晴れ空に傘 (406)

SS「晴れ空に傘」


男「今日の面接もダメだった」
男「地元のしょぼい中小企業だったってのに、クソが」
男「もう潮時だろ。死ぬか」

笛吹川にかかる橋の欄干に、短い右足をのせる。
よれよれになったスラックスの太腿部分が、ピンと張った。
頭を出して、眼下を見つめる。

先日の雨のせいか、濁った川水が勢いよく流れていた。
高さはゆうに20mほどはあるだろうか。

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男「ここから飛び降りたら、確実に死ねるな、ハハ」

不意に、両足がガクガクと震えた。
怖いのか? そんなはずはない。
これで楽になれると思うと、楽しみで武者震いしているんだ。

今日落ちた会社も、実は社員採用ではなく「バイト採用」だった。
そう、俺は就職するどころか、バイトとして働くこともできないゴミなのだ。

男「俺の何が悪いってんだよ……畜生、ボケが」
男「こんなクソみたいな世界」

これまでの出来事が脳内で再生される。
大学時代就活をするも、自身の理想と現実の乖離が激しく一つも内定を得られなかったこと。
脆弱だったメンタルは壊れ、そこから2年間も実家に引きこもっていたこと。

気づけば俺は、25歳職歴なしのニートになっていた。

そして今、バイトからでもいいと一念発起し再び面接を受ける日々だが……。

男「バイトですら、どこも俺を雇ってくれない」
男「どいつもこいつも、口を開けばどうして新卒時に就職できなかったのか、とか」
男「2年間も引きこもって親に申し訳ないと思っていないのか、とか」
男「面接と関係ないことばっか訊いてきやがって」

今日受けてきたバイトの面接で言われたことが、脳内でこだまする。

『君みたいな若いだけの軟弱な無能は、いらないんだよね』

『いらないんだよね』

そしてその場で「お断り」された。

男「俺は無能で、クズで、ゴミだ」
男「これ以上生きていたって、親に迷惑をかけるだけだ」
男「もう、楽になっちまおう」

ふと顔を上げると、笛吹川の土手に沿って、オレンジ色の夕焼けが染み込んでいた。
地平の彼方に見える遠くの町並みは、きらきらと光ってまぶしい。
あーあ。クソ、綺麗だな。

今際に見る最期の景色としては、悪くない。
そんなしょうもないことを思った。

この根図橋の上から見える世界はこんなにも綺麗だってのに、
どうして「俺の世界」はこんなにもクソだったのか。
次生まれる時は、もう少しまともな人間になれますように。

橋の欄干にかけていた右足に力を込め、身体を乗り出す。
その瞬間だった。

少女「こんな所で、何してるんですか……?」

男「はあ?」

まるで窓辺の風鈴のように、凛として澄んだ声。
振り返ると、そこには女子中学生が立っていた。
制服を見るに、俺の母校である南中の生徒だ。

ただ、おかしなことがひとつ――。
こんなにも天気の良い夕暮れだというのに、ビニール傘をさしていた。

https://i.imgur.com/np8uT4R.jpg

少女「もしかしてですけど、飛び降りとか……」
男「だったらどうする?」

俺がそう訊き返すと、少女は驚いたのか「え」と身をすくめた。

男「ここで俺が飛び降りようとして、何が悪い?」
男「君には関係ないことだろ? 早く帰ってくれ」

俺はもうヤケであった。
せっかく踏ん切りがついて楽になれると思ったのに、こんな形で水を差されるなんて。
この世界は、本当に最後の最期まで俺の邪魔をしやがる。

少女「本当に死のうとしてるんですか…?」
男「だったら何? お願いだから帰ってくれ」
少女「嫌です」

その子は俺の強気な姿勢にも怯むことなく、その場を動かなかった。

少女「死ぬのは絶対にダメです。むしろ貴方が帰るまで私も帰らないです」
男「あのな……こんな不審者に話しかけて、そっちこそ危ないぞ」
男「もしここで俺が君を襲ったらどうすんの?」

少女「その時は警察を呼びます」
男「襲われてから呼んだんじゃ遅いだろ」
少女「別に、いいです。たとえ私が襲われたとしても、貴方が死ななければ」

ここまで話して、急激に興が醒めた俺は、欄干にかけていた右足を下ろした。

男「どうしてそこまでして止めるの? 俺が死んだって君には関係ないはずだろ」
少女「どうしても何も、ここは私の通学路ですから。そんな所で死なれたら誰だって嫌ですよ」
男「通学路……?」

なるほどな、と思った。
どうして見ず知らずの染みったれた男をここまで庇うのかと疑問だったが、そういう理由だったのか。
それならば、納得ができる。

通い慣れた通学路で自殺者が出て、なおかつその直前の姿を見た、なんてことになったらトラウマだろう。

男「なるほど、合点がいった」
男「そういうことなら死ぬのはやめる」

少女「本当ですか…!」

少女はぱっと目を見開くと、笑みをこぼした。
丁寧に切り揃えられたショートカットが、少しだけ揺れる。
笑うとその少し焼けた顔から、年相応のあどけなさが垣間見えた。

男「ああ。嫌な思いさせて悪かったよ。じゃあ、俺は帰るから」
少女「はい。気をつけて」

男「ああ、それと――次からはおかしな人を見かけても、声をかけるなんて真似はやめたほうがいい」
男「場合によっては本当に危ないからね。自分のことを大事にするんだよ」
男「……余計なお世話かもしれないけど」

俺がそう声をかけると、少女はしばらくぽかんとしたあと、
「わかりました。ありがとうございます」と控えめな笑顔を見せた。

俺はそれに安心し、地面に置いてあった萎びたカバンを手に取って、その場を離れようとした。

すると、少女はなんとまあ律儀なことに、去り際の俺に向かって「さようなら」と手を振った。
こんな所で死のうとしていた明らかな『不審者』である俺に、
そんな分け隔てのない優しさを見せたのだ。

まるでこの世界のすべてを肯定するような少女の懐の深さに、
胸がきゅっと締め付けられた。

そして少しだけ悩んだあと、俺は意外なことを口にしていた。
ほんの些細な出来心で……。

男「そのビニール傘、素敵だね」
男「……じゃあ、また」

それからすぐに踵を返して歩き始めたから、あの子がどんな顔をしていたかは分からない。

ただ、こんなにも天気の良い日にビニール傘をさしているなんて明らかに普通ではないし、
どうしても気になってしまったのだ。

かといって「なんでそんな物さしてるんだ?」なんて直球に訊ねるのは無粋な気がして、
去り際の一瞬に、俺はそれを褒めることにした。

どんなことであれ、褒められて嫌な気持ちになる人はいないはずだし、
こんな俺に”優しさ”を向けてくれたあの子に、少しでも報いたいと思った。

今日のこの出来事が、あの子にとって不快な記憶にならないように。
きっと、もう二度と会うこともないあの優しい少女が、
あの橋を通るたびに少しでも嫌な気持ちにならないように……。

そんな俺の、浅はかで愚かしい気遣いのつもりだった。

その後、俺はすぐにもう一つ隣の橋へと向かった。
当然、おとなしく帰るつもりなどなかった。

今日は俺の中で完全に「死ぬ日」だったし、
それだけはあの子に止められたからと言って、決して揺らぐことのない決心だった。

”あの橋で死ぬのはやめた”だけ。
ならば隣の橋まで移動して、そこから飛び降りればそれでいい。
じつに簡単な話だった。

隣の橋に至るまでの道中、シーズンを迎えた桃畑が辺りを埋め尽くしていた。
夕焼け空に映えた桃の花は、ただでさえ鮮やかなピンクの花弁が一層色濃い影を落とし、
不気味なほどに美しく揺れていた。

視界一面が、そんな妖艶なピンク色に染まった光景は、
まるで死後の世界に通じているような気がした。

20分弱歩くと、すぐに隣の橋にたどり着いた。

隣の橋は、先程の根図橋に比べるとやや高さは劣る。
しかし、こちらの橋の方が遥かに人通りが少なく、その分死ぬには”うってつけ”だった。

きっともう、誰の邪魔も入らないはずだ。

錆びついた橋の欄干に触れ、深呼吸をする。

日は傾き、辺りは少し暗くなり始めていた。
この逢魔が時に――きっと死神が俺のことも迎えに来てくれるはずだ。

死神、いるか。
今から、「そっち」へいくぞ――。

そして俺は目を瞑って、欄干に右足をかけた。
そのまま体重を「向こう側」に持っていこうとしたその時。

少女「危ないです!」

その叫び声とともに、俺は思い切り引き戻され、派手に尻もちをついた。

男「いってえ……!」
少女「何してるんですか!」

地面に座り込む俺を見下ろしていたのは、先ほどの中学生だった。
走ってきたのか、ぜえぜえと肩で息をしている。

男「な、なんで君がここにいるの?」
少女「その……心配だったので、あとをつけてました」
男「マジかよ……」

男「どうしてそこまでするわけ? あの橋で飛び降りなければ、君には関係ないんだろ?」
少女「だって……違ったから」
男「……は?」
少女「思ってた人と……違ったからです」

男「どういうこと?」

少女「おかしな人だと思ったら、私の事とか普通に心配してくれて」
少女「上手く言えないですけど……こんな優しい人に死んでほしくないって思っちゃったんです」

少女はいつの間にか涙目になっていた。

男「それであとをついてきたってこと?」
少女「……はい」

少女はそう答えると俯いてしまい、しばらくなんとも言えない沈黙が生まれた。
そして、彼女はすんすんと鼻をすすり始めた。

はっきり言って、非常にきまりが悪い。
こんな場面を目撃されたら、それこそ誰かに通報されてしまうかもしれないし、
傍から見たら、俺は女子中学生を泣かせた変質者にしか見えないだろう。

……それにしても。
さっきは、本当にあと一歩で死ねるところだったのに。
正直、さっきの俺は完全に”いっていた”。
本気で体重を「向こう側」へ預けていたし、この子が来なければ本当に……。

幸か不幸か、またしてもこの子に命を救われてしまったわけだ。

俺は深くため息をついた。
それに反応して、少女もこちらに視線を向けた。
案の定、涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔で。

男「あのね。気持ちは嬉しいけど、俺はそんな大それた人間じゃないし、優しくなんかもない」
男「なんの価値もない、死んだほうがいい人間なんだよ」

少女「なんで?」

出し抜けに少女が声を荒げたので、体がびくりと反応してしまう。

少女「どうしてそんな風に言うんですか?」
少女「絶対にそんなことありません」

男「じゃあ、君に俺の何がわかる? 俺なんか誰にも必要とされない無価値の人間なんだよ」

俺がそう言うと、少女は不意にビニール傘を広げて空にかざした。
仄暗い夕闇のなかに、透明で無機質な花が咲いた。

少女「あなた、”これ”を見て、さっきなんて言ってくれましたか?」
男「……え?」
少女「言ってくれたじゃないですか、さっき」

男「す、素敵だねって……」
少女「ですよね」
不思議なことに、少女は目に涙を貯めたまま、小さな笑みを浮かべた。

少女「そんなこと、初めてだったんですよ」

少女「私、どんな日でもビニール傘をさすんです。晴れの日も、曇りの日も、当然雨の日も」
少女「それこそ、いつでもです。学校に行く時も、買い物に行く時も、どんな時も……」

男「へえ……」
反応ともとれない気の抜けた声を出すと、少女は「ふふ」と控えめに笑った。

少女「だからみんな言うんです。いつもビニール傘なんかさして、頭がおかしいのかって」
少女「まあ……当たり前ですよね」

少女「それでも、私は決してさすをのやめないから」
少女「ますます言われるんです。変なやつだ――って」

男「それなら、さすのをやめたらいいんじゃない……?」
少女「そうですね……そのとおりだと思います」

少女は目を細めて、遠くの空を見つめる。
ほとんど残り火程度になった夕日が、周囲に長くてぼんやりとした影を作っていた。

少女「ただ……それだけはできないんです」
そう言うと、少女は俺の方に視線を落とした。

少女「正直、私だって分かってます。晴れた日にビニール傘をさすなんておかしいって」
少女「そんな変わり者、いじめられて当然だって分かってます……」

少女「でも、それでも、どうしてもビニール傘をささないといけないんです」
男「どうして……?」
少女「それは、言えないです……けど……」

男「なんで――」
俺は、開きかけた口をすぐに閉じた。
これ以上踏み込んで詮索するのは違う気がしたし、
ここまでの決心をするのだから、この子にとって相当大事な理由があるのだろう。

少女「ずっとずっと、そんな風に悩んでいたんです」
少女「まわりに色々言われながら、ビニール傘をさす日々の中で……」
少女「ずっと――誰にも言えずに悩んでました」

少女「そしたら貴方は、ビニール傘を”素敵だ”って褒めてくれた」

少女「どういうつもりで言ったのかは分からないけど、私はそれが本当に嬉しかったんです」
少女「ありのままの私を認めてもらえたような気がして」
少女「大げさですけど、なんだか救われました……」




少女「だからね……思ったんです」
少女「そんなあなたには、”絶対に生きていてほしいな”って――」


透明な傘をさす少女は俺を見て、にっこりと微笑んだ。
それは温かな春の陽射しのように、俺の心を優しく照らす。
まるで、あの有名なモネの絵画のようだった。

俺は迂闊にも、ぽろりと一粒、涙をこぼした。
そして堰を切ったように、次から次へと涙が溢れ出した。

『生きていてほしい』

そんなこと、今まで言われたことがあっただろうか。
親に、友人に、社会に、クソだ無能だと罵られ、すっかり自分の殻に閉じこもっていた俺。

こんなにも純粋で無垢な「祈り」を捧げてもらったことが……
これまでの人生であっただろうか?

少女「生きていてくれて、よかったです。これでお礼が言えますから」
少女「さっきは、どうもありがとう」

うららかであった。
涙まじりの少女の笑顔は、うららかで、どこまでも透き通っていた。
まさに光。

この世界はどこまでもクソしか広がっていないと思っていた俺に差し込んだ、
あまりにも無垢な光。

男「お、お……俺は……うっ……」

とめどなく溢れる涙のせいで、上手く言葉が紡げない。
この子に、なにか声をかけてあげるべきなのに、何も出てこなかった。

少女「……つらいことがあったんですね」
少女「きっと優しい人だから、人一倍つらかったんですね」
少女「でも、もう大丈夫です」

少女は穏やかな眼差しで俺を見つめていた。
優しい微笑みとともに。

少女と俺の間に柔らかな風が通り抜ける。

男「俺も本当は……死にたくなんかない」
男「分かってるんだ。でも、なにもかもが上手くいかなくて、生きてる意味を見失った」
男「俺みたいなクズに、生きている意味はないんだって」

そう言うと、少女は何度か首を振ったあと、「そんなことない」と呟いた。

少女「あなたは優しい人です。少なくとも私はそう思ってます」
男「そう言ってくれるのは嬉しいけど……俺たちはさっき会ったばかりで、ほんの少ししか話してないんだよ?」
男「君は若くて純粋だから、そう錯覚してるだけだよ」

少女は「それでいいじゃないですか」と笑う。

少女「錯覚だって構いません。誰かを悪く思うより、ずっと素敵なことだと思います」
男「…………」

若さというのは、未熟さであったり無鉄砲であったり、ある種の”過ち”であると思っていた。
しかし、目の前にいるこの子はどうだ。
なんの疑いもない瞳で、こんな終わってしまった男を見つめてくれている。
ちゃんと、「ひとりの人間」として。

彼女の前では、俺はゴミでもクズでもなく、一人の「優しい人間」なのかもしれなかった。

今まで、自分のことをそんな風に思えたことはなかった。
だからこそ、信じてみたくなった。
彼女の瞳の中にいるであろう、「一人の人間としての自分」を、信じてみたくなった。
そんな自分に、会ってみたくなった――。

少女「どうして、死にたいなんて思っちゃったんですか?」
少女「……なにがあったんですか」

少女は恐る恐るといった感じで訊ねてきた。
隠しても仕方ないので、俺はありのままを語る。

男「就活に失敗して、大学卒業してからずっと引きこもってて……今日も、バイトの面接にすら落ちちゃって」
男「それをずっと他人のせいにして生きてきた」

少女「でも、だからって……」

男「俺はもう25歳なんだ。25にもなって何もできないなんて、本当に恥ずかしいことなんだよ」
男「だから、死んじゃってさ、何もかも終わらせて楽になろうって思った」
男「そのはずだったのに、死ぬこともできずに、今ここにいる。こんな醜態を晒してね」
男「それが……俺のすべてだよ」

少女「それならよかったです」
少女「んーん、本当によかった」

男「え……?」

少女「だって生きて、今ここにいるんですもん」
少女「たとえそれがどんなに格好つかなくても、死なずに、飛び降りることもなく、今ここで私と話してる」
少女「私からしたらそれがすべてで、それ以外はどうでもいいです」

男「どうでもよくなんてないよ……また明日から仕事を探さないと」
少女「どうでもいいんです。本当にどうでも」
少女「生きてこの世界にいるってだけで、それ以外のすべてがどうでもよくなるくらい、それは素敵なことなんです」

少女「……本当ですよ」

そう言うと、少女は笑顔でこちらを見つめた。
「ふふ」と笑うと、ふわりと小首を傾げてみせた。
綺麗なショートヘアが、さらりと流れる。

少女の言っていることは嫌になるほどただの綺麗ごとだった。
まだ社会の理不尽や不条理を何も知らない中学生の戯言。甘言。
……のはずだった。

なのに、この子が言うとなぜか不思議と信じてみたくなった。
縋ってみたくなった。
ただの思いつきや勢いで言っているのではない……そんな気がした。

男「わかったよ」
男「……でもさ」

少女「はい?」

男「生きていくには、働かないといけない」
男「みんな働いて、その対価をもらって、懸命に生きてる」
男「俺はそんな”当たり前”もできない半端者なんだ」

男「生きてるのがたとえどんなに”素敵な”ことだったとしても、俺は生きてるだけで誰かに迷惑をかけてるんだよ」

少女「仕事は……そんなに大事ですか」
男「ひとまず、なにか働き口を見つけない限り、自分でもまたいつ希死念慮に駆られるかは分からない」

少女「キシ……ネンリョ?」
男「ああ、ごめん。”死にたい気持ち”ってことかな」
そう言うと、少女は「初めて聞いた言葉だぁ」と小声でつぶやく。

男「本当は俺だって君に、もう死なないって約束できたらどれだけいいことか」
男「でもそんな保証はできない」
男「……情けない話だけどね」

少女「それはとても悲しいです……」
男「申し訳ない」

少女はビニール傘をさしたまま、俯いた。
俺も言葉が出てこなくなって、しばらくまた静寂が訪れた。
少しだけ燃えていた西の空も完全に炭となって、辺りにはすっかり春の夜が訪れていた。

少女「ああ、そうだ……!」

ふと、だった。
草の香りや桃の花弁を運ぶ夜風が吹いた時、少女は出し抜けに口にした。

少女「うちに来てください」

俺はその誘いに唖然とした。
言っている意味がまったく分からなかったからだ。

男「ごめん。言ってることがまったく分からない」
男「どうして俺が、君の家に?」
男「さっきも教えたろ? あまりそういうことは言わない方がいい」

戸惑う俺とは対照的に、少女はけろっとした様子だった。

少女「大丈夫なんです。私の家に来たら、きっとすべてがうまくいきます」
男「いやいやいや、ワケわかんないよ。どういうこと?」

少女は構うことなく歩きはじめ、「付いてきてください」と元気に言った。

たまらず、ずっと座り込んでいた俺も立ち上がって、少女の後を追う。

男「待ちなよ」
男「頼むから、待って」

必死に呼び止めると、少女は傘をくるりと一回しして振り返った。

男「言っとくけど、俺たちはお互い名前も知らない他人なんだ」
男「もうこれ以上は関われないよ」

俺がそう言うと、少女はじっとこちらを見た。
そのまどかな瞳は、どこか野良猫のように挑戦的な雰囲気を宿していた。

少女「――凪」

ぽつりと、少女が口にした。

男「な、なぎ?」
少女「私の名前です。――凪。覚えました?」
男「あ、ああ……」

凪「それで、あなたの名前は?」
男「俺の名前は……男」
凪「そうですか。男さん、よろしくお願いします」

凪「これでもう私たちは他人じゃないです。そうですよね?」
男「そんなこと言ったって……」
凪「いいんです。付いてきてください。ここから歩いて15分もかからないです」

そう言って”凪”と名乗った少女は躊躇なく歩き始めた。
凪の様子があまりにも自信たっぷりなので、言われるがまま付いていく。

男「わかった。もう付いていくよ。でも本当に何があるの? お家の方に迷惑だよ」
凪「迷惑なワケないです。きっとすごく喜びます」

俺なんかが訪れて喜ぶって……一体どんな家庭だっていうんだ。
それに、娘がこんな見ず知らずのクズ男を連れてきたら親御さんはショックを受けるのでは……?
次第に頭のなかは、そんな当然のクエスチョンマークで一杯になっていった。

くるくると透明な傘が揺れる、凪の小さな背中を追って歩くこと15分。
俺は”とても見覚えのある”建物の前にいた。

そのこじんまりとした、でも白くてどこか清潔感のある家屋には――
『七瀬川学習塾』
という看板が掲げられていた。

男「こ、ここって……」
凪「私のお家です」
凪「まあ、こっちは塾なんで、正確には家は隣ですけどね」

凪はそう言って、塾舎の隣にある二階建ての一軒家を指差した。

男「この塾が君ん家? 嘘だろ?」
凪「嘘じゃないですよ、ここは私の家です」
男「信じられねえ……俺、中学の時ここに通ってたんだ……」

凪「ええ、本当ですか!」

凪は目を丸くしてこちらを振り返った。
そりゃ道端で死のうとしていた男が、かつての自分ん家の生徒だったら驚くのも無理はない。

ただ、嘘じゃない。
確かに俺は中学の三年間、サボることもなくここに通い続けた。
かつてはひたむきで、中学でも”有望株”であった俺は、
この夫婦が営む小さな個人塾に通いながら、部活にも打ち込んでいた。

この辺じゃ噂の、文武両道の”優等生”だったんだ……。

男「じゃあ七瀬川先生――いや、陽子先生と剛先生は……」
凪「私のお母さんとお父さんです」
男「そうだったのかぁ……」

言われてみれば、凪からは確かに二人の面影を感じた。
陽子先生の穏やかさをまといながら、目鼻立ちははっきりとした剛先生の雰囲気。
そう言われてみると、この子こそがまさしくあの二人の子なんだ、という気さえしてきた。

そういえば当時、二人がよく「娘が幼稚園に行ってねぇ」とか、
「こんど幼稚園の運動会が……」とかそんなエピソードを話していた。
そう、他ならぬ凪のことを。

今の今まで、すっかりと忘れていた記憶だが――
何かのきっかけで、こんなにも鮮明に蘇ってくるなんて。
もう、十年も前のことだ……。

今まで味わったことのないような、不思議な感情が湧き上がってくる。

男「それで、陽子先生と剛先生は……あの二人は今も元気?」
凪「はい、元気ですよ」
男「そっか、よかった……」

安堵して、思わず息をついた。
二人の、あの朗らかな笑顔が頭をよぎる。

塾の先生というと厳しいイメージを持たれがちだが、陽子先生と剛先生は違った。
個人経営の塾ということも相まってか、実にのんびりとした雰囲気の場所だったのだ。

塾舎を見ると、曇りガラスの向こうから白い灯りが溢れている。

男「今日は授業日なの?」
俺がそう訊ねると、凪は「そうですね……」と宙を仰いだ。

凪「たしか、小学生の日だったと思います」
凪「授業は終わったはずですけど、今はお母さんが事務処理とかしてるんだと思います」
男「そっかぁ……」

ここに通い詰めた、かつての記憶がありありと蘇ってくる。

大人から見れば、中学生ってのは呑気なもんに見えるけど、
当時は当時で、本当に悩みや苦しみは尽きなかった。

親や教師からのプレッシャーはひどいし、勉強も部活も大変だ。
恋愛だって苦しかったし、友人関係にだって本当に悩んだ。
でも、ここ――「七瀬川塾」に来ると、そんな日常の重圧から解き放たれた。

先生二人は、中学生だった俺の抱えていた悩みをいつも真摯に受け止めてくれたし、
勉強以外の相談にも沢山乗ってくれた。

どんなに悩んでいても最後は決まって笑顔になっていたし、
「きっとどうにかなるよ。あんま気にしちょしね」というのが二人の口癖だった。

親にも友達にも言えない悩みを唯一打ち明けられたのは、陽子先生と剛先生だけで、
俺は毎回ここに訪れるのが楽しみで仕方なかったんだ。

凪「じゃあ、付いてきてください」

凪はそう言うと、塾舎の入り口へと近づく。

男「待って、心の準備が……」
この向こうに、陽子先生がいる。
いくら親しかったとはいえ、十年も前のことを覚えているのだろうか?

いや、根本的な疑問は解決していない。
そもそもなぜ俺はここに連れてこられているのか……?

