかねじ込もうとして、結局、出番がなくなったサイネリアです。
今回から、765勢が出てきて、876勢はしばらく出番ナシらしいデスヨ。
そうそう、プロジェクトフェアリーの三人はSPみたいに961経由なんだそうデス。
色々盛り込み過ぎなんじゃないですかネ。
それはともかく、本編第二話スタート!
……そういえば、アタシの誕生日は公式に明かしてもらえないんですかネー……」
第二話『自分REST@RT』
数日後、秋月律子の姿は、765プロ会議室にあった。
髪型は、それまでトレードマークにしていた跳ね上がるようなお下げをやめて、後ろにまとめたアップスタイルに。
特徴的な眼鏡をフルリムからリムレスにしてあたり良く。
黒のパンツスーツと相まって、彼女はその実年齢よりもわずかに年上に見えた。
「驚いたよ。あの事務所をすっぱり捨てて、うちに間借りするなんて。あそこ、どうしたんだい?」
彼女の対面に座り、そう訪ねかけるのは、かつての彼女のプロデューサー。
そう、律子が誘い損ねた当の本人だ。
「そりゃ、解約しましたよ。違約金はかかりますが、必要ありませんから」
「そうか」
彼は何とも言いがたい表情になって頷く。それはそうだろう。彼が断ったことで、引き起こした事態なのだから。
結局、彼はそれ以上そのことに触れずに話を進めた。
「それで、社長とはどう話をつけたのかな?」
「はい。我がオフィス秋月は、765プロの一角を借り受ける一方で、765プロからプロデュース業務及び経理事務の委託を受けることとなりました」
「経理も?」
「はい。これまで通り、伝票遅らせたら承知しませんからね?」
脅かすように言うのに、男はからからと笑う。
「なんだよ、律子が事務所の影の支配者なのは変わらないじゃないか」
「なんです、影の支配者って」
「そのまんまだよ。実際そうだろう? 小鳥さんより発言力あるし」
「それは小鳥さんや社長が甘えさせてくれてたからですよ。つまりは、私が子供だったってことです」
律子は苦笑しながら、そんなことを言う。その様子は随分と大人びて見えた。
「でも、さすがにこれからはそうもいきませんよ。なにしろ形式上は、他社の人間ですから」
「おや、それがわかるようになったか。律子も大人になったもんだなあ」
「もー! からかわないでください」
男のおどけた態度も、そして、律子のそれに応じる調子も、お互いの距離を測るためのものだったのかもしれない。
二人はこれまで二人三脚と言っていいくらい、お互いを支え合い、歩調を合わせて進んできた。
それが道を違えた以上、なんらかのわだかまりは残る。
そのことを二人共にわかった上で、これからの関係をどうつくりあげていくか、その探り合いであった。
「まあ、それはともかく、俺の担当はプロデュースだ。そっちの話をしようか」
「……はい、そうですね」
「まず、765のほうもプロデュース関連の人事体系を大きく作り替えた……ってこれは知ってるんだったな」
「私と社長で相談したことですからね」
765プロではこの度、アシスタントプロデューサー及びマネージャーの合計三人を、そろってプロデューサーに昇進させた。
この人事は、今後の発展を見越してのものであるが、これまでプロデューサーとして働いてきた人物が抜けることを想定して、その穴を
埋めるために行われたものでもあった。
だが、実際には彼は律子についていくことはせず、765内に残ることになったため、多少の手直しがなされている。
「うん。それで、俺はチーフプロデューサーってことになった。委託先である律子を含めた四人のプロデューサーの監督と統括だ。
アメリカの彼もチーフってことになってるが、まあ、これは形式だな」
如月千早と共にアメリカに渡ったプロデューサーは、実質的に765プロ海外支部を担うことになっている。チーフがつこうがつくまいが、
あまり関係はないだろう。
「じゃあ、これからはあなたのことチーフって呼ばないといけませんね」
「ははっ。なんかくすぐったいな。それはともかく、新しいプロデューサーのみんなには、それぞれ担当を持ってもらう。律子の場合は、
そのアイドルのプロデュースを委託されるって形になるのかな」
「そうなりますね、はい」
チーフプロデューサーは手元の資料をめくりながら、話を続ける。
「俺が指定するんではなくて、それぞれに希望を出してもらう。希望って言ったって、誰がいいって指名だけじゃだめだぞ。そのアイドルを
担当した場合、どうプロデュースしていくのか……まあ、企画を提出すると考えてくれ。それを俺と社長で判断して、最終的な割り振りを
決めることになる」
熱心にメモを取りながら、話を聞く律子。
チーフプロデューサーはその様子をじっと見ていた。
「そうそう。それから、候補の中から、千早と亜美は抜いてくれ」
「海外の千早は当然として、亜美もですか」
「ああ。近いうちに『双海亜美』は引退させて、双海亜美、双海真美のデュオを再デビューさせる。少々デリケートだからな。これは俺が直に担当するよ」
「ああ……」
亜美、真美の双子は、『双海亜美』としてデビューし、二人で交互に『亜美』を演じている。
その事実はもはや業界でもファンの間でも公然の秘密であるが、それを明らかにするとなれば、それなりに対策が必要となる。
簡単に任せられるものではないのは納得であった。
「期限は十日ほどだ。それまでは俺や社長と挨拶回りをしつつ、各アイドルと親交を……ってこの部分は律子には必要ないと思うんだが、
他の三人にもさせているからな」
「いえ、このところ自分のことにかまけて、他のみんなの仕事ぶりをチェックする余裕がなかったんで助かります」
「そうか」
明るく笑う律子を見て、男は目元を和らげる。
二人で歩んできた時間が長いだけに、彼女の性格を熟知している彼は、律子がなかなか浮上できないのではないかと気を揉んでいたのだ。
しかし、彼の予想以上に、律子は気丈に振る舞っている。少なくとも表面上はそうだ。
彼女の脆い一面を知っている彼としてはその裏にあるものを想像して心苦しいが、それを引き起こしたのが自分の決断である以上、
余計な手出しは出来まい。
出来るのは、仕事の上で気遣ってやるくらいのことであった。
「そういえば、涼くんを引き受けるかもしれないってことなら、こっちでのプロデュースは軽めにしておいたほうがいいのか?」
「あはは」
律子は笑って、彼の提案を一蹴する。
「そんなことしたら、それこそ涼に怒られますよ。二組くらいしっかりこなせなきゃ、芸能事務所の代表なんて言えないでしょう? あ、でも、もちろん、
力が足りないところは、チーフにも頼りますよ」
男の片眉が跳ね上がる。驚きをそれだけで留められたのは、気を張っていたからに過ぎない。
繰り返しになるが、彼は律子のことをよく知っている。
思慮深そうでいて案外感情に引きずられやすいことも、よく落ち込み、よく調子に乗ることも。
前半の発言を聞けば、テンションが高い自信満々な時の律子のように思えるが、その一方で、頼ると言っているのも本気に聞こえる。
彼の知る律子の両面が柔軟に発揮されている。そのことに、チーフは驚嘆の念を抱かずにはいられなかった。
「765のアイドルにも全力、涼にも全力で行きます」
彼女を育てた男の感慨など気にした風もなく、律子は続けている。
「トップ、目指してますから」
彼女は、爽やかな笑顔でそう言い切った。
「あー……しんど」
凝った肩をぐりぐりと拳で刺激しながら、彼女は収録の様子を眺めていた。
わいわいとやるタイプのクイズ番組なので、アイドルたちもそれなりに善戦している。
その中で敗退してしまった春香が律子のほうへ歩み寄ってくる。彼女はユニットを組む、やよい、雪歩とともに番組に出演しているのだ。
「律子さん」
「あ、春香。残念だったわね」
「いえいえ。律子さんのほうはなんだかお疲れですね」
アイドルって、外から見ると本当にきらきらしているわね、と律子は春香の笑顔にそんなことを思う。
実際の所、衣装もばっちり、メイクもプロの手が入っている春香に比べると、眼鏡にスーツの律子が地味に見えるのはいたしかたないところだろう。
スタッフが目立つ必要もない。
「いや、なんていうのかなー。スタッフさんに捕まるのでも、アイドルの時とは違った緊張感があるのよね。妙なところに力入っちゃって」
「そんなもんなんですか」
「まあ、これも慣れだろうけどねー」
「ですねっ!」
律子を元気づけるように微笑んでから、春香は顔を寄せ、小声で彼女に訊ねかける。
「ところで、律子さん。律子さんが私たちのプロデュース担当してくれるんですか?」
「え? どうかしら。私が希望を出しても通るかどうか……」
「はい?」
難しい表情をする律子に、春香は小首を傾げる。
「ほら、あんたたちのユニットって、王道路線じゃない?」
「そうですかね? ……んー、そう言われれば、そうかも」
「そうなのよ。春香、雪歩、やよい。みんな可愛らしいし、アイドルとしては正統派じゃない。私や千早みたいな変則的なのじゃなくて」
「えへへ、かわいらしいなんて……」
ひとしきりもじもじと照れたところで、彼女は、はっと気づいたように顔をあげる。
「でも、律子さん? 変則のほうが売れちゃってますよ!」
「それは、正直、美希の961移籍で、リソースを集中しなきゃいけなかったって面があるからね。限りある資金の中では、私らみたいな、
はまればうまく行くタイプにかけるしかなかったのよ。いまは違うけど」
「はあ……。そうなんですか」
そうなのよ、と律子は声に出さずに頷く。
美希の961移籍とプロジェクトフェアリーの存在は、当時の765プロにとっては頭痛の種であった。
フェアリーが売れれば売れるほど、美希を——『そこそこのアイドル』程度にしか——売り出せなかった765の無能が証明されてしまう。
高木社長の黒井社長に対する意地だとか、所属アイドルたちの美希への思いだとか、そういったものとは別に、765プロはどうあっても
フェアリーを打倒しなければならなかった。
律子は事務を担当していただけに、そういった事情も知っていて、千早と共に美希たちを倒すための戦いの矢面に立ったのだ。
そのために、他のプロジェクトがいくつかぽしゃったことを、彼女は知っている。
そして、春香たちも、知っていいころだろう、と彼女は考えていた。なにしろもう全て終わったことなのだから。
「ともかく、ある程度自由にお金も動かせるようになったいまとなっては、あなたたちのユニットは765の顔になっていく存在なの。
まあ、大事って意味ではみんな大事だけど、その中でも、765プロの指針を示す位置っていうのかな」
「じゅ、重要なんですね」
しっかりと自分たちの立ち位置を説明され、春香はその可愛い顔に緊張をみなぎらせ、身震いする。律子はそっと彼女の肩に手をかけた。
「あはは。春香たちはあんまり気にしないでいいのよ。ともあれ、そういうポジションを、部外者の私に頼むかというと……」
「部外者なんかじゃないですよ!」
話を遮って、春香が鋭い声をあげる。声量はけして大きくないが、近くにいたテレビ局のADがぎょっと振り向くほど力強い声であった。
「律子さんは仲間じゃないですか!」
律子は心配そうに見てくるADにぱたぱたと手を振ってなんでもないことを示し、改めて春香に笑いかける。
「ごめんごめん。部外者って言ったら、なんだかおかしいわよね。そうね、私も765の仲間よ。それは変わらない」
「はい!」
「大きな括りで言ったら、形式上でもそうだしね。ただ、やっぱり私よりは、社内の人間が優先されるかも、と思うだけで」
「むー」
あくまでも自分の立場を主張する律子に不満顔の春香。その肩越しにふと小さな声がかかった。
「あ、あの! 律子さんは私たちをプロデュースしたく……ないんですか?」
「わ、雪歩!」
「あら。雪歩も負けちゃったのね。お疲れ様」
驚いて振り向く春香と、労いの表情で笑いかける。律子。
雪歩はその髪を揺らしながら二人に微笑みかけ、そして、律子に真剣な表情を向けた。
「それで……どうなんでしょう?」
「え? なに? どこから聞いてたの?」
「聞こえてたのは部外者だとかいうところです……。えっと、たぶんプロデュースのお話かなって思って……。その、律子さんが
プロデューサーとして戻ってきてくれるって聞いてから、みんなその話ばかりでしたから……」
律子に訊ね返されて、雪歩はそれまでの勢いをなくし、自信なげに小声で告げる。雪歩の推測自体は間違っていないのだが、それよりも、
律子は彼女の台詞の後半部分に驚いていた。
「え? え!? そうなの?」
「はい! もちろんですよ!」
「律子さんがアイドル引退しても、また一緒にお仕事できるって。みんな楽しみにしてます」
「そ、そっかー。ありがと……。あ、え、ええとね、プロデュースしたいかどうかで言えば、したいわ」
春香の元気な肯定と、雪歩の控え目ながらきっぱりとした物言いに呆けるようになってしまった律子だったが、気を取り直したように話題を引き戻す。
「さっき春香にも言ってたんだけど、私はアイドルとしてはニッチな売り方から入って盛り上げていった形だけど、あなたたちはもっと
地道に積み上げてきてるから。そういう正統派をしっかり育て上げて大ブレイクさせるのは、そりゃあやってみたい」
そこで律子は小さく肩をすくめた。
「ただ、これも言ったんだけど、そういう正統派なだけに、私みたいな新人に任せるかは……わからないわね」
「そうですか……」
「むむー」
残念そうな顔が二つ。
しゅんとした彼女たちを、律子は苦笑して見ていたが、一転、ずいと身を乗り出した。
「誰を担当するにせよ、頑張っていきましょ。私が抜けた分を奪い取ってみるくらいの気合いでいてもらわなきゃ。ね?」
「はい!」
揃って返事をする二人に大きく頷いた後で、律子は収録のほうに意識を戻す。そこでは、やよいがぴょんぴょんと嬉しげに跳ね回っていた。
「あ! ちょっと! やよいったら決勝まで残ったみたいよ。すごいわね」
「わ、ほんとだ!」
カメラに向かってアピールしたあとで、三人にわずかな間、視線を向けるやよい。その満面の笑みに、律子たちも同じように笑顔を返した。
「やよいって、ご当地問題詳しかったんだねぇ……。意外すぎるよ」
「私たち、ロケとかでほうぼう行くでしょ? そこで家族にお土産選んだりしているうちに……って言ってたよ」
「へー」
そんなことを話し合っている二人の横で、律子はスタッフと続く決勝戦の収録の打ち合わせにとりかかっていた。
「ふぅ……」
髪を留めていたゴムを外すと、銀の髪がばさりと背を覆った。
貴音はレッスンスタジオの一角に座り込み、タオルで汗を拭う。
「大丈夫?」
その声に顔を上げれば、スポーツドリンクを差し出す律子の姿がある。彼女もまたレッスンウェアであったが、貴音のように珠の汗を浮かべてはいない。
今日の律子は貴音、真、響というトリオのトレーナー役であった。
「ええ、少し休めば動けるようになります」
「ん」
スポーツドリンクを貴音に手渡し、自身も水分補給にドリンクを口に含みながら、律子は立ったまま壁にもたれかかり、逆の端でなにか談義をしている
真と響を眺めやる。
二人は激しいレッスンの合間だというのに振り付けの確認か、あるいはその改良か、議論をしながら、かろやかにステップを踏んでいる。
その底抜けの体力に、律子は複雑な表情になった。
「あの二人相手だと、私なんかに教えることないんじゃないかしら」
「そうでもありませんでしょう。いかにダンスが得意な二人とはいえ……いえ、だからこそ己の動きを過信して、細部が疎かになったり、逆に全体を
見損なったりする可能性はあります。律子の目ならば、きっと、それを見つけて指摘できるはず」
「まあ……たしかに、二人ともむきになりやすい性質だしね。ついでに調子にも乗りやすい」
「はい。しかし、あの二人のある種向こう見ずなほどの明るさに、わたくしはいつも救われております」
「それはあるわね」
二人は軽やかに笑う。きゃらきゃらという笑い声に真たちは不審げに彼女たちを見てきたが、律子がなんでもないというように首を振ると、再び
ダンスのチェックに戻っていった。
「……貴音は、私にプロデュースされるとしたら、どう?」
ひとまず汗を拭き終え、ほうとため息とも知れぬ息を吐く貴音に、律子はそんなことを訊ねる。
「どう、とは?」
「いや、嫌じゃないかなー、とか……」
「ふふ」
「な、なによ」
実におかしそうに笑う声に、律子はなんだか狼狽えてしまう。
「765プロで律子の指導を受けることを嫌がる者などおりませんよ」
「そう? そんなことないでしょ」
「あります」
「むー」
真っ直ぐに言われて、顔を朱に染める律子。
トップアイドルまで経験したはずの女性は、褒められるのが苦手であった。
「ただ……」
「ただ?」
「わたくし個人としましては、我々を律子が担当するもよし、せざるもよし、と考えています」
「ふうん?」
律子のよくわかっていないというような横顔をちらりと見上げ、貴音はゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「先程も申し上げました通り、律子の指導は大歓迎いたします。わたくしたち……黒井殿の下にあったわたくしたちを見事に打ち負かしたその実力を、
共に高みを目指すためにふるってくれるというならば、それはとても喜ばしく、ありがたいことです」
かつて961プロにおいて、プロジェクトフェアリーとして美希と共に765プロの前に立ちはだかった響と貴音。
その三人が律子たちに敗れ、結果として765プロに移籍することとなったのは、まさに数奇な巡り合わせという他無い。
美希に関しては出戻りであるにしても。
「しかし、一方で、わたくしたちを一敗地に塗れさせた律子が率いるアイドルと競り合い、勝利することで、わたくしたちはさらに成長できるのでは
ないか、とも思います」
貴音の言葉は凛と響く。その目指すところを語るときはことさらであった。
律子は言葉を挟むことなく、耳を傾けた。
「わたくしたちは、同じ事務所に所属するということ以上に、様々な経緯を経、様々な事柄を乗り越えて、強い絆を持つ同志とも言える存在になっている
と感じています。切磋琢磨し、共に研鑽しあう、そんな相手です」
そこで、貴音は表情を緩め、笑みの形を作る。
「律子の立場がどのようになろうと、きっと、すばらしい経験を積めると、そう思っております」
「そっか」
律子の見つめる前で、真と響のダンスはチェックだとか新しい振りを試すとかいう段階をとっくに過ぎ、即興のダンスバトルの域に入りつつある。
まるで休憩になっていないため、あとで叱ってやろうと彼女は心に留める。
「でも!」
律子はそこでようやく貴音のほうを向き、彼女に挑戦的な視線を投げかけた。
「もしライバルになっても、そうそう簡単に勝たせたりしないから。覚悟してなさいよ」
「望むところです」
律子の視線に、貴音はそう言って不敵に微笑むのだった。
そう、実に嬉しそうに。
「ご武運を……!」
「ふーん。なんか、たいへんそーだねー」
切なさをほんのわずかな声の震えに込めた台詞に、それとは対照的な、まるで無感動な言葉が被さる。
最初の台詞を発した着物姿の女性がきっと二人目を睨みつけ、しかし、睨まれたはずのセーラー服の少女はそれにまるで頓着しない。
そんな二人のやりとりを離れたところで見ていた律子は、ぶつぶつと呟いていた。
「あずささんはさすがだけど、あの娘は素なのか演技かよくわからないわね……。いえ、それが……」
戦国時代に女子高生がタイムスリップ、という今時かえって珍しい直球のタイムスリップもののドラマ。
その撮影であるのだから、女子高生役の美希が気の抜けたような態度をとるのは、正しい。
正しいはずなのだが、無性にその態度を叱ってやりたくなる律子であった。
「はい、休憩はいりまーす」
シーンが終わり、セットの手直しということで、しばしの休憩となった。律子は、先程の二人に用意された椅子のところまで近づいていく。
「お疲れ様です」
着物が着崩れたりしないよう、衣装スタッフがチェックを終えた所で、彼女は声をかける。
「あ、律子さーん」
「あれ、律子なの」
いまは鬘で黝い髪を隠した女性がさきほどまでの鬼気迫る演技とはまるでかけ離れた、ぽわんとした笑顔で応じ、金髪の少女が驚いたように律子を見る。
「あずささん、美希。帰りは私が送ることになりましたので」
「あら、そうなんですかー」
「ふーん」
撮影スタジオ入りする時についていたマネージャーと入れ替わりになったことを告げる律子に、二人は納得の表情を見せる。
その後で、くるりと美希のほうをむく律子。
「ところで、美希」
「なに?」
「律子さん、でしょ」
「……律子、さん。そのことについてちょっといい?」
「なによ」
ある意味でおなじみのやりとりに、妙に真剣な表情で応じる美希。そんな彼女の様子に、律子は首を傾げた。
「えっとね。たしか、もう765プロ辞めたんだよね?」
「え? ああ、うん。765プロ所属ではないわ」
「じゃあ、もう外部の人だよね」
「うん。それが?」
「だったら、人の呼び方に対して文句言われる筋合いないと思うな!」
「……ふむ」
しつこいくらい確認し、一拍ためてから発せられた鋭い言葉に、律子の反応は遅れた。表情が強張り、ようやく呟けたのは、一言だけ。
それを見て、美希はさらに言葉を連ねる。
「だいたい、律子は、小鳥やあずさへの呼び捨ては文句言わないでしょ? それって、あれだよね。ミキが仕事場で、年上の人に礼儀正しくできるか
どうか心配だから、お節介焼いてるんでしょ」
「あんた、それがわかってるんだったら……」
「そう、ミキはわかってるの。ちゃんとスタッフの人にはディレクターさんとか、ADさんとか言ってるの。だから、問題ないはずなの!」
「ま、まあ、そこのおじさんとか言ってた昔よりはましになってるって聞いてるけど、でもね、美希……」
「と・も・か・く! いちいち呼び方ぐらいで怒られるのはもう嫌なの! 出てっちゃったくせに!」
がたんっ、と椅子を鳴らして立ち上がる美希。律子にろくに言葉を挟ませないまま、美希はだっと走り出した。
「あ、ちょ、ちょっと、どこ行くの、美希!」
「お化粧、直してくるの!」
ぽかんと口を開けてその背を見送る律子。
「はあ〜」
彼女は美希の姿が廊下に消えたところで、ようやく大きなため息を吐いた。
「り、律子さん」
「どうしたらいいんですかね、あれ」
「あの、別に美希ちゃんも悪気あってとかじゃ……」
優しい調子で律子をなだめようとするあずさに、彼女はうんうんと頷いてみせる。
「ええ、わかってます、わかってますとも。きっと、私をやりこめる機会を狙ってたんでしょうし……。でも、私が外部の人間だって言うなら、
かえってさんづけしないといけないってことになるんですけど、そのあたり、気づいてないんでしょうかね?」
「た、たぶん」
「うーん……」
指で額を押さえ、何ごとか考え始める律子。その様子に不穏なものでも感じたか、あずさは努めて優しい声をかけた。
「律子さん」
「はい?」
「律子さんがアイドルを引退するって聞いて、みんな悲しみましたけど、その中でも、美希ちゃんは飛び抜けて嫌がった子の一人です。だから……
今日のも、その、拗ねてるっていうか、なんていうか……」
律子はその言葉に目を剥く。
「あれで慕ってるっていうんですか? それはどうなんですかねー」
たしかにアイドルを辞めると皆に告げた時、美希はショックを受けたような顔をしていたし、その後もしばらくは不機嫌続きだったが、本当に
あずさが言う程のことだろうか、と考える律子。
「まあ、なんとかしてみますか」
疲れたように呟き、律子たちは美希が戻ってくるのを待つのだった。
「あ、戻られましたか、星井さん」
その声を聞いた途端、ぞわり、と美希の膚が一瞬にして粟立った。
声もなく立ちすくむ美希。
「星井さん、どうかなさいましたか」
「え……あ、あの、律子……だよね」
ひりつく喉から声をようやく押し出して、美希は確認する。
目の前の、見知ったはずの、しかし、けして自分に向けられるべきではない営業スマイルを浮かべている人物の名を。
「はい。秋月律子です。いやですね、いくら社外の人間になったからって、顔も名前も忘れたみたいな意地悪しないで下さいよ」
「えぁ? う……?……え?」
「先程星井さんの言われたことも、尤もだと思います。ですから、呼び方につきましては、私が注意するのではなく、チーフプロデューサーに
報告するに留めることにしました。チーフから指導があるかもしれませんが、それはそちらの内部事情ですから、私は関わることが出来ませんね。
今日は、とりあえず呼び捨てで結構ですよ」
「あ……う、うん」
滔々とまくし立てられ、美希は頷くしかない。
彼女はごくりと唾を飲んで、思い切って訊ねた。
「で、でも、なんで、ミキへの話し方が……変、なの?」
「星井さんが社外の人間と認識なさっておいでなら、私のほうでも社外の人間として対するべきだと考えまして、その場合、やはり、なれなれしく
名前を呼び捨てにするのは失礼にあたりますから、星井さん、と呼ばせていただきます。ご了承下さい」
ぺこり、と頭を下げる律子。美希はその頭をまるでそこに蛇でもいるかのような目で見ていた。
「あ、あの、律子さん」
「なんですか、あずささん。あ、あずささんはこれまで通りでいいんですよね」
「え、ええ。それはもちろん。そうじゃなくてですね……」
ちらり、と、しかし、少々大げさに、あずさは美希のほうを見やる。それは、律子の視線を誘導するためのものであったが、彼女はあずさの
顔をじっと見つめたまま、眼鏡の奥の瞳を動かさない。
一方で、美希のほうはぷるぷると小刻みに震え始めていた。
「なんです?」
「あの……えっと……」
あずさの視線は、震える美希と、それに気づいていない律子の間を何度も往復する。しかし、律子は彼女から視線を外そうとしない。
「あ、ちょっと待ってて下さい、あずささん。星井さんへの連絡を終えてからでいいですか」
おそらくは、それが最後の一押しであった。
あずさに対して、余所余所しく美希の呼び名を告げた瞬間が。
「あのですね、星井さん。次のシーンなんですけど、監督が言うには星井さんが……って、ちょっと! どうしたの、美希!」
「律子が……律子が……」
律子が監督から伝えられた連絡事項を読み上げようと向きを変えたときには、既にぽろぽろと大粒の涙が美希の頬を滑り落ちている。
そして、異様な気配に彼女が顔をあげた時、くしゃりとその顔が歪んだ。
「うわぁあああん!」
結局、赤ん坊のように泣き続ける美希をなだめるには、三日間の手作りおにぎり弁当を約束せざるを得なかった律子であった。
「ふふーん」
765プロ第一事業部、と書かれた案内板に、『オフィス秋月』と書かれたプレートを張り付けようとしながら、彼女は鼻唄を漏らさずにはいられない。
「表札出すくらいが、そんなに大事(おおごと)かしら?」
しばらく前に仕事から戻って、ロビーを通りかかり、律子の背後に陣取った少女が、かわいらしく小首を傾げて訊ねる。
その手に抱えたうさぎとおそろいの真っ白なワンピース姿の伊織をちらりと見て、律子はにこにこと機嫌良く答えた
「大事(だいじ)よー。なにしろ、これがないと単なる居候じゃない」
「単なる居候でしょ。あんたの会社の名前で来る郵便物とか、実際あるわけ?」
「ぐ……。こ、これからよ!」
「まあ、そりゃ、これからでしょうけど」
そこで口を閉じて、じっと作業を見守る伊織。特に面白いわけでもないだろうが、彼女はなぜか事務所に上がっていこうともせず、その場に
とどまっていた。
「出来た! これでどうかしら?」
「曲がってる。左が上がりすぎ」
「え? あ、ほんとだ……」
伊織に指摘され、律子は再び作業に戻る。
「どうせなら、フロア半分くらいもらえば良かったのに」
「そこまで甘えられるわけないでしょ」
「そう? だって、このビルに移ってこられたのは、律子と千早の手柄でしょ」
「伊織たちの稼ぎもあるわよ」
「そうかしら。厳しく見積もっても、あんたがこのビルの四分の一くらいは稼いでると思うけど」
そこで、いったん律子は黙り、プレートを押さえたまま、首だけ振り向いて伊織に告げた。
「表面上は私の名前だとしても、実際にはそれを支えてくれたチーフやスタッフのお陰でしょ。そんな大きな顔出来ないわよ」
「ふうん」
伊織は納得したのかしないのか、生返事で返す。
再び律子はプレート取り付けに戻り、伊織に示してみせる。
「今度は?」
「いいんじゃない?」
「そう? なんか違うのよね……」
腕を組み、体を離し、プレートの位置を何度も確認する律子。
結局、なにか他人にはわからないようなことが容認できなかったらしく、彼女は再度それを取り外し始めた。
「ねえ、律子」
「ん?」
「伊織ちゃんはスーパーアイドルにふさわしい待遇を求めるわよ?」
しばし考え、律子は、それにうんと肯定の意を示した。
「そうね。伊織はそれでいいと思うわ」
「いいの? 意外ね」
「なによ。私がいつも怒ってるみたいな言い方。伊織が自制できるのなんてよく知ってるわよ。そうでなきゃ、水瀬のお嬢様が、あんな貧乏事務所
に我慢出来るはずないでしょうから」
「なによ。家が裕福なのは私のせいじゃないわ」
「そうね。それがわかってるからこそ、でしょうね。まあ、高級なものを知ってるってことは、伊織にとってプラスになってると思うけどね」
「ふんっ」
鼻を鳴らす伊織に、律子は妙に優しい声を出す。
「事務所のほうだって、頑張ってくれるアイドルにはそれ相応のものを提供したいって思ってるのよ。だから、伊織」
「わかってるわよ。本当のスーパーアイドルになれって言いたいんでしょ。あんたを越えるくらいの」
「いい答えだわ。花丸あげちゃう」
「ばかにしてるの?」
「そんなわけないでしょ……っと、出来た!」
律子は自信ありげに案内板を示す。伊織はうさんくさげな表情を浮かべて、それを見つめる。
「さっきと変わってるように見えないんだけど?」
「違うわよ! ほら、さっきより、右肩が二度上がってるの! これは、見る人が……」
「あー、はいはい」
律子が説明を始めようとしたときには、もはや伊織はさっさと歩き始めている。
ちょっと、伊織ー、という声が追いかけてくる中、彼女はエレベーターに滑り込んだ。
「まったく、あれがトップアイドルだったって言うんだから。わからないわよねえ……。ねえ、うさちゃん」
そんな軽口を叩きつつ、彼女の瞳は燃えている。
彼方を見つめて。
「うーん……。いや、違うか、うーん……」
それまで何ごとか書き込んでいた紙をくしゃくしゃと丸め、そのままくずかごに放り込む。そんな律子の様子を見ていた女性が、柔らかな声をかけた。
「律子さん」
「あ、小鳥さん」
律子が顔をあげた先に居るのは音無小鳥。765プロの事務員……いや、いまでは事務部門の総責任者だ。
そうして彼女の姿を認めた途端、律子は違和感を覚えた。
なぜ、フロアの灯りがほとんど消えているのだろう。
「守衛さんに連絡して、0時を回るまでは開けといてもらってありますから、その前に切り上げて帰るようにして下さいね」
「え? もうそんな時間ですか? うわ……」
違和感の正体を小鳥が明かし、ようやく律子は時計を見上げた。
もう十一時近い。
「はい。終電逃すと、ことですよ?」
「あ、はい。わかりました。あと一時間……」
実際には一時間もない。企画書自体をまとめるのは家でやるにしても、アイデアはまとめておかなければいけないというのに。
「それと、チーフから伝言です」
「チーフから?」
興味深げに見つめてくる律子にもったいぶって含み笑いを漏らしてから、小鳥は囁くように言った。
「失敗から学べ、ですって」
「失敗から、ですか……」
「はい」
「失敗から……? 失敗の分析は確かに重要だけど……」
ぶつぶつと呟きながら思考に戻っていきそうな律子を、小鳥は呼び止める。
「律子さん、律子さん」
「はい?」
「過去のもの含めて、企画書は全部保管されてるんですよ。それこそ律子さん自身についてのプロデュース案もありますし、
潰れちゃった企画ももちろんあります」
「あ……」
小鳥が指さす先、そこには過去の企画書のファイルが山積みにされた台車があった。おそらくは資料室から直に持ってきたのだろう。
「見てみます?」
「見ます、見ます!」
律子は飛びつくようにして台車に駆け寄り、そして、それを自分のデスクまで張り切って運んでいった。
そして、それらを手にとり、ぱらぱらとめくったところで、小鳥に声をかける。
「小鳥さん。泊まりって、出来ます?」
律子もアイドル時代には仮眠室に泊まったことがある。
その経験からビル内に居ていいはずだとはわかっているのだが、それらの手続きはこれまでプロデューサーがやってきたことなので、
手順がわからなかった。
「え?……ああ、連絡すれば。でも、律子さん……」
「お願い、できませんか」
「わかりました」
律子が頭を下げるのに、止めようとした言葉をぐっと呑み込む小鳥。
「頑張って下さいね……」
小さく呟いて、小鳥は足音を立てないように注意しながら、そっとその場を立ち去った。
後には、暗いフロアの中、二つの蛍光灯だけが照らすわずかな広さの光の空間だけが残る。
そこでは、一人の少女が夢中になって資料を貪り読んでいるのだった。
本日の投下は以上となります。
前書き
千早「今晩は、如月千早です。私はアメリカにいるので、このお話に出て来る機会はあまりありそうにありません。
そうそう、今回、竜宮小町という名称が出てきますが、これは名称だけを拝借した、設定等はまるで違うものなんだそうです。
全く、面倒なことをしますよね。
ともあれ、第三話、はじまりです」
第三話『READY!!』
「律子さん」
「はいっ」
小鳥に呼ばれ、律子はぎくしゃくとした足取りで社長室へ向かう。今日はついにプロデュース担当が決まる日なのだ。
「し、失礼します」
社長室では、高木社長とチーフプロデューサーが彼女を迎え入れる。
明らかに緊張しすぎの律子の様子に、二人とも苦笑いの表情であった。
「律子君。そう緊張するものではないよ。我々は君を責めるために呼んだわけではないのだから」
「あ……はい」
社長の温かな声に、がちがちの律子の体から、わずかに力が抜ける。彼女は示されるままに椅子に座り、二人の言葉を待った。
「じゃあ、律子の企画の概要を当人の口から説明してもらおうかな」
「はいっ!」
チーフの言葉に勢い込んで立ち上がる律子。
なにも立って話すことはないのだが、それを指摘すればさらに取り乱すことは必定で、チーフたちは目配せするだけでなにも口出ししなかった。
一方、律子は書類をばさばさ言わせながら、早口で話し始める。
「わ、私のプロデュース案は、水瀬伊織、星井美希、三浦あずさによる新ユニット『竜宮小町』の結成です!」
話し始めてみれば自信満々に言い切る律子。もしかしたら、この部分は練習してきたのかもしれないな、
とチーフは考えたりする。
「竜宮小町というのはたしか……」
「はい。俺が企画した、亜美、真美、再デビュー計画……の最初のやつですね。春香とあずささん、それに双子で四人組になる予定でした」
「そうそう。美希君の移籍騒動で実現はしなかったが……。ああ、いや、続けてくれたまえ」
社長に促されて、律子は大きく頷く。
「はい。仰る通り、竜宮小町は元々はチーフの企画です。今回は、形は違うものの、その復活ということになります。
あつかましい話ですが、衣装デザインなど、すでにあるものは利用させてもらおうと考えています。もちろん、各人に合わせてアレンジは加えますが」
「うん、まあ、それはいいんだが……」
チーフは資料に落としていた視線を上げ、律子をじっと見つめる。
「現在ソロで活動している三人を組ませるメリットについて、どう考えてるのかな」
「私が彼女たちをユニットにと考えたのは——当然のことながら——彼女たちがたまたまソロでいたから、というような理由ではありません。
三人を組ませることで、それぞれにいい影響がでると踏んでのことです。それについて、説明しますと」
律子の台詞は随分となめらかなものになっている。それは、彼女の緊張が和らぎつつあるのに加えて、彼女が得意な分野——すなわち分析へ
と話が移行しているからだろう。
「まず、あずささん。彼女の活動は、現状、演技分野に偏っています。ドラマ、映画出演が非常に多く、それ以外の仕事はほとんどありません。
世間は彼女がアイドルであることを忘れかけているかもしれません」
「ふむ」
「三浦君の演技力は大したものだからね」
「もちろん、アイドルから女優に転身することが悪いわけじゃありません。でも、あずささん本人はまだまだアイドル活動を続けたいと考えていると
私は見ています。これは当人にもそれとなく確認をとっているんですけど……」
それでですね、と律子は続ける。唇が乾いたのだろう。ぺろりと舌を出して湿らせる仕草が可愛らしい。
「彼女のアイドルとしての活動を、このユニットに担わせられるのではないかと考えています。演技のお仕事は、これまで通りソロとして。
ユニットではアイドルとして活躍してもらおうと」
「なかなかスケジューリングが大変そうだが、そこは自信があると考えて良いのかな」
「それは……あずささんに負担にならない程度に、はい」
社長の問いかけに頷いた後で、律子は話を進める。
「次に美希ですが、彼女はすばらしい才能の持ち主です。黒井社長も評価するくらいに。身体能力は高く、容姿に優れ、歌もこなせます。でも……」
律子が美希のことを評するのを聞きながら、チーフは思う。
本人がここで聞いていたら、面白かったろうに、と。
「正直、むらっ気がありすぎます。その原因は、ハングリー精神にも乏しいからでしょう。これくらいでいいかなと思ってしまう場面が時折あって、
彼女の才能が開花する足を引っ張ってます。それはあまりにもったいないことです」
「おおむね同意だが、ユニットを組んで解決できることか? それに、実際の所、美希も色々経験して、まじめになってきてるんだぞ」
「昔がひどすぎたんです。不良が更生したら褒めそやすみたいなことはやめましょう。
それに、美希にとっては、伊織と組むことで刺激が必ず得られるはずです」
チーフの懸念を一蹴して、律子は最後の伊織についての分析に入る。
「彼女はいまでも高いレベルにありますが、それに満足せず、なお非常に強い上昇志向を持っています。これはとてもすばらしい資質です。
私は彼女を竜宮のリーダーに据え、彼女自身にユニットをまとめる経験を積ませてステップアップをはかると共に、他の二人、特に美希を
発憤させてくれることを期待しています」
「マイペース気味の二人を伊織にひっぱらせるか。ソロでやっていくより、相乗効果を得られると、律子は判断したわけだな」
「はい。その通りです。私は伊織なら、リーダーを立派に務めてくれると信じています」
しばし、沈黙が訪れる。けして否定的な空気ではないが、それでも律子の掌中は汗まみれになっていた。
「プロデュース統括としての意見はどうかね?」
「悪くはありません。あずささんが今後について不安を持っていたのは事実ですし、伊織にとっても良い経験になるのは律子の言うとおりです。
美希は……まあ、律子なら手綱を握れるでしょう」
チーフは企画書をとんとんと指で叩きながら続ける。
「さらに、俺が発注したデザインやらなにやらを流用できるので、準備期間もコストも削れるのは利点ですね。事務所にとっても、律子にとっても、
これはいいことでしょう。いいところに着目したと思います」
ただし、と言って彼は身を乗り出した。
「一つ、致命的な弱点があるな、律子」
「な、なにがでしょう?」
途端に律子の顔から血の気が失せる。何が問題だったのかと高速で思考を巡らせる彼女に対して、チーフは一つ咳払いをしてから切り出した。
「竜宮は春香や亜美たちの姓から思いついたものだ。コンセプトは海。あずささん、伊織に関してはともかく、美希の名前にはそれを思わせるものはないぞ」
「う……あ、そ、そうだ。井! 井戸だって水に関係ありますよ!」
「星井の井か。しかし、井戸は真水だろ?」
「浦島太郎だって、陸から竜宮に行きましたよ!」
「しかしなあ……。真面目に言うけど、わかりやすい記号とか、べたな組み合わせってのは、アイドルにとっては売りの一つになるもんだぞ。
ファンが楽しんでくれるものに、あまり面倒なこじつけはちょっとな」
「そうは仰いますが……」
二人が言い合うのを、社長はにこにこと見守っている。
彼には、チーフが、律子の仕事を出来るだけ円滑に進むように気を遣っていることがよくわかった。自分の企画の面影を無理に留めなくてもいいと考えて。
一方で律子の側はチーフの作った企画を世に出すことも大事だと考えている。そのこともよくわかる。
「まあまあ」
二人の口論が、不毛な言い争いに転じそうになったところで、彼は声をかける。
「ネーミングやコンセプトについては、当人たちの意見も汲んで、改めて考えればいいじゃないか。それに、私は井の中の蛙が大海を知るのも
よいことだと思うよ」
「なにか違うような……」
苦い顔をするチーフに対して、律子はぱっと顔を明るくする。
「それじゃあ……」
「うむ。私としては、トリオ結成について許可しようと思う。ただし、当然ながら本人たちの意向は尊重されるべきだ。まずは律子君、
水瀬君たちを納得させたまえ」
「はい! お任せ下さい!」
「うむ。良い返事だ。三人が同意すれば、後は君に任せよう。細かい調整はチーフやマネージャーと進めるように」
こくこくと頷く律子。チーフと社長は彼女のその様子に満足げに顔を見合わせた。
「ところで、律子君。話は変わるんだがね」
「はい?」
「秋月涼君のことだが」
「涼……ですか?」
876と765の関係性を鑑みて、涼の移籍に関しては、高木社長にも逐一報告を上げている。いまのところ懸念すべき材料はないはずだが、と
律子は内心首を傾げた。
「石川社長から申し出があってね。一度765プロに移籍し、その後に律子君のところに、という形を取って欲しいのだそうだ」
「765プロ経由ですか? 私は別に構いませんけど……。なにか理由があるんですか?」
「うむ。移籍金について、我が765プロから876プロへの貸付金全額を相[ピーーー]ることで解決したいそうだ。正直、この金額は、君が提示していたものよりは
低くなる」
「貸付金……。あちらにとっては借入金を無くす、ということですか」
Aランクアイドルの移籍ともなれば、それなりの金銭が動く。
現金を動かすにはなにかと面倒があるので、書類上の数字を消すことで処理したいという申し出自体は理解出来ることだ。
だが、借入金全額と相殺というのは……。
律子の顔に影が落ちる。一方で、社長のほうは落ち着いていた。
「繰り返すが、君の金銭負担は減ることになるよ」
「765プロとしては……それでよろしいのでしょうか?」
律子の視線が真っ直ぐに高木社長の瞳を射貫く。その真っ直ぐさを、社長は心地好く感じた。
「私は構わないよ」
「……わかりました。では、その方向でお願いします」
きゅっと唇を噛みしめ、律子はそう言って頭を下げるのだった。
「律子の奴、なんであんなに念を押したんですかね? しかも、なんだか焦ってたみたいな」
律子が退室していった後、チーフが首をひねる。彼は律子と社長の間にあった緊張感を感じ取ってはいたが、
その正体についてはまるでわかっていなかった。
「……さすがに駆け出しとはいえ、律子君のほうが経営センスはあるようだ」
「はい?」
チーフはますます混乱する。社長はわずかに苦笑して、説明を始めた。
「会社というものが協力関係にある場合、個別の問題に関しては契約を交わすね?」
「はい」
「しかし、もっと大きく、緩い関係……普段から協力する、というような関係の場合、また別の状況を作る。法的にも強い裏付けがあるのが、
資本提携だね。株の持ち合いというのも、以前は流行ったものだ。そして、そこまでしない場合は、金銭的の貸借関係を結ぶのが通例だ」
「ええと……」
彼の意識に話した事が染みいるのを待ち、社長は続ける。
「つまりは、876が我が765からの借入金を無くすと言うことは、お互いの協力関係を解消しようという意思表示なのだよ」
「な、大変じゃないですか」
「はは。そこまでのことじゃない。別に黒井のように敵対するつもりでもないだろうからね。おそらくは、紐付きではない、独立した体制を作って
……なにかをする予定なのだろう。自由に、ね」
「なにかを……ですか」
そのなにかには当然に関わってくる人物がいる。
二人は同じ名前を脳裏に浮かべ、そして、それを口に出すのを憚った。
日高舞。
『伝説』の名は、未だアイドル界に色濃い影響力を持っていた。
三人の説得は、律子が拍子抜けするほど順調に終わった。
「いい考えですねー」
あずさはあっさりと同意し、
「いいよー。でこちゃんと組むのも面白そうだし」
美希は『ちゃんと考えなさい』と律子が叱りそうになるような軽い調子で応じ、
「……ま、悪くないわね。成果は見込めるでしょ」
一人、しっかりと企画を読み込んだ伊織も律子に同意した。
だが、問題は、そんなところにはなかった。
「そんなことより」
バッグをたぐり寄せた伊織が取り出した週刊誌を机の上に放り出す。
「なに?」
三人を口説き終えて一段落、と肩を叩いていた律子が眼鏡を直しながら、それに注目しようとした。
「なになにー?」
仕事終わりに二人のやりとりを興味深げにうかがっていた少女がとてとてと寄って来る。双子の片割れが戻ってくるのを待っている亜美であった。
「あ、ちょっと、亜美!」
律子が手に取ろうとしていた雑誌をぱっと横から取りあげて、わーい、と嬉しそうにはしゃいでいた顔が急に曇る。
彼女は雑誌の表紙と伊織の顔を見比べ、そして、律子のほうを見て、実に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「どうしたの、亜美」
悪戯を叱られている時にも見せない顔をされて、律子は急に不安が胸にもたげるのを感じる。
だが、伊織は全てをわかっているのだろう。亜美に向けてひらひらと手を振った。
「ちょうどいいわ。あんたが読み上げなさい、亜美」
「う、うん」
そうして、彼女はその表紙に書かれた文を読む。
即ち、
『秋月律子の後継者争い勃発!』
『765プロ内乱!! アイドルたち10人のそれぞれの戦略!』
という煽りを。
短めですが、本日はここまでです。
なかなか更新出来ず申し訳ありません。
しまった、今日saga入れ忘れた……。
>>50
相殺はよくても、相殺するだと「殺す」になってだめなんですなw
麗華「えー、こんばんは。東豪寺麗華です。
しばらく間が空いたけど、日付的には今日、感覚的には明日の夕方には投下できそうだって。
それで、注意なんだけど、話の本筋とは絡まないちょい役のキャラとして、私みたいなコミック出身のキャラとか、
シンデレラガールズのキャラとかが今後ちょこちょこ出て来るんだって。
そういうの嫌いな人は気をつけたほうがいいかもね。
まあ、アイドルの世界なんて、結局はそういういろんな方面の力関係が……
え?
