鷺沢文香「本に、命を」 (46)
シンデレラガールズのSSになります
少し刺激の強いシーンがあります
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人生を1冊の本に例えるのは使い古された表現ではありますが、
つまり生きることは執筆活動にも似ている、
と続けたのはどの作家でしたでしょうか。
ふと、そんなことへ想いを馳せます。
生きることが執筆活動なのであれば、ヒトの身体そのものは本の装丁に過ぎず、
書き連ねる本文こそ人生であり、きっとそれこそ重視されるべきなのでしょう。
そして、同時に考えてしまうのです。
本の喜びは手に取って読んで貰えることだ、というのが通説ですが、
それであれば、表紙に著者として鷺沢文香と名を綴る本は、果たして。
完成後に、時代を超えて数々の読者に見て貰えるのが、幸せなのでしょうか。
それとも。
執筆を導く編集と称すべき存在ただ1人に見て貰えることこそが、幸せなのでしょうか、と。
その日、私にひとつのお仕事が入りました。
とは言っても、いちアイドルに対してではなく、古書店の店主からの雑用と言いますか、
要は叔父さんのお店のお手伝いです。
アイドルになる前は、…いえ、アイドルとしてデビューしてからも、
何かとお世話になっている叔父さんですから、断る理由はありません。
加えて言えば、そのお仕事は『叔父さんが所有する物置から本を運び出すコト』でした。
単純な力仕事だけでなく、踏み台を用いての高所作業も必要になってくるものです。
運動神経のよろしくない私ですが、それでも歳を召した叔父さんよりは動ける自負があり、
ゆえに叔父さんにさせてしまうわけにはいかないお仕事。
幸いにも急ぎではないとのことで、それならば次のオフの日にでもと考えながら、
プロデューサーさんに念のためのスケジュール確認を行いました。
そうして。
オフに何かあるのかと尋ねられ、正直に答えたところ、
偶然にも同じ日にオフだったプロデューサーさんも、私と同行する運びとなったのです。
当日。
運転するプロデューサーさんのお隣、助手席にて私が道案内しながらの道中です。
何度か通うことのあった道ですが、基本的に徒歩か自転車での移動でしたので、
助手席からという景色は新鮮なものでした。
ただ、私がこうしてほんの少しの戸惑いと興奮を覚えてしまうのは、
助手席からの眺めという初めての景色が原因だけでは、きっとありません。
プロデューサーさんがハンドルを切ると、車体は左へと曲がり、
あとは直進するだけ、という区間に入りました。
私はそれを伝えながら、なるべくさりげなく、運転席の方へと顔を向けます。
特筆すべき存在が、しかし特筆することもなく、
普段の通りに前を向いてハンドルを握っています。
ただ、それだけ。
隣り合わせで居られるそれだけのことを、心の内で喜んでしまい、
…頬が緩んでしまう前に、私も彼と同じく視線を進行方向へと戻しました。
アイドルとそのプロデューサーという関係でありながら、
それとは別の感情を抱いてしまうこと。
それすなわち、応援してくださるファンの方々も、
直接のスカウトをしてくれたプロデューサーさんをも、裏切ってしまうことになる。
充分に理解しています。
…している、つもりです。
ゆえに、こうして必要以上に進んでしまう前に、
そう、開いた本をぱたんと閉じてしまうようにして、何事もなかった風を装うのです。
彼を裏切ることも、…そのせいで嫌われてしまうことも、
きっと私には耐えられそうにありません。
もし本当に裏切るつもりなら、
御洒落なストールひとつでも引っ提げて着飾った姿を見せるものだ、
などと誰ともなしに予防線を張って弁明を考えていると、ちょうど目的地が見えてきました。
トンネルを抜けると雪国であった。
という文を引用したくなるほど、物置の中は敷居を境目に、
現実と切り離された空間のように感じました。
積もりに積もっていた埃が風を受けて舞い上がり、
雪の降るような速さでまた降り積もっていきます。
ともすれば、お昼前の日差しを浴びてキラキラと浮き踊る様は、
さながらダイヤモンドダストでしょうか。
などと、ただのダストでしかないそれが舞う様子に、不覚にも想わず魅入ってしまいました。
…時間は大丈夫なのかとプロデューサーさんに声をかけられるまで。
咄嗟に言葉を返したときには、彼は既に簡素なマスクを装着し、物置に入らんとしていました。
その行動の速さと問答声の抑揚に、…よもや、積もった埃を見て私が尻込みした、
そう思われてしまったのではないかと、場違いな不安がよぎります。
こんなことで足を止めてしまう、本が関係していながら汚れを嫌がる程度の私であると、
…ともすれば、嫌われてしまったのでしょうかと、転がり出した不安は雪だるま式に肥大化していきます。
では早速とりかかりましょうかと、せめて平静を装いながら、彼と同じマスクで口元を覆い、
早足で敷居を跨いでその背を追いかけました。
広さはそれほどでもありません。
私が両の手を広げれば、たちまち棚壁を手のひらでぺたぺたできます。
私はふと、大学へ入学する際に案内してもらった寮を想い出しました。
ドアを開けた先、ヒト1人が擦れ違えるほどの通路があって、
その両脇に2段ベッドが鎮座していた共同部屋。
あのベッドの高さを調節して、本を並べ重ね詰め込めば、ちょうどこの物置のようになるのでしょうか。