しかし、時すでに遅し。
凪はビニール傘を畳んで、勢いよく入り口の引き戸を開けていた。

凪「お母さーん! ただいまー」
棚にスニーカーを仕舞いながら、元気に声を上げる。
そしてすぐに、奥の方から聞き慣れた声が返ってくる。

陽子「おかえり、今日は遅かったね」

そこには陽子先生がいた。
電話やら書類がごちゃごちゃに置かれた事務机に座って、
帳面(当時からそう言っていた)にペンを走らせる先生が。

陽子先生は、こちらにゆっくりと視線を向けた。
陽子「あれ、アナタ……」
少ししわが増え、体型もちょっとだけ太ったけれど、そこにはあの日のままの先生がいた。

男「先生、俺……」
陽子「男くん、だよね……? 嘘ォ、何年ぶり……?」
男「十年ぶり、くらいですかね……」
陽子「そうだよね、それくらいになるさね……元気にしてたの?」

男「はい、それなりに、やってました。先生もお変わりないようで、何よりです」
陽子「私は相変わらずだよ……それにしてもこんな突然、どうしたで?」

先生は何度かぱちぱちと瞬きをしたあと、凪を見た。

陽子「凪が連れてきたの?」
凪「うん、じつは根図橋で――」
男「あ、待ってください」

俺はまずい、と思ってすぐに話を遮った。
きっと凪は何も考えていない。
このままだと、これまでに起きたことを正直にすべて吐き出しかねない。

しかし、俺と凪に面識があるということを、どう説明する?
よもや、根図橋で死のうとしていたところを助けられました、なんてバカ正直に言うまい。

凪が余計なことを口走る前に、急いで取り繕う。

男「それが、なんだか急に懐かしくなっちゃって……」
男「近くを通ったものだから、久しぶりに覗いてみようかな、なんて思ったんです」

陽子「あらぁ、そうだったんだ。嬉しいね、覚えててくれて」
陽子先生は朗らかに笑う。
笑うと線になるその優しい眼差しも、かつてとなにも変わっていない。

凪「う、うん。そうなの。それでね、家の前で私と会ったんだよね」
陽子「それはまた偶然ねぇ」

凪もなにかを察したのか、一生懸命話を合わせ始めた。

陽子「男くんは会ったことないよね? その子は娘の凪」
陽子「もう中三だっていうのに、落ち着きがなくて困った子なのよ」
凪「余計なこと言わないで。ってか、外で自己紹介はしたからもう分かってるよ。ね?」

そう言うと、凪はこちらを振り向いてわざとらしくウインクをしてみせた。
『話を合わせろ』という意味だろう。

いやいや、最初にボロを出しそうになったのは凪の方なのに……。
なんでそっちが得意げに主導権を握っているんだ。

俺はふうと一つ息を吐いてから、話を合わせる。

男「そうなんです。ちょうどさっき家の前で会って、少し話を聞いてもらって」
男「娘さん、大きくなりましたね」

陽子「そうね――男くんがここにいた時は、凪もまだ幼稚園だったから」
陽子「時が流れるのは速いね」

陽子「本当に速いよ。そっか、男くんがここを巣立ってから、もう十年かぁ」
陽子先生はしみじみとそう言うと、「そんなになるのかぁ……」と小さくこぼした。

陽子「今はこっちに住んでるの?」
男「そ、そうですね。東京の大学を卒業してからは、こっちで」
陽子「そうなんだ、知らなかった。それならたまにはさ、遊びに来おし」
男「はい、是非……」

陽子先生は無邪気に笑みを浮かべていた。

一方で、俺は段々と額に嫌な汗が滲むのが分かった。
今までに、幾度となくこういう場面に遭遇してきたから分かる。
じきに、あの質問が来る。

俺は陽子先生の前で、どう答えたらいいのか――。

陽子「それで、今はどこでお仕事してるの?」

やっぱり来た。
大人からすれば、この”至極当然”の質問。
でも俺にとっては、何よりも恐ろしい拷問のような質問。

目の前で拳銃を突きつけられ、為す術なく両手を挙げている――。
そんな愚かしい罪人のような気持ちになる。
握り込んだ右手がぷるぷると震え出した、その時だった。

近くにいた凪が、そっと俺の背中に触れ、耳元で囁いた。
俺にだけ聞こえるほどの、小さな声で――。

凪(大丈夫です。大丈夫ですよ……)

その時に思った。
俺はどうしてか、やっぱりこの子に救われてしまうんだって――。

凪の「声」を聞いて不思議と気持ちが軽くなった俺は、気負わずに答えていた。

男「今は色々あって働いてなくて、仕事を探しているところなんです」

すると陽子先生は、「あら、大変なんだね……」と、俺が思っていたよりもずっと親身な反応を見せた。
よく考えれば、相手は陽子先生だ。
そもそもこの程度のことで、人の価値を計るような人ではない。

俺はそんな当たり前のことすら忘れるほど、
自分の現状を勝手に嘆き、悲観し、追い込まれていたのだ。

そして間髪入れずに、凪が会話に続く。
凪「ねえお母さん、うちって今人手不足なんだよね?」
陽子「そうね。私一人なのに生徒の数は変わらないから、万年忙しいけど……」

男「え、ちょっと待ってください。一人って、剛先生は……?」

俺が訊ねると、陽子先生は「あー……」と言って宙を仰いだ。
なんだかその仕草が、凪とそっくりな気がした。

陽子「剛さんは、ちょっと今別のことをやってて、塾では働いてないの」
俺「そうなんですか……」

意外だった。
俺が生徒だった頃は、剛先生もバリバリに教鞭をとっていたし、
なんなら塾長的な役割も担っていた。

いつも快活に笑っている楽しい人で、この仕事が好きなんだと思っていたが……。
何か事情があって、別の仕事でも始めたのか。
ともあれ、すでに剛先生がこの塾では教えていないという事実が、少しショックだった。

陽子「そういうワケもあって、今は私一人でねぇ」
男「確かに、それは大変そうですね」

凪「だからさ! 男さん、うちで働いてみたらどうですか?」

男「え……?」
唐突な提案に、思わず言葉を失った。

陽子「ちょっと凪、なに勝手なこと言ってるの」
陽子「男くんにも事情があるんだから、あんまりそういうこと言わないの」

俺が……?
俺が、かつて慣れ親しんだこの塾で働く……?

凪「なんで? 私、すごく向いてると思うよ」
陽子「そうは言ってもね……」

凪「じゃあお母さんは、男さんに働いてほしくないってこと?」
陽子「そんなことはないけど……」

すると、陽子先生は俺の方を見て「ごめんね」と謝った。

陽子「この子が勝手に言ってるだけだから、気にしないでね」
男「あ、いえ……」

俺は想像していた。
この塾で働いている自分のことを――。

それは、今まで受けてきたどの会社の仕事よりも鮮明に想像ができたし、
なにより「やってみたい」と思えた。

陽子「凪も冗談で言ってるだけだから、気を悪くしないでね」
男「いえ……全然そんな、気にしてないです」
凪は、「別に冗談じゃないし」と頬を膨らませていた。

陽子「ただ……」
そう言うと、陽子先生は手元の”帳面”を閉じ、机から立ち上がった。

陽子「私も、もし男くんがここで働いてくれたら本当に嬉しいよ」
男「……え?」
陽子「この塾の雰囲気をよく知っているし、小中学生の指導ならきっと男くんにもできる」

陽子先生は、机の上に置かれていたプリントやら参考書やらを片付けながら、話を続ける。

陽子「でもね。一番大事なのはそこじゃないんだよ」
男「というと……」
陽子「男くんはすごくいい子だったから、そんな子がここで先生をしてくれたら嬉しいなって」
陽子「そう思うんだよ」

男「ッ………」

陽子先生は向き直って俺の顔をじっと見つめたあと、朗らかに破顔した。

陽子「やっぱり、変わってないねぇ」

そしてしみじみと、噛みしめるようにそう言った。

陽子「あのさ、覚えてる?」
男「……なんですか?」

陽子「男くん、一つ下の子が自転車で怪我しちゃった時……」
陽子「自分の授業そっちのけで絆創膏とか消毒液を持ち出して、手当てしてあげてたよね」

男「そんなこと、ありましたっけ……」

陽子「それだけじゃない。テキストを忘れた子には絶対に率先して見せてあげてたし」
陽子「問題が分からない子には、いつも親切に教えてあげてた」
男「覚えてないっすね……」

陽子「男くんが覚えてなくても、私は全部覚えてるよ」
陽子「君は本当に本当に、優しい子だった」

次第に俺の視界は、涙で滲んでいた。
ああ、今日は。
なんという日なんだろう。

俺はクソでゴミで……無価値な人間のはずだったのに。

陽子「本当はこんな話、冗談で済んだらいいんだけど」
陽子「私も、男くんがここで働いてくれたら嬉しいんだよ」

男「は、はい……」

陽子「いきなりでごめんね。びっくりしたかな」
陽子「ただ、凪に言われて想像してみたらね……すごく嬉しくなっちゃって」
陽子「なるほど、ここで男くんが働いてくれたら、それは素敵だなぁって……」

陽子「もちろん、男くんの事情は何も分かってないし、すごく身勝手なこと言ってると思う」
陽子「もし都合が悪かったりしたら、今までの話は全部忘れてね」

陽子先生は、穏やかな瞳で俺を見ていた。
そして、しばらくの間があって……。

男「お、俺も……ぜひここで働いてみたいです」
陽子「……本当に?」

男「ただ、俺は社会経験もロクにない、半人前の出来損ないです」
男「今も、いろんな所の就職試験に落ち続けているような奴です」

男「そんな奴でも……いいんですか?」

陽子「いいよ」

男「勉強の教え方も全然分かっていない未熟者でも、いいんですか?」

陽子「いいよ」
陽子「しっかり研修もするし、準備期間も作るから」

男「じゃあ、俺は……俺は……!」
男「ここで働いてもいいってことですか……?」

陽子「もちろんだよ」

男「あ、ありがとうございます……」
ぽつりぽつりと、頬をつたって涙が落ちる。

横にいた凪が、こちらを見て嬉しそうに微笑んだ。

凪「――ほらね」

バーカ。
なにが『ほらね』だ。

こっちはもう、涙と鼻水でグシャグシャだよ。
本当にもう、どうしてくれんだ。

もしかしたらさ。
俺、今日から変われんのかな……?

その後、陽子先生と色々話をした。

実際に働き始める前に、何度か研修を行うこと。
その際、大学の卒業証明書と簡単な履歴書を持ってくること。

この塾は集団授業ではなく、それぞれの生徒に沿った個人授業なので、
最終的には小中学生の全教科の内容を把握してほしいこと。

そこまで余裕がある訳ではないので、どうしてもバイトとしての待遇になってしまうこと。
ここでバイトをしながら新しい仕事を見つけたら、いつやめても大丈夫だよ、とも言ってくれた。

たとえバイトだとしても、今までずっと失敗続きだった俺にとっては、
大きな大きな一歩だ。
不安もたくさんあったが、俺は働き始めるその日が楽しみで仕方なかった。

「もしかしたら、こんな俺にもできることがあるかもしれない」

そう思えるだけで、世界に『お前も生きていていいんだぞ』って言われたような気がして……。
今まで伏し目がちだった視線も、自然と前を向けそうな気がした。

前を見て歩いていくっていうのが、どんなことなのか、
少しだけど思い出せそうな気がした。

陽子先生と相談して最初の研修日を決めると、この日は別れた。

塾舎から出てすぐ、
俺は柄にもなく、近所の書店で買った安っぽいぺらぺらのスケジュール帳に、二重丸をつけた。

真っ赤なサインペンで、「ここから!」と書き込む。

「ふふっ」
それがなんだか自分っぽくなくて、思わず吹き出してしまう。

そんな様子を見ていたのか、後ろから凪に声をかけられた。

凪「なんだか嬉しそう」
男「あ……どうも」
素の自分を見られたのが恥ずかしくて、思わずぎこちない返事になってしまった。

凪「よかったですね。本当に」
男「うん。……そうだね」

辺りはすっかり真っ暗になっていた。
陽子先生も仕事が片付き、塾舎の灯りを消して隣の住居に戻ってしまったから、
まばらに散らばる街灯の光だけが頼りだった。

男「その……今日は色々ありすぎて、本当になんて言ったらいいか……」

凪「ねえ、男さん」
男「なに……?」
凪「ちょっと一緒に歩きましょうか」

凪は透明な傘をさして、俺の帰り道に付き合ってくれた。

男「大丈夫? 先生たち心配しない?」
凪「大丈夫ですよ。すぐそこまでですから。お母さんにもちょっと見送ってくるって言ってあります」
男「それならいいけど……」

凪は、俺の少しだけ後ろを傘をくるくると回しながら歩いた。

男「やっぱり傘、さすんだね」
凪「はい、もちろんです」

夜道を進んでいくと、数メートルごとに街灯が通り過ぎて、
その度に、その光が生み出す自分の影に追い越された。

三人目くらいの自分の影に追い越された頃――凪が口を開いた。

凪「男さんって、昔なんの部活やってたんですか?」
男「部活? 急にそんなこと訊いてきて、どうしたの?」

凪「あ、いや、特に深い意味はないんですけど」
凪「男さんって、きっと私と同じ南中ですよね? だったら、なんの部活だったのかなって」
凪「ちょっと気になったというか……」

男「ああ、なるほどね。中学の時は野球をやってたよ。……高校でやめちゃったけどさ」

そう言うと凪は「えっ、本当ですか?」とこちらを向いた。

凪「私もじつは、野球部なんですよ」
男「ええ、野球? ソフトボールじゃなくて……?」
凪「はい、野球です」

そう言うと、凪は手を突き出し、目の前でボールを握るような仕草をした。

男「すごいなぁ。野球、好きなんだね」
凪「はい、大好きです。お父さんの影響で、小学生の頃からずっと野球やってるんです」

そう言えば、剛先生は元高校球児で地元の草野球チームにも所属するくらい野球が好きな人だった。
俺ともよく当時のプロ野球トークなんかをしては、一緒に笑っていた。
……という記憶が、脳内の淵から蘇ってきた。

『いつか娘とも一緒に野球がしたい』なんて言っていたけど、
それならきっと、夢が叶ったんだな、剛先生。

娘さん、ちゃんと野球をやってるじゃないか。

凪「今は夏の大会に向けてめっちゃ頑張ってるんですよ」
男「あーそうかぁ。夏には最後の総体があるもんね。懐かしいなぁ」

男「ポジションはどこなの?」
凪「こう見えて、ピッチャーなんですよ」
男「エースってこと……?」
凪「まあ、そうですね」
男「えぇ、すごいな!」

俺のリアクションがあまりに良かったので、凪は嬉しそうに照れ笑いした。

凪「全然すごくないですよ。責任も大きいので、その分頑張らないとですから」
男「なるほどねぇ……」

男「でもさ」
凪「はい」

男「野球部なんてやっぱり男子ばっかりだから、女の子は浮くんじゃない?」
凪「それは確かに――そうかもしれないです」

男「大丈夫なの?」

凪はきょとんとして、俺の方を見ている。
その雫みたいな瞳をしばたたかせて、「え?」と首を傾げた。

男「あ、いや。なんというか、余計なお世話かもだけどさ……」
男「そういう環境だと、色々大変じゃない。だからちょっと、心配でさ」

凪は「あはは」と笑って「だいじょうぶです!」と言った。

凪「確かに女子は私ひとりですから、”アウェー”な時もけっこうあります」
凪「でもそういうのは仕方ないし、野球が好きなんで負けてられないです」
凪「それに何より、部活は楽しいですから」

男「……そっか。それなら良かった」
男「でも、もし何か嫌なことがあったら、すぐに監督や友達に相談するんだよ」

凪「はい、わかりました」

男「うん。部活は楽しいのが一番だからね」

すると、凪はじっと俺のことを見つめた。

凪「やっぱり男さんは、本当に優しかったんですね」

その不意打ちに心臓がばくんと音を立て、俺はすぐに凪から視線を外した。
凪は楽しそうに「あは」と笑った。

男「どういうこと?」

凪「お母さんも言ってました。男さんは昔から本当に優しい子だったって」
凪「なんだかそれを聞いて、私も嬉しくなっちゃったんです。やっぱり、思った通りだったって」

凪「今日あの橋で、勇気を出して男さんに声をかけて、本当に良かった……」

男「あのさ」
凪「はい、なんですか?」

ちょうど街灯の真下にいた凪は、まるでスポットライトを浴びているようだった。
ビニール傘が寂れた白光を反射し、闇の中できらりと光る。

男「ありがとう」
男「いろいろ、上手く言えないけど」
男「あの時俺を止めてくれて、俺をここに連れてきてくれて、本当にありがとう――」

凪はすこしきょとんとした後、「気にしないでください」と力なく言った。

凪「声をかけたのは私の勝手な行動でしたし、それで偶然男さんがいい人だっただけです」
凪「ただそれだけのことで、私なんて本当になにも……」

男「たとえそうだとしても」
男「俺は君がいなかったら間違いなく死んでた。それに、万が一死んでいなくても――」
男「きっといまだに、八方塞がりの闇の中で苦しんでたと思うんだ」

男「だからさ、言わせてよ。お願いだから……」
男「ありがとう、七瀬川さん」

君は、俺の人生に立ち込めた暗雲を消し去ってくれた光だよ。
……そんなことは言えないが。

今、彼女に伝えられるありったけの気持ちであった。
俺は、凪に感謝してもしきれない。

あの夕焼けの根図橋で――凪に出会えた。

俺はきっとそれで救われたし、ドン底から這い上がってこれた。

これからあの塾で働いていく中で、大切だったものを色々思い出せるかもしれない。
昔のような自分に、もう一度出会えるかもしれない。

凪のお陰で、そう思える未来が……目の前に見え始めた。

凪「そう言ってもらえるのは、嬉しいです」
凪「でも、それだけじゃないんです。私もきっと同じように助けられました」
男「七瀬川さんが……?」
凪「そうです」

言っていることがよく分からなかった。
俺は彼女を助けた覚えはないし、助けられたのは絶対に俺の方だというのに。
釈然としない様子の俺を見て、凪は言う。

凪「まあ、それはいいんです、気にしないでください」
凪「ほら、行きましょう」
そう言うと、凪は街灯のまばらな夜道を歩き出した。

凪「ていうか、なんですか七瀬川さんて」
凪「凪でいいですよ、凪で」

男「わ、分かったよ。じゃあ……凪さん」
凪「本当は呼び捨てがいいんですけど……今日のところはそれでもいいです」
男「さすがにいきなり呼び捨ては恥ずかしいって」

凪「男さんって、そういうの苦手そうですもんね」
たじろぐ俺を見て、凪は楽しそうに笑った。

凪「ねえ。凪って、どんな意味か知ってます?」
男「ええと……」

凪「波が穏やかで、静かな海のこと――なんですよ」
凪「だから私も、いつかそんな風になれたらなって思ってるんです」

凪「のどかで、平穏で、すべてを許せるような……そんな人に」

もう、なれてないだろうか。
そんな考えが頭をよぎったけれど、上手く口には出せなかった。

凪「私、この名前すごく気に入ってるんです」
男「……素敵な名前だと思うよ」
俺がそう言うと、凪は「ですよね」とはにかんだ。

凪「男さん、数日間は研修で、来週には授業に参加するんですよね?」
男「うん。そのつもりだよ」
凪「すごくたのしみです。私ね、はやく男さんに教わってみたい」
男「本当に?」

凪「本当ですよ! 私、数学が苦手だから……頑張らないといけないんです」
男「ああ、分かるよ。俺も中学の時、数学が大嫌いだったから、すごく分かる」
凪「え、そうだったんですか?」
男「うん。だから気持ちがわかる分、丁寧に教えてあげられるかもしれないね」

凪「やったー! 私のこと、いっぱい助けてくださいね」

無邪気に喜ぶ凪を見て、思った。

男「っていうか、凪さんもあの塾で授業を受けてるの?」
凪「はい、小学生の時からずっとお父さんとお母さんに教わって育ちました」

凪は「えへへ」と笑って、「家族に教わるっていうのも照れくさいんですけどね」と言った。

俺は、(そっか。そりゃそうなるよな)と思いつつ、再びあの疑問が生じた。

男「そういえば、お父さん……いや、剛先生はどうしちゃったの?」
男「ずっと陽子先生と一緒に教えてたよね……?」

すると、凪は目を伏せて「それは……」と言い淀んだ。

男「今回は剛先生の不在もあって、俺が働けることになったわけじゃない?」
男「純粋に、どうして陽子先生一人になっちゃったのか不思議でさ……」

凪は傘をくるりと一回しし、「んー……」と何かを考えているようだった。

男「いや、ごめん。答えにくいことならいいんだ。そこは家の事情もあるだろうし……」
男「ずけずけと、無神経にごめん」

凪「あ、いや、全然大丈夫です。気にしないでください」
凪「なんというか、お父さんとお母さんは仲良しですし、何かあったって訳じゃないんです」
凪「ただ、もう塾で授業はしなくなったというか……」

やっぱり、凪の様子はどこかおかしくて、必死に何かを隠しているようにも見えた。
まあ、たとえそうだったとしても、当然俺が詮索すべきことではないが。

男「ごめん、もういいんだ。とにかく、剛先生はもう先生をやってないんだね」
凪「そうですね。そんな感じです……」
男「ありがとう」
凪「いえいえ……」

そしてそんな会話が終わる頃、目の前にあの根図橋が見えてきた。

凪「じゃあ、私はこの辺で」
男「うん。わざわざありがとうね」

凪「じゃあ、次は授業で会いましょう」
男「そうだね」

凪「待ってますから」

凪は優しく手を降った――透明に揺れる傘のなかで。

期待と希望、ほんの少しの不安を抱えた帰り道。

根図橋を歩いていくと、先ほど自分が足をかけていた欄干と出会ったので、
俺は”そいつ”に思い切り蹴りを入れて、
「もうしばらくお前の世話にはならねえからな!」と言ってやった。

その叫びは虚しくこだまし、向かいの歩道を散歩していた小型犬が「キャン!」と吠えた。

それが情けないけれど、無性に滑稽で可笑しくて、「ははは!」と声を出して笑った。

根図橋の横にかけられた線路の上を、特急列車のかいじが轟音を立てて走っていく。
俺もその特急列車に負けじと走り出して、「やってやる!」と心の中で何度も何度も叫んだ。

春の夜に、未来へと続く一陣の風が吹いた。
そんな気がした――。

それから一週間あまりあって、研修を終えた俺は塾での初授業を迎えた。

火曜・水曜・土曜は中学生、月曜・金曜は小学生の授業日なのだけど、
俺の初回は中学生の授業であった。

中学生の授業は19時開始なので、夕方に塾へ行き色々と準備をした。

社会不適合の俺は、初めての授業に緊張するあまり動悸が止まらず終始挙動不審になっていた。
見かねた陽子先生が「外の空気吸ってきなよ」と言うので、
時折塾舎の外へ出ては、簡単な体操なんかをして緊張をほぐした。

七瀬川塾のまわりは――桃畑に囲まれていた。

少しだけ高地なのもあってか、遅咲きの桃の花が辺り一面を埋め尽くしていた。

この町にいれば、桃畑は決して珍しいものではない。
その辺を自転車で走っていればどこにでもある、ありふれたものだ。

それでも、視界が鮮やかなピンク色でいっぱいになった時、思わず息を呑んでしまう。
ああ、なんて綺麗なんだろう……と。

自分が中学生だった頃も、毎年この光景を眺めていた。
当時はあまりに身近なもので、桃の花なんて気にも留めなかったけれど、
いざ地元を離れて東京で過ごしたりするうちに……。

『こんなにも美しいものは、そうそうないんだ』という事実に気がついた。

目の前に広がる桃畑が、たまらなく愛おしく感じる。
胸がじわりと熱くなってきて、かつての――中学生だった頃の自分が、
遠くで俺を呼んでいるような気がした。

とっぷり日も暮れて定刻が近づくと、塾には凪も含めた十数人の生徒がやってきた。
初回という事もあって、俺は凪ともう一人の、二人の生徒だけを担当した。

凪はやっぱり数学、もう一人の女の子は英語だったので、頭が混乱したけれど、
入念な準備の甲斐もあってか、授業はそれなりに上手にできた。

凪はしきりに、「男さんの数学めちゃくちゃわかりやすいよ! お母さんよりわかりやすい!」
と、興奮した様子でまくし立てていた。
陽子先生は苦笑いして「よかったじゃないの」と言っていたけど、俺は内心複雑な気持ちだった。

凪に喜んでもらえるのはとても嬉しかったが、陽子先生に対する気まずさも少しだけあった。

生徒のカリキュラムや科目は、本人と親御さんのご意向を汲みつつ、すべて陽子先生が設定している。
なので、生徒によって別々の科目を教えることは通例で、俺が通っていた当時から変わっていなかった。

少人数の個人塾だからできることで、それを理由に大手のチェーン塾に通わせず、
ここ「七瀬川学習塾」に子どもを通わせる地元の家庭は多い。

それに、陽子先生と剛先生は地元じゃ評判の講師だったので、
兄弟で通わせたり、口コミで通い始める家も多かった。

ゆくゆくは俺も、親御さんとの面談や、
生徒ごとのカリキュラム設定もできるようになってほしいと言われた。
傍目から見ても、陽子先生の負担は尋常ではなかったので、
早くたくさんの仕事を覚えて、この「七瀬川学習塾」を支えていきたいと思った。

そんな風にして始まった「七瀬川学習塾」での日々。
俺は順調に仕事を覚えながら、塾での授業をこなしていった。

次第に、少しずつではあるものの親御さんとの面談を担当したり、
生徒ごとの計画なども立てられるようになっていった。
教え方も、最初に比べればどんどん板についてきて、
生徒たちとのコミュニケーションも上手くできるようになった。

陽子先生には、「覚えが早くて、助かるじゃんね」とすごく褒められたし、
凪は凪で「数学の小テストで初めて満点が取れた! 男さんのおかげ!」と大喜びしていた。

幸せな時間だったし、こんな順風満帆な日々が続いていくと思っていた矢先。

俺がこの塾で働き始めて一ヶ月が経とうかという頃……。
”ほころび”は突然に訪れた。

その日も俺は授業準備のため、夕方には「七瀬川学習塾」に向かった。
すると、塾舎の隣の凪や先生たちが住む家の2階が、やけに騒がしかった。

まだ凪は帰ってこない時間だし、陽子先生も塾舎で準備をしているはずの時間帯だった。
俺は不審に思って、家の2階のベランダを凝視する。

そこでは剛先生と思われる男性が「やばいやばい! 早くしないと!」と言いながら、
大急ぎで干してあった洗濯物を取り込んでいた。

ここに来て初めて剛先生の姿を見たので、俺は感激して「先生!」と声をかけてみたが、
剛先生は俺に気づくことはなく、洗濯物をしまい終わるとそのまま家の中に戻ってしまった。

不思議に思った俺は、すぐにこの事を塾舎にいた陽子先生に話した。

男「今、剛先生はおうちにいらっしゃるんですね」

俺がこう言うと、陽子先生は「え」と驚いた様子だった。

陽子「なんで?」
男「えーと……さっきおうちの2階で洗濯物を取り込んでましたよ」

すると、陽子先生は「はあ」とため息をついてから「またか」とだけ言った。
その様子がどうにもおかしく、変だなと思いながらも俺は会話を続けた。

男「今日は晴れてるのに、大急ぎで取り込んでましたけど、何かあったんですかね?」
陽子「さあね。どうしたんだろう」

陽子先生はそう言うと、きまり悪そうに笑顔を作って「ごめん」と机から立ち上がった。

陽子「ちょっと家の方見てくるからさ。男くん、もしも誰か来たら対応お願いしていいかな」
男「あ、はい。分かりました……」

陽子先生は「お願いね」とだけ言い残し、そそくさと裏口から出て行ってしまった。

塾舎にひとりポツンと残された俺は、今日の授業科目のテキストを取り出し、
一通り授業準備を進めることにした。

10分、20分が経過した頃だろうか――

「ちょっと凪! アンタなんて格好してんのよ!!」

外から、陽子先生のとんでもない叫び声が聞こえてきた。
……凪が帰ってきたのだろうか。

俺は慌てて塾を飛び出し、外へ出た。
するとそこには……”全身泥だらけ”になった凪が立ち尽くしていた。

『更衣移行期間なんだよ』と張り切って下ろしたばかりの、
爽やかな夏服のセーラーは、無残にも泥まみれになっていた。
背中には制服と反して、まったく汚れていないミズノのエナメルバッグを背負っていた。