今回は敵役じゃないから、そんな気張って語らなくていい?
ああ、うん。
じゃあ、まあ、今回出て来る予定のキャラの画像を張っておくから」
ttp://imasupd.ddo.jp/~imas/cgi-bin/src/imas102645.png
麗華「左からシンデレラガールズの上条春菜、秋月律子、私……なんだけど。なんで私まで眼鏡なの?
え? 眼鏡どうぞ? 二つもいらないわよ。
ともかく、そんなわけでもうしばらく待ってて下さい、だってさ」
第四話『“HELLO!!”』
「お疲れ様でした〜」
微塵も疲れを感じさせない笑顔で何度もそう挨拶して、秋月涼は深夜のテレビ局を出た。
マネージャーの運転する車が動き始めると、先程までの元気はどこへやら、涼はシートに深く身を沈め、長い息を吐く。
生出演では年齢が若いからって帰されるのに、撮影ではそんなの気にもしない。芸能界っておかしなところだ。
そんなことを考えながら、マネージャーが運転するのをなんとはなしに眺めやる。ダッシュボードに表示された時間は、もう0時を回りそうだった。
「あ、マネージャーさん。ラジオつけてもらえますか」
時間を認識した途端、涼は身を乗り出し、焦り気味に声をかける。
「わかりました」
マネージャーが指定された局へと合わせると、ちょうど、明るい音楽と共に番組が始まるところであった。
『上条春菜の、MEGADOL!!』
「よかった。間に合った」
ぼそり、と呟く涼。その言葉にマネージャーは内心訝しむ。番組のパーソナリティはアイドルではあったが、涼、あるいは876メンバーが彼女と深い
関わりを持った記憶はない。
番組で共演くらいはしていてもおかしくないが、それほどの親交はないはずだが……。
『えー、本来ここでオープニングトークなんですけど、今日はもうアタシ興奮しちゃってだめです。なんとですねー。正真正銘の大物ゲストさんが
来てるんですよー! あ、喋っちゃって下さい。ほら!』
『え、もう出ちゃって良いの? コーナーは後よ?』
『いやー、もう、せっかくブースに来てもらってるんですから、出てもらわないと! いいですよね。……スタッフさんもいいって!』
『も、もう〜』
「あれっ」
マネージャーが仰天して思わずひっくり返った声を上げる。彼の驚きを裏付けるやりとりがラジオでは続いていた。
『えーと、秋月律子です。もう芸能人じゃないんですけど、ゲストにお呼ばれしちゃいました』
『はい、なんと、あのトップアイドル、秋月律子さんですっ!』
『元。もと、ね』
『あ、ごめんなさい。えっと、元アイドルの律子さんです。いまは、なんと芸能プロダクションの代表をしてらっしゃるそうですよー!
すごいですよねー……』
パーソナリティが本当に興奮しているようで、嬉しさがはっきり伝わってくるはしゃぎっぷりであった。
現場のスタッフは盛り上がっているだろうけど、この娘の事務所の人間は、はらはらしてることだろうな、と自身にひきつけて考えるマネージャー。
従姉である律子が出演する番組を涼が聞き逃したくなかったというのは理解出来た彼であったが、しかし、解せないこともある。
「引退してしばらくしてってのはありますけど、引退後すぐってのは珍しいですね」
番組では楽しげな会話が続き、車中ではぽつりぽつりと言葉が交わされる。
「ええ。そうなんですけどね……」
アイドルを引退して裏方に回った人間が表舞台で話すことは、ありえないことではない。
だが、華々しく引退して一ヶ月もたたないうちにやることではないだろう。
『実は最初の仕事として、765プロのアイドルをプロデュースすることになっていて……』
『え! 売れっ子アイドル揃いの765プロに、律子さんがブレインについちゃうんですか!? うわー、アタシなんか太刀打ち出来ないじゃないですかーっ!』
『あはは。まあ、元々みんな頑張ってるから、新人の私なんかの助力はいらないかもしれないんだけどね』
『いやいやー、強力ですよー、律子さんの支えがあったらー』
たしかに、あの秋月律子がプロデューサーとなれば、それは心強い。トップアイドルになるまでに得た経験と人脈は、確実に力になるからだ。
当人が裏方としては未熟でも問題はない。話題性だけで人は集まってくる。
その後、そうして集まってきた仕事をさばいていき、さらに膨らませていけるかどうかは、彼女の実力にかかってくるわけだが、実際に仕事を発注
する側は、後ろにいる765プロも含めて勘案する。たとえ多少のしくじりはあってもフォローはされるだろうと期待して。
そして、秋月律子という人間は、きっと無能などという言葉からはほど遠いだろう、とマネージャーはバックミラーをちらりと見ながら考える。
Aランクアイドルでありながら、驕ることなく懸命に努力し続ける秋月涼の姿勢は、きっと、元トップアイドルの従姉にも共通するものであるだろうから。
『実は、新しいユニットが出来るかもしれないんですよ。まだまだ構想段階なんですけどね』
『ユニットですか? だ、誰と誰が組むんですか?』
『それはまだわかりませんよー? ふふっ』
話題性をさらに高めるためのラジオ出演。反響はどれほどのものだろうか?
「これ、誰に向けての宣伝なんでしょうね?」
ふと、後部座席からそんな疑問がなげかけられる。マネージャーはハンドル操作に気を取られていて、少し反応が遅れた。
「え?」
「いえ。律子姉ちゃんがこのラジオに出てるのは、これからプロデュースしていくアイドルの宣伝。それは間違いないと思うんですけど」
「ええ、そうでしょう」
「でも、誰宛てなのかな、って……。構想段階とか言ってますけど、ユニットはもう出来てるはずですよね。内側では」
「ああ、それは……」
プロジェクトは既に動いている。つまり、秋月律子が頼りにしている業界人にはすでに話が行っているはずだ。
このラジオをネタに噂するような人間は、業界にいるにしては、少々情報が遅いということになる。
もちろん、そう考えている彼のような末端の人間——一マネージャーなどそんなものだ——とは違うレベルでの基準になるが。
「でも、まだメンバーも発表できない、っていうことですから、765のファン向けってわけでもないし……」
「情報を小出しにして、期待……というよりは飢餓感で煽るのは一つの手法ですよ」
それに、と彼は付け加えた。
「秋月律子のファンに向けてなんじゃないですかね。これまで応援してきてくれた人たちに、こうして無事やってますよと伝えて。出来れば、
プロデュースしていくユニットにも目をむけてくれたら……というような」
バックミラーの中の涼は、その言葉になんとも言えない笑みを見せた。少し驚いたような顔をしている、とマネージャーは思った。
「律子姉ちゃんがですか? それは……。でも」
躊躇うようにした後で、涼は続ける。
「プロデュース活動も応援して欲しいって言う程、姉ちゃんが図々しくなれてるなら、それは、なんというか……」
彼は再び言葉を切り、腕を組んでなにか表現を探しているようだった。ようやく思いついたのか、ぽつりと呟く。
「一皮むけた、のかもしれませんね」
マネージャーは、秋月律子という人物をよく知る人間だからこそ言えるその言葉に応じることは出来なかった。
天蓋付きのベッドに身を横たえながら、伊織は涼と同じラジオを聞いていた。
携帯音楽プレイヤーの付属機能でしかないので音質は良いわけではないが、聞き取るには十分だ。
「仕切りたがりの癖が出てるわね」
番組が中盤に進むにつれ、会話がパーソナリティではなく、律子主導になりつつあるのを、伊織はそう評した。
彼女が考える律子の悪い癖でもあり、頼れる部分でもある。
とはいえ、深夜ラジオなら、ゲストの暴走も許されるだろう。
「ま、これなら問題ないでしょう」
耳からイヤホンを外し、寝返りを打つ伊織。番組自体は録音をセットしているので、明日にでもチェックするつもりであった。
目を瞑り、彼女は律子がラジオ出演するに至った経緯を思い返す。十日ほど前、彼女が伊織に新ユニット結成を提案した時の事を。
「なに……これ……」
気まずそうな顔の亜美から雑誌をひったくるようにして取りあげ、765プロの特集とも言える記事を読み進めていく律子。
だが、その青ざめていた顔は、段々と恐怖だけではない複雑な感情に覆われていった。
「私の後継者云々……とか言ってる割に、後半は単なるアイドルたちの紹介になってない、これ?」
「ええ。たぶん、それ、後半は普通にうちの事務所について調べて書いた記事だと思うわ。それじゃインパクトがないからって没にされたか、
されかけたかしたんじゃないかしら」
不思議そうに問いかける律子に、彼女は、おそらくは律子たちにその雑誌を提示する前から考えていたのだろう予想を展開する。
「私が引退したのを受けて、前半の扇情的な部分をくっつけて、書き上げたってわけ? ありそうな話ねえ……」
「でしょ」
「えっと、あの……大丈夫なの、律ちゃん、いおりん」
内乱などという煽り文句を読まされるだけ読まされて立ちすくんでいた亜美が、おずおずと声をかける。
「ああ、ごめん。置いてけぼりにしちゃったわね」
涙さえ浮かべそうな不安げな亜美の表情に、律子は彼女の幼さを改めて認識する。悪戯盛りの元気っ娘ではあるが、子供だからこその繊細さも
持ち合わせているのだと。
「ええとね、なんだかすごい煽り文句だけど、中身はそこまでひどいことは書かれていないわ。私が引退して、その分ファンを獲得するべくみんな
動いてますよっていう程度……。うん、まあ、ちょっと過激に書いてるけど」
「そうね。『氷の歌姫』と『魔術師』なき765プロに残されたのは小粒なアイドルたちばかり……ってくらいよね」
「ぶー、なにそれー!」
亜美が抗議に手をぶんぶん振るのに、律子は苦笑し、伊織はすました表情を崩さなかった。
「まあ、その程度言われるのは、気にもしてられないわ。そうでしょ?」
「そうだけどさー……」
「それよりも」
ずいと身を乗り出して伊織は言う。その腕に抱えられた兎がひょこひょこと足を揺らしていた。
「いかに煽りとはいえ、律子の後継者だとかいう発想が出て来る、そのことのほうが重大だと私は思うの」
「……ふむ」
「どゆこと?」
小首を傾げる亜美をちらっと見やりつつも、顔は律子に向けたまま、伊織は話し続ける。
「それだけ律子の影響は大きいと、世間は認識してるって事。こういう煽り文句ってのはね、世間を驚かせると同時に、どこか納得できるものでなければ
いけないの。そうでないと効果がなくなっちゃうもの。突拍子もないことばかり言って、また莫迦なこと言ってるよ、で終わっちゃったら意味ないでしょ?」
「ふぬぬ?」
「わかりやすく言うと、律子のファンをどうするかってのは、私たち765の人間にとって、今後の戦略として重要になるってこと。実際に、それだけの数が
いたのよ。もちろん、765に限らず、他のアイドルにも影響はあるわけだけどね。
それこそ、日高舞がさらにファンを増やす可能性だってあるわけだし」
「なんですとっ。ちょー大変じゃん!」
亜美は焦りに目を剥いているが、実際には日高舞が急激にファン数を増やすと言うことはまずありえない。
秋月律子にせよ日高舞にせよ、既に有名すぎるほど有名なアイドルだ。乗り換えるような人間より、既に両者のファンであるか、あるいはどちらかには
まるで興味ないという人間のほうがよほど多いだろう。
律子はそんなことを言い聞かせるように説明する。
「……伊織の言うこともわかるけど、私のファン、っていう塊があるわけじゃないのよ。私のファンのうちの何割かは765のファンでもあるでしょうし、
あるいは、同時に876のアイドルが好きかも知れない。舞さんのCDも並行して買ってるって層だっている。
だから、そもそもそれをどうこうしようってのは……」
「たしかにね。いろんな奴がいるのはわかってるわ。それに、あんた自身の熱心なファンもいる。秋月律子以外のアイドルには興味ない、っていう奴もね」
大仰に肩をすくめて、伊織は続ける。
「他のアイドルがなにか直接的なやり方でそういう奴らをファンにしようとしても、それは難しいでしょうね。私の……じゃない、私たちのファンに
なってもらうには、私たち自身の魅力をさらに磨き上げる必要がある。うん、それはわかってるわ」
ユニットを組むことを意識してだろう。わざわざ言い直した伊織の態度に、律子は眉をはね上げるが、その言葉を遮るようなことはしなかった。
「でも、この世に一人だけ、彼らを一群として扱える人間が居る」
伊織の鋭い視線を受け、律子は深く腰掛けなおし、そして、ふうと息を吐いた。
「私に、かつてのファンを誘導しろって? 辞めたばっかりだっていうのに?」
「やれとは言えないわね。正直、私も……その、ちょっとずるいような気もするし」
もごもごと俯いて呟く伊織。だが、彼女は一息吸って、己の言葉に力を込めた。
「それでも、あんたが私たちをプロデュースする以上、プロデュースするほうにも、それなりの努力を要求するのは当然でしょ?
別にあんたのファンを狙ってなにか直に働きかけろっていうんじゃなくて、その、あくまで一例で、他にも……」
「わかってるわ、伊織」
再び失速しかける伊織の言葉が途切れる前に、律子は声をかけた。
伊織が問いかけてきていることの意味が、わかったから。
実際の行動そのものよりも、プロデューサーとしての覚悟を、彼女は問われているのだ。
「とはいえ、私がなにか働きかけをしたとしても、それは単なるきっかけにすぎない。興味を持ってくれたからって、自分のファンに出来るかは、
あなたたち次第。いえ、違うわね」
眼鏡を押し上げて勢いをつけ、律子は言い放った。
「私たち次第、よ。その覚悟は、ある?」
「当ったり前じゃない」
伊織は至極落ち着いた声で、そう受け止める。
「うー、なんか二人の世界作っちゃってるよー」
そして、結局置いてけぼりにされてしまった亜美が、なんだか入り込めない空間を前に、そう漏らすのであった。
柔らかなピアノの音律が、ほのぐらい店内をたゆたう。
グラスを傾けながら、チーフは何処かで聴いた曲だと思っていた。ただし、曲名までは出てこない。
如月千早と共に渡米した友人ならば、きっとすぐに曲名も作曲者も教えてくれただろう、と彼はふと考えたりする。
「気に入ってくれましたか? このお店」
優雅にカクテルグラスを揺らしながら訊ねるのは、彼をこの店に連れてきてくれた女性だ。
事務所にいる時とはまるで違う顔だな、小鳥さん。
チーフは心の中でそう呟いてみる。
派手な装いというわけでもないが、事務服とも当然違う。女性らしいすらっとした服を身に纏い、カウンターに座る様子は、実に様になっていた。
こんなに艶っぽい顔もするんですね、などと彼の本音を告げたなら、さて、怒るか、はしゃぐか。果たして、どちらだろうか。
「はい、落ち着けますね」
しかし、もちろん、彼は現実には無難な言葉を舌に乗せていた。
「律子さんも誘ったんですけど、忙しいみたいで」
「あいつはまだ酒は飲めませんよ」
「ノンアルコールのカクテルだってありますよ。ね?」
カウンターの向こうで、バーテンダーが穏やかな笑顔を浮かべて頷く。やりとりの距離感から見て、彼女はかなりの馴染みのようであった。
「まあ、それでも来なかったでしょうね。いまが一番楽しい時期でしょうから」
「たのしい、ですか?」
小首を傾げる小鳥にチーフは微笑んで告げる。
「いま、あいつは竜宮のデビューに向けて動き続けてます。もちろん、デビュー自体はまだ先ですけど、様々な事が、徐々に形をとりつつある。
デビュー後の予定も埋まって行ってます。働けば働くほど物事が動いていくんです。そりゃあ、楽しくてしかたないですよ」
「ふふ」
小鳥は小さく笑う。律子が楽しいと語る男の顔もまた実に楽しそうであったから。
「それがプロデュースの醍醐味、ですか?」
「そうかもしれませんね。
売り上げとかライブの成功とか、最終的な結果のほうが、アイドルにとっては実感あるでしょう。でも、俺たちにとって、そういうのは、
嬉しいのは嬉しいんですけど、結果が出て安心って感じのほうが強いものです。事務方だってそうでしょう?」
「……わからなくもありませんね。アイドルの子たちが喜んでるのを見るのは幸せですけど、仕事をやってる上でのやりがいはまた別ですしね」
「ええ。だから、段々と物事がうまくいく間ってのは、わくわくして、なんというか、こうどんどん力が湧いてくる時期なんですよね。アイドルたちに
とっては、手応えのない時期ですけど」
「当人たちは新曲覚えたり、振り付け確認したり、大変な時期ですもんね。伊織ちゃんたちもスケジュールかなりタイトな感じですし」
仕事が終わった後も律子にしぼられてへとへとになっている伊織や美希の姿を思いだし、小鳥は深く笑みを刻む。
「でも、そこを乗り越えてくれれば、最終的な成果はアイドルたちのものですからね」
「ですね」
男女は視線を交わし、なんとなしにグラスをあげて静かに重ねた。ちん、と澄んだ音が響く。
「ま、律子さんも来ないし、今日は思いっきり飲んじゃいましょう」
「はは、いいですね」
どれほど経ったろうか。何杯かグラスを重ね、ほんのりと膚に朱が混じり始めた頃、小鳥がふと呟いた。
「プロデューサーさんは、律子さんについていっちゃうと思ってました」
なにも答えようとしない男に焦れたように、小鳥は続ける。
「なんでついていってあげなかったんですか?」
「もしかして、今日誘ったのってそれを訊くためだったり?」
「否定はしません」
目を瞑り、そっぽを向いて言う小鳥。つんとした態度のつもりなのだろうが、この女性がそれをやると、何とも可愛らしい印象を受けるのだった。
「社長の意図もあったりしますか?」
「それはありません。あの人は、なるようになることに余計な事を言う人じゃありませんから」
「それもそうですね」
彼は気を回しすぎた自分に苦笑する。たしかに高木社長は律子や彼の事を気にかけてくれているだろうが、その選択に口出しするような人物ではない。
「答えたくありませんか?」
「いえ、そうでもないんですが。なんと言えばいいのやら……と」
「素直に全部言っちゃえばいいんです」
ぴしゃりと言う小鳥の様子に、男は小さく笑う。それから、グラスに口をつけて、ぐいと酒を喉に流し込んだ。
「そうですね。俺があいつに惚れてたからでしょうね」
「それなのに、ですか」
「だからこそ、ですよ」
男は言葉を止めたくないというようにテンポ良い口調で続けた。
「プロデューサーとアイドルの間に恋愛関係……あるいは擬似的なそれが生まれやすいのは小鳥さんもわかってると思います。守ってあげたくなる
ような可愛らしい年頃の女の子と、頼りになる——少なくともそうあるよう努力している——年上の異性。お互いを意識しないわけがありませんからね。
実際に行動にまで移すのも、業界では珍しいってほどじゃない」
「結婚しちゃう人たちもいますからね。批判はされますけど」
「そうなったら外野の声なんて関係ないですよ。それはともかく……。ここからは俺の考えでしかありませんが、そもそも恋も出来ない相手を売り出す
ってのは、難しいですよ。その意識の浅深はあるでしょうが、プロデューサーってのは、アイドルに恋しているものだと、俺は思ってます」
小鳥はなにも言わない。ただ、チーフプロデューサーに向けられる視線は、とても優しい。
「俺は律子に恋してました。もう、思春期のガキかってくらい惚れてました。色々と我慢するのが苦しいこと苦しいこと」
だって、あいつも俺に好意持ってくれてることくらい、膚でわかりますからね、と彼は思い切り渋面を作って言った。
その表情がおかしかったのか、小鳥はころころと笑う。
「でもねえ、小鳥さん」
グラスに残っていたトム・コリンズを飲み干して、口内をさっぱりさせてから、彼は一気にぽんぽんと言葉を吐き出した。
「あいつはほんっとうに面倒な女なんですよ。褒めれば怒るし、かといってけなせばへこむし、すぐ調子に乗るし、俺に黙って動いたりもする。
なによりも、他の子なら、素直に俺の先導に応じてくれるんですけど、あいつだけはだめです。
俺が何歩か先に行ってあいつを待っていようとすると、無理してでも追いついて、追い抜かそうとするのが律子ってやつです。無茶な提案をしてきて、
その提案の粗を俺が指摘できないと怒るってな具合ですからね。自分をしっかり持ってる伊織や貴音でさえ、そんなことしませんよ。
俺はプロデューサーなんですから」
くすくすと笑いながら、チーフは続ける。先程、プロデューサーの仕事の醍醐味を語っていた時と同じような楽しさが彼の表情に宿っていた。
だが、一転、彼は全ての表情を消すと、空になったグラスを手の中で玩ぶ。
「そう……俺たちは、二人三脚のパートナーなんです。けして、師弟じゃない」
「師弟じゃない、ですか」
しばし、沈黙が流れる。男がギムレットを注文し、それがやってきたところで、小鳥はようやく口を開いた。
「関係性は変わらざるを得なかった、とプロデューサーさんは思ってるんですか? 律子さんが用意した場所では」
「わかりません」
男はぎゅっと目を瞑った。あり得たはずの未来を幻視するのを避けるかのように。
「いまでも、どうすべきだったかはわかりません」
彼女の提案を受け入れていれば、彼は経営者として、律子とパートナーを続けていられただろうか。
あるいは、アイドルという立場を離れた彼女と、公私ともに渡るパートナーになることもありえたのだろうか。
わからない。
全ては仮定であり、もはや取り返しのつかない選択の彼方だ。
そして、踏み出せなかったのは、彼自身なのだから。
「ただ……」
「ただ?」
聞き返す小鳥に、男は目を開き、向き直る。力なく微笑む彼の瞳に複雑な色が揺れていた。
「いまや関係性は明らかに変わってしまいましたね。俺は、もう、あいつのパートナーじゃない」
そう認めたとき、自分の中からなにかが抜けていくような、そんな喪失感を彼は味わっていた。
光量を抑えた店内に、優しいピアノの音が流れていく。
男と女はその旋律に耳を傾け、沈黙を守った。
第四話 終
本日は以上となります。
色々と忙しい状況でして、下手をしたら次回は8月にずれこんでしまうかもしれませんが、もしよろしければ、おつきあいいただけると幸いです。
第五話『L<>R 』
「むー、律子はスパルタすぎるの」
翌日に疲れが残ってるなんて小鳥じゃあるまいし! と憤慨しているのは、制服姿の背に金髪を流す星井美希。
彼女はオフのこの日、友達数人と久しぶりに遊んだ後、まだカラオケを続けるという面々と別れて、一人、渋谷の駅へと向かっているのだった。
「まあ……眼鏡を使わせてくれたのは、よかった……かな?」
眼鏡、というのは、律子がアイドル時代にとあるメーカーとコラボして売り出した、特別デザインのフレームのことである。PVの中の一シーンで
それをかけるのを提案した美希を、律子はなんだか怒りながら許可してくれたのだった。
「律子は照れ隠しに怒るのが悪い癖だよね」
うんうんと不機嫌そうに頷く様もなんだか様になっている。それが星井美希という少女の隠しようのない魅力の現れであった。
こんな可愛らしい女の子が歩いているというのに声一つかけられないのは、彼女がアイドルであると、皆が認識しているからかもしれない。
誰か一人が声をかければわっと集まるのだろうが、その最初の一人がなかなか現れないのは、きっと、ここが渋谷であるからだろう。
年齢層がもっと若いか、もっと上ならば遠慮無く声をかける者が出て来るかもしれないが、まさに美希と同年代から少し上という若者の占めるここ
では、人々はなんとなしに牽制し合い、ついに声をかける者が出てこないのであった。
そのことをわかっているのかいないのか、美希は変装することもなく、制服姿でセンター街を抜けていく。
駅前のスクランブル交差点に出た途端、彼女の視界を、赤い色が染め上げた。
古き世代を駆逐する——Second Generation
そこかしこにある大型ビジョンはもちろん、ビルの壁面そのものや、多くの看板、その全てが赤く染め上げられ、その上に白抜きでそんな文言が
踊っている。
「なにかの広告……だよね」
美希は足を止めることなく、きょろきょろと周囲を見回しながら呟く。駅から出てきた人間や、他の道から交差点に入ってきた者たちも、一様に
目を見張っている。それほど、それは目を惹いた。
「ふるきせだいを……えーっと」
「くちくする、だな」
「あ、チーフの人」
不意にかかった声に振り向くと、事務所のチーフプロデューサーが立っていた。彼の視線は美希ではなく、彼女が見ていた広告群に向かっている。
それから視線を落とし、彼は苦笑した。
「おいおい、最近じゃプロデューサーさんにまでなってたのに、そこの人に逆戻りかよ」
「だって、美希のプロデューサーは律子だもーん」
つーんと顔を背ける美希を見て、彼は頭を掻く。
「お前にしても伊織にしても、律子のこと好きすぎるだろ」
一応、しばらく前まではお前達のプロデューサーでもあったんだぞ、とは言わないでおくチーフ。
それに対する返事は、彼も聞いたことも無いような低い声であった。
「……えー……」
「……お前が言うなって顔だな」
「その通りなの」
にやっと笑う美希に、しょうがないというように微笑むチーフ。
「それはともかく、なんでチーフの人がここにいるの?」
「これをチェックしてたんだよ」
「これ?」
美希が表情を変えて訊ねてくるのに、彼は手を広げ、辺りを指し示す。
「ああ。しばらく前からなんかのプロジェクトが動くって話があったからな。広告代理店の知り合いから、今日から渋谷で動きがあるらしいって聞いて、
確認しにきてたんだ」
「ふーん。じゃあ、芸能界関連なんだ?」
「たぶんな」
「アイドル?」
「かもな。……でも、これだけじゃ、なんにもわからん」
「そうだね」
二人はそこで言葉を切って、並んで人波が行き過ぎるのを見つめる。広告に目をやる者もいれば、なにも気にしていない者もいる。驚く人もいれば、
不思議そうに見つめる人もいる。
そんな様々な反応を観察しながら、美希とチーフは言葉も交わさず、しばし時を過ごした。
「送っていくよ」
「うん」
そうチーフが声をかけて、その場はお開きとなるのだった。
美希が目撃したその後も、一連のシリーズと思われる広告が様々な形で、世に広められていった。
たとえばある時は、とある私鉄の車輌の側面を
古き因習を打破する——Second Generation
という文言で染め抜いて。
たとえばある時は、動画サイトのプレーヤーに
古き世論を打倒する——Second Generation
と攻撃的な字形で広告枠が確保されたり。
たとえばある時は、深夜枠のCMで。
たとえばある時は、Webの広告で。
たとえばある時は、渋谷とは別の街をジャックして。
人々はそれらを至る所で目にしていたが、しかし、それが何を意味しているのか、答えを得ることは出来なかった。
そして、人々がそれにいらつきはじめようとしていた、そんな頃。
ある記者会見が開かれた。
「亜美ちゃんが……引退?」
事務所のテレビ画面に流れるテロップに、細いが、紛れもない驚きの声をあげるのは、水谷絵理。
彼女の横では、絵理のプロデューサーたる尾崎玲子が同じように画面を見つめている。
そして、その画面の中では、いつも元気な表情を浮かべているはずの少女が沈痛な面持ちで下を向いていた。
「あれ……?」
ぽかんと口を開けつつ、目を離せずにいた絵理は、なにかに気づいたように目を見開き、小首を傾げる。
「これ、真美ちゃん?」
「そうみたいね」
双海亜美が実は双子で、交替でアイドルをやっているというのは業界では周知の事実だ。また、ファンの一部も知っていながら、黙っていてくれて
いるらしいということも、絵理は亜美たちから聞いている。
引退会見という場に亜美自身が出てこないというのは——考えづらいことではあるにせよ——ないというわけでもないだろう。
だが、亜美を演じる時に必ず普段の亜美にあわせているはずの髪留めの位置を逆にしたまま出てくるなどということがありえようか。
それでは、亜美を演じる意味が無くなってしまう。
しかし、何度見ても真美の髪留めは、亜美のそれとは位置が違う。
画面の中では、なにか不祥事でも起こしたかのような雰囲気のまま、ぽつりぽつりと力なく、真美が言葉を紡いでいる。
皆に謝罪するというようなことを述べているのだが、言いたいことは今ひとつ伝わってこない。そんな話し方であった。
「えっと……」
戸惑う絵理。普段ならそれに対して安心させるように声をかけてくれる人物は、ただ黙ったままであった。それがさらに絵理を戸惑わせる。
『だから……みんなにウソついてたことは謝らなきゃって思うし……』
テレビからは、ぼそぼそと真美の声が聞こえてくる。その画面の端、絵理は見てはいけないものをみつけてしまった。
「あ、亜美ちゃん!?」
会見に出ているのと同じ格好をした双子の片割れが、会見場の衝立の端から見切れている。
もちろん、あってはならないことであった。
すぐに衝立の向こうに消えるその姿。だが、ひょこっと逆の端から現れる。
まるで悪戯でもしているかのようにひょこひょこと出ては戻り、戻っては出るその姿に、会場の記者たちも気づいたのだろう。画面の向こうがざわつく
のがわかった。
「え、え、え……」
『ぱんぱかぱーん!』
見ている絵理のほうが焦りに目を回しそうな光景の中、唐突に二つの声がファンファーレを模して響いた。
『みんな、驚いたー? 亜美たちは』
『んっふっふー、実は双子でしたー!』
それまでしおらしく俯いていたはずの真美も立ち上がり、にこにこといつも通りの元気な笑みを見せている。取材記者たちも、そして、視聴している
者たちも、大半はあんぐりと口をあけてしまうような展開であった。
『はーい、改めて、みんな、やっほー! 亜美だよー!』
『こっちは実は真美でしたーっ!』
二人は駆け寄り、手を繋いで高らかに宣言する。
『そんなわけで、みんな、ごめんね! 今日で亜美と真美が二人で演じてた『双海亜美』は引退! 明日から、亜美たちは』
『亜美と真美の双子ユニットで活動していくよ!』
『双海亜美、双海真美、二人のデュオの名称は——』
二人の声に、横に控えていたチーフの声が被さるそのタイミングで。
各地では、あの広告が急いで掛け替えられ、塗り替えられ、張り替えられていた。
古き偶像を破壊する
——riola Second Generation
二人が拳を突き上げ、自信満々な笑顔を浮かべる頭上にはそんな言葉が踊り、その足元には、こう記されていた。
いまこそ私たちの時代!
と。
『riola Second Generationとなります』
チーフが新ユニットの名前を発表した時、その名前に衝撃を受けた者が、全国でどれほどいただろうか。
しかし、間違いなくこの876プロダクションには一人いた。
絵理は、複雑な表情で、横に立つ女性を見る。
「尾崎さん……」
「名前を使わせて欲しいって言われてね。私も聡美も許可した。それだけよ」
かつて亜美と真美にアイドルというものへのあこがれを植え付けた、riolaという名のアイドルデュオ。
ほんのわずかな間に消えていった二人を覚えている人間が、どれだけいたろうか。
誹謗され、中傷され、人の悪意にすり潰されたアイドルグループを、忘却の海から掬い上げ、再生させる。そんなことを望む者が出て来るなどと
誰が想像したろう。
riolaを構成する片割れだった女性は、それ以上、言葉を連ねることはしなかった。
ただ、嬉しそうに笑う双子の笑顔を、食い入るように見つめるだけで。
「しかし、やられたわねー……」
業界でも権威あるとみなされている芸能雑誌ViDaVoの最新号を開きながら、律子は苦笑を漏らす。彼女が持つそれを横から覗き込んでいた美希が、
口をとがらせた。
「チーフの人、渋谷で一緒に見た時はとぼけてたんだ。ひどいの!」
「しかたないでしょ。同じ事務所とはいえ、極秘のプロジェクトをばらせるわけないもの」
地団駄を踏む美希に、伊織が冷めた声で応じる。それにむっとしたのか、美希は律子の横から離れて伊織のほうへ近づいていった。
そのまま喧嘩のような、それでいてじゃれているような言い合いに入る二人を、少し困ったような表情で見つめつつ、あずさは小首を傾げた。
「でも、とっても印象的だわ。あの宣伝は私でも気になってたくらいですし」
「双子が交替でアイドルしてました、なんて一歩間違えばスキャンダラスな話ですけど、それをインパクト重視で押し切りましたね。もう亜美たちの
話題でもちきりですよ」
実際に、律子が持っているViDaVoは亜美と真美の特集にかなりのページを割いている。
会見の二日後にロングインタビューを載せた雑誌が出て来るあたり、チーフはじめこのプロジェクトに関わる人間はとても周到に事を運んでいた
ようだった。
困ったような嬉しいような表情の律子に、あずさはにっこりと微笑みかける。
「亜美ちゃんたちにとってはよかったわね」
「ええ。個人的にはうまくいってよかったと思ってます。でも、デビューをすぐ後に控えている竜宮小町としてはまずいですね。元からのソロが三人
集まったじゃ、これまでいなかったはずの真美の話とは衝撃度合いが……」
「違いますねえ」
さすがにこれは苦笑して受けるあずさ。
普通なら一線で活躍している三人がユニットとしてデビューとなればそれだけで話題になるのだが、状況が状況である
「とはいえ、こちらのデビュー直後にこれをぶつけてこなかっただけ、社長もチーフも配慮してくれたんだと考えるようにしましょう。うん」
「いいほうに考えるのは大事ですね〜」
きりりと顔を引き締め、気合いを入れ直すように呟く律子に、あずさは周囲もとろかしてしまうような柔らかな笑みを見せる。
それにちらりと目をやってから、律子はじゃれあい——というよりも、もはや美希の一方的な伊織いじり——を続けている二人に向き直った。
「さて、あんたたち、いい加減になさい」
「むー、もう少しでこちゃんで遊ぶの」
「離れなさい、ばか。あと、でこちゃん言うな」
すうと息を吸う律子。その口から、一段低い声がまろび出た。
「いい加減に、なさい?」
「はいっ、律子さん!」
「ああ、ようやく離れてくれた……」
その声になにを感じたか、びしっと背筋を伸ばす美希と、ため息を吐いてソファに座り直す伊織。
その様子に、律子はぐるりと周囲を見回した。
ここは、765プロからオフィス秋月が借り受けた一角で、先日パーティションが設けられ、より独立性が高まった。
とはいえ、パーティションのボードの下部には透明アクリルがはめこまれているし、上部は空いているので、閉塞感はない。
その空間にいるのは、五人。
スーツ姿で皆を見回している秋月律子。
美しい長い髪を揺らす三浦あずさ。
直立不動を崩せない星井美希。
ソファでうさちゃんを抱きながら何かを待っている様子の水瀬伊織。
そして——。
「涼」
「はい」
入り口近くに控えていた少年が、従姉の声に応じて、足を一歩踏み出す。
女性を演じていた頃とは違う、しかし、どこかその頃と共通するようなたおやかな所作で、彼は律子の横に並んだ。
「秋月涼です。今日から律子姉ちゃんの事務所にお世話になることになりました。よろしくお願いします」
すうと頭を下げる動作には、緊張が見られる。その様子に美希が驚いたように目を見開いた。
「あれ? 昨日からじゃないの? 歓迎パーティしたよね?」
ロケに行っていたメンバーもいたこともあり、全員が参加したわけではないが、涼の移籍については昨日盛大に祝ったはずだ。彼女は難しい顔で、
自分はなにか間違えたのかというような視線を律子に向けた。
だが、苦笑する律子が答える前に、伊織がふんと鼻を鳴らす。
「あんた、昨日の社長の話聞いてなかったの? 涼は昨日一日だけ765に所属してたのよ。それで今日、正式に律子のところに移籍したの」
「えー? なんでそんな面倒なことするのー?」
「色々あるのよ」
「へー……」
「涼については以前から知っているでしょうし、これ以上堅苦しいことは必要ないわね?」
美希の疑問は伊織が解消してくれたようなので、律子は話を進める。涼の背を押し、さらにまだ立ったままの美希とあずさにも座るよう促してから、
彼女は一つ咳払いした。
「ともかく、所属はどうあれ、あなたたち四人はこれから私がプロデュースすることになります。たぶん他の765のアイドルたちより共演なども
増えるでしょう。
これからの活動のためにも、私も含めて五人で一丸となって頑張って欲しいと思ってます。いいかしら」
ソファに並んで座った伊織、あずさ、美希が頷き、その横に椅子を移動して並んだ涼がいっそう力強く頷く。
その様子に微笑んでから、律子はがらがらと音を立ててホワイトボードを引き出した。
「では、これから、皆の今後の話をしていくわけだけれど、その前に、現時点での分析をします」
きゅっきゅと音を立てて、律子は真っ白なボードに文字を書き連ねていく。
「まず、現状で注目すべきグループや個人を挙げると、日高舞は当然として、765のapricoT、Bacchus、riola。876の日高愛、水谷絵理、
961のジュピター。こんなところね。日本中心じゃないけど、一応千早も入れておくべきかしら」
apricoTは春香、雪歩、やよい、Bacchusは真、響、貴音のそれぞれのトリオユニットの名称だ。これらのグループも、トップアイドルに近い場所にある。
律子がそれらを書き上げたところで、すっと手が挙がった。
「あの〜?」
「なんでしょうか、あずささん」
「961はジュピターだけでいいのかしら? あそこにはたくさんいらしたんじゃあ?」
「いい質問ですね」
きらりと眼鏡を煌めかせ、律子はしてやったりとばかりに微笑む。
「たしかに、961プロの資金力はかなりのもので、抱えているアイドルも多いです。売り上げトップ30を考慮すれば、961所属で食い込んできているグループ
や個人はたくさんある」
そこで彼女は皆に向けてにっこりと笑って見せた。
「だけど、トップ10を考えた場合、意識すべきはジュピターだけなんです」
実にどや顔なの、と美希は思った。
口に出して虎の尾を踏むような真似は、もちろんしなかったけれど。
「そうなんですか?」
「ええ。もちろん今後の動向はチェックすべきですが、いまのところ、961はその資源の大部分をジュピターに集中させていると考えていいと思います。
むしろ、黒井社長が目をかけているのがジュピターだけ、と言うべきかもしれませんね」
ははあ、とこれには皆が納得したようであった。
特に一度は961プロに所属したことのある美希にとっては得心のいく話であった。黒井社長という人物は、自分がこれと見込んだ人物にはひたすら
力を入れるところのある男であった。
「んー、ミキもなんとなく賛成かな。でも、クロちゃんが他の子に目をつけないとは限らないよ?」
「クロちゃんってあんた……。だいたい、可能性だけで言えば、他にも警戒すべき事態はあるわよ? 魔王エンジェルとか佐野さんとかがまたCD出したり、
オーディションに出てきたりしたら、下手したらジュピターよりも……」
「美心は慰問行脚で忙しいらしいよ?」
「麗華たちもそれについていってるから、いまのところ大々的に売り出したりとかは、興味ないでしょうね」
「あ、そう?……ふうん」
伝説を超える『アイドル神』と『魔王』の動向を思わぬところで聞かされて、律子は少々声を上ずらせる。
「まず、あなたたち全員に肝に銘じて欲しいことは、一つ」
気を取り直し、律子はホワイトボードに向き直った。色々と指摘されたものの、いまのところ、考慮に値するグループを増やすつもりはない様子であった。
「日高舞は絶対じゃない!」
そうして、大書されたのは、こんな文であった。
それを見た四人はちらちらと視線を交わす。
「なにしろ私なんかが勝てたのよ。あなたたちが勝てないはずはないわ!」
「いや、律子姉ちゃん、それは……」
何とも言い様のない空気になるところを、涼がなんとかフォローしようとするも、当然、律子は止まらない。
「それに、日高舞に売り上げやオーディションで勝ったことのある……いえ、負けなかった人物は、四人……数え方によっては五人も居るんだし」
「五人?」
「ええ。私と、娘さんのほうの日高さん、千早、そして、佐野さん。あと一人は、だいぶ昔のことだけど……」
そこまで言いかけたところで、律子の声は、ノックの音に途切れた。はーいと返事をすると、扉を開けて顔を覗かせたのは、小鳥であった。
「あの、律子さん。こちらにお客様が……」
「え? うちに」
「はい」
それを聞いた途端、あわわ、と口走って律子は小鳥のほうへ駆け寄った。
「す、すいません。小鳥さんに応対させちゃって」
「いえ、それは構いませんけど。それでですね、訪ねてきたのが、桜井夢子ちゃんなんです。ほら、同業の」
ああ、と律子は頷く。夢子の名前は当然聞いたことがあった。涼の友人であり、あずさを慕っている女性アイドルだ。律子たちのところに顔を出すのも
おかしなことではない。
「涼ですか? あずささんかな? ともあれ、少し待ってもらって……」
「いえ……その」
腰を浮かしかける涼に落ち着くように手を振っている律子に、小鳥は言いよどみ、そして、思い切ったようにこう続けるのだった。
「律子さんに会いたいって」
第五話 終
本日は以上となります。
次回は来週中にはなんとか。
春香「こんばんは、天海春香です」
愛「日高愛です! むー、それにしても、あたしたち、出番少ないですね!」
春香「しょうがないよ。愛ちゃんは765だと私や雪歩との絡みが多いし、そのどっちも律子さん担当じゃないしね」
愛「残念です! でも、涼さんや絵理さんはいっぱい出てるから、あたしも嬉しいです」
春香「涼ちゃんは今後もずっと出るからね。絵理ちゃんは、伊織とか亜美真美絡みだから、どこまで出るかなー」
愛「あ、そうそう。絵理さんが、夢子さんや律子さんを苗字じゃなくて名前で呼んでますけど、これは仲良くなって、当人からそう呼ぶように言われたから、
だそうですよー」
春香「ゲーム中からも時間が経ってるから、呼称関係は微妙だよね。そういえば、涼ちゃんじゃなくて涼くんって呼ぶべきなのかなあ?」
愛「涼さんは、あんまり気にしないと思います!」
春香「そっか。じゃ、そんなわけで、第六話始めちゃいましょうか」
愛「いきましょ−!
