渋谷凛「しとど晴天大迷惑」 (15)


順番が次に迫った打者が待機する場所を、ネクストバッターズサークルという。

私がそれを知ったのは数か月前の体育の時間で、教えてくれたのはソフトボール部員であるクラスメイトだった。


そして、私はいま、そのネクストバッターズサークルに、いた。


試合展開は最終回、二死、二三塁。

七対六で私の所属しているクラスが一点、負けている。


どうしてこんなことに、と思わないでもなかったが、そんなことを言ってもどうにもならない。


緊張からくる深い呼吸か、ため息なのか、自分で判別がつかなくなったそれを吐いてグラウンドへと視線を移せば、クラスメイトが四球を選び、一塁の方へと歩いていくところだった。


これで、二死、満塁。


歓声に背中を押されて、私はバッターボックスに立つ。

ヘルメットの鍔を軽く上げて、マウンドの上の投手を見据える。


さぁ、勝負だ。


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やや大仰にチョークで黒板を打った、かつんという小気味のいい音が響く。

チョークはそのまま置かれ、教壇の上の人物は手を叩いて粉を払いながら、私たちを見渡した。


「さて、まずは雑に分けちゃおう! 一回希望の競技んとこに名前書いてみて、それで偏るようだったらじゃんけんしよ!」


そう宣言して、私たちに起立を促したこの人物こそ、我らが学級委員長であった。

元気で、リーダーシップがあって、まさに絵に描いたような級長である彼女は今日もそのリーダーシップを遺憾なく発揮して、数か月先に迫った球技大会の決め事を、テキパキと進めてくれている。


