【オリジナル】クリスマス・ヒーロー (60)



 豊橋という女子生徒は物静かで不思議な雰囲気を纏っていた。

『不思議』と一言で表現しても、それは何も電波系な不思議さではなく、例えば普通に授業を受けているだけ、あるいは廊下を歩いているだけでも、彼女は静謐な神聖さというか、軽々しく触れてはいけないような気持ちを抱かせる。この女の子の近くは常に空気が澄んでいるような錯覚を周囲に与える。

 しかし、立てば芍薬座れば牡丹……なんて言うほど豊橋の容姿が特段に優れているわけではない。彼女は少し色素の薄い柔らかそうな黒髪に、良くも悪くも普通の顔立ちをしている。

 だけど、それでも豊橋の佇まいは人の目を引き、思わず一歩距離を置いて遠巻きに眺めていたくなってしまうのだ。


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 そんな豊橋と物理的な距離が近くなったのは、秋の席替えの時だった。

 一クラス二十七人、どこにでもある普通科高校の一年生の教室。廊下側から数えて二番目の列の一番後ろから一個前が俺、そしてその後ろが豊橋だった。

 豊橋の話は俺も常々耳にしていたし、ましてや同じクラスでもう半年も過ごしているのだ。そういう雰囲気というのにも慣れたつもりだったけれど、実際に近くに彼女がいるとどうしたことだろうか。

「よろしく」なんて豊橋に声をかければ、「ええ」なんて静かなのにやけに通りのいい声が鼓膜をくすぐる。スンと息を吸えば、冬の日の出を想起させるシンと清められたような芳香が鼻を抜けていく。

「豊橋は人型空気清浄機だ」なんて友達が真面目な顔をして言っていたことを思い出した。

「豊橋と同じクラスになってから風邪をひかなくなった」なんて別の友達が言っていたことも思い出した。

 その時の俺は笑いながら冗談として受け取っていたけれど、実際に彼女を近くにしてみると、それらもあながち間違いではないんじゃないのかもな、なんて思ってしまった。


 豊橋は、クラスでは“触れてはいけない人”のような立ち位置を確立していた。

 触れてはいけない、と言っても、彼女は嫌われているわけではない。むしろその逆だろう。

 私のような人間がそう軽々とこの人に話しかけていいのだろうか……とは、前回の席替えで豊橋の隣の席になった女子生徒の言葉である。それに「わかる」と神妙に頷く女の子がたくさんいた。

 豊橋と話す時だけ異様に緊張するんだけど……とは俺の男友達の言葉である。それに「それな」と強く頷く野郎どもがたくさんいた。

 だから俺も豊橋の空気にあてられて畏れ多くて萎縮する……なんてことはなかった。


 なにせ俺はデブなのだ。

 いや、デブは言い過ぎたかもしれない。とにかく、俺は小太りかデブかで百人に問えば大体フィフティーフィフティーに意見が分かれるような体型をしているのだ。

 好きな食べ物はラーメンとハンバーグ。嫌いな食べ物は何もない。出された食事は全て平らげるのが礼儀だ、とお皿まで舐めるような勢いで食べるという矜持がある。年々ウエストのサイズが大きくなるのに若干の不安を覚えないでもないけれど、男には決して曲げてはいけないものがあるのだ、という開き直りにも似た矜持だ。

 そんな哀れな仔ブタには豊橋の静謐な空気もそこまで効かない。なにぶん俺は周りに流されない鈍感なのだ。十年物の皮下脂肪を舐めてもらっては困る。伊達に太っちゃいねーんだよこっちは。

 そういうわけで、俺は話題を見つけては豊橋にもちょくちょく声をかけていた。昨日食べたラーメンが美味しかったとか、グルメ番組の料理が美味しそうだったとか、駅前商店街に新しく出来た飲食店のレビューだとか、なんだとか。


 豊橋の反応はいつも薄かった。

「そう」「うん」「ふぅん」「そう」「へぇ」「ええ」「そう」……何を話しても大体こんな感じだった。

 食べ物には興味ないのかなぁ、あんなに美味しいのに……あ、ていうか俺ウザがられてるのか――なんて思って落ち込む時も一瞬だけあったけど、なんだかんだで俺の話は最後まで聞いて相槌を打ってくれるし、最近は「それは美味しそう」とか言ってくれる豊橋を見ていると、段々と対抗心のようなものが胸中に芽生えてきた。

 ――いつか絶対、豊橋の腹の虫が鳴くようなグルメ話をしてやる! 今に見てろ、そのポーカーフェイスを崩してやるんだから!

 そんな野望を皮下脂肪のさらに下へと抱えこんだ俺の秋はあっという間に流れていき、やがて季節は晩秋へ駆け込んでいった。


 その日の俺は珍しく読書なんかを嗜んでいた。

 秋と言えば一に食欲二に睡眠、三四が無くて五に食欲。つまり何でも美味しく頂ける魔法の季節だ。

 だけど世論は『秋といえば読書だスポーツだ』なんて嘯くもんだから、俺もたまにはそんな世間の流行りに乗っかってみたのだ。

 そうして手に取ってみたのは、なんでもおよそ十年ぶりに新刊が出るというライトノベルの第一巻だった。

 十年前って言うと俺は六歳か、あのころのマイブームはお好み焼きだったなぁ……なんてノスタルジックな気持ちに浸りつつ、肌寒い晩にその本を読み耽り、読み終わる。

 端的に言うととても面白かった。たまには読書の秋もいいもんだな、なんて思った。


 その翌日、学校に登校すると、俺は早速豊橋に声をかけた。

「なぁ、サンタクロースっていつまで信じてた?」

 それは昨日読んだライトノベルの冒頭の文と重なる部分が大いにあったけれど、なにぶん俺は周りに影響されやすい性格なのだ。十年物の皮下脂肪とそれに付随する鈍感? それについてはまた別腹だ。

 何はともあれ、そんな俺の言葉を聞いた豊橋は目をぱちくりと一度瞬かせた。初めて見た反応だった。

「……辰野君って、食べ物の話以外もできるんだ」

「なにっ」

 そしてなかなか結構なことを言われた。こいつは俺をなんだと思っているのだろうか。……あ、食べ物のことばっか考えてるブタか。まぁ、うん、確かにそれはしょうがないかもしれない。


 それはそれとして。

「失礼な、俺はこう見えて文化的な側面もあるんだぞ」

「絶対、うそ」

「いやいや、食は全ての文化に通ずるんだぞ?」

「ほら、また食べ物の話」

「これは言葉の綾だ」

 なんて、しょうもない会話が続いた。あら珍しや……なんて思っていると、フッと息を吐き出した豊橋が呟いた。

「……今でも信じてるって言ったら、どうする?」

「は? サンタクロースを?」

「…………」豊橋の顔に愁眉。そして緩く首を振った。「なんでもない」

 そんな反応を見て、ちょっとムッとした。それはアレかな、こんなブタに話しても理解を得られるわけがねぇやな的なアレかな?