と、結局は案内だけで終わった部屋に今更ながらの想いを馳せて。
…入学前のさほど大事でもないことをこうして想い出してしまうのは、
この物置に入る久しさが想い出となって、記憶同士が芋蔓式に結びついたからでしょうか。
しかし、プロデューサーさんを邪魔者と扱うわけではないのですが、
やはりこの狭さでは頭数が増えても非効率的な作業になりそうです。
叔父さんいわく、物置が建てられた当時はこの辺りに凄腕のカギ破りが居たようで、
中身の持ち出しを迅速に行わせないよう、狭く建てるのが主流だったとか。
高さを求めたのも、狭くなる分の収容量を頭上に確保するためではなく、
狭所でハシゴを要させることで効率を落とす目的があったようです。
実際にどれほど防犯効果があったのか定かではありませんが、それでも、
こうして時代を超えて機能するとは、ともすれば誰も想像もしていなかったでしょう。
加えて、棚壁にも収まり切らない本たちが、新聞紙を引いた床に積み重なっています。
私の腰を越えるまでに積み上がった背表紙が、数えられるだけで6列ほど。
数百は下らない文字通り本の山が、奥への道を更に狭めながら、そこにそびえていました。
以前は平地だったハズで、更には棚壁にも空きはあったハズですが、
…まあそこは、叔父さんだから仕方ない、と同じく本の虫として誰ともなしに庇っておきます。
さて、目的の本は『弐』の棚にあると聞いています。
手前の足下ではなく奥部の頭上。
私は山を迂回して奥へと踏み入りました。
埃に塗れながらも棚分類の字札はしっかり読める状態です。
そうでなくとも幾度となく行った運び出しですから、どの位置がどの棚かは、
久方ぶりの今日でなお身体が覚えていました。
奥の右側、目的の本がある『弐』の棚を見上げます。
並べ仕舞った本の上に、寝かせ寝かせで更に積み重なる本。
奥行を考えれば、同じ様な収納であと2列はありそうです。
まずはそこに届く手段を用意しなければ。
最奥にあった踏み台をよいしょと持ち上げて、『弐』の棚の前へ。
目的は本の持ち出しであって掃除ではありませんから、
積もった埃をそのままに、踏み固めながらひょいひょいと段を登る私を、
プロデューサーさんが見守っていてくれます。
車で移動しているときからずっと、台に乗って本を取る行為を心配してくれたのですが、
慣れているから任せて欲しいと願い出て、最終的に私が押し通すカタチで今に至ります。
5段目に足をかけると、ちょうど眼の前に棚の『弐』の字札がありました。
もう1段と登って本の列と対面し、しかしながら背表紙の文字は読めません。
塗れた埃に文字が隠されてしまっていましたから。
手を伸ばし軽く払うと、まるで箱詰めした本にかけられた緩衝材のように、
固まりを成しながらごっそりとまとまって動いて、背表紙への道が開かれました。
さすがの高所、埃だけでなく、どうやらクモの巣もあったようです。
この分だと巣が放棄されてからかなりの時間が経過していますねと、
主と遭遇しないであろう結果に安堵しながら分析し、そしてもう1度の払い退け。
幾重にも張り巡らされたそれは主なき後も埃を吸着し続け、大きく厚くなっていたようで、
さながら本列を絡め捕る網のようでもあり、棚を境に本を守る守護壁のようでもありました。
改めて背表紙を読みながら確認の作業。
…残念ながら、目的の本は見当たりません。
寝重なる群れも同じで、これが意味することは、すなわち。
次列を確認する必要があり、そのために最前列を取り出さなければならないということです。
下で待つプロデューサーさんに向かって、そっと首を横に振ります。
仕方ないよな、という苦笑いがマスク越しに見えました。
最前列の最上段に君臨していた1冊を、他を道連れに雪崩てしまわないよう気を付けながら引き抜いて、
下で待つプロデューサーさんに手渡します。
それをしっかりと受け取りながら、その表情は心配へと戻ってしまっていました。
確かに私も、眼の前で叔父さんがこの高さでこんな作業をしていたら、
同じ表情でオロオロしていたかも知れません。
得てして世の中、勝手に心配する側が多く重いほど、
心配をかける側にとっては本当に何でもない場合が多いものだと、そう謳ったのは誰であったか。
などと雑念に思考を委ねながら、また1冊。そうして何冊か両の手に積み重ったところで、
プロデューサーさんが口を開きました。
私は見逃していたのですが、どうにも1冊、栞が挟まったままのようでした。
叔父さんが扱うのは古書が主としていて、つまりは誰かの手から渡り移ってくるもので、
栞がそのままというのもよくあることです。
ぴょこんと飛び出たそれをプロデューサーさんがゆっくりと引き抜くと、
すっかり茶色でカサカサになった、かろうじて元植物だったとわかる存在が張り付いた栞が出てきました。
ドライフラワー、…ではなく、経年で朽ち枯れたものでしょう。
日常茶飯事ゆえに、これらは今更に持ち主を探し出して返却などは致しません。
ただ、こちらで預かるという名目で処分するのがほとんどです。
読み手に命じられページ経過を記録し守り続けてきた歴戦の栞であれ、
残念ながらそれは変わらないのです。
最初こそ私もそれを憂い、そんなことをしていたらキリがないよと言う叔父を押し切って、