さて、私は何にしようか。


周囲のクラスメイトに倣って、私も席を立つ。

黒板はバスケットボールとソフトボールの二競技によって区切られていて、早くも決断を済ませた者は自身の名前を次々に書き込んでいた。


「凛はどっちにすんのー」


黒板をじーっと眺め、思案していると声をかけられた。

振り返れば声の主は一年生の頃から続く謎の縁で仲良くしてくれている友人で、私が「そっちは?」と問い返せば「凛がいるほう!」と笑う。


「え、私が決めるの?」

「渋谷様の親衛隊ですので。御心のままに」

「なにそれ」

「こういうの、いるんじゃないの?」

「いるわけないでしょ」

「で、実際のとこどうなの? 去年はバレー出てたもんね」

「あ、うん。そういえば今年はバレーないんだね」

「バレーは一年生で、二年はグラウンドでっかく使ってソフトできるのが例年のあれらしいよ」

「例年のあれ」

「うん。なんでバレーがソフトより下の扱いなんだ、って感じ」


ふん、とわざとらしく鼻を鳴らす彼女は、こんな調子ではあるもののバレー部の主力であり、それはもう上手い。

彼女の的確なトスは私たちに気持ちよくスパイクを打たせてくれたし、どんなサーブも彼女にかかればふんわりと上げてくれた。

そんなわけで、今年はバレーボールができないことに若干ご立腹のようだが、覆りようがないのだから諦めてもらう他ない。


「……んー、実はちょっと事情があって、あんまり迷惑かけなさそうな方にしたいんだけど、ソフトでもいいかな?」

「なになに? わけあり? お仕事?」

「うん、ちょっとね。またあとでみんなにも説明しようと思うけど」

「そういうことならソフトにけってーい! 名前書いてくるね」


私が何か言う前に彼女は、たたたーっと走って行って、黒板に私と彼女の名前をでかでかと書き込み、戻ってきた。


「よし、っと。良い感じにばらけてるしこのままメンバーも決定かもね」

「そうだね。っていうか、良かったの? 私に合わせて」

「いーのいーの。ほら、最初に言ったじゃん」

「?」

「御心のままに」

「だから、なんなの。それ」




メンバーが決まったあとの動きは、我らが級長の導きもあり迅速で、バスケ班とソフト班に教室を二分して、それぞれが今後についての会議を行っていた。


私が所属することになったソフト班は総勢十五人で、ソフトボール部員が三人、経験者が二人という中々に強そうなメンバーが集まっている。

これはもしかしたら、もしかするのではないだろうか。

芳しい結果を夢想して、わくわくしていると、同じことを思ったのか友人も「優勝いけちゃいそーじゃん!」と言った。


「それがねぇ、そうでもないのよ」


ソフトボール部に所属している、褐色にショートヘアが似合うクラスメイトが言う。


「なんで?」

「四組、ソフト部六人もいるっしょ」

「はーーー? そんなんズルじゃん」

「まー、他のクラスからしたらアタシらもソフト部三人いるからお互い様だと思うしかないよねー」

「でも、勝つ気でやるよね? ね? 我らが渋谷凛さんだってこっちにはいるんだし!」


急に話題の矛先がこちらに向いたものだから、慌てて私は「え、急に私に振らないでよ」と口を挟む。


「でもでも! だって、そうでしょ? 勝つしかないじゃん」

「まぁ、私だって勝ちたいけどさ」

「でしょー? ほらほら、我らがアイドル渋谷凛もこう言ってんだからさー」


彼女は何かと私を引き合いに出してくるので、流してください、と視線でみんなの方へと訴えた。


「勝つ気がない、なんて一言も言ってないし、アタシらだってガチでやるつもりだよ。戦う前から負けること考えるバカはいない、って言うし」

「それ誰の言葉?」

「猪木」

「知らない…………」

噛み合っているのか、噛み合っていないのか。

よくわからないやりとりがひとしきり終わって、ようやく私たちは具体的な会議に入る。

まず始まったのがポジション決めだった。


最初にソフト部員たちがピッチャーと主要な内野を埋め、経験者の二人がセンターとキャッチャーを務めることになり、残りは未経験者で代わる代わるという形に自然と落ち着いた。

