【モバマス】黄昏に咲く花 (58)

・地の文
・モブの話

↓九分九厘関係ないけど同じ世界線の話
【モバマス】千夜の姫に宿る炎
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人生何があるか分からない、などという言葉は飽きるほど聞いてきた。
節目節目にこの身をもって経験してきたことでもある。
だがしかし、これは予想できなかった。

人生も終盤に差し掛かろうという男が、我が子よりも歳の離れた少女に入れあげるだなどと。

この歳になって何を血迷ったことを、と。
そう思わないでもない。
その一方で、どこか楽しんでいる自分もいるのだ。

今まで触れる事すらなかった世界がそこにある。
何があるのか、何が見えるのか。

枯れたと思っていた好奇心が、ふつふつと湧いてくるのだ。
それが純粋に嬉しくもあった。


***************************


定年まであと何年、という所まで来てしまった。
そう思うと、何やら妙な焦りを感じてしまう。
仕事一辺倒に生きてきた私が、この先どう生きていくのか。
趣味らしい趣味もなく、休日といえば寝て過ごしてきた私が、だ。

今のところ、年齢なりの健康体を保っている。
ならば何か新しいことに挑戦する、というのも一つの手だろう。
けれど、為にする挑戦が長続きする性格でないことは、自分が一番よく分かっている。

「まあ、何も今日明日という話でもないわけだし」

誰に聞かせるでもない呟きが漏れる。
こうやって問題を先送りにしている内に、その日はやってくるのだろう。


このままいけばどうなるのか。
別に、やるべきことがない訳ではない。

こんな私を支え続けてくれた妻に、恩返しもせねばなるまい。
文句を言われることも多々あったが、それでも長年連れ添ってくれた。
折に触れて感謝を伝えてはいる。
だが、折角まとまった時間ができるのだ。
温泉好きの妻に旅行の一つもプレゼントして、大いに羽を伸ばしてもらおう。

それはいい。
だが、私という人間はそんなに殊勝にはできていない。
余生を妻の為だけに使うなど、どだい無理な話だ。
おそらく妻も、そんなことは望んでいないだろう。

ではどうするのか。
解決策は一向に見つからない。
それが焦燥感の正体だった。


***************************


耳に障る着信音で目覚める。
画面に映るのは、今日という日には見たくなかった文字だった。
何が悲しくて、休日に会社からの電話で叩き起こされなければならないのか。

「……もしもし」

本音では無視を決め込みたいが、そういう訳にもいかない。
いい知らせでないことは百も承知である。
だからこそ私は、この電話に出なければならなかった。

それなりの役職と給与には、相応の責任と義務が生じる。
ならば仕方がない。
せめてこの呼び出しが致命的な問題によるものでないことを祈ろう。

重い気分を無理やりに振り払い、電話口に集中する。
社畜、という単語が頭をかすめた。


――――――
――――
――

不幸中の幸い、と言うべきだろうか。
問題がこじれる前に片を付けることができた。
それもこれも、私と同じ憂き目に遭いながらも奮闘してくれた部下たちのお陰だ。
礼も兼ねて、今度食事でもご馳走することにしようか。

「ゴチになります!」

呟きを耳ざとく拾った部下の一人が嬉しそうに笑う。
みんなに聞かせる為なのだろう。
大きなその声に視線が集まる。
どいつもこいつも期待に目を光らせていた。

「あんまり高いのは無理だからな?」

まあ、仕方がない。
懐は痛むが、この期待を裏切るわけにもいかないだろう。
これも上司の務めだ。
快哉を叫びながら退社していく部下たちに苦笑がこぼれた。


全員を見送ってから外に出ると、昼下がりの太陽が迎えてくれた。
さて、これからどうしようか。
そもそも、今日も予定らしい予定はなかったのだ。
この呼び出しがなければ、家の中でゴロゴロして過ごしていたことだろう。
しかし、だ。
この陽気は、まっすぐ帰って家に篭もるには惜しい気がする。

