みんな天使になってどっか飛んで行った (87)
目が覚めたら、世界の終わりを願う。
それが僕の日課だった。
地震が全てを崩してしまいますように。
隕石が地球をぶっ壊してくれますように。
ミサイルがこの国を焼き尽くしますように。
殺人的な伝染病が世界中に流行りますように。
大怪獣が何もかもを薙ぎ払ってくれますように。
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こんなことを考え始めたのはいつだったかな。
手を変え品を変え、僕はいろんな終わり方を願ってきた。
最近ではもうすっかりネタが尽きてしまって、
とっくにあらゆる世界の終わりを願ったように思ってたんだ。
だけど衝撃の急展開はいつだって、
想像力の外側からやってくる。
僕はちっとも予想していなかったんだよ。
まさかこんな風に、本当に世界が終わってしまうなんて。
***
真っ暗なスーパーの中で、僕は舌打ちをした。
懐中電灯に照らされた陳列棚はがらんどうだ。
ちょっと前まではそれなりの数があったはずの食料。
レトルトもシリアルもカップ麺も、
全部、すっかり失くなっていた。
ちくしょう。
油断していた。
最近ではもう人っ子一人見かけないんもんだから、
僕以外の人間はとっくに
飛んで行ったんだと思い込んでしまっていた。
僕は棚を蹴る。
思っていたより大きな音がして、
その音に僕はびくりとなる。
驚いてしまった自分に腹が経ち、
もう一度、さっきよりも強く棚を蹴る。
けたたましい音が、静かな店内に響き渡る。
一通り売り場を回る。
取り残された野菜や果物は黒くなり、
甘いような酸っぱいような得も言われぬ臭いを放っていて、、
僕は吐きそうになる。
一度も入ったことのない、店の裏側に忍び込んでみる。
幸いドアにカギはかかっていない。
バックヤードには段ボールがいくつも転がっている。
机に置いてあったカッターナイフを手に取って、
手あたり次第箱を開ける。
文房具、洗剤、電気用品。
今となっては無用の長物ばかりが見つかる。
かろうじて食料と呼べそうなものは
チューブに詰まった調味料ばかり。
おろししょうがを手に取って、それから放り投げる。
さすがにこれをそのまま啜るのはごめんだ。
外へ出る。
出口の横に立てかけておいた、
自分のクロスバイクにまたがる。
人気のない冬の街は、信じられないくらい冷え切っている。
吐く息は白く、手袋ごしでも手がかじかんで、
僕は思わず身震いする。
ペダルを思い切り踏みつけて加速する。
車一台通らない道路の上にちらほらと、
大きな白い羽根が土にまみれて落ちていて、
僕はわざとそいつらを轢くように走る。
みんなもう、どっかに飛んで行ってしまった。
白い羽を生やして。
まるで天使みたいになって。
***
この天使化現象ってやつがいったいなんなのか。
残念ながら僕はひとつも分かっちゃいない。
「欧州の男性、突然天使になる」
そんなバカげた題名の記事がネットニュースの片隅に載って、
なんだこりゃ、新興宗教の宣伝でもやってんのかと鼻で笑っていたら、
実際に天使化する人の動画がSNSにアップされ、
ワイドショーでも放映され、
そしたら日本でもぽつぽつ天使化する人が現れて、
日々増える天使化数をテレビでぼんやり眺めているうちに
天使化現象は人々の間にあれよあれよと広がって、
街を歩けば翼を生やしている真っ最中の人の姿を拝めるようにさえなった。
真面目な高校生だったもんだから、
そんな最中でも僕はしばらく学校に通っていた。
クラスメイトが両手で数えられるくらいになって、
教師もほとんど現れなくなった頃になって、
僕はようやく外に出るのを止めた。
店員のいない本屋から手あたり次第に漫画をかっぱらって、
自室に引きこもって、僕は漫画をひたすら読んだ。
親が飯だと呼ぶとき以外、ほとんど部屋の外にも出なくなった。
そんな生活は長くは続かず、ある日突然電気もつかなくなって、
しかたなく部屋から出てリビングへ向かうと、
背中から白い羽を生やした両親と目が合った。
二人の頭上には蛍光灯みたいな白い輪っかが、
まるで手品みたいにぼんやり浮かんでいた。
父親も母親も、まるでその辺に転がっている石ころでも
眺めるかのような視線で僕を見てから、
ベランダに出て、空へと飛び立って、
やがて遠く離れて、小さくなって見えなくなった。
両親は二人とも口数が少なく、
