渋谷凛「テレフォンパンチ」 (11)


ニ月中頃、春を待たずして街は桜色に染まる。

喫茶店、レストラン、スーパーマーケットなど、ありとあらゆる店々で流れる音楽は恋を歌うものが多くなり、限定のチョコレートを用いたメニューや商品が増える。

今年も、バレンタインが近づいていた。


どうしてもアイドルという仕事柄、相手の性別に関わらずチョコレートはもらうことの方が専らであったけれど、渡すことがないではない。

というか、それなりに、ある。

だから、毎年この時期は楽しみであると同時に、思考と準備に追われるのが常だった。

友人と交換する、いわゆる友チョコも準備しなければならないし、お世話になった人々へ贈るいわゆる義理チョコもいる。

それから、父にも用意する必要があるだろう。

お仕事で会う人々へ贈るものは市販のものでいいとしても、その選別もまた中々に手間だ。

しかし、そんな手間も最近は楽しみとなっていた。

理由はなんてことはない。

ただ単に、独りでないからだった。

そして、それは数年前の、今と同じくらいの時期から始まった。


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所属している芸能事務所の休憩室で、私は人目がないことをいいことに、だらりと机に覆いかぶさるように突っ伏しながら、バレンタイン特集と題された雑誌のチョコレートの情報を眺めていた。

机上に立てた雑誌の上を、右から左へ視線を移動させる。

ひとしきり眺め終われば、雑誌を支えている手の親指に力を込めて、ページをふわりと泳がせた。

もちろんそれでは綺麗にページは捲れない。

けれども、私は態勢を変えぬまま、ふうっと息を吹きかけることで横着にページを捲るのだった。

その瞬間、背後から大型の犬が威嚇するような低く鋭い声が私を貫いた。

たまらず私は雑誌を取り落とし、椅子から転げ落ちそうになった。

しかし、結果的には椅子から落ちることはなく、腕を何者かに支えられる形で踏み止まったらしい。

振り返れば、そこにいたのは。

「…………プロデューサー」

にやにやとした笑みを顔面に貼りつけて、私の顔を覗き込む男がそこにいた。

この男こそ、私を芸能界へ引き込みアイドルにした男であり、それから現在に至るまで私のプロデュースを担当している、プロデューサーである。

何するの、という抗議の念を込めて視線を送るも、果たして効いているのかどうか。

にやにや顔をやめないあたり、まるで効いていないだろう。

「誰もいないにしても、ちょっと気ぃ抜きすぎじゃない?」

「……もしかして、ずっと見てた?」

「ふーっ、ってページを捲るの、かわいかった」

最悪だ。

よりによって、一番面倒な相手に恥ずかしいところを見られてしまった。

紅潮していく頬を隠すように俯いて、髪を落とす。

こういうときは、自身の髪が長いことを便利に思った。


「それで、何か私に用事?」


平静を装って、背後のプロデューサーに声だけ飛ばす。

対する彼はと言うと、当然であるかのように私の隣へと腰かけて「んーん。用事らしい用事はないんだけど」とけろりとしていた。


「じゃあなに? 私にちょっかいかけるためだけに来たってわけ?」

「いや、たまには自販機でジュースでも買おうと思って来てみたら、あまりにもお寛ぎの方がいたので」

「それはもういいでしょ。終わったことなんだから」

「あはは。でも、バカにしてるわけじゃなくて、ほら。うちの事務所であれだけリラックスしてもらえるっていうのは、こっちとしては結構嬉しかったりするんだよ」

「……なんで?」

「仕事が辛かったり、嫌だったりしたら、事務所になんてできるだけいたくないだろうからね」

「あー。……でも、それでプロデューサーが嬉しいのはよくわかんないんだけど」

「そりゃあ、俺はアイドル渋谷凛のプロデューサーであり、ファン第一号だからね。自分の担当してる子が十全にパフォーマンスを行える環境にいられるように努めなきゃいけないし、自分が最強だと思ってる子が伸び伸びと活動してるのを見るのは純粋に楽しい」

