モバP「持たざる者と一人前」 (88)

モバマスSSです。 公式設定とはずれた勝手な設定があります。
またP視点に偏重しているのでアイドル成分は薄く、登場も遅いです。
それでも宜しければ、読んでいただけると幸いです。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1564668561

□ ―― □ ―― □


 俺には何にもない。

 それは才能って意味でもそうだったし、財力やら権力やらって意味でもある。お袋と親父には悪いけど取るに足らない一般農家の、取るに足らない一人息子だ。

 当然学校の成績なんかも中の中。ひいき目なしに言えば中の下。運動も出来ないことはないけれど、だからって体育祭とかのクラス対抗戦には名前すら上がらない程度。

 周りの大人たちはたぶん、最低限の期待はしてくれていたと思う。トンビがタカを産んだ可能性だってあるって。だから誰だって期待はする。俺だってするだろう。

 けどまあ、そんな期待はいつの間にか消えていた。当然だよな、何にもないんだもの。それに文句を言うつもりはないけれどね。過度な期待なんて重荷でしかない。

 そうとも、そんなちっぽけな期待でさえ俺にはキツかった。だから意地の悪い奴は俺のことを、何をやっても“半人前”だなんて言った。ありがたかったね、正直なところこれ以上ないピッタリな評価だった。

 だからってこれまでの人生で何かをやる時に手を抜いたつもりはない。少なくとも俺は俺の“一人前”を果たしてきたつもりだった。やれるだけのことはやった。例えそうじゃなかっても今更だ。

 だから俺だけは俺を信じてやれる。俺にはやりたいことがある。アイドルのプロデューサーってものが、俺はやりたいんだ。

 何を一人前にって思うかもね。俺みたいな半人前には無理な夢だって。俺だってそう思う。客観的に見ればその通りだ。

 けど、夢だ。だから諦めない。当然お袋と親父には反対された。それでも俺は曲げなかった。たった一度の人生だ、賭け金としては安いかもしれない。けれどそれでも博打を打ってみたかった。

 『一念岩をも通す』なんてことわざがある。だから俺は想い続けるよ。やる気だけはあるなんて性質の悪い言い分だろうけれど、これが“持たざる者”の“持てるだけ”だから。

「――ねぇ、苦しくないの? 辛くないの?」

 もちろん! 苦しくなんて、辛くなんてあるものか。これまでずっとがむしゃらにやってきたんだ。これからもそうするだろう。

 例えそこに至る道が困難を極め、踏破するだけの才能がなくても。俺だけじゃ無理でも君がいればって可能性を感じたから、声を掛けたんだ。

 俺は今回こそ、岩を通そうとしている。

 どうかな、君はどう思う? 君にとって俺は……どうだろうか?

□ ―― □ ―― □



『うーん、駄目か……。まあそうだろうと思ったけど』

 初夏もすぎもうすぐ夏だと宣言するような日差しが、せせら笑うように俺を襲っていた。昨日の雨のせいか、妙に蒸し暑いのも不快指数を跳ねあげている。

 手に持つ携帯電話――今ではもう絶滅危惧種と化したガラケーのメールアプリに浮かぶ、新着なしの文字。俺は来るはずがない連絡が来るのを待ち続けている。

『アイドルをやりませんか!』

 ここ数日、そうやって声をかけたアイドル候補の女性たちを思い出す。そもそも話を聞いてもらえなかったのが大半で、ナンパかキャッチだと思われてでも話を聞いてもらい、押し付けるように連絡先を書いた無地の名刺を渡したのが二人。

 どちらも迷惑そうに受け取っていたから、新手の詐欺と思われて通報されなかったのが幸運だったと思うべきなのかもしれない。

 俺は額に浮かんだ小さな汗をぬぐうと、ガラケーを閉じてアパートの鉄階段を登り、突き当りの一室、二〇四号室の鍵を開けた。扉の向こうは埃っぽい、1Kの小さな部屋だ。

 高校卒業後、上京してからもう三年以上経つ。夢への道は果てしなく遠い。プロデューサーどころかスタッフにさえなれてもいない。

 最初はシンプルな話だと思った。芸能プロダクションに新入社員として入ってプロデューサーになればいいと。だから履歴書を送った。そのほとんどは無駄に終わったが、中には面接に進めることもあった。

 けれどどこも採用してはくれなかった。俺の夢を告げた時の面接官の言葉は記憶に新しい。

「我々が売るべきものは顧客の夢だ。君の夢ではない」

 ……結局芸能プロダクションへの就職活動は二十連敗を超えたあたりで数えるのをやめた。だから別の道を探すことにした。だったら俺がプロダクションを作ればいいんだ、と。

 限りなく名案だと思った。別に大きなプロダクションである必要はない。俺と、アイドル一人だけのプロダクション。そんなちっぽけなものでも俺の夢は果たせるはずだって。

 だから街中で見かけたこれは、と思う女性に声もかけた。……初めて声をかけた女性の言葉は、昨日のように思い出せる。

「……頭、おかしいんじゃないですか? 無理ですよ、そんなもの」

 当然の回答だった。人脈もコネクションもない。後ろ盾や資金があるわけでもない。実績もなければ手腕があるわけでもない。ないない尽くしの男についていく奴はいない。わかっていたことのはずだ。

 結論として、それは的を射ていた。それから二年間、俺は誰も彼もに振られ続けている。

『……もう一年ない、か』

 上京するとき、お袋と親父に誓った期限がある。それが四年だった。今年中に俺はプロデューサーにならないといけない。もし出来なければ……田舎に帰って家業を継ぐことになるのだろう。

 継げるものがあるだけ恵まれている方だ、なんて思いながら扇風機をつけると、ごろんと部屋に寝転がって天井を見る。

 そしてケータイを取り出し片手で小器用に開いた。型落ちもいいところだがとある理由で買い替えるつもりはない。あと夜勤バイトで食いつないでいる人間にそんな余裕はないってのもある。

 俺はぷちぷちとボタンを押して、一つの動画を呼び出した。それはとあるゲリラライブの映像だった。

 そこに写っているのは一人のアイドルの姿。今から四年前の高校生の頃、修学旅行で来ていた東京の街角で撮った物だ。画質も音質も悪く、時間もほんの数十秒の短いもの。

 この女性が誰かはわからない。たまに誰かに聞いてみたけれど誰も知らなかった。だが――。

『……“アイドル”だよなあ。やっぱり』

 こんな動画よりもずっとずっと、俺の脳裏には彼女の姿も声も鮮明に残っている。とても綺麗だった。もちろん容姿という意味でもある。そして心地の良い声の持ち主だった。だから惹かれたのだとは思う。

 けれどもそれが本質ではなくて、彼女にはどうしようもなく抗えないまぶしさ、説明のできない魅力があった。俺が決して持ち合わせることのないそれ故に、彼女は紛れもなく偶像《アイドル》なのだと思った。

 そうとも、彼女が俺にこの世界を教えてくれた。これが“夢を売る”ということなら、世にアイドルファンがこれほどいる理由もわかるというものだ。

 あれ以来、この彼女が俺にとっての“アイドル”の基準になっている。それは簡潔に言えば、感動というもの。だから俺はアイドルのプロデューサーになりたい、なんていう先の見えない道を選んだ。

 “アイドル”を生み出せる人になりたい。純粋な憧れ、そして目標。そう言った一種の終着点として、夢を見てしまった。

 馬鹿なことだとは承知していた。けど、夢だから。俺は顧客の夢も、俺の夢も満たせる“アイドル”のプロデューサーになりたかったのだから。

『うだうだ考えてないで、もう一回出かけるかな』

 それでもいい加減、何か成果を出したいと思っている。いや、そんなものは三年も前からずっとだ。一応、数少ない人脈を伝って小さなインディーズレーベルと懇意にさせてもらっている……と俺は思っているけれど、それは成果とはとても言えない。

 プロデューサーとしてのいろはさえ知らなかった俺に、ちょっとしたアドバイスをしてくれた人たちというだけだから。ちなみに二回目からは講義料を取られた。その分しっかりとは教えてくれたけれど。

 彼らと働くことは考えた。だが採用してもらえるとは限らないし、採用してもらえたとして、たぶんそれはプロデューサーとしてではない。分不相応と言われようとも、俺はプロデューサーになりたいと思う。

 だがこの三年で俺は俺の夢がいささか無謀だと知りつつあって、でも諦めはしなかった。やる気だけは有り余るほどあるのだ。それが俺の“持てる限り”なのだとすれば、やる気を損なうわけにはいかない。

 ひとしきり休息を取った俺は、やがてリクルートスーツよりかは幾らかモダンでシックなスーツに着替える。二着三万円のたぶん安い部類それは、上京する俺に最後まで反対していたお袋と親父が、それでもと買ってくれた贈り物。

『おーし、じゃあ行きますか!』

 大切なスーツでびしっと決め、そんな風に気合を入れる。ああ、なんだかいいことが起こりそうだ。

□ ―― □ ―― □




『……なーにが“いいことが起こりそう”だよ。やれやれ……災難だな、本当』

 げんなりしていた。原因は簡単だった。ケータイを落としたのだ。

 全く進展を見せないスカウト活動に精を出し、二度ほど変質者として通報しますよ! と脅された帰り道。なんでも新進気鋭のアイドルグループがライブイベントをしていたらしく、通りはかなりの人混みだった。そしてそこを何とか押し通ろうとした。

 俺だって興味がないわけじゃない。伊達でアイドルプロデューサーを目指しているわけじゃない。だから視察……というと偉そうだから見学ということにしておいて、そのライブが行われる場所に行った。

 それが良くなかった。いやあ、凄い人だった。通りの人混みなんて足元にも及ばないほどの人だかりで。おかげでどこの誰がライブをやっているかも分からなかった。遠くから聞こえてきた歌声は、そのほとんどが歓声のせいでかき消された。

(骨折り損のくたびれ儲けだな、これじゃ)

 内心苦笑をしながらその場を離れようとしたのだが、まあ、そう簡単に抜け出せるはずもない。歩行者天国どころか満員電車の車内のような有様。

 そして三十分ほどかけてようやく道の端っこにたどり着いた時に気付いた。ケータイがない、と。

 最初はスられたとも思ったのだけれどあんな型落ちもいいところのケータイ、金を貰ったって欲しがる人はいないだろう。だが俺にとってはかけがえのないケータイだった。あの動画を見れるのは、あのケータイだけなのだから。

(……こんなことなら早々に買い替えておくべきだったかな。ああ、ちくしょう)

 今更悔いても仕方がない。一縷の望みをかけて最寄りの交番へと向かいながら、俺は嘆息する。もっとも、あのデータをどうにかして残しておく術は限られていたと思う。型落ち過ぎて吸い出す手段はないだろう。

 メールに添付するにせよ、サイズが重すぎて――あくまで当時の基準だが対応していない始末。いまならクラウドとか、ファイル共有サイトとか、そういう便利なサービスが仕えたんだろうなと思わずにはいられなかった。

『……届いていると、いいなあ』

 そんな風に思いつつも交番へとやってきた俺は、中のデスクで座っていたお巡りさんに声を掛ける。人の好さそうな、まだ若い人だ。

『あの、すみません。ケータイ落としたんですけど。……届いてないですかね』

「うん? ケータイ? スマートフォンですか」

『ああ、スマホじゃないです。何でしたっけ、ガラケーです』

「なるほど、ガラケー。落としたのはいつ頃ですか?」

『本当についさっきです。一時間も経っていなくて……』

「わかりました、確認をしますのでそちらに座っていてください」

 お巡りさんはそう言って遺失物を管理しているだろう奥の部屋へと消えていく。

(あの様子じゃ多分届いていなさそうだな……)