いつものビニール傘は持っているが……さしてはいない。

陽子「ちょっと凪、これどういうこと? 何があったの?」
凪「……なにもないよ。転んだ」
陽子「転んだってアンタ……」

その尋常じゃない汚れ方を『転んだ』で済ますのは流石に無理があった。

俺も、固唾を飲んで状況を見守る。

陽子「凪、いい? お母さんに何があったか言いなし。大丈夫だから」
凪「……なんもないよ」

陽子「……凪」
凪「お母さん、本当に大丈夫だから、心配しないで」

もはや”何か”があったことは、俺の目にも陽子先生の目にも明らかであったが、
それでもなお、凪は気丈に振る舞うのだった。

……しかし。

陽子「……そう。分かった。じゃあお話はまた今度きかせて」
陽子「とりあえず、おうち入って、お風呂入っちゃいなさい」
陽子「汚れた制服は、おばあちゃんに渡して洗濯。いいね?」

凪「……うん」

そう言って、凪がとぼとぼ家に入ろうとした時だった。

陽子「ところで凪、今日は部活は平気だったの?」
陽子「そんな格好じゃ、部活どころじゃなかったかもだけどさ」

陽子先生は、そんな些細な質問から会話の糸口を掴もうとしたのかもしれない。
しかし、それが凪の心を抉ってしまった。

凪「部活はもう辞める」
陽子「え、辞めるってアンタ……もう夏の大会もすぐなのに、どうして」
凪「もう、野球なんかやりたくない」
陽子「どうしてそんな急に……」

凪「なんで? いいでしょ? 部活するのも辞めるのも私の自由じゃん!」
陽子「でも凪、今までお父さんとの約束だって言ってずっと頑張ってきたじゃない」

凪「だから!」
凪「野球続けてればお父さんは戻ってくるわけ!?」

凪の叫び声が、萌葱色に染まった桃畑の町に響き渡る。

凪「私がいくら野球を頑張っても……三振を取っても、ヒットを打っても」
凪「何も変わらないじゃん! 何も戻ってこないじゃん!」
凪「そうでしょ? ねえ、そうだよねぇ?」

陽子「それは……」

凪「本当はお母さんだって全部わかってるくせに。意地悪だよぉ」

そう言うと、凪はぼろぼろと泣き崩れてしまった。

陽子「凪、違うよ。お母さんはなにもそんなことを言ってるわけじゃ……」
凪「私だって思ってた。野球をしてればお父さんは喜んでくれるかもって」
凪「でも、違った。もうなにも変わらないし、なにも届かない」
凪「野球なんて、やってたってつらいだけなんだよ」

凪の嗚咽混じりの言葉は、ずしずしと胸にのしかかってくる重みがあった。

凪「もう、全部やめたいんだよ!」

背負っていたカバンや傘を投げ捨て、凪は汚れた制服のまま走り出した。

陽子「ちょっと凪! どこに行くの!」
その呼びかけに答えることもなく、凪はそのままどこかへ走って行ってしまった。

陽子先生は脱力し、その場に座り込んでしまった。

男「先生、大丈夫ですか……」
陽子「ははは、恥ずかしいとこ見られちゃったね」
男「いや、そんな……」

陽子「あの子はあの子で、色々と追い詰められてたんだね」
陽子「今の今まで、それに気づけなかった私が悪いよ……」
陽子「あんなに泥だらけにされて、つらかっただろうに」

陽子先生は平然を装って喋っていたが、その双眸には涙が滲んでいた。

俺は陽子先生にも色々と訊ねたいことがあったが、ぐっとこらえた。
それよりも、今は最優先でやるべきことがあるだろう。

男「俺、凪のこと追いかけてきます」
陽子「え……」
男「大丈夫です。ちゃんと話を聞いて、必ず一緒に戻ってきます」
男「安心してください。授業の時間には間に合わせます」

そして俺も、そのまま走り出した。
凪の持っていた、透明なビニール傘を握りしめて。

『今度は俺の番だ』
『今度は俺が凪を助ける番なんだ』

――そんな想いとともに。

凪が向かった方角に走ってみたが、なかなか痕跡を見つけられない。
路地裏の細道、踏切脇のけもの道、高架下……。
そのどこにも凪の姿はなかった。

10分ほど走り回ってから、俺は「もしかしたら」と思ってすぐに”あの場所”へ向かった。

遠く、地平の際に燃える太陽が、街全体に長い影を作っている。
そんな、何もかもが朱色に染まった夕焼けの中……
凪は、根図橋中央付近の欄干に寄りかかり、景色を眺めていた。

男「凪……」
凪「あっ……」

凪はこちらに気づくと、「ぐず」と鼻をすすった。

凪「ごめんね」
涙声でそう言うと、凪はぐいと右手で目元をぬぐう。

男「いいよ。それより……大丈夫?」
凪「うん。もう、だいぶ落ち着いた」
男「そっか。それならよかったよ」

凪「なんかさ。これじゃ、この前と逆だね」
男「……え?」
凪「私たちが初めて会った日。あの時は、私が男さんに声をかけたのに」

凪「死のうとしてた男さんにさ……」

男「……まさか、凪も死のうとしてたのか?」

凪「――どうだろうね」

橋の上を通り抜けた夕風が、凪の短い髪を揺らして、反射した夕暉がきらきらと瞬いた。
綺麗だな、と思う。

普段は絶対こんなことを言わないが、凪は本当に綺麗な子であった。
可愛いとか愛嬌があるとかそんなんじゃなく、綺麗だった。
たとえ泥だらけの制服を着ていたとしても、そんなものでは打ち消せないほどに。

凪「死のうとしてたのかも。いや、死にたいくらい、何もかも嫌だった」
男「………」
凪「でもさぁ」

でもさぁ――と言って遠くを眺めた凪の瞳には、夕日が燃えていた。

凪「こっからの笛吹川の眺め、死ぬほどキレーなんだもん」
凪「こんなの見ちゃったらさ、死ねないよね。なんか胸がいっぱいになっちゃう」
凪「見てよ。遠くの街並みとか、キラキラ光っちゃってさ」

やっぱり、そうだよなと思った。
ここからの眺めは美しすぎる。
世界に絶望して訪れた人間には残酷すぎるほど、美しい世界を”まざまざ”と見せつけられる。

男「ここは死ぬ場所じゃないよ。こんな綺麗な場所で……死ぬべきじゃない」
凪は一瞬俺に目配せし、すぐにまた遠くへと視線を戻す。

男「だからこそ――ここに来て正解だったな」
凪「……かな」

男「なあ、凪」
凪「……なあに」

声をかけたはいいものの、なかなか言葉が出てこない。
後ろの県道をバイクが通り抜け、排ガスを撒いていった。
遠くから、家路につくカラスたちの鳴く声が聞こえた。

男「もしよかったら、何があったか教えてくれないか」
凪「………」

途端に凪の横顔が曇り、瞳に影が落ちた。
でも。……それでも。

男「こんな俺なんかでよければ……全部聞くよ」

凪「私のお父さんね、若年性アルツハイマーなんだ」

男「若年性アルツハイマー……?」

凪「そう。アルツハイマーは聞いたことあるよね? 認知症のひとつ」
男「……うん」
凪「お父さんは、それになっちゃったの」

目の前の線路を青色の鈍行列車が通過する。
ガタンガタンと喧しい音を立てたかと思うと、数秒後にはまた元の静寂が訪れた。

男「剛先生が……。そうか、だから授業も……」
凪「できなくなっちゃったの。授業どころか、今は普段の生活だって大変だけどね」

凪「一番最初に気づいたのは私だった」
凪「授業で、前に教えた範囲をもう一度教えようとするの。しかも、何度も何度も」
凪「最初はただの物忘れかなと思ってたんだけど……」

凪「ある日、急に『雨が降ってる』って言い始めたんだよ」
男「あ、雨……?」
凪「そう。すごくよく晴れた日だったから、私もお母さんも驚いた」

凪「”見当識障害”っていうんだけどね。物事を正しく認識できなくなっちゃうんだって」
凪「それで私もお母さんも、初めてお父さんが危険な状態にあるって気が付いた」

凪「それからお父さんはどんどんひどくなっちゃって……」
凪「近所の人に『雨が降ってます、洗濯物大丈夫ですか』とか言って回ったりして」
凪「ひどい時は所構わずインターホンを鳴らして、知らない人の家に怒鳴り込んだりしたこともあった」

男「あぁ……それは大変だ……」
ふと、先ほどの剛先生を思い出す。
晴れているのに、あんなに急いで洗濯物を取り込んでいたのも、そういう理由だったのか。

凪「もちろん、笑って許してくれる人もいた」
凪「けどね。世の中、みんながみんな認知症に理解があるような人ばかりじゃない」

凪はぽろぽろと涙をこぼす。

凪「近所の人に、お前のとこの親父は頭が狂ったとか、雨男の娘とか……そんなことも言われたよ」
男「…………」

凪「それだけならまだよかった。それだけなら……でも」
男「でも……?」

凪「近所に住んでる子に……お父さんのその姿を見られちゃったんだよね」
凪「見られた上に……動画まで撮られてた」

凪「その動画は、学校内であっという間に広まっちゃって」
凪「”野球部の七瀬川の父親は頭がおかしい”って――」

男「ひどい……」
凪「晴れた空の下で『雨ですよ!』って騒いでる私のお父さんは……さぞ”面白かった”んだろうね」
凪「いっとき、学年はその話題で持ち切りになったよ。つらかったなぁ……」

凪「男子には馬鹿にされたし、仲の良かった女の子たちも、次第に私に近寄らなくなって」
凪「私は自然と……ひとりぼっちになってた」

男「そんな……」

こちらをちらりと見た凪の瞳には、涙と一緒に言いようのない寂しさが滲んでいた。

凪「でもね。お父さんはおかしくなんかないんだよ」
凪「たとえ上手に授業ができなくてなっても、たとえ私のことを忘れちゃっても……」
凪「お父さんはたったひとりの私のお父さんなの」

凪の凛とした横顔に、涙の跡がきらりと光る。

凪「だから私は決めたんだ。どんな日でも、どんな時でもビニール傘をさそうって」
凪「それが、雲ひとつない快晴の日だとしても。誰かに後ろ指をさされて馬鹿にされたとしても」

凪「お父さんが雨が降ってるって言うなら、私くらいはそれを信じてあげたい」
凪「世界中の全員が、お父さんのことを信じなかったとしても」
凪「この世界で、私だけは……」

凪「お父さんを信じるって、そう決めたの」

男「それでずっと、傘をさしてたんだね……」
凪「うん、そうだよ」

男「でも、そんな目立つことをしたら、ますます色々言われちゃうんじゃ……」
凪「そうだねぇ……」

力なく笑ったあと、きゅっと唇を噛む凪。

凪「きっと、分かりやすい”標的”になっちゃったんだね。私は……」

その言葉を聞いて、胸がざわつく。

凪「些細なことだった、と思う……」
凪「ビニール傘をさして帰るとこを、下駄箱で同級生の女の子たちに見られて」
男「……うん」

『こんなに晴れてるのに、頭おかしいの? 大丈夫?』

凪「って、嫌味たっぷりに言ってきたから、私も言い返したんだよ」

凪「傘をさすのは自由だよ。そんなことが気になるんだね……って」
男「うんうん、その通りだもんね」

凪「でも、そしたら……」

『やっぱり、あの頭のおかしい父親だから、こいつも頭おかしんだよ』
『カエルの子はカエルってやつ? 気落ち悪い親子』
『親子そろって頭おかしいんだねぇ』

凪「私さ……気づいたら、持ってた傘で、それを言った子に殴りかかってた」
凪「一発だけだったけど……人生で初めて、人に手を上げちゃったんだ」

凪「その子、大泣きして叫んでさぁ……」
凪「私だけが職員室に呼び出されて、散々怒られて、その日はそれで終わった」

凪「正直、怒られちゃったけど、どこかでスッキリしてる私もいた」
凪「反省はしたけど、後悔はしていない、っていうのかな……」

男「それはよかったじゃん。時には思い切ってやり返すのは大事だよ」
凪「……そうだね。私もそう思ってたよ。けどね――」

凪「私が手を上げた子は、ものすごく目立つ子で、学校の中心みたいな子だったんだよ」
凪「その日を境に――世界が変わっちゃった」

背筋がぞわっとするような、嫌な予感がした。

凪「きっとその子、私のことが気に入らなかったんだよね……」
凪「私、いつの間にかいじめられるようになっちゃってさ」

凪は「あは」と笑ったあと、ダムが決壊したかのように、ぼろぼろと大粒の涙を流した。

男「ちょっと、大丈夫!?」
凪「あれぇ……なんでだろう」
男「無理して話さなくてもいいよ、嫌なこと思い出す必要はないんだから」

凪「んーん。これは、私が話したいと思ってることだから」

持っていたポケットティッシュを差し出すと、凪は「ありあと」と声にならない声を発した。

凪「ほんとにほんとに、ひどいんだよぉ……」
凪「わたし、学校でトイレにも行けなかっだ。行けながったんだよぉ」

凪「わだしがトイレに行ごうとすると、見張ってる子がいで、個室に入れてもらえないの」
凪「先生用のトイレに行こうどしても、その子たちづいてくるんだよ」

凪「だからしがたないじゃん? 授業中にトイレに行っだら……」

凪はもう、制御がきかないくらい大泣きしている。
俺はそのあまりの光景に、ただ口を閉ざして耳を傾けることしかできない。

凪「教室に戻るど、男子たちがさ……」

『七瀬川さんは今日生理みたいでーす』
『授業中も我慢できないみたいで、大変ですねー』

凪「……って、騒ぎ立でるんだよ……」

大粒の涙が、またしても落ちる。一粒、二粒。
この涙の数だけ――いや、もっともっと。
凪は誰にも頼れず、ずっと孤独に、つらい想いをしてきたのか。

凪「だがらわたし、怖くなっで授業中もトイレに行けなぐなっちゃってさ……」
凪「そしだらさ、どうなるが分かるよね? わたし、学校で……」

凪「いやぁ……もうこれ以上はいいか……ごめん」

殺意が湧いた。
人生で初めて、明確に感じた殺意。
凪に悪意を向けたゴミクズ以下の連中、見て見ぬ振りをした同級生、そして何も気づけない教師。

こんなことが、こんなことがまかり通っていいのか?
絶対に許せない。……絶対にだ。

俺は、凪が落ち着くまでしばらく背中をさすり、様子を見る。
「落ち着いて、大丈夫だからね」と声をかけ、凪の呼吸を整えていく。

男「だれにも……相談はできなかったの?」
凪「先生には、何度か言ってみた。でもダメだったよね」
凪「いじめてる子たちも、表ではウソみたいに”良い子”たちだったから」

凪「私ひとりが何を言ったところで……なんの意味もなかったよ」

男「陽子先生には言わなかったの……?」
凪「お母さんは……塾と、お父さんのことで本当に手一杯だったから」
凪「余計な心配をかけたくなかったんだよ」

男「そ、そんな……」

そんなことって。そんなことってあるのか。
じゃあ本当に、今の今までこの子は、この優しい子は、たった一人で悩み続けてきたのか。

この小さな身体で、この世界のクソみたいな”ことわり”と必死に戦ってきたのか。

凪「本当につらかったけど……」
凪「ビニール傘をさしてると、少しだけ気持ちが軽くなったんだよ」

男「傘をさしてると……?」

凪「そう。たった一人になった私を、色んなものから守ってくれるような、そんな気がしたの」
凪「その、透明なビニール傘がね」

そう言って、凪は俺の握っていた傘を指差す。

凪「学校でどんなに嫌なことがあっても――」
凪「帰り道でその傘をさして帰る時、私は私らしくいられた」
凪「どんなにつらくて苦しくても、私は私の信じたことをしようって、そう思えたの」

男「そうだったんだね……」

凪「それに、部活もあったからね」
凪「やっぱり野球は大好きで、楽しかったし」
凪「部活で、みんなと一緒に野球をやってる時は、いろいろ忘れられたから」

凪「私は私らしく、できることを頑張ろうって思ってた」
凪「思ってた……けど……」

凪は身体を小刻みに震わせ、「うぅ」とまた泣き崩れた。

凪「それでも……私へのいじめはなぐなるこどはなぐて」
凪「誰も味方なんでいないし……いづも一人で」
凪「この先もずっどこうなのかなって思っだら……」

凪「もう、何もがも……分からなぐなっちゃっだ」
凪「うぅ……」
凪の呼吸は荒くなり、嗚咽とともにぽたぽたと涙がこぼれていく。

男「凪……もういい。もういいよ。無理しないで……」

凪「本当はね」
男「ん……?」

凪「あの日」
凪「男さんと初めて会ったあの日に、私――」

凪「死のうとしてたんだ」

男「は……」

凪「いじめられて、友達もみんないなくなって、たった一人になって」
凪「大好きだった昔のお父さんも……いなくなっちゃって……」
凪「こんなつらい世界、やめちゃおうかなって……そんなことを思って、この根図橋に来た」

すると凪は、唐突に「ふふ」と笑った。
それが本当に突然のことだったので、驚いて凪の顔を見ると、凪は確かに笑っていた。

凪「そしたらさ、先客がいるんだもん。笑っちゃうよね」
凪「同じ日に、自分以外にも死のうとしてる人がいるなんて、思いもしなかった」
凪「こんな橋の上でさ……」

男「……なんていうか、悲しい奇跡だね」
凪「ほんとだよ。ほんとうに……信じられない」
凪はしみじみとそう言ったあと、目の前の欄干をぽんぽんと優しく叩いた。

凪「だからさ、男さんがいなくなったあと、私は死のうと思ってた」
凪「でも、男さんが去り際にあんなこと言うもんだから……」

『そのビニール傘、素敵だね』

凪「私、夢中で追いかけてた」
凪「今まで、誰ひとりとしてそんな風に言ってくれた人、いなかったから」
凪「こんな私に手を差し伸べてくれた人を、絶対に死なせたくないって――」

男「そうだったんだね……」

遠くで燃えていた夕日は、山の稜線へと消えかけていた。
足元から伸びていた影は、段々と境目が曖昧になり、そのうち分からなくなった。

男「でも、そうだとしたらさ。俺は間違いなく助けられたよ」
男「凪に、助けられたんだ」

そう言うと、凪は「よかったなぁ」と笑った。

凪「だってね。違うんだよ」
男「違う……?」
凪「私は、男さんに助けられたんだから」

凪「笑っちゃうよね。男さんを助けたふりして、私も助けられてた」
凪「きっとあの一言がなかったら、今頃私も……」

男「じゃあさ」

凪はこちらを向いて、俺の顔を見つめた。
同時に、周囲の街灯にちらちらと光がついていく。

男「俺たちは、出会えてよかったね」
凪「うん」

男「凪も俺もさ、もうだめだと思って、この”クソみたいな世界”に絶望して」
男「何もかもを投げ打とうとしてた」

男「でも、こんな出会い一つで救われたし、世界は変わり始めた」
男「……そうだよね?」
凪「……うん」

男「無責任なことは言わない――ってのが俺の信条なんだけどさ」
男「すこしだけ言わせてもらってもいいかな」

凪「――なあに?」

凪の涙まじりの瞳がきらりと光る。
その瞳を見ていると――無性に切なさが込み上げる。

男「くじけずに信じていれば、きっと良くなる日が来ると思う。……必ず」
男「友達もまた戻ってくるし、剛先生も良くなる日が来るかもしれない」
男「それで、凪も心から楽しく学校に行ける日が……きっと来る」

凪「……来るのかな」
男「必ず来るよ。ずっとずっと最悪な日々が続くわけがない」
男「……俺が保証する。凪はまた必ず楽しくて仕方ない日々を送れる」

凪「すごい自信。……どうして?」
俺はその問いかけに対して――自然と口にしていた。

男「凪だから、かな」

凪「わたしだから……?」

凪だから。これは俺の嘘偽りのない気持ちだった。
凪みたいに優しくて、芯があって、一生懸命な子は、絶対に楽しい日々を謳歌できる。
じゃなければ、この世界は本当に、救いようのないくらい間違っている。

なあ神様。
一度死にかけた俺たち二人を、悲しい奇跡で救ってくれたならさ。
もう少しだけ、”この世界”に夢見たっていいよな?

凪「あはは。なにそれぇ。……私だから?」

男「だってほかに言いようがないんだ。凪だからなんだよ、他の誰でもなく」
男「俺が思うんだ。その……凪みたいないい子は、絶対に幸せになれるってさ」

凪「あは。そっかぁ――」
凪「……男さん、ありがとね。ほんとうに……ありがとう」
男「いや、そんな……」

凪は遠くを見つめる。
日が落ち、黒くなった空には、気の早い星たちがいくつか顔を覗かせていた。

凪「多分、私はね。男さんと出会えただけで幸せだった」

凪「死なずに済んだうえに、大嫌いだったこの世界のことが、ちょっとだけ好きになれたんだもん」

凪「でも、だからかな――やっぱり、もっと欲しくなっちゃうんだよね」

凪「いじめられる前の、何もかもがあった世界に戻れたらなぁって……最近は思ってた」
凪「お父さんが元気で、部活も楽しくて、友達もたくさんいて、毎日学校に行くのが楽しかったあの頃に」

凪「戻りたいなぁって……思ってた」

凪「でも、今日ね――」

凪「”やられちゃった”んだ。わたし」
男「やられた……?」

凪「これ、気になってたでしょ。このひどい有り様……」
凪は、自分の泥だらけになったセーラー服を指差してみせる。

凪「この泥、野球部のキャプテンに……かけられたんだよね」
男「えぇ、野球部?」

俺はてっきり、さっきの”いじめの主犯”である女子にやられたと思っていた。
そうなると、話が変わってくる。

男「だって部活は楽しくやってるって言ってたよね……?」
凪「うん。部活は楽しかったよ」
凪「男子の中に、女子は私一人だけでしょ?」
凪「だから、それが逆にいい距離感になって、部活は今まで通り淡々と続けられた」

凪「だから私、安心してたんだ」
凪「ここなら、誰も私を攻撃してこない」
凪「ただただ、大好きな野球だけに打ち込める――って」

凪は俺に向かって腕を振り下ろした。
その投球フォームは、なかなか様になっている。

凪「だって、みんな目標はひとつ。夏の大会で勝つこと」
凪「だから野球部には、私をいじめるような男子はいなかった」

凪「それにチームメイトのみんなは、これまでずっと一緒に頑張ってきた仲間だからね……」

凪「なのにさ……!」

凪「今日、いきなりキャプテンに呼び出されたと思ったら、バケツいっぱいの泥をかけられて……」
凪「もう部活には来ないで欲しいって言われた――」

凪「私、部活まで取り上げられちゃったみたい」
凪「野球が、部活が、私の最後の拠り所だったのに……」
凪「ねえ、どうして? 私はただ、今まで通りに――普通に過ごせればそれでいいんだよ?」
凪「それってわがままなの? なんでぜんぶぜんぶ、なくなっちゃうの……?」

言葉に力が込もり、小刻みに震える凪。
ぽろぽろと、またしても涙が落ちてゆく。
世界に傷つき、ボロボロになる凪を見るのが、つらくてつらくて仕方なかった。

男「それで、もう部活は辞めるって言ってたのか……」

凪「うん。私だって本当は辞めたくない。辞めたくないよ」
凪「お父さんともね、約束したから」

男「約束……?」
俺が訊ねると、凪はぱちぱちと瞬きしたあと、「そう、約束」と噛みしめるように言った。

凪「お父さんが、まだ元気だった頃ね――」
凪「私、言ったんだ。最後の夏、絶対に地区大会で優勝するって」
凪「そしたらお父さん笑ってね。『それはすごく楽しみだなぁ。応援してるぞ』って言ってくれて」

凪「私ね、思ったよ」
凪「絶対に絶対に、最後まで野球をやり抜いて、お父さんを県大会に連れていきたいって――」

凪「だから私は、お父さんが今の状態になってからも、ずっとずっと信じてやってきた」
凪「たとえお父さんがすべてを忘れてしまっても……」
凪「最後の大会で勝ったら、お父さんはきっと、喜んでくれるにちがいないって……」

凪「でもさ」

凪の小さな背中が震える。そしてまた、嗚咽。
ひっぐ、えっぐ、と声にならない声で、ただただやり場のない涙を流し続ける。

凪「ずっとそれだけを信じて頑張ってきたのに」
凪「それ以外のすべてに押しつぶされそうになっても、この約束だけは守りたいって踏ん張ってきたのに」

凪「私、キャプテンにこんなことされちゃってさぁ」
凪「野球すら、なくなっちゃったんだ」

凪「私ね」
男「うん……」

凪「一度男さんに助けてもらったのに……」
凪「今日また、”死んじゃいたい”って思っちゃったの」

凪「だめだよね? こんな私――どうしようもない子だよね」

凪はそう言うと、「うええぇ……」と大泣きしてしまった。

言葉が出てこない。
気の利いたことなんて何一つ言えない俺は、黙って凪の頭を撫でる。
凪の嗚咽が収まるまでずっと、優しく、何度も何度も……。

次第に、凪の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、声をかける。

男「いいんだよ。人生なんて、いつだって死にたい波の連続だ」
男「きっと、みんなそうだよ――」

凪「……ほんとうに?」

俺はその問いに、大きく頷く。

男「そうだよ。大なり小なり、みんなその波にさらされながら生きてる」
男「みんな平気なフリしてるけど、それは段々と波乗りが上手になっただけ」
男「いつ大きな波が来るかわからないし、油断してると不意に波に飲まれちゃうこともあるんだ」

俺も、ついこないだその「波」に飲まれそうになってしまった。

男「凪、いいかい?」
凪「……うん」

男「ちょうど今、凪はその大きな波に立ち向かってるところなんだ」
男「これまでに感じたことのないくらい、きっと人生で一番大きな波だから、当然怖いし苦しい」
男「正直、今までよく一人で負けないでいられたね。……すごいよ」

