渋谷凛「冬の日、早朝、駅前にて」 (13)
音量をできるだけ絞った、控えめなアラームが私を起こす。
徐々に覚醒していく意識で、それを止めて時計を見やる。
午前四時前、外はまだ暗い。
自室はまるで冷蔵庫の中みたいで、掛布団を捲ることがすごくすごく躊躇われたけれど、起きなくては。
意を決して体を起こす。
途端に冬の朝が猛威を振るい、私を襲う。
もう一度布団にくるまって、二度寝をしたい気持ちをぐっと堪えて、ベッドから立ち上がった。
○
足先の感覚を頼りに、スリッパを探す。
二度、三度と冷たい床に素足で触れて「ひゃっ」といった情けない声を上げかけたが、なんとか探し当てることに成功した。
ハンガーからカーディガンをひったくるようにして、着込む。
のそのそとした足取りで、階下へと向かった。
暖房のついていない一階は自室の比にならない程寒く、縮こまる。
そうしてキッチンから食パンを一枚取って、トースターへと押し込んでから洗面所へ。
顔を洗って、伸びをする。
さぁ、今日も頑張ろう。
自分に言い聞かすように呟くと、キッチンからの軽やかな金属音がパンが焼けたことを告げた。
○
トーストにバターとジャムを塗り、もそもそと食べていると、階段の方から小気味の良い音がゆったりとしたリズムで近付いてきた。
ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ、というそれは爪とフローリングとが打ち合って奏でられるものだ。
そして、その主は、うちには一人しかいない。
ハナコだ。
ハナコは「今日も早いのね」とでも言いたげな顔で、とてとて私の隣の椅子へ飛び乗る。
頭を撫でてやると、目を細める仕草がいつもながら愛らしい。
「ご飯だよね。待っててね」
パンを食べる手を中断して、ハナコの餌皿へとドッグフードを注いでやる。
ハナコは餌皿の前でぶんぶん尻尾を振りながら、お利口に座って待っている。
そこへ「いいよ」と言ってやると、一心不乱に食べ始めた。
○
私もハナコも朝食を終え、いつもよりかなり早い朝の散歩へと繰り出す。
まだ真っ暗な街は、近所なのにちょっとだけわくわくした。
これだけ朝早いと、すれ違う人もいない。
なんだか世界に私とハナコだけみたいだ、なんて有り得ない妄想を繰り広げながらのいつもの散歩道だった。
○
家へと戻り、ハナコの足を拭いてから玄関を上がる。
手早く化粧を済ませ、昨日の内に準備しておいた必要なものが詰まった鞄を肩にかける。
ダイニングテーブルに『ハナコはご飯食べました。今日も夜ご飯は大丈夫』と書き残す。
ハナコに「行ってくるね」と声をかけて家を出た。
手首を返して時間を見る。
午前四時半。
事務所に着くのは五時くらいだろうか。
○
事務所の最寄駅へと到着して、改札に定期をかざして抜ける。
いつもはスーツ姿の大人たちだったり、私たちみたいな学生だったりが忙しなく往来するそこも、この時間にあっては人もまばらだ。
すぅと息を吸い込むと、肺が冷たい空気で満たされて、芯まで冷えるような感じがして、スイッチが入る。
今日も気合、入れていかないと。
なんて、拳を握りしめかけたところで、肩を叩かれた。
完全な不意打ちだったから、驚きのあまり、少しだけ飛びあがりながら後ろを振り返る。
そこには見慣れたスーツが――私のプロデューサーがいた。
○
「おはよ」
「えっ、プロデューサー、なんで?」
「なんで、って。今日からだろ、早朝レッスン」
「そうだけど」
「朝早くに凛が来るなら早く出勤するのも悪くないかな、って思ってさ」
「そっか」
「まぁ、改札出てすぐ凛がいるとは思わなかったけど」
「うん。私もびっくりした」
「ホントは事務所で待ち構えて、おはよって言ってびっくりする顔が見たかったんだけど」
「十分びっくりしたって」
「そうじゃなくて、ほら、私より早いなんて~、みたいな」
「あー、そういう。じゃあ、残念だったね」
「ホントに。計画丸つぶれだ。ちょっと早過ぎるでしょ」
