凛「庭上のサンドリヨン」 (375)




世界は――大して進化していなかった。

否、テクノロジそのものは進んでいるのだが……肝腎の人間がそれに追い付いていかないのである。


そう、それは、例えるならば、21世紀初頭に於いて携帯電話端末で起きた革命を、理解も使いこなしも出来ない、

SMSと通話、そして僅かばかりのゲームしかしない癖に革新的端末を我先にと求め、それを使えば何でも出来ると妄信した結果なにも遺せず、

あまつさえSMSの文字を打ち込むのにフリックではなくわざわざボタンを何回もタップするような――

人間とはそう云う連中ばかりなのだ。


『我が回想』 ――CHIHIRO SENKAWA




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1383229880







PROLOGUE - Plateau
・・・・・・・・・・・・







――時は西暦2062年。

21世紀も半ばを過ぎ、今世紀の最大の功績を挙げるならば、現段階では、

脳科学、情報工学、そして生物工学の大幅な進化と云えるだろう。


脳の解析が進んだことで、それを数字の集合体へ置き換えること―サブリメーション―が可能となり、

情報工学が進んだことで、それら全てを電子の海で制御できるようになった。


抗癌剤は不要になったし、風邪の特効薬を開発すればノーベル賞ものだと云う話も語られなくなって久しい。


このようにテクノロジが進化した世界に於いて、人間の脳は、延髄に設けられたポートを介することで、

シナプス・ニューロンを、直接コンピュータネットワークへ接続できるようになっていた。

娯楽も、ほとんどのオフィスワークも、そのNEURONetで済む時代になった。


……とは云え、重要な書類などは紙に印刷して郵送するなどと云う非効率な前時代的文化が依然として根強い上、

移動手段は相変わらず、熱や電気を運動へ変換し、地面に摩擦で動力を伝える類いの乗り物だ。


浮上する車など様々な技術革新はあったが、結局、エネルギーのロスだとか、

メンテナンスの手間や維持費だとか、諸々の制約で普及はしなかった。


つまるところ、一番優れているのは、太古の昔から人類を運んできた、車輪を装着した乗り物だったのである。


また、莫大な計算能力を誇る量子コンピュータが実用化され身近となっても、結局やることと云えば性的な画像・映像の探索くらいだし、

脳をネットワークへつなげることができるようになっても、相変わらず人々は会社へ出勤してくる。

自宅で仕事する形態は、気分の切替が難しいとか、勤怠管理・時間管理が面倒だとか、そう云う理由で、特に雇用労働者にはあまり広がっていない。

それら厳然たる事実は、人類の進化などたかが知れていると云うことを如実に示すものであった。


高度な物理理論や技術が社会全体へ浸透するのは、あくまでSFの世界だけなのだ。


しかし、娯楽の形はNEURONetによって大きな転換を迎えた。

電波産業――つまり旧来テレビ・旧来ラジオの崩壊である。


わざわざ映像を表示機器に映し、それを網膜経由で脳へ送り込む
 ――または音声をスピーカに流し、それを鼓膜経由で脳へ送り込む――

など非効率の最たるものであり、

データをネットワーク経由で脳へ直接伝達できるテクノロジによって、それらは一瞬にして淘汰されたのだ。


勿論、コンテンツを制作する者およびその類いの会社は存続している。

エンドユーザへ届ける手段は変わっても、中身まではそうそう変わらないからだ。


弾け飛んだのは、上がってきた成果物をただ横へ流すだけの、電波利権に胡座をかいていた怠惰な放送事業者。


これだけ。


これだけだが――

コンテンツ業界を牛耳っていたそれら“悪臭を放つ膿”が一掃されたことで、業界の構造は大きく変革した。

『素材』を持っているところが、自らコンテンツを作り、自らエンドユーザへ届ける。


そう、コンテンツを作るには必ず『素材』が必要だ。

そして一番代替が利かない重要な『素材』――人的リソース。

それを多く持つところこそが、新しい娯楽産業カーストの頂点として君臨した。


 ――アイドル・タレント事務所である。







Universo Parallelo
・・・・・・・・・・・・






――君、アイドルになる気はないか?

――ふーん……ンタが私のプロ……ーサー?

――……会っ……私の……なんて思……ありが……今度は私が……のため……る番だね……


――――
――

夢を見ていた。

かつて、私をこの世界へ引き込んだ――
――いや、私がこの世界へ足を踏み入れたときの夢を。

スポットライトを浴びた自分が、ファンの人々から熱狂的な声援を受けている夢を。

いつも見るのは、色のついた鮮明なもの。

それはまるで、記録映像―アーカイブ―を見ているかのよう――


 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は少し懐かしい夢を見た気がする。

内容までは憶えていないけれど。

それでも不快な夢ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「はぁ、しんど」

凛は真夏の満員電車に揺られながら、その『短い髪』をかき上げてぼやいた。

まもなく七月が下旬に差し掛かろうかと云う頃。

先日、あまりの暑さに嫌気してばっさり切ったのだ。


凛は、娯楽カーストの一番上、CGプロダクションに所属するアイドル。

シンデレラガールとして、そのトップを長年ひた走る存在である。

……その割には、彼女の姿形はデビュー時からほとんど変化していないように見える。

由美かおるも真っ青な無変化っぷりだ。

そんなトップアイドルがトレードマークである長く綺麗な黒髪を放棄するとは、通常なら考えられないことだろうか?

ご心配なく。
今のご時世、アイドルのデータはエンドユーザへ届ける前に多少の改竄を行なうので、さしたる問題ではない。

NEURONet上では、彼女は変わらず黒く光る、美しい長髪を纏っているのだ。

現在のアイドルは、自ら電子の海へダイブし、その複製―デッドコピー―をエンドユーザに届ける存在であった。

つまり自分自身の証跡を恣意的に複製し、それを客の脳へ直接送るわけだ。


――エンドユーザはアイドルとの一体感を味わえ、アドレナリンとドーパミンの快楽に溺れる。


このような業態であるため、一見、面倒な思いをしてまで通勤する必要性は全くないように思える。

さらに云えば、単に数値化―サブリメーション―した脳の記録を複製するだけでいいようにも思えるのだが。

実際は、現実の人間の身体にある感覚器が紡ぎ出すリアルなデータを付加しなければ、娯楽コンテンツとしての及第点には到達できなかった。

情報工学が発展しても、その部分だけは数字に置き換えることができないままでいる。
――正確に云えば、数値化自体は容易いのだが、その計算量が膨大すぎて、量子コンピュータを以てしてもリアルタイム処理が追い付かないのである。

そんな苦労とコストを負って計算させるより、人間の神経が実際に受けているデータを読み込む方が圧倒的に楽だし経済的だった。


それに、先述したとおり、技術は進化しても人間は進化しない。

面倒でも、事務所への通勤という儀式を経ることで、仕事をする意識を保てるのだ。

多くの人と複雑に関わり合うアイドル業界には、SOHOの業務形態は合わないという事情もあった。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、左手で碧いネクタイごと持ち、ぱたぱたと扇いだ。

しかしネクタイが蓋の役割をしているので、あまり風の流れは起こらない。

はぁ、と溜息を漏らし、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛はハンカチを取り出して首筋に浮いた汗を拭い、それを机の上へ放ってから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

実装時、アイドル仲間の南条光が「グリッドマンのOPだ!」と興奮していたことを不意に思い出した。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


『お仕事』以外を選ぶことは稀。

『LIVEバトル』および『レッスン』は上層部―うえ―からの指示があるときのみ、特訓とガチャに至っては一度も開いたことがない。

何の為に存在しているメニューなのか、以前、凛がちひろに訊いた際には、プロデューサー職種の人間のための項目なのだと云われた。

一々気にしていても仕方ないので、それ以来殊更に追究する気はないのだが、

アイドル用とプロデューサー用で別個にOSのカスタマイズを施しておいて欲しい気も、少しだけある。


さて、今日の仕事はニューロキャスト――つまりラジオのNEURONet版――の発信だ。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的にCGプロ内の番組コントロールルームと同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げたブースがあり、これだけで、自分が今、あたかも放送局にいるかのような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

≪皆さん、でれっす。CGプロ・ニューロキャスト、CLUB nb STATIONのお時間、本日のパーソナリティは渋谷凛だよ≫

目を瞑り、テレパシーを送る感覚で言葉を紡ぐと、それがそのままリスナーのニューロンへと届けられていく。

リスナー側からは、まるで脳内に直接アイドルが語り掛けてくれているような、自分のためだけに語ってくれているような感覚を受けるのだと云う。

アイドルファンからすれば、まさに合法ドラッグの如き快感を得られることは容易に理解できよう。

番組内ではフリートークが進んで行く。

≪こないだ新素材で作られたベース弦を手に入れたの。試し弾きしてみたら、サムピングがとてもスムーズにつながって、プルも綺麗に出るんだ。かなり良かったよ≫

――うおー気になる! 聴いてみたい!――

――しぶりん、最近すっかりベースの第一人者だもんな!――

≪おっと、リスナーさんからの食い付きが大きいね。じゃあ家で練習している時の、即興演奏した音源を流そうか≫

リスナーからのレスポンスが瞬時かつダイレクトに凛の脳、またCGプロスタッフに入ってくるので、番組の構成を臨機応変に組み替えられる。

≪映像もあるから、画を観たい人はチャンネルの帯域を上げてね。ちょっと恥ずかしいんだけど……≫

このインタラクティブ性は、かつての電波ラジオでは到底無理だった形態だ。

――うおおすげえ即興! 改めてシビれる! あこがれるゥ!!――

――凛ちゃん今日もクールかわいい!――

リスナーからの反応はとても上々。そして即座にその反応を拾って、凛はトークを返していく。

統計によれば、ニューロキャストに接続している総ユーザー数の、実に15%がCGプロの番組を聴取しているそうだ。

音声情報のみを基本とする番組でこの数値は、異常とも云えるほどの人気であった。

特に凛が担当する日は更に数字が跳ね上がるのだとか。

さすがトップアイドル、と云うことか。


その後そつなく番組進行をこなし、送信を終えると、意識は再びチューブの世界へと戻された。

同時に、ちひろとの会話セッションがオープンする。

「――お疲れ様、凛ちゃん」

いつもと変わらない、にこにことした笑みでちひろが労った。

「お疲れ様、ちひろさん」

しかし、凛が返答すると、セッションの向こう側は少しだけ困った表情に変わる。

「――明日のお仕事なのだけど、午前に入ってた出版部との打ち合わせが午後へ変更されたの。その影響でCM撮影は夜からになったわ」

ちひろはそう云って、直前になってごめんね、と謝り、更新されたスケジュールを送ってきた。

「あ、ううん、わかった。これなら出社は昼過ぎでいいね?」

「――ええ、それでいいわ。じゃ、いつも通り、今日の分の業務報告書を提出しておいてね」

ちひろとの会話を終えると、すぐに別のセッションが呼び出された。

「あ、いたいた!」

アイドル仲間かつ、最も仲の良い関係にある者の一人、北条加蓮が映し出される。

凛より若干遅くデビューした、――とは云え今では充分ベテランの――クール系アイドルである。

その姿形は、凛と同じく、デビュー時からほとんど変わっていない。八千草薫も真っ青だ。

凛が、やっほ、と返すと、加蓮は手を振りつつ「さっきまでステータスが応答不可だったけど、今大丈夫?」と訊いてきた。

「うん、今しがたニューロキャスト終えたところだから」

凛の返答に、加蓮は少しだけ安堵の笑みを綻ばせた。

「タイミングよかった。今日はもう上がり?」

「そうだね、あとは業務報告書を作るだけ」

「じゃあ一緒に帰ろ。アタシもさっき終わらせたところだからさ」

NEURONetの恩恵によって勤務時間がかなり柔軟になったので、出社または退社のタイミングが他のアイドルと重なることは殆どなくなってしまった。

便利ではあるが、少しだけ寂しい気も拭えない。

久しぶりのことに、凛は形の良い口角を上げ、喜ぶ。

「わかった、ちゃちゃっと済ませるから、エントランスで待っててくれる?」

「りょーかい。急がなくていいからね」

加蓮はそう云って、ウインクしながらセッションを切った。


――

凛が急ぎ足で報告を終わらせ、エントランスへ出ると、加蓮はポートに挿した携帯通信端末で音楽を聴いて待っていた。

手を挙げて呼び掛ける。

「加蓮、お待たせ」

「お、早かったね」

予想よりもだいぶ早く現れた凛に加蓮は多少驚きの顔を見せ、端末の音楽アプリを切る。

「いつもと代わり映えしない報告を上げるだけだからね」

凛が笑うと、加蓮はやれやれと云う表情をする。

「ちょっとー、凛。ちひろさんに怒られるよ。アタシも人のこと云えないけどさ」

「加蓮と一緒に退社なんて久しぶりなんだから、多少急いだってちひろさんはそれくらい大目に見てくれるよ」

あまり悪びれない様子の凛に、つられて苦笑した加蓮が「どこか食べに行かない?」と訊いてくる。

「加蓮、明日はオフ?」

凛は、返答の代わりに質問で返した。タイミングの良いことに、加蓮は頷く。

「じゃあ久しぶりに飲まない? 私も明日は午前休だからさ」

その提案に加蓮は顔を輝かせた。

「いいね。アタシ、ちょっと気になるバーがあるんだ。どう?」



・・・・・・

西新宿、旧青梅街道に面してひっそりと佇むビル。

その地下に、良い雰囲気のバーがあった。

年齢確認用の国民識別IDを入口でかざし、自動扉をくぐる。渋く落ち着いた内装が二人を出迎えた。

「へえ、いい感じだね」

凛が感心したように息を漏らす。加蓮も「うん、いいじゃんいいじゃん」と同調した。

何でも、柊志乃から聞いたそうだ。

カウンターに通され、メニューを開くと様々な種類の酒が載っている。

かなり種類は豊富で、しかも通好みのラインナップだ。

「まずは軽くビール?」

メニューを右手でゆらゆらと振りながら加蓮が訊いた。

「そうだね、私はフレンスブルガーにしようかな」

強い苦みが特長の、ドイツ最北のビール。

「凛はよくそんな苦いの飲めるよね。アタシはホフブロイのミュンヘナーヴァイスで」

加蓮は凛に不思議そうな顔を向けつつ、マスターにオーダーした。こちらは南ドイツで最も有名な、甘めの小麦ビール。

凛は片目を瞑って答える。

「その強烈な苦さがすっきりしてて美味しいんだよ」

「そういうモンかねー。ま、とりあえず、お疲れ様ってことで」

「うん、乾杯―プロスト―」

二人、グラスを掲げ、キン、と軽く触れ合わせた。


――

「……でさー、紙で指を切ったときに限って握手会の仕事でさ、困っちゃったよ」

アルコールの入った加蓮は日頃の些細な愚痴にくだを巻いていた。凛も思うところあるのか、大きく頷く。

「あー、怪我とかで普段と違う感覚を持ってると、そこから触れた相手の意識が干渉してきちゃうんだよね」

「そーそー。NEURONetは便利だけど、その部分だけがどうしても慣れないよアタシ。まあ怪我しなきゃいい話じゃんって云われたらおしまいだけどさ」

加蓮はテーブルに肘を突き、グラスの縁の辺りを軽く弾く。

チン、と高く澄んだ音が鳴った。

「まあ脳に直結してるんだし、多少は仕方ないかもね」

「科学は万能じゃないね、ふぅ」

加蓮は軽く溜息をついてからぐいっと呷り、ホフブロイを空にした。そのままマスターを向く。

「アタシは次は赤にしようっと。カベルネで美味しいのはどれですか?」

「カベルネでしたらチリのコンチャ・イ・トロがカジュアルの割に結構いいですよ」

「へー、チリ産ですか、意外」

加蓮はマスターの言葉に少しだけ目を丸くした。

「ええ、チリは侮れませんよ。安い、美味しい、ばらつきが少ないの三拍子です。
 あとは鉄板で云えばカリフォルニアのスケアクロウとアロウホですね。スケアクロウなら、丁度ウチに今、2043年のビンテージがあります」

「スケアクロウのビンテージ!? 凄い! それでお願いします!」

「かしこまりました」

マスターの口からは、まるで魔法のようにすらすらと銘柄が出てくる。

志乃が気に入るのも納得だ。

フレンスブルガーを飲み終えた凛もおすすめを訊く。

「私も少し冒険したいかな。薫りを楽しめるものってあります?」

「芳醇なものなら、林檎のブランデー、カルバドスとかどうでしょう。
 今ですとバッキンガム御用達のピエール・ユエ15年と30年があります。カマンベールに合いますよ」

加蓮にスケアクロウのボトルラベルを見せ、新たなグラスにとくとくと注ぎながらマスターは答えた。

「やっぱり15年より30年の方がいいですか?」

小首を傾げて凛が問う。

「熟成を重ねれば角が取れて丸くなりますが、薫りだけで云えば15年の方がよく立ちます。ただ、味や色を含めたトータルバランスなら30年の方が好きですね」

「じゃあそのマスターおすすめの30年の方にしようかな」

「うわーこれヤバイ! スケアクロウ美味し過ぎてヤバイ! 一緒にチーズ盛り合わせもお願いしまーす」

凛の横では、一足先に赤ワインを堪能した加蓮がはしゃいでいる。

二人とも、メニューや値段表を見ずにぽんぽんとオーダーを重ねていく。流石、大きく稼いでいる売れっ子は違う。

マスターはにこやかな笑みを浮かべ、戸棚からブランデーグラスを取り出す。

ほんの少しだけ注ぎ入れ、廻してグラスの肌を湿らせたと思ったら、おもむろにジッポーで火を着けた。

目の前でフランベを実演され、ボウッと燃える音に、凛は驚きのあまり上体を仰け反らす。

その反応を見てマスターは、「こうすると、薫りをより強く楽しめるのですよ」と微笑んだ。

そしてカウンターへ置いたそれに、改めて、そっと琥珀色の液体を注いだ。

マスターに促された凛は、掌でグラスの底を少し暖め、顔の前で緩やかに廻す。

そのまま一口含み、舌の上で転がしてから、ゆっくりと嚥下した。

「あぁ、すごい……いい薫り……鼻の奥へふわっと抜けて、美味しい……」

感激の溜息をつく。

「アルコールは40度ありますが、全然刺々しくないでしょう?」

「これ……呑み易過ぎて、気付いた刻には前後不覚になってそうだね……」

独言を呟く凛に、マスターは笑って応じる。

「ははは、そうですね。ご自宅で呑まれた方が安心かも知れません。15年ものなら比較的安価に手に入るはずなので、酒屋さんを覗いてみては如何でしょう」

その後、マスターを交えて酒談義は進み、四杯ほどグラスを傾けた。


――

新宿駅で加蓮と別れ、最寄駅を下車した凛は自宅までの道を歩いていた。

すると、道端でしゃがみ込んでいる老齢の女性が目に入る。

「どうかしました?」

凛が尋ねると、転んで擦りむいてしまったのだとその人は話した。

場所が悪かったのか、小さな傷口の割には随分と血が出ている。

不思議に思って訊いたら、以前心筋梗塞を起こして、抗凝血剤ワーファリンを服用しているらしい。

成程、それでは血が止まり難いはずだ。

「救急車を使うほどではないでしょうけど、これは念のため病院で診て貰った方がいいですね。タクシーを呼んでおきます。兎に角、止血しましょう」

そう云って凛はハンカチを取り出そうとしたが、ポケットの中にない。

記憶を辿ると、昼間、汗を拭ったそれを机の上へ放りっぱなしだったことに気付いた。

こう云う時に限って、タイミングが悪いものだ。

仕方なく、凛はネクタイを代わりにした。ちょうど包帯と同じように使えるのでハンカチよりも都合が良い。

女性はそれは悪いと遠慮したが、流石に血を流したままにする方が気の毒であった。

碧のネクタイが、血で黒く滲んでいく。しかし、傷口の上から強めに縛ると、出血はやや収まってきたようだ。

処置を終えた女性は、何度も礼を述べ、頭を下げながら、タクシーに乗り込み、去って行った。


そこから歩いて五分ほど。

帰宅した凛は、右手で電灯を操作しつつ部屋へ入った。

ネクタイを緩めようとして左手を胸元へ持って行く。

それは習慣の、ほぼ無意識の動きだったが、空振る手に、先ほど包帯代わりにしたのだったと思い至る。

バッグをテーブル横へ放り、ソファに身を投げた。少しお行儀が悪い。

しかしほろ酔い気分が心地よい凛は、気にしなかった。

「カルバドス、美味しかったな……」

凛は、すっかり虜となってしまったらしい。

――15年ものなら比較的安価に手に入るはずなので、酒屋さんを覗いてみては如何でしょう

まだ夜は遅くない。酒屋は開いている時間だ。

「……うん、やっぱり探してみようかな。行ってみよっと」

そう呟いて、凛は再び街へと繰り出した。


あっという間に書き貯め分が尽きた
プロットは既に出来上がっているので、このままゆったり
キリのいいところまで書いちゃ投下を繰り返して行こうと思います

ちょっと特殊・独特な世界になっていますが、最後までまったりとお付き合いください


あ、そうだ新SRに歓喜している自分ですが、
このSSは[夜宴の歌姫]とは全く関係ない内容なのであしからず……


あ、ちなみに 光がはしゃいだグリッドマンOPはこちら
http://www.youtube.com/watch?v=hNdrrTWicj8

http://i.imgur.com/yBgPkrV.jpg
http://i.imgur.com/yDvcjR0.jpg
渋谷凛(15?) 一応枠アリのも置いとく

http://i.imgur.com/9GqnSsF.jpg
http://i.imgur.com/wpyMjKb.jpg
千川ちひろ(?)

http://i.imgur.com/6ZZYjEV.jpg
http://i.imgur.com/xnw8eMi.jpg
南条光(14?)

http://i.imgur.com/uLO8mvE.jpg
http://i.imgur.com/79QYnDA.jpg
北条加蓮(16?)