 そんな風に悲観的に考えつつ、とりあえず傍のパイプ椅子に腰を掛けた。それから三分ほど経つ。お巡りさんはまだ戻ってこない。

『やっぱり駄目そうだな……』

 肩を落とした、その時だった。

「――すみません。落とし物、届けに来たんですけど」

 交番内にそんな声が響いた。妙に耳に残る少女の”凛”とした声。俺はふと、俯いていた顔を交番の入り口へと向ける。

 刹那、びりりと体中に電気が走ったかのような感覚。

 そこにいたのは声の印象に違わない、クールな印象を受ける一人の少女だった。

 黒髪と呼ぶには幾らか茶色がかったロングヘアーが風によってかすかに揺れ、耳たぶにあるピアスが見える。外国の血が入っていないだろうに、その瞳は光の加減か、僅かに碧が含まれているように見えなくもない。

 どこか気だるげな表情は無愛想と評されることもあるだろう。どこかを見ているようで見ていない……とてもつまらなさそうな、そんな目つきの鋭さも相まって、キツめの印象を与える。

 だが俺にはその胡乱な目がなぜか、ひどく目に留まった。何かを秘めているようなその奥にある既視感。

 気が付けば全くの無言で、全身全霊彼女を凝視していた。

(――この子しかいない)

 うわごとのように俺は思う。そして声を掛けようと思って……今自分のいる場所を思い出す。交番だ。ああ、くそ。流石にそこまでネジは吹っ飛んでいない。喜ばしいことだ、多分。でも、ちくしょう、この機会を逃すわけには。

 そんな葛藤を抱いている俺に彼女も気付いたらしい。ただ、単に先客として扱われたのだろう、軽く会釈だけを俺に向けてから覗き込むように交番へと入ってくる。

 もうこの季節には暑いだろうに、長袖と思われるシャツにカーディガンを羽織った彼女。第一ボタンを開けて緩めたネクタイと首元にあるシルバーのネックレスが映える、なんとも都会の女子高生という感じだ。

 それからグレーのスカートから伸びるすらりとした脚。いや、男ならそういう物に目を取られるのは仕方ないと強弁したいところだけれど、そういう物を差し引いても彼女の制服姿はひどく似合っている。

 なんというか垢ぬけている。そして学生にありがちな軽率さをそこまで感じない。崩れた制服から遊び人の印象を受けてもおかしくないのに、雰囲気は落ち着いている。

 そこにあるのは第一印象の無愛想さが転じた、ある種の実直さだと気づくのに時間はかからなかった。堂々としているというか、度胸があるというか。一言でいうと、「真っすぐ」というのが似合う。

 ……と、そんなことを思っているうちにふと気づいた。彼女の持っている物。とても、とっても見覚えがある。傷だらけの蒼いケータイ。折れ曲がったワンセグ用のアンテナと、汚れで黒ずんだどこかのご当地キャラのストラップ。

 ――あれは俺のケータイでは?

 好機だ、好機でしかない! そう思って声を掛けようとした瞬間、

「お待たせしました。調べたところ、どうもケータイの落とし物は届いていないですね。申し訳ないのですが、遺失物の届け出を作成しますので、詳しい特徴をお伺いできますか」

 奥の部屋へ消えたお巡りさんが、ここぞというタイミングで戻ってくる。目の前の少女に声を掛け損ねた俺は、一瞬にして言葉の吐き出し先を失い、金魚のように二度、三度と口を動かして。

 そしてようやく言葉を纏めることが出来た矢先、今度は少女の言葉が俺を遮る。

「あの。落とし物拾ったんですけど……もしかしなくてもこの携帯電話、この人のじゃ」

 そうだとも、君のそのケータイは俺のだ。今すぐお礼を言って受け取りたい。思わず手を伸ばしそうになる。

 けれどまたしてもその行動は、お巡りさんの言葉で阻害された。うーんままならない。

「うーん、もしそうだとしても一応規則ですからね。お手数ですけれど、確認と書類を作成しますのでご協力いただけますか」

「……まあ、いいですけど」

「申し訳ありません。ああ、そちらのお兄さんも。ちなみにそちらの方が持っている携帯電話で間違いないですか?」

『えっ? ああ、ええと、はい。たぶん、その合ってます、青のケータイで、ご当地ストラップで。あー、番号とか、言った方がいいですかね。アドレスとかも』

 そしていきなり俺に話を振られたので少ししどろもどろになってしまった。ほんと急に話を振るのはやめてほしい。お巡りさんは人の好さそうな笑みを浮かべると、

「ああ、そこまでしなくても大丈夫です。一応、書類に残すだけですからね。身分証とか、あります?」

 俺にそう尋ねた。

『えっと、免許でいいですか』

 乗ってないけどね。乗る機会もない。お金ないし。

「ああ、はい、結構ですよ。そちらのお嬢さんも、椅子に座ってお待ちください」

 てきぱきと書類作成の準備に取り掛かったお巡りさんに免許を渡しつつ、彼がケータイを受け取るときに合わせてちらり、と彼女の方へと目をやった。

 特に面倒そうな様子も見せず、椅子に座ってさっきまで聞いていただろう音楽プレイヤーをポケットにしまい込んでいる。当然名前なんてわかるはずもない。今時小学生でもあるまいし、名札がついているはずもなくて。

 そうだ、落とし物を見つけた人には一割だか二割だか、お礼を支払う的なことを聞いたことがある。そのどさくさに紛れて――。

(……いや、これは完全にヤバい思考だ。ないな、うん、ない)

 そろそろ暴走し始めていたので理性で押さえつけ、落ち着かせるために交番の天井を見上げる。無機質な白の天井。防音材か何かかは分からないけれど、所々穴が開いている。あれは何のためにあるのだろうか。

 そんな取り留めもないことを考えていると、お巡りさんが二枚の紙ぺらを俺と、少女の方へ差し出した。

「すみません、お二人ともこちらの書類に諸々、記載いただけますでしょうか」

 一枚は拾得物届け、もう一枚は遺失物届け。落とし物を見つけましたって奴と落とし物をしましたって奴。もちろん俺が書くべきなのは遺失物届けの方。

 俺はボールペンを走らせる。手で文字を書くのなんて久しぶりで、幾分か字が汚くなってしまったことに若干のショックを受けつつ、十分読み取れるはずの文字を書きこんでいく。そうして俺がちょうど書類を書き終えようとしていたとき。

「これでいいですか」

「……はい、大丈夫ですよ。すみません、お手間を取らせて」

「いえ。もう、帰っても大丈夫ですか」

「はい、ご協力感謝いたします」

 隣で少女が書類を書き終えたらしい。しまい込んでいた音楽プレイヤーを取り出しながらお巡りさんに紙を差し出している。俺は努めてその紙を見ないようにしつつ、一気に書類を書き上げた。

 俺の脳内に去来する、“彼女と二度と会えないかもしれない”という思い。鈍痛にも似たそれがひどく俺の頭を揺らし、瞬間的な焦燥を生み出していた。

 俺は極限まで勢いを抑え込みつつ、迅速にお巡りさんへと書類を差し出す。その間に彼女はスクールバッグを肩にかけて、交番を後にしようとしていた。

『大丈夫ですか、これで。なんか不足とか……』

「ええと、特になさそうです。ご協力、感謝いたします」

『いえ、こちらこそお手数をおかけしたようで。ありがとうございました』

 そう言って一気に立ち上がる。もうすでに彼女は交番の外へと出ていた。急いで、後を追う。

 いた、交番からほんの数メートル。いまにも雑踏に溶け込もうとしている彼女の姿。

『あのっ!』

 彼女は応えない。もう、イヤホンを耳につけているのかもしれない。でも言わなきゃ。

 何を? 俺の連絡先? 名前を教えてほしいっていう思い? スカウトの言葉?

 ――違う、そうじゃあない。いま伝えなきゃいけないのはそうじゃない。俺は息を吸い込んで、そして言った。決して大きくはないけれど、万感の思いを込めて。

『ありがとう。ケータイ、拾ってくれて』

 その言葉に、彼女は一瞬だけ足を止めて、そして軽くこちらを振り向いた。ちらりと目が合う。胡乱だと思っていたその目はじっと俺を見据えている。……なんてことだ、胡乱なんて、とんでもないじゃないか。

 彼女は微かな笑みを浮かべ、じっとこちらを見ていた。少なくとも俺にはそう見えた。そして射貫かれるような鋭い視線の中にあった、“良かった”なんていう安堵の色。

 もちろんそれも俺がそう感じたにすぎないけれど、きっと間違いじゃあない。そう信じたい。

 彼女は軽い会釈を俺に交わし、再び前を向いて歩いていく。とてつもない強さと真っすぐさの象徴。俺にとってその後姿はそう見えた。

 それで、俺はもう駄目だった。ほぼ無意識に取り出したケータイ。頭は何も命令を下していないのに、体が勝手に動いたとしか思えない手つきでカメラを起動させて。

 雑踏の中へ消えゆく、制服姿の少女へとそれを向ける。どこか、映画でも見ているかのようなそんな気分で。

 “いいことは起こった”。そう思った瞬間。

 ぴぴっ。かしゃっ。

 交番の前、雑踏に、そんな電子音が響いた。

本日はここまでになります。
また数日中には続きを投稿する予定です。
ありがとうございました。

お帰り
7人目から読み返してくるかな

書き忘れていましたがトリップを忘れて発行しなおしています。
以前は◆m03zzdT6fsでした。

>>19
ありがとうございます、覚えていてくださって恐縮です

□ ―― □ ―― □




『……なーにが“いいことは起こった”だよ。もう、最低だな……』

 絶賛自己嫌悪の最中だった。片手にケータイを握りながらアパートの自室で倒れ伏し、かれこれ二時間になる。

 そう、俺の手元にはケータイが戻ってきた。あの思い出の動画が帰ってきてくれた。普通ならその足で新式とはいかなくとも、まあ前世代型くらいのスマートフォンを買いに行くのが筋だ。

 だがそんなことをする気力は俺になかった。理由は握るケータイの画面。そこに写っているのは、無意識に撮ってしまった一枚の画像。

 画像は、今にも雑踏の中に消えゆこうとしている一人の少女の背中が映し出されていた。俺はそれを見て、また一つ嘆息する。

『……ははは、とうとう犯罪者になっちまった』

 まさかこの歳で前科が付くなんて。いやまだ捕まっていないが。それでも年頃の少女の姿を無断で撮ったのだから、何だろう。肖像権? とかそういうのを侵害している。あるいは盗撮か。そうだ、盗撮だこれは。

 盗撮。うん、かなりヤバい響き。そんな重大犯罪の証拠がこのケータイに残されている。早く消さなきゃ、なんて場違いな使命感に駆られていた。……その実は単なる証拠隠滅に過ぎないのだけれど。

 だがかれこれ二時間、いまだに画像は残っている。表示されたままの画像。あの凛々しい後姿は画面から消えていない。

(……分かってる、そんなことはないんだって)

 そうとも、きっと彼女とはもう二度と逢うことはない。この巨大な都市の中で、ほんの一瞬だけ交差した縁。ただそれだけの事。

 それでもやっぱり、聞かずにはいられないんだ。自分の何もかも一切合切を投げ捨てたっていい。こんな”持たざる者”の持てる限りを、あの少女に賭けてみたい。

 きっと断られる。そう分かっていても、俺はきっと、もう一度出逢えば聞くのだろう。

 アイドルに興味はないですか?

