【ミリマス】さかしまの欠片 (48)

「視覚障害、ですか?」

耳を疑った。仕掛け人さまは、冷静な同じ調子の声で説明を続けた。

「『障害』という言葉が適切かどうかは、現時点では判断できません」

普段と同じような中立的に響く敬語が、
混乱する私を落ち着かせる唯一の発話であることを理解しているのだ。

「紬さんは、大丈夫なのでしょうか」

私は思わず尋ねたが、
一体何に対して『大丈夫』かを問うているのか、自分でもよく分かっていなかった。

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「日常生活に困難が生じるのは間違いないでしょう。
 しかし、私たちとは違った、何か特別なものを見ることもできるようです」

「特別なものって、何ですか?」

言い回しがあまりに婉曲的に聞こえて、思わず語気が強くなってしまった。
分かっている。仕掛け人さまは誠実に事情を伝えようとしてくれている。

取り乱してしまった、私が、悪い。

「お互い冷静ではないようですから、ちょっと深呼吸してみましょうか」

そう言って仕掛け人さまは大きく息を吸って、吐いた。私に命令するのではなく、促している。
普段は素直に感謝できるその手法も、今回ばかりは焦ったくて仕方がない。

「何も分かりません。紬さんはどうなっているのですか」

「現時点で分かっていることは他にありません。
 今こうして僕がスチュアートさんに説明しているのも、白石さんたっての希望があったからです」

「紬さんが、私に……」

仕掛け人さまは浅く頷いた。

「倒れたところを隣で見ていたはずだから、きっと知りたいだろうから、教えてあげて欲しいとのことでした。
 もちろん、このことは他言無用でお願いします」

言葉が出なかった。考えがまとまらなくて、出し抜けに放り込まれた虚無に怯んだ。

ひとつ確かなことは、紬さんは倒れてから2日も経たないうちに、
とてつもなく重い不幸を抱えながら、他人を、この私を、慮って行動したのだ。

その配慮が、心身の余裕から来るものだと信じたかった。

「私は、どうすればいいのでしょうか」

「待つしかありません。今はまだ」

私の傲慢とも言える疑問に、仕掛け人さまはどこか遠くを見るような表情で応えた。

私が紬さんに会うことを許されたのは、それから3日が経ってのことだった。

許された、と言っても私から能動的に動いたわけではなく、
紬さんの方から、仕掛け人さまを経由して私にまで連絡が届いたのだった。

「一応、僕も同行しますが、病室に入るのはスチュアートさんひとりです」

「仕掛け人さまは、何か知っているのですか?」

「何か、というと?」

私が呼ばれた理由。仕掛け人さまが同行するのに、病室には入らない理由。紬さんがいつ退院できるのか。
そもそも具体的な症状も分からなければ、紬さんに対して配慮のしようがなく、
私がこの3日間何もできなかったのは、そのあたりの不安もあってのことだった。