遅めの昼食を済ませ、電車に乗り込む。
人もまばらな車内で考えを巡らせるも、名案は浮かばない。
不意に空いた時間の過ごし方など、すぐに思いつく訳がなかった。

「とりあえず、腹ごなしに歩くか」

結局のところ、無い知恵を絞っても出てくるものはない。
無趣味ここに極まれり。
自分がひどくつまらない人間に思える。
うららかな日差しとは真逆のため息が漏れた。


どこをどう歩いたのか。
気が付けば、大きな公園に行きついていた。
確かここは、広域避難場所に指定されていたんだったか。
災害時の避難マニュアルで見た記憶がある。

疲れているわけでもないが、一休みしていこうか。
そんなことを考えたのは、家族連れで賑わう光景を見たからかもしれない。


ちょうど木陰になっているベンチを見つけ、腰掛ける。
目の前に広がるのは、休日の午後に相応しい眺めだった。

キャッチボールをする親子。
レジャーシートに弁当を広げる奥様方。
ベンチに腰掛け、日向ぼっこをするご隠居。
所狭しと駆け回る子ども達。

そういえば、息子たちとあんな風に過ごしたのはもうずいぶん昔の話だ。
あの頃はこんなに整備された公園などなかった。
反面、口うるさい規制もなかったのだから、それはそれで良かったのだろう。

それに比べ今の子ども達は。
これは危険だからやってはいけない。
あれは迷惑になるからやってはいけない。

そんな風に縛られて、どうして伸び伸びと遊べるものか。

「ああ、いかんな」

何かにつけて昔を引き合いに出すのは、歳を取った証拠だ。
息子たちも親になった現在、歳を取ったのは紛れもない事実なのだが。
それでもせめて、気持ちくらいは若くありたいものだ。


「ん?」

ふと、キラリと光る何かが目に入った。
気になって辺りを見回すと、すぐにその正体を見つけることができた。

高校生……だろうか。
制服姿の少女が、子ども達と一緒になって走り回っている。
少女は、遠目にも目立っていた。
たなびく髪は金色で、その肌は褐色に染まっている。

これがいわゆる、ギャル、という奴なのだろうか。
一瞬よぎった考えは、どうやら見当違いだったらしい。
よく見れば、その少女の容姿は日本人のそれとは違うことが見て取れた。
その髪も肌も、生来のものなのだろう。


しかし、そんな了解は取るに足らないことだった。
少女を見て目が離せなかったのは、そんな些細な違いが原因ではない。

その表情。
子ども達となんら変わらない、無邪気な表情。

それが、私の目を惹きつけて止まなかった。

実に不思議な光景だった。
高校生ともなれば、子ども達と一緒になって遊ぶことなどなかろう。
仮に遊ぶことがあったとしても、保護者的な立場になるのが普通ではないだろうか。

だが、彼女は子ども達と同じ目線で夢中になって遊んでいる。
子ども達は子ども達で、それが楽しくて仕方ないらしい。
そこには輝くような笑顔が満ちていた。


ほのぼのとしたものが胸に広がる。
おそらく、口元には笑みが浮かんでいることだろう。
何なら、この出会いのきっかけをくれた休日出勤に感謝してもいいかもしれない。
そう思えるくらいには、嬉しい出来事だった。