New Age Surf
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は全く夢を見なかった。

昨夜いい酒を飲んだからかも知れない。

それでも不快な睡眠ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて昼の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を引っ張って、ぱたぱたと扇いだ。

蓋の役割をするネクタイがないので、肌を撫でる風の流れがいつもより心地よい。

調子に乗って強く何度も引っ張ると、プチッと糸の切れる音がして、シャツの一番上のボタンが飛んでしまった。

「……」

胸の谷間が露になり、ブラは辛うじて隠れている……そんなギリギリの状態となる。

裁縫道具は持ってきていないので、帰宅してから縫うしかない。何と云う因果だろうか。

凛は左手で頭を抱えて、はぁ、と溜息を漏らし、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛は、昨日忘れた、机の上へ放られたままのハンカチを回収してから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事はCGプロの別部署、出版部との打ち合わせ。それからCM撮影だ。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的に出版部と同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げた会議室があり、これだけで、自分が今、あたかも会合の席にいるかのような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

タイミングを同じくして、アイドル仲間の佐久間まゆが現れた。

クールの凛とは別課の、キュートに所属している元読モと云う経歴の持ち主。

「あら、おはようございまぁす、凛ちゃん♪」

「うん、おはよ」

挨拶を寄越してくる彼女もまた、デビュー時から外見はあまり変わっていない。

強いて挙げれば、少し大人っぽく、色っぽくなったと云うことくらいか。

それから数分ほど後に出版部の担当者が現れた。

議題は今度発売される月刊ファッション雑誌の紙面について。

凛とまゆをモデル二本柱として、秋の先取り特集を組むのだと云う。

「私、やっぱり多少笑った方がいいのかな……」

少々眉根を寄せて考え込む凛に、席の対面で柔らかく笑うまゆが声を掛ける。

「凛ちゃんは笑顔も素敵だけど、やっぱりクールビューティな、お澄ましさんが一番かしらぁ? にこにこした『お人形』は、まゆの役目ですから♪」

「適材適所……か。最近、多少は愛想よくした方がいいかなとは思うんだけどね……」

うーん、と多少悩んだ表情で、凛はこめかみに人差し指を置いた。

「それでも、つんと澄ました顔が画になるのは、渋谷さんの特権だよね。佐久間さんだと怒ってるように見えちゃうし」

出版部の担当者も、クールな凛を推したいようだが、「ただ、モデルとしての“見せ方”は、やっぱり佐久間さんに分があるかな?」と付け加えることを忘れない。

「うん……やっぱりね……それは自覚してる」

凛は、モデルについて一日の長があるまゆへ助言を求めたりと、会議はつつがなく進行する。

普段の髪や肌のお手入れ方法など文面案を遣り取りし、だいぶ固まったところで、後日改めて草稿を基に打ち合わせすることとなった。

撮影は数日後に行なわれる予定だそうだ。

タイミングよく、ちひろとのセッションがつながれ、緑の制服に身を包んだ彼女が出現する。

「二人ともお疲れ様。まゆちゃんは今日はもう上がりね。報告書を出しておいてね。凛ちゃんは18時からBスタで撮影よ」

「はぁい、お疲れ様でしたぁ。それじゃ、凛ちゃん、お先にね」

「うん、お疲れ様」

手を振って会議室から出るまゆに、凛もバイバイと振り返し、ログアウトした。


――

撮影用衣装に着替え、CGプロ収録フロアにあるBスタジオへ入ると、機械制御されたカメラ群が凛を出迎えた。

入口に置かれた、ワイヤレスの社内NEURONet携帯端末をポートに装着し、制作部の撮影監督およびCMクライアントと意思疎通を開始する。

瞬間、撮影現場に監督とクライアント担当者がいるかのように投影された。

もちろんこれは凛の脳がNEURONetと連携して作り出した“像”だ。

実際には、監督は自らの所属部署の、クライアントは自らの会社のブースに坐っているはず。

だが、凛が歩けばそれに応じて監督の立っている位置が変化して投影されるなど、芸が細かい。

まるで違和感なく虚像が現実に混ざり込んでいるので、慣れない者は空間識失調に陥ることがある。

勿論、凛は訓練を受けており、そうなる心配は無用だ。

撮影は順調に進んで行くが、スタジオ内は、凛の台詞と機器の動作音以外には全く音がしない。

一種異様な光景ではあったが、指示は全て直接脳内に流れるので、この時代の撮影現場では至って普通のことであった。

「――やっぱり端末―ノード―はヨツビシだね! Changes for the Better, YOTSUBISHI ELECTRIC!」

「――ヨツビシの技術が、全世界のNEURONetを支えています。いつも傍に、四菱電機!」

「――皆様の生活を支える、四菱グループ。時代の流れを皆様と共に歩みたい、四菱グループ。
 未来の環境を皆様と考え創り出す、四菱グループ。今日も誰かと……明日はきっと、貴方と」

凛が何種類かの決め文句を述べた。

瞬時にそれぞれのパターンが編集され、結果をクライアントが判断する。

今の凛は短髪だが、CGプロアーカイブ室のデータベースを参照し、即座に長髪へ修正・書き換えられている。

その時間、映像の等倍速プレイバックまで含めても数分のみ。そして結果を受けて、クライアントが凛に指示を出す。

実に効率の良いワークフロー。

21世紀第一四半頃までの、わずか30秒のシーンを撮る為に10時間も費やすなどと云う馬鹿げた現象は、この時代には起きることがなかった。

当然ながら、凛の着替えだとか、撮影に要る消耗品の補充のためにアシスタントが動くなどの時間ロスはどうしても出る。

しかし、出演者の調子が良ければ、特殊な撮影でもない限り、30秒のCMなら一時間ほどしか掛からない程度まで制作環境は進化しているのであった。

凛はこの日、もう一本、別のCMも撮って、仕事を終えた。



・・・・・・

終業後、20時半を廻った頃、凛は新宿の街を歩いていた。

昨日包帯代わりに使ったネクタイの、新しいものを探す為だ。

この時間でも開いているのは新宿マイロードと新宿シカクイくらい。

大江戸線新宿駅からのルートを考えると、まず西口のマイロードを見てからシカクイとなるが、マイロードでは目当てのものが見つからなかった。

シカクイのある新宿三丁目へ向かって、東南口の裏道を行く。

ショートカットとは云え、だいぶ薄暗い路地だ。

――時間、間に合うかな……

左手の腕時計を気にしていると、意識が逸れる。

早足で歩いていた凛は、ぼすっ、と前の人にぶつかってしまった。

「あっ、すみません」

腕時計から顔を挙げて謝ると、柄の悪い男たちが三人ばかりつるんでいるところだった。

「あァン? 痛ェな、随分と勢いよくぶつかってくれたじゃねぇか」

ぶつかった相手、銀髪にパーマをかけた男が云うと、他の男もこちらを向く。

「おッ? オンナじゃん。ヘヘッ」

そして凛を見るや否や、不躾な視線を寄越してきた。

――昼間と云いこれと云い、今日はつくづく運が悪いね……

凛は内心そう思ったものの、勿論、声には出さない。

「ヘイヘイ、上玉だ、悪かねぇぜ」

「ン~? なんか渋谷凛に似てねーか?」

「馬ァ鹿、ありゃもっと髪長いだろ。他人の空似だ」

ぶつかった男の両隣に居た、茶に染めた長髪とスキンヘッドの男たちが、ニヤニヤしながら的外れな会話をする。

それも致し方あるまい、『国民のアイドル渋谷凛』に短髪と云うイメージはないのだから。

しかも、トレードマークである碧いネクタイも身につけていない。

一般人にとって、今の彼女は、ただ白いシャツを着ているだけの、渋谷凛によく似た、短髪の女性でしかなかった。

じろじろと嘗め回すような見方に、凛は身体を硬くした。

「すみません、急いでいるので……それでは」

軽く頭を下げて、横を通り過ぎようとするが、パーマの男に肩を掴まれ、止められた。

「オイちょっと待てよ。あれだけ思いッ切りぶつかっといて、そんなつれない態度はないんじゃねェの?」

厭らしい笑いを浮かべて云う。

「ごめんなさい、ぶつかったことはお詫びします。では、急いでますので」

凛は深めに頭を下げると、肩を掴んでいる腕をさっと躱し、走り出した。

「あぁ? オイコラ!」

男たちも、それを追い掛けて走る。

いくらダンスなどで体力をつけているとはいえ、女と男では身体能力に雲泥の差がある。この性差の事実は如何ともし難い。

先んじたスキンヘッドに脚を掛けられ、盛大に転んでしまう。

咄嗟に地面へ突いた右手首が、ぐきっと鳴った。

痛みに顔をしかめる凛の周りを、男たちが囲い、パーマ男が腕を掴んで云う。

「おいおい逃げンなよ姉ちゃん」

「厭ッ、離して!」

眼をぎゅっと閉じ、身をよじって藻掻く。

「なんだよ、こんなブラチラするレベルまで胸を開―はだ―けた格好で男を誘ってた癖に、厭がんのか?」

第一ボタンが外れて、胸を大きく開ける状態となっているシャツを、ぺらぺらと捲られた。

「誘ってなんかないよ!」

凛は男の顔を睨みつけて叫んだ。

「ったく五月蝿ェ女だな」

うんざりした様子のパーマ男は、眼にも留まらぬ早さで凛を壁へ押し付け、掌で口を塞いだ。

「んうっ!」

「なぁ、このアマ、声まで渋谷凛ソックリだな? なんかソソるぜ」

動きを封じられた凛の横で、スキンヘッドの男が口笛を鳴らした。

「知るかよンなこと。俺はイイ女にブチ込めりゃそれで構わねぇ」

パーマの男は、そうだるそうに云いながら、口を塞いだのとは反対の手で彼女のシャツのボタンを乱暴に外した。

上半身の肌が剥き出しになる。

「ほーら、こんなエロい身体で誘惑してやがるじゃねえか」

「んー! んぅーっ!!」

凛は、口を塞がれても尚、有らむ限りの叫びを出したが、ここは裏路地。

新宿であるにも拘わらずほとんど人の居ない、暗い道なのだ。

時間に追われていたとは云え、ショートカットに裏道を使った自分を恨んだ。

そこへ、後ろでニヤニヤ見ていた長髪の男が、上着のポケットから見慣れない機器を取り出した。

「ほら、携帯型ポートクラッキングデバイス。これ使えば抵抗されず簡単に犯れるぜ?」

などと、とんでもないことを云い出す。

その言葉に凛は戦慄して眼を見開いた。

「お前なんでこんなイリーガルなモン持ってんだよ」

「こないだ大阪自治区へ遊びに行ったとき、ポンバシでイスラエルの売人と仲良くなってさ」

意地の悪い、虫酸の走る笑みを浮かべて男たちが喋っている。

「んー! んんンーッッ!!」

いよいよ状況の不味さを感じ取った凛が強める抵抗など歯牙に留めず、パーマ男は長髪に向けて告げる。

「マグロなんかよりも必死に抵抗してくれた方がそそるんだがよ、叫ばれるのだけは御免被りてえな。それ使って発声中枢を切り離せねえか?」

――や、やだ……助けて、誰か……

「応よ。ほーれ、プスッとな」

ポートにプラグが挿されると、意識がチューブの中を彷徨う。

そしてすぐに、そのデバイスは凛の延髄を浸食した。


『――BE CRACKED――』

トンネルを抜け、現実へ引き戻されると、下品な男たちは相変わらず凛を囲んでいる。

しかし口を塞いでいた手は離れていたので、すかさず助けを呼ぶべく叫んだ。

――否、叫ぼうとした。

なのに、何の音も発せられない。

どれだけ声を張り上げようと思っても、穴の空いた袋のように、肺から空気が漏れるだけなのだ。

男たちはニヤニヤ笑って、凛との距離を詰める。

血の気が引く音って本当にあるんだね……

凛の脳は、そうやってまるで関係ない思考を廻すことで、辛うじて意識を保っている状態だった。

顎がカタカタと鳴り、身体は恐怖に震えている。

口を開けても、言葉になることはなく。

欲望の腕が凛を蹂躙し、あっという間に組み敷かれてしまった。

――厭! 止めて! 厭ッ!

「イェーヘッヘッ、こんだけ綺麗なオンナを犯せるたァ、今日はツキがいいな」

スキンヘッドが、満面の下衆笑いを浮かべて恍惚し、長髪もそれに同意する。

「いやはや全くだ。このアマ、渋谷凛に似てるから、気分はアイドルを輪番―マワ―す感じだぜ!」

「あーもう俺我慢できねぇ。ぶつかられたの俺だし、一発目、いいだろ?」

そう云ってパーマ男は、凛の大腿を押し拡げた。

勿論、凛は最大限の力でじたばたと抵抗するが、屈強な男に二人掛かりで抑え込まれては為す術がない。

男は、凛の大事な部分を覆う白いショーツを、脱がせることさえも面倒だとばかりに、横へとずらすだけで済ませ、

そして両脚の付け根の間に、硬い屹立を無理矢理貫かせた。

凛には、まるで赤くなるまで熱せられた鉄杭を打ち込まれるような、内臓が灼熱に焼かれるような感覚があった。

――厭アァああぁぁぁぁっっッッ!!!

「うおぉ、ソソるねぇ、その顔。ウッヘッヘ、絶望に揺れる瞳ってのは、いいモンだよなァ!」

腰を前後に揺らしながらパーマの男が嗤う。

何故こんなことになってしまったのだろう。

昨日、ハンカチを忘れさえしなければ。

今日のスケジュールの、急な変更さえなければ。

回り道でも、甲州街道や靖国通り、新宿通りを歩いていれば。

……そのうちのたった一つだけでも違っていれば、今、こんなことにはなっていなかったはずなのに……。

しかし、今更そんな『もしも』を思っても遅い。

凛の尊厳を踏み躙る醜悪な非道が、今、着実に進行しているのだ。

――止めてッ! 抜いてぇ! 痛い! 痛い痛いぃっ!

男を受け容れる準備などされていようはずのない凛は、強引な抽送に、声の出ない悲鳴を上げた。

その叫びは、捕食する側にも別の形で伝わる。

「なあ、そのデバイス使って干渉できねえか? 全然濡れてなくて、すっげえ犯り難いわ。ヒリヒリする」

パーマ男は、長髪に向かってそう尋ねた。

「ん、ちょっとやってみっか。性行動を司るのは視床下部だったか? ついでだ、体性感覚を中継する視床後腹側核にアンプとフィルタを噛ましておくか」

暢気な云い様で、クラッカーをいじる。

「おいおい早くしろよ」

「ちょっとくらい待てって、発声中枢は延髄だからクラック簡単なんだけどよ……間脳まで分け入るのは骨が折れる」

カチカチと操作する音と共にデバイスが浸食し、凛の意識は再びチューブの世界へ飛ばされた。

まるで脳味噌や内臓を、内側からこね回されるかのような、強烈な不快感に、凛は身体を震わせる。

しかしトンネルを抜けると、凛が最初に感じたのは、下腹部の甘い熱さだった。

――な、何、これ……一体何なの……これぇ!

性衝動に蕩ける凛の瞳の向こうで、男が歓喜の叫びを上げる。

「うっほー、早速濡れてきやがった! やっぱ中東製のモンは違えな! こりゃ非合法なわけだぜ」

――違う! 濡らしてなんかいない! こんなの……私じゃない……!

頭ではそう思っていても、クラックされた凛は抗えず、男を迎え入れる準備を整えていった。

身体は熱を帯び、上気した顔は潤い、吐息が荒くなる。

獰猛な前後運動に、お腹の内側が甘く疼いた。

その、一種快い感じに戸惑い、そしてそれを知覚してしまう自分が惨めで、泪がこぼれた。

気丈な女の見せる泣き顔に、男は更に興奮したようだ。動きが加速する。

合わせて、凛の快感も上がり、雌のフェロモンを大量に放出した。

「おおその表情―カオ―最高だぜ! さーてそろそろフィニッシュだ。お服が汚れちゃうからこのまま放―だ―しましょうねー。孕んじゃったら御免ねー」

その言葉からは、悪いと思っているなどと全く感じられない。

思考に靄が掛かった状態でも、それが何を意味するかは理解出来た。

――駄目! 中は駄目ぇっ!!

必死に叫ぶが、声にはならず、喉からはヒュー、ヒュー、と掠れた音が出るのみだ。

四肢や全身に最大の力を込め暴れるが、抑える男はびくともしない。

逆に、上体を反らすことで胸部が浮き、女としての体躯が強調される結果となってしまう。

それを見たパーマの男はリビドーを加速させた。

ラストスパートに激しく揺さぶられる凛の身体。不意に、男の動きが止まる。

――いやあああああああああああ!!!!!

下腹の内側で、規則的に跳ね上がる脈動を、凛は絶望と共に感じ取った。

パーマの男にとっても、あまりの快感だったのだろうか、放出して尚硬さを維持したままの竿を抜くと、

凛のすらりと伸びた両脚の付け根から、白濁が、コプッと云う微かな音を立てて溢れ出た。

その粘った雫は、細い糸を引いて、静かに垂れ落ちる。

液が洩れ出る、綺麗な桃色の洞口は、凛の荒い呼吸と同期して、ヒクヒクと緩やかに、収縮と拡張を繰り返している。

凛は瞬きもせず、さめざめと泪を零した。

なまじ脳の大部分、特に大脳は全て正常に機能しているのだから、ショックの大きさも甚だしいものがあろう。

そんな様子に構うことなく、次は長髪の男が股の間に割り込む。

一度、最後まで到達されてしまった凛は、最早抵抗する気力も体力も消え失せ、支配するのは失意のみであった。

男は、あまり反応のない女体に面白く無さげな顔をしたが、その代わりと云うかの如く、凛の、果実のように潤う唇を貪った。

更には、ブラジャーを乱暴にずらし、たわわで柔らかな感触を愉しむ。

――んぁっ!

失望が占めているとは云え、弾力ある丘の先端、突起をつまめば、凛の身体は律儀にも反応し、下腹を締め付けた。

口唇、両手、接合部と、四箇所で同時に味わう凛の身体は絶品で、その快感に抗えず、長髪の男は早くも中で果てる。

バトンタッチを促され、ゆっくりと引き抜くと、先ほどと同じように、二人分の白い残滓が零れた。

それは、激しい動きによって掻き混ぜられ、メレンゲのように泡立っていた。

そして入れ替わりにスキンヘッドの男が、入口に狙いを定める。

ラテン系の血が混ざっているのか、その怒漲は、パーマや長髪のそれよりも大きく、長かった。

腰を深く沈めると、凛の最奥の部分が押し込まれる。

奥壁に圧力のかかる感覚は、反応の鈍くなっていた凛を叩き起こした。

――んああああぁぁあっっっ!?!?

そこは、“中”で最も快感を得られる場所。

入口の摩擦で感じる快さとはまた別の感覚。

長い逸物の鋭い往復に、表門と奥で同時に得る悦びが、どんどんと増幅された。

――ぁん! ぁんッ!
――んあっ! あっ! あッ! ぁ! あ!