思い出せる限り、温かな家族団らんってものを味わった記憶は僕にはなくて、
夫婦仲は険悪なのだとすら思っていた。
だけど、二人同時に天使になって飛んでったところを見ると、
意外にも両親の間には何かが残されていたらしい。
愛だか絆だか、なんかまあそういう何かが。
天使になった人たちはどこかへと姿を消す。
大勢の人が天使になった今でも、
天使が空を飛ぶ姿はほとんど見つからない。
どこか遠くの場所でひとかたまりになっているのか、
それとも空の向こう側に消えてしまっているのか。
僕には分からない。
ともかく、両親と会うことはもうないのだろう。
小さくなっていく両親の背中を見ながら、僕はそう思った。
それから漫画を百冊単位で読みきるくらいの時間が過ぎたが、
僕はまだこうして取り残されている。
天使にならず、地に足のついたまま。
なぜだか。
***
ペダルを回しながら、
ちくしょう、と僕は何度も小さく呟いた。
目につく限りのコンビニにもスーパーにも、
缶詰一つ残っちゃいない。
別にいつ死んだって構やしないけど、
餓死なんて苦しそうな死に方はごめんだ。
朝から夕方まで半日食っていないだけで
もう既に腹が締め付けられるように苦しい。
自宅のカップ麺はもうすべて食べ尽くしてしまっていた。
残されているのは栄養補助食品が何箱かだけ。
いくらカロリーとお友達だって、あれっぽちじゃ数日もたない。
舌打ちを繰り返しながら、
やみくもに道を駆け抜けていたその時だった。
不意に、音が聞こえた。
ゆっくりとブレーキをかけ、僕は自転車を止めた。
いったい何が聞こえたのかと首をかしげ、
音の正体を探ろうと息をひそめた。
微かな歌声と、ギターの音色。
人の気配を感じたのは久しぶりだったから、
僕はなんとなく、吸い寄せられるように、
音の聴こえる方向へと自転車をこぎ進め始めた。
人に会いたいなんて思っていなかったはずなのに、
いったいなんでなんだろうな。
この街に誰もいなくなってすっかり静かになって、
僕はせいせいしたと思っていたんだけどな。
それともやっぱり、誰とも会わずにしばらく過ごすうちに、
心のどっかではちょっとは寂しく思い始めていたのかな。
いくつかの交差点を通り過ぎて、
僕はほどなくその場所に辿り着いた。
そこには一人の女性がいた。
彼女は、交差点の角に座り込んで、
歪んだガードレールにもたれて、ギターを弾いて歌っていた。
歳は多分、僕よりは少し上。
小柄な体格のせいか、抱えたギターはやけに大きく見えた。
歪なガードレールのそばには交通事故を知らせる看板があって、
傍らに立っていた瓶にはすっかり枯れ果てた花が差さっていた。
その花にでも捧げるように、彼女は歌っていた。
僕が耳にしたことのない、英語か何かの歌だった。
彼女が歌うその姿は、一見するだけじゃあ
なんとも絵になりそうな綺麗な光景だった。
一見はね。
実際のところそこにいた僕は、
思わず吹き出して笑ってしまった。
なんでかって?
彼女のギターも歌も、
ちょっと冗談みたいに下手くそだったからさ。
ギターの音色は途切れ途切れ、怪しい音がすぐ混入して、
歌の音程はすぐどっかに飛んで行ってしまいそうで、
まるでなんだか、死にかけた野良犬のうめき声みたいな演奏だった。
僕はクロスバイクを停めた。
女性は僕のことは意に介さず、
その音楽と呼べるのか怪しい歌を歌い続けた。
僕はそれを、ぼんやり突っ立って聴いていた。
ややしてから、彼女は唐突に演奏を止めた。
いや、本当は唐突なんかじゃなくて、
ちゃんと最後まで歌いきっていたのかもしれない。
僕には曲の展開がさっぱり掴めていなかったってだけでさ。
「ムズいなあ」
そんなことを呟いて、彼女はピックを投げ捨てた。
ポイ捨てだ。環境破壊だ。
それから顔を上げて、いま初めて僕の存在に気付いたような、そんな顔をした。
「何か用かい?」と、彼女は僕に尋ねた。
「路上ライブに感動でもしてくれたのかな」
そんなわけないだろ、と僕は思った。
思うだけじゃなく言おうとして、
久しぶりの声は喉から外に出ていかず、
僕は顔を背けて大きく咳払いした。
「どうしたの?」と彼女は言った。
「ファンじゃなければ、強盗か何かかな」
「……強盗」
その言葉を僕は小さく繰り返した。
繰り返してから、それもいいと考えた。
僕は明日食うものにも困っていて、
目の前にはか弱い女性だ。
持たざる者が得るためにはどうすればいいか?