「さて、と」

木陰だったベンチにも西日が射し込むようになっていた。
思っていた以上にのんびりとしてしまったようだ。

夕日がやけに綺麗に見えた。


***************************


それは、どこにでもある日常の一コマに過ぎなかったのではないだろうか。
単に私が気付いていないだけっだたのではないだろうか。

そこまで考えて愕然とした。
私は今まで、何を見てきたのだろうか。
目の前にあったはずのものを見もせずに、何をしてきたのだろうか。

まさか、この歳になって思い知ることになるとは。
いや、この歳になるまで気付かなかったとは、か。

「これでは、定年後の不安も当然だな」

どうやら、焦りの根幹はそこにあったらしい。
もっと視野を広く持っていたなら、この人生も違っていたかもしれない。
なんと勿体ないことをしてきたのか。

「いや、遅すぎるということはないはずだ」

遅きに失したという思いを振り払うため、言葉にする。
例え、取り返しがつかないとしても。
今から始めることだってできるじゃないか。

残りの人生がどれほどかは分からない。
ならば、精一杯やってみよう。


――――――
――――
――

一念発起の結果は、実にささやかなものだった。

ご近所さんには挨拶を。
通勤電車では、新聞ではなく車窓の景色を。
休日には散歩を。

わざわざ口にするのもおこがましい。
人に聞かせても、一笑に付されるのがオチだろう。
けれど、今の私にはこれくらいが丁度いいのかもしれない。

人の表情。
季節の移り変わり。
街の息遣い。

小さな発見がそこかしこにある。
一つずつ、ゆっくりと。
もう、勢いに任せるような歳でもない。
長年のツケは、地道に払っていくとしよう。


***************************


休日のそぞろ歩きも、ずいぶんと馴染んできた。
最初の頃はただ歩いていただけ。
それがどうにも落ち着かず、自問自答を繰り返したものだ。

こんなことをして何になるのか。
この行為にどれほどの意味があるのか。

それが今ではどうだろう。
目的もなく歩く事そのものを楽しむ余裕が出てきた。
何かがあっても、何もなくても。
そのこと自体が重要なのではない。
今まで使ってこなかった心の何処かが動き出すような、そんな感触があった。