「サンタクロースはな、信じてるやつの中にいるんだよ」

 だから俺は勢いに任せて口を開いていた。

「……え?」

 豊橋は胡乱なやつを見つけたっていう風な目を向けてきたけれど、気にしない。

「信じてるやつの中には実在するんだよ。俺だってサンタはいると思う。つかいて欲しい。その理由がお前にはわかるまい。なぁ?」

 挑発的に言うと、流石の豊橋もちょっと腹が立ったのか、三白眼になる。あんまり怖くなかった。


「じゃあ、教えてよ。理由」

「ああいいとも。いいか、お前、豊橋。サンタクロースの姿を頭に思い浮かべてみろよ」

「……ええ」

「赤い服を纏って、白いひげを蓄えてさ」

「……うん」

「そしてデブだろ?」

「…………」

「は? なんで無言なの? なに、お前のサンタってもしかして細身のイケメンなの?」

「……違うけど」

「だろ? デブだろ?」

「まぁ……うん」

「うむ。で、サンタはデブなくせにみんなの人気者だろ?」

「そう、だね……」

「つまりな、サンタクロースってやつはデブの憧れなんだ。ヒーローなんだ。デブっててもいいんだよ、人気者になれるんだよって俺たち仔ブタを勇気づけてくれるんだ。だからいて欲しいのだよ」


 わかってもらえたかな? と聞くと、しばらく無言。それから、

「……サンタに憧れるより、痩せた方が早くない?」

 とか言われた。

「なんてこと言うんだ、お前、その言葉は世界のデブの半数に宣戦布告するも同然だぞ」

「半数なんだ」

「そりゃあそうだ。デブにはそれぞれデブなりの矜持があるんだよ」

「……前から思ってたけど、辰野君は変わってるよね」

「それは豊橋には言われたくないのだが?」

 なんて言い合っているうちに予鈴が鳴った。気付かないうちに隣の席に集まって電車の話をしていた鉄道系男子たちも自席に戻っていき、俺と豊橋の会話も打ち切りになった。



   ◇


 その日を境に、俺と豊橋は前よりも色々なことを話すようになった。

 俺はもちろん食べ物の話がメインだったけれど、たまには面白かったテレビ番組や野郎連中との遊びなんかも話すようになった。

 豊橋も豊橋で、「今日はどれくらいから食べ物の話になるのか考えてた」だとかなんだとか、真顔で冗談を放つようにもなった。

 表情が表情だけに冗談なのか皮肉なのか判断がつき難いところだったけれど、稀に豊橋の方からもなんてことない話を振ってくることがあるし、通学中にばったり顔を合わせれば、

「よー」
「ええ」

 なんてとても気の抜けた挨拶を交わすくらいだから、きっと冗談なのだと俺は信じている。


 豊橋とより言葉を交わすようになってから、段々と彼女のこともわかっていった。

 例えば、好きな食べ物はクレープ。

「え、クレープってデザートだろ? 食べ物ったらお前、なんかこう、主食になるようなアレだろ?」

「……甘いものは女性の原動力だから」

「そういうもんなのか」

「そういうもの」

 例えば、嫌いな食べ物はネギと納豆。

「はーっ? お前、ネギと納豆食えないってヤバない? あんだけお手軽&栄養満点なくせに白いご飯が何合でもイケちゃう魔法の食材だぞ? ネギの香ばしさと納豆の粘り気に絡む醤油タレ……ああ、考えるだけでもお腹が減る」

「……無理」

「もったいない」

「無理なものは無理」

 それ以外にも、家には小さな弟と妹がいるだとかテレビ番組はあまり見ないだとか、どうでもいいことも知った。


 そうして時間は過ぎていく。

 気付けば十二月になっていて、朝晩の冷え込みもどんどん厳しくなっていた。

 俺には皮下脂肪という最強防寒具があるから大丈夫だけれど、朝の豊橋は白いもこもこのマフラーを巻いて、いつも寒そうに手を擦り合わせていた。

 そのマフラーと少し白くなった肌が彼女の持つ神聖さをより一層際立たせていて、豊橋は他の季節よりも人に遠巻きにされていた。だからなんだって話だけど。

「よー、おはよ」

 十二月初頭のとある一日も、俺は変わらず後ろの席の豊橋へ声をかける。

「ええ、おはよう」

 豊橋もまだ学校に着いたばかりなのだろうか、もこもこマフラーを巻いたまま挨拶を返される。

「相変わらず寒そうだなぁ。もっと太った方がいいんじゃね?」

「……辰野君は今、全女性を敵に回す発言をした」

「おっとっと、こりゃあ失敬したでござるな」

 相変わらず怖くない三白眼で睨まれて、肩を竦めておどけてみせる。女性に太るは禁句だと、母さんも常々、煎餅をかじりながら仰っておられたわね。


「……ねぇ」

「んー?」

 しかし母上様がリビングでソファに寝っ転がる姿はまごうことなきトド……なんて考えていると、珍しく豊橋の方から話題を振ってくれるようだ。気の抜けた言葉を返すと、彼女は少し宙を眺めてから、再び俺を視界に捉える。

「辰野君、バイトってしたことある?」

「アルよ。中華料理屋さんでバイトしてるアルよ」

 ニーハオ、シェシェ、ザイジェン……と店長が教えてくれた中国語を続ける。

「やっぱり」

「おうおう、やっぱりってどういうこったね。まさか、俺が賄い目当てでうら若き身体と時間を売ってるとお思いか?」

「うん」

 即答された。何か言い返そうかと思ったけど、もう俺の身体は店長が作ってくれるチャーハンと麻婆豆腐なしじゃ生きられない風になってしまっているから何も言えなかった。


 だから開き直ってお店の宣伝をすることにした。

「いや、マジで美味しいんだ。特に油淋鶏な、少し酢を効かせた醤油ダレなんだけど、刻んだネギを炒めたやつと絡ませて頂くともうさ、ご飯が一瞬で消えてなくなる」

「……ネギ」

「あーあー、そっかネギ先生がダメだったな豊橋さんは。じゃあ豚キムチだ。店長めっちゃ味濃い目に作ってくれるからさぁ、これもウメーんだわ。辛いの苦手な人も大丈夫、ちょっとピリ辛ってくらいにしてくれるし、もちろん辛いの好きな人用に香辛料どっばどばで汗だくチキンになっちまうようなブタキムもあるぞ」