一番シンプルな答えはもちろん、奪うことだ。
「そうだ、強盗だ」
「あ、本当に強盗だったんだ」
彼女は目を丸くして僕を見た。
そういえば刃物を持っていたな、と思い出して、
僕はショルダーバックからカッターを取り出し、
刃を出して彼女に突きつけた。
「歯向かうなら、えー、刺し殺すぞ」
脅迫に慣れていないこと丸出しのぎこちなさだった。
それを見た彼女は愉快そうに口に手を当てて、クスクス笑い出した。
「なんというか、まあ下策だね」
笑いながら彼女は言った。
「このご時世に、刺すだの殺すだのなんてさ」
僕は黙ったまま、険しい顔をなんとか保っていた。
正直なところ、この次にどんな行動をとるのが正解なのか、
僕にはさっぱりわかっていなかった。
彼女はそんな僕の顔を真っすぐ見つめて、ふうとため息をついてから、
傍らに置いてあったギターケースに、
ギターと楽譜らしき紙を収納し始めた。
「高いよ? せっかくのゲリラライブを中断させた代償は」
立ち上がってケースを背負い、彼女は歩き始めた。
「おい」慌てて僕は声をかけた。
「勝手に動くなよ」
「いいからついておいで。
食料でいいんでしょ、分けたげるから」
彼女はゆっくりと歩いた。
僕は自転車を押してその後に続いた。
二人分の足音と自転車の車輪が回る音が、
夕暮れの無人の街に、やけに大きく響いた。
沈黙に耐えかねて、僕は話しかけた。
「なあ」
「なにかね」と、彼女は前を向いたまま答えた。
「さっきの曲って、何?」
「“American Pie”って曲。
誰の歌だったかな、忘れたけど」
彼女はもう一度、サビらしき部分を歌った。
英語は苦手だったけれど、
冒頭の歌詞だけははっきり聞き取れた。
“バイバイ、ミス・アメリカンパイ”
調子っぱずれなギターがない方が、
その歌声は幾分か聞けたものになった。
「どういう意味の曲」
「知らない、私も特別に好きなわけじゃないから」
「……なんだそれ」
彼女は振り返り、僕の手元を見て、
にやりと笑いながら言った。
「カッターは? 脅さなくていいの?」
うるさいな、と僕は吐き捨てた。
***
十数分ほど歩き、暗くなる前に到着したのは似たような家が建ちならぶ住宅街で、
目的地はその中にある、こじんまりとした三階建ての一軒家だった。
一階部分はそのほとんどをガレージが占めていた。
車のない、がらんどうのガレージを抜けて玄関に向かう。
自転車はその辺に適当に立てかけておいて、と彼女は言い、
僕はその指示に従った。
家の中に入り、細い階段を上がって2階の扉を開けた。
扉の先はリビングで、窓際には太陽光発電のパネルが並べられており、
傍らにはバカでかいバッテリーみたいなのがたくさん鎮座していた。
その無骨な光景に僕は面食らって、すげえ、と呟いた。
「ホームセンターとかでかき集めたんだよ。
サバイバル上の課題の多くは、電気があれば解決する。
こっちに居残りしてる間もできれば快適に過ごしたいじゃない?」
ギターを適当に床に転がして、彼女は僕の方を見た。
「お腹減ってるんだよね。なんか作ろうか?」
「うん」
「じゃあ適当にくつろいでて。ソファとかで。
電気もったいないからテレビは付けないでよ」
「……どうせなにも放映されてないだろ」
キッチンに向かった彼女を居心地悪く待つ間、
僕はリビングをあちこち見回していた。
もともとなのか、天使化現象の結果なのかは分からないが、
無骨な生活インフラ以外にものは少なく、やけに生活感が薄く見えた。
「他に、だれか住んでるのか?」と僕は大声で聞いた。
「父さんも母さんも割と早めに天使になったよ」と大声が返ってきた。
「弟もいたけど、もういなくなった。
今は私一人だよ、君にとって都合の良いことにね」
調理にそう時間はかからず、僕が待ちくたびれる前に彼女は料理を完成させた。