少しずつ、少しずつ。
私の地図は広がっている。


――――――
――――
――

今日は駅を挟んで反対側を歩いてみようか。
およそ家と会社の往復に費やしてきた私にとって、向こう側は未知の領域だった。
改めて、自分の狭さを痛感する。

「数十年この街で暮らしてきてこれだものな」

自嘲の呟きもいつものこと。
けれど、その言葉ほどに後ろ向きではない。
知らなければ知ればいいのだ、と。
最近は開き直ってきている。


大手チェーンの飲食店にいくつかの娯楽施設。
駅の向こう側だからと、特別変わった風景はない。
まあ、中規模の駅周辺ともなればこんなものだろうか。

勝手な感想を抱きながら、更に足を伸ばす。
整理された区画から少し離れたところにそれはあった。

通りの入り口に立てられた看板。
その向こうに連なる店。

精肉店があり、鮮魚店があり、パン屋があれば米穀店に酒屋も。
服飾店も見えるし、玩具店だってある。
そのどれもが個人経営の店構えだ。

「なんというか、懐かしいな」

品定めに余念がない主婦。
買い食いする学生。
玩具店に走り込む子ども達。

閑古鳥の鳴くシャッター通り。
最近目にするそんな表現とは程遠い光景だ。


「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」

威勢のいい声に振り返る。
快活な笑顔で迎えてくれたのは、鮮魚店の主人だった。
私より一回りか、もう少し若いだろうか。

「お、お客さん。ちょっと見てってよ」

目が合うや、すぐさま声をかけられる。
その滑らかさについ足が止まる。
こうなると、無視するのも気が引けてしまう。
この時点で、私の負けなのかもしれない。


「……いきなり買って帰ると、家内に怒られるんだがね」

予防線を張りつつ店先へ。
そもそも、私には魚の目利きなどできない。
それ以前に、目の前のものが高いのか安いのかさえ判断できないのだ。

「なるほどなるほど」

買う意思がないことを伝えると、店主はあごに手を添えた。
流石は商売人、その目は全く諦めていない。


「お客さん、こっちはやります?」

お猪口を持つ仕草をし、それをクイッとあおってみせた。
こちらを見る目が、楽しそうに光っている。

「まあ……呑兵衛というわけではないが」

酒量自体はそう多いわけではない。
それでも、毎日の晩酌が楽しみなくらいには好きでもある。

「よしきた。それならこっちがおススメですよ」

示された一角には、干物類が並べられている。
ああ、これを肴に飲む酒は旨いだろうなぁ。

店主がニッコリと笑う。
どうやら、こちらの考えは見透かされてしまったようだ。

「自家製なんですけどね、丹精込めて作った自慢の品です」

つまみを買って帰ったくらいで怒る家内ではないだろう。
……などと考えている時点で、私の負けだ。


「それじゃ、一つ貰おうか」

「はい、毎度っ」

ここは、いい経験をさせて貰ったと思うことにしよう。
楽しみが一つ増えたことでもあるし。
などと考える自分は、なかなかに現金な性格をしているらしい。

「……ん?」

店主が会計をしている間に、何気なく店内を見回す。
ふと目に入ったのは、鮮魚店に飾るにはやや場違いなポスターだった。

華やかな衣装に身を包んだ少女が、こちらを見て微笑んでいる。
その少女に、妙な既視感があった。


「はい、お待たせしました」

「ああ、どうもありがとう」

お釣りと商品を受け取り、それでもどうしてか気になった。
金の髪に褐色の肌。
まとう衣装はアラビア風、といえばいいのだろうか。

「ところで、これは……?」

店に飾るくらいだ、聞けば何か分かるだろう。

「お客さん、ライラちゃんご存知で?」

返ってきた声は、いかにも嬉しそうだった。
何と言えばいいのだろう。
……そう、娘を自慢しているような、そんな感じだった。


「ライラ……?」

だが、心当たりはない。
それもそのはず。
私の知り合いに外国人の少女はいない。
ましてや、こういうポスターに登場するような知り合いも。

「ウチが応援してるアイドルなんですよ。まあ、まだ売出し中ですけど」

その言葉に、ポスターを見直す。
『当商店街はライラさんを応援しています――ライラさん保護者会一同』
そんな文字が踊っていた。


どうやらこの商店街が独自に作ったポスターらしい。
それがまた、何とも言えない違和感を呼んできた。

この商店街は、それほど規模が大きいわけではない。
人々から注目を集めるような特別なものもない。
良くも悪くも、古き良き商店街でしかないのだ。

それが、わざわざポスターを作ってまで一人のアイドルを応援している。
地元の出身者、というのであればそれも分かる。
しかしそうではないだろう。

相手は、どう贔屓目に見ても日本に所縁があるとは思えない。
にもかかわらず、愛されていることはよく分かる。
それは、『保護者会』なる見慣れない一語によく表れていた。


「どこかで見た……ような気がしないでもないんだが……」

「ああ、ライラちゃんならよくこの辺りをウロウロしてますからね」

「……ウロウロ? アイドルが?」

漏れた呟きへの返答が、あまりにも意外だった。
これほど不釣り合いな言葉もそうはないだろう。

「ま、そういう子なんですよ」

脈絡なく、地域猫という存在が浮かんだ。
地域の住民が共同で世話をする猫。
特定の主人はいないが、野良というわけでもない、そういう猫だ。

何となく、その理解が的外れではないような気がした。
目の前の柔和な表情が、その裏付けのように思える。

俄然興味がわいてきた。
一体どんな少女なのだろう。

どうやらもう一つ、土産ができたらしい。


***************************


いやはや、便利な世の中になったものだ。
パソコンに単語を打ち込むだけで調べものができるのだから。

調べてみたのは、先ほどのライラという少女について。
アイドルをしているということで、公式の情報はすぐに見つかった。

ドバイ出身の十六歳。
趣味は公園で知らない人とおしゃべり。
誕生日に血液型、身長体重等々。
並んでいる情報は当たり障りのないものばかりだった。

けれど私にとってそんなことはどうでもよくて。
問題は、彼女自身の姿だ。
彼女のプロフィール写真は、なぜか制服姿だった。
そのお陰で、既視感の正体を掴むことができたのだから。