「そういうものかな」

「そういうものなの。……にしてもさっきのあれは気を抜きすぎだと思うけど」

「もう長いこと気も間も抜けてるどっかの誰かと一緒に仕事してきたから、うつっちゃったんじゃないかな」

「良い感じのこと言ったつもりだったのに酷い言われよう」

「ちょっとカッコつけてるの、わかったからね」

「そういうもんか」

「そういうものだよ」


ばかなやりとりをひとしきり終えて、はぁと息を吐く。

ぐでっとしているところは既にみられてしまったのだから、もはや取り繕っても仕方がないので、再びは私はぐでっとした。

そうして、先程取り落とした雑誌を拾い上げ、手元に寄せる。

ぱらぱらと捲りながら、隣の男へ「脅かすからどこまで読んでたかわかんなくなった」と苦情を言うのも忘れない。


「そういえば、何読んでたの?」

「これ? これは普通の情報誌だよ。この時期にありがちな……ほら、バレンタイン特集」

「へぇ。チョコレートの特集が組まれてるのか」

「そうそう。こういうの見て、今のうちから目星つけたり、買いに行ったりしないとでさ、結構大変なんだよね」

「凛からもらえたら、大抵の人間はなんだって喜びそうなもんだけどなぁ」

「んー、と。そういうのじゃなくてさ。お仕事で偉い人とか、スポンサーさんとかに顔を合わせることも最近増えたでしょ? そういうときに渡せたら、強いかな、って」

「……確かに、強いな」

「でしょ」

「凛も成長したなぁ」

「これはたぶん、プロデューサーの真似みたいなものだけどね」

「俺の真似?」

「うん。だってプロデューサー、めちゃくちゃ考えて、調べて手土産用意してるから。センスは正直、普通だけど」

「一言多いのは照れ隠し?」


ああ言えばこう言う、を地で行くこの男を弁舌で負かすのは困難を極める。

それをアイドルとなってからこれまでで嫌と言うほど知っている私は、対抗するのをやめて「はいはい」と流す。

流せばそれ以上は追撃は来ないし、こちらが反撃する余地もしっかりと残すので、彼との軽口の応酬は不快ではない。

どころか、このどうしようもない時間を温かく感じている自分がいた。


「しかし、担当アイドルの水面下での努力を知って、頑張ってるね、偉いね、で終わったらプロデューサー失格なので」


突然、彼はそう前置いて、机上の雑誌を手に取り先程のチョコレート特集を開く。

さて、何を言い出すやら、と動向を見守っている私をよそに椅子から立ち上がり、大仰に二歩踏み出した。

そして、手に持ったままの開かれた雑誌を、いっそう強く開いて、私に見せつけるようにする。


「買いに行こう。チョコ。今から」


説明不足が過ぎる。

そう思わないでもないが、今に始まったことでもない。

道中聞けばいいか、と半ば諦めの境地で私も立ち上がる。

そうしたところ、意外にも彼から事細かな説明があった。

曰く、アイドルとして活動するための出費であるならば、私だけに自腹を切らせるわけにいかない。

とのことで、どうやら協力してくれるらしかった。

来るホワイトデーでの収穫については、山分けで、とも言っていたけれど。

気も、間も抜けているくせに、こういうところは抜け目がない。




いつかの景色を思い出し、頬が緩む。

ああ、そういえばこれは、そんな始まりだったっけ。

なんて、懐かしい記憶をぼんやりと思い出している内に、乗っていた電車は振動を止めて、響く車掌さんの声は目的の駅名を繰り返していた。

慌てて座席から立ち上がり、逃げるように電車を降りると直後にぷしゅーっと音を立てて背後で扉が閉じた。

危なかった。

ぎりぎり乗り過ごさなかったことを喜びつつ、安堵の息を漏らす。

ぞろぞろとエスカレーター前で列を作る人々を横目に、がらがらの階段を一つ飛ばしで駆け上がる。

そのまま改札を抜けて、集合場所に指定されたモニュメントへと急いだ。

途中、鞄からニットの帽子と伊達眼鏡を出して、着ける。

ここまでは変装はしていなかったが、ここからは違う。

できるだけ、面倒は避けたかった。

一人でいるときならば、ファンの人たちに話しかけられるのは苦ではないし、正直仕方がないと思っている。

だが、誰かといるとき、特に芸能人以外の人といるときはなるべく、そういったことは避けてあげたいと思う。

そういうわけで、私は簡単な変装を施したのちに、足を速めた。


程なくして目的地に着いた私は、左手首を返して腕時計を見やる。

時刻は待ち合わせの十五分前を示していた。

ちょっと、早く着きすぎたかな。

どこかで軽く時間でも潰そうか。

そう思って、周囲を見渡したとき、視界の端で小走りで駆け寄ってくるスーツ姿の男が見えた。

プロデューサーだ。

「早いね」

「うん。余裕を持って着こうと思って」

「じゃあ約束の時間よりちょっと早いけど」

「うん。行こっか」

彼は肩を軽く回し「よーし」と張り切っている。