「それなら」

「さっすが豊橋、話が早い。駅前商店街の中ほど、赤い看板と白い幟が目印! みんなも是非来てネ! ……んで、なんの話してたんだっけ?」

「……バイトの話」

 豊橋は呆れたように息を吐きながら短く言った。それから巻いたままだったマフラーにようやく手をかけて、それをゆるゆる外していった。


「あーそうそう。なに、バイトでもすんの?」

「少し、興味が」

「ほーほー、そっかそっか」

「けど、私……こう見えて、人見知りで」

「こう見えて……?」

「……どうして首を傾げてるの?」

「いや、うーん?」

 豊橋が人見知り。なんとなくそんなように見える気もするし、神聖さを纏って人を遠巻きにさせる彼女にしては意外なような、絶妙に判断に困る言葉だった。

 まぁ、どうでもいいか。

「まーバイトったら接客業がほとんどだし、お店のスタッフさんたちと馴染むのも大変だよなぁ。かくいう俺だって……」

「辰野君はあっという間に馴染みそう」

「初日に『ぶーちゃん』なんてあだ名でみんなに呼ばれだしたな、そういえば」

「……想像以上に早かった」

 豊橋は珍しく羨むような目で俺を見てきた。

「どうしたら、そういう風になれるかな」

「どうしたらっても、俺はいつも通りにご飯をたくさん食べただけだけど」

「……なるほど、ご飯」

 今度は神妙な顔で頷きだした。本気で参考にしていそうな様子だ。豊橋って意外と天然なとこあるよなぁ、なんて最近よく思う。


「しかし、どうしてバイト?」

「クリスマスが……」

「ああ、もう近いな」

「私も、もう高校生だし、弟と妹に何か買ってあげようかなって」

「なるほどねぇ」

 自分のためじゃなく家族のために。なんていい子なんでしょうか。俺なんて初任給で買った自分用のいいお肉、家族のみんなにほとんど食べられちゃったというのに。

「けど、それじゃあ間に合わなくないか」

「え……?」

「ほとんどの場所の給料は月末締めの月末払いだと思うぞ。今月働いた分は来月に渡されるってとこが基本じゃないか」

「…………」

 豊橋は無言で瞬きを数度繰り返した後、うなだれてため息を机の上に落とした。「そ、っか……」という風に吹かれて消えてしまいそうな声も落とす。それと一緒に魂まで抜け出てしまうんじゃないかと思わずにいられないほど落胆したご様子だ。


「まーまーそう落ち込むなって、豊橋センセ」

 がっくりと落とされた肩をポンポンと叩いて励ます。思ったよりも華奢な肩だった。やぱりもう少し太った方がいいんじゃないの……という言葉は今は飲み下す。

「……うん。来年、頑張る」

「いやいや、来年より今できること探そうぜ」

「……いま?」

「そう、今。探せばあるだろ、高校生でもできる日雇いのバイト」

「日雇い……」

「もちろんまるまるひと月働くよりは貰えないけど、それでも選択肢があるだけマシっしょ。それに日雇いならその日限りの関係だし、馴染むとかどうとか考えなくてもいいし?」

 とまで言ったところでチャイムが鳴る。豊橋は惚けたような顔をしてから一転、表情を明るくさせた。

「そういうわけで、求人サイトで日雇い探してみるのもいいんじゃないか」

「うん。ありがとう」

「ゆーあーうぇるかーむ」

 中国語と英語を織り交ぜた国際的交流を終えると、豊橋はいそいそとバッグからスマートフォンを取り出していた。そんな彼女の様子を少し微笑ましく思いつつ、俺は黒板の方へと身体を向けた。



   ◇


「あったよ、私でもできそうなバイト」

 と豊橋がやたら嬉しそうに言っていたのは木曜日のことで、そのバイトがあるのは本日土曜日だった。

 人見知りなの、という告白をした豊橋がちょっと心配でもない今日この頃だったけれど、だからと言って彼女の様子を見に行くほど俺はお節介でもないし、豊橋とはそんな保護者と子供のような関係でもなかった。

 だから俺も「おー。それは良き哉」と言うに留めて、どこで何をやるかとは聞かなかった……けど。

「うん。駅前商店街の、落ち着いた感じの喫茶店」

 とご機嫌な豊橋に言われて、そういや赤い看板と白い幟が目印の中華料理屋さんの近くにそんな感じの喫茶店があったなぁとか思った。

 まぁ、だからどうしたって話。


 豊橋とは関係なく、俺は本日も中華料理屋でバイトに勤しんでいた。

 店長のチョウさんはいつも怪しい中国語とおかしな日本語を巧みに操り、本格的中華料理コックマンという印象をお客さんに与えている。

 初めて来たお客さんは「おお、なんか本格的な中華料理の人だ」という顔をするし、常連のお客さんは「まーたチョウさんがおかしなこと言ってら」と笑っている。その様子を見ると、この辺のコミュニケーションが実に上手な人だとよく感嘆する。

 そんなチョウさんとパートのおばちゃん、大学生のにーちゃん、ぶーちゃんこと俺の四人でお店を回す。

 もうここに勤めてから四ヶ月も経つから、忙しい土曜日のお昼時も慣れたものだった。オーダーをとって、料理を運んで、お会計をして、気のいい常連のおっちゃんから唐揚げを一個貰ってつまみ食いして……。

 滞りなく、お昼のピークが過ぎていく。今日も万事如意、ご飯が美味しくなるような汗をひたすら流していると、あっという間に休憩の時間になっていた。


「ぶーちゃん、今日なに食べるアル?」

 厨房で笑顔のチョウさんに尋ねられた。「ぶーちゃん、なんでも美味しそうに食べる。作り甲斐アルネ」なんてよく言われるから、俺も毎回気持ちよく賄いを平らげている。

「今日はアレっすね、シェフのおまかせがいいアルっすね」

「アイヤー、ぶーちゃん商売上手ネ。おまかせ、美味しいの作るヨ!」

「シェシェ!」

「ゆーあーうぇるかーむ!」

 そんな国際的異文化交流を終えると、俺は「ちょっと外行ってきますね」と一声かけてからお店の外へ出る。

 暖房と中華鍋の熱が籠った厨房と違って、外の空気は冷え込んでいた。寒々とした冬の風が汗の滲んだ額をなで斬りにしていったけど、生憎デブな俺には心地のいい冷たさだった。


 そんな商店街通りを歩く。目的地は……近くにある、落ち着いた感じの喫茶店。普段前を通る時、ガラス張りの壁からシャレオツなピープルが上品なカップでコーヒーやら紅茶やらを啜っているのをよく見るお店だ。

 俺にはきっと生涯縁がないところだなぁ、と思っていたその小洒落た軒の先に立ち、そっと店の奥まで覗いてみる。

 なんか高そうな陶磁器や何に使うのかよくわからない機械が並ぶ棚。1gいくらという値段の付けられた豆が鎮座する棚。

 その前方、注文を受け付けるカウンターだろうか。そこに、落ち着いたダークブラウンのエプロンを纏い、いつものようにやたら静謐で神聖な雰囲気を醸す豊橋がいた。

 ああ、やっぱりここなのか……いやマジで関係ないしだからどうしたって話だけどやっぱ気になるからなんとなく来ちゃったわけだけど別にアイツが心配だったわけじゃナインダカラネ! 勘違いしないでヨネ!