「そうですね。僕も、あれからの白石さんとは、まだ2回だけしか面会できていませんが……」

仕掛け人さまの言葉は珍しく不均等で分かりづらく、
紬さんの仕事の予定が変更され、その空白を埋めるために奔走したはずの連日の疲労が窺えた。

「とにかく、来月後半の公演に関しては予定を組み替える必要がありそうです」

ぼそりと、残念さを覆い隠すような声で仕掛け人さまが呟いた。

月に2回の劇場公演。来月の後半は、紬さんが座長を務める予定だったのだ。

「勿論、公演には出ます」

紬さんは当然とばかりに言い切った。

「そもそも、父も母も心配のしすぎなのです。仕事を放り出してまで東京に来てしまって……
 プロデューサーの対応だって、大袈裟に過ぎると思いませんか」

健康そうな声だった。顔色も悪くはない。病室にいるのが不思議なくらい、紬さんはいつも通りに見えた。

「紬さん、私はこっちです」

取り返しのつかない、感覚の異常を除いては。

紬さんは窓の方を向いて喋っていた。
もう5日間も入院しているはずなのにこの状態なのだから、病室の構造すら把握できていないのではないか。

「……こほん。と、とにかく、私は大丈夫です。プロデューサーにもそう伝えておいてください」

「……できません」

自分の声が掠れているのが嫌だった。

口が渇いて、怯えるようにして縮こまったまま座っている自分が嫌だった。

紬さんと目を合わせられない自分が嫌だった。

「やはり、信用できませんか」

「紬さん、私は……せめて今回だけは、無理をせずにお休みなさった方が良いと思います」

「エミリーさん」

白くて細い、綺麗な指が伸びて、膝の上で固く握られた、私の拳に触れる。

「信じて貰えないかもしれませんが、本当に、見えていないわけではないのです」

紬さんの指先はひんやりとしていた。

「むしろ見えるものが多すぎて、ものの輪郭を悟るのが多少困難であるというだけです。
 エミリーさんのことも、今しっかりと見つけました。もう見失いません」

じっと見つめられて、喉の奥がほんの少し震えた。

「風が、呼吸によって折り畳まれるさまを見ることができます」

「え?」

「光の指や、水滴に潜む昏い秤が見えます。
 エミリーさんのすがたに西日の螺旋のような輪郭が覆い被さって、色彩が循環する刹那を見ることができます」

「紬さんは、何をおっしゃっているのですか?」

「悪いことばかりではないということです。エミリーさん、私は大丈夫です。
 両親も分かってくれました。明後日から、みなさんと合流します」

紬さんは、こうも話を急ぐような喋り方をする人だっただろうか。
たとえ私でなくとも理解に時間を要するような発言を、こうも遠慮なく連ねる人だっただろうか。

紬さんは、あまりにも遠くの世界に行ってしまったように思えた。
私はできるだけ紬さんに共感しようと努力して、その途方も無さに歯噛みする。

身勝手な恐れだ。
そして、紬さんが劇場に戻って来るのなら、それは見ない振りをするしかない恐れでもあった。

「できません」

仕掛け人さまは平坦な声で言った。

「次の公演に、白石さんを出すことはできません」

「私は大丈夫です。公演にも──」

「親御さんに手を引かれ、覚束ない足取りでやって来たあなたの言葉を信用するわけにはいきません」

仕掛け人さまの顔は能面のように冷たくて、
一切の亀裂を許さない堅牢な意志を、隠そうともしていなかった。

「それは……まだ、慣れていないだけです」

「僕が白石さんと、白石さんのご両親に伺うことがあるとすれば」

仕掛け人さまの視線は、紬さんの『目』に真っ直ぐ衝突した。

「その目のことを、公表するか否か。
 もし公表するのであれば、どこまで伝えるか。その判断のみです」

「公表はします。何も後ろめたいことなどありません。その上でステージに立ちます」

紬さんのぴしゃりとした姿勢に耐えかねたように、仕掛け人さまの眉が微かに動いた。

「嫌な方向に吹っ切れましたね。
 僕には、白石さんが今回の公演にそこまで拘る理由が分かりません」

紬さんは口をつぐんで、ただ立っている。

「僕は、あなたの視界がいかに難しい状況か体感することができません。
 ただ、目の前に2人以上の人間が立っただけでも、あなたが混乱してしまうことは知っています」

私という部外者がいる状況で、仕掛け人さまは平然と紬さんの困難を明かした。

だから、私はひとりで病室に入ることになっていたのだ。

「それは過去の話です。今の私は、この劇場にいます。
 心配性の母に手を引かれてのことですが、人が行き交う街中を、歩いて、ここに辿り着いたのです」

紬さんの声は少し誇らしげだったけれど、
やはりどこか必死に諭すような響きがあって、だから、私は──。

「スチュアートさん」