 って。

『……まあ、届かぬ思いってやつだよねえ』

 俺は反動をつけて起き上がりながら、自分に言い聞かせつつそう呟いた。それでも、何か行動を起こさずにはいられない。そしてその瞬間、悪魔のひらめきが起こった。

『そうだ、一応報告しに行った方がいいかなあ。うん、そうだ、そうしよう。俺は報告のために写真を撮った。そういうことだ』

 完全に詭弁だ。詭弁だけど、自分でもこの上なくヤバイと思っている自分を落ち着けるにはこういう詭弁も必要だった。そうでもしなければ本当にどうにかなってしまいそうだった。

 そうして今度は、普段着ほどラフではないけれどスーツほど堅苦しくない、外行きの私服に着替える。

 報告――つまりインディーズレーベルの人たちの所に行こうというわけだ。あの子をスカウトができる、できないに関わらずこれは! という子を見つけることはできた。つまりそういう名目。

 とはいえだ。こんな後ろ姿であっても分かる人にはきっとわかってもらえるはず。そういう確信があった。

 もしあの人たちがこれだけで分かってくれるのであれば、間違いなく信用できる人たちだろう。そういう意味ではこの画像を撮った意味は存在すると言える。

 まあ、全部後付けの詭弁であることは否定できない。それに……否定もしない。仕方のないこと。

(……あの子の後姿に惹かれたのは、事実なんだしね)

 それを否定してしまっては本末転倒だ。そこだけは、ぶれてはならないと俺の本能が言っている。だったら迷う必要はない。俺はしっかりとケータイを握って、そしてポケットに突っ込んだ。財布を持ち、部屋の鍵も持つ。

 二か月ぶりくらいだろうか、あの人たちに会うのは。ここしばらく連絡をしていなかったけれど、きっとこの子のポテンシャルは理解してくれる。そう信じていた。

□ ―― □ ―― □


 なんだよ、これ。

 俺のそんな第一声は、あまりの衝撃に、声にさえならなかった。

 アパートから歩いて数十分、郊外の少し入り組んだ、いかにも場末の路地といったオフィス街。そこに俺の目的地である、インディーズレーベルの事務所はある。

 いや、あった。

 貸しテナントが幾つも詰まる同じようなビルが並んだ一角。ひび割れた壁が年季を醸し出す、ビルの二階に俺は居る。

 二か月前にはあったはずの数多の張り紙。微かに上階から漏れ聞こえていた歌声や楽器の音。埃っぽい事務所から聞こえる笑い声。

 それらは今、どこにもない。目の前にあるのは無機質な鉄の扉とはがされたネームプレート、そして今や紙切れとなっただろう、散らばったパンフレットだけだった。

 微かな痕跡を残して、ここに存在したはずのインディーズレーベルは掻き消えていた。

『これは、流石に。堪えるなあ……』

 がっくりと肩を落とし、壁にもたれ掛かれば座り込んで、俺は吐くように独語した。

 どういう理由かはさっぱりわからない。借金がかさんでの夜逃げか、それとも倒産か。ただ少なくとも、ここからいなくなったのはここ数日の話じゃなさそうだった。少なくとも二週間、あるいは一か月くらいは前の事だろう。

 つまり俺がここにやってきた二か月前の時点でおそらく、こうなる未来はおおむね決まっていたか決めていたことになる。まあ、それ自体はそこまで気にしていない。

 俺に実害はない。別に就職していたわけでもなければ内定をもらっていたわけでもないのだ。せいぜい、さほど価値のない俺の個人情報を知られた程度なわけで。ただそれよりも個人的にきついのは。

『なんも連絡なし、かあ。所詮、その程度にしか……思ってくれてなかったんだなあ……』

 何か一言で良かった。それこそ直接でなくてもいい。留守電に残す程度で良かった。

「明日、ウチ潰れるんで。いままでありがとね~」

 そんな小馬鹿にしたような報告でも良かったんだ。連絡するに値しない存在だと、そう思われていた。これは流石の俺でも心が折れそうになる。

 人を見る目に自信があるわけじゃないからこういうこともあるのだろう。それは納得できる。けどこんなことがあって凹むな、というのが無理じゃあないだろうか。

『あぁ、どうするかなあ、ほんと。俺もなあ、これ、完全に手詰まりだよねえ』

 こんな状況下でもポジティブシンキングが出来るほどたくましくはないわけで。もっとも、ポジティブに考えたところで何かが変わるはずもない。

 このインディーズレーベルはある意味、俺にとっての命綱だと思っていた。最後の最後、本当にどうしようもない時の駆け込み寺なんだって。これはそんな失礼なことを思っていた報いなのかもしれない。

 そろそろ本格的に身の振り方を考えなければならないか、とため息をついた時だった。

 かん、かん、かん。廊下の向こう、さびた鉄階段がある方から小気味の良い音が響いた。それはだんだんと大きくなっていく。どうやら、誰かが階段を上ってきている。

 そう思ったときにふと思った。ここは上階までインディーズレーベルが借りてたはず。だからレーベル撤退後すぐに入居ということがない限り、上にテナントは入っていないはずだ。

 いったい誰だろうか。僅かにそんな興味が掻きたてられる。けれど、今のこの沈んだ気分の俺にはあまりにも小さすぎる意欲過ぎて。俺は座ったまま、廊下の床を眺めていた。

 やがて階段を上る音は途切れ、今度はこつり、こつりという足音が聞こえる。それはどうやら、こちらへとやってくるらしかった。

(……レーベルの人? いや、今更こんなところに用はないよね)

 心が折られかかっている俺はそんな風に考え、特に気にすることもなかった。いっそ、誰であろうと無視をしよう。そう思った。

 ――けれど、それは許されなかった。

「そこの君」

『……』

「聞こえなかったかね? そこの、座り込んでいる君だ」

『……?』

「聞こえているじゃあないか。そうだ、君以外におらんだろう」

 その人は、俺に声を掛けてきた。ゆっくりと、声の主へと目を向ける。刹那、一瞬だけ体が震えた。誇張でも、なんでもなくて。本当に、びくり、と。

 そこにいたのは三十後半か、あるいは四十に行くかってぐらいの中年男性。どこにでもいるおじさん……のはずだった。

 だがその眼光は鋭く、まるで射貫く様なそれを俺に向けていた。それだけでも相当なのに、何だろうか。体からは覇気というか、精気というか。説明できない人間のエネルギーのようなものが迸っている……ように見えて。

 その様は俺なんかとはどこか人間としての格が違う、まさしく命を燃やしながら人生を謳歌している、そういう何だろう、「英雄」とか、「豪傑」とか。

 大袈裟だけれど、そういう言葉で形容するほかに何もないほどの威風を漂わせていた。そんな人が、じっと俺を見据えながら、再び問いを発する。

「一月前ほどまで、ここにあったインディーズレーベルの関係者かね?」

『……いいえ、そうありたいと思っていた人間ですけど。それが?』

 憮然とした態度をとってしまったことに一瞬、しまった、と考える。だがどうにでもなれという気持ちのほうが勝って。反抗的な視線で彼を見据えた。

 ただ彼はそんな俺の視線と態度を意に介すこともなかったらしく、泰然とした様子で、

「ふむ、そうか。いや何、大したことではないのだがね。ここにあったインディーズレーベルに用件があったのだが、その様子だと君に聞いても意味はなさそうだね」

 そう言った。言葉尻に棘があるように感じた俺の口から、言葉が出た。

『用件……ですか』

「うむ、しかし君に話すことも意味はないだろう。何もかも諦めてしまった君には」

 刹那、心臓をつかまれた思いだった。まるで蛇ににらまれた蛙のように、その視線から目をそらすことができない。そしてその目を見て、もしかしてさっきの態度に怒っているのだろうか……そんな考えは一瞬で霧散した。

 この人は確かに怒っている。俺が“諦めていた”ことに怒っている。なんでそこまで怒るかは知らないけれど、でも確かに。

 だから俺は言った。そう言わないと“諦めていた”ことを認めることになりそうだったから。ちっぽけな“持てる限り”の意地を張って俺は言った。

『……もしかすると、意味があるかもしれないじゃないですか』

 言ってから意味などないと思った。こんな子供の駄々でしかない言葉を取りあう人なんているはずがない。

「そうか、では話してみようか」

 ――そんな俺の予想は外れた。唖然としている俺をよそに、彼は話し始める。

「実は私の経営学の師匠が昔、芸能プロダクションを経営していてね」

 芸能プロダクションの経営者が師匠だと、目の前の男性は言った。その瞬間、俺の中で何かがどくん、と跳ねた。

「かねてより私も興味があって、どのような方向性が良いか……という参考にいろんなインディーズレーベルを巡っていたのだ」

 軽く笑みを浮かべ、目の前の男性は俺の目をもう一度見た。ひどく鋭い眼光だったが、不思議とさっきほどには恐れることはなかった。

「個人的には師匠と同じ、アイドル系のプロダクションを経営出来たらと思っていた。だが最後にとアイドル系のここに来たところ、潰れていて途方に暮れているというわけだ。……さて、これが私の用件だが。意味はあったかな、君?」

『……ええ、きっと』

 俺は不敵に笑った。笑ってしまった。折れかかっていた心は、なぜかすっかり直っている。

本日はここまでになります。
また数日中には続きを投稿する予定です。
ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □




 ……俺は雑踏の中、ベンチに座って空を眺めていた。徐々に傾いていく太陽の光を浴びながら、しかしそれを眩しいと思えないほどには情動が失われていた。何か、心の中の大きなものを持って行かれたような、そんな気がするくらいに。

 あの中年の男性――プロダクションを立ち上げ予定の社長はほんと、大した度量の人だ。そうでなければ篤志家か、あるいはギャンブラーだろう。

 社長と俺は話した。“アイドル”という世界について。その中の半分くらいは、かつてあの場所に存在したインディーズレーベルの人たちから聞いた受け売りだったけれど、それでもすらすらと説明することができた。

 講義料を払っただけあって、彼らから聞いたことに説得力はあったのだろう。社長はしきりに頷き、なるほどと言っていた。

 実際に俺も共感する部分が多かったから気持ちはとてもわかる。いつか役に立つものだ、と思っていたのがこんな形で役に立つとは思わなかったが。

 そしてもう半分は……俺の夢の話だった。

 プロデューサーになりたい。そんな下らない話だった。どうしてなりたいのか、そう思った理由は何か。それをたどたどしく話した。

 そして彼は言った。

「面白い話だ。君がアイドルのプロデューサー、か。いいじゃないか、私は興味がある。我がプロダクション初のプロデューサーが君ということに」

 耳を疑った。正直、夢かな? と思って何度か社長の目の前で頬をつねった。

 何せ俺の荒唐無稽な夢の話を聞いて馬鹿にしたそぶり一つ見せず、あまつさえ俺をプロデューサーとして雇うことに興味がある、とまで言い出したのだから。

 そしてそんな俺を見ながら大笑いして、そして彼は言った。

「だが代わりに見せてほしい、君がプロデューサーたりえるのかを。それができればぜひ、ウチに来て欲しい。一か月だ。一か月以内にそれを証明してみたまえ。準備が出来たならここに連絡するといい。では、またな」