「……ああ、そうだったのか」

ライラという少女は、あの日、あの公園で見かけた少女だった。
私の目を開くきっかけをくれた少女だったのだ。

私は、ライラという少女のことを何も知らないに等しい。
もちろん、彼女が私のことを知っている訳もない。

だが、なぜなのだろうか。

地域猫のような愛され方も。
その奇異な趣味も。

妙に腑に落ちてしまった。


だが、私の中にある彼女の印象と、アイドルというものがどうにも結びつかない。
慣れない手つきで検索を続けるも、満足のいく結果は得られなかった。
私の手際の問題も、もちろんあるだろう。
それにしても、出てくる情報は少なく感じた。
本当に、売出し中のアイドルなのかと疑いたくなるほどに。

まず、ブログの類やSNSのアカウントが見当たらない。
これは間違いなくおかしい。
芸能関係に限らず、今やネットでの発信は常識以前の話だ。

私が見つけられないだけなのかとも考えたが、それも違うだろう。
この手の情報は、私のような手合いであっても容易に見つけられなければならない。
目に入らない情報は、無価値も同然なのだから。


では、なぜ?
情報を公開しないことにメリットがあるのか。
情報を公開することがデメリットになるのか。

判断材料を持たない私は、袋小路に追い込まれてしまった。
しかし、私と同じように考える人はそれなりにいるらしい。
ネット上には、いくつかのウワサが流れていた。

一つは、いかにもありそうな話だった。
ただ単純に、この手の機器類の操作が極端に不得手だというものだ。
加えて、日本語での発信がまだ難しいのではないかという推測もされている。

確かに納得がいく話ではある。
だが、そういう事情であれば、売り出す側の事務所がフォローしそうなものだ。
そう考えると、簡単に頷ける話でもないように思える。

もう一つ、似たようなウワサもあった。
どうやら彼女は、率直に言って貧乏らしい。
だから機材を買えないのだ、と。

経済的な話は本人も言っていたらしく、本当のようだ。
しかし、だ。
ならば尚の事、事務所がフォローするのではないだろうか。


少々飛躍な説も目に付く。
中でも面白かったのは、身を隠している、というものだ。

実は彼女は、やんごとなき身分の御令嬢であり、逃亡中の身であるらしい。
だから、追っ手に見つからないよう、極力情報を出さないようにしているのだと。
ファミリーネームが公開されていないのもその一環なのだそうだ。

そう言う見方もできるのかと感心する。
ただまあ、現実の話としてはファンタジーに過ぎるだろう。
そもそも、逃亡中の御姫様がアイドルなどという目立つことをするはずもない。


ほどほどで見切りをつけパソコンの電源を落とす。
結局、大した成果は得られなかった。

分からないとなると、知りたくなるものだ。
以前に増して興味が湧いている自覚がある。
これがもし、彼女のアイドルとしての戦略であるならば。

「ひょっとすると、これが狙いなのか?」

どうやら私は、見事に術中に嵌ったらしい。


***************************


休日の散歩に目的ができた。
もっとも、自分でどうこう出来る訳でもない。
持っている手がかりはたった一つだけ。
よくこの辺りをウロウロしているという証言しかないのだから。
運が良ければ……という所だろう。

とはいえ、元々が当てのない散歩だったのだ。
ブラブラしつつ偶然に期待するのも悪いものではない。

だから、殊更あの商店街の近辺を歩くようなことはしていない。
酒の肴が無くなれば、買い物に立ち寄る程度のものだ。
だから未だに、新しい発見があったりもする。


「ほぅ……」

路地を一つ入った所に喫茶店があった。
落ち着いていて、何とも味わいのある店構え。
商店街の雰囲気にも溶け込んで、静かな佇まいを見せている。

吸い寄せられるようにドアに手をかける。
優しいベルの音が迎え入れてくれた。

店内は橙色の照明でほんのりと明るい。
窓際にテーブル席が四つほど、あとはカウンター席があるだけだった。
年季を感じさせる、深い色合いになった調度品。
よほど大事にされているのだろう。
そのどれもが、あたたかな印象を与えてくれる。