仕掛け人さまが、突然私の方を向いた。

「あなたの目から見て、白石さんはステージに立てる状態だと思いますか」

紬さんが、少し後ろめたそうに私を見た。多分、逃げ場はない。

どうしてこの場に自分が呼ばれたのだろう。
足元が歪んだような錯覚に、頭が痺れた。

期待された答えではないだろう。
私が滑らせた言葉は、ある意味とても無責任なものだった。

「……私には分かりません。ですが──」

「エミリーさん、ありがとうございます」

紬さんは練習着に着替えて、軽く喉を鳴らしながら微笑んだ。

「エミリーさんからいただいた、このチャンスを無駄にはしません」

機会を与えるというような、自信ある行動をしたつもりはなくて、
私はただ不確実な未来に託してしまっただけだ。つまり、難しい判断を放り投げたのだ。

紬さんは立ち向かうような表情をしていた。
けれど、私は逃げてしまったから、言葉を返すことができなかった。

それから紬さんは、鏡面が奥行きを映し出す部屋の、ほぼ中心の座標に立って、ひとつ大きく息を吐いた。

「では、いきます」

スピーカーから音楽が流れる。
紬さんの第一声が、やや上ずった調子で始まって、すぐに正しい軌道へと合流する。

肩から肘へと、そして手首、指先まで続く一連の運動が羽のように軽く廻って、
待ちわびたように左足が踏み出される。

仕掛け人さまは、臨戦態勢で紬さんを見守っている。
多分、もし『何か』があった場合に、すぐに対処できるように立っているのだ。

26秒の間、紬さんの表現は完璧だった。

もしかすると、過去最高の地点を跨いだかもしれなかった。けれど。

私にとって、その瞬間は驚くほどゆっくりと訪れた。

調和が砕けたように、影がゆらりと傾いて、私は思わず硬直した。
仕掛け人さまは、既に足を踏み出していた。

転倒。

仕掛け人さまに遅れる形で、私は紬さんのもとへ駆け寄った。
同時に、私の足が動いたのを見て、仕掛け人さまは刹那の逡巡の後、静止した。

紬さんは、まるで目の前に足場が存在すること自体が、
信じ難い異常であるかのような顔をしていた。

床に横たわるような状態になってようやく、自分が転倒したことに気付いたのだ。

「紬さん、大丈夫ですか!」

仕掛け人さまが静かに遠ざかる足音が聞こえた。
この場を任されたことに、心の中で悲痛な呻きが産まれた。

かける言葉なんて持っていないのだ。
仕掛け人さまが私に何を期待して退いたのか、どうしても分からなかった。

無責任な私は、ただ紬さんの手を握るしかなかった。

「紬さん。紬さん、私はここです」

強く、強く、握って、願う。
やり場のない感情が震えて、それすらも押し込めたくて歯を食いしばる。

紬さんはすぐに、どこかほっとしたような表情になって、それから自嘲気味に笑った。

「この視界は、人の棲処ではないのでしょうね」

それは私には聞こえて、仕掛け人さまの耳には届かない程度の弱音だった。

だから、私は同じような声量で尋ねた。

「紬さんは、どうして……」

続く言葉を吐き出すことができたなら、誠実さを失わずに済むかもしれない。
でも、その答えを聞くことは、私にとって奈落に踏み出すほどの覚悟が要ることなのだ。

これ以上、紬さんを遠くに感じたくはなかった。

私の恐怖をよそに、紬さんは、きっと重く苦しい声を絞り上げた。

「エミリーさんには、分かっていただけるのではないかと思いますが」

その前置きが、微かな希望に思えた。

「ここで一瞬でも足を止めてしまうと、
 もう二度と立ち上がることができないような気がするのです」

実態のない敵を見据えるようにして、紬さんの目が、水面に浮かぶ波紋のように揺れた。

「うちは、まだ何も残してない」

頭の中はもうぐちゃぐちゃで、私は胸に溢れるうねりを制御できなかった。
紬さんに何か大事なことを言わなくてはならないのに、
その言葉が何なのか、どうしても、分からないのだ。

時間切れを告げるように、仕掛け人さまが近づいてくる。
私より先に、紬さんが立ち上がった。

「白石さん」

「私をこの世界へと招いたのは、貴方です」

きっと優しい言葉が掛けられるはずだった。でも、紬さんはそれを遮って言った。

「ですから私は、たとえ貴方の優しさであっても、
 いえ、貴方だからこそ、譲りたくはないのです」

仕掛け人さまが怒らなかったのは、叱らなかったのは、
紬さんの言葉を知っていたからなのだろうか。

「できません」

仕掛け人さまは首を振って、決定的な一言を放った。

「僕には、あなたたちの未来を守る責任があります」

心臓が、どくんと跳ねた。
仕掛け人さまの言葉は、私が求めた優しい言葉と、とてもよく似ていた。
でも、似ているということは、決して同じではないということでもあった。