 そうして社長は名刺を俺へ押し付けると、呆然とする俺をほったらかしにして去っていった。その後ろ姿がえらくウキウキしていたのは気のせいだろうか……。

 ともかく、期せずして俺は一縷の望みを得た。得たのは良いのだけれども……この望みはあまりに細く、儚いものだ。

 社長に言われた「プロデューサーたりえることを見せる」とは、果たしてどうすればいいのか。シンプルな意味でいえば能力を見せろ、ということなんだろうけれども。さっぱりわからなかった。具体的に何々をせよ、と言われたわけではないからなおのことだ。

 しかも期間は一か月。どうすればいいかと、ないアイデアを絞って、絞って、絞って。そして考えて、考えて、考えて――結局浮かんだ結論は。

『……やることは、変わらないよね』

 これは! という女の子を説得し、連れてくること。それしか思い浮かばなかった。むしろそれしか俺にはないってことでもある。ある意味簡単な話になった。やったな。

 問題はそれが限りなく難しいことなんだけれども。

『はぁぁぁぁぁぁ……』

 馬鹿のように長い長い溜息をついて、俺はゆっくりと立ち上がった。ひどく憂欝だ。心が動かない。心に引きずられて、なんだか体も動かない。

 その理由は分かっていた。

 ――居ないんだ。彼女ほど、心の動く人が。

 ずっと街中を歩き回った。それぐらい歩けば、最低でも一人くらいこれは! って人が見つかった。あの日までは。

 けれどもただの一人さえ、俺は声をかけることができなかった。……違うな、それは正確じゃない。声をかけなかった。彼女に勝るとも劣らず、なんて思えた人が見つからなかったから。

 俺は妥協をしない。絶対に妥協をしない。これは“持たざる者”である俺ができる数少ないことだ。“持てる限り”だ。これまでも、そしてこれからも。

 彼女に断られていたのなら割り切って、諦めもついたかもしれない。だって割り切ることと妥協には天と地ほどの差があるのだ。妥協は中途半端で、諦めは勇気ある選択だと俺は思っている。けれども俺は断られることさえできていない。これじゃダメだ。

『……探しますかね。あの子を』

 だからそれが今の俺のできる唯一のこと。もちろん見つかるはずもないだろう。そもそもこの街の住人ではない可能性すら高い。そりゃそうだ、昼間人口と夜間人口が数倍以上ある街なのだから。

 遠いところから、たまたま遊びや用があってきていただけ――。そんな可能性も当然ある。でも妥協はしない。できない。そんなことをしてしまえば、夢が夢じゃなくなってしまう。

 俺が出来るのは、俺の“一人前”を果たすだけ。それがたとえ、誰かにとっての“半人前”だったとしても。

 俺はゆっくりと街中を歩き始める。ひとまず、あの交番付近からかな。駅前もいいかもしれない。制服から学校を割り出す……のは、流石にまずいだろうか。もう覚えていないからどうしようもないけれども。

 周囲を見渡して、何度もあの後ろ姿を幻視した。そして何度見ても、そこに彼女の姿はない。

 ……それがここしばらくの話。少女と社長、その衝撃的な二つの出会いからもう二週間ちょっと。

 今日も朝から街を歩いた。時にはコンビニ夜勤のシフトを外してまで歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、歩き続けて。それでも彼女の姿は見つけられない。

『見つからないなぁ……』

 ぽつり、つぶやいた。周囲は随分と暗くなっている。ケータイを取り出して時間を見れば、すでに午後七時を回っていた。道理で暗いはずだ。

『しょうがない、今日もいったん帰ろう』

 探索行はすでにかなりの範囲になっている。環状鉄道の内側くらいは優に歩いているはずだ。何せ内側は歩き尽くし、今や環状鉄道の線路、その外側に行っているのだから。

 都市区画の数でいえば四つか五つほど。我ながらよくもまあ、それだけ歩き回ったことだろう。もちろん広い範囲を探し回るのは裏目に出る可能性もある。

 あっちを探している間にこっちにいて、こっちを探している間にあっちにいる……なんてのはテーマパークとかなら良くある話。それが都市規模ともなればなおのこと。

 ひたすら定点観測したほうが、もしかすると見つかる可能性は高いのかもしれない。それでも俺は探し回った。理由? そんなものはない。強いて言えば、

『うーん、今日こそなんだかいいことありそうな雰囲気だったんだけどなあ』

 ただ何となくそう思っただけという理由だ。毎日そう思っているからなんのあてにもならないけれど、結局できることをするしか俺にはできない、それならできることをできる限り。これは変わらない。

 俺は軽く首を鳴らしながら、いくらか入り組んだ道を抜けて駅へと向かう商店通りを歩む。服屋、金物屋、仏具屋にコンビニやファストフードチェーン。新旧ないまぜになった店がならぶ、駅前へと向かう通りとしてはよくある道だ。

 それなりに人通りもありなかなかににぎわっているようで、なんとなくこういう通りにある肉屋の惣菜が美味いんだよな、なんて思い浮かべる。そういやコロッケとか唐揚げとか、そういうの全然食ってないな。

(もしあったら、ちょっと買って帰ろうかな)

 そんな風に見回しながら歩く。そして肉屋らしき店を見つけた。いい匂いがする。そう思った瞬間だった。

『……ははっ』

 乾いた笑いが出た。小道を挟んで、二軒隣。閉店間際の花屋、その店先に幻覚が立っていたから。

 制服姿に膝までのエプロン。さすがに衣替えをしたのか、半袖のブラウスからすらっとした手足がちらり、と見えている。なにやら黙々と花の入ったバケツやプランターを店内に運んでいた。

『えらく……リアリティのある……幻覚だなあ……』

 頬をつねった。めちゃくちゃ痛い。幻覚は消えず、彼女は変わらず花を運んでいる。……はたから見れば道行く人々の中、花屋のほうを見ながらぼうっと立ち、思いっきり頬をつねる男。どう見ても不審者です。

 こりゃいかんとばかり、ほかの人の邪魔にならないように小道に避けて。それから少し考える。彼女はあそこで何をしているのだろうか、とか。どうやって声をかければいいのか、とか。

 そして途中で馬鹿らしくなる。何をいまさら。この奇跡のような機会を無駄にする道理なんてどこにもない。

『……あの、すみません』

 ほとんど衝動的に、俺は彼女へ声を掛けた。プランターを運んでいたその顔がこちらを向く。やっぱり見間違えなんかじゃなかった。安堵と安心に一瞬、支配されそうになる。

「……? はい、何か用ですか」

 だが、彼女の表情はまさしく初対面の人を見るものだった。その言葉と表情が、安堵と安心から俺を現実に引きずり戻す。

(はは……そうだよな。覚えているハズもないか)

 あの日からもうだいぶ経つ。俺にとっては衝撃的な記憶だが、彼女にとっては単に落とし物を届けただけ。俺の顔を忘れているのも当然と言っていい。

 どうしよう、告げるべきか。いやあの時警察にいた男が急に目の前に現れたらどう思うだろうか? 俺が彼女なら正直怖いと思う。ついでに言えば俺が俺でも怖いと思う。なんだか変なことを言っている気もするが、その程度には怖いはずだ。

 じゃあこのまま黙っているのか。それはそれで誠実さに欠ける気がする。そもそもケータイを拾ってもらったことに、俺はとんでもなく感謝している。当たり前の話だけれどそれについてももっとしっかりと感謝をしたい。

 そうやって悩んでいるうちに時が過ぎていたようで、お互いの顔を黙って見ること数秒。『二週間ほど前、ケータイを拾ってもらった者です』と俺が身分を明かすことを決めた瞬間だった。

「……あっ、携帯電話の人」

 彼女がそう言った。どくん、と心が跳ね上がる。良かった、記憶には残っていてくれた。そのことにどうしようもないほど嬉しさを感じつつも、客観的に考えれば驚くほど気持ち悪いと思うので表には出さず、

『そ、そうです、そうです。たまたまお見掛けして、それであの時のお礼を改めてって思って。本当に、ありがとうございました』

「そんな、気にしなくてもいいのに。誰だって届けますよ」

 嘘です。めちゃくちゃ探し回っていました。見つけられたのは本当にたまたまだったけれども。心の中で謝罪しつつ、こうして彼女と話せている現状がとてつもなく嬉しくて。

 だから思わず、

『ところで……アイドルに興味はないです?』

 そう訊いてしまった瞬間の、彼女の詐欺師を見るような目を……俺は二度と忘れないだろう。

□ ―― □ ―― □



『――よし、腹切って死のう』

 そんな、突拍子のないことを考えてしまうほどに俺は落ち込んでいる。

 昨日、俺の探し求めていた少女は見つかった。そこまでは良かった。何でいきなりスカウトしちゃうかなー。昨日の俺の頬を思いっきり叩いてやりたい。

 結論として俺のスカウトは、当然のように断られた。詳細なことを説明する時間もなく、何なら偶然あの場にいたことについてもすごく疑われた。いや実際に探し回っていたのだから疑われてしかるべきなんだけれども。

 まあでも、これで心残りはなくなった。だって断られたんだから。割り切って次に行ける。今日もスカウト、頑張ろう!

 ――そう思っていたのに、俺はまたあの花屋の前にいる。前言撤回だ、これは切腹もやむなし。普通に通報案件だとさすがの俺でもわかる。

 幸いにして店内に彼女の姿はなかった。店員の姿も見えない。裏で何かをやっているのかもしれない。

 ケータイを取り出し時間を見た。午後四時。よし、帰ろう。学生なら部活とかもあるだろうしあの少女はまだ帰ってこないはず。バレる前に……。

『あっ』

「……ねぇ、なんでいるの?」

 駅に向かって歩こうと振り返った刹那。そこにはスクールバッグを持った、制服姿の彼女がいた。遅かった、なんて考えつつその表情を見る。怒っているような、疑うような、そんな顔だ。

 昨日のあの一件以降、口調もかなりキツいものになってしまっている。いや悪いのは俺なんだけど。ものすごく気まずい。

『あー、えっと、その。なんていうか、あの……』

 しどろもどろになりながら周囲を見る。そして苦し紛れに、

『……花! 花を買いに来たんです! えっとこの……青紫色の花をください!』

 店先に陳列されていた花を見ながら、そう言い訳をした。いそいそと財布を取り出そうとする俺にじろり、という音がしそうな視線を向けた彼女は、しばらくびくびくとしていた俺に向けて静かにため息をついて、

「はぁぁ……。972円です。包装は要りますか」

 あきれ返ったような声で言いながら店先の花を丁寧にとって、店内へと入っていく。そしてスクールバッグをカウンターの裏において、手慣れた様子で透明なビニルフィルムで巻いて根元にリボンを括る。