今日、私たちは世界各国のチョコレートが集まる催しに来ていた。

大義名分はもちろん、お世話になった人々へ贈る義理チョコの調達なのであるが、私とプロデューサーの間でそれが建前となって、もう随分久しい。

毎年毎年、こうして連れ立ってチョコレートを物色している内にいつの間にか自分たちが楽しむことに比重が置かれるようになっていた。

けれども、購入すべきものは購入しているし、悪いことはしていない。

そんな後ろ暗さがないことが、さらに私たちが羽目を外すのに拍車をかけた。


このような心持で臨む私たちだ。

いきなり誰それにはこれ、などとチョコレートの吟味を始めるわけもない。

当然、初手で購入するのは贈答用のチョコレートなどではなく有名ブランドが限定販売しているチョコレートドリンクだった。

「あっま」

「ほんとだ。濃いね、これ」

「チョコの川で溺れたらこんな感じになりそう」

「そういう映画、あったよね」

などと、ドリンク片手に歩いているわけだけれど、浮かれているとはいえ完璧に本題を忘れているわけではなかった。

黒を基調に作られたシックな印象を抱かせるショップの前でプロデューサーは足を止め、陳列されている商品を手に取る。

続いて私も覗き込んだ。

「ウィスキーボンボン?」

「うん。おっ、って思って」

「△△社の、――さん?」

「当たり。どうかな?」

「うん。いいと思う」

「よし。じゃあ買ってくる」

こんな具合で、遊んでいるようでいて、その実一人であれこれと決めるよりも断然、効率が良かった。


だからと言って楽しみ過ぎである、と言われてしまったらそれまでだが、そこはそれ。

大目に見てもらいたいものだ。

誰にするわけでもない言い訳を脳内で流し、レジから戻ってきたプロデューサーを見やる。

提げられたショッパーの他に何か持っているようだった。

それなに、と私が視線で問えば、彼はにこにことして「試食だって。今年の新作、限定商品なんだって」と言って私の口に放り込んできた。

「ん。……オランジェット? じゃないよね。柚?」

「そう。柚ピールらしい」

「へぇ。おいしい」

「……と言うと思って」

「買ってきた?」

「買ってきた」

プロデューサーは言って、ショッパーの中を見せてくる。

店員さんの口車に乗せられて買わされているのはどうかと思ったけれど、たぶん私が逆の立場でも同じように購入してしまったとも思う。

ふんわりとした柚の香りが鼻を抜けて、口の中には爽やかな余韻が残る。

確かにおいしい。


「甘いよね」

「ん? ああ、うん」


彼は私の問いの意味を取り損ねたようで、おそらくよくわからないままに返事を戻してきた。

甘いよね、のあとには、「私に」が入るのだけれど、付け加えたところで戻ってくる返事にそう大差はないだろう。




本題を忘れチョコレートスイーツを食べ、思い出しては贈答用の品を購入し、と繰り返し、思いつく限りの渡す予定の分を購入し終えた私たちは、両手にショッパーを提げ、帰路を辿っていた。


「今年も買ったなぁ」

「必要のないものも結構ある気がするけどね」

「余ったら食べよう」

「最初から私の分で買っちゃってるのもあるし」

「でも、嬉しいでしょ?」

「それは、まぁ。そうだけど」

「なら問題なし!」

自分がプレゼントした側であるはずなのに、もらった私より嬉しそうなのだからおかしな人だと思う。

それに、この男はバレンタインという日の意味を未だに理解していないのではないか。

聞く話では逆チョコなるものもあるらしいけれど、今の場合は、そう呼ぶのは適していないような気もする。

まぁ、いいか。

提げたショッパーの一つから、包みを取り出して「ん」と差し出す。

それを受けて彼は、目を数度ぱちぱちと瞬かせ「俺に?」と言う。

「他に、誰がいるっていうの」

「え。いつの間に買ってたの」

「そういうのはいちいち聞かなくていいんだってば」

「……それもそう、か。うん、ありがとう。嬉しいよ」

桜色のパッケージに、ハート形が散りばめられた意匠。

およそ私には似合わない見た目だが、味がよかったのだから仕方ない。

味が。


「ハート、いっぱいだな」

「まだまだこんなもんじゃないよ」

「と、言うと?」

「この前、出演した番組で共演したボクシングの選手が言ってたんだけど」

「?」

「ストレート、打つ前はジャブなんだって」


跳ぶように軽やかに一歩踏み出して踵を軸に半回転。

向き合うように彼の正面に移り。べぇ、と軽く舌を出した。

普段、ピンヒールで踊らされることもあるのだ。

このくらいの動作、わけもない。

瞬く間に再度、半回転を繰り出す。

脳内でカレンダーを開いて、二月の十四日までの残り日にちを数えた。





 ノックアウト、できるだろうか。



おわり

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