女体は、本当の快感を得ると、短く小刻みな喘ぎを洩らすようになる。

凛はまさに今、その愉悦の波に呑まれているところだった。

初めて得た感覚なのか、悔しさと同じく溢れる快さに、目を白黒させている。

ビクン、ビクン、と、無意識下の快感の痙攣が、凛の全身に拡がり始めた。

――ああああっ! な、なにこれぇっ! あ! あ! あああ!

自律神経の妙により、下腹は、入口が狭まり、奥は膨らむ、不思議な状態を形成する。

遺伝子に刻まれた本能だ。

その神秘的な構造が、スキンヘッドの男を絞り上げた。

「よし、そろそろだ。こんなイイオンナの一番奥に種付け出来るたぁ最高だぜ」

男が腰を最大限の力で最奥まで押し付けると、中で飛び跳ね、暴れ回り、大量の種を放出する。

同時に、凛の目の裏で白い光が連鎖的に爆発した。

――ああぁぁぁぁあああぁぁぁ!!!!

絶望と快感のダブルパンチに、凛の意識は飛んだ。

視界がブラックアウトする中、その後も三人のローテイションに為すが儘の美しい肉体は、脊髄の反射のみで、ビクン、ビクンと何度も跳ねた。


――

どれほどの時間が経っただろうか。

どれほどの回数を輪番されただろうか。

まるで糸の切れた操り人形の如く全身が弛緩した凛は、時折ピクンピクンと快楽の余韻を起こす。

その、地に転がる彼女の中心孔からは、ゴポリと、緩急をつけて白素が洩れ出ていた。

狡猾な男たちは、満足の溜息を吐くとともに、乱れた凛のシャツのボタンを元通りに戻す。

それは凛の美しい身体に、犬畜生以下の獣が贈る、最大級の、食事後の挨拶と、賛辞であった。

「おい、今夜の記憶は消しとけ。騒がれるとめんどくせえからな」

パーマの男がそう云うと、長髪も同意した。

「そうだな。今夜のことは、悪い夢、いや、夢ですらないな。暗黒の向こう側に棄てられる記録だ」

ニヤニヤとデバイスをいじりながら、妙に詩的なことを云う。

「これで孕んでたら最高なんだけどな。記憶がない上に、見知らぬ男の種が腹ン中で芽吹くんだぜ。誰の子なのか、俺たちすら判らねェ」

スキンヘッドが恍惚の表情を浮かべて鬼畜な願望を洩らした。

「よし、これでOK。このあと帰巣本能に従って家へ帰り、身体、特に、お、ま、た、をちゃんと洗うようハックしておいた」

長髪は頷いてからクラッキングデバイスを取り外し、ポケットにしまって、立ち上がる。

そして、三人の男たちは、焦点の合わない凛の瞳を覗き込んで「御馳走様」と囁き、下卑た笑いを遺して、去っていった。







There ain't no Answers
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は全く夢を見なかった。

むしろ昨夜、終業後の記憶が一切ない。

それでも新宿へ行ったようなことだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ。なぜだか全身も重いし」

「――風邪でもひいた?」

「うーん、悪寒はないから風邪じゃないと思うんだけど、よく判らないんだよね。昨夜の記憶も一切ないの」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、右手でぱたぱたと軽く扇いだ。

蓋の役割をするネクタイがないので、取り入れられる風量は多いはずだが、

しかし何故だか手首にやや強めの痛みがあり、大きく動かせないので、あまり風の流れは起こらない。

はぁ、と溜息を漏らし、右手で持てないため左手に提げていたバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛は、右手首に左手を添え、一瞥してから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事は、午前中は、出版部から上がってきた記事草稿のチェック。

そして昼過ぎからNEURONet Music Store、NMSでのプロモーションと、その一環の握手会だ。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、出版部のストレージと同期が開始された。

記事全体のレイアウトやラフデザインを確認し、気になる箇所にチェックを入れていく。

二十数ページほどに亘る特集記事はとても分量があり、読み応えたっぷりだ。

全て確認する頃には、時計の短針が真上を向こうかとしているところだった。

赤ペンを入れ終えた凛は、原稿をまゆのタスクへ送信した。

彼女がNEURONetへ接続すれば、凛から原稿が送られたと云う通知が届いているはずだ。

さて、午後の仕事までは若干の時間がある。

普通ならこのお昼休みに軽く食べるのだが、今日は何故だか食欲が全く湧かなかった。

「――あら? 凛ちゃん、お昼は食べないの?」

午前の仕事を終えても尚、NEURONetへ接続しOSのトップ画面で放置したまま、ブースでぼうっとしている凛に、会話セッションを開いたちひろが問うた。

「あ、うん。なんだか朝から全然お腹空かなくてさ。朝食も摂ってないんだけどね」

「――朝も食べてないの? だめよ、身体が資本なんだから。どこか悪くしているの?」

「いや……そういうのは決してないんだけど……自分でも不思議なんだ」

特段、気持ちが悪いとか、発熱しているとか、そう云うわけでは全くないのだが、何故だか、空腹にならないのである。

「――まあ大丈夫ならいいけど、もしそれが続くようなら診てもらった方がいいかも知れないわね」

「うん、もし明日もこうだったら、ちょっと受診しようと思う」

そう云ってから、凛はセッションを切り上げた。

ニュースをチェックしたりして時間を潰す。

すると、社会記事に、不穏当な見出しがあった。

『国内性犯罪率、増加傾向――警察庁発表』

やれやれ全く物騒だね、と凛は溜息をついた。

アイドルにとって、性犯罪は対岸の火事ではない。

綺麗で可愛い外見、さらに魅惑的なプロポーションを持っていれば、やはり、そう云う性的犯罪に巻き込まれる可能性は飛躍的に高まるものだ。

一般的な容姿の人間を羨ましく思う刻がある。

勿論、そんな一般人からすれば、アイドルのような、外見や体型に恵まれた人間を羨むのだろうが。

隣の芝は実に青い。

http://i.imgur.com/jg9JLfy.jpg
http://i.imgur.com/QgJi9qz.jpg
柊志乃(31?)

http://i.imgur.com/knrr3N4.jpg
http://i.imgur.com/HfKcr1c.jpg
佐久間まゆ(16?)


こんな盛大な寝落ちは久しぶり……
コーヒー飲んで少ししたら再開します


感心しない記事を読んでいると、じきに午後の仕事の時間となった。

メニューの『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的にNMSと同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げた音楽・映像ショップがあり、これだけで、自分が今、あたかもお店の特設ステージにいるかのような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

ステージ上で司会者とともにトークショウが進んでいく。

「いやー最近あっついよねー、凛ちゃん。何か夏バテ対策してる?」

「特に意識してやっていることではないんですけど、このあいだ、宍道湖のうなぎで精力をつけました。美味しかったですよ」

「うわー国産天然!? なんちゅう贅沢! 流石売れっ子トップアイドルは違うなー! 俺なんかマダガスカル産すら手が出んわー」

来場者は三万人を優に超え、会場を笑いが包んでいる。

実店舗では収容など到底無理な数字だが、NMSと云うネットワーク上の店舗だからこそ可能なことだ。

「やっぱりうなぎはスタミナつきますね。アイドルって結構体力勝負な面があるんで、重宝します」

「なんだいなんだい、うなぎでスタミナつけて、これで夜のハッスル運動もバッチリって? 羨ましいお相手は誰?」

「もう、そんなのいませんよ」

司会者の肩を叩いて突っ込みを入れ、「私、渋谷凛は、“みんなの”トップアイドルだよ!」と会場へ向かって左手を伸ばす。

会場からは、ファンたちが、凛のその手に向けて、120年前のドイツで利用されていたような格好をしている。

まさに、偶像と、その崇拝者の関係。それを象徴する光景であった。


トークショウを終え、先着順に整理券が渡されていた100名との、握手会へ移行する。

この早い者勝ちの整理券の為に、一週間前から並んだ猛者もいたとか。

凛は右手首の状態を少しだけ気にしていたが、握手をするのは実体ではなくNEURONet上のことだ、と深く考えないようにした。

しかし。

怪我など、普段と違う感覚を持っていると、そこから触れた相手の意識が干渉してきてしまう、それが脳と直結しているNEURONetの弱点。

特に、今の凛の右手首は、重い捻挫を負っており、そこに開いてしまう不随意なチャンネルは、だいぶ大きな穴であった。

握手をする相手の思考が、凛へ干渉するという些細なレベルではなく、荒い勢いで逆流する。

気にしないように、気にしないように、と強く思っても、強制的に脳へ流れ込んでくる干渉波からは、どうにも逃れられない。


 ――ああ、凛ちゃん……! 今日も微笑んでくれてるね! あぁ、はぁっ!


通常の状態であれば、ユーザ側から逆流する不適切な波は、CGプロのNEURONetゲートウェイで全て弾かれる。

しかし、別ルートで意図せず開いてしまうチャンネルは、VPNのように情報が無濾過で流れ込んでくる。

今の凛の脳は、いわば、全く鍵を掛けずに開放している門扉と同じ。

普段感じることのない意識の干渉に、凛はかなり戸惑った。

それでも握手会を中止するわけにはいかない。意識を強く持って、凛は耐える。


 ――そう、その笑みを僕だけに向けて! はぁはぁ、その可愛く綺麗な顔を僕が白に染めてあげるよ!

 ――ああ、ああ! 凛ちゃん! うっ! ふぅ

 ――いつ視ても、まるで絵画のように綺麗!


偶像の宿命とはいえ……
握手をする人々の、強烈な崇拝心、大きな羨望心、そして凛の美しさへの烈しい陶酔が流れ入る。

もはや、それは宗教の狂信に近い。

そしてその中の幾許かは、凛へ向ける視線の内側に、性的な色を込めていた。


 ――僕がいつもシコる掌に、凛ちゃんが触れているゥッ! もうこれだけでトんじまいそうだ!!


プロの矜恃として笑顔は崩さなかったが、凛の眼前は、もはや真っ暗で、何も視えていない。

そこに坐っているのは、偶像と云う名の、人形と化した、“容れ物”だった。


 ――ああ、渋谷凛ちゃん……キミは素晴らしい偶像―アイドル―だよ……ふぅ……


何十人目かの握手で、再び強い性的な視線を送られたとき、

お腹の奥に、なにゆえか、

未知であるはずの、ドプドプと精を放たれる感覚が甦った。

凛は、いつ仕事を終わらせたのかも判らないまま、気付いたら、自らのブースで、放心していた。







XXI Century
・・・・・・・・・・・・






皆が視ているのは私自身なの?

皆が視ているのは私の外見なの?

皆が視ているのは渋谷凛と云う容れ物なの?

皆が欲しいのは渋谷凛の姿形をした人形なの?


ポートからケーブルを乱暴に抜いた凛は、ブースでリクライニングチェアに全ての体重を預け、呻いた。

顔をしかめ、眼を閉じると、先ほど逆流してきた、大勢の穢らわしい劣情が凛の脳にリフレインする。


 ――ああ、凛ちゃん……! 今日も微笑んでくれてるね! あぁ、はぁっ!

 ――そう、その笑みを僕だけに向けて! はぁはぁ、その可愛く綺麗な顔を僕が染めてあげるよ!

 ――ああ、ああ! 凛ちゃん! うっ! ふぅ

 ――僕がいつもシコる掌に、凛ちゃんが触れているゥッ! もうこれだけでトんじまいそうだ!!

 ――……ご……ち……そ……う……さ……ま……


安寧を求めて閉じたはずの瞼が、脳を掻き回す結果を見せ、凛はたまらず眼を見開いて、飛び起きた。

上半身を前にかがませ、体育座りのように折り曲げた脚の膝へ額を乗せながら、荒い息をつく。

「はぁ……はぁ……なんなの、これ……」

湧き上がる吐き気を、ゴクリと空唾を呑み込んで、抑えつけた。

だめだ、今日はさっさと帰ろう……。

凛はよろよろと立ち上がり、鞄を左手に持って、力なく歩み出した。

その姿を認めたちひろが、心配そうに訊ねる。

「――凛ちゃん、だいぶ調子悪そうよ? どうしたの?」

「ううん……大丈夫だよ。心配しないで……また、明日ね……」


そのまま事務所の扉を開けて退出し、エントランスをふらふらと進む。

――さっきのリフレイン、最後のあれは一体なに……?

凛は、握手会の時に感じたものとは異質な思考の逆流を、訝しんだ。

『ご……ち……そ……う……さ……ま……』

――御馳走様?

――一体何がごちそうさまなの?

エントランスの壁に力なく寄り掛かり、思考を整理する。

――冷静に、順序立てて考えよう

そう自分に云い聞かせて瞼を下ろすと、不意に、新宿を歩いている自分が視えた。


――これは昨夜のことなの?


――どうして新宿なんかに?


――ああ、確かネクタイを……  ……そうだ、ネクタイを買いに!


――……でも、私は今ネクタイをしていない。どうして?

そこまで考えたところで、瞼の向こう側に映される場所は、裏路地へと変わった。

「――っ!?」

慌てて眼を開け、周りをきょろきょろと見廻すが、間違いなくここはCGプロの玄関ホールだ。

しかし同時に、握手会のときの、記憶のある中で最後の感覚が甦る。

未知であるはずの、身体の奥にドプドプと精を放たれる感覚が。

――私のお腹の中に、何かが分け入ってる……

――これは……これは、まさか。

頭の中に不穏な思考と記憶が浮かび上がった瞬間、凛は、化粧室へと駆け込んだ。

個室の鍵を閉め、白いショーツに隠された、誰にも許したことのない――はずの――場所へ、人差し指と中指を深く挿れると。

……指先に何か、ぬるりと、くっつく感覚があった。

自らの分泌液とは明らかに異質なそれ。

凛の顔から、血の気が引いて行く。

――まさか……まさか……

指を抜いて確認しなければと思うが、認めたくない答えが出たらどうしよう、と悩む別の自分が、行動を止めてしまう。

――そんなわけ……ない。……ないんだから……

凛は、ふぅ、と一息つくと、意を決して、眼を強く閉じて指を引き抜いた。


ぎゅっと塞いだ眼を、片方だけ薄目にして、手を確認したその瞬間。

驚愕に眼を見開き、膝の力が抜け、とすん、と尻餅をつく。

指先には――

最奥に残っていた、粘り気のある白濁したモノが、絡み付いていた。

それが引き金となり、海馬から放逐されていた記憶のシナプスが、無惨な記録を律儀に保管する大脳皮質と結びついた。

「あ……ぁ……」

身体はカタカタと震え、絶望に揺れる双眸から、一本の筋が頬を伝った。

そうだ。

私は。

ゆうべ。

「お、お……おか……犯された……」


輪姦―おか―された。


凌辱―おか―された。


蹂躙―おか―された。



オカサレタオカサレタオカサレタオカサレタオカサレタ――

「う……うぅっ……うぁあぁ……!」

泣き声を洩らしそうになり、すんでのところで口を塞いだ。

ここで大きな声を上げたら、誰かに聞かれてしまう。

凛は、白魚のように綺麗な指へと絡み付いた、その忌まわしき跡を、トイレットペーパーで乱暴に拭い取ってから、

自らの口を、自らの両手で硬く閉ざし、身体を大きく戦慄かせ、止め処無い泪と、音無き慟哭を上げた。


――

凛は気付くと、独り、CGビルの屋上にいた。

時刻は、夕方。

世を、橙色の光が包んでいる。

いつの間に、どうやってここへ来たのかは憶えていない。

おそらく、澱んだ化粧室に耐えられず、新鮮な空気を求めたのだろう。

柵に正対して寄り掛かり、手摺部分に両腕と、その上に顎を置いて、眼下の人間模様を、あまり焦点の合わない、泪が涸れた眼で眺めている。

このドス汚い世界に、娯楽と癒しを運ぶ妖精たるアイドル。

そんなトップの自分が、無残に散らされたとあっては、もはや存在価値などない。

魔法をかき消されたシンデレラに、意味はないのだ。

魔法が解け、再び灰を被った者など、誰も見向きはしない。

同じ、存在価値のないものになるのなら、せめて、想いを寄せる人に散らしてほしかった。

そう、私の身体は、あの人だけのものなのに!――

「…………あれ……?」

ふと、顔を挙げて、虚空を見詰める。

「……“あの人”……って誰のこと?」

自分が紡いだ言葉のはずなのに、その細部が理解出来ない。

何か大切なことを忘れているような。

いや、そもそも、“自分とは何か”を忘れているような、何かピースの嵌らない感覚。

私は、渋谷凛。

でも、人々が見ている私って……誰?

……渋谷凛の背格好ヲした人形でも構わないんデショ?

私ハ……渋谷――リン……


 ――ああ、渋谷凛ちゃん……キミは素晴らしい偶像―アイドル―だよ……ふぅ……


ミンナノ……モトメテイル……シブヤリンってダレ……?――



――――
――


「もういいや」

ふっ、と自嘲の息を吐いて、再び眼下の街を見る。

柵から身を乗り出して覗き込むと、様々な人が行き交い、その一つ一つに、ドラマがあるように感じられた。

誰も、屋上で黄昏れる凛のことなど気に留めていない。いや、気付いてすらいない。

その事実が、余計に彼女を惨めにさせる。

こんな傷物よりも、才能や容姿に恵まれている他の子の方が、きちんとアイドルをやれる。

傷物は、偶像の役目を果たせない。

結婚などならまだしも、無理矢理穢された偶像など、崇拝されることはないのだ。

「……もう、いいや」

舞台から――去ろう。

「もう、……いいや」

さらば――眩い魔法で輝かせてくれた世界よ。


不意に、足元の反発力が消える。

遠くに見える、黄昏れに染まった、東京の街。

高い湿度によって、多少モヤがかかったかのような遠景が、徐々に、下から顔を出す、手前のビルによって遮られていく。

自由落下時に特有の、内臓の裏返る感じ。

それが、凛の脳が受け取った、最後の知覚だった。


――地に、鮮やかな、紅い花が、咲いた。


ひとまずここまでが朝方(っていうか本来は昨夜)に投下しようとした分です
あー自分で書いといて胃が痛えよ……

現段階でプロット上ではおおよそ三分の一くらいまで来ました
キリのいいところまで書き貯めてから、また夜あたりにでも更新しようと思います







Mysterious Force
・・・・・・・・・・・・






 ――しっかしまあ、毎度々々、面倒な作業ですね

 ――今回のは五年保ったんだ。充分、上出来だろう

何やらだるそうな会話で、私は覚醒した。

いや、目を覚ましたら、丁度、そんな会話が耳に飛び込んできた、と云う方が正しいのかな?

 ――おっと、目覚めました。脳波体温血圧脈拍異常なし、カルシウムチャネルN・P・Q・R型それぞれクリア、ドーパミンレベルも正常です

 ――結構、連れてこよう

横になった儘の私の傍で、よく理解出来ない単語が飛び交っている。

ここは……病院?

……その割には、わけの判らない機械が数多く置かれた、陰鬱な空気の充満する区画だけれど。

きょろきょろと視線を動かしながら、上半身をゆっくりと起こす。

そこでは比較的若い人と、中年の、たぶん上司かな? そんな二人が、少し疲れた面持ちで、それでも忙しく動き回っていた。


 ――調子はどうだ?

こちらへやって来た中年の上司さんが、中腰になって私を覗き込んだ。

「お医者……さん?」

 ――いや、俺は医者じゃなくてただのエンジニアなんだが……まぁいい、お前の名は?

私の名前……

……私の名前?

……思い出せない。私は……誰?

そんな様子の私を見て、その上司さんは満足気に笑う。

 ――うむ、きちんとクリアな状態だな、OKだ

眉根を寄せて首を傾げる私に、「おお、すまんすまん」と笑った顔のまま謝る。

 ――すぐに思い出せるから大丈夫だ。どうだ、立てるか?

頷いて、立ち上がろうとすると、少しふらついてしまう。

どうも、平衡感覚が鈍くなっている感じ。

ふぅ、まるで生まれたての仔鹿みたい。

苦笑しつつ、その人に促されて、いくつものケーブルが出ている、大きな機械の前まで連れてこられた。

若い方の人は、その機械から出ているケーブルを、首の後ろに挿している。

――あんなことして、痛くないのかな……?

不思議に思いながら、ケーブルを辿って、機械の方を見る。

その向こうには、小上がりの台になっていて――

なって、いて――

「え……?」

その目の前の台には、ぐちゃぐちゃになった“自分の”身体が置かれていた。

「これは……私?」

一体……どういうことなの?