凪は黙って、じっと俺の方を見ている。
夕立のあとの引き締まった空のような、澄んだ瞳だった。

男「でも、もう大丈夫だよ」
男「これからは俺も力になるから」
男「もう、凪は一人じゃないんだよ」

男「二人でさ……その大きな波を越えようよ」

凪は――「うう」と声を漏らしたあと、再び泣き崩れた。

俺はまた優しく頭を撫でる。
俺なんかがこの子に触れていいのか、そんなこと分からなかったけれど、きっとそうするのが正しいと思った。

とにかく今は……凪の顔からその悲しげな涙が消えてほしかった。

男「今度……俺も一緒に部活に行くよ」
凪「え……?」

男「だって、今日こんなことがあって……次部活に行くの、怖いでしょ?」
凪「うん……それは、すごくこわい……」

男「わかるよ。次行ったら何されるか分からない、何を言われるかも分からない」
男「学校だけじゃなく、部活でもいじめられるかもしれないって……」
男「そんなの怖いに決まってる――」

男「でも」

はっきりと、ちゃんと伝わるように言葉に力を込める。

男「だからって、凪が部活を辞めちゃうのはちがうと思うんだ」
男「絶対にちがう」
男「俺は、凪に大好きな野球を続けてほしい」

凪「男さん……」

男「だから、俺も一緒に部活に行くんだ」
男「何かあったら凪を助けられるように、凪を守れるように」

凪「でもでも、そんなことしたら男さんにも迷惑かけちゃうよ……」

男「だから言ったろ?」
男「二人で越えようって」

男「こんな俺だけどさ……一緒だったら、一人よりも、ちょっとだけ心強いだろ?」

凪は「ありがとう」と言って、またぐずぐずと洟をすすった。

男「なあに、俺も一応南中野球部のOBだからね。部活に顔を出すこと自体は問題ないはずだ」
男「だから凪も気負わず」
男「もう一度だけ、俺と一緒に部活へ行ってみよう――」

凪は「うん」と元気に頷いた。
その顔が本当に嬉しそうで……俺はこんなシンプルなことでも提案して良かったなと思った。

大丈夫。
きっと変えていける。凪はまた、楽しかった日々に戻れる。

クズで無能だった俺でも、できるんだってことを……凪を救えるんだってことを……。
証明してやる。

その後、俺と凪は二人で塾に向かって歩き出した。
凪は未だに涙目だったけど、少しだけ希望が見えたのか――。
時折、笑ってくれた。

俺はきっと、それが何よりも嬉しかった。
凪には涙なんかより笑顔の方が似合う。絶対にだ。

俺の持っていたビニール傘を渡すと、凪は「ありがとう」と優しく受け取った。

男「今日はささないの? ……傘」
凪は「うーん」と悩んだあと、「ささない」と首を振った。

男「どうして?」
凪「今日は……濡れて帰りたい気分」

凪はそう言ったけれど、もちろん雨は降っていなかった。
頭上には満天の星――とまではいかずとも、都会で見るそれよりは遥かに多くの星々が瞬いている。

凪「私ね。もしもお父さんが元気になったら、一つだけ訊いてみたいんだ」
男「お、いいね。何を訊くの?」

凪「お父さんは、雨が好きなの? ……って」
男「へえ……」
凪「お父さんの世界ではいつも雨が降ってるから……」
凪「もしかしたら、何か雨に意味があるのかなって」

凪「それが、知りたいんだよね」
凪は「どう思う?」とでも言いたげに、上目遣いで俺の方を見た。

男「何か理由があるのかもね。……分からないけれど」
凪「そうだね。だから訊いてみたいなって、ずっと思ってるんだ」

凪「まあ、お父さんは……もう私の名前すら覚えてないんだけどさ」
そう言うと、凪は頭上を見上げて「星、綺麗だね」と呟いた。

凪「昔、社会のクラタ先生が言ってたんだけどさ」
男「――なに?」

凪「私たちが住んでるこの町は、海抜300メートルの高さにあるんだって」
凪「信じられる? こんなどう見たって0メートルの地面が、東京タワーくらいの高さにあるんだよ?」

男「へえ……それは知らなかったなぁ」

凪「――そしたらさ」
凪「目に見えてるものなんて、実はなんにも信じられないのかもって思った」

凪「今だって、星の綺麗なよく晴れた夜だよ」
凪「でも……お父さんには、私たちには見えない虹色の雨とか、オーロラの雨が見えてるのかなって」
凪「きっとそうだったらいいのにな……って思ってる」

凪は透き通るほど雲ひとつない夜空を見上げて、言う。

男「ああ、それはいいねぇ。今日だったら、星の雨かもしれないね」
凪「ふふ、そうかも」

凪はそう言うと小走りで駆け出し、俺の数メートル前でくるりと振り向いた。

凪「星が降る夜なんて、なんだか素敵だね」

そんな風に笑う凪を見て、本当に星が降ればいいのになと思った。

凪と剛先生の二人のもとに、数え切れないほどの綺麗な星が降り注げばいいのに。
そしてその輝きの中で、いつまでも笑っていてほしい。

夢物語でも絵空事でもない。
そんなことすら有り得てほしいと思うくらい――俺は凪の幸せを願っていた。

この優しい子が心から笑える日が来ることを――
願っていた。

二人でゆっくりと歩いて……20分くらいしたら、塾へと帰ってきた。

授業開始が15分後に迫っていたので、俺はそのまま塾舎へ向かおうと思った。
凪は一度家に戻るというので、家の前で別れを告げようとしたその時――

凪が出し抜けに「あ、やばい」と言った。

家の玄関先に剛先生がいて、こちらを睨んでいた。

剛「なあ君、私の財布がないんだ。知らないか?」
凪「いや? 知らないよ。それより外は危ないから、家の中に戻ろうね」
剛「そうかい……まあ、天気も良くないし戻ろうか……」

衝撃的だった。

見た目はかつての剛先生だったが、声色も喋り方も、何もかもが違う。
昔はもっと――なんというか優しげな雰囲気だったし、こんな刺々しい感じではなかった。
それに、剛先生の口ぶりから察するに、彼は本当に凪のことも認識できていないようだ。

その事実に呆然として、しばらく動けずに二人のやり取りを眺めていると――。

剛「おい、お前! なんだ? なんの用だ! なにしてんだここで!」

まずい、と思った
目が合ってしまった剛先生が、俺に向かって話しかけてきたのだ。

この状態の剛先生に何を言っても無駄であろうことは俺も分かっていたし、
なにより授業直前のこのタイミングで、騒ぎを起こしてはいけない。

男「いや、なにもしてないです。僕は塾で講師をしている者で……」
剛「バカを言うなぁ!!」

剛先生の怒号が一帯に響き渡る。
目の前で大の大人の怒声を浴びた俺は、身体が石になったように固まり、動けない。

剛「あそこで教えてるのは陽子だろ! ふざけるんじゃない! お前誰なんだ!?」

何か喋って弁解しようとしても、ぱくぱくと口が動くだけで何も言えない。
それほどまでに剛先生の剣幕は凄まじく、
また”かつてとのギャップのひどさ”も相まって……俺はもう頭が真っ白になった。

凪も同じなのか、剛先生の隣で口を開けたまま固まっている。

剛「おい、お前なんだろ?」
剛「お前が私の財布を盗ったんだな?」

男「え? いや、違います! そんなことは……」

剛「バカにしやがって……おかしいと思ったんだ」
剛「おいお前、返せ。今すぐ返せよ!!」

激昂する剛先生の腕をつかみ、凪が必死になだめようとする。

凪「お父さん、違うよ。その人は全然関係ないんだよ」

剛「うるさいんだよ!」
そう叫んで、凪を思い切り振り払うと、凪はそのまま植木にぶつかった。

男「ちょっと、危ないですよ!」
剛「黙れ! おい、お前舐めてるのか?」

剛先生が、ものすごい剣幕で俺の方に迫ってくる。

剛「早く返せ! この野郎! 分かってんだぞ!」

剛先生は、俺の胸ぐらを掴んで凄む。
俺の顔を凝視するその濁った双眸には……もはやかの日の面影など、微塵もなかった。
病気のことを知らなければ、鬼にでも取り憑かれたのかと思うほど……
そこにいた剛先生は、かつてとは別人だった。

怖いんだか、悲しいんだか、もはや何の感情かも分からないものが俺の心を支配し……。
両足がガクガクと小刻みに震えた。

男「知りません……僕は、盗ってないんです」

そう答えた瞬間であった。
”ガゴッ”という鈍い音が脳の奥に響き、視界がぐるりと回って……。
気づくと俺は、空を見上げて地面に倒れ込んでいた。

凪が大声を出して、塾舎の方へと駆けてゆく――。
剛先生はいまだにギャアギャアとなにかを叫んでいる――。
左頬がじんじんと熱くなり、痛み出した――。
口の中が切れて、血の味が広がる――。

そうか、俺は……”殴られた”んだ。
剛先生に。
かつて”恩師”だった人に……。

その後は、大騒ぎであった。

すぐさま陽子先生が飛んできて剛先生をなだめたものの、
彼の興奮は収まらないようでしばらく暴れていた。

すでに塾には何人かの生徒が来ていたため、もちろん一部始終を見られたし、
心配した近所の人たちが何人も集まってきた。

一時、警察を呼びそうな流れにもなったが、俺が懸命に無事をアピールしたため、
なんとかそこまで大事にはならずに済み、事態は一旦収束した。

剛先生は、これまで母親(凪のお婆ちゃん)と陽子先生で面倒を見ていたが、
もはや家での管理は不可能なところまで来ており、
陽子先生とお医者さんで相談して、『医療保護入院』することになった。

治療の方針を変えたり、投薬の種類を変えたりして、
もっと平穏に暮らせるようにしていくためだという。

もしも警察沙汰になっていた場合、
強制力のある『措置入院』になっていた可能性もあったらしい。

陽子先生は今回の件で、激しく憔悴していた。

俺は「不幸中の幸いというか、全然知らない人じゃなくて殴られたのが僕で良かったです」
などと言ってみたものの、そんなことは焼け石に水だった。

今までも騒ぎを起こすことはあったものの、誰にも危害を加えずに暮らしていた。
それなのに、まさか男くんに手を上げるなんて……と泣き崩れていた。

そして、凪は……。

あの日以来、三日以上”部屋から出てこなかった”。

目の前で父親が人を殴る瞬間を目撃し、なおかつ俺が殴られたということが……。
本当に本当にショックだったようで、
学校はおろか、塾にも参加せず、部屋から一歩も出てこなくなった。

これには、俺も本当に悲しい気持ちになった。
いや、俺だけじゃなく……陽子先生はもっと辛かったろう。

旦那である剛先生の症状が悪化したうえ、一人娘の凪が心を閉ざしてしまった。
その心労は、想像を絶するものだ。

しかしそれでも、陽子先生は気丈に授業に立ち続けた。
ただその表情は疲れて切っており、俺だけでなく、生徒からも心配されるほどだった。
正直、陽子先生もいつ倒れてもおかしくないような状態であった。

これまでの幸せな時間が……これからの未来が……音を立てて崩れ始めていた。
俺の大好きな家族――七瀬川一家のみんなが――崩壊する寸前にあった。

「凪は……いつになったら部屋から出てきてくれるんだろうね」

陽子先生のその悲痛な言葉を聞いて……心から思ったよ。
なんとかしたい。なんとかしてあげたい。
俺に、なにかできることはないのか……?
ってさ。

ただ、現実は甘くない。
俺なんかがそう願ったところで、何も変わりはしなかった。

凪を元気づけるために家の外から声をかけようとも、手紙を書こうとも、
彼女が部屋から出てくることは一向になかった。

なにか、勘違いしていたんだろうね。
俺が頑張って行動を起こせば、凪はこたえてくれるとか、現実は変えられるとか、
そんな、都合の良い勘違いをしていた。

でも結果として分かったのは――。
俺は無力だということ。

ただそれだけで、俺が毎日塾で授業を続けようが、凪に戻ってきてほしいと願おうが、
まったく変わらない現実が目の前に横たわっているだけだった。

あの日、あの根図橋の上で……。
俺は凪と、「一緒に部活へ行こうね」と約束をした。
それは、一縷の望みともいえる”最後の光”だった。

もう二度と凪を泣かせない、ずっと笑顔にしてあげるんだ、と誓った。

あの子が笑顔になるためなら、あの子の日常を取り戻すためなら、なんでもするとまで思った。

俺と一緒に、凪のすべてを取り戻すための日々が……始まるはずだった。

なのに。
それなのに……。
今目の前にある現実は、ただただ空虚で、一切の慈悲はなかった。

ああ、そうか――。
思えば……これが”世界”ってやつだった。

そこには、ドラマティックな救済も、ヒロインへの祝福も、存在しないんだ。

これが……クソな世界。

俺の手は……凪に届かないのか。

そんな絶望の状態にあっても、日々というのは気を抜けばあっという間に消化されてゆく。

なんの変化も、解決の兆しも見えないまま、一週間以上が経過した。
凪は相変わらず家から出てくることもなく、陽子先生とも一言も喋っていないらしい。

陽子「もう、あの子がどこか遠くへ行っちゃったような気さえするの」

陽子先生は力なく笑ってそう言っていたが、その表情の奥には深い悲しみの色が見えた。

どうにかして凪に元気を出してもらいたい。戻ってきてもらいたい。
願わくば、もう一度部活にも行って、元通りの楽しい学校生活を送ってほしい。

あの子には――そんな”当たり前”の毎日を謳歌してほしかった。

そんなことを願うのは、行き過ぎたことだったんだろうか?

きっと凪は限界だったんだ。

大好きだったお父さんが、突然変わってしまったこと。
それをきっかけに、学校で理不尽ないじめを受けていたこと。

先の見えない辛い日々を送る中で、
遂には心の支えであった野球部まで奪われてしまった。

そして……あの日の一件で凪は限界を迎えた。
考えたら考えただけ、15歳の女の子がひとりで背負いきれるようなものではなかった。

どうして凪だけが、普通の中学生と同じような生活を送ることが許されないのか?
毎日毎日、凪が閉じこもったままの隣の家を見て、
悲しみとも怒りともとれない、やり場のない感情が渦を巻いた。

それからまた数日あって――。

その日もいつも通り、19時から中学生の授業を行っていた。
本来であれば凪も苦手な数学のテキストを抱え、にこにこと笑いながらやってくるのだが……。
当然、彼女の姿はなかった。

誰も座ることのない凪の席を見て、寂しい気持ちになる。
あの日から、凪の時間は止まったまま動いていない。

陽子先生と俺で、いつも通り授業を進めていると……。
突然入り口のドアが開き、「こんちはー!」と威勢の良い声が響いた。

そこには坊主頭で小麦色に焼けた、小太りの男子中学生が立っていた。
制服のワイシャツを見るに、凪と同じ南中の生徒だろう。
そんな彼は、鋭い目つきで室内を見回していた。

中学生「すいません、ここって七瀬川先輩の家っすよね?」
陽子「ええ、まあ、そうだけど……?」

きっと、表の「七瀬川学習塾」の看板を見たんだろう。

中学生「七瀬川先輩っていますか?」
陽子「七瀬川先輩って、凪のことよね……?」
中学生「あ、そうすね。凪さんっす。います?」

俺は立ち上がり、陽子先生に目配せした。

「ここは俺に任せてください」の合図だ。
陽子先生の方が受け持つ生徒数も多いし、授業の流れを止めるわけにはいかない。
話しぶりから察するに塾に用事があるわけではなさそうだし、ここは俺が片付けようと思った。

俺は担当していた中一の男女二人に、「この題問を解いておいて」と言い残し、
入り口にいた彼のもとへと近づく。

男「凪なら、隣の家にいるとは思うけど……ごめん。君はだれ?」

訝しげにそう訊ねると、中学生は「あー、そうっすよね」と小声で呟いたあと、話を続けた。

中学生「俺、野球部の二年の田向って言います。七瀬川先輩の後輩っす」
男「野球部の後輩……?」
田向「はい、そうっす。今日はちょっと、七瀬川先輩に話したいことがあって、来たんです」

田向君は見た感じガタイもよく、ちょっと”やんちゃそう”な少年であったが、
その語り口には嫌味がなく、純朴な印象を受けた。
単純な第一印象であったが、”悪いヤツ”ではなさそうな気がした。

男「ごめん。話ってなんなの?」

とは言え、凪が置かれている状況も熟知していた俺は、警戒してそう訊ねる。
この野球部の少年が、どういった了見で凪に会いに来たのかは、
しっかりと把握する必要があると思った。

田向「そうすね。もう先輩、一週間以上も学校に来てないって聞いて。ちょっとそれで、心配になったというか」
田向「大丈夫なのかなって……」

男「それなら、凪にも色々事情があるから、心配しないで」
男「また元気になったら学校に行けると思うから、それまでそっとしておいてあげてほしいな」

俺が少し強めにそう言うと、田向君は若干きまり悪そうに頭を掻いた。

田向「いやぁ……それなんすけど、俺、七瀬川先輩にどうしても伝えたいことがあるんですよ」
男「どうしても……。それは、大事なこと?」

田向「……はい」

そう返事をして頷いた田向君の瞳が――あまりに”真っ直ぐ”だったので――。
直感的に、この子は”なにか大事なことを知っている”という気がした。

それはきっと、今の凪に変化をもたらすほどの、大事なこと……。

俺は振り向いて、陽子先生に手を振る。
そして、外を指差し「ちょっと、話してきます」とだけ伝える。
陽子先生は無言で何度か頷き、口元だけで笑みを作ってみせた。

恐らく、「OK」ということだろう。
陽子先生も心のどこかで、この少年――田向君が、凪と浅からぬ関係があると分かっているんだ。

男「よし、田向くん。ちょっと外行こうか? ここだと、あれだしな」
田向「あ、はい……外っすか?」

男「ああ、そうだよ。”大事なこと”なら、ここじゃまずいだろ?」

もったいぶってそう言うと、田向君は「そうっすね」と言って素直に従ってくれた。

外に出ると、じめっとした野暮ったい空気が俺たち二人を包んだ。
辺りは真っ暗で、例によって街灯の灯りだけ頼りだった。

男「この時間だっていうのに、ずいぶんと暑くなったもんだね」
田向「もう、六月も半ばっすから。これからますますって感じじゃないすか?」
男「――だねえ」

少しだけ歩いて、近くの桃畑の脇に腰掛けた。
俺は手招きして「座ったら」と田向君に促した。

しかし田向君は座ろうとせず、直立したまま訊ねてくる。

田向「あの……すいません。ってか、誰っすか?」
田向「七瀬川先輩のお兄さん……ではないっすよね?」

男「あ……そういやそうか」

ここはなんと説明すべきか……と悩みつつも、今思っていることを素直に言う。

男「俺は、男。ここの塾で働いてる講師だよ。だから、凪は俺の……教え子なんだ」
田向「へえ……」

そう説明してみても、田向君の表情からある種の”壁”がまだ消えていないと感じ、
俺はもっともっと正直にさらけ出してしまおうと決めた。

男「それだけじゃない」
田向「……はい?」

男「凪には深い恩があるし、俺が今あの塾で働けているのは、凪のおかげなんだ」
田向「恩……?」
男「ああ、とんでもない大恩さ。……詳しくは言えないけどね」

田向君は神妙な面持ちで何度か頷くと「へえ……」と呟いた。

男「もちろん、凪のことも色々聞いてる。学校で何があったか、部活で何があったか」
男「きっと、全部。凪本人の口から……聞いてる」
男「つらいことが沢山あったっていうのも……全部ね」

田向「……そうなんですね」
男「ああ。あの子が今までどれだけ”懸命に”頑張ってきたか……俺は知ってるよ」

田向「じゃあ、七瀬川先輩が泥をかけられた日のことも……」
男「知ってるよ。キャプテンにかけられたんだろ?」

そこまで言うと、田向君は「ああ……それも知ってるんすね」とため息をこぼした。
そしておもむろに俺の方へ寄ってくると、「よっこいせ」と隣に座った。

男「……話す気にはなった?」
田向「まあ……はい」

男「もちろん、君からしたら俺はただの知らない男だろうし……どこまで信じるかは任せるけどね」
田向「いや……むしろ、話が分かる人がいてくれて、助かりました」

そう口にすると、田向君は「ふぅ」と大きく息をついた。

田向「正直、俺がここに一人で来たところで、なんの意味もないって分かってたんです」
田向「家を訪ねたところで、きっと七瀬川先輩は出てきてくれないだろうし」

田向「さっき塾にいたのは、たぶん先輩のお母さんですよね?」
男「うん、そうだね」

田向「まさか、親御さんに直接するような話でもないので……」
男「……そうなの?」
田向「……はい」

田向「だから、来たところで、何にもならないって分かってたんすけど」

男「でも……なぜか来ちゃった、ってわけか?」

そう尋ねると、田向君は「そうなんすよね」と笑った。
笑うと厳つい雰囲気が少し和らぎ、年相応の無邪気さが垣間見えた。

田向「七瀬川先輩の家が塾だってのは知ってたので、来たら何か起こるかなって思って」
田向「そしたら、偶然男さんがいたんす」

男「……なるほど。それなら、ちょうどよかったってことか」
田向「そうすね。……本当、よかったっす。来た意味ありました」

男「で……大事なことって、なんなの?」

改めてそう訊ねると、田向君は下を向いて悩んでいる。

男「言いにくいことなの?」
田向「いや……」

俺はこの時、半分くらい「田向君は凪が好きなんだろうな」とか決めつけていたので、
次に出てきた言葉が意外なもので驚いてしまった。

田向「その……泥をかけた件は、キャプテンじゃないんですよ」
男「……は?」

田向「あの日、七瀬川先輩に泥をかけたのは、キャプテンじゃないんです」
男「いや、ちょっと待って。凪は『キャプテンにかけられた』って言ってすごく落ち込んでたぞ?」

田向「まあ確かに、”実際にかけた”のはキャプテンでしたが……それは本人の意思じゃなかったんす」

……おいおい。ちょっと待ってくれよ。
一体全体、どういうことなんだ。

まったくワケが分からないぞ。

田向「一週間前のあの日、キャプテンが七瀬川先輩に泥をかけてから、先輩は学校に来なくなりました」
田向「俺、なんだかそれがすっごく嫌で……」

男「ちょっと待って。よく分からない。そもそもなんで君も凪が泥をかけられたことを知ってるの?」

田向「そうっすね……俺、”その瞬間”を見てましたから」
男「見てた?」
田向「はい。キャプテンが泥をかけるのを、見てました」

瞬間、怒りのボルテージが一気に上がる。

男「どういうことだぁ? じゃあなんで止めなかったんだよ!」
男「お前もあれか? 凪へのいじめに加担したのか!?」

田向「だから違うんです! 聞いてください!」

男「言っとくけどな、俺は凪をいじめた奴を絶対に許さねえぞ?」
男「場合によっちゃ、お前も今ここでぶん殴ってやってもいいんだぞ!」

田向「落ち着いてください! お願いします! 本当に違うんですって!」

頭に血が上ってしまい、俺が田向君の腕を掴んだので、彼は必死に弁解をする。

田向「だからそもそも、泥をかけたっていうのも、全部キャプテンの意思じゃないんすよ」
男「はぁ……?」
田向「本当なんす。本当に……キャプテンにも事情が……」

そこまで聞いて、俺も冷静さを取り戻した。
つい、目の前の少年が凪のいじめに加担した一人かもしれないと思ったら、
後先を考えずに頭に血が上ってしまった。

俺は「ごめん」と伝え、彼に話を続けさせた。

田向「先輩がいじめられてるのは……知ってるんですよね?」
俺「ああ、聞いてるよ」
田向「なら、話が早いですね」

田向君はそう呟くと、ごくりと一つ唾を飲み、話しを続けた。

田向「七瀬川先輩が、同級生の女子から理不尽ないじめを受けてることは……」
田向「なんというか、野球部の中でも周知の事実だったんすよ」

男「そっか……やっぱりある程度、知れ渡ってることだったんだ」

田向「そうっすね。七瀬川先輩なんて校内でも目立つ人だったんで」
田向「そんな人がいじめに遭ってるんですから、みんな分かってて知らないフリをしてたと思います」

男「そんな状態なのに、どうしても誰も助けてやらないんだよ」

不満たっぷりにそう言うと、田向君は「いやぁ……」と首を傾げた。

田向「自分の身を挺してまで助けようなんて人、そうそういないっすよ」
田向「リアルに考えてください。そんないじめに関わって、何か得があると思います?」
田向「あるとしたら、自分の今後の学校生活が今より悪くなることだと思うんすけど」

男「お前……」

俺は「ふざけんなよ」と言おうとして、やめた――。
仮に、俺が今中学生だったとして、目の前にいじめられている凪がいて……。
俺は自分のすべてを犠牲にしてまで凪を救えただろうか?

その”刃”が明日には自分に向かうかもしれない中、
すべてを捨てて凪を守っただろうか?