 という誰にするでもない言い訳を心の中でしつつ、ちょっとの間、俺はその場で豊橋を眺めていた。


 豊橋はお店の雰囲気に妙に馴染んでいるようだった。ただ立っているだけなのにやたらと絵になる佇まいだ。

 お客さんの中にはそんな姿を眺めながらカップに口をつけてる人もいた。なるほど、ここは豊橋にとって天職なのかもしれないな。

 そう思ったところで、自分の姿を客観視してみた。

 お洒落な喫茶店の軒先で、ちょっと油跳ねのついた白いコック服を着たデブ。よくてストーカー、悪くて営業妨害を目論む小汚いブタ……といったところだろうか。

 ――いけない、これじゃあこの商店街にいられなくなっちゃうわ!

 というわけで、俺は豊橋の安否を確認し終わると、そそくさと中華料理屋へ引き返すのでしたとさ。



   ◇


「喫茶店、すごいね。店長さんにすごく気に入られた。これからもここで働いてくれないかって」

 と豊橋が嬉しそうに話してくれたのは月曜日の朝だった。

 白い肌を今日はほんのりと上気させて、俺が席に着くや否や自分から声をかけてくるあたり、相当嬉しかったのだろう。

「そりゃあよかったな」

 豊橋ならああやって立ってるだけでもお店に貢献できそうだしな……とは言わない。そんなことを言ったら最後、俺にはきっとストーカー野郎の烙印が押されるに違いなかった。

「うん。辰野君に聞いてよかった。ありがとう」

 ほくほくとした顔でお礼を言われた。なんだろう、今さらそんな風にお礼を言われると非常に照れくさいことこの上ないし黙って豊橋のことを覗いていたことにも罪悪を感じてうっかり痩せそうになるからやめて欲しいのだが?

「それで、弟くんと妹ちゃんに買うもんは決まってんの?」

 というわけで俺は話を逸らすことにした。これ以上バイトの話題になると俺の中のツンデレちゃんがツンツンしだしちゃうから致し方ない。


「……実は、まだ」

 対する豊橋は、苦笑交じりに呟いた。無邪気な悪戯がバレた子供みたいな顔だった。

「あ、そうなのか。バイトするって決めるくらいだからもう目処は立ってるのかと思ってた」

「ううん。あんまり高いものをあげるのは、お父さんとお母さんも許してくれないし……どうしようかなって」

「へぇ~」

 なんてしっかりしたご両親でしょうか。ウチなんてクリスマスは無礼講にチキンとケーキを貪る日、なんて感じで酒池肉林なのに。

「聞いてみれば? サンタさんに何をお願いするの~って」

「……そういうのって、聞いてもいい、のかな」

「え、なんで?」

「……その、あのね?」

「うん」

「十個近く歳が離れてるから、どう接すればいいのか、ちょっとわかんなくて」

「はぁ」

「肉親なんだけど、気を遣うというか、たまにうっかり敬語になるというか……」

「コミュ障かよ」

 思わずツッコミが口から滑り落ちた。それは豊橋にいい角度で刺さったようで、「う……」と胸の辺りを押さえてうなだれた。


「あー、すまん、つい本音が」

 言ってから、これはフォローではなくただの追い打ちにしかならないことに気が付いた。豊橋は「うう……」と机に突っ伏しそうなくらい肩を落としていた。しまいには、

「……そうだよね……昔から私って引っ込み思案で……友達も全然……」

 と途切れ途切れの自虐ワードまで聞こえてきた。罪悪感で本当に痩せそうになるからそういうのマジでやめて。

「わかった。わかったから」

 俺は元気づけるように豊橋の肩をポンポンポンと叩く。それから続けて口を開く。

「参考になるかわからないけど、我が家のクリスマスプレゼントを教えよう」

「……食べ物?」

 肩を落としたままそんなことを言われた。なんというネタバレ魔だこの野郎め。

 ともあれ、そう言うのであっては仕方がないと俺は開き直ることにした。


「ああ、食べ物だとさ。むしろ逆に聞きたい。食べ物の何が悪い? さぁ、ほら、何が悪いか言ってみなさいよこんちくしょうめ」

「…………」

「ほら、思いつかないだろ? いいか、お前、豊橋。食は万物共通なんだ。人間はみんな、美味しいもんを食べたら笑顔になるようにできてんだよ。ましてやクリスマスだぞクリスマス。テレビなんかでしか見ない豪勢なチキンやケーキ! そいつを家で食べられる特別感! これ以上に素晴らしい日なんてあるだろうか!」

 いや、ない! と言い切る。クリスマスと誕生日は美味しいものが食べられる日。それは俺の脳に刻まれた確かな真実だった。

 大人しく話を聞いていた豊橋は、いつの間にかに身体を起こして俺の方を見つめていた。そしてしばらく何か考えるような顔をしてから、うん、と頷いた。


「確かにそう、かも」

「だろ? 美味しいお肉に豪華な甘いもんにちょっと背伸びしたシャンメリー。これだけでいいんだよ。わかるだろ?」

「……うん。私も、子供のころ、そういうのにワクワクしてた」

「馬鹿野郎、お前、子供じゃなくたってな、大人だってみんなワクワクすんだよ」

「……そうだね」

「うむ。食は偉大なり」

 大仰に、もっともらしく頷いて見せる。こういう言葉はデブが言うに限る。なんてったって説得力が違う。

「ありがとう、辰野君」

「ナリ、ナリ」

「……なにそれ?」

「店長が教えてくれた中国語。どういたしましてって意味らしい」

「へぇ……」

 とか言ってるうちに、憂鬱な月曜の授業が始まるぞ、と脅しかける音が響く。俗に言うチャイムの音だ。

「そんなわけでクリスマスプレゼントは美味しいもんにしときなさい」

「うん、そうする」

 そこで俺たちの会話は打ち切りになった。



   ◇


 季節は次々死んでいく、とどこかのアーティストが歌っていた。そのMVは生肉を貪り食う演出がなされていて、それを見たデブ友達が「流石に生肉はちょっと……」なんて言ったから、「それなら焼肉だ!」とふたりでお肉を食べに行ったのをふと思い出した。