返却作業を行っていました全ての本の全てのページをめくりながら、忘れられた存在を探して、
本の譲り手など叔父さんから貰ったリストを参照に、休日を訪ね歩きに費やして、…そして。
出所のわからない使命感が失速するのに、それほど時間はかかりませんでした。
直接の手渡しによる返却でしたから、どうしても持ち主とお話をすることになりまして、
つまりはその反応を直に見ることとなるのです。
続けるうちに私は気付いてしまいました。
探し物が見つかったと喜ぶ姿より、そんなものもあったねと面倒さを前面に出すヒトや、
もう要らないからと処分を任せるヒトの方が、圧倒的に多いことに。
忘れてしまえる不要なものは、誰からも求められていないというもので、
ゆえに帰還を喜んで貰えるものでは決してなくて。
そうした『拒絶』から、嫌われていく姿を見ることのないように、眼を背けるようになったのです。
私にとって大切だからと、いつしか栞に自身を重ねてしまうほどに思い入れをしていたがため、
それを否定されてしまうようにも感じて、…ともすれば、自身さえ嫌われてしまうように思えたのでしょう。
そういえば、嫌われてしまうくらいならばと他者と距離を置くようになったのは、
今にして思えば同じ頃だったような気がします。
と思い返していて、ここでようやく、完全に作業の手が止まっていて、
プロデューサーさんをお待たせしてしまっていることに気付きました。
優しい方ですから、…入口の時と違って、私の話を遮らないよう黙ったままでいてくれたのでしょう。
ともあれ急いでフォローしなければと、ひといき吐く風を装いながら眼の前の1冊を取り、言葉を続けます。
今でこそこんな風に冷静に思い返して分析できている私ですが、
こうしてアイドルという誰かに見られる状況でなければ、きっと仕舞い込んだままだったでしょう。
ファンタジーな世界に救いを求めて逃げ込むように、ともすれば本を途中で閉じるように、
とせめてアイドルらしくデビューで歌った歌詞をもじりながら。
もっとも、弁明目的だけの空言というわけでもないのですが。
そうして話をしながら作業が進んで、ふと、栞についての話題に戻ってきました。
さきほどと同じ失敗をしないためにも、今度は楽しい話にできるようにしっかりと内容を選んで。
栞1つとっても個性が出るもので、
中には読む本の装丁に合わせて1冊毎に用意する人も居るとウワサを耳にしたことがあります。
使い易さを主に考え、引き抜いたり持ち易くするためにリボンを少し結んだり、
本を開く邪魔をしないよう薄い紙を使用したり、
あるいはページに挟むのではなくページをクリップのように挟むカタチのもあるようで、
私も趣味でいくつか作成してみているのですが、ひとつひとつにお話を託すようで、
なかなかに深みを感じるものであります。
どうせなら、これを、口実に、…プロデューサーさんと。
私の中の悪い自分が、そんなことを囁きました。
いつもであれば何を出過ぎた真似をと即座に踏み止まってきた私ですが、
栞というちょうど私の趣味であることと、何より2人きりというこの状況が、
これくらいなら良いだろうと判断を鈍らせたのでしょうか。
栞を、せっかくですから押しバナでもしてみませんかと卑しくも提案する私でしたが、それゆえに。
本に栞を挟むのは、好きじゃない。
という、プロデューサーさんの返事を理解するのに、少しの時間を要しました。
私の困惑に気付いたのか、言葉を選び選びで優しく続けます。
栞を挟んでしまうと、挟んだページに開き癖がついてしまうから、可能であれば使いたくない。
厚く大きな本には栞紐がついているものもありますが、それも同じだと語ります。
では途中で本から眼を離すときはというと、ページの数字を覚えるのだそうで、
そういえば事務所で読書する姿をよく見るプロデューサーさんですが、
栞を使っているところも、付箋の類も見たことがないと気付きました。
そこから連鎖して想い出される光景。
以前に事務所で誰かがページを開いたまま逆さにして置いている雑誌を見つけたとき、
彼は無言で持ち上げて本棚へと戻していましたが、あのときに感じたぴりりとした空気は、
本を片付けなかったことにではなく開き癖がついてしまうことへの憤りだったのでしょうか。
折れ目も開きグセも無く、本はキレイに保ちたいんだ、とプロデューサーさんは苦笑いして、
それを締めにするようにそれきり沈黙が場を包みました。
だって、そうでしょう。こんな状態で、何を話せば良いというのでしょうか。
プロデューサーさんの言い分もまた理解できてしまうだけに否定できません。
何をもってして傷みとみるかは人それぞれで、ぴたりと分ける線引きなど存在しないのです。
そんな曖昧ながら、いわゆる決して超えてはいけない線というものは確かに存在し、
それはお互いのために不可侵を守らねばならない防衛線。
弁明と言いますか、栞について語ることは多少なりともできる私ですが、
童話で旅人の服を脱がそうと寒風を吹きつけるように、かえって逆効果になることが多いもので、
仮に説き伏せられたとして手放しで喜んでよいものかわからず、
結局は誰の得にもならない結果となるのは明白です。
踏み越える勇気も理由も、私にはありません。栞をつくることも、
それを用いることにもささやかながら幸せを感じていた私ですが、それでも。
プロデューサーさんに、ともすれば嫌われてまで必要なことかと問われれば、…否であると、