 そしてどこか胡乱な目のまま俺を見据えながら、

「要るの、要らないの?」

 変わらずキツめの調子で聞いてくるので、ほとんど反射的に、

『あっ、えっと。そ、そのままで大丈夫です!』

 俺は答えた。まったく、これじゃどっちが大人か分かったものじゃない……。取り出した財布から数少ない野口さんを取り出して支払いを済ませれば、おつりと花を受け取る。

 もっとも、花を受け取ったところで活ける花瓶なんてとこにもないんだけれど。

『あ、ありがとうございます……』

 お礼の言葉を告げた。返ってきたのは、

「……ありがとうございました」

 という若干憮然とした言葉。一応今のところは客として扱ってくれているらしい。であれば、もう一度スカウトしようとは、とてもじゃないけれども思えなかった。

 せめて彼女からの心象だけは良くしておきたい。それは姑息な考えと言われればそうなのだと思う。打算がないとは言わないし、言えない。けれどそれとはまったく別の、通すべき何かのために俺は少しだけ会釈して、

『それじゃあ……』

 まるで後ろ髪を引かれるように、重い足取りで花屋を後にする。手に持った花がひどく重く感じる。振り返ることはしなかった。

 それからの俺はきっと、奇怪な存在だっただろう。夕方の電車の中、学生たちの帰りに混じって社会人が一人、ビニルフィルムで巻かれただけの花を一輪もってたたずんでいる。

 ちょいちょい突き刺さっては離れていく視線がとても痛かった。最寄り駅で降りてからは人気も減り、その視線もなくなっている。

 アパートへの路地を一つ、二つと曲がって鍵を取り出した。鉄階段を上り、突き当りの自分の部屋を開ける。夕焼けに染まった1Kの部屋が出迎えてくれた。

 着ていたスーツをハンガーに吊るしながら、手に持った花をどうしようかと思って、そう言えばキッチンシンクに洗ったペットボトルを乾かしていたなと思い出す。

『ペットボトル工作なんて、小坊の時以来かぁ』

 独語しながらちょうどいい長さになるように、ペットボトルをカッターナイフで切っていく。結構堅かったので真っすぐ切れず、出来上がりはずいぶんと不格好なものになってしまった。

 そんなペットボトル花瓶に水を入れて買った花を挿し、ちゃぶ台に置いた。殺風景な部屋に青紫色の花弁がひどく場違いなものに見えるけれど、

『……これはこれで、良いものかもしれないな』

 なんて思った。一人暮らしには花を活けると気分が上向きになるからおススメだ、なんてどこかで聞いた気もする。確かにそうかもしれない。

『……アルバイト、行くか』

 ラフな格好に着替えながら時計を見る。時刻は午後五時ちょっと過ぎ。シフトは午後十時からだからまだ余裕はある。少し仮眠をとるために布団へ横になり、目を瞑る。浮かぶのはやはり、彼女のあの凛とした姿だった。

 俺自身のその有様に、思わず苦笑しつつひと眠りをする。目が覚めた時にはすっかり夜の帳が落ちきり、ネオンに負けない強い星の瞬きがいくつか空にあった。

 軽くシャワーを浴びてから早めに行って、パントリーの掃除でもしよう。そう思っていたけれど、シャワーの最中も掃除中も、ずっと思い浮かべるのは彼女のことだった。

 シフトに入ってレジを打っている時も、パントリーでドリンクの補充をしている時も、それは変わらなかった。お陰で少しミスをした。明日、店長に怒られるんだろうなあと、少し憂鬱になる。

 明け方、シフト終わりに朝番のおじさんと交代しつつ、廃棄の弁当を貰って帰る。アパートの部屋の鍵を開ければ、出迎えてくれるのは名も知らない花だけ。

 だが、存外悪くない。

本日はここまでになります。
休みの終わりも近づいてきましたし、続きは明日にでもと思います。
ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □




『すみませーん、花いただけますか。この青紫色のやつを』

「……972円です。包装は要りますか」

『あっ、大丈夫です。すみません、ありがとうございます』

 あれから三日後の夕方、俺は花屋に居た。目の前には憮然とも、呆然ともいえる表情で俺を見据えてくる少女の姿。俺は彼女に野口さんを一枚渡して、おつりと花を受け取る。

 ちなみにこの花屋で花を買うのは二度目ではない。翌日にもこの花屋で花を買っている。なので今日は三度目の購入だった。我ながらなかなかのリピーターだと思う。

 ……そう、花を買いに来ているだけだった。あのペットボトル花瓶は我ながらどうかと思うが、それは置いといて、花の効果は思いのほか絶大だった。殺風景な部屋に花があるだけでなんとなく気分が落ち着く。

 ある意味、それに助けられているのだろう。何せ、いつもの俺だとしつこく話をしようとして、それで嫌われてしまったに違いない。いや今でも十分嫌われているとは思うけれども。

 もしくは完全に諦めてしまっていたかも。けれどあの花を見ているとなんとなく、じっくりと待ってもいいんじゃないかって今は思っている。

 だからもうスカウト活動はしていなかった。ほかの誰かに対しても、だ。どちらにしても話を聞いてもらえるとは思えないし、それならまだ目の前の相手に話を聞いてもらえるまで気長に待つ方がいい。

 そういう意味では、常連になっているのはちょこっと話ができるくらいにまで仲良くなりたい……という打算が含まれているのだけれども。

『それじゃあ、また』

 そう言いながら俺は花屋を後にしようとする。たぶんまた来ることになるだろう。花に詳しいわけじゃないので、買った花はだいたい二日くらいで元気をなくしていってしまうのだ。

 初回に至っては水を替え忘れていたというのもあって、もう半分枯れかかっている。特に今は夏場だし、ちゃんと毎日水を替えても長持ちはしてくれない。

 いい花瓶を用意して、花のプロなら倍以上持たせられたりするんだろうな、なんて思いながら足を進めようとした瞬間だった。

「――ねえ、どういうつもり」

 背後から掛けられた声。振り返れば怪訝な表情をした彼女の姿。その目には覚えがある。あの夜に見た、詐欺師を見るような目だ。

『……うん? えっと、どういうこと……です?』

 質問の意図を理解しかねて俺はそう返す。すると彼女はどこか怒ったそぶりで、

「っ、とぼけないでよ。またあの“アイドル”とかいう話をしに来たんでしょ。なのに花だけ買っていって。アネモネはそんなに安い花じゃない。変な話のためにお金も花も無駄にしないで」

 そうまくしたてるように言う。なるほど、得心行った。そういうことね。つまり彼女は俺がスカウトのために欲しくもない花を買って、そして無駄な出費をしていると思っている。

 まあそう思うよね……。そこまで的外れでもないし。それに多分八割がたは売った花の心配をしているのだと思う。下手をすると捨てているかもって。なのでそこは一応弁明をすることにした。

『ああ、いや。その話をするつもりはない……わけじゃないですけど。でも今日は普通に花を買いに来ただけで。このアネモネ……っていうのかな? 思いのほか彩りがあって。花のある生活っていいものなんですね』

 そういうと、彼女はぽかんとした表情をする。……うん? その反応は予想していなかった。ところで初めて花の名前を知った。アネモネとはあまり聞いたことのない名前だな。日本原産ではなさそう。

 あの青紫色の花を見ながらそんなことを思っていたら、彼女がじっとこちらを見ていた。なぜか刺々しいものが減っている気がする……。なんでだ。

『……あ、そういえば。この花、二日ぐらいでだんだん元気をなくしていっちゃうんですけど、何かいい手立てはないですかね』

 ふと、頭に過ぎった質問を聞いてみる。もしかすると答えてもらえないかもしれないけれど、でも、なんとなく。そう、なんとなく答えてくれるような気がした。

「……アネモネが二日で? それはおかしいよ。ちゃんと水は替えてる?」

『ええ、一応毎日。衝動買いだったから花瓶はペットボトルですけど』

「ペットボトルって……」

 彼女は呆れてものも言えない、といった様子で額に手をやる。やっぱり花屋からするとそうなるだろうな、と俺は苦笑しかできない。

 それから数秒ほど彼女はそのままだったが、

「たぶんペットボトルはそこまで関係ないと思う。水切りのやり方は知ってる?」

『水切り?』

 川とかで平たい石投げて遊ぶアレじゃないよな、たぶん。俺は軽く首を振る。すると彼女は端的に説明してくれた。

「茎の部分を綺麗な水につけたまま、切り口を斜めにして二センチくらい切り落とすこと。花がしおれるのは水が十分じゃないからだよ」

『うん? でもちゃんと水は替えてるけれど……』

「花にとって茎の切り口は傷口みたいなものだから。乾燥したりちょっとでも水が汚れると水を吸い上げる管がふさがって、それで水不足になることがあるの」

『はー……なるほど』

 初耳だった。一応アパートへ持ち帰った後はちゃんとペットボトル花瓶の水を替えて、そこに挿していた。けれどそういうところは気にしたことがなかった。なんだかちょっとワクワクする。

『よぅし、じゃあ今日帰ったらさっそく試してみます。ありがとうございました』

 俺は取るものも取りあえず、お礼を言ってから店を後にする。

「あっ、ちょっ……」

 後ろのほうで何か声が聞こえた気がした。呼び止められたかなって一瞬思った。けれど俺は多分嫌われているし、きっと気のせいだろう。そう思って帰路を急いだのは……ある意味当然だったかもしれない。

□ ―― □ ―― □



 さてもさても、効果は抜群だった。

 花屋で水切りを教えてもらって四日、俺の目の前ではアネモネの花が二輪、元気に咲いている。さすがに初回に買ったアネモネは枯れてしまったが、二回目の花はなんと水切りによって復活した。すごいな水切り。

『やっぱ凄いなあ。餅は餅屋……いや、この場合“花は花屋”というべきかな』

 はたから見れば、狭苦しいアパートの一室で花を愛でる男というなかなかキツい画だ。客観的にそのことを思い出した俺はケータイを開き、いつものようにあの動画を眺める。

 社長と話をして大方三週間ちょっとくらいになる。約束の一か月はもう目の前まで来ていた。厳密に何日までと決められたわけではない。ただ、日付的には三日後だった。

 それでも俺は不思議と焦りを感じていない。もうすでに一度断られているにも関わらず、だ。そしてこれでダメならダメなのだろうと思えるほどに落ち着いている。

 動画の再生が終わった。相変わらずこの動画の偶像《アイドル》は俺にとっての目標であり続けている。ただ、以前ほどこの動画を見返すことは少なくなった気がする。

 ふとケータイの時間を見た。時刻は午後四時を過ぎた頃合い。なんとなく、あの花屋に行ってみようという気になった。

 アネモネはまだ元気だから追加購入するつもりはないけれど、でもそうだな。水切りの効果があったことは報告したほうがいいかもしれない。

(四日ぶりか。なんだかひどく久しぶりな気がするなあ)

 俺は立ち上がってスーツに着替える。もうその必要はないのかもしれないが、なんとなくあの花屋に行くときはスーツじゃないといけない気がしていた。

 電車で片道二十分ほどの距離。よく考えると、これほどの距離をよくもまあ歩いたと思う。実際にはずっともっと歩いているのだから、自分の健脚ぶりに思わず笑ってしまいそうになるな。

 そうこうしているうちにいつの間にやら目的地の駅へとついた。駅から歩いて五分ほど。学校帰りの学生たちに混ざればすぐに花屋が見えてくる。

 いつも通りなら今日も彼女はアルバイトをしているのだろう。時間的には学校が終わってすぐに、ということだから相当に真面目か、あるいは何か理由があるのかもしれない。いや勝手な想像だけれど。