 とにもかくにも時間は巡り巡る。何はともあれ月日は過ぎる。時計の秒針は止まりゃしないし地球はずっと回り続ける。

 豊橋とはなんだかんだで仲良くなっていた。

 最初こそは噂通りの神聖さを纏う近寄りがたいやつだと思っていたけれど、席が近くなって他愛のない話を交わすうちに、そんな印象はなくなっていた。

 今や豊橋という女子生徒は、俺の中じゃ天然でコミュ障で家族思いのいいやつという認識だ。朝の時間に彼女と下らないお喋りをするのが楽しいというくらいだ。

 学校外で会うことはないし互いの連絡先も知らないけれど、俺と豊橋はもう充分友達同士と言っていいような関係だった。もしかしたらあいつは俺のことを哀れな仔ブタとか食べ物の話ばっかりのデブと思っているだけかもしれないけれど、そんなことは知ったこっちゃない。

 持ちつ持たれつ、困ったときはお互い様。そこまで気兼ねしないで軽口を叩ける仲。

 友達というのはそういう存在だ。青春の友情というのはかくも美しい……なんてデブには似合わない言葉が口から零れ出そうなくらいにいいものだ。

 そうして時間は過ぎ、やがてカレンダーの日付はクリスマスへと変わっていった。



   ◇


 昼前の商店街通りにもジングルベルが鳴り響いていた。

 シャンシャンと降り注ぐ音たちを聞き、冷たい冬の風を切りながら、俺はマイママチャリのブラック・チェリー号――中学の友達がそう名付けてくれた――で颯爽とバイト先の中華料理屋に到着した。

 世間一般はクリスマス。そりゃあ家庭を持っていたり恋人がいる人らにとっちゃあキリスト教徒に次いで大切な日かもしれないけれど、生憎哀れな仔ブタの俺にはまったく縁のない話だ。

 クリスマスは美味しいものが食べられる日。それ以外に何がある、それだけでいいじゃないの。足るを知る……なんて素敵な言葉でしょうか。

 そういうわけで、俺はバイトに勤しむ。

 今日は大学生のにーちゃんはサークル仲間と完徹で麻雀、パートのおばちゃんは主婦仲間とカラオケ三昧……と、クリスマスをとことん楽しんでいるようだ。

 なので今日のシフトは店長ことチョウさん、ぶーちゃんこと俺、そしてひと月前からここでバイトを始めた自称売れないミュージシャンな加藤さんの三人で回すことになっていた。


 今年のクリスマスは金曜日。俗に言う花金というやつで、ウチの学校も今日が二学期の終業式だった。

 お店が本格的に混みだすのは夜遅い時間。俺がいる時間はそこまで混むことなく、のんびりと時間が流れていき、やがてバイト終わりの時間になった。

 今日はお家で美味しいお肉があるからと店長の賄いは断腸の思いで断り、コック服をロッカーにしまって、店を出る。

 十六時過ぎ。空には斜陽の茜が燃える。されど商店街通りはとても冷え込んでいた。

 それでも雪が降らない地域なだけマシなのだろう、と思う。ホワイトクリスマスと言えば素敵だけど、ぶっちゃけ雪が降るとチャリもろくに漕げないし面倒くさい。

 やはり太平洋側の海沿いは住みやすいな、などど知った風なことを口の中で呟きつつ、愛車のブラック・チェリー号に跨る。さぁ、お家に帰れば豪華なお肉にケーキだ酒池肉林だ!


 と、威勢よくペダルを踏み込もうとしたところで、見知った顔を見かけた。俺はそれに声をかける。

「おーおー、豊橋さんじゃあないですか」

「……あ、辰野君」

 柔らかそうな髪を靡かせてこちらへ振り返った豊橋は、ワンテンポ遅れて返事をくれた。それなりの人が行き交う商店街通りも、やっぱり彼女の周りだけは人が遠いようだ。歩きやすそうで何よりでござる。

「豊橋もバイト終わり?」

「うん。あそこの喫茶店で」

 と、豊橋が指さす先は、小洒落た喫茶店。でもごめんなさい、実は俺それ知ってるんです。

 そんな罪悪感を消すように、俺も目の前の中華料理屋を指さす。

「俺もここで」

「……そうだったんだ。こんなに近くだったんだ」

 豊橋は驚いたような顔をした後、目を細めてみせた。あれ、前にお店の宣伝しといたのに忘れられてる? ……と思ったけど、そういえば宣伝文句の白い幟は夏の終わりにとっくに撤去してあったことを今さら思い出す。

 赤い看板と白い幟が目印……うん、それじゃあここだとは思わないわね。


「豊橋はあれか、これから例のクリスマスプレゼント?」

「ええ、うん」

「そっかそっか。そりゃあ何よりだ」

「あ、そうだ……辰野君」

「ん?」

「美味しいケーキとかチキンって、どこのがいいのかな?」

「……ん?」

 豊橋の言葉に何か違和感があった。

 美味しいケーキとかチキンって、どこのがいいのかな?

 えぇっと、それはつまり、予約とかそういうの何もしてない系? 行き当たりばったり系? あれ、コンビニとかなら買えるだろうけど、豪勢な本格派って予約とか必要じゃないっけ……。

 いつもウチはどうしてたかを思い起こす。

 我が家の家族構成は、父さん(ヒト)、母さん(トド)、俺(ブタ)、妹(イノシシ)。ケーキはいつも商店街のケーキ屋さんで七号サイズの限定受注生産を予約、チキンは同じく商店街のお肉屋さんでとりあえずでっかいのをたくさん取り置きしてもらってた、はず。


「なぁ、豊橋」

「なに?」

「ケーキとかチキンって、どういうので考えてる?」

「……? えっと、大きくて、苺がたくさん乗ってるケーキと、ターキーの丸焼き……かな」

「オーゥ……」

 ケーキはともかく、ターキーとキーターか。それも丸焼き。そんなん商店街に置いてあるのか……?

「…………」

「……どうしたの、辰野君?」

 無言で考え込む俺に豊橋はきょとんと首を傾げてみせる。

「や、えーっと、とりあえず俺がよく行くお肉屋さん、行ってみるか?」

「あ、うん」

 こくりと豊橋は頷く。俺はブラック・チェリー号を転がしつつ、彼女と並んで商店街通りを歩く。

 するとどうだろう、いつもは「痩せろデブ!」とでも言いたげなせせこましい混雑も鳴りを潜めて、前を見ずに歩いたって誰ともぶつからないような空間が広がる。

 これが豊橋の歩く世界か、すげーなぁ……なんて思っているうちに、お肉屋さんについた。ちょうどお客さんはいないようだ。なので、種々様々なお肉が並ぶカウンターに近付いてさっさと声をかけることにする。


「おっす。こんちは、おっちゃん」

「おっ、辰野さんとこの坊主じゃねーか! 相変わらず肥えてんなぁお前!」

 気さくに挨拶をすると、おっちゃんはカウンターの向こうから手を伸ばし、俺のわがままボディを軽くぽよぽよと叩く。くすぐったいぜ。

「今日はどうしたい? チキンならさっき母ちゃんが買いに来てたぞ?」

「ああ、毎年ありがとうございます」

 軽く頭を下げ、それから本題を切り出す。この近辺でターキーの丸焼きとか置いてある場所ってあるかな?