卑しくも即答するでしょう。
と、ここで気付いてしまいます。
事務所でも読書する機会が多い私ですので、栞を用いる機会も同じくらいあり、
ともすれば私はプロデューサーさんの嫌いなことを見せつけてしまっていたのでしょうか。
読む本は事務所名義のでなく私の持ち物だからと見逃して貰えていた可能性が、
既に私は嫌われてしまっていて…でもそれならば
こうしてオフに付き合ってくれて2人きりになる提案をしないハズ、
…否、私は叔父さんの本を持ち出すことも伝えましたから、
これ以上に本が被害にあわないよう監視するために着いてきて、
…と、雑念で思考も動作も曇り切ったまま作業を続けてしまったせいで。
手にした本の重みが、まるで奈落へと引き摺り堕とすように作用し、
ぐらりと歪む視界と、そこに続く浮遊感。
…踏み台から、おちる。
こうした瞬間にヒトは走馬灯をみたり知覚映像がスローモーションになるとよく言われますが、
私には何も見えず、ただ、やはりアイドルらしからぬ卑しさを思考に抱いてしまった罰なのでしょうか
と諦観するだけで、だからこそ。
きっと私を助けようと動いたプロデューサーさんの声が下から聴こえて、
このまま甘んじて身を任せれば大きなケガを負ってしまうとやっと気付いて、
しかし、足掻くにはもう遅いほどに私の体は投げ出されていて。
そういえばこの方向には本の山があって、クッション代わりになってくれれば大したケガもなく済んで、
…そうなってしまえば下敷きになった本が傷んでプロデューサーさんに嫌われてしまって、それで、それで。
そこまで走った思考が、どすんと落ちた衝撃に断ち斬られました。
続いて、山を崩しながら倒れ込む感覚と、どさりばさりと音を立てて崩れる本の音。
浮遊感から重力のもとに落とし戻された全身を、ぞわり、びりりと寒気が駆け巡りました。
こうした悪寒は身体に異変がないか調べる反射機能で、
電磁波とその跳ね返りと可視化する魚群探知機のようなものだ、と説明されていた一説を想い出しながら、
改めて反応を脳内で文字に起こしながら整理します。
…幸いにも、痛む箇所はありません。
しかしながら、何か引っ掛かります。
落下の瞬間、それから全身への衝撃。ケガを負ってなさそうなのは良いのですが、
拭えない違和感に、背中からお尻にかけてむずむずする感覚が走って、…そのとき、ふと気付きました。
お尻から伝わってくる、本とは全くもって異なる感触。
硬くはなく、厚い装丁の本ではなく、かと言って柔らか過ぎず。
ということは、開かれた本のページを押し広げるように座っている状態で、
そうであれば、本を、ページを折り開いてしまっているということで、
…いえ、その割には何やら紙らしからぬ温かさがあります。
などとお尻に神経を集中させていると、そこから声が聴こえてきて、そして。
そのときにやっと、私の眼の前に投げ出された、スーツ姿の下半身が見えました。
わたし、ぷろでゅーさーさんを、したじきに、してしまった。
瞬時にそう理解しました。
崩れた本の山という不安定な足場で、それでも隙間の床を探して、私は大急ぎで立ち上がります。
振り返った先には、崩れた山と、そこに埋もれるプロデューサーさんの姿。両の眼を強く閉じ、
歯を喰いしばって、…その鼻から激しく血を吹き出しながら。
よりによって、よりによって、私は彼の顔を押し潰すように落下してしまったのだと、
その痛ましさが語っていました。
先ほどまで顔を隠していたマスクも、私が圧し掛かったときか立ち上がるときか、
引き剥がしてしまっていたようです。
その代わりと言わんばかりに、どさりと1冊が顔に覆いかぶさって、
それをプロデューサーさんが払い除けました。
僅か数瞬の接触で血を吸った本が、そのページを見せ付けるように私の足元へ雪崩てきて。
折れ目も開きグセも無く、本はキレイに保ちたいんだ。
先程の言葉が、私の眼裏に文字となって流れます。
このままではプロデューサーさんを、彼の嫌いな、本を汚し傷める存在にしてしまう。
なれば、私はここで静観するわけにはいきません。
今なお血を流すプロデューサーさんを、まずは本のない場所へ移さなければ、
その前にまずは一旦ハンカチで出血源を塞がなければ。
上着のポケットを探りながら1歩を踏み出したその瞬間、
プロデューサーさんが激しく咳き込みました。
同時に細かな血の粒が飛び、辺りの本へ点々と飛沫ます。
…埃。
山に積もっていた埃が一斉に舞い、横たわるプロデューサーさんなどおかまいなしに降り戻った結果です。
掃除の手間を惜しんだツケが、よもや、こんなカタチで追い打ちにくるなんて。
ますますもって急がねばなりませんが、この分ではハンカチ1つではとても足りません。
これでマスクが残っていれば出血も埃も止められるのに、と無い物を望んでも仕方ないのです。
私はプロデューサーさんに覆い被さりながら、その両腋に手を差し込みました。
いわゆる羽交い絞めというものを、向かい合ったカタチでかける状態。
そのまま抱き起しながら、出血に呻く彼の顔を、私の胸部で受け止めます。
むにゅりと柔らかく歪んで、ずぶりずぶりと沈み包む感触と、少し遅れて生暖かく濡れ張り付く感覚。
ともかく、これで…と安心しようとした矢先、なおもプロデューサーさんは咳き込み、
それに合わせてなおも血が飛散しました。