ダイニングテーブルに配膳されたのはシンプルな山盛りの牛丼で、
呼ばれて席に着くや否や、僕は一も二もなくがっついた。
彼女は向いに座った。
「肉なんて久しぶり、って顔をしてるね」と、
少なく盛られた自分のごはんを行儀よく食べながら、彼女は言った。
飯を掻き込みながら僕は頷いた。
「たまねぎは常温で保存がきくし、肉は細切れをバッテリーつないだ冷凍庫に突っ込んでる。
急ぎだったから米はレトルトだけど、電気があればまあいくらでも炊けるしね。
他にもいろいろ、しばらく食っていける程度には保管している」
君は今まで何を食べてたの、と彼女は尋ねた。
カップ麺ばっか、と僕は答えた。
栄養偏るよ、と彼女は笑いながら言った。
今となっては栄養バランスなんてどうでもいいかもしれないけどね、とも。
フードファイターもかくやというスピードで飯を平らげて
膨れた腹をさする僕に向かい、
さて、と彼女は言った。
「私は君の願いを叶え、ご飯を施した。
したがって、次は君が対価を払う番だね、強盗君」
そういえば僕は強盗を名乗っていたな。
改めて呼ばれるまですっかり忘れていたけど。
「そんなこと言われても。
俺、強盗だし。払う義理なんてないだろ」
「なにを言うんだ今更。
素直についてきておとなしく飯まで食った分際で、
まだ強盗の立場を貫くつもりかい」
「……対価ったって、お金はたいして持ってないぞ」
「要らないよお金なんて、そんな無用の長物」
にやにやと彼女は笑った。
「君には身体で対価を払ってもらおう」
「身体で、というと」
僕はごくりと唾を飲んだ。
「エロい意味ですか」
「エロい意味じゃないよ」
「エロい意味じゃないんスか」
「エロい意味にしとくかい?
覚悟しなよ」
「エロい意味じゃなくていいです」
「へっ、このチキン童貞野郎め」
「決めつけるなよ」
まあ実際童貞だけどさ。
「さて、わかりやすい取引を提示しよう」
彼女はどこからか一枚の紙を取り出して、僕に手渡した。
「私は君に食事を提供する。
君は私の活動を補佐する。
以上の単純なギブ&テイクです」
僕は紙を覗き込んだ。
その上部には丸っこい文字で大きく「やりたいことリスト」と書いてあり、
下には箇条書きでいろんな項目が並べ立てられていた。
例えばこんな風に。
・フォアグラを飽きるまで食べる
・めっちゃいいワインを飲んでみる
・Stand By Meごっこ
・ゲリラライブ
・オーロラを見に行く
・カビパラとペンギンを飼う
・動物たちの解放
・図書館でめちゃくちゃ叫ぶ
・明け方の海で花火をする
・ブランド店でファッションショー
・ボドゲカフェのボドゲ全部やる
こんな感じの項目が、延々続く。
一部の項目には取り消し線が引かれており、
例えばゲリラライブなんかが消されているところをみると、
その線は実施済みであることを意味しているのかもしれなかった。
「なんつーか」と僕は言った。「俗っぽい」
俗で何が悪い、と彼女は憤った。
「人を駆動するのはいつだって欲望だ。
技術も、文化も、経済も。
全部欲望によって発展してきたんだぞ」
「技術も文化も経済も、全部なくなったけどな」
「それでも多くのモノがこの世界には残されている。
私には地上でやりたいことがまだまだ沢山あるんだよ。
だから、私は天使にはならないんだろうな」
「どういう理屈だよ」
「単純な理屈だよ。
ねえ、人が何で空を飛べないのか、君は知ってるかい?」
はあ、と僕は眉を顰めた。
「……翼がないから、じゃないスか」
僕の回答に対して、「それは違うね」と、
チチチと指を振りながら偉そうな顔で彼女は言い、
僕は少しイラっとする。
「人が空を飛べないのは、自分が飛べないと知っているからだ。
翻せば、自分が飛べると確信してしまえば、
人は空を飛べるようになるのさ」
「意味がわからない」と僕は正直に言った。
「それが天使化現象の正体だって?