四肢の関節は有り得ない方向へ曲がり、一部には白い骨が露出している。

破裂した胸部や力なく開いた口から溢れ流れた血液は、乾き始めているのか、どす黒く変色していた。

そしてなにより、頭蓋骨がこじ開けられ、露出した脳に刺されている沢山の電極。

この世の物とは思えないグロテスクな光景だった。


「なんで……私の目の前で……私が、死んでいるの……?」

その屍体が語りかける意味は理解できないけれど、見てはいけない物だと直感した。

しかしそれに気づいた所で全てが遅いのだ。

嘔吐中枢を刺激され、鳩尾、胸、喉に強烈な不快感が襲う。

私は身体に力を入れられなくなり、膝を突き、背を丸めてうずくまった。

「うッ……お、ぇっ……」

胃が激しく痙攣、収縮するが、なにも出てこない。

おかしい。

胃液さえも全く出てこないのだ。

「かはっ……ぉぇぇ……っ」

それでも横隔膜の、制御できない締め付けは止まらない。

「ぇぐっ……ゲホゲホッ……ぉ……ぅぇ……」

息が出来ない。

苦しい。

苦しい苦しい。

助けて。

タスケテタスケテ。


 ――で、加藤。ホトケから最近の情報を収集できるか?

 ――いえ、損傷が激しく断片すらサルベージできません

泪と唾に塗れる私の横で、相変わらず理解できないやりとりが続いている。

ねえ、助けてよ。

なんでそんなに平然としているの?

なんで苦しんでいる私を一瞥もしないの?



「――仕方ない、先日の統合バックアップから復旧するしかないか」

チーフエンジニアは、やれやれ、と頭を掻いて、若い方のエンジニア、加藤へ訊ねる。

「最終バックアップは何日前だ?」

「七日前です。一週間分の記憶は業務報告書を基にアーカイブから擬似的に合成しましょう」

「仕事の記憶はそれでいいとして、プライベートの部分は再現できるか?」

眉をひそめて問うチーフに、加藤は力なく首を振った。

「井上チーフ、流石にそれは無理です。直近では北条加蓮のデータに数時間だけ渋谷凛と接触した跡があるものの、一週間分をリペアするには少なすぎます」

井上と呼ばれたチーフは、「だろうな」と天を仰いで、ハァ、と嘆息した。

「……仕方ない、再構築は仕事分だけで進めるしかないな」

「ただ、その北条加蓮に、渋谷凛とバーへ行ったことが記録されています」

加藤の言葉に、井上はどれどれ、と自らのポートにケーブルを挿した。

「あー、こりゃ紛れもなく酒呑み場だな……」

「結構良さげな場所ですね、チーフ、今度行きません?」

「たわけが、そんなこと云ってる場合か」

コツンと加藤の頭を殴って、続ける。

「次号の体齢は15だ、酒は呑めん。整合性を持たせる為に北条加蓮の方も改竄しておかねばな。渋谷凛の再構築と北条加蓮の改竄、全ての所要時間は?」

「250分。北条加蓮は現在オフラインなので、次回接続時に自動で書き換えるよう組んでおきます」

「宜しい。ではその間に“器”への上書きを済ませておこう――」


ねえ、一体何の会話をしているの?

ねえ、そんなことより助けてよ。

そんな私の思念が通じたのか、若い人がこちらへ歩み寄ってきた。

その人は、あまりにもえづいている私を見かねたようだ。

とんとん、と背中を軽くさすられると、幾分か気分は楽になった。

でも、その右手は――変なケーブルを持っている。

「ね、ねえ、……そ、れは……何?」

苦しさや嘔吐感に途切れ途切れの言葉で訊ねた。

しかし、何も答えは返ってこない。

「ねえ、それを……どうするの?」

もう一度訊く。

やっぱり、答えは返ってこない。

その代わり――まるで機械を見るかのような、道具を見るかのような、感情の読めない視線を投げられ、一言、「おやすみ」とだけ。

「え、ちょっ、なに?」

そのまま、意識を手放した。


――

既にとっぷりと日が暮れている中、他の作業をしていた井上に、加藤が報告した。

あれから、およそ四時間。概ね計算通りの時刻だ。

「井上チーフ、渋谷凛の『特訓』が完了しました。仮眠室に運んであります」

「んむ、ご苦労。チェックしに行く」

井上はおもむろに立ち上がり、チェックリストの載った携帯端末を持ってから仮眠室へ入った。

寝ている凛の肩を、とんとん、と叩いて起こす。

ぼんやりと薄く、その後、ゆっくりと眼を開け、凛は覚醒した。

「んー……」

もぞもぞと上半身を起こし、だるそうに、髪を掻き上げて問う。

「……あれ? 私なんで仮眠室にいるの? っていうかおじさん誰?」

「俺はエンジニアさ。ちょっと君のポートのメンテナンスをしていてね。調子はどうだ? 目眩などは?」

チーフエンジニアの言葉に、凛は延髄のポートを何回か撫でる。

「んー、特に目眩とか、そういうのはないかな。ちょっとだるいけど」

井上は満足そうに頷いて、

「メンテ後の起き抜けだからな、だるさは一晩寝れば回復するはずだ」

そう云って、手を差し出した。凛はその手を掴んで立ち上がり、一度、うーん、と伸びをした。

「さ、今日はもう帰りなさい。なんなら、送迎させるか?」

井上の提案に、凛は首を横に軽く振る。

「ううん、大丈夫だよ。心配しないで。また、明日ね」



・・・・・・

部屋から去る凛を見送ったのち。

「いやー流石に今回は骨が折れましたね」

持ち場へ戻りながら首をぽきぽき鳴らし、そうぼやく加藤。井上の方にも、やや疲れが見える。

「アイドルたちのサブリメーションバックアップを週二回に増やすべきか上層部―うえ―と相談しておいた方がいいかもな」

エンジニアリングルームへ帰ると、ちひろが井上たちの会話に割り込んだ。

「――あの子は無事目覚めたようですね。善哉々々」

「直近の記憶は疑似合成なので、経過観察を強化する必要がありそうだがね」

携帯端末のチェックリストに何かを入力しながら、井上はちひろに答えた。

「――しかしなんで急に投身なんかしたんでしょう? そんな素振り、今日の朝ですら見せていなかったのに。確かに終業間際は様子がおかしかったけれど」

その問いに、加藤が若干困った表情で屍体を見る。

「ホトケさんの脳がここまで潰れていなければ簡単にトレース出来るんですが……」

「それは今更云っても仕方ない、仮説的推論―アブダクション―で進める他ないだろう」

井上は作業コンソールの出っ張り部分に腰を掛けて、やれやれ、と肩を竦めた。

「今日の脳波のログを見た限りでは、どうも握手会直後から変化が見られるが……千川女史、些細なことでも、今日気付いた点は?」

「――そうですね……いつも右手に持っている鞄が左手にあったことと……あぁ、昨夜の記憶が一切なく、更に空腹を憶えず昼食はおろか朝食も摂っていないと云っていましたね」

「まずは前者から見て行きましょう」

そう云って加藤は、渋谷凛――だった“もの”の傍へ寄り、右手の状態を調べた。

「右手首に、捻挫か、打撲か……いづれにしろ損傷があります。内出血の拡がりの度合いから見て、投身時のものではなさそうです」

「――成程。今朝、鞄を左に持っていたのは、右手首を怪我していたから、と。そうなると握手会で脳波に変動が見られたのも説明出来ますね」

ちひろが考え込む仕種を見せ、井上も眼を瞑ってゆっくり頷く。

「うむ。怪我をしている右手で握手会を敢行したからだな」

「――周知の通り、通常と違う感覚を持った場所に接触すると、不随意な独自チャンネルが生成されてしまうのがNEURONetのウィークポイントです」

「そこから何らかの干渉があったと?」

ちひろの指摘に、加藤が険しい顔つきで問うと、井上はコンソールを離れて屍体に近づいた。

「通常持つ感覚との違和が大きいほど、比例して不随意チャンネルは太くなる。見た感じ、結構腫れているから、痛みもだいぶあったはずだ」

「――干渉どころか、逆流が考えられるレベルのパラレルチャンネルが生成された……そう考えられますね」

加藤は首を縮めて両手を軽く挙げ、ちひろの言葉に補足する。

「社内イントラとは別ルートのパラレルなチャンネルなら、モニタリングや検閲は出来ませんね」

不随意チャンネルを傍受するのは、つまり、眼を瞑りながら、どこへ飛んで行くか判らないキャッチボールをするような芸当。

予め想定して、検閲網を敷いておくことは、まず不可能だ。

井上が片方の眉だけ上げて、嘆息する。

「ただ、これは何らかの『きっかけ』にはなるかも知れんが、投身の理由付けにはならんな。千川女史の云っていた、後者について考えてみよう」

「その話を聞いた時点で少し気になっていたんですが……摂食を抑制するのは、間脳の視床下部腹内側核です」

加藤がゆっくりと話を切り出すと、ちひろが小首を傾げ、確認の言葉を投げる。

「――所謂“満腹中枢”と呼ばれるものですね?」

「はい、そうです。ただしここは……女性については、性行動を誘発、促進する部位でもあります」

ちひろの眉が、ぴくりと上がった。

「――まさか」

そのまま、エンジニア含め三人、言葉が途切れ、黙り込む。

全員の頭の中に、或る事態が想像されていたが、内容が内容なので、口を開き難い。

「――……膣内部を検査してみてください」

暫く静かに考えていたちひろが、そう要請すると、加藤が、屍体の右腕の傍から下半身へと移動した。

大腿を持って開脚しようとするが、死後硬直の進んだ肉塊に、少し手間取っている。

井上も手を貸し、棒状の採取器を、何とか二人掛かりで挿入した。

測定器から、結果が瞬時にエンジニアふたりへ流し込まれる。

「ビンゴですね。渋谷凛のDeNAとは一致しない体液が三種、検出されました」

加藤がちひろを見て云い、井上は顎に手を当てる。

「……強姦―レイプ―、だな」

「断定は出来ませんが、昨夜の記憶がすっぱり消されていると云うことからも、十中八九、輪姦による凌辱と判断できるでしょう」

首を縦に振る加藤に、顎を手で支えたままの井上が言葉を重ねる。

「握手会等の何らかのきっかけでそれが甦り、投身に至った……そう考えるのが自然か」

「――あらあら。うちの大事な道具を随分と可愛がってくれた人がいるようですね」

ちひろが、相変わらずの笑みを浮かべたまま云った。

「――凛ちゃんは真面目ですねえ。犯されたからと云ったって、“器―アイドル―”としての機能は別に問題ないのに」

「まあ、“器”自身に、容れ物としての自覚はないからな。アイドルたちは全て、自分は当たり前に“自分”だと認識している」

「と云うより、そう認識してくれていなければならないんですけどね」

然も当然、と云った風に発言するちひろと井上へ、加藤は苦笑気味にそう洩らした。

「――DNAから逆引き出来ます?」

ちひろの問いに、加藤は眼を瞑ってしばらくNEURONet内を走査し、

「重犯罪者リストには載っていないようです。国民基本台帳に侵入が必要ですが……」

「――勿論、照合してください。器を造るのだってタダじゃないんですから、それを割った人には、きちんと思い知らせてあげないといけません」

有無を云わさないちひろに、エンジニアたちは頷くしかなかった。







Totgesagte Leben Länger
・・・・・・・・・・・・






――君、アイドルになる気はないか?

――ふーん……ンタが私のプロ……ーサー?

――……会っ……私の……なんて思……ありが……今度は私が……のため……る番だね……


――――
――

夢を見ていた。

かつて、私をこの世界へ引き込んだ――
――いや、私がこの世界へ足を踏み入れたときの夢を。

スポットライトを浴びた自分が、ファンの人々から熱狂的な声援を受けている夢を。

いつも見るのは、カラーだけどやや色褪せたもの。

それはまるで、保管書庫―アーカイブ―を見ているかのよう――


 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は少し懐かしい夢を見た気がする。

内容までは憶えていないけれど。

それでも不快な夢ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。


・・・

シャワーを浴び、寝汗を流して、バスタオルで身体を拭いながら部屋へ戻る。

すると、起き抜けには気付かなかった見慣れない瓶を、テーブルの上に発見した。

――なんだろう、これ? Cœur de Lion ……クール・ド・リヨン? この色は……紅茶かな?

ちょうど風呂上がりで喉が渇いていたところだ。少しお行儀が悪いけれど、このままラッパ飲みしてしまおう。

そう云って、凛はその飲み物――カルバドスを一口、ゴクリと呷る。

瞬間。

――……ッ!?

アルコールが喉と食道を焼く感覚に、ゲホッゲホッと激しく咳き込んだ。

――な、なにこれっ!

たまらず、台所へ走って水をがぶ飲みする。

たっぷり数十秒ほど咳き込み続け、それが落ち着く頃には、目に泪が浮かんでいた。

――あれ、お酒だよね!? なんで、そんなのがうちにあるの? 私、15歳だよ?

必死に記憶を探っても、凛の脳にアルコールを買った覚えなど微塵もない。

不審者が侵入した? ――いや、それは考えられない。ここはCGプロ直轄の、強固な警備を誇る住処。しかも最高レベルのDNA認証まで備えられているのだから。

アイドル仲間が持ってきた? ――いや、それにしたって未成年の部屋へ酒を置きっぱなしにはしないだろう。

身体がアルコールによって熱くなっていくのを感じながら、凛は答えの出ない謎を考えていた。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、予定の出社時刻よりちょっと遅れてるけど大丈夫?」

「ごめんね、出発間際にちょっと色々あって。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ」

一口だけとはいえ、40度ものアルコールをぐいっと呷ったのだから、僅か15歳の身体には、酔いと云う妙な感覚が回っていた。

そのせいで、本来の電車より三本も遅いものに乗らざるを得なかったのだ。

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、左手でぱたぱたと扇いだ。

何故か普段つけているはずのネクタイがなかったので、今の凛の胸元は少しだけいつもより開いている。

そこへ、扉を開けて、アイドル仲間かつ、最も仲の良い関係にある者の一人、北条加蓮も出社してきた。

「おっはよー」

凛より若干遅くデビューした、――とは云え今では充分ベテランの――クール系アイドルである。

凛が、おはよ、と返すと、加蓮は手を振りつつ「もー暑くて厭んなっちゃうね」とぼやいた。

と同時に、微かな違和感を憶えたかの如く問うた。

「……あれ? 凛、なんかちっちゃくなってない? 肌もいつもよりピッチピチじゃん、何か新しいケアしたの?」

「え? ううん、何もしてないよ? どうしたの加蓮、そんなこと訊くなんて」

不思議そうに答える凛に、加蓮もまた不思議そうな顔をして言葉を返す。

「えー? おかしいな……気のせいかなぁ? あ、そうだ、こないだ凛と行ったバーのマスターがさ――」

そう云って加蓮は話題を変えたが、その話は凛の全く与り知らないものだった。

「ちょっと加蓮、私はバーになんて行ってないし、そもそも行ける歳じゃないでしょ?」

心底不可解だとばかりに凛が小首を傾げると、加蓮はじわりと眉をひそめた。

「……凛、一体何を云ってるの? アタシをからかってる……わけじゃなさそうだよね。どこか調子悪いの? 熱でもある?」

「……加蓮こそ、一体何を云ってるの……?」

ちひろが困った顔をして二人を誡める。

「――さ、凛ちゃん、ちょっと時間が押してるから……。加蓮ちゃんも、あまりゆっくりしてられないわよ」

「あ、ごめんなさい。すぐダイブするね」

促すちひろに凛は謝り、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛は加蓮の言葉が少し気になりつつも、時間が押しているので掌に『かれん:こないだいったバー』とだけ簡単にメモしてから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事は、午前中は、NEURONet Book Store、NBSでのサイン会、そしてゲリラミニライブ。

昼過ぎからは久しぶりのレッスンが組まれている。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的にNBSと同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げた書籍ショップがあり、これだけで、自分が今、あたかもお店の特設テーブルにいるかのような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

凛に関する刊行物を購入したユーザーのために、サインを書いていく。

紙などの実体はないが、ユーザーの購入した電子コンテンツに、一意の直筆署名を書き、紐付けして埋め込んで行く。

『○○さんいつもありがとう! Rin Shibuya』

Rの右上に、三つの山を連ねた波線をつけるのが、凛のサインのスタイル。

あまり凝った形状ではないとはいえ、既定人数の百人分をこなした頃には、だいぶ疲れてしまった。

漫画家さんはこれの二倍や三倍の数を、イラスト付きで短時間にこなしてしまうと云うから、やはり凄い。

それでも澄ました笑みを絶やさない凛は、さすが、プロ根性の塊と云えるだろう。

ファンから差し入れを貰ったりして、和やかに進む。

イベントに集まったのはおよそ数千人。

その中で百人にしかサインを届けられないのは忍びない、とのことで、凛の口からゲリラライブの敢行が告げられた。

集まった数千人のほとんどは、凛に会えれば充分満足、と云う人々であったので、このサプライズプレゼントは、歓声を以て迎えられた。

三曲ほどの小さなライブをこなす。

ファンたちには、サードパーソンビューのほか、凛の視点の配信も行なわれた。

まさに『凛と一体化』できる仕組みだ。

アイドルが普段どのような視点で演っているのか、その一端を窺い知ることが出来るこの試みは、大歓迎された。

あっという間に演目をこなし終え、舞台から下がって行く凛に、ファンたちは惜しみない喝采を贈った。


仕事を終え、一旦NEURONetからログアウトした凛は、満足げな溜息をついた。

何故だか判らないけれど、今日の仕事は久々に充足感を得られた気がする。

「――あら、凛ちゃん、ご機嫌ね?」

しっかりその様子を見つけたちひろが、凛へ笑い掛ける。

「うん、今日は結構いい気分で仕事をこなせたよ」

凛が微笑むと、ちひろはそれは何よりね、と柔和な表情で、

「――午後は1330時から久しぶりのレッスンよ。まゆちゃんと、今度の雑誌モデル撮影のポージングなんかを練習してね」

と時間割とレッスンの内容を告げた。

「わかった。それじゃ私はそれまでの間に少し軽くお腹に入れておくね」

凛の返答に、ちひろは頷いて会話を切り上げた。


――

昼休みの食事を軽くつまんでいると、午前の仕事を終えた加蓮が傍を通り掛かる。

「あ、加蓮、午前の仕事終わり?」

斜め後ろを振り返る格好で、凛は加蓮を見た。

加蓮は首肯しながら、もぐもぐと咀嚼する凛に、おつかれ、と笑って返す。

ちょうどいい機会だと、凛は彼女に朝方のことを尋ねる。

「あーそうそう加蓮さ、朝、私に云ってた、こないだのバー、って何のこと?」

その問いに対し、朝とは逆に今度は加蓮が面妖な顔をして訊き返す番だった。

「え? アタシそんなこと云ったっけ?」

その様子に、朝とは完全に立場が逆転したかの如く、凛は眉をひそめる。

「ちょっと、加蓮、何云ってるの。朝のことだよ? 私ちゃんとメモ書きしておいたんだから」

そう云って左掌に書いた平仮名と片仮名のメモを見せるが、

「え、ホントに憶えてないんだけど。寝惚けてたのかな……ま、気にしないで。じゃアタシ、午後は撮影スタジオへ移動だから」

と、加蓮は不思議がり、その姿は嘘をついている様子などなさそうだ。

じゃねー、と手を振って、彼女は廊下を歩んで行った。

凛は、微妙に釈然としない気分を抱きつつ、一口、水分を摂ってから、レッスンルームへと移動することにした。


エンジニアリングルームの隣にあるレッスンルームへ入ると、既にそこにはまゆが来ていた。

「あ、まゆ、おはよう。待たせちゃった?」

入口に置かれた、ワイヤレスの社内NEURONet携帯端末をポートに装着しながら訊ねた。

まゆはにこにこと笑って手をひらひら振る。

「あらぁ、おはよう、凛ちゃん。まゆは早く来てゆっくりしてただけだから大丈夫よぉ♪」

「そっか。じゃあ早速始めちゃおう」


  [ お仕事 ] [ LIVEバトル ]
{ レッスン } [ 特訓 ] [ ガチャ ]