多分、無理だ。いや、絶対に無理だ。
そんなこと、怖くてできるワケがない。
無責任なことは――言うべきじゃない。

男「まあ……そりゃそうか……」

田向「それに、七瀬川先輩のいじめの中心にいるのは”広瀬”っていう三年の女子なんすけど」
田向「これが本当に厄介で、学校の中心みたいなヤツなんすよね。敵に回したらヤバいっていうか……」
田向「親も地元の建設会社の社長で、先生らも手を焼いてるような生徒なんすよ」

男「はぁぁ……なるほどね。そういう事情もあったのか」

そりゃ、他の生徒からしたら極力関わりたくないのは当然だろう。
中学生はまだ子どもとはいえ、”ある程度の分別”くらいはつくようになっている。
どちらの味方についてどう動けばいいのか……みんな分かっているんだろうな。

男「でもだからってさぁ……そんなの、凪がかわいそうだよな……」
田向「分かります。きっと、みんなそう思ってるはずなんすよ」

男「……田向君も?」
田向「はい。……当たり前じゃないっすか」

彼はここに来てから一番真剣な顔で、俺の方を見た。
その表情から、どこかただならぬ”決意”のようなものを感じた。

田向「俺だって、後輩っすけど……七瀬川先輩には本当にお世話になりました」
田向「だからいつも苦しんでる先輩を見るのは……本当に……つらかったっすよ」

瞬間、俺はこんな事を訊いていた。
当然、今するような質問ではないと分かりつつも、訊かずにいられなかった。

男「田向君は、凪のことが好きなのか?」
田向「はい?」

男「……すごく凪のことを知ってるみたいだからさ、なんとなく」
田向「ち、違います。俺には他に、好きな人がいるんで……」
男「そっか、それならごめん」

田向君は「そういうんじゃないっすから」と恥ずかしそうに目を伏せた。
見た目はゴツいけれど、こういうところに中学生らしさがあって可愛いなと思った。

田向「七瀬川先輩は……どちらかというと憧れですね。目標みたいな人です」
男「なるほどね。なんとなく、分かる気がするよ」

田向「それに――七瀬川先輩のことを好きだったのは、キャプテンですから」
男「え……?」

男「ちょっと待ってよ。凪のことが好きなのに、泥をかけたのか? まったく意味が分からないんだけど」
田向「そうっすね……これで、話が戻せますね」

そう言うと、田向君は「こっからがめっちゃ大事なことなんです」と大きく深呼吸をした。
心の準備が必要なのか、目を瞑って何度も首を振る。

男「大丈夫、ゆっくりでいいよ。それに、きっとここなら誰にも聞かれない」

一応、細心の注意を払って辺りを見回す。
人影一つなく、周辺には寂しげな小道が一本と、桃畑が広がるばかりだった。

時折風が吹いて、青々と茂った桃畑をカサカサと鳴らした。

田向「キャプテンは、七瀬川先輩をいじめていた広瀬と、ある”契約”をしたんです」

男「契約……?」

田向「キャプテンはずっと、広瀬になんとかしていじめをやめさせようとしてました」
田向「でも……相手が相手ですから。キャプテンが何を言おうとも、ただでやめるわけがないんす」

田向「それでキャプテンは……広瀬に持ちかけられたんですよ」

『七瀬川凪を野球部から追い出したら、いじめをやめてやる』

田向「って……」
男「なんだよ……それ……」

田向君は、苦虫を噛み潰したような顔で、話を続ける。

田向「本当に、卑怯なやつらっすよ……」
田向「広瀬は、七瀬川先輩が野球部を”心の拠り所”にしているのを知ってたんすよ」

田向「実際、部活の時の七瀬川先輩は本当に楽しそうでしたし、僕らもそれを見ていて嬉しかったです」

田向「広瀬は、七瀬川先輩に野球部がある限り、決して先輩が折れないと分かってたんです」
田向「だからこそ、自分たちがいじめるよりも、”それ”を奪うことの方が――」

田向「七瀬川先輩にとって一番つらいって、気付いたんでしょうね」

田向君の話を聞いて、呆然とする。
その広瀬とかいう女、一体どれだけ狡猾なんだ……。

田向「それに、キャプテンが七瀬川先輩のことを好きだってことも見透かされてたんですよね」

田向「”もういじめはしない”なんて交換条件を出されたら……」
田向「キャプテンが、それを拒否するはずなんてなかったんです」

男「なるほど……」

キャプテンは体よく利用されていた、ということか。
その選択を迫られた時の彼の気持ちは……一体どんなものだったろう。
……苦しかっただろうな。

田向「その話をキャプテンからされた時……俺もなんて言ったらいいか分からなかったっす」
田向「だってこれ……正解なんてあります? 俺には全然、分かんなかったっす」

田向「キャプテンは、俺だけにこの話をして……『協力してほしい』とお願いしてきたんです」
田向「当日は、二人で校庭の土をバケツに入れて水を貯めて、泥を作って準備しました」

田向「キャプテンは……これで七瀬川先輩をいじめから救えるって信じていました」

田向「……俺は思いましたけどね」

田向「こんなことをしても、広瀬がいじめをやめる保証なんてないし」
田向「なにより七瀬川先輩の気持ちはどうなるのか……って」

田向君は「はぁーあ」と分かりやすいため息をつき、話を続けた。

田向「決行場所は、体育館裏のテニスコートの横でした」
田向「広瀬はテニス部なんで、”その瞬間”がちゃんと奴にも見えるように場所を選んだんですよね」
田向「俺が見ていたのも、ちゃんと”証人”がいた方がいいって言うんで……」

田向「とにかくキャプテンは必死でした」
田向「その”一撃”で絶対に七瀬川先輩を救うんだっていう――決意がありました」

田向「そしてキャプテンは、バケツ一杯の泥を……七瀬川先輩に思い切りかけました」

『もう二度と野球部に顔を出すな!』

田向「っていう言葉と一緒に……」

俺は気付いたら、両手で頭を抱えていた。
なんというかもう、自分の理解の許容量を越えていたのだ。

田向「七瀬川先輩は、涙目になって……」

『……嘘でしょ?』

田向「と言っていました。けど、キャプテンが何も答えなかったんで……」
田向「そのまま、走っていなくなっちゃいました」

田向君は、またしても「はあぁ……」と大きなため息をひとつ吐く。

田向「その場面は広瀬にもバッチリ見られてて……」
田向「テニスコートの方から『やるじゃん!』とゲラゲラ笑い声を上げてましたね」

田向「……あんまり、思い出したくはないっす」

俺は田向君の背中を何度か叩いた。なだめるような意味合いもあったと思う。
きっと彼も、沢山の苦悩と向き合ってきたんだ。

田向「そのあと、キャプテンは何度も何度も訊ねてきました」

『あれで良かったよな? 俺、間違ってなかったよな?』
『七瀬川は……大丈夫だよな?』

田向「不安だったんでしょうね。どうしようもないくらいに」
田向「正直……気の毒でした」

田向「これで七瀬川先輩へのいじめがなくなると思っていたら……」
田向「先輩は、次の日から学校に来なくなりました」

田向「今までどんなことがあっても、絶対に学校には来ていた先輩が、突然来なくなったんです」
田向「そりゃどんなバカな奴でも分かりますよね?」

田向「七瀬川先輩の心を折ったのは、他の誰でもなく”自分たち”だったんだって……」

遠くで、原付が走り抜ける音が虚しくこだました。
風は吹かない。じめっとして野暮ったい空気が、身体にまとわりつく。

田向「こんな話あります? 先輩を救おうとしていたのに、ドン底に突き落としたんですよ?」

田向「七瀬川先輩がいなくなって、俺たちはやっと気づきました」
田向「取り返しのつかないことをしたんだって……」

そして田向君は、ちいさく「クソ」とこぼした。

田向「俺と二人きりになった部室で……キャプテンは大泣きしてました」
田向「ずっとずっと……男のくせに、みっともないくらい泣くんすよ」
田向「バカっすよね。そんなことしたって、七瀬川先輩は戻ってこないのに、本当に……」

そう言って俯いた彼に、俺はかける言葉が見当たらなかった。
ただ黙って、静かに耳を傾けることしかできなかった。

田向「それからキャプテンは嘘みたいに覇気がなくなっちゃって……」
田向「本当にひどいもんですよ。もう野球どころじゃないっす」
田向「声は出ないわ、足は動かないわ、極めつきにはコミュニケーションもまともに取れないんすよ」

田向「もう、罪悪感でいっぱいなんでしょうね」

田向「七瀬川先輩もいなくなって、キャプテンもおかしくなって、野球部はめちゃくちゃで……」
田向「もう大会とか、そういうレベルじゃないんですよ」

田向「だから俺、いても立ってもいられなくなって……」
田向「ここに来ちゃったんです」

男「……なるほどね。そういうことだったのか……」
田向「はい。なんだか、色々複雑ですいません」
田向「俺もなんて説明したらいいか分からなくて……長くなっちゃいました」

男「いやいや。丁寧に教えてくれて、ありがとう」

俺は思っていた。
”想定していたよりも、事態は深刻じゃない。”

特に、そのキャプテン。
彼に「悪意はなかった」という事実は、光明であった。

むしろ、キャプテンは味方だ。凪にとって、とても大切な学校での味方。
あるいは、そのキャプテンこそが、凪を今の状態から助け出す”キーマン”になるだろう。

そして、この田向君。
彼も間違いなく、本当にいい後輩だ。

これなら、凪は。
すべてが上手くいけば、凪はまた――。

田向「ただ、結局……こんな風に俺が来た所で、七瀬川先輩に伝わらないと意味がないっすよね……」
田向「どうしたらいいのか、分からないっす」

男「一番いいのは……そのキャプテンが、直接謝りに来ることだと思うよ」
田向「やっぱり、そうですかね」
男「間違いない。やった本人が事情を直接説明するのが、一番いい」

田向「でも……」
男「キャプテンはとてもそんな精神状態じゃないんだろ?」
田向「……っすね。無理だと思います」

俺は「うーん……」と考え込んだあと、とある”アイデア”を思いついた。
アイデアといっても、非常にシンプルなものだったけど。

男「なあ、田向君。俺に考えがあるんだけど、いいかな?」
田向「はい。……なんすか」

男「明日の部活の時間、キャプテンを強引に連れ出そうぜ。俺たち二人でさ」
田向「連れ出す……っすか?」

男「きっと、田向君一人だと難しいだろ? そこを、俺が勢いで加勢する」
男「多少強引にでもキャプテンを引っ張り出してきて、凪に会わせるんだ」

田向「できますかね……? そんなこと……」
男「できるできないじゃないんだよ。……やるんだ」

田向君は、目を見開いて俺の方を見た。

田向「でも、そうは言っても……」
男「大丈夫、任せな。実は俺、南中野球部のOBなんだ」
田向「そうだったんすか!?」

男「だから部活への潜入には多少強引でも”理由付け”ができる」
男「万が一先生にバレて難癖つけられたら……」

田向「つけられたら?」
男「めっちゃ逃げる」

田向「……了解っす」

男「よーし! そうと決まれば明日の15時30分、南中の正門前に集合だ」
田向「分かりました」

男「いいか? このことは暮れ暮れも内密にな」
男「ちょっとでも誰かに怪しまれたら、全部パーだ」
田向「うっす」

男「大丈夫、俺も入念に”準備”をしていくよ。田向くんは、いつも通りで頼む」
田向「分かりました。キャプテン……絶対に連れ出しましょう」
男「おう、その意気だぜ」

凪、きっと大丈夫だ。
君のまわりには、こんなにも君を想ってくれている奴らがいる。

もうすぐだから。待っててくれよ。

そして次の日。
”南中潜入作戦”決行の当日、俺は中学の正門から20mほど離れた場所に自転車を止め、様子を見ていた。

正門に田向君が来ていないか、遠目から確かめていたのだ。
彼がいなければ、到底中に入ることなどできないし、ただの不審者だ。

なので、その位置から熱心に正門付近を監視していたが、
遠巻きに校内を覗く俺の姿は、すでに不審者そのものだっただろう……。

空は今にも泣き出しそうなほどの曇天模様だった。
分厚いグレーの粘土で何重にも固めたような、どんよりとした重たい空だった。

しばらくして、正門にきょろきょろしながら田向君が現れた。
俺はそれを確認し、すぐに駆け寄った。

男「やあ、大丈夫そ?」
田向「どうすかね。まあ分かんないすけど、堂々と入ってく方がいいんじゃないすか」

男「そうだね。変にビクビクするより、自信満々に歩いていった方がいいだろうね」
田向「んじゃ、行きますか」

学校に潜入するということ。
それは、いかにその世界に違和感なくなじむか、ということだ。

そのために俺はアンダーアーマーを着込み、上下を夏用のジャージで揃え、それらしいボードを小脇に抱えた。
いかにも”野球部のOBが指導に来た”感を演出することに徹したのだ。

もとより、俺は潜入して何かをやらかすわけでもなく、
実際に卒業生で野球部のOBなのだから、バレたところでさして問題にはならないだろう。

ただ、万が一変な騒ぎでも起きようものなら、全てが灰燼に帰してしまう。

今日、俺と田向君は――凪を救う第一歩となる、大事な”作戦”を決行しているんだ。

前庭の、職員室の目の前を”まともに”通り抜け、二人して校庭へと向かう。
さすがに職員室の真横を通るのはどうかと思ったが、この大胆さが逆に周りからの不審感を緩和させる気もした。

前庭の花壇は記憶のままの光景で、百日草の花が咲き乱れ、風に揺れていた。
保健室前の水道も当時のままで、「ああ、ここでよく傷口を洗ったな」なんて記憶が思い起こされ、
胸がむず痒くなるような、懐かしい気持ちでいっぱいになった。

目に映るすべてのものにノスタルジーのフイルターがかかり、
本当にただ”久々に母校を訪れたOB”となってしまった。

校庭には、すでに野球部・サッカー部・ハンドボール部が展開しており、
バックネット周りでは練習着を来た野球部員がアップを始めていた。

途中、すれ違ったハンド部の男子に「ちわっす!」と挨拶をされ、思わずにやけてしまった。
田向「完全にOBか指導者だと思われてますね」
男「だなぁ……」

講じた策がしっかりとハマり、田向君と二人でくすくすと笑ってしまった。

バックネット付近まで来ると、田向君はキョロキョロと辺りを見回す。
十数人ほどの野球少年がストレッチしたり腿上げをしたり、それぞれの準備に励んでいる。
中にはもう気ままにキャッチボールをしている子たちもいる。

一見普通の部活の様子にも見えるが、確かにどこか締まっていない、覇気のない空気が漂っている気がした。

男「キャプテン、いないの?」
田向「あれぇ……いないすね。いつも割と早めに出てくるんですが……」

そんな会話をしていると、一人の三年生と思しき部員が近づいてきた。

三年「おい田向ぃ、なんでまだ着替えてないんだよ?」
田向「あ、すいません。ちょっと色々あったもんで」

その三年生は、ヘラヘラと笑って「んだよぉ」と田向君に絡んでいる。
ただ、ふざけているという様子でもなく、きっとこれがこの子のニュートラルなのだろう。

三年「で、その人は誰?」
田向「え? ああ、ええと……」

田向君、思ったより機転が利かないタイプらしい。
すかさず俺は自ら名乗りを上げる。

男「俺はOBの者です。ちょっと今日は軽く様子を見に来ただけなんで。すぐ帰るから気にしないで」

するとその三年の子は「あーそうなんすね……」と気まずそうに答えた。

三年「なあ田向、キャプテンも七瀬もいねえからさ、全然まとまんねえよ」
三年「なんか俺もサボっちゃおうかな」
そう言うと彼は、「ひひひ」と肩を震わせて笑った。

田向「あれ、キャプテンはまだ来てないんですか……?」
三年「来てんだけどさぁ。なんか部室で考え込んでたんだよな」

この時、多分俺だけじゃなく田向君も「チャンスだ」と思っただろう。
もしも部室に一人で残っているなら、今が絶好のチャンスだ。

田向「先輩、すいません。今日俺とキャプテンは部活休むんで」
田向「先生が来たら、そう伝えておいてください」

三年「え、ちょ、どういうこと!?」

彼はとても動揺していたが、田向君は構わず「部室です!」と言って小走りで駆け出した。

後ろから「え、なになに? なにかあんの~?」と呼び止める声が聞こえたが、
田向君は「あの人ならほっといて大丈夫です」と無視を決め込んだ。

二人で、校庭の隅にある部室小屋へと走る。

部室小屋の一番左。「野球部」と書かれた薄汚れた緑色の扉は、当時と何も変わっていない。
田向君が勢いよくその戸を開けると、中にはパイプ椅子に座ってうなだれている一人の男子がいた。
埃っぽくて薄暗い室内だったので、一層悲壮感が際立っていた。

田向「キャプテン……」

その声に反応し、”キャプテン”と呼ばれた彼はゆっくりと顔を上げこちらを見る。
表情は虚ろではあったが、すっきりとした顔立ちのイケメンだった。

キャプテン「ん……なんだ。タムか」
田向「なんだ、じゃないっすよ。もう部活も始まってるのに、着替えもしないで何してんすか」
キャプテン「んあ……まあ、何もしてないけど。ってか、お前も来るの遅かったじゃん」
田向「それは……俺も色々あるんすよ」
キャプテン「まあ、いいけどさ……」

キャプテンはぼんやりとしたその瞳で、俺のことも見た。

キャプテン「え……。んん?」

そう呟くと、目を細めてまじまじと俺を眺めた。
キャプテンの髪の毛はボサボサで、目の周りは少し腫れているようにも見えた。

男「あ、俺は……野球部のOBです。よろしく」
キャプテン「ああ……OBの方? はじめまして」

そしてキャプテンは「ん?」と幾ばくか考えたあと、再び俺を見た。

キャプテン「すんません。OBの方がなんの用で?」
男「今日はちょっと見学に来ただけで……いや」

言いかけて、やめた。
もう、さっさと”本題”を伝えてしまおうと思った。

男「君が、この野球部のキャプテンなんだろ?」
キャプテン「え? ああ、はい。そうですけど……」

男「凪に泥をかけたのは君だな?」

その言葉を受けて――キャプテンは勢いよく立ち上がった。
座っていたパイプ椅子が「ガシャン」と音を立てて倒れた。

キャプテン「な、なんすか? なんでそんなこと知ってるんですか?」

そして彼は田向君の方を見て……「タムか?」と言った。
田向君は黙ってゆっくりと頷く。

男「事情は大体田向君から聞いてる。凪のことも、君がやったことも」
キャプテン「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。凪って……そもそも貴方は誰なんですか?」

男「自己紹介が遅くなってごめん。俺は、凪の家の塾で働いてる、塾講師の男です」
周章狼狽するキャプテンに向かって、俺は丁寧に説明をする。

男「凪は俺の教え子で……学校のことやいじめのことも、全部教えてくれた」
男「凪が君に泥をかけられたってことも……本人から聞いたよ」

すると、キャプテンは「えええ……」と苦い顔をし、膝に手をついた。
無理もない。
突然現れた見ず知らずの男にこんな事を言われたら、どうしたらいいか分からないだろう。

キャプテン「じゃあ、なんすか? その報復? 俺を懲らしめに来た……とかですか?」
男「いや、違う」

キャプテン「じゃあ何の用で……?」

男「一緒に凪を助けに行こう」

そう言った時――少しだけ時が止まった気がした。

目の前にいたキャプテンは目を見開いて呆然とし、外からは吹奏楽部の気の抜けたチューバの音が聞こえた。
そして、「カキィン」という気持ちのいい金属音が響いた時――。
辛気臭い空気の部室内に、小窓からふわりとそよ風が舞い込んだ。

キャプテン「は? どういうことですか?」

俺は、隣にいた田向君の肩を叩く。

男「聞いたんだよ、田向君にね。君があの日やったことは――”本意”じゃなかったって」
キャプテン「え……。タム、その人にどこまで話した……?」

田向君は「全部です」とはっきりとした口調で、淡々と答えた。

キャプテンはため息まじりに「あー……」と漏らす。

男「君は、凪が学校に来なくなったことに罪悪感を覚えてるんだろ?」
男「他でもない、自分のせいなんじゃないかって、思ってるんだろ?」
男「……違うか?」

するとキャプテンは唇を噛み、眉間にシワを刻んで俺を睨みつけた。

キャプテン「だったらなんすか?」
キャプテン「俺はあの子を傷つけたんです。もう何も戻ってこない」

男「そんなことはない。まだ間に合うし、必ず凪は戻ってくる」

キャプテン「……何が言いたいんですか?」

男「だから、そのためには君の力が必要なんだよ」
男「君が少し勇気を出して謝れば、変えられるんだよ。――分かるだろ?」

キャプテン「分からねえよ!!」

今までローテンションで話していたキャプテンが、突然大声を上げた。
その豹変ぶりはなかなかのもので、
歯を食いしばり、敵意剥き出しで俺を睨んでいた。

キャプテン「もう何も戻ってきやしないし、何も変わらねえんすよ!」
キャプテン「大体、アンタなんなんだ? 突然現れて偉そうなこと言って……」
キャプテン「アンタ、何がしたいんだ?」

俺は深く息を吸い……彼の質問に答える。
その言葉には、一寸の迷いも、陰りもない。

男「凪を、助けたいんだよ」

キャプテン「は……?」

男「だから、凪を助けたいんだよ。そのためなら、俺はなんだってするつもりなんだ」
男「大恥かいても、誰かに罵倒されても、痛くても苦しくても……」
男「死んでもいい」

男「俺はな、そのくらい凪を助けたいんだよ。それだけだ」

俺の言葉を聞いて、キャプテンは「はっはは」と渇いた笑いをこぼす。

キャプテン「アンタ……ただの七瀬川の塾講師だろ? 何言ってんだ?」
キャプテン「それにアンタいくつだよ。女子中学生相手に、本気か?」

男「確かに俺は25で……凪は15だ。でも、そんなことはまったく関係ない」

男「俺は、凪に命を救われたんだから」

キャプテンは、首を傾げて俺に鋭い視線を向ける。
田向くんも、驚いた様子で俺を見ていた。

キャプテン「命を救われたァ……?」

男「そうだよ。俺は……自殺しようとしてたんだ」
男「根図橋で飛び降りようとしていた時……凪に止められて、助かった」
男「もし凪がいなければ、俺は今頃……死んでたろうな」

キャプテン「はぁ……?」
キャプテンは、口を開けたまま固まっている。
突然目の前で自殺未遂の告白なんかされたら、誰だってそうなるだろう。

男「言ってしまえば俺なんか、この世界で死を選ぶことしかできなかったクズだ」
男「だから、君らには何一つ偉そうなことは言えない。言うつもりもない」

男「でも、絶対に、凪だけは助けるんだ」
男「なんなら――今はそのために生きてると言ってもいい」

カキィン。
また一つ、校庭から大きな金属音。

キャプテン「……本気、なんすね」
男「……ああ、本気だよ。それに、キャプテン。君なら分かるはずだろ?」

男「凪を助けたい気持ちがさ」

キャプテン「そ、それは……」

男「君も、凪を助けたいその一心で、泥をかけたんだろ?」
男「たとえ自分が悪者になって、凪にずっと嫌われることになっても……」
男「すべてを捨てる覚悟のうえで――凪に泥をかけた」

男「……ちがうかい?」

キャプテンは下を向いて押し黙った。
彼の右手は、ぎゅっと真っ白な夏服ワイシャツを掴んでいる。

男「はっきり言って、とても苦しい選択だったと思う」
男「でも、君は勇気を出して凪を助けようとしたんだ」
男「だからこそ、その勇気を無駄にしちゃダメだ。今からでも、謝りに行けば間に合うかもしれない」

そう言った時だった――。
小窓から湿った風がふわりと入り込んだかと思うと、
サアアと音を立てて雨が降り始めた。

田向「うわあ、最悪っすね」

田向くんは戸口から外を見て呟く。

男「なにが?」

田向「この感じ、通り雨じゃないっすよ」
田向「そうなると、外練は終わりで……じきにこの部室にみんなも、先生も来ます」

男「は? マジ?」

部員のみんなが部活に集中している時ならいざ知らず、
一旦部室に全員戻ってくるとなると、流石にそれはまずい。
さらに、いずれ顧問の先生も来るとなると……いよいよごまかしは利かない。

もうここには長居できない。
なんとかしてキャプテンを連れ出さなくては。

男「なあキャプテン、聞いてたか?」
男「今すぐ、凪のところへ一緒に行こう」
男「そこで、今までの事を包み隠さず話して、謝るんだ」

キャプテン「…………」

男「それができるのは、君しかいないんだよ! 分かるだろ?」
男「俺にも、田向君にもできないんだ。なあ、頼むよ……」
男「君じゃなきゃ……ダメなんだ」

キャプテン「俺には……無理ですよ」
男「はあ? まだそんなこと言って……」

キャプテン「今更、七瀬川に合わせる顔がありません」
男「じゃあ、ずっと凪が塞ぎ込んだままでいいって言うのか?」
キャプテン「そういうワケじゃないですけど……」

部室の外が、段々と賑やかになってくる。
雨で外練の中断を余儀なくされた連中が、徐々に部室まわりに集まってきてるんだ。

キャプテン「俺が行って謝ったところで、七瀬川が戻ってくるなんて保証もないですし」
キャプテン「だから俺なんか、何もしない方が――」
男「あのなあ!!」

俺は思い切り怒鳴っていた。
もう残された時間がわずかで焦っていたのもあるし、
キャプテンの煮え切らない態度が気に食わなかったのもある。

そして何より――キャプテンの”独り善がり”な考えが許せなかった。

男「じゃあ、凪は誰のせいでこうなったと思ってる?」
男「どんな理由であれ、最後にお前が泥をかけたからだろ!」
男「それをなんだ? なんでお前がそんなにぐじぐじしてるんだ?」

男「ふざけんなよ。凪はな、もっともっと苦しんでんだよ!」

キャプテン「う……」

田向「まずいっすよ。もうすぐみんな戻ってきます」

後ろで外を見張っていた田向君が声をかけてきた。
タイムリミットか。

男「キャプテン。お前、凪が好きなんだろ?」
キャプテン「え、は? な、なんで……」

男「別に今はそんな事どうだっていい。なあ、好きなんだろ?」
キャプテン「そ、それは……」

男「好きなら。凪が好きなら! 今、ここはやるべき時なんだよ!」
男「……信じてるからな」

田向「男さん、行きましょう! もうまずいっす!」

田向君に促され、部室から出る。
去り際――最後に一つだけ付け足した。

男「このあと、万力公園の芝生広場で待ってるからな! 必ず来い!」

そしてそのまま、一目散に駆け出した。

部室の外にはすでにサッカー部や野球部の少年たちが大勢溜まっていた。
先生らしき人影も見えた。
その人だかりの間隙を縫うように、夢中で走り抜けていく。

田向「危なかったっすね。野球部の顧問も普通にいましたよ」
男「マジ? 本当に間一髪だったか」
田向「ですね。まあ今はとにかく走りましょう」

俺たちは雨の中――正門を目指してひた走った。

雨は止むどころか、次第に勢いを増していき――あっという間に土砂降りになっていた。
俺と田向君は、そんな強雨の中で思い切り自転車を漕いでいた。

田向「このあと、どうするんですか!?」

雨音にかき消されないよう、隣をゆく田向君が大声で訊いてくる。

男「凪の家に行く!」
田向「家? 行ってどうするんですか?」

すっかり水浸しになった小道を、バランスを崩さないように走っていく。
桃畑に挟まれた未舗装の農道は、油断すればたちまち車輪を持っていかれる。
決して転ぶことのないように、しっかりとハンドルを握りペダルを踏む。

男「凪を家から連れ出す!」
田向「連れ出す? そんなことできるんですか?」

男「キャッチボールだ!」
田向「え?」

男「田向君、グラブは持ってきてるか?」
田向「持ってますけど!」
男「上等だ。俺を信じて付いてきてくれ!」

田向君は一瞬訝しげな顔をしたが――すぐに頷き、「はい」とだけ言った。

あとは、キャプテンを信じるだけだ……。
彼ならきっと、来てくれる。

駅前の踏切を突っ切り、そのままあの根図橋を走り抜ける。
雨足は依然として激しいままだ。

すでに俺も田向君も全身びしょ濡れだった。

しかしそんなことは一切意に介さず、俺たちは自転車を漕ぎ続けた。
はやく、はやく。今すぐに、あの家へ――。

何がそこまで俺たちを駆り立てていたのだろう。
キャプテンの煮え切らない態度?
凪を助けたい一心?
自分にも何かできるかもしれないという……期待?