私は両の手を彼の腋から抜き、その頭を抱きかかえるように手をまわします。
なるべく鼻を痛めないよう、ぐにぐにと押し付けるように谷底へ誘導。
しかし、残念ながらそれでも変わらず。
咳き込みに合わせて血が飛沫いてしまって。
彼に見出してもらうまでこの大きさに自覚も意識もなかった私ですが、
お仕事を通じてだんだんと実感してきて、…それでも、顔の1つくらい悠々と包めるだろうという考えは、
まだまだ未熟者の自惚れだったのだと突きつけられました。
いつものようにストールがあればその補助ができたのですが、生憎と今日は置いてきてしまっています。
余計な言い訳のために御洒落を拒絶し着飾ってこなかったことが裏目となりました。
更には、立ち上がったは良いものの、
立ったままで居るのが辛そうにプロデューサーさんが膝を折りながらもたれかかってきます。
確かに私も、遥か上から落下してきた本を顔面で受け止めたことがあり、あのときは眼を開けても何も見えず、
手足にも力が入らない状態で、であれば、今のプロデューサーさんも、きっと、同じ。
このままでは私が支え切れず共倒れて、彼に、本に血を散らせて汚させてしまう。
何か無いかと考え、…そして、気付きました。
あるのです。
彼を埃から守れて、血飛沫から本を守れる、谷底でもなければストールでもない、そんな理想の聖域が。
迷っている時間はありません。
私は頭を抱き留めたまま、プロデューサーさんと一緒に座り込みます。
床にお尻をつけると、私は後ずさりしました。
せめて少しでも守ろうと、顔を密着させたまま。
胸からお腹へずりずりと感触が移り、そして。
聖域の眼の前までやってきました。
両の膝を立てながら左右に開き、スカートの裾を引っ張ります。
そうして少しの後ずさりして位置を調整。
そのまま開いていた両の膝を閉じて、彼の顔を挟み込むように固定し、
本来あるべきようスカートを戻しました。
これで、良い。
ここでなら、埃の舞うここから隔離できて、かつ、飛沫が本にまで届かない。
ストールを置いてきたことは残念でしたが、丈の長いスカートを選んだのは、結果論ですが正解でした。
スカートの中からくぐもった咳き込みが聴こえます。
恐らくまだ口内や気管に埃が残っているのでしょう。
呼吸を確保し、流血で苦しくならないよう、脚を閉じる加減に気を付けながら、
スカート越しに彼の後頭部へと手を添えて再度の位置調整。
いつもの薄手ならともかく、今日はありすちゃんとお揃いのです。
血といえど液体、なれば、面積も吸水性も優れているとありすちゃん直々のお墨付きですから、
これも、結果論ながらベストな選択だったと言えるでしょう。
そんなことを考えていると、ぬらり、ぬちょりと染み広がる生ぬるさ。
止まらない出血に痛手の深さを想うとともに、濡れ広がる感覚と温度に、
…まるで粗相をしてしまったように感じてしまって、
ぞくりと背中を駆ける気恥ずかしさに、たまらず少し身震いしました。
ふと、ひとつの実験を想い出します。
目隠しをした被験者の身体に刺激を与え、その箇所にぬるま湯をかけ続けると
『そこを傷付けられ出血している』と脳が誤認してしまい、
そのまま続けるとショック症状を引き起こすというもの。
近年ではそうした誤認を利用し、排することが困難な身体への感覚を呼び覚ます刺激に転用できないか研究が進んでいるようで、こうして私の意思でスカートに招いて、私の意思で顔を押さえ込んでいなければ、私の意思とは関係なく、刺激により促されて抑え込んだ顔を汚してしまうことになって、いえ、そうなればもしや血を洗い流せそうでむしろ良い結果に繋がるのではないか、などと考えは彼の咳き込みとその振動に遮られてしまい、思わずぎゅぅっと必要以上に脚を締め閉じてしまって、…ああ、ああ、安心と静けさにようやく現状の理解が追い付いてきました。
頭が冴えてしまうほど蒼ざめるように血の気が引いて、まるでその熱を移動させたようにスカートの奥が熱くなってしまって、そのハズなのに今度は頬が風邪でもひいたようにひりひり熱くなり、連動するようにスカート奥も熱を帯びて、そこは紛れもなく私の大事な部分であり、そんなところへ彼の顔をぎゅうぎゅうと密着させて、ここまで血に濡れたらきっともう履けないでしょうから、ありすちゃんにごめんなさいしなければいけない事象、いえ、いっそむしろ全体を染めてしまえば彼女の愛するイチゴのように、否、否、それではやはりお揃いではなくなってしまうので、それならばありすちゃんも彼をスカートにお招きすれば解決するのではないでしょうか。
ああ、そもそもが彼の顔に落下したことが原因で、殿方の尊顔に股尻を乗せる女性はやはりお嫌いですか、私は嫌われてしまってアイドルも続けられない流血沙汰で、ああ、それならばいっそいま、もっと貴方が血を流す以上に私が催し排して洗い汚しておくべきなのでしょうか。
めくるめく想い出が走馬灯として領空侵犯してくるように、次から次へと浮かんでは消えるカタチにならない思考、
それにブレーキをかけたのは、私の足を軽く叩く感覚でした。
私は視線を落とします。
とは言っても、いまこんな事をするのはプロデューサーさんくらいで、
視界に映ったのはやはり彼が絶え絶えに伸ばした腕で、
まるで絞め技をかけられて降参のタップをするプロレスラーのように、優しく力なく再びぽふぽふと。
気付けば尻下まで伝っていた温もりは消し冷えていて、