第六話『またね』
結局、ミーティングは一時休止として、律子は夢子が待っているという応接スペースに向かった。
その後を涼とあずさが心配そうについてくるのはまだわかるにしても、美希と伊織までついてきているのは、あきらかに野次馬であろう。
だが、律子としては止める気にもなれず、放っておくことにした。ややこしい話になれば、どうせ別の場所に移動しなくてはならないだろうから。
このフロアに入ってすぐに設けられている応接スペースは、仕切りはあるものの、半分開放的な空間で、難しい話——ことに密談をするには
向いていないのだ。
後ろに四人を引き連れながらそのスペースに入ると、気配を感じたのか、半透明の仕切りの向こうで誰かが立ち上がるのがわかる。
律子はそのままその仕切りの中に入り、そして、茶色い髪の少女が、自分に気づいてわずかにのけぞるようにするのを見て、小首を傾げた。
そんな二人の様子を、一つは直に、一つは仕切り越しに見やって、伊織はため息を吐く。
「律子って鈍いわよね」
「なにが?」
「自分が元トップアイドルで、同業の人間にはそれなりの威光っていうか、プレッシャーがあることに気づいてないのよ。だから、現場で新人とかが
畏縮してても不思議そうに反応するの。いまも一緒よ」
ああ、と頷く美希。そんな会話が後ろでなされているとは知りもせず、律子は朗らかに挨拶の言葉を紡いだ。
「お久しぶりね、桜井さん。私に話があるんですって?」
「はい。……あ、でも、涼もいるんだったら、同席、いいですか?」
仕切りの上から覗く涼の頭を指さして、夢子は言う。
「ええ。ほら、涼も入って」
「う、うん」
律子が促すのに、おずおずと入ってくる涼。結局、仕切りの中に律子、涼、夢子の三人、外で見守るあずさ、伊織、美希の三人とわかれることになった。
「なにかしら。もしかして、うちに来てくれるとか?」
「それは魅力的ですけど、今日は違います」
一つ息を吸い、夢子はわずかな間、顔を俯かせる。そこでなにか決意でも固めたかのように決然と顔を上げ、律子のことを見つめた。
一方、強い視線を向けられる律子のほうとしては、なにをそんなに気負っているのか理解出来ず、戸惑うばかり。
そんな中で、彼女は言った。
「私と会うなって涼に言ったってのはどういうことなのか、説明して欲しいんです」
そう、はっきりと。
「……え?」
驚きの声は、二つ。ぴたりと音のあったそれに、離れたところで伊織が思わず笑いかけて、無理矢理こらえる。
「え、じゃないわよ。言ったじゃない。事務所の方針でもう会えないって」
「いや、それは、言ったけど……。え? 夢子ちゃん、なにか誤解してない?」
「してないわよ。はっきり会えないって言ったでしょ」
相変わらず律子を睨みつけながら、ちらちらと涼の方を見ては険のある声を出す夢子と、それをなだめるように言葉を連ねる涼。
その様子を見ていた律子は眼鏡のつるに指をあてて、小さくため息を吐いた。
「はい、ストップ」
言い合いになりそうな涼と夢子の間に手を突き出し、気勢をそいだところで、彼女は冷静に続ける。
「ここで痴話げんかされても困るから、まずはどちらかが私に説明してくれると助かるのだけれど?」
夢子が『痴話げんかなんかじゃ……』とごにょごにょ言いながら顔を赤らめて俯いてしまったので、結局、涼が話し始める。
「ええと、律子姉ちゃんの事務所に移るに当たって、マニュアルをもらったよね。しばらく前に」
「ええ。行動規範は必要でしょ。うちの事務所初のアイドルでもあるしね」
876での指導がどうであったかはよく知らないが、常識的なことを書いて渡したはずだけれど、と律子は内心で首をひねる。
「それで、異性と遊ぶときは二人きりを避けろ、と書いてあったよね。実際、僕も夢子ちゃんもアイドルなわけだし、スキャンダルに
仕立て上げられるのは御免だと思って、今後二人で会うのは止めようって言ったんだ」
困ったように言う涼。だが、その言葉に、夢子はきつく眼を細めて反応した。
「そんな風に言わなかったじゃない! いきなりもう会えないって言ったでしょ!」
「いや、だから、それは、これまでのようにはってことで……」
「ウソ! いいつけだからしかたないとか言い訳してたじゃない」
「え? そんな事言ったっけ? あ、言った様な……。でも、かなり誤解が……」
結局ぎゃーぎゃーと言い合いを始める二人に、律子は思わず額に手をやる。
夢子のほうは会えないという話でショックを受けてしまって、それ以上の情報を受け付けなかった様子だし、涼は涼で言葉が足りなすぎて自ら誤解を
生んでしまっているようであった。
「はいはい。いい加減にして」
ぱんぱんと手を打ち合わせて、律子はそう言葉を挟む。
「ともかく、きちんと話が伝わってなかったって事のようね」
「う……」
夢子の顔が曇る。自分が誤解で突っ走ったとようやく悟ったようであった。
「桜井さん。涼はなにか言葉の選択を誤ったようだけれど、結局の所は、スキャンダル対策ということなの。私としては二人が遊んだりするのに制限を
設けるつもりはないわ。まあ、出来れば、765のメンバーや876のメンバーも交えてそれなりの人数で遊んでもらえると、危険は少ないわけだけどね」
元アイドルとして、律子としても面倒な話だとは思うが、悪意を持って陥れようとする人間もいれば、話題になればそれでいいという人間もいる。
自衛できる部分は自衛していかなければならないだろう。
「まあ、そんなわけで、ある程度は窮屈かも知れないけど……」
「ねえねえ」
「なによ、美希」
いつの間にか、律子の後ろに回り、仕切りに体をひっかけるようにして三人のやりとりを覗いていた金髪の少女が割り込むのに、振り向きもせずに
答える律子。
あそこで返事をするあたり、律子は美希に甘いわよね、と少し離れたところで伊織が思っていたりする。
「涼ちゃんがもらったのって、ミキたちに渡したのと同じ?」
「うん? いえ、涼のほうが詳しいわよ。あんたたちは基本的な項目は765で言われてるわけだしね」
「じゃあ、恋愛関係にある異性の場合、って項目もあったんじゃないの? 今回はそれ適用すればいいと思うの。だめ?」
その言葉に、律子はぽんと手を打った。そのまま夢子と涼に優しく微笑みかける。
「ああ、そうね。私にあらかじめ相談してくれれば、二人で会う段取りくらいつけるわよ。会う場所を用意するとか、運転手役で私が同道するとか
すれば……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。律子姉ちゃん」
「そ、そんな、恋愛とかそういうのとは、その、なんていうか……」
言葉を遮り、真っ赤な顔で手を振る二人。否定しようとする彼らに、律子は困ったような顔を向けた。
「いや、正直、照れられても困るのよ。こういうのは事務所としても把握しておきたいわけだから。隠さないでちゃんと相談しておいてくれれば、
それなりの対応ってのはできるのよ? 安全に会えるようとりはからえるし、万が一どこかの週刊誌が記事にしても、対応を事前に考えておけるわけだし」
「いや、だから、違うって、律子姉ちゃん!」
がたんと音を鳴らして立ち上がる涼。その表情を観察して、律子は目を剥いた。
「え……。まさか、あんたたち、つきあってなかったの?」
呆然と二人の顔を見る律子。その後ろでは美希がぽかんと口を開けている。
「うそ。本当にあいつらつきあってないの?」
「あらあら〜」
伊織やあずさまでそんな風に呟くくらいだ。
そして、当の二人はと言えば、顔を真っ赤にしている。ただし、夢子のそれは照れからくるものだろうが、涼の紅潮は、果たして同じだったろうか。
「え、あ、う……」
「当たり前でしょ。たしかに夢子ちゃんはとっても大事な友達だけど、恋愛とかは全然関係ないよ。だいたい、僕なんかと噂を立てられたら、夢子ちゃんが
迷惑でしょ。ねえ?」
言葉を失う夢子に対して、涼は憤慨したように滔々と言葉を述べる。その様子に、あずさの眉がぴくりとはねた。
「あら……。あれは……」
「ちょっと言い過ぎ、よねえ……」
「言うならば、愛ちゃんや絵理ちゃんと同じで、姉妹みたいなものというか、恋愛感情なんて関わってきようがない関係なわけで……」
伊織が止めに入ろうかと逡巡する間にも、涼の声は勢いを強めながら続いている。ぼそりとその横で呟く夢子の言葉も耳に入らぬほどに、彼は
熱中していた。
「……もういい」
「え?」
二度目の呟きは、律子たちにも聞こえていた。食いしばった歯の隙間から押し出すような、重く強い響き。
「もういいって言ってるの!」
ばしん、とテーブルを叩いて、夢子は立ち上がり、きっと涼をにらみつける。その目尻に光るものがあった。
「秋月さん。申し訳ありませんでしたっ!」
ばっと激しい動作で頭を下げ、そのまま顔を背け、走り出す夢子。
呆気にとられたような空気の中で、最初に動いたのは律子であった。怒りを込めた口調で、涼に向かって叫ぶ。
「莫迦! 追いかけなさい!」
その言葉に弾かれたように地面を蹴る少年の前に立ちふさがる影があった。長い髪を揺らし、彼女は、大きく手を広げて、涼が進もうとするのを
妨げている。
「待って」
「あ、あずささん?」
「ここは私に任せてくれないかしら。涼ちゃんが行くのは逆効果だと思うわ」
きっぱりとあずさは言い切った。この人物には珍しく、硬い表情で、彼女は断言している。ばつの悪そうな涼の顔とあずさの思い詰めた表情を
見比べて、律子は小さく息を吐いた。
「わかりました。……申し訳ありませんが、お願いします」
任せて、と小さく笑って、彼女は走り去った。
「はあ……」
自分のオフィスに戻った律子は、デスクにつくと、大きくため息を吐いて見せた。三人の冷たい視線に囲まれながらついてきた涼が、びくりと体を
震わせる。
「ねえ、涼。あんたイケメンになりたかったんじゃなかったの?」
「そ、そうだけど……?」
「あれはイケメンじゃないの。うん」
「駄目男よね」
「え? ええぇ!?」
厳しい声で駄目出しをする二人に、涼はびくびくしながら応じる。明らかに彼の分が悪かった。
「いくら、あっちの思いに気づいていなかったとしても、あの言い方はちょっと……」
「恋愛対象にはならないなんて言われて喜ぶ年頃の女の子がいると思ってたの? 既婚者じゃあるまいし。あんたには、再教育が必要みたいね」
「えっと……その……」
「まあ、いいわ。そこを責めるのは後回しにしましょう」
美希と伊織のきつい言葉におろおろし始める涼に、律子がそんな声をかける。彼女は疲れたように手を振って、美希と伊織を黙らせた。
「ともかく、桜井さんとは恋愛関係にはないのね?」
「う、うん」
「そう。でも、はっきり言って周囲からは、つきあってるか、つきあうまで秒読みだと思われていたわよ。そのことは、覚えておきなさい」
「う……うん」
涼の顔が真剣なものになり、今回の事をしっかりと受け止めていると認められるまで、律子は彼をじっと見つめ続けた。
伊織と美希も黙ったまま涼を見つめているものだから、彼は蛇に睨まれた蛙のように身動きできずにいた。
背筋を、いやな感触の汗が滑り落ちていく。
「他にいたりはしないでしょうね」
「つきあってるとかは、その、ないよ」
「はあ……」
もう一度ため息を吐き、くるりと向き直る律子。
「涼だけじゃなく、美希も伊織も、もし彼氏彼女が出来るようなら、きちんと私に相談してちょうだい。事前に報告しろとまでは言わないから、
事が大きくならないうちに一言言って欲しいの。仕事の上でも、個人としても、お願いするわ」
「ん」
「わかったわ」
「や、約束するよ」
三人がそれぞれ応じるのに、ようやく彼女は表情を緩める。
「でも、涼みたいに鈍感なのも駄目よ。周りはいくらでも誤解したがるんだから」
「いくらなんでも、涼ちゃんみたいに鈍感ではいられないの」
「私も自分にむけられる感情くらいわかるわよ。鍛えられているもの」
「それもそうね」
「え、えええ?」
そうして、再び、一段と激しい涼への説教が始まるのだった。
「とまあ、そんなことがあったのよ」
伊織はそう話を一区切りして、食べかけのケーキに手を出した。
ここは都内のとあるスイーツショップ、その奥にある半個室である。彼女の対面には、同じようにケーキをぱくついている水谷絵理の姿がある。
「……夢子さん、かわいそう」
「まあね。できれば、慰めてあげて」
絵理から、最近夢子の様子がおかしいのだが、なにか知らないかと連絡を受け、事情を説明すると、このショップに呼び出した伊織であった。
「でも、まあ、しかたないような気もするわね。涼だし」
んー、おいしい、とひとしきりケーキの甘みを堪能した後で、伊織はそんなことを呟く。
「うーん。いくら凉さんでも……」
一方で、絵理は先程から何ごとか考え込んでいた。それが形になったのか、彼女は表情を変えて続ける。
「私は、涼さんが気づかないようにしていた、と思う」
「どういうこと?」
ケーキに盛られた桃の果実をぱくりと食べてから、絵理は続ける。
「夢子さんの好意はとってもわかりやすい。いくら鈍感でも、気づかないというのは不自然? だから、凉さんはどこかで遮断してたかも?」
「遮断?」
「うん。好きな人がもういるとか、そういうので」
「ああ……」
伊織は、絵理が言いたいことをなんとなくわかった気がした。つまりは、涼は夢子の好意を感じ取っていながら、ないものとして処理していたのだ。
他に好きな相手がいるとなれば、夢子の気持ちに応えることは出来ない。しかし、はっきりと邪険にするのは涼にとっても辛いことだったのだろう。
だから、そんなことはありえないと、自分で否定した。
ひどい話ではあるが、鈍感すぎるのに比べれば無理のない推測かもしれない。
「もし、涼さんが好きになるとしたら」
伊織が絵理の考えを咀嚼している間に、話は進んでいる。
「相手は伊織さん」
「はあっ!?」
「……か、真さんか、律子さん」
素っ頓狂な声を上げる伊織を他所に、絵理は自分の推測を述べる。
「あ、う、うん。そ、そうかもね?」
「……伊織さん、顔、真っ赤?」
「うるさいわね! いきなり名前が出たからびっくりしただけよ!」
ふんと鼻を鳴らす伊織の顔どころか首筋まで朱色に染まっている。その様子にくすりと笑みを漏らし、絵理は真剣な顔つきになった。
「ん……。でも、涼さんは、尊敬できる人を好きになるってそう思う? なんとなくだけど」
「まあねえ……。律子はきっとあいつの初恋の相手でしょうし、真は憧れみたいだからねえ。わ、私も師匠の一人ではあるし?」
まだ動揺しながらそう返す伊織の瞳になにかの感情がよぎったような気がして、絵理はもっと刺激してみたくなる。
しかし、やめておいた方が良いのだろう、と彼女は思った。
きっと、自然な成り行きに任せておいた方が面白くなる?
水谷絵理は、自身も尊敬する先輩である人物がなんとか感情と膚の紅潮を抑えようとするのを眺めながら、そんなことを思うのだった。
「ここで、こうターンして……。んー、ちょっと休もうか、律子」
鏡となっているレッスン場の壁に向かって新しいダンスのパターンを披露していた菊地真は、ぱたりと動きを止め、横で彼女の動きを模倣している
女性にそう声をかけた。
「う、うん」
上気した顔で息を切らせながら律子が応じ、二人は隅に置いた荷物の所へ向かう。それぞれに用意して置いたドリンクを口にして、体を休めた。
「いやー、だめね」
ようやく息が整ったところで、律子はそう言ってばたんと床に寝そべってしまう。
「辞めてそう経ってないのに、体力落ちてるわー」
「んー。今日は他の仕事もしてたからでしょ? 十分維持出来てると思うけどな」
彼女にしてみると実に羨ましいプロポーションを眺めながら、真は言った。
身長はたいして違わない——むしろ、律子の方が低い——というのに、バストは10cmも違う。その理不尽に対して、真はなにに文句を言えばいいのか
よくわからなかった。
「それに、チーフなんていまの動きさせたら、たぶん、ついてもこれないよ?」
「そりゃあ、あの人はいいのよ。私は元アイドルのプロデューサーってのが、一つの売りだもの」
遠回しに、プロデューサー業なのだから、現役と同等の体力は必要ないのではないか、と訊ねる真に、律子はぱたぱたと手を振ってみせる。
「私と、チーフや他のプロデューサーに求められているものってのは違うのよ。なにしろ、こちとら大学も出てない小娘なんだから」
「そんなものかねえ……」
難しいことはわからないとでも言いたげに肩をすくめていると、律子が跳ね起きながら、拝むように手をあわせる。
「あ、つきあわせてごめんね?」
「何言ってるんだよ。ボクと律子の仲だろ。それに、元々トレーニングの予定だったし」
「それならいいけど……」
「あのさ、これは単純な疑問として聞いて欲しいんだけど」
申し訳なさそうに微笑む律子に苦笑を返してから、真はそう前置きして訊ねる。けして、律子と一緒のレッスンが嫌なわけではないのだと態度で
示しながら。
「涼と一緒にやるんじゃだめだったの?」
「涼?」
「うん。だって、ダンスのことに関して言えば、ボクと同じくらい頼りになるだろ? 涼って」
「あら、そんなに評価してるの?」
真の何気ない言葉に、律子は目を丸くする。ダンスという得意分野でそれほどまでに涼を認めているとは思わなかったのだろう。
「そりゃそうさ。男だって公表してからの涼の頑張りはすごいしね。それに、女を装わなくて良くなってから、筋肉もかなりつけてるよ、彼」
「それはダンス向きの筋肉ってこと?」
「うん。芯の通り方が違う」
「へー」
真の高評価に感心しつつ少し考えていた律子は、しかし、ゆっくりと首を振った。
「でも、だめね。あの子と一緒になると、どうしても指導者としての態度をとっちゃうから。自分を鍛えてるところなんて見せられないわよ」
「意地っ張り」
「知ってるわよ、それくらい」
二人はにらみ合い、そして、ぷっと同時に吹き出した。あはははは、とひとしきり笑いあった後で、律子は不敵な表情を真に見せた。
「まあ、見てなさいよ。涼に関しては、あんたをお姫様扱いできるくらいのいい男に育ててみせるから」
「お、いいね。期待してるよ」
真は言い、タオルで汗を拭うと、しなやかな動作で立ち上がる。その動き一つとっても、ほれぼれするような美しさであった。
「じゃあ、その未来のためにももう一踏ん張りしますか」
「うん」
応じながら、律子は思うのだった。
目の前にいる女性のような実力者を相手に、竜宮小町を、秋月涼を売り出し、そして、売り続けていくことの困難さと、それに挑む喜びを。
第六話 終
本日は以上となります。
菜緒「こんばんはー。
え? 誰?
ひどいなあ。星井美希の姉の菜緒です。よろしくね。
えーと、今回、私がちょろっと出てきますけど、ゲーム本編には私の存在以外ほとんど情報がないので、
もちろん性格などは妄想部分が強いです。
そのあたり、許してね。
たぶん、もう二度と出番ないんだけどね……。
ま、なにはともあれ、二ヶ月ぶりに、第七話です」
第七話『We just started』
スー……カチ。
そんな音を連想させるような感触が、律子の右手から伝わってくる。
彼女の握るペンからは実際には耳に聞こえるほどの音は出ていない。
だが、キャップがスムーズに落ちる感覚と確実に締まるところが、そう思えるのだろう。
彼女は書類を見ながら、何度もキャップを外し、それを戻すという動作をしていた。
考え事をしているためか、その動作自体は無意識のもののようであった。
そんな彼女の机に、すっと差し出されるものがある。
湯気の立つコーヒーをたたえたカップを置いたのは、長い髪を揺らす美しい女性。
「あずささん?」
「はい」
コーヒーの香りと人の気配に顔を上げ、律子は意外そうな声をあげた。
時計を見やり、少し遅い時間であることを確認する。
「直帰しなかったんですか?」
あずさは撮影でスタジオ入りしていたはずだが、それには当然マネージャーがついている。
車を呼ぶこともなく、家に戻れたはずなのだ。それが、わざわざ事務所に寄るとは。
「ええ。少しお話したくて」
「そうなんですか。相談ですか?」
「いえ、そんな深刻なものではないですけど。お邪魔じゃない?」
「あずささんならいくらでも邪魔してくれていいですよ」
「あらあら〜」
律子が笑って答えるのに、あずさは椅子を引き寄せ、律子のデスクの前に座る。
「随分綺麗なペンですね。万年筆かしら?」
「あ、いえ、ローラーボール……水性ボールペンですね。実際は芯を入れ替えてるんで、油性ボールペンとして使ってますけど。
涼からの事務所設立祝いのプレゼントです」
律子が手にしている優美なシルエットのペンを見つめて訊ねかけるあずさに、彼女は照れたように微笑む。
「最初からボールペンだとキャップがないんで見栄えが……ってことで、ローラーボールを選んでくれたらしいですよ」
「へえ。よく考えてくれてるのね」
「格好つけてるだけですよ。小金持ってるからって」
「ふふっ」
律子が不機嫌そうに言うのに、あずさは小さく笑うだけだった。
本当にそんな風に思っていたら、わざわざ専用のペンシースを仕立てて大事に持ち歩いたりはしないだろう。
あずさが知る限り、律子の机には、首にかけて持ち歩けるタイプのペンシースと、鞄に入れておける薄めのペンケースが
入っているはずなのだから。
「涼ちゃんってペンとか好きなのかしら?」
「どうでしょう? でも、男性ってフォーマルになると、ペンと時計くらいしかアクセサリ持てませんからね。
そのあたりは多少研究してるんだと思います」
「ああ、そうねえ……」
アイドルがフォーマルな装いを求められる場がどれだけあるかはともかく、知識を持っておくのは悪いことではない。
ファンにアピールするのとはまた別に、様々な場でのふるまいを身につけておくのも、名前が売れている人間としての務めであろう。
「まあ、あとは女性にプレゼントするのにそこそこのペンってのは悪くない選択肢なんじゃないですかね。
女性が予想してないって意味でも。
身につけるアクセサリじゃ、色々重いですからね」
「まあ……ね」
二人は顔を見合わせて苦笑する。
ネックレスや指輪と共に告白されたりした経験が、二人ともにあるのかもしれない。
「さて、それはともかく、お話ってなんですか?」
「いえ、別に私はなにか目的があってってことじゃなくて、律子さんとおしゃべりできたらって……」
「嘘ですね」
律子は微笑みながら、しかし、口調ははっきりと、そう言い切った。
「む〜」
律子の反応に、あずさはぷうと頬を膨らませる。その態度が既に先程の言葉が嘘であることを明らかにしていた。
「それで?」
なぜ嘘と見抜いたかなどと、あずさは訊ねない。
その程度は察するであろうと期待してこの場にいるのだから。
だから、彼女はずばりと告げた。
「なんで、私なのかしら、って」
「え?」
「最初に話をいただいた時は、自分のことをまず考えたものだから、とてもありがたいと思ったのだけれど」
役者としての仕事が増えすぎ、アイドルとしての自分を見失いかけていたあずさにとって、律子の申し出は実に魅力的であった。
だが、実際に活動を始める段になると、不安も生じてくるのだった。
「でも、もしかしたら、私があの二人の足を引っ張ってしまうんじゃないかしらって……」
「え? いや、そんなことは」
思ってもみなかった台詞に、律子は戸惑いの声をあげる。
「でも、年齢も私だけ離れてますし、雰囲気も違うし……。それに、ダンスの覚えも私だけ悪くって……」
「うーん……」
律子は腕を組んで考え込む。
もちろん、あずさが足手まといなどということはない。
ないのだが、単にそれを否定するだけでは、彼女の不安を取り除く役には立つまい。
たとえそれでこの場はしのげても、いずれはまた彼女の内で不安や疑念が頭をもたげることだろう。
であるならば、ここはしっかりと考えてものを言わねばなるまい。
そう考えて、律子は慎重に言葉を選んだ。
「それじゃあ、この際、はっきり言っておくことにします」
「はい」
ごくり、と唾を飲み込む声が聞こえてきそうな張り詰めた表情で、あずさは律子の言葉を待つ。
その様子に内心苦笑しつつ、彼女は続けた。
「まず、ダンスうんぬんに関しては、気にしてもしかたありません。
あの二人は、765でも指折りの呑み込みの早さを誇っているんですから。あずささんは、歌でもダンスでも自分のものにしていく資質があります。
焦る必要なんてありません」
「そ、そうかしら?」
「はい。まあ、私が求める時期までにできなければ、特訓でもなんでも考えますが、いまのところ、そんなことはありません。
問題ないんです」
「そ、そう……」
律子の完膚無きまでの断定に、あずさは気圧されたように頷く。
実際の所、天才的なセンスで歌もダンスも覚え込んでしまう美希や、その美希に負けじと完璧なところまで自分を追い込む伊織が、
何ごとも素早くやり遂げすぎるのだ。
むしろ、あの二人があずささんにあわせるくらいの余裕を持てたらいいのに、と内心思っている律子は、
これについては簡潔に結論を述べるに留め、その迫力にあずさも納得せざるを得ない。
「次に、二人と年齢が離れていることや、ビジュアル面でのバランスですけど……」
そこで彼女はにやりと笑った。あずさは、その笑みの力強さになんだかほっとする。
「これにはきちんと狙いがあります」
「というと?」
まず前提なんですけど、と律子は話を始める。
「アイドルって、自分の年齢とは違う振る舞いも求められるじゃないですか。
グラビアとかでもそうですけど、若いのに妖艶さを求められたり、あるいは、逆に年齢より子供だと思わせるよう求められたり」
「まあ……そうですね。役でもそうですけど、演じる年齢の幅はありますね」
あずさは律子が進めようとしている話を理解しようと考え考え相づちを打つ。
「ええ。特に美希は元々大人びてるせいか、年齢以上の立場を求められがちです。
伊織も精神的な面を評価される場ではそうですね。
でも、私としては、そのイメージを打破したかったんですよ」
「二人に年相応のものをやらせたいってことかしら?」
「そうです。というよりは、大人になろうと背伸びしている少女の立ち位置ですね。
あずささんっていう本当の大人を配置することで、それが鮮明になります」
実際に、それがあの年頃にとっては自然な立場である、と律子は説明する。
子供でもなく、大人でもない。その魅力を引き出したかったのだと。
「はっきり言って、三人には既に男性ファンは十分ついています。
だから、私としては、男性ファンを維持しつつ、女性ファンも開拓したいと考えていました」
そこで一拍おいて、律子は言葉を紡いだ。
「そう考えた時、憧れの女性像としてのあずささん、年が近くて身近に思える美希と伊織。
そんな組み合わせならうまくいくんじゃないかって思えました」
律子の口調に段々と熱が籠もる。
「つまりは、伊織や美希と同年代の女の子……中高生の女子への訴えかけです」
まるで、プレゼンみたいね、とあずさは聞きながら思った。
いや、これは三浦あずさという女性に対して、自分自身の価値を伝えるプレゼンテーションなのだろう。
「正直なところ、美希や伊織はかわいすぎますし、綺麗すぎて、同年代の女の子の共感を得るには遠すぎるように思うんです。
化粧でどうにかなるレベルじゃありませんからね。
憧れにするにしても、年が近いのにあまりにも遠すぎる存在は手が届かないと諦めてしまうものです。
ほら、私自身かわいくないですから、一般の子の心理はよくわかるんですよ」
「……ええと」
さらりととんでもないことを言ってのけた日本でも有数の美人を前に、あずさは強張った笑みを浮かべる。
「その点、あずささんは大人ですからね。大人になったら自分もああなれるかも、と思わせられる」
実際にはあずささんほどの美人になるのも難しいんですが、そこは、夢を売る仕事ですしね、と律子は皮肉でもなんでもなく言った。
「それと同時に、あずささんとの対比で、美希や伊織は本来持っている子供っぽさが表に出て、同年代でも共感を得られるようになります。
いえ……そう、持って行けます」
そこは、私が頑張らないといけないんですが、と律子は真剣な声で補足する。
「理想の自分を美希や伊織に投影し、理想の未来をあずささんに投影してもらう。
そうして三人を好きになってもらう。そんな狙いです」
だから、あずささんじゃないと駄目なんです、と律子は話を締めた。
伊織と美希という二人がいて、それと対になるあずさがいる。
三人がいるからこそ作り上げられるバランスであり、お互いを照らしあえる存在なのだと、律子は言いたいのだろう。
少なくともあずさはそう受け止めた。
「あ、でも、これ、美希や伊織には言わないで下さいね?
あの子たちの場合、大人じゃないなんて言うと、拗ねちゃいますから」
「ええ。わかってます」
一転軽い調子で言う律子に、あずさは淡く微笑む。
それから、彼女は胸の前で手をぎゅっと握った。
胸に秘めたものを吐き出すように、彼女は呟く。
「そうですか。私が……憧れの存在に」
「ええ。私から見たら、あずささんは憧れですよ」
「そんな。律子さんのほうがよっぽど……」
「あはは、謙遜はいいんですよ」
そうやって笑ってから、あ、と一言言って律子は付け加えた。
「迷子になるところ以外、ですけどね」
「もうっ」
あずさがそんな風に頬を膨らませたところで、部屋は温かな笑いに包まれたのだった。
その時、美希は、自宅の居間にあるテレビの前に座り込み、その画面を凝視していたために、
背後に立つ人の気配に気づくのがずいぶんと遅れた。
「あら、新曲?」
「ん?……ああ、お姉ちゃん」
振り向くと、美希とどこか似通った面立ちの女性が腰を屈め、テレビを覗き込むようにしていた。
星井菜緒は缶ビールを片手に、妹が出演しているらしいPVを興味津々と言った様子で見つめている。
美希はその様子に少しだけ自慢げに返した。
「まだ、これ、完成版じゃないけどね」
「ふうん」
菜緒が美希の隣に滑り込み、共にPVを観賞する二人。
美希の言葉通り、まだ編集が行き届いていないようで、何パターンかのシーンが収録されている部分もあった。
「ねえ」
「なに?」
「このPVのあんた、妙に地味じゃない?」
「いいんだよ」
一通り見終えてからビールを呷った菜緒がどこか非難を籠めて指摘するのに、美希は平然と応じた。
「だって、これ、プロデュースしてるの、律子だから」
「律子……って、あの秋月律子?」
目を丸くする菜緒。その様子に、美希は先程よりさらに鼻高々に頷いた。
「そう、あの律子だよ」
「ふうん。それで、これまでと違う方向性なわけだ」
「うん」
美希は言いながら、自分たちのPVの未完成版が収められたDVDを取り出す。
「律子に任せておけば、ミキたちはもっと輝ける。いまは、地味に見えてもね」
あらあら、と菜緒は口の中だけで呟いた。
妹がそれほどの信頼を寄せる相手がいるなど、彼女は思いも寄らなかったからだ。
実に喜ぶべきことであり、ビールをもう一本開けてお祝いしなきゃ、と彼女は企み始める。
「それよりも」
姉がなにを考えているかなど知る由もなく、美希は新たなディスクをトレイに乗せ、押し込んだ。
ディスクが音を立てて回転し、画面に映像が再生される。
「あれ、これ……秋月涼、よね?」
「そう」
菜緒が確認するように問いかけ、美希が肯定したように、画面では涼が歌い、踊っていた。
時期的には竜宮小町のデビュー曲の後に発表されるはずの、事務所移籍後初の新曲。
その映像を、美希は食い入るように見つめている。
菜緒は、その様子に首を傾げた。
なぜ、妹がこれほどまでに真剣に男性アイドルの映像をチェックしているのか、よくわからなかったからだ。
だが、答えは、すぐに美希自身がもたらした。
「たぶん、いまのミキたちの」
彼女はそこで改めて唇を湿らせて、その言葉を舌に乗せた。
「一番のライバル」
と。
第七話 終
そんなわけで第七話終わりです。
個人的な事情があったとはいえ、えらく間が空いてしまいました。
待っていて下さった方々には本当に感謝しております。
第八話は、28日くらいまでには投下したいと思っております。
舞「やっほー、舞ちゃんだよー!
私も再デビューだからまだ新人なんだけど、最近は三十になってからデビューの子とかいて、すごいわよねー。
でも、こう、まだまだ小粒なのよね。
せっかく、律子ちゃんとか、千早ちゃんが良い感じになってきたなあって思ったら、引退したり、海外行ったりだし。
舞ちゃん、つまんなーい。
でもでも、それもあと少しだけ。
面っ白いこと考えてるんだから。
まだ今回は出番ないけど、次からは私も参戦だから、楽しみにしててねー。
じゃ、第八話スタートね」
第八話『思い出をありがとう』
快活な音楽を背景に、少女たちが歌い、踊る。
伊織は小さい体を、しかし、艶めかしく動かして、それがおしゃまな雰囲気を生じさせ。
美希は実に楽しげに二人の間を泳ぐように移動しながら、その金髪を揺らし。
あずさはその柔らかな笑顔に、時折驚くように真剣な顔を混ぜて、見る者の心臓をはね上げる。
その三つの喉から迸る歌の、なんと甘いことか、なんと力強いことか。
「さすがだな」
スタジオの隅でステージの上の三人を見つめていたチーフプロデューサーがぽつりと呟いた。
隣のスーツの女性にだけ聞こえる音量で。
「そりゃあ、私が見込んだ三人ですから」
眼鏡をくいと押し上げながら、律子は同じ程度に抑えた声で応じる。
いまは歌番組の本番中。
スタジオにはテレビ局のスタッフのみならず、他の事務所のアイドルや歌手、わずかとはいえ抽選に受かった幸運な観客たちもいる。
自慢話を大声で出来る場所ではなかった。
「しかし、まさかBacchusがバックダンサーに呼ばれるとは思わなかったよ」
そう、チーフの言葉通り、いま、竜宮小町の背後では、真、響、貴音の三人が踊っている。前の三人よりははるかに複雑なダンスを。
「あら、でも、あっちもさすがですよ」
律子が内心舌を巻いているのは、Bacchusの三人の、存在感の維持し方だ。
皆、心得たもので、黒子に徹する動きが出来ていた。
目立ちすぎず、一方で、ダンスで音楽をビジュアル化することにも成功している。
いかに同じ事務所のユニットであり、真たちがダンスにおいてぬきんでた技倆を持っているとしても、
アイドルがステージで自分を殺すのはなかなかに難しい。
あの三人ならそれが出来ると踏んでのバックダンサー起用であったにしても、これ程見事に演じられると、
律子としてはBacchusの底力に驚嘆してしまう他ないのだった。
「あいつらは、ちょっと職人気質が強すぎる。うまいのはいいが、もう少し弾けてくれてもいいんだがな」
「トークとかでは弾けてるからいいんじゃないですか?」
「ステージを下りると、ツッコミ不在のボケ集団だからな」
ステージ上の恐ろしいほどの迫力、そして、バラエティや紀行番組での、真剣なのはわかるのに明らかにズレた受け答え。
Bacchusのファンは、三人のそんな落差を気に入っているし、愛している。
真があくまで王子様を通し、響が傲慢ともとられかねないほどの強い態度をとり続け、貴音がミステリアスな銀髪の王女を
押し通していたなら得られなかったであろう人気。
それは、各人の内面を掘り起こし、それらを生かせるような仕事をセッティングしてきたチーフプロデューサーの手腕を示している。
「まだまだね……」
律子はぐっと唇を噛みしめ、歯の間から押し出すようにしてそう言った。
「どこか、おかしかったか?」
「ああ、いえ。全体のことです」
自分の言葉に首を傾げて伊織たちの動きを見ているチーフに、律子はぱたぱたと手を振る。
「これがデビューなんだから、そりゃあ、まだまださ」
「ええ。まず目指すのは、過去の私を越えることですね」
「最初の目標がそれってのは凄まじいな」
チーフは、律子の宣言に苦笑しながらも、その返答に否定的な響きを込めなかった。
あの日高舞とすら競り合ったトップアイドル秋月律子という位置を越えるなどというのは、
容易ならざることである。
だが、当の律子であるからこそ、その場所を目指さねばならない。
そのことも彼にはよくわかっているのだった。
「もちろん、小目標、中目標はきちんと設定してありますよ」
「わかってるさ。さ、終わるぞ」
「はい」
「しっかり三人を迎えてやれよ」
曲はもう終盤に入っている。
司会者とのやりとりは、次のグループを挟んでのことになるから、まずは六人はステージからはけて、
こちらにやってくるだろう。
「ええ、わかってま……。チーフはどこかに用事ですか?」
自分から離れて歩き出そうとする彼に、律子は不思議そうに訊ねる。
「ああ、いや、スタジオを出はしないさ。
ただ、Bacchusを出迎えるのは別の場所にしたほうがいいだろうからな」
「そういうことですか」
「じゃあな」
彼女に背を向け、ひらひらと手を振って、チーフは歩み去る。その様子では、
スタジオの逆の壁際まで行くようだった。
「はい。……ありがとうございます」
彼女は、彼の背に向けて、深々と頭を下げる。
そのことを知ってか知らずか。
彼は曲が終わりきるまで、律子のほうを振り返ることはなかった。
竜宮小町のデビューは実にうまくいったと言っていいだろう。
有名な音楽番組での初お披露目。
apricoTやBacchusという、同事務所内の別ユニットのライブへのシークレットゲスト。
そこからPVの積極的な展開を経て、あずさが主演する新ドラマの主題歌に採用されたことで、
ニュース等でも情報が流れた。
これによって、元々人気のあった星井美希、水瀬伊織、三浦あずさの三人が竜宮小町という
新ユニットを結成した事実は知れ渡った。
後の展開は、それこそ三人と、律子の実力次第というところであった。
だが、一方、涼の移籍にはちょっとした不幸が訪れていた。
『突然の移籍にはなにかよからぬ背景が?』
『新事務所に移ることで、女装に続き、新たなカミングアウトを行うとの憶測』
『秋月涼、やっぱり、ゲイだった?』
そんな言葉と共に扇情的なイラストが描かれた紙面を前にがっくりとうなだれているのは秋月律子。
一方、その対面には当の涼が神妙な顔で座っている。
いま、『オフィス秋月』のあるパーティションの中には従姉弟二人きりで、その双方が黙りこくっているため、
周囲の音がよく聞こえてきていた。
765プロの活気ある喧騒を背景に、その空間は冷え切っている。
「ごめん、涼。私のミスよ。こんなの出させるなんて」
冷気を発しているかのような雰囲気の女性が、ため息と共に謝罪の言葉を舌に乗せる。
一方、それを受け止める青年は、どちらかといえば戸惑っているように見えた。
「いや、こんなゴシップ誌の記事でそんなに落ち込まなくてもいいんじゃないかなあ?」
たいしたことでもないと言うように笑みを見せる涼。
その温かな笑顔をじっと見つめ、しかし、律子はさらに困ったように眉根を寄せた。
彼女はしばらく躊躇うようにほうぼうに視線をやった後、涼をまっすぐに見て切り出した。
デスクの下では、膝の上の拳がぎゅっと握りしめられている。
「涼、やっぱり、あなた、私のこと憎んでる?」
「はぁっ!?」
突然の問いかけに、涼は飛び上がるほど驚き、素っ頓狂な声をあげた。
「な、なに言ってるんだよ。僕が律子姉ちゃんのことを嫌いになれるわけないだろ?
まして、憎んでるなんて、なんでそんなこと……」
しどろもどろになりながらも、涼は真剣な面持ちで言葉を連ねる。
従姉の悲痛な表情を見れば、必死にもなるというものであった。
「うん。私だってそうよ。なにがあったって、涼のことを嫌いになんてなれないし、あなたもそうであってくれると信じてる。
でもね、だからこそ、それに甘えて、ひどいことをして来ちゃったって思うの」
「ひどいことって? ああ、まあ、昔、色々おもちゃにされたことはあるね。でも、それはさあ……」
「ううん、そういうのじゃない」
あれ? と小首を傾げる涼。
律子はさらに背筋を伸ばして座り直し、張りのある声で一気にしゃべり出す。
「涼。あなたは、すばらしい才能の持ち主だわ。
いまだって、元女装アイドルっていうレッテルを貼られて、それでも第一線で活躍できているのは、
あなたの類い希なる能力あってこそのものよ。
でも、それは、本来私が押しつけなければ存在しないはずのハンデだった。そうでしょう?」
「いや、律子姉ちゃん……」
「いくら涼がかわいいからって、女の子でアイドルデビューなんて……。その場の勢いとはいえ、私は……」
「あー、ストップ、ストップ。ス・トーッ・プ!」
さらに延々と続けそうになる律子に、涼は彼女のデスクの上に身を乗り出して制止する。
いきなり間近に迫ってきた従弟に、彼女は目を丸くして、軽く身を仰け反らせた。
「落ち込むと、もうなんにも聞こえなくなるの、悪い癖だよ、律子姉ちゃん」
「う、うん……」
まるで子供を叱るように優しく言うのに、自分の暴走を自覚したか、かっと頬を染める律子。
「そりゃあ、僕は結局876から女の子デビューしたわけだけど、あれは、まなみさんが876なら男の子で
いけるって言うからついていったわけでしょう?」
「そう……だったわね」
「じゃあ、律子姉ちゃんは責任ないじゃない」
視線と共に落ちる沈黙。
何ごとか思い出すかのように律子の表情が移り変わり、そして、もう一度、その顔が持ち上がった。
「で、でも、私だって女の子でって言って……」
「うん、だから、そっちは断ったでしょ?」
「それは……。そうだけど」
涼はようやくのように、なにが問題かを悟った。
ゴシップ誌の飛ばし記事そのものは、おそらくきっかけにすぎない。
ことある毎に過去の女装アイドル時代を持ち出され、色物として扱われかねない涼の立場。
自らがプロデュースするアイドルのそんなウイークポイントを改めて自覚した彼女は、その弱みを生み出したのが
自分であると思い込み、自らを責めているのだろう。
たしかに、経緯を考えれば、涼とて恨み言の一つや二つ言いたくなる気持ちもないではない。
だが、ふざけてそう思う事はあっても、本気で律子を責めるつもりなど毛頭ない。
だから、彼ははっきりと、言い切った。
「876での女装デビューは第一に石川社長、第二にまなみさんの責任だよ。
受け入れた僕の責任はもちろんとして、だけどね」
「涼……」
「だいたい、もし恨むなら、二枚舌のまなみさんを恨むでしょ」
後から考えても、あれはひどいと思うんだよね、と涼は呟いた。
僕のことだから許すけど、とも付け加えて。
「ま、そもそも誰も恨んでなんかいないよ」
涼は律子がなにか口を挟む前に急いで続けた。
「それに、律子姉ちゃんがいたから、僕はデビューできたわけだし。
感謝こそすれ、憎んだり恨んだりするわけないだろ」
「でも……」
「もっとも、少し後悔はしてるけどね」
「やっぱり……」
「違うってば」
再び落ち込もうとしている従姉の姿に苦笑して、涼は、一言一言区切りながら続けた。
「後悔してるのは、あの時律子姉ちゃんについていかなかったことを、だよ」
「え? だって、そうなったら765から女の子としてデビューよ? 変わらないじゃない?」
「そうかな? ねえ、律子姉ちゃん、よく考えてみて」
驚いたような顔の律子に、涼は指を一本立てて、ぴっぴと振って見せた。
「あの時はたしかに律子姉ちゃんは僕を女の子としてデビューさせようとしていた。
でもね、そんなこと、実際出来る?
律子姉ちゃんはいまみたいに社長なわけじゃないんだよ? ただの所属アイドル。違う?」
「……う」
「さすがに僕にとっても印象的な出来事だからさ。色々と考えてみたことがあるんだ。
あの時、こうしてたらどうなったのかなって」
律子が難しい顔をしているのに一つ肩をすくめてみせる涼。
「それで思ったんだけど、あの時、律子姉ちゃんについていったら、結局は男性デビューだったと思う」
「で、でも……」
「第一に、あの頃の765はもう売れっ子をたくさん抱えてて、876ほどは小さな事務所じゃなかった。
第二に、高木社長は石川社長ほど、リスクを取らない……と思う。これは自信ないけど」
「……間違ってはいないと思うわ」
しばし考えている様子の律子だったが、涼の言葉に、躊躇いがちに頷く。
「そうかな?
ともかく、あの時点で売れてる自社のアイドルの従弟を女装させて売り出すって、律子姉ちゃんにも事務所にもリスキーだからね。
やらないと思うんだ」
「うん……」
「第三に、律子姉ちゃんが考え直すと思う」
律子はさすがにその意見には軽々しく同意できないようで、しばらく涼の顔を見つめたまま固まった後、
静かな声で訊ねかけた。
「……なんでそう思うのか、訊いても良い?」
「うん。さっきも言ったとおり、リスクが高いからだよ。律子姉ちゃんは、たまに勢いでがーってなっちゃうこともあるけど、
基本は分析能力の高い人だから。
いくら律子姉ちゃんが僕のこと、イケメンアイドルが無理な人材だと思ってても、女装させて売り出すよりは、
下積み積ませて男でデビューさせる方が、リスクは低いもん」
涼はごくんと唾を飲み込んで一息吐いてから、続けた。
「それに、『秋月律子の従弟』っていう宣伝もできる。これは同じ事務所じゃないと柔軟に出来ないよね。
それを前面に出すにしろ、まるで触れないにしろ」
「それは……まあ」
「だから、律子姉ちゃんは考え直して、男性アイドルとしてデビューさせてくれると思うんだ。
さすがに連れて帰って、やっぱりやめるってまではしないだろうし」
その後の沈黙は、涼には実に長く感じられた。
言葉もない中、近い距離でまじまじと見つめられ続けることは、いかにアイドルとはいえ緊張する。
ましてや、相手は律子なのだから。
「……涼」
「ん?」
「色々……考えてたのね」
なにか厳かとでもいうような気配を漂わせながら言う言葉に、彼はなにか手応えのようなものを感じ取った。
律子が彼を認めてくれたような、そんな気がしたのだ。
「それは、さすがにね。アイドルデビューして、人生変わったってのはあるから、色々考えるよ。
あ、別にいまが嫌とかってことじゃないよ?」
「わかってるわよ」
涼が念を押すのに顔をしかめて応じる律子。
いつもの調子が戻ってきたな、と涼は嬉しくなった。
「それに、僕、女装してた時のこと、忘れたいとかも思わないよ。
本当に女の子として見られてたことは、男としては複雑だけど。でも、活動自体は、僕の大事な思い出」
そこで、涼は自分でもとっておきの笑顔と思える表情を律子に向けることが出来た。
「だから、大丈夫だよ、律子姉ちゃん」
「なにがよ……」
そう言いながら、律子の口元にはとても優しい笑顔が刻まれている。
従弟の気遣いは、たしかに彼女に届いているのだろう。
涼は体の力を抜き、軽い調子で言う。
「それに、本物のゲイの皆様には、僕って受け悪いらしいよ?」
「そ、そうなの?」
「うん。スタイリストさんでそういう系の人がいるんだけど、ノーマルってもろわかりだから、からかうならいいけど、
本気でアタックするつもりはないってさ」
「……はあ」
呆れたような声に、涼は声を低める。
「あんまり詳しくは……聞きたくないけどね」
「そうね……」
その時、妙な空気になりかけた二人を、ノックの音が救う。
律子が応じると、ドアを開けて入ってきたのは、高木社長であった。
「ちょっといいかね」
「社長? なんでしょう」
「うむ。765のメインスタッフを全員招集した。律子君にも同席してもらいたい」
緊迫した面持ちでそんなことを言う社長に、律子は目を剥く。
「それは構いませんが……。一体何ごとです?」
「うん。それは……。同席は涼くんだけか。ならばちょうどいい」
社長はちらと涼を見やり、納得したように頷いた。
「実は、石川君から、あと一時間後に、日高舞の移籍会見を行うという報せがあったのだ。
テレビでもネットでも生中継するそうだ。
極秘のようだが、うちに知らせてくれたのは、まあ、これまでのつきあいというやつだな」
「移籍会見ですか。それは……たしかにインパクトはありますね」
律子が言うのに、社長は小さく首を振る。
「いや、それだけには留まるまい。
たしかにただ移籍するだけでも大騒ぎではあるが、わざわざ会見して当人が出て来るというのだ。
これは……なにかある」
その言葉に、律子と涼、二人の顔が揃って引き締まった。
「わかりました。すぐに行きます」
「ああ、第一会議室だ。よろしく頼むよ」
それだけ言うと、高木社長は気ぜわしげな歩調で部屋を出て行く。
残された二人は顔を見合わせ、そして、どちらからともなく頷き合うのだった。
その顔は、緊張と闘志に充ち満ちていた。
第八話 終
本日の投下は以上です。
なお、次回は出来る限り早く行きたいところですが、遅くとも二週間位内には投下します。
第九話『私はアイドル』
「ネット中継はもちろん、民放各社に生放送で割り入るとか、さすがの派手好きね」
伊織は、律子が広げたノートPCの画面を見つめながら呆れたように呟く。
765スタッフによる緊急会議の途中、予定時刻より三十分前に、ネット上に日高舞移籍会見の情報が流れた。
詳しい情報は明かされず、しかし、各所から流れ出た断片の数々は、アイドルの情報に敏感な若い世代を惹きつけ、燃え上がらせた。
わずか三〇分。
しかし、すでにネット中継の視聴者はメインサーバーだけで万を超える。
予備や別の中継に分散していることを考えれば、かなりの視聴者がいると考えられた。
そして、高木社長が掴んでいる情報に拠れば、民放全局の番組途中で、会見が放映される予定になっているという。
765プロ及びオフィス秋月では、ひとまず会議を会見予定時刻の十数分前に切り上げていた。
プロデューサー、マネージャー勢は、事務所にいる担当アイドルと共に視聴するべく、アイドル達を集める。
律子は涼と伊織をパーティション内に呼び寄せていた。あずさと美希は仕事に出ているためだ。
会見場の映像がようやく映り、そして、中継担当の女性が話を始める。
金髪の年若い女性の姿を見て、律子が眉を顰めた。
「ネット中継の担当は彩音か……」
「あれ、この人って絵理ちゃんの友達の人だよね?」
「ネットアイドルのサイネリア。いまはViDaVoのWeb担当もやってるわね」
涼も伊織もその人物には見覚えがあるらしい。
だが次に律子が放った言葉には揃って驚きの表情を浮かべた。
「そう。ついでに、私の同級生」
「え?」
「同級生なのよ。それ以上に友達……いえ、親友って言っていいでしょうね。
……ま、私は、彩音がサイネリアだとは丸っきり気づかないで卒業しかけたんだけど」
「ふーん。他所ではこの格好してないの?」
美希よりも明るい色の金髪。これに気づかないというのは難しいだろう。
普段は隠していたというのが妥当な推測であった。
「してなかった、ね。卒業間際にこの格好で登校してきたわ」
「へえ……」
なにやら、色々と因縁があるらしいわね、と伊織は思う。
だが、それを問いただす時間はなかった。
「始まるよ」
涼の指摘通り、日高舞の会見が始まろうとしていた。
高木社長以下の予想通り、会見の名目となっている876への移籍話については、早々に切り上げられた。
移籍そのものも衝撃であったが、その先が娘である日高愛が所属する876とあって、納得という雰囲気もあったのは確かだ。
話は、さらにその先へ進んだ。
「それでね、社長が私の移籍記念に、大会を開いてくれるらしいの」
日高舞と石川社長が並んで座る会見席の頭上に掲げられた額から、幕が落とされる。
『最強のアイドルは誰か?』
そこに書かれていたのはその一文。
「最強アイドル決定戦(仮)を行っちゃいまーす!」
ざわり、と会場が揺れる。
その様子は画面の向こうにも伝わっていた。
最強という、アイドルには似つかわしくない、しかし、この人物が発するとなればなるほどと思わせる、その言葉。
「歌でもいい。ダンスでもいい。いえ、ポーズを決めるのでも、喋りでもいいわ。
とにかく、誰が一番観客を沸かせられるか、興味はないかしら?」
それまでの破天荒に明るい印象から一転、落ち着き払った大人の女性の艶を見せながら、日高舞は続ける。
「誰が本当のトップなのか、決めましょうよ」
しん、と沈黙が落ちた。
誰もが口を挟めないほどの凄味のある笑みを、彼女は浮かべていた。
そして、その沈黙の中、スタッフが資料を配付し始める。
「えー、ただいま大会の概要が配布されました。
それによると、予選開始は二ヶ月後、本選は半年後に設定されているようです。
そして、予選に三ヶ月、本選に一ヶ月……? なんデスカ、このスケジュール!」
中継に、サイネリアの驚きの声が入る。ざわつきようからすると、他の放送局の記者たちも揃って戸惑っているようであった。
アイドルアルティメイトのように三週に渡って、というのではなく、一ヶ月間丸々、とある野外フェス会場を借り切っていると、
そこには明記されていたのだ。
「そりゃあ、それだけかかるから、そうしてるのよ」
説明を求められるより先に、日高舞は艶然と微笑んでそう言い放つ。
「簡単に言うとね、今回の大会、当人が負けを認めるまでは負けないの」
「は?」
その声は、誰のものだったろう。あるいは、誰もがそう感じていたか。
「本選参加グループは十六組。くじ引きで相手を決めて対戦してもらうけど、
負けたって判定されたほうが負けを認めなければ、勝負は決まらないで続いていくの。
予選である程度の票を取ったグループは負けを認めない子に挑戦できる。
ここで本選出場のグループに負けを認めさせることが出来れば、敗者復活も狙えるシステムよ」
そこで彼女は肩をすくめて見せる。
そんな動作一つ取っても目を離せなくなるものを持っているのが日高舞という人物であった。
「まあ、細かい調整はまだまだだけど、とにかく、自分が負けたと思わなければ、ずっと出場できるってわけ」
「そんな、無茶苦茶な」
「ええ、無茶ね。でも、楽しいでしょう?」
会見は続いている。
だが、これ以上は見ていてもあまり意味はないだろう、と律子は思った。
彼女は椅子の背もたれにどんともたれかかり、ふうとため息を吐いた。
「まったく……」
そうして何ごとか続けようとしたところで、伊織の携帯が着信音を鳴らす。
彼女は取り出した携帯の画面をしばし見つめ、ふむ、と頷いた。
「美希からメール。当然参加するって律子に伝えておいてだって」
「素早いですね」
涼が笑い、律子も苦笑いする。
仕事中なのに、と思いつつ、出先でもこの話題で持ちきりなのだろうと律子は推測した。
自分も電話を取りだし、あずさの仕事先について行っているマネージャーにかける。
「もしもし、秋月ですが……。あれ、あずささん?