分からないけれど、きっと……その全部だったんだろう。

凪の家の前に辿り着くやいなや、俺はすぐにインターホンを鳴らしていた。
少しでも間ができると、余計なことを色々と考えてしまいそうな気がしたからだ。

田向君は神妙な面持ちで、すぐ後ろで見守っている。

婆ちゃん「はい」

インターホンに出たのは、凪のお婆ちゃんだった。
恐らくだが、陽子先生は塾で事務仕事をしているんだろう。

男「あの、男です。凪を呼んでもらいたいんですが」
婆ちゃん「あら、男くん。凪ねぇ……でも、あの子は……」

そうお婆ちゃんが言いかけた時、俺は咄嗟に口にしていた。

男「キャッチボールです」
婆ちゃん「え? ……なに?」
男「俺がキャッチボールしようって言ってるって。そう伝えてください」
婆ちゃん「……分かったよ。ちっと待っててね」

振り向くと、後ろで田向くんがぽかんとした表情で俺を見ていた。

田向「この土砂降りの中でキャッチボールなんて……そんなんで出てきてくれます?」
男「それは分からない。出てこなきゃ快晴の日でも出てこないだろうし、雨は大して関係ないさ」
田向「そうっすかねぇ……」

男「とにかく今は、バカみたいに信じるしかねえんだ」

すると、インターホンからあの声が聞こえた。

凪「……どうしたの」

まぎれもなく、凪であった。
窓際の風鈴のようにか細くて、それでいて澄んだ声。
もう、随分久しぶりに聞いたような、そんな気さえした。

男「凪! 久しぶり。すごく心配だったよ……」
凪「……ごめんね。今までずっと閉じこもってて……」
凪「男さんは何も悪くないのに、心配かけちゃったよね」

男「いいんだよそんなことは。こうやって話せて嬉しいよ、俺は」

今まで、こうして話すことすらできなかったので、
インターホン越しとはいえ、凪の声が聞けたことが本当に嬉しかった。

凪「でも、こんな雨の日にキャッチボールなんて……どういうこと?」
男「いきなりでびっくりするかもだけど、とても大事なことなんだ」
凪「だいじなこと……?」
男「ああ、そうなんだ」

目の前の真っ黒なインターホンに向かって、凪の顔を想像する。
今、どんな表情をしているだろうか。
やっぱり落ち込んで、俯いているんだろうか。
部屋でひとり、泣くこともあったんだろうか。
いつ戻れるかも分からない学校のことを思い、苦しんでいたんだろうか。

なら俺は、そのすべてを変えたい。
凪に笑ってほしいし、もう一度学校へ行って野球をしてほしい。

そう、だから――俺はここに来た。田向くんとキャプテンをけしかけて。

男「俺と一緒に、これから万力公園に行ってキャッチボールをしよう。……お願いだから」
凪「で、でも……」
「でも」と言う凪の声色は、決して明るいものではない。

凪「キャッチボールなら、また天気の良い日にしない?」

確かに。
こんな悪天のなかでわざわざキャッチボールなんてする必要は全くない。
普通ならば日を改めるべきだし、凪の言っていることはもっともだった。
でも、それじゃだめなんだよ。

男「でも……」
そう言いかけた時だった、後ろから田向くんがぐいっと俺の肩を引っ張った。

田向「七瀬川先輩、行きましょう!」

その声を聞き、インターホン越しの凪は「え!」と驚いたようだった。

田向「待っている人がいるんです。だから一緒に行きましょう」
凪「ちょ、ちょっと待って……誰? もしかして、田向……?」
田向「はい、そうです。田向です」
凪「うそでしょ……」

凪「なんでなんで? どうして男さんと田向が一緒にいるの?」
田向「それは……」
男「正直、話すと長くなるんだ。だからとにかく、今は一緒に来てほしい」

凪「でも……」
男「俺のこと……信じてほしいんだ」

しばらく凪からの返事はなかった。
雨がアスファルトを打ちつける音だけが、虚しく響く。
こんな突然の作戦、やっぱりダメだったか?

そう、諦めかけたときだった。

凪「わかったよ。男さんの言うことなら、信じる」
男「ほんとうに……?」

凪「本当だよ。だって、男さんを信じられなかったらさ」
凪「もうこの世界で、何も信じられなくなっちゃう気がするから」

男「凪……」

凪「それに、そこに田向もいるんでしょ。ただごとじゃないって、私にも分かるよ」
田向「先輩……」

また、凪に会える。
ずっと閉じこもっていた家の中から、出てきてくれる。
そう思うと、祭り囃子の太鼓みたいに、心臓が激しく波打った。

なんで?
その感情が一体どんなものなのか、自分でもよく分からなかった。

凪「それにしてもさぁ」
男「……ん?」
凪「こんな土砂降りの日にキャッチボールなんて、ほんとどうかしてる」
男「それは……ごめん」

凪「まあ、いいよ。濡れてもいい服に着替えたら行くからさ。待っててね」

そう言ったあと、ほんの少しだけ――「ふふ」と笑った声が聞こえた。

田向「先輩、本当に出てきてくれますかね……?」
雨に打たれ続け、額にいくつもの水滴を垂らしながら、田向くんが訊いてきた。
その表情には、いまだに不安が色濃く残っていた。

男「ああ言ってくれたんだし、必ず出てくるよ」
田向「でもこんな誘い、よく考えたらめちゃくちゃですよ」

俺は田向くんの肩をぽんと叩いた。

男「凪が言ったことを守る子だってこと、田向くんだって分かってるはずだろ?」
田向「それは……ハイ。間違いないっす」

男「なら待とう。あの子は出てくる」

しばらく雨に打たれながら待っていると、5分もしないうちに凪が出てきた。

凪「……ひさしぶり」

学校の体育着にパーカーを羽織った凪が、玄関先に立ち、はにかむ。

凪「ふたりとも、もうビショビショじゃん。なにやってんだか……」

なぜだか胸がいっぱいになり「お、おお」みたいな反応しかできない俺を尻目に、
田向くんが後ろから元気な声を出す。

田向「先輩! 久しぶりですッ!」

凪はわずかに微笑むと「久しぶりだね」と噛みしめるように言った。

凪「田向。ごめんね……心配かけたよね」
田向「いや、そんなこと全然ないっすよ……」

凪に向かって語りかける田向くんの瞳は、きらきらと光っているように見えた。
それは先輩への憧憬の念なのか、あるいは……。

男「凪、グラブは持った?」
凪「持った」
男「万力公園に行くよ。自転車はあるよね?」
凪「うん。裏から取ってくる」

凪はもはや、「どうして?」と訊くことはなかった。
俺と田向くんを信用して、これから「何か」があると分かりつつ――
付いてきてくれることを、決めたんだ。

少しだけ小雨になった空を見上げると、
相変わらず履き潰した上履きみたいな、淀んだ灰色をしていた。

凪は家の裏から自転車を引いて歩きながら「もうめっちゃ濡れちゃったよ」と笑っていた。

俺が先陣を切って走り出し、雨水の溜まった農道を自転車で勢いよく滑っていく。

時折、桃の木の枝が視界を掠めていった。
通り過ぎる3ナンバーの乗用車は、凄まじい勢いで水しぶきを上げていく。

後ろに続く凪がどんな顔をしているかは分からなかった。
何度か振り返ろうかと思ったけれど、なぜだかそれが……できなかった。

気づくと視界の端に、「万力林」と呼ばれる雑木林が見えてきた。

凪の家から万力公園は決して遠くないが、
夢中で走っているうちにあっという間に着いた気がした。

万力公園は、かつて武田信玄が防水林として植えた赤松が発祥となっている――
という、由緒正しい公園である。

市が管理する大きな都市公園であり、いつもは学生や家族連れで賑わっているのだが、
今日はこんな天気ということもあってか、
入り口の売店にも、駐車場にも、まったく人はいなかった。

まるで世界の終わりのような公園内を走り抜けて芝生広場にたどり着くと、
その中心に”だれか”がいた。
しとしとと雨が降りしきり、すっかり水浸しになった誰もいない芝生の真ん中に、
ポツンと一人――あの少年が佇んでいた。

田向「あ!」
その人影に気付いた田向くんが、自転車を転がすように置き去りにして駆け出した。

男「ちょっと――」
田向くんを追おうとしたものの、すぐにやめた。
後ろにいた凪が、唇を噛んで辛そうな顔をしていたからだ。

凪も、あの少年が誰なのか……気付いたんだろう。

俺は優しく「大丈夫だよ。いこう」と声をかけた。

俺と凪は自転車を降り、田向くんと”彼”のもとへ――ゆっくりと近づいた。

キャプテン「……七瀬川」

雨のなかずっと立ち尽くしていたのか、濡れ鼠のようになった彼はぼそりと言った。
気のせいかもしれないが、その瞳は少しだけ赤らんでいるようにも見えた。

凪「どうしてここにいるの……?」
キャプテン「呼ばれたんだよ」
凪「え……?」

凪は困ったように俺の方を見る。

男「キャプテンを呼び出したのは俺と田向くんだ」
男「……キャッチボールをするためにね」
キャプテン「は? キャッチボール?」

男「キャプテン、グラブは持ってる?」
キャプテン「持ってきてないですよ」
男「ま、そうだと思った」

俺は田向君に向かってグラブを渡すようにジェスチャーする。
田向君は背負っていたエナメルバッグの中から黒いザナックスのグラブを取り出し、
そのままキャプテンに投げ渡した。

男「凪、グラブを出して」

そう伝えると凪は小さく頷き、バッグから鮮やかな赤茶色のグラブを取り出した。
凪はミズノのグラブなんだな……とかそんなことを考えていると、
目の前にいるキャプテンが大声を出した。

キャプテン「七瀬川、投げてこいよ!」

きっと、なにか吹っ切れたのだろう。
さっきの学校での姿とは打って変わり、やる気に満ちた彼を見て、少しだけ嬉しくなってしまう。

さあ、ここからは……手出し無用だ。
凪とキャプテンの大好きな――その”白球”にすべてを託すとしよう。
キャッチボールをしていれば、自ずと心は通い合うはずだ。

凪「…………」

凪はその場で、握った白球を見つめたまま動かなかった。
キャプテンが何度か「投げてこい!」と声をかけても反応しない。

田向君が「先輩、いいんですよ! 思い切り投げて!」と言うと、
凪は顔を上げてキャプテンを数秒見つめた。

そして軽くステップを踏み、キャプテンに向かってボールを投げた。
雨を切り一直線に伸びた球は、勢いよくキャプテンのグラブに収まった。

さすがだ。良い球を投げる。
そんなことを思っていると、キャプテンも負けじとこれまた良い球を投げ返した。

そしてしばらく無言で、ボールの往復が始まった。

キャッチボールを見ればどのくらいの技量か分かる……なんて言うことがあるけど、
この二人が普段からどれだけ野球を愛し、真摯に向き合ってきたかが伝わってくるようだった。

俺はふと、横で見ていた田向君に訊ねてみた。
男「凪もキャプテンも上手いね。キャプテンはどこを守ってるの?」
田向「キャプテンは、ショートですね」
男「なるほど……」

きっと彼は、技術的にも精神的にも、チームの柱なんだろうな。

二人が何度ボールのやり取りをした頃だろうか――
数回だった気もするし、数十回だった気もする。
ふと、キャプテンが口を開いた。

「七瀬川。俺、ずっと言いたかったことがあるんだ」
白球が、凪の胸元のグラブに収まる。

「……なあに?」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。

「その、なんというか……」
白球が、すこし逸れて凪のグラブに収まる。

「大丈夫だよ。ちゃんと聞くから」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。

「……泥かけて、ごめんな」
白球が、ワンバウンドして凪の後方へ抜けていった。

田向「俺、取りに行きます!」

すぐさま、田向くんがボールに向かって走っていった。
凪とキャプテンは、見つめ合ったまま固まっている。

キャプテン「ずっと伝えたくて、でも言えなくてさ……」
キャプテン「今更こんなこと言っても遅いかもしれないけど……」
キャプテン「ごめんなさい」

キャプテンはそう言うと、深々と頭を下げた。

凪「……どうして」
キャプテン「え……?」
凪「謝るなら、どうして私にあんなことしたの?」
キャプテン「そ、それは……」

凪「分からないよ」
凪「そんな風に言われたって、私、全然分かんない……」

ずっと降り続けていた雨はいつの間にかやんでいたが、
空は相変わらず、重々しい鈍色のままであった。

ボールを拾い、戻ってきていた田向君が口を開く。

田向「先輩、それには理由があるんです」」
凪「理由……?」
田向「そうです。キャプテンは自分の意思じゃなくて……」

キャプテン「タム、いいよ。俺が自分で説明する」

言いかけた田向君を制し、キャプテンは意を決したように「うし」と言ったあと、
凪の方を真っ直ぐに見つめた。

キャプテン「俺があの日泥をかけたのは……広瀬と約束してたからだ」
凪「広瀬さんと……?」

キャプテン「七瀬川を野球部から追い出したら、いじめをすぐにやめるって言うから……」
キャプテン「俺は……いじめをやめさせるために」

凪「ちょっと待って! 全然分かんないよ。どういうことなの……?」

田向「広瀬はキャプテンに、七瀬川先輩を野球部から追い出したらいじめをやめると……持ちかけたんです」
凪「なにそれ? それで、私を辞めさせるために泥をかけたってこと?」
田向「そのとおりです」

凪は目を見開き、震える声で「うそでしょ……」と漏らした。

キャプテン「俺は、いじめられてる七瀬川を見てるのが本当につらかったんだ」
キャプテン「毎日毎日苦しそうで、なのに一人で戦ってて……」
キャプテン「どうにかしてやりたいって思ってた。でも何もできない自分がいて……」
キャプテン「それが、本当に嫌だった」

凪は表情を崩すことなく、口を真一文字に結んでキャプテンの言葉に耳を傾けている。

キャプテン「広瀬の言う通りにすれば、七瀬川を救えるかもって思ったら……」
キャプテン「俺、後先考えずにあんなことしちまってた」
キャプテン「それが七瀬川のためになるんだって信じ込んでた」

キャプテン「でもさ。俺、間違ってたんだよな」

次第に、凪の肩が小刻みに震え出した。
近寄ろうとしたが、田向君が黙って近づいたので、俺はそのまま見守ることにした。

キャプテン「七瀬川からしたら、野球を奪われることの方がずっとずっとつらかったんだよ」
キャプテン「俺、ずっとお前を救った気でいてさ……」
キャプテン「一週間以上学校に来なくなってから、やっと気付いんだよ」

キャプテン「俺は、取り返しのつかないことをしたんだって……」

キャプテンがそこまで言い終えると、しばらく沈黙が広がった。
どれくらいの沈黙だっただろう。
一瞬の気もしたし、永遠のような気もした。

とにかく、ぴたりと世界の空気が止まったかと思うと、それが勢いよく破裂したんだ。

凪「当たり前だろ!?」

これまでに一度も聞いたことのないような、凪の渾身の叫びであった。
俺だけじゃない、田向君もキャプテンも唖然とし、その場を動けなかった。

凪「当たり前じゃん。そんなこと……」
凪「今まで一緒に頑張ってきた仲間だろ……? チームメイトだろ……?」
凪「ずっと一緒に、楽しく野球やってきたじゃんかぁ……」

ぼろぼろと大粒の涙を流し、凪は「ひっぐ」と嗚咽を漏らす。

凪「みんなで夏の大会に向けて、頑張っててさ」
凪「キャプテンはショート、田向はキャッチャー。誰ひとり欠けちゃいけない仲間でしょ?」

凪「私は……野球も、野球部のみんなも、大好きだったんだよ?」

凪「それがなくなったら――いじめより、もっとつらいよ……」

きっと答えなんて、最初からシンプルなものだったんだろう。
要は”それ”を見ようとするか否かというだけで、
キャプテンも田向くんも……最初から分かっていたのかもしれない。

それでも彼らを包んでいた暗雲はそれほどに分厚く――
一時の気の迷いであっても、”縋らずにはいられなかった”のだろう。
それこそ、それが”悪魔の囁き”であったとしても……。

キャプテン「七瀬川。俺は……お前と一緒に、また野球がやりたい」
キャプテン「野球部に……戻ってきてほしい」
凪「うう…………」

とめどなく溢れる涙を、少し大きなパーカーの裾で何度も拭う凪。
しかしそれでも追いつかず、一粒、二粒と、雫が落ちていく。

キャプテン「勝手なこと言ってるのは分かってる」
キャプテン「一方的に出てけって言っておいて、今更戻ってきてくれなんて、虫が良すぎる」
キャプテン「でもな、七瀬川。俺は……俺は………」

凪「なんだよぉ……?」

涙まみれの紅潮した顔で、凪はキャプテンをじっと見つめる。

キャプテン「お、俺は、お前を………」
キャプテン「お前を…………」

二の句は継がれない。
キャプテンは歯ぎしりし、苦しそうに呼吸を整えた。

その様子を見て、俺は――

『頑張れ』

自然と、そんなことを思っていた。
なぜだかは分からない。

この少年が、かつての自分と重なって見えたのか、あるいは――。

キャプテン「次に学校でいじめられたら、俺がお前を守ってやる」

凪「えぇ……?」

キャプテン「もう、何かに頼ったり、他人に任せたりしない」
キャプテン「もしまた七瀬川がいじめられたら、俺が絶対に……守ってやる」

キャプテンは、透き通るほど混じりけのない瞳で凪を見つめる。

そしてまた、しばらくの沈黙が訪れた。
広場を吹き抜ける湿った風が頬を撫で、むわっとした草の匂いが鼻腔をつく。

足元には、松葉色の芝生に混じって、シロツメクサの白い花が顔を出していた。
この中に四葉のクローバーは……あるんだろうか?

凪「それ、ほんと……?」

凪はこぼれる涙を右手でぬぐいつつ、言った。
潤んだ瞳には、微かに光が宿っていた。

キャプテン「本当だよ。何があっても、どんな時でも……七瀬川の盾になる」
キャプテン「俺は……心に決めたんだ」

キャプテンがそう言った時だった。

凪「ぅううああ……」

凪はまた派手に泣き出し、座り込んでしまった。

これには俺も心配が勝ち、すぐに近づいて話しかけていた。

男「凪、大丈夫……?」

そう問いかけると、凪は口元を押さえてこくりと頷いた。

凪「う、うれしいよぉ……」
凪「今までずっと心細かったから……すごくうれしいよぉ……」

キャプテン「七瀬川……」

凪「じゃあ私、戻ってもいいの? 学校に行っていいの?」
凪「もう一度みんなと……野球、していいの?」

すると、キャプテンは今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべて……。
「もちろんだ」と嬉しそうに言った。

「わあああぁぁ………」
凪が、声を上げて大泣きする。
”喜びの慟哭”は辺り一面に響き渡り、湿っていた萌葱色の芝生を震わせた。

田向「先輩、俺も同じ気持ちです」
田向「俺も七瀬川先輩の味方ですし、戻ってきたらなんでも力になりますよ」
田向「また一緒に、みんなで野球……やりましょう」

凪「あ、ありがとう……」
凪「ありがとう―――!!」

そしてまた、「ああああ……」と泣きじゃくる凪。

濁っていた雨模様の空気が、一気にはじけて霧散していくような、
そんな晴れ晴れしい錯覚を覚えた。

凪「私、また学校へ行く。……みんなと野球がしたい」
凪「だって私は……もう”ひとりじゃない”もんね?」

凪は顔を上げると、笑った。
塾の前に咲いていた、あの鮮やかな桃の花のように。
根図橋から見た、あの煌めく笛吹川の夕暮れのように。

この世界に落ちる影すべてを、一つ残さず消し去るほどの、眩しい笑顔だった。

俺は、そんな”馬鹿げた”想像をするほどに……。
凪のその笑顔が心と瞳に焼き付いて……離れなかったんだ。

たぶん、一生忘れることはないだろう。

凪……よかったね。
だから言ったろ?
君は必ず……また楽しく仕方ない”当たり前の日常”に戻れるってさ。

ふと空を見上げると、分厚い雲の切れ目から一筋の光が差し込み、きらきらと光っていた。

「あ、晴れた」

俺がそうこぼすと、全員が同時に空を見上げた。
それがなんだかおかしくて、ついみんなで笑ってしまった。

凪の笑顔が太陽を連れてきた……。
そんなことを言ったら、笑われてしまうんだろうか?

いや、でも。
きっとそうだよね。
凪の未来は、あの雲の向こうに広がってる。

……そんな気がした。

その日の夜、まだ授業開始までしばらく時間のある頃。
凪は久しぶりに塾へと顔を出した。

男「よく来たね」

少しだけ赤面し、恥ずかしそうに振る舞う凪を見て、胸が一杯になった。
凪の日常が、少しずつだけど戻り始めている。

陽子先生は入り口に立っていた凪を思い切り抱きしめると、
「えらい」とだけ言って、何度も凪の頭を撫でた。

凪「お母さん、ごめんね。私……ずっと……」
陽子「いいんだよ。私の方こそ、何もしてあげられなくてごめんね」

凪「んーん、ちがうの。本当は私も、もっともっとお母さんに色々言うべきだったの」
凪「ずっと一人で閉じこもって、心配かけて……」
凪「だから、ごめん……」

それだけ言うと、凪はまたぽろぽろと涙をこぼした。

本当に、君は泣き虫な子だよ。
俺と会ってから、一体何回泣いた?

そんなことを思いながら――二人のやり取りを眺めていた俺も、
いつの間にか泣いてしまっていた。

嬉しかった。
本当に、心の底から、ただただ嬉しかった。

俺は、この親子が幸せそうにしている姿が――きっと何よりも好きだった。
どうか、こんな時間がいつまでも続きますように。

俺は溢れた涙を隠すように右手で拭って――”凪専用”の数学のテキストを開いた。

久々の授業は概ね問題なく、凪もブランクがあったとはいえ熱心に授業を聞いてくれた。

「遅れた分は、ちゃんと取り返すよ」
「野球もそうだけど、ビハインドからの巻き返しが一番燃えるからね」

凪は楽しげにそう語った。
今の状況をそんな風に捉えられるくらい、凪は前向きになれてきている。

良かった……と思う一方で、
凪は元来こういう子だったんだろうな、とも思った。
芯があって、したたかで真っ直ぐな子なんだ。

だからこそ、色んなものをずっと一人で抱えてきてしまった。
運命というのは……ときに残酷だ。

塾舎で事務作業をしている陽子先生を残し、一足先に帰ろうとすると、
家の玄関先にいた凪に呼び止められた。

凪「ねえ、ちょっと時間ない……?」
男「どうしたの?」
凪「ちょっと、お話があって」
男「お話?」

凪は透明な傘を広げると、「歩きながら話そ?」と水を向けた。
頷いて承諾すると、俺たちは小さな歩幅で歩き出した。

真っ黒な空には、綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでいた。
夕方のあの荒天が、まるで嘘のように思えた。

凪は俺の引いている自転車を見て、「ごめんね、歩かせて」と言った。

男「いや、いいよ。大して変わらないし」
凪「……それでも」
男「大丈夫だよ。気にしないで」

凪はきまり悪そうに傘をくるくると回すと、しばらく押し黙った。
言いたいことがあるのに言い出せない、そんな気配を悟ったので、
こちらから助け舟を出してあげることにした。

男「それで、お話って?」
凪はこちらを見たかと思うと、「うーん……」とすぐに俯いてしまった。

男「どうしたの? らしくないね」
男「大丈夫だよ。なんでも言ってみなよ」

凪「あのね……」
凪「今日はありがとう」

男「なんだ、そんなこと? 全然いいって」

そう答えると、凪は大げさにかぶりを振って「そんなことなんかじゃないよ!」と言った。

凪「だって、田向とキャプテンが来てくれたのは、男さんのおかげだよ?」
凪「そりゃ、あの二人にもいっぱいありがとうって気持ちはある。でもね……」
凪「私は一人じゃなかったんだって、こんなに味方がいるんだって気づかせてくれたのは」

凪「男さんが……いたからだよ」

男「……そっか」
男「そんな風に思ってくれてるなら、俺もうれしいよ」

そう言うと、凪は満足したのか、嬉しそうににこりと笑ってくれた。

凪「男さんには、本当に何度ありがとうって言っても足りないくらい」
凪「……けど」
凪「最後にひとつだけ、わがまま聞いてほしい」

男「わがまま?」

凪「あのね……明日、一緒に部活に来てくれない?」
男「部活に? 俺が……?」

凪「私ね。最初は部活だけ行こうと思うの」
凪「それで大丈夫そうだったら、学校の授業にも行こうと思ってて……」

男「いいと思うよ。無理なく馴らしていくのが一番だもんね」

凪「うん。それでね……やっぱり最初は怖いから。一人は嫌なの……」
男「それで、俺が……?」

凪「うん、男さんと一緒がいい」

凪はじっと俺のことを見つめた。
その吸い込まれそうなほど円かな瞳には、俺はどんな風に映っているのだろう?