「いらっしゃいませ」

低く、柔らかい声だった。
口ひげを蓄えた男性がこちらを見ている。
黒のベストに白のシャツ。
絵に描いたような、喫茶店のマスターだった。

「どうぞ、お好きな席に」

私の他に客はいないようだ。
遠慮なく窓際の席に座らせてもらう。


とりあえずメニューを開いたはいいものの、どうしようか。
コーヒーにもいくつか種類があることは知っている。
聞いたことのある名前もいくつか並んではいるのだが。
何がどう違うのかなど、知るはずもない。

「半可通を晒すよりはいいか」

コーヒーといえばインスタントか缶コーヒー。
そんな自分が気取ったところで、すぐに化けの皮がはがれるだろう。
こういう時は、無難が一番だ。


「ご注文、お決まりでございますですか?」

「ええ。ブレンドコーヒー、を……」

独特なイントネーションの日本語だった。
言葉遣いも何やらおかしい。

制服の意匠もマスターのものと微妙に違う。
白と黒の配色は同じだが、ベストの背中が大きく空いている。
あれは確か、カマーベスト、だったか。
そして、その胸元をリボンタイが飾っている。

だが、そんなことに気付いたのは、もう少し後になってからだった。

淡く輝く金色。
白い襟が際立たせる褐色。
吸い込まれるような碧。

完全な不意打ちに思考が止まり、言葉が途切れる。
そこにいたのは、間違いなく探し人だった。


「お客さん、どうかしましたですか?」

顔を傾け、こちらを覗き込んでくる。
不思議な瞳だ。
透き通っているのに、底が見えない。
魅入られたように目が離せなくなってしまう。

「大丈夫でございますですか?」

「……ああいえ、大丈夫です。すみません」

再度の呼びかけで我に返ることができた。
お陰で、今の自分の行状を思い知る。
出会い頭に相手を凝視するなど、不審者も同然ではないか。

「おー、それならよかったのですよ」

しかし彼女は、安心したように微笑んだ。
言葉にも表情にも、作られたものは感じられない。
危うさを覚えるほどに真っ直ぐだった。


「ご注文、ブレンドコーヒーでお間違いないでございますか?」

「ええ、お願いします」

「かしこまりましたです。少々お待ちくださいですよ」

軽くお辞儀をしてカウンターへと下がっていく。
金色の軌跡に目を奪われる。

どう表現すればいいのだろう。
ミステリアスな雰囲気と素朴な匂いが同居しているというか。
特徴的な言葉遣いと容姿とが、どうにもアンバランスなのだ。
何かがあるような、そんな気さえしてしまう。


「……これだから歳をとると」

目の前の事実を素直に受け取れないでいる自分に気付く。
これまで築いてきた自分の世界に当て嵌め、理解した気になりたいだけなのだ。
実際、私が彼女の何を知っているというのか。

遠くドバイからやってきた少女。
高校生の身でアイドルとして活動し、この喫茶店でアルバイトもしている。

仮に私がその立場になったとして。
……考えるまでもない。
私には無理だ。
私には、そんな覚悟も情熱もない。
そんな私が勝手な見当をつけるなど、烏滸がましいにもほどがある。


「お待たせいたしましたですよー」

カップをトレイに乗せて、彼女が戻ってきた。
どことなく不慣れな所作が目につく。
けれど彼女は一生懸命だ。

失礼がないように、ではない。
喜んでもらえるように、一生懸命なのだ。
仕事に埋もれるような人生は、その違いに気付く目を与えてくれていた。

「……あの」

「はいです?」

小首をかしげる仕草が可愛らしい。
いや違う、そこが問題なのではない。
カップを置いた彼女は何故、私の向かいに座っているのだ。

「他にお客さんがいらっしゃいませんですから」

質問への答えは、答えになっていなかった。
ちらりとカウンターへと目をやる。
苦笑いのマスターと目が合った。
相手をしてやってください、ということか。


私としても話をしてみたいと思っていたところではある。
マスターがそれでいいのなら、細かいことは気にしないでおこう。

「ん?」

結論付けて顔を上げる。
青い瞳が、私の顔とカップを往復していた。

成程そういうことか。
あまり見られるのも落ち着かないのだが。

「……うん、おいしい」

味も香りも、今まで飲んできたものとは何か違う。
残念ながら、その何かの正体はさっぱり分からないが。
コーヒーの種類すら覚束ない人間では、この程度の感想が関の山だろう。