「また来たんだ。……別にいいけどさ」

 そして俺が店に入った瞬間、やはり彼女はいた。しかも誰がやってきたかを一瞬で気付いてそんな声。……レーダーの感度が高すぎるんじゃないかな。よほど嫌われているのだろうか。もしそうならちょっとヘコむ。

『いやぁ……ははは。今日は買い物に来たわけじゃないんですけどね』

 そう言いながら、俺はケータイを取り出す。

「あっ、その携帯電話って」

『はは……君に拾ってもらった奴です。その節は本当にお世話になりました』

 などと言いながらぷち、ぷちとボタンを押す。何度かそれを繰り返せば、画面に映っているのは――。

「……アネモネ?」

 不格好なペットボトルの花瓶に挿された二輪の花の写真を見て、彼女は言う。

『ええ、はい。教えてもらった水切りを試したんですよ。そしたらすっかり元気になって。半分しおれてた奴まで復活したんで、それでせめてお礼の言葉だけでもって思って』

「……まさか、わざわざそれだけを言いに?」

『うん? そりゃあもちろん! なんだかんだで何もできずに枯れていく花を見るのはちょっとアレですし……。いやあ、やっぱり本職の人は違うなって思いましたね。そんなわけで、また何かあれば教えてください』

 俺がそう言えば、彼女は目を二度、三度と瞬かせる。そして、

「そうだね……いいよ、私でよければだけど」

 答える彼女の口調からはどこか刺々しいものが減っているような気がした。そして少しは打ち解けられたのかな、なんて俺が思っているとやれやれとばかり、彼女はちょっぴり息を吐きながら言う。

「それにしても、意外と普通なんだね、お客さんって。急に“アイドル”とか言い出すからちょっとヤバい人なんじゃないかって思ってたけど」

「あはは……」

 その評価に苦笑することしか俺はできなかった。超ごもっとも。俺だってそう思うよ。ただちょっとだけ、お客さんと呼んでくれたことにはガッツポーズをしたい気分だ、なんて思いながら言葉を返す。

『恥ずかしながら、それが俺の“夢”なんです』

「えっ……“アイドル”になるのが?」

 頭大丈夫? みたいな表情で見られた。ちがう、そうじゃない。

『いやいやいや、俺が“アイドル”とか、世紀末ってレベルじゃないでしょ……。その、なんというか、プロデューサー――“アイドル”を生み出す人になりたいんだ』

「……生み出す人?」

 ピンと来ていない様子で彼女は言った。そうだろうと思う。俺だって何も知らなければそう思うに違いない。

 少しの間唸りながら、どう説明すればいいんだろうなと思っていたが、ふと手を見れば型落ちのケータイが一つ。

『そうだ、ちょっと待ってください』

 画面に表示されていたアネモネの写真を閉じて、少し操作をする。ほとんど写真なんて撮らないから“それ”を呼び出すのはさほど時間がかからなかった。

 ほどなくして画面に映ったのは、もう幾度となく見返したあの動画だった。流れ始める雑音に紛れた、音楽と歌声へ怪訝な顔を向ける彼女へとそれを渡す。

『それが、俺の“アイドル”なんだ』

 言ってから、俺もまたのぞき込むようにその動画を見る。何度見ても見飽きない。ずっとずっと、俺の中の目標であり続ける人。

 泡のはじけるような、心地よい歌声。決して動きは大きくないけれど、だからこそ動きの一つ一つが丁寧な振り付け。

 くるっとターンするときに少しよろけるけれど倒れることはなくて、それで少しはにかみながら舌を出している茶目っ気のある素振り。

 もう消しても消えないほど聞き込んだ曲の盛り上がり、ぴょん、と飛び上がるようにステップを踏んで、それからばちっとポーズを決める。

 満面の笑みを浮かべて両手を振って、感謝の挨拶をする姿。それが最後、俺のほうを向いたところで――ほんの数十秒のそれは終わった。ほう、と息を吐いて顔をあげる。

 どうも俺のほうが食い入るように見てしまっていたらしく、彼女は俺のほうをじっと見ていた。が、目が合った瞬間逸らされてしまう。ただ逸らした先には俺のケータイがあって、動画がリピート再生されている。

「これが……?」

『うん。少なくとも……俺にとっては、間違いなく。そういう人を、世に出したいと思ってる』

 何とは言わず、俺は肯定した。そしてもう一度再生されるそれを、まるで初めて見るモノのように、熱心に見る彼女の横顔を見る。

 少し目を細めながら見るそれは、まるで美術品を思わせる切れ長の目も相まってひどく美しく見えた。

 花屋のカウンターでただ立っている胡乱げな姿も良いものだと思う。そこにいるだけでも十二分に映えるだろう。けれど、俺は思う。彼女の瞳は何かを見据えている方が、きっと似合うだろうって。

 どうしてそう思うのかはわからない。漠然とした俺の勘――これまで何の役にも立たなかったそれだけれども、それに俺はすべてを賭けたいと今も思っている。

『お話があります』

 俺はそう声を掛けた。動画を見終わり、ケータイを俺に返し、顔をあげた彼女はゆっくり視線を俺の顔へと移して。

 刺々しさのない、どことなく揺れ動くような視線の向こう。微かに碧に見える瞳の奥を、俺はじっと見据えて。

 ……ああ、とてもきれいだ。場違いにもそう思いながら、言う。

『――“アイドル”に、なりませんか』

□ ―― □ ―― □


「……なんでそこまで、必死なの。私くらいの人なんてどこにでもいるじゃん」

 うわごとのような彼女の言葉。ぽつりとこぼれたそれに、俺は答える。

『君となら、きっとやっていけると思ったから』

 即座に拒絶されなかったことに感謝をしつつ、正直に。そうだ、本当に、ただそれだけなんだ。だが俺の答えは満足できるものではなかったのだろう。彼女の表情が少し歪む。

「そんなの! ……ねえ、誰にでもそう言ってるんでしょ」

 問い詰める言葉にも、俺は正直に答える。

『ああ……うん。確かにそうだった。正直に言えば、これまで何人も、何十人も声を掛けてきたよ』

 何度も何度も選んできた。その全てに断られたとしても、俺はティン! ときたものを選び続けてきた。

『もしかすると君からすれば、俺は君のことを多くの中の一人として見ているように思うかもしれない』

 俺は言葉を区切る。確かにそう思われても仕方がない。誰にも彼にも声を掛けて、数撃ちゃ当たるをやっているだけだって。

『けれどそうじゃない! そうじゃないんだ。それは胸を張って言える。いつだって俺は俺の全力で、“この子なら”って思う人に声を掛け続けてきたんだ』

 俺は彼女を選んだ。後も先もないつもりで。一歩たりとも妥協なんてしていない。目の前の彼女が、俺にとってのただ一人の存在だと今でも信じている。

 その思いを込めて、彼女を見た。揺れる胡乱な目の向こうを見ようとばかりに。彼女も、俺を見返してくる。やがてその口がゆっくりと開いた。

「“アイドル”って、何なの」

 きっとそれは、彼女が持つ疑念の根底となるものなのだろう。それはさっきの、なぜこんなにも必死なのかという問いかけに答えるものでもあるのかもしれない。

 ゆっくりと俺は目を閉じる。“アイドル”とは何か。その自問自答は何度でもやってきたことだった。それに、自分なりの答えはある。ただ、明確に言葉にはしてこなかった。

 思い返す。なぜ、あの動画の彼女を“アイドル”と思ったのか。その原点は――。

『――初めて君を見た時、どうしようもなく惹かれたのは……きっと、君が俺と似ているって思ったから』

「似ている……?」

『……四年前の俺は、たぶん、ただ生きているだけだったんだと思う。わかるかな? この感覚』

 ゆっくりと目を開きながらそう言った。そう、あの時の俺はありていに言えば、いてもいなくても変わらないだろう、そんな存在だった。今もそうかもしれないけれど、でも突然誰かに連れ去られたとしてもきっと、すぐに替えが出てくると思えるような人間。

『俺は農家の息子でさ、将来の夢なんてこれっぽっちもなくて。趣味といえる趣味もない、ただ課業をこなすだけの学生だった』

 あるいは良くある話だと思う。何をやっても人並み以上にならなかった俺のような人は、もしかするとどこにでもいるのかもしれない。けれど、それはとてもつらいことだった。

『クラスの人気者の面白くもない馬鹿話に笑ったふりをするばかりで、なんのために生きてんだろうって思うぐらいで。流されるまま生きるだけの存在』

 その言葉に微か、彼女が目の前で身じろぐ。ああ……そうだよね。君も、そうなんだよね。交番で彼女の目の奥に感じた既視感の正体が今ならわかる。

 それはきっと、漠然とした将来への不安と、熱意を向ける先のないことへの焦燥。つまらない日常をただ流されるだけの日々に、このままでいいはずがないと思っていても……何をすればいいのかわからない無間地獄のそれ。

 まるきりすべて同じなどとは思わない。俺と彼女の間にはきっと、才能とか、センスとか、頭のよさとか、見た目とか。そういういろんな部分が隔絶している。

 けれど、それでもこの真綿で首を絞められるような感覚は似ていると、そう思った。だからこその既視感だったのだろう。

『でも東京の街角で、この動画のゲリラライブを見た時、思ったんだ』

 そんな無間地獄から逃れ出たあの日のことは今でも思い出せる。せっかくの修学旅行にもかかわらず、自由行動の時間でゲームセンターに行った帰りに見た、その景色を。

『――ああ、すげえなって。俺はあんな人にはなれないけれども、でも“憧れるな”って』

 その時から俺の中のすべてが変わった。漠然と農家を継ぐんだろうというよくわからない将来像しかなかったのに、“アイドル”に携わる仕事がしたいと思った。そんなことは初めてで、あまりの熱中ぶりに親父やお袋に随分迷惑を掛けた。

 そして見つけた。“アイドル”を世に送り出す仕事を。プロデューサーと呼ばれる存在になりたいと心底思った。

 だから俺はこう答える。

『――名も知らぬ誰かに夢を、人生の道標をもたらせる存在。それを偶像《アイドル》と呼ぶのだと、俺はそう思う』

 俺は笑う。そうだとも、あの動画の彼女は、俺にプロデューサーという人生の道標をくれた。あの日、あの時、見ることがなければ絶対に進むことのなかった未来へのしるべ。

『君は“アイドル”になれるってそう思ったんだ。いまも、そう思っているよ』

「そんな! ……そんなの、なれるわけないでしょ」

『なれるよ』

 断言した俺の言葉に、彼女は一瞬言葉を失う。わかるよ、何を根拠にってね。そうとも、その通りだ。だって根拠なんてないんだから。

 だから俺は言った。俺の精一杯をすべて詰め込んで。

『君は俺の人生を変えてくれた。“君の”プロデューサーになりたいって、脇目も振らずに思ってる。……だから君は俺にとって、もう“アイドル”なんだよ』

 あっけに取られている彼女に、俺は内ポケットから名刺入れを取り出した。中には数枚の無地の名刺。俺の名前と連絡先だけ書かれた、シンプルに過ぎるそれ。

 その一枚を抜き出して、彼女の前に差し出す。

『……君がつまらないと思っている日々を変えられるかもしれない何か。それを“アイドル”にしてみませんか。俺にとっての“アイドル”がそうだったように。……そして』

 じっと彼女を見た。黙ったまま見返してくるその瞳が、俺の差し出した名刺へと落ちる。

 そして名刺を受け取った。ほっと胸を撫でおろして、俺は言う。

『すぐには答えられないかもしれない。けれど……もしその気があるなら電話をしてほしい。それか――』

 ケータイを見た。よくわからない現地もののストラップが揺れる、蒼いケータイ。

『三日後の土曜日、午後二時。あの交番の前の広場で待っています。……それで、最後にしますので。どこにいたって、見つけ出して見せます』

 まるで学生の告白のようだ、と内心で自嘲する。そう、それが俺のタイムリミット。それは言わなかった。同情を買いたいわけじゃあないし……夢は売っても同情を買うのはプロデューサーの仕事じゃないって、そう思うから。