ちょっと前まで、本気で死のうとしていた社会の出来損ないの俺が、
今この子の目には、どう見えているのだろう。

そういえば前に、凪と約束をしていた。
あの星が落ちそうな夜、根図橋の上で、”二人だけ”の約束をした。

『今度部活に行く時は、俺も一緒に行く』

なら今こそ、その約束を果たす時だ。

男「分かった。それで凪が少しでも楽になるなら……どこへだって付いて行くよ」
凪「ほんと?」
男「ああ、もちろん。明日は塾も休みだし、それに……前にそう”約束”したじゃない」

凪「ふふ。そうだったねぇ――」

凪は笑った。
凪が笑うと、俺の心の中はたちまち美しい”花いかだ”でいっぱいになる。

今まで何にも感動せず、ただ世の中に対する失望だけを重ね、
もはや波打つことすらなかった俺の”心の水面”は、
凪という子が笑うだけで、鮮やかな花びらでいっぱいになってしまう。

確信する。
俺はやっぱり、この子が笑っているのが好きだ。

そのためだったら、なんだってしよう。なんにだってなろう。
できることなら、この子から笑顔を奪うすべてのモノを……消し去りたい。

凪「先生には、私から説明するし」
凪「キャプテンと田向も話を合わせてくれるから、大丈夫だと思う」
男「そっか……それなら全然大丈夫そうだね」

凪「それに今日、田向と一緒に行ったんだもんね?」
男「うん、大体の部員には顔を見られたと思うし、なんなら俺、ノックくらいするぜ」
凪「あは。それはいいかもね!」

凪は楽しそうに笑う。
その無邪気な笑顔が……きっとたくさんの人に好かれてるんだ。

間違いない。君は素敵だよ。

とにかく、明日は凪と一緒に”部活”だ。
凪が元気になり、こんな日が訪れて……本当に良かったと思う。

俺がずっと願っていたこと。
凪が元気になり、また元通りの楽しい生活を送っていくこと。

凪「わあ、明日楽しみだなぁ」

こんな風に、楽しそうに笑ってくれる凪が目の前にいることが、小さな奇跡のように思えた。

文字通り、”塗炭の苦しみ”を味わっていた凪が……
折れずにここまで戻ってきて、笑ってくれている。

あの日。
俺、死ななくて良かった。
だって、俺がいなくちゃ……俺がいなくちゃ。
凪は戻ってこれなかったかもしれない。

次の日。
雲一つない快晴のなか、俺は凪と二人で学校に向かった。

凪は徒歩通学なので、家から一緒に歩いて行こうと思っていた。
しかし、凪が気を遣って「それは申し訳ない」と言うので、
南中の近くにあるローソンに集合した。

久しぶりに制服を着ている凪を見て俺は、
「よかった、泥は綺麗に落ちたんだね」
と間抜けな感想を漏らしてしまった。

凪は「もうすっかり真っ白だよ」と目を細め、「どう?」とくるりと回ってみせた。
純白のセーラーと濃紺のスカートがふわりと風に舞って、
六月末の西日が、レンズ越しのゴーストのようにキラキラと散っていった。

「綺麗だね」

そう言ってみたけど、それは一体どんな意味だったんだろうか。

学校に着くと、授業が終わった直後なのか、やけに賑やかだった。

校庭と校舎に挟まれた前庭には、これから部活に行くであろう、
部活カバンを背負った運動部と思しき生徒が無数に往来している。

こんな晴天でビニール傘をさしている凪はやはり目立つのか、
通り過ぎる生徒たちはじろじろと凪に視線を向けた。

中には、「あれって七瀬川先輩じゃない?」「戻ってきたんだね」
と興奮した様子で会話をする生徒もいた。

田向君が言っていたように、やはり凪は校内でもよく知られている存在なのだろう。

昨日と同様、校庭ではすでにサッカー部やハンドボール部が準備をしていた。
一番奥のバックネット付近には、野球部員の姿も見える。

男「やってるね」
凪「そうだね……」

凪の表情が強張ったので、俺は背中を軽く叩いた。
きょとんとしてこちらを見た凪に、俺は優しく声をかける。

男「大丈夫。今日はただ”野球を楽しむ”日だよ」
凪「うん……」

男「なにも心配ないよ。みんな温かく迎えてくれるさ。それに……」
男「俺もいるから」

凪はしばらく校庭を眺めると、さしていたビニール傘を勢いよく畳み、
「行ってくるよ!」と部室へ着替えに向かった。

勢いよく駆け出して行ったので、思わず笑ってしまう。
あれだけ元気なら、きっと大丈夫だ。

凪がソフト部の部室で着替えているあいだ、
俺は先に野球部の根城である、バックネット付近へ向かうことにした。

すでに何人もの部員が思い思いに準備をしていたが、
その中にキャプテンと田向君もいた。

キャプテンが俺に向かって「こんにちはー!」と元気よく挨拶をすると、
他の部員も次々に「こんにちは」と声を上げた。

昨日とは打って変わって、今日はちゃんと”OB”をやっている気分だ。

田向「男さん、来たんですね」
ジョギングをしていた田向君が近づいて話しかけてきた。

男「おう、凪を連れてきたよ」
田向「やっぱり七瀬川先輩も一緒だったんですね」
男「うん。今は部室で着替えてるみたい」

男「それと、俺のことなら気にしないでいいよ、あくまで凪の付添みたいな感じだからさ」
田向「分かりました」

そんな風に話していると、キャプテンが会話に混ざってきた。

キャプテン「そうはいかないですよ」
男「……え、なんで?」
キャプテン「そりゃ、一応……みんなからしたら何でいるのって感じですし」

キャプテン「七瀬川が来たら一度集合して、ちゃんと全員に説明します。いいですよね?」

俺は思わず苦笑いしてしまい、「そっかそっか、わかったよ」と了承した

田向君はこっそりと「キャプテンは、そういうのしっかりしたい人なんすよね」と俺に耳打ちした。
なんだか可笑しくて、田向君と二人してくすくすと笑ってしまったが、
チームにはそういう人が必要だし、それが彼のキャプテンたる所以なんだろうと思った。

しばらくすると、小脇にグローブを抱えた凪がやって来た。
野球の練習着姿は初めて見たが、凛々しくて、よく似合っていた。
頭にかぶった白の野球帽も、すごくさまになっていてカッコいい。

ああ、凪は本当に野球部で、ピッチャーなんだなぁと、
当たり前のことに妙に納得してしまった。

その存在に気づくと、野球部はたちまち色めき立ち、
そこかしこから「七瀬川先輩だ!」「来たんだ!」と歓声のようなざわめきが起こった。

少し離れたほかの部――サッカー部やハンドボール部の生徒もそれに気づき……
こちらを指差してざわついているようだった。

”凪は校内でも目立つ存在”――それは田向君からも聞いていた事実だが、
まさか凪がひとたびグラウンドに現れるだけで、ここまで空気が変わるなんて。

仮に一週間ぶりに学校に現れたから……だとしても、
ここまで注目を浴びるのはすごいなと思った。

その理由が、純粋に凪がいい子だからなのか、
はたまた”いじめられている悲劇のヒロイン”だからなのか――
あまり考えたくはないな、と思った。

あっという間に、沢山の仲間が凪のもとに集まる。
同級生・後輩を問わず、その表情は一様に明るい。

対照的に、その中心で申し訳無さそうにはにかむ凪がおかしかった。

やっぱりみんな、凪が帰ってくるのを心待ちにしていたんだ。
だってすごく、楽しそうだもの。

でもさ、そりゃそうだよ。
こんなに素敵な子なんだ。

好かれこそすれど、嫌われたり仲間外れになるワケがない。
そんなこと、絶対にありえないんだよ。

色々と強引な部分もあったけど、田向君とキャプテンの力を借りて、
もう一度凪を学校に連れてきて本当に良かったと思った。

キャプテン「よっしゃ! 集合!!」

隣にいたキャプテンがそう叫ぶと、部員たちは高揚した様子で、
「集合っす!」と復唱し、勢いよく駆け寄ってきた。

目の前に並んだあどけない顔の少年たちは、どこか活気に満ちていた。
ひと目見て、昨日とは全然違うと分かった。

それもこれも、キャプテンがやる気を取り戻し、凪が戻ってきたからだろう。
単純明快なことだけど、じつに分かりやすいなぁと感心した。

キャプテン「えーと。まず、気になってる人もいるかもだけど」
キャプテン「今日は、OBの男さんが来てて、軽く練習を見てくれるから」

キャプテンが「何か言って」という視線を俺に向けたので、すかさず挨拶する。

男「えーと、OBの男です」
男「俺がここにいたのは……もう10年くらい前になるかな」
男「今は……そこにいる、七瀬川さんの塾で先生をやってまして」

男「今日はその繋がりで来たって感じです。よろしく」

そう言うと、部員たちは一瞬ざわつき、凪もきょろきょろと周りを見たあと、
恥ずかしそうに俯いてしまった。

「そういうワケなんで、みんな頼むなー」
キャプテンがそう水を向けると、部員たちは声を揃えて「おす!」と元気に返事をした。

いいなあ、この感じ。なんだか本当に懐かしい。
みんな、瞳が輝いていて素敵だ。

なんて、そんな……"25歳"らしい感想を持ってしまう。

キャプテン「せっかくだし、あとで男さんにノックとかもやってもらおう」
キャプテン「いいっすよね?」

キャプテンがちらりと横目でこちらを見る。
なんだかすっかり”男”の瞳だなと思った。

別に変な意味ではなく、昨日の一件があって完全に意識が改まったのか――
とても頼りがいのある、覚悟を決めた顔つきになっていた。

男「ああ、全然構わないよ。けど、今日は先生は来ないの?」
キャプテン「今日は職員会議なんで来ないっす」
男「そうか――」

先生が来ないなら、それは好都合かなと思った。
今の顧問は当然俺の時とは違う人だし、
一から事情を説明するのも億劫と言えば億劫だったから。

キャプテン「それで、最後にひとつ」
キャプテン「七瀬川が戻ってきたから、みんなよろしくな」

一同「おっす!!」

全員、嬉しそうに大きな返事をする。
その様子を見ていると、
やはり凪がチームでどれほどに不可欠な存在だったかということが伝わってきた。

そしてそのさなかにいる凪も――嬉しそうに笑っていた。
本当に無垢で、無邪気な……"15歳"の笑顔だった。

キャプテン「よし、じゃあジョグいくぞー! 並べ!」

十数人の野球部員たちは、キャプテンと凪を先頭にして駆けていく。
笑顔混じりの掛け声が、校庭全体に響いた。

澄み渡った天色の空には少しずつ黄金色が混ざってきて、夕刻の訪れを感じる。
キャッチボールをして駆け回る部員たちの影も段々と伸びてきて、
相変わらずここのグラウンドは西日が眩しいな、と思った。

いわゆる田舎の中学校なので、周りにはいくつかの民家がある以外、何もない。
この大きな空も、太陽の光も、透き通る風も、すべて独り占めだ。
そうそう今思い出した、このグラウンドでするキャッチボールは、最高に気持ちよかったんだ。

そんな遠い日の記憶が、古ぼけたスライド写真のように心の中をよぎった。

凪は、田向君を相手にして熱心にキャッチボールをしていた。
もうすっかり元通りだね、良かったな――。
なんて思った時だった。

校庭の向こう側から、なにやら女子生徒の一団が近づいてくる。
運動部なのは間違いないが、何人かはサンバイザーを着けているので、
もしかしたら女子テニス部だろうか……?

先頭を歩く女子はやけに険しい表情をしているが……。

すると、近くにいた男子がぽろっとこぼした。
「あっ。やばいあれ、広瀬先輩じゃん……」

広瀬?
あいつが? あの?
”すべての元凶”か……?

広瀬率いるその一団は一塁線の上で止まったかと思うと、「おい!」と大声を出した。

広瀬「なんで七瀬川が部活にいんだよ? 話が違うんだけど!?」

前後関係などまったくお構いなしに、一方的に喚き散らす広瀬。
それまで和やかにキャッチボールをしていた野球部が、一瞬にしてピリついた空気になる。

(お、おいどうすんだよ……)
(なんだよアイツ……)

そんなささめきがどこからともなく聞こえてくる。
凪の方を見ると、しゃがみこんでうずくまっており、田向君がそばについていた。

キャプテンは……だめだ。固まったまま、動く気配がない。

もういいよ、ヤケだ。
どうせ俺は”部外者”で――失うものは何もないからな。
そう覚悟を決めて、一塁線へと踏み出した。

男「ちょっと君、今は部活中なんだけど。なんの用?」
広瀬「はあ? 誰アンタ?」
男「俺は野球部のOBです。今日は指導に来てるんで」
広瀬「ふーん、まあなんでもいいんだけどさ」

その表情は悪辣そのもので、他人を小馬鹿にする気持ちが滲み出ていた。

広瀬「ってかさぁ、早く中村呼んでくんね?」
男「中村ぁ……?」
広瀬「キャプテンだよ、キャプテン」
男「ああ、キャプテンね……」

広瀬「つかなんで知らねーんだよ。本当にOBなん?」

そして広瀬は、癇に障る笑い声を上げた。
何が可笑しくて笑ってんだ? お前。

広瀬「つーか早く呼んでよ。おせえよ」
男「あ、ああ………」

この女が……! 凪をずっと……!!

目の前にいるこいつがすべての元凶かと思うと、はらわたが煮えくり返り、
おびただしいほどのどす黒い感情が湧き上がってきた。
本当に、怒りで今にも挙措を失いそうだった。

こいつがずっと、凪を苦しめてきた。笑顔を奪ってきた。

もういいや。俺が今、この手で殴り倒してやる。

いや、いっそのこと――ぶっ殺してやろうか?

そんな、究極の魔が差したときだった――
後ろから、キャプテンが駆け寄ってきた。

キャプテン「おい広瀬、なんでこんな所に来てんだよ」

その声で我に返り、自分がとんでもなく物騒なことを考えていたことに気付いた。
危なかった。本当に。

たとえ殺しはしなくても、あのままなら……間違いなく殴ってはいた。
後先なんて考えず、その”無駄に”整った顔面に――
一発ぶち込んでいたのは、間違いなかっただろう。

キャプテン「部活にまで来るなよ。今日は先生がいないからって」
広瀬「は? うるさいんだけど? ってかお前がいけないんじゃん」
キャプテン「……何が?」

広瀬はしゃがみこんでいる凪を指差し「あれだろ?」と唾棄するように言った。

広瀬「なんで七瀬川さんが部活に来てるのかな? 話が違うよね?」

キャプテン「それは……」
広瀬「何か言うことある? んん?」

キャプテン「ッ…………」

キャプテンが言葉を詰まらせたので、すかさず割って入る。

男「それはな……」
広瀬「やめてください!」

突然、広瀬が甲高い声を上げた。
その”奇声”は校庭じゅうに響き渡り……
遠くのサッカー部やソフト部の子たちも、こちらに視線を向けていた。

広瀬「お前は部外者じゃん? 関係あんの? 先生でもないくせに」
男「な………」
広瀬「なんだか知らないけど、どうせ七瀬川の肩持つんだろ?」
男「当たり前だろ、君なんか……」

すると、広瀬はにやりと不敵な微笑を浮かべた。

広瀬「あのさぁ……今私がここで叫んで、先生を呼んでさ」
広瀬「お前を一発で”不審者”に仕立て上げることもできるんだよ?」

背筋が凍る。
この女は……一体何を言ってるんだ?

一応俺はこいつよりも十歳も年上で……こいつからしたら”大人”のはずだ。
なのに、その大人相手に全くビビることもなく、
食ってかかるようにこんな”恐ろしい”ことを言えるなんて……。

こいつは、本当に普通の中学生ではない。

さすがに面食らってしまい、何も言えずにいると、キャプテンが口を開いた。

キャプテン「お前……いい加減にしろよな」
広瀬「あ? ……なんて?」

キャプテン「いい加減にしろって、言ってんだよ」
広瀬「え? 嘘でしょ? 中村君、それって私に言ってるの?」

キャプテン「他に誰がいんだよ。お前に言ってるんだよ」
広瀬「え、マジー? こいつ、私に言ってるらしいよ」

そう言うと、広瀬は取り巻きの女子たちとゲラゲラ笑い始めた。
無駄に見た目が良い分、その醜悪さがより目立つような気がした。

広瀬「いい加減にすんのはお前じゃん」
キャプテン「……なにがだ」
広瀬「約束守ってないのはそっちだろ? いけないんだ、人のことばっかり悪く言ってさ」

キャプテン「あんな約束は、もうナシだ」
広瀬「……はあ?」

キャプテン「あんな一方的でクソみたいな取引は、もうナシだって言ってんだ」
キャプテン「……分かったら帰れ」

広瀬「はぁ~~~~?」

広瀬は大げさに首を震わせてそう言うと、キャプテンに勢いよく近寄った。

広瀬「何言ってんのお前? 何がナシだよ?」
広瀬「そんな決定権はお前にはないんだよ」

広瀬は、キャプテンの肩を思い切り押して威圧する。
かなりの体格差があるというのに、広瀬はそんなこと全くもってお構いなしだ。

広瀬「ねえねえ、大好きな七瀬川さんがどうなってもいいの?」
広瀬「好きで好きでたまらない七瀬川さんがさ~!」

そう吐き捨てると、広瀬はキャプテンの前でにやりと、
それはそれはいやらしい笑みを浮かべた。

正直もう、俺だって頭が真っ白だった。

ふさぎ込む凪、動けない田向君、脅しをかけられている俺、
そして、目の前で”ボコボコにされている”キャプテン。

八方塞がりだって思ったよ。
俺たちは、この広瀬というたった一人の存在に……どうすることもできないのかって。

――でも、その時だった。

キャプテン「俺は七瀬川が好きだよ!!!!」

キャプテンの全身全霊の雄叫びが、まるで稲妻かのごとく、
校庭に、いや、校舎にまで響いてビリビリと反響した。

予想外の返しにさすがの広瀬も当惑したのか、何も言えずに立ち尽くしている。
うずくまっていた凪も顔を上げ、涙目でキャプテンの方を見ていた。

その大声に気づき、「なんだ?」「告白?」と色めきだった他の運動部の連中が、
次第に野球部の周辺に集まり始める。

キャプテン「ああ、大好きだよ。お前の言うようにな、本当に好きだ」
キャプテン「だからこそ、もうこれ以上お前の言う通りにはしないし」
キャプテン「俺は……七瀬川を守るんだ」

キャプテン「俺は……そう決めたんだ。だから絶対に退かない」
広瀬「はあ……? お前、何言ってんだよ……」
キャプテン「だから、七瀬川を守るって、そう言ってんだよ!」

広瀬「き、きもいんだけど……なにわけ分かんないこと言ってんの……?」
キャプテン「単純だろ? お前が七瀬川をいじめるなら、俺がそうさせないんだよ!」

広瀬とキャプテンが話しているこの間にも、
色恋沙汰だと勘違いした生徒たちが、群れを成してどんどん集まってくる。

「中村が告白したって?」
「野球部でなんか起きてるらしいから急げ!」

職員会議で、各部に先生の監視がないことも拍車をかけていた。

気づけば、校庭にいたサッカー部やハンド部、陸上部やソフト部だけでなく、
外練をしていたであろう男バスや吹奏楽部の子たちまで集まってきており、
「え、なになに?」「なにが起きてんだ?」と、随分賑やかになっていた。

一連の広瀬とキャプテンのやり取りが引き金となって、
普通ならあり得ないくらいの人だかりが、野球部の周りに形成されていた。

キャプテン「俺はもう……絶対にお前の言いなりにはならない!」
キャプテン「もうお前の好き勝手はさせない!!」

キャプテンが、そう高らかに”宣言”をすると……。
周りの人だかりにいたサッカー部の男子がそれに乗じた。

「そうだぞ! 広瀬はやりすぎなんだよ!」

これが口火となり……。
ただの野次馬だった烏合の衆は、徐々に一体感を得ていく。

「ずっと思ってたけど広瀬はおかしいよ」
「確かに、ちょっと考え直しな~」
「そうそう、もう見過ごせないよねー」

広瀬「ちょ、ちょっと待ってよみんな!」
広瀬「悪いのは中村! 約束を破ったコイツが悪いんだよ!?」

広瀬は、すぐさま声色を変え、さも媚びるように周りの人間へとアピールを始める。
なんて小賢しいヤツなんだ。
こうやって、今までもずっと上手いこと世を渡ってきたんだろう。

キャプテン「約束ってなんだぁ!?」

またしてもキャプテンが怒声を上げる。
完全に腹が括れたのか、その瞳が広瀬からぶれることはない。

キャプテン「”七瀬川を野球部から追い出したらいじめをやめる”っていうクソみたいな取引のことだろ?」
キャプテン「あれのなにが……約束だ?」

集った生徒たちに流布するような形でキャプテンが言い捨てると、周囲からは、
「なにそれ……」「ひっでぇ~」といった声が上がった。

広瀬はすぐに「いやいや、違うんだよ? コイツが勝手に言ってるだけだよ?」と
猫撫で声を出すが、もはやそのメッキは”剥がれかけ”だ。

キャプテン「お前なぁ………」
キャプテン「もういい加減、七瀬川をいじめるのはやめろ!!!!」

キャプテンのその”咆哮”は、天高く突き抜け……
やがて全校生徒を巻き込んだ”胎動”となる。

「そうだよ! いつまでも七瀬川さんをいじめんなよ!」
「凪ちゃんが可哀想だよ、いい加減やめろ!」
「ってかさ、これからはみんなも見て見ぬフリやめね?」

そんな声が、野球部と広瀬を囲んでいた生徒たちの群れから……次々と飛んでくる。

広瀬「なにこれ……? どうなってんだよ……」
キャプテン「おい、広瀬。誓えよ。今日限りで七瀬川をいじめるのは辞めるって」

広瀬「は、はあ~? ってか私、そんなの知らないんだけどぉ……?」
キャプテン「誓えよこのクソ野郎!!」

「そうだ、誓え!」
群衆の、どこからともなく上がる声。

広瀬「は? な、なに……?」

「もう今日で終わりにしろ!」
「お前のやってることはみんな知ってるんだよ」
「ここでやめるって誓えよ!」
「中村! 俺たちはお前と七瀬川さんの味方だぞ!」

キャプテン「み、みんな……」

嘘だろ?
俺は、馬鹿みたいに口を開けたまま辺りを見回していた。

すごい人数だ。学年も性別も関係ない。
部活着の生徒もいれば、制服の生徒もいる。
かと思えば、一見ちょっとやんちゃそうな男子や、折り目正しい地味めな生徒までもが、
一様に応援の声を上げているではないか。

「中村! お前最高だよ!」
「みんながずっと思っていることを言ってくれたぞぉ!」
「七瀬川さんを放っておくのは今日でやめようぜ!?」
「広瀬、いじめはやめろ!」

男「な、なんだこれ……?」
キャプテン「ありえない、っすよね……」

男「まるで、全校生徒がここに集結してるみたいな……そんな熱量だぞ?」

奇跡のようだった。

あの凶悪な広瀬に臆することなく、勇気を振り絞って立ち向かったキャプテンの勇気が……
奇跡を呼んだ。

これまで、誰もが”学校一の厄介事”と捉えて、関わることを拒絶してきた広瀬の醜行。
関わったら最後、その標的が明日には自分に向けられるかもしれない。

そんな風にして、ずっとずっと見て見ぬフリをされ、放置されてきた凪へのいじめが……。
今、一気にその”膿み”を出し切ろうとしている。

この瞬間、ここに集まった生徒たちによって、
学校中を巻き込んだ変化の”胎動”が起きているんだ。

そして俺とキャプテンは……それを目の当たりにしている。

その時であった。
俺とキャプテンの後方から――あの声が。

凪「広瀬さん」

田向君に支えられ、うずくまっていたはずの凪が、
俺とキャプテンの真後ろに立っていた。

広瀬「七瀬川、さん……」

周囲からはどよめきとともに、これまでで一番大きな歓声が起こる。

「七瀬川先輩!」
「学校来てたんだ……!」
「うっそ、久しぶりに見た!」

凪の瞳はひどく充血し涙が滲んでおり、その小さな両肩は小刻みに震えていた。

男「凪―――」

大丈夫か、と言おうとして、やめる。
彼女は自分の意思で立ち上がり、自分の意思で立ち向かうことを決めたんだ。
ならば今は、それを見届けるべきだ。

凪「ひとつだけ、言わせてほしい」
広瀬「な、なによ……?」

凪「もう私は負けない」

広瀬「は、はあ……?」

凪「今日ここで、いじめをやめるって誓わなかったとしても」
凪「今後も、アナタが私をいじめたとしても――」
凪「私はもう、絶対に負けないから」

キャプテン「七瀬川……」

凪「だから逃げも隠れもしないし、私は堂々と学校に戻る」
広瀬「なに言ってんのお前……」

凪「だって私は――」

そう言うと凪は、辺りを見回す。

随分人の増えた生徒たちの群衆。
野球部のチームメイト。
田向君。
キャプテン。
そして、俺……。

凪「もう一人じゃないから」

そしてどこからともなくこんな声。

「よく言った――!!」

周囲から、まるで瀑声のような歓声と喝采が起こる。
こうなるともう、集団心理による気持ちの昂揚を止めるすべはない。

「七瀬川さ――ん!」
「私達も味方だよ!」
「みんな分かってるからな――!」

広瀬はもはや為す術もなく、ただただ狼狽してきょろきょろするだけである。
その様子は、まるで出来の悪い傀儡みたいで、じつに滑稽だった。

凪は真剣な眼差しで広瀬を見つめ続けている。

そんな盛り上がりの最高潮に達した瞬間、魔法の解ける合図が。

「お前ら何やってんだ――!!」
「今は部活の時間だろ!!」

数名の男性教師が、校庭に向かって走ってきていた。
なんという魔性の勘か、広瀬はどの生徒よりも早く走って逃げ出していた。

「やべえ! 先生来たぞ!」
「みんな散れ――!」

途端に、集まって群れを成していた生徒たちが四方八方に散っていくが、
その表情は皆、不思議と”とても楽しそう”であった。

逃げていく生徒は全員、大声で笑いながら溌剌と校庭を駆けていく。

恐らく逃げる必要のない野球部員までもが、なぜか走り出した。

田向「キャプテン! こっちです!」
キャプテン「よっしゃ! みんな走って逃げろ――!」

そして、宛てもなく走り出す。
――全員、とびきりの”いたずら”な笑顔で。

凪「男さんも!」

前方を行く凪が、俺に向かって手招きをする。
俺も……?