「はいです。マスターのコーヒーはとても素晴らしいのです」

目の前には、嬉しげで誇らしげな笑顔がある。
思わずこちらの口元までほころんでしまった。


「コーヒーとは、こんなにもおいしいものだったのか」

「おや、コーヒー初めてでございましたですか?」

「ああいや、そういうことではなくてね」

何気ない会話が心地良い。
おそらく私は、この店の常連になるのだろう。
確信に近い予感がした。


――――――
――――
――

「じゃあ、アルバイトではない、と」

「はいです。ご恩返しのお手伝いなのです」

緩やかに流れる時間を、世間話に過ごす。
気付くと手元のカップは空になっており、二杯目をお願いした。

新たなカップを持ってくる動作は、やはりどこかたどたどしい。
だから、ふと気になって聞いてみたのだ。
ここで働くようになってどれくらいなのか、と。

答えは完全に予想外のものだった。
今日たまたま手伝いをしているだけで、労働の対価は貰っていないと言う。

彼女に言わせると当たり前なのだそうだ。
この商店街の人たちには、お世話になっているから、と。
日本に来てからずっと、アイドルになった今でも。


「大丈夫なのかい?」

「ほえ?」

それはそれで、賞賛されるべき心構えだろう。
恩に報いるとはよく言うが、実践するのは生半ではない。

彼女は、この若さでそれをしている。
義務感に駆り立てられて、という風にも見えない。
その自然な在り方が、妙に不自然だった。

「いつも節約してるって言っていたから」

「お家賃も払えていますですし、大丈夫でございますよ」

生活が楽なわけではない、ということだろう。
なのに何故、彼女は無償で恩返しができるのだろうか。


現実問題、人は生きていかなければならない。
そして、生きる為にはどうしたって金が要る。
嫌な取引先に頭を下げるのも、不本意な休日出勤に応じるのも。
全てはその為だ。

少しばかりの余裕があれば、その鬱屈を晴らす為に使われる。
もう少しの余裕が生まれれば、自らの欲求を満たす為に使われる。
報恩、献身など、その次に来れば良い方ではないか。
人は所詮、衣食が足りて初めて礼節を知る程度の生き物なのだから。