「そういう小洒落たもんは商店街じゃ置いてねーだろうなぁ」

「やっぱりっすか……」

 半ばわかっていた返答だった。肝心の豊橋は驚いたような顔をしていたけれど。

「どっか心当たりとかありません?」

「そうだなぁ、隣町の百貨店とかなら置いてあるんじゃねーかな」

「なるほど……」

 頷きつつ、頭にその百貨店を思い浮かべる。

 駅からは離れた大型の百貨店。たまに車に乗って家族で買い物に行く場所だった。

「ありがとうございます」

「いんやいんや、毎度どーも!」

 頭を下げてから、カウンターに背を向ける。そして何処へともなく歩を進めながら豊橋の様子を窺うと、どこか焦ったような顔色をしていた。


「まぁ、そういうわけだから、ターキーの丸焼きを買うなら百貨店だな」

「…………」

「どうした、豊橋」

「……百貨店、どれくらいかかるかな」

「こっから? うーん、車で二十分かからないくらい?」

「……歩くと?」

「片道……一時間、半……くらい?」

 という俺の返答を聞くと、豊橋は立ち止まってしまった。俺も立ち止まらずを得ない。そして立ち止まってもやっぱり豊橋の世界はみんなが遠巻きで、やけに広々していた。

「間に合わない……」

 ぽつりと呟き。風前の灯火よりもか弱い声だった。

「まぁ……」

 今から百貨店に行って帰って準備して……なんてしてたら夜も更けてしまうだろう。ましてや豊橋は小さな弟と妹のクリスマスプレゼントに豪勢なチキンとケーキを用意しようというのだ。そりゃあ間に合いそうもない。


「今年はここら辺でも買えるもんにするしかないんじゃないか?」

「でも」

 豊橋は俯いたまま、やけに悲愴に満ち満ちた声を落とす。それが通りのアスファルトに反射して、ブラック・チェリー号を伝って俺に届く。

「……でも、約束しちゃった。お姉ちゃんが……好きなものを食べさせてあげるって……強がっちゃった」

「…………」

「……やっぱり、私にはなれないんだ。みんなに、好かれるような、」

 サンタクロースには。

 吹き抜けた風に攫われそうになった言葉。それにいつぞやかに話した話題を思い出す。


 なぁ、サンタクロースっていつまで信じてた?

 ……今でも信じてるって言ったら、どうする?

 サンタクロースはデブの希望の象徴だ。デブっててもいいんだよ、みんなの人気者になれるんだよって俺のような仔ブタに教えてくれる。

 けど、何もそれはデブに限定した話じゃない。サンタクロースのように、みんなに好かれるような人気者になりたいって憧れて、サンタクロースをきっかけにみんなと仲良くなりたいって思う人だっている。

「……馬鹿だよね、私って」

「…………」


 俺は思う。

 そうだった。こいつは静謐で神聖な雰囲気を纏う天然ボケだった。歳の離れた弟妹にもたまに敬語で話すようなコミュ障だった。みんなから遠巻きにされた広い世界をひとりで歩く、普通の高校生だった。

 そして俺の友達だった。

「うん、馬鹿だろお前」

 豊橋は俯いたまま、何も言わなかった。だから俺は言葉を続けた。

「チャリで急げば片道三十分もかかんねーだろ。おら、とりあえず後ろ乗れ!」

「……え」

 びっくりしたように俺を見て立ち尽くす豊橋。その手を引いて、問答無用で荷台に座らせた。

 そして力いっぱいペダルを漕ぎだす。豊橋は驚いたような声を小さく上げて、俺の両肩を手で掴んだ。


「なに速攻で諦めてんだよお前、今できることを探せよ!」

「で、でも……」

「でももヘチマもデブもねーんだよ、こういう時は友達頼れよ!」

「とっ、とも、だち……?」

 困惑と驚愕を半々に混ぜたような言葉が聞こえた。あれ、やっぱり友達だと思ってるの俺だけ? なんてちっぽけな不安を蹴り飛ばす勢いで、俺はペダルを踏み込む。冷えたアスファルトの上をタイヤが転がる。

 豊橋が後ろにいるからか、相変わらず世界は遠巻きだ。そのおかげでスムーズに自転車は進む。これなら本当に三十分もかからないかもしれない。


「だ、だけど、それじゃあ辰野君に迷惑が……」

「うるせぇ! お前がサンタになるんだよ!」

「……!」

 くすんだ銀フレームをしたブラック・チェリー号のソリ、それを懸命に引く哀れな仔ブタ。荷台に揺られるは静謐で神聖なくせに天然ボケのコミュ障サンタ。

 なんて不格好なクリスマス・ヒーロー。だけどそんなの知ったこっちゃあない。

 俺は力いっぱいチャリを漕ぐ。声を飛ばす。

「いいか、お前、豊橋! 今日のところはサンタクロースは譲ってやる!」

「……うん」

「せいぜい弟と妹に『おねーちゃん大好き!』って懐かれてろ!」

「……うんっ」

 豊橋の返事に力がこもった。それでこそヒーローだ。……いや、豊橋の場合はヒロインか?


 なんて馬鹿なことを考えているうちに、駅前商店街を抜けて、大きな国道へ出た。

 それでも目的地まではまだまだ遠い。ペダルをもっと強く踏み込む。

「振り落とされんなよ! 財布落とすなよ!」

「大丈夫……っ」

 俺の両肩に置かれた手にぎゅっと力が込められた。それに加えて、とすん、と背中に軽い衝撃。本気で振り落とされると思って俺の背中にしがみつくようにしているのか。それとも風が冷たいから俺のわがままボディを風よけにしているのか。

 どちらにせよ、ブタに引かれたママチャリのソリは進み続ける。コミュ障サンタの願いを叶えるために進み続ける。

 青信号が点滅している横断歩道を急いで抜けて、道の曲がり角は気をつけて急いで、見通しのいい直線は思いっきりタイヤを回す。

 そうして、不格好なサンタの一行は百貨店にたどり着いた。

 時計を見れば、商店街を出発してから四十分弱。燃える茜も鳴りをひそめ、空には宵闇の黒が訪れていた。


「はぁ、はぁ……ちょっと、遅れちまったな……」

 肩で息をして、冷たい空気を肺に取り込みながら、百貨店の入り口で豊橋を降ろす。汗だくの額を北風が撫でていく。

「だ、大丈夫、辰野君……?」

「デブ舐めんな……デブの脂肪はな、こういう時、燃えるために蓄えてあんだよ……」

 なんて強がるけれど、ぜぇぜぇと息も絶え絶えな俺に果たして復路をこなせるのか。心配でしょうがない。

「俺は少し、休んでっから、お前はさっさと買ってこい……」

「う、うん……! ありがとう……!」

 豊橋はぺこりと頭を下げて、小走りに店内へ消えていった。


 ここでお目当ての物が見つかればいいけど、果たして……と思いながら、百貨店の入り口近くに備えられたベンチに座り込む。

 太ももがパンパンだった。座った瞬間に「もう無理っすよ~!」と俺の豚足が悲鳴を上げる。弱音を吐くんじゃねーよ馬鹿野郎、と叱咤するけど、残り僅かな体力、暗くなってしまった道を思うと、気が重たい。