紬さんは、壁にぶつかって砕けた氷塊のような気配で立ち尽くしている。
身体はそこにあるのに、心はばらばらに見えた。

「そんなん……言われたら、もう」

26秒間、あれほど美しく動いた腕が、だらりと垂れ下がって、
顔は俯いたまま、今にも終わってしまいそうな願いが、そこにはあった。

私は、紬さんの痛切なことばを思い返した。

「怖いのですか?」

時間が、ぴたりと止まって。

それから、空間が静まり返った。

2人が私を見ている。先程の発言が自分の口から飛び出したことに、
私は今この瞬間になってようやく気が付いた。

「エ、エミリーさん?」

紬さんはぎょっとしているみたいだった。
自分の耳を疑ったに違いない。私は心の中で、紬さんに頭を下げる。

びっくりさせてごめんなさい。

差し出がましい真似をしてしまって申し訳ありません。

でも、それでも。

「何か言いたいことがあるようですね」

仕掛け人さまは私を追い詰めるように尋ねて、
でも、それほど怒っているわけでもなさそうだった。
その表情はむしろ、何か大切な答えを心から待っているようにも見えた。

「責任、なんて、強い……ただ強いだけの、言葉を使って」

しどろもどろになりながら、私はなんとか口を動かす。
嫌な汗が止まらないし、今この瞬間にも既に後悔しているけれど、
2人は何も言わずに耳を傾けてくれている。

「仕掛け人さまは、意外にも臆病な性格をしていらっしゃったのですね」

はしたないことかもしれない。だってこれは代弁ですらないのだから。

この感情は紬さんの抱える、悔しさとか、悲しみとか、そういうものとは違う。

この怒りは、私自身の怒りなのだ。

開演を告げるアナウンスがあって、幕が上がれば、そこには幾つかの光がある。

どれもまばゆい光だ。選ばれた光。
ひたむきに輝けるように、ゆっくりと磨かれた時間。

「この視界は人の棲処ではない」と紬さんは言った。
人が、水の中では息すら上手に吸えないように、
世界に置き去りにされる感覚は、きっと途方もなく哀しい。

疼痛のような息苦しさを、いったいどれだけの人と共有できるだろう。

例えば、どんなに言葉を弄しても、一番欲しかった文化精神には届かないように。

「隣、失礼します」

低く優しい声に会釈を返そうとして、スーツ姿の男性を見上げる。

私は硬直するしかなかった。

仕掛け人さまは静かに腰掛けると、関係者席を見回して、一度ふう、と息を吐いた。

「僕たちだけのようですね」

「……はい」

「まあ、彼女たちのスケジュールを管理しているのは僕ですから、
 スチュアートさん以外がここに来れないことは知っていましたが」

「……はい」

仕掛け人さまは、私の受け答えに一度怪訝な顔を見せて、
それからすぐに「しまった」と呟くと、急に不自然なほどにこやかになった。

「紬さんから、何か聞きましたか」

「いえ……ただ、見ていて欲しいと」

「そうですか」

最初の全体曲は終わりに近づいていって、
客席の熱と、皆さんの声が混ざり合って反響する。

舞台の上に、紬さんの姿はない。

「ソロ曲だけの出演です。床に押し上げてもらう形で、
 その場から一歩たりとも動かないように言ってあります」

「ありがとうございます」

なぜかその言葉だけは、すらりと口から溢れた。

「紬さんは、残さなくても良いのだと気付いたそうです」

その言葉はまじないのようで、意味を捉えるのが少し難しかった。

「え?」

「ただ、返したいのだ、と」

「返したい……」

「話が抽象的すぎて、僕には分かりませんでした」

その言い方は、
自分以外の誰かならきっと分かってあげられると信じているかのように、私には聞こえた。

「次、出番です」

仕掛け人さまが、張り詰めた声で告げた。

その音楽は、あまりに近くで響いた。

床がせり上がって、優しい光線がその姿を明らかにした時、
私は一瞬だけ、紬さんの視界を覗いた気がした。

大気に、光の指が優しく触れて、畳んでは伸ばし、翻っては流れる。

尾びれのように軽くて、儚い世界だ。
一歩踏み出せば、砕けてしまうかもしれないほど脆くて、温かい。

紬さんが歌えば、旋律の波が声を指示するように伸びて、