触れている源泉箇所から既に温もりの提供が途絶えているようで、つまりはもう鼻血は止まって居て、
そういえばいつの間にか咳き込みも聴こえなくなっていることにも気が付いて、
それはもはやプロデューサーさんの顔を締め付けることもスカートで囲う必要もなくなったということです。
私は慌てて脚を左右に開きました。
同時にぬちゃりと水音ひとつ、締め付けから解放されたプロデューサーさんが顔を上げます。
それを邪魔してしまわないようスカートの裾を掴んで。するりと引き上がるスカートの中から、
真っ赤に染まった顔のプロデューサーさんが出てきました。
やはり血は既に止まっていたようで、けれども茫然と手で鼻を押さえましたので、
今度こそハンカチを差し出します。
ハンカチは汚れをキレイにするためのモノで、汚さずにとっておくモノではありません。
以前に読んだお話で主人公の血を拭ったヒロインをこんな状況でつい気取ってみたのは、
私が冷静さを取り戻したからか、それとも逆に何か壊れてしまったのか。
と、差し出しながら、プロデューサーさんの視線が私とその足元とを交互に見ていることに気付き、
…ようやく、脚を開いてスカートがべろりとめくれていることを想い出しました。
不思議なことに、今の今までもっと至近距離に顔があって、むしろ強く強く触れていたにも関わらず、
こうして丸見えポーズの方が恥じらいを呼び起こすのです。
お見苦しいところをと脚を閉じながら言うと、プロデューサーさんも気付いたようで、
どことなしに視線を横へと向けました。
と同時に、いつの間にか私も絶え絶えの荒い息を吐いていたことに気付いて、そして。
また同時に、…私は笑みを浮かべていたことに、気付いてしまいました。
叔父さんには事情を説明し、急ぎではないからとのことで運び出しは後日に私だけで行いました。
心配だった血の汚れも問題なかったようです。
というのも、ほとんどが厚く積もった埃に吸着されていましたから。
飛沫咳の原因が、飛散血から守る役目も果たすとは、何たる皮肉でしょうか。
そんな血埃を払いながら1冊1冊を拾い重ねていきます。
また開かれたり逆さまになっているのもなく、幸いにも本は無事でした。
これでプロデューサーさんにも報告ができる、と安堵の溜息は、しかし1冊に塞がれてしまいます。
その1冊を拾い上げ、埃に塗れながらもしつこく繋がり揺れるクモの巣を払いながら表紙をめくると、
当然のような顔をして、ぱたんと音を立ててページが開きました。
あのとき私が立ち上がった後、プロデューサーさんの顔を覆ったこの1冊。
埃守護の届かない内ページへ晒し触れたために、痛くも痕を残すことになりました。
今回の目的のものではなく、いつ買い手が現れるかわからない本で、
そのうえ血を吸ったページがあるとくれば、その扱いは言わずもがな。
このまま寝かせていても場所を取るだけで値段ももはや付けられないからと
叔父さんは譲ろうと提案してくれたのですが、
そうなった原因はどうあれ売りモノにならなくしたのは私だからと問答を重ねて、
今日やっと私が押し切るカタチで買い取って自室へ持ち帰ったところです。
あれからしばらく経ちます。
今日もお仕事で一緒だったのですが、プロデューサーさんは、今日も私と眼を合わせてくれませんでした。
とはいえ、それが表す意味を理解できない私ではありません。
確かに以前のままの私では、気付けなかったことでしょう。
骨折の類はなくて、それでも治療費は受け取ってくれなくて、逆にクリーニング代を受け取らされてしまって。
そう、以前のままの私なら、嫌いになった私への手切れ金かと蒼ざめ、
顔色を見ながら本の世界に隠れていたことでしょう。
ですが、今は違います。
アイドルとしての経験で、見て貰えないことへの余裕と、…見られた視線の意味が、
わかるようになっていましたから。
その事象を、直視した今は。
プロデューサーさんと眼はあいませんが、その視線を追うと、
ちらりちらりと、私の、…下半身へと注がれていました。
事務所の資料室、という名目の、もはや仮眠で使われるばかりの畳部屋。
私はそこに腰を下ろし、両の膝を立てて座り、彼を待っていました。
彼の視線が意味する答え。
ともすれば自惚れめいた考えに、それでも確信を感じて。そうして今日、私は行動に起こして。
がちゃり。
扉が開かれ、彼の顔を確認した瞬間、私は。
…やはり自惚れではなかったとの確信と、これから行われることへの想像に、
口の両端がゆっくりと吊り上がっていくのを感じました。
部屋へと入り、後ろ手に扉を閉めた彼が、そのまま微動だにせずに私を見て。
瞬間、本当に、…本当に、久しぶりに眼があいました。
ああ、ああ、私のために、私のメッセージを読み解き、私を見てくれた。
いわゆる推理小説で、探偵に追い詰められた怪盗も、もしかしたらこんな昂揚感を抱くものかも知れません。
彼が私の名を呼びます。
呼びつつも微動だにしないのは、恐らく、ここに至った答えに彼が確信を持てないから。
本当にそれが正しいのか、間違っていた場合の返上できない失態が怖いから、でしょう。
手に取るようにわかってしまうのは、ともすれば今の彼が以前の私にどこか似ているからか、それとも。
ただ、今の私が考えるべきはそれでなく、するべきは。
名を呼んで貰ったことへの返事をしながら、立てた両の膝裏に挟んでいたスカートの裾を、そっと解放しました。