凪「走ろう!」

西日の逆光となり、その凪の顔はよく見えなかったが……。
きっと、笑っていたんだろうね。

これは祝祭だ。

集まっていた沢山の生徒たちが、訳も分からず、
大声で笑いながら教師たちから逃げ、駆け回っている。

暗い表情をしている者は、誰一人としていない。

全員が、”凪の門出”を祝いながら、走っていた。

これは、全校生徒を巻き込んだ――凪への祝祭なんだ。
俺はそんなことを思い……。

嬉しくて嬉しくて仕方なくて、こぼれそうな涙をぐっとこらえ、
先を走る凪を――笑って追いかけた。

これ以上ないくらいの、全力疾走で。

そんな”夢”みたいな出来事のあと……。

凪は――再び学校に通い始めた。

最初の数日はとても怖かったものの、
あれから広瀬のいじめは鳴りを潜め、学校で関わる機会は激減したという。

毎回毎回、笑顔で塾を訪れ、楽しそうに学校での出来事を語る凪は……
心の底から幸せそうだった。

ずっとずっと求めていた”日常”を過ごせているんだなぁと伝わってきて……
本当に嬉しかった。

凪が――この素敵な子が、”あるべき場所”に戻れたことは、
俺にとっても本当に大切なことで……
自分の命に代えてでも叶えたいと思っていた悲願だ。

ずっとずっと、この世界はクソだと思ってきた。

でも、捨てたもんじゃないかもしれない。
凪が笑える世界なら。あの日みたいに西日が綺麗に輝く世界なら。

この世界は、最高かもしれない。

それから、日々は穏やかに過ぎていき――
あっという間に、凪たちは最後の夏の大会を迎えた。

凪の中学は順調に勝ち進み、無事に地区大会の決勝へと駒を進めた。
そして明日は、ついにその大一番であった。

小学生の授業が終わった19時頃。
帰ろうとすると、薄闇のなかで素振りをする凪と鉢合わせた。

男「やる気だね」
凪「……男さん」

男「明日は決勝だもんね」
凪「うん。だから……なんかじっとしてられなくて」

そう語る汗ばんだ凪の横顔は、真剣そのものだ。
思わず笑みがこぼれる。
俺にも、そんな時があったな。

男「気持ち分かるよ。でもあんまり無理して、どこか痛めないようにね」
凪「うん、ありがとう」

俺はしばらく……熱心にバットを振るう凪を見ていた。
その姿を見ていると、懐かしいような、ちょっと切ないような、
なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。

この子にとっては、明日の決勝戦がすべてで……
それ以外には何もなく、ただそれだけを見ている。

なんて純粋なんだろう。

いつもは近く感じる凪が、なんだか少しだけ――遠くにいるような、そんな気がした。

俺と凪は、本来なら住む世界がまるで違う。
今はなんの偶然か、こんな子と親しくなり、こうして話しているが、
それは元の俺であったら……到底考えられないことだ。

凪「あのね」

出し抜けに、凪が口を開いた。
物思いに耽っていた俺は意表を突かれて「へ?」などと間抜けな声を出してしまう。

凪「……きいてる?」
男「う、うん。……なに?」

凪は「今、ぼーっとしてたね」と微笑むと、話を続ける。
その何気ない笑顔ですら、不思議と俺の胸を温かくさせる。

凪「すごくいいニュースがあるんだ」
男「え、なんだろう。……教えてくれる?」

凪はまた目を細めてにこりと笑うと「いいよ――」と楽しそうに小首を傾げた。

不思議と、凪の一挙手一投足を目で追っている自分がいた。
笑うとわずかにシワが寄る、その目尻をずっと見ていた。
少しだけ胸が弾んでいるのも、もはや無視できることではない。

ずっと考えないようにしていたけれど、俺は――。

凪「明日の決勝、お父さん応援に来れるんだって」
男「え、本当に……!?」

正体不明のもやもやとした思考がどこかに吹っ飛んでしまうほど、
それは素晴らしいニュースだった。

凪「ずっと入院してたでしょ? 最近は合うお薬が見つかってね」
凪「すごく安定してるんだって――それで、外出許可が取れたみたい」

男「わあ、それは良かったねぇ……」

凪「私ね、絶対に勝ちたい。……優勝したい」
凪「それで、お父さんとの約束――叶えるんだ」

一生懸命に、熱をこめて語る凪の顔は、とても凛々しい。
南中の前庭に咲いていた真っ赤な百日草のように、気持ちを燃やしている。

凪「もしも優勝できたらさ……お父さん、少しは笑ってくれるかな?」
男「……もちろんさ」

凪「そうだよね……きっと喜んで、笑ってくれるよね」

凪はバットを構えると、勢いよくフルスイングした。

凪「もう、ぜんぶ覚えてないんだ」
凪「私のことも、私と一緒に野球をした日々も、ぜんぶ」
凪「それでも、最後にさ……笑ってほしいな」

男「最後?」

凪「うん、さすがにね。高校に行ったら野球はやめちゃうし」
凪「お父さんの外出許可が降りてるのも、明日だけだからさ」

男「ああ、そうか……」

凪はこちらを見ると、少し目を伏せたあとに笑顔を作る。
その瞳の中に、隠しきれない切なさが映り込んでいたのは、俺の気のせいだろうか。

凪「だから私にとって、明日はすごく大事な日なんだ」
凪「たとえ勝っても負けても……二度と来ない日」

凪「お父さんと”一緒に”野球ができる、最後の日だから……」

そう言って、凪が全力で振るったバットは……鋭い風切り音を立てて闇を切り裂いた。

男「お、今のはきっとホームランだ」

凪「ふふ。スタンドまで運んだ?」
男「うん。看板に直撃かな?」

凪は「やったぁ」と無邪気に笑ったかと思うと、俺の顔をじっと見た。
そしてしばらく、何も言わずに黙っていた。

男「い、今のスイングは腰が入ってたからね。だから、すごくよかったんだと思う」

なんだか照れくさくなってしまい、問わず語りを始めてしまう。
アドバイスできるほどの大した野球経験も技術もないのに。

凪「……男さん」
男「な……なに?」

凪「いつもいつも、本当にありがとう」
男「……急にどうしたの?」

凪「んーん。なんかね、ふと思ったんだ」

凪は「ねえ」と上目遣いで俺を見た。
ほんの少しの秋波と寂寥をはらんだ……そんな瞳だった。

凪「明日は……男さんも応援に来てくれるよね?」

男「行くよ。……必ずね」

凪「……そっか。楽しみにしてるね」

そして凪は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
それはきっと、この世界のすべてだった。

次の日。
凪の試合を見に行くため、俺は再び南中に向かっていた。
決勝戦の会場は、奇しくも我が母校であり、凪の通う――南中であった。

運命の日は、神様がわざわざ融通を利かせてくれたかのような見事な晴天で、
遠くの山際では、真っ白な入道雲がのびのびと手を広げており、
青空とのコントラストがじつに綺麗だった。

猛る真夏の太陽が、海抜300メートルの町を隅から隅まで白飛びさせ、
すれ違う人たちの顔も、車も、何もかもを溶かしていく。

十字路のカーブミラー、風に揺れる桃畑の木立ち、
見るものすべてがプリズムのようにキラキラと光を散らす午前9時。

俺は陽の当たる坂道を、ボロのママチャリで走っていた。

身体をすり抜けていく熱風が、これから始まる大一番を予感させた。

四方から降り注ぐ蝉しぐれの合唱をくぐり抜け南中にたどり着くと、
凪のチームも相手校も、すでにキャッチボールをしていた。

「やってるな」

そんな独り言を漏らし、急いで前庭を駆け抜けグラウンドへと向かう。

凪たちのベンチは1塁側で、その周辺にはすでに父兄と思しき人達が大勢来ていた。
当然見知った顔などはなく、陽子先生と剛先生は……まだいないようだった。

最近買ったばかりのアレット・ブランの腕時計に目をやる。
時刻は9時20分。試合開始は9時30分のはずだから、
さすがにそろそろ来ていないとまずいが……。

グラウンドでは、真っ白なユニフォームを纏った選手たちが、
元気に声を出して駆け回っている。
夏の炎天下なんてなんのその、彼らは運命の一戦に向けて気合十分といったところだ。

その中に凪もいた。
あの赤茶色のグラブを身に着け、誰よりも大きな声を出しているが、
時折、少しだけ不安げな表情でこちら側を見ては、またプレーに戻る、
ということを繰り返していた。

どうにも散漫で、意識ここにあらずといった様子であった。

恐らくだが、まだ陽子先生と剛先生が来ていないことを気にしているんだろう。

凪は昨日、お父さんが応援に来てくれることをあれだけ楽しみにしていた。
まだ姿が見えないことが、不安で仕方ないんだ。

陽子先生と剛先生、間に合うといいけれど――

そんなことを思ったが、その願いも虚しく、
試合開始時刻になっても結局二人が現れることはなかった。

審判が両校の選手を呼び寄せ、整列と号令が終わり、
そのまま試合は始まってしまった。

剛先生、何かトラブルでも起きてしまったんだろうか。
まさか、突然病状が悪化して来れなくなってしまったとか?
そんな最悪の自体を想像し、心臓がヒュンと跳ねる。

いや、まだ決まったわけじゃない。
とにかく今は……。

とにかく今は、気を取り直して凪の応援だ。
凪にとっての大事な大事な――大一番が始まるんだから。

1回のオモテ。
凪がマウンドへ登る。

「凪ちゃーん! 頑張ってー!」
「頼むぞー!」
父兄から、そんな明るい声援が飛ぶ。

凪はダイナミックに振りかぶると、オーバースローで思い切りボールを投げた。
次の瞬間には『バチィン!』とキャッチャーミットが快音を鳴らし、
ベンチから「ナイスボール!」という掛け声が沸き起こった。

真剣な投球は初めて見たが、凪の球はとても速く鋭かった。
客観的に見たとしても、とても良いピッチャーだ。

大したもんだな……。

正直、今の俺にはまったく打てる自信がなかった。

凪の立ち上がりは絶好調であり、1回のオモテを三者凡退で抑えると、
続く2回、3回、4回も見事に0点で抑えてみせた。

しかし、相手の投手も意地を見せ、凪のチームも4回まで無得点となった。

試合は次第に、”投手戦”の様相を呈し始めた。

凪と、相手のピッチャー。
どちらが先に折れるか、気持ちと気持ちのぶつかり合いであった。

凪は鬼気迫るピッチングで5回のオモテを抑えたあと、
ふと、俺の元へと駆け寄ってきた。

さすがに疲れたのか、汗だくになって肩で息をしている。

男「凪、すごいね! ナイスピッチング!」

そう言って俺は、手を叩いて凪を鼓舞した。

凪「ありがとう。とりあえずここまでは、いい感じ――」
凪はふう、と息を吐くとスクイズボトルを一口、ゴクリと飲んだ。

男「いやいや、本当にすごくてビックリしたよ俺。凪、大エースじゃんか」
凪「そんなことないよ」

恥ずかしそうに笑ったその顔に、いくつもの汗がきらきらと輝いた。

凪「ねえ、男さん。お母さんからは……何も連絡ないの?」

手元のスマホを確認する。
しかし、特に何の連絡も入っていなかった。

ここに着いてから何度か電話もしていたが、やはり音沙汰はなしであった。

男「そうだね……連絡はない」
凪「そっか……」

凪の顔が分かりやすく曇ったのを見て、思わず肩を叩いてしまう。

男「凪、大丈夫だよ。必ず二人は来るから」
男「今はとにかく、試合に集中! ……な?」

凪「……うん」

凪はそのままベンチに戻っていったが……
その顔が晴れることはなかった。

凪にとっては、お父さんとお母さんの応援こそが原動力で、
特にお父さんとの約束は……あの子のすべてだ。

今までも、そのためにずっと頑張ってきたといってもいい、
凪が思い描いてきた「夢」だ。

昨晩、お父さんが応援に来ることを喜んでいた凪の笑顔が……脳内を掠めた。

俺はもう一度、陽子先生に電話をかけてみる。
5回、10回……いくらコールを待ってみても、出る気配はない。

どうしてだ。どうして出てくれない。
陽子先生。剛先生……。

お願いだから、来てください。
大切な娘さんが……グラウンドで待ってます。

俺はスマホをポケットにしまい、ベンチに座る凪を見る。
平静を装っているものの、その姿からは寂しさが滲み出ていた。

叶わないのだろうか?
……ここまできて。
凪の、大切で、純粋な夢。

神様……頼むよ、お願いだからさ……。

俺は気づくと、両手を合わせて空に願っていた。
青い空には白い綿雲が広がるばかりで……
俺の願いなんて今にも風に飛ばされてしまいそうだった。

続く6回のオモテ、凪たちの守備だ。

試合は相変わらず0対0という膠着状態だったが、
ここに来て、凪が突然調子を崩し始めた。

1球目を外すと、2球目3球目もストライクゾーンを捉えることはできず、
結局先頭打者をフォアボールにしてしまった。

何かがおかしいと察したキャッチャーの田向君が、
すかさずマウンドの凪のもとへと駆け寄る。
キャプテンを始めとした、内野の面々も心配そうに凪のもとへ集まる。

……凪。ここは大事な局面だよ。
なんとかここを抑えて笑顔でお父さんを迎えよう。

頑張れ――。

しかし、凪の調子が戻ることはなく、後続のバッターにもヒットを許してしまい、
あっという間にノーアウト2塁3塁というピンチを迎えてしまった。

次にヒットが出れば1点、あるいは2点を失ってしまうという……大ピンチだ。
中学野球は7回までなので、終盤の6回に2点を失うのは非常に苦しい展開だった。

しかも、ここで迎える相手のバッターは2番打者。
ここから強打者が続く。

キャッチャーの田向君が立ち上がって、大声を出す。

田向「先輩! 大丈夫っす! 思い切って投げましょう!」

間髪を入れずにキャプテンも声を上げる。

キャプテン「打たせていいからな! 俺たちが死ぬ気で守る!」

凪はそれらの鼓舞に対して、苦しそうな表情で頷いた。

凪、大丈夫だよ。
君のまわりには頼もしい仲間がいる。
信じて投げれば、大丈夫だから――。

夏の午前中の真っ白な光が、グラウンドを灼いている。
凪は眉根を寄せ、何度も額の汗を拭った。

そして3塁側を見たあと、セットポジションから全力投球した。

カキィン。

気持ちいいまでの金属音が鳴り響き、思い切り左中間に弾き返される。
センターが打球を追うものの、長打になった。

その間に3塁ランナーがホームに帰り、2塁ランナーも……生還する。
一気に2点……取られてしまった。

値千金のタイムリーを打った相手のバッターは、
2塁で嬉しそうにガッツポーズを見せている。

相手チームのベンチは、お祭り騒ぎの状態だ。

打たれてしまった。

これまで、ずっと無失点で踏ん張っていた凪が……ここで瓦解してしまった。

凪はマウンド上でとてもつらそうに歯を食いしばっている。
先ほどまで元気だった田向君やキャプテンも俯き、黙ってしまった。

ベンチの生徒までもが呆然として言葉を失っていたので、
俺は慌てて手を叩き、盛り上げに徹する。

男「なに黙ってんだよ! こっからだろ! 声出せ声出せッ!!」

そう大声を出したものの、凪たちにはまるで届かない。

グラウンドには、完全に”やばい”空気が漂っていた。
まずい。分かる。
このままだと、次も……絶対に打たれてしまう。

そんな嫌な予感の中迎えた、3番バッター。

カキィン。

一球見送った二球目をあっさり打たれ、綺麗にセンター前に運ばれる。
立て続けにヒットを浴び、またしてもノーアウト1塁3塁の大ピンチだ。

チーム全体に、暗く重い空気が流れる。
もしこのまま点差が広がり続ければ、試合が終わってしまう。

内野陣は再び凪のもとに集合し、話し込んでいる。

なんとしても。
なんとしても、3失点目だけは避けなければ――。

そう思った時だった。
校庭の端から、一人の女性が車椅子を押して歩いてくる。

それは紛れもなく……。

男「陽子先生! こっち! こっちです!」

俺は大声で叫んで手を振った。
陽子先生と、剛先生が来たのだ――。

男「陽子先生! よかったです、無事に来れて……」
陽子「ごめんね、ちょっと手続きに時間かかっちゃって……」
男「いえいえ。本当に、来れただけで良かったです」

陽子先生は「ふう」と息をついたあと、ハンカチで汗を拭いながら訊いてくる。

陽子「それで……今はどんな感じなの?」
男「今は、6回のオモテで……凪たちは2点差で負けています」
陽子「あらぁ……そうなんだねぇ」
男「でも大丈夫です。だってまだ試合は終わってないですから」

陽子「そうだねぇ。なんとか、勝ってもらいたいね」

ふと、車椅子に座る剛先生を見る。
ビニール傘をさし、穏やかな瞳でグラウンドを見つめるその表情は……
”あの時”とは打って変わって、かつての剛先生そのものだった。

男「剛先生……?」

俺は思わず声に出してしまう。
剛先生はこちらに気づくと、にこりと柔和な笑顔を浮かべ、
「この雨の中なのに、皆さんよくやりますね」と穏やかに語った。

もちろん今日は見事なまでの晴天で、
雨が降っているのは――”剛先生の世界”での話だ。

剛「ちなみにこれは、なんの試合なんですか?」
やはり覚えていない。
俺のことも、きっと凪のことも、何もかも覚えていない。

けれど、その語り口も、穏やかな表情も、優しい笑顔も、
すべてがかつての剛先生だった。

陽子「いい薬が見つかってね。最近はすっかり落ち着いた調子なの」

陽子先生は剛先生に「これはね、凪の試合なんだよ」と優しく語りかける。
しかしながら剛先生は、「なぎ……?」とやはり理解できていないようだ。

陽子「野球の試合だってことは、なんとか分かってるみたいなんだよね」
男「そうなんですね……」

ともあれ、かつての剛先生が戻ってきたみたいで、嬉しかった。
色んなことを忘れてしまっても、剛先生が剛先生であるなら、
それは本当に良かったと思えた。

俺はグラウンドの凪の方を見ると……叫んでいた。
咄嗟のことだったので、なぜそうしたのかは、よく覚えていない。

男「凪!! お父さんが来たぞ――!!」

マウンド上で仲間に囲まれていた凪は、こちらを振り向くと、
言葉にできないほどの鮮やかな笑顔を見せた――。

遠く離れていてもはっきりと分かるほどの、夏の向日葵のような、
それはそれは眩しい笑顔だった。

空気が変わった……。
一瞬でそんな”予感”を感じ取った。

それからの凪は、先ほどまでの重々しいムードが嘘みたいな快投を見せた。

まず、ノーアウト1塁3塁で迎えた4番バッターを三振で切り落とし、
さらに1アウトで迎えた5番バッターもセカンドフライに抑え込んだ。
きわめつきには、最後の6番バッターを目が覚めるほどの三球三振で抑え込んだ。

これにはチームメイトも、ベンチも、大いに沸いた。
グラウンド上のナインに、再び明るい活気が戻ってくる。

男「凪! いいぞ!!」

父兄に混じって応援する俺も、思わず右手を掲げてガッツポーズをしてしまった。

続く6回のウラでは、キャプテンが意地を見せてタイムリーを放ち、
1対2の1点差にまで追いついた。

一度は完全な諦めムードに陥っていたチームが……
再び闘志を取り戻していた。

もう、誰ひとりとして下を向いている者はいなかった。

そして訪れる最終回。7回のオモテ。

凪のチームは何度かランナーを出す苦しい展開を迎えつつも、
凪の渾身のピッチングと、チームメイトの全力の守備によって、
なんとか無失点で抑えることに成功した。

そうして迎えた、7回のウラ。
泣いても笑っても、最後の攻撃。

1点、あわよくば2点が欲しい凪のチームは、
なんとかノーアウトの状態でランナーを出したい……。

しかし、先頭打者と二番目の打者が立て続けに凡打に倒れ、
あっという間に2アウトという、あとのない状態になってしまった。

この緊迫した場面で打順が来たのは……5番バッターの田向君であった。
彼が出塁できれば……次のバッターは凪だ。

田向君は打席に入る直前、ネクストバッターズサークルにいる凪に向かって叫んだ。

田向「死んでも先輩に繋ぎます!!」

その呼びかけに、凪がどう答えたのかは分からない。
田向君はにこやかに笑ったかと思うと、そのまま打席に入った。

初球であった。
こんな場面、普通なら萎縮してしまって初球なんかには手が出ないのだが……
田向君はそれを逆手にとって、甘めに入った初球を気持ちよく打ち返した。

右中間を割る、綺麗な2塁打だった。

地鳴りのような歓声が1塁側ベンチに沸き起こる。
長打を放った田向君は、2塁で両手を上げ「っしゃあああ!」と吼えている。

最終回、2アウト2塁。
このとんでもなくプレッシャーのかかる場面で打順が回ってきたのが……
他でもない、凪だった。

一打同点のチャンス。
ここでヒットを打つことができれば、試合はまだ終わらない。

男「凪、がんばれ―――!!!」

瞬間、俺は持てる限りの力を込めて叫んでいた。
喉が潰れるほどの、後先なんて一切考えていない全力の叫び。

すると、ベンチや他の父兄からも次々と凪を応援する声が上がった。
そこにいる全員が凪を見つめ、同じように凪にエールを送っていた。

どうにかして打ってほしい。
お父さんの見ている前で……”約束”を果たしてほしい。

「ふう」と軽く息を吐くと、こわばった顔つきで打席に立つ凪。
相手の捕手も、「よっしゃ落ち着いていこう!」と声を上げた。

一球目。
外にわずかにはずれ、ボール。

二球目。
インコースのストレートを見逃し、ストライク。

三球目。
外角の見せ球に手が出てしまい、空振り。

2ストライク。追い込まれてしまった。
凪は一度打席を外れ、深呼吸をしてリズムを整える。

グラウンドにいる全員が息を呑み、祈るような思いで凪を見つめている。

その時であった――”奇跡”が起きたのだ。

剛「凪! ビビらないで打て――!!」

もう、凪のことは覚えていないはずの剛先生が、そう叫んだのだ。
先ほどまでさしていたはずの傘も、いつの間にか畳んでいる。

剛「凪なら打てる! いけ!」

それに気付いた凪はひどく驚いたようだが、すぐに落ち着くと、
にこりと笑って大きく頷き、再びバッターボックスに立った。

バットを構え、相手投手を見つめる凪の横顔には……
もう寸分の迷いも、ためらいもない。

フルスイングで打ち返した大飛球は青空に吸い込まれ――
センターの遥か後方まで飛んでいき、見えなくなった。

相手チームの外野は必死でボールを追いかける。
しかし、それは文句のない最高のホームランだった。

劇的なサヨナラ勝ち。
凪の放ったホームランにより、凪のチームは大逆転勝利を収めた。

1塁側ベンチが、歓喜の渦に包まれる。

ホームベースに戻ってきた凪は、狂喜する仲間たちに囲まれ、
笑いながら涙をこぼしていた。

最高の瞬間だ。
今までやってきたことが報われ、叶ったんだ……。

男「凪……よかったなぁ……本当に……」

喜んでいる凪たちを見ていると胸がいっぱいになり、視界が涙で滲んできた。
人前で泣くまいと、歯を食いしばってどうにか堪える。

隣では、陽子先生がハンカチで目元を押さえて泣いており、
剛先生は「凪、よくやった!」と快活な笑顔を見せていた。

剛先生は本当に……凪の記憶が戻ったのか?
たとえ一時的なものだったとしても、もしそうなら……正真正銘の”奇跡”だ。

試合後の挨拶が終わって、凪が勢いよく剛先生のもとへと駆け寄ってくる。

凪「お、お父さん、私が分かるの?」
剛「ああ、当たり前だ! 凪、よく打ったな。最高だったよ!」
凪「お父さぁん……」

凪はぼろぼろと涙をこぼし、剛先生に抱きついた。

剛「なんだなんだ、どうしたんだ凪」

剛先生は照れくさいのか、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。

凪「お父さん、ずっとずっと話したかったよぉ……」
凪「嬉しい、すごく嬉しい――」

凪「お父さん、あのね。私、約束叶えたよ。地区大会で優勝した」
剛「ここで見てたよ。すごくいい試合だった」
凪「ほんと?」

剛先生は「ああ」と頷くと、歯を見せて楽しそうに笑った。
真っ白な陽射しを反射したその笑顔は、とても眩しく、輝いて見えた。

剛「お父さんは、凪がこんなに立派に成長してくれて……本当に嬉しいよ」
凪「お、お父さぁん……」

凪は「わああ」と声を上げ、大泣きした。

凪「お父さん、お父さん……!!」

剛先生は「どうしたの?」と戸惑っているようだったが、
どこか幸せそうな、とても優しい表情をしていた。

凪「ねえお父さん」
剛「ん?」
凪「一つだけ、訊かせてほしいことがあるの」
剛「いいよ。なんだい?」

凪は鼻をすすってから「ふふ」と笑ったあと、”あの質問”をした。

凪「お父さんは、雨が好きなの?」

すると、剛先生は少しだけ間を置いてから、嬉しそうに笑って答える。

剛「ああ、大好きだよ。どうしてか分かるかい?」
凪「んーん、分からない。……どうして?」

剛「もうずっと前のことだけどね……凪が生まれた日が、雨だったんだ」
凪「そうなの?」
剛「うん、そうなんだ」

そう語る剛先生の優しい目元からは、凪への愛情が溢れていて……
大切で大切でたまらない娘を愛おしそうに語る”父”の顔をしていた。

剛「だからね、雨を見ていると……凪が生まれてきてくれたあの日のことを思い出して」
剛「とても幸せな気持ちになるんだよ」

剛先生はまた笑う。凪とそっくりな、その明朗な笑顔で。

凪「そ、そうだったんだね……」

凪は「うえぇ」とまたしても大泣きし、剛先生に抱きついた。
そして何度も「ありがとう、ありがとう」とうわ言のように繰り返した。

剛先生がずっと雨を見ていたのは……。
そこに凪の思い出があったから――なのだろうか。

だとしたら。
剛先生は、彼にしか見えないその世界のなかで、ずっと幸せな気持ちだったのかもしれない。

そうだったらいいのにな……と思った。

ふと、晴れた空の白い綿雲から、ぽつぽつと雨が降り出した。
きらきらと輝く無数の雨滴が、乾き切った白砂のグラウンドに舞い落ち、跡をつける。

「雨?」
「珍しいね、晴れてるのに降ってきた」
「傘、あったかな」

珍しい現象に、周囲にいた人々がざわつく。

すると、どこからともなくこんな声がした。

「あ、狐の嫁入りだね。晴れてるけど傘をささないと」

それはまさしく、晴れ空に傘。
見上げると、青空の中に大きな虹がかかっていた。

凪と剛先生は透明なビニール傘を広げ、その中でふたり、いつまでも笑っていた。
晴れ空の傘のなかで――。

https://i.imgur.com/cMkLFfX.jpg

SS「晴れ空に傘」はこれでおわりです。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

他にも色々書いていますので、ぜひTwitterのフォローをお願いします。
富澤 南
https://twitter.com/Tomizawa_2ch

>>394
おつ
本当にいい話だったよ!
1つ聞いていい?これって舞台は山梨?

>>399
そのとおりです。

レスで気づいている方もいらっしゃいましたが、
笛吹川も、万力公園も、橋も、すべて実在する場所です。
このお話を読んで、少しでも山梨のことを知ってもらったり、
「山梨に行ってみたいな」と感じてもらえたらいいなと思って書きました。

もしこれを読んでくれた方で気になった人がいましたら、ぜひ。。

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月19日 (火) 23:21:32   ID: S:7XEZmu

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2 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 00:52:58   ID: S:jE3Ezr

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