 ああ、やっぱり店長の賄いは食べておけばよかった。そうすればまだまだ体力だって持ったのに……と頭の中に温かなラーメン餃子セットが浮かぶ。お腹の虫が元気よく鳴いた。

 はぁ、と大きく息を吐き出して空を仰いだ。宵の明星が目に付く。ホーリーなナイトはもうすぐそこまで差し迫っていて、頭の中には豪勢なチキンとケーキが浮かんだ。豊橋がそれを小さな弟妹に差し出してドヤ顔で接する姿も浮かんだ。

 ……もうちょっと頑張らんといけんたい。

 エセ九州弁を口の中で呟く。とにかく今は休憩だ。体力温存が使命だ。

 そう思ってベンチに体重を預けてしばらくすると、大きな包みを持ち、ぱたぱたと駆けてくる豊橋の姿が視界に映った。


「よかった、あったよ、買えたっ」

 豊橋は嬉しそうにそう言った。それなら重畳。ふぅ、と息を吐き出してから俺も言葉を返す。

「予算オーバーしなくてよかったな」

「うんっ。半分くらい余っちゃった」

「半分も?」

「二万円用意してたから」

「ブルジョアかよすげーなお前!」

 なんてツッコミを入れながら、よっこいしょ、と俺はベンチから立ち上がる。すると太ももがぷるぷる震えだした。運動不足なブタであることをこの時ばかりは後悔せずにいられない。

 だが男にはやらなきゃいかん時があるんだい……と傍らのブラック・チェリー号に跨ろうとしたところで、あるものが目に付いた。同時に、あっ、と思った。


「豊橋、あれっ」

「……あれ?」

 と、俺が指さした方を見る。その先には一台の車。四角いセダンのボディ、その屋根にはなんちゃら交通なんて書かれた行灯が光る、

「タクシー……?」

 そう、いわゆるひとつのタクシー先生だった。高校生の俺にはまったく縁がないから選択肢に浮かばなかったけど、そいつを使えばあっという間に家にたどり着けるじゃあないですか!

 タクシーはちょうどお客さんを降ろすところのようだった。周りに次に乗ろうという人はいないようで、それなら尚のこと好都合だ。


「タクシー使えば余裕のよっちゃんだろ!」

「え、でも、辰野君は自転車だから……」

「俺はダイエット期間中だから気にすんな、どうせ予算余ってんならブルジョアっぽく帰れよ!」

「だけど……」

「あーもうまだるっこい!」

 まごまごする豊橋を見兼ねて、俺は震える太ももを酷使してタクシーへと小走りに近寄り、声をかける。ヘイタクシー、あそこのサンタクロースをお家に案内してあげて。

 老練な印象を受ける白髪の穏やかな運転手さんは、お任せあれ、と鷹揚に頷いてくれた。

「ほらっ、豊橋!」

「う、うん」

 そして豊橋を手招きすると、おずおず近付いてきた彼女を半ば強引に乗り込ませた。

 これで万事如意だ。俺も急がず焦らずに家路を……いや、それだとウチに住まうトドとイノシシがチキンやケーキを貪り散らしてしまうかもしれない。ちょっと急いで帰ろう。


「た、辰野君っ!」

 タクシーに踵を返そうとしたところで、豊橋に声をかけられた。珍しく大きな声だったから、ちょっとびっくりした。

「あの……本当に、ありがとう」

「今日はクリスマスだぞお前、いいってことよ」

 へへへ、なんて鼻の下を擦りながらカッコつけてみる。我ながら似合わない姿だと思った。

「……ううん、今日だけじゃなくて、いつも……」

 いつも、ありがとう。

 やや俯き加減で言われた言葉。バイトを教えたこととか、そういうのを含めてのものだろうか。義理堅いやつだ。やっぱり豊橋はいいところの娘さんなんだなぁ、なんて思う。


「どういたしまして。そんじゃな、豊橋」

「う、うんっ。また、学校で」

「それはもう来年の話だけどな。よいお年を」

「あ……そっか……よいお年を」

 気の早い年末の挨拶を交わしたところで、タクシーの扉は閉められる。ウィンカーを灯らせて、ヘッドライトやテールランプの煌めく夜道へ出発した。

 老練な運転手さん、しっかり手入れのされた車に揺られ、プレゼントを抱えた静謐で神聖なサンタクロースは子供たちの元へと急ぐ。

 ――そっちの方がクリスマスのヒーローっぽいわね。

 なんて呟きつつ、残された仔ブタはブラック・チェリー号に跨る。荷台は空っぽ、されど漕ぎだした足には往路と変わらない重さが伝わる。……豊橋、体重軽すぎんだろ。

「やっぱあいつ、もう少し太った方がいいよ」

 怖くない三白眼でまた睨まれるから直接は言わないけど。

 という言葉はせわしく駆け抜けた師走の風がさらっていった。お役御免のトナカイ(ブタ)は、ソリを引いてひとり、家路をたどる。

 なんかこんな感じの歌があったような気がするな、とうろ覚えの鼻歌を小さく口ずさみながら、俺は豪勢なチキンとケーキに想いを馳せるのだった。





   ◇



 新年、年が明けてお正月。

 正月と言えば帰省や旅行や箱根駅伝に正月特番だ、なんてのがよくある一家のしきたりだろう。

 ウチもその例に漏れず、帰省したりテレビ番組を見たりしながら食っては寝て、起きては食っての悠々自適な正月を堪能しまくった。

 毎年この時期になると体重が増えるのは冬のせいする、というのがお母さまが掲げる素晴らしい家訓だ。

 お父さまも「いっぱい食べるみんなが好き」と色々な手料理を振舞ってくれる素晴らしい大黒柱だ。「アンタ、バイト始めたんだしお年玉いらんでしょ?」とかトドが抜かすけど、「母さんには内緒だぞ?」とこっそり金一封を渡してくれる人間の鑑だ。神さま仏さまお父さまだ。

 そんな正月を過ごす哀れな仔ブタと獰猛なイノシシは、おかげさまで冬休みが終わるころにはお腹に脂がよく乗る。今年はウエストが三センチも大きくなってしまったぜ。

 そうして肥えた俺たちは、一月も十日を過ぎようか、というころに学校へと出荷されていった。ようは冬休みが終わりを告げたのである。


 久しぶりにブラック・チェリー号に跨り、やけにペダルが重く感じたのはきっと冬の乾燥でチェーンオイルが渇いたからに違いない、なんて思いつつ、学び舎へ到着する。道行く廊下で友人知人とすれ違えば「あけおめ」「ことよろ」の挨拶を交わして、教室にたどりつく。