ささやかな身じろぎに世界は応える。呼応する。循環する。

私たちの記憶は果てしない遠さを帯びている。

口にすれば融けて、無くなってしまうような恐怖も、人も、文化も、すべて。

紬さんが、今よりも素晴らしい未来へと連れて行ってくれるのではないかと錯覚した。

私の独りよがりな感傷ではなく、きっとこの歌を聴いた多くの人々が、そうなのだ。

憧れも時間も越えて、そうあって欲しいと、私は心から願うことができた。

「あっ」

「おや」

私と仕掛け人さまの声は、ほぼ同時に上がった。

紬さんが右手をゆっくりと掲げて、ふたりで予感したのだ。
それはあの鈍い転倒のような悪い予感ではなくて、私は次の瞬間、思わず呼吸を止めた。

全身を導く視界の流れに逆らって、紬さんは全く違う振り付けを魅せたのだ。

あれは、私の曲だ。

私の曲の、私がいちばん好きだった指先の動きを、紬さんはそっくりそのままなぞっていた。

紬さんが何を思ってそう動いたのか、私には覚えがなかった。

でも、大事な『何か』を伝えようとしてくれたのは分かった。
そして、今はそれでいいのだと、心から思うことができた。

曲が終わって、紬さんは美しく微笑んだ。

紬さんがとても大きなものを掴み取ったことを、私は知っていた。

「仕掛け人さま。私、ひとつ素晴らしい発見をしてしまいました」

「発見?」

仕掛け人さまは興味深そうに聞き返した。

「紬さんは、誰かの取るに足らない悩みについて一心に考えるとき」

誰の目にも留まらないささやかな欠片を、それでも掬いたいと願うとき。

「自身の大切な苦悩なんか、すっかり忘れてしまうのですね」

「あなたたちは、とてもよく似ています」

それが、仕掛け人さまの答えだった。

「似て、いるのですか?」

「ええ。頑固で、融通の効かないところが」

「それは……」

「掛け替えのない欠点です。大切に……いえ、違いますね」

仕掛け人さまの表情は、とても晴れやかに見えた。

「どう向き合っていくかは、自分たちで決めてください。僕はそれを尊重しようと思います」

ああ。それはきっと──

きっとあの時、私が一番言ってあげたかったことばなのだ。

「使いなさい」

仕掛け人さまから、青紫の布が手渡されて、
それから堰を切ったように、私の目から涙が零れ落ちる。

「……ありがとう、ございます」

私は悔しいのだろうか、それとも悲しいのだろうか。

いつか抱いた怒りとは違った、大きな激情が全身を支配していて、
嗚咽を必死で押さえつけながら、仕掛け人さまの優しさを受け取った。

分かっている。きっと嬉しいのだ。

報われたことが、終わらなかったことが、そしてまた始まることが。

まるで、自分のことのように嬉しいのだ。

「あ、しまった」

仕掛け人さまは突然、間の抜けた声を上げた。

「今、目が合いました」

「え?」

「僕の隣で、あなたが泣いているのを白石さんに見られました」

「紬さんに、ですか?」

視界がぼやけて、舞台の上に立っているはずの紬さんの輪郭が、うまく掴めない。

「……申し訳ありません」

私は、この後に起こるであろう仕掛け人さまの悲劇を想像した。

「いえ、スチュアートさんの責任ではありませんが……いやあ参った、これは後が大変だ」

「私が誤解を解いておきますから……」

「よろしくお願いします」

今日一番の切実さで、仕掛け人さまは深々と頭を下げた。

「……それと、これは先程の話の続きですが」

仕掛け人さまは、頭を上げないままに話を続けた。

「あなたたちは、心根が優しいところもよく似ていると思います」

何も知らない人が見たら、その恰好は謝っているように見えたかもしれない。

「しかし白石さんの場合、願わくばその優しさを、
 ほんの少しでも僕に割いていただけるとありがたいのですが」

「貴方は卑劣です」

紬さんの第一声はそれだった。

「あの時、私とエミリーさんは一蓮托生だったのです。エミリーさんの発言であれば、私の発言であるのと同義です。確かに私は世間知らずな若輩者であるのやもしれませんが、その程度の責任感なら十分持っていたつもりでした。だというのに貴方は、あろうことかエミリーさんが一人でいる状況を狙い撃ちして、しかも逃げ場のない関係者席で──」