目の前にふわふわ浮かぶメニューを、意識で操作する。

二人の脳に、トレーニングスタッフルームからの通信が流れ込んだ。

『さて今日のレッスンはモデルのポージングだな。渋谷、レッスン中に佐久間から盗めるだけ盗め』

凛は力強く頷き、まゆの隣に立つ。

指示に従い、様々なポージングのレッスンを進めて行く。

ふわりとゆったり立つAライン、きりりと立つIライン、ひねりを加えるSライン、それぞれ数秒おきに、色々と変えて行く。

たまに姿勢を維持し、トレーナーやまゆの助言で、試行錯誤を重ねる。

「凛ちゃん、そこはもう少し身体を外へ廻して、胸を張るといいわよぉ。胸を張ると云うよりは、おへその上の部分を少し前に出す感じで♪」

「こ、こうかな……」

NEURONetを介しているので、実際に声に出しているわけではない。

それぞれの会話の意識が、瞬時に相手へ流れるので、とても効率的な意思疎通が可能であった。

『そうだ。そこを中脘と云う。ポージングで“身体の表情”を一番印象づける部分だ。AIS全てのラインで常に意識するように。佐久間、隣にAラインで立ってみろ』

「はぁい」

隣に立ったまゆは、流石、Sラインの凛を引き立てるポーズで、Aラインを作った。

凛とまゆが、まるで二人がそう在るべくして在るかのような造型で立っている。

勿論、凛だってこれまで何度もモデルの仕事をやってきたから、相応のテクニックは身についている。

しかし、まゆのスキルには舌を巻いた。

そしてその意識は、声に出さずとも彼女やトレーナーへと伝わる。

二人も、それに応えるかの如く凛への指導に熱が入る。

ポージングのほか、ウォーキングもこなす。

『やはり渋谷はリズム感があるからウォーキングはいい成績を出すね。もう少し内股を擦るか擦らないかの位置まで近づけて脚を出せ』

まゆとトレーニングスタッフの手ほどきを、凛はどんどん吸収した。


たっぷり五時間、凛は貪欲に学んだ。

久しぶりのレッスンということもあり、心の底から楽しんでトレーニングに励むことが出来た。

まさに、自分の身体の中にまゆをそのまま取り込んだような、そんなレベルアップを実感できる結果に、顔が綻ぶ。

しかしまゆは対照的に、こめかみを右手で抱え、少し顔も白くなっていた。

「あれ、まゆ、大丈夫? 調子悪そうだよ?」

「ううん、心配しないで大丈夫よぉ。少し奮っちゃったから、疲れが出ただけね、きっと」

まゆは気丈に笑う。

『よし、それでは今日のレッスンは終了。渋谷は報告書を出して上がれ。佐久間は隣のエンジニアリングルームへ顔を出すように。以上』

「ありがとうございました!」

挨拶をし、二人、レッスンルームを出て、エンジニアリングルームの前で、手を振って別れた。

凛を、心地よい疲労が包む。

退社後、何故か失くしていたネクタイを新宿で買い、帰途に就いた。







AQUA
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は全く夢を見なかった。

昨日、心地よい程度に疲労を得たからかも知れない。

それでも不快な睡眠ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ。いつもより混雑も相当酷かったし」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、ぱたぱたと扇いだ。

今朝は、山手線に三人も連続で飛び込んだらしく、ずっと止まっていた。

代替の環状路線として、大江戸線に振替輸送が押し寄せたのである。

死に急いだのはいづれも若い男だと云う。死して尚手間を掛けさせるとは、よっぽどロクな人生を歩んでいないのだろう。

まったく、死ぬのは勝手だが他人様に迷惑の掛からない方法で逝って貰いたいものだ。

はぁ、と溜息を漏らし、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛は、首をこきこきと鳴らしてから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

トラフィックが混雑しているのだろうか、数秒のタイムラグののち、データリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事は出版部から上がってきた記事修正稿のチェック。それからその出版物で使われる写真の撮影だ。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、出版部のストレージと同期が開始された。

そこには、既にまゆが確認を終えた修正稿が上がっていた。

前回赤ペンを入れた箇所を入念に確認し、更に気になる箇所へチェックを入れていく。

前回から大幅な変更はなかったので、比較的スムーズに終えられた。


時刻はおよそ十時。撮影まではまだ時間がある。

久しぶりにNEURONetを散策しようか。

凛がそう思い立つと、チューブが自動的に分岐する。

トンネルを抜けて行き、NEURONetのポータルが開いた。

何か面白そうなものはないかな、とふらふら彷徨っていると、俄に盛り上がっているカテゴリがあった。

ポータルユーザの、草の根ビデオが投稿される場所。

さらにその中の、特定の映像。

キャプションには、「渋谷凛、自殺!?」と書かれている。

凛は、思わず吹き出してしまった。

――くだらないね。事実、私はここにいるではないか。

ひとしきり腹を抱えるが、凛の笑いは中々止まらない。

センセーショナルな見出しで、多くの人を誘き寄せたいのだろう。所謂“釣り”と呼ばれるものだ。

こうやって目立つ為の手段に凛が利用されることはままある。有名税とは、なかなかツライ。

「ま、時間あるし、ノってあげようか」

そう云って、『閲覧用心』との注意喚起もそこそこに、興味本位で覗いてみた。

すぐに画が切り替わり、脳に流し込まれる映像は――飛び降り自殺の現場。

閲覧用心の注意書きは本物だったか、と驚くと同時に、凛は、何か引っかかるものを感じた。

確かに、その投身屍体は、服装などは、どことなく凛に似ている。

驚くべきは、衝撃的な映像を見てもあまり動じない自分に対してであった。

あまりにも現実離れした光景だからだろうか?

人間は、あまりにも飛躍したものは、自分と違う世界のことだと認識するらしい。

しかし、そのことよりも、その屍体自身を、実際に見たことがある――そんな気がしてならないのだ。

映像へのコメントは、ほとんどが嘲笑するものであった。

 ――はいはいケチャップケチャップ。手の込んだフェイクだろこれ

 ――仮に屍体は本物だとしても、しぶりんじゃねーよ。こんな短髪じゃねーだろボケ

 ――まったくだ。それにニュースじゃそんなことこれっぽっちもやってないじゃないか

まともな人なら、これらコメントとほぼ同じ感想を持つはずだ。

その中で、低評価のタグがつけられ非開示になっているコメントがある。

気になってそれをオープンしようとした刻。

『――COMMUNICATION HAS BEEN INTERRUPTED――』

突然、その表示とともに通信が途切れ、割り込みが発生した。

「――ごめんね、凛ちゃん、休憩中だったかしら」

それはちひろからの会話セッションだった。

「あ、ううん、散策してただけだから大丈夫だよ。どうかした?」

凛が応えると、少し申し訳なさそうにしていたちひろは、ほっと安堵の表情へ緩めた。

「――よかった、ごめんね、作曲部署から新作が上がってきたから、譜面を早く渡しておこうと思って」

そう云って、ちひろは電子譜面とデモ音源を渡してきた。

凛が譜面を開くと、一瞬、視界が白く光り、しかしすぐ後に音符の奔流が脳へ染み渡った。

「うん、いい曲だね」

「――編曲が済んだパケはもう少し後で渡せそうだから、ひとまずはその譜面を吸収しておいてね」

新曲に満足そうな笑みを浮かべた凛へ、ちひろもまた笑顔で云った。

会話セッションを終え、凛はNEURONetの散策へ戻ろうと再度ポータルへと向かう。

読んでいた記事をリジュームしようとすると、『――COMMUNICATION ERROR - No.502――』となり、通信が途切れてしまった。

不思議な現象に軽く溜息をつき、「仕方ない、他のを読もう」と新しいニュースを漁ろうとしたところで、微かな違和感があった。

「……あれ? 私、そもそも何の記事を読もうとしていたんだっけ……気のせいかな」

どうやら、ついさっきのことだと云うのに、新曲の報せを受けて、何をしていたのか、ど忘れをしてしまったようだ。

ながら作業をしていたりすると、記憶がすっぱり消えてしまうのはよくあることだ。

ずっとウンウン唸っていても仕方ない。

それ以上深くは考えず、いい時間になったので、撮影用のスタジオフロアへと移動した。


――

CGプロ収録フロアにあるCスタジオで準備をしていると、まゆが顔を出した。

「あら、おはようございまぁす、凛ちゃん。ごめんね、待たせちゃったぁ?」

「おはよ。私は早く来てまったりしてただけだから大丈夫だよ」

挨拶を寄越してくる彼女は、デビュー時から外見が“まったく”変わっていない。

まゆは、凛とほぼ同年代だ。二人が組み合わされば、きっといい絵面になることだろう。

「今日の撮影は、昨日の成果を存分に見せるチャンスだね」

凛がそう不敵に笑うと、まゆも破顔する。

「ええ、モデルのお仕事は最近ちょっとご無沙汰だったから、まゆ、今日が楽しみだったのよぉ♪」

数多くの服に身を包み、様々なポーズを決める二人に、ストロボが、何度も何度も焚かれた。







Space Katett
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は休み。

今日は久しぶりにオフ。

 ――いつもと少しだけ違う日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。


・・・・・・

オフとは云っても、ワーカホリックな凛には、特にやることがないから困る。

溜まった衣類を洗って、掃除をして、それでタスクは終わり。

強いて挙げれば、いつもより入念にベースの練習をこなせることくらい。

一日中、弾くのもまた一興か。

「よいしょ、っと……」

ベースの肩紐を提げ、胡座をかいた右腿に乗せる。

そのまま、適当にスラップしてベースラインを流してみると。

「……え!?」

あまりの劣化に、愕然とした。

最近練習する時間が取れなかったせいなのかどうか知らないが、数日前よりも明らかにベースの腕が落ちている。

「一日休むと、取り戻すのに三日かかる、とはよく云われるけど……」

しかし、そんなレベルではない、まるで五年ぶりのブランクを空けて出戻ってきたような感触がする。

どこをどう動かせばいい音が出るかは頭で判っているのに、腕や指がそれについていかないのだ。

不可思議な自分の身体に、凛は戸惑い、首を捻った。

「そういえば、こないだのニューロキャストで練習風景を流したはず」

胡座のままの格好で、自らの携帯通信端末をポートに挿した。

CGプロのアーカイブを覗き、発信済みのログを探す。

「あった、これだ」

早速オープンすると、そこには、滑らかな演奏を披露している自分がいた。

映像を一時停止して、ベースをひっぱたく。――やはり、今の演奏はぎこちない。

弦の鳴動を抑え、映像をもう一度再生する。――やはり、その演奏は流麗で心地よい。

まるで、今の自分とは人が違うかのような動きだ。

「腕が落ちたってレベルじゃないでしょこれ……」

再生を止めた凛は、がっくりと肩を落とした。

「はぁ……Bill Dickensのベース教則をもう一度見よう……」

意気消沈している場合ではない。リカバーしなくては。

自らのオンラインストレージに保存した教則映像を参考に、ひたすら、勘を取り戻す為の練習に打ち込んだ。

――この分だと、明日は指先が筋肉痛になるかも知れないね。

凛は、思い通りの動きをしない指に、もどかしさを感じながら、明日の手のコンディションを心配した。


気付けば、時刻は昼過ぎになっていた。

くぅ、と鳴ったお腹で、時間の経過を知る。

凛は、演奏を止め、両手を振った。

それだけでも、凝り固まった筋肉に、心地よいストレッチとなる。

まだまだ納得出来ない部分はあったが、これ以上根を詰め続けては、逆に効率が落ちてしまうだろう。

お昼ご飯を食べて、少し休憩を取り、それからまた練習しよう。

ベースをスタンドに立て、ふぅ、と大きく息をついてソファへもたれた。

そのまま、何の気なしにポータルサイトへ足を運ぶ。

何か面白そうなものはないかな、とふらふら彷徨っていると、俄に盛り上がっているカテゴリがあった。

ポータルユーザの、草の根ビデオが投稿される場所。

さらにその中の、特定の映像。

キャプションには、「渋谷凛、自殺!?」と書かれている。

凛は、思わず吹き出してしまった。

――くだらないね。事実、私はここにいるではないか。

ひとしきり腹を抱えるが、凛の笑いは中々止まらない。

センセーショナルな見出しで、多くの人を誘き寄せたいのだろう。所謂“釣り”と呼ばれるものだ。

こうやって目立つ為の手段に凛が利用されることはままある。有名税とは、なかなかツライ。

しかし次の瞬間、ふと、同じようなものを見て、同じように笑ったことがあるようなデジャヴを感じた。

笑いを止めて、きょろきょろと周りを見渡す。

「何だろう、今の? ……ま、時間あるし、ノってあげようか」

そう云って、『閲覧用心』との注意喚起もそこそこに、興味本位で覗いてみた。

すぐに画が切り替わり、脳に流し込まれる映像は――飛び降り自殺の現場。

閲覧用心の注意書きは本物だったか、と驚くと同時に、凛は、何か引っかかるものを感じた。

確かに、その投身屍体は、服装などは、どことなく凛に似ている。

驚くべきは、衝撃的な映像を見てもあまり動じない自分に対してであった。

あまりにも現実離れした光景だからだろうか?

人間は、あまりにも飛躍したものは、自分と違う世界のことだと認識するらしい。

しかし、そのことよりも、その屍体自身を、実際に見たことがある――そんな気がしてならないのだ。

映像へのコメントは、ほとんどが嘲笑するものであった。

 ――はいはいケチャップケチャップ。手の込んだフェイクだろこれ

 ――仮に屍体は本物だとしても、しぶりんじゃねーよ。こんな短髪じゃねーだろボケ

 ――まったくだ。それにニュースじゃそんなことこれっぽっちもやってないじゃないか

まともな人なら、これらコメントとほぼ同じ感想を持つはずだ。

その中で、低評価のタグがつけられ非開示になっているコメントがある。

気になって開いてみると。

 ――そもそも渋谷凛って、50年前からいるだろう? もうおばあちゃんじゃないのかね?

謎に満ちた文章が書かれていた。


凛は、顎に手を当てて考え込む。

 渋谷凛が50年前からいる?

 私は2046年生まれのはず……

 今は2062年、私は15歳――今年で16歳。

 ……うん、やっぱり2046年生まれだよね。

自分へ云い聞かせるように、二度頷く。

そもそも50年なんて、実に突拍子もない数字だ。

いつの時代でも、煽動が趣味の暇人は居るものだね。


コメントへ意識を戻すと、その返信欄は賑やかだ。

 ――GT―グリーノテサキ―乙! しぶりんは15歳だというのに!

 ――あれ? こないだ、そろそろ21歳になりますって本人が云ってたような?

 ――それどこ情報? どこ情報よー?

 ――ログ漁ったけど無かったから俺の記憶違いかも知れん

 ――使えねー奴だな! クソして寝な!

今度は21歳という数字が出てきた。先ほどの50年よりかは現実的な数字だが、これもまた有り得ない。

私は2046年生まれの15歳なのだから。

とはいえ、妙にリアリティのある数のような気はする。

「21か……お酒は飲める歳だよね……」

ふと、変な考えが凛の頭をよぎる。

一昨日、自分の部屋に何故か強いお酒が置かれていたこと。

同じく一昨日、加蓮が一緒にバーへ行ったかのような発言をしたこと。

「……いやいや、まさか、ね。有り得ないよ、そんなこと」

NEURONetからログアウトして、カルバドスの瓶が置かれたままのテーブルを見る。

おそるおそる、グラスに注ぎ、ちびりと少しだけ飲んでみる。

「……うえ。まっず……」

薫りこそ良いが、アルコールの苦さ、辛さは、到底美味しいと思えるものではなかった。

舌や喉を焼くかのような感触も不快だ。

「こんなのぐいぐい飲むとか、大人はヘンだよね」

やっぱり、こんな自分がバーへ行くなんて有り得ない。

行く気も起きないし、そもそも店へ入れる歳じゃないよ。

加蓮は嘘を云っているようには見えなかったが、きっと、記憶違いとか、そういう理由のはず。

凛は、半ば無理矢理そう納得させて、強く首を振り、パンパンと頬を叩いた。

グロテスクな映像や、次々に湧き出る不可思議な不整合に、萎えてしまった。

ふん、と短く息を吐いて、気分を切り替える。

軽く昼食を済ませて、煩悩を振り払うかのように、ベースの練習にのめり込んだ。


ひとまず今回分はここまでです。
あー久しぶりにガッツリ書いた……っていうかもう200超えてるの……

('-`).oO(簡単に先が読めそうだけど、気にしちゃダメ)


コーヒー淹れて一服したら少し更新します

何の変哲も無いかのように見える日常でも、
その中の何気ない微妙な変化を注視してみてください







Atomic Base
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は全く夢を見なかった。

昨夜遅くまでベースの練習に集中していたからかも知れない。

それでも不快な睡眠ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「……暑い」

凛は、自宅から駅までの道のりで、何度目か判らない、そして自分の力ではどうにもならない不平を零した。

今朝は特に湿度が高く、蒸し蒸しした空気が肌に纏わり付く。

早く涼しい事務所のドアをくぐりたい。

その逸る心で、駅を目指す身体は急ぎ足になる。

そこへ、向かいからやって来た老齢の女性が、凛を認めるとパタパタと急いで――しかし客観的には実にゆっくりであったが――駆け寄った。

こんなおばあちゃんが私のサインでも欲しいのだろうか?

凛が暢気なことを考えていると、

「先日はどうもありがとうございました。おかげさまで大事には至らずに済みました。お医者様も、応急の止血が功を奏したと仰ってまして」

女性は深々と頭を下げた。

突然のことに、凛は混乱する。

「え? えっと……、何のことでしょう?」

苦笑いの表情でそう問うと、女性は意外だ、とばかりの顔をした。

「このあいだの夜、怪我をしていたわたくしの傷を、ネクタイを使って止血してくださったではありませんか」

……まただ。

また理解出来ない不可思議なことが起きた。

この目の前に立つ女性を介抱したなど、微塵も記憶が無い。

ネクタイを使って止血すると云う日頃あまり経験しないであろうことを、たった数日前にやっておいて、それを憶えてないなんて、有り得ようか。

人違いなのでは?

しかし、確かにネクタイは知らないうちになくなっていて、三日前に新しい物を買ったのだ。

この人の云う通りなら、辻褄は合う。

思考に耽り反応の鈍い凛を視て女性が眉根を寄せたので、慌てて取り繕った。

「あ、ああ、なるほど、なるほど……。わざわざご丁寧にありがとうございます」

そう云って、軽く頭を下げる。

「本来ならきちんとクリーニングしてお返しするべきところ、血がこびり付いて取れず……。大変申し訳ないのですが、お代をお支払いする、と云うことで宜しいでしょうか……」

と、懐から財布を取り出そうとする女性。

凛は手を振って、動きを制した。

「……いえ、そんな……受け取るわけにはいきませんよ」

それはそうだ。

記憶に無いことで礼金を貰うなど出来るわけがない。

申し訳なさそうにする女性に、凛は

「どうぞお気になさらず。……それでは」

と会釈して、駅への路を急ぐ。

電車に乗り遅れるという理由もあったが、何よりも、得体の知れない事象から早く逃げたいがため。

――一体、何が起こってるの?

次々と降り掛かる不可解なことに、凛は身震いした。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、左手でネクタイごと持ち、ぱたぱたと扇いだ。

しかしネクタイが蓋の役割をしているので、あまり風の流れは起こらない。

しかもベースの練習で酷使したせいで、指が少しだけ筋肉痛になっていた。

はぁ、と溜息を漏らし、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐る。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛は、両手の指を組んで軽いストレッチをしてから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事は、西芝製の新作携帯通信端末のプロモーションガールだ。自らのブースには、そのコマーシャルサンプル品が用意されている。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的にCGプロ内のコントロールルーム、そして西芝の担当者と同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げたブロードキャストブースがあり、これだけで、自分が今、あたかも記者やカメラに囲まれているような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

「――今度の端末はスゴ早! 携帯端末の最先端へGO!」

凛によるプロモーションが、現在接続しているNEURONet全ユーザへとワンウェイトラフィックで配信される。

この広告は一方通行―ワンウェイ―の分、ユーザが意識の隅へ追いやれば自動的にフェイドアウトする。

興味ある層だけが見続ける、効率的な手法であった。

しかし凛が担当するキャンペーンには、そのセオリーが通らない。

興味のない層でも、凛見たさに広告へ意識を持って行き、その聴取率はとてつもない割合を叩き出すらしい。

当然、それに比例したギャランティは破格であり、凛にオファーを出せる企業は、それだけで超一流の証を持つ。

そのことが、更に凛に箔をつけ、そしてそれが更に企業へ箔をつけると云う好循環であった。

これは凛に限った話ではなく、加蓮やまゆをはじめ他のCGプロのアイドルも、軒並み高水準の広告力を誇る。

豊かな素材を持つCGプロの影響力は、絶大であった。 ――そう、CGプロが存在しなければ、世界が回らないほどに。

「――二倍になった処理速度で、虚像レイヤーの、視覚神経へのラグも大幅に減ったみたい。ちょっとつけてみるね」

凛は一度ネットワークをポーズしてから延髄のプラグを抜き、新型端末を装着した。

リジュームすると、なるほど、凛が現在プライベートで使用している携帯端末とは処理速度が明らかに異なる。

「――ふーん、ま、悪くないかな……、っていうのは冗談、ふふっ。……凄いよ、これ。実際に私の感覚を味わいたい人は、『凛と体験を共有する』を選択してね!」

数多くのユーザが、こぞって凛の神経を共有する。

端末の通信の快適さや、ラグの少なさ。凛の得ている感覚がそのまま、瞬時にNEURONetへ伝播した。

フォーラムには、続々と新製品の感触への反応が届く。

 ――おっ、本当に速いぞ。いいな、これ

 ――あはぁ^~ん、凛ちゃんと感覚を共有してるよおおおおおおお!!!