学校行事なのに面白味がないと言われてしまえばそれまでだけれど、勝つことを考えた堅実な策である、と思う。


「内野と外野じゃ、守備の練習も変わってくるから、それくらいは決めちゃいたいんだけど、どう? 希望ある?」

 
ソフト部の彼女は言って、まず私を見る。

この段になって、ようやく言わなければならないことがあったことを思い出した私は「実は」と切り出す。

球技大会当日は午前中にどうしても外せないお仕事が入ってしまっていること。

先生には既に伝えてあること。

合流は早くてもお昼を過ぎることを全て正直に伝えた。

「そっかー」

「……うん。盛り下げちゃったかな。なんか、ごめん」

「んーん! 気にしない気にしない! それに凛を叱るとアタシが親衛隊長にボコボコにされるからね」

「そうだぞー。凛をいじめたらウチがボコボコにするぞー」


冗談交じりに友人はそう言って、腕まくりをし、二の腕をぽんぽんとする。


「あ。でもさでもさ、逆に熱くない?」

「んー。なんで?」

「昼過ぎってことは準決勝か、決勝戦なわけじゃん?」

「あー! 熱いね」

「決勝戦、最終回、二死満塁! ここぞで代打!」

「渋谷凛!」


ばかみたいに大げさに二人は言い合って、手を叩いて笑っている。

始終ふざけた会議ではあるが、順調に決めるべきことは決まっていっているのでそれがまたおかしい。


「あ、なら凛はサボる分、打ち上げの幹事やってよー」

「え。私?」

「だーかーらー! 凛はサボるんじゃなくて仕事っつってんでしょー?」

「親衛隊長は静かに。……で、どう? 芸能人だし、なんかコネとか……ない? あ、失礼なことアタシ言ってたら謝るんだけどさ」

「んー。事務所の人に聞いてみるね」

「あっ、そこまでおおごとにしなくてもいいんだけど……」

「大丈夫。私のプロデューサー、結構私に甘いんだ」

「……わかる気がするなぁ」

「? どういうこと?」

「甘やかしちゃう気持ち」

「でしょでしょ? 親衛隊、入れたげよっか」

「お前の下はヤだなー」

「親衛隊長に向かってお前!?」

「どう? 凛、今からでも親衛隊長変えない?」

「いや、そもそも私、そんな団体作った覚えないんだけど」

「アタシもできるよ。アレ」

「アレ?」

「御心のままに」

「それはもう、いいから」




球技大会の話が出始めたのは、冬の寒さが厳しい頃であったというのに、もう日中は暖かな日差しが注ぐことも珍しくなくなってきていて、時の流れの速さに驚いてしまう。


しかし、これならば、絶好のスポーツ日和だろう。

おそらく大熱狂となっている自身の高校の球技大会に思いを馳せる。

そう、今日はクラスメイトたちそして私にとっても待ちに待った、球技大会当日だった。


午前のお仕事を最高効率で終わらせた私は、スタジオの廊下を駆ける。

そのままの勢いで警備の人にやや横着な「お疲れさまでした」を投げて、ロータリーへと私は飛び出した。

そこには見慣れぬワゴン車と、見慣れた顔の運転手がいた。


「お疲れ。ほら早く乗りなよ」

「どうしたの、この車」

「レンタルしたの。よっしゃ飛ばすよ」

「なんでまた、レンタルなんてしたの?」

「移動中に着替えも済ませたら、すぐ参戦できるでしょ?」

「……それだけのために、これ、借りてきたの?」

「球技大会なんて、人生で何度もないんだから、一秒でも早く参加したいでしょ?」

「甘いなぁ」

「甘やかされてる当人がそれ言う?」

「だって、事実だし」

「それもそうか。……あ、そうそう。打ち上げね、ちゃんと用意してあるからね」

「あー。そっか、頼んでたっけ。ごめん、何から何まで」

「いえいえ。それと、コンビニご飯で悪いんだけど、お昼もテキトーに買っといたから好きに食べていいよ」

「甘々だ」

「甘々です」




乗り慣れていない車であることと、急いでいることも相まってプロデューサーの運転はいつもよりも少しだけどこか違っていて、それがまた非日常感を演出していた。

平常と異なる振動に身を任せながら、買ってもらったサンドイッチを口に運び、プロデューサーと二言、三言の軽口を交わす。

その繰り返しを何度か経て、車は緩やかに走りを止めた。

「着いたよ」

「……うん。ありがと、頑張ってくるね」

「ぶちかましておいで。あと凛の打席、動画も撮ってもらって」

「なんで?」

「見たい」

「……私のこと、好き過ぎない?」

「いいでしょ別に! それくらいの報酬はもらってもいい働きはしてるだろ」

「まぁ、それもそっか」

「そうそう。じゃあ、いってらっしゃい」

「うん。いってきます」


車を降りて、そのまま校門へ入る。

自然にグラウンドまで駆け出していた。


視界が開け、グラウンドを一望できた瞬間、金属バットが奏でる快音が耳に飛び込んでくる。

打球は悠々とセカンドの頭上を越えて、センターの前へと落ちた。


試合をしているのはどのクラスだろうか。


目を凝らして体操服に縫い付けられているゼッケンを見る。

守備をしているチームのゼッケンにはでかでかと『四』の数字が踊っていた。

では、攻撃側は、と先程ヒットを打った塁上にいる生徒の方へ視線を移すと、間違いなく私のクラスメイトだった。


試合展開はどうなっているのか。

もはや気が気でなく、いっそう強く駆け出して、自身のクラスメイトたちがいるベンチへ向かう。


そんな私に気付いた友人が大きく手を振ってくれ、そのあとで、また快音が響いた。


今度は長打だ。打球はライトとセンターのほぼ中間に飛び、一塁にいたクラスメイトは一気に三塁まで、打った生徒も二塁まで到達していた。


「やったやった!! 勝てる、勝てるよ!!」


喜び跳び上がりながら、友人が私に言う。


「いま、どんな展開?」


私がそう訊ねると友人は、えーっとね、と言って、現在の状況をかいつまんで教えてくれた。

友人曰く、私の所属するクラスはトーナメント運が良かったこともあり順調に勝ち上がり決勝戦を迎えたらしく、ソフトボール部員六人を擁する強豪クラスである四組と対峙する。

そこからは試合開始からお互い譲らない一進一退の攻防を最終回まで繰り広げたようだが、最終回の表に逆転を許してしまった、とのことだった。


そして、今がその最終回裏。アウトは二つ。まさに、最終局面だった。

やはりほとんど参加できなかったな。

申し訳ない気持ちと寂しさを覚えながら、クラスメイトたちの輪に入ると、これまた手厚い歓迎を受けた。


「お、めちゃくちゃいいとこで来たねー! 凛!」


打順を待っていたはずのソフトボール部員である褐色の例の彼女までもがベンチに戻ってきて、私を歓迎してくれる。

打席に立っているクラスメイトは「いや、私も応援しろよー! 負けちゃうぞー!」と声を張り上げている。

けれども、それも虚しく笑って流されているので、タイミング悪くてごめん、と胸の内で詫びた。


「よし、じゃあ。凛に任せた!」

「え?」


ぐいっと金属バットを押し付けられ、持たされる。

私が異を挟むよりも早く、友人が審判を務めている先生のもとへ駆けて行って「せんせー! 次、代打ね!」と言っていた。




 
順番が次に迫った打者が待機する場所を、ネクストバッターズサークルという。

私がそれを知ったのは数か月前の体育の時間で、教えてくれたのはソフトボール部員であるクラスメイトだった。
 

そして、私はいま、そのネクストバッターズサークルに、いた。

試合展開は最終回、二死、二三塁。

七対六で私の所属しているクラスが一点、負けている。


どうしてこんなことに、と思わないでもなかったが、そんなことを言ってもどうにもならない。


緊張からくる深い呼吸か、ため息なのか、自分で判別がつかなくなったそれを吐いてグラウンドへと視線を移せば、クラスメイトが四球を選び、一塁の方へと歩いていくところだった。


これで、二死、満塁。




いつかの教室で聞いた友人たちの会話がフラッシュバックする。





最終回。二死、満塁。

ここぞで代打、渋谷凛。



終わりです。ありがとうございました。

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