風通しを感じるとともに、彼が息を呑んで眼を逸らしたことで、『見て貰えた』ことを感じます。
あと、一押し。
平静を装って、彼に語りかけます。以前のように、そっと、そっと。
せっかくですから押しバナでもしてみませんか、と。
そう、私がしたことは、彼の本に栞を挟んだ、ただそれだけ。
紅く朱い紙を重ね、開きグセを付けてしまわないようになるべく薄さを保ち、
それでいて丈夫さも求めた、欲望をこれでもかと詰め込んだ栞。
その栞に、誰が所有するのかすぐわかるよう、彼の名を書き記して。
そしてそのとき、彼の机に置いてあったのは雑誌見本でした。
つい先日、ちょうどお仕事で撮影した私の写真が掲載されていたもので、
その見開きで私が居るページに、栞を。
その意図を、それが意味するところを、読み取ってくれたようです。
語りかけから数瞬。
かちゃりとカギをかける小さな音を背に、彼は靴を脱いで私の方へ近付いてきました。
それを私は、少しずつ両の膝を開きながら迎えます。
彼の視線は、もはや逸らされることなく私を凝視していました。
私はするりするりと靴下が畳を滑る音に耳を傾けながら。
スカートの裾をそっとつまみ上げると、やっと、意を決したようにプロデューサーさんがしゃがんで、
座って、それを通り越して寝転がるように、…顔を、差し入れてきました。
震える呼吸と、それでも離せない視線を感じて、
壁を背にしていなければきっと仰け反り達していたと確信するほど、
ぞくぞくぞわりと痺れが駆け巡ります。
ですが、まだ。
まだ、見て貰っているだけです。
大丈夫ですよと彼の頭をなでなでしながら、私の方へと少し力を込めると、
それに合わせて彼が近付いてきて。
むにゅりと、脚の間に顔を埋め入れてきました。
恐る恐る触れる感覚から、奥へ奥へと挟まれ進む鼻の感触に、狂おしいほどの甘美に全身が痺れます。
そのまま私は世界から遮断するようにスカートの裾を彼にかけました。
すっぽりと覆ったスカート越しに彼の後頭部を探り当て、
よしよしと撫でながら更に引き摺り込むように押さえつけました。
彼の鼻が私の隙間にずぶりと挟まるように、優しく、キツく、ぎゅっと。
彼の呼吸に合わせて伝わる温もりが、こんなにも近くで感じられて。
ここに、彼の、顔がある。
その興奮と幸せを感じながら、私は脚を閉じ、彼の頭を挟み込みました。
この感覚を、しっかりと刻み込むように、ぎゅっと、ぎゅぅぅっと、もっと。
運命の赤い糸と言う表現があります。
言われは諸説ありますが、興味深いものが1つ。
いわく、嫁ぎたての嫁を安心させるために旦那が用いた方便だったというものです。
かつて、現代日本で考えれば年端もいかぬ娘を、当人を置き去りに家同士だけで決めて嫁がせていた時代。
知らぬ天井を見ながら、知らぬ男に抱かれ、知らぬ感覚に震える娘。
初夜の床でその娘から引き抜く際に、破瓜の血と互いの粘液が混ざったものが線を引く。
身体の繋がりが離れることを惜しむかのようにかかる粘液の赤橋を、運命や天啓の類に見立てて、
今こうして愛し合ったことで可視化した、最初からこうなるよう決まっていたのだと説いた、という考察です。
であれば。
あの日、私を汚したのは、彼の血ばかりではありません。
男女どちらの、どこから漏れ出でた血かの違いはあれど、血と粘液で具現化するものであるならば、
あの日、私は運命の赤い糸が、繋がれたことを確認しているのです。
彼が、私のスカートから顔を出した、あのときに。
こうして彼の鼻を挟み続ければ、また鼻血を誘発して、
そうすればあのときのように、赤い糸がそこに現れるのでしょうか。
などと想いながら、閉じる脚に力を込めて。
あれから何度やっても私1人では赤くならない糸の再びの出現を、こんなにも心待ちにしてしまいます。
ぎゅうぎゅうと挟まれた彼の感触を感じながら、ふと、かつての本のことが脳裏をよぎりました。
叔父さんから買い取った、売りモノにならない本。
持ち帰った私は、あの本を手に机に向かいました。
表紙と背表紙を両の手でそれぞれ持てば、自然と開く、彼の血を内包した箇所。
べっとりと張り付いたページ同士が、少しも揺らがずにくっついていました。
手を表紙からページ同士へと移し、そして。血着された箇所が破れ剥がれるのも構わず、
…否、どこかそうなるよう願いながら、左右へ引き開けました。
べりりばりりと音を立てて、開いたそこにクセがつくのもお構いなしに。
そして、ページから分離した薄紙がまだ血で互いにくっついているのを、爪を立てて引き剥ぎ、
もとい、削り落として、そうして。
彼には決して見せられないような惨状が、広がり散らかるに至りました。
よほどのことがなければ、ただくっついたページを開くようにしたという、
ともすれば正義の行いに映るでしょう。
裂き剥がれた紙屑を必要悪と棄てて。
しかし、彼にとってそれはきっと通用しないでしょう。
それがわかっているから、見せるわけには、いかない。
不可抗力とはいえ、血塗れで本を台無しにするという、眼を背けたい行為に関わってしまった彼です。
恐らく、本の行方こそ訊ねど、実物をもってして無事を確認したいとは言い出さないでしょう。
ゆえに、私が引き取ったことと本文も無事に読めるということだけ伝えて安心してもらうのが、
きっと、誰にとっても1番です。