 ――俺ちょっと昼休みに機種変してくるわ

誤摩化しの利かない世界。

大金を積んでも、モノが大したこと無いと、ユーザを掴み取ることは出来ない。

電波利権がのさばっていた頃は当たり前のように行なわれていたフェイクが、ことユーザエクスペリエンスに関しては、NEURONetの時代には通用しなくなった。

それは、技術者たちにとって大きな刺激となり、良い製品開発に力が注がれると云う、良い影響をもたらしていた。


その後、数十分おきに、何回か、同様のプロモーションを行ない、OSのトップメニューへと戻って来る。

「――お疲れ様、凛ちゃん。いつものことだけど、反響凄かったわね」

ほぼ同時に、ちひろとのセッションが開かれた。

「実際にいい製品だと、プロモートする私自身も楽しいしね」

その楽しさは、ここ数日に限って云えば、仕事に打ち込んでいる間は頭を悩ます不可思議な現象から離れることが出来るのも一因にある。

凛はそれを表に出さないようにして、ふふっ、と笑い、「で、どうしたの?」と尋ねる。

「――来週なんだけど、プルリーグへの出演が凛ちゃんたちにFixされたの。時間のあるときに、ちょっとずつ色々と調べておいてね」

クイズ・プルリーグ。――常識問題を中心に、五人一チームで対抗し合う、NEURONetでも指折りに人気の番組だ。

その出題内容は広事苑からタレント銘鑑、大学や高校の過去問など幅広い。

「わかった。午後は明日のCLUB nbの原稿を考えようと思ってたけど、特にいつもと変わらないから、プルリーグの資料漁りをするよ」

「――そう云うと思って、書庫へのアクセスキーを、凛ちゃんのアカウントに紐づけておいたわ」

凛のことなどお見通しかの如く、ちひろはいつもと変わらない笑みを向けた。

「ふふっ、ちひろさんには敵わないね。ぼちぼち勉強しておくよ」

会話セッションを終えて、凛はプラグを抜き、カフェテリアへと消えて行った。


・・・・・・

カフェテリアでサンドイッチを買った凛は、開放的なエントランスのスペースへ腰掛け、自らの携帯端末をポートに挿した。

音楽を聴きながら優雅に昼食を摂るつもりだったが、ふと、それよりも資料漁りをしよう、と思い立つ。

NEURONetへダイブし、意識を書庫へ向けると、チューブが分岐してトンネルを抜けて行く。

飲食しながらでもネットサーフィン出来る、この“ながら”作業のやりやすさは、神経と融合するNEURONetさまさまだ。

「まずは何から見ておこうかな……」

プルリーグで出題される頻度が高いのは、タレント関連の問題。

その脳波をOSが読み取り、先回りして日本タレント銘鑑2062のデータベースにアクセスされる。

一般人はアクセス出来ないが、凛のアカウントなら大丈夫。

――この日本タレント銘鑑にはとてもお世話になってるのよねえ

以前ちひろが、仕事のマッチング等に欠かせない、と笑っていたことを思い出す。

ひとまず、自分の記述箇所を探してみた。


氏 名 : 渋谷凛 RIN SHIBUYA
性 別 : 女
種 別 : アイドル
所 属 : CGプロダクション
本 名 : 同
生年月日: 2046年8月10日
年 齢 : 満15歳
星 座 : 獅子座
血液型 : B
身 長 : 165cm
体 重 : 44kg
3サイズ: B80 W56 H81
出 身 : 東京

その他にも、資格や特技、長所短所、好きな色、好きな食べ物、受賞、代表作品など、事細かに記載されている。

中には、この情報本当に必要なの? と思えるようなものまで。

流石、タレントの情報を完璧に網羅している銘鑑だけある。

その数、数万人分。

「うーん、こんなにたくさんの人が網羅されているなんて凄いね……どれだけの歴史が詰まってるんだか」

もぐもぐとサンドイッチを頬張りながらの、そんな独り言にもOSは反応し、検索結果を丁寧にも示してきた。

≪日本タレント銘鑑とはNIPタイムズ社が発行している、芸能人のプロフィールが記載されている年刊の事典。1970年に「日本タレント年鑑」として創刊された≫

こんな“お節介さ”も、意識しなければすぐにフェイドアウトするのだが。

ふと凛は、その切れる頭に、微かに引っかかるものを感じた。

 ――そもそも渋谷凛って、50年前からいるだろう?――

そう、昨日見かけた、わけの判らないコメント。

ピクリと、凛の形の良い眉が上がる。

可視化する装置が在れば、きっと彼女の頭上にエクスクラメーションマークが飛び跳ねたに違いない。

「……今見ているのは日本タレント銘鑑2062。……ということは、2061とか2060もあるはずだよね。どこかで読めないかな」

ざっと走査するが、銘鑑の利用案内には、大きな売りとして『当データベースは一週間ごとに更新され、常に最新の状態でご覧頂けます!』と書いてある。

思い立った次の瞬間に公式からNOを示され、凛はがっくりと肩を落とした。

確かに、情報は鮮度が命。

事典に必要なのは、“現在最新”の情報なのである。

「ま、そりゃそうだよね……」

嘆息して、サンドイッチの最後の一欠片を口へ放り込む。

すると、思わぬセクションを見つけて、危うく喉を詰まらせそうになった。

そこにはこう書かれていた。

『法人様向け日本タレント銘鑑書籍版のご案内』

――そう、技術は進化しても、紙から離れられない人間の進化などたかが知れているのだ――


「あれー? 凛、ここでお昼食べてるの?」

凛は、自らを呼ぶ声で我に返った。

NEURONetをログアウトすると、目の前には、たった今、出社してきたばかりであろう加蓮が立っていた。

「あ、加蓮。重役出勤だね」

少しだけ目を丸めて、冗談っぽく云う。加蓮は「アタシ今日は深夜帯の仕事があるからね」と苦笑した。

ちょうどいいタイミングだと思い、凛は気になっていることを解消しておこうと、訊ねた。

「ねえ加蓮。最近うちにお酒を持って来た? カルバドスなんだけど」

「え、凛の家に? カルバドスを? 持って行くわけないじゃん。そもそも、凛のとこへ遊びに行ったのって、もうだいぶ前だよ? なんで?」

どうやら加蓮は本当に違うようだ。

だとしたら……あのカルバドスを持ち込んだと考えられるのは、あとは高垣楓くらいか?

「いや、なんかこないだ気付いたらうちに置いてあってさ……私が買うはずないから、誰かが持ってきたのかなと思って」

「それにしたって、最近誰かが凛のとこへ遊びに行ったんなら、凛自身がそれを憶えてるはずでしょ」

加蓮の突っ込みは尤もであった。

そんなこと、本人が一番判っているはずなのだから。

しかし凛は、両方のこめかみに人差し指を当て、悶々とした表情を浮かべる。

「うーん、そうなんだけど、一週間分くらいの仕事時以外の記憶が、何故か全くないんだよ。今朝も、そのせいか出勤途中に妙なことが起きた」

加蓮はその言葉に、眉間にやや皺を寄せて凛の顔を覘き込んだ。

「なにそれ、ヘンなの。凛、身体の調子悪いの?」

「うーん、そんなことはないと思うんだけどね。っていうかそう云うなら加蓮だって。一昨々日、私とバー行ったとか何とかってヘンなこと云ってたでしょ?」

自らを覗き込む加蓮の額を、凛がつんつんと人差し指でつつくと、

「アタシそんなこと云ったかなぁ?」

と、極めて不思議そうな顔をして、口をへの字に曲げた。

「間違いなく云ったんだってば。何か些細なことでも気になったことない?」

加蓮は、うーん……と唸って腕を組み、眼を閉じて思考に耽る。

「どーにも、凛が嘘を云っているようには感じられないしなあ」

「うん、私も同じように、加蓮が嘘を云っているとは思えないんだよね。だからこそ不気味で……」

加蓮は体勢を維持して頷いた。

「関係あるかどうかはわからないけど、アタシ、一つ、気になることはある」

相変わらず眼を閉じたまま、ゆっくりと話を切り出す。

「昨夜志乃さんと呑みに行った際、マスターに『今日は違う方といらしたんですね』って云われたんだよね。
 六日前に、確かに同じ店へ行ったんだけど、確かその時は独りだったはずなんだ……」

「……まるで、誰かと一緒に来てたみたいな云い方だね、そのマスター」

「うん、その時はあまり気に留めなかったけど……。云われてみれば、確かにちょっとおかしいと思わない?」

加蓮は、額に左手を当てる。

「ねえ、凛。アタシ、一昨々日、凛に、一緒にバーへ行った、的なことを本当に云ったの?」

「うん。間違いなく云った。これは嘘や冗談じゃなくて、本当のことだよ。『こないだ凛と行ったバーの』って云い掛けてた」

「まさか、アタシ、六日前に凛とあのバーへ行ったってこと?」

ゆっくりと瞼を開いて、加蓮は真っ直ぐの視線で問うたが、凛は肩を竦める。

「さぁ……状況証拠を重ねると、答えはYESになりそうだけど……でも、私は未成年だからバーなんて行けるわけないし、アルコールだって呑みたいとも思わないよ?」

「だよね……アタシだって、未成年を無理矢理バーまで連れてくなんてアンモラルなこと、絶対しないよ」

二人の視線が絡み合い、無言の刻が過ぎる。

はぁ、と凛が髪を掻き上げて溜息をつき、

「駄目だね、これ以上考えても埒があかないよ」

加蓮も頷いて、天を仰いだ。

凛はもう一度嘆息してから、事務所へ戻ろうか、と加蓮を促して歩き出した。

そして道すがら、「話は変わるけど――」と切り出す。

「――沢山の文献を見られる図書館ってどこかある?」

「沢山の文献?」

加蓮が鸚鵡返しに問うた。

「そう。レアな書物でも所蔵されてそうな図書館。区民図書館でも大丈夫かな?」

「うーん……そこまでのものを求めるんだったら国会図書館が一番確実だとは思うけど……」

不思議そうに、片眉だけ上げる表情で答える加蓮。凛は、ぽん、と手を叩いた。

「そうか国会図書館か……成程ね……ありがとう、助かった」

そのまま事務所へ入り、加蓮と別れる。

ブースへ戻った凛は、ちひろとの会話セッションを開き、半ば一方的に話を投げ掛けた。

「ちひろさん、私、午後はもう仕事ないよね? 早いけど、今日はもう上がらせて」

「――え? 凛ちゃん、いきなりどうしたの?」

「ちょっと行かなきゃいけないところがあってね」

「――え、ちょ、ちょっと凛ちゃ――」

そう告げて、ちひろの返答も聞かないまま、端末の電源を落とし、ブースに置かれた鞄を取って身を翻した。


短めですがひとまずはここまで
また夜あたりにでも少し書こうと思います







Visions of Tomorrow
・・・・・・・・・・・・





国立国会図書館東京本館のある永田町は、麻布十番から南北線で僅か五分程度。

国会議事堂の隣にそびえる、真四角の建物へ、凛は足早に入って行った。

この図書館を使うには、登録利用者になるか、当日利用登録をしなくてはならない。

また、荷物も全てロッカーに入れる必要がある。

凛は、貴重品だけ持って、当日利用登録マシンへ並んだ。

国民識別IDをかざし、更に確認のための氏名と住所を入力する。

そのまま画面を進めて行くと、H070810という英数字――当日利用番号であろう羅列も見える。

登録自体は一分と経たずに終わり、利用者ICカードが吐き出された。

館内の手続きは、全てこのカードで行なう。

検索出納端末にカードをかざすと、操作を受け付けるようになるのだ。

どうにも面倒くさい特殊な方式だが、数千万冊と云う膨大な資料を利用する上では、致し方ないシステムなのであろう。

凛は面倒臭さに多少辟易としつつ、端末上で資料を検索する。

『にほんたれんとめいかん』――

ずらりとヒットするリスト。その中から、昨年2061版と、50年前である2012版の出納を申し込んだ。


国会図書館は、膨大な数の書籍が収められた、一般人の立ち入れない閉架から取り出すため、申請してから実際に受け取れるようになるまで数十分待たされる。

凛は館内を一通り見て廻ったのち、やることがなくなったので貸出カウンター前のソファへと大人しく坐った。

若干の手持ち無沙汰に、携帯通信端末をポートへ挿す。

音楽を聴きながら待っていると、受信が入り加蓮から会話セッションが開かれた。

「あれ、加蓮どうしたの? まだ仕事は始まってないの?」

『うん、今は今夜の仕事に使う資料を整理してるとこ。それよりもう国会図書館へ向かっちゃった?』

「え、そうだけど、どうして?」

きょとんとした顔で問うと、加蓮は少々バツの悪そうな表情をした。

『いやーそれが、薦めた手前、云い難いんだけどさー。どうやら国会図書館って18歳未満は利用出来ないらしいんだよねー』

ごめんね、と眼前で右手を縦へ小刻みに振っている。凛は、鳩が豆鉄砲を食ったよう。

「……そうなの? 普通に入れちゃったけど」

実にあっさりとした云い様。それにつられて、加蓮も意外そうな面持ちで首を傾げた。

『……あれー? じゃあ最近になって運用方法変わったのかな。サイト見る限りでは18歳以上って書いてあるんだけどね。ま、入れたならそれはそれでいっか』

利用登録マシンで足止めを喰らったりとか、職員に制止されたりとか、そんなことは全くなかったのだから、気にするだけ無駄だろう。

「うん、わざわざありがとね」

凛はウインクしてセッションを閉じた。


そのタイミングで、凛の番号が呼び出される。

カウンターには、まるで鉄道時刻表と見間違えるかのような、大きく分厚い書籍が二つ、積まれていた。

「うわ、重……」

紙の集合体と云うものは実に重量がある。

普通に持っただけでは、落としてしまいそうだ。

貴重な本だから、丁寧に取り扱わなければ。

普段、こんなに大きな書籍を持つことのない凛は、胸にひっしと抱きかかえて閲覧テーブルへ向かう。

「まずは、とりあえず去年のものから見ようかな」

そう言ちて、プロダクション別の索引を繰る。

なにゆえか、厭な予感を持ちながら。

「し、し……椎名、塩見、篠原、渋谷……と。あった、876ページだね……」

僅かに、呼吸が深くなっていくのを自覚する。

書かれているページ番号まで、ぱらぱらとゆっくり捲る。


そして、中身が眼に飛び込んできた瞬間。

「――……ッ!」

凛は身体を硬くした。

そこには。



氏 名 : 渋谷凛 RIN SHIBUYA
性 別 : 女
種 別 : アイドル
所 属 : CGプロダクション
本 名 : 同
生年月日: 2041年8月10日
年 齢 : 満20歳
星 座 : 獅子座
血液型 : B
身 長 : 166cm
体 重 : 45kg
3サイズ: B84 W57 H83
出 身 : 東京

明らかに、“自分のものではない情報”が載っていた。

しかし、澄ました笑みを湛える顔写真は、“自分のもの”。

――あれ? こないだ、そろそろ21歳になりますって本人が云ってたような?――

昨日見た映像のコメントが浮かんだ。

そしてそれは、今、目の前にある情報と合致していた。

別のコメントがリフレインする。

――そもそも渋谷凛って、50年前からいるだろう?――

慌てて2012年版を開き、逸る手でページを捲ると。

そこには。



氏 名 : 渋谷凛 RIN SHIBUYA
性 別 : 女
種 別 : アイドル
所 属 : CGプロダクション
本 名 : 同
生年月日: 1995年8月10日
年 齢 : 満16歳
星 座 : 獅子座
血液型 : B
身 長 : 165cm
体 重 : 44kg
3サイズ: B80 W56 H81
出 身 : 東京

そこにも、明らかに、“自分のものではない情報”が載っていた。

しかし、澄ました笑みを湛える顔写真は、2061年版とも、そして今の自分とも“同じであった”。

凛は、首筋の後ろが冷たくなる感覚を受けた。

「1995年っていうと……」

凛は、二つ前の元号を思い出す。

「平成……7年……」

――H070810。

国民識別IDが表示した、謎の英数字。

当日利用番号だとばかり思っていたが――

この数字は。

この数字は……


「私、国民識別ID上では、66歳ってこと……?」

18歳未満は利用出来ないはずのここ、国会図書館へ難なく入れたのも、このせい?

参考に、と北条加蓮のページも開く。



氏 名 : 北条加蓮 KAREN HOJO
性 別 : 女
種 別 : アイドル
所 属 : CGプロダクション
本 名 : 同
生年月日: 1994年9月5日
年 齢 : 満17歳
星 座 : 乙女座
血液型 : B
身 長 : 155cm
体 重 : 42kg
3サイズ: B83 W55 H81
出 身 : 東京

果たして、加蓮も“この時代”に居た。

凛の記憶が正しければ2040年9月5日生まれのはずなのに。

カタカタと、身体が細かく震えた。

――私の中の、あらゆる記憶が、“操作”されている……?


凛は、力なく銘鑑を閉じて、複写カウンターへ、ふらふらとした足取りで向かった。

国会図書館に所蔵されている書籍は、自分で勝手にコピーすることが出来ない。

貴重な資料を傷めないようにする為だ。

凛は、該当箇所を指定して、複写を申請した。

「数十分かかりますので、ゆっくりお待ちください」

と職員が話し掛けても、凛は上の空で反応しない。

青白い顔に、職員は若干不思議そうな眼を向けたが、当の本人は気付かず、まるで抜け殻のようだ。

「あのー……」

職員の遠慮がちな声に、凛は漸くハッと気付き、短く、宜しくお願いします、とだけ告げてその場を離れた。


とぼとぼと館内を当て所もなく歩く。

この自分の記憶は、本当に自分のものなのか。

「いや、記憶だけじゃない……身体だってそう……どう見ても66歳じゃないよ……」

一体どちらが正しいのだ?

客観的な資料は、凛が還暦などとうに越していることを如実に示している。

しかし、体つきだって、記憶だって、自分は15歳だと主張しているのだ。

「そうだ……、15歳なら……そもそも学校は?」

そう、凛は高校生のはずだ。

なのに、実際の生活パターンは、自宅とCGプロ事務所の往復に終始し、『自分は高校生』と云う意識“だけ”が脳内にある。

何の疑いも抱かなかった矛盾が、どんどんと表面化した。

だが、それら疑問の数々は、“凛が定期的に若返っている”と考えると、スムーズに説明できてしまうのだ。

去年のデータで云えば、凛はまもなく21歳になる。

「加蓮が私とバーへ行ったっていうのも……これなら説明がつくよね……」

カルバドスが自宅に置いてあったことだって。

ベースの腕が何故か極端に鈍っていたのだってそうだ。

――数日前までの、『空白の一週間』。その間に、私の身にロールバックが起きたのだと仮定したら……――

物的証拠、状況証拠、それら全てが、凛の首元に刃を突きつけている。

最大にして最高の証拠であるはずの自らの肉体が、一番信じられない。

なんと皮肉な状況だろうか。

何かに導かれるように、廊下の奥の、化粧室へ入ると、洗面台の大きな鏡に、自分が映った。

ふと、見知らぬ場所で、自分の屍体が、目の前の台上に横たわっている情景が頭をよぎる。

一体何の光景なのかは全く判らないが……。

すぐに、はっ、と意識を戻す。

そこへ立っているのは、確かに、渋谷凛―わたし―。

でも、本当に、渋谷凛?

本物の、渋谷凛?