 だからだろう。彼女は頷かなかった。けれども否とも言わなかった。

 俺は小さく会釈をした。そして期待と不安のないまぜになった別れの言葉を告げる。

『それじゃあ、また』

 ……それからの記憶はあまり覚えていない。ただ、俺は夢を終わらせることを決めたことだけは覚えていた。

 俺のケータイの履歴、その一番上には……あの社長の電話番号が残っている。

本日はここまでになります。
次回が最後になると思います。早ければ夜半にでも。
ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □




 時間まで、あと十五分だった。

 ケータイを求めてさすらい、たどり着いたあの交番の前。環状鉄道のターミナル駅そばの広場に俺はいた。

「いやはや、実に楽しみだな。君がどう、プロデューサーであることを証明してくれるのか」

 そして隣には社長もいた。俺が電話で呼んで、来てもらったのだ。急な話だったのに、快く来てくれたあたり、やはり器の大きな人だと思う。

 ただ、やたらとウキウキしていた。どうも電話で相当の啖呵を切ったようだ。俺が。……そこまでやった記憶がさっぱりないだけに、とてもこわい。

『ええ、きっと証明して見せますよ』

 だから、俺は上乗せ倍プッシュで啖呵を切る以外にできることはなかった。それがただの空元気でしかないことを知りつつ、だ。

 ……そう。この三日間、俺は待った。待ち続けた。だが彼女からの電話はなかった。それを恨んだりするつもりは毛頭ないけれど、それでもひどく落胆した。

 落胆して、それでもここにきている。悪あがきだろうか。いや、悪あがきなのだろう。社長まで呼び寄せて、まるで馬鹿みたいだ。

(はは、馬鹿はもともとだったかな)

 小さく自嘲する。そうじゃなきゃ、こんなザマでプロデューサーになろうなんて思うはずもない。

 するとその様子を見てとったのだろう。社長が尋ねてくる。

「おや、どうしたのかね。もしや、緊張しているのかな?」

 しないはずがないじゃないか、という言葉を飲み込んで、しかしそれでもある程度の本音を込めて返答をする。

『していない……と言えば、嘘になりますね』

「そうか。それはなぜかね?」

 ふと、社長が訊いた。なぜ? なぜもなにも、と思いながら俺は時計を見た。あと十分もない。これが俺の選んだことなのだから、誤魔化すことなんてしなかった。

『……正直に申し上げれば。もうすぐ、社長に謝らないといけないかもしれないから、でしょうか』

「ほう?」

 社長の眼光がぎらり、と光る。

「私をだまくらかした、という事かね」

『……っ』

 おもわず、びくりとする。だがかつての俺に向けられた、無責任ともいえる期待と失望。それらとは根本的に違う。今回ばかりは自業自得だ。俺が悪いし、どうしようもない。

 でも、だからこそ。

『け、結果的には、そうなるかもしれません。ですが、後悔はないです』

「……なるほど」

 社長は何かを考え込む素振りをした。そして数瞬後、

「ではそうだな。例えばの話をしよう」

 と言った。

『例えば……ですか』

「そうだ」

 そして彼は、なんとも耳を疑う発言をした。

「君がプロデューサーたり得るとの証明が出来たかどうかを問わず、君を採用すると私が言ったらどうするかね?」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃。俺を採用? プロデューサーとして? さっきとは別の意味で、体が震えた。夢が叶う。

 拒む理由なんて、無かった。

『――お』

 だのに。

『お断り、します』

 脳裏を過ったのは彼女の後ろ姿。どうしても焼き付いて消えないそれが、どうしようもなくその言葉を言わせた。

「……理由を聞いても?」

 ぎらついた社長の目に射すくめられながら、それでも身を震わせて応える。

『……証明するって、言いましたから。是非もなく、は違います。約束ですから。それに――』

 彼女の姿を思い浮かべて、

『今の俺はただのプロデューサーじゃなくて……“彼女”のプロデューサーになりたかったんです』

 そう答えて刹那。りぃん、りぃん、と広場に聞こえるように大きなチャイムの音が響いた。時計をみる。

 時間だった。

『社長、申し訳ありません。どうやら……証明は出来なかったみたいです』

 情けなくも、それでも笑顔を浮かべ、俺は社長に向き直って頭を下げた。後悔がないわけではない。親父とお袋に定められた期限自体はまだもう少しある。それでもこれが俺の夢の終わりだ。

 けど、これで良かった。

 この後悔は納得できる後悔。けれど、社長の申し出を受け入れていればそれはきっと、納得できない後悔を生んだだろう。

 直角に腰を折って頭を下げ続け、社長の言葉を待った

「君が何を以て証明としようとしたか、それは分からん。だが君が口先だけでだまくらかそうとしたわけではない、とは分かった。……頭を上げたまえ」

 俺はまだ、頭を上げない。ひどい裏切りをしたと分かっているから。それに、そんなに軽い約束ではなかったと、今も思っているから。

 そんな俺の様子を見たのか、頭上でため息が聞こえた。

「好ましい性質ではあるが、なんとも一途すぎる男だな、君は。一念岩をも通す、という奴かね。もういい、頭を上げたまえ。三度は言わんぞ」

 その言葉で、ようやくゆっくりと頭を上げる。恐る恐る社長の顔を見た。彼はどこか愉しそうにしている。

「さて、改めて訊きたい。私のプロダクションに、君の様なプロデューサーは実に相応しいと思っている。君は十分にそれを見せてくれたと思っているのだが。……どうかね?」

 社長は再び、俺にそう問いかけた。だから俺もこう、応えよう。

 やはり、俺は何も証明していません。だから、その申し出は受け入れられません。

 そう、言葉にしようとした刹那。

『――っ! ちょっと、待っててください!』

 口から出てきたのはそんな言葉。そして取るものも取りあえず、俺は駆けだす。

 行き交う人の雑踏の中、何かが見えた気がした。ひどく遠い。手を伸ばそうとして、つんめのった。それでも、追った。永遠にも思える一瞬、一秒だった。

 そして――。

「……本当に、見付けるなんて、思わなかったよ」

『……はは、だって、そう、言いましたから』

 彼女がいた。彼女が来てくれた。

「ほんとは来るつもりなんてなかったんだけれどね。でも待ちぼうけだって思ったらかわいそうだって思って」

 少し複雑そうに、けれどすっきりしたような表情でそういう彼女の瞳は、どこか、なにかを見据えているように思えて。それでもまだ、信じ切れない俺は、

『そういう事と、思っても……良いんですか?』

 そう問いかけてしまう。

「……なに? アンタが言ったんでしょ。この時間に待ってるって」

 信じてなかったの? とばかりに、ちょっとばかり不機嫌な口ぶりでそう答える彼女。ちょっと理不尽だと思ってしまうけれど、もう、そんなことはどうでも良くて。

『ええっと! そういうわけでは!』

「……ふふ、冗談だよ。もし本当に私を見つけるなら……アンタの言ったことを信じてみようかなって。今はそう思ってるんだ」

 そう言いながら見せる、はにかむような笑みに俺はもう駄目だった。思わず熱くなる目頭に、天を仰いで。眩しさなんて気にも留めず、見開いた目から涙がこぼれないように瞬いた。

『……あっ!』

 そして思い出す。社長が放ったらかしであることを。それから、目の前の彼女を見て、

『ぜひ、紹介したい人が居るんだ。ついてきてほしい!』

 と手を取ってそして歩み始める。

「あっ、ちょっと……!」

 少し頬を赤らめて抗議する彼女だったけれども、今の俺にはかわいいなあ、なんて蕩けきった考えしか思いつかなかった。

『社長! 社長! この子です、この子が俺の証明です!』

 幸いにも社長は残っていてくれた。時計を見れば、十分ほどその場に放っておいたことになる。が、不思議と罪悪感はなかった。それよりもずっと、高揚感の方が強すぎたからかもしれない。

「君、仮にも上司になるかもしれん人間を放っておいて、それが第一声かね?」

 そんなお小言と苦笑だけで済ませてくれたのは、やはり眼前の人物の器がこれでもかと大きい証左なのだろう。

「それで……その子が証明だと?」

『はい。この子は絶対にトップアイドルになります。それが俺の証明です。……何も“持たざる者”の俺が言っても、説得力はないかもしれないですけれども』

「わはは、驚くほどぞっこんだな。なるほど……、なるほど……」

 じっと、社長は彼女の顔を見た。いまいち状況を理解していない彼女は、少しばかり困惑しながら、

「ねえ、この人は……?」

 と俺に問いかけてくる。

『新しくアイドルのプロダクションを立ち上げるらしい、社長だよ』

「らしいって……」

 呆れたような表情で俺を見る彼女。あれ、そう言えば……。

「ところで君、彼女の名前は何というのかね?」

 社長が俺に尋ねた。そう、それである。

『ええっと……』

 今の今まで、俺は彼女の名前さえ知らなかったのだ。なんという事だろう、思わず頭を抱えそうになる。

「……ぷっ」

 一つ、かわいらしい吹き出すような笑い声。俺の様子を見て、彼女も得心したらしい。そして、俺の代わりに、

「凛。渋谷、凛って言います。今までずっと、名前も聞かれませんでしたけど」

 彼女――渋谷さんはちょっとばかり不満そうに名乗った。本当に申し訳ない、と思いつつも。その名前は良く彼女を表した、似合っている名前だ、と思った。

「ほう? なんともはや、君に良く似合っている名前だ」

 だが社長に先に言われてしまった、と少ししょぼんとなる。そんな俺の気を知ることなく、満足げに笑い、そして言葉をつづけた。

「さて、そこの彼から話を聞いているかも……いや、この様子だとさっぱり聞いていなさそうだな。ともかく、私は新しくアイドルのプロダクションを立ち上げようと思っている。君にはその、最初のアイドル候補となってもらうつもりだ」

「それは……何となくわかりました。それで……あの、この人は?」

 渋谷さんは俺の方を見た。よく考えれば今の俺の立場はとてもふわふわとしている。何せ、社長からの勧誘を断ったばかりなのだから。

「おお、そうだな」

 それに気付いたらしい。どこか、社長は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「彼には是非とも、我がプロダクション初のプロデューサーになってもらおうと思っていたのだが、先ほど断られてしまってね。さて、どうしたものか……」