空を飛べると確信して、空を飛ぼうとすることが?」
「さあ、わかんないけどね。そうなんじゃないかな。
きっと人類みんなして、もう次の段階に進んでいい時が来た、
もう地べたに張り付いている必要なんてない、
そんな風に気付いちゃったんだよ。
だから、みんな天使になってどっか飛んで行った。
飛ぼうとしないひねくれ者とか、
飛び方がわからない愚か者とかを除いて、ね」
僕は顔をしかめる。
その理屈に従えば、この人はひねくれゆえに地上に残ってて、
僕は愚かさゆえに地上に置き去りにされているってことか?
まったくもって笑えない話だ。
「人がやがて人ならざるものに進化するなんて、
SFじゃあ定石の展開でしょ?
それが思った以上に唐突で急速だったってだけだよ」
「……よく知らないけど」
SFどころか、小説自体僕はあまり読まないから。
「読みなよ。クラークとかおもしろいよ。
貸そうか?」
「小説には別に興味ないから」
「何になら興味あるの?」
「…………さあね」
そういうわけで、と言いながら彼女は僕の手元の紙を取り返す。
「私には残されたミッションが山ほどあるから、手伝いなさい。
なんか日々が充実してなさそうな鬱屈したツラをしているし、
君はどうせ暇なんでしょう」
「ほっといてくれよ」
「じゃあなにかやりたいことがあるのかい?」
「……別にないけど」
「じゃ、明日の早朝、またこの家に来なさい。
それか、別に泊っていってもいいよ?」
女の人と同じ家に泊まるという思ってもみない展開に、
僕は少しドキリとしてしまうが、
仏頂面を保って、平静を装って答える。
「……いや、良い。自分の家で寝る」
「あらそう」
彼女はにやりとする。
「じゃ、そろそろお帰りなさいな。
もうすっかり暗くなったしね。
不慮の事故にあうかもしれないし」
「人がほとんどいないのに、どうやって事故にあうんだよ」
「それでも気を付けなさい。
事故はいつかどこかで必ず起きるものだよ?」
帰ろうとする僕を、彼女は玄関まで見送った。
「そういえば、なんて呼べばいい?」と彼女が言った。
「君のこと。強盗君じゃあないんでしょう」
「なんでもいいよ」と僕は言う。
「名前なんて必要ないでしょ、
どうせ人なんてほとんどいないんだから」
「なんでもいいってのも困るなあ」
彼女は手を顎に乗せ、考え込むポーズをとる。
「じゃあ、"少年"とかでいっか」
「別にそれでいい」
「じゃあ私のことも好きなように呼びなさい。
先輩とでも、先生とでも、お姉ちゃんとでも、何でも好きなように」
「……お姉ちゃんだけは、なんか、御免だな」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮とかじゃねえよ」
気色悪いと思う。
知り合って間もないのにお姉ちゃんとか呼びだす関係。
外に出て、壁に立てかけていたクロスバイクを反転させる。
「なあ少年」と、彼女が僕に話しかける。
「思うにね、私たちは幽霊なんだよ」
「幽霊?」僕は聞き返した。
「そう。未練がましく現世にしがみついているわけ。
成仏できない幽霊みたいにね」
少年、君の未練はいったい何なのかなあ、と彼女は僕に尋ねる。
別に何も、と言い残して僕は自転車を漕ぎだす。
言葉の通りだ。僕には何もない。
やりたいことも、やり残したことも、なにも。
街灯も付かない真っ暗な夜道の中を、
僕は走る。
***
次の日。
早朝に訪れた僕を、彼女は玄関の前で出迎えた。
「それを飲んだら出かけよう」
彼女はカバンから水筒を取り出し、中身を蓋に注いで差し出した。
湯気の立つコーンスープ。
僕はありがたくそれを口に含む。
久しぶりに飲むコーンスープはいやに甘ったるい味がした。
「それで、今日は何をしに行くんだ?」
「自由の使者となる」
「はあ?」
「隷属された者たちを解放するのさ」