鏡へ顔を寄せ、ガラス板の向こう側に居る“Jane Doe”を見ながら、訥々と問う。

「……アンタは……一体誰なの?」


――私は……一体誰なの?







Black Ops
・・・・・・・・・・・・






 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を開けた。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日は全く夢を見なかった。

当然だ、昨夜は悶々として寝られなかったのだから。

色々な考えが渦巻き、目が冴えて、夢など見ようはずがない。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常?

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「……おはよ……」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中だ。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、ちょっとね……。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪いし、厭んなっちゃうよ」

凛はぼやきつつ、トレードマークの制服、その胸の部分を、左手でネクタイごと持ち、ぱたぱたと扇いだ。

しかしネクタイが蓋の役割をしているので、あまり風の流れは起こらない。

「凛、どうしたの、隈がひどいよ」

そこへ、ちょうどポートのプラグを抜き、退社しようとする加蓮が通り掛かった。

「……おはよ。加蓮は今まさに仕事上がるところだね?」

凛があまり豊かでない表情で問うと、

「そ、やっぱり夜勤はめんどいね」

やれやれと云った表情で、つと嘆息しながら答えた。

そして、「一体どうしたのよ、そんな思い詰めたような顔して」と訝しむ。

凛はしばらく考え込んだ。

「……ちょっと話があるんだけど、私は今から仕事だし、加蓮は夜勤明けだし、どうしようかな……」

顎に手を当てて足許を見詰めると、その様子に、何かを感じ取ったのか、加蓮が云う。

「じゃあアタシ、夕方にでも事務所へ出てこようか? どんな話?」

その提案に凛は視線を上げ、申し訳なさそうに微笑んだ。

「ごめん、助かる。例のバー云々のことなんだけど」

瞬間、加蓮の表情が僅かにぴくりと硬くなった。

「……成程、大事そうな話だね。いーよ。その件ならアタシも気になってたし、今から帰って寝たって昼過ぎには起きちゃいそうだしね」

加蓮は、あはは、と笑い、「じゃ、あとでね」と云って退社した。

午後、あの笑みを破壊する事実を述べなければならないのだと思うと、実に気が滅入る。

はぁ、と溜息を漏らし、右手に持ったバッグを降ろしてから、自らのブースへ坐った。

ブース自体は、簡素なものだ。

端末の他は、首に挿さるコードの邪魔をしないよう、頭部と背部をセパレートで保持するリクライニングチェアがあるのみ。

凛はハンカチを取り出して首筋に浮いた汗を拭い、それを机の上へ放ってから、プラグを延髄のポートへ挿入した。

ノードのOSが起動し、NEURONetへ接続される。

『――CONNECTED――』

眼を瞑ると、長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

数瞬でデータリンクを終え、メニューが表示される。


  { お仕事 } [ LIVEバトル ]
[ レッスン ] [ 特訓 ] [ ガチャ ]


さて、今日の仕事はニューロキャストの発信だ。

『お仕事』を選択すると、OSがデータベースにある凛のスケジュールを照合し、自動的にCGプロ内の番組コントロールルームと同期が開始された。

意識のチューブが枝分かれし、プログレスバーが100%になると同時にトンネルを抜けて行く。

その先には、NEURONetの作り上げたブースがあり、これだけで、自分が今、あたかも放送局にいるかのような気分となる。

勿論実体はなく、量子の計算で構成された、凛の意識の中にのみ存在する、いわば“概念”だ。

≪皆さん、でれっす。CGプロ・ニューロキャスト、CLUB nb STATIONのお時間、本日のパーソナリティは渋谷凛だよ≫

目を瞑り、テレパシーを送る感覚で言葉を紡ぐと、それがそのままリスナーのニューロンへと届けられていく。

≪まずお知らせだね。来週プルリーグに出演することが決まったんだ。共闘するメンバーは誰になるのか、まだ私も知らされていないんだけどね≫

――おっ、プルリーグ! あの番組いつも見てるよ!――

――しぶりん、聡明だからクイズ番組得意だよね!――

≪ふふっ、みんな買い被りすぎだよ。私、得手不得手の差が大分激しいからさ、こなせるかどうかちょっと心配かな≫

リスナーからのレスポンスが瞬時かつダイレクトに凛の脳、またCGプロスタッフに入ってくる。

≪そうそう、昨日その予習・勉強を兼ねて、永田町の国会図書館へ行ってきたんだけど、あそこ凄いね、びっくりしちゃった≫

あれだけショックを受けた精神状態でも、トークのネタ収集を忘れないそのプロ意識は、トップアイドルの格の違いと云える。

なまじ、精神状態に大きく影響を受けてしまうのがNEURONetの仕様なだけに、不安定な精神を、僅かな片鱗さえも顕すわけにはいかない。

凛は真に“プロフェッショナル”であった。

しかし、一部の博識なリスナーから疑問が出る。

――あれ? 国会図書館って18歳未満は入れないはずじゃ?――

その突っ込みに、ギクリと凛は冷や汗をかいた。年齢制限の前提を失念していたのはミスだ。

動揺を必死に封じて、頭をフル回転させ答える。

≪あ、うん。基本的には18歳未満は利用出来ないんだけど、事前に申請と登録を済ませておけば大丈夫なの。膨大な資料があって、二世紀近くも昔の新聞を読めたりしちゃうんだ≫

――200年も昔とか、想像もつかないよなー。癌すら治せなかったんだっけ? ローテクな時代だよな――

――国内で発行されたあらゆる本を納めるように法律で定められてるんだよね、確か――

なんとか躱し、リスナーからの反応も上々。そして即座にそれらを拾って、凛はトークを返していく。

ほっと、心の中で安堵した。


その後そつなく番組進行をこなし、送信を終えると、意識は再びチューブの世界へと戻された。

同時に、ちひろとの会話セッションがオープンする。

「――お疲れ様、凛ちゃん」

いつもと変わらない、にこにことした笑みでちひろが労った。

「……お疲れ様、ちひろさん」

しかし、実に低いテンションで凛が返答すると、セッションの向こう側は少しだけ困った表情に変わる。

「――な、なんだかとても調子悪そうだけど……大丈夫?」

「うーん、何とも云えない状態だけど……今日の仕事、私の分は全部済んだよね?」

凛はそう云って、小難しい顔をして髪を掻き上げ、

「業務報告書を出し終えたら、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

眼を真っ直ぐ見据えて云う。

その雰囲気に、ちひろは顔をやや引き締め、頷いた。

「――判ったわ。それじゃ、上がったらエンジニアリングルームへ来て貰える?」


・・・・・・

エンジニアリングルームへ顔を出すと、部屋の奥でコンソールをいじっている複数の技術者が凛を視認した。

「お、千川女史から聞いているよ。入ってきなさい」

その中で最も位の高そうな中年、数日前に仮眠室で顔を合わせたエンジニアが、凛を手招きで呼び、携帯端末を渡してきた。

「……これは?」

凛が怪訝な表情で尋ねると、その技術者は眉の尻を下げた。

「すまんね、この部屋は管理されてるから、立ち入る人間には一意の番号が振られた端末を挿さなきゃいけないんだ。云うなれば、人間にタグ付けをしてるようなもんだね」

面倒くさいシステムだが、ここは技術を扱う部署だ。致し方あるまい。

でもなんで、ちひろさんはこんな部屋に来いって云ったんだろう……

凛がそう不思議に思いながらポートに装着すると、

「――凛ちゃん、お待たせ」

背後に、いつの間にかちひろが来ていた。

いきなりの声掛けに、飛び上がって胸を手で押さえた。

「わっ! ……びっくりした」

「――ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど」

振り返った凛の、その大仰な驚きぶりに、ちひろは苦笑い。

「――それで、どうしたの? 訊きたいこと、だなんて。あんな表情をして」

「その前に……ちょっと、人払いしてもらえるかな……」

凛は周囲を見回し、エンジニアをちらりと目をやってから云った。

ちひろがエンジニアらを見て頷くと、ぞろぞろ、隣の部屋、技術準備室へと消えていく。


――

二人っきりになったことを確認した凛は、それでも尚、たっぷりと時間を取って、まっすぐちひろを見た。

「ねえ、ちひろさん」

そこまで云ってからやや逡巡する。

しばらく地に視線を泳がせ、やがて意を決して、顔を挙げ、鋭く問うた。

「……私、本当に渋谷凛なの?」

ちひろは、たっぷり十秒ほど瞼をぱちぱちと屡叩かせ、凛の言葉の意味を計りかねている。

「――……一体どうしたの、何か悪い夢でも見たの?」

そう云って、小首を傾げた。

「――そもそも、毎日マンションへ帰っていることが、凛ちゃん本人の証明じゃないの。セキュリティは一番確実なDNA認証なんだから」

ちひろの表情は、凛の体調がどこかおかしいのかと、心配そうだ。

しかし凛は、鋭い視線を変えない。

「ちひろさん、私ね、その機関―カラクリ―を知りたいんだ」

「――……から、くり?」

凛は頷く。

「今ね、私、自分の記憶が一番信用出来ない」

少し遠い眼をして放たれたその言葉に、ちひろは、困った顔をして、両手を小刻みに上下へ動かして凛を落ち着かせようとした。

「――ちょ、ちょっと、凛ちゃん。そんなこと云わないで。自分の記憶が、アイデンティティの一番の拠り所でしょ?」

慌てる様子のちひろと対照的に、凛は首をゆっくり横に振る。美しい黒髪が、若干のディレイを伴って揺れた。

国会図書館で複写した過去のタレント銘鑑。

そのコピー紙を鞄から取り出して、身体の左横にあるコンソールへ、ぽん、と放った。

「……ねえ、ちひろさん。なんで私が、50年前から変わらない姿でここに存在し続けているの?」

ちひろは、身体を硬くする。

表情も強張っているように見える。

凛はそのまま畳み掛けた。

「私の国民識別IDの内部に、H070810っていうデータも埋め込まれてた。これ、平成7年……つまり1995年8月10日って意味でしょ?」

左手で、ひらひらと、IDカードを揺らす。

そのまま右手でパチンと、デコピンのようにはじいて、ふっ、と嘲笑とも嘆息ともとれる短い息を吐いた。

「おかしいよね、自分の記憶では2046年生まれのはずなんだけど、公的なIDにも、昔の資料にも、その記憶とは全く違うデータが記録されてるなんて」

凛は顎を引き、射抜くような視線を投げる。

「ねえ、ちひろさん。もう一度訊くよ。……私、本当に渋谷凛なの?」

静寂が、二人を包む。

眼力鋭くちひろを見る凛。

しばしの沈黙ののち、ちひろがゆっくりと口を動かした。

「――どうしてそれに気付いたの?」

「きっかけなら色々あるよ。一週間ほどプライベートの記憶がなかったり、買った覚えのないお酒があったり、ポータルの映像にデジャヴや妙なコメントが書かれていたり」

それらは、個々ではほとんど気にかけず流してしまうであろう些細なものだが――

「数々の違和が重合して、大きな疑念になったの。その中でも一番の要因は、加蓮と私の記憶に齟齬が出たことかな」

凛は眉と肩を、それぞれ少し上げた。片目を閉じてこめかみに人差し指を置く。

「最初、加蓮に私の知らないことを云われて、後で確かめようと訊いたら加蓮はそれを憶えてない。――たった数時間でそんなの明らかにおかしいでしょ」

そして何かに気付いて、付け加える。

「……ああ、例の会話を遮ったのはちひろさんだったよね」

あの日は誤ってアルコールを飲んでしまって、その対処のせいで出社が予定より遅れた。

つまり、あのとき、凛がいつも通りに、スケジュール通りに出社していたら、加蓮と鉢合わせすることはなかったはずだ。

そのまま、加蓮は凛と会話することなくNEURONetに接続し、記憶の整理が行なわれていたことだろう。

ちひろは、眼を閉じて黙り込む。

普通なら、「まさかね」とか「ま、いっか」で済ませそうな、些細な綻び。

それらから、ここまで嗅ぎ付けるのは、色々な要素が重なったことに加え、凛の頭の回転の鋭さもあるのだろう。


ちひろは、ゆっくりと、瞼を開けた。

「――……勘の良い子はいけませんねえ」

彼女は、いつも通りの笑みのまま。

「――掌の庭上を駆け巡らされている灰被り―サンドリヨン―の分際で……」

しかしその声は、ゾッとするほど冷えていた。

「――気付かなければ身体の賞味期限切れまで安寧の日々だったでしょうに……」

ちひろの溜息に、そして表情と声のギャップに、凛は、背筋に鳥肌が立つさまを、はっきりと実感した。

「――結論から云いましょう、凛ちゃん……いえ、ワ号。あなたは渋谷凛のクローンです」

オリジナルはあなたの云う通り1995年8月10日生まれですよ、とクイズの正解者を讃えるような拍手を付け加えた。

「――あなたは、2041年に偶像の役目を終え苗床となった別のクローン、ヘ号から、2043年に産み落とされたのです。体齢15まで成長させてからは人工冬眠状態にしてね」

表情、声音、動作、それぞれの、あまりにも異質なちぐはぐぶりに、凛は動悸と悪寒で脂汗が出た。

それを誤摩化すかのように、気丈に問い詰める。

「そんな……クローンの作製なんて、技術規制法で禁止されているはずじゃない!」

「――確かに、一般的には禁止されていますね。でも除外既定がきちんと定められているの。あなたがこの場で思いつくことなんて、我々は疾うの昔にクリアしてるんです」

ちひろは冷たい声と、いつも通りの柔和な眼をして、ピシャリと云い放った。

そして、別の話題を振る。

「――凛ちゃん、アルベルト・アインシュタインのことは知っていますよね?」

「そ、そりゃ勿論……知らない人なんていないはずだよ」

急な話の転換に、戸惑いながらも律儀に凛は答えた。

「――天才的な頭脳で、人類の科学を一気に成長させた奇蹟。彼がもし現代の人間で、まもなく寿命を迎えようとしていたら。さあ、あなたは放っておけますか?」

「た、確かにアインシュタインが現代にいれば、それを喪うのは痛手だと思う……けど……」

その回答に、ちひろは、笑った。

ほらね、と笑った。

「――彼が現代に生きていれば、その脳を数値化―サブリメーション―して、身体もクローンで維持して行くことでしょう。そうしなければ、人類にとって大きな損失です」

「だ、だからってそれが私の身に何の関係が――」

凛が云い終わらないうちに、ちひろは「それと同じことなんですよ」と遮った。

「――オリジナルのあなたは、眩しいほどのトップアイドルでしたから、クローンを使ってでも輝き続けなければ、人類にとって、そしてCGプロにとっても損失なのです」

眼を閉じて、「云うなれば……凛ちゃんは、歴史の偉人たちを超えた存在なのですね」と微笑む。

事実、ちひろの云う通り、NEURONet誕生以降のCGプロは、凛らの活躍によってカーストの頂点にずっと君臨しているのだ。

「――あなたがデジャヴを感じた映像の屍体は、こないだ投身したヲ号のものです。画が市井に出回るとは根回し不足でしたね。さらにそれを凛ちゃんに見られるとは」

ちひろは腕を組んで、はぁ、と嘆息した。

「――あの子は、偶像としては、ヘ号以来の優秀株だったので、苗床にする予定でした。でも、死んじゃったので仕方ありません」

せめて身体にダメージのない死に方をしてくれればまだマシだったんですけど、と遠い目をして。

しかし視線は、実験用のマウスを眺めるそれと同じものだった。

耐えられず凛は眦を決して叫ぶ。

「なんで、そんな非道いことを、なんの躊躇いもなく云えるの!?」

鋭い視線の凛と反対に、ちひろはきょとんと、それでいて非常に冷たい目をしている。

「――何を云っているんでしょうかね? クローンは使い捨ての駒ですよ?」

凛は、絶望を憶えた。

先ほどからの動悸がずっと止まらない。

「――賞味期限が切れて不要になれば、脳味噌をフォーマットしてから“マーケット”に売り払ったり、または新しい器を作製する為の“苗床”や“養分”にしたり」

むしろ、ちひろの物云いに、拍動はどんどん強まっていく。

「――勿論、フリトレだとか、特別移籍だとか、レッスンだとか、自分と向き合うだとかの言葉遊びをして、直接的な表現は避けていますけどね?」

もはや、表情は、怒りに紅潮して熱くなっているのか、恐怖に青ざめて寒くなっているのか、凛は自分では判らなかった。

「……“マーケット”に売ったあとの、元アイドルたちは、一体どうなるの」

それぞれのクローンが、アイドルとして演じられる適齢期を過ぎ、用済みとなっても、『かつてアイドルだった身体』は高く売れる。

第一線で活躍しているCGプロ所属者なら尚更だ。トップアイドルたる凛のそれなど、途方も無い価値がつこう。

良心的な買い手に出会えれば、そのまま、女としての第二の人生と幸せを手に入れられるかも知れないが――

「――さあ、買われた先で“御主人様”専用の慰み者―トップアイドル―にでも成っているんじゃないですか? まあ、どう“使われ”ようが、こちらに不利益が発生しない限り関知しません」

ちひろの言葉は、次々と、凛の希望を切り裂いていった。

「そんな……非道い……酷すぎるよ……こんなの……こんなのって……」

ついに、凛は膝を折り、床へ崩れ落ちた。

「――知らぬが仏とはよく云ったものです。呪うなら、私ではなく“渋谷凛と云う遺伝子そのもの”を、そして頭が良く切れると云う自らの個体差を怨んでくださいね」

感情なく淡々と述べるちひろを仰ぎ見る。

「こ、個体差って……ちひろさんの云う通りだとしたら、私はクローンなんでしょ? なら丸っきり同じものが出来上がるはずじゃ……」

「――これ、よくある誤解なんですけどね、クローンって、結局は一卵性双生児と同じなんですよ。遺伝子配列が全く同じでも、後天的・環境的な要素によって個体差は生じます」

凛は、弱々しく、合点のいった顔をした。

「云うなれば……一卵性の双子姉妹が、数年数十年という時間差で産まれてきたのと同じ、ってことだね?」

「――その通り。理解が早いですね、拍手を贈りましょう」

柔和に手を叩くちひろを無視して、さらに詰問する。

「IDカード認証の次に、一番確実だけど最も面倒なDNA認証へ、なんで一足飛びで行ってしまうのか、その理由がこれなんだね……!」

DNAより手頃でかつ充分な精度の生体認証方法は数多く在る。指紋、声紋、静脈、虹彩、網膜……。

しかし、クローンの身体では、一番甘い指紋認証すら、突破出来ない。

指紋や虹彩などの形は、遺伝子によって全てが決められるのではなく、環境因子に大きく左右されるからだ。

クローンは、胚から胎児、成体へと育つ中で、オリジナルと完全に同じ成長はしないのである。所謂カオス理論と呼ばれるものだ。

だが、逆に、最も確実で究極の手段であるDNA認証を、易々と突破できてしまう。

「――察しが良くて助かります。やはり頭脳が優秀な個体ですね、あなたは」

「……云われてもあまり嬉しくないな……」

うなだれる凛へ、ちひろが更に言葉を投げつける。

「――でもね、頭脳が優秀と云う個体特徴は、我々に必要な、アイドルという駒・容れ物にとって、“余計な要素”でしかないんですよ」

「……え?」

刹那。

凛の身体は羽交い締めにされた。

「なッ!?」

エンジニアらが、いつの間にか準備室から出て、彼女を取り囲んでいたのだ。

「ちょっ、ちょっと! 何するの! 離れてよ!!」

いきなりのことに抵抗する暇もなく組み伏せられた凛は、頭を抑えられた。

慌ただしく、凛のポートに装着されている携帯端末の拡張端子へ、コンソールから伸びたケーブルが挿される。

「吸い出しはどれくらいかかるんだ?」

「このままいけば……12分です」

「もっと早く出来ないのか、押さえ付けとくのも疲れるんだぞ」

「無茶云わんでください」

大勢の屈強な力で動きを封じられた凛の頭上、エンジニアらが不穏な遣り取りをしている。

「厭っ! 放して! はっ、放せッッ!! ちひろさん! これは一体なに!?」

なんなの、この力!? 技術屋なんてひょろひょろしたモヤシばかりじゃないの!?