 聞いた瞬間、ばね細工が跳ねるように俺の背筋がぴん、と伸びる。

『社長、先ほどはすみませんでした!』

 そして腰を直角に曲げ、頭を下げた。ほんの十分前の自分をぶん殴りたくなるが、幸いにも頭上から、剛毅な笑い声が聞こえる。

「わははは! 冗談だよ、冗談。ほら、三度は言わんと言ったぞ」

 なんだか既視感を覚える形で、恐る恐る頭を上げた。やはり社長は笑っている。

「君はさっき、自分を“持たざる者”と言ったね。確かに、それはそうかもしれない。だからこそ、君の“持てる限り”の証明、確かにこの目で見届けた。ふふふ、実に良いものだ」

『では……?』

「うむ。よくぞここまで一念を通した。それだけではない。君は“意地”と“筋”まで通した。生半な人間では、そうはいかない」

 そして社長は俺に手を差し伸べる。満面の笑顔と共に。

「ようこそ、我がプロダクションへ。未だ名もなき会社だが、君を、君たちを歓迎しよう。必ずや、彼女をトップアイドルにしてみてくれたまえよ?」

 もう、迷うことはなかった。迷う必要もなかった。

 その手を、しっかりと握って、俺は声を張り上げる。

『はいっ、よろしくお願いします!』

「うむ。では、渋谷さんのプロデュースは君に一貫して任せることにしよう。君が見込んだアイドルだ、当然のことだが頂点を目指してもらう」

『……っ! もちろんです。必ず、渋谷さんなら成し遂げるだろうと、確信していますから』

 俺はゆっくりと彼女へと向き直った。その顔を、そして目を見据える。不足なし、とばかりに見返してくるそれに、俺はどこか嬉しく思いながら言葉を紡いだ。

 ようやく、胸を張ってこう言える。

『渋谷凛さん。どこまでも至らないけれど、俺が君の”プロデューサー”です。でも君を必ず、トップアイドルにしてみせます。だから……よろしくお願いします』

 彼女は、どこか強気で、でも純粋な目のまま答える。

「ふうん……アンタが私の”プロデューサー”? ま、悪くないかな」

 そして、少しだけ笑って。

「……私の人生を変えてくれるって、今は信じてるから。だから、応えてよね、“プロデューサー”?」

 そう言った。だから俺も、

『ははっ。ああ、もちろんだとも!』

 笑って、そう言った。

 俺の夢は、叶った。――いや。

 これから、叶い続けるのだろう。彼女と共に。

□ ―― □ ―― □




 まばゆいばかりの舞台で、彼女が照らし出されている。そして掲げられる、一つのトロフィー。それは、その年一番活躍したアイドルへと捧げられる最高の栄誉を示すモノ。

 それを、愛おしそうに受け取りはにかむ彼女の姿。初めて会ったときよりも幾分柔らかく、しかしその徹底的なまでのひたむきさはついぞ、変わることのなかった勇姿で。

 ……ほんの数時間前に見たそれは、瞼を閉じると今でもありありと思い浮かぶ。

『……本当に、トップアイドルになっちゃったな』

 俺は巨大なホールの楽屋に座り、ぽつりと呟いた。もちろんそれは喜ばしいし、誇らしい事だ。なにせ担当アイドルが、名実ともにトップアイドルとなったのだから。

 それもシンデレラガールズ・プロダクションと名付けられた、立ち上げて三年の新興プロダクション初の快挙。社長の喜びようは半端なかったし、他のプロデューサーたちは俺を揉みくしゃにして祝ってくれた。

 だからこそ思う。これは夢なんじゃないか、と。ふとした拍子に目を覚ませば、俺は田舎に居て、家業を継いでいるただの一般人なんじゃないか。そんな思いが消えない。

 俺と、社長と、そして渋谷さんと始まった小さなプロダクションは、僅か三年で押しも押されもせぬ巨大プロダクションになった。

 その間俺は何をしていたかって言うと、ずっと“半人前”のプロデューサーだった。なにせ“持たざる者”ってのは変わらなかったから。

 だから後から入ってきたプロデューサーに頭を下げて、そしてこれでもかっていろんなことを教わった。それが俺の“持てる限り”だと思ったから。

 本好きで超過労働がちなプロデューサーからは様々な知識を。

 愛嬌のある冷徹怜悧なプロデューサーからは効率的な業務のコツを。

 お調子者な遊び人のプロデューサーからは息抜きのやり方を。

 天才肌のプロデューサーからは人を信じることの大切さを。

 いつも誰かを手助けしているプロデューサーからは直感の重要さを。

 とんでもなく正直者なプロデューサーには決して夢を諦めない執念を。

 それらを十全に吸収できたかどうかは怪しいけれども。それでも、何一つ嫌がることなく彼らが教えてくれなければ、きっと今の俺の立場はなかった。彼らのおかげでこのプロダクションは大きくなったのだから当然だろう。それは間違いなく言い切ってもいい。

 ……まあ、流石にプロダクションのビルが竣工するまで、受付がてらいろいろな業務を押し付けられるとは思わなかったけれども。それもエントランスホールが仕事場だったから笑える絵面だったに違いない。

 でもそのおかげで、彼らと話をする機会が増えたのだから社長の慧眼には感謝しかない。もっとも事務員を雇うまでの繋ぎだ、なんて社長は言っていたけれども。

 そうそう、事務員で思い出した。俺が夢を目指すきっかけとなったあの動画のアイドルは、なんと正直者なプロデューサーが手掛けたアイドルだったのだ。

「へえ、なんだか嬉しいな。こんなに優秀なプロデューサーが生まれるきっかけだなんて……あの時俺たちのやってたことは間違いじゃなかったんだなぁ。ねえ、ちひろさん?」

 しかもそのアイドルが引退後、事務員としてシンデレラガールズにやってきたのだから俺の興奮はすごかった。その時に向けられた渋谷さんからの冷たい視線で素に戻ったのは、今となると笑い話だ。

 そんな憧れの人たちより先に入社して、ある意味先輩になってしまったのだから恐縮しっぱなしで。それを知っているあの人たちは笑って、事あるごとに俺のことを先輩って呼んでくる。とても性質が悪いと思う。

 けれどそれがどうしようもなく嬉しくて、楽しくて。俺の夢が。絶対に無理だって思っていた夢が、どんどん叶っていく。気を抜けば小躍りでも始めそうなくらい幸せ過ぎて、本当にどうにかなりそうだった。

「――あっ、プロデューサー。ここに居たんだ」

 そんな感傷に浸る俺へ、掛けられる凛とした声。それに気づいて、俺は立ち上がる。そこに居たのは、あのトロフィーを持った、ドレス姿の渋谷さんの姿。

『渋谷さん、おめでとう。凄く綺麗だった』

「相変わらず、褒め言葉ばかりは一人前なんだから」

『はは、すっかり俺も、渋谷さんの尻に敷かれちゃったからね』

「もう……」

 呆れたように、けれどはにかむ彼女の姿は、とても魅力的だった。こんなかわいくて、綺麗なアイドルが俺の担当だなんて、今でも夢みたいだと思う。

 結局、この三年間で彼女にしてあげられたことなんて、どこまで行っても“半人前”だった俺には片手で足りるほどでしかなかった。

 それでも渋谷さんは俺を信じてついてきてくれた。もうすっかり“一人前”に見える彼女が、ずっと。だから俺は思っていた。

 もう十分すぎるくらい、彼女に夢を見せてもらった。俺の人生を、こんなにも変えてくれた。彼女に頂上の景色を見せてもらった。これ以上――。

「“これ以上、俺が重荷になるわけには行かない”……なんて、考えているんでしょ、プロデューサー?」

 どくん、と心臓が跳ねた。考えていたことをピタリ、と言い当てられたのだから当然だろうけれども。見やれば、少し不機嫌そうな渋谷さんの顔。

「あのさ、プロデューサー。私がここまでこれたのはプロデューサーがいたからだよ。なのに重荷なんてはず、ないじゃん」

『え、いや』

「そもそも、自己評価がちょっと低すぎるんだよね、プロデューサーは。昔どうだったかは知らないけど、他のプロデューサーからなんて呼ばれてるか知ってる? “俺たちの良いとこ取り野郎”だよ?」

 嘘でしょ。なんて大層なあだ名だろうか。初めて知った。渋谷さんも思わずふふ、と笑っている。

『はは……まあ、でも俺は“半人前”だからさ。できる限りのことをやっていかないと、渋谷さんに置いて行かれちゃうって思って』

「向上心があるのは良い事。でも自信も持ってほしいよ。私の、その。自慢のプロデューサーなんだから」

 そう言ってから、恥ずかしそうに渋谷さんはそっぽを向いた。何となく、俺も恥ずかしくなる。そんな風に思ってくれているなんて、ちょっと思いがけなかったから。これも夢なのだろうか。頬をつねる。痛かった。

 俺の様子を見て、渋谷さんは笑う。

「夢なんかじゃないよ。夢なんかじゃ」

 そして、渋谷さんは思い出したように、

「……そうだ、プロデューサー。あの約束、覚えてる?」

 そう訊いてくる。

『もしトップアイドルになったらって奴か』

「うん。願い事を聞いてくれるって、言ったよね」

 もちろん、俺は覚えていた。忘れるはずもない。本格的に彼女のプロデュースを始めた日に交わした約束。

『ああ。俺に聞けることなら、なんでも』

 だからそう答えた。自慢じゃないけれども、彼女との約束は一度だって破ったことがない。どんな些細なことでも、一度交わした約束は絶対に守った。

 どんな難題でも応えて見せよう。そう覚悟をしたのに、けれども、彼女から飛び出た願い事は――。

「“凛”……って、そう呼んでほしいな。いつまでも“渋谷さん”なんて、他人行儀だから」

 そんな、些細なお願い。思わず目を丸くする。そう言えば、確かに渋谷さんのことをそう呼んだことはない。ほかのプロデューサーは下の名前で呼んでいる人もいるのに。

『そんなのでいいのか?』

「うん。それがいいの」

 それが彼女の願いなら、否応もない。それに……きっと、俺は彼女を。

『分かったよ……り、凛』

「……うっ、お、思ったよりも、恥ずかしいね」

 ずっと、こう呼びたかったのかもしれない。嬉しそうに、けれども恥ずかしそうにはにかむ凛の姿をみてそう思う。

「……ねえ、プロデューサー」

『うん?』

 凛が一歩、俺に近づいてから声をかけてくる。

「プロデューサーは自分のことを“半人前”って言うけどさ」

『うん』

「私だって、何も知らなかった私から、ようやく“半人前”のアイドルにはなれたと思ってるんだ」

『……うん』

「てことはさ」

 俺を見上げ、少し熱っぽい視線で見上げる彼女と目が合う。そこに、もう胡乱なものはどこにもない。

 あるのは、大切な何かを見据えた一人の少女の姿。

 そして凛は、笑った。少しだけ、背伸びをしながら。

「私も“半人前”で、プロデューサーも“半人前”なら、二人で“一人前”ってことでしょ。……だからね、プロデューサー」





「これからもずっと、プロデュースしてよ……ずっと、ね?」

 それが、凛からのプロポーズだったことを知るのは、少し後の事で――。




 ――これはとある“持たざる者”とアイドルの、二人で“一人前”の物語。

今回の更新で、この作品は完結となります。
またシリーズと言えるかどうかは分かりませんが、七人目の正直から始まった一連の作品群もこれで終わりです。
構想してから都合六年でようやく終わることが出来ました。
読んでいただけた方々には感謝しかありません。ありがとうございました。

それでは、HTML化の依頼を出しておきます。今までお世話になりました。

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