「紬さん、待って、待ってください!」

「いえ、いいのですエミリーさん。たとえエミリーさんが許しても、私が許しません。
 これはエミリーさんとは何ら関わりない、極めて個人的な怒りなのです」

「誤解です! 仕掛け人さまは──」

「……誤解なのですか?」

紬さんは疑わしそうに、仕掛け人さまに尋ねた。

「ええ、まあ、そうですね。誤解だと思います」

「はっきり言ってください」

「誤解です。信じてください」

仕掛け人さまの誠実な印象を感じ取ったのか、紬さんはそれ以上追及することをやめた。

「エミリーさん」

紬さんが、振り向いて私を見つめる。

「は、はい」

「本当に何もされていませんか」

「はい。もちろんです」

私は精一杯の笑顔で応じた。仕掛け人さまが、安堵したように肩を下ろすのが見えた。

「少し、寄り道していきませんか」

私の思い付きのような言葉に、紬さんは迷わず頷いてくれた。

手を引いて歩く。ちらりと振り返って、紬さんはちゃんとこちらを見ていたけれど、
その瞳が本当は何を映しているのか、私には想像もつかない。

当てもなく歩いて、紬さんを身勝手に巻き込んでしまって、辿り着いたのは小さな公園だった。

どちらともなく、木製の長椅子に腰掛けて、風の音がひゅうと鳴ったのを合図に、私は口を開いた。

感謝から切り出そうと思っていたのに、言葉になったのはどこか遠回りな問いかけだった。

「私と紬さんは、似ているとは思いませんか」

いっそ自分のことばにできたら良かった。
でもそれはなんだか後ろめたくて、何より私にはまだ勇気が足りなかった。
だから、言い訳のように付け足すのだ。

「仕掛け人さまがおっしゃったことです。私は腑に落ちたのですが、紬さんはどう思われますか?」

「私とエミリーさんが、似ている……」

肯定か、否定か。小刻みに震える奥歯を噛み締めて、それでも両の目だけはしっかりと開く。
私は、やっとのことで立っていた。

「そうですね」

紬さんが口を開く。そして、微笑む。

「もし本当にそうなら、これほど嬉しいことはありません」

紬さんの瞳が、静かに瞬いた。多分、私の目を写し取ったのだ。

「それは……紬さんの本心ですか」

今なら分かる。紬さんがかつて抱えていたのかもしれない恐怖は、
私の身を竦ませて、背中合わせの言葉ばかりが、口からこぼれるように──。

「私のことばから、何かを『視た』から、そのように応えてくださるのではありませんか」

──紬さんが優しいから、そのように言ってくださるのではありませんか。

「エミリーさん、私は嬉しかったのです」

紬さんは、とても愛おしいものを抱えるような口ぶりで、私をじっ、と見ていた。

「エミリーさんは、私が何も言えなかったとき、プロデューサーにぶつかってくれました」

あの時だ。私が自分本位な怒りを、仕掛け人さまにぶつけてしまった時。
今思い返すだけで恥ずべきことで、私は仕掛け人さまにまだ謝罪すらできていなかった。

「あなたには私が変わってしまったように感じられたのかもしれませんが、
 それは半分だけ間違っています」

「半分、間違い……」

「はい。私はあの瞬間、勇気を貰ったのです。
 私が変わったのではなく、エミリーさんが私を変えてくれた。背中を押してくれたのです」

太陽が遠ざかる気配がした。西からは橙色が伸びていて、それはあの病室での状況と少し似ていた。

「だから私は先日の公演で、エミリーさんにこそ報いたかった」

決定的に違うのは、紬さんが既に立ち上がっていて、私は止まったままでいることだ。

「その、あまりこのようなことを改めて口にするのは、少し気後れしますが」

照れくさそうに、紬さんは笑った。

私は、私こそ、報いなければならないのではないか。

「明日からも、よろしくお願いいたします、エミリーさん」

『明日』という響きが、背中を押してくれるような気がした。

踏み出さなくてはならない。私自身は変われなくても、それでも進まなくてはいけない。

そして紬さんは、きっと何事もなかったように、明日も隣に立ってくれる。

そんなささやかな言葉ひとつで、どうしてこんなにもこころが安らぐのだろう。

全身からあふれては、美しい尾びれのように翻って、私を包む、君だけの言葉。

以上です。

タイトルはさかしまの言葉と君だけの欠片からかな?
乙です

白石紬(17) Fa
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エミリー(13) Da/Pr
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