 そこでもまた「あけおめ」「ことよろ」合戦をしつつ、廊下側から数えて二番目の列の一番後ろから二列目の席へ到着、すると。

「お、おはようっ、辰野君」

 と、やけに元気のいい、というか、なんか調子の違う豊橋さんが後ろの席にいらっしゃいましたとさ。


「おー。おはよう、アンドあけおめー」

「あ、あけまして、おめでとう……」

「やー今日も寒いなー」

「そ、そうだね」

 なんていつものように他愛ない会話を交わす。なんだか豊橋がやけにそわそわしているような気もしたけれど、今日は白いもこもこマフラーを巻いていないから寒いのだろう。やっぱもう少し肥えた方がいいぞ、お前。

「そういや、どうだったよクリスマス」

 オンナノコに肥えると太るは禁止なの! とイノシシな我が妹も雪見大福を頬張りながら仰っていたから、思うだけで太るとか肥えるは言わない。代わりにクリスマスの顛末を尋ねてみた。

「…………」

「どうして無言になるんだよ?」

 けれど豊橋が黙り込んでしまったから俺は困ってしまう。まさかあんなに頑張ったのに失敗しちゃった系なの?


「えっと、すごく、喜んでくれたよ」

 妙にたどたどしく豊橋は言った。本当かよ、デブに鞭打った割に微妙で気を遣ってるとかないよな。

「えと、ほら、こんな風に」

 そんな俺の気持ちが伝わったのか、豊橋はいそいそとバッグからスマートフォンを出して、ディスプレイをこちらに向ける。

 そこには照れたようにはにかむ豊橋と、その両脇にくっついて無邪気に笑う、生意気そうで小さな豊橋と明朗快活そうで小さな豊橋。

「かわいい弟くんと妹ちゃんじゃあないですか」

「そ、そう?」

「ああ。豊橋にそっくりだな」

「えっ、あ、あり、がとう……」

 スマートフォンをこちらに向けたまま、豊橋は俺から目を逸らしてはにかんだ。今年のこいつはやけに表情豊かだなぁ、コミュ障には拍車がかかってそうだけど……なんて思う。


 そうこうしているうちに始業のチャイムが鳴り、生徒たちが自分の席につく。程なくして几帳面な性格をしている担任の先生がやってきて、新年に関するありがたいお言葉や訓示をのたまう。

 それから、こう言った。

「さて、年も明けたことだし、心機一転に席替えでもするか」

 それにわぁわぁと教室中から声が上がった。席替えとは学校生活に置いての一大イベントなのだからしょうがない。

 かくいう俺は「この絶妙に先生から当てられづらい席ともお別れか……」なんてセンチメンタリズムをちらつかせて、「前の方の席になりませんように」と天に祈りを捧げた。隣の席の鉄道系男子も同じことを考えていたのか、俺と目が合うと、くしゃりと苦笑してみせた。おお、友よ。わかってくれるか、この祈りを。

「……席替え……」

 そして後ろの席の豊橋はやけに重たそうな呟きを吐き出していた。


 ともあれ、先生が事前に用意しておいたくじを引き、これからしばらく運命を共にする席へと生徒たちは案内される。

 くじを引くのは五十音順。先生が出席簿を片手に、「じゃあまずは飯田からだな」と生徒を呼びつける。

 俺もその中頃に呼ばれた。一足先にくじを引いた隣の席の鉄道系男子は一番後ろの窓際という主人公席を引き当てたようで、天に感謝を捧げていた。俺もその強運にあやかりたいところである。

「っし、やってやるでござるよ」

 腕まくりをしながら言うと、「お前また肥えたなぁ」と声が上がった。普段からよくつるむお調子者の男友達のものだった。

「もしもに備えて蓄えてんだよ、デブの防災意識舐めんな」

 そう俺は返す。

「辰野は防災より健康に気をつけなさい。食いすぎだ」

 しかし先生からそう言われては何も言い返せなかった。「はい、すんません」と大人しく返事をするとそこかしこから笑い声が上がった。

 それから俺はくじを引く。そして中身を拝見する。さぁ、栄光の後ろの席よ、我が手に……!


 くじには窓際から二番目の列の最前席を示す番号が書かれていた。俺は天を仰いだ。オージーザス。神よ、私の何が気に入らなかったと申しますか? このお腹か?

 がっくりとうなだれた俺を置いて、時間は進んでいく。豊橋がくじを引く時だけは厳粛な神社で初詣をしているような空気になったけれど、つつがなく、滞りなくくじ引きは終わった。

 それから各々が荷物を持ち、席を移動する。

 窓際から二番目の列の最前。そこに俺は座り、ため息をひとつ机上に落とした。

 左隣の教壇からすぐ近くな最前列に腰かけたライブ好き系女子生徒は「ライブハウスとかならめっちゃいい席なのになぁ」と呟いた。お互いご愁傷様ですね、と俺は思った。


 そして右隣の窓際最前列に視線を移せば、

「……よろしくね、辰野君」

 と、やけに上機嫌で、おそらく日当たりの良さにご満悦なんだろう豊橋さんがいらっしゃいました。

「ああ、よろしくな」

 俺もそう返す。秋の席替えと同じような状況と言葉。それを今度はあちらから、そしてこちらから。


 新年だから心機一転、環境を変えよう。そういうのに相応しくないような結果な気がしないでもない。

 でも、俺のウエストは去年より三センチ大きくなったし、バイトの時給もちょっと上がったし、席が前になって頭が良くなりそうだったし、友達も増えたし――

「また近くになったなぁ、豊橋」

「……嫌、だった?」

 ――さっきと打って変わって不安そうにそんなことを言ったりと、豊橋がやたら感情表現豊かになってるし。そういや、豊橋のポーカーフェイスを崩すのを目標にしていた気がする。

 何はともあれ、前途はきっと明るいよ、だなんて臆面もなく言えるほどポジティブシンキングではないけれど、それでも新しい年の微かに変わった環境は、人を明るくさせる効果があるのかもしれない。

 豊橋も前よりずっと親しみやすくなったし、俺も俺でなんだかんだこいつと話す時間が前よりもちょっと好きになっているんだし。



 だから俺は笑いながら言葉を返すことにする。

「バーロー、話しやすい友達が近くて、コミュ障の俺には大助かりだわよ」

「よかった。……私も同じ、だよ。ふふ」

 そして豊橋も嬉しそうに笑うのだった、とさ。





参考にしました

・『涼宮ハルヒの憂鬱』 谷川流著 角川スニーカー文庫


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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