机に散らばる赤い紙片をまとめて棄て、その本を寝かせて置き去りにしながら。
そういえば、開いたページの本文どころか、本の題さえどんなものであったか想い出せないことに気付いて、
しかしそのまま席を立ちました。
せっかくの彼とのお仕事に遅れてはいけませんでしたから。
彼の吐息が激しくなっていくのを感じます。
呼吸や姿勢に苦しんでいるのではありません。
そうであれば、こんなに熱を帯びたりはしないハズですし、
うつぶせに寝転んだまま腰だけをずりずりと動かすなんてしないでしょう。
さながら洞窟に逃げ込んだ冒険者を仕留めようと、入口からドラゴンが焔を吐くように、
彼の吐熱が私の内を灼き尽くさんと渦巻いて。
ともすれば入口をも壊さんとする勢いで何度も何度も体当たりを繰り返します。
実際はそう動いていなくとも、それほどの衝撃になって私を駆け巡って、また吐息を吹き込んで。
いつしか洞窟の水源を掘り当て、しかし熱泉にも怯まずに責め続けるのです。
どうして、…どうして、こんなにも求めて貰えることに、見て貰えることに、歓喜してしまうのでしょうか。
拒む理由も何もない私は、ついには彼の頭を両の手でがしりと掴み、閉じていた脚をがばりと開き、
狂えるほどにむぎゅうと押し付け、そして、そして。
彼の顔に、粗相を排してしまいました。
ともすれば、汚してしまいたいと願ったそのままに。
ぐじゅぐじゅする座布団の感触が冷たさを伴い始めました。
…どれほど経ったでしょうか。溢れるほどの熱を感情のままに吐き出して、少し落ち着きを取り戻します。
絶え絶えの息で、笑みを浮かべている。そこまでは自分でもわかっていたのですが、
よもやだらしなくヨダレで襟元を濡らしているとは、このときやっと気付きました。
…こんなだらしのない顔を見られるわけにはいきません。
彼の頭から手を引き剥がしながら口元を拭っていると、
同じく荒い呼気をそのままに彼がスカートから顔を出しました。
べたりぬるりと張り付く水汚れをそのままに。
そうして。
その下に、何か憑物が落ちたかのような晴れ晴れした笑みを携えて。
私と眼があって、それでも笑んだままで、…思わずつられて私もまた笑み返しました。
と同時に。その顔の向こう、さきほどまで小刻みに動いていた彼の腰が、
中途半端に浮かされたままになっているのが見えました。
ヨダレを拭ったそのままに、彼の頬を抱えるように、両の手を差し伸ばして。
ぺちょりと、ねばつく濡れ音。彼の顔を汚した、私の。
手を離し引くと指という指から、否、指の間にさえ、
場所を選ばずに薄白く濁った透明の橋がいくつもかかりました。
それらは水滴を伴い重力に引かれて、ゆっくりと落ち消えていきます。
私は再び彼の顔に触れ、また橋がかかって、粘ついて。
ともすれば真新しいクモの巣が張られ、彼を絡み取ったようにも見えて、
それをただじっと動かずに笑んだままで居てくれることが、…たまらなく幸せで。
嫌われてしまうことの恐怖が先立ってしまっていた私を、赤い糸が橋渡しをしてくれて、
きっとここまで渡って来られたのです。
私だけでは、赤い糸は生み出せませんでした。
今のように、濁っただけの糸。
しかし今日は違います。
今日は確かに、その糸が彼との間にかかった、ねちゃりと引く糸が彼と私を結び付けてくれたのですから。
それが、こんなにも、こんなにも確かめられたことに、深い安堵を覚えました。
自身が果たして何者なのかさえあやふやになるほどわからなくなった私ですが、
もしも私がどうしようもなくヒトであり、綴る人生を本に例えられるとするならば。
それを誰に読み進めてもらうのが幸せか。
私には、1つ、答えが見つかった気がします。
アイドルの本としてベストセラーを狙えるかはわかりませんが、それでも。
見て貰える幸せなんて、きっと、その作者にしか書き足せません。
考えれば考えるほど、ベストセラーどころか発禁焚書に刑されるやもしれませんが、
それでも、この書き記しを止められましょうか。
今はまだぬるりとかかる白濁橋に、いつかはかつてのように、また赤い糸が可視化するよう託して。
もっとも、私と彼との間に確かにかかったものですから、再建はきっと難しいものではありません。
今日のこの橋を大事にと決意と同時に、
彼からは、私と以外はどことも橋がかからずあって欲しいと願ってしまいます。
そうして大事に大事に、赤い糸へと一緒に渡っていきたいと。
それがきっと、私の幸せであり、…そして彼の幸せでもあれば。
そして、いつか、願わくば。進行を記録する栞のように、奥へ奥へと挟み差して、そして。
いつか、願わくば。
プロデューサーさん、貴方の記録をも残せるように、どうか、貴方の。
「本に、命を」
以上となります。
お読みいただきありがとうございました。
こちらは、とあるアンソロジー企画に寄稿させていただいたSSです。
文香にぎゅーっとして貰いたい。
以前に書いたもの
佐久間まゆ「記憶喪失のプロデューサーさん…♪」
佐久間まゆ「記憶喪失のまゆと、一緒に…♪」
白菊ほたる「あなたの『不幸』をプロデュースしますから…!」
白菊ほたる「お互いに『幸せ』をプロデュースしましょうね…!」
高垣楓「ちょっぴりオトナ風味の、…ウミガメ問題を♪」
こちらもお読みいただけると幸いです。
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