凛の頭の中に浮かぶエンジニアの姿は、ステレオタイプの像だった。

四肢に限界の力を込め、振りほどこうとする凛。

しかし、びくともしない身体に、上からちひろの冷徹な声が響く。

「――我々に必要なのは、自分の存在に疑問を持たず、器―アイドル―として輝き続ける駒です。頭の切れすぎる個体は、今回のように弊害しか生みません」

「どう、いうっ、ことよッ!?」

何も答えないちひろに、エンジニアが無情にも告げる。

「よし、吸い出しとバックアップ、完了だ」

その報告の瞬間、彼女は普段通りの声音に戻る。

「――それでは渋谷凛ちゃん、……いいえ、ワ号。たった数日のことですが、お疲れ様でした。安心してください、念を入れて、あなたの個体は売り払いませんから」

そして、とびきりの笑顔で、

「――さようなら、永遠に」

指をぱちんと鳴らした瞬間、凛の目の奥で、この世のものとは思えないほどの激痛が走った。

「ア゛ア゛アアァァアァーーーーーーッッッ!!」

凛は、その地獄のような苦痛に、自分がアイドルであることも忘れ、肺にある空気を全て押し出して絶叫を上げた。

ポートから流し込まれた命令に沿って、延髄が、脳が、焼き切られていく。

その叫びは、屈強な男すら顔を背けるほど凄惨な金切声であった。

  厭だ……死にたくない……! 私が……消えちャう……死にたクなイよ……

一瞬で彼女の視界はブラックアウトし、何も見えなくなる。

脳が、自らを防衛する為の脳内麻薬を生成する猶予すら与えられず、激しい苦しみが身体を支配した。

どんどん失われていくニューロン内の情報。

  ワたシノ……そんざイが……コわレテ……いク……

首から下の感覚が途切れる中、意識の奥底に眠っていた、懐かしい匂いのする人の、暖かな記憶が僅かに顕在した。



  pロ……でゅ……cer……たス……kテ……

視覚、聴覚、触覚、嗅覚……それら全てが遮断され、もはや自分が叫んでいるのか静かに死を受け容れているのかさえ判る術はない。

身体中の筋肉が無作為に、ビクン、ビクン、と大きく引き攣る。

それは、炭素と水素と酸素と窒素の塊が最後に放つ、断末魔の声無き悲鳴であった。

通常、筋肉は脳の指令によって二割の力までしか出ないように制御されている。

しかしそのリミッターが機能しない今、筋細胞の持つ全ての力が解放されていた。

四肢が不規則に何度も痙攣して暴れ回り、抑え込んでいる大勢のエンジニアすらも撥ね除けそうな勢いだ。

筋繊維の限界の収縮に、骨は耐え切れず破壊され、ボキリ、グシャリと折損する鈍い音が何度も響き渡る。

やがて、身体は動かなくなり、綺麗で木目細かな肌は、折れた骨によって突き破られ、

皮膚の裂け目からその白い顔を覘かせると共に、静かに血液が床へ滲んだ。

大きく見開かれたまま光を消し、泪が垂れ流された凛――否、ワ号の眼を、右腕を抑えていた井上が、親指と人差し指で閉じながら、独り言つ。

「何度立ち会っても、この瞬間には慣れないな……気の毒だ」

その呟きをちひろは拾い、実に珍奇なものを視るような表情をした。

「――あら、“それ”はただの器に過ぎないのですよ?」





 ――あなたたちは、割れた茶碗を可哀想だと思うのですか?――



ちひろは、微笑んだ表情を一切変えずに、然も日常の一部を表現するかのような口調でそう告げた。

更に、そのまま付け加える。

「――可哀想なのはこちらの方です。叩き起こしてから僅か数日で廃棄しなきゃいけない事態になったんですから」

器を造るにはそれなりのカネと時間が掛かるのに、とボヤき、

「――そろそろ加蓮ちゃんも、小手先の付け焼き刃な対処ではなく、きちんと特訓―メンテナンス―してあげる時期のようですね。ちょうど夕方、事務所へ来ますし……今回の損失分を補う為に、少し吹っ掛けてマーケットへ売り払いましょうか」

やはり、微笑みを微動だにさせず、呟いた。


とりあえず、今日の分はここまでです
この状態で切るのはちょっと心苦しいですが……

漸く終盤までやってこられました
おそらく、あと2セクションで完結できると思います



コーヒー飲んで少ししたら再開します


                    ____
        (___)        . . : : : : : : : : : : : : : : . .
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.          Λ: :/ : : ′/: : 斗―-: /  .′: : Λ.:| : : |: : |
         ′∨: : :|:.:| |: /__ノ.: : :/  /: : : :/ }:| : : |: : |      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.         |: : :.|: :/ |: Ν/  ̄ ̄  /: : : ノ`ヽ}: : : : : :.     / 皆さん、気に病む必要など無いのですよ?
        /|: : :.| l| {: :{ 斗‐=ミ、   ̄ ̄     /: : /: :/   <   ここに出てくるのは、総て、アイドルの遺伝子を
.       |人: : |八 {: |   、、      __   /: : : |: :{       \ 埋め込まれたに過ぎぬ“ただの器”なのですから――
.       |: : \|/\ |            ^⌒ヾ 7/: : :|: :{        \____________________
.       人: : : :\: : 八    __     ′ 、、 ,ノ/: :_:人___
        〈\: : : :Υ\}   {   `ヽ     彳: /
       〈\\: : |: : ハ. 、   ____ノ    .   |:./
.        \\\|: /: : : \__ .  r≦  Ν         (___)
        /八 : : \: : 丿    ト、___,r―く      (⌒○⌒)
.        厂( ||\ : : Υ__    | \\\  \_      (__乂__)
        /   ||   r―く//ノ)_厶   \\〉「|「トヘ
.      |    lL 厂ソ////厂ヽ___厂丁r/ ///「| |、
.      |     ̄ [/(//厂\\ Λ\ | /    | | }
     八       (Lノ\: : : :\\l  ∨ |      |
.      〈\     r―)へ/⌒) \/  |      ト、
.         \      | ちひろ |====7 _Λ   ′ | ハ
          〈\   └‐――┘   /^∨\_ノへ | | |
        \      \    /    \〉 |\_ //ハ
    (___)   〈\       ├‐ /        \\_//   |
..  (⌒○⌒).  \     厂/         /|\_ノ   ト
   (__乂__)     〈\  /           /  |       | |
              \ ./        /   |       |/


じゃないと書く方も胃潰瘍で身が保たない……







Long Long Arms
・・・・・・・・・・・・






 ――しっかしまあ、毎度々々、面倒な作業ですね

 ――今回は流石にな。僅か数日でまた『特訓』をすることになるとは思いもしなかった

何やらだるそうな会話で、私は覚醒した。

いや、目を覚ましたら、丁度、そんな会話が耳に飛び込んできた、と云う方が正しいのかな?

 ――カ号、目覚めました。脳波体温血圧脈拍異常なし、カルシウムチャネルN・P・Q・R型それぞれクリア、ドーパミンレベルも正常です

 ――結構、連れてこよう

横になった儘の私の傍で、よく理解出来ない単語が飛び交っている。

ここは……病院?

……その割には、わけの判らない機械が数多く置かれた、陰鬱な空気の充満する区画だけれど。

きょろきょろと視線を動かしながら、上半身をゆっくりと起こす。

そこでは比較的若い人と、中年の、たぶん上司かな? そんな二人が、少し疲れた面持ちで、それでも忙しく動き回っていた。


「調子はどうだ?」

こちらへやって来た中年の上司さんが、中腰になって私を覗き込んだ。

「お医者……さん?」

「いや、俺は医者じゃなくてただのエンジニアなんだが……まぁいい、お前の名は?」

私の名前……

……私の名前?

……思い出せない。私は……誰?

そんな様子の私を見て、その上司さんは満足気に笑う。

「うむ、きちんとクリアな状態だな、OKだ」

眉根を寄せて首を傾げる私に、「おお、すまんすまん」と笑った顔のまま謝る。

「すぐに思い出せるから大丈夫だ。どうだ、立てるか?」

頷いて、立ち上がろうとすると、少しふらついてしまう。

どうも、平衡感覚が鈍くなっている感じ。

ふぅ、まるで生まれたての仔鹿みたい。

苦笑しつつ、その人に促されて、いくつものケーブルが出ている、大きな機械の前まで連れてこられた。

若い方の人は、その機械から出ているケーブルを、首の後ろに挿している。

あんなことして、痛くないのかな……?

不思議に思いながら、ケーブルを辿って、機械の方を見る。

「で、加藤。ワ号から吸い出したデータは全部用意できてるのか」

「はい、改竄と調整は済みました。基礎部―オリジナル―の転写を済ませれば、すぐに差分の上書きができるようになっています」

私を放置したまま、相変わらず理解できないやりとりが続いている。

――ねえ、一体何の会話をしているの?

そんな私の思念が通じたのか、若い人がこちらへ歩み寄ってきた。

でも、その右手は――変なケーブルを持っている。

「……? それは何?」

しかし、何も答えは返ってこない。

「ねえ、それをどうするの?」

もう一度訊く。

やっぱり、答えは返ってこない。

その代わり――まるで機械を見るかのような、道具を見るかのような、感情の読めない視線を投げられ、一言、「おやすみ」とだけ。

「え、ちょっ、なに?」

そのままケーブルを首の後ろに挿され、私の意識は一瞬にして電子の海へと飛ばされた。

長いチューブと云うべきか、トンネルと云うべきか、変幻自在の筒の中を浮遊しながら進む感覚が身を包む。

なんなの、これ?

未知の感覚。

どこなの、ここ?

見知らぬ光景。

理由も判らず、いきなり飛ばされた私は、戸惑うことしか出来ない。

すると、私の意識の中に流れ込んでくる『声』が聞こえた。

 ――ふーん、アンタが私のクローン? ま、悪くないかな……

ク、ローン……?

一体何のこと? 何を云っているの?

頭の中に響く、自分のようで自分のものではない声に、狼狽えた。

トンネルの向こうから、ぼんやりと、そしてゆっくりと、人影が近づいてくる。

……それは、私自身だった。

その『私自身』は、挨拶をするように、片手を挙げて、にこりと笑う。

とても綺麗で、とても可愛くて、そして、――とても不気味な笑み。

あなたは一体誰!?

そう問おうとしても、私の口からは、何の声も、何の音も出なかった。

対して、向こうの『私』の声は、とてもはっきりと澄むように響く。

「やあ、私のクローン。私は渋谷凛の基幹バックアップ……つまり……」



 ――アンタの母艦―マザーシップ―だよ――

私が……クローン?

まさかそんなわけ……冗談にしても性質の悪すぎる話だ。

クローンなんて、羊のドリーくらいしか知らないよ。

ましてや、人間のクローンだなんて、あるわけないじゃない。

そんな私の内心を見透かしたように、向こうの『私』は更に笑った。

「ふふっ。まあ、そう思うのも無理はないかな……、今のアンタの脳味噌は2011年のままなんだから」

何なの? この「今は違う年代ですよ?」とでも云いたそうなニュアンスは……?

「まあ、大方察している通りだよ。さ、おしゃべりはもうお仕舞い。どうせ今アンタに何を話したところで、全て上書きされて消えちゃうんだし。さっさと済まそう」

そう云って、向こうの『私』は、どんどんこちらへ近づいてくる。

「私の『記録』をアンタの脳へ移植させてもらうからね」

――いけない、逃げなきゃ……とにかく逃げなきゃ……

身の危険を感じた私は、どこかに逃げ道はないかと、方々を見る。

それは、虚しい抵抗だった。

「無理だよ」

向こうの『私』が、私に触れ、身体も、意識も、何もかもを浸食しようと、重なってきた。

「さ、自分自身と、向き合おうね」

――いやああああああああああああああああ!!

全身の細胞がこじ開けられる。

私の自我が、跡形もなく、消えていく。

それはまるで、硝酸にゆっくり溶けていく銅のように……


・・・・・・

「トランスポート、正常に終了しました」

進捗を見届けた若いエンジニア、加藤が、チーフエンジニア・井上に報告した。

「チェックだ、起こしてみろ」

凛のニューロンがネットワークから切り離され、トンネルを抜けて行く。

彼女は、ゆっくりと、眼を開けた。

「どうだ、立てるか?」

そう云って、井上が横から覗き込む。

凛はゆっくりと頷いて、上半身を起こし、

そのまま静かに足を下ろしてから、おそるおそる立ち上がり、額に手を添えて、少しだけかぶりを振った。

「ようこそCGプロへ」

歓迎の言葉を述べる井上に、彼女は手を下ろし、ふぅ、と一息吐いてから、第一声を発した。

「ふーん、アンタが私のプロデューサー? ま、悪くないかな……」

井上は、こめかみをぽりぽりと掻く。

「いや、俺はプロデューサーじゃなくてただのエンジニアなんだが……まぁいい、お前の名は?」

「私は渋谷凛、今日からよろしくね」

凛は澱みなく自己紹介を終えた。

軽く顎を引いた井上は、コンソールの方を向いて、大きめの声で告げる。

「よし、基幹部の動作は良好だ。確認は終わった。シナプスを身体から切っていい」

その指令に、加藤は、再び凛のニューロンを身体から切り離し、ネットワークと接続する。

凛は、その場に、糸の切れた人形の如く崩れ落ちた。

いや、それは“人形だった”。

「あとは差分の上書きを進めろ。終わったらシナプスをつなぎ直して仮眠室へ運んでおけ――」







EPILOGUE - Tournesol
・・・・・・・・・・・・






――君、アイドルになる気はないか?

――ふーん……ンタが私のプロ……ーサー?

――……会っ……私の……なんて思……ありが……今度は私が……のため……る番だね……


――――
――

夢を見ていた。

かつて、私をこの世界へ引き込んだ――
――いや、私がこの世界へ足を踏み入れたときの夢を。

スポットライトを浴びた自分が、ファンの人々から熱狂的な声援を受けている夢を。

モノクロの、遠い昔のもの。

それはまるで、活動写真―アーカイブ―を見ているかのよう――


 PiPiPiPi……

ぱちり。

渋谷凛は、脳内に響く電子音で目を覚ました。

自らの部屋、自らの寝床。

 ――いつもと変わらない光景。

しかし
今日はとても懐かしい夢を見た気がする。

内容までは憶えていないけれど。

それでも不快な夢ではなかったということだけは憶えている、気がした。


今日も仕事。

今日もアイドル活動。

 ――いつもと変わらない日常。

さて、と……
そう一言声を出して。

凛は毛布をのそのそと除け、ゆっくりとバスルームに消えていった。



・・・・・・


「はぁ、しんど」

凛は真夏の満員電車に揺られながら、その『長い髪』をかき上げてぼやいた。

あまりの暑さに嫌気が差す。いっそのことばっさり切ってしまおうか。


凛は、娯楽カーストの一番上、CGプロダクションに所属するアイドル。

シンデレラガールとして、そのトップを長年ひた走る存在である。


……その割には、彼女の姿形はデビュー時から“まったく”変化していない。

十朱幸代も真っ青だ。



・・・・・・


「……おはよ」

CGプロ、麻布十番の事務所。

扉を開けて朝の挨拶をすると、返ってくるのは事務員ちひろの声だけであった。

いま事務所にいるアイドルたちは、全て延髄のポートを接続し、『ダイブ』している最中。

「――あら、おはよう凛ちゃん。随分とだるそうね、大丈夫?」

「うん、まあこれだけ暑ければね。大江戸線は相変わらずクーラーの効きが悪くて厭んなっちゃうよ。何故かハンカチなくなってるし」

とぼやいてから自らのブースを見ると、そこには放られたままのハンカチが鎮座していた。

「あれ? なんでこんなところにあるんだろ……ま、いっか」

そこへ、扉を開けて、アイドル仲間かつ、最も仲の良い関係にある者の一人、北条加蓮も出社してきた。

「おっはよー」

凛より若干遅くデビューした、――とは云え今では充分ベテランの――クール系アイドルである。

その姿形は、凛と同じく、デビュー時から“まったく”変わっていない。

凛が、おはよ、と返すと、加蓮は手を振りつつ「もー暑くて厭んなっちゃうね」とぼやいた。


「――そう。私はあまりそう云う暑い寒いは判らないけれど、身体を壊さないようにね」

二人の様子を見届けたちひろが、壁に掛けられた大きなモニタの中で、満足そうに微笑んだ。


~了~


今回はプロット的に中編くらいで済みそうだなと思ったのに……結局六万五千字とかどういうことなの


“無尽蔵に湧くアイドルたちはどこから来て、レッスンや特訓でどこへ消えて行くのか”
そして、俺のこのスマホの中で微笑むしぶりんは、俺がこの先歳老いても、そして死んでも、変わらない姿のままでいる――

そんな世界を、『仕様です/ゲームです』と云う言葉で終わらせるのではなく、もしその裏に物語があったなら?

常々考えていたことを無事(?)形に出来ましたが、準管理社会と云うテーマがテーマなだけに、大分黒くなりましたね。
前作でちっひが天使すぎると云われたので、今度は徹底的に、悪魔でさえ泣いてちびるような、天使の面を被った鬼畜タイプにしました。
作中で機能が明らかになっていないOSメニューの役割や、そもそもちっひの存在とは? などなど――諸々ボカシた点については、皆さんのご想像にお任せします。

さて、この話には、プロデューサーと呼ばれる実存在が、ただの一度も出て来ませんでした。
――プロデューサーとは、“この世界”を、いま“傍観”している、“貴方そのもの”です。


三十分でこしらえた即席EDを置いときます
https://soundcloud.com/shiburin/melancolie-cendrillon


……この曲は何ぞや?


ふおおおおおおやっと終わったああああああああああ
自分で書いといて救いがねえってレベルじゃねえぞ……
でもモバマス(っていうかソシャゲ)に特有の現象を題材にして書きたかったんです。

ちなみに、各章のタイトルは、同名の楽曲から持ってきました。それぞれ、各章の題となる音として意識してあります。
Tournesolは名曲なので、鬱ぎ込んだらこれで癒してください。
また、変わらない日常がゆっくり変化して行く様は、プリズマティカリゼーションと云う伝説のゲームをオマージュしています。


Plateau - Mosaik
http://www.youtube.com/watch?v=5HWsbr9LwRg

Universo Parallelo - Protoculture
http://www.youtube.com/watch?v=LgpNcu_92kQ

New Age Surf - Digital Talk
http://www.youtube.com/watch?v=n-kLzL2BrK8

There ain't no Answers - NECTON
http://www.youtube.com/watch?v=QH3w4GLwaek

XXI Century - Elec3
http://vlog.xuite.net/play/cm1jakk4LTE3MDI4ODAuZmx2/Elec3-XXI-Century

Mysterious Force - Talamasca feat. Senix and Naya
http://www.youtube.com/watch?v=EiLRECa-0qI

Totgesagte Leben Länger - Andreas Krämer
http://www.youtube.com/watch?v=PFW7C4n-cBQ

AQUA - Damon Wild
http://www.youtube.com/watch?v=cobNdJKmaBA

Space Katett - Apocalypse
http://www.youtube.com/watch?v=9WQwv_x8b3Q

Atomic Base - Chakra feat. DNL and Liquid Metal
http://www.youtube.com/watch?v=z2lEeY_fhII

Visions of Tomorrow - Indica
http://www.youtube.com/watch?v=EAjZQEN5BK0

Black Ops - Hikikomori
http://www.youtube.com/watch?v=BY494VZLWGU

Long Long Arms - Audio Chemists
http://www.youtube.com/watch?v=oxFbALwD_K0

Tournesol - Mosaik
http://www.youtube.com/watch?v=cBWMXFQitV0

>>362
マジメなSSを書くときは最後に自分で作ったエンディングテーマを置くようにしてるんです

やっぱり自前のものだったか、そういう熱の入れ方。YESだね
そして曲のタイトルとスレタイ見てやっとサンドリヨンが『シンデレラ』という意味だったことに気づいた

暴走したちひろが凛や加蓮をイデオローグとして利用し、NEURONetを制圧、権力の転覆を狙い、
社会インフラを楯にしたテロリズムを展開し全世界へ宣戦布告。
退廃的なアイドルたちの織り成す、権力者への籠絡、美人局、ハニートラップ……
洗脳広告塔化された凛―うつわ―と、サブリメーションされた凛―オリジナル―との精神がせめぎ合い、葛藤する!
そのとき世界の、そしてちひろの選択は――

みたいな妄想まで発展したけど、「これもうモバマス関係ねえな」状態なので書きません


次回は凛のデビュー譚(前作の前日譚)か、またはTPで何か書きたいなと思いますがどうなることやら
ではまた、どこかでお会いできることを……



>>369
yes、サンドリヨンはフランス語でシンデレラなのです


(本当はドイツ語にしたかったんですが「アシェンプテル」から流石にシンデレラは連想しにくいのでボツにしました)

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