プリキュアやめた (16)
「僕に任せておいて。何かあったらまた相談しにおいで」
扉が閉まったのを確認して表情筋を緩めた。
まだあの男の感触が全身に残っている気がする。
ああ……
「気持ち悪い」
都内某所の高級ホテル。高層階の廊下はしんと静まり返っている。
綺麗に見えるのは外側だけで、中はどこも同じ。ここにいる人間はみんな同類だ。
でもこの業界で生き残るにはこれしかない。私はただ、一所懸命頑張っているだけ。
エレベーターで時計を確認すると23時ごろ。この時間なら電車がある。
エントランスを通り抜けるとき視界に入ったテレビでは、最近流行りのアイドルが歌って踊っている。
立ち止まりはしなかった。でも目を離すのに時間がかかった。
私も昔、あんな恰好をしていた。
歌ったり踊ったりしていたわけじゃない。ただ、世界を守っていた。
10年前、私はプリキュアだった。
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ホテルを出て、駅の方角に歩き始めた。
夜の街の静寂は余計なことを思い出させる。今日は最悪な日だ。
あの頃の私は夢見がちで、世間知らずで、馬鹿で、未来への希望に満ち溢れていた。
いつかきっと女優になる。そしてみんなを笑顔にする。今になって思えば、どこまでも馬鹿げた夢。
でもそういう夢見る心が私をプリキュアにした。
私は戦った。世界を救うため、大切なものを守るため。
私は独りじゃなかった。仲間がいた。みんなでプリキュアだった。
みんな、自分の夢を持っていた。夢のために精一杯努力していた。私だってそうだった。
夢に一歩近づいたとき、戦って勝ったとき、みんなで手を取り笑いあった。誰かが挫けそうなときはみんなで支えあった。
私たちは絶対に諦めない。いつだって前を向いて歩き続ける。それがプリキュア。それが私たち。
それが、だんたん重荷になっていった。
夢に向かって努力する中で、私は何度も失敗した。
プリキュアとの両立ができず、落胆され、叱責され、何度も諦めそうになったし挫けそうになった。
でも、それを絶対に許してくれない女の子がいた。
あの子は私たちのリーダーだった。
誰かがそう決めたわけじゃない。誰かがそう呼んだわけでもない。でも誰もがそう思っていた。
あの子は強かった。
勉強も運動もできなくて、要領も運も悪くて、ドジで失敗ばかり。
夢はパティシエと言いながら、失敗作を積み上げる日々。
それなのにいつも明るくて笑って、何があっても諦めなくて、いつだってまっすぐだった。
私が折れそうになると、あの子はどこからともなくやってきて、私に寄り添った。
私の話を聞いて、慰めて、励まして、自分のことみたいに苦しんで、悲しんで、あろうことか涙を見せることさえあった。
それが次第に恐ろしくなっていった。
戦いの中で窮地に追い込まれることは何度もあった。
私たちが諦めかけたとき、あの子は必ず立ち上がった。
あの子の呼び掛けに応えるように、みんなも立ち上がった。
それが次第に恐ろしくなっていった。
いつだってあの子がいた。
いつだって、あの子の背中を見ていた。
あの子の影の中にいるような気がした。一生そこから出られない気がした。
たまらなくなって、私は逃げ出した。
決断するのは簡単だった。難しいのはそれをみんなに、あの子に伝えることだった。
きっとあの子はまた私を励まそうとするだろう。諦めるなと叱咤するだろう。それが恐ろしかった。
それでも決断は鈍らなかった。プリキュアをやめれば自由なれる。そう思っていた。
プリキュアをやめる理由に、私は夢を引き合いに出した。
このままでは夢を叶えられない。女優業に専念するため、プリキュアをやめる。
反応はそれぞれだった。仕方がないと了承する者、泣きながら引き留めようとする者。
あの子はただ、寂しそうに笑った。
私はプリキュアをやめた。
それなのに残ったのは後ろめたさだけだった。
あの子のせいだ。あの子が最後に見せた、あの表情のせいだ。
プリキュアをやめてもなお、あの子は私を苛み続けた。
それから私はあの子を避けるようになった。
同じ学校のクラスメイトで、あの子のあの性格。放っておかれるわけはない。
私は何かと理由をつけて会話を遮り、誘いを断り、そのうちだんだん疎遠になっていった。
中学を卒業するころには、かつての仲間は誰も話しかけてこなくなった。
高校には、誰も知り合いのいない遠方を選んだ。これで私の世界から完全にあの子がいなくなる。そう思った。
そして卒業式の日、あの子は私に手作りのクッキーを渡してきた。
メッセージカードが入っていて、あれから世界を救えたことと、夢に向かってお互い頑張ろうみたいなことが書かれていた。
クッキーを1口かじって、すぐに吐き出した。
私が知っているあの子のクッキーじゃなかった。
あの黒焦げで、砂糖と塩を間違えたクッキーじゃない。信じられないほど、おいしかった。
馬鹿にされている気がした。
私はプリキュアをやめたのに、女優一本にしぼって頑張ってきたのに、そんな私が燻っているのに、どうして。
残ったクッキーもメッセージカードも全部まとめてゴミ箱に叩きつけた。
その日から、あの子には会っていない。
ホテル街を抜けて繁華街に差し掛かると、この時間だというのに人だかりができてくる。
正直ありがたい。喧騒の中の方が、嫌なことを考えずに済む。
こういう街の歩き方にはもう慣れた。歩調を崩さずすいすい進んでいける。
ほんと、こんなことばかり上手くなる。明日は休み。明後日も。今日のオシゴトの結果がわかるまでは。
そしてそれが上手くいこうがいくまいが、次のためにはまた……
はあ……
「なにやってんだろ、私」
そうやって顔を上げたのがよくなかった。ずっと俯いていれば気づかなかったかもしれないのに。
呼吸が止まった。足が震え出した。動悸が止まらなくなった。
逃げなきゃ、すぐにここを離れなきゃ。そんな焦りが足を絡ませ、尻もちをつかせる。
ダメだ、それだけは。道で転んだ人を、あの子が放っておくわけがない。
気づくな。こっちを見るな。
そんな願いに反して、その女性はすぐに駆け寄ってきた。
「あの大丈夫です……あ、え? あれ、もしかして……」
ああ、今日は本当に……
「みぃちゃん?」
最悪な日だ。
続きます
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