ああ、移動中だったんですか。はい。ええ、その件で……」
運転しているマネージャーに代わり電話に出たあずさは、既に日高舞の会見について知っているようだった。
車の中で中継を見ていたか聞いていたかしたのだろう。
「はい、わかりました。ええ、じゃあ、詳しくは帰ってきてからで」
「なんだって?」
「参加するかどうかの判断は、伊織と私に任せるって。ただ、嫌じゃないってことは言っておきますって」
「あずさらしいっていうか、大人な対応っていうか……」
伊織がふるふると頭を振るのに、律子は微笑んでみせる。
「まあ、正直、私にも決定権はないんだけどね。
さすがにこれだけの大会参加となると、チーフの承認がいるわ。私はあんたたちと自分の意向を伝えることになるわね」
「もちろん、参加よ。逃げたとか言われたくないもの」
「でも……」
「でも?」
律子が躊躇うようにしているのに、伊織は小首を傾げる。
きっと、日高舞と876プロは、今後も様々な媒体を通じて、この大会を宣伝することだろう。
そんな状況で、アイドルの中からトップを決めると言われて、高ランクのアイドルが出場しないのは、実質的には難しい。
その後のイメージを考えても逃げたと言われるのは避けるべきなのだ。
もちろん、スケジュールの問題はあるにしても。
「ちょっとひどい大会よ? これ」
額に皺を刻みながら、律子は言う。
それを見ながら、伊織は、後で注意しておくべきだわ、と思っていた。
せっかくの綺麗な顔にそんな皺を作る必要はないのだから。
「要は、相手に負けを認めさせればいいんでしょ? 明らかな実力差を見せつければね」
「その通りではあるけど……。意地の悪いシステムだからねえ……」
「いくら負けてないって言い張るにしても、負けた方は連続でのステージになるようだから、喉や体の不安はあるね……」
既にネットにアップされていた大会概要のPDFをチェックしながら、涼が呟く。
負けてないと言い張って会場に残っても、予選落ち組との対決を五回続けて行って勝利しなければ、
最初に勝ったグループとのリベンジマッチにはたどり着けないらしい。
なかなかに過酷なルールのようであった。
「さすがに潰れそうなら私たち裏方が止めるけど……。でも、それよりイメージの問題のほうが大きいでしょうね」
律子は指をくるくる回しながら、話を続ける。
どうやら、彼女の中でもまだ固まりきっていない思考を形にしようとしての無意識の動作のようであった。
「明らかな勝敗がついていても、自分は負けてないって主張すれば、潔くないって言われてイメージが傷つくかもしれない。
といってあっさりと負けを認めるのも、それはそれですぐ諦めると言われかねない」
「勝つにしろ負けるにしろ、ファンを納得させつつじゃなきゃいけないってわけだね」
「そうなるわね」
それでも、と律子は呟いた。
「あななたちなら、きっとそんなこと軽く出来ちゃうわね」
「当たり前じゃない。そもそも、負けないもの」
「うん、勝つよ」
二人の言葉に、律子は満面の笑みを浮かべ、先程まで回していた指を畳み、ぎゅっと拳を握りしめるのだった。
——竜宮小町、秋月涼、参戦。
日高舞移籍会見の映像を、とあるイベント会場の控え室で食い入るように見つめる三人の女性の姿がある。
彼女たちは、大会の概要が発表されると共に、わっとわき上がった。
「ふふ、ついに雌伏の時が終わり、私たちの時代が再び始まるようね」
自信満々に言い放つのは、伊織の幼なじみにして東豪寺プロダクション社長、東豪寺麗華。
「ドサ周りも飽きたからねー」
かわいらしい顔に不敵な笑みを浮かべて見せるのは、朝比奈りん。
「そろそろ、私たちの活動をしても、いいかもしれない」
その静謐な表情に似合った、しかし、実に美しくよく通る声で呟くのは、三条ともみ。
かつて765プロととアイドルGPにおいて鎬を削った、魔王エンジェルの面々であった。
だが、麗華はもはやその名を捨て去り、新たなプロデュースを行っていた。
「さあ、幸運エンジェルのプロデュースを始めましょう」
いまやかつての幸運エンジェルの名を取り戻した三人は、顔を見合わせて、揃って透明な笑みを浮かべる。
「……と、まあ、元魔王勢は意気軒昂なわけだけど」
同じ控え室でやりとりを見守っていた女性が、そんなことを隣にいる担当アイドルに向けて呟いた。
ウェーブのかかった髪を揺らしながら、眼鏡の女性が温かな笑みを返すのに、さらに問いかける。
「私らはどうしようかね? どうしたい? 美心」
「そうですね。最強のアイドルとやらにも、日高さんにも特に興味はありませんけど」
彼女はさらりととんでもないことを言ってのける。
それが出来るのは、彼女が『伝説』を飛び越えて、アイドル業界の『神』とさえ呼ばれたことがあるからかもしれない。
彼女こそ、圧倒的な実力でトップアイドルに駆け上り、アイドル神とまで呼ばれた才能の持ち主、佐野美心である。
「きっと、あの人たちも出てきますよね」
「そりゃそうでしょうね」
ふふ、と美心は笑った。
楽しそうに。
実に、希望に満ちた笑みを。
美心のプロデューサーは担当アイドルの決意をそれだけで十分感じ取った。
「じゃあ、まあ、久しぶりに本気出しますか!」
藪下幸恵。
超売れっ子プロデューサーとして業界に知られる人物が、にやりと笑みを浮かべた。
——魔王エンジェル改め幸運エンジェル、佐野美心、共に参戦。
会見の後、近くのホテルのロビーに陣取って、スマートフォンに記事を書き連ねていたサイネリアは、一人の女性に捕まった。
記事を編集部に送信し、Web版ViDaVoへのアップロードと時限公開設定まで終わらせて、
彼女は、熱心に語りかける傍らの女性に目をやった。
「コーヒーの一つでも頼んだらどうデス?」
虚を突かれたように黙りこくるのは、桜井夢子。
彼女は紅茶をオーダーしてから、改めて先程までの話を繰り返した。
「まあ、申し出はわかりましたケド……」
じゃあ、とぐいと体を突き出してくる夢子を、サイネリアは胡散臭げに見やった。
「アタシがなんであんたと組んであの化け物の大会に出なきゃいけないんデス?」
そう、夢子の提案とは、自分と組んで日高舞の大会に出場して欲しいというものであった。
夢子はその問いかけに、あっさりと答える。
「私一人じゃ、勝てないからよ」
「アタシを巻きこめば勝てると? そんな甘いものじゃ……」
「わかってる。わかってるの。でも、私は勝たなきゃいけない」
ぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえてくるかのような表情であった。
サイネリアは口をすぼめて、それを見つめている。
「そのために可能性があるのなら、すがりつく。突破口が見えるのなら、どれだけ遠くても走り出さなきゃいけないの」
サイネリアは低い声で夢子に訊ねかけた。
「……秋月涼と秋月律子、デスカ?」
「知ってるんだ」
「ま、アタシはViDaVoの編集ですからね。それに、ネットの噂も、色々と耳に入ってくるもので」
「知ってるなら、説明の必要はないでしょ。日高舞なんてどうでもいい。倒すべきは……」
強烈な熱意と敵愾心を露わにしながら騙る夢子を、サイネリアは横目で眺めるようにしている。
「……律子、ねえ」
ぽつりと呟いたのも、まるで独り言のようだ。
「ネットアイドルが、リアルでも通用することは、センパイが既に証明してる。
とはいえ、アタシが、リアルで通用するかは、まだわからないわけで」
夢子はもう語るべき事は語ったのか、口を閉じ、サイネリアの顔をじっと見つめている。
「……ま、協力してやりますか。体験取材も兼ねて。編集部の説得、アンタも協力しなさいよ?」
「もちろんよ。ありがとう」
ほっとしたように夢子が礼を言うのに、サイネリアは意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「これ、終わったら独占インタビューしますから。下手なところで負けたら記事の意味ありませんからね。気合い入れて下さいヨ」
「もちろん!」
二人はそう言って微笑みあい、がっちりと握手を交わすのだった。
——桜井夢子、鈴木彩音の新ユニット『inVincible』参戦。
翌日、765プロには竜宮小町の三人を除く所属アイドルの面々が集められていた。
話題はもちろん、日高舞の大会についてだ。
「それで、765からは、4グループ参加ですか?」
真がうきうきとチーフプロデューサーに訊ねかける。彼女は当然のように大会参加を望んでいた。
だが、チーフは首を横に振る。
「いや、apricoTとBacchusは一時活動を休止する」
「え?」
「二つのユニットの六人には、復活する『765エンジェル』となってもらう」
765エンジェル。それは、765プロの総力を結集する時につけられるユニット名だ。
アイドルGPで魔王エンジェルを下したのも、アイドルアルティメイトでプロジェクト・フェアリーを倒したのも、765エンジェル。
その構成が変化しようとも、それは765プロそのものを意味する。
「……どうやら本気のご様子ですね」
かつて自らが敗れたユニットの名に、貴音はゆったりと微笑む。
「ああ。riolaや竜宮はこの時点で休止するわけにはいかない。
デビュー後ようやく……というところでブレーキをかけたらだめになってしまうからな」
亜美と真美を安心させるような優しい笑みを浮かべ、チーフは続ける。
「だが、お前たちは違う。すでに活動してそれなりに時間も経っている。休止と再活動に支障はないはずだ」
「つまり、単体では……厳しいってことですか?」
春香が複雑な表情で訊ねるのに、彼は再び首を横に振った。
「お前たちがどうこうということじゃないんだ。出来ることなら、765の所属メンバー全員で765エンジェルとしたいところだからな。
千早も呼び戻してだ。いや、律子も再デビューさせられるならさせたいところか」
さすがに、無理だけどな、とチーフは肩をすくめた。
「それほど……なんですか?」
「それほどだよ。こんな無茶な大会、それくらいの覚悟がなきゃ、やってけないさ」
雪歩がおずおずと訊ねるのに、チーフはふんと鼻を鳴らす。
彼としては、日高舞と876プロに主導権のある今回の大会は要注意というところらしい。
「お前たちの今後を考えるなら、本来は、こんな無茶は避けるべきかもしれない。しかし、出ないというのも……な」
「ありえないでしょ。出ないなんて!」
響が言うのに、やよいたちもうんうんと頷いている。
その横で、亜美と真美が小首を傾げていた。
「んー、亜美たちは変わらず頑張ればいいってことかな?」
「かな?」
「ああ、そうだ。それに、二人だけじゃなく、765エンジェルに統合されるメンバーも、これまでと別に変わることはない。
レッスンをして、実力を積み、ファンのために活動する。基本を貫くことがなにより大切だ」
そこでチーフは言葉を切り、皆の顔をじっと見つめる。八人のアイドルたちも、同じように真剣な顔で彼を見返していた。
「あまり意識せず、頑張っていこうじゃないか」
「はいっ!」
——riola及び765エンジェル、参戦。
「おっさん、どういうことだ!」
常に静謐を保つ961プロ社長室に、時ならぬ喧騒が訪れる。
それは、ジュピターのリーダー、天ヶ瀬冬馬がもたらすものであった。
「どういうこと、とは?」
自らの席で書類にサインをしていた黒井社長が驚く風もなく顔をあげる。
「今回の決定だよ!」
「我が961プロは、君たちジュピターを全力をもってサポートし、日高舞の大会にエントリーする。そのなにがおかしいのだね?」
「いや、それについてはありがたいくらいだ。俺たちもやる気だからな。なにしろ最強を決めるっていうんだから。でもよ」
「なんだね、はやくしたまえ」
感情が昂ぶっているのか、なかなか本題に入ろうとしない冬馬に、黒井は冷静な声で先を促す。
冬馬はそれを受けて一つ深呼吸してから一気に声を放った。
「なんで、そのスタッフにあんたの名前がないんだ。最初は司令塔だからかと思ったが、そうじゃねえって言うじゃねえか」
「ああ、そのことか。そうだな。961プロの全スタッフは君たちを最優先に動くが、私には少々別の用事があってね」
「別の用事?」
「ああ」
しばらく待ってみる冬馬だが、黒井は先を続けようとしない。
「……その様子だと話す気はなさそうだな」
「ないな」
そこで黒井は小さく笑みを見せた。
「961プロとしてはジュピターを最大限に支えていく。お前が知っておくべきなのはそれくらいだ。
他の多くのユニットではない、お前たちを、だ。
その意味を噛みしめろ」
「……わかった」
疑問も、不安もなにもかもをかみ殺し、彼は頷く。その様子を、黒井は静かに見つめていた。
——ジュピター、参戦。
日本を離れること、数千キロ。アメリカのとある都市にあるホテルの部屋で、電話が鳴った。
「Hello」
受話器を取り、そう応じるのは、如月千早。しかし、彼女の耳には耳慣れた日本語が聞こえてきた。
『如月君かい? お久しぶりだね。木場真奈美だよ』
「ああ、木場さん。こちらこそ。帰国なさってから、どうしているか心配だったんですよ」
『よかった、覚えていてくれたか』
「忘れるわけないじゃないですか」
『はは、そうかな?』
電話の向こうで明るい笑い声を立てるのは木場真奈美。
千早とその担当プロデューサーが海外展開の足がかりにとアメリカにやってきた際、同じ日本人だからと紹介された人物だ。
その後、こちらのミュージシャンやスタジオの事情に疎い千早たちは、彼女によく助けられた。
忘れられるはずがない。
真奈美自身、スタジオボーカリストとして、千早の曲のコーラスなどを担当してくれていたのだし。
『ところで、いま日本では例の件でもちきりでね』
一通りの挨拶が終わった所で、真奈美が話題を持ち出した。
「……日高さんですか?」
『その通り』
「だと思いました」
日高舞の大会については、アメリカに滞在する千早でさえ、プロデューサーから参加するかどうかの決断を迫られている。
日本ではさらに騒がれているであろう事は想像に難くない。
『如月君はどうするのかな? そろそろ氷の歌姫の本性を皆に見せてもいい頃じゃないか?』
「本性……ですか?」
『ああ、そうだ。君は氷なんて言われているが、とんでもない。青く見えるのは、それは氷じゃない、炎だ』
真奈美の言葉に、千早は目を丸くする。これまで、そんなことを言われたことはなかったからだ。
『燃えさかる赤い炎ではなく、ひたすらに熱を蓄える、青き炎。それが君の本性だろう?』
「……なにを言っているのやら」
千早の否定の言葉は、かなり遅れた。
まるで、真奈美の言葉を噛みしめていたかのように。
『実はね、如月君』
「はい?」
『私もアイドルデビューというやつをしてしまってね』
ぽかんと千早の口が開く。
一つ唾を飲み込んで、千早は早口で訊ね返した。
「え? 木場さんがですか?」
『そうだ。言っておくが、これでも日高舞よりは若いんだぞ』
「いえ、年齢は別に……。でも、そうですか……」
『ああ。どうせなら、君と……。いや、さすがにこれはアイドルとしての先輩に不遜かな』
「ふふっ」
千早は笑う。真奈美の声は、内容とは裏腹に自信に充ち満ちている。
そのことが、彼女にはなぜか嬉しかった。
「私と戦うなら、本選まで出てこないと難しいと思いますよ?」
『おやおや?』
「わかりました。木場さんまで参加するとなれば、これは面白くなりそうです。それに……」
そこで、千早の目が光る。怪しく、そして、力強く。
「炎の歌姫っていうのも、一つの魅せ方かもしれませんしね」
『ああ、楽しみにしているよ』
——如月千早、参戦。
「高木はいるか?」
外回りから帰ってきた律子は、フロアの玄関口で他のスタッフと話しているところで、そう声をかけられた。
「はい? って、黒井社長?」
「秋月か……」
黒井は苦虫をかみつぶしたような表情で律子のことを見つめる。
律子は、スタッフに立ち去るよう促し、改めて彼に向き直った。
765と961の確執は以前からのことだが、彼女自身は黒井社長に特に強い悪感情を抱くほどではない。
下手に他の者に任せるより自分で相手をするほうがいいとの判断であった。
「貴様が引退しなければ、高木に頭を下げに来る必要などなかったものを」
「え?」
予想外の言葉に、目を丸くする律子。だが、黒井は気にするでもなく、言葉を続けていた。
「日高舞を倒せるのならば、貴様であろうと……。いや、言うまい。それに、もう765の一員でもないそうだからな」
「え、ええ。子会社って形で独立して……。いまもこのフロア内にはいますけど」
「そうか。改めて訊くが、高木はいるか?」
律子はホワイトボードと、時計をちらと見やり、一つ頷く。
「いらっしゃるはずです。案内しましょうか」
「ああ、頼む」
そういうことになった。
「本気かね」
黒井の話を聞いた高木の第一声はそれであった。
「そうでなければ、お前に頼みになぞ来るわけがないだろう」
「961プロはどうする?」
「我が社には優秀なスタッフが多くてな。私一人いなくても、十分物事は動くのだよ」
「まあ……たしかにな。こちらもそれはそう変わらない」
二人は複雑な表情で顔を見合わせ、揃って苦笑する。
「当人の説得は?」
「これからだが……。お前を通さねば、どう言ってもうんとは言ってくれないだろう」
「……ふむ」
高木は俯いて考え込む。黒井はそれを急かすでもなく、じっと待っていた。
「条件がある」
「なんだ」
「私にも協力させろ」
その申し出に、黒井は鼻を鳴らして応じる。
「当たり前だ。二人でなくては、まず間違いなく説得できん」
「ほう。そこまで覚悟の上か」
「何度も言わせるな。あの日高舞が誰を引きずり出したいか、お前だって承知の上だろうが。
二度と不完全な形で、あの化け物の前に立たせるわけにはいかんのだ」
その言葉になにか感じることがあったのか。
「……そうだな」
高木はそう言って額に手をやった。
「秋月律子、如月千早、それにジュピター。この三者が揃って居れば、あいつもあきらめたかもしれん。
だが、欠けている以上、どうしようもない」
「うむ……。如月君はともかく、律子君は難しいからな」
「だろう?」
うむう……と唸る高木に、黒井は身を乗り出して耳打ちする。
「高木。俺とお前なら出来る。そのために、この十年を積み重ねたんじゃないのか」
それが最後の一押しとなったのだろう。
高木順一朗は決然と顔を上げた。
「よし、わかった。やってみようじゃないか」
「ああ、行くぞ、高木」
そして、この後、765プロにいた社員たちは、驚嘆すべき情景を目にすることになる。
765と961、いまや芸能界を代表すると言っていい二つのプロダクションの社長二人が、
一人の事務員に対し、頭を床にこすりつけ、懇願する光景を。
「夢を、もう一度見させてくれ」
「共に、羽ばたこうじゃないか、小鳥君」
かつてミーティングで律子が伝え損ねたことが一つある。
日高舞に負けなかった五人の人物、その最後の一人こそ、かつてのアイドル音無小鳥。
——音無小鳥、参戦。
会見よりたった三日。
そのわずかな間にエントリーしたグループの数は、一〇〇組、一五〇人を超える。
まさしく日本中のアイドルを巻きこんだ戦いの火蓋が切られようとしていた。
第九話 終
本日の投下は以上です。
風邪のせいで遅れてしまって申し訳ありませんでした。
次回は年内にはなんとか。
小鳥「皆様、あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いします。
それにしても……なんで私まで……。それもこれも舞ちゃんが変なこと言い出すからで……。
っと、違う違う。
ええと、まさか書いてるほうも年を越すとは思っていなかったようですが、終わらないものはしかたないですよね。
今年は定期的に投下していくようなので、完結までおつきあいいただければ幸いです。
なぜか私がアイドルとして活動するところまで描かれちゃうらしいですけど……。
そんなわけで、第十話はあと一時間くらいしたら投下する予定だそうです。では、失礼しますね」
第十話『光』
「三、四っ! ターンしてポーズ!……はい、ここで五分休憩しまーす」
律子の宣言と共に、それまで華麗なポーズを維持していた四人が体を休め、そして、一人ポーズを取り切れてるとは言えない状況で
ぷるぷると震えていた女性が床に崩れ落ちる。
「音無さん、大丈夫ですか?」
「……ら、大丈夫じゃないでふ……」
そのまま床に大の字に寝転がってしまった音無小鳥に、あずさはスポーツドリンクを差し出した。
小鳥は首だけを持ち上げ、ストロー状の飲み口にむしゃぶりついて、ごくごくと喉を鳴らす。
「まったく……。ダンスの基礎トレーニングであんなざまでどうするのかしらね」
「まあ……ダンスがメインじゃなくて、基礎体力作りみたいなものらしいですから……」
少し離れたところに座り込んだ伊織と、その横で苦笑する涼。
彼らの顔には、珠の汗が浮かんでいるが、小鳥ほどの疲労の影はない。
特に涼のほうはだいぶ余裕があるようだった。
「そういえば、言ってたね。小鳥は歌唱特化にするしかないとかなんとか……」
壁にもたれかかり、肩で息をしていた美希が、二人の会話に参入してくる。
彼女が話すのは、律子の分析。
それは、竜宮小町の日高舞の大会参加が正式に決定した日のこと。
律子が四人を呼んで、彼女独自の分析を披露したのだった。
「さて、チーフの承認も下りたので、あなたたち竜宮小町も正式に大会にエントリーしたわ。それに、大会参加者の顔ぶれもわかってきたの。
主催者発表ではないから、正確なところではないけど、まあ、業界の噂でだいたいね」
四人の手元には、律子が作ったらしい資料が渡されている。
そこに並んでいるのは、その噂とやらを元にした参加予定者の名前だ。
「……名前が売れてる人はほとんどじゃない? これ」
「ほとんどというより全員だと思うな。千早さんまで日本に帰ってくるなんて……」
涼が呆れたように言うのに、美希は彼女にしては珍しい真剣な声で続ける。
「チーフが愚痴ってたわよ。それなら、765エンジェルに千早も入れるべきだったって。まあ、あっちのプロデューサーに断られたらしいけど」
「そりゃあ、千早ちゃんのプロデューサーさんは千早ちゃんに惚れ込んでるものねえ……。千早ちゃんの実力で十分と考えるでしょう」
如月千早をプロデュースし、その海外進出にも千早と二人で挑んだもう一人のチーフプロデューサー。
たしかに彼は肩書きの上では765のチーフプロデューサーであるが、彼がそう呼ばれることはないだろう。
彼はなによりもまず如月千早のプロデューサーなのだから。
「まあ、千早は一人の方が動きやすいわよ。今回の765エンジェルは、歌よりも動きのパフォーマンスで狙ってくるだろうし」
「真と響がいるしね」
律子の予想に、うんうんと頷く伊織。
「その辺りも含めて、アイドルの全般的な評価について、話しておくわね。これまではチャートトップ辺りだけを考えればよかったんだけど、
今回に限ってはダークホースも大いに考えられるから」
「音無さんとかもいるもんなあ」
「ええ。小鳥さんを舐めちゃいけないわよ。なにしろ、黒井、高木の両社長が直々にプロデュースするんだから」
涼の呟きに、真剣な顔で、まるで講義するように指を振る律子に、美希が大げさに肩をすくめる。
「衝撃の展開すぎるの」
「まあ……。小鳥だもの、驚くわよね」
「あら、音無さんはとっても歌が上手いのよ?」
竜宮小町の三人はそうやってそれぞれに音無小鳥の黒井、高木両氏のプロデュースによるアイドル復帰と、
大会参戦の事実に対して感想を述べる。
伊織や美希に至っては小鳥がアイドルだったという事実そのものを知らなかったために、かなりのショックを覚えているようであった。
一方で、涼の驚きようは薄い。
彼はそもそも小鳥とはつきあいが浅く、あれだけ綺麗な人なら、アイドルくらいやっていてもおかしくないと感じて、それで済んでしまったのだ。
「はいはい、小鳥さんについての詳しい分析は後ね。まずは、現状、私がどんな風にアイドルを分析しているのか、そのツールの説明をします」
言いながら、律子はホワイトボードに向かい、そこに大きく四つの単語を書いた。
歌唱力。
表現力。
身体能力。
カリスマ。
それが、彼女が書いた四つの要素だ。
「一般的には雑誌の名前にもなっているとおり、ヴィジュアル、ダンス、ボーカルで評価することが多いけれど、
私の場合は、この四つの指標を用いているわ」
「歌唱力と身体能力はわかるし表現力はなんとなくわかるけど、カリスマってなに? 律子姉ちゃん」
「表現力は、一応説明しておくとビジュアルに加えて情感も含んだものね。
伊織が自分をいかにかわいく見せるかを知ってるとか、あずささんが悲しみの演技をどれだけ見事に出来るとか、そういうの」
律子は、その場にいる二人を例にとって説明した後で、涼の疑問に答える。
「カリスマは、場の空気を読み、それを支配する能力ね。765だと、やよいや春香が特に優れているわね」
「やよいも入るの? 語感からすると、それこそ日高舞とかをイメージするんだけど?」
こてんと小首をかしげる伊織。
あれは、もしかして、表現力についてわかりやすくするために、あえてあの表情を選んでいるのかしら、と律子は思考する。
そう思うほど、かわいらしい仕草と表情であった。
「ええ、日高舞はたしかにカリスマタイプね。でも、アイドルの場合はただ心酔させるだけの方向とは限らないわ。
やよいのように誰からも可愛いと愛されるっていう方向性だって、立派なカリスマでしょ」
「ああ、そういうこと……。ありがとう。理解したわ」
伊織が頷くのに、律子は他の三人の顔を見回した。皆が理解していると示したところで、彼女は話を進める。
「さて、現状、これらの四要素を特化させたアイドルと総合的にそれを伸ばしているアイドルがいるわ。
特化型のほうがコアな人気を得やすくて、総合タイプになればなるほどファンの裾野が広がるというのは、容易に理解できることよね。
現実的には極端な特化型は珍しいんだけど……。でも、千早とかもいるからね」
「んー、千早さんは、歌唱特化ってこと?」
「ええ。他にも、望月聖なんかがそうね」
「ああ、Saintの」
「そうそう。良く知ってるわね、涼」
「いや、年齢差すごいなあと思って気になってたんだよね」
Saintは水木聖來、望月聖のデュオユニットだが、メンバーの年齢差一〇歳という、不思議なユニットである。
なお、十三歳の聖が歌、二十三歳の聖來がダンスを主に担当する。
その答えに苦笑しながら、律子は話を続ける。
「問題は、今回の大会においてどちらが有利かということだけど……。
私自身の考えでは、予選では特化型有利、本選では総合タイプ有利じゃないかと思うわ」
「どういうことでしょう?」
「本選については、まだ情報が不足しているんだけれど、予選についてはほぼ現在出ている概要から変更はないと思うの。
はい、涼、概要を言えるかしら?」
あずさの問いに対する説明をする前に、律子は試験をするような調子で、従弟に問いかけた。
「え? 僕?
え、ええっと、本選参加十六組を選出するために、全国各地十六箇所の会場で予選を開催。
各会場で一組だけが選出される。選出方法は来場者による投票。各会場への割り振りはランダムで、出演者は当日の発表となる。
あとは……あー……」
「大会参加者の予選への参加は四回まで。つまり、四会場で敗退するまでは、完全な敗退ではない……だよね?」
言葉に詰まった涼の後を引き継ぐ形で、美希が補足する。
「よくできました。こういった選出方法の場合、それまでのファン層などは考慮の埒外にあるわ。
そのために出演者の情報を秘密にするんでしょうから。つまりは、一度のパフォーマンスでアピールしなければならない。
そういうことが得意なのは特化型になるわけ」
「だから、これまでのチャートの常連組以外からも……と律子さんは考えてるんですね?」
「はい。その通りです」
にっこりと笑って頷いた後で、律子は、少し斜め上を見るようにする。
「そうは言っても、既に売れている特化型の人も多いから、そのあたりはもう言わずもがなね。
たとえば、歌唱特化型の千早やカリスマ特化型の日高舞とか」
「それ以外で注意するユニットがあるってことよね?」
伊織が言うのに、律子は振り向いて、ホワイトボードにいくつかの名前を書き始めた。
「ええ、具体的には、歌唱力に特化せざるをえないであろう小鳥さん。
さっきも言ったこれも歌唱力特化の望月聖に加えて身体能力特化の水木聖來をあわせたSaint。それに……」
「ねえねえ」
いくつもの名前を書き連ねる律子に注目しながら、美希は不思議そうに訊ねた。
「なに、美希」
「書きながらでいいんだけど、小鳥が『特化せざるを得ない』ってどうして?」
「ん? 簡単よ。小鳥さんには現状、体力がないもの。他の事をやる余裕は無いからよ。
いまも保っている喉を利用するしかないでしょ」
その言葉に、伊織も複雑な表情を浮かべた。
「へぇ? でも、いまからなら十分……」
それに対して、既に注目しているらしい名前を書き終えた律子が応じようとした時だった。
「……あのね、伊織ちゃん、美希ちゃん」
あずさはおずおずと、なにか申し訳なさそうな表情で、そう声をかけた。
「たぶん、二人の年齢だとわからないと思うわよ? その……二十代の体力のつくりにくさって」
「それでも、三十代やその上より遥かに楽らしいですよ、あずささん」
「怖いわあ……」
神妙な顔で、なにかおぞましいことでも話すようにしている二人。
その異様な雰囲気に、伊織は眉を顰め、美希は顔を青くした。
「……わ、わかったの」
そこで、律子は気を取り直したように、ぱんと軽くホワイトボードを叩いてみせる。
「ともかく、あなたたちは、本選まで見据えて、これらの特化タイプのアイドルでさえ下せるほどの力を身につけてもらうわ。
竜宮はお互いの長所と短所を補って。涼は長所を伸ばし、短所を潰す。
びしばし行かせてもらうから!」
そう律子が宣言し、そして、彼女はその宣言通りに四人と新たに加わった音無小鳥を鍛えあげるべく、律子曰く『科学的に考え抜かれた』
特訓を繰り返しているのだった。
「たぶん、あれ、当人には言わない方がいいんだよね?」
「あ、当たり前ですよ!」
小鳥が歌唱特化にせざるを得ないという分析を思い出しながら美希が言うのを、涼が慌ててぶんぶんと手を振って制止する。
伊織は賢明にも我関せずと一人スポーツドリンクを飲んでいた。
「そういえば、美希たちは特化タイプとかないのかな?」
「ああ、律子姉ちゃんに後で訊いてみたら、みなさんはどちらかというと総合タイプみたいですよ。だからこそ集めたとか。
特に美希さんは全部のバランスがいい、究極の総合タイプになり得るって……あ」
「どうしたの?」
唐突に口をつぐんだ涼の様子に、美希がぐいと体を前のめりにしながら、彼の顔を覗き込む。
「あ、い、いえ……」
トレーニングウェアを盛り上げる形良い胸が自分の体に迫っていることを意識しているのか、顔を赤らめながら彼は口を濁す。
「むー。秘密はよくないの」
ぷうと頬を膨らませていた美希は、ふと思いついたように、がばりと涼に覆い被さった。
「ちょ、なにするんですか、わわわっ」
「さあ、喋る!」
美希の細い指が、涼の上着をめくり返し、そのなめらかな膚のお腹に滑り込む。
細かい動きでくすぐり始めるその指に、涼は悲鳴を上げた。
「うわあ! やめ、やめ、あははは、やめひぇっ!」
「むー、涼ちゃんの膚って男の子とは思えないくらいつるっつる! これはお仕置きしてあげなきゃいけないの!」
美希のくすぐりはさらに強度を増す。その勢いは、もはや最初の目的を忘れているかのようだった。
「ぎゃおおおん!」
涼が奇妙な啼き声を上げ、美希はさらにおかしそうにくすぐり続ける。
あずさはいつも通り鷹揚に笑い、小鳥は二人の絡み合いに目を白黒。
そして、伊織は大きく肩をすくめていた。
「なにやってるんだか……」
彼女は、涼が口止めされていたのに口を滑らせたのであろうことを理解しながらも、そんな呆れた声を出す。
美希に対する高評価をあえて当人に伝えようとしない律子も。
それを思わず口にしてしまう涼も。
汗だくの体で一応は男性である人物に抱きついてくすぐり始める美希も。
彼女にしてみればやれやれと言いたい相手であった。
「なにやってるのかしら」
じゃれ合う美希と涼の姿を見て、律子もまた伊織と似たような言葉を吐く。
注意するか、と思ったところで、レッスンルームのドアが開くのに気づいた。
そこに現れた男の姿に、律子の注意が向けられる。
「どうだ、調子は」
彼は彼女の横まで来ると、未だ床に寝転がってはあはあ息をしている小鳥の様子を眺めながらそう訊ねた。
「ああ、黒井しゃ……いえ、黒井マネージャー」
慌てて言い直す律子を横目に見つつ、黒井はなにも言おうとしない。
765のアイドルとして律子が対していた時期ならば、こう呼べと言われた呼び方以外をすれば、即座に嫌味が飛んできただろう。
だが、律子だけではなく、黒井も、いまはそんなことに構っている暇はない。
「やっぱり、まだ体幹が……。激しい動きだと特に」
961プロの社長ではなく、音無小鳥のマネージャーに対して、律子はそう報告する。
実際、小鳥をデビューさせるために、彼と高木は個人で出資してブラックウッドというプロダクションを新設している。
そこでの黒井はあくまでもマネージャーという立場にあるのだ。
「芯がぶれるか」
「はい。たとえば、最後のターンですとか……」
詳しい報告に、彼は予想通りという風に頷いていた。
「まだ始めたばかりだからしかたのないところだが……。いや、それよりも、どう当人を焦らせずに持続できるかだな」
「そうですね。焦って無理するよりは……」
律子の言葉に、黒井は小さく、しかし明らかに否定の意味を込めて頭を振る。
「いや、多少の無理はすべきだろう。休ませるタイミング次第ではあるが」
「そうですか?」
「ああ。体の無理は、しばらくすれば、より強いものとして出来上がってくる。問題は心の方だ。あいつは昔からどうもそっちがな……。
まあ、そういうところを鑑みてこのメンバーの中に入れたのだが……」
「へえ、そうなんですか?」
黒井は律子の顔をじっと見た後、少し不機嫌そうに呟いた。
「……その探るような目をやめろ。訊きたいことがあるならちゃんと訊け」
「あ、すいません。そうですね。そういう約束ですものね」
律子が小鳥のレッスンを見るにあたり、高木、黒井両氏は、自らのプロデュース術を律子に教授することをその対価として提示した。
律子としてみればありがたい限りの話である。
一方、これまで事務員として働いていた小鳥を再デビューさせるため、ほうぼうを飛び回らなくてはいけない黒井たちにとっても、信頼できる人間に
小鳥を預けることが出来るのは大きなメリットである。
また、律子は、765とも961とも微妙に距離があるという点でも都合が良かった。
つまりは両者の利害の一致であり、そこで遠慮する必要などないと黒井は言っているのだろう。
「そうだ。それで?」
「いえ、うちのメンバーをっていうのはどうしてなのかな、と」
「くそ度胸の持ち主揃いだからだよ。美希ちゃんがどんな舞台でもこなせるのは引き抜いた私がよく知っている。
水瀬はさすがの風格だし、三浦はおっとりしているようで、あれはえらく肝が据わった女だ。
従弟殿については言うまでもあるまい」
そこで、律子は首を傾げた。
「竜宮の三人に関してはわかりますが、涼が……?」
黒井はしばらくの間じっと律子の顔を見つめていたが、その疑問が本気のものだと察して、深いため息を吐く。
次いでまだ美希に玩具にされている涼を見やって、彼はしかたないかというように苦笑を漏らした。
「……なあ、秋月。女装デビューして売れまくり、その後男であったと自らカミングアウトするやつがこの世界のどこにいる?
ましてや男だとばらそうとした時は、かなりの圧力が働いたと聞く。
業界全体を敵に回しても己を貫くような奴はな、そういないものなのだよ。しかも、あの年齢でだぞ?」
「……確かに」
美希のくすぐり攻撃から逃れようと必死でもがいている様は、実に子供っぽく見える。
しかし、その彼が確固たる信念のもと、勝ち目の薄い戦いに挑み、そして、見事に己の立つべき場所を勝ち取ったことを、律子はよく知っている。
従弟ということでフィルターがかかっていたが、秋月涼という男性は、実に恐ろしい存在なのかもしれない、と律子はこの時初めて思った。
とはいえ、いまはようやく美希の手から逃げ延びた彼を救ってやる方が先だろう。
彼女は歩み出ると、ぱんぱんと大きく手を叩き、休憩の終わりを宣言した。
次いで、皆に柔軟体操を命じる。
ぶーぶー言う美希を一睨みで黙らせ、彼女は再び黒井の横に戻った。
「さっきも言った様に、私は彼を高く買っている。だが、小鳥に対する影響としては、男性の目を意識してもらうことのほうが大きいだろうな。
小鳥の場合、実地でならしていく時間が足りん」
「やはりそうですか……」
既に予想していたことではあるが、黒井の口から言われるのはまた意味が違う。
「ああ。出来ればドサ回りでもやりたいところだが、無理だろう。一応は予選前にどこかで……と高木が走り回ってはいるがな」
「でも、既にデビューしてたうちでさえなかなか……。あの大会発表以来、急激に売り込みが激しくなってますよね、各社」
「ここが機だと見たのだろう。自前で持っているところはともかく、レッスンスタジオやトレーナーも予約でいっぱいだそうだ」
日高舞の大会に出場し、そこで少しでもいい結果を残せば、それは間違いなくその後の芸能活動にとってプラスになる。
そう考えた各プロダクションの活動が活性化しているのだった。
「秋月、私はな」
「はい」
「日高舞が好きではない。だが、こうして、皆が必死になるのは、嫌いではないよ」
ストレッチで悲鳴をあげている小鳥を穏やかな表情で見つめながら、黒井はそんなことを呟く。
律子はその彼の横顔を眺めながら、こう訊ね返した。
「それはご自身を含めてですか?」
「……お前、余計な事を言うやつだな」
「性分でして」
ぺろりといたずらっぽく舌を出してみせる律子。
その表情の攻撃力が凄まじいことを、彼女は果たして意識しているのかいないのか。
「まあ、それはいい」
「あ、逃げましたね?」
「おそらくだが!」
「はい」
低い声で強く言われたところで、さすがの律子も追求を諦めた。
だが、その後に告げられた言葉は、彼女のそんなおどけた態度を一変させる。
「日高舞にこの大会を考え付かせたきっかけは、お前の引退だろう」
「へ?」
「あの化け物め、暇になると思ったんだろうな。お前が引退することで」
「……そんな」
苦しそうな声で言う律子に、黒井は小さく首を振る。
「いや、お前のせいというわけではない。そこを勘違いするな。きっかけでしかないからな。だが、少なくとも私は感謝している。
日高舞ではなく、お前にだ」
なにしろ、と彼は続けた。
とてつもなく温かな声で。
「こうして、また夢が見られるんだからな」
そう言って小鳥のことを見つめる黒井崇男の瞳は、実に優しい光に満ちていた。
第十話 終
以上です。
次回は、二週間位内を目処に。
あい「やあ、はじめまして。
あいと言っても、日高愛くんではない。私は東郷あいという者だ。
今回、少々出てきているので挨拶にまかりこした。
ただ、木場くんより出番が少ないのはどういうことなのだろうね?