「あまり無理をして、逆に心配をかけないようにね」

「おー、ありがとうございますですよ」

彼女はどうやら、私の常識の埒外にいるらしい。
国が違えば文化も常識も違ってくるのは当然だ。
それは分かるが、人間としての本質がそう大きく変わるとも思えない。


「君は……」

彼女の真っ直ぐさ、無垢さに触れる度に違和感が増していく。
何をどうすればこうなるのか。
余程純粋培養されてきたのか、さもなくば……

「どうかしましたですか?」

今、私は何を考えた?
今日会ったばかりの相手に、何を言おうとしたのだ。
下衆の勘繰りそのものではないか。

こちらを見る目には、欠片の邪念もない。
それが一層、自分の愚かさを浮き彫りにしていく。

「いや、どうしてアイドルになったのかと思ってね」

とっさの誤魔化しも、すっかり板についてしまった。
世間の垢に塗れた自分がやるせなくなる。

処世術と言ってしまえば、それだけのことかもしれない。
だが、彼女にはこんな大人になって欲しくない。
なぜかそう思った。


「アルバイトをクビになって、お仕事探していて、それでスカウトされたのでございます」

スカウト、か。
言われるままについて行って、あっさりと騙される。
そんな光景が容易に浮かんでしまう。

「怪しいとか、思わなかった?」

「あー、ちょうど他の方の撮影をしていたのですよ」

たまたま立ち寄った公園で、たまたま撮影が行われていた。
たまたま関係者の目に留まり、スカウトされた。

人一人騙す為の舞台としては大掛かりな気もする。
それでも、偶然にしては出来過ぎているようにも思えるのだ。


「少しお話いたしまして、信用できる方だと分かりましたです」

その瞳の深い色に息を呑む
私には分からない確信があるようだった。

「ふふー。ライラさん、人を見る目には自信ありますですよ」

ああ、そうか。
彼女はまず、信じるところから入っていくのか。

それはそれで、不安ではある。
だが、保身のために疑いから入る自分より、余程前向きだ。


「それにアイドルは、ライラさんがしたかったことができるのです」

「したかったこと?」

「はいです。幸せおすそ分けでございます」

日本に来てから、色々な人の世話になってきた。
その時々の嬉しい気持ちを、返したい。
アイドルは多くの人を笑顔にできる。
それはきっと、お返しになるはずだから。

「だから頑張るのです」

彼女はそう、真っ直ぐに言い切った。
ここでも彼女は、誰かの為に、だった。
そこに迷いは見られない。


敬意を払って余りある、尊ぶべき意志だと思う。
だがどうしても、危うさを覚えてしまう。

もっと自分本位でいいじゃないかと。
もっと我が儘でいいじゃないかと。
そう思ってしまうのだ。

「じゃあ私も応援させてもらうよ」

今はまだ、そこまで踏み込む資格はない。
自分の言葉に責任を持ち、向き合っていく覚悟もない。
それでも、彼女を応援したいと思った。

「えへへー、ありがとうございますですよ」

折角縁あって交わったのだ。
まずはこれを、大事にしていこう。


「ライラー、来たよーっ」

ドアベルの音を打ち消す、元気な声が響く。
のんびりとした時間を揺り動かしたのは、一人の少女だった。
その隣の少年は、声の大きさに眉をしかめている。

「おー、いらっしゃいませですよ」

「うーん、やっぱりここの制服似合うねぇ」

「ふふー、ありがとうございますです」

来客を出迎えると、途端に話に花が咲いた。
随分と仲が良いらしい。

「ほら、アンタも何か言いなさいよ」

「ちょ、何言ってんだよ」

「あー、そういうのいいから」


同じ年頃の友人という、当たり前の存在に安堵する。
彼女は一人きりではないのだ。
私に見せていたより、一層柔らかい笑顔が嬉しい。

「そういうの、男らしくないわよ?」

「うるせーよ」

マスターに目をやると、実に温かい目で見守っている。
ふと目が合うと笑いかけられた。

「その、なんだ。えーと、すごく似合ってる……と、思う」

「えへへー、とっても嬉しいでございますねー」

ああ、そうか。
私も同じ表情をしているのか。

「三十点ね」

「だからお前、うるさいっての」


なぜこの商店街の人々が『保護者会』を名乗っているのか。
それが腑に落ちた。
みんな、こんな気持ちなのか。

純粋で、真っ直ぐで、だからこそ危なっかしい。
自分の信じる道を行く、どこか掴み所のない、ライラという少女を。
支え、見守り、応援する為に。

「やれやれ、まさかこの歳でね」

どうやら私は魅入られてしまったらしい。
何を血迷ったことをと、そう思わないでもない。
何しろ相手は、我が子よりも歳の離れた少女だ。


だが、仕方がないではないか。
それに私は、単なるファンや追っかけというのではなく……

「なんとまあ、皮肉の利いたものだ」

保護者会。
気恥ずかしさと折り合いをつける、絶好の言い訳だ。

今度、これを考えた人を紹介してもらおう。
きっといい酒が呑める。

窓際の席に夕陽が射し込んできた。
店内がふんわりとオレンジに染まる。

金の髪が、艶やかに煌めいていた。


<了>

というお話でございました
ライラさんのファンには年配の人も多いだろう、という妄想です

誕生日に投稿するのがこんなオッサンSSでごめんなさい
ライラさん誕生日おめでとう

お読みいただけましたなら、幸いです

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