「早めに行ってアップ、済ませておきたくて。それにさ」
「それに?」
「私に合わせてトレーナーさんたちもこんな朝早くから出勤するわけだし、誠意くらいは見せておかないと、って」
「凛は偉いなぁ」
「そのまま返すよ」
「?」
「プロデューサーが早く来る意味なんて、それこそないでしょ?」
「まぁね。でも、ほら、いつものやつ」
「私の顔が見たかった、ってやつ」
「そうそれ」
○
「ちょっとそこで朝ご飯を調達したいんだけど」
言って、プロデューサーがコンビニを指さす。
「凛は?」と聞かれたので「食べてきた」と返すと「それは残念」と言われ、食べてくるんじゃなかったな、と意味のない後悔をした。
いつもならレジ待ちの列ができてるような駅前のコンビニも、閑散としているのはちょっとだけ目新しさを感じる。
店員さんの気だるげな「っしゃーせー」というお迎えの声をよそに、プロデューサーはまっすぐサンドイッチのコーナーへ歩いていく。
「どれがいいと思う?」
「野菜のやつ」
「言うと思った」
「プロデューサー、ただでさえ生活リズムも食生活も乱れがちなんだし、こういうときくらい野菜の選んどいたほうがいいよ」
「そうかなぁ」
「長生きしたくないの?」
「んー、どうだろ」
「私はプロデューサーが健康でいてくれないと悲しいけどね」
「なら野菜のやつにしとく」
「うん。よくできました」
○
サンドイッチを片手に、プロデューサーはレジへと向かう。
そしてレジに品物を置いて「あ、コーヒー二つ」と付け加えた。
「え、いいよ。私」
「いいのいいの。あったまるよ」
「……じゃあ、その、ありがと」
店員さんからコーヒーを受け取って、一つをプロデューサーは私にくれる。
プロデューサーは「ん」と砂糖やらミルクやらが置いてある場所を視線で示して「入れるでしょ?」と言う。
なんでもかんでも見透かされているような感じなのは少し癪だけれど、それはもう言っても仕方がない。
というか、もう長い付き合いで、お互いの趣味嗜好なんかはとっくの昔に把握済みなのだから、今更だ。
他の人の目もないし、と砂糖を少しだけ多めに入れて、真っ黒なコーヒーにミルクを落とす。
みるみるうちにまろやかな茶色に姿を変えていくさまを見るのが、なんとなく好きだった。
○
コンビニから一歩出ると、突き刺すような寒さが襲ってきて、思わずコートの襟もとに首を引っ込めた。
「寒いなぁ」
「うん。寒いね」
「持ってるだけでも手、あったまるでしょ」
「うん」
ずずず、と熱いカフェオレ啜り「あったまる」と返す。
ほぅとして吐き出した息は白く、ゆっくりゆっくり立ち上っていく。
隣のプロデューサーはというと、サンドイッチの包みをぺりぺりと剥がして、今にも食べようとしているところだった。
私は意図せずそれを凝視してしまって、プロデューサーは開いたままの口で「んあ?」と間抜けな声を出した。
「ああ、はい。おすそわけ」
にっこり笑って私の口へと差し出すものだから「別にそう言うつもりじゃなかったんだけど」と反論する間もない。
まぁ、いいか。
控えめに、かぷりと噛むと、瑞々しいトマトの酸味が口の中で弾けた。
「おいひい」
私がもぐもぐとしながらそう言うと、プロデューサーは満足そうに「そりゃよかった」と言った。
○
プロデューサーがサンドイッチを食べ終えて、さてと、と呟く。
何を言おうとしているかは察せるので「うん、行こうか」と返す。
他愛もない話を繰り広げながら、事務所までの道のりをこんな早朝に二人して歩くなんて、なんだか。
――みたいだ。
などと頬が緩みかけたので、頬の内側を軽く噛んで制する。
そのときの顔をプロデューサーにばっちり見られてしまったらしく「なんだその顔」と笑われた。
プロデューサーも私も、いつもよりずっとずっと歩くのが遅いのはきっと今が冬で、寒いから動きが緩慢になっているせいに違いがない。
おわり
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