さて、それはともかく、今回ほんの少しだけ登場する私と梅木音葉くん、それに前回名前だけ出てきた望月聖くんと水木聖來くん。
あわせて四人の画像を張り付けておくとしようか。
ああ、そうそう、四人ともシンデレラガールズ出身だ。
ちなみに、これまで出てきた上条春菜くん、木場真奈美くん以下、全てシンデレラガールズではクールという属性に分類されるアイドルたちだ。
これはこの物語の主役である秋月さんがクール属性だから……というわけではなく、偶然だそうだ。
おそらくは比較的年齢層が高いために使いやすいのだろうね。
では、そろそろ第十一話がはじまる。ぜひ楽しんでいってくれたまえ」
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第十一話『Vault that borderline!』
ライブ本番中における舞台袖から楽屋にいたる地帯は、戦場である。
開演前や閉演後はプライベートが保てる空間も、開演中は、なによりも進行のために捧げられる。
アイドル一人に幾人もが群がって早着替えを手伝ったり、変更の指示を身振り手振り交えてたたき込んでいたり。
誰もが忙しく働き、歩き、ほうぼうに物を移動させている。
こんな環境であるから、アイドルは下着が見えただとか騒いだりすることはない。
むしろ動きの中でどれだけ下着を見せるべきか見せざるべきか、実演しながら議論していることもあるほどだ。
かつて女であると偽ってアイドル活動をしていたことを、同輩のアイドルたちから責められたりしなかったのは、
それまでに築いていた関係が大きくものを言ったとはいえ、あるいは、こういう状況に皆が慣れていたこともあるかもしれないな、と涼は思う。
プロである彼女たちは、仕事の中に男が入ってきても気にはならない……か、気にしないように努めているのだろう。
だが、これは別だ、と彼はぎりと歯を食いしばる。
涼の手の中には、いくつかに砕けた、元はミントケースそっくりだったものの残骸が握られている。
怒りにまかせて彼がへし折り、たたき割ったそれの正体を一目で理解する者はそう多くないだろう。
だが、幸か不幸か、涼はそういったことに詳しかった。
そして、もう一人、自分以外にも詳しい人間を彼は知っている。
「律子姉ちゃん」
「なに? いまは……」
「律子姉ちゃん」
スタッフと打ち合わせ真っ最中の律子は、涼の呼びかけを一度は後回しにしようとしたが、その声の調子に顔をあげ、
彼の表情を見たところで考えを改めた。
少し待つように言い、スタッフとの会話をなんとか終えてから、隅の暗がりに移動する。
「これ」
涼の掌の上のものを見た途端、律子の顔色が変わる。
「……どこにあったの」
涼が無言で指を差す。それは、今日は使わない衣装を詰めて積んである段ボールの上を示していた。
「……なんてこと」
ぎゅっと目を瞑り、ごくりと唾を飲み込む律子。
しばしそうしていたが、覚悟を決めたように目を見開いた。
「ともかく、涼が見つけてくれて助かったわ。私が処分しておくから、あなたは舞台に集中なさい」
律子は涼から、それ……すでに壊れて用をなさない盗撮用のカメラを受け取る。
まじまじと見ても、市販のミントケースと見紛う出来だった。
いまは涼が壊したために配線などが見えていてすぐにわかるが、万全の状態ならば小さなレンズを見分けない限り、
その正体に気づくことはないだろう。
しかし、えらく壊したわね、と律子は苦笑する。
そこまでしなくとも、と思う一方、そうする彼の心理も理解出来た。
「でも、律子姉ちゃん」
「ん? 大丈夫よ。ほら、これ、記録媒体がMicroSDだし、無線式ではないでしょう。だから、これさえ……」
涼が破壊したせいで、内部の構造がよくわかる。
記録媒体のカードを指さして律子が安心させるように言うのを、涼が遮った。
「これ一台だと、思う?」
はっとしたように涼の顔を凝視する律子。
彼女は鋭く周囲に視線をやり、そして、涼の肩に手を置いた。
「……なんとかする。約束するわ」
「うん、ありがとう」
涼が言うのに、律子は笑って首を振る。
「莫迦、お礼を言うのはこっちよ。よく見つけてくれたわね」
「うん。でも、ほんと見つけてよかったよ。じゃ、僕、行ってくるね。そろそろ出番だから」
「ええ、がんばってらっしゃい」
満面の笑顔で涼を舞台に送り出した後、律子は厳しい顔になって踵を返した。
「みんな、お疲れ様! 今回の竜宮小町、秋月涼合同ライブも無事成功に終わりました!
とはいえ、片付けもきちんと終わらせてこそです! もう一踏ん張りしてください!」
律子の声が響き、スタッフがそれぞれに声をあげる。スタッフに二言三言告げてから、彼女は隅にいる涼に近づいた。
「楽屋に戻らないの、涼?」
「……気になっちゃって」
「ちゃんともう一つは見つけたと言ったでしょう? 他は、アングル的にないわよ」
「うん。そこはいいんだけど、いまのところ、犯人はわからないでしょう?」
「まあ、回収を優先させたしね」
うん、と頷いて涼は律子の判断を支持する。
まずは映像を他所に出さないこと、これが第一なのは涼も理解出来ていた。
だが、やはり、彼としては盗撮犯を野放しにしておくわけにはいかないという意識がどうしてもある。
だから、彼はこう言ったのだ。
「ちょっと思いついたことがあるんだ」
「うん?」
「本物のミントケースを置いておくのはどうかな? 回収した場所に」
律子は驚いたような顔で涼を見た。次いで、慎重な様子で指を顎にあてる。
「……それで犯人を焙り出すってわけね?」
「うん。まあ、引っかからなくても、そう損はしないし……。なんだったら、僕が……」
「いいアイデアよ。でも、見張りに立つのは他の人間にやらせるわ。変なことがあったらいけないから。
これ以上はこっちの仕事。後は気にせず打ち上げ楽しみなさい」
捕り物にまで出張ろうとする涼をたしなめるように言う律子。その様子に、彼も引き下がった。
「ん、わかった。ありがとう。それと……」
「うん?」
「律子姉ちゃんも無理しちゃだめだから。約束して」
「生意気な。あんたはそんなこと気にしないで……」
「律子姉ちゃん」
真剣な顔。そして、その声。
律子は彼が自分より随分背が高いことを不意に意識した。
あるいは、また背が伸びたのかもしれない。
「はいはい。765の男衆にやらせます。それでいいでしょ?」
「うん。ありがとう」
涼の表情が柔らかく崩れる。その笑顔に釣られるように、律子もまた微笑んでいた。
「じゃあね!」
周囲を温かくするような笑顔を振りまきながら、彼は楽屋へと駆け去っていく。
その姿を見つめながら、律子は先程までの笑みから真剣な表情になっていた。
「あの子は本当に華がある。どんな人でも明るくしてしまう資質……。いまでもすばらしいけれど、まだまだいけるはず。
どれだけ磨けるかは私次第、ね……」
力強く、律子の拳が握られた。
「涼ちゃん、涼ちゃん、りょーうちゃーん!」
事務所の中でもアイドルたちの待機場所——というよりはたまり場——になっているスペースに入るなり、
涼はそんな声と共に自分の体全体に何かが飛びかかってくる衝撃を受けた。
視界が覆われ、体中が柔らかなものと甘い香りに包み込まれる。
「うわっ、なんですか!」
飛びついてきたのが誰なのかは、視界がふさがっていても、垂れている金の髪でわかる。
しがみついてくる美希の体が床に落ちないよう咄嗟に重心を落として抱え込みながら、涼は悲鳴のような声をあげていた。
「ミキ感激なの。ミキたちのために痴漢さんを捕まえてくれたなんて!」
弾力のある胸が頭に押しつけられ、わしゃわしゃと髪をなでられながらぐりぐりと左右に揺さぶられる。
美希のファンならずとも男ならば誰しもが羨ましく思う状況であったが、涼としては拷問のような感覚だった。
なにしろ、ここで鼻の下でも伸ばせば、後が恐ろしい。
故に彼は精一杯の自制心を働かせて、なんとか美希の足を床に下ろし、その体を引きはがすことに成功する。
とりあえずは満足したらしい美希は、にこにことされるがままになっていた。
「美希。痴漢じゃなくて盗撮犯だよ。まあ、似たようなものかもしれないけど。あ、おはよう、涼」
涼の困り顔をにやにやしながら見ていた真がソファからそう指摘してくる。
「うーん、ちょっと違う気がするけど……。でも、涼ちゃんのお手柄なのは間違いないね。涼ちゃん、おはよう」
真の隣で雑誌を読んでいた春香が顔をあげて涼に笑顔を向けてきた。
涼も美希を含めて三人に挨拶を返す。
そのまま彼は美希に引きずられるようにソファに連れて行かれた。
「えーと……。あのライブの時の話ですか?」
腰掛けて、お茶と春香が焼いてきたというクッキーをもらいながら、涼は皆が言ってきたことを確認する。
「そうなの! 今日、律子から全部事が済んだからって聞かされたの!」
「ボクたちも聞いたよ。お手柄だったね、涼」
「うん、すごいよ。涼ちゃん」
口々に自分を褒める三人に、涼は真顔でぶんぶんと手を振る。
「いえ、あれは律子姉ちゃんが……」
照れでもなく本気で否定する涼を柔らかな笑顔で見守りながら、春香は軽くかぶりをふった。
「その律子さんが褒めてたんだよ。涼ちゃんが見つけてくれたおかげで、映像が流出せずに済んだし、犯人も捕まえられたって」
「そうそう。犯人をおびきよせる罠を涼が考えたってね。すごいね、涼」
「まあ、僕も着替えてるところとか撮られたら気分悪いですし。でも、本当に僕は見つけただけで……」
あくまで自分はそれほど関わっていないと主張する彼の姿に、真はしかたないなあとでも言いたげに苦笑する。
「あんまり謙遜しすぎるのもあれだよ、涼」
「そうそう。律子さんと涼ちゃんのお手柄、でいいじゃない。もちろん、他のスタッフさんのお陰もあるけどね」
「うん。他の人たちにもありがとうって思うけど、涼ちゃんにもカンシャしてるの!」
「そ、そうですか……」
三人の先輩から言われてしまうと、それ以上は流石に反論が難しい。
涼は喜んで感謝を受け入れることにした。
日本でもトップクラスにかわいらしい女性三人に囲まれて褒めそやされるのは、正直、彼としても嬉しいことであった。
それから、しばし四人でたわいもない話を続ける。
その中で、食い入るように自分を見つめる視線を涼は感じていた。
「あのー……美希さん?」
真もまた美希がじっと涼を凝視し続けていることを不思議に思っていたようで、首を傾げる。
「なにしてるのさ、美希」
二人から声をかけられて、美希はんぅとかわいらしい声をあげて、こう言った。
「涼ちゃんのこと観察してたの」
「観察?」
「うん。これまでは、涼ちゃんって律子の従弟のわりにかわいい顔してるって思ってたけど……」
そこまで言ったところで、だんと大きな足音を立て、跳ねるように立ち上がった者がいる。
真だった。
彼女は険しい顔で美希に指を突きつける。
「ちょっと、美希!」
「はへ?」
「ひどいじゃないか、律子の従弟のわりにってどういうことさ。それじゃ、まるで律子がかわいくないみたいな言いぐさじゃないか!」
「え? え? ち、違うの、真くん」
本気で憤っているらしい真の勢いに、美希は顔を青ざめさせる。
なにか言おうとするが、真のあまりの剣幕に、舌がもつれてうまく言葉が出てこない。
そんな彼女を救ったのは横合いからの言葉だった。
「あの、真さん……」
「黙っててくれないか、涼。ボクはいま、君の従姉の名誉を守るために……」
真は声をかけてきた涼にも鋭い一瞥を与え、彼を黙らせようとする。
だが、涼は困ったように微笑んで、こう告げるのだった。
「さっきの……初めて会った時、真さんが言った台詞と同じです」
「……え?」
空気が固まって、数秒。
ぎしぎしと関節が軋みでもたてそうなぎこちない動作で、真が涼のほうに体ごと向き直る。
「たしか、真さんのときは『律子のイトコのわりにメチャメチャかわいい』って言われました」
「そ、それは、ほ、ほら、ボクと律子の仲っていうか、ボクだからっていうか、その……」
しどろもどろで彼女がなにか言い出したところで、それまで黙ってやりとりを見守っていた春香の笑いが爆発した。
「あははは! それは狡いよ、真。それじゃ、美希だって、律子さんと仲良しって言い出すよ」
「い、う……そ、それは、でも、だって、ボクは律子のことかわいいって思ってるし、
でも、その、かわいいっていうより律子は美人だから、初めて会った時の涼のイメージと……」
「ミキだって同じだよ!」
怒っていると言うよりは泣き出しそうな声で、美希が叫ぶ。
「ミキも律子は美人だと思ってるもん! だから、涼ちゃんはかわいいタイプでちょっと違うなーって思って……。
だけど、それって考えてみると、最初の時の印象が強いんだよね」
話しているうちに少しずつ落ち着いて来たのか、美希は普段通りの顔色になっていく。
先程まで怒ったり慌てたり忙しかった真も興味深げな顔で話を聞いていた。
「どういうことかな?」
「んー。涼ちゃんって、ミキたちの後輩でしょ?」
「うん、そうだね」
「それに、女装してた時って、すごいかわいらしくしてたと思うの。涼ちゃん自身も」
「それはもちろん意識してました」
視線を向けられ、涼も軽く頷く。
「いまはオトコノコしてる。だけど、ミキたちは最初に思ったかわいらしい後輩っていうのをずっと持ってたと思うんだよね。
最初に知り合った頃の涼ちゃんが、頭の中で固定しちゃってるっていうのかな?」
まじまじと涼の顔を見つめる真と春香。そうして、ぽつりと真が漏らした。
「あー……なるほど。わかるかなー……」
「それで、いま、しっかり観察しなおしてみたの!」
「ああ、それで。どう? かわいいって印象じゃなくなった?」
春香が訊ねかけるのに、美希はうんうんと大きく頷く。
「かわいいのはかわいいと思うよ。でも、律子っぽい美人さんなところもあるし、やっぱりオトコノコだなあっていう瞬間もあるの」
そこで、美希は腕を組み、悩むように俯く。
「ただ、かっこよさでは、真くんにはまだまだ及ばないかも。そこが惜しいところかな?」
「うっ……」
涼が胸に拳をあてて、ぎゅっと握りしめる。
悔しくもあり、といって美希の評自体は受け入れるしかないと自覚している部分もあり、というような複雑な表情であった。
「涼には早く、誰からもボクを凌ぐ王子様だと言ってもらえるようになってほしいなあ」
一方で、比較対象にされたほうはもう慣れているのか、飄々とそんなことを言う。春香が、そんな真の態度に小さく笑った。
「そうしないと、いつまでもお姫様になれないから?」
「そうだよ。ジュピターみたいなちゃらついたのじゃなくて、芯の通ったかっこよさを追求してもらいたいところだよ。涼には」
そうすれば、ボクの王子様役も減るに違いないんだ、と真は呟く。
もし涼がしっかりと男性としての魅力を開花させたとしても、真への需要が減るわけではないのではないか、
とそこにいる三人誰もが思ったのだが、あえてそれを指摘する者はいなかった。
それからの三人の会話は、涼の評価と、それをいかに良いものに変えていくかという議論……という形をとった笑談となった。
涼としてはくすぐったくもあり、針の筵のようでもあり、落ち着かないことこの上なかった。
だが、それでも、765の先輩勢とこれだけ気安く語り合うことも珍しく、彼としてはそれだけで嬉しいのだ。
そして、四人はついに、自分たちの語らいを柔らかな笑みと共に眺めていた眼鏡の女性の存在には気づかず時間をすごしたのだった。
扉をあけると、流れてきたのは『Fly me to the Moon』。
今日はサックスとピアノのデュオか、と軽快に流れる音楽を聴きながら、黒井は店内に歩を進める。
カウンターに待ち合わせの人物の姿を見つけ、馴染みのバーテンダーに目線で挨拶して、スツールに腰を落ち着ける。
「やあ、遅かったな」
「ああ、少しな」
一杯目にジン・リッキーを注文してから、黒井は隣に座る高木のさらに向こうにいる人物に目をやった。
「そいつがなぜここにいる?」
「この店は音無さんに教えてもらったんですよ」
高木ではなく指摘された当人がそう答える。
765のチーフプロデューサーは、黒井には隔意があるようで、その声は固かった。
これまでの経緯を考えれば、当然のことであろう。
「ん? お前、小鳥とつきあっているのか?」
「ぶはっ。そんなことあるわけないじゃないですか!」
唐突な黒井の問いかけに、口に含んでいたウォッカ・アイスバーグを思わず吹き出すチーフ。
「あるわけないとまでは言えないぞ、君。小さな事務所時代から頑張ってきた仲だ。自然とそういう関係が発展することは不思議じゃない」
「そ、そりゃあ、まあ、ありえないことはないですけど。でも、残念ながら、そうはなってませんよ。だいたい、俺、彼女いませんし」
高木にまで言われて、小さくむせるチーフ。彼が汚したカウンターを、バーテンダーが静かに拭いていた。
一方、黒井は残念そうにチーフの方を見ている。
「ふむ。小鳥がお前とできていたなら、やりやすいのだがな」
「なんですか、それは」
「765の社員ならば、高木を通じて、スキャンダル対策や話題作りがしやすかろう?」
「それは……まあ、そうですけど」
黒井の言うことも、チーフには理解出来た。
アイドルにとって——そう、小鳥はいまやアイドルなのだ——男性の影は致命的な事態となりかねない。
それを事務所側がコントロールできるなら、それにこしたことはないのだ。
いかに隠し通すか、あるいは公表するタイミングをどうするか、全て自分たちで管理できるなら、それはかえって強みとなる。
そういう意味で、765の社員の彼が小鳥の恋人であれば、今後の戦略を立てやすくなるのは事実だ。
高木はにこにこと笑いながら、二人の会話を受けて続ける。
「それに、恋をしていれば、それだけ輝くからね。相手がひどい男だと困るが……。幸せな恋ならしていてほしいものだ」
「社長は、なんていうか……父親みたいですね」
「なにを言っているのかね、君は。ともあれ、彼はお前と話がしたいそうだ」
高木の言葉の前半はチーフへ、後半は黒井へと向かっている。
「私とか? なにか?」
「ええと、なにから言うべきか悩みますが……」
「彼は、心配なんだよ。ほら、律子くんが最近、お前と行動を共にしているからな」
迂遠な口ぶりのチーフに代わり、高木がずばりとその懸念を表明して見せた。
「それがなにか? 例の件もあったのだし仕方なかろう」
一方で、黒井はなにも感じた風もなく、グラスを傾ける。
「例の件って……盗撮の話ですよね?」
「ああ、そうだ。犯人が会場雇いの人間でな。その派遣元がやっかいなことを言い出したから、少し説得の手間がいった」
チーフは慎重な顔つきで、言葉を選ぶ。
「……大丈夫だったんですか? 話によると、犯人が完全に業界追放になるよう取りはからったと聞きますが」
「私はタフ・ネゴシエーターというのはどういう存在かを実演してみせたまでだ。そこからなにを感じ取るかは秋月次第だろう?」
「今回に関しては、律子くんは同席はしていたが、証言者としての役割だ。そう心配することではないさ。
黒井も今回はグレーなことはしていないと私が保障する」
チーフを安心させるように言った高木の言葉に、黒井はふんと鼻を鳴らす。
「当たり前だ。あの程度のこと、そんな手を打つまでもない。だが、我々裏方は、グレーやブラックな相手とやり合わなくてはいけないこともある。
そのための心得は多少覚えたことだろうさ」
それから黒井はじろりとチーフのことを見て、こう言った。
「そもそも、そんなに心配ならば、手放さねばよかったのだ。独立の誘いを断ったと聞くが?」
「まあ、それは言わないでやりたまえ。我々とて人のことは言えんよ」
「……ふん」
男たちの会話に目を泳がせていたチーフは、ステージでサックスを奏でる女性に目を留めた。
光度を調整された店内でも、その美貌とスタイルの良さは見て取れる。
「あ、あのサックス奏者、なかなかいいですね。スカウトしましょうか」
「動揺しすぎだ。あれはこの間デビューしたばかりの新人アイドルの、東郷あいだろうが」
「え? あ、そう言われれば……」
黒井の指摘に目を凝らせば、たしかにどこかで見た顔であった。
「ピアノを弾いているのは、同じ事務所の梅木音葉くんだね。彼女のご両親とは親交があるのだが……アイドルをやるとは思ってもみなかったよ」
「クラシック奏者の娘がクラシック奏者になるわけではないということだな。ともあれ、音楽的素養は折り紙付きだ。なかなか手強い相手ではある」
「たまに、社長たちはなんでも知っているんじゃないかと錯覚しますよ」
アイドルはともかく、その親のことまでさらりと話す二人に、チーフプロデューサーは苦笑する。
これでも彼はそれなりに業界に詳しいはずなのだが、やはり、この二人相手では分が悪い。
「なんでも知っているわけではないよ」
「そうだ。全てを知る必要などない。必要なことだけを知っていればよいのだ」
「それもどうかと思うがね、無駄なこともまた大事だよ」
「お前の哲学はいまはいい。問題は……」
そこで、新しい曲がかかる。
サックスは抜きで、梅木音葉のピアノだけが、ゆったりと、ある旋律を奏でる。
そのメロディに、チーフが首をひねった。
「あれ、またこの曲ですね。テンポは違うけど……」
「口を閉じておけ」
「え?」
黒井の言葉に驚かされたものの、その意味はすぐわかった。
舞台のカーテンが開き、そこから現れたのは、シックな衣装に身を包む小鳥であった。
艶やかと言える程の動作で歩みを進め、ちょうど前奏が終わったところで、マイクの前で一礼する。
東郷あいのサックスが参入する。
そして、恋の歌が始まった。愛しい人に思いを伝えるための歌が。
「私を月まで連れていって……か」
「木星にも火星にもな」
艶のある歌声。
清らかで、いつまでも聞いていたいと思わせる、そんな声。
小鳥は、その美しい声を存分に駆使して、Fly me to the Moonの詩に込められた想いを伝える。
「連れていってあげられると思うかね?」
「我々に出来るのは、ロケットを用意するくらいだな。そこから先は、あいつ次第だ。
それに、本当にあいつを連れて行ってやれるのは……歌の届く相手さ」
歌を邪魔しないよう静かに訊ねる高木に、黒井はグラスの中の氷を揺らす。
まるで乾杯するようにグラスを掲げ、そして、そこで動きを止める。
小鳥の歌声に魅了されて固まったかのように。
高木もまた同じように動きを止めている。
その様子に、ああ、この二人は、音無小鳥という人に本当に惚れ込んでいるのだな、とチーフはしみじみと感じた。
「そうだな。いまは彼女の声の届く先……ファンたちに惚れていてもらうか」
「うむ。この根性なしはあてにならん」
グラスから一本だけ離れた指が、ぴっとチーフを指す。
「だから、俺は音無さんとは……っ」
「小鳥のことだけではないぞ。あの秋月の様子を見ていれば……」
「す、すいません、同じのを!」
「……まったく」
高木は、呆れて鼻を鳴らす黒井と、酒でなにかを飲み下そうとするチーフの姿を、ただ、穏やかな表情でながめているだけであった。
第十一話 終
以上です。
今回は正月休みを利用して早めに仕上げられました。
次回は20日までには投下します。
十二話投下します。
第十二話『ポジティブ!』
キュッ、キュッ、ダンッ、タン。
薄暗いレッスンスタジオに、ステップを踏む音が響く。
薄暗いのは道理であった。
ほとんどの照明は落とされ、窓から見えるのは暗闇。
いまは、もう夜の十時なのだ。
本来は、そのスタジオがとっくに営業を終えている時間。
だが、二つだけ灯された蛍光灯の下、涼は、その身につけるTシャツを汗でぐっしょりと濡らしながら、ダンスを続けている。
最後のポーズを決め、自分の姿を映し出す鏡をじっと見つめる。
彼は顔をほころばせようとして、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「……いや、まだだ。真さんなら、響さんなら、もっと上を行く。まして、律子姉ちゃんなら……」
ぶつぶつと呟きながら、再び動きに戻ろうとする彼の顔は、集中力が極限にまで達しているためか、実に険しいものに見える。
けしてファンの前では見せない、ひたすらに何かを追い求める表情。
はね飛ぶ汗を拭き取ろうともせず、彼はダンスを最初から繰り返す。
己を映し出す鏡で動きを確認し、腕の振りを、足の運びを、表情の変遷を、チェックしていく。
何度も、何度も。
彼の発する熱で、湯気でも見えてきそうなほど。
彼は、同じ動きを少しずつ変えながら、自らの理想を目指して動き続ける。
唯一人居残って練習を続ける秋月涼。
だが、実は彼は一人ではない。
涼が自らを追い込み続けるレッスンルームに繋がる通路の暗がりには、そんな彼の練習をずっと見守っている女性の姿がある。
そんな律子の横にすいと現れたのは、この業界でも有名なトレーナーの一人。
律子や765スタッフも信頼を寄せている人物だ。
涼の練習風景をしばらく眺めやった後、彼女は律子に警告した。
「明らかにオーバーワークだぞ」
「ええ、でも、今日はやらせてあげたいんです」
「今日だけだろうな?」
「はい」
彼女は、じっと涼の練習を見つめる律子の横顔を見て、ふうとため息を吐いた。
レッスンルームから漏れる光に照らされたその顔は、従弟と同じくらい真剣だ。
「……ならいいだろう。だが、今日で止めないと、どこかを痛める。それは当然承知の上だな?」
「わかってます。でも……」
言葉を途切れさせる律子に、彼女は淡く微笑んでみせた。
「まあ、気持ちは分かる。彼の気持ちもな」
「ええ。もがいてもがいて、もがききって……。それでもだめなときはだめなんですけどね。
それこそ、寝ちゃって忘れることも大事なんですけど」
律子が苦笑するのに、彼女は再び涼の様子を見、そして、首を小さく振った。
「そう割り切れるほど経験はないだろう。特に彼は、キミがつくまではセルフプロデュースだったはずだ」
「焦るのもわかるんです。いくらあの子に才能があるからって、周りが周りですからね」
涼は現在のアイドル業界を牽引すると言える765、876の両プロダクションのアイドルたちをよく知っている。
一人一人が才能と可能性の塊とも表すべき、とんでもない面々を。
「そして、誰よりもキミを知っている、か」
「もう過去の人間ですよ、私は」
トレーナーはそれにはなにも言わなかった。
ただ、皮肉っぽく目を煌めかせただけだった。
「765には個人で見れば、Bランクのアイドルもいる。一方、涼はAランク。普通なら天狗になってもいいくらいです。
なにしろ、涼のほうが芸歴は浅いんですから。でも、そこで安心できる子じゃないんです」
「ランクにあぐらをかけるなら、まだましだったかもしれんな。
セルフプロデュースを経験し、ランクや前評判などに囚われず、相手の力量を見抜くことができるからこその苦悩だろう」
それに頷きつつ、律子は小さく微笑んだ。
「あの子、私にとっても似てるところもあれば、まるっきり正反対なところもあるんです。分析は得意だけど、絶対に折れないんですよ。
相手が強ければ強いほど、自分の中のものを引き出せる。すごい子です」
「……キミとそっくりじゃないか」
律子の誇らしげな顔を見つめながらそう言うのに、当の律子は首を横に振る。
「そんなことありません。私は怖がってばっかりで」
「外の我々から見れば、同じさ」
「……そうかもしれませんね」
律子は慎重に頷く。
確かに、いまはチーフプロデューサーとなった人物をはじめとした周囲の人間に支えられたとはいえ、強敵相手に結果を残しているのは事実だ。
個人の資質はともかくとして、アイドル総体として見れば、似ている部分もあるのかもしれない。
もちろん、律子本人は、自分と涼の違いを——このところ特に強く——実感している。
だが、それを外部の人間が知る必要も無い。
「思うのだがね、秋月さん……ああ、いや、プロデューサー秋月」
アイドル時代の呼びかけをついしてしまってから、彼女は慌てて訂正する。
「やはり若さというのは大事なことだよ」
「若さですか?」
疑問を込めた視線を向けてくるのに、トレーナーはゆっくりと指を振ってみせる。
「たとえば、日高舞だ。前提として、彼女の実力が最初のデビュー時より劣っているとは思わない。
いや、むしろ、円熟し、実力そのものは増しているのかもしれない」
「ええ、そうでしょうね」
「ここで彼女の最初のデビュー時期……まさに伝説となった時代のことを考えてみよう。
当時の日高舞は十三歳から十五歳という年齢。
衣食住、なにも気にする必要などない年齢だな?」
なんとなく、律子には彼女の言いたいことがわかってきた。
765のアイドルたちでもそうだが、十代でデビューするほとんどのアイドルは、せいぜいが学校関係で悩むくらいで、
家計のやりくりや食事をどうするかなど気にする必要もない。
家に帰れば、親がいるし、食事も用意されているのだから。
当人たちはそれが当たり前かも知れない。
だが、後になってみれば、随分と恵まれていたと気づく。そんな状況にある。
ところが、十代でも一部アイドルや、二十代、三十代のアイドルはそうはいかない。
自分の生活やアイドル活動そのものだけではない。
成功するにせよしないにせよ、引退後の人生設計まで考えなくてはいけない。
「いまや日高舞は一児の母であり、日高愛という娘の将来や、自らの生活を気にかけねばならない」
ふふっ、と彼女は笑って続けた。
「それが出来ていないなどとは言わないよ。
だが、全てを……自らの持てるあらゆるものをアイドル活動に賭けているかといえば、それは違うだろう。
あれはあれでいい母親だと聞くからな」
「全てを賭けられるのも、若さの特権、ということですか」
「そうだ。そして、彼は、いま、それを存分に使う立場にある」
そう締めくくり、彼女はくいと顎を動かして、涼の姿を示してみせた。
なにもかも忘れて、ひたすらに体を動かしている青年の姿を、律子とトレーナーはしばし無言で眺めていた。
「やれるところまで、やらせてみることだ」
「はい」
元気づけられたように頷く律子に、トレーナーは茶目っ気たっぷりにウィンクする。
「本来の私の立場としては、こんなことを言ってはいけないからな。聞かなかったことにしてほしい」
「ええ、わかりました」
にっこりと笑いかけてくる律子に、照れくさそうに顔を逸らしながら、彼女はぱたぱたと手を振る。
「では、私は事務室にいるよ。最後に鍵だけはかけんといかんからな」
「ご迷惑おかけします」
「いや、いいさ」
最後にいまだ一心不乱に踊り続ける涼に目をやってから、彼女は出口の方に向かった。
「ま、傍にキミがいるなら大丈夫だろう」
「はい。止め時は理解しています」
「いや、そういう意味ではないのだが……」
「はい?」
横を過ぎていくトレーナーの困惑した表情に律子が小首を傾げる。
再び、トレーナーはぱたぱたと手を振った。
「いや、なんでもないよ。では、また後で」
「はい。すいません」
しばらく進んだところで、ふと振り返り、律子が涼の練習風景に夢中になっていることを確認してから、
トレーナーは小さく漏らす。
「まったく、相変わらず鈍いというか、自分のことには気づかないというか……。
難儀なものだな。いや、あるいは、だからこそ、か」
彼女は小さく笑うと、静かに闇へと消えていくのだった。
「なにやってんだよ!」
助監督の怒号が、撮影スタジオに響く。
「そこは右じゃなくて左から回るってさっきも言っただろうが!」
「ごめんなさいっ!」
かわいらしい衣装を纏った体を折って謝るのは、水瀬伊織。
頭を下げ続ける彼女の姿に、出番待ちをしていた金髪の少女が椅子から腰を上げた。
「あの、ミキもさっき……」
「美希ちゃん、だめよ」
立ち上がろうとする美希を、小声であずさが制止する。
美希は、腕にかかったあずさの手を見、そして、あずさが小さく、しかし、きっぱりと首を振るのを見た。
結局、彼女は腰を落とし、口を閉じる。
「あのさあ、伊織ちゃんたちもDランクとかの数あわせのアイドルじゃないんだからさ。色々わかってもらわないと」
助監督の声は怒鳴り声から、静かだが怒りを感じさせるものに変じている。
しんと静まりかえったスタジオの中、彼の声だけが流れていく。
「765の場合、ごり押しだなんて思う観客は少ないかもしれないけど。
でも、アイドルってだけでそういう色眼鏡で見る人いるって、わかってるよね?」
「はい……」
ようやく頭をあげた伊織が、小さい声で答えるのに、助監督は声のトーンを少しだけ落として続ける。
「そこをさ、こう、しっかり演技して黙らせないとさ、いけないわけ。
そうじゃないと、伊織ちゃんたちをキャスティングしたことからして、文句言われちゃうんだから」
そこで、すっと助監督を押さえるように前に出て来る初老の男。
彼は穏やかに伊織に笑いかけ、ゆったりとした調子でいった。
「女優とかアイドルとか関係ないって、みんなに思わせないとな?」
「はい」
名の通った映画監督である男にそう言われて、決然と伊織は応じる。
そこで監督が目配せして、助監督が声をあげた。
「じゃ、十分休憩して、さっきのシーンから再開しまーす!」
そうして、撮影はその後、順調に進んでいったのであった。
「……今日の助監督さん、ひどかったんじゃないかな」
そう美希が漏らしたのは、事務所へと向かう帰りの車の中であった。
運転席と後部がカーテンで仕切られ、周囲の窓にもカーテンが下ろされて、人目を気にせずくつろげるように配慮された車内で、
ぐでーとシートに寝転がる美希。
その言葉に、前の席の伊織が不思議そうに反応した。
「え? なにが?」
後ろに向き直って聞き返すのに、口を尖らせて主張する美希。
「あそこまで怒らなくてもいいと思うの。みんな固まってたし」
「ああ、なんだ」
軽く笑い飛ばして、伊織は肩をすくめる。
「あれは、竜宮小町のリーダーとしては当然のことでしょ?」
「そりゃ、あれがでこちゃんだけを目の仇にしてるってわけじゃないことくらい、ミキだってわかってるよ?
リーダーにきついこと言って、ミキやあずさもしっかりしろって言いたかったんだよね?」
「ええ、そうよ。わかってるじゃない。まあ……最後に監督が出てきて優しそうに締めるってやり方は、いくらなんでも古くさいと思ったけどね」
どうせ助監督の注意にしたって、監督がやらせてるんだし、と伊織は思うが、古くさかろうと効果的であることは彼女も理解している。
少なくとも空気を引き締める効果はあったはずだ。
「でも、ちょっと怒鳴りすぎだったと思うな……」
「ふふ、美希ちゃんは伊織ちゃんのことが心配なのねー?」
そこで、伊織の隣に座っていたあずさも振り返って会話に参入する。
美希はわざとらしく目を逸らして、声を上ずらせた。
「う。ま、まあ、そうだけどっ」
「そのツンデレ芸は受けないと思うわよ。春香じゃあるまいし。ついでにでこちゃん呼びもやめなさい。
それはともかく、気にしなくていいわよ」
ひらひらと手を振って体を戻そうとする伊織に、美希は引き留めるように声をかける。
「でも、でこちゃん」
「だから、それはやめなさいって。私たち、プロなんだから。それくらいは、覚悟していきましょうよ」
そう言って、伊織はそのまま前を向いてしまった。
「プロ、かあ」
呟くように言う美希。誰かに言っているというよりも、己に向けるような声であった。
「うぬーん……」
妙なうなり声をあげる美希に、あずさがくすくすと笑いながら声をかける。
「美希ちゃんの優しい気持ちはわかるわ。伊織ちゃんの責任感もね。
だからこそ、私たちはリーダーの重荷を出来るだけ軽くするよう、努めましょう。ね、美希ちゃん」
次に、あずさは隣の伊織にも声をかける。
「それから、伊織ちゃんはリーダーだからってなにもかも背負い込まないでね。
私たちにだって出来ることはあるはずよ。
三人と……それに、律子さんがいるんだから。四人で頑張りましょう?」
座席に深く腰掛けていた伊織だったが、ふと見上げるようにして、あずさの顔を見た。
じっと、見られるあずさのほうがどぎまぎし始めるような強い視線で見つめてくる伊織。
「……あんた見てると、律子って人選までよく考えてるものだと思うわ。
気の強い私を前面に出しておいて、あんたが大人の立場で色々言えるように配置してるんでしょうね」
「あら、伊織ちゃんまで律子さんみたいに分析するのね?」
「そりゃあ、真似もするわよ。多少はね」
伊織は栗色の髪をかきあげながら、どこか遠いところを見つめるような目つきになった。
「あいつは私たちの最大の味方で、一番身近な壁なんだから」
そこまで言ったところで、彼女は再び美希のほうへ、いや、美希とあずさの二人へと向き直った。
「いい? 竜宮小町は『秋月律子』を背負って、その上で、『秋月律子』を越えるの。越えなきゃいけないの。
だから、美希、あんたもプロ意識を持って、しっかりついてきなさい」
その唐突な宣言に、面食らうかと思われた二人であったが、あにはからんや、
美希のほうはにんまりと不敵な笑みを浮かべ、あずさは穏やかながら芯のある表情となっていた。
「ふんっ。でこちゃんだけ先に行けちゃうような物言いはどうかと思うな! ミキのほうがきらきらしちゃうかもよ!?」
「そうねえ。私も負けてられないしねえ」
「ふふん、その意気よ」
二人の反応に満足するように頷く伊織。
その瞳は、これから目指すべき場所をしっかりと見据えていたのだった。
第十二話 終
今回はちょっと短めですが、以上です。
成長ものはどうしても色々挟んでいって長くなりますな。
さて、次回投下も二週間後を目処に考えています。
そんな彼の視界の端で、威圧感たっぷりの白塗りのリムジンがすいと止まる。
そのあまりのいかつさと長さに彼の視線が吸い寄せられた。
「……ハマーのリムジンかよ」
彼のつぶやき通り、ハマーH2ベースのそのリムジンは、全長8mを超え、車高も高い。
その存在だけで、特異な空間を作り出していた。
千早のことを騒がれたくない彼としては、絶対に関わり合いになってはいけない類の人間が乗っているはずだ。
だから、彼はそれに注意を向けるのをやめ、さっさとタクシーを探しに行こうとした。
まさか、そのリムジンの窓から彼に向けて声が飛んでくるとは。
「おーい。そこの765のひとー!」
「え?……おいおい」
振り向いて思わず呟く。窓から乗り出すようにしているその人物は、千早以上に有名な人間だ。
「なにしてるんですか、日高さん!」
「え、お迎えよ? 千早ちゃんの」
駆け寄った彼に、さも当然のように答えるのは、日高舞。
伝説のアイドルにして、現在は新たなアイドルトーナメントの主催者として日本を騒がせている人物だ。
千早が日本に戻ってきた原因とも言える女性は、くりくりした目を輝かせて、彼の反応を待っていた。
「……むぐ。わかりました。わかりましたから、そこで黙っててください。いますぐ千早連れてきますから!」
「おっけー」
ひらひらと手を振る彼女を背に、彼は必死の形相で千早のもとへ駆け戻るのだった。
「……どういうことですか?」
とにかく車に乗り込み、外からの視線が遮られたところで、千早が静かな声で尋ねかける。
その奥にいらつきの色を見て取って、プロデューサーはどう抑えるか思案し始めていた。
「いや、千早ちゃんが帰国するっていうからね。お出迎え」
「私なんかに日高さんがそんなことをする理由を……」
そこまで千早が言ったところで、プロデューサーはふかふかの座席に座った体を前に出して、言葉を割り込ませた。
「ところで、日高さん。この便だって、誰に聞いたんですか」
「じゅんいっちゃん」
「社長かよ……」
あっさりと出てきた答えにプロデューサーは頭を抱える。
そのやりとりに毒気を抜かれたのか、千早は肩の力を抜き、深く腰掛け直した。
「まあ……いいです。送ってくれるというなら、素直に好意に甘えさせてもらいましょうか。プロデューサー」
「あ、ああ」
「それにしても……」
そこで、千早は本当に不思議そうな表情を浮かべた。
「本当はなにが目的なんです?」
「んー……」
舞は、もう少しなにか引っ張りたそうな雰囲気を残しながらも、彼女の問いに答えた。
「千早ちゃん、予選に一回しかエントリーしてないでしょ?」
もちろん、エントリーする対象は決まっている。
そして、それは規定によれば四回まで可能なもので、ほとんどの参加者は最大回数のエントリーを行っていた。
「そうですね」
「敗退してからまたエントリーってのもできなくはないけど、みんな、基本的には最初からエントリーしてくれてるのよね」
「だから、私も複数回エントリーしておけと」
「いや、そのほうがいいんじゃないかなーって思ってね」
なるほど、という顔つきになる千早。
だが、その穏やかな表情の中で、目だけが強い輝きを灯し始めていた。
「私が負けると?」
「いやー、そんなことは言ってないわよ。でもね? たとえば予選で私とあたることもあるじゃない?」
「そうでしょうね」
軽い調子でうなずく千早。
その目は、舞の目をじっと見据えている。相手も、驚くでもなくその強い視線を受け止めていた。
「いいんだ?」
「ええ」
こくりとうなずく千早。
舞の視線がプロデューサーに移る。彼もまた一つうなずいて、千早の決断に同意していることを示した。
「そ。じゃあ、いいわ」
肩をすくめ、ゆったりとしたほほえみを浮かべる舞。
そうした途端、社内の空気が明らかに変わるのを二人は感じた。
緊張と対立が消え失せ、ただ一人に視線が向けられる。
日高舞より美しい人間は、この世の中を探せば存在するだろう。
日高舞よりいい声を持つ人間は、芸能界にも幾人かいるだろう。
日高舞より蠱惑的な仕草ができる人間を、見つけ出すこともできるだろう。
だが、日高舞より注目を集め、その相手の意識を奪いとれる人間は、ほとんどいない。
安心したようにほほえみ、この話題は終わったと告げる動作を体中で示しただけだというのに、二人の視線は彼女から引きはがせない。
如月千早は、改めて目の前の人物の力量を思い知った。
もちろん、それは千早たちだからこそ理解できることである。
一般人は、日高舞に意識が向かうことに違和感を覚えない。
むしろ、舞の一挙手一投足を見守ることに喜びと幸せと、なによりも安心感を覚えるだろう。
それができるからこそ、彼女は伝説と呼ばれるのだ。
「でも、油断しないほうがいいわよー? 961、876、765のメンバーだけに注目してると足をすくわれかねないと思うわ」
二人に衝撃を与えていることなど気にした様子もなく、舞は話を切り替えている。
彼女としては当然わかってやっていることだろうが、それをまるで見せないのも、またこの人物らしかった。
ぐっとつばを飲み込み、プロデューサーは口を開く。
「いま挙がった三事務所のメンバーだけで、十分強敵だっていうのにですか?」
「ええ、たとえば……小鳥さんとか?」
「小鳥、さん?」
期せずして、千早とそのプロデューサーの声が重なった。
その声に目を白黒させる舞。
「なによ? 彼女、手強いわよ?」
「いや、音無さんは……アイドルを始めたというのも驚きましたし、正直ダークホースだと思います。……しかし」
「私も音無さんは要注意だと思います。ただ、その、呼び方というか……。日高さんが、さんづけするっていうのが意外で」
二人が口々に言うのに、舞は不思議そうに首を振る。
「芸能界の先輩だもの。そりゃ、それなりの呼び方もするでしょ? 友達だから、直に会ったらくだけるけどさー」
「先輩……」
「そうよ?」
「そう……ですか……」
千早はそれ以上なにも言えない。
かつて日高舞がとてつもない快進撃を続け、記録を作っては自ら破り続けていた時代。
十年以上前の芸能界でなにがあったかなど、千早は知りようがない。
プロデューサーでさえ、その頃のことは、一般人として表に出た情報を知っているだけだろう。
音無小鳥と日高舞。
二人に何があり、そして、どんな関係だったのか。
自分がそう易々と踏み込むべきではないと、彼女は感じていたのだった。
「なめてかからないことね。特にあなたたちは事務員としての姿しか知らないから、予備知識のない人間より危ないんじゃないかしら?」
真剣な調子で、舞は警告する。
その様子に、プロデューサーと千早は目配せを交わした。
それにしても、と千早が口を開こうとしたところで、察していたかのように舞がにっこりと笑った。
「私はね、全力でいてほしいの。どのアイドルにもね」
そう言ってウィンクする日高舞は、実に魅力的だ。
だが、その一方で、千早をして背筋に冷たいものを感じさせるほどの気迫を備えている。
この人は、すでに臨戦態勢なのだ、と彼女は悟った。
千早の腹の内で、熱いものが頭をもたげる。舞の気迫をはねのけるだけの眼力が、彼女の目に宿った。
ごうごうと燃えさかる炎を千早の目の中に認めて、舞は笑みの形を変える。
実に穏やかな、満足そうなそれに。
「じゃあ、楽しみましょう。お互いに」
そう舞が告げてリムジンのドアが開くまで、どれほどの時間が経ったであろうか。
沈黙に支配されていた社内の空気が急に弛緩する。
見れば、そこはすでに765プロの正面玄関である。
千早と——なぜかすっかり疲弊した様子の——プロデューサーは舞に礼を言って、車から降りた。
「それじゃ、みんなによろしくね」
「はい」
ゆっくりと動き始めた車の窓から、舞が声をかける。
「ああ、そうそう。律っちゃんに言っておいてよ」
「はい?」
「いつでも復帰してくれていいのよって」
その言葉を最後に巨大なリムジンは彼女たちの前から去っていくのだった。
思っても見なかった千早の登場に、765プロは沸き返った。
アイドルたちはもちろん、スタッフからも歓声を浴びながら、二人は社長への帰国の挨拶を終え、ひとまずそれぞれに落ち着く。
千早はアイドルたちに囲まれ、彼女のプロデューサーのほうは、友人でもあるチーフプロデューサーのところへと。
「よお、チーフ」
「お前もチーフだ」
「同格が二人いても、報告したりする周りが困るだけだろ。役職の名前はともかく、俺はお前の下につくよ」
相手の探るような視線に彼は大げさに肩をすくめる。
「俺は、うちのお姫様で手一杯だからな」
「千早がそんなに手がかかるとは思えないんだがなあ……。ま、いいか」
「お前が忙しいときはそれなりに手伝うさ。チーフ補佐ってところだ」
「了解」
そんな会話を交わし、今後の社内での立ち位置をさっさと決めてしまった後で、久しぶりに765プロに戻った男はお茶をすすり、力を抜く。
彼と千早はこの社屋で過ごした時間は短く、765プロと言えば思い浮かぶのはずっと昔、たるき亭の上階にあったそれだ。
だが、それでも、765プロ独特の落ち着ける空気は変わらない。
アイドルたちがきゃいきゃいと笑い転げ、スタッフたちも彼女たちとコミュニケーションをとりながら、明るく働いている。
彼は、ゆっくりと辺りを見回し、ほほえんでいた顔を少し横に倒した。
「どうした? 今日は別に帰ってもいいんだぞ」
「いや、そうじゃなくてだな。ちょっと違和感がな」
「違和感?」
チーフが顔を上げるのに、男はあごを動かしてある方向を示して見せた。
そこでは、グレーの品のいいスーツに身を包んだ黒井崇男が、これもスーツ姿の女性と立ち話をしている。
黒井が大仰に身振り手振りを交えながら話しているところを見ると、どうやら議論が白熱しているようだ。
「まず、第一に、黒井社長がいる。さらには、それを警戒しているそぶりがスタッフやアイドルに感じられない」
「日常風景だからな」
それと、とチーフが付け加える。
「ここにいる間は961の社長ではない建前になってる。プロダクション・ブラックウッドの黒井マネージャーだ」
「……プロダクション・ブラックウッド」
黒井プラス高木で黒木か、と男は納得する。音無小鳥をデビューさせたとは聞いたが、事務所まで別にするとは思っても見なかった。
まして、黒井社長が日常的に事務所に出入りしているとは。
「そうだ。そっちでも高木社長は代取だからな。音無さんもここにいるわけだ」
言われて、彼は視線を横にずらす。
そこでは小鳥がやよいたちと共に千早を囲んでわいわいと話している。
これまでなら彼女は少し離れて飲み物を用意したり、アイドルたちを見守っていたりしたはずだ。
千早や他のアイドルに対する気遣いには変わりないが、その距離感はこれまでとは微妙に異なる。
「うん。それも違和感だな。私服の音無さんがアイドルたちの待機場所にいるとは……」
「音無さんはいま765を休職中だ。制服を着るわけにもいかんだろう」
軽い調子でチーフに言われて、男はなにか胸がつまるような感覚を覚えた。
彼にとって、そして、目の前で書類をいじっているチーフにとって、音無小鳥が事務員として働く事務所の風景こそが
芸能界というものの原風景であるはずだ。
小鳥自身はそこにいて、そして、彼らもそこにいるというのに、なぜかとてつもない寂しさを覚えるのだった。
「心配するな。あの大会までさ。それが終わったら、アイドルなんてすっぱりやめると当人が言っていたよ」
「ふむ……。日高舞、か」
車内の出来事を思い出し、ぽろりと漏らす男に、チーフは驚くでもなく応じる。
「おそらくはなにかあるんだろうな。だが、よくはわからん。わかる必要もないだろう」
「ふむ?」
「高木さんも黒井さんも、あの人の幸せを願っている。それだけは確かだからな。
当人が静かに過ごしたいと言ったら、そうさせてやるだろう。
もちろん、当人が芸能活動を続けたいと思ったなら別だが」
もしそうなった場合は事務をもう少し強化せんといかんな、とチーフは独り言のように呟いた。
その様子を、男は複雑な表情で見ていた。
「……ずいぶんと信頼しているんだな?」
「まあ、こっちもいろいろあったからな」
男には、そうか、としか返せない。
彼も千早もアメリカに渡って様々な経験を重ねている。
それをすべて説明したところでチーフがそれを体感できるわけではない。
それと同様に、日本で起こっていた出来事からチーフが感じ取ったことを少し聞いただけで彼が理解するのは難しいだろう。
ここで過ごし、時間をかけてわかっていく他ない。
だが、それよりも、いまは彼にとって最大の違和感を解消するほうが先だろうか。
彼は黒井と話す女性に視線を戻した。
「律子ともか?」
「ああ、いろいろな」
「そのようだ」
黒井となにごとか話し続けている律子。
その姿はまさに『できる女』を体現したかのようなスタイルだ。
昔から事務を兼任していた彼女は、ステージでもなければ目立たぬ服で仕事をこなしていた。
しかし、それでも学生らしく堅苦しいスーツなどは身につけていなかったし、スカートから伸びた足もストッキングに包むことはなかった。
それがいまではヒールにストッキング、タイトスカートにスーツ、しかも、頭はアップに結っていて、三つ編み時代の素朴さなどどこへやら。
ステージの上で化けることは重々承知していたが、日常でもこれほどの華を見せるようになるとは、と彼は内心舌を巻いていた。
いや、元々華はあったのだ。
それを表に出そうとしなかっただけで。
つまりは、心境の変化というやつだろう。
それにしても、あれが二十歳前の艶かよ、と彼は友人であるチーフを横目で見やる。
チーフと律子が恋愛関係にほど近いところにいたのは、周囲の人間ならよくわかっている。
彼としてはもちろん、彼女をより魅力的に磨き上げ、それを他人に見せる余裕を持たせたのはチーフであると思い込んでいた。
「ああ、俺とあいつは道を違えた」
「え?」
びっくりして思わずお茶を取り落としそうになる。
彼は声を潜めて、チーフに顔を近づけた。
「す、捨てられたのか?」
「人聞きが悪いな。だが、まあ、拒絶したのは俺の方だな。独立しないかと誘われて、それを蹴った」
思わず口を開けたまま固まる男。
律子とチーフの間で何度も視線を往復させてから、彼は尋ねた。
「……なんでだ? いま、律子がここにいる様子をみたら、蹴ることなんて……」
「なぜだろうな。だが、あのときはそうするしかなかったんだ。いや、そうすべきだと考えたんだ。
いま、こうして俺もあいつもここにいるのは、あいつの努力にすぎんよ」
「しかし……」
言葉が途切れる。
男はなにか言おうとして、チーフの顔にそれを呑み込まざるを得なかった。
すでに決意し、それを過去のものとしている男性に、これ以上なにを言えようか。
そして、なにより、話題の人物が近づいてきていた。
「お時間よろしいでしょうか?」
秋月律子。
彼女がチーフと男のいる場所につかつかとやってきて、二人の顔をのぞき込む。
「ん、なんだ?」
「カバーソングアルバムの件で」
「ああ。あれか。そうだな、こいつもいるから……」
チーフがちらと男を見やり、律子も彼に向けてあたたかにほほえむ。
「はい。千早にも参加してもらっているので、経緯を簡単に説明しておきますね」
「ああ、うん。頼む」
どこが道を違えたのだろう、と彼は考える。
いまのやりとりを見る限り、この二人の息はぴったりだった。
「元々は765と876の合同で往年の名曲の数々をカバーしたアルバムを出すという企画でした。
レコード会社からの持ち込みで、765プロも喜んで受けた企画です」
そこで、律子は眉を顰める。
「しかし、現状、876プロとの提携関係は解消されています。舞さんの移籍もありますし」
「そうだな」
「ですが、すでに765側ではレコーディングが進んでいます。千早はアメリカですでに録ってますものね」
「ああ、そうだな。中島みゆきさんの『恩知らず』を録ってきたよ」
「はい。聴かせてもらいました。さすがです」
男の言葉に律子は笑みを深くする。
だが、男は苦々しげに首を振った。
「いや、かなり苦しんだんだぜ。あの情念をのりうつらせるのはな……」
「千早もなんだかんだ言って若いしなあ」
「そうなんだよ。さすがに、あの年輪はなぁ」
いかに同じく歌姫と言われても、何十年も前から第一線を走り続けている人物と千早では、積み重ねてきたものが違う。
たとえ技倆的に同等レベルに達することができても、なにか違うと言われかねないのだ。
だからこそカバー曲というのは難しくおもしろいと千早は言っていたものだが。
「まあ、その苦労話はまたゆっくり聞かせてもらおう。それで?」
「はい。876の協力はもはや難しいと考えて、レコード会社のほうから、企画の変更を求められました。
765だけでやろうかっていう話になったんですが……」
話を戻して、律子はなめらかに説明していく。
「私が立候補して、企画変更を請け負いました。私としては、765、秋月、ブラックウッドの合同企画にしようと考えてのことです」
「涼くんと、音無さんだな」
「はい。でも、それだけじゃインパクトがありません。そこで、美希と響と貴音にも一曲担当させることにしました」
さすがにそのメンバーに、男が驚いた顔をする。
「おいおい、フェアリーかよ」
たしかにインパクトはあるだろうが、765がそれをやるというのは冒険だろう。
そのアルバムのプロモーションを目にする人間すべてに、かつての765と961の熾烈な争いを思い出させようというのだから。
だが、律子はそれをあえてやるという。
その穏やかな顔つきを見る限り、自らが下した相手だから、というのではないだろう。
三人の力量を認め、そして、精神的にも過去を乗り越えられると踏んでの人選だ。
だが、それは、かつての慎重すぎるほどの律子ならばできなかったことではないのか。
「ええ。いま、その許可を黒井さんから取り付けてきました。一応、仁義は通さないといけませんからね」
「よし。よくやった」
チーフが褒めるのに、律子はなぜか顔を曇らせる。
「ただ、交換条件が……」
「音無さんの参加だけじゃだめなのか?」
「はい。フェアリーに歌わせる曲も指定されました」
難しい顔をしている律子に、無理難題でも出されたかと考える男性二人。
「難儀な曲なのか?」
「いえ、権利関係はまったく問題ありません。実力的にも応分でしょう。でも……」
「でも?」
「私の『livE』でして」
照れくさそうに言う律子に、二人は納得したような顔で大きくうなずく。
だが、その後の反応はわかれた。
「なるほど」
「いいじゃないか、やらせてやれよ」
困ったように考え込む千早のプロデューサーに対して、チーフは軽い調子で律子をけしかける。
律子はその言葉にさらに恥ずかしそうに身をよじった。
「いえ、別に嫌だって訳じゃなくて……私の曲なんかでいいのか、と」
その言葉にチーフは呵々と笑う。大声で笑い出すチーフに、ますます赤面する律子。
「黒井社長はなんでお前の曲を指定した?」
「それは……私と千早が美希たちに立ち向かったからでしょう。その中で、千早はアルバムに参加していますから」
「そうだな。それに加えて、『livE』がかつてのフェアリー……クールなイメージで売り出していた三人に合っていることも考えのうちだろう」
それから、チーフはぱんと手を打ち合わせて彼女を見つめた。
「黒井社長は、まあ、ちょっと嫌味なところもあるが、実力はたいしたものだ。信用してやれ。
それ以上に自信を持て。お前の歌は、すごいんだよ」
「……はい」
ぐっと拳を握りしめ、律子はうなずいた。
その顔から、紅潮がひいていき、真剣な表情が取って代わる。
「わかりました。こうなったら、最高のものをつくってやります!」
「うん」
「では、響と貴音のスケジュール調整ですが……」
そうして打ち合わせを始める二人を見つめながら、如月千早のプロデューサーは改めて感慨にふける。
彼が悩んだのは、律子が照れ始めれば、それを説得するにはそれなりに手間がかかることを知っていたためだ。
もちろん、それを解きほぐすのはこれまでもチーフの役目であった。
だが、それにしても、予想以上にスムーズに彼女は決断した。
彼が見る限り、これまでと異なり、チーフの言葉は、呼び水に過ぎない。
律子の表面の様子はポーズに過ぎない。
実際には彼女は黒井に働きかけた時点から、大きな決断をしているのだ。
かつてとは、やはり違う。
男は、自分が日本を空けている間の激動を、再び実感するのだった。
第十四話 終
以上です。舞さんを描くとなんか異能力バトルみたいになりがちですね。
なお、作中に出てくる中島みゆきさんの曲は以下で聴けます。(中島みゆきオフィシャルチャンネル)
https://www.youtube.com/watch?v=3I1hs6BSnAg
次回は一週間後の二〇日を予定しています。
おっと、今回sagaを入れ忘れてる……。修正されるところなくてよかった……。
カバーソングって難しいですよね。原曲のファンも納得させなきゃいけなかったり。
今日はそんな話です。
さて、そんなわけで、第十五話を投下します。
第十五話『旅立ちの日に…』
「ちょっと! そんな言い方はないだろう、律子姉ちゃん!」
レコーディングスタジオに、涼の声が響く。
律子はやれやれと言いたげな表情で席を立つと、周囲のスタッフに頭を下げ、皆を退出させた。
その後で、彼女だけが涼がいる収録ブースに入る。
「涼」
「なんだよ」
ふてくされたように応じる従弟に、律子は眉を顰めるもののすぐにはなにも言わずじっと見つめる。
その視線の圧力に、涼は折れた。
「……ごめん」
それまで止めていたのか長く息を吐き出して、律子は静かに言う。
「あなたはアイドルで、私がそのプロデューサー」
「うん」
「いいものをつくるためになら、喧嘩でもなんでもするつもりよ。受けて立つわ」
「うん」
「でもね、従姉弟同士の喧嘩をするつもりはないの。わかってると思うけど」
「……うん」
うつむく涼。律子はそれに柔らかな表情で語りかけ続ける。
「何も堅苦しい言葉遣いをしろとは言わない。でも、甘えた態度はだめよ。わかった?」
「はい。……それについては謝る」
すねたような表情をひっこめ、真剣な調子で頭を下げる涼に、律子はうなずいてみせる。
「うん。それで、歌い方だけど」
「そっちは譲れないよ」
常とはまるで違う激しい調子で答える涼に、律子はもう一度息を吐く。
「今回のカバーアルバムについては、あなたと小鳥さん、それにあの三人にはきつめのスケジュールを組まざるをえなかった。
レーベルのほうでもEIC本戦に合わせたいからね。だから無理させてるとは思うけど……」
EICは日高舞の大会についてつい先日発表された正式名称、Eternal IDOL Competitionの略である。
レコード会社としても、アイドル業界が活況を呈するであろう時期に発売を間に合わせたいのは当然であろう。
特に765側はほとんどが収録を終え、調整の段階に入っている。
涼、小鳥、フェアリーの三組が短時間で仕上げるよう強いられるのは致し方ないところであった。
「別にそこは大丈夫だよ」
「そう……。じゃあ、できないんじゃなくて、やりたくないってことよね?」
律子の皮肉っぽい問いかけに、涼ははっきりと首を振る。
「違うよ。僕には僕のやり方があるって、それだけだよ」
「これは、カバーソングなのよ?」
確認するように言うのに、涼は肩をすくめる。
「わかってるよ。でも、だからこそ、ちゃんと僕の歌にしているはずだよ? それとも、やっぱり、物まねしろって言うの?」
「誰もそんなことは言ってないでしょう」
「言ってたじゃない」
二人はにらみ合う。
まるでお互いに挑戦しあうかのように。
「私は、原曲を意識しろって言ったの」
「それだけじゃないでしょ」
「まあ、ちょっときつい言い方だったかもしれないけど……」
律子は人差し指を頬にあてて、しばし考える。
「落ち着いて考えましょうか、涼」
ゆっくりとした調子で、彼女は話し始めた。
「オリジナルを聞きたければ、オリジナルを歌っている人を連れてくる。これはカバーだから、あなたの色が出るのは当然よ。
むしろ、それを望んでやっているのだから。でも、これはけしてあなたの曲じゃない。そうでしょう?」
「それはそうだね」
「だから、あなたの色に染めきった歌い方をするのは……」
「もっと、加減しろってこと?」
律子はそこで息を詰まらせたように言葉を切り、しばしの間を空けて、こう言った。
「加減……。そう、そういう風に受け取るの……」
迷った風に視線をゆらめかし、ちらりと腕時計を見て、首を振る。
「時間がないわね。今日はここまでにしておきましょう」
「律子姉ちゃん」
「言いたいことがあるのはわかるわ。でも、いまのあなたと話しても建設的な話し合いにはとてもならないと思うの。場を改めましょう」
涼がきつい調子で言うのに、律子は背を向け、レコーディングブースから出て行く。
その様子に拒絶されたような気分になり、涼は顔をゆがめた。
だが、それ以上はなにも言わずにおいた。
そうして二人はそろって次の仕事へと意識を切り替えるのだった。
「涼ちゃーん。律子と喧嘩したんだってー?」
とあるテーマパークのオープンカフェ。
椅子の前の二本を浮かせてぶらぶら体ごと揺らしながら、美希が尋ねかける。
彼女が目立つ金髪を大ぶりなキャスケット帽にたくしこみ眼鏡をかけているのは、人気アイドルだとばれないための変装だ。
「喧嘩っていうほどじゃありませんよ」
苦笑して答える涼も眼鏡姿だが、これはプライベートならいつものこと。
ただし、意識的に野暮ったい学生ファッションに身を包んでいる。
「レコーディング止まってるのに?」
冷めた声で指摘するのは伊織だ。
彼女は高めの位置で髪をまとめて、ゆるく編み込んで垂らしている。
白のシャツにネクタイを締めてチェックのスカートをはき、カーディガンを羽織るという格好。それは一見、学校帰りにも見える。
これもまた一種の変装であった。
「そうだよー。ミキたちのほうが早く終わっちゃいそうだよ?」
「う……」
美希の言葉に目をそらす涼。
そうすると、園内を行き来する人々の様子が視界に入る。
人気のテーマパークらしく来園者は多い。
ただし、いまのところ、彼ら三人に気づいている者はいないようだ。
このテーマパークは来月、何周年目かの記念日を迎えるらしい。
その記念イベントには竜宮小町が呼ばれていて、伊織たちにも先行してチケットが手渡された。
下見を兼ねて遊びに来てくれ、という園側の配慮であり、宣伝の一環でもある。
遊びに来たことをブログにでも書いてくれれば、テーマパークそのものと、イベントの宣伝になるというわけだ。
伊織たちとしても呼ばれるイベントの成功は喜ばしいことであるから、それに協力するのはやぶさかではない。
ただ、事前の来園もほとんど仕事のようなものだとはいえ、他のスケジュールを押しのけてまで時間を空ける類のものでもないだろう。
特に、元から学生として時間に余裕をみてある伊織、美希と、アイドル専業のあずさとでは、スケジュールの詰まり具合が違う。
どうやっても三人で時間を合わせることはできそうになかった。
そこで、伊織と美希の予定をなんとかすりあわせた結果、涼のオフも合わせられると律子とあずさは気づく。
どうせなら三人で行ってこいと律子たちが彼らを送り出したのであった。
涼としては、三人で遊ぶことに異論などあるわけもない。
ことにこのところのレコーディングの件で律子と衝突を繰り返している彼にとっては、この気分転換の時間は、実にありがたかった。
「まあ、問題があることは事実ですけど……。なんとかしますよ」
「なんとか、ねえ」
「ミキたちに話しちゃえば?」
二人に真剣な顔で見つめられて、涼の気持ちがぐらりと揺れる。
最も近しいはずの律子とぶつかっているいま、相談できる人間がいれば、そうしたい気持ちも確かにあった。
「でも……。アトラクションはいいんですか?」
涼は、ためらうように言う。
彼にとって、この時間が貴重であるのと同様、美希や伊織にとっても、こうして遊ぶ時間は実に得難いものであるはず。
それを、自分の悩みなどで邪魔してもいいものか。
彼がそう考えてしまうのもしかたのないところだろう。
「そうね。じゃあ、あれに乗りましょう」
涼の顔色を見ていた伊織がそう言って指さしたのは巨大な観覧車であった。
恋人たちがロマンチックに酔いしれる夕暮れの時間でも夜でもないこともあり、観覧車は比較的空いていた。
美希と伊織が並んで、それに対面する形で涼が座る。
扉が閉められると、早速伊織が話すように促した。
「単純な話なんですよ。律子姉ちゃんが僕の歌い方を気に入らないって言って、僕が反発してるって構図で」
涼が話し始めると、美希は興味深げにうなずく。
「珍しいね。涼ちゃんが律子の言うことに反発って」
「まあ……たしかに。でも、律子姉ちゃんも結構理不尽なこと言ってくるし、喧嘩することもあるんですよ?」
渋面を作って言う涼。
そのくせ、妙に嬉しそうなのは、なぜだろうか。
「それは、親戚のつきあいで、でしょう? 仕事でプロデューサーの言うことに反対するからには、それなりの主張があるわけよね?」
「はい。……って言ってもわかりにくいですよね。実際に聞いてみますか?」
伊織の問いかけに涼がそう言ってごそごそしだすと、二人がびっくりしたように目を見開く。
「いま、あるの?」
「ええ。原曲と僕のをプレーヤーに入れてます。あ、僕のほうは本録音じゃないんで、音質は悪いですし、前奏、間奏ありませんけど」
「それはしかたないね」
「最初の二、三分ずつ聞きくらべてみればいいわね?」
「はい。じゃあ、これ」
涼は取りだした携帯プレーヤーのプレイリストを二曲だけが流れるように操作して、二人に渡す。
美希と伊織はイヤホンの片方ずつをつけ、流れてくる歌に耳を傾けた。
「あー、これ、ミキも聞いたことあるなー」
「有名な曲だものね」
二人は原曲から涼の歌に移り、そして、なにか考え込むような顔つきになる。
「ふむむ」
「ふうん」
二人の反応を緊張した様子でうかがう涼。
伊織と美希はそれ以上なにか言う前に、共に優雅な手つきでイヤホンを外し、涼にプレーヤーを返してくる。
髪に絡まないように気をつけつつイヤホンを外す手つきは、涼の目からは妙になまめかしく見えた。
「ミキは涼ちゃんの歌、いいと思うよ」
「私も悪くないと思う。でも、まあ……。涼、律子はなんて言ってるの?」
伊織も美希の意見に同意しつつ、慎重な様子で涼に尋ねかけた。
「原曲を意識しろと。あとは……その」
「ここまで来て言いよどまない」
「『聴く人はね、秋月涼のエゴを求めてるわけじゃないの』って」
ぴしゃりと言ってその言葉を引き出した伊織も思わず目をむくほど激しく涼は言った。
言葉の内容も、その口調もかなり厳しいものだ。
なによりそれを言った途端にうつむいた涼の顔つきを見れば、彼が従姉の言葉にどれほどの衝撃を受けたかは察せられようというものだ。
「その言い方はさすがにないかなー」
「たしかにカチンとくる物言いね」
「僕も、それでついかっとなっちゃって……」
「それはしょうがないよ。うん、しょうがない」
落ち込んでいる様子の涼に、美希が優しく声をかける。
伊織も少し視線を泳がせてから、彼に言った。
「ある意味で、律子の甘えでしょうね」
「え?」
「涼ならきついことを言っても大丈夫って甘え。それでつい言葉がきつくなったのよ」
「そういう……ものですかね」
「でこちゃんの言うことわかるなー。律子さんって気にしてる人相手だと、変な距離取る時あるもん」
伊織の経験上、美希はたまにごく自然に律子をさんづけで呼ぶ。
しかも、律子がいない場面に限って。
普段あれだけがみがみ言われても敬称をつけないのは、もしかしたら、わざとか。
しかも、律子に構ってもらいたくてやっているのではないか。
そう、勘ぐりたくなる伊織であった。
それはともかく、いまさら律子の言葉の選択を責めてもしかたない。
それよりも、それで涼に伝えたかったことを考えるべきであろう。
「とはいえ、伝え方はひどくても、言いたいこともわからないではないわ」
涼の持つプレーヤーを指さしつつ、空中でつんつんとつつくような動作をして、伊織は続ける。
「歌い方も、伝えたいメッセージも、涼のものでしかないもの、これ」
「えー、でも、それがいいんじゃない? 涼ちゃんのファンは」
「涼の個人アルバムに入るカバーソングなら、それでもいいと思うわよ。それはそれでカバーのあり方だって思うし」
美希の反論に伊織は半分同意しながら、律子が問題にしたであろう部分を追求する。
「でも、これは、カバーソングアルバムに入るわけで、私たちのファンはもちろん、原曲のファンも聴くものよね」
「まあ、そうだけど」
「であるならば、もっと違う形もあると思うの」
涼は黙ったまま、二人が話すのを聞いている。
その視線は実にひたむきであった。
「たとえば……。ちょっと待ってね」
言いながら、伊織もまたポケットから携帯プレーヤーを取り出し、中を確認し始める。
「入ってたっけ……」
「なになに?」
「あの仮歌」
「あー、あれかー」
それだけで美希は伊織の意図を理解したらしく、検索している伊織から視線を外して、涼をまっすぐ見つめる。
「ええとね、涼ちゃん」
「はい」
「ミキたち……じゃないや、竜宮小町がカバーする曲知ってる?」
フェアリーとしても収録するため、あえて竜宮の名前を出して問いかける美希。
「ああ、『秋桜』ですよね。山口百恵さんでしたっけ……?」
「そうそう。まあ、これはもういろんな人がカバーしてるんだけどね。作詞した人とか、男の人も含めて」
あるいは、山口百恵の引退後は、作詞作曲を担当したさだまさしが主に歌っていることもあり、男性の曲と誤解されることすらあるかもしれない。
いずれにせよ、名曲の名にふさわしい歌であることは間違いない。
「それで、ミキたちが歌うための参考にって、律子が仮歌を入れてくれたの」
「へえ」
「それをでこちゃんが……」
「あ、あったわ」
探してくれている、と美希がはっきり言う前に、伊織が嬉しそうに顔をあげた。
その勢いできょろきょろとあたりを見回す。
「もうすぐ終点ね。まあ、降りてから聴きなさい」
観覧車が回りきるまでは中途半端な時間しかないと悟った伊織はそう言って、自分のプレーヤーを涼に手渡した。
「わかりました」
そうして、三人は自分たちが乗るゴンドラが地上に近づくのを、風景を眺めながら待った。
ふとできた微妙な合間に、ぽろりと涼の口から不用意な言葉が漏れる。
「デートとかで来られたら楽しいんでしょうねえ」
その言葉に、伊織と美希は顔を見あわせ、そろって不機嫌そうに彼をにらんだ。
「ミキたちと来てるのはつまんないんだぁ」
「こんなかわいい子二人も侍らせておいて……」
途端に涼の顔が青ざめる。
すぐに自分の失言に気づいた彼は慌ててぶんぶんと手を振った。
「あ、いえ、ち、違います! いまも楽しいです! そうじゃなくて、えっと……。ち、違うんです。
二人といてとても楽しいです。今日、こうして来ることができたのってとっても嬉しくて、あの……!」
ついには泣き出しそうなほどの勢いになる彼を見て、美希と伊織は、ぷっと吹き出した。
けらけらと笑い出す二人にどうしていいかわからないという顔になる涼。
「わかってるわよ。慌てすぎ」
「まあ、涼ちゃんの言いたいこともわかるよ。特別な人とデートっていうと、きっと違うもんね」
「それくらいは、私たちもあこがれるわよね」
「うんうん」
にこやかに笑っていた美希は、しかし、そこでぎゅっと眉根を寄せて涼を再度にらみつける。
「ただ、この場で言っちゃうのは減点だよ、涼ちゃん」
「大減点よ」
伊織からも冷たい声で言われて、涼は腹の底にずんと冷たいものが入るような感覚を覚えた。
「す、すいません」
彼は本気で頭を下げる。
そもそもこの二人と遊びに行ける状況を、日本中でどれだけの男性が血涙を流してうらやむことだろうか。
かつては想像もできなかったような恵まれた状況にいることを認識できないほど舞い上がっている。
そのことを、涼は強く自覚するのだった。
そんなこんなで涼が一人恐縮しきりの状況で観覧車を離れ、三人はゆったりとした調子で歩き始める。
涼が伊織から借りた携帯プレーヤーのイヤホンを耳に入れ、律子が歌っているという『秋桜』を流し始める。
それからしばらく美希と伊織は次はどこにいこうかとあたりを眺めながら歩いていたが、ふと美希が後ろを向いた。
そこにいるはずの涼の姿は、予想よりずいぶん離れたところにあった。
律子の歌を聴いていた涼の足が止まり、二人に遅れてしまっていたのだった。
「涼ちゃ……」
「しっ」
声をかけようする美希を伊織が制止する。
その真剣な顔を見て、美希も小さくうなずいた。
二人は静かに涼のもとへと歩み寄る。
「わかった?」
「わかった……ような気が……。いえ、でも……」
伊織に携帯プレーヤーを返しながら、涼は複雑な表情を浮かべる。
伊織は満足げにふんと鼻を鳴らして、向きを変えて歩き出した。
涼と美希は彼女に歩調を合わせてついていく。
「少なくとも律子は原曲を塗りつぶすようなことはしていない。原曲の良さを生かしながら、自分の思いも乗せている。
私はその仮歌を聴いた時、そう感じたけどね」
「……はい。僕もそう思いました」
少しだけ間を空けて、涼も同意する。
そこに悔しそうな色を見つけて、美希がなんだか楽しそうに目をきらめかせる。
しかし、すぐに彼女は困ったような顔になった。
「とはいえ、律子のまねをしろとも言えないんだよねー。涼ちゃんには涼ちゃんのやり方ってのもあるはずだから」
「そこよね。……ま、もう少し考えるのがいいと思うけど」
「そうだね」
涼もうなずくのを確認して、美希は真剣な表情をひっこめ、にやにやと彼を見つめる。
「それより、涼ちゃんはさっきの失言のお詫びをするべきだと思わない?」
「そうね。帰るまでに失点を取り返さないと……怖いわよ?」
「え。ど、どうしましょう?」
伊織の流し目にぞっとする涼。
美希と伊織はその様子に二人だけで目配せしてにやついていた。
「じゃー……そうだなー。ミキたちとデートしてると思って、相手してみて?」
「え?」
「それ、いいわね。涼が私たちを誘ったと仮定して、どこにどう連れて行くか考えてみなさいよ」
「わ、わかりました」
「だめだめ。ファンのみんなに見せてるように、『王子様』して?」
「そうそう、真仕込みのアレ」
「う……。わかりました。んっ……」
涼は咳払いをして、声の調子を整え、さわやかで凛とした……気品のある態度で二人に対した。
「では、お嬢様方、お手をどうぞ」
そうして、その後、ずっと二人にからかわれ、まとわりつかれながら、彼はエスコートを続ける。
ぶっつづけのライブよりも遥かに疲れを感じながら、それこそ世間の人々がうらやんでしかたないような笑顔あふれる時間を彼は演出し、
三人はそれを存分に楽しんだのだった。
レコーディングスタジオに、涼の歌声が響く。
それは、純粋に技術的に見れば、以前とそれほど変わるものではなかったろう。
だが、わずかなブレスの使い方が、緩急の付け方が、驚くほどの変化を生じさせていた。
「どうですか、武田さん」
調整室の隅、ブースの涼からは見えない場所で、律子は隣に立つ男に尋ねかける。
「すばらしいの一言だよ、秋月君」
武田蒼一。業界で知らぬ者などいるはずもないほど著名な音楽プロデューサーにして作曲家。
涼の大ヒット曲、Dazzling Worldの生みの親であり、如月千早も彼の曲を望み、求めるほどの人物。
「僕がかつて作曲した曲を、彼がこうして歌うことになるとはね」
その彼が、涼が歌う曲を聴いて、そんな言葉を漏らす。
「彼は、この曲を新たな段階に昇華させている。すばらしい。この曲に、これほどの力が埋もれていたとは」
以前から涼の才能を認めている武田ではあるが、それは未完成の部分に期待を込めてのものも含む。
手放しで褒めることはそうそうない。
だが、今日ばかりは、ずいぶんと昔に自らが作った曲が持っていたポテンシャルに驚嘆し、それを引き出した涼にただただ感心していた。
「ありがとうございます」
「一皮むけたかもしれんな、彼も」
「ええ。そう思います」
武田の評に、律子は控えめな、しかし、喜びが隠せない表情でうなずく。
それを見て、武田は柔らかな笑みを浮かべた。
「そして、君もな、秋月君」
「そうであればいいんですが」
ふっ、と小さく笑う武田。
「君たちが行く、その先を楽しみにしているよ。彼も、そして、君も、まだまだこの先があるはずだからね」
それだけ言って、武田蒼一は調整室を出て行く。
その背を見つめながら、秋月律子は拳をぎゅっと握りしめるのだった。
第十五話 終
以上です。
月末なので、次の予定がなかなかたちませんが、二週間以内にはなんとか投下します。
では、第十六話を投下します。
第十六話『君のままで』
「律子に送ってもらうなんて、おかしな感じね」
後部座席から運転席の秋月律子を眺めながら、如月千早はそんな言葉を漏らした。
「そう? まだそこまで慣れてないから運転荒いかしら?」
「そういうことじゃないわ」
どこかずれた反応に、千早はくすくすと笑う。この年上の友人は、実に頼りになる人物なのだが、どこか抜けたところもある。
場の空気を読むのに長け、ファンの気持ちをあおり立てるのにはとんでもない力を発揮する。
それなのに、妙に気を回しすぎて、空回りしたりする。
そんなところがとてもかわいらしい、と千早は密かに思っていた。
「まあ、免許取っても、アイドルの間は運転できなかったしね」
「それはそうよ。大騒ぎになるでしょう」
事故の可能性はもちろんのこと、ファンに見つかったら大変なことになる。
事務所として、なるべく避けて欲しいのは当然だ。
「あー、だめね、渋滞だわ」
「東京は相変わらずね」
のろのろ運転に移った車中から道路上を眺めて、二人はため息を吐く。
「でも、運転できるのは、やっぱり便利かしら?」
「うーん……。仕事ではね。私生活では特に恩恵はないわね」
「そう。まあ、都心だとそうかもね。アメリカでも、所によっては地下鉄が便利なこともあるし……。
ただ、あちらではいつもプロデューサーが一緒だったけど……」
「治安がねえ……」
そこまで言って、律子はふいに声の調子を変える。
「あ、もしかして、如月千早さんは、愛しのプロデューサーと一緒にいられなくて、寂しがっているのでしょうか!?」
「ばっ、なっ! あ、あなたねえ!」
「あーあー。もう、そんな顔して。記者に見られたら言い訳できないじゃない。大スキャンダルよ」
首筋まで真っ赤に染まる千早のことをバックミラーごしに見やりながら、律子は困ったように笑う。
「ふ、普段なら動揺するわけないでしょ!」
ほのめかされた内容を否定するでもない言い方。
律子はますます苦笑しながら、一応はうなずいておいた。
「まあ、そうかもね。千早が気を抜くのは私たち765の仲間相手くらいだしね」
「そ、そうよ」
小さく咳払いを繰り返し、どうにか平静な顔色を取り戻す千早。
彼女はわずかに憂いを交えた表情で律子に尋ねかける。
「あなたのほうは……どうなの、律子」
おずおずとためらいがちな態度は、彼女にしては珍しい。
気遣うことはあっても、だからこそ直接的に、というのがこれまでの千早であったはずなのだが。
「だめねー。全然だめ。そもそも恋愛感情とは言えないわね、もう」
「そう……なの?」
あっけらかんと返されて、かえって千早は顔をしかめた。
律子が無理に明るくするときほど大変なことになっていることは千早もよく知るパターンだ。
だが、それだけという風にも思えない。
「あなたにはメールで経緯を説明したと思うけど」
「ええ」
千早と律子は、千早の海外進出以前から、頻繁にメールのやりとりを続けていた。
元々事務を兼任していた律子が千早に連絡をすることが多かったのが直接のきっかけだ。
しかし、いつの頃からか、より踏み込んだ内容を送り合う仲になっていた。
秋月律子と如月千早。
二人は765プロを代表するトップアイドルであり、芸能界全体で見ても、事務所の中でも飛び抜けた存在だった。
もちろん、765プロの仲間たちは誰が売れていようとも、友達づきあいを変えるような人間ではない。
千早は忙しくとも春香と遊びに行ったりしていたし、律子は涼の世話を真に頼んだり、美希の世話を焼き続けたりしてきた。
だが、トップを走るからこそ感じる悩み、苦しみ、そして、孤独を共感できるのは、お互いを置いて他にいなかったのだ。
故に二人のメールのやりとりは、深いところにまで達し、ある種、あからさまな吐露のしあいとなっていた。
「あの人が私の誘いを蹴った。それはしかたないと思うわ。急な話だし、先も見えないしね。
それでもね、人間って薄情なもので、一度一緒に歩いてくれないとわかると……。うん、だめなのよね」
千早は、しばし沈黙する。
彼女は自らの思いを託すための言葉を、こう現した。
「私、日本に帰ってきてびっくりしたの」
「ん?」
「正直言って、律子が765の社内にいるなんて、全然予想してなかったから」
「へえ?」
楽しげに応じる律子に、千早は訥々とした調子ながら続けていく。
「律子からのメールだけを見ていると、765の社屋の中にいるなんて、想像もできなかった。
水瀬さんやあずささんの側からのメールも読んでいたけれど、それでも……」
そこで小首を傾げ、彼女は、うんとうなずいて言った。
「そう、たとえば皆は765にいて、あなたが迎えに来るとか、そういう感じだと思ってた。
秋月さんは、あなたと一緒にたまに顔を出すとか、ね」
「ぷっ」
「え?」
唐突に吹き出した律子に、千早は目を丸くする。いまの話でなにか笑いを催す要素があっただろうか。
「あ、ご、ごめんなさい。あなたに秋月さんって言われて、あはっ、むか、昔のことを、ちょっと……!」
笑いをこらえながら、必死でハンドル操作を続ける律子。
車の動きよりもむしろ、千早は律子の体の震えに動揺した。
「わ、私は涼くんのことを言っただけで……」
「わかってる、わかってるんだけど……あー、おかし。昔さー。あなたが事務所入ってきた時のことって覚えてる?」
なんとか笑いの発作を押さえつけて、律子は千早に尋ねかける。
はらはらして彼女のことを見守っていた千早はその質問に目を泳がせた。
「え? またいきなり……。まあ……でも、うん」
「いまから考えると私もお節介なんだけど。私のこと律子って呼べってかなり強引に言ったのは、覚えてるかしら?」
「ああ……うん。覚えてるわ。でも、それは私がなるべく早く事務所になじむように……。あっ」
そこまで言ったところで、千早の顔がゆがむ。
まるで、心の奥底に潜む、忌まわしい記憶を探り当てたかのように。
「思い出した? 思い出したわよね?
『仕事に必要なくらいの交流は持ちます。それより、理解ある先輩ぶらなくてもいいですよ。ちょっとわざとらしいです。秋月さん』」
「やめて!」
千早はなぜか拝むような格好で律子を制止する。
「あああ! あなた、なんで、そう一字一句覚えてるのよ! 忘れて!」
「いやー、衝撃だったもの。そりゃあ、覚えてるわよ。『秋月さんって……。いえ、どうでもいいことでした』とか言われて、何日悩んだことか」
「そ、それは本当になんでもなかったはずよ。そう、あの頃は、なにか話しかけなきゃいけないとかって思ってて……。ああああ、もうっ」
昔の自分を思うさま心の中で呪ってみても、いまの気恥ずかしさは変わらない。
いや、いまだからこそ、友となったいまだからこそ。
志を共にする立場となったこの時に、かつての頑なだった千早が、現在の千早をもだえさせる。
「ごめんごめん」
後部座席で奇妙なダンスを踊るように身をよじっている千早に、律子は謝った。
「もう気にしてないわよ。本当よ」
「……話を戻しましょう」
「ええ、そうしましょう」
こほんと咳払いして、それ以上そこに触れるのを許さないという風にバックミラーをにらみつける千早。
その様子に苦笑して、律子は静かに同意した。
「ええとね、それで、765の社屋にはいないと感じたのは、結局、距離を感じたってことだと思うの。
あ、春香やあずささんたちとあなたじゃなくて……」
「私とあの人に、ね」
うん、と千早はうなずいた。
「そっかー」
律子はハンドルを握る指の一本を伸ばしてとんとんとハンドルを叩きながら、感心するように言った。
「それくらい距離があったかー」
「ええ」
それはあるいは、日本にいなかった千早だからこそ、他の情報に惑わされず感じ取れたことかもしれない。
「見ていれば、険悪じゃないことはわかるわ。でも、やっぱり律子は心理的な距離を取っていると思う」
「うーん……。まあね」
千早の言葉を認めた上で、律子は自己分析を話し始める。
あるいはそれはすでに何度も彼女の脳内で済ませたことであったのかもしれない。
「自分でそうしようとしているのかもね。なんていうか、またあの衝撃を味わいたくはないんでしょう。自己防衛ね」
「衝撃?」
「たとえばだけど……。
あなたのプロデューサーが『海外進出には他のマネージャーを同行させる。俺は日本から君をバックアップする』と言ったとしたら?」
「……たしかに衝撃ね」
答えは、普段の千早の呼吸より、何拍も遅れた。
「きっと私、能面のようになるわ」
その様子を想像しているのか、顔を蒼白にする千早。
「わかるでしょ?」
「そうね……。そう考えてみると、いろいろと難しいのかもしれないわね」
「嫌いとかではないんだけどね」
「うん……」
律子はバックミラーを見上げ、そこに写る千早の顔に、なんとも言えない笑みを浮かべる。
「もう。そんな顔をしないの。私は私でなんとかやってるから。大丈夫。実際、いまは充実してるしね」
「ええ、それは……。プロデュース業も順調みたいだものね」
「まあ、そこは高ランク揃いだし、放っておいても向こうから仕事が来るんだから、私の手腕でもなんでもないんだけど」
「それは違うでしょう」
謙遜するように言う律子に、千早はずばりと言う。
「水瀬さんも美希もあずささんもあなただからこそ、いまの勢いなんだわ。
それに、あき……涼くんが移籍してきてくれたのはあなたがいたからでしょう?」
「それは、ほら、従姉だし?」
そこで千早はシートに座り直し、真剣な瞳で律子を見た。
見られるほうの女がその視線を感じずにはいられないほど強く。
「律子。親族だからって、信頼できるとは限らない。慕ってくれるとは限らない。そういうものでしょう。
長くつきあってきているからこそ、こじれれば根は深くなる。違うかしら」
「千早……」
「涼くんはあなたを信頼し、慕い、あこがれている。それはあなたが成してきたこと、あなたの為人あってのことよ」
血縁だからと言って、わかりあえぬことはある。
生まれが近しいからと言って、尊敬出来ぬ者はいる。
如月千早はそれを思い知っている少女であった。
「そうね……。あの子たちが私を信じてくれているんだから、それに応えないとね。まずはEICで」
「負けてあげないわよ?」
「望む所よ」
挑発するような口調で言いあった後で、くすくすと二人は笑いあう。
車内はあたたかな空気で包まれた。
そこで千早はどこか遠くを見るような目つきになる。
「EIC予選までちょうど一週間……。例の件は水谷さんの予想通りってところかしら?」
「そうね。大きな騒ぎにはなりそうにないわ」
律子はそう言って苦虫をかみつぶしたような顔になり、こう呟くのだった。
「まさか765プロが圧力をかけたなんて言われるようになるとはねえ……」
それは、その日から三日前。
秋月律子と秋月涼の従姉弟は二人きりで出かけていた。
「あんたと二人で遊びに出るって、いつが最後だったっけ?」
軽やかな調子で歩きながら、律子が問いかける。
今日の彼女は普段のきっちりとした服装とは異なり、かなり活動的な格好をしていた。
シャツにパーカー、ホットパンツに大胆な柄のサイハイソックスと律子よりは真や響がしていそうな出で立ちである。
おそらくはそのイメージとの乖離を狙っての変装なのだろう。
いかに引退したとはいえ、律子が有名人なのは変わらない。
「うーん、いつだったかなあ。仕事がらみじゃないのだと、だいぶ前だよね。765入社前?」
そう答える涼も、一応は地味に見えるであろう装いにしている。
だが、当人としてみると、あまり意味はないだろうと思えた。
なにしろ、連れである律子が目立ちすぎる。
たしかに彼の隣を歩く女性があの秋月律子だと気づく者はそうそういないかもしれない。
髪もアイドルの時の三つ編みでもなく、プロデューサーをしている時の——これもインタビュー等で有名になってしまった——アップスタイルでもない。
いまのようなポニーテールの律子を想像する一般人は少ないだろう。
眼鏡もかなりスポーティなもので、レンズに色も入っているから、顔の判別も難しいだろうと思う。
しかし、だ。
膚の出ている部分はわずかとはいえ、ホットパンツから伸びている足はすらりと美しい。
パーカーからちらちらと見える上半身のラインも、これまたすばらしい。
寸胴だとかいう当人のとんちんかんな評価はともかく、メリハリのきいた小柄な体躯に、道行く人々の視線は釘付けであった。
彼らは、秋月律子という存在には気づかずに、『佳い女を見た』という印象だけを心に刻んで歩み去るに違いない。
涼がどんな格好をしていようと、この脚線美の前では目立つことなどあり得ない。
彼はそう感じる一方で、なんとか従姉の太ももから視線を外そうと努力していた。
「ずいぶんになるわねえ。まあ、今日も半分は仕事なんだけど……」
「でも、まあ、待ち合わせまで時間はあるから、ゆっくり行こうよ」
「そうね」
明るい調子で言う涼ににっこりと笑いかけて、ふと律子は顔をこわばらせ、きょろきょろと辺りを見回した。
「どうしたの?」
「ん……。あ、あの店入りましょ」
「うん? うん、いいよ」
律子が指さしたのは道路を渡った先の大型書店だった。本は涼も嫌いではないし、断る理由もない。
二人は店内に入るとぶらぶらと棚の間を巡り、雑誌コーナーで律子が平台の上の一冊を手に取る。
ぱらぱらと中身をめくる彼女の横で、涼が、自分も何か……と見回していると律子が視線を雑誌に据えたまま話しかけてきた。
「ねえ」
「なに?」
他人が近くにいることもあって、二人はお互いの名前を呼ばないようにしている。
声を潜めている限り、お互い以外には聞こえるはずもないのだけれど。
「この服……やっぱり、似合ってない?」
「へ?」
「さっき歩いてたら、じろじろ見られたし……」
「なっ……」
声が大きくなりかけて、涼は慌てて口を閉じる。
彼は深呼吸して、小声で、しかし、熱意を込めて告げた。
「なに言ってるんだよ。とっても似合ってて、かわいいよ」
「お、お世辞はいいのよ。私は本当のことを……」
「本当に似合ってるってば!」
「そ、そう?」
涼の勢いに、律子の目が泳ぐ。
もはや見てもいない雑誌を口元に寄せて、表情を隠しながら、彼女は重ねて問うた。
「でも、さっき、視線を感じたわよ。職業柄、それは間違いないと思うの」
そりゃあ、あなたのボディラインが挑発的だからですよ、とは言えない涼。
「変なんかじゃなくて、逆。似合ってるから見られてるんだって。それに……」
「それに?」
「健康的な女性の、ええっと、生気あふれる様子は目を引くでしょ?」
出来る限り婉曲的に内心を吐露する涼。
律子はオレンジのレンズ越しに涼の横顔を探るようにする。
「ふ、ふーん。この……えっち」
「ぼ、僕に言うの!?」
「ふふっ」
律子は雑誌を置いて、すたすたと歩き出してしまう。
妙に早足なのは、照れているのかなんなのか。
ともあれ、涼も彼女を追って歩き出した。
律子がそのまま店を出ても、彼にとってはそれほど驚きはなかった。
きっと、さきほどの問いかけのためにわざわざ入ったのだろうと理解していたから。
「ねえ」
「んー?」
少しゆっくりめの鼻にかかった返事。
ああ、上機嫌らしいな、と涼は安心する。
「たいやき食べない? おごるよ?」
「たいやき?」
「うん。この近くにおいしいお店があるって聞いたんだ。休日の午後はずいぶん並ぶみたいだけど、まだ午前中だし、そこまでじゃないと思う」
「へー。いいわね。どこどこ?」
「こっち」
先を進んでいた律子が足を止め、涼が導くのに並んで歩き出す。
そうして行き着いた先のたいやき専門店では、涼の予想通り二組ほど待つだけで注文することが出来た。
かりかりに焼き上がった香ばしい皮にぎっしり詰まった餡を味わいながら、二人は歩く。
「んーっ! おいしい!」
「うん。おいしいよね」
「でも、太っちゃいそう」
「歩いてるから大丈夫だよ」
「むー、でもなあ……」
そんなことを言い合ううち、待ち合わせ場所近くに大きな公園があることを思い出し、二人はそこへ向かった。
緑豊かな公園を巡ってカロリーを消費しながら、二人はあの木がどうだとか、あの鳥はなんだとか、どうということもないことを話し続ける。
意識してかどうなのか、二人とも芸能界の話題を出すことはしなかった。
「こんなに中身のない話をあんたとするのは久しぶりねえ」
「中身がないって」
「あ、えっと……。悪い意味じゃないわよ!」
「わかってるよ。業務連絡とかじゃないただのおしゃべりって意味でしょ?」
「うん、そう」
慌てる律子に苦笑する涼。
二人はそれからくすくす笑いあった。
「こういうのんびりした時間もいいね」
「なかなかとれないけどね」
「そうね。さ、そろそろ行きましょう」
「うん」
そうして、二人は時間を確認し、待ち合わせの場所へと向かったのだった。
「お待たせ、二人とも」
たどり着いたのは、歩いていた公園に面したとあるホテルのランチブッフェ。
先に来てすでに席を取っていた二人連れのもとに、彼女たちは近づいていった。
「あー、いらはい」
「こんにちは。涼さん、律子さん」
けだるげに応じるのは、今日も目立つゴスロリファッションに身を包む、サイネリアこと鈴木彩音。
細い声ながらにっこりと迎えてくれるのは、制服姿の水谷絵理。
涼と律子の二人は、今日、この二人に呼び出され、昼食を共にする約束になっていたのだった。
「とりあえず、みんな、お腹を満たすといい?」
「そうね。そうしましょうか」
絵理の提案に皆でうなずき、好きなものを持ち寄って、食事が開始される。
その中で、焼きたてピザの一片を平らげたサイネリアが、対面の律子を眺めて首を傾げる。
「アンタ、今日はまたえらく元気な格好デスね」
「んぅ?」
シーフードパエリアをぱくついていた律子が顔をあげる。
その様子で、涼と絵理は、律子たち二人の距離を理解した。
二人が同級生であったことはそれぞれに聞いていたが、実際に言葉を交わす様子で、その親しさを実感したのだった。
「たしかに、響さんや真さんっぽい?」
ああ、僕と同じようなこと思うんだな、と絵理の言葉に深く同意する涼。
「ん? まあ、これ、真のコーディネートだしね」
この間、二人で買い物に行ったときに、お互いの服をコーディネートして、贈りあったのだと律子は説明した。
「へえ、まこりんの」
「ま、まこりん?」
唐突に出てきた愛称らしきものに、発言者であるサイネリアに視線が集中する。
「アタシ主催のファッションコミュでのハンドルですよ」
「あ……聞いたことあるわ。なんか、水谷さんの紹介で、ロリータファッションのサイトに参加したって……。あんたのとこだったの」
サイネリアの言葉に、律子が驚いたように目を見開く。
当のサイネリアは小さく肩をすくめるばかりだった。
「ロリータだけじゃないですケドね。一応、有名人がいろいろいるんで、765アイドルが入るくらいはたいしたことないですよ」
「へえ……。まあ、真もかわいい服の話が出来るのはありがたいはずだし、よろしく頼むわ」
「はいはい」
ぱたぱたと手を振るサイネリア。
自分に向けるのとはまた違う心安い態度を見て、絵理は面白そうに口元を緩めた。
それから、水を飲み、唇をしめらせる絵理。
「今日、お二人を呼んだのも、ネットのお話」
「そうなんだ」
「これ、見てみて」
絵理が差し出すタブレット端末を涼が受け取り、律子と肩を寄せ合いながら、そこに映し出されているものを読んでいく。
それは、とある女性アイドルのブログであった。
以前から決まっていた仕事が、急になくなった。
それを事務所が確認すると、急遽帰国した歌姫を使うからと一方的に言われた、という内容であった。
直接名指しされているわけではないが、歌姫というのは千早のことだ。
アイドル業界に詳しい人間からすれば、誰だかすぐにわかるように、そこには書かれている。
「なによ、これ。千早がねじこんだとでも言うわけ?」
「ひどいな、これじゃまるであくどい手口で仕事を奪われたみたいだ」
憤然と律子と涼が言うのに、すでに事態を把握している絵理とサイネリアが応じる。
「少なくとも、当人はそう主張してる?」
「まー、実際は、如月千早のほうがネームバリューもあれば、客も入ると踏んでオファーした……という可能性のほうが高そうデスけどね」
「それで、これ」
サイネリアの結論にうなずいてから、涼はタブレット端末を指さす。
「炎上しそうなの?」
「さすが、話が早いですね」
「千早さんに直に言わないで、涼さんたちを呼んだのは、そのあたりを話したかったから」
にんまりと笑うサイネリアと、まじめな顔でうなずく絵理。
彼女たちの様子を見て、律子は苦笑を浮かべた。
「まあ……ネットとか疎いものね、千早」
「んー、でも、メールとかで済みそうなのをわざわざ呼んだのは……」
「炎上してないからと、久しぶりに会いたかったから?」
ね、サイネリア、と絵理は確認するように言う。
「あ、アタシは別に……」
わたわたと前に出した手を振って絵理の言葉を否定しようとするサイネリア。
頬を染める彼女を見て、ああ、この人も律子姉ちゃんと同じように面倒な人なんだな、と妙な納得を涼はしてしまった。
「それにしても、炎上していないのはなぜかしら?」
「765のイメージがいいのと……。それに、EICの予選がもう始まるから」
律子の疑問に、絵理は明快に答える。
世間、特にアイドルを話題にするようなネット業界では、来たる予選に向けての期待のほうがずっと大きい。
仕事を取った取られたくらいの話は、EICの話題の大きさに埋もれてしまうのだと。
「もっと、こう、明確にいやがらせでもあれば別ですケドね。相手が如月千早じゃあ、オーディションでも落とされてただろうと言われて終わりですよ」
「でも、だからって、安心しちゃだめだと思う。765も876も、それに、律子さんのところも、これからは、こういう風に言われてもおかしく……ない」
真剣な調子で絵理が言い、テーブルはしばし沈黙が訪れる。
律子は一度読んだブログの文面をもう一度読み返し、張り詰めた顔でうなずいた。
「そうね……。売れっ子がいる分、実力がある分、いろいろと言われるのは間違いないでしょう」
「うん」
「今回はともかく、今後はいろいろと対策を考えたりしなきゃいけないわね。ありがとう。この情報は持ち帰って765プロにもちゃんと報告しておくわ」
「うん、そうして?」
そこで、律子はテーブルを見回し、にっこりと微笑んだ。
「じゃ、ここの代金はお礼に私が持つわ。いいかしら」
「……ん。構わない」
この話はそれで終わりと示すように彼女が言うのに、絵理はためらいがちにうなずいた。
「ごちそうさまー」
一方、サイネリアは愛想笑いでそれを受ける。
律子は彼女をねめつけるようにして、口角をくっと上げた。
「あんたの分はどうしようかしら」
「なに言ってるんデスか。実際に見つけたのはアタシですよ?」
「いやー、ほら、ViDaVoへの賄賂とか言われたら、困るし?」
わざとらしく肩をすくめる律子と、眉をはねあげるサイネリア。
「ああん? なに抜かしてるんですか、このメガネ」
「あんたも学校ではメガネだったでしょうが」
「あんたみたいな珍妙なオレンジのサイケメガネなんかしませんよ!」
「これは服装に合わせたおしゃれです!」
二人はいつしかテーブルの上に身を乗り出して、至近でお互いをにらみつけ合う。
「あ?」
「あぁ?」
額をこすり合わせるかのような体勢でお互いを挑発し合う二人を、絵理はにこにこと見守っている。
「律子さんたち、とっても仲がいい……?」
「あはは……。うん、そ、そうだね」
喧嘩するほど仲がいい、と人は言う。
問題は、それを間近で見せられる方は実に困ってしまうことだ、と涼は思っていたのだった。
そして、それから三日後。
律子と車中で話す千早は、件のブログのことをすでに知っている。
この日以前に、担当プロデューサーから説明を受けたためだ。
きまじめな彼女は、その誤解を解きたいと主張した。
だが、余計に問題を大きくしかねないと律子に説得され、静観することにしていたのだ。
絵理の予想通り、EICの予選が近づく現在、千早が非難されるような事態にはなっていない。
今後もそれはないだろう。
だが、実際に裏から手を回したりなどしていない千早や765プロとしては釈然としないものもあった。
「黒井マネージャーが言ってたけど」
律子はぽつりと独り言のように言う。
「私たちが961プロの妨害工作だと思っていたものの大半は、実際には961がやらせていたんじゃない。
たいていは弱小の765より、961のアイドルを使う方が得だと思っていた局や番組側の判断だろうって。
もちろん、本人が出てきて挑発していったのは別よ」
「……わかる気はするわ。有力プロダクションっていうだけで、いろいろと有利だもの」
「961の場合は実力がないわけでもないしね」
「ええ」
そこでシートに深く身を預けて、千早は小さく息を吐く。
「でも、謂われないことで責められるのは……きついわね」
「いま、あなたのプロデューサーも、私も、社長も、みんなで対策を練っているわ。今後は、皆がわずらわされるようなことはなくなるはずよ」
そんな千早に、律子はアクセルを軽く踏みながら、真剣な声で告げる。
「うん。そうね」
徐々に車のスピードが上がっていくのを感じながら、千早は身を起こし、前を向いた。
「いまは、ただ、前を見ましょう」
渋滞は終わりつつあった。
彼女たちの前で道は開かれていく。
「なにしろ、すぐそこに迫っているのだから」
「そうよ。すぐそこに来ているわ」
軽快に走り出した車内に、熱っぽい言葉が漂う。
「竜宮小町と涼が頂点を争う日がね」
「私がこの胸の内の炎を解き放つ時が、よ」
二人は微笑みあった。
お互いへの本気の敬意と挑戦の念を込めて。
第十六話 終
本日の投下は以上です。
次回も二週間以内を予定。
おまけ
律子「そうだ、面白いものがあるのよ。見てみましょう」
ttp://yamiyo.info/images/SS/ayane.png
サイネリア「ぎゃー! なんてもの見せるんですかー!」
夜も更けていますが、投下します。
第十七話『空』
EIC予選が始まったその日。
芸能界はてんやわんやであった。
EICでは予選での工作の排除を目的に、一般には当日までその回の予選出場者を発表しないこととなっている。
もちろん、出演者側には当日の参加発表というわけにはいかない。
だが、通常のイベントに比べれば、知らされるのはずいぶんと遅かった。
それだけEIC運営側が秘匿性を重視したということであったろう。
だが、業界としてはいい迷惑である。
大勢としては、日高舞だからしかたないで済んではいるものの、当日やその前後の仕事のスケジュール調整は混乱を極めた。
参加表明をしているアイドルは全員その日の予定を空けておこうとするわけだから、当たり前だろう。
EICに参加せず、それなりの人気を持つアイドルなど、ほとんどいないのだから。
時間に余裕のある撮影などは日程を変えるだけで済む。
そうもいかない場合、誰が来るかはわからない状態で空けておき、出場しないと決まったアイドルをそこに呼ぶというようなことも行われた。
765および秋月の両事務所でもそれは変わらず、ほとんどの所属アイドルは急遽呼ばれた現場へと向かっている。
その中で一人だけ、EIC予選会場に足を運んでいるアイドルがいる。
出場するのではない。
予選を見ておきたいからと、この日の予定を空けてもらっていたのだ。
彼女は、金の髪を大きめの帽子にたくしこんで、アイドルたちのパフォーマンスに酔いしれる人波の中に紛れこむ。
人の多いところに出てくる時はいつもしているように。
途中挟まれる休憩の後、彼女は席に戻らず、会場の一番後ろで壁にもたれかかった。
席に戻らなかった理由は、そろそろ周囲の幾人かが自分のことを感づいたと見て取ったから……だけではない。
今日はもう帰ろうかと考え始めたからであった。
「うーん……」
「どうしたね」
「ああ、クロちゃん」
不意にかかった声に顔を向ければ、よく見知った顔が立っていた。
黒井社長、あるいは黒井マネージャー。
いずれにせよ、美希にとっては、クロちゃんでしかなかった。
彼女には、彼がいることに特に驚きはない。
今日は、音無小鳥が出場するのだから。
「よく秋月が許したものだな?」
この場にいることを、ということだろう。
美希はひらひらと手を振りながら返した。
「んー。ミキは会場の熱気を感じ取っておいた方が後々のためになるからって律子が勧めてきたくらいだよ」
「ふむ。実力者に会わせておいた方が発憤する、か。まあ、たしかにな」
一度は自らの事務所に所属していたこともある星井美希というアイドルの特性について、黒井はよく知っている。
いや、一時期までは彼が最もよく知っていたと言える。
765時代には知り得なかった美希の一面を、敵として相まみえて初めて律子たちは知ることとなった。
それを外から見ていただけでつかみ得た黒井の眼力こそを褒めるべきであろう。
「んー、でも……」
当の美希はそんなことを気にしない。
彼女は彼女であり続けているだけなのだから。
だから、いまも不機嫌そうに口をとがらせるだけだ。
「なんだ?」
「小鳥で決まりじゃない?」
「ほう。うちのアイドルを褒めてくれるのはありがたいが、まだ出てきてもいないのにそう決めつけていいのかね?」
あっさりと初の予選突破者を決めつけた美希は、これまた軽い調子で続ける。
「ミキたち、小鳥と一緒にレッスンしてるしね」
しばし黙って美希の顔を見つめていた黒井。
だが、二人が話す間もステージでパフォーマンスを続けていた一組のアイドルたちと、それに沸き立つ観客たちを眺めやり、肩をすくめた。
「……正直、今日のメンバーは小粒だな。あと半年あれば違ったかもしれんというのはいたが……」
EICへの参加条件は実に緩く、故に、記念参加のようなアイドルたちもそれなりにいる。
だが、もちろん、大半は本気で本戦出場を狙っている者たちだ。
問題は、彼女たちの目指す先が、本戦出場止まりであることだろう。
美希や千早や春香たち、それに小鳥のように、『予選を突破した後』も見据えて準備をしている者、
あるいは、実際にそれを舞台で披露しようとしている者たちは、実に少ない。
実力が足りないせいもある。
765、961の面々のように大舞台での経験が少ないせいもある。
だが、なによりも、ビジョンを示せるだけの指導者が彼らにはいなかった。
あるいは、それを自ら描けるほど、己を研ぎ澄ましていなかった。
EICの予選を突破して、本戦でなにを見せられるか。
そこで見せたものが、今後どう生きるか。
そこまで考え、それを示した結果として。
あるいは、それを自分で考えられるようになった結果として。
予選を突破できるだけの実力をアイドルが蓄えられるようになる。
ただ、お題目として、『EICでのよい結果』を持ち出しても、そこに至れる者はほとんどいないことだろう。
人間というのはおかしなもので、百を目標にした途端、どれだけがんばってもせいぜいが六十にとどまってしまう。
七十にまでいけるのは奇跡のような専心あってこそだ。
それなのに、ビジョンを持てないアイドルたちは、六十を目標にしてしまう。
それでは、どうやっても四十もいかない。
結果として、今日の出場者たちのほとんどは小さくまとまってしまっている。
とはいえ、そう感じるのも黒井だからこそ。
彼は自らが望んでいるようなアイドルが、そうそうは生まれてこないことを、重々承知している。
それでも、数多くのアイドルが参加しているだけあって、『原石』と言えるような者もいた。
それを取り込むべきか、芽のうちに摘み取るべきか。
本来の黒井崇男であれば、それを考えるはずであった。
「ま、今日は、961の仕事ではないからな……」
だが、今日の彼は小鳥のマネージャーである。
961プロダクション社長としての遠大な思考はこの際おいておくべきであった。
「ん? なんか言った?」
「いや。美希ちゃんの気持ちもわかるが、小鳥の実際のステージは見ておいた方がいい、と言ったのさ」
「むー。やっぱり?」
少し迷った風に応じる美希に、黒井は小さく笑いかける。
「結果は変わらんがね」
「ん……」
そこに込められた信頼と自信を見て取って、美希はその場に残ることを決めたのだった。
結果として、彼女は黒井に感謝することとなる。
たしかに、結果は変わらなかっただろう。
だが、そこで音無小鳥が見せたパフォーマンスは、美希の心を圧倒した。
「こんな……優しい歌い方するんだ……」
小鳥の歌を、初めて聞くわけではない。
舞台の上の小鳥を見るのも初めてというわけではない。
それなのに、美希は、それまでとは全く別の音無小鳥の姿をそこに見ていた。
レッスンの時よりもずっと緊張しているのに、ずっと優しい笑みを浮かべ、会場を見つめるその顔。
ダンスと言えるほどの大きな動作はしていないのに、歌に合わせて手を持ち上げ、指を曲げるだけで、皆の視線を引きつけるその動き。
そして、なによりも、耳に心地いいだけではなく、歌詞に込められた意味を自然と心の中まで運んでいくような、その歌声。
細かく観察すれば、いろいろなことが作用しているとわかるかもしれない。
その抑揚や力強さ、あるいは観客の心を捉えるような彼女なりのポーズの取り方などなど……。
だが、いま、そんなことは必要ない。
「あはっ」
快哉とも言えるような笑い声と共に、美希は、胸に当てた拳をぐっと握りしめる。
体中の血がわずかながら温度を上げたような、そんな気持ちを彼女は抱いていた。
小鳥の出番を終えても引かぬ熱を抱えながら、美希は最後まで会場に残っていた。
結果発表を待ち、楽屋に寄って小鳥に祝いの言葉を述べた後、関係者出口から外に出る。
すると、黒井が呼んだタクシーが既に横付けしている。
観客たちと紛れてしまわぬよう黒井たちが気を回してくれた結果であった。
車に乗り込み、シートにもたれかかって、ふうと息を吐く。
その動作一つとっても、うきうきと楽しげな様子が見て取れた。
運転手からもいいことあったの、お客さんと声をかけられるほどだ。
「うん、ちょっとね。あ、電話していいかな?」
いいですよーと、快諾の声を受けながら、美希はショートカット登録してある番号にかける。
「……あ、律子さん? あのね」
そこまで言いかけたところで、電話の向こうの声が冷静な調子で割り込んだ。
『小鳥さんの件なら、もう社長がふれ回ってるからわかってるわよ』
「あー……そっか」
考えてみれば、黒井社長は当然高木社長にも連絡したはずだ。
あの高木社長が、小鳥の予選突破を聞いて喜ばないはずがない。きっと、765の事務所は大騒ぎなのだろう。
『それよりも、急いで戻りなさい』
「うん、もうタクシーの中だよ」
『それならよかった。じゃあ、事務所に直につけて。すぐ打ち合わせするから』
「それはいいけど、なにをそんなに……」
小鳥の予選突破に浮かれる高木社長に苦笑して、少しおせっかい気味にまっすぐ帰ってこいと言うくらいなら、普通の律子だ。
だが、事務所に直につけろとか、いつもより少し指示が細かすぎるし、声の調子も固い。
なにかあったのかと美希は小首を傾げた。
そんな彼女が、次の声を聞き、思わず背筋を伸ばす。
『あんたたちの予選出場が決まったわ』
「……いつ?」
『次の次……八日後よ』
「……わかった。すぐ戻るから」
短くそれだけ言って、電話を切り、星井美希はまっすぐ前を見つめるのだった。
事務所に戻ると、すでに全員がそろっていた。
秋月律子、秋月涼、水瀬伊織、三浦あずさ。
美希は四人とそれぞれに視線を交わしながら、パーティションの中に入っていく。
「涼ちゃんは?」
「まだです。まずはみなさんのサポートですね」
短く問いかけた言葉は思うとおりに理解される。
涼が応じるのに、律子が肩をすくめた。
「と言いつつ、伊織たちのいいところを盗んでいくのが涼の仕事だけどね」
「うん、わかってる」
それはともかく、と律子は四人を見た。
「日程が決まった以上、その日に合わせて、万全の準備をします」
振り向いてホワイトボードの予定を書き換えながら、律子は続ける。
「三日後以降のスケジュールはほとんど空けられる予定よ。まだ交渉中のものもあるけどね」
「さすがの手回しね」
伊織が褒めるのにふんと鼻を鳴らし、律子はきゅっきゅとマーカーを鳴らして文字を書き連ねていった。
「本番前々日まではレッスン漬けになると思ってちょうだい。その代わり、前日は休みにするから」
「全然『代わり』にはなってないけど、まあ、望む所よ」
「そうよねえ。かえってレッスンしないほうが不安になってしまいそうだし」
「ミキ、いまからでもレッスンしたいくらいだよ」
三人が熱っぽく言うのに一つ苦笑して、予定を書き換えた律子はぱんぱんと手を払った。
「無理言わないで。明日の予定もあるんだから。それはともかく……一つ言っておくことがあるわ」
「ん?」
「今回の予選であなたたちが負けるとは私はみじんも思っていない。それだけのものを、私たちは築いてきたはずだから」
うふふ、と小さくあずさが笑いを漏らす。
美希も伊織も律子の言葉にはまんざらではなさそうであった。
「でも、やっぱりまだ、あなたたちは、たとえば竜宮小町の星井美希ではなく、あの星井美希がいる竜宮小町、でしかない」
「むう……」
「特に、今回、アイドルとしては無名だった小鳥さんが初の本大会出場者として、世間の注目を浴びる。
竜宮小町を売り込む余裕は、ほとんどないと考えていいわ」
「それはそうよね。小鳥のことなんて、765のファンの中でもマニアがようやく知ってたくらいでしょ? それが、ねえ……」
「何事も最初っていうのは、インパクトが強いですしね」
伊織が肩をすくめ、涼が同調するのに、律子がうなずく。
「そう。最初の組に入れなかった以上、私たちは話題性ではどうやっても負ける」
「むしろ、765、961、876は負けない限りは、あんまり……ね」
涼が皮肉っぽく言うのに、律子は唇の端を少しだけ持ち上げて応じた。
「だから、開き直って、竜宮小町は、和を尊ぶより、三人の我を出してもらいます」
「我?」
「簡単に言うと、今回の予選で一番うまくできたと思う子を、本戦でのリードボーカルに据えるわ」
「あらあら」
「ミキは負けないよ?」
「早速乗っかってるのがいるけど……。ま、それもいいかもね」
律子の宣言を竜宮小町の三人はそれぞれに受け止める。
律子の思惑通りとわかっていても闘争心をむき出しにしている美希はもちろんのこと。
残る二人もリードボーカルの立場になにも感じぬわけではない。
頬に手を当て、困惑したように笑うあずさの表情は、いつもよりわずかに固い。
あきれたように美希を見やる伊織の口元は、無意識のうちに獰猛な笑みを刻んでいる。
律子と涼には、三人がお互いを意識するのが、手に取るようにわかった。
そして、それが対抗意識に変化するのに、さほど時間はかからないだろうと、涼は予想する。
目配せを交わし合う三人を眺めながら、彼は思わず身震いするのだった。
「まったく……。あんなにたきつけるとは思わなかったよ」
翌日からの変更された予定を改めて通知した後で三人を解散させると、オフィス秋月には秋月の姓を持つ二人が残る。
事務仕事を手伝いながら、そんなことを漏らす涼に、律子はむしろ驚いたような表情を向けた。
「なに言ってるの? まだまだよ」
「え?」
「まあ、美希はあの様子だと必要ないとして……」
スマートフォンを取り出し、律子はメールを打ち込み始める。
なにをするのかといぶかしむ涼に向けて、彼女はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「うわー、悪巧みしてる顔だ……」
「なにか言ったかしら?」
「いえ、なんでも」
にらみつけられただけでわたわたと仕事に戻る涼の様子にふんと鼻を鳴らし、律子は待つ。
そして、メールで指示したとおりに、彼女はやってきた。
「内密に話したいことってなに?」
うさちゃんを抱えて、いつも通りに現れるのは、水瀬伊織。
彼女がいるだけで、その場が華やかになる、それだけの存在感を持つ少女に向けて、律子は出来る限り冷たい視線を向けた。
「わかっているわよね?」
「え? な、なにが?」
「リーダーの意味くらい」
むぐ、と伊織が言葉に詰まった。
彼女が自分を取り戻す前に、律子はたたみかける。
「竜宮小町というグループを作った意味、あなたたちをソロではなくグループで売ることにした意味、そして、そのリーダーである重み」
一言一言をはっきりと力強く発音した後で、律子は柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「伊織、あなたならわかってくれると信じているわ」
「……わかっているわよ」
伊織はぎりと唇をかみしめた後で、歯の間から押し出すような調子でそう告げた。
「EICに勝つことだけじゃない。私たちが飛躍するそのために必要なことくらい」
伊織はなにか悔しそうな顔でしばし律子をにらみつけていたが、ふっとその表情を変えた。
「そうね、こうして活を入れてもらったおかげで思い出せたわ。ありがとう、律子」
「なにを?」
「私が、水瀬伊織がなにを目指すかを、よ」
伊織は気取った態度で髪をかきあげると、真剣な顔で律子を見つめた。
「覚えておきなさい。竜宮小町の名前の前には、日高舞も如月千早も、秋月律子も!
これまでにいたアイドルの全てが霞むようになるんだから」
思わず涼が息を呑むほどの啖呵を切って、伊織はかつかつと靴音を鳴らして立ち去っていく。
その背を見つめ、にんまりと笑みを刻む律子。
「律子姉ちゃん……」
「まだ、よ」
顔を青ざめさせながら涼が声をかけるのに、律子は小さく制するように言った。
「え?」
「待ってなさい」
そう言われても、涼としては動揺を抑えるのに苦労するというものだ。
従姉が皆をあおり立てる意図はなんとなくわかっていても、仲間としては、はらはらするのを止められない。
それでもなんとか書類に意識を戻し、律子に細かいところを尋ねながら、いくつかを処理した頃。
「あのー……」
そう言って入ってきたのは、長い髪を揺らす三浦あずさ。
彼女も呼んだのか、とびっくりする涼をよそに、律子は彼女を招き入れる。
「ありがとうございます。来てもらって」
「はいー」
「予選のことですけど」
あずさがドアを閉めるのを確認して、律子は単刀直入に切り出した。
「あの二人は勝手にぶつかって、つぶし合います。だから、その隙に、あずささんが観客の目をかっさらってください」
「あらー……。いいのかしら?」
あずさは驚いたように首をかしげ、頬に指をあて考えていたが、結局、そう律子に尋ね返した。
「ええ」
「そう、わかったわ」
律子が満面の笑みでうなずくのに、上目遣いで探るように視線を送るあずさ。
「でも、律子さん?」
「はい?」
「律子さんは私にあの二人のフォローをさせたいのかもしれないけど」
そこで、彼女は手を自らの口元にやった。
それで顔の下半分の表情は隠れる。
目立つのは、あずさの深い色をたたえる瞳。
そこに、律子さえ見たことのない光が宿った。
「本当につぶしてしまったら、ごめんなさいね?」
途端、律子と涼、二人の膚がそろって粟立った。
背筋を冷たい汗が滑り落ちるのを感じながら、律子が口にする言葉を選ぼうとしていると、
口元の手を離し、あずさは穏やかな笑いを露わにする。
「なーんて、こんな感じでいいのよね?」
茶目っ気たっぷりにウィンクしながら言うのに、律子はぎこちなく何度もうなずく。
「あ、は、はい。もちろんです。その調子で!」
「うふふ」
あずさはあくまでもゆったりとした笑みを浮かべたまま、律子の言葉に応じるのだった。
「……どっちが本気なの? あれ」
「……それが読めるくらい底の浅い人だったら、竜宮に入れないわよ」
「……そっか」
涼と律子の会話は、あずさが出て行ってから、だいぶ経ってからのものだった。
それまでは二人とも一言も発さずに……否、発せずにいたのだ。
「それにしても、こんなことするなんて思いもしなかったよ」
「そう? 別に憎しみ合わせてるわけではないわよ? 仲間であることは変わりない。ただ、ちょっと競争してほしいだけ」
「うーん、でも……」
涼が呟くのに、律子は座っていた椅子をぎぃと一つ鳴らして、背伸びをした。
「EICはね」
「うん?」
腕を大きく伸ばした格好のまま何事か話し始めた律子に、涼は視線を送る。
「お祭りすぎるのよ。なにしろ、IUみたいに引退者が続出なんて、起こりそうにないでしょ?」
「まあ、なさそうな雰囲気だね」
「それは、日高舞っていうとんでもないネームバリューの人間が企画運営に深く関わってるから。
あの日高舞がやるんだから、とんでもないことになる。そういう予感が業界にはあって、それがお客さんにも伝わってる」
IU……アイドルアルティメイトは、いくつかある主要なアイドルコンテストの中でも、『真のトップアイドルを決める』と謳う大会である。
律子が言うようにこれに敗退して引退を決めるアイドルも少なくない。
それは、おそらく定期的に開催されてきたIUという大会に、一定の権威が認められているためだ。
EICも、規模だけで言えばIUを上回るものだし、世間での注目度合いでも
——初回ということと日高舞主催という点を相殺すれば——いい勝負だろう。
だが、やはり、そこには築き上げた実績が存在しない。
何が起こるかわからないという期待感こそあれ、負ければ芸能界から去らなければなどという切迫感は存在しないのだ。
「要するに、シリアスさが足りないのよ。全体的にね」
「そ、そうかな?」
「もちろん、みんな真剣だし、勝ちたいと思ってるけど。伝統あるわけでもなし。勝った後どうなるかなんて、わかったものじゃないでしょ?」
「それは、まあ……」
涼は少し考えて、律子の言葉に首肯した。
「そうだね。いま、考えられるのは……。うーん。決勝に出られれば業界内ではすごいって扱われるだろうな、くらい?」
「うん。『すごい』だけなのよ。いまのところはね。だから……ある程度は追い詰めてあげたいの。あの三人をね」
「追い詰める、か……」
涼は、んっ、と小さな声をあげて元の姿勢に戻った律子を見つめて、何事か考え込む。
その様子をどう受け取ったのか、律子はにやにやと涼を見る。
「あんたの場合は、竜宮小町の後になった分、伊織たちの活躍が勝手におしり叩いてくれるから楽でいいんだけどねー」
涼はその言葉に表向き苦笑いの体で応じながら、ぼそりと律子にだけは聞こえないよう口の中で呟いた。
「そんなもの、必要ないよ。僕には」
「ん? なにか言った?」
「ううん、なんでもない。さ、がんばらなきゃね!」
さわやかな表情で前向きな言葉を吐く涼に、律子は小さく頭を下げる。
「ええ。あなたの予選前には三人に協力してもらうから、いまはお願いね」
「はーい」
そうして、律子の手伝いに戻る涼。
だが、彼にはわかっている。いつでも意識している。
顔を上げずとも、目を向けずとも、すぐ傍にいる女性のことを、彼は常に捉え続けている。
同輩の活躍よりもなによりも、彼を奮起させる秋月律子という存在を。
そして、EIC予選第三回、その当日。
竜宮小町と涼、律子の五人は会場近くの駐車場で車を降り、人通りの少ない朝早い歩道を進んでいた。
直に関係者入り口まで車で行ってもよかったのだが、外の空気を吸っておきたいという伊織と、
外からも会場を見ておきたいという美希の要望で、少し歩くことにしたのだ。
律子としてもそれには賛成できるところがあった。
会場への入場はまだ始まっていないが、おそらく熱心なアイドルファンたちは既に並んでいることだろう。
遠くからでもそれを眼にしておくことは、実際のステージで力になるのだ。
彼女は竜宮小町の実力を疑っていなかったが、出来ることがあるならやるつもりであった。
「ねえねえ、律子……さん。あのね、ミキ思うんだけど……」
そんな律子の腕に自分の腕を絡め、まるで引っ張るようにして歩いているのは、美希だ。
彼女は今日はずっとそんな風に興奮しながら律子にまとわりついている。
それを、律子もけして嫌がっているわけではない。
「ねえ、美希?」
美希のおしゃべりが中断するところを狙って、律子が彼女に呼びかける。
「え? なに」
「あんた、いつまで経ってもさんづけに慣れないわよね」
「あ、う……うん。ええとね、気をつけては……」
いつものように注意するのではなく、なにか改めて話し始める律子に、美希はおどおどと応じる。
以前、その話で、律子に他人行儀で話しかけられたことが尾を引いているのかも知れない。
「もうね、最近、呼び捨てでもいいかなって思ってるのよ」
「え?」
「仕事先ではちゃんとしてるしね。私に敬称つけるのに抵抗あるなら、無理にさせるのもね」
「り、律子さん……」
以前のことをさらに思い出したのか、美希の顔が青を通り越して白くなる。
その様子に、近くを歩いていた伊織とあずさは苦笑するしかない。
「ああ、違うわよ。私はこれからも美希って呼ぶわ。ただ、そっちが呼び捨てにしてもいいかもってこと」
さすがの律子もくっついている美希の体が小さく震えているのには気づく。
彼女は安心させるように話しかけながら、眼鏡の奥でおかしそうに眼をきらめかせた。
「そ、そうなの?」
「ただ、それには、条件がいると思うの。なし崩しはよくないもの」
「条件って……?」
「私と並び立つアイドルになること。もちろん、追い越してくれても構わないわよ?」
おそるおそるという様子で尋ねる美希に、律子はあっけらかんと言い放つ。
それには他の三人も息を呑んだ。
「そうしたら、呼び捨てにしたっていいわ」
「え、う……」
「あの……。律子さんに並ぶってどうしたらいいんでしょう?」
腕にしがみついた至近距離で律子の顔を見つめ、言葉に詰まる美希。
彼女に助け船を出すように、あずさが会話に割り込んだ。
「そうですね。いろいろあると思います。でも、まずはEIC優勝がいいんじゃないでしょうか」
「へえ。これに優勝したら、律子に並ぶって認めるんだ?」
「ええ。優勝ってことは舞さんも千早も春香たちも、それに涼も下すってことだしね。もちろんでしょう」
伊織もそれなりに興味があるのか、確認するように律子に尋ねる。
律子は小さく肩をすくめて、それを認めた。
「ま、私がそんな大層なものかどうかってことにまず……」
いつも通り、律子が自分を卑下しようとする前に、涼が体ごと彼女の視界に入り込んできた。
「律子姉ちゃん、その話、僕にも適用できる?」
「え? あんた、私を呼び捨てにしたかったの?」
「ち、違うよ!」
慌ててぶんぶんと手を振って否定する涼に、律子がわずかにのけぞる。
なにやってるんだか、と伊織があきれた視線を向けていた。
「そうじゃなくて、EICで優勝したら、律子姉ちゃんに並んだって認めてくれるってほう」
「え? うん、そりゃ……いいけど?」
律子にしてみれば、美希たちへ発破をかける意味での提示だった。
だが、もちろん、涼が優勝すればその実力を認めるのにやぶさかではない。
実際、EICでの優勝者は日高舞に並ぶと言われることだろう。
その時点で、自分なんかはとっくに追い越されていると考えている律子であった。
「そう。そっか」
だが、涼のほうは、そんな律子の内心を知らない。
彼は彼女の言葉にぐっと拳を握り、小さなガッツポーズのようなものを取っているところであった。
その様子に律子は首を傾げる。
「それが、そんなに大事かしら?」
不思議そうに問いかける律子。
伊織は涼と律子の様子に苦笑いに近い複雑な表情を浮かべ、あずさはあらあらと呟きながら暖かな笑みを浮かべていた。
そして、美希はそれまでに言われたことをかみしめるようにうつむいていた。
「そりゃ……」
だから、それを視界に入れられたのは、涼が一番早かった。
基本的に、他の皆の視線は涼自身に向いていたのだから。
「危ないっ!」
甲高いエンジン音。
ガードレールがねじ曲がり、破砕される金属音。
それを耳にした涼が出来たのは、律子と美希を力の限り突き飛ばすことだけだった。
そして、衝撃。
耳をつんざくような音。
再びの衝撃。
感覚が反転し、どこに自分がいるのか、さっぱりわからなくなる。
そのとき、涼の視界はまるでスローモーションのようにゆっくりと動いていた。
そんな中で、意識が向かうのは、自分の仲間たちだ。
突っ込んできた車でもなく、それが突入したマンションの生け垣でもなく、彼は律子を、美希を、伊織を、あずさを探す。
高く位置する視点は、それに少しだけ役立ってくれた。
美希の体を抱きかかえるようにして地面にへたりこむ律子。
あずさに引っ張られ、ずいぶん後ろに位置している伊織。
彼女たちの姿を認めた途端、涼の緊張はぷつんと切れた。
ああ、よかった。
みんなが無事で、本当によかった。
地面が近づくことも、もう気にならない。
彼の意識はみたびの衝撃を受ける前に、既に暗転していた。
そして、四人の絶叫は、彼の耳にはもう届かなかった。
第十七話 終
——予告——
「あれは事故ではなく……事件だった、ということね」
真実を知った律子の脳裏に去来するものは。
「ねえ、涼ちゃん……。起きて。みんな、待ってるんだよ……」
ベッドに寄り添う少女に足りないものがある。
ああ、その長い金の髪はいったいどこに行ったというのか。
「あきらめないうちは……負けないんだ」
その呟きは、いったい誰に向けたものなのか。
そのアイドルは、輝くステージに、再び、立つ。
今日の投下は以上です。
予告は次回予告というよりは、これからの全般の予告という感じですか。
物語も佳境にさしかかってきました。
次回はなるべく早く、出来れば二週間以内に投下したいと考えています。
第十八話『Dazzling World』
タイヤをきしませて乱暴に止まった車から、だっと人が飛び出す。
「舞さん!」
「エンジンはかけておいて! すぐ移動するかも知れないから!」
「わかりました!」
車からかかった声にそんな風に応じておいて駐車場を走り抜ける長髪の女性。
彼女こそ、伝説のアイドル日高舞。
当然顔パスで守衛のいる関係者入り口を通り抜け、彼女は竜宮小町のいる楽屋へと向かう。
「涼ちゃんがはねられたってどういうこと?」
転がり込むようにして部屋に入って、開口一番彼女はそう叫んだ。
二対の視線が彼女へと向かう。
部屋にいるうちのもう一人は、その顔に濡れタオルを置いてソファに横になっていた。
「そのまんまよ。私たちのつきそいで来ていた涼が、突っ込んできた車にはねられて、いま、病院にいるの」
「病院には、律子さんがついてます。私たちもさっき簡単な事情聴取が終わったところで」
椅子に腰掛けている伊織とあずさが静かに言うのを聞いて、舞も息を整える。
おそらく何度も脳内で応答をシミュレーションしたのだろう。
すらすらと答える口調が、どこか台詞のように聞こえた。
だが、彼女にはわかっていた。
伊織もあずさも普段よりずっと化粧が濃いし、目の充血も取り切れていない。
そして、美希が目元にタオルを乗せて横たわっているのは、泣きはらした目の腫れを取るためだろう。
三人とも、平静な心情ではとてもいられないのだ。
それでも努めて冷静でいる彼女たちを前に、舞が動揺しているわけにもいかない。
「……そう。あなたたちはどうするの?」
「それもあって、連絡したんだけどね」
「どういうことかしら?」
伊織は真剣な目で舞を見る。
まるで挑みかかるかのように。
「この大会、あなたが主催者でしょう? まず、今日の予選をこのまま開催するかどうか教えて」
「……やるわ。中止にしたりしたら、涼ちゃんがかえってすまながるでしょうから」
ほんの少しだけ考えて舞がそう答えるのに、伊織とあずさは満足げにうなずく。
「やっぱりね。なら、頼みがあるんだけど」
「私たちの順番を繰り上げて、最初にステージに立つことにしてもらえないでしょうか?」
「……そう。出るのね?」
一拍空けたものの、舞にはそう驚きはなかった。
この楽屋に残っている三人を見たときから、わかっていたことなのだから。
「さっき、舞さんもおっしゃったとおりです。私たちは、涼ちゃんに助けてもらいました。
もし、これでステージをすっぽかしたら、かえって涼ちゃんが申し訳なく思っちゃいます。だから」
「ミキたちは、絶対に、やるよ」
むくり、と起き上がって、美希が舞の目を見る。
その目はやはり充血が取り切れていなかったが、そんなことよりも、そこに宿る意志の強さこさが、舞の心を動かした。
「でも、出来る限り早く終わらせたいの」
切迫した感情が伝わる口調。
わずかな刺激があればすぐに崩れてしまいそうなそれを受けて、彼女は一度目をつぶり、小さくうなずいた。
「わかったわ。ただ、承知してると思うけど、トップに出るのは評価としてはマイナスよ?」
「そんなこと関係ないよ。ミキたちは、勝つもん」
「そうね、わかった。じゃあ、そうしてあげる」
あくまでも強い姿勢を崩さない美希。
張り詰めた表情を隠さない伊織。
なにもかも呑み込んで平静を保つあずさ。
三人を見回して、舞ははっきりとうなずいていた。
彼女はそこで声の調子を変える。
「ところで、愛に知らせたら、飛んでいきそうなんだけど、抑える必要があるなら、抑えておくわよ。
そのあたり、誰に連絡するのがよさそう?」
「律子は、たぶん手一杯でしょうね。765には連絡済みだから、あなたなら、高木のおじさまが一番いいと思うわよ」
「了解」
言って、彼女は三人に背を向ける。
「それじゃ、また、ね」
それ以上、彼女は何も言わず、伊織たちも応じようとはしなかった。
その日、予選会場に来た人々、その中でも元々765プロのファンであった人々は、予想外の出来事に驚きを隠せなかった。
本来はトリを飾るのでもおかしくない竜宮小町が最初にパフォーマンスを行うというのも十分驚きだった。
だが、なにより、彼女たちの楽曲が、『Dazzling World』だったことが、ファンの驚きを決定づけていた。
その曲は、Aランクアイドル秋月涼の代表曲である。
竜宮小町と秋月涼が秋月律子のプロデュースを受けているというのは、濃いアイドルファンならばよく知っていることだ。
また、竜宮小町と秋月涼の合同ライブなども行われていて、涼のバックで三人が『Dazzling World』を歌ったこともある。
だが、他人の大ヒット曲を、よりによって竜宮小町が歌う理由がどこにあるのか。
秋月涼がいかに有名アイドルといえど、三浦あずさ、星井美希、水瀬伊織の三者の名声を打ち砕けるほどの存在ではない。
律子の曲ならばともかく、涼の曲を選ぶ理由はなんなのか。
彼らは疑問を抱かざるを得ない。
そんな疑問を抱く一人に、木場真奈美がいた。
かつて如月千早を焚き付けてEIC参戦を促した彼女は、予選ごとに観覧をしていた。
日本のアイドル業界ではまだそれほど知名度のない彼女は、予選のために空けていた予定がすぐ埋まるほど引っ張りだこではないのだ。
ただし、それには硬派な売り方をしている彼女のプロデューサーの意向もある程度反映されているのかもしれない。
ともあれ、彼女は自らが参加する予選が開かれるまでは、他のアイドルたちのステージを見て、盗めるものは盗んでいくつもりであった。
スタジオボーカリストをしていた経験上、技術の蓄積は既にある。
あとは、それを『木場真奈美』という一人のアイドルとして魅せるためにどう生かすかが、彼女の課題であった。
そのために、多くのアイドルのステージを見ることが、確実に彼女の力となっていった。
そんな彼女にも、この予選で『Dazzling World』を用いる意味が見いだせない。
なにかあるのかと勘ぐるそんな彼女の思索は、三人のステージを実際に見ることで、見事に霧散した。
開演前には不満すら抱いていたファンたちもぽかんと口を開けずにはいられぬほど、それは素晴らしい……否、すさまじい熱演であった。
「パフォーマンスのクオリティは申し分ない」
自らもEICに挑む者として、その研鑽のすさまじさを感じ取り、背に冷や汗が流れるのを意識しながら、真奈美は呟く。
「しかし、この嗟歎はなんだ……」
明るい音の奥に込められた、狂おしいほどの切なさ。
『いつも心で呼ぶよ、あなたの名前』
軽やかなメロディに乗った煌めくような声に、会場の観客たちはおなじみのコールをすっかり忘れ果てた。
『あなたと生きる、素晴らしい世界!』
見た目には完璧なまでの笑顔。耳には心地よい音曲。
心をとろかし、目を惹きつけ、胸を焦がさせるその様に、もっと別の姿を幻視してしまうのも、また、彼女たちが持つ表現力故だろう。
見る者は、皆、彼女たちが泣きながら咆哮していると錯覚した。
そんなことは己の目と耳が否定しているというのに。
それが、竜宮小町というユニットが目指すアイドルの理想の姿であるかと問われれば、否と答えざるを得ないだろう。
それが武田蒼一が生み出した『Dazzling World』が発展すべき姿であったかといえば、否であったろう。
だが、その日、三人はそうするしかなかった。
彼女たちがステージから去った後、観客たちは魂を抜き取られたかのような虚脱感を覚え、幾人かは実際に失神してしまう。
この日の観客たちが、秋月涼が事故に遭ったことを聞き、竜宮小町のパフォーマンスの意味とそこに込められた思いを知るのは、
その夜以降のことであった。
高木順一朗と音無小鳥が病院に早足で入っていったとき、秋月律子はロビーで電話をかけているところだった。
二人の姿を見つけ、軽く目礼する。
高木たちは彼女に近づき、電話が終わるのを待った。
「……はい。そういうことで。ええ、また後ほど。はい、失礼します」
電話を切ると、律子は深々と二人に頭を下げる。
「すいません。わざわざ」
「なに言ってるんですか、律子さん」
「そうだぞ、律子君」
慌てて駆け寄った小鳥が律子に頭をあげさせ、高木が厳しい顔でそれに同意する。
「はい、これ、頼まれてたもの」
「ああ、ありがとうございます。小鳥さん。それで、社長……」
事務所に置いてあるレッスン用の着替え類を小鳥から受け取って、律子は何事か尋ねかけるような調子で高木を見る。
彼はすぐに彼女の言いたいことを察した。
「ああ、美希くんたちのところには、既に人をやっている。……チーフが買って出てくれたよ」
「あの人が?……そうですか」
ほっと息を吐く律子。
「あの、律子さん……」
そこに小鳥がおずおずと呼びかけると、律子はまるで何度も練習したかのようにすらすらと応じた。
「涼のほうは、腕と肋骨が折れているそうです。脚は捻挫しているようですが、骨は折れてないみたいで」
そこで、声の調子は変わる。
「ただ……意識は、戻って、ません」
つっかえつっかえ言う律子に、小鳥は声もない。
高木は息を吸い、腹に力を込めて彼女に言った。
「そうか……。心配だろうが……」
「ええ、でも、とりあえずおば……涼の母親が来てくれてますから……。
それよりも、マスコミ発表も含めて、いろいろと相談にのっていただきたいんですが……」
「もちろん、力になるとも。当人が出てこられないと、いろいろ勘ぐられるだろうが、そこはもう静かにしておいてくれとこちらが頭を下げるしかなかろう」
「なんだか理不尽な話ですけどね……。被害者なのに……」
「しかたあるまい。マスコミというのは貪欲なのだよ」
小鳥が憤然と呟くのに、高木は肩をすくめ、律子のほうを向く。
「あとは、竜宮小町の露出についても考えないといけないが……。これについてだがね、律子君」
「はい」
765に所属しつつ律子のプロデュースを受ける三人については、当然高木の意向が尊重される。
律子はそれを受け止めようと表情を引き締めた。
だが、高木は彼女の予想外のことを話し始める。
「ある程度は水瀬の顔を立てなければなるまい。いかに被害者という立場といえども、水瀬君が警察に事情聴取などを受ける事態だ。
水瀬の法務部は関わらせざるを得ない」
高木はなんとも言えない表情でそう告げた。
彼としては、伊織の父の立場も理解できる。
さらには、その人物から伊織を預かった身として、内心忸怩たるものもあることだろう。
複雑な感情に襲われていることは想像に難くない。
「……言われてみればそうですね」
ぱしんと自らの額を叩きながら、律子は言う。
この非常事態にそんなところまで頭を回せと言うのは酷であろう。
だが、当人はそこに思いを至らせることが出来なかった自らを責めているようだった。
「その場合、法律関係はそちらに任せられるのでしょうか?」
少し考えた後で、律子は小首を傾げた。高木はそれに力強くうなずく。
「ああ、そこは私が話を通しておこう。事故自体のことはそちらに任せ、我々は芸能界のことを担当するというのが妥当なところだろう」
「はい」
そうして、会話が続こうとしたとき、高木のポケットから振動音が聞こえてくる。
携帯電話を取りだし、彼は律子に目線を送った。
「指定の区域では携帯も使えますよ。このロビーもそうです」
律子がそう言うのに小さくうなずき、高木は電話に出る。
「うん、いま、病院だ。律子君もいる。かわろうか」
黒井だ、と小さく言って、彼は律子に携帯電話を手渡した。
「はい、秋月です」
『黒井だ。早速だが、私はそちらにはいけない。すでにマスコミ各社がかぎつけているという話がある』
「……っ。早いですね」
予想はしていたことながら、はっきりとそう告げられて、彼女は唇をかみしめた。
『あいつらは嗅覚だけは優れているからな。その病院だとまではまだ知れていないだろうが、余計な噂になっても困るだろう』
「……マスコミがなにに食いつくかはわからないと」
『ああ、その通りだ。皆が出そろってから見舞いに行くのまでは文句は言うまいが……今日は無理だ。すまんな』
「いえ。お気遣い、感謝します」
黒井崇男は小鳥のマネージャーであると同時に、巨大プロダクションの代表である。
そして、彼はこれまで765プロと敵対関係にあった。
涼を見舞いに来て、また961が765——に縁のある人間——を挑発かなどと世間に噂させる材料を与えるわけにはいかないのだ。
『では、高木にかわってくれたまえ』
「はい」
『高木』
電話が持ち主の手に戻ったところで、黒井は声を潜めて注意を促す。
「ん?」
『少々気にかかることがある。調べてみた方がいいかもしれん』
「ふむ……。詳しく聞かせてくれ」
高木は律子と小鳥に背を向ける。
そこで、二人は別のことを話し始めた。
「とりあえず、マスコミ対応もそうだけど、同業者の人たちにどう伝えるかも考えなきゃいけませんね」
「ええ……。とりあえず、直近の仕事については、さっき断りを入れたんですが……」
「あとは、876とか、765の子たちにどう伝えるかも」
「ああ……そうですね。桜井さんとか、涼に親しくしてくれてる子にも……」
日高舞や武田蒼一をはじめ、涼には芸能界に大きな影響を持つ知人が多い。
むしろ、多すぎる。
そして、そのほとんどは涼の容態を知りたがるか、直に見舞いに来たがることだろう。
どう連絡し、どのタイミングで来てもらうかなど、考えることはいくらでもあった。
「律子さん」
ぶつぶつと呟きながら思考の海に潜っていこうとしている律子の腕に優しく手を置いて、小鳥はささやくように言った。
「焦ってもしかたないです。一つずつやりましょう。お手伝いしますから」
はっと顔をあげる律子。
たしかに、小鳥に言われてすぐに夢中になってしまったが、知人への連絡だけではなく、他にやるべきことはいくらもあるのだ。
優先順位をもう少し考えてから動いても遅くはない。
「そうですね。ありがとうございます」
そこで、律子は、ロビーの隅で、彼女に手招きしている男の姿を見つけた。
「あ、すいません。私ちょっと」
「え?」
驚く小鳥の耳元に、律子が口を近づけ、小さな声で伝える。
「あの人、警察の人なんです。また軽く事情聴取するんじゃないですかね。行ってきます」
「あ、はい。わかりました」
だが、律子の言葉から小鳥が予想したよりずっと早く、彼女は解放されて戻ってくる。
軽い確認だけだったのかな、と思っていると、戻ってきた律子はなにやら神妙な顔つきをしていた。
「どうしたのかね。おかしな顔をして」
黒井との電話を終えた高木が、律子の様子がおかしいのに声をかける。
律子は一度眼鏡の位置を直すようなそぶりをしてから、少し首をひねった。
「ええと、ですね」
「うむ?」
「……私たちに突っ込んできた車の……。ええと、事故を起こした人がですね」
「ええ」
律子は小鳥の相づちにもわずかに口ごもり、ようやくのように口を開いた。
「搬送先の病院で亡くなったそうです」
なんとも微妙な表情で彼女はそう告げるのだった。
「……どういうこと?」
日高舞は、隣に座る男の話を遮って、そう聞き返した。
数人が入ればもう狭く感じるほどのこぢんまりとしたバーには、カウンターの向こうのバーテンダーを除けば、舞と男の二人の姿しかない。
男——武田蒼一は話の途中でいきなり言葉を差し挟まれたのを気にした風もなく、話を再開する。
「さっきも言ったとおりさ。765と秋月がらみで、盗撮事件があった。その犯人は、ことを公にしない代償として、この業界を追放された」
「そこまではわかるわ。当然じゃない」
ふんと鼻を鳴らして、舞はグラスを呷る。
聞いていて気持ちのいい話ではない。
「ところが、それを逆恨みした人物がいた。犯人の兄にあたる男だ。その男が、秋月君たちを狙って車ごと突っ込んだ……と推測される」
「なんか、そこであやふやになるわね」
「しかたないだろう。当人はもう死んでいるからな。だが、現場にブレーキ痕はなかった。そして、警察もこれを事故ではなく事件と見ていると聞く。
被疑者死亡で終わるにしても、ね」
警察がそう判断するのには、ブレーキ痕だけではなく、他の要因もあるのだろう。
だが、舞たちにとって大事なのはそれではない。
「おそらくは事件と推察される。でも、それをやった当人は死んでしまい、涼ちゃんは、まだ目を覚まさない……か」
事故から、もう四日が経つ。
だが、これまで、涼が意識を回復することはなかった。
いまのところ、脳内の出血などはみられないため、経過をみることしかできていない。
「律子君はじめ、周囲の人間は、感情の持って行きようがないな」
偶然がもたらした事故ではなく、悪意をもってなされた出来事であるとわかった以上、感情は変化する。
だが、それをぶつけるべき相手はすでにこの世にない。そして、周囲の人間には、涼の回復を祈ることしか出来ない。
どんなに歯がゆいことだろう。
いまも、涼の横顔を眺めながらベッドの脇にいるであろう面々の顔を思い浮かべ、舞は苦り切った顔を浮かべるしかないのだった。
「やりきれないわね」
「せめて、僕らも快癒を祈ろうじゃないか」
そう言ってグラスを傾ける武田の横顔を眺めながら、舞は彼には聞こえぬほどの声でこう漏らした。
「祈ってるわよ。愛と一緒に……ずっとね」
と。
第十八話 終
深夜の投下になりましたが、本日は以上です。
次回もなるべく早くしたいところ!
第十九話『いっぱいいっぱい』
「はい。ええ、その通り、こちらとしてはなんとも言えないというのが結論です」
律子は電話の向こうの相手にそう告げて、話は終わりだという姿勢を見せた。
そのまま、挨拶をして通話が終わる、というのが普通の対応だったろう。
だが、電話の相手……彼女に電話取材を申し込んだ記者は、ふいにがらりと口調を変えてきた。
『アンタ、大丈夫なんデスか?』
「なによ、いきなり」
ViDaVoの記者としての態度ではなく、友人として声をかけてきたサイネリアに、律子はきつい調子で応じる。
電話の向こうでサイネリアはためらったようだった。
だが、彼女は小さく、こう呟く。
『……声、おかしいよ』
「……うるさいわねっ! 私だって……」
思わず怒鳴ってから、あたりを見回し、口をつぐむ律子。
幸い、彼女が電話をかけるために出てきた通路に、人影はなかった。
ここは、病院の中でも人の少ないエリアなのだ。
だからこそ、携帯電話の使用も認められている。
『ごめん』
素直に謝る声は、『サイネリア』ですらない。
彼女の同級生、鈴木彩音そのものだ。
そのことに妙に落ち着かない気分になりつつも、彩音の気遣いには感謝の念を覚える律子。
「ううん。こっちこそ……。心配してくれてるのはわかるんだけど、どうしても……」
『そうだよね……』
しばし、二人は沈黙を続けた。
相手がなにか言いたげにしているのはなんとなくわかっても、お互いに口を開けない。
そんな状況であった。
そして、彩音がようやくのように尋ねる。
『ちゃんとご飯食べてる?』
「あんたねえ、お母さんじゃないんだから」
あきれたように返しつつも、律子の声に勢いはない。
『……それで、どうなの?』
「ゼリー系のを摂ってる」
『律子……』
律子は壁際に近づき、そのまま壁に寄りかかった。
ずるずると体が落ち、途中にあった段差におしりが引っかかるようにして止まる。
そんな彼女の姿は、765の面々でも目にしたことはなかったろう。
「わかってるのよ。私が倒れてちゃ元も子もないってことは……。でも、さ」
『うん』
「いなくなるなんて……。想像もしてみたことなかった。だから……」
受話器の向こうでなにか言おうとして、言葉を呑み込む彩音の息づかいが聞こえてくる。
はっと小さく息を吐く音がして、電話から響く声音が変わった。
『まーったく、アンタも夢子も、どうしようもないデスね。偉そうなことばっかり言って、こういう時にはうろたえちゃって』
小生意気で張りのある、ネットアイドルサイネリアの声。
急にがらりと雰囲気を変えた友人の様子に、律子はなんだかおかしくなってしまった。
彼女を元気づけようと、はすっぱな態度を取っているのは明らかだったからだ。
「そういえば、桜井さん、来てないわね」
涼の見舞客については後の連絡のことも考えて、律子や涼の母が代わる代わる記録している。
その中に、桜井夢子の名前はなかった。
『顔出したら、事故が本当のことになっちゃう気がして行けないらしいデスよ。なに言ってるんだか』
「あはは」
ひとしきり笑って、しかし、律子は力なく首を振る。
「でも、わかるかな……」
はあ、と小さなため息が聞こえる。
律子の声の細さにあきれたようだった。
『こんなことアタシがほんとは言うことじゃないかもしれませんけど、誰も言ってくれないでしょうから、言いますケド』
「ん」
『すこしはあいつを信用してやるべきデスよ。あんたも夢子もセンパイも』
「……そうね」
律子の返事まで、ずいぶん間が空いた。
その間に彼女が顔どころか首筋あたりまで赤くしたり青くしたりしていたのを、彩音は気づいていたかどうか。
結局、皮肉っぽく微笑んで、律子は続けていた。
「まあ、たしかにあんたに言われるのは腹立つわね」
『怒る元気があるなら、まだまだいけますよ』
「なにがよ」
明るい声で茶化すように言うのに思わず突っ込んで、彼女は立ち上がる。
「じゃあ、私そろそろ戻るわ。彩音」
『ハイハイ』
電話の向こうで、なんだかにやついているような声がする。
この悪友め、と言ってやろうかと思った律子だったが、取りやめて、こう呟くだけにした。
「ありがと」
そう、小さく。
「それでね、トライアドプリムスってユニットがかなり強かったらしいんだけど、やっぱり美心にはかなわなかったらしくてね」
体の各所にセンサーをとりつけられた少年が眠るベッドの横で、金髪の少女が彼に語りかけ続けている。
「そりゃあ、美心の実力は千早さん並みだからね……。正直、いきなり本気の美心が出てきたら、なにも知らない子たちは心折れちゃうと思うの」
彼女が語るのは、この前日行われたEIC予選の模様だ。
伝聞形式なのは、彼女自身が見に行ったわけではなく、東豪寺麗華と共に会場に赴いた伊織からの情報であるためだ。
もちろん、眠り続ける涼は美希のそんな話に反応することはない。
だが、美希はまるで涼がそれに相づちを打っているかのような調子で話しかけ続けていた。
「それからね……」
そこまで言ったところで、彼女はふと口をつぐんだ。
病室のドアが開く気配がしたので見てみれば、律子が入ってくるところだった。
「考えてみれば」
「ど、どうしたの、律子さん」
病室に入ってきた途端に話を振ってきた律子に、美希は小首を傾げる。
「まだ六日なのよね」
「……ん? うん、まあ、そうだけど?」
涼の容態をモニターする機器を見直して、こっくりと美希はうなずいた。
律子はベッドを挟んで美希に正対するような位置に座って、にやっと笑って見せる。
「まだ一週間も経ってない。落ち込むには早すぎるわよね」
「んぅ? ま、まあ、元気出たならよかったの」
たしか電話で取材を受けると言って出て行ったはずの律子が妙に気合いの入った様子で戻ってきて、美希としては戸惑うほか無い。
ともあれ、このところ真っ白な顔をしていた律子が生気のある表情をしていることに、彼女は安堵していた。
美希をはじめとした竜宮小町や、876メンバー、765メンバーの憔悴ぶりもかなりのものがある。
だが、やはり、親族である律子の気落ちぶりは、見ていられないほどであった。
涼の父母とはまた違う彼女の弱りように、美希たちは恐れすら抱いていたのだから。
「そういうわけだから、あんたも早く起きなさい! いつまでこの私を待たせてるの!」
「ちょっ! いくらなんでもそれは無理があるの!」
ベッドの上の涼にむちゃくちゃなことを言う律子に反射的につっこむと、相手はなにやら楽しげに挑むような表情を向けてきた。
ああ、じゃれたいのか、と察した美希がさらに切れのある言葉を選ぼうとした時。
「う……ぅん」
それまで声を発することなどなかった涼が、起き抜けのような鼻にかかった呻きをあげる。
「うぇっ?」
「はいっ?」
思わずかたまる二人。
対照的に、涼につながれたセンサーの数々はその務めを着実に果たし、モニター機器に警告の音を奏でさせている。
もちろん、それらの情報は病院側にすぐに伝わる。
律子と美希が顔を見あわせて震えている間にやってきた看護師たちが、二人を部屋の外に追い出した。
そして、さらに十分ほど後、秋月涼は事故以来初めての覚醒を迎える。
目を覚ました、と言っても、数日の間は、経過を観察するために家族以外の面会は許されなかった。
幸い、病院側は家族の範疇に律子を含んでくれていたため、涼は芸能界の状況を、彼女から聞くことが出来た。
「……迷惑、かけちゃったね」
自分が昏睡している間、そして、これから一ヶ月ほどの間の仕事は765や876が穴を埋めてくれると聞いて、彼は申し訳なさそうに呟いた。
「スケジュールが混乱したのは事実だけど、涼が気に病むことじゃないわ」
律子は首を振り振り、そんな彼に告げる。
「まあ、実際に仕事に入ってくれるみんなにはお礼を言っておくほうがいいでしょうけどね」
言外に、自分に謝る必要はないと言う律子を、涼は驚いたような目で見つめている。
「なによ?」
「いや……うん」
普段の律子なら、もう少しきつめの調子で言ってきそうなものだと思いつつも、そんなことを口にするわけにもいかない。
当然、そのきつい態度というのが心配や気遣いの裏返しであることはわかっている。
そうであっても、現状のようにストレートに優しくされると、なんだか落ち着かない涼であった。
「変な涼ね。ともかく、一ヶ月先からはキャンセルってことになって、あちらで別のアイドルを探すことになるでしょうね。
もちろん765やうちに話が来たら優先的に受けるけど……ちょっと厳しいわね」
765プロに男性アイドルはいない。
男女どちらでもいい仕事なら765に改めて話を持ってくることはありえる。
だが、男性を求めている場合は、他の事務所に仕事が流れるのはどうしようもないだろう。
涼に特有の中性的な魅力を求めていた場合などは代役を捜すのが難しく、律子や涼への心証を悪くしてしまうこともあるかもしれない。
芸能事務所の代表としての律子にとってみれば頭の痛い事態であるが、いまの彼女にそれを気にしている様子はない。
「それはともかく、涼のいまの仕事は、体を治すこと。それ以外は気にしないでいいわ」
「うん……。でもさ」
「なに?」
口ごもる涼に、律子は身を乗り出してくる。
ぱちぱちとまばたきする度に大きく動く睫に、涼は見とれるようにしていたが、顔を引き締めて言葉を舌にのせる。
「いつ、復帰できるかな?」
「……さて、どうかしらね」
律子は慎重な口調で応じていた。
少し前までは、意識が戻るかどうかもわからなかった状態なのだ。
容態が安定してもいない現状で医師たちが軽々なことを言うはずもない。
なにより、律子自身も判断のしようがないだろう。
だが、涼のほうにしてみれば、事故に遭った後しばらく眠っていたらしい、という感覚でしかない。
彼が目覚めないかもしれないと恐怖していた周囲の人間と意識の乖離が生じるのもしかたのないところであったろうか。
「律子姉ちゃん、僕、出来れば、EICに……」
「涼」
「うん」
呼びかけに素直に口を閉じる涼。
律子はそこでなにか迷うようにしていたが、彼の腕——もちろん折れていないほう——に手を置いて、言い聞かせるように語りかける。
「骨も折れてるのよ。わかってるでしょ?」
「うん。正直、痛いしね」
「痛いの?」
ぱっと手を離す律子。
涼はそんな彼女の慌てように苦笑していた。
「まあ、動かなければそんなには。でも、我慢できないような痛みじゃないし、きっとすぐに……」
「涼」
「わかりました」
にらみつけるようにして言われて、ようやく涼がうなずく。
「……まあ、涼の復帰したいって気持ちだけは理解しておくわ。なにかできるか、考えてみる」
小さく息をつき、あきらめたように身じろぎする彼の様子に、しばらく後で律子がそう伝える。
涼はにっこりと笑ってそれに応じた。
「うん」
「まあ、それより……覚悟しておきなさい」
「なにを?」
不思議そうに首を傾げる涼に、律子は肩をすくめて、こう言うのだった。
「面会が許可された後のお見舞い攻勢に」
と。
「こんにちは」
その女性が声をかけてきたのは、病院内にもうけられたカフェでのことであった。
病院内にあるとはいえ、有名な外食チェーンが出店しているだけに、雰囲気は普通のカフェと変わりない。
ただ、一般のカフェに比べれば、席同士の間が大きく開いている。
プライベートな会話がなされることを考えて、隣接しないように配慮されているのだろう。
だから、世間話のように声をかけてくる者などいるはずがない。
そう、知り合いでもなければ。
律子は顔をあげ、声から想像していた通りの顔をそこに見つけた。
「ああ、お久しぶりです。東豪寺さん」
モデルを思わせるスレンダーな体型の女性はそれを聞いて、柔らかに微笑んだ。
明るい色の長髪を振り、座って良いかと尋ねるような身振りをする。
「お久しぶり。でも、麗華でいいわよ。そっちが律子と呼ばせてくれるなら、だけど」
「そう? じゃあ、そうしましょうか、麗華さん」
律子が座るよう促すのに応じてから、麗華はさらにくだけた口調になった。
「さんも別にいらないわ。伊織があれだけ心を許している人間なんだし」
「ああ、そういえば、伊織の幼なじみなんだっけ?」
「そう。まあ、家の関係だけどね」
「雲の上の話ね」
東豪寺財閥と水瀬財閥。
日本でも屈指の大企業グループの総帥の娘同士の関係は、律子にとってみれば、まさに雲の上の話だ。
だが、麗華はそれを聞いて、ただおかしそうに笑うだけだ。
「そう? まあ、そういうことにしておいてもいいわ」
とりあえず、堅苦しいのはやめにしましょう、と続けるのに、律子も微笑んで応じる。
「今日はお見舞いありがとう」
「まあ、伊織のつきそいだけどね」
軽く肩をすくめる麗華に、律子が苦笑する。
「伊織は、あなたたちのつきそいって言ってるんだけどね」
「あいつが照れ屋なの、知ってるでしょ?」
「もちろん。ばれてないと思ってるのは伊織当人だけでしょ。ああ、あと涼ね」
くすくすと二人は笑いあう。
伊織の照れ隠しがかわいくて仕方ないというように。
「でも、不思議なのよね」
笑い止んだあとでレモネードを一口含んで喉を湿らせ、麗華は口を開く。
「なにが?」
「伊織と秋月涼ってあなたにプロデュースされているんでしょう? お見舞いに言い訳を必要とする?」
その問いかけに、律子は一瞬目をそらした。
そのことに自分で気づいて、苦々しい顔をする。
「あの子たち……伊織も美希も、自分のせいで涼が怪我したと思い込んでるのよ。だから……ね」
「なるほど」
麗華は再びレモネードを口にして、律子の表情を観察するように眺めた。
「そして、あなたも、そう思っている、と」
「それは……」
口ごもるのは、答えを言っているのと同じだ。
麗華は優しく微笑んで律子を見つめていた。
「恩義を感じるのは悪いことじゃないわ。でも、相手のわがままをきくことだけが、恩の返し方でもないわよ。
私たちは、社長でプロデューサーなんだから」
「そうね。そういう立場は、あなたも同じだったわね、麗華」
言われて気づいた、というように律子は麗華のことを見た。
芸能プロダクションの代表であり、プロデューサーであるという意味では、麗華は律子の先輩なのだ。
「そうよ、律子。私たちは、アイドルの立場だけ考えていればいいってわけじゃない。プロデューサーならそれでいい。
でも、私たちは彼らを預かっている社長でもあるのだから」
「涼の人生そのものを考えないといけない……のよね」
「その通りね」
まるで自分に言い聞かせるように言う律子に、麗華は同意のしるしにうなずいてみせる。
それから、彼女は、疲れたように呟いた。
「EICがもっとシビアな日程だったら、あなたが悩むこともないんでしょうけどね」
「そうね。あきらめろと説得するのが仕事になったわね」
「でも、順調に回復すれば本選には間に合う……。予選も無理すれば、間に合ってしまうかもしれない」
EIC予選は約三ヶ月の間に十六回行われる。
最後の予選までは、二ヶ月あまりの時間がある。挑戦することは、たしかに可能かもしれない。
だが、律子はつらそうに首を振った。
「無理は……させたくないのよ」
「当人は、そう思ってないんでしょう?」
「男の子だもの」
「ふうん……」
こつこつとテーブルの表面を指で叩いて、しばし麗華はどこか上の方を見るようにしていた。
「一つ、いいことを教えてあげるわ、律子」
結局、なにごとかを決断したかのようにうなずき、そう語り始める麗華。
その口から出てきた言葉は、律子を驚愕させるに足るものであった。
「……え? ほ、本当?」
「疑うなら、確認してみなさい」
「それはするけど……。でも、なぜ、このことを?」
その問いに、麗華は笑った。
美しい肉食獣が浮かべる笑み。
それは、明らかに挑戦の表情であった。
「魔王エンジェルは、765エンジェルに負けた。そして、私たちは誓ったの。今度こそ、『私たち』がトップに立つと」
いまは幸運エンジェルとして活動している麗華たち。
かつて文字通りの魔王として、手段を選ばずアイドル業界の虚飾のトップに立とうとした彼女たちは、一切の裏の手段を捨て去った。
真のトップを目指すために。
「そのためには、有力なライバルが事故欠場なんて、許されないと思わない?」
謎めいた笑みを浮かべた後、あでやかな仕草で立ち上がり、麗華は颯爽と立ち去った。
「じゃあね、また会いましょう。あの頂で」
そんな言葉を残して。
第二十話『迷走Mind』
病院の廊下を歩きながら、とりとめのないことを話す。
それが、秋月涼と星井美希のこのところの日常風景であった。
学業とアイドルとしての仕事を終えて、美希が顔を出せるのが、早くても午後三時すぎ。
普通は五時くらいだ。
その頃には検査や病院主導のリハビリなどの涼がすべきことというのはほとんど終わっている。
また、見舞客もたいていはもっと早い時間に帰ってしまっている。
故に、美希はその時間を涼と二人で過ごしていたが、涼はよく院内の散歩をしたがった。
涼が体力を落としたくなくてこんなことをしているのだと美希が気づいたのは、散歩につきあうようになってしばらく経ってからのことだ。
当初は特に風景が変わるわけでもないのに何度もぐるぐる回るのを疑問に思っていた。
だが、体力維持ということに思い至って、彼女はより積極的に散歩につきあうようになっていた。
病院内では長い金髪をポニーテールにまとめて、ゆったりと揺らしながら、彼女は涼の横を歩く。
「それにしても」
幅の太い包帯の巻かれた腕を持ち上げながら、涼はため息を吐くように呟いた。
「元々太いわけでもないですけど、やっぱり細くなるんですね」
「しかたないよ。ギブスをはめてたんだし……」
しばらく前にようやくギブスの取れた腕は、美希の目から見ても、たしかに細くなってしまっている。
健康的に引き締まったわけではなく、やつれたように見えるから、涼の精神的には余計に細く見えるだろう。
実際、落ちているのは筋肉なのだから。
「わかってはいるんですけど」
「涼ちゃんはダンス得意だから、心配だとは思うけど……」
「いえ、まあ、腕はそれほど……。ああ、でも、動いてくれないと困りますね」
涼は腕を下ろし、どこか遠くを見るような目つきで考え考え言う。
「それよりも、やっぱり、もう少しがっちりしたいなあとか思うんですよね。あ、これは入院とは関係ないですけど」
「そんなに気にしなくていいと思うんだけどな。涼ちゃん、いまでもかっこいいよ?」
美希は、彼と話していて、彼が『かっこいい男性』というのにあこがれ続けていることを理解していた。
多かれ少なかれどんな男性でもそんな気持ちは持っているものだが、涼の場合は、その理想が高すぎるきらいがある。
芸能界で仕事の出来る男性たちや日本でも屈指の美青年たちに囲まれていれば、それも当たり前かもしれない。
だが、なんだか彼女には危ういように思えるのだ。
「そうでしょうか?」
「うん」
「まあ、さすがに男にしか告白されないなんてのはなくなりましたけど……ね」
「う、うん」
さすがにこの話題は掘り下げてはいけないと、美希にもわかる。
彼女はそこで何気なく学校生活の話に移行した。涼もそれに乗ってくる。
「あー、そういえば……」
「どうしたの?」
「宿題とかどうしようかなと」
そこで美希は小首を傾げる。
「涼ちゃんまじめだし、そういうのはしっかりやってそうだけど」
「いや、やってはいます。ただ、さすがにこれだけ学校に行ってないと、わからないところもあって」
「あー、そっかあ」
「そもそも、僕らって、教科書から離れた課題も多いじゃないですか」
「多いねー」
涼の言葉に、美希も苦笑する。
そのあたりは、共通の悩みであった。
アイドルたちは学校を遅刻早退することも多く、その分、様々な課題を提出することを要求されるのだ。
「普段は律子姉ちゃんに相談してたんですけど……」
「……やっぱり、来てないんだ?」
「来てませんよ」
「そっか……」
彼の返答に美希が顔を曇らせる。
彼女も涼も、最近、律子が顔を見せていないのを不審に思ってはいても、お互い口にだすことはせずにいたのだ。
だが、こうもはっきり聞いてしまうと、余計に心配になってきてしまう。
「律子姉ちゃん、忙しいんでしょうか?」
「ええっと……たぶん」
「たぶん?」
そこで彼女は声を潜め、涼の耳元に口を近づけた。
「実は、事務所でも無闇と忙しそうで、ミキもあんまりしゃべれてないの」
「そうなんですか?」
「うん。なんでだか、ミキにもよくわからないけど」
二人は顔を見あわせ、ううむ、と困ったような顔になる。
実を言えば、律子自身に確かめるまでもなく、美希が765の誰かに尋ねれば、その疑問はすぐに氷解したのだ。
ただ、彼女は、涼の見舞いに来る時間を考えて、あまり事務所に長居をしていない。
そのために、律子たちがしていることについて伝わっていなかった。
あるいは、誰もが、美希も既に承知していると勘違いしていたのかもしれない。
だが、いずれにしても、美希は、律子がなにをしているかまるで知らなかった。
ましてや涼は彼女の行動など想像もしていなかった。
だから、当の律子がつかつかと靴を鳴らしながら現れた時も、ただ驚くだけであった。
涼の横で、なにかおかしなものを見たとでも言うように首を傾げる美希。
「律子姉ちゃん!」
「涼。調子はどう?」
「え、あ……うん。順調だよ。この調子なら、予選もなんとか……」
そこで、律子はちょいちょいという風に指を動かして、人の少ない方へと二人を促す。
周りに人影がなくなったところで、律子は口を開いた。
「そのことだけど」
「うん?」
「予選までに治そうなんて考えなくて良いわ」
かくん、と涼の顎が落ちる。
なんだか妙に圧力を感じる律子の物言いに、美希が眉を顰めた。
「で、でも、律子姉ちゃん」
「そんなことしても、意味がないのよ」
引きつりながらなんとか返す涼に肩をすくめる律子。
そのあまりに軽い調子に、涼が声を無くす。
「せっかく涼ちゃんが頑張ってるのに、その言い方はひどいの!」
憤然と抗議する美希を、ちらっと見る律子。
その顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。だが、それもすぐに得意げな顔に変わった。
胸元から取り出した封筒を突き出し、彼女はにっこりと笑う。
「はい。本選出場のための書類。サインしておいて」
「……え?」
「え?」
美希が驚くのには相変わらず不審そうに顔をしかめ、しかし、涼に対しては、誇らしげに胸を張る律子。
「予選は、もう通過してるってわけ。だから、あなたは、安心して、本選までにゆっくり治せるわ。
まあ、それでも病み上がりなわけだから、そこは私がフォローするって事で」
「ど、どうやって」
震える手で彼女から書類を受け取り、涼は目を白黒させている。
「まず、EICには個人という登録種別はないの。全部がユニットで、それはソロも変わらない。これはいい?」
「う、うん。僕はソロユニット『秋月涼』だもんね」
「さらにEICの規定にはこうあるの。『登録ユニットは、予選開催中に限ってはその構成を変更することが可能である』とね」
「え……」
「あー……アイドルマスターグランプリみたいな……」
「そうそう」
驚きに立ちすくんでいる涼に対し、美希はかつて魔王エンジェルに対抗するために、765プロがしたことを思い出し、納得したようだった。
なにしろ、そのときは、千早一人だったものを、765アイドル全員——当時は十人——に変えてしまったのだから。
律子は主に涼への説明に切り替えて続ける。
「もちろん、細かい規定はあるけど、ユニットの構成は変更できるの。もちろん、人数の増減も、ね。
このルールを利用して、涼はソロでの参戦ではなく、デュオユニットで参加ということになったわ」
「デュオ……? ええと、律子姉ちゃん? まさかとは思うけど……」
「そ。私が復帰しました」
「ええっ!」
「そっか……。なにかおかしいと思ったら、ライブ後の研ぎ澄まされた律子さんなんだ……」
涼が悲鳴のような声を上げる横で、美希は小さく呟いている。
律子の姿を見た時に感じとった違和感を、ようやく無意識ではなく意識で把握したのであった。
一方、EIC予選を戦い終えて、まだ熱のさめやらぬ律子は意気揚々と涼に告げている。
「秋月涼と秋月律子のユニット『RottenApple』で、予選勝ち抜いてきたわ。もちろん、出場したのは私一人だけど」
「そ、そう……」
「あ、ちなみに『腐ったリンゴ』って意味だから」
「な、なにそれ?」
「腐ったリンゴは樽のリンゴを全て腐らせる、っていう諺からよ。転じて不良とか、ろくでなしって意味ね」
そこで肩をすくめて、律子は意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「それだけ影響力があるってこと。私たちの毒で、みんなを殺してしまうくらいの勢いでやりましょう」
「いや、なんでそんな……ああ、でも、一度やめたのをってことなら、まあ……。でも、わざわざそんな……」
「ぶつぶつ言わない!」
「う、うん」
よろしい、と言ってにこにこと笑う律子。
放っておけば涼の頭でもなではじめそうな上機嫌な彼女を眺めながら、美希はぽつりと呟くのだった。
「RottenApple……。RAか……」
と。
「涼ちゃん、ミキもそろそろ帰るね」
嵐のような勢いで涼たちに衝撃を残して律子が立ち去った後、病室に戻った涼がベッドの上でなんとなく落ち着いたあたりで、美希がそう切り出した。
まとめていた髪をほどき、ふるふると頭を振る。
金の髪がほどけて空気を含んでいくのが、なんだか妙に開放的に感じられる。
「また……」
「え?」
ベッドの上から、窓の外の夕焼けを眺めていた涼が、独り言のように呟くのを、聞き返す。
「また……追いつけない」
「涼ちゃん? どうしたの?」
あまりに深刻な声の調子に、どこか痛むところでもあるのか、と身を乗り出す美希。
そんな彼女の腕を、涼ががっしりと掴んだ。
「りょ、涼ちゃん?」
「美希さん、教えてください。僕はどうしたら律子姉ちゃんに追いつけるんでしょう?」
「え? どういうこと?」
腕をがっちり掴まれたまま身を寄せられ、顔をのぞき込まれる。
すぐ側にとてつもなく真剣なオトコノコの顔があることにどぎまぎしながら、美希は彼に説明を求めるしかなかった。
「今回の大会で勝ち抜けば……。
美希さんたちや舞さんといい勝負をすれば、律子姉ちゃんに追いつけるかもしれない、認めてもらえるかもしれないって。
……そう、思ってたんです」
思わず出そうになる反論の言葉を押さえ込み、美希は彼が吐露する内心を静かに聞く。
「でも、その律子姉ちゃんが、僕とデュオを組む……」
涼はぶんぶんと首を振る。
「いえ、正直言えば、さっきは嬉しくてたまらなかったんです。あの律子姉ちゃんが……。
一度終わらせたことを後からいじくるなんて大っ嫌いな人が、僕がこうだからって、わざわざ復帰して、予選を戦ってきてくれた……。
そのこと自体にはとても感謝しています」
そこで、弱々しい笑みを浮かべる涼を、美希はじっと見つめた。
「でも……落ち着いてきたら、怖くなってきました……」
「怖く?」
「たとえ、今回の大会でどれだけ勝っても、それは秋月涼の力じゃない……。違いますか?」
「律子も参加するから?」
「ええ」
そうではない。
そうではないだろう。
美希はそう思うが、それを口にしない。
口に出来ない。
反論するのは、実に簡単だ。
現実問題として、竜宮小町のプロデュースや涼復帰後の計画を考えなければいけない律子に、割ける時間はそう多くなかったはずなのだ。
だからこそ、彼女は——おそらくは心を痛めつつ——涼の見舞いの時間すら削って、準備に邁進したのだろう。
律子がそこまでする理由が、涼が怪我をしているから、だけにとどまるだろうか?
いかに涼に同情しいたにせよ。力になろうと思っていたにせよ。
自身の時間をフルに使って、さらには、後々の事務所の経営にまで影響しそうなことを、あの律子が軽々に選び取るだろうか?
それを決断させるには涼への情だけではなく、もう一押しが必要ではないだろうか?
そう、律子は、彼の力量に期待を寄せているからこそ、一度綺麗に終わらせたはずの自らのアイドル活動を再び始動させたのではないか。
そんな風に論理を展開すればいいと、美希の思考のどこかは主張している。
だが、彼女はそれを実行できない。
「また、律子姉ちゃんに認めてもらえない……」
なぜなら、彼女はそのとき、ようやくのように悟っていたからだ。
ああ、この人は……秋月涼は、秋月律子に恋い焦がれているのだと。
「結局、僕は律子姉ちゃんに迷惑ばかりかけて……。頼ってしまってるんですよね」
「そう……なのかな?」
美希の腕を放し、ベッドの背もたれに体を預けながら、涼が苦笑しながら言うのに、彼女はあやふやに返す。
「すいません、変なこと言って」
「う、ううん」
彼が寂しそうに笑うのに、そんな風にしか返せない美希であった。
翌日、765プロ事務所内は、実に騒然としていた。
トップアイドルとして君臨しながら、その絶頂とも言える時期に引退した秋月律子が復活するという、誰も予想していなかった事態が突然に起こったのだ。
問い合わせが殺到するのも当たり前であろう。
本来こういった電撃復活というものは、業界の特定の部署には根回しがされているものだが、今回はそれがなかった。
もちろん、EIC関係者は知っていたのだが、日高舞が仕切っているものだから、他所に情報は漏れない。
故に、この日、寝耳に水だった関係者たちは、競って765およびオフィス秋月に連絡を取ろうとした。
おかげで、事務所スタッフはてんてこまいであった。
このあたり、律子当人が『EIC限定で、あとは適当にフェードアウトすれば』というような感覚でいた故の、読みの甘さが露呈してしまっている。
この日ばかりは、アイドルたちはスタッフの邪魔にならないよう、ぽつりぽつりと隅のほうでかたまって、おとなしく過ごしていた。
そんな中、額を寄せ合い話し合う、竜宮小町の姿がある。
「あらあら」
「複雑ねえ……。そりゃ」
前日の涼の様子を聞きたがった二人に美希が報告すると、伊織たちは困ったように顔を見あわせた。
「うん。どうしたらいいのかな」
「どうしたらって? 律子に文句でも言う?」
「まさか」
ふんと鼻を鳴らして伊織が言うのに、美希は大きく目を見開く。
「そんなことできるわけないの」
「それはそうよねえ……」
涼本人もそうだが、律子の善意を疑っている者はいない。
せっかくの行動にけちをつけるのは、さすがにためらわれた。
「まあ、それ以前の話として」
伊織はひょいと肩をすくめ、きつい調子で美希を見つめる。
「あんたはどう思ってるのよ」
「え?」
「美希ちゃんが、涼ちゃんのことをどう思っているのか、伊織ちゃんは確認したいんだと思うわよ」
「ええ。涼と律子のことを考えるにしても、そこをはっきりさせないとね」
「え? ミキが、って……え?」
何を言っているのかわからないと言いたげな美希に、伊織は一つ息を吐いてから切り込んだ。
「男女の感情は、無いわけ?」
「なっ、え、だ……は?」
「あらあら、動揺しすぎよ?」
顔を赤らめたり青ざめさせたりする美希を見て、あずさがころころと笑う。
美希は、涙目になりながら、あずさに訴えかけた。
「え、だ、だって、でこちゃんが、へ、変なこと!」
「でこ言うな。変でもなんでもないわよ。あんたは、涼が律子に恋していることに気づいた。それで、あんた自身はどうなの? と尋ねてるだけじゃない」
ぱくぱくと口を閉じたり開いたりする美希。
だが、彼女の舌は麻痺したように動かない。
その様子に、あずさと伊織は、二人だけで話を進めてしまう。
「それにしても、涼ちゃんが律子さんに……っていうのも、なんとなくはわかっていたけど、改めて聞くといろいろ考えてしまうわよねえ」
「そうね。私も、ある程度は予想してたけど……。美希がこう言うんだし、まあ、そこは間違いないんだと思うのよ」
「そうねえ」
うんうんとうなずくあずさに、伊織は下からのぞき込むようにして尋ねかける。
「あずさとしてはどう?」
「従姉弟だと結婚も出来るし、特に問題はないんじゃないかしら。年下なのを律子さんは気にするでしょうけどね」
「夢子は?」
「……うーん。望みのない戦いに駆り立てるよりは、出来れば、うまく撤退させてあげたいわね」
「はっきり言うわね、あんたも」
そこまで言ったところで、まだあわあわしている美希に、あずさはにっこりと笑いかける。
「あ、美希ちゃんの場合は、まだ可能性はあると思うわよ。大事なのは、『お友達』になる前に女性として認識されてるかどうかだと思うの」
「美希の場合、まず先輩という立場があるから、かえって楽かもね。同期はどうしても、仲間とかお友達感覚が出来ちゃうから……」
「な、なに言ってるのかわからないの」
まだたどたどしいながらも言葉を取り戻した美希に向かって、伊織はわざとらしいほど大きなため息を吐いた。
「あきらめ悪いわね。はっきりしなさいよ」
「なっ、そ、そういうことじゃないの!」
「違うの?」
「違うのかしら?」
「え、えーと……」
二人から真顔で尋ねられ、美希は目をそらす。
自分でもなんでそんなことをしたのかよくわからずに、彼女は戸惑うほか無かった。
「あんたが涼に友情以外のなんの感情も持っていないと言うなら……。
私たちは涼と律子の間をどううまく行かせるかって相談を始めるけど、それでもいいの?」
「……それは、その……」
言いよどみながら、美希は無意識にぎゅっと胸の前で拳を握っている。
胸の奥で、なにかがもやもやとわき上がり、彼女を奇妙な感覚に陥らせていた。
まるで、あるはずのない心の急所をきゅーっと掴まれているような。
「なんか、えっと……気分がおかしい……っていうか……」
「ふふっ」
「ま、この恋すら自覚できてないのは置いときましょう」
彼女の様子に、あずさは微笑み、伊織はどうしようもないと言いたげに肩をすくめる。
「な、なんか、ひどいの!」
顔を真っ赤にして抗議する美希。
だが、伊織はもう彼女の方を見ていなかった。
「どちらにせよ、涼の落ち込みはなんとかしてやらないといけないわよね」
「せっかく律子さんががんばって復帰したんですもの。涼ちゃんがそんな悪い方に取らないでよくなるようにしたいわよね」
「さすがに、あんただって、そのあたりはそう思うでしょ?」
「え? あ、うん。もちろん。ミキだって、涼ちゃんが落ち込むことはないと思うし……」
そこで、伊織は立ち上がり、首を伸ばして、フロアを見回した。
電話対応や打ち合わせで一瞬たりとて止まる様子のない律子の働きぶりを見つけて、彼女は小さく首を振った。
その横で、あずさと美希も彼女にならって律子の動きを目で追っている。
「今日は無理としても、近いうちに一度しっかりと時間を作ってもらわないとね」
「そうね。出来れば、涼ちゃんも交えて」
「あ、それはいいね」
三人はそこで顔を見あわせ、一つうなずく。
「じゃあ、あの二人のことで、何が出来るか、考えてみましょうか」
「うん」
三人が座り直すと、伊織はふとなにか思い出したかのような顔つきになった。
「その前に、竜宮小町のリーダーとして一つ言っていい?」
「なに?」
「なにかしら?」
美希とあずさがしっかりと自分に意識を移しているのを確認して、伊織は言い放つ。
「涼はいじけてるようだけど、これは、私たちにとってはチャンスよ。
律子が……私たちにとって乗り越えるべき壁が、わざわざ現役復帰してくれたんだもの」
「……それもそうね」
「そっか……。久しぶりに、千早さんや律子さんと戦えるんだ……っ!」
「そうよ、日高舞、如月千早、秋月律子……。一度にやっつけられる機会なんて、そうそうないわ」
そこで、伊織は声を落とし、二人だけに聞こえる言葉を舌に乗せた。
「プライベートなことはともかく、アイドルとしては、気合いを入れていきましょう」
「……ええ」
「おーっなの!」
そうして、三人はお互いの顔を見つめ、小さく、けれど美しい、挑戦的な笑みを刻むのだった。
第二十話 終
本日は以上です。
本当に遅くなって申し訳ありません。
今月は律っちゃんの誕生月ということもあり、なんとかがんばりたいと思っております。
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