「あんたはリンカーンですか」
「私はリンカーンではないけれど、後世は私を偉大な解放者として
リンカーンより先に挙げることになるだろう」
「僕たちに続く後世なんてもうないけどね」
「そういうわけで、目的地はここから自転車でしばらく。
動物園です。出発!」
「どういうわけ?」
威勢よく発進した彼女の自転車はオンボロのママチャリで、
それはまるで老人の散歩みたいなスピードで、
僕は何度もうっかり置いて行ってしまいそうになった。
速すぎるよ、と後ろから声が聞こえる度に、
あんたが遅いんだよ、返しながらブレーキを握る。
「自転車は疲れるなあ」
隣に追いついてきた彼女が、
息を切らして僕に言う。
「じゃあ車でも出せば良いじゃないスか」
「私、無免許なんだよ」
「いまさらそれを気にするのかよ」
「確かに法律なんて関係ないけどね。
でも初めてで上手に運転できる自信はないし、
もし事故っても診てくれるお医者さんがいない。
致命的だよ?」
「速度出さなきゃ大丈夫だろ」
「やなものはやなの!」
年甲斐もなく彼女は口をとがらせる。
いや、何歳なのか、実際には知らないけれど。
「ねえ、君は好きなの? 自転車」
「いや……」僕は口ごもる。
「別に、そこまで」
「そんなに良さそうなやつに乗ってるのに」
「大したものじゃない。
ロードじゃなくてお手頃のクロスだし。
高校入学祝いに親から貰って、
まあ気に入ってはいたけど」
僕は頭を掻く。
「別に、所詮は自転車だし。
行けるところまでしか行けない」
「行けるところまで行けるのは、結構すごいことだけどね」と彼女は言う。
「どこか行きたいところはないの?」
「特に」
「そればかりだなあ少年は」
彼女は不満げな顔でこちらを向く。
ふらふらと危なっかしいから前を見て運転してほしい。
「別にない、特にないとナイナイ尽くし。めちゃイケか?」
「古くない?」
「夢でも妄想でも、行けそうにないとこだっていいからさ。
気になってた場所が一つくらいはないの?」
そういわれてもなあ、と僕は頭を掻きむしる。
かなり長い沈黙を経て、そういえば、と僕は思い出す。
「隣の家の玄関に看板が立ててあってさ、
大きな矢印と、Los Angelsって文字」
「ロサンゼルス」と彼女は僕の言葉を繰り返す。
「親が、これはアメリカの街だって教えてくれて。
小さいころは、矢印に沿ってずっと進んでいけば、
いつかはロサンゼルスに辿り着くんだって本気で信じてたな」
「とても良いエピソードじゃん」彼女は満面の笑みを浮かべる。
「行ってみればいいじゃないか。
いつかはロサンゼルスに辿り着くかもしれないよ?
なんてったって、地球は丸いんだからさ」
行けるわけないだろ、と僕は言う。
そういう雑談を経て、数十分。
長いサイクリングの果てに僕らは動物園にたどり着く。
エントランスを潜り抜ける。
当然のように人は誰もおらず、中は真夜中みたいに静まりかえっている。
だだっ広い道を進んだ先にはやたらとでかい看板が、
土埃にまみれて立っている。
「ここからが本番だ。
少年、何をすべきかわかるね?」彼女は言う。
「動物をここから逃がすとか言い出すわけ?」
「その通り。
狭い世界に囚われし者たちを解き放つのだ!」
「危なくない? 肉食獣とかいるのに?」
「そこはほら、動物たちもくみ取ってくれるさ、
私たちの愛を」
「愛が食欲に勝つといいですね」
くだらない話をしながら歩を進める。
靴とアスファルトのこすれる音が静かな園内に響く。
「なんか、変だな」
「なにが」彼女の言葉に僕は尋ねる。
「静かすぎる」と彼女は答える。
「気配がない」
違和感の理由はすぐに判明する。
動物が、何もいない。
どの檻にも、どの広場にも、どの